2017年5月24日水曜日

善と悪への分類は人により情況により変わる

先の文章の意味が支離滅裂だと仰る方がいたので、敢えて再度アブストラクトを書きます。

何が善で何が悪か、それは分類する人の都合による。つまり、その人が推奨したいのが善であり、撲滅したいのが悪である。それが全く解っていないが如く外交を展開している国が、現在世界を牛耳っている米国である。解っていないふりをしているのか、解っていないのかわからない。マッドマンの理論とビッグスティックの外交は彼らの得意技だからだ。自分たちの善悪の分類を守りたいだけかもしれない。

生物が有限の空間で生きるとき、必然として争いが生じる。AとBが争う場合、BはAにとって悪であり、AはBにとって悪である。Aの内部ではBを殲滅することが善として語られる。AとBを含む大きな視野を持つものがあったとしたら、その善と悪の分類には意味がない。つまり善悪は相対的なものである。

善は味方が団結するために味方のメンバーとその行為につけるマークであり、悪は敵を殲滅するために敵と敵の行為につけるマークにすぎない。

人類普遍の善と悪の定義が可能だと考える傲慢な連中がいる。最近良く聞く「テロは人類の敵だ」という台詞に傲慢さを感じないとしたら、それはその傲慢さによるか、知性が無いかのどちらかである。その台詞の中の「テロ」とは敵による攻撃であり、「人類」とはテロという言葉を発する自分たちとその味方のことにすぎない。

第二次大戦での民間人への残虐行為が、双方の国の軍により行われた。講和が成立した後も尚、敗戦国とその国民に対して人道に反する罪を犯した者の国とその子孫として侮辱する人がいる。善と悪が状況により相手によりことなることが解っていない身勝手な人たちと、彼らがつくる国家(政府)である。

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