米国で異色の大統領が就任したが、それは現在の米国と世界の情況が産んだ必然的現象である。表題の番組は、その背景を広く論じて、その中に於ける日本の位置と今後の日本の姿、それが安全で繁栄を維持した姿になるにはどの様にすべきかなどについて、専門家を集めて議論したものである。最後まで聴いた感想だが、現在のテレビ番組では聞けないレベルの充実した内容であった。オススメの動画であり、この番組を作られたSakuraSoTVに敬意を表明したいとおもう。https://www.youtube.com/watch?v=zoDYQ2IhoQY&lc=z12bx3pwszeeuxvm023nh52hgviwulsxb04.1485702129322412
1)一時間目に出席者8名がトランプ大統領の就任の背景と今後の国際情勢とについて、自分の考えを披露した(以後敬語丁寧語表現をとらない)が、それを一通り聞くことだけでも非常に勉強になった。出席者の殆ど全員が、トランプ氏が大統領になったことを世界史的転換点と捉えており、各人各様のスポットの当て方で、世界史の流れの中にそれを位置づけている。
最も大きな枠組は、ローマクラブの「成長の限界」という報告に類似もので、渡辺哲也氏により出された。米国の異色の大統領の出現は、「中国の発展に地球がもはや耐えられなくなった」時代の一つの”表現”である。そして渡辺氏は、トランプは米国をニクソン訪中前の米国に戻すことを考えているという。それを象徴する出来事が、キッシンジャーを中国に送り習近平と会談させながら、台湾の総統と電話会談を行ったことだというのである。
佐藤健志氏の把握は、もう少しクローズアップした視点でのものであった。それは、国家を超越した枠組みにより、安定した世界の秩序を作るという20世紀に流行った夢の崩壊であるというものである。それは、ウエストファリア条約以後の主権国家体制の枠組みに戻らざるを得ないということである。佐藤氏の、アメリカの開発途上国化とトランプ政権が開発独裁類似であるとの把握は、非常に示唆的である。日本は今後このモデルを参考に、日米関係や世界での日本の位置を考えるべきであると思った。
馬淵睦夫氏も、トランプ氏の方針をウエストファリア体制への回帰と捉えたが、それを日本にとって歓迎すべきことであると言っている。そして、トランプの演説の中にあった「米国は今後米国第一主義を取るので、各国も夫々の自国第一主義を取れば良い。米国は各国の内政に”チョッカイ”を出さない」という言葉を最大限に評価している。日本も自国第一主義をとれば良いので、先ず精神的自立を果たすために東京裁判史観から脱却すべきであるとも言っている。
以上三人の似通った視点からの指摘を考えてみると、私は螺旋階段のように歴史は進むものだと思った。つまり、平面に投影すれば同じ点に戻ったとしても、ウエストファリア体制のときに戻るのではなく、現在は一巻き上の段階である。その縦軸の開き(時間の開き、軍事技術、経済的情況、国際関係などの変化)をどう把握するかで、取るべき政策についての考えも変化するだろう。その階段をあと数段登った所にはハルマゲドンしかないのなら、必死でトランプ潰しをしている米国エスタブやマスコミの姿勢は正しいのかもしれないのである。
つまり、この(螺旋を一回りした時間である)370年間の世界の確実な変化は、地球が狭くなったということがある。そこで、自国第一主義を超大国も中小国もとれば、それは軍事弱小国の消滅を意味する。私が最近のブログにおいて、馬淵氏のトランプ支持を批判してきたのは、馬淵氏の考えに上記のような危機意識が同居していない様に感じるからである。日本は自国第一主義を今の時点から取れれば、それに超したことはない。しかし、それだけの覚悟があるのか、その覚悟とはどの程度のものか解っているのか、その環境を作る政治的力があるのか、時間的余裕と知的、経済的資源がこの国にあるのか、全てにおいて疑問が残る。(補足1)
2)馬淵氏が言った言葉、それは3時間番組の最後の総括で司会の水島氏が言ったものと同じだが、「先ずなすべきことは、東京裁判史観からの脱却である」という右翼的姿勢は間違っていると思う。太平洋戦争の総括が原点から成されるべきであるが、それは東京裁判史観へ反対するという視点からであってはならない。それでは、“歴史修正主義者”というレッテルを世界から貼られるだけである。後ろ向きの姿勢ではなく、つまり昭和史の肯定に拘泥るのではなく、歴史に学んで前に進むことが大切だと思う。
国家の維持発展が今後の政治の目的なら、それを危うくした太平洋戦争時の日本の指導者の間違いに学ぶべきであり、それをわざわざ神体として合祀した靖国参拝に参拝することなどは、その姿勢に完全に反する。志が如何に正しく崇高でも、結果を産まなければ指弾されるのが国家のリーダーである。(補足2)また、日本国が日本のこころに自己陶酔するようでは、世界の中で生きていけないだろう。
国民一人一人が1日も早く、自分と家族の安全が、日本という国家の防衛に依存していることを原点から学び、そして、肌感覚で知るべきである。そして、どのような場合に日本の防衛が損なわれ、その様なことが起こらないようにするには、どのような備えをすべきなのかを、具体的にプロセスを含めて思考する力を持つべきである。“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する”という台詞は、「子供の国日本」の憲法に書いてあるが、それは本来軍事強国のものであると知るべきである。(補足3)
日本国が、この期をチャンスと捉えること自体には賛成である。何故なら、人口数千万人以上の国家で“狭くなった地球”に残るは、軍事大国だけになる可能性が大きく、日本はこのままでは消滅する危険が大きいからである。この機会に、北朝鮮と中国の核の脅威を正しく把握し、それに対する対抗策を諸外国と連携して探るべきである。(補足4)
補足:
1)その覚悟を示したのが、北朝鮮である。あれだけの米国による脅迫と国際社会からの孤立を耐えて、自国の防衛に備えて核武装を成し遂げたのである。日本ではこの様な見方をする人は皆無である。こちらから向こうを見ることができるのに、向こう岸からこちらを想像する力がないのである。北朝鮮の場合は、中国のバックアップがあったから核武装できたのである。日本がその役割をトランプ政権に期待できるだろうか?
2)子供の清い好奇心で自然に向かい国家予算を使うことが良しとされるのは、それなりの研究成果を論文誌に発表したときだけである。研究成果を出さなければ、穀潰しとして指弾されるべきである。
3)聖徳太子が、天皇家の敵対勢力をほぼ滅ぼした後に「和を持って貴となす」と言ったのと同じである。その言葉の意味を、この国は100年間間違って解釈している。
4)北朝鮮が核実験を行った時、ライス国務長官が日本に飛んできて、「日本は米国が守る」と言って日本の核武装論議の発生を抑えた。しかし、国民の間で核武装論議が生じる気配は全く無かった。その証拠に、北朝鮮が核兵器をミサイルに搭載できる様になっても、与党内ですら核武装は議論されていない。彼らは、H.キッシンジャーが「同盟国に対する核の傘を保証するために自殺行為をするわけがない」と発言したこと、つまり、核の傘など幻であることを知っている筈である。日本の政治家は、全国民を死滅させる核兵器よりも自分の政治家としての地位を失うのが恐ろしいのである。そして、公の場で「核兵器は人類の敵」という核大国しか言えない台詞を恥ずかしげもなく言うのである。彼らを解雇するには、全国民の政治的成長がなくては不可能である。
(31日朝、一文削除&一文修正)
2017年1月30日月曜日
2017年1月27日金曜日
安倍総理が先ず話し合うべきは英国のメイ首相ではないのか?:グローバルな経済で勝ち残るしか、日本に生き残る道はない
1)経済のグローバル化は、貿易の自由化や資本の移動に関する規制撤廃などで、現状で相当進んでいる。これは、①先進国の製造業などが、安い労働力などによるコスト削減を駆動力として発展途上国に進出すること進められた。元の②先進国で新規産業が起こり余った労働力を吸収できれば、途上国と先進国の双方に利益をもたらす。
しかし、①と②は独立した現象なので、協奏的に起こるわけではない。その結果、先進国で失業やデフレなどの副作用が起こりやすくなる。また、海外進出した企業の競争力が増すことで、他国の同種企業の市場を吸収するなど、企業間の経済戦争もグローバルになり、勝ち組企業を持つ国家とそうでない国家の間で摩擦が生じる。日米自動車(半導体、etc)摩擦などがその例である。
新規産業が生じないで海外へ進出するのみの国では、その企業が十分な外貨を持ち帰る内は良いが、そのほかの環境が同じだと次第に貿易赤字による通貨安になるだろう。日本では最近、新規企業の発生がなくなっている。そして、食料やエネルギーなどの生活必需品を外国に頼る結果、貿易黒字が続くうちは発展途上国で製造された消費財により物価安状態に留まるが、その後石油や天然ガスの値段が上がるなどで貿易赤字が続くと、通貨安とインフレ下の不況(スタグフレーション)になる危険性が高い。
現在、医療福祉などの分野での需要が増加し人手不足状態ではあるが、今後通貨安が起これば物価の上昇に給与が追いつかず、需要が減少してスタグフレーションになる可能性があると思う。それが最も恐ろしい状況であり、日本国が発展途上国並みの経済力に落ちる可能性すら存在すると思う。(補足1)新規産業が生じないで既存企業が海外へ進出するのみの国では、その企業が十分な外貨を持ち帰る内は良いが、そのほかの環境が同じだと次第に貿易赤字による通貨安になるだろう。日本では最近、新規企業の発生がなくなっている。そして、食料やエネルギーなどの生活必需品を外国に頼る結果、貿易黒字が続くうちは発展途上国で製造された安価な消費財により物価安状態に留まるが、その後石油や天然ガスの値段が上がるなどで貿易赤字が続くと、通貨安とインフレ化の不況になる危険性が高い。
現在、医療福祉などの分野での需要が増加し人手不足状態ではあるが、今後通貨安と物価の上昇に給与が追いつかず、需要が減少してスタグフレーションになる可能性がある。その状態が最も恐ろしい状況であり、日本国が発展途上国並みの経済力に落ちることになるかもしれない。
2)トランプ氏のような人が米国の大統領になることで、日本経済の停滞から転落に至る時間がかなり短縮されると思う。前回と前々回のブログメモに書いたように、新規企業を生み出し世界一の経済力を持ちながら、貪欲に他国を経済的にも隷属状態に置きたいという欲求を、米国はトランプ氏の荒技で一挙に満たそうとしているように見える。(補足2)ナスダック系の企業は眉をひそめるが、ラストベルト地帯の企業は大喜びだろう。米国全体としては、トランプを非難しつつ、トランプの持ち込む富の分け前はもらいたいという心境だろう。国際世論に耐えられなくなれば、トランプを排除すれば良いだけである。
振り返れば、70年前に世界大戦で疲弊した世界が、(今度こそ)二度とこのような戦争にならないように、法と正義により国際的問題も解決しようということになった。その先頭に立ったのが米国ではなかったのか?話し合いと協調の姿勢でルールを決めるのなら、そして、そのルールに軍事強国でも弱小国でも従うのなら、世界は一つの方向に向かう可能性が高い。それがグローバル化という現象の始まりだろう。それから70年経ち、その記憶が薄れつつあることが、世界の国々のそしてその中心の米国のトップの椅子にポピュリストが座る原因だろうと思う。
今日のトランプ大統領と英国メイ首相との会見がどのような内容になるかが、今後を占う大きなヒントになるだろう。メイ首相は、グローバルな経済活動により、我々は豊かな経済を得ることになったとダボス会議で演説した人である。EUからの脱退をヨーロッパの英国からグローバルな英国を目指すことになったと表現する海洋国家の首相と、孤立主義へ舵を切る大国の大統領の話がどのように進むか、今後を占うヒントになると思う。 http://blogs.spectator.co.uk/2017/01/theresa-mays-davos-speech-full-text/
安倍総理も同じ海洋国家の日本の首相として、英国メイ首相と話し合うべきだと思う。そして、英国と協調できれば、アメリカとの交渉も容易になると思う。
(素人のメモです。批判コメントなどお願いします。)
補足:
1)通貨安により、日本の株価は外国人の買いにより上昇するだろう。そして、日本の代表的企業は外国資本に支配されることになる。
2)中国ではこれまでの経済発展は二次曲線的であった。しかし、最近の米国の経済発展は直線的である。これが健全なグローバル化の進行下での先進国経済のマクロなデータだと思う。しかし、それでも不均一な富の分配による不満が国内に存在する。その原因を国内政治の怠慢にではなく海外に求めるのは、非常に卑怯である。
しかし、①と②は独立した現象なので、協奏的に起こるわけではない。その結果、先進国で失業やデフレなどの副作用が起こりやすくなる。また、海外進出した企業の競争力が増すことで、他国の同種企業の市場を吸収するなど、企業間の経済戦争もグローバルになり、勝ち組企業を持つ国家とそうでない国家の間で摩擦が生じる。日米自動車(半導体、etc)摩擦などがその例である。
新規産業が生じないで海外へ進出するのみの国では、その企業が十分な外貨を持ち帰る内は良いが、そのほかの環境が同じだと次第に貿易赤字による通貨安になるだろう。日本では最近、新規企業の発生がなくなっている。そして、食料やエネルギーなどの生活必需品を外国に頼る結果、貿易黒字が続くうちは発展途上国で製造された消費財により物価安状態に留まるが、その後石油や天然ガスの値段が上がるなどで貿易赤字が続くと、通貨安とインフレ下の不況(スタグフレーション)になる危険性が高い。
現在、医療福祉などの分野での需要が増加し人手不足状態ではあるが、今後通貨安が起これば物価の上昇に給与が追いつかず、需要が減少してスタグフレーションになる可能性があると思う。それが最も恐ろしい状況であり、日本国が発展途上国並みの経済力に落ちる可能性すら存在すると思う。(補足1)新規産業が生じないで既存企業が海外へ進出するのみの国では、その企業が十分な外貨を持ち帰る内は良いが、そのほかの環境が同じだと次第に貿易赤字による通貨安になるだろう。日本では最近、新規企業の発生がなくなっている。そして、食料やエネルギーなどの生活必需品を外国に頼る結果、貿易黒字が続くうちは発展途上国で製造された安価な消費財により物価安状態に留まるが、その後石油や天然ガスの値段が上がるなどで貿易赤字が続くと、通貨安とインフレ化の不況になる危険性が高い。
現在、医療福祉などの分野での需要が増加し人手不足状態ではあるが、今後通貨安と物価の上昇に給与が追いつかず、需要が減少してスタグフレーションになる可能性がある。その状態が最も恐ろしい状況であり、日本国が発展途上国並みの経済力に落ちることになるかもしれない。
2)トランプ氏のような人が米国の大統領になることで、日本経済の停滞から転落に至る時間がかなり短縮されると思う。前回と前々回のブログメモに書いたように、新規企業を生み出し世界一の経済力を持ちながら、貪欲に他国を経済的にも隷属状態に置きたいという欲求を、米国はトランプ氏の荒技で一挙に満たそうとしているように見える。(補足2)ナスダック系の企業は眉をひそめるが、ラストベルト地帯の企業は大喜びだろう。米国全体としては、トランプを非難しつつ、トランプの持ち込む富の分け前はもらいたいという心境だろう。国際世論に耐えられなくなれば、トランプを排除すれば良いだけである。
振り返れば、70年前に世界大戦で疲弊した世界が、(今度こそ)二度とこのような戦争にならないように、法と正義により国際的問題も解決しようということになった。その先頭に立ったのが米国ではなかったのか?話し合いと協調の姿勢でルールを決めるのなら、そして、そのルールに軍事強国でも弱小国でも従うのなら、世界は一つの方向に向かう可能性が高い。それがグローバル化という現象の始まりだろう。それから70年経ち、その記憶が薄れつつあることが、世界の国々のそしてその中心の米国のトップの椅子にポピュリストが座る原因だろうと思う。
今日のトランプ大統領と英国メイ首相との会見がどのような内容になるかが、今後を占う大きなヒントになるだろう。メイ首相は、グローバルな経済活動により、我々は豊かな経済を得ることになったとダボス会議で演説した人である。EUからの脱退をヨーロッパの英国からグローバルな英国を目指すことになったと表現する海洋国家の首相と、孤立主義へ舵を切る大国の大統領の話がどのように進むか、今後を占うヒントになると思う。 http://blogs.spectator.co.uk/2017/01/theresa-mays-davos-speech-full-text/
安倍総理も同じ海洋国家の日本の首相として、英国メイ首相と話し合うべきだと思う。そして、英国と協調できれば、アメリカとの交渉も容易になると思う。
(素人のメモです。批判コメントなどお願いします。)
補足:
1)通貨安により、日本の株価は外国人の買いにより上昇するだろう。そして、日本の代表的企業は外国資本に支配されることになる。
2)中国ではこれまでの経済発展は二次曲線的であった。しかし、最近の米国の経済発展は直線的である。これが健全なグローバル化の進行下での先進国経済のマクロなデータだと思う。しかし、それでも不均一な富の分配による不満が国内に存在する。その原因を国内政治の怠慢にではなく海外に求めるのは、非常に卑怯である。
2017年1月26日木曜日
トランプ氏の率いる米国はキメラかもしれない
日本では、トランプ氏の率いる米国に対する評価が混乱している。昔のインド由来の言葉「群盲象を撫でる」の様相を呈しているが、群盲は正しくとも、撫でているのは象ではなくキメラかもしれない。群盲とは日本のマスコミや政治評論家たちで、象或いはキメラは、トランプ新大統領が率いる米国である。
今回、久しぶりに馬渕睦夫氏の「和の国の明日を造る」と題する動画をみた。第36回発表から相当長い間経過したので、その間にトランプ新大統領の就任演説を踏まえた話を準備されたようだ。その中で、馬渕氏は以前からの持論通りトランプ氏を高く評価し、日本のマスコミ等のトランプ政権に対する大衆迎合主義という酷評を、米国支配層による洗脳の結果だと批判している。https://www.youtube.com/watch?v=WT3tumsfdhs
その中で馬渕氏は、トランプ氏が米国第一主義を唱えつつ、他国には自国第一主義を勧めていることを、今回の就任演説の一番大事な部分として引用している。私は、アメリカ第一主義の「言い訳(論理の正当性の主張)」として、他国の自国第一主義を言っていると捉えたが、馬渕氏は両方の文節を同等に意味のあるものとして評価している。しかし、アメリカ第一主義は他国の自国第一主義とは共存できない。アメリカ第一主義と共存できるのは、アメリカ覇権主義、アメリカ孤立主義、野生の原理主義(国家間の関係は野生の原理に支配される)などであり、決して国際協調を重んじる路線ではない。つまり、それはこれまでの秩序が好ましいかどうかという問題は別にして、トランプ大統領のアメリカ第一主義はこれまでの秩序の破壊を意味すると思う。
それぞれの国が自国第一主義を取ることになれば、日本のように国際協調にその存立の前提条件とする(憲法前文:平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した)国にとって、危機的状況に陥る可能性があると思う。中国やロシアのような地域の覇権国となりうる軍事大国は、自国第一主義でも大きな不安がなく、むしろ米国の西太平洋からの撤退は都合が良いかもしれない。しかし、日本にとっては全く評価できない筈である。
従って、馬渕氏のトランプ政権の方針に対する高い評価はおかしいと思う。この「民主主義は大衆迎合主義に堕落する」との大昔の教訓を忘れたかのような自由主義諸国の混乱を見て、中国は民主主義国の体制は壊れつつあり、自国の体制の方が優れていると言っている。http://www.zerohedge.com/news/2017-01-23/china-says-its-ready-assume-world-leadership
国際政治評論家の田中宇氏がトランプ新大統領の就任演説について書いている。田中宇氏によれば、トランプ政権はクーデター的な変革を考えており、全体像が膨大でその解析が追いつかないそうである。http://tanakanews.com/170124trump.htm 確かなのは、現在の米国支配層による政治を壊そうとしていることである。そして、「トランプは、大統領になって米国の政権(エスタブ小集団)を握ったとたん、米国の政権を破壊し転覆する政治運動を、大統領として開始し、国民に参加を呼びかけている。これは革命だ。」と書いている。つまり、世界へどう影響するかの前に、米国内が内紛の中にあると書いているのである。
我々外部の人間には、米国が一つの意思の下に動き始めているのか、相互補完的に色んな顔をもつキメラなのか、それとも混乱の中にあるのかわからない。私は、時に応じて顔を変えるキメラではないかと思う。米国はこれまでも米国第一主義であった。America Firstと特別に強調するのは、これまでの国際的に積み上げられた人権、自由、公正を重視するという国際的枠組みにも捉われないという意味だろう。そしてグローバル経済下の成長で生じたアメリカ経済の影の部分を蘇らせるための策を、本来なら国内問題として長期間の努力を要するが、これまでの枠組みにとらわれず諸外国に負担を押し付けてでも、一気に解決する方向で作成するという意味だろう。そして一旦没落したWASPと呼ばれる人々を再び豊かな状態に戻し、それを共和党に取り込もうとしている様に見える。もちろん成功するとは限らないが、その期待感から、ダウ平均株価は初の20000ドルを超え(ナスダックも高値更新)ている。混乱の中にある国の株価ではない。
トランプ大統領の「何十年も前から私たちは、アメリカの産業を犠牲にして外国の産業を豊かにしてきました。この国の軍隊が悲しくも消耗していくのを許しながら、外国の軍隊を援助してきました。」という大嘘を評価するなんて、馬渕氏の日本人としての高い評価は馬鹿げている。「他国も自国第一主義を取れば良い」というセリフを真面目に評価するのも馬鹿げている。日本が軍備を強化し、核武装も考えるといえば、直ちに日本封じ込め政策をとるだろう。(1/27pm編集)
今回、久しぶりに馬渕睦夫氏の「和の国の明日を造る」と題する動画をみた。第36回発表から相当長い間経過したので、その間にトランプ新大統領の就任演説を踏まえた話を準備されたようだ。その中で、馬渕氏は以前からの持論通りトランプ氏を高く評価し、日本のマスコミ等のトランプ政権に対する大衆迎合主義という酷評を、米国支配層による洗脳の結果だと批判している。https://www.youtube.com/watch?v=WT3tumsfdhs
その中で馬渕氏は、トランプ氏が米国第一主義を唱えつつ、他国には自国第一主義を勧めていることを、今回の就任演説の一番大事な部分として引用している。私は、アメリカ第一主義の「言い訳(論理の正当性の主張)」として、他国の自国第一主義を言っていると捉えたが、馬渕氏は両方の文節を同等に意味のあるものとして評価している。しかし、アメリカ第一主義は他国の自国第一主義とは共存できない。アメリカ第一主義と共存できるのは、アメリカ覇権主義、アメリカ孤立主義、野生の原理主義(国家間の関係は野生の原理に支配される)などであり、決して国際協調を重んじる路線ではない。つまり、それはこれまでの秩序が好ましいかどうかという問題は別にして、トランプ大統領のアメリカ第一主義はこれまでの秩序の破壊を意味すると思う。
それぞれの国が自国第一主義を取ることになれば、日本のように国際協調にその存立の前提条件とする(憲法前文:平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意した)国にとって、危機的状況に陥る可能性があると思う。中国やロシアのような地域の覇権国となりうる軍事大国は、自国第一主義でも大きな不安がなく、むしろ米国の西太平洋からの撤退は都合が良いかもしれない。しかし、日本にとっては全く評価できない筈である。
従って、馬渕氏のトランプ政権の方針に対する高い評価はおかしいと思う。この「民主主義は大衆迎合主義に堕落する」との大昔の教訓を忘れたかのような自由主義諸国の混乱を見て、中国は民主主義国の体制は壊れつつあり、自国の体制の方が優れていると言っている。http://www.zerohedge.com/news/2017-01-23/china-says-its-ready-assume-world-leadership
国際政治評論家の田中宇氏がトランプ新大統領の就任演説について書いている。田中宇氏によれば、トランプ政権はクーデター的な変革を考えており、全体像が膨大でその解析が追いつかないそうである。http://tanakanews.com/170124trump.htm 確かなのは、現在の米国支配層による政治を壊そうとしていることである。そして、「トランプは、大統領になって米国の政権(エスタブ小集団)を握ったとたん、米国の政権を破壊し転覆する政治運動を、大統領として開始し、国民に参加を呼びかけている。これは革命だ。」と書いている。つまり、世界へどう影響するかの前に、米国内が内紛の中にあると書いているのである。
我々外部の人間には、米国が一つの意思の下に動き始めているのか、相互補完的に色んな顔をもつキメラなのか、それとも混乱の中にあるのかわからない。私は、時に応じて顔を変えるキメラではないかと思う。米国はこれまでも米国第一主義であった。America Firstと特別に強調するのは、これまでの国際的に積み上げられた人権、自由、公正を重視するという国際的枠組みにも捉われないという意味だろう。そしてグローバル経済下の成長で生じたアメリカ経済の影の部分を蘇らせるための策を、本来なら国内問題として長期間の努力を要するが、これまでの枠組みにとらわれず諸外国に負担を押し付けてでも、一気に解決する方向で作成するという意味だろう。そして一旦没落したWASPと呼ばれる人々を再び豊かな状態に戻し、それを共和党に取り込もうとしている様に見える。もちろん成功するとは限らないが、その期待感から、ダウ平均株価は初の20000ドルを超え(ナスダックも高値更新)ている。混乱の中にある国の株価ではない。
トランプ大統領の「何十年も前から私たちは、アメリカの産業を犠牲にして外国の産業を豊かにしてきました。この国の軍隊が悲しくも消耗していくのを許しながら、外国の軍隊を援助してきました。」という大嘘を評価するなんて、馬渕氏の日本人としての高い評価は馬鹿げている。「他国も自国第一主義を取れば良い」というセリフを真面目に評価するのも馬鹿げている。日本が軍備を強化し、核武装も考えるといえば、直ちに日本封じ込め政策をとるだろう。(1/27pm編集)
2017年1月24日火曜日
トランプ大統領の標的は中国と日本か?
トランプ大統領の言動を聞いていると、経済政策の主たる目標はアジアであり、その中でも中国、日本ではないかと思われる。その次がメキシコとか韓国ではないだろうか。そして、彼が考えているブロックは英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦諸国だろう。
対中国を考えて、ロシアとの協調関係を目指し、彼の娘夫婦との関係から及び伝統的関係からイスラエルを重視するだろう。現在、最も危険なのは中東であり、その原因となる可能性のあるのが、イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移すことである。それは佐藤優氏の動画や、イーグルビューのメルマガで言及されている。 https://www.youtube.com/watch?v=_XgSvJ7rg9w&t=8s
これは、単にイスラエル重視ではなく、中東での緊張を高めて、石油価格を上昇させることを考えている可能性がある。何故なら、現在の石油価格は米国のシェール・オイル業者にとって、採算割れ近辺であり、その中の何社も経営破綻しているからである。つまり、米国のエネルギー政策の基本となる予定のシェールオイルの業界を健全にするためである。
それはまた、トランプ大統領と仲の良い、ロシアのプーチン大統領を救うことにもなる。エネルギー価格の低迷で青息吐息のロシア経済を救うのである。プーチンの対日姿勢が強硬になったのは、そのあたりのことが原因なのだろうか?
安倍総理は、大統領就任直後にTPPからの脱退の正式手続きを行った、トランプ氏に本気で翻意を促すらしい。それは、以上のような背景を考えたら、全く可能性がないと思うのだが、内閣官房がまともな情報源を持っているのか心配になる。
以上は全くの素人の直感ですので、そのつもりで受け取ってください。
対中国を考えて、ロシアとの協調関係を目指し、彼の娘夫婦との関係から及び伝統的関係からイスラエルを重視するだろう。現在、最も危険なのは中東であり、その原因となる可能性のあるのが、イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移すことである。それは佐藤優氏の動画や、イーグルビューのメルマガで言及されている。 https://www.youtube.com/watch?v=_XgSvJ7rg9w&t=8s
これは、単にイスラエル重視ではなく、中東での緊張を高めて、石油価格を上昇させることを考えている可能性がある。何故なら、現在の石油価格は米国のシェール・オイル業者にとって、採算割れ近辺であり、その中の何社も経営破綻しているからである。つまり、米国のエネルギー政策の基本となる予定のシェールオイルの業界を健全にするためである。
それはまた、トランプ大統領と仲の良い、ロシアのプーチン大統領を救うことにもなる。エネルギー価格の低迷で青息吐息のロシア経済を救うのである。プーチンの対日姿勢が強硬になったのは、そのあたりのことが原因なのだろうか?
安倍総理は、大統領就任直後にTPPからの脱退の正式手続きを行った、トランプ氏に本気で翻意を促すらしい。それは、以上のような背景を考えたら、全く可能性がないと思うのだが、内閣官房がまともな情報源を持っているのか心配になる。
以上は全くの素人の直感ですので、そのつもりで受け取ってください。
キリスト教には“諦め”という考えがない:トランプ政権は恐ろしい
キリスト教の神を考える際の出発点は、私にとっては自然科学発展の歴史である。人類の100万年を超える歴史の中で、99.8万年の間自然に対する知識が低いレベルにあり、この2000年という短い時間で急速に発展したというのは、“言葉の発生”と共に大きな謎である。
近代科学&技術文明は主に西欧で築かれ、その発生の中心にギリシャ文明とキリスト教があったのだろう。よく聞くのは、「この世界はキリスト教の唯一神(補足1)が創造された完全なものである」との確信とそれを知りたいと言う思いが、ギリシャ哲学の方法をと結びついて、科学を産んだと言う話である。従って、キリスト教を信じる人たちは、完全を目指すという面があるのではないだろうか?しかし、それは異邦人にとっては恐ろしいことである。
人が神の創造物に関心を持つ理由は、キリスト教における神と人の関係にある。キリスト教徒にとって神は愛する存在であり(補足2)、神と人は愛で結ばれた関係にあると聖書に書かれている。つまり、神は創造したものを愛し、創造されたものである人は神を愛するのである。それ故に、人は神と神の創造された“完全な存在である自然”を知りたいと思う。勿論、人も神に似せて作られた本来完全な存在である。
一方、日本の神道を含めて他の宗教では、神は完全で偉大な存在だろうが、その意思を明確には表さない恐ろしい存在である。(補足3)人はその怒りを避け恩恵を受けるためには、ただ祈るほかに方法はない。善い行いをすべきだろうと漠然と思うが、どうもそれほど単純ではないだろうと思う。
日本人が持つもう一つの宗教は、仏教である。仏教には経典はあるが、そこには諦めの境地が、涅槃つまり極楽往生の方法であると書かれている。生病老死は避けることはできないが、物質界は本質でないと言う真理を知れば悟りの境地に達して、それらを乗り越えることができると言うのである。四諦と言うこの考えは、あきらめる(諦める)ことではないと教える坊主がいるだろうが、それは”まやかし”である。
以上の宗教的文化的背景から、日本人は諦めることが(かろうじて)できる民族であることがわかる。日本人、そしておそらく多くのキリスト教徒から見ての異邦人は、自分の境遇が恵まれなくても、それを直ちに他人の悪行と結びつけるようなことはしないだろう。一方、西欧人は諦観が持てずに、完全を目指す人種である。かれらの頭脳は、我々東洋人と同程度だろうから、完全を目指せば必ず問題の単純化に陥る。その優れた体力は性格を荒くし、彼らが考える悪、不幸、不都合の種を、できるだけ自分ではなく、強引に他に見出そうとする。
従って、西欧人のあまり知的でない人たちは、単純に自分の恵まれない境遇を他の国の人々、つまり、異邦人の所為にすると言う楽な道を選ぶ傾向が強いと思われる。(そのような傾向は誰でも持つのだが、傾向が強いと思うのである。)その人たちの票で、大統領になった人は本当に厄介である。
(12:30編集; キリスト教に関する誤解があるかもしれませんので、指摘くだされば助かります。)
補足:
1)言うまでもないが、旧約聖書の神のことで、ユダヤ教とイスラム教の神でもある。
2)神と愛(アガペー)で検索すれば、たくさん出てくると思う。例えば、ヨハネの第一の手紙に「愛さないものは神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。」などの記述がある。
3)キリスト教では、信者にも起こりうる恐ろしい出来事を、信者の不十分な信仰と悪魔(サターン)の所為とし、神を二つに分けて、キリスト教の神(エホバ)を愛しやすくしているように思う。
近代科学&技術文明は主に西欧で築かれ、その発生の中心にギリシャ文明とキリスト教があったのだろう。よく聞くのは、「この世界はキリスト教の唯一神(補足1)が創造された完全なものである」との確信とそれを知りたいと言う思いが、ギリシャ哲学の方法をと結びついて、科学を産んだと言う話である。従って、キリスト教を信じる人たちは、完全を目指すという面があるのではないだろうか?しかし、それは異邦人にとっては恐ろしいことである。
人が神の創造物に関心を持つ理由は、キリスト教における神と人の関係にある。キリスト教徒にとって神は愛する存在であり(補足2)、神と人は愛で結ばれた関係にあると聖書に書かれている。つまり、神は創造したものを愛し、創造されたものである人は神を愛するのである。それ故に、人は神と神の創造された“完全な存在である自然”を知りたいと思う。勿論、人も神に似せて作られた本来完全な存在である。
一方、日本の神道を含めて他の宗教では、神は完全で偉大な存在だろうが、その意思を明確には表さない恐ろしい存在である。(補足3)人はその怒りを避け恩恵を受けるためには、ただ祈るほかに方法はない。善い行いをすべきだろうと漠然と思うが、どうもそれほど単純ではないだろうと思う。
日本人が持つもう一つの宗教は、仏教である。仏教には経典はあるが、そこには諦めの境地が、涅槃つまり極楽往生の方法であると書かれている。生病老死は避けることはできないが、物質界は本質でないと言う真理を知れば悟りの境地に達して、それらを乗り越えることができると言うのである。四諦と言うこの考えは、あきらめる(諦める)ことではないと教える坊主がいるだろうが、それは”まやかし”である。
以上の宗教的文化的背景から、日本人は諦めることが(かろうじて)できる民族であることがわかる。日本人、そしておそらく多くのキリスト教徒から見ての異邦人は、自分の境遇が恵まれなくても、それを直ちに他人の悪行と結びつけるようなことはしないだろう。一方、西欧人は諦観が持てずに、完全を目指す人種である。かれらの頭脳は、我々東洋人と同程度だろうから、完全を目指せば必ず問題の単純化に陥る。その優れた体力は性格を荒くし、彼らが考える悪、不幸、不都合の種を、できるだけ自分ではなく、強引に他に見出そうとする。
従って、西欧人のあまり知的でない人たちは、単純に自分の恵まれない境遇を他の国の人々、つまり、異邦人の所為にすると言う楽な道を選ぶ傾向が強いと思われる。(そのような傾向は誰でも持つのだが、傾向が強いと思うのである。)その人たちの票で、大統領になった人は本当に厄介である。
(12:30編集; キリスト教に関する誤解があるかもしれませんので、指摘くだされば助かります。)
補足:
1)言うまでもないが、旧約聖書の神のことで、ユダヤ教とイスラム教の神でもある。
2)神と愛(アガペー)で検索すれば、たくさん出てくると思う。例えば、ヨハネの第一の手紙に「愛さないものは神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。」などの記述がある。
3)キリスト教では、信者にも起こりうる恐ろしい出来事を、信者の不十分な信仰と悪魔(サターン)の所為とし、神を二つに分けて、キリスト教の神(エホバ)を愛しやすくしているように思う。
2017年1月22日日曜日
慰安婦像の設置に反対するのではなく、その台に刻まれた文章に反対すべき
1)韓国が釜山の日本総領事館前に慰安婦像を設置したことで、日本の駐韓大使が召喚された。その対応は日本側から見て当然だと思う。しかし、今日のテレビ番組「そこまで言って委員会」において、あるコメンテーターが英国のFinancial Timesが、「日本が強硬に抗議しているが、稲田大臣が靖国神社に参拝したではないか」と批判的に報じていると話していた。
我々には当然であると考える今回の日本政府の姿勢が、いまひとつ外国に正しく伝わっていないことをもっと深刻に考えるべきである。その原因は、韓国の作り上げた虚偽の宣伝が、諜報活動により積み上げられ、今や(諸外国に都合の良い嘘として)定着していることである。日本が神経を逆撫でされるように感じるのはわかるが、直線的な反応は過去の悪行を全く悔いていないと受け取られる。慰安婦の強制連行が吉田清治らの作り話であるといえば、英米などでは陰謀論者に対するように冷たい視線を浴びるだけらしい。一昨年の日韓合意の際、英国のGardian紙の記事がそれを物語っている。(昨年のブログに引用)http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42589715.html
その責任の一部は日本政府にあり、それは対中国戦争や太平洋戦争などの昭和史に関する独自の総括をしなかったことである。また、戦争遂行を決定した責任者の名誉回復をどさくさに紛れて国会決議した結果、戦地で戦死した兵士と同様に靖国神社に合祀された。(補足1)このような曖昧な決着は、日本国は戦争責任を隠匿する体質の国家であるとの印象を、国際社会に与える原因になっていると思う。(補足2)
つまり、国会議員や閣僚が靖国神社に参拝することは、あの戦争を聖戦視する歴史歪曲者が日本国のリーダーシップをとっていると思われるだろう。その結果、吉田清治の作った物語を否定しても、都合の悪いことを歴史歪曲者が否定するのは自然なことであると受け取られ、フィナンシャルタイムズのような見方が英米市民の歓迎する記事となるのだろう。
2)日本国やマスコミが今すぐにでもやれることは、慰安婦少女像の設置に反対するのではなく、その碑文の内容に反対することである。慰安婦が実際に存在したのであり、その境遇は、性奴隷ではなく戦地売春婦であったとしても女性なら決して望まない不幸な境遇の筈である。慰安婦像の設置に反対するだけでは、慰安婦の存在を隠匿する意図があるためだと曲解される可能性が高い。
そのような戦地売春システムに反対する自由は韓国には存在するから、慰安婦像はどんどん作れば良い。ましてや、過去の不幸な女性の存在に思いを致し、今後そのような女性が出ないようにしようという趣旨なら日本国も賛同すると言えば良い。しかし、「女性を20万人も官憲が拉致して、性奴隷にしたというのは全くの作り話である。」と主張すべきである。http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20131221/1387607431
女性をましてや少女を国家の意思で性奴隷とするために強制連行した事実は全くないし、そのようなことをすれば当時でも処罰の対象となった。そして、吉田清治という人によりでっちあげられた慰安婦の物語は完全に否定され、それを報道した朝日新聞の記事はその新聞社により否定され訂正されている。また、慰安婦の方々には報酬が支払われていて、多い人は将校の給与をはるかに超えていたことなどを、堂々と主張すべきである。
冷笑されようが、脅迫されようが、日本の総理大臣たるものはその一線を譲ってはならないと思う。昨年の日韓合意は、米国の脅しがあったのだろうが、安倍総理は屈するべきではなかったと思う。(1/23早朝、語句など小修正あり)
補足:
1)東京裁判で捕虜虐待などの罪に問われたBC級戦犯と一緒に、戦争指揮者の名誉回復を行なった。
2)戦争責任とは、(賛否の分かれる)自衛のための戦争であったとする考えとは無関係に、全く勝つ見込みのない戦争に突入したことの責任である。国家のリーダーは、能力に欠けることもその責任を問われる。
我々には当然であると考える今回の日本政府の姿勢が、いまひとつ外国に正しく伝わっていないことをもっと深刻に考えるべきである。その原因は、韓国の作り上げた虚偽の宣伝が、諜報活動により積み上げられ、今や(諸外国に都合の良い嘘として)定着していることである。日本が神経を逆撫でされるように感じるのはわかるが、直線的な反応は過去の悪行を全く悔いていないと受け取られる。慰安婦の強制連行が吉田清治らの作り話であるといえば、英米などでは陰謀論者に対するように冷たい視線を浴びるだけらしい。一昨年の日韓合意の際、英国のGardian紙の記事がそれを物語っている。(昨年のブログに引用)http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42589715.html
その責任の一部は日本政府にあり、それは対中国戦争や太平洋戦争などの昭和史に関する独自の総括をしなかったことである。また、戦争遂行を決定した責任者の名誉回復をどさくさに紛れて国会決議した結果、戦地で戦死した兵士と同様に靖国神社に合祀された。(補足1)このような曖昧な決着は、日本国は戦争責任を隠匿する体質の国家であるとの印象を、国際社会に与える原因になっていると思う。(補足2)
つまり、国会議員や閣僚が靖国神社に参拝することは、あの戦争を聖戦視する歴史歪曲者が日本国のリーダーシップをとっていると思われるだろう。その結果、吉田清治の作った物語を否定しても、都合の悪いことを歴史歪曲者が否定するのは自然なことであると受け取られ、フィナンシャルタイムズのような見方が英米市民の歓迎する記事となるのだろう。
2)日本国やマスコミが今すぐにでもやれることは、慰安婦少女像の設置に反対するのではなく、その碑文の内容に反対することである。慰安婦が実際に存在したのであり、その境遇は、性奴隷ではなく戦地売春婦であったとしても女性なら決して望まない不幸な境遇の筈である。慰安婦像の設置に反対するだけでは、慰安婦の存在を隠匿する意図があるためだと曲解される可能性が高い。
そのような戦地売春システムに反対する自由は韓国には存在するから、慰安婦像はどんどん作れば良い。ましてや、過去の不幸な女性の存在に思いを致し、今後そのような女性が出ないようにしようという趣旨なら日本国も賛同すると言えば良い。しかし、「女性を20万人も官憲が拉致して、性奴隷にしたというのは全くの作り話である。」と主張すべきである。http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20131221/1387607431
女性をましてや少女を国家の意思で性奴隷とするために強制連行した事実は全くないし、そのようなことをすれば当時でも処罰の対象となった。そして、吉田清治という人によりでっちあげられた慰安婦の物語は完全に否定され、それを報道した朝日新聞の記事はその新聞社により否定され訂正されている。また、慰安婦の方々には報酬が支払われていて、多い人は将校の給与をはるかに超えていたことなどを、堂々と主張すべきである。
冷笑されようが、脅迫されようが、日本の総理大臣たるものはその一線を譲ってはならないと思う。昨年の日韓合意は、米国の脅しがあったのだろうが、安倍総理は屈するべきではなかったと思う。(1/23早朝、語句など小修正あり)
補足:
1)東京裁判で捕虜虐待などの罪に問われたBC級戦犯と一緒に、戦争指揮者の名誉回復を行なった。
2)戦争責任とは、(賛否の分かれる)自衛のための戦争であったとする考えとは無関係に、全く勝つ見込みのない戦争に突入したことの責任である。国家のリーダーは、能力に欠けることもその責任を問われる。
米国は汚れ役にトランプ氏を選んだのか?
1)トランプ氏の演説の全文がネットに公開されていた。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170121-38702737-bbc-int 全体をざっと眺めた。経済活動で大成功した人だったので、そして、米国という世界のリーダーが選んだ人だったので、流石に立派な演説をする人だと感心したかったのだが、がっかりである。
最初に、「今まであまりに長いこと、この国の首都の少数の人たち(政治家と支配層)が政府の恩恵にあずかり、国民がその負担を担ってきました。(For too long, a smallgroup in our nation's capital has reaped the rewards of government while thepeople have borne the cost.)」と言っている。この部分については異論はない。米国庶民の貧困を、国内問題として正しく捉えていると思ったのだが、後の文章を読めばそうでないことがわかる。
その後、「何十年も前から私たちは、アメリカの産業を犠牲にして外国の産業を豊かにしてきました。この国の軍隊が悲しくも消耗していくのを許しながら、外国の軍隊を援助してきました。(Formany decades, we've enriched foreign industry at the expense of Americanindustry; Subsidisedthe armies of other countries while allowing for the very sad depletion of ourmilitary;) 」と言う文章が出てくる。
また、「貿易、税金、移民、外交に関するすべての決断は、アメリカの有権者とアメリカの家族の利益となるよう今後行われます。」(Every decision on trade,on taxes, on immigration, on foreign affairs, will be made to benefit Americanworkers and American families.)と続く。
何と言う身勝手な言い分だろうか。要するに外国に気前良くふるまったために、米国労働者は貧困になったと言っているのである。今後、米国民と家族のためにそれらの決断を行うと言うのである。この文章は、これまでのアメリカ大統領はこれらの決断を米国民のためにやってきたのではないと言っていることになる。これまでの米国大統領を中傷することになるが、皆黙っているのか?
2)トランプ氏の演説には、大統領選挙の時の言葉と全く変わらず、米国庶民の被害者意識に訴える言葉で充満している。米国庶民が貧しくなったのは、米国が諸外国に恩恵を与えすぎたのが原因であり、その付けは外国が支払うべきだと言っているのである。そして、米国は外国に支払うべき付けなどないと言っているかのようである。中東や東アジアの混乱には米国は一切関わっていないと言うのか?
これまでの世界の政治と経済は全て、米国中心に回ってきた。それが米国の政治家と支配層を豊かにしたのなら、付けを払うのは彼らの筈である。トランプ氏の演説に満ちているのは、真実でも論理でもなく、貧しい米国民の恨み節である。
そして米国支配層が企画した世界の政治と経済の負の部分については、その原因追求とそれに基づいた清算もせずに、責任を全て外国に押し付けたいのだろう。最低の大統領が、強引にグローバリズム以前の原点の方向に舵を切ったと言うことにして、不都合な場所を破壊して公園にしたように、一挙に荒療治をしたいのだろうと考えてしまう。
その汚れ役に選ばれたのが、トランプ氏なのだろう。
追加:玄人の田中宇氏による解説がメルマガで送られてきましたので、ここにアドレスを書きます。相当の深慮遠望あっての言葉だと言うことです。http://tanakanews.com/170124trump.htm (1/25/18:45追加)
最初に、「今まであまりに長いこと、この国の首都の少数の人たち(政治家と支配層)が政府の恩恵にあずかり、国民がその負担を担ってきました。(For too long, a smallgroup in our nation's capital has reaped the rewards of government while thepeople have borne the cost.)」と言っている。この部分については異論はない。米国庶民の貧困を、国内問題として正しく捉えていると思ったのだが、後の文章を読めばそうでないことがわかる。
その後、「何十年も前から私たちは、アメリカの産業を犠牲にして外国の産業を豊かにしてきました。この国の軍隊が悲しくも消耗していくのを許しながら、外国の軍隊を援助してきました。(Formany decades, we've enriched foreign industry at the expense of Americanindustry; Subsidisedthe armies of other countries while allowing for the very sad depletion of ourmilitary;) 」と言う文章が出てくる。
また、「貿易、税金、移民、外交に関するすべての決断は、アメリカの有権者とアメリカの家族の利益となるよう今後行われます。」(Every decision on trade,on taxes, on immigration, on foreign affairs, will be made to benefit Americanworkers and American families.)と続く。
何と言う身勝手な言い分だろうか。要するに外国に気前良くふるまったために、米国労働者は貧困になったと言っているのである。今後、米国民と家族のためにそれらの決断を行うと言うのである。この文章は、これまでのアメリカ大統領はこれらの決断を米国民のためにやってきたのではないと言っていることになる。これまでの米国大統領を中傷することになるが、皆黙っているのか?
2)トランプ氏の演説には、大統領選挙の時の言葉と全く変わらず、米国庶民の被害者意識に訴える言葉で充満している。米国庶民が貧しくなったのは、米国が諸外国に恩恵を与えすぎたのが原因であり、その付けは外国が支払うべきだと言っているのである。そして、米国は外国に支払うべき付けなどないと言っているかのようである。中東や東アジアの混乱には米国は一切関わっていないと言うのか?
これまでの世界の政治と経済は全て、米国中心に回ってきた。それが米国の政治家と支配層を豊かにしたのなら、付けを払うのは彼らの筈である。トランプ氏の演説に満ちているのは、真実でも論理でもなく、貧しい米国民の恨み節である。
そして米国支配層が企画した世界の政治と経済の負の部分については、その原因追求とそれに基づいた清算もせずに、責任を全て外国に押し付けたいのだろう。最低の大統領が、強引にグローバリズム以前の原点の方向に舵を切ったと言うことにして、不都合な場所を破壊して公園にしたように、一挙に荒療治をしたいのだろうと考えてしまう。
その汚れ役に選ばれたのが、トランプ氏なのだろう。
追加:玄人の田中宇氏による解説がメルマガで送られてきましたので、ここにアドレスを書きます。相当の深慮遠望あっての言葉だと言うことです。http://tanakanews.com/170124trump.htm (1/25/18:45追加)
2017年1月21日土曜日
学歴社会は欠陥社会である
1)共通一次試験が先週末行われた。その際、スマホなどの持ち込みが厳しく制限されたが、それについてyoutubeの動画で経済評論家の上念司氏が面白いことを言っていた。それは、「スマホなんか持ち込み可にすれば良いのではないか。どうせ調べればわかることを暗記するなんて、意味が無いではないか」という内容であった。
この言葉には一理ある。大学で学ぶのは、社会に出て実務についた時の為の能力をつけるためである。そして、その時には辞書もスマホもパソコンも手元にある。法律家が仕事をするときには六法全書を手元に置くし、文筆家は辞書を手元に置くだろう。本当の能力はそれらを使いこなす能力であり、それらの中身を暗記していることではない。だから、大学入試は単なる知識をテストするよりも、それらを使っての問題解決能力をテストすべきではないかと言うのである。
例えば、一時期流行った漢字検定なんかも、いったい何の意味があるのか不思議である。パソコンで何時でもチェックすることができるのに、何故難しい漢字まで覚える必要があるのか。役に立つのは、芸能界に入ってテレビのクイズ番組に出演する時くらいではないのか。
日本の大学が世界の目から見てレベルが低く、大学ランキングでも中国やシンガポールなどの後塵を拝するのは、入ってから学生が勉強をしないからである。暗記や過去問の練習で毎日数時間潰せば、勉強なんか嫌になるのは無理ないだろう。その苦しい勉強に耐えた奇特な人の中から“人格優秀”なのが社会の重要なポストにつくのだろう。大学の先生方もその中に含まれる。
つまり、学歴社会というものの、その学歴は大学入試までのもので、大学で何を学んだかについてはあまり問題にしない。それでは、優秀な人材が不足するのは当たり前である。そのような学歴社会に適応した人種が勝ち残るのでは、日本は世界の中では勝ち残れないだろう。(補足1)
2)もちろん、新しい発想は記憶していることから生じるので、記憶は大事である。しかし、それは断片的な記憶ではなく、消化され自分の知識として頭脳に張り付いた体系的な知識の記憶である。それは、スマホを持ち込んでもにわかには身につかない。
昔、中国の科挙は難しい試験だったようだが、それを勝ち抜いた”優秀”な官僚たちがいても、中国はモンゴル民族や満州族に乗っ取られった。今、韓国の人たちも猛烈な学歴社会を勝ち抜いて、国家の行政や司法を担っているのだろうが、現在の韓国政府は国際的常識すら持ち合わせていない。
実社会で必要な能力には、問題を与えられれば解くという能力もあるが、問題を発見する能力もある。後者はペーパーテストなどでは測れないのである。更に、問題の大きさや質を正しく把握するのは、感覚であり知識では無い。(補足2)ペーパーテストで測れるのは、人の能力のほんの一部なのだ。
それを理解しない伝統があるので、学歴社会を作ってしまうのである。つまり、学歴社会は、社会の欠陥である。
補足:
1)官僚も会社も、どうせそのような基準で採用しているのだろう。それが20年間のデフレとも関係していると思う。新しい分野はほとんど全て米国やヨーロッパから生じている。新しいテーマを発見する能力のない人たちが、社会のトップにいる証拠である。
2)常識という日本語がある。その単語で相当する英語は、通常コモンセンス(common sense)である。このsense(感覚、勘)という人間の重要な能力が、芸術分野など以外では日本であまり重要視されていない。(勿論、common knowledge common practice なども並列的に辞書に記載されている。)
この言葉には一理ある。大学で学ぶのは、社会に出て実務についた時の為の能力をつけるためである。そして、その時には辞書もスマホもパソコンも手元にある。法律家が仕事をするときには六法全書を手元に置くし、文筆家は辞書を手元に置くだろう。本当の能力はそれらを使いこなす能力であり、それらの中身を暗記していることではない。だから、大学入試は単なる知識をテストするよりも、それらを使っての問題解決能力をテストすべきではないかと言うのである。
例えば、一時期流行った漢字検定なんかも、いったい何の意味があるのか不思議である。パソコンで何時でもチェックすることができるのに、何故難しい漢字まで覚える必要があるのか。役に立つのは、芸能界に入ってテレビのクイズ番組に出演する時くらいではないのか。
日本の大学が世界の目から見てレベルが低く、大学ランキングでも中国やシンガポールなどの後塵を拝するのは、入ってから学生が勉強をしないからである。暗記や過去問の練習で毎日数時間潰せば、勉強なんか嫌になるのは無理ないだろう。その苦しい勉強に耐えた奇特な人の中から“人格優秀”なのが社会の重要なポストにつくのだろう。大学の先生方もその中に含まれる。
つまり、学歴社会というものの、その学歴は大学入試までのもので、大学で何を学んだかについてはあまり問題にしない。それでは、優秀な人材が不足するのは当たり前である。そのような学歴社会に適応した人種が勝ち残るのでは、日本は世界の中では勝ち残れないだろう。(補足1)
2)もちろん、新しい発想は記憶していることから生じるので、記憶は大事である。しかし、それは断片的な記憶ではなく、消化され自分の知識として頭脳に張り付いた体系的な知識の記憶である。それは、スマホを持ち込んでもにわかには身につかない。
昔、中国の科挙は難しい試験だったようだが、それを勝ち抜いた”優秀”な官僚たちがいても、中国はモンゴル民族や満州族に乗っ取られった。今、韓国の人たちも猛烈な学歴社会を勝ち抜いて、国家の行政や司法を担っているのだろうが、現在の韓国政府は国際的常識すら持ち合わせていない。
実社会で必要な能力には、問題を与えられれば解くという能力もあるが、問題を発見する能力もある。後者はペーパーテストなどでは測れないのである。更に、問題の大きさや質を正しく把握するのは、感覚であり知識では無い。(補足2)ペーパーテストで測れるのは、人の能力のほんの一部なのだ。
それを理解しない伝統があるので、学歴社会を作ってしまうのである。つまり、学歴社会は、社会の欠陥である。
補足:
1)官僚も会社も、どうせそのような基準で採用しているのだろう。それが20年間のデフレとも関係していると思う。新しい分野はほとんど全て米国やヨーロッパから生じている。新しいテーマを発見する能力のない人たちが、社会のトップにいる証拠である。
2)常識という日本語がある。その単語で相当する英語は、通常コモンセンス(common sense)である。このsense(感覚、勘)という人間の重要な能力が、芸術分野など以外では日本であまり重要視されていない。(勿論、common knowledge common practice なども並列的に辞書に記載されている。)
2017年1月20日金曜日
トランプ米国新大統領は、反グローバリストなのかエゴイストなのか?:馬淵睦夫氏の動画に関する感想
1)トランプ米国新大統領は、反グローバリスト(この小文においてグローバリズムに反対する人と定義します)なのかエゴイストなのか?と題をつけたが、私にはエゴイストに見える。それは、米国WASPの利益(トランプ支持者)を、世界を混乱に陥れても最優先する姿勢に見えるからである。(補足1)
それに反して、馬淵睦夫氏は「和の国の明日を造る(36)」と題した動画の中で、トランプ氏を支援している。馬淵氏はトランプ氏を反グローバリストと信じておられるように思う。https://www.youtube.com/watch?v=lWP1oQzpOkg
動画の中で馬淵氏は、伊藤元重氏が雑誌正論で書いた文章「グローバル化が諸悪の根源か?」http://www.sankei.com/column/news/170112/clm1701120005-n1.html を批判している。その批判は、伊藤氏がグローバル化の弊害も議論しているふりをして、理想論を根拠にグローバリズムを支援していると解釈した結果だと思う。動画サイトはコメント禁止であるので、ここに少し議論する。
2)グローバル化とは、言うまでもなく地球規模への拡大の意味である。グローバル化には物品の移動を地球規模で自由にする段階、資本の移動も国境を超えて自由にする段階、そして、人の移動をも自由にする段階がある。
伊藤氏の文章に、「リーマンショックの経験からも分かるように、資金が無制限に国境を越えて動くことが好ましい影響を及ぼすとはかぎらない。だからグローバル化とはいっても、貿易の自由化と国際金融の自由化は同列に議論することはできない。全否定・全肯定は好ましくない」と書かれている。
また、「人が国境を越えて来れば、それは労働力という単純な生産要素ではなく、文化、風習、歴史、犯罪、宗教など、さまざまな複雑な要因を持ち込むことになる。だから移民や難民を制限すべきだということには必ずしもならない。ただ、国境を越えた人の移動については、貿易や国際資金移動の自由化よりも、さらに難しい要因が多くあることを認識する必要がある」とも述べている。
馬淵氏は動画において、特に人の移動に関する伊藤氏の下線部分の表現を激しく攻撃している。これが「ポリティカル・コレクトネス」なのですねという表現を用いている。多分、伊藤氏が言葉の上での反論を受けない様に現実的でないことを語っているという意味なのだろう。
“現在世界で起こっているグローバル化の動きを単純にグローバル化という言葉で一括して攻撃の対象とするのではなく、物、資本、人のそれぞれの移動の自由化ごとに政治的解決を目指すべきである”という伊藤氏の意見には何の新鮮味もなく、当たり前のことを羅列したに過ぎない。要するに伊藤氏はグローバル化を微調整しながら推進する立場であると、見抜いているのだと思う。
馬淵氏の言葉は、もう議論すべき時は終わった、今はトランプ氏とともに行動する時であるという風に聞こえる。
グローバリズムという言葉は、経済および政治におけるグローバル化を進めることが人類の歴史の進む方向であると信じるイデオロギーである。馬渕氏は、「グローバリズムは嘗て共産主義が目指した方向であり、現在の共産主義と言える」と言っている。
この動画で、馬淵氏の非難の的はこの“グローバリズム”であり、伊藤氏がもっと議論して解決法を探すべきだと言っているのは、主に“経済のグローバル化”である。つまり、必ずしもイデオロギーとしてのグローバリズムを支援しているのではないような文章である。つまり、最初から議論する対象が異なっているのに、馬淵氏は伊藤氏の文章を自分の土俵の上に持ち込んで非難しているように思える。
しかし、それは伊藤氏がポリティカル・コレクトネスを重視する立場から、「複雑な問題なので、問題を解析し議論して、適当な対処法を求めることが大事である」と言って、実質的にグローバリズムを支持し、それを一般にも伝道しているように映るからだろう。
米国の支配層は、グローバリストが形成しているという馬淵氏の考えは、本当なのだろうか? 本当だとすると、トランプ氏が大統領としての職を長期に続けることができない可能性が高い。馬淵氏は、そう危惧している。それは、時間が経てばわかるだろう。
補足:
1)他の国々に比べて米国のGDPはずっと一定の傾斜で増加している。(下図参照)したがって、国民の多くの不満はその経済力を用いて解決できる筈である。つまり、国内問題を過大にグローバル化の問題としているように思う。
なお、評論家の宮家邦彦氏は財務長官などの人事を見れば、ちゃんとニューヨークの金融資本のために働く筈だと言っている。
それに反して、馬淵睦夫氏は「和の国の明日を造る(36)」と題した動画の中で、トランプ氏を支援している。馬淵氏はトランプ氏を反グローバリストと信じておられるように思う。https://www.youtube.com/watch?v=lWP1oQzpOkg
動画の中で馬淵氏は、伊藤元重氏が雑誌正論で書いた文章「グローバル化が諸悪の根源か?」http://www.sankei.com/column/news/170112/clm1701120005-n1.html を批判している。その批判は、伊藤氏がグローバル化の弊害も議論しているふりをして、理想論を根拠にグローバリズムを支援していると解釈した結果だと思う。動画サイトはコメント禁止であるので、ここに少し議論する。
2)グローバル化とは、言うまでもなく地球規模への拡大の意味である。グローバル化には物品の移動を地球規模で自由にする段階、資本の移動も国境を超えて自由にする段階、そして、人の移動をも自由にする段階がある。
伊藤氏の文章に、「リーマンショックの経験からも分かるように、資金が無制限に国境を越えて動くことが好ましい影響を及ぼすとはかぎらない。だからグローバル化とはいっても、貿易の自由化と国際金融の自由化は同列に議論することはできない。全否定・全肯定は好ましくない」と書かれている。
また、「人が国境を越えて来れば、それは労働力という単純な生産要素ではなく、文化、風習、歴史、犯罪、宗教など、さまざまな複雑な要因を持ち込むことになる。だから移民や難民を制限すべきだということには必ずしもならない。ただ、国境を越えた人の移動については、貿易や国際資金移動の自由化よりも、さらに難しい要因が多くあることを認識する必要がある」とも述べている。
馬淵氏は動画において、特に人の移動に関する伊藤氏の下線部分の表現を激しく攻撃している。これが「ポリティカル・コレクトネス」なのですねという表現を用いている。多分、伊藤氏が言葉の上での反論を受けない様に現実的でないことを語っているという意味なのだろう。
“現在世界で起こっているグローバル化の動きを単純にグローバル化という言葉で一括して攻撃の対象とするのではなく、物、資本、人のそれぞれの移動の自由化ごとに政治的解決を目指すべきである”という伊藤氏の意見には何の新鮮味もなく、当たり前のことを羅列したに過ぎない。要するに伊藤氏はグローバル化を微調整しながら推進する立場であると、見抜いているのだと思う。
馬淵氏の言葉は、もう議論すべき時は終わった、今はトランプ氏とともに行動する時であるという風に聞こえる。
グローバリズムという言葉は、経済および政治におけるグローバル化を進めることが人類の歴史の進む方向であると信じるイデオロギーである。馬渕氏は、「グローバリズムは嘗て共産主義が目指した方向であり、現在の共産主義と言える」と言っている。
この動画で、馬淵氏の非難の的はこの“グローバリズム”であり、伊藤氏がもっと議論して解決法を探すべきだと言っているのは、主に“経済のグローバル化”である。つまり、必ずしもイデオロギーとしてのグローバリズムを支援しているのではないような文章である。つまり、最初から議論する対象が異なっているのに、馬淵氏は伊藤氏の文章を自分の土俵の上に持ち込んで非難しているように思える。
しかし、それは伊藤氏がポリティカル・コレクトネスを重視する立場から、「複雑な問題なので、問題を解析し議論して、適当な対処法を求めることが大事である」と言って、実質的にグローバリズムを支持し、それを一般にも伝道しているように映るからだろう。
米国の支配層は、グローバリストが形成しているという馬淵氏の考えは、本当なのだろうか? 本当だとすると、トランプ氏が大統領としての職を長期に続けることができない可能性が高い。馬淵氏は、そう危惧している。それは、時間が経てばわかるだろう。
補足:
1)他の国々に比べて米国のGDPはずっと一定の傾斜で増加している。(下図参照)したがって、国民の多くの不満はその経済力を用いて解決できる筈である。つまり、国内問題を過大にグローバル化の問題としているように思う。
なお、評論家の宮家邦彦氏は財務長官などの人事を見れば、ちゃんとニューヨークの金融資本のために働く筈だと言っている。
2017年1月18日水曜日
孤独死は問題ではない:ある葬式を体験して感じたこと
1)昨年の12月下旬、高速を車で走って1時間ほどのところに住む義理の叔父の葬式に出席した。中部を中心に140店ほどの専門店を経営する会社でかなり出世した人ではあったが、出席者は多くなかった。最後はその会社関係の専門学校の理事長を務めたと聞いていたので、意外だった。
弔電は国会議員数名を含め30位あったと思う。日本を代表する企業の社長から弔電が届いたのは、親族の勤務先だからだろう。故人とは二、三度会ったのみだが、非常にしっかりとした知的で社交的な人物だった。夫人も、多少プライドの高い方のように感じたが、同様だった。
最後の別れということで、死に顔を拝見することになった。生前話した時の面影はなかった。その時、三島由紀夫の小説「金閣寺」の中の文章を思い出した。(補足1)つまり、生きている私の視線を、屍が一方的にまるで暴力のように受けて居ると感じた。義理の親族の屍に対して、私にそのような権利がある筈はないと思い、直ぐに目を離した。
葬式からは早々に失礼する予定だったが、火葬場にも行くことになった。その火葬場は、車で45分ほどもかかる遠方にあった。焼かれて出てきた遺灰は思ったより少なかった。二回骨を拾うことになり、それらが壺に納められたのだが、生前の姿と比較して無に等しかった。
二人いる娘さんのうち、同居している次女の方のかすかな鳴き声を一度聞いたが、それ以外の泣き声を聞くことも、涙を見ることもなかった。もちろん、私の視線の及ぶ範囲のことではあるが。
2)昨今、わが国では孤独死が問題になって居る。経済発展や少子高齢化などの影響で、家族に見守られて死亡するという古来の死の形が崩壊しつつある。これに関連した五木寛之氏の新聞紙上の文章について一昨日感想を書いたが、“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という五木さんの言葉に同意した。
その理由はそこに書いて居るが、その思いはこの葬式が心に残っていたからより鮮明に、心の中に刻み込まれたのかもしれない。今日(こんにち)の葬式では、そこへの出席が面倒だと思いながら、自分の心の中の義務感に従って出席する人が多くなって居るだろう。義理の親族や親族の会社の関係者などは当然だが、親族でも一滴の涙も流さない人も多いだろう。
死が孤独なのは、葬式に多くの人がこようが来まいが、死ぬ直前に周りに親族が居ようが居まいが当たり前である。生きて居るうちの孤独による不便は問題だが、孤独死は問題ではないと思う。(補足2)
中国だったかネパールだったか忘れたが、葬式には大声を出して泣いて故人を送るのが当たり前だという国や地方がアジアに存在する。韓国もその一つらしい。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1294250662 それは、葬式の時にも、出席者の心の中に故人の魂が生きているからだろう。その鳴き声は見送る側の別れの挨拶なのだと思う。
日本にはそのような風習はない。日本では死亡した瞬間に故人であり、死後の魂は存在しないのだと思う。もちろん、亡くなったその瞬間にあるいは時間がたって思い出した時に、涙するという親族は多いかもしれない。しかし、これらの涙は別れの涙ではなく、より孤独になった生きて居る自分を泣く涙だと思う。
周りの者にとっても、たとえ親族であっても、死はその人のピリオドであり、もはや重要な問題ではない。重要なのは生きている日々のみである。それは日本には、あの世が存在しないからである。日本の死はすでに”乾いている”し、葬式は形骸化している。もっと言えば、葬式は不要である。現に、葬式は親族だけで済ませましたという挨拶状が多いのはその証拠の一つである。 (19:00 加筆の上、全体を編集;翌日語句修正あり)
補足:
1)小説金閣寺の中に、父親の遺体を前にしたときの記述がある。”屍はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生けるものの権利の証明であり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった” しかし、その感覚はもはや現代人のものではないだろう。
2)もし、人々もマスコミも行政も、そのような意味で孤独死の問題を考えていたのなら、言葉はもう少し丁寧に使うべきだと言いたい。日本人だが私も日本語が十分には使いこなせないのだが。
弔電は国会議員数名を含め30位あったと思う。日本を代表する企業の社長から弔電が届いたのは、親族の勤務先だからだろう。故人とは二、三度会ったのみだが、非常にしっかりとした知的で社交的な人物だった。夫人も、多少プライドの高い方のように感じたが、同様だった。
最後の別れということで、死に顔を拝見することになった。生前話した時の面影はなかった。その時、三島由紀夫の小説「金閣寺」の中の文章を思い出した。(補足1)つまり、生きている私の視線を、屍が一方的にまるで暴力のように受けて居ると感じた。義理の親族の屍に対して、私にそのような権利がある筈はないと思い、直ぐに目を離した。
葬式からは早々に失礼する予定だったが、火葬場にも行くことになった。その火葬場は、車で45分ほどもかかる遠方にあった。焼かれて出てきた遺灰は思ったより少なかった。二回骨を拾うことになり、それらが壺に納められたのだが、生前の姿と比較して無に等しかった。
二人いる娘さんのうち、同居している次女の方のかすかな鳴き声を一度聞いたが、それ以外の泣き声を聞くことも、涙を見ることもなかった。もちろん、私の視線の及ぶ範囲のことではあるが。
2)昨今、わが国では孤独死が問題になって居る。経済発展や少子高齢化などの影響で、家族に見守られて死亡するという古来の死の形が崩壊しつつある。これに関連した五木寛之氏の新聞紙上の文章について一昨日感想を書いたが、“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という五木さんの言葉に同意した。
その理由はそこに書いて居るが、その思いはこの葬式が心に残っていたからより鮮明に、心の中に刻み込まれたのかもしれない。今日(こんにち)の葬式では、そこへの出席が面倒だと思いながら、自分の心の中の義務感に従って出席する人が多くなって居るだろう。義理の親族や親族の会社の関係者などは当然だが、親族でも一滴の涙も流さない人も多いだろう。
死が孤独なのは、葬式に多くの人がこようが来まいが、死ぬ直前に周りに親族が居ようが居まいが当たり前である。生きて居るうちの孤独による不便は問題だが、孤独死は問題ではないと思う。(補足2)
中国だったかネパールだったか忘れたが、葬式には大声を出して泣いて故人を送るのが当たり前だという国や地方がアジアに存在する。韓国もその一つらしい。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1294250662 それは、葬式の時にも、出席者の心の中に故人の魂が生きているからだろう。その鳴き声は見送る側の別れの挨拶なのだと思う。
日本にはそのような風習はない。日本では死亡した瞬間に故人であり、死後の魂は存在しないのだと思う。もちろん、亡くなったその瞬間にあるいは時間がたって思い出した時に、涙するという親族は多いかもしれない。しかし、これらの涙は別れの涙ではなく、より孤独になった生きて居る自分を泣く涙だと思う。
周りの者にとっても、たとえ親族であっても、死はその人のピリオドであり、もはや重要な問題ではない。重要なのは生きている日々のみである。それは日本には、あの世が存在しないからである。日本の死はすでに”乾いている”し、葬式は形骸化している。もっと言えば、葬式は不要である。現に、葬式は親族だけで済ませましたという挨拶状が多いのはその証拠の一つである。 (19:00 加筆の上、全体を編集;翌日語句修正あり)
補足:
1)小説金閣寺の中に、父親の遺体を前にしたときの記述がある。”屍はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生けるものの権利の証明であり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった” しかし、その感覚はもはや現代人のものではないだろう。
2)もし、人々もマスコミも行政も、そのような意味で孤独死の問題を考えていたのなら、言葉はもう少し丁寧に使うべきだと言いたい。日本人だが私も日本語が十分には使いこなせないのだが。
2017年1月16日月曜日
「一人で逝く覚悟が必要」五木寛之さんの文章を読んで
15日の読売新聞36面に“質の高い死について考えるシリーズ第4部では、五木寛之さんの「死を語る(上)」が掲載されていた。以前読んだ深沢七郎の楢山節考の話も引用して、自分の考えをまとめる。
1)五木さんは、以下のように語る。
団塊の世代が死を迎えるとき、大量の要介護老人と、大量の死者が周囲に溢れる時代だろう。それは、これまでの歴史に無かったまさに未曾有の事態である。近代は、個人としての老いや死を問題にしてきたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが問題になる。政治や経済だけの問題ではなく、宗教のような集団的思想がクローズアップされるだろう。
老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があると考えるのは幻想でしょう。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのです。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあったが、今は死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。最後は一人でこの世を去る覚悟を持たないといけないでしょう。
そして、「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。単独死、孤独死が悲惨だとは思いませんね。」と結論した。
2)私の体験、感想、考え:
私もすでに何度かこの問題を考えている。今回、五木さんの文章を読んで、昨今自分の考えていることと全く同じであることを知り、同じ問題を考えれば五木さんの考えにたどり着くのは自然なことだと思うようになった。(補足1)五木さんの場合、大陸からケダモノの様なロシア軍兵士から逃げ帰る経験を持ち、その中で家族と周りの人の無残な死を体験されたことが、死を考える原点にあると思う。
15歳以上若い私にはそのような体験はないが、母が死ぬ時の痛々しい様子を漏れ聞き(補足2)、遠方に住む故最後まで近くに居れなかった分、余計に心を痛めた記憶がある。自分の死を考える際にも、それが強く思い出され参考となる。それは、被害者意識などではなく、一人の死とその周辺の苦しみを全体として把握した時の話である。
死にゆく過程は、まさに自分の体と精神の崩壊のプロセスである。体は部分的に死滅した後腐敗し、最後は頭脳か心臓が止まるところで人としての死に至る。その中に最後まで自分以外の人を巻き込めば、近くに残る人から加えられる言葉や態度は、死に往く人の人格も生きていた頃の思い出も何もかも破壊し尽くすだろう。五木さんの“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という結論は、まさに“鏡の中に映る自分の姿”(あるいはアルバムに残る自分の姿)が破壊される前に、自分の心にそして家族の心に残したいという最後の願望だと思う。それは孤独を受け容れなければできないことであり、仏教の涅槃の境地と言えるだろう。
群れを作るボスライオンは、死ぬ時は静かに群れを去る。その勇者の最後の姿に、神々しさを感じるのは私だけではないだろう。またそれは、深沢七郎の楢山節考に出てくる老女、“おりん”の姿に重なる。70歳になったところで、親族に背負われ楢山(という高い山)の頂上付近に連れられて、置き去りにされるのが“楢山参り”である。その前日は祝いの酒を近隣に住む人たちに振る舞い、彼らからは祝いの言葉を受ける。楢山は信仰の山であり、神の下に往くことにして、老人を捨てて口減らしするのである。“おりん”はそのための準備を自分の意思で万端ととのえて、その日に臨んだのである。
楢山参りの掟は、お山(楢山)に行ったら物を云わぬこと、家を出る時には誰にも見られないこと、山から帰る時(付添人)には必ず後ろを振り向かぬことである。死は人にとって、思考や弁舌に馴染まない出来事である。つまり、死と生はいかなる理屈も埋め合わせることのできない深い谷で別けられているのである。(補足3)楢山節考の世界は、そのほかのあらゆる宗教にある欺瞞性を超えた、日本の原点に存在するオリジナルな神道の世界である。勿論、それは伊勢神道とは似て非なるものである。神道には経典や教義はない。つまり、語れないことはそのまま受け入れるしかないのである。
補足:
1)五木さんの本は親鸞を少し読んだと思う。私は、その影響下にあるのかもしれない。
2)介護に当たった義理の親族による度重なる虐待の話を聞いた。スリッパで顔が殴られ、母の歪む顔と涙を想像し、死の残酷さを思った。
3)聖書の創世記にある話を思い出す。知恵の(善悪を知る)木の実を食べた結果、楽園を追い出され、神の言葉を聞く。「あなたはちりだから、ちりに帰る」と。楽園とは生と死を語る必要のない場所であり、野生の動物は未だそこに留まっているのだろう。しかし、その生と死の思考モデルも非常によくできているが、創り話にすぎない。(信者でもないものが、聖書の片言双句を引用するのは、多少気がひける。)
1)五木さんは、以下のように語る。
団塊の世代が死を迎えるとき、大量の要介護老人と、大量の死者が周囲に溢れる時代だろう。それは、これまでの歴史に無かったまさに未曾有の事態である。近代は、個人としての老いや死を問題にしてきたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが問題になる。政治や経済だけの問題ではなく、宗教のような集団的思想がクローズアップされるだろう。
老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があると考えるのは幻想でしょう。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのです。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあったが、今は死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。最後は一人でこの世を去る覚悟を持たないといけないでしょう。
そして、「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。単独死、孤独死が悲惨だとは思いませんね。」と結論した。
2)私の体験、感想、考え:
私もすでに何度かこの問題を考えている。今回、五木さんの文章を読んで、昨今自分の考えていることと全く同じであることを知り、同じ問題を考えれば五木さんの考えにたどり着くのは自然なことだと思うようになった。(補足1)五木さんの場合、大陸からケダモノの様なロシア軍兵士から逃げ帰る経験を持ち、その中で家族と周りの人の無残な死を体験されたことが、死を考える原点にあると思う。
15歳以上若い私にはそのような体験はないが、母が死ぬ時の痛々しい様子を漏れ聞き(補足2)、遠方に住む故最後まで近くに居れなかった分、余計に心を痛めた記憶がある。自分の死を考える際にも、それが強く思い出され参考となる。それは、被害者意識などではなく、一人の死とその周辺の苦しみを全体として把握した時の話である。
死にゆく過程は、まさに自分の体と精神の崩壊のプロセスである。体は部分的に死滅した後腐敗し、最後は頭脳か心臓が止まるところで人としての死に至る。その中に最後まで自分以外の人を巻き込めば、近くに残る人から加えられる言葉や態度は、死に往く人の人格も生きていた頃の思い出も何もかも破壊し尽くすだろう。五木さんの“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という結論は、まさに“鏡の中に映る自分の姿”(あるいはアルバムに残る自分の姿)が破壊される前に、自分の心にそして家族の心に残したいという最後の願望だと思う。それは孤独を受け容れなければできないことであり、仏教の涅槃の境地と言えるだろう。
群れを作るボスライオンは、死ぬ時は静かに群れを去る。その勇者の最後の姿に、神々しさを感じるのは私だけではないだろう。またそれは、深沢七郎の楢山節考に出てくる老女、“おりん”の姿に重なる。70歳になったところで、親族に背負われ楢山(という高い山)の頂上付近に連れられて、置き去りにされるのが“楢山参り”である。その前日は祝いの酒を近隣に住む人たちに振る舞い、彼らからは祝いの言葉を受ける。楢山は信仰の山であり、神の下に往くことにして、老人を捨てて口減らしするのである。“おりん”はそのための準備を自分の意思で万端ととのえて、その日に臨んだのである。
楢山参りの掟は、お山(楢山)に行ったら物を云わぬこと、家を出る時には誰にも見られないこと、山から帰る時(付添人)には必ず後ろを振り向かぬことである。死は人にとって、思考や弁舌に馴染まない出来事である。つまり、死と生はいかなる理屈も埋め合わせることのできない深い谷で別けられているのである。(補足3)楢山節考の世界は、そのほかのあらゆる宗教にある欺瞞性を超えた、日本の原点に存在するオリジナルな神道の世界である。勿論、それは伊勢神道とは似て非なるものである。神道には経典や教義はない。つまり、語れないことはそのまま受け入れるしかないのである。
補足:
1)五木さんの本は親鸞を少し読んだと思う。私は、その影響下にあるのかもしれない。
2)介護に当たった義理の親族による度重なる虐待の話を聞いた。スリッパで顔が殴られ、母の歪む顔と涙を想像し、死の残酷さを思った。
3)聖書の創世記にある話を思い出す。知恵の(善悪を知る)木の実を食べた結果、楽園を追い出され、神の言葉を聞く。「あなたはちりだから、ちりに帰る」と。楽園とは生と死を語る必要のない場所であり、野生の動物は未だそこに留まっているのだろう。しかし、その生と死の思考モデルも非常によくできているが、創り話にすぎない。(信者でもないものが、聖書の片言双句を引用するのは、多少気がひける。)
2017年1月15日日曜日
理系のセンスのない行政の長や報道関係の人たち
1)豊洲の地下水モニタリング調査は、201箇所からのサンプリングで行われ、環境基準の最大79倍のベンゼンが検出されたという。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に(移転して良いかどうかの判断を)任せたい」と述べ、専門家会議で詳細な分析をしたうえで(移転して良いかどうかについて)判断すべきだという考えを示した。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170114/k10010839481000.html (補足1)
地下水の環境基準値は、0.01mg/Lであるから、http://www.env.go.jp/kijun/tikat1.html 最大0.79mg/Lの濃度でベンゼンを含む水がどこかにあったのは事実だろう。しかし、何の為に何を測っているのか、その数値のどこが問題なのか、明確な話はこの報道のどこにもない。報道に携わる方々や行政の方々はほとんど文系なので、最大濃度にどれだけの意味があるかという思考の訓練がなされていないのだろう。理系の研究者なら、平均値も発表されていないのなら、2シグマ(標準偏差;補足2)の外ではないかと疑って見たくなる。
環境基準というが地下水を対象にしているので、その地下水を飲用や調理作業に用いる場合は問題だが、そうでないのなら問題にすべきは大気中にどれだけ含まれるかということである。小池知事は「食の安全という立場から」という語句を屡々用いているが、食の安全と地下水中のベンゼン濃度との関係について何も言っていない。この問題は数ヶ月経っているので、東京都にも理系の職員はいるのだから、その間に情報を仕込むことができたはずである。明確な数字と不明確な都知事の態度の対照性は、不自然極まりない。この問題を大きく取り上げ、この時点まで引きずったのは、ポピュリスト的政治の結果だと言われても反論できないだろう。しかし、その点を気にかける報道関係者は皆無である。まさに馬鹿騒ぎである。
2)表題で理系と言ったが、論理的な考察能力の必要度が理系では高いという意味であり、それは文系でも必要な能力であることには変わりはない。理系では、まともな業績評価はほとんど英語で執筆された論文を対象になされる。例えば論文を英米の雑誌に投稿する場合、必然的に英語の訓練を受けることになる。そこで初めて、英語が日本語に比べて遥かに論理的考察に適していることを知ることとなる。
英語の科学論文では、観測結果の数値が何を意味するかについて、曖昧さがあれば受理されない。つまり、それらの数値が、何を対象にどのような方法で得られたか、統計的に意味のある数字なのかなど、実験値が研究対象の記述となり得ているかどうかの確認が先ずなされる。その後、数式などを用いてなされる実験値と執筆者の引き出した対象に関する結論や推論との間を結ぶ論理展開の正しさが、さらにその結論等のその分野に置ける重要性が、審査員や編集長(室)により審査される。発表後は、読者によりそれらがより綿密に多くの方向からなされ、その評価が長い時間を経て実際の業績となる。
そのようなプロセスを経験した人間からすれば、一連の豊洲とベンゼンの関係に関する知事の発言や各種報道の質は、一編の低級な短い論文にも劣るというのが正直な感想である。(補足3)
補足:
1)カッコ内は推測で補足した語句である。肝心な目的語などを省くのは、日本語の欠陥を利用した保険だろう。何か不都合が生じた時、カッコ内の語句を自由にいれかえることができるからである。(日本語の欠陥については、HPやブログに山ほど書いてきた:e.g., http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html)
2)N個の観測数値があったとする。夫々の数値の平均値からのずれを二乗し、足し合わせて平均した数値を分散と呼ぶ。分散の平方根を標準偏差(σ)と呼ぶ。乱雑な現象の場合、2σより上にずれた値を得る確率は2.3%以下である。したがって、地下水全体のベンゼン濃度が問題なら、問題にすべきはその平均値であり最大値ではない。観測結果が平均値から大きくずれた値なら(2σ、3σずれているのなら)、それは観測機の誤動作や誤操作も疑う必要がある。
3)今朝の読売新聞朝刊一面にこの件が記載されていたが、最大値のみを記載している。情報量はほとんどゼロと言って良い記事である。
地下水の環境基準値は、0.01mg/Lであるから、http://www.env.go.jp/kijun/tikat1.html 最大0.79mg/Lの濃度でベンゼンを含む水がどこかにあったのは事実だろう。しかし、何の為に何を測っているのか、その数値のどこが問題なのか、明確な話はこの報道のどこにもない。報道に携わる方々や行政の方々はほとんど文系なので、最大濃度にどれだけの意味があるかという思考の訓練がなされていないのだろう。理系の研究者なら、平均値も発表されていないのなら、2シグマ(標準偏差;補足2)の外ではないかと疑って見たくなる。
環境基準というが地下水を対象にしているので、その地下水を飲用や調理作業に用いる場合は問題だが、そうでないのなら問題にすべきは大気中にどれだけ含まれるかということである。小池知事は「食の安全という立場から」という語句を屡々用いているが、食の安全と地下水中のベンゼン濃度との関係について何も言っていない。この問題は数ヶ月経っているので、東京都にも理系の職員はいるのだから、その間に情報を仕込むことができたはずである。明確な数字と不明確な都知事の態度の対照性は、不自然極まりない。この問題を大きく取り上げ、この時点まで引きずったのは、ポピュリスト的政治の結果だと言われても反論できないだろう。しかし、その点を気にかける報道関係者は皆無である。まさに馬鹿騒ぎである。
2)表題で理系と言ったが、論理的な考察能力の必要度が理系では高いという意味であり、それは文系でも必要な能力であることには変わりはない。理系では、まともな業績評価はほとんど英語で執筆された論文を対象になされる。例えば論文を英米の雑誌に投稿する場合、必然的に英語の訓練を受けることになる。そこで初めて、英語が日本語に比べて遥かに論理的考察に適していることを知ることとなる。
英語の科学論文では、観測結果の数値が何を意味するかについて、曖昧さがあれば受理されない。つまり、それらの数値が、何を対象にどのような方法で得られたか、統計的に意味のある数字なのかなど、実験値が研究対象の記述となり得ているかどうかの確認が先ずなされる。その後、数式などを用いてなされる実験値と執筆者の引き出した対象に関する結論や推論との間を結ぶ論理展開の正しさが、さらにその結論等のその分野に置ける重要性が、審査員や編集長(室)により審査される。発表後は、読者によりそれらがより綿密に多くの方向からなされ、その評価が長い時間を経て実際の業績となる。
そのようなプロセスを経験した人間からすれば、一連の豊洲とベンゼンの関係に関する知事の発言や各種報道の質は、一編の低級な短い論文にも劣るというのが正直な感想である。(補足3)
補足:
1)カッコ内は推測で補足した語句である。肝心な目的語などを省くのは、日本語の欠陥を利用した保険だろう。何か不都合が生じた時、カッコ内の語句を自由にいれかえることができるからである。(日本語の欠陥については、HPやブログに山ほど書いてきた:e.g., http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html)
2)N個の観測数値があったとする。夫々の数値の平均値からのずれを二乗し、足し合わせて平均した数値を分散と呼ぶ。分散の平方根を標準偏差(σ)と呼ぶ。乱雑な現象の場合、2σより上にずれた値を得る確率は2.3%以下である。したがって、地下水全体のベンゼン濃度が問題なら、問題にすべきはその平均値であり最大値ではない。観測結果が平均値から大きくずれた値なら(2σ、3σずれているのなら)、それは観測機の誤動作や誤操作も疑う必要がある。
3)今朝の読売新聞朝刊一面にこの件が記載されていたが、最大値のみを記載している。情報量はほとんどゼロと言って良い記事である。
2017年1月14日土曜日
韓国の未成熟な政治の原因:韓国は封建社会を経由していない
1)ここ数日少しずつだが、韓国のキム・ワンソプ著「親日派のための弁明」を読んでいる。この本は、自信を無くしつつある日本人の方々、特に左寄りの方々の必読書だろうと思う。何故なら、韓国や台湾の資本主義経済の発展は、日本統治を基礎としてなされたと論理的に述べているからである。今回は、その本を参考にして、韓国の歴史に関する誤解と現在の未成熟な社会の原因などについてまとめてみる。
マルクスの社会発展の理論は、人間社会は下部構造である経済構造の変化が上部構造である政治と文化をかたち作る原動力になるというものである。そして人間の政治構造は、原子共同体社会、奴隷社会、封建社会を経て、資本主義社会に発展してきた。資本主義社会の前段階である封建社会を持ったのは、上記キム氏の本には、日本と西欧だけであったという。
従って、近代資本主義の発展には封建制度を経過する必要があるが、それまでの韓国は李氏朝鮮という帝政であり、日本で言えば平安時代に相当し、近代資本主義の萌芽は全くなかった。日本統治は、被支配国を搾取の対象とする西欧型の植民地政策ではなく同化政策であり、日本と同じ近代資本主義的な政治制度の導入と同時に、近代化に必要な基礎情報の収集、教育制度や交通網整備などのインフラ整備などがなされたのである。
2)次に何故、封建社会が近代資本主義社会の成立に必要かについて考える。封建社会においては、封建領主が一定地域の土地を支配してそれを領民に分配し租税(日本では年貢米)を徴収する。そのため、領地内では地域毎に土地に関する権利や租税に関する強力で整備された法体系と、それを執行できる政治組織を持つ。そして、それらを大きな範囲で統合する中央集権政府が存在する。
従って、領民はその領域とその中で有効な法律を意識して生きるという法治国家の基本を身につける。封建領主の支配は、その権利と義務の関係を保障するものであるから、経済活動もその範囲で広く行われる。広範な範囲での経済活動は、貨幣経済の発展をもたらし、その結果資本の蓄積といったことも広く意識される。これらは、近代資本主義に必要とされる多くのことの準備となるのである。
その結果、日本では西欧の市民革命とは異なった形だが、結果的に明治維新という革命が成功裏に進められ、資本主義的国民国家としての体制を整えることになった。一方、朝鮮半島ではこのような経過を経ておらず、また、登記制度や裁判などにも馴染みがなかったので、独自に近代化を成し遂げるのは困難だっただろう。ただ、現代の日本の歴史教育において、この江戸時代の役割を正当に教えていないことは改めるべきである。
韓国では以上のような、経済史学や歴史学の成果を否定している。つまり、現在でも韓国では近代化の萌芽が李氏朝鮮の時代にあったのだが、それを日本統治が摘み取り、韓国の独自の発展を阻害したという教育を行っているという。それを著者は、韓国は何故「オレンジ畑でリンゴを探すのか」と嘆いている。
3)以上の考察を経れば、何故韓国が、現代においても尚、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに(部分的に)欠ける国家なのかが理解できる。例えば韓国は未だに、親日派という人間の分類項目を作り、それに指定された場合には、その資産を没収できるという類のとんでもない法律(反日法)を制定したり、対馬の寺から盗まれた仏像を、犯人逮捕が終わった後も元々は韓国から盗まれたものだから、返却できないと言い張るような国なのである。
韓国のようなことすべての国が主張すれば、ルーブル博物館も大英博物館もほとんど空になってしまうだろう。韓国は上記のような歴史歪曲を行っていること、且つ、それが韓国の発展を阻害しているということについて、支配層すら十分気がついていないらしい。その”苦しみと事情”は、薩長下級士族を中心とした日本政府が、明治維新の後で江戸時代をまるで暗黒の時代のように規定した事実を考えれば、理解できなくもない。(補足1)
つまり、韓国も独自に近代民主主義社会に発展させる段階になり、過去を足場として蹴ることの反跳力を利用することが安易な道として欲しいのである。過去とは日本統治時代の韓国である。(補足2) 韓国がより安易な方向に流される理由として、日本の場合は明治維新を多くの血を流して成し遂げたが、韓国の場合は日本の敗戦という棚ぼた的にその時期を迎えたことがあると思う。(補足3)
また、世界各国に封建社会を経ていない国が多いが、それらの国々に何故個人の権利と義務を明確に規定する民主主義制度と、それが必須の近代資本主義社会が定着しにくいのかが理解できたような気がする。
補足:
1)明治維新という革命で分断された国家を早期に統一をするため、思想教育の一つとして利用されたと思う。しかし、それが訂正されないのは、今でもなお薩長政権が続いている結果ではないだろうか。
2)朝鮮半島の人々は、朝鮮国が中華帝国の朝貢国(属国)であったという劣等意識を、中国より遠い島国日本を格下の国として見下すことを中和剤に用いて、心理的安定を保ってきたのだろう。日本が敗戦したので、それを足蹴にすることに二重の意味が生じたのである。一つは格下の国であるにも拘らず、朝鮮を支配した国であること、もう一つは上記の近代化へ向けて国民を結束させる安易な方法としてうってつけであること、の二つである。 3)以上の考察を経れば、何故韓国は、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに欠ける国家なのかが理解できる。
(15日朝一部加筆の上編集)
マルクスの社会発展の理論は、人間社会は下部構造である経済構造の変化が上部構造である政治と文化をかたち作る原動力になるというものである。そして人間の政治構造は、原子共同体社会、奴隷社会、封建社会を経て、資本主義社会に発展してきた。資本主義社会の前段階である封建社会を持ったのは、上記キム氏の本には、日本と西欧だけであったという。
従って、近代資本主義の発展には封建制度を経過する必要があるが、それまでの韓国は李氏朝鮮という帝政であり、日本で言えば平安時代に相当し、近代資本主義の萌芽は全くなかった。日本統治は、被支配国を搾取の対象とする西欧型の植民地政策ではなく同化政策であり、日本と同じ近代資本主義的な政治制度の導入と同時に、近代化に必要な基礎情報の収集、教育制度や交通網整備などのインフラ整備などがなされたのである。
2)次に何故、封建社会が近代資本主義社会の成立に必要かについて考える。封建社会においては、封建領主が一定地域の土地を支配してそれを領民に分配し租税(日本では年貢米)を徴収する。そのため、領地内では地域毎に土地に関する権利や租税に関する強力で整備された法体系と、それを執行できる政治組織を持つ。そして、それらを大きな範囲で統合する中央集権政府が存在する。
従って、領民はその領域とその中で有効な法律を意識して生きるという法治国家の基本を身につける。封建領主の支配は、その権利と義務の関係を保障するものであるから、経済活動もその範囲で広く行われる。広範な範囲での経済活動は、貨幣経済の発展をもたらし、その結果資本の蓄積といったことも広く意識される。これらは、近代資本主義に必要とされる多くのことの準備となるのである。
その結果、日本では西欧の市民革命とは異なった形だが、結果的に明治維新という革命が成功裏に進められ、資本主義的国民国家としての体制を整えることになった。一方、朝鮮半島ではこのような経過を経ておらず、また、登記制度や裁判などにも馴染みがなかったので、独自に近代化を成し遂げるのは困難だっただろう。ただ、現代の日本の歴史教育において、この江戸時代の役割を正当に教えていないことは改めるべきである。
韓国では以上のような、経済史学や歴史学の成果を否定している。つまり、現在でも韓国では近代化の萌芽が李氏朝鮮の時代にあったのだが、それを日本統治が摘み取り、韓国の独自の発展を阻害したという教育を行っているという。それを著者は、韓国は何故「オレンジ畑でリンゴを探すのか」と嘆いている。
3)以上の考察を経れば、何故韓国が、現代においても尚、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに(部分的に)欠ける国家なのかが理解できる。例えば韓国は未だに、親日派という人間の分類項目を作り、それに指定された場合には、その資産を没収できるという類のとんでもない法律(反日法)を制定したり、対馬の寺から盗まれた仏像を、犯人逮捕が終わった後も元々は韓国から盗まれたものだから、返却できないと言い張るような国なのである。
韓国のようなことすべての国が主張すれば、ルーブル博物館も大英博物館もほとんど空になってしまうだろう。韓国は上記のような歴史歪曲を行っていること、且つ、それが韓国の発展を阻害しているということについて、支配層すら十分気がついていないらしい。その”苦しみと事情”は、薩長下級士族を中心とした日本政府が、明治維新の後で江戸時代をまるで暗黒の時代のように規定した事実を考えれば、理解できなくもない。(補足1)
つまり、韓国も独自に近代民主主義社会に発展させる段階になり、過去を足場として蹴ることの反跳力を利用することが安易な道として欲しいのである。過去とは日本統治時代の韓国である。(補足2) 韓国がより安易な方向に流される理由として、日本の場合は明治維新を多くの血を流して成し遂げたが、韓国の場合は日本の敗戦という棚ぼた的にその時期を迎えたことがあると思う。(補足3)
また、世界各国に封建社会を経ていない国が多いが、それらの国々に何故個人の権利と義務を明確に規定する民主主義制度と、それが必須の近代資本主義社会が定着しにくいのかが理解できたような気がする。
補足:
1)明治維新という革命で分断された国家を早期に統一をするため、思想教育の一つとして利用されたと思う。しかし、それが訂正されないのは、今でもなお薩長政権が続いている結果ではないだろうか。
2)朝鮮半島の人々は、朝鮮国が中華帝国の朝貢国(属国)であったという劣等意識を、中国より遠い島国日本を格下の国として見下すことを中和剤に用いて、心理的安定を保ってきたのだろう。日本が敗戦したので、それを足蹴にすることに二重の意味が生じたのである。一つは格下の国であるにも拘らず、朝鮮を支配した国であること、もう一つは上記の近代化へ向けて国民を結束させる安易な方法としてうってつけであること、の二つである。 3)以上の考察を経れば、何故韓国は、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに欠ける国家なのかが理解できる。
(15日朝一部加筆の上編集)
2017年1月13日金曜日
トランプ新大統領はやっぱり変か?
少し古い話だが、週の初めの日曜日朝7時サンデーモーニングの感想から書く。
トランプ大統領の政治がすでに始まっているという指摘ののち、二人のコメンテーターにより興味ある指摘がなされた。一つは、寺島実郎氏によるトランプ氏は白人低所得者層の支持で大統領に当選したが、その実態はニューヨークの金融資本の政権であるというもの。
財務長官と国務長官に夫々予定されているゴールドマン・サックスの関係者やエクソン・モービルの経営者などの顔ぶれはその話を裏付けている。トランプ氏のキャッチフレーズはアメリカン・ファーストで、そのアメリカンがアメリカ人だと思って投票した人が多かっただろうが、本当は“アメリカの”という形容詞であり、その後に金融とか企業とかがつくのだろう。それを実現するために、国防長官には軍人を持ってきているし、核装備の拡充などにも言及している。
つまり、トランプ氏が考えているのはアメリカ孤立主義ではなく、アメリカ企業や金融の利益第一主義であり、そのおこぼれをWASP貧困層にtrickle downさせるというものだろう。アベノミクスでもtrickle downがなかなか実現しなかったので、トランプ批判は半年ほどで生じるだろう。
もう一人のゲストの姜尚中氏が引用した最近英国でできた新しい言葉ポスト・ツルース(post truth)時代についての話である。つまり事実(truth)を無視して、いい加減なプロパガンダが世界を動かす時代を指す。この用語については新たに言葉を作る必要などないとの議論は既にした。何故なら、嘘が歴史の中に山ほどあるからである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43126500.html
しかし、昨日の記者会見でのトランプ氏の発言は異常である。大統領就任後も変化しないのなら、何か事件が起こりそうに思う。例えば、自動車をメキシコで作って米国で販売する場合、高い関税をかけるとの発言(補足)は、NAFTA(北米自由貿易協定)に違反するので、20年以上も続いた条約を廃止することになる。そんなことが簡単にできるのか?
とにかく、そろそろ大統領らしい発言をしないと、ロシアの政権の選挙介入問題が大きくなってくると思う。
補足:関税ではなく、全く新しい税金であり(国境税と呼ばれている)、性格としては法人税の増税らしい。しかし関税の増税ならNAFTAからの脱退で可能だが、国境税のような非関税障壁の創設はWTO違反になると、三橋貴明氏が指摘している。(18:00) https://www.youtube.com/watch?v=bykcrTrx6JQ
トランプ大統領の政治がすでに始まっているという指摘ののち、二人のコメンテーターにより興味ある指摘がなされた。一つは、寺島実郎氏によるトランプ氏は白人低所得者層の支持で大統領に当選したが、その実態はニューヨークの金融資本の政権であるというもの。
財務長官と国務長官に夫々予定されているゴールドマン・サックスの関係者やエクソン・モービルの経営者などの顔ぶれはその話を裏付けている。トランプ氏のキャッチフレーズはアメリカン・ファーストで、そのアメリカンがアメリカ人だと思って投票した人が多かっただろうが、本当は“アメリカの”という形容詞であり、その後に金融とか企業とかがつくのだろう。それを実現するために、国防長官には軍人を持ってきているし、核装備の拡充などにも言及している。
つまり、トランプ氏が考えているのはアメリカ孤立主義ではなく、アメリカ企業や金融の利益第一主義であり、そのおこぼれをWASP貧困層にtrickle downさせるというものだろう。アベノミクスでもtrickle downがなかなか実現しなかったので、トランプ批判は半年ほどで生じるだろう。
もう一人のゲストの姜尚中氏が引用した最近英国でできた新しい言葉ポスト・ツルース(post truth)時代についての話である。つまり事実(truth)を無視して、いい加減なプロパガンダが世界を動かす時代を指す。この用語については新たに言葉を作る必要などないとの議論は既にした。何故なら、嘘が歴史の中に山ほどあるからである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43126500.html
しかし、昨日の記者会見でのトランプ氏の発言は異常である。大統領就任後も変化しないのなら、何か事件が起こりそうに思う。例えば、自動車をメキシコで作って米国で販売する場合、高い関税をかけるとの発言(補足)は、NAFTA(北米自由貿易協定)に違反するので、20年以上も続いた条約を廃止することになる。そんなことが簡単にできるのか?
とにかく、そろそろ大統領らしい発言をしないと、ロシアの政権の選挙介入問題が大きくなってくると思う。
補足:関税ではなく、全く新しい税金であり(国境税と呼ばれている)、性格としては法人税の増税らしい。しかし関税の増税ならNAFTAからの脱退で可能だが、国境税のような非関税障壁の創設はWTO違反になると、三橋貴明氏が指摘している。(18:00) https://www.youtube.com/watch?v=bykcrTrx6JQ
2017年1月12日木曜日
米国ニクソン大統領が佐藤総理に日本の再軍備と核装備を勧めたという話
1)米国の対日政策は一貫して、日本国の「骨抜き」を目的としていると考えてきた。つまり、非武装を定めた日本国憲法の制定や有能な人間の公職追放など、マッカーサーの戦後の占領政治の延長上に現在もあるということである。しかし、それとは若干異なる歴史的事実も存在したのである。
以前のブログでも書いたのだが、片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)において、佐藤栄作の首席秘書官だった楠田實著の「楠田實日記」(中央公論社、2001年、776頁)を引用して、米国ニクソン大統領が憲法改正と核武装を1967-1972の間に何度か佐藤栄作総理に勧めたことを書いている。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html
この片岡鉄哉氏の本を読んだ時には十分消化吸収できなかったのだが、今回江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画を見て、納得できたので、その講演の資料を参照して少し追加する。
米国は、1962年10月の“キューバ危機”において、ソ連との悲壮な決意で臨んだ交渉の結果、核戦争の危機を脱した(補足1)。また、ベトナム戦争において、1965年には最大16万人を派兵しながら、勝利には程遠かった。ニクソン大統領の提案はそのような情況下でなされたのである。その冷戦時の米国の焦りを前提にすると、再軍備と核装備の勧め、および、冷戦における米国への積極的協力を、日本に要請したことが理解できるのである。
2)1967年10月、ニクソン大統領は外交専門誌foreignaffairs誌上で、ベトナム戦争に疲弊した米国は、もはや世界の警察官としての役割は十分には果たせないので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るために、より一層の努力が必要であると述べた。1969年11月ニクソン大統領は佐藤総理に、沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製に変えるように促した。
1972年1月、訪米した佐藤総理に対して、ニクソンはアジアでの日本の軍事的役割の拡大を主張したが、佐藤総理は「日本の国会と国民の圧倒的多数は、核兵器に反対している」と反論した。これは、ソ連と中国の脅威に対して、日本はアメリカと共に戦う意思はないと表明したことになる。しかし、日本は日米安保条約をあてにしないわけではない。日本は、この子供の論理から戦後四半世紀経っても抜けていないし、抜ける努力もなされていないと最高指導者は言ったのである。
ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官(のち国務長官)らが、冷戦に勝つために恐らく並行して考えていたと思われるのは、日本の軍事面を含めた協力とソ連と中国の分断である。当然、後者の作戦において中ソ国境紛争(補足2)が米国の味方となると、そして、日本が米国に一人前の国家として協力しないのなら、日本を売り渡すことは大きな取引材料になると、ニクソンらは考えた筈である。
1972年2月に訪中したニクソン大統領は毛沢東との会談で、日米安保条約は「日本が軍事ナショナリズムに走ることを阻止するためのものである」と主張した。そして、2月28日の米中共同コミュニケにおいて、中国側は「日本軍国主義の復活と対外拡張に断固反対し、中立の日本を打ち立てんとする日本人民の願望を断固支持する」と書き込んだ。
その後は、1976年三木内閣の防衛費GNP1%枠設定、1982年鈴木善幸内閣での教科書問題事件で、歴史教科書に日本の「侵略」を明記することの約束など、現在の日中関係が出来上がった。
3)日本が何故、このような半国家のような状態になったのかは、戦後、経済復興を最優先したからという言い訳はありえる。しかし、経済発展は国家あってのことであり、そのような路線は極短期ならともかく将来に禍根を残すことは、誰でもわかった筈である。
その戦後政治において、日露戦争後日本が受け入れた多くの中国人留学生が、大きな働きをした。共産主義思想を日本で学び、その後中国共産党員として日本の工作に関わったという。特に、中国共産党の下に位置した(補足3)日本共産党など左派勢力に大きな影響力を持ったというのが、江崎道朗氏の講演「中国共産党の対日工作」の主題である。
前回のブログに書いたように、その工作が与党である自民党の主流派にまで及んだことが、日本の半国家化に大きく寄与したということになる。そのもっとも大事なポイントは、過去の戦争を侵略戦争と位置付けて、それとの関連で日本の再軍備や日米安保条約に反対するという筋書きである。その考え方に日本の国立大学の学生たちの頭脳が完全に支配されたのが、60年および70年安保闘争である。
日本が主権回復後に、大学等の英知を集めて過去の戦争を詳細且つ客観的にレビューして、その作成した報告書をにおいて正当化すべきところを正面から主張しておけば、このようなことにはならなかったと思う。その趣旨の記述は、半藤一利氏の昭和史などにはない。むしろ、韓国人のキム・ワンソプ氏の「親日派のための弁明」で述べられているのは情けない限りである。
補足:
1)キューバ危機:
共産主義が自由主義に勝つのではないかという恐れをかなりの人が持った時代の出来事である。米国民の事情に詳しい人のかなりは、共産主義の波が米国を飲み込むのではないかと本気で思っただろう。J.F.ケネディは就任後すぐに、キューバで誕生したカストロ政権を牽制する意味で、キューバの経済封鎖を発表した。その翌月、5月にベトナムに正規軍を軍事顧問団の名目で投入する決断をした。その同じ5月に、宇宙開発とロケット技術での遅れを取り戻すため、議会において月面に人を送る計画のスピーチを行なっている。
その翌年の10月にキューバに核基地が出来つつあることを米国は発見した。その対抗策である海上封鎖を、ケネディがテレビで米国民に知らせた時、彼らの共産主義に対する恐怖は頂点に達したと思う。キューバ危機は、ソ連のミサイル撤去という形で幕を閉じた。その代わり、米国はキューバへの不介入とトルコに配備していた核ミサイル撤去を約束した。両方の駆け引きは、一流の指導者ならではと思わせるものである。互いに、取りうる選択の余地を残して交渉できたのは、互いに相手の力を評価していたからだろう。
2)つまり、1969年3月ウスリー側の中洲を巡って武力衝突をし、その後もアムール川の中洲などで衝突を繰り返すことになる。しかし、ソ連のコスイギン首相はベトナムのホーチミン国家主席の葬儀のあと北京に立ち寄り、周恩来首相と会談を行い政治解決の道を探るために問題を先送りし、軍事的緊張は緩和された。
3)コミンテルン執行委員の佐野学は、コミンテルンより日本共産党に対する活動資金及び各種指令は、中国共産党の手をへて伝達されることが多いと、供述したという。
以前のブログでも書いたのだが、片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)において、佐藤栄作の首席秘書官だった楠田實著の「楠田實日記」(中央公論社、2001年、776頁)を引用して、米国ニクソン大統領が憲法改正と核武装を1967-1972の間に何度か佐藤栄作総理に勧めたことを書いている。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html
この片岡鉄哉氏の本を読んだ時には十分消化吸収できなかったのだが、今回江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画を見て、納得できたので、その講演の資料を参照して少し追加する。
米国は、1962年10月の“キューバ危機”において、ソ連との悲壮な決意で臨んだ交渉の結果、核戦争の危機を脱した(補足1)。また、ベトナム戦争において、1965年には最大16万人を派兵しながら、勝利には程遠かった。ニクソン大統領の提案はそのような情況下でなされたのである。その冷戦時の米国の焦りを前提にすると、再軍備と核装備の勧め、および、冷戦における米国への積極的協力を、日本に要請したことが理解できるのである。
2)1967年10月、ニクソン大統領は外交専門誌foreignaffairs誌上で、ベトナム戦争に疲弊した米国は、もはや世界の警察官としての役割は十分には果たせないので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るために、より一層の努力が必要であると述べた。1969年11月ニクソン大統領は佐藤総理に、沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製に変えるように促した。
1972年1月、訪米した佐藤総理に対して、ニクソンはアジアでの日本の軍事的役割の拡大を主張したが、佐藤総理は「日本の国会と国民の圧倒的多数は、核兵器に反対している」と反論した。これは、ソ連と中国の脅威に対して、日本はアメリカと共に戦う意思はないと表明したことになる。しかし、日本は日米安保条約をあてにしないわけではない。日本は、この子供の論理から戦後四半世紀経っても抜けていないし、抜ける努力もなされていないと最高指導者は言ったのである。
ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官(のち国務長官)らが、冷戦に勝つために恐らく並行して考えていたと思われるのは、日本の軍事面を含めた協力とソ連と中国の分断である。当然、後者の作戦において中ソ国境紛争(補足2)が米国の味方となると、そして、日本が米国に一人前の国家として協力しないのなら、日本を売り渡すことは大きな取引材料になると、ニクソンらは考えた筈である。
1972年2月に訪中したニクソン大統領は毛沢東との会談で、日米安保条約は「日本が軍事ナショナリズムに走ることを阻止するためのものである」と主張した。そして、2月28日の米中共同コミュニケにおいて、中国側は「日本軍国主義の復活と対外拡張に断固反対し、中立の日本を打ち立てんとする日本人民の願望を断固支持する」と書き込んだ。
その後は、1976年三木内閣の防衛費GNP1%枠設定、1982年鈴木善幸内閣での教科書問題事件で、歴史教科書に日本の「侵略」を明記することの約束など、現在の日中関係が出来上がった。
3)日本が何故、このような半国家のような状態になったのかは、戦後、経済復興を最優先したからという言い訳はありえる。しかし、経済発展は国家あってのことであり、そのような路線は極短期ならともかく将来に禍根を残すことは、誰でもわかった筈である。
その戦後政治において、日露戦争後日本が受け入れた多くの中国人留学生が、大きな働きをした。共産主義思想を日本で学び、その後中国共産党員として日本の工作に関わったという。特に、中国共産党の下に位置した(補足3)日本共産党など左派勢力に大きな影響力を持ったというのが、江崎道朗氏の講演「中国共産党の対日工作」の主題である。
前回のブログに書いたように、その工作が与党である自民党の主流派にまで及んだことが、日本の半国家化に大きく寄与したということになる。そのもっとも大事なポイントは、過去の戦争を侵略戦争と位置付けて、それとの関連で日本の再軍備や日米安保条約に反対するという筋書きである。その考え方に日本の国立大学の学生たちの頭脳が完全に支配されたのが、60年および70年安保闘争である。
日本が主権回復後に、大学等の英知を集めて過去の戦争を詳細且つ客観的にレビューして、その作成した報告書をにおいて正当化すべきところを正面から主張しておけば、このようなことにはならなかったと思う。その趣旨の記述は、半藤一利氏の昭和史などにはない。むしろ、韓国人のキム・ワンソプ氏の「親日派のための弁明」で述べられているのは情けない限りである。
補足:
1)キューバ危機:
共産主義が自由主義に勝つのではないかという恐れをかなりの人が持った時代の出来事である。米国民の事情に詳しい人のかなりは、共産主義の波が米国を飲み込むのではないかと本気で思っただろう。J.F.ケネディは就任後すぐに、キューバで誕生したカストロ政権を牽制する意味で、キューバの経済封鎖を発表した。その翌月、5月にベトナムに正規軍を軍事顧問団の名目で投入する決断をした。その同じ5月に、宇宙開発とロケット技術での遅れを取り戻すため、議会において月面に人を送る計画のスピーチを行なっている。
その翌年の10月にキューバに核基地が出来つつあることを米国は発見した。その対抗策である海上封鎖を、ケネディがテレビで米国民に知らせた時、彼らの共産主義に対する恐怖は頂点に達したと思う。キューバ危機は、ソ連のミサイル撤去という形で幕を閉じた。その代わり、米国はキューバへの不介入とトルコに配備していた核ミサイル撤去を約束した。両方の駆け引きは、一流の指導者ならではと思わせるものである。互いに、取りうる選択の余地を残して交渉できたのは、互いに相手の力を評価していたからだろう。
2)つまり、1969年3月ウスリー側の中洲を巡って武力衝突をし、その後もアムール川の中洲などで衝突を繰り返すことになる。しかし、ソ連のコスイギン首相はベトナムのホーチミン国家主席の葬儀のあと北京に立ち寄り、周恩来首相と会談を行い政治解決の道を探るために問題を先送りし、軍事的緊張は緩和された。
3)コミンテルン執行委員の佐野学は、コミンテルンより日本共産党に対する活動資金及び各種指令は、中国共産党の手をへて伝達されることが多いと、供述したという。
2017年1月10日火曜日
ポスト-真実の政治? 中国の嘘と工作で動かされた日本の近代
§1。
ぽすと-真実(post-truth)という言葉を聞いたのは、この8日のテレビ番組「サンデーモーニング」で、ゲスト姜尚中氏が昨今の政治について話した時が最初だった。それを聞いた後直ちに、政治とは大昔から嘘の連続なのに、今更何を言っているのかと思った。
その言葉の由来だが、オックスフォード辞書を出版しているOxford Dictionariesが毎年、その年の言葉(Word of theyear)を選んでおり、2016年がそのpost-truthだった。特にpost-truth politics (ポストー真実の政治)という風に、政治を形容することを念頭に置いた形容詞である。(補足1)
オックスフォード辞書出版のHPを見ると、post-truthという言葉は、”客観的事実に基づくよりも、感情や個人的信条に訴える方法の方が世論を形成する上で有効であるという状況、或いはその様な状況に関するという意味の形容詞”と定義されている。(補足2)https://en.oxforddictionaries.com/word-of-the-year/word-of-the-year-2016
この単語自体は既にあった様だが、今年英国のEU離脱の決定やトランプ氏の次期米国大統領への当選などの際に、主なる出版物においてその言葉が説明なしで用いられるようになり、その出現回数がスパイク状に増加したという。
しかし、上記定義は何かおかしい。Post-truthには、真実(truth)の後に来るものは何も書かれていないので、当然、上記定義にある“感情や個人的信条”などの意味は無い。大衆の感情や個人的信条(例えばナショナリズム)に訴えて政治的力にする用語として、既にポピュリズムという言葉がある。何故、それを使わないのか?
つまり、Post-truth politicsという言い方には、欺瞞が含まれている。それは、これまでの政治は真実に基づいていたという嘘である。確かに、表舞台では民主政治という形式が取られていたが、それを犯す内外からのいろんな力が存在して、実際には影の力やメカニズムが政治を動かす大きな力となっていた。それに反感を持った民衆が民主政治の方法により大きく動かすようになった政治が昨年の世界的現象であり、それをpost-truth politicsというのは、米国の新聞などと同様、これまでの支配者とべったりだった出版社や新聞社による敗者の戯言なのだろう。(補足3)
§2。 嘘800並べる政治的プロパガンダが政治を動かし、その結果が歴史を作るという意味では、「ポスト真実」と言う言葉を用いて新しい現象のようにいうのは欺瞞である。そのような手法はむしろ古典的である。近代政治において諜報活動が大きな力を発揮して来たのであり、それらを意識することは現在の政治でも重要である。日本の戦後政治にとって非常に弱い分野であるが、中国や英国など大陸の諸国(の政治当局)はそれを研究し、実行していると思う。
以前書いたが、中国では昔から人間を階層分けして、士の身分と君子の身分では別々の考え方が必要だと教えており、「君子は言葉に縛られることはない」というのが常識だという。つまり、君子つまり政治を行う者は、時に嘘をつく(あるいは豹変する)のである。(補足4)一方、日本では人に仕えるものの教育だけに熱心であり、「嘘は泥棒の始まり」でしかない。(補足5)その結果、日中国交回復の際に、田中角栄が周恩来にさりげなく馬鹿にされても、それに報道機関も気づかないのである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42762695.html
主題からの飛躍が過ぎると言われそうだが、あえて書く。
たとえば、最近ネットでの議論で教えてもらった江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画では、情報を知らないのか工作を受けた結果なのか、その田中角栄時代の非常に貧弱な中国外交を指摘している。この一部は過去にすでに指摘した。”田中角栄は天才か小物か”:https://www.youtube.com/watch?v=RLG8vUu9lVg
中国の共産党政権が、大躍進運動の失敗による経済的苦境から立ち上がれない時に、日中国交回復と経済協力で、田中内閣は中国経済の立て直しに協力した。また、外務大臣の大平正芳の指令により、中国を刺激するような情報活動を禁止し、中国共産党の日本に対する工作を助けた。さらに、天安門事件で国際制裁を受けていた時に、加藤紘一内閣は天皇陛下の訪中とODAの再会で中国共産党政権を助けた。
なお、中国共産党はモスクワのコミンテルンの下にあり、その工作員の疑いのある人物が、池田勇人が作った宏池会の初代事務局長を勤め、その宏池会に上記加藤紘一、大平正芳、の他、河野洋平、宮沢喜一らという売国奴的人物が属するのである。また、中国がスパイ教育して日本に返した旧日本兵の団体である中国帰還者連絡会が、731事件や南京大虐殺などを、嘘を含めて大宣伝したのである。
上記講演において江崎氏は、これらの嘘を使った工作が日本側に大きな損害を生じさせていると指摘している。つまり政治は、嘘を如何に多く大きく宣伝するかの競争のようなものだったと言うのが常識であり、重ねて言うが、post-truth politicsとか言う言葉を今更作ることは欺瞞である。
追加:素人ですので、思い違いや誤解が含まれる可能性があります。指摘くだされば助かります。最後の方は江崎氏の講演内容の書き写しにしか過ぎません。ただ、江崎氏は売国奴という言葉は使っていません。(同日10:30(UTC))
補足:
1)清水寺管主が筆書きすることで有名な2016年の漢字は「金」であった。また、2016年の流行語大賞は「神っている」であった。日本の一般民の昨年の理解は、この程度なのか。
2)次のように説明されている。an adjective defined as ‘relating to or denotingcircumstances in which objective facts are less influential in shaping publicopinion than appeals to emotion and personal belief’
3)民主政治という言葉は、必ずしも”民”が最大の利益を得るという制度を意味しない。民が代表を選んで議会を作ることや議会が定めるルールに責任を持つこと、及びそれらを維持する能力と責任を持つ制度である。つまり、変な工作を受けるのは、民がその責任を果たしていないだけであり、その民が不利益を受けることを理由に民主政治ではないということにはならない。
4)孟子には、「孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在」とある。”大人(たいじん)は言うことを必ずしも実行しない。またやっている事業を必ずしも貫徹しない。ただ、義のあるところに従ってなすことだけ”の意味。
5)これは、権威だけ持ち権力を持たない天皇を政治の中心に置くという、訳のわからない政治制度の欠点の一つだと思う。つまり、権力を少数の人間が握り続けることが天皇の権威をかりて可能となる。そこで必要なのは、下克上を抑えるだけであり、大人(たいじん)を育てる言葉は不要である。天皇を元首に規定する憲法の自民党草案では、その欠点を合法化するだろう。天皇に関する条項は、今上天皇が国民に向けた言葉で強調されたように、象徴と規定する現行憲法のままでよいと思う。
その言葉の由来だが、オックスフォード辞書を出版しているOxford Dictionariesが毎年、その年の言葉(Word of theyear)を選んでおり、2016年がそのpost-truthだった。特にpost-truth politics (ポストー真実の政治)という風に、政治を形容することを念頭に置いた形容詞である。(補足1)
オックスフォード辞書出版のHPを見ると、post-truthという言葉は、”客観的事実に基づくよりも、感情や個人的信条に訴える方法の方が世論を形成する上で有効であるという状況、或いはその様な状況に関するという意味の形容詞”と定義されている。(補足2)https://en.oxforddictionaries.com/word-of-the-year/word-of-the-year-2016
この単語自体は既にあった様だが、今年英国のEU離脱の決定やトランプ氏の次期米国大統領への当選などの際に、主なる出版物においてその言葉が説明なしで用いられるようになり、その出現回数がスパイク状に増加したという。
しかし、上記定義は何かおかしい。Post-truthには、真実(truth)の後に来るものは何も書かれていないので、当然、上記定義にある“感情や個人的信条”などの意味は無い。大衆の感情や個人的信条(例えばナショナリズム)に訴えて政治的力にする用語として、既にポピュリズムという言葉がある。何故、それを使わないのか?
つまり、Post-truth politicsという言い方には、欺瞞が含まれている。それは、これまでの政治は真実に基づいていたという嘘である。確かに、表舞台では民主政治という形式が取られていたが、それを犯す内外からのいろんな力が存在して、実際には影の力やメカニズムが政治を動かす大きな力となっていた。それに反感を持った民衆が民主政治の方法により大きく動かすようになった政治が昨年の世界的現象であり、それをpost-truth politicsというのは、米国の新聞などと同様、これまでの支配者とべったりだった出版社や新聞社による敗者の戯言なのだろう。(補足3)
§2。 嘘800並べる政治的プロパガンダが政治を動かし、その結果が歴史を作るという意味では、「ポスト真実」と言う言葉を用いて新しい現象のようにいうのは欺瞞である。そのような手法はむしろ古典的である。近代政治において諜報活動が大きな力を発揮して来たのであり、それらを意識することは現在の政治でも重要である。日本の戦後政治にとって非常に弱い分野であるが、中国や英国など大陸の諸国(の政治当局)はそれを研究し、実行していると思う。
以前書いたが、中国では昔から人間を階層分けして、士の身分と君子の身分では別々の考え方が必要だと教えており、「君子は言葉に縛られることはない」というのが常識だという。つまり、君子つまり政治を行う者は、時に嘘をつく(あるいは豹変する)のである。(補足4)一方、日本では人に仕えるものの教育だけに熱心であり、「嘘は泥棒の始まり」でしかない。(補足5)その結果、日中国交回復の際に、田中角栄が周恩来にさりげなく馬鹿にされても、それに報道機関も気づかないのである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42762695.html
主題からの飛躍が過ぎると言われそうだが、あえて書く。
たとえば、最近ネットでの議論で教えてもらった江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画では、情報を知らないのか工作を受けた結果なのか、その田中角栄時代の非常に貧弱な中国外交を指摘している。この一部は過去にすでに指摘した。”田中角栄は天才か小物か”:https://www.youtube.com/watch?v=RLG8vUu9lVg
中国の共産党政権が、大躍進運動の失敗による経済的苦境から立ち上がれない時に、日中国交回復と経済協力で、田中内閣は中国経済の立て直しに協力した。また、外務大臣の大平正芳の指令により、中国を刺激するような情報活動を禁止し、中国共産党の日本に対する工作を助けた。さらに、天安門事件で国際制裁を受けていた時に、加藤紘一内閣は天皇陛下の訪中とODAの再会で中国共産党政権を助けた。
なお、中国共産党はモスクワのコミンテルンの下にあり、その工作員の疑いのある人物が、池田勇人が作った宏池会の初代事務局長を勤め、その宏池会に上記加藤紘一、大平正芳、の他、河野洋平、宮沢喜一らという売国奴的人物が属するのである。また、中国がスパイ教育して日本に返した旧日本兵の団体である中国帰還者連絡会が、731事件や南京大虐殺などを、嘘を含めて大宣伝したのである。
上記講演において江崎氏は、これらの嘘を使った工作が日本側に大きな損害を生じさせていると指摘している。つまり政治は、嘘を如何に多く大きく宣伝するかの競争のようなものだったと言うのが常識であり、重ねて言うが、post-truth politicsとか言う言葉を今更作ることは欺瞞である。
追加:素人ですので、思い違いや誤解が含まれる可能性があります。指摘くだされば助かります。最後の方は江崎氏の講演内容の書き写しにしか過ぎません。ただ、江崎氏は売国奴という言葉は使っていません。(同日10:30(UTC))
補足:
1)清水寺管主が筆書きすることで有名な2016年の漢字は「金」であった。また、2016年の流行語大賞は「神っている」であった。日本の一般民の昨年の理解は、この程度なのか。
2)次のように説明されている。an adjective defined as ‘relating to or denotingcircumstances in which objective facts are less influential in shaping publicopinion than appeals to emotion and personal belief’
3)民主政治という言葉は、必ずしも”民”が最大の利益を得るという制度を意味しない。民が代表を選んで議会を作ることや議会が定めるルールに責任を持つこと、及びそれらを維持する能力と責任を持つ制度である。つまり、変な工作を受けるのは、民がその責任を果たしていないだけであり、その民が不利益を受けることを理由に民主政治ではないということにはならない。
4)孟子には、「孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在」とある。”大人(たいじん)は言うことを必ずしも実行しない。またやっている事業を必ずしも貫徹しない。ただ、義のあるところに従ってなすことだけ”の意味。
5)これは、権威だけ持ち権力を持たない天皇を政治の中心に置くという、訳のわからない政治制度の欠点の一つだと思う。つまり、権力を少数の人間が握り続けることが天皇の権威をかりて可能となる。そこで必要なのは、下克上を抑えるだけであり、大人(たいじん)を育てる言葉は不要である。天皇を元首に規定する憲法の自民党草案では、その欠点を合法化するだろう。天皇に関する条項は、今上天皇が国民に向けた言葉で強調されたように、象徴と規定する現行憲法のままでよいと思う。
2017年1月7日土曜日
日米韓中の関係を再考すべき:再燃した従軍慰安婦問題
§1.
韓国という国は近代国家ではない。法律も条約も分からない文化しか持たないのだから、西欧との条約の感覚で、何かを約束することは無意味である。一昨年の暮れの日韓慰安婦合意について「今回の米国の圧力による慰安婦問題の合意は禍根を残すだろう」と題して、それを指摘した。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42578379.html
今回の協定違反行為に対しては、韓国からは大使を引き上げるのは当然だが、日韓通貨スワップ交渉も取りやめにすべきだと思う。
一昨年末の慰安婦合意も、外務官僚の下準備を元に為された筈で有るが、米国と米国政府や韓国と韓国政府などについて全く理解しないで準備したのだろう。日本国にはインテリジェンス機関が無いのだから、外務官僚は関係国の深部に流れる考え(思想や文化)を踏まえて、政治家に確度の高い関係情報を上げなければならないと思う。しかし、そのような考えは今の外務官僚にはないのだろう。
それを裏付けるのが、今回の一年しか持たない慰安婦合意の結末であり、また安倍総理の怒りを買った米国大統領選の外務省予想である。いったい外務省は何をしているのだろうか?単なる学校秀才の集まりなのか?とにかく、外務省のシステムや官僚上がりの政治家に一定の枠を作らなければ、日本の政治はよくならないと思う。
§2.
従軍慰安婦問題に戻る。一昨年の年末にその合意はなされたが、それは米国オバマ大統領の脅しにより、安倍総理が渋々同意した結果に違いない。「慰安婦問題合意:汚い韓国と米国、そしてそれに盲従する外務省」 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42584053.html
そして、それを批判した記事を「米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か」と題して書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42587320.html もちろん、そのような証拠など入手できるわけがなく、安倍総理の従来の姿勢からはありえない合意であり、そう考えなければ説明がつかないという推測によるものである。(補足1) 繰り返しになるが、どうせ在米大使らは、赴任国当局の意見をオーム返しするだけで、(政治家の意を汲んで)米国への働きかけなどほとんどしなかったのだろうと思う。
後者の記事では、独自路線を歩む可能性が強い安倍政権が、長期政権になることが予想されるため、それを潰すことがオバマ大統領の日韓関係介入の目的ではないかと書いた。そう考えたのは、米国の潜在的敵国リストに日本が含まれていると考えているからである。それはマッカーサー統治時代や岸・佐藤内閣時代からわかっていたこと(補足2)である。
日本政治の忌まわしい点は、国民に何も明らかにしないことである。(補足3)それが、先進国を自称する日本国において、政治家と国民の間に厚い壁を温存するメカニズムである。重要なことを全て外交機密とするようでは、国民はいつまでも被支配者のままであり、国民の政治参加など期待できない。明治維新後、更に先の大戦敗戦後も薩長政治貴族が、日本を統治し続けられるメカニズムである。
その結果、政治貴族の家系以外から政治家に成り上がる唯一知的な人たちは、面白みのない国家公務員上がりの人物である。昔から両親が子供に公務員になってほしいと願う理由は、公務員は安定した職業だということである。子供も当然その考えの影響下にあり、平均すれば安定思考の人たちが国家公務員となる。それが、主流派をなす日本の外務官僚と外交官出身の政治家が、日本国よりも支配者の米国に忠誠心をもつ理由だと思う。
日本文化の中で育った、しかもその中で平均以上に安定思考を持った知的な人たちは、当然自分の地位や命を優先する(補足4)。その結果、敗戦後も日米同盟で表向きは緊密な関係を持ちながら、健全な日米関係が築けなかったのだと思うのである。(補足5)
以上の考えもあり、一昨年の日韓合意について総括したことを、「米国は何故、日韓に圧力をかけたのか?」としてまとめた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42600101.html その後、ピント外れのことを言った櫻井よしこさんの発言(補足6)についてもコメントした。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42609855.html テレビなどによく出る評論家を名乗る人でもこのレベルのことしか言えないことを思い出すべきである。
§3.
韓国とのまともな協定締結は、あの国がもう少し成長するまで待つべきである。また、米国のアジア政策の中心は、日本と中国の間に楔を打ち込むことであることを十分知るべきである。安倍総理はそのことはあまりわかっていないのではないだろうか。つまり、日本と米国は同盟国であるので、その関係を大事にするべく表では行動すべきである。しかし、ある時突然に敵国視されることも念頭に入れて(補足7)、中国との間には一定の余地を残した関係を築くべきである。その為、中国と日本の学者が共同して、米国と東アジアの関わりの歴史について研究し、その知識を共有すべきである。
補足:
1)人間関係でも国家間の関係でも、もっとも重要な決断は推測によりなされる。したがって、政治家や行政官の幹部には想像力が要求される。第二次大戦でも、各国が何を考えているかを全く読めなかった(想像できなかった)のが、日本が日米戦争を始め、致命的な敗戦に至った原因である。
2)中国が核実験に成功した時に、(米国の友好国となった)日本も核武装すべきだと考え、岸氏や佐藤総理が米国に行ったが、にべもなく断られたという。
3)論語の中の言葉「由らしむべし、知らしむべからず」が未だにこの国の政治に生きているのである。
4)それは日本国民一般の普通の姿である。何故なら、日本国民の本心には愛国心などないからである。昨年「保育園落ちた、日本死ね」が流行語大賞にノミネートされたことでもわかる。http://www.oricon.co.jp/news/2081601/full/ 長い歴史の中で、日本国民が一致団結した記憶など無いし、戦争は常に支配層の仕事であり、明治以降も人民一般はそれに巻き込まれる形で参加せざるをえなかったのである。愛国心などなかったことは、敗戦後日本人一般はマッカーサーを新しい支配者として歓迎したことを証明している。
5)太平洋戦争に巻き込まれたところから、日本は米国との外交戦に負けている。その延長上で考えるべきである。その外交敗戦を知るには、太平洋戦争の総括が必要だったのだが、安易に東京裁判を否定して、有罪になった人全ての名誉を回復した。その上で靖国神社に戦争指導者も一緒に合祀するという愚かなことの上塗りしたのだ。それは、戦争とそれに至る外交敗戦から学ぶチャンスを自ら捨て去ることになった。その結果、未だに明治時代から一貫して薩長政治が続いている。そのことを日本国民はもっと深刻に考えるべきである。
6)驚くべきことに、櫻井さんは日韓合意を外交的勝利と持ち上げた。https://www.youtube.com/watch?v=RJdHTrgybOg 7)トランプ政権の中でその米国を見るかもしれない。
韓国という国は近代国家ではない。法律も条約も分からない文化しか持たないのだから、西欧との条約の感覚で、何かを約束することは無意味である。一昨年の暮れの日韓慰安婦合意について「今回の米国の圧力による慰安婦問題の合意は禍根を残すだろう」と題して、それを指摘した。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42578379.html
今回の協定違反行為に対しては、韓国からは大使を引き上げるのは当然だが、日韓通貨スワップ交渉も取りやめにすべきだと思う。
一昨年末の慰安婦合意も、外務官僚の下準備を元に為された筈で有るが、米国と米国政府や韓国と韓国政府などについて全く理解しないで準備したのだろう。日本国にはインテリジェンス機関が無いのだから、外務官僚は関係国の深部に流れる考え(思想や文化)を踏まえて、政治家に確度の高い関係情報を上げなければならないと思う。しかし、そのような考えは今の外務官僚にはないのだろう。
それを裏付けるのが、今回の一年しか持たない慰安婦合意の結末であり、また安倍総理の怒りを買った米国大統領選の外務省予想である。いったい外務省は何をしているのだろうか?単なる学校秀才の集まりなのか?とにかく、外務省のシステムや官僚上がりの政治家に一定の枠を作らなければ、日本の政治はよくならないと思う。
§2.
従軍慰安婦問題に戻る。一昨年の年末にその合意はなされたが、それは米国オバマ大統領の脅しにより、安倍総理が渋々同意した結果に違いない。「慰安婦問題合意:汚い韓国と米国、そしてそれに盲従する外務省」 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42584053.html
そして、それを批判した記事を「米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か」と題して書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42587320.html もちろん、そのような証拠など入手できるわけがなく、安倍総理の従来の姿勢からはありえない合意であり、そう考えなければ説明がつかないという推測によるものである。(補足1) 繰り返しになるが、どうせ在米大使らは、赴任国当局の意見をオーム返しするだけで、(政治家の意を汲んで)米国への働きかけなどほとんどしなかったのだろうと思う。
後者の記事では、独自路線を歩む可能性が強い安倍政権が、長期政権になることが予想されるため、それを潰すことがオバマ大統領の日韓関係介入の目的ではないかと書いた。そう考えたのは、米国の潜在的敵国リストに日本が含まれていると考えているからである。それはマッカーサー統治時代や岸・佐藤内閣時代からわかっていたこと(補足2)である。
日本政治の忌まわしい点は、国民に何も明らかにしないことである。(補足3)それが、先進国を自称する日本国において、政治家と国民の間に厚い壁を温存するメカニズムである。重要なことを全て外交機密とするようでは、国民はいつまでも被支配者のままであり、国民の政治参加など期待できない。明治維新後、更に先の大戦敗戦後も薩長政治貴族が、日本を統治し続けられるメカニズムである。
その結果、政治貴族の家系以外から政治家に成り上がる唯一知的な人たちは、面白みのない国家公務員上がりの人物である。昔から両親が子供に公務員になってほしいと願う理由は、公務員は安定した職業だということである。子供も当然その考えの影響下にあり、平均すれば安定思考の人たちが国家公務員となる。それが、主流派をなす日本の外務官僚と外交官出身の政治家が、日本国よりも支配者の米国に忠誠心をもつ理由だと思う。
日本文化の中で育った、しかもその中で平均以上に安定思考を持った知的な人たちは、当然自分の地位や命を優先する(補足4)。その結果、敗戦後も日米同盟で表向きは緊密な関係を持ちながら、健全な日米関係が築けなかったのだと思うのである。(補足5)
以上の考えもあり、一昨年の日韓合意について総括したことを、「米国は何故、日韓に圧力をかけたのか?」としてまとめた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42600101.html その後、ピント外れのことを言った櫻井よしこさんの発言(補足6)についてもコメントした。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42609855.html テレビなどによく出る評論家を名乗る人でもこのレベルのことしか言えないことを思い出すべきである。
§3.
韓国とのまともな協定締結は、あの国がもう少し成長するまで待つべきである。また、米国のアジア政策の中心は、日本と中国の間に楔を打ち込むことであることを十分知るべきである。安倍総理はそのことはあまりわかっていないのではないだろうか。つまり、日本と米国は同盟国であるので、その関係を大事にするべく表では行動すべきである。しかし、ある時突然に敵国視されることも念頭に入れて(補足7)、中国との間には一定の余地を残した関係を築くべきである。その為、中国と日本の学者が共同して、米国と東アジアの関わりの歴史について研究し、その知識を共有すべきである。
補足:
1)人間関係でも国家間の関係でも、もっとも重要な決断は推測によりなされる。したがって、政治家や行政官の幹部には想像力が要求される。第二次大戦でも、各国が何を考えているかを全く読めなかった(想像できなかった)のが、日本が日米戦争を始め、致命的な敗戦に至った原因である。
2)中国が核実験に成功した時に、(米国の友好国となった)日本も核武装すべきだと考え、岸氏や佐藤総理が米国に行ったが、にべもなく断られたという。
3)論語の中の言葉「由らしむべし、知らしむべからず」が未だにこの国の政治に生きているのである。
4)それは日本国民一般の普通の姿である。何故なら、日本国民の本心には愛国心などないからである。昨年「保育園落ちた、日本死ね」が流行語大賞にノミネートされたことでもわかる。http://www.oricon.co.jp/news/2081601/full/ 長い歴史の中で、日本国民が一致団結した記憶など無いし、戦争は常に支配層の仕事であり、明治以降も人民一般はそれに巻き込まれる形で参加せざるをえなかったのである。愛国心などなかったことは、敗戦後日本人一般はマッカーサーを新しい支配者として歓迎したことを証明している。
5)太平洋戦争に巻き込まれたところから、日本は米国との外交戦に負けている。その延長上で考えるべきである。その外交敗戦を知るには、太平洋戦争の総括が必要だったのだが、安易に東京裁判を否定して、有罪になった人全ての名誉を回復した。その上で靖国神社に戦争指導者も一緒に合祀するという愚かなことの上塗りしたのだ。それは、戦争とそれに至る外交敗戦から学ぶチャンスを自ら捨て去ることになった。その結果、未だに明治時代から一貫して薩長政治が続いている。そのことを日本国民はもっと深刻に考えるべきである。
6)驚くべきことに、櫻井さんは日韓合意を外交的勝利と持ち上げた。https://www.youtube.com/watch?v=RJdHTrgybOg 7)トランプ政権の中でその米国を見るかもしれない。
2017年1月6日金曜日
これ以上の医療の進歩は人類に有害だと言う見方もある
1)医療の発展は、昔ならとっくに死亡している人をも救うことになる。それは人類にとって福音のように思えるが、何事も良いことばかりではない。生物が現在まで生き残ったのは、環境などの生存条件の変化に適者生存と進化で対応してきたからであるが、その適者生存の原則を医学の進歩が崩す可能性が大きい。
戦闘で人類を死滅させる可能性が高いのが核兵器なら、種の劣化で人類を死滅させるかもしれないのが、医療の発展であると思う。人類も他の動物同様、疫病を始め様々な障害を乗り越えて生き残ってきた。現在の繁栄を見ると、人類が絶滅危惧種になることはあり得ないと思う人がほとんどだろうが、本当にそうだろうか。
快適な人工的環境や平和な世界は、今生きる人にとっては有難いことだが、未来の生命にとっては脅威である可能性もある。人権や人命などにほとんど無限の価値を置く現代の日本では、現在生きる人の医療を最優先する。高度な生命のメカニズムに介入する形での治療(補足1)、他人の臓器を移植する治療、自分の細胞を増殖させたり変形させたりして治療に利用すること(iPS技術など)などは、大きく遺伝子の劣化をまねく可能性がある。
現在生きる人間の一人として、命は大切なので抗生物質などの薬物治療や免疫を植え付ける予防医療などの一定の範囲にある治療には賛成だが(補足2)、上記のような遺伝子を変更する治療、他人の臓器を移植する治療、正常な細胞の機能を止めてしまう類の治療には、全面賛成はできない。その理由は、一つにはそれらは種の劣化を招く可能性が高いと思うことであり、そして、そこまでして個体が生き残るようには身体も社会も出来ていないと思うからである。
換言すれば、個体(個人)は死ぬことが必然であり、且つ、適当に死ぬべきなのである。
2)ガンの特効薬として注目されている薬にオプジーボがある。日本の小野薬品工業が生産している薬であり、その薬価が非常に高いことで話題になった。がん細胞は増殖するために、Tセルから攻撃を受けないようにTセルの免疫機能抑制機構を利用する。オプジーボは、ガン細胞によるこのTセルへの働きかけを阻害する。このTセルの免疫機能抑制機構は、自己免疫を起こさないように生体が持つ正常な機能である。(補足3) http://www.gan-info.jp/dendritic/newspickup/article05/
このTセルを発奮状態に保つ抗がん剤は、1人の患者に一年間投与するだけで3500万円も製薬会社に支払わねばならなかった。その薬価が半分に抑えられることになったことが、大々的に報道された。 http://www.nikkei.com/article/DGXMZO08036870V01C16A0X11000/
もし神がおられたのなら、上でも言ったように、そこまでして生きるのは不遜であると仰せになるだろう。つまり、それは必然的に将来の世代にツケを廻す行為なのである。一つには、種の劣化であり、もう一つは財政の悪化である。
2,3日前の読売新聞24面に、オプジーボにより肺がんから救われつつある人の話が掲載されていた。それはその人とその周辺にとっては非常に喜ばしいことである。苦しい時にオプジーボが現れ、保険適用になってほとんどが国庫の支払いとなり、使用することで命拾いした。その特定のケースに関しては、非常に良かったと思う。
しかし、目を全国や全世界に転じ、且つ思考を将来にまで広げれば、個別の幸せは必ずしも全体の幸せとはならない。 人は生きる上で多くの苦しみや悩みを持つ。それは、運命として諦めざるを得ないと考えて、命を落とすことに繋がる人も多いだろう。しかし、過去からそれまで一定の時間範囲で考えれば、それらのうちのほとんどの理由は結局経済的なものに還元されると思う。つまり、制度が整っておれば、国庫はそれらの命を救えただろう。
従って、政治をできるだけ平等なものにしていく段階で、有限な国の資金という束縛条件でもとまる解には、費用対効果の比率に上限を決め、一定以上の治療は自由診療にするなどのルール化が持ち込まれる筈である。
3)その結果、金持ちだけが命が助かる時代が来るだろう。現在でも多くの若壮年の死は、直接的間接的に経済的理由での自死が大部分だろう。日本国は基本的には豊かな国であり、その財がもう少し平等に分配されたのなら、このような多くの人の命が助かったであろう。しかし、現実には金持ちだけが幸福と命を手にすることができる。
その矛盾に気付けば、知識あるものは政治に積極的に参加し、少しずつでも社会の制度の変更を試みるべきである。政治の暗闇とか、なんとかのドンとか言って、週刊誌で自虐的に政治の腐敗を楽しむのは、そして、そのような記事を書いて収入を得るのは、知の堕落である。
補足:
1)正常細胞やガン細胞などの一部機能をブロックするなど、高度な生命科学に根ざした薬剤や方法による治療などを指す。
2)「抗生物質を用いなければ生き残れない人を多く子孫に残すことになるから、あなたの以下の議論はおかしい」という意見が聞こえてきそうな気がする。しかし、細菌やウイルスとの戦いは人類という種全体の問題である。それは、西洋人が乗り込んだアメリカ大陸で証明されている。インカなど原住民のほとんどは戦闘ではなく、西洋人が持ち込んだ伝染病で死滅したのである。(cf:「銃、病原菌、鉄」という本)
3)擬人的表現を用いれば、異物の侵入に怒って攻撃機能が亢進すると、味方にも攻撃して自己免疫疾患の症状を起こす。ガン細胞が大きくなるのは、その免疫機能の亢進を抑える様にTセルに働きかけるのだという。つまり、ガン細胞は便衣兵やスパイのように警察(Tセル)や公安に睨まれないようにして、いつのまにか国を滅ぼすのである。つまり、オプシーボはとにかく怪しい奴は皆退治するように仕向けるのだ。
戦闘で人類を死滅させる可能性が高いのが核兵器なら、種の劣化で人類を死滅させるかもしれないのが、医療の発展であると思う。人類も他の動物同様、疫病を始め様々な障害を乗り越えて生き残ってきた。現在の繁栄を見ると、人類が絶滅危惧種になることはあり得ないと思う人がほとんどだろうが、本当にそうだろうか。
快適な人工的環境や平和な世界は、今生きる人にとっては有難いことだが、未来の生命にとっては脅威である可能性もある。人権や人命などにほとんど無限の価値を置く現代の日本では、現在生きる人の医療を最優先する。高度な生命のメカニズムに介入する形での治療(補足1)、他人の臓器を移植する治療、自分の細胞を増殖させたり変形させたりして治療に利用すること(iPS技術など)などは、大きく遺伝子の劣化をまねく可能性がある。
現在生きる人間の一人として、命は大切なので抗生物質などの薬物治療や免疫を植え付ける予防医療などの一定の範囲にある治療には賛成だが(補足2)、上記のような遺伝子を変更する治療、他人の臓器を移植する治療、正常な細胞の機能を止めてしまう類の治療には、全面賛成はできない。その理由は、一つにはそれらは種の劣化を招く可能性が高いと思うことであり、そして、そこまでして個体が生き残るようには身体も社会も出来ていないと思うからである。
換言すれば、個体(個人)は死ぬことが必然であり、且つ、適当に死ぬべきなのである。
2)ガンの特効薬として注目されている薬にオプジーボがある。日本の小野薬品工業が生産している薬であり、その薬価が非常に高いことで話題になった。がん細胞は増殖するために、Tセルから攻撃を受けないようにTセルの免疫機能抑制機構を利用する。オプジーボは、ガン細胞によるこのTセルへの働きかけを阻害する。このTセルの免疫機能抑制機構は、自己免疫を起こさないように生体が持つ正常な機能である。(補足3) http://www.gan-info.jp/dendritic/newspickup/article05/
このTセルを発奮状態に保つ抗がん剤は、1人の患者に一年間投与するだけで3500万円も製薬会社に支払わねばならなかった。その薬価が半分に抑えられることになったことが、大々的に報道された。 http://www.nikkei.com/article/DGXMZO08036870V01C16A0X11000/
もし神がおられたのなら、上でも言ったように、そこまでして生きるのは不遜であると仰せになるだろう。つまり、それは必然的に将来の世代にツケを廻す行為なのである。一つには、種の劣化であり、もう一つは財政の悪化である。
2,3日前の読売新聞24面に、オプジーボにより肺がんから救われつつある人の話が掲載されていた。それはその人とその周辺にとっては非常に喜ばしいことである。苦しい時にオプジーボが現れ、保険適用になってほとんどが国庫の支払いとなり、使用することで命拾いした。その特定のケースに関しては、非常に良かったと思う。
しかし、目を全国や全世界に転じ、且つ思考を将来にまで広げれば、個別の幸せは必ずしも全体の幸せとはならない。 人は生きる上で多くの苦しみや悩みを持つ。それは、運命として諦めざるを得ないと考えて、命を落とすことに繋がる人も多いだろう。しかし、過去からそれまで一定の時間範囲で考えれば、それらのうちのほとんどの理由は結局経済的なものに還元されると思う。つまり、制度が整っておれば、国庫はそれらの命を救えただろう。
従って、政治をできるだけ平等なものにしていく段階で、有限な国の資金という束縛条件でもとまる解には、費用対効果の比率に上限を決め、一定以上の治療は自由診療にするなどのルール化が持ち込まれる筈である。
3)その結果、金持ちだけが命が助かる時代が来るだろう。現在でも多くの若壮年の死は、直接的間接的に経済的理由での自死が大部分だろう。日本国は基本的には豊かな国であり、その財がもう少し平等に分配されたのなら、このような多くの人の命が助かったであろう。しかし、現実には金持ちだけが幸福と命を手にすることができる。
その矛盾に気付けば、知識あるものは政治に積極的に参加し、少しずつでも社会の制度の変更を試みるべきである。政治の暗闇とか、なんとかのドンとか言って、週刊誌で自虐的に政治の腐敗を楽しむのは、そして、そのような記事を書いて収入を得るのは、知の堕落である。
補足:
1)正常細胞やガン細胞などの一部機能をブロックするなど、高度な生命科学に根ざした薬剤や方法による治療などを指す。
2)「抗生物質を用いなければ生き残れない人を多く子孫に残すことになるから、あなたの以下の議論はおかしい」という意見が聞こえてきそうな気がする。しかし、細菌やウイルスとの戦いは人類という種全体の問題である。それは、西洋人が乗り込んだアメリカ大陸で証明されている。インカなど原住民のほとんどは戦闘ではなく、西洋人が持ち込んだ伝染病で死滅したのである。(cf:「銃、病原菌、鉄」という本)
3)擬人的表現を用いれば、異物の侵入に怒って攻撃機能が亢進すると、味方にも攻撃して自己免疫疾患の症状を起こす。ガン細胞が大きくなるのは、その免疫機能の亢進を抑える様にTセルに働きかけるのだという。つまり、ガン細胞は便衣兵やスパイのように警察(Tセル)や公安に睨まれないようにして、いつのまにか国を滅ぼすのである。つまり、オプシーボはとにかく怪しい奴は皆退治するように仕向けるのだ。
2017年1月5日木曜日
日本国憲法自民党草案:非常に出来の悪い前文
1)前文において、憲法を新たに制定する動機と日本の将来目指す方向を高く掲げるべきだと思うが、そのようなものは無い。人々の心に迫るものなど、全くない。その第一の原因は、憲法を制定する主体がわかりにくいことである。
前文最後の文章に、「日本国民は、 。。。。この憲法を制定する。」と書かれているが、「日本国民は」は三人称のような感じであり、「我々は」と主語を一人称で書くべきである。その迷いの原因は、天皇を国家元首とするという第1章にある。天皇を元首とするのなら、大日本帝国憲法の様に、天皇が主語になるべきである。しかし後者の選択は時代遅れであり、日本人のほとんどはそれを支持しないだろう。今上天皇ご自身も支持されないだろう。
とにかく、こんな憲法なら改訂には反対である。
2)以後、5つの夫々の文章について考える。
1。日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
この文章は「日本国は」に始まり、「統治される」と受け身になっている。日本国の定義が国民の意思とは無関係にされている。なぜ、三権分立という西欧の制度を採るのか、天皇を戴く意味がどこにあるのか、わからない。「国民の意思統合が強く望まれ、再度我々が天皇を戴くと決意して、新たに憲法を制定する」のなら、国民多数の賛意を得られないだろうがそう書くべきである。
2。我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
先の戦争が終わって久しい。その反省や再出発を視野に入れて憲法を制定するのは、すでに昭和憲法がその役割を果たしている。21世紀の新しい時代を視野に入れて、憲法を制定する動機を明確に述べるべきだと思う。幾多の大災害とは何を意味しているのか不明である。
本来、日本社会の安寧と国民の幸せが第一に来るべきところ、この草案前文では世界の平和と繁栄に貢献することが最初に出て来る。憲法制定の意思も目的も迷走している感じだ。
3。日本国民は、国の郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
「日本国民は」という書き出しは、日本国民の定義だと読める。日本国民を説明しているだけで、意思を表明する文章では無い。和を尊ぶのは人間関係においてなのか、国家間のことなのかわからない。基本的人権と和を尊ぶことが矛盾した場合、どちらを取るのか?つまり、「和を尊ぶ」というのは、真実や規則を無視して多勢や上位の者に屈服することを勧めるのか?
4。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
自由と規律は相反する概念であるのに、何故同列に重んじるのかわからない。教育や科学技術の振興というが、教育の振興とはどういう意味か?科学技術だけが何故振興の対象になるのか解らない。エコノミックアニマルを目指すということか?
5。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末長く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
主語については既に議論した。よき伝統とはどういう伝統なのか? 「良いものを継承する、悪いものは廃棄する」なんて、いうまでもない。
とにかく、レベルの低い前文であり、書いた人の知性を疑う。
前文最後の文章に、「日本国民は、 。。。。この憲法を制定する。」と書かれているが、「日本国民は」は三人称のような感じであり、「我々は」と主語を一人称で書くべきである。その迷いの原因は、天皇を国家元首とするという第1章にある。天皇を元首とするのなら、大日本帝国憲法の様に、天皇が主語になるべきである。しかし後者の選択は時代遅れであり、日本人のほとんどはそれを支持しないだろう。今上天皇ご自身も支持されないだろう。
とにかく、こんな憲法なら改訂には反対である。
2)以後、5つの夫々の文章について考える。
1。日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
この文章は「日本国は」に始まり、「統治される」と受け身になっている。日本国の定義が国民の意思とは無関係にされている。なぜ、三権分立という西欧の制度を採るのか、天皇を戴く意味がどこにあるのか、わからない。「国民の意思統合が強く望まれ、再度我々が天皇を戴くと決意して、新たに憲法を制定する」のなら、国民多数の賛意を得られないだろうがそう書くべきである。
2。我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
先の戦争が終わって久しい。その反省や再出発を視野に入れて憲法を制定するのは、すでに昭和憲法がその役割を果たしている。21世紀の新しい時代を視野に入れて、憲法を制定する動機を明確に述べるべきだと思う。幾多の大災害とは何を意味しているのか不明である。
本来、日本社会の安寧と国民の幸せが第一に来るべきところ、この草案前文では世界の平和と繁栄に貢献することが最初に出て来る。憲法制定の意思も目的も迷走している感じだ。
3。日本国民は、国の郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
「日本国民は」という書き出しは、日本国民の定義だと読める。日本国民を説明しているだけで、意思を表明する文章では無い。和を尊ぶのは人間関係においてなのか、国家間のことなのかわからない。基本的人権と和を尊ぶことが矛盾した場合、どちらを取るのか?つまり、「和を尊ぶ」というのは、真実や規則を無視して多勢や上位の者に屈服することを勧めるのか?
4。我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
自由と規律は相反する概念であるのに、何故同列に重んじるのかわからない。教育や科学技術の振興というが、教育の振興とはどういう意味か?科学技術だけが何故振興の対象になるのか解らない。エコノミックアニマルを目指すということか?
5。日本国民は、良き伝統と我々の国家を末長く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
主語については既に議論した。よき伝統とはどういう伝統なのか? 「良いものを継承する、悪いものは廃棄する」なんて、いうまでもない。
とにかく、レベルの低い前文であり、書いた人の知性を疑う。
2017年1月4日水曜日
思想家としての発言と政治家としての行動
ある番組での西尾幹二さんの水島水島総さんによる、世界政治の今後についての議論をきく。https://www.youtube.com/watch?v=br5Ilbcx_9A
そこでは、世界の警戒すべき動きについて、西尾さんは歴史に対する深い理解の下に話をされている。西尾さんの思想家としての考えは、今後も勉強の対象としたい。しかし、政治家と思想家とでは立場が違うという前提を明確にしないで話されては、我々は迷ってしまう。
本当のことでも命を賭けてまで主張することはできない。あることに関して、思想家は真実を主張すべきだと言い、政治家は国民の生命と安全を第一に考えて真実に目を瞑るとき、思想家に政治家を非難する資格はない。それぞれの専門の立場から意見を言っているだけでは、思想家の高遠な内容は、我々国民にとって一定の参考になるが警戒しなければならない対象となる。
西尾さんは、安倍総理による終戦(本当は敗戦)70年談話が東京裁判史観を受け入れているとして批判する。しかし西尾さんに言いたい。もし、あなたが政治家だとして、東京裁判史観を否定し歴史修正主義者という批判を受けてもなお、日本を守ることができるのか。東京裁判史観を日本は受け入れて、講話条約が結ばれている。その時計の針を元に戻すことなどできない。
政治家としての安倍総理の立場を理解した上で総合的に評価をしなければ、思想家のたわごとにしかならない。米国の反応、中国の反応、世界の反応、全てを考え、日本の将来を予測した上で、批判しなければならない。
思想に根ざした政治が出来ればベストだが、我々国民にとって一番大事なのは我々の命と安全を守る政治であり、真実を主張する思想ではない。
本当のことでも命を賭けてまで主張することはできない。あることに関して、思想家は真実を主張すべきだと言い、政治家は国民の生命と安全を第一に考えて真実に目を瞑るとき、思想家に政治家を非難する資格はない。それぞれの専門の立場から意見を言っているだけでは、思想家の高遠な内容は、我々国民にとって一定の参考になるが警戒しなければならない対象となる。
西尾さんは、安倍総理による終戦(本当は敗戦)70年談話が東京裁判史観を受け入れているとして批判する。しかし西尾さんに言いたい。もし、あなたが政治家だとして、東京裁判史観を否定し歴史修正主義者という批判を受けてもなお、日本を守ることができるのか。東京裁判史観を日本は受け入れて、講話条約が結ばれている。その時計の針を元に戻すことなどできない。
政治家としての安倍総理の立場を理解した上で総合的に評価をしなければ、思想家のたわごとにしかならない。米国の反応、中国の反応、世界の反応、全てを考え、日本の将来を予測した上で、批判しなければならない。
思想に根ざした政治が出来ればベストだが、我々国民にとって一番大事なのは我々の命と安全を守る政治であり、真実を主張する思想ではない。
2017年1月3日火曜日
日本国憲法自民党草案における天皇の地位についての曖昧性
自民党憲法草案
第1章:天皇
第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基つく。
第二条 皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2。日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。
第四条 元号(省略)
第五条 天皇は、この憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する機能を有しない。
以上について、私の意見を以下に述べる。
第一条の記述は矛盾している。天皇が元首であるとしながら、「主権の存在する日本国民の総意に基づく」と書かれている。主権が国民に存在するのなら、「天皇は国民統合の象徴である」と言えても、元首とは言えないのではないか。また、天皇は日本国の元首である(第一条)と書きながら、天皇は国政に関する機能を有しない(第五条)と定めている。これもおかしい。元首とは、国際法上国家を代表する地位である。国政に関する機能を有しない(5条)人が、国際法上どうして国家を代表できるのか?
日本国憲法を改正するのなら、言語的矛盾は一掃されなければならないと思う。今上天皇は、昨年の国民に向けてなされた譲位に関する談話に於いて、象徴としての役割を強調された。私も天皇の地位に関しては、象徴と規定する現行憲法を支持する。その上で、その地位に矛盾しないように天皇の国事行為を簡潔にし、天皇を日本人の精神的柱とすることだけにした方が良いと思う。
言語を論理的に使用し、国家の形を明確に規定する憲法でなくてはならない。改訂憲法の第九条に於いては、明確に自衛軍の保持を規定すべきであるが、同時にそれを明確に国民の下におくことが大事である。国家元首が天皇では、上記理由により憲法全体に論理矛盾が内在する上に、自衛軍の運用における誤解や政権の拡大解釈を許すことになりかねない。つまり、皇軍と靖国神社の関係を復活させる印象を国内外に与える可能性がある。
現在の自衛隊は、明らかに憲法9条がその保持を禁じた軍隊である。言語的に曖昧な憲法は、再び言語を無視した解釈改憲の危険性を持つと思う。
第1章:天皇
第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基つく。
第二条 皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2。日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。
第四条 元号(省略)
第五条 天皇は、この憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する機能を有しない。
以上について、私の意見を以下に述べる。
第一条の記述は矛盾している。天皇が元首であるとしながら、「主権の存在する日本国民の総意に基づく」と書かれている。主権が国民に存在するのなら、「天皇は国民統合の象徴である」と言えても、元首とは言えないのではないか。また、天皇は日本国の元首である(第一条)と書きながら、天皇は国政に関する機能を有しない(第五条)と定めている。これもおかしい。元首とは、国際法上国家を代表する地位である。国政に関する機能を有しない(5条)人が、国際法上どうして国家を代表できるのか?
日本国憲法を改正するのなら、言語的矛盾は一掃されなければならないと思う。今上天皇は、昨年の国民に向けてなされた譲位に関する談話に於いて、象徴としての役割を強調された。私も天皇の地位に関しては、象徴と規定する現行憲法を支持する。その上で、その地位に矛盾しないように天皇の国事行為を簡潔にし、天皇を日本人の精神的柱とすることだけにした方が良いと思う。
言語を論理的に使用し、国家の形を明確に規定する憲法でなくてはならない。改訂憲法の第九条に於いては、明確に自衛軍の保持を規定すべきであるが、同時にそれを明確に国民の下におくことが大事である。国家元首が天皇では、上記理由により憲法全体に論理矛盾が内在する上に、自衛軍の運用における誤解や政権の拡大解釈を許すことになりかねない。つまり、皇軍と靖国神社の関係を復活させる印象を国内外に与える可能性がある。
現在の自衛隊は、明らかに憲法9条がその保持を禁じた軍隊である。言語的に曖昧な憲法は、再び言語を無視した解釈改憲の危険性を持つと思う。
マイケル・サンデル氏のトランプ氏批判は時期尚早である
マイケル・サンデル氏のトランプ批判は間違っていると思う
読売新聞第1面と6面に、政治哲学者マイケル・サンデル氏による、行きすぎたグローバル市場経済に対する、今後の政治の役割についての議論が掲載されている。そして、次期米国トランプ大統領の米国第一の政策はショック療法的な効果はあるが、成功するとは思えないと結論している。(補足1)
サンデル氏の議論の特徴は、市場経済と市場社会を分けて考える点である。サンデル氏の考えを要約すれば、「市場経済は生産活動を系統立てる有効な手段である。しかし、なんでも市場での価値に還元してしまう市場社会は、国家の介入により変更を加える必要がある。そのために、国家の機能を増大して(補足2)、家族、地域社会、そして国家への帰属意識の回復とそれによる安心感を人々の心に創出する。その上、国家間の協力で行き過ぎた資本主義を是正し、グローバル経済の恩恵を万民に及ぼす工夫をすべきである。」となると思う。
市場経済と市場社会を分けて考えるということにどういう意味があるのか?市場経済と市場社会は従属関係にあるので、市場経済を守りながら市場社会を排斥することは、政治の経済への強い関与、市場経済の部分的制限を意味している筈である。それはトランプ氏の、アメリカンファーストの別表現にすぎないのでは無いのか?
私は、サンデル氏の社会改革の考えは、綺麗な言葉を用いているが、結局トランプ氏の”方向”と大して変わらないと思う。ただ、トランプ氏はその出発点で庶民の怒りと恨みを吸い上げて統合し、庶民の地域的な連帯のエネルギーとし、それを最終的に国家の連帯にまで高めようとしていると言えると思う。
サンデル氏は民主主義には正義(補足3)が大切だという。しかし、現在ポピュリズムが世界を覆う背景には、正義が大切にされなかった長期の過去の政治が存在する。ポピュリズムを批判する前に、ポピュリズムに至った、これまでの不正義に満ちた“民主主義”を非難すべきである。
ポピュリズムの時代になれば、大衆の意見を最大限吸い上げることをスタートとし、信頼されるリーダーになり、これまでの支配層の正義に反する部分と、支配層となった大衆の正義に反する要求を相殺する形で、まともな民主社会に誘導するしか能率的方法はないと思う。それを実行するのが、望まれるリーダーの姿である。
サンデル氏はトランプ氏の手法について、「トランプ氏は人々の怒りと恨みを理解したが、人々の連帯感を生み出し、資本主義の果実が皆に行きわたる様な社会が今必要なことを理解していない」と切り捨てている。
しかし、政策の詳細を見ていない現時点では、人々の怒りと恨みを集めて政治的力とし、行きすぎたグローバル経済、行きすぎた市場経済にブレーキを駆けようとするトランプ氏の政策を非難する根拠も権利も無い筈である。政治手法の過激さに惑わされて、何か勘違いされているとしか思えない。
補足:
1)「トランプ氏は、極端なナショナリズムを掲げて、移民を敵視し国内の不法移民1100万人の追放やメキシコ国境に壁を築くと発言している。」を引用して、トランプ氏の異常さを印象つけている。しかし、不法移民を追放することは合法だし、メキシコ国境に壁を築くというのは、不法移民の流入を防ぐ壁であり、中国の万里の長城の様なものを築くわけでは無いだろう。
2)サンデル氏は、「国家が公共財を増大させる」と表現している。
3)正義とは何か?正義とは、国民が全体として正当な利益をえることだと思う。国家が異なれば正義を実現する具体的政策は大きく異なる可能性がある。米国の「正義」は、歴史的発展段階や政治的背景のことなる国家にはそのまま当てはまらない。米国の勝手な定義と具体的手段を含めて世界にばらまかれた“正義”は、実は当該国にとって不正義であったことも多いと思う。
サンデル氏の議論の特徴は、市場経済と市場社会を分けて考える点である。サンデル氏の考えを要約すれば、「市場経済は生産活動を系統立てる有効な手段である。しかし、なんでも市場での価値に還元してしまう市場社会は、国家の介入により変更を加える必要がある。そのために、国家の機能を増大して(補足2)、家族、地域社会、そして国家への帰属意識の回復とそれによる安心感を人々の心に創出する。その上、国家間の協力で行き過ぎた資本主義を是正し、グローバル経済の恩恵を万民に及ぼす工夫をすべきである。」となると思う。
市場経済と市場社会を分けて考えるということにどういう意味があるのか?市場経済と市場社会は従属関係にあるので、市場経済を守りながら市場社会を排斥することは、政治の経済への強い関与、市場経済の部分的制限を意味している筈である。それはトランプ氏の、アメリカンファーストの別表現にすぎないのでは無いのか?
私は、サンデル氏の社会改革の考えは、綺麗な言葉を用いているが、結局トランプ氏の”方向”と大して変わらないと思う。ただ、トランプ氏はその出発点で庶民の怒りと恨みを吸い上げて統合し、庶民の地域的な連帯のエネルギーとし、それを最終的に国家の連帯にまで高めようとしていると言えると思う。
サンデル氏は民主主義には正義(補足3)が大切だという。しかし、現在ポピュリズムが世界を覆う背景には、正義が大切にされなかった長期の過去の政治が存在する。ポピュリズムを批判する前に、ポピュリズムに至った、これまでの不正義に満ちた“民主主義”を非難すべきである。
ポピュリズムの時代になれば、大衆の意見を最大限吸い上げることをスタートとし、信頼されるリーダーになり、これまでの支配層の正義に反する部分と、支配層となった大衆の正義に反する要求を相殺する形で、まともな民主社会に誘導するしか能率的方法はないと思う。それを実行するのが、望まれるリーダーの姿である。
サンデル氏はトランプ氏の手法について、「トランプ氏は人々の怒りと恨みを理解したが、人々の連帯感を生み出し、資本主義の果実が皆に行きわたる様な社会が今必要なことを理解していない」と切り捨てている。
しかし、政策の詳細を見ていない現時点では、人々の怒りと恨みを集めて政治的力とし、行きすぎたグローバル経済、行きすぎた市場経済にブレーキを駆けようとするトランプ氏の政策を非難する根拠も権利も無い筈である。政治手法の過激さに惑わされて、何か勘違いされているとしか思えない。
補足:
1)「トランプ氏は、極端なナショナリズムを掲げて、移民を敵視し国内の不法移民1100万人の追放やメキシコ国境に壁を築くと発言している。」を引用して、トランプ氏の異常さを印象つけている。しかし、不法移民を追放することは合法だし、メキシコ国境に壁を築くというのは、不法移民の流入を防ぐ壁であり、中国の万里の長城の様なものを築くわけでは無いだろう。
2)サンデル氏は、「国家が公共財を増大させる」と表現している。
3)正義とは何か?正義とは、国民が全体として正当な利益をえることだと思う。国家が異なれば正義を実現する具体的政策は大きく異なる可能性がある。米国の「正義」は、歴史的発展段階や政治的背景のことなる国家にはそのまま当てはまらない。米国の勝手な定義と具体的手段を含めて世界にばらまかれた“正義”は、実は当該国にとって不正義であったことも多いと思う。