2019年2月22日金曜日

天皇家と国家神道について

以下の文章は、断定的に書いた部分を含めて筆者の理解を記したものであり、学説として定着している保証はありません。尚、11日の記事と重複するところがかなりあります。

1)明治維新における天皇の利用:

日本は島国であり、江戸時代以前には交通手段の制限により、外国は遠かった。そのため、人々の感覚では日本列島は国というよりも天下そのものだった。しかし、幕末期(19世紀)に外国の存在感が増し、防衛上の必要から主権国家としての体裁を整える必要性を強く感じ、薩長の武士たちがリーダーとなり日本国の骨組みを作り上げた。

諸外国から独立を守るには、近代的な軍事システムが必要であり、それには武士の存在はむしろ障害になった。そして、国民全員が主権国家体制の一員となることが必要だった。(補足1)その為の求心力として、新政府は天皇を利用した。(補足2)

明治23年(1890)に大日本帝国憲法が制定され、天皇の政治関与を制限した立憲君主制に近い政体が作り上げられた。帝国憲法第55条の輔弼制度の制定などが、天皇独裁の歯止めである。その一方、天皇に軍神且つ戦死者の慰霊の役割を持たせることで、兵士の士気を高める工夫をした。帝国憲法第1条で、天皇を最高権力者と規定すること、そして、第11条の統帥権の独立などである。そして、具体的且つ中心的な手段、戦死者の慰霊のための靖国神社は、明治2年(1869)に創建された。

靖国神社とその利用形態は、後に国家神道と呼ばれた。元々伊勢神宮は天皇が国家鎮護などの祈祷を行うために造られた神社であったので、靖国神社が上記特別の意味を持った伊勢神宮の分社として存在することに、全く違和感がない。天皇と伊勢神宮及び靖国神社を一体と感じるように教育することで、兵士の士気が高められたと思う。国家への忠誠心、天皇への忠誠心、更に神道的宗教心を、国民の心の中の無意識の領域に統合させることが出来たのだろう。

つまり、天皇の“伊勢神道”(補足3)トップという地位を利用することで、簡略化した身分制度(四民平等)の下での主権国家の建設が可能になったと思う。それは、後の自由民権運動などを経て、民主主義の準備ともなったのだろう。

国家神道と呼ばれる部分は、本来の神道には全く無い性格である。また、伊勢神道も上記のように直接的ではないが、国家神道的性質をもった神社である。現在、日本人の多くは伊勢神宮を神道の中心に存在すると考える人が圧倒的多数だろうが、それは間違いである。神道が日本古来の宗教と考えるのも同様に怪しい。(補足4)

尚、このように天皇の権威を利用できたのは、平安の昔から武士が統治する時代を経て現代まで、日本は天皇が君臨する国という意識が全国民にあったからである。それは、恐らく「君臨すれども統治せず」という姿勢を採ることで、天皇は安定な地位に長期間座ることに成功し、一般民も厳しい統治の権力から、天皇が離れて存在することを知っていたからだった。

2)神道とその変形である伊勢神道について:

2月11日の記事に書いたように、自然を怖れ、自分の生命及び生活などが自然と不可分であると考える神道では、太陽、山、川、海、大木など凡ゆる自然存在が神体となり得る。その神道の核に創造神的なアマテラスを据えたのが、ここで言う”伊勢神道”である。

自然を怖れる神道において、無事は感謝の対象であり、従って感謝の行為が次の無事の条件と考える傾向が強い。”伊勢神道”のアマテラスは唯一神的であるので、神殿は一箇所ということになる。その結果、参拝のためには神殿のある伊勢神宮まで旅をする必要がある。

伊勢神宮は一般には遠いので、一つの地域の全員がお礼の意思を伝達するために、代表を送り込む組織が伊勢講である。それを含めた伊勢参りが日本全国の習慣となった。それが、日本のコミュニティの団結力の装置ともなった。その日本文化の中心に位置する天皇家には、江戸幕府と雖も逆らうことが出来なかったし、統治しない天皇家に対して、逆らう必要もなかったのである。

3)伊勢神道の発生のプロセス:私の想像

伊勢神宮は、天皇家が日本を統一できたことを、神道の神(つまり自然)に感謝する意味で建立されたのだろう。伊勢神宮と有力な分社において、戦勝記念の品である“三種の神器”が納められている。もし、神道が伊勢神宮の大元にあるのなら、建立当初それらは“御神体”ではなかっただろう。(補足5)天皇の権威が大きくなるに従って、それらが御神体となり、アマテラス神話が出来ることで、”伊勢神道”と呼ぶべき本来の神道から多少異質な神道が出来上がった。

ここで定義する”伊勢神道”は、天皇家の祖先アマテラスを崇拝し、伊勢神宮を本来唯一の礼拝所とする、一神教的性格を帯びた「神道」である。天皇家が権威と権力の両方を保持して、日本の相当の広い地域の領民を支配していたころに、伊勢神宮を参拝する習慣が領民に定着したのだろう。

その後、いわゆる8世紀末からの平安時代になり、それ以降天皇家が権力闘争の前面に立つよりも、天皇の下で実権を握る者たちの間で主に権力闘争が行われるようになる。統治しない天皇という地位と伊勢神道が継承されたのは、それが権力者の正統性を証明する機能をもったからであり、更にその背後に住民一般に広く行渡った伊勢神道を中心とする文化があったからだと思う。

周囲を海に守られた日本列島ゆえ、キリスト教などの明確な教義を持つ宗教が入り込まない間に、この宗教文化が定着できたと思う。農業、地域の警備、インフラ維持、災害からの普及、などでの地域の協力関係を確認する為のコミュニティ組織の中心に伊勢講(補足6)が定着したのは、元の自然を怖れ自然に感謝する意味の宗教の役割を併せ持つだらだろう。尚、仏教は内省的な宗教であり、あまり神道とは衝突しない。

補足:

補足1)士族という呼称は第二次大戦後(1947年民法改正により廃止)まで存在した。しかし、1873(明治6)年の徴兵令(陸軍省が発布)や1876年の廃刀令(太政官が発布)により、武士の特権は廃止された。それを不満に思った武士の暴発として西南戦争が1877年に起こる。

補足2)求心力を国内の歴史に求めるのは普通であり、健全である。共産主義革命や長期に亘り属国であることなどは、歴史を抹殺してしまう。例えば、私が出会った中国人留学生数名は、論語を知らなかった。その結果、東アジアの日本以外の国々は、反日を国の求心力に利用しようとしている。例えば、韓国の文在寅政権は、国家のスタートを抗日の拠点として上海にできた(1919年)亡命政府においている。https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12302320425.html

補足3)ここでの伊勢神道の定義は、ウィキペディアに掲載されている伊勢神道(外宮神道)とは異なるかもしれない。

補足4)本州西半分の日本海側に多く存在する白山信仰は、朝鮮半島由来であるという説が有力である。

補足5)八咫鏡が伊勢神宮の神体とされ、草薙の剣が熱田神宮の御神体とされている。これら人工物が神体となるのは、本来の神道の姿ではないと思う。自然の存在が崇拝の対象であるのが、本来の神道である。

補足6)伊勢講は江戸時代には全国的になったとウィキペディアに書かれている。

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