2015年9月7日月曜日

沈黙の文化(2)言霊 on 議論、憲法

1)日本は沈黙の国であり、人の間に上下構造を導入すること、そして、上下の人が持つべき心得として用意した“人の道”或いは“徳”の連携で、トラブルを事前に防ぐという文化を持つ。 また、トラブルを生じたこと自体を悪とし、当事者を咎めるため、名と恥を“空気(山本七平氏の云うところの)“の中に漂わせて、社会全体で共有する。名と恥の文化は、沈黙の文化に等しいと思う。

更に、沈黙の世界で“重さ”をました言葉には、霊が伴うようになる。つまり、沈黙の文化は言霊の社会を産むのである。言霊については多くの著作があるが、最近読んだ本に井沢元彦さんの「日本は何故、最悪の事態を想定できないか」がある。最悪の事態をことばにすると、それが起こってしまう危険が増す気がするのである。

例えば、受験を控えた子供を持つ家庭では、落ちると言う言葉が禁句になる。野球の選手は背番号をつけるが、日本人選手にない背番号は4番と42番である。数字に意味があるのではなく、夫々“死”と“死に”と同音だからである。

2)全ての言葉から、霊を除く努力をしなくてはならない仕事として、科学者がある。研究においては最悪の事態も想定しなければ、まともな仕事は出来ない。愚鈍とでも云うべき姿勢で、論理を追いかけるのが研究者の原点である。それを守らなかった人があの小保方晴子さんだ。(注1)

科学者だけではない。占い屋や神社仏閣などでの仕事以外の全ての仕事、プロとしての仕事をこなすには、言霊の罠から自由でなければならない。当然、政治家も同様である。

政治の原点にあるのは、”国民の生命、安全、財産を守ること”だと思う。その原点を常に意識して、「何について、何を目的に、どこまで」議論するのか、が大切である。しかし、最近民主党の岡田さんの意見をテレビで聞いていると、議論や憲法ということばに存在する言霊を利用している様な気がする。ただ、議論の為の議論を永遠に要求し、国政を停滞させている様に見えるのである。当然、議論と言霊は矛盾する。つまり、言霊の国にまともな議論は存在しない。

憲法学者の大多数は、“自衛隊は憲法違反”だと思っている一方、最高裁判所は”自衛隊は合憲”としている。つまり、現在の日本は、憲法が言霊で守られていて改正出来ず、法治国家としての体を為していないのである。そのような状態で、安保法制に関して“憲法違反である疑いが濃い”などという言葉を鬼に金棒的に利用する野党は、上記政治の原点を離れていると思う。

憲法改正やそれに関連する法令改正は、国会議員全員が“十分な議論と民主的手続を経て行なった”と納得する形では、何処かの国から砲弾が打ち込まれない限り出来ないと思う。また、その様に法改正が出来たと納得するときには、全体主義的に政治が進むだろう。そう考えてしまう昨今である。

注釈:
1)あれだけの損害を日本の科学界と日本国に与えながら、辞職と後追い解雇だけで済んだ。余程この国の為政者や組織のトップは、”個人攻撃”に付随する怨霊・言霊が怖いのだろう。従って、オリンピック・エンブレムの疑惑の中心である佐野氏、オリンピック組織委員会、エンブレム審査委員らへの処分もあまりないだろう。

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