2021年7月20日火曜日

小山田圭吾氏のイジメ問題から日本文化を考える

東京オリンピック・パラリンピック(オリパラ)の音楽担当の小山田圭吾氏が、学生時代に障がい者とみられる同級生をいじめていた過去を批判され、辞任に追い込まれた。この件、テレビなどで話題になっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/51ddc6ee572c946cc3eca3ab6b7d8070e699fe68
 

組織委員会の武藤事務総長が「小山田氏の謝罪の言葉を理解した。彼は十分に謝罪し反省しているので、このまま仕事を続けてもらいたい」という趣旨の発言をしたことについて、橋下徹氏はテレビ番組で「小山田氏の留任には、これまでどういった反省を示す行動をしてきたか示す必要性がある。それもなく、五輪で彼の音楽が流れることは日本の恥である」と語った。

 

 

 

結局、小山田氏の辞任により、この問題は一応決着した。しかし、日本という国の国際的評価は元には戻らない。この問題の本質は、小山田氏個人と日本オリンピック委員会だけの問題ではない、日本文化の問題である。日本のマスコミでは、この問題の本質がほとんど議論されていない。

 

最初に指摘したいのは、この若い頃のイジメというか刑事犯罪が何故当時明らかにされず、処罰もされなかったのか? 発覚しなかったとすれば、それは恐らく、周囲の人間が自分に同様のイジメが来るのが恐ろしくて、何も言わなかったからだろう。それは日本人の支配者に対して従順で、反抗する気概のない姿であり、日本人及び日本文化の欠陥である。

 

もし、発覚していても大きな問題として、警察まで話が行かなかったとしたら、それは学校が問題をもみ消したからだろう。学校のトップ周辺がことの本質と重大さがわかっていなかったのだろう。何れにしても、このイジメが明らかになり、学生時代の小山田氏が罰せられるべきだった。

 

もし、学校で周囲が健全に反応していれば、青年期に小山田氏は矯正されていただろう。事後でも小山田青年が刑事処罰されていたなら、その後に更生の機会が与えられた可能性がある。
 

その機会が与えられなかったことで、日本社会は彼の高い音楽の才能を有効に利用することが出来なくなったのである。それは日本社会にとっても、小山田氏にとってもかなり大きな損害となったのだ。これが今回の内容の全てであるが、次のセクションで、原理的な面からこの問題を議論する。


 

2)イジメは文化の問題である:

 

イジメは、異質な者を集団から排除する行為である。それは、集団で生きる人間や動物に見られる。イジメを先頭に立って行う(或いは指揮する)のは、群れのボス的存在である。自分の集団を、自分の思う通りの「従順で良い状態」に保つためである。
 

そのイジメが国家単位で行われるのが、独裁国家の姿である。法輪功の人たちやウイグルの人たちがイジメの対象であると言えば、何処の国かわかるだろう。それと同じ体質を日本も持っているのである。それが言い過ぎなら、「イジメを排除するメカニズムを日本文化は持っていない」と言い換えても良い。

 

小山田氏を辞任に追い込むまでの場当たり的なオリ・パラ委員会の対応を見て、西欧諸国による反日本の感情は、影に隠れて益々大きくなっただろう。そして、その件のファイルは、日本叩きの道具コレクションとして、深く引き出しに仕舞い込まれた筈である。

 

報道された障害者へのイジメは、非常に凄惨である。それをむごいと感じるのは、私たちの多くが、ボスにより統治される側の感覚を持っているからである。その感覚を持たない人は、それが非効率な因子を群れから排除する当然の行為と見なすのだろう。そのような人物の姿が、社会の表に現れるところが、日本社会の劣悪な一面であり、背後にある日本文化の後進性である。
 

今回のイジメの問題は、この人道的或いは人権的に許されないという議論で終わる場合が多いだろうが、その人道的な配慮の本当の目的は、社会全体の効率を最大にすることであり、それは社会の構成員全体の問題であることを理解すべきである。

 

この原理的理解がないと、単に健常者が憐憫の情をもって障害者を観察し、優越感に浸るための障害者福祉になってしまう。この感覚で福祉を眺めている人は、多いかもしれない。しかし、それらの人々にも「あなたとあなたの家族は今後も障害を持たないと安心しているのですか?」と問うことで、時間軸を長くとれば、障害者福祉は自分の問題でもあることに気付かせることが出来るだろう。

 

更に、身体上の障害などでのイジメや差別が、社会にとって大きな損失になるという常識を持たねばならない。手足に障害があっても、他の部分で優れた才能を持つ人間は大勢いる。それらの能力を社会全体として活かすことで、社会つまり国家全体の実力アップを図るべきなのである。その多面的に実力を評価して、適材適所に人を配置できないのが、日本の経済的そして政治的低迷の原因である。

 

それは障害者だけではない。外見が醜い人、運動が出来ない人、美的センスのない人、病気の人、老人、名家の出身でない人、学歴の低い人等々、外見や経歴などだけで、つまり獣に近いヒトの視点において劣っているだけで、社会の各分野の中心からなるべく排除したいという力学が働くことが、日本の国家的問題である。(補足1)

 

つまりそのレベルの人間が、それら各分野のトップに居ることが、日本の劣悪な社会環境を物語っているのである。人間社会の多くの側面から、そして長期の時間軸でみて、人を評価することが先進国として存在する必要な因子である。原始的な排除の力学があちこちに生きていることが、日本社会の弱点であると私は思う。

 

3)西欧の姿勢について

 

洋画に「レ・ミゼラブル」というのがある。みすぼらしい(miserable)逃亡中の犯罪者に、神父が一夜の宿を提供したのだが、その男はそこで銀の燭台を盗もうとした。翌朝、それを見つけた神父は、主人公のその男を強く叱責するのではなく、許して当座の生活費の足しにと、確か、その燭台を与えるのである。
 

それから、数十年を経て、その主人公がある都市の市長(補足2)となって、善政をしくという話であったと記憶する。聖書に「人を裁くなかれ、己自身が裁かれないためである」という言葉がある。神の視点で見なければ、その人物の全体像は見えないという意味である。

 

西欧諸国、キリスト教圏の人たちは、人としての尊厳を維持することが、人間として生きる必須条件とみなす。したがって、理由なくある個人の権利や尊厳を害する行為はしないだろう。それを見て放置した場合に自分の尊厳を害する場合には、放置しないだろう。
 

また、社会での仕事の範囲と個人の私的範囲を明確に意識しており、仕事上での上司の指示には従うが、仕事を終われば上司と部下の上下関係は維持されない。その労使関係は、適材適所の原則、労働の流動性確保、同一労働同一賃金などの原則を実現する上で重要である。日本文化の特質を何も考えないで、それらの原則を確立しようと云うのは、馬鹿げている。
 

勿論、西欧一神教の国の文化では、異教徒は敵である。そして、敵に対する態度は、日本人のそれとは比較できない位残酷かもしれない。その文化の違いを熟知することは、国家の安全保障を立案するには大切である。(補足3)
 

西欧の一神教は、何をすべきか、何をすべきでないかについて、明確に示している。それは神との契約である。それを模して、法やルールが存在する。諸外国から、日本は、ルールが明確でない、言葉も未発達(補足4)で訳の解らない感覚が支配する国と思われているだろう。

 

今回の小山田氏のイジメ問題から、最近の白鵬の相撲に関する日本相撲協会の訳のわからない批判(補足5)まで、ルールが存在するのか存在しないのか、解らないケースを数えればきりがない。https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202107190001121.html


 

 

補足:

 

1)この多面的な能力評価がなく、人材の適材適所が達成できないところに、日本経済低迷の原因があるという指摘があり、その意見を取り入れて記事にしたことがある。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12564206453.html

 

2)大陸の映画が描く当時の都市は、国家に匹敵する。従って、市長の権限は現在の日本の市長の比ではない。
 

3)主権国家はゆるい社会を形成しているものの、その間の関係は基本的には野生の関係にある。国家間のイジメやスカシは、常に存在する。それらを防止する善悪の概念は、野生の世界には存在しない。

 

4)最初に引用したヤフーニュースの記事の出だしは以下の文章である。

東京五輪・パラリンピック組織委員会は19日、雑誌で障がい者とみられる同級生をいじめていた過去を告白していたことを問題視されていた五輪開会式作曲担当のミュージシャン小山田圭吾氏の辞任を発表した。

この文章では、告白したことが問題であり、告白しなければ良かったという意味になる。関係代名詞がないなど、日本語の欠陥が良く現れた文章である。基本動詞にも、同音異義語が山程あるなど、日本語の欠陥など、数え上げれば切りがない。 それでも、日本語は美しいと云う人が大勢おり、俳句や川柳などの人気が非常に高い。日本文化を議論するとしてもその原点(つまり日本語)が共有できない状況にある。

 

5)ルールに従った相撲なら問題は全くないというのが、私の意見である。それは相撲をスポーツとして見ているからである。勿論、相撲は神事であるという側面があり、それ故に日本相撲協会は公益法人なのだろう。もしそうなら、何故外国人を大勢いれるのか?何故、日本人全体(全てが伊勢神道の信者ではない)からお金をとるNHKが高い放映権料を支払うのか、根本から明確にしてもらいたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿