2020年1月15日水曜日

サンデル教授の講義で有名になったトロッコ問題について:

今日偶然、トロッコ問題を考えることになった。(補足1)この問題は、マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室の第一回目に紹介されているので、参考にされたい。

https://www.youtube.com/watch?v=_qcaASOgHy8

 

 

1)トロッコ問題とサンデル教授の講義:

 

トロッコ問題とは、路面電車の前方に方向を変えるポイントがあり、その前方に5人が作業をしている。このまま進めば5人をはね殺すことになる。ポイントのところに居る自分は、ポイントを切り替えればもう一方に路面電車を向かわせると、1人を犠牲にするが、5人の命を救える。そのような場合、ポイントを切り替えることが、道徳的に許されるだろうか?

図はウィキペディアから借用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

上記トロッコ問題の趣旨は、最大多数の最大幸福という観点からすれば、ポイントを切り替えることが正しいとなる。(功利主義的)しかし、ポイントを切り替えれば、自分の行為として別ルートの人を殺してしまうことになるので、道徳的に無条件的に許されないと考えられる(カントの定言命法の一例)。普通、この矛盾を超えられずに悩む。

 

この問題について、私は以下のように考える。人の生命を操作する問題を、道徳や倫理問題として設定することは不可能である。何故なら、「人(生物としての人)」は、道徳や倫理を道具として利用し、「人間(社会的人)」となるが、社会を離れた状況下にある人は、それらに支配される存在ではないからである。

 

つまり、神が人を社会的存在として創造したという思想(宗教)を受け入れれば別だが、現代では通常、道徳は社会をつくるための“道具”であり、倫理はその根拠を与えるための思想として理解される。従って、社会を形成する以前の存在、社会を剥ぎ取った“裸の状態の人”、には善悪など存在しないのである。(補足2)

 

西欧において、カントとかいう人が定言命法(kategorischer Imperativ)なる概念を提出したのは、神が存在する前提があることに気が付かなかったのか、そのような前提など不要だと考えたからだろう。(補足3)つまり、神が上記“裸の状態の人”を作ったのなら、人の全ての行為は無条件に(社会の形成などとは無関係に)、神が定めた善悪の基準で評価される。

 

従って、上記トロッコ問題は、世界を支配する人格神が存在し、その神のみが出せる問題である。社会の中にどっぷり浸かっている人が、社会の境界から溢れるような場面の人、つまり、自分或いは他人の生死を自分が決める可能性のある状況に置かれている人に出せる問題ではない。(補足3&補足4)

 

ただ、その線路に横たわっている人物の何人かが、自分の親族なら、それは道徳や倫理と無関係に問うことは可能である。そして、その場合の判断は当然“法”も超える。法を超えた行為でも、法による処罰はある。それは、社会を守るためである。(補足5)

 

これと関連して、刑法の意味を書いておきたい。「人を殺したるものは、死刑又は3年以上の懲役に処す」という刑法の文章は、「人は人を殺してはならない」という神の領域の規則(道徳)ではない。つまり、“裸の状態の人”には人を殺す自由が存在するのである。(補足6)

 

勿論、それを実行した場合は、“社会を作る人”とその機関により逮捕され処刑される可能性がたかい。法律の理論では、「刑法に拘束されるのは裁判官であり、犯罪者ではない」ということになる。法は社会の規則であり、道徳は宗教つまり神の人に対する要請であり、社会と宗教は同一ではない。日本という単一文化の国では、この関係を知る(実践的知識として)のはマイノリティーだけだろう。

 

トロッコ問題に近いケースは、歴史上何回かあっただろう。そのひとつがミニョネット号事件である。つぎにそれについて簡単にレビューする。

 

英国の船ミニョネット号が、喜望峰からインドに向かう途中難破してしまった。4人が救命ボートの中で飢餓に苦しむが、そのうちに弱った1人を殺して飢えを凌ぐという極限情況を経験する。難破19日目にドイツ船に救助され、本国に戻され、殺人罪の被告となる。この救命ボードでの殺人事件(ミニョネット号事件)は、ウィキペディアに紹介されている。

 

裁判では緊急避難を適用した違法性の阻却(そきゃく:しりぞける事)が考えられたが、イギリス当局は起訴。最初の裁判の陪審員は違法性があるか否かを判断できないと評決したため、イギリス高等法院が緊急避難か否かを自ら判断することになった。(補足7)

 イギリス高等法院はこれを緊急避難と認めることは法律と道徳から完全に乖離していて肯定できないとし、謀殺罪として死刑が宣告された。しかし、世論は無罪が妥当との意見が多数であったため、ヴィクトリア女王から特赦され禁固6ヶ月に減刑された。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 https://ddnavi.com/news/321617/a/

 

 

2)勉強をすると思考力をなくす? ミニョネット号事件を裁いた英国の裁判官

 

上記ミニョネット号事件とその判決及び女王による特赦のケースは、一般人の方が裁判官よりも賢かった(正しい感覚を持っていた)という実例である。この情況はイギリスだけではなく、日本でも同様だろう。つまり、猛勉強した人は思考力を失うのである。

 

最近書いたブログで、伊藤貫氏が西部邁氏との討論で言った言葉「私の同級生(東大経済学部)たちの殆は、18−9歳になったとき既に思考力を失っていたのです」を引用した。これは、当時東大経済学部に入学したひとの殆どは、他学部も同様だろうが、厳しい勉強の何年間を過ごして入試に合格したこと、そしてその勉強の効果として思考力を喪失していたことを示している。

 

もう15年ほど前になるが、研究所(産業技術総合研究所)の所属部門での飲み会のときに、「刑法の規定は、一般の人を縛るのではなく、裁判官を縛るのです」という話をしたら、向かいに座っていた10歳ほど年下の所属部門の長が、何度説明しても「私にはどうしても信じられない」と拒絶したことを、今では懐かしく思い出す。

 

社会学や人文学において大成するには、自然科学的知識は有用である。しかし、自然科学の勉強は社会や人間に対して目をむける時間を奪う。更に、もしその自然科学での努力が、上記猛勉強の類であれば、全ての知的分野で思考力を喪失する。それは、知的外堀となり、そこから這い出る事のできる人は少ない。

 

勉強やそのための読書が過度になり、時々の脳のリフレッシュを怠ると、思考力や人間としての正常の喪失する可能性がある。そのようになってはもはや、救いようがない。

 

類似の問題の議論として、以前に名大の「人を殺して見たかった」という女性(名大生)の殺人事件について書いたので、リファーしておく。

https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/02/blog-post_24.html

 

(19日早朝編集)

 

補足:

 

1)この問題を考える切掛になったのは、QUORAというサイトで偶然以下のようなページを発見したからである。「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、あなたは誰かが名乗り出るのを待っているだけの男ですか?」

https://jp.quora.com/tatoeba-dareka-hitori-no-inochi-to-hikikae-ni-sekai-wo-sukue-ru-toshite-anata-ha-dareka-ga-nanori-deru-no-wo-tai-tte-iru-dake-no-otoko-desu-ka

これは都内のある大学の経済学部教授で松本貴典というハンドルネームの方による、トロッコ問題の変形である。その人は、鉄道技術に詳しいかたの「ポイントは通常中立に出来るので、そうすれば6人は助かる」という答えをツイッターか何かで見つけて称賛しているのだが、本文で述べたように、この方は問題を誤解しているのである。

 

2)浄土真宗の開祖と言われる親鸞のことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、社会の恩恵を受けなかった人たちが、自分の生命を維持するために緊急避難的に悪を為したとしても、それは罪ではない。ましてや、豊かに暮らしている役人たちに裁かれる理由などないと言う意味である。

尚、仏教では全ての生きる物に憐れみを持つべきであるというのが教えである。一方、キリスト教やユダヤ教の聖典では、異教徒を殺す行為は称賛される。人格神を持つ宗教は、種族の生き残りの戦争のために創られ、本来(古来)の神道や仏教とは異なる。アマテラスの伊勢神道は、元の神道を人格神的に変形したものである。

なお、社会から離れて人を殺す場面として、戦争での殺戮行為や正当防衛による殺人がある。(親鸞以外の記述は18日に追加)

 

3)仮言命法というのは「〜ならば」という仮定が入る命令である。つまり、定言命法というが、それは「人格神(ヤハウエ)が存在するならば」という前提を置いた、仮言命法である。日本人なら、カントよりも親鸞の思想の深さを再確認すべきである。

 

4)この問題と一定の関係にあるのが、以下の問題である。自分の車が、交通が頻繁ではない野原の交差点の赤信号で停止した。遠く見渡しても車がいない時、信号が青になるのを待つべきか? その時、小さいヤブの中に身を隠す警察官がいて、信号無視した自分を追いかけてきたとする。その時、あなたはどう考えるか? 

 

5)この場合、ポイントの切り替えは、明らかに法や道徳という社会的基準の外の行為であることが、感覚的に分かる。つまり親族は、社会形成以前の存在である。

 

6)同様な関係が、現代世界の主権国家体制である。国家間には、十分な権威のもとに社会は形成されていない。従って、ある国には他の国を滅ぼす自由が存在するのである。条約を破棄することも基本的に自由である。つまり、単に損得の問題である。トロッコ問題の迷路から出ることの出来ない人は、その主権国家体制の原則も分からないだろう。他国の善意にある程度期待ができるのは、その国の文化に社会的善意が濃く存在する場合のみである。

 

7)緊急避難とは、個人が社会から離れている状況にあることを意味する。何処に避難するのかと言われて答えられない人は多いだろう。前節における用語では、社会という衣を脱ぎ捨てた裸の状態への避難である。

 

2 件のコメント:

  1. 補論1について:松本教授は問題を誤解してはいないのではないですか? サンデルの問いそのままに乗る必要はないという点から出発して、新たに論を展開しているだけです。そして大きな賛同を獲得しておられるのです。
    あなたこそ、実名制が大原則のQuoraで、Moh Korigoriという明らかに実名でないハンドルネームで、匿名性を担保したまま、人を攻撃するのはサンデル的に正しいのですか?
    それにあなたは「Quoraでは長くなるので、自分のブログにコメントの続きは書く」といいながら、安全圏に逃れて、それほど長くもない議論をここでしている。
    ここでの議論はQuoraのコメント欄にも転記するべきでしょう。
    こうした姿勢で何を書いても、まったく響いてこないというのが、正直な読後感です。

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  2. コメントありがとうございます。どういうわけか承認制になっていました。今日、10月2日、このブログシステムが新しくなり、気づきました。Quoraは実名制なのですか。2度ほどだけ見ましたが、利用はほとんどしていません。
    ところで、わたくしは議論は攻撃ではないと思っています。議論はおおぜいが集団で思考することです。実名とハンドル名に関係なく、論理で情報交換するのが、議論です。姉妹サイトを通常議論の場にしています。アメバブログです。
    日本では、議論と口論の区別、更に、喧嘩にまで発展することが多いようです。馬鹿げています。実名で議論すべきとか、安全圏に逃れるとかおっしゃるのは、喧嘩のことをおっしゃっているように思えます。


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