2015年5月31日日曜日

地震学の専門家だけに地震予知を頼るべきではない

昨日の小笠原地震は、琉球大の木村教授が予測していた。M8.5の地震が小笠原付近で2012±3年の範囲で発生すると、ホームページの地図に書かれている。http://kimuramasaaki.sakura.ne.jp/Site2/Home.html

また、他のサイトにある様に、木村教授は昨年7月のテレビタックルで、この地震を予測していたらしい。予測された震央は、ホームページの地図によると若干北側にずれているが、大きさを含めてかなりの精度であたっている。木村教授の方法により、近く発生する地震の震源位置と大きさについて予測出来ることが、改めて証明されたように思う。HPの予測地図から、今後警戒すべきは九州南部(奄美島東方)と北海道東部ということになる。

木村教授の方法では、気象庁の発表する微小地震を地図上にマッピングし、その分布から予測するらしい。その方法で、東日本大震災の予測にもほぼ成功している。地震の2−3ヶ月前に近畿や中部で放送された“たかじんのそこまで言って委員会”において、木村教授により今後数ヶ月の間に大きな地震が東北沖で発生するだろうとの予想がなされた。あまりにも切迫していたので、司会の辛坊治郎氏が「本当ですか?」と何度も確認したことをはっきり記憶している。

また、今回の関東での揺れ(地震)を、測量学の村井俊治・東大名誉教授らが予測したとの記事がネットに掲載されている。http://www.news-postseven.com/archives/20150113_295720.html 村井教授は、地盤の動きを正確に観測して予測するそうである。

木村教授は地質学が専門であり、村井教授は測量学が専門である。両氏とも地震学が専門ではないが、これだけ地震予測の実績があるのだから、政府もこれらの方々の予測を正式に採用にして、対策を練るべきではないだろうか。

安保法制の議論:今週の時事放談の感想

今朝のゲストは自民党の高村正彦氏と元民主党の藤井裕久氏である。放送内容は、安保法制に関する議論であった。藤井氏は集団的自衛権行使に反対であり、国際問題があれば時間はかかるが、国連を中心に解決すべきだと主張する。高村氏は国連で解決出来ればよいが、安保理事会の常任理事国に拒否権があるので、当事国が常任理事国であれば国連は無力であると主張する。

明確には言えないだろうが、中国が絡んだ紛争を考えている以上、藤井氏の考えは机上の空論に聞こえる。藤井氏は日米同盟だけでなく同盟全体に関して否定的である。その理由として、セルビアとオーストリアの戦闘から、同盟関係を導火線にして第一次世界大戦となったことをあげている。

しかし、その考え方は間違いである。戦争でも化学反応でも、メカニズムとエネルギー(注1)の両方から考える必要があることを、文系秀才の藤井氏は判っていない。戦争の防止は、メカニズムを無くすることでは出来ない。戦争に向かうエネルギーの蓄積がある限り、遅かれ早かれ戦争になる。つまり、オーストリアの皇太子がサラエボで暗殺されなくても、別の火花がそのエネルギーを戦争という形で解放しただろう。

また、藤井氏は仮想敵国を考えることは危険であると指摘している。同盟関係は仮想敵国を想定して結ばれる場合が多いだろうが、仮想敵国はあくまで仮想なのだ。それを想定しては危険であるというのは、国家は戦略を立ててはならないという議論に等しい。日本が第二次大戦であのような悲惨な敗戦に至ったのは、戦略が十分で無かったからであるとの議論が大勢を占めていると思う(注2)。藤井氏はどう考えているのだろう。藤井氏や多くの野党の議論は、突詰めれば非武装中立論に至る。「丸腰の人間に襲いかかる悪人は居るだろうか?居る筈はない。」という考えである。何と言うナイーブな人たちだろうか。

藤井氏は、新たな安保法制の下では自衛官のリスクが増加すると指摘している。しかし、自衛軍(自衛隊を英訳すれば、self-defense forceとなり、それを再度和訳すれば自衛軍となる)なら、出動する事態が生じれば、犠牲が増えることを誰も否定できない。そして、高村氏が指摘するように、そのような事態が備えを持ったことで防止できれば、国民全体のリスクが大きく減少すると反論する(注3)。

中国南シナ海埋め立てと武器導入とそれに対する米国の警告など、東アジア及び南アジアは危険が近づきつつある。それに対して、米国が“知らんぷり”をすることは原理的に可能である。その延長上にあるのは、尖閣諸島だけでなく沖縄や奄美諸島の中国による占領だろう。現政権が考えているのは、日本が巻き込まれることではなく、米国を巻き込むことだろう。

藤井氏は、中国の巨大化には同意するものの、孔子などを産んだ偉大な国として、中国を見ている。しかし、中国が共産党一党独裁の国であること、その中心部分が権力抗争と腐敗にまみれていること、などへの言及は今回の議論では一切なかった。確かに高村氏が指摘するように、中国は“この1年で日本と上手くやりたいという雰囲気が高まっている”のは事実だろう。しかし、微笑外交と脅迫外交の使い分けは、覇権国家の常識である。私は、中国が日本に対してBig Stickを振りかざさない様に米国との関係を密にすべきだと思う。http://ja.wikipedia.org/wiki/棍棒外交

注釈:
1)このエネルギーは化学反応として解放可能なエネルギーと言う意味で、フリーエネルギーと呼ぶ。化学反応で解放されるエネルギーは、フリーエネルギーの減少分である。(P.W. Atkins著の物理化学参照)この化学反応を戦争に置き換えたのが、上記議論である。
2)クラウゼビッツの第一編に戦争の政治的行為としての本質が書かれている。以前のブログにも書いたが、日本は大学でクラウゼビッツのクの字にも触れない世界でただ一つの主要国だそうだ。(伊藤憲一著、新・戦争論17ペイジ)
3)この論理は、クラウゼビッツの「武力による決定の担保の原理」が根拠だと思う。伊藤憲一著の新・戦争論に、その説明が書かれている:武力を行使してみればどうなるかという結果が、予め相当程度確実に交戦者双方に見通される場合、つまり武力による決定の担保がある場合には、敢えて武力を行使するまでもなく、政治的な解決が出来る筈である。
<理系人間の素人の意見ですので、反論等歓迎します。>

2015年5月30日土曜日

習近平氏の二階氏訪中団大歓迎について

自民党の二階氏が3000人を引きつれて5月下旬中国を訪問し、習近平氏と会談した。今日の週刊ニュース新書は、その二階氏とホストの田勢氏との「今後どうなる?日中関係」というタイトルでの話合いだった。先ず、二階氏から習近平氏の好意的な対応が話された(注1)。その後、最近の中国と日本の市民レベルでの交流などを混ぜて、日中の関係改善の兆しについて話が進んだ。ただ、二階氏や田瀬氏は、日中の外交関係と日中の市民関係とを一緒にして議論していたのは、政治家と評論家の話として不思議に思った。

また、二階氏が北京の大学で講演を行い、「日本人ほど戦争が嫌いな人種はいないのだ」と話したという話に、田勢氏が「それを信じてもらえるだろうか」などと応答していた。安倍総理によって発表が予想されている70年談話や安保法制へも話は進んだが、短時間の番組なのであまり本質的な議論にはならなかった。田勢氏は、安保法制の議論が今一つ国会で熱くなっていないと言及したが、国民の大半が同意できるような議論は元々不可能だろうと思う。

今朝のヤフーニュースによれば、中国は最近埋め立てて国際問題になっている南シナ海の島に、武器を配備し始めたことで問題を更に大きくしている(産経新聞5/30配信;ウオールストリートJ電子版28日)。このような世界の情況と比較して、あまりにもナイーブな議論だった。習近平氏は、「押してもダメなら引いてみな」という戦略で、太平洋への勢力拡大を目指して、日本と米国の連携にクサビをいれるべく、先ず日本の与党の分断に動いていると解釈すべきだと思うが、そのような認識は両者から示されなかったと記憶する。

安倍政権をどのように攻撃するか?を念頭におくと:今回、友好姿勢を先ず強調し、それを”本来の日中関係”として背景にセットする。次に、70年談話か何かのチャンスがあれば、安倍政権を強く批判する。その際に、背景にセットした日中友好関係が、”安倍氏でなければあの様な日中友好関係が可能だった”と反安倍勢力の拡大に役立つのである。「いったん上げてから、ドスンと落す」古典的な習近平主席の手法に、二階氏は協力しているのだ。

その戦略に乗らない為には、70年談話を工夫すべきである。4月中旬ブログに書いた様に、 http://blogs.yahoo.co.jp/mohkorigori/56905762.html 村山談話の中心部分をそのまま読み上げ、それを安倍政権も踏襲するという形で、過去の戦争中の出来事に対する日本政府の姿勢を話すのが良いと思う。そうすれば、何度も何度も現在形で謝罪をするという不自然さと、発表する安倍総理とそれを聞く日本国民の抵抗感を減少させられる。

5月15日には、8人のスタンフォード大学の研究者が、それぞれ、「自らが首相であれば何を述べるか」をテーマに「太平洋戦争終結70周年に考える」を作成し、そのブックレットを公表した。その”米国の学者8人、「私なら70年談話をこう語る」”の中で、米国スタンフォード大学のダニエルスナイダー教授によって書かれた案と、上記ブログの案は村山談話の復唱を提案する点で良くにている。

あとがきでの、「イツカ向コウデ」と題する長田弘氏の詩(注2)は、この番組を見た収穫だった。この詩は、今回の週刊ニュース新書の総括の様だった。番組の討論はあまり内容がなかったが、この総括だけ完璧に思えたのは不思議だった。

補足:経済的関係を悪くして日本資本が中国から逃避するのを避けたいという本音はあると思う。伊藤忠の新たな投資や、最近のヤフー日本とアリババの協力など、本音で大歓迎だと思う。

注釈:

1)習氏は23日夜、北京の人民大会堂で開かれた交流式典に突然姿を見せ、「 “朋(とも)あり遠方より来る、また楽しからずや”。3000人余りの日本各界の方々が遠路はるばるいらっしゃり、友好交流大会を開催する運びになった。われわれが大変喜びとするところだ」と孔子の言葉を引用しながら笑顔であいさつした。http://www.sankei.com/world/news/150526/wor1505260011-n1.html

2)長田弘氏は5月3日胆管ガンでなくなったとのことである。紹介された詩の全文を以下に再録する。

人生は長いと、ずっと思っていた。間違っていた。おどろくほど短かった。 きみは、そのことに気づいていたか?

なせばなると、ずっと思っていた。間違っていた。なしとげたものなんかない。 きみは、そのことに気づいていたか?

わかってくれるはずと、思っていた。間違っていた。誰も何もわかってくれない。 きみは、そのことに気づいていたか?

ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。 きみは、そのことに気づいていたか?

まっすぐに生きるべきだと、思っていた。間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。 きみは、そのことに気づいていたか?

サヨナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。

2015年5月25日月曜日

3000人の訪中団を率いた二階氏の習主席とのみっともない握手

自民党の二階氏が3000人を引きつれて中国を訪問し、習近平氏と会談した。習近平氏は安倍晋三政権の歴史認識を暗に批判する一方、訪中団のメンバーを「正義と良識のある日本人」などと褒めたたえたという。http://saigaijyouhou.com/blog-entry-6602.html 先ず二階氏には、上記サイトにある、みっともない写真が恥ずかしくないのかと言いたい(注1)。

周近平氏の思惑は容易に想像がつく。つまり、日本の世論や与党自民党を分断することで、安倍氏の目指す戦後の枠組みからの脱却を妨害し、同時に日米関係を分断することである。米国が日本との同盟関係を新しいステージに進める覚悟をすれば、日本は憲法の改正と自衛軍保持などを実現し、まともな国になることが出来るだろう。

しかし、従来の日米関係なら、日本の憲法改正は米国の賛意をえられないだろう。何故なら、戦後も安保条約下でも一貫して、日本国は米国の仮想敵国の一つだったからである。(注2)勿論、米国は日本が自衛軍を持つことに正面から反対はできない。しかし、中国や韓国の日本の歴史認識攻撃を裏から支援する形で、日本の憲法改正を妨害することになると思う。繰り返しになるが、日本国の異常DNAとでも言うべき憲法の改正が、戦後70年間出来なかったのは、米国が日本を信頼していなかったからだろう。

同盟関係にない隣国の弱体化は、何時の時代でも国益に一致する。日本の弱体化は、国際的に孤立させること、米国との同盟関係を崩すことで加速できる。中国が日本政府の歴史認識を執拗に攻撃する理由の一つは、日本を国際的に孤立させ、日本が米国の国是である人権、自由、平等などに反する国であると印象つけることにある(注3)。特別に日本軍の過去の行状が悪かったと腹を立てているのではない。そのように宣伝することで、中国人民の腹を立てさせることは出来ても、指導者達はその効果だけを冷静に計算しているだけである(注4)。

二階氏は、中国首脳のその戦略に100%協力しているように見える。安倍総理の親書を、会合の最中にカメラの前で、参加者の目に見える形で手渡したという。総理の親書は、二階氏のどのようなことばより重いことを忘れている様では、日本のしかも与党の政治家としては、あるまじき行為であると思う。

習近平主席が、自分を心底から歓迎していると勘違いしているとしたら、政治家としての知性に欠ける。中国の戦略は一つである。その一つの戦略から、現内閣への厳しい姿勢と、二階氏らに対する宥和的な姿勢が出てくるのである。そして、習近平主席の日本に対する姿勢が最近若干宥和的なのは、日米の関係が以前考えていたよりも、強固であると判ったからである。そして、戦略は不変である。二階氏は、自分が歓待されている原因が、習近平主席が憎々しげに言及する安倍総理の対米関係改善であると判っているのだろうか? そして、日本の与党を日本の国論を分断するという目的を持った笑顔であることが判っているのだろうか?
http://news.livedoor.com/article/detail/10149270/

注釈:
1)習近平氏が主席になる前に箔を付ける意味で、天皇と会見した際、彼は頭を殆ど下げず天皇陛下と対等の姿勢をとった。そのような場面など二階氏の頭には、うかばないのだろう。
2)北朝鮮が原爆実験したとき、素早く日本を訪問して日米安保を確認する儀式を行なった、ライス国務長官の姿を思い出す。日本国を同盟国として、信頼していないことが明らかである。米国がイザとなれば日本を防衛するという覚悟が明確でないから、その心中を見透かされる可能性をライス氏は恐れたのである。つまり、イスラエルなら賛成するが、日本が原爆を持つことには大反対なのだ。オバマ氏が、日本からプルトニウムを引き取りたかったのも同じ理由である。
3)もう一つの目的は、もちろん、自国民の不満の方向を逸らすことである。
4)何故そのようなことが言えるか? 彼ら指導部は、もっと近い過去(1968-1977)の大躍進運動や文化大革命の際、自国民にどのようなことが起こったかを知っている。例えば、M主席の写真が掲載された新聞紙を、人の見える前で再利用(芋かなにかを包んだ)して、当局により虐待された老婆のことが、ワイルドスワンズに書かれている。

2015年5月24日日曜日

時事放談感想(copied from yahoo blog)

今朝のゲストは元自民党幹部の野中広務氏と古賀誠氏である。安保法制に関する議論で主であった。野中氏は、日本の国会で先ず議論を始めるべきことを、米国議会の演説で夏までという期間も明示した上で結論にまで言及するという異常さを攻撃していた。古賀氏の意見も大同小異であったと思う。

ただ、日本の於かれた危機的状況、つまり中国の脅威については、両氏も現政権も同じ様に把握されているようである。野中氏は、おそらく、日中友好でそれを解決出来ると思っておられるのだろう。しかし、中国は尖閣諸島の次には、沖縄を要求するだろう。現に、翁長知事の最近の発言は、日本を離れる道を探しているとしか思えない。既に、中国のオルグは沖縄県の中枢にまで来ている様に感じる。その状況をどう考えておられるのか?

現在、日本は米国の勢力圏に含まれている、それでも中国の勢力圏よりはましではないのか。つまり、どちらの勢力圏に入るか、安保法制はその選択の問題だと思う。そのレベルの議論が、果たして国会でオープンにできるのだろうか?

オスプレイの横田配備についても、二人の議論は社民党レベルであり、危険性のみに感心があるようだ。民意を聞けば、賛意は得られない筈である。しかし、全て民意を聞くという方法では、国家は迷走することは見えている。それを防ぐために、間接民主主義という方法をとっている筈である。オスプレイ配備の利益について判っておられないのなら、何も発言するべきではないと思う。

政権からはなれ、情報から遮断されている人には、安保法制などの議論は恐らく無理なのだろう。野中氏の「日中の今日の対立は、野田政権の時の尖閣諸島国有化にある」との認識は、全く表層的な見方から出たものだと思う。最初から中国は尖閣諸島を盗ることを考えていたが、そのチャンスとして野田政権の国有化があっただけだ。それすら判っておられないようだ。全く意味のない議論だったと思う。

2015年5月23日土曜日

クレムリン・メソッドを一読して学んだこと

北野幸伯著のクレムリン・メソッドは、国際政治の基本的なことを教えてくれる。その最も大切なポイントは、国際政治は善悪や正邪を争う場でないということである。日本のテレビで放送されている政治討論などの番組では、常にどちらが正しいか、どちらが悪か善かという話になる。しかし、その議論を繰り返しても、日本の国際的立場が良くなることはないだろう。

また、国際政治の場面において多くの国は、先ず戦略を立てて、それに沿って情報を集め、場合によってはその解釈を都合良く行なうことで、外交を有利に進めようとする。この方法は、現在日本の方法とは順序が逆のように思える。つまり、日本では先ず歴史的事実や現在得られる情報などを集める。次に、それらを基礎にして、世界の中での日本の行動を考えるのではないだろうか。

以上、二つの原理を理解しないことには、外交戦に負けることは必定ではないだろうか。つまり、尖閣諸島は中国固有の領土であると主張する中国に対して、歴史的事実をあげて、反論するしか、方法が浮かばないのだ。また、慰安婦問題でも、歴史を掘り返して、強制連行の事実はないという主張しか、対抗手段として浮かばないのである。

しかし、中国や韓国が持つ対日本戦略を想定することを最初に行い、その戦略から出たプロパガンダが慰安婦像の建設などであると理解した場合、歴史を掘り返すだけでなく、別の戦術を思い付く筈である。
以上が、クレムリン・メソッドを一読して得た中心的な智慧である。著者があとがきに勧めている様に、今後何度か読むことになりそうである。

「クレムリン・メソッド:世界を動かす11の原理」の感想

北野幸伯著の本、「クレムリン・メソッド」世界を動かす11の原理(集英社インターナショナル、2014 /12/20発行)を読んだ。世界を動かす本質的な力やその源泉について、非常に判り易く解説されている。感心のある方なら、誰にでも推薦できる良書であると思う。

前半の第1から第6の原理として、世界の近代史を動かしている力とその法則について述べている。つまり、近代史は覇権を争う歴史であり、その動機は国家の利益、つまりお金、と安全の確保である。その方法は、第7から11までの原理に書かれている。派遣国やそれを目指す国は、その目的達成のための戦略を立てて、それに沿った情報操作とそれによる国際的宣伝と仲間作りなどを行なうのである。

これら全ての行為は、戦争とも外交とも言えるだろう。「戦争とは情報戦、経済戦、実戦の三つである」という原則(第10の原理)を理解し、日本に中国や米国などがとって来た戦略、それを実現するための情報戦や経済戦とその効果をレビューして、今後の日本の生き残り戦略を立てるべきであると教える。

具体的には、昔の例では太平洋戦争に至るプロセスが判り易く解説されている。つまり、日露戦争(1904年)で多額の経済支援をした米国に対して、満州の利権の分配を全く行なわなかったことが、米国を敵にまわす発端であったとある。そして1907年に対日戦争計画(オレンジプラン)が作られ、日本はその罠にはまってしまった。

また、最近までの米国の安倍政権に対する警戒姿勢は、中国の対日戦略とそれを実現するための周到な作戦の結果であると書かれている。中国の対日戦略を日本は必死に読むべきだが、恐らく尖閣諸島や沖縄を中国の勢力圏に入れることだろう。中国が企んだ中韓露が協力して日本の歴史認識問題を攻撃するプロパガンダは、ウクライナ問題が日本への助け舟になって頓挫した感じであるが、その効果は既に世界全体に行き渡っているらしい。

昨年だったか、来日したドイツのメルケル首相が行なった、日本への慰安婦問題に関するアドバイスは、その宣伝効果を証明している。そして、憲法改正、靖国参拝、歴史修正の3つを日本が行なうと、中国の罠にはまり、日米関係は破壊され、尖閣諸島は中国のものになるだろうと予言している。非常に説得力がある。

この本の要約は出来ないし、そして、全体の中身を紹介することは出来ない。もう少し詳しく一部を紹介すると、たとへば、第5の原理「エネルギーは平和より大事である」や第6の原理「基軸通貨を握るものは、世界を制する」のセクションは、最近の世界経済と政治を理解する為にまとめられた必須教材のような気がする。日本の首相が、基軸通貨としてのドルを守る米国の必死の努力を、理解していなかったエピソードも書かれている。この一年間に読んだ本の中で最も優れた本だと思う。一読を強く推薦したい。

2015年5月22日金曜日

政治屋に支配されるだけなら、日本維新の会(国政)は解散すべき

日本維新の会が大阪都構想の投票にやぶれた。その結果を受けて、最高幹部の橋下氏が政界引退を表明し、日本維新の会代表の江田氏も代表を辞任し、後任として松野氏が代表になった。松野氏は野党再編を今後模索するらしく、民主党の岡田氏と意見調整に乗り出した。

以前のブログに書いたように、維新の会のメンバー達も創立時のメンバーである橋下氏や府知事の松井氏らを除けば、殆ど全員が政治屋の域を出ないと思う。その代表格が維新の会の代表に就任し、数日して日本維新の会に分裂の気配が出てきた。

橋下氏は全エネルギーを維新の会の発展に注いで来たと思われるが、最近はエネルギーを失いつつある様に感じられた。そして前回の都構想に関する投票結果で、晴れやかとも言えそうなな顔で引退することになった。これまでの橋下氏の活躍とそれに注がれたエネルギーは、一人の人間の限界を越える位であっただろうから、これ以上の注文は出せないが、大阪府をかき混ぜただけで無責任だと言う向きもあるだろう。

維新の会の作ったつむじ風は、大嵐になることなく、つむじ風のまま消え去った。日本維新の会は解散するのが最も適当であり、このまま野党再編に参加することは、日本の政治に有害だろう。もちろん5年以上後になるだろうが次回のチャンスを待つ意味で、大阪維新の会がこれまで通り活動することは良いと思う。

2015年5月21日木曜日

家族という関係(改訂、5/24)

1)先日横浜で簡易宿泊所の火事があり、思わぬことが明らかになった。それは、これらの簡易宿泊所の住人の多くは老人であり、生活保護を受けているということである。テレビ報道の中で、危機一髪逃げ出した老人にマイクを向ける場面があった。その老人は、「息子と娘がいるが、迷惑をかけたくないので、ここに居る」と話していたのである。私はこの発言に違和感をもった。

子供たちもそれほど裕福ではないのだろう。しかし、三畳くらいの簡易宿泊所の部屋で、定期的に支給される生活保護費で毎日を過ごすこの親と、その子供達の関係を考え、日本の家族は壊滅状態にあるのではないかと思った。これは問題の本質を考える前に出した結論である。

  2)昨日買物にスーパーに出かけて、女房が食料を買う間本屋に立ち寄った。そこには、下重暁子氏(元NHKアナウンサー)の書いた、「家族という病」と言う本が特設コーナーに並んでいた。私は即座に、病は日本の家族ではなく、下重女史の頭ではないかと思った。家に帰って、ネット販売のサイト(アマゾン)でこの本がベストセラー(週刊一位)になっていることを発見した。そして、我が日本国では、家族が鬱陶しくなる病に罹っている人がかなり多いと悟り(注1)、同時に上記老人の話が理解できた。その老人は自分の子供がその病気に罹患していることを恐れたのである。つまり、その子供の世話になることにより親子の関係が完全に破壊され、自分の心の中の子供の像を破壊してしまう恐怖を抱いたのである。

  3)人は、どのような努力をしても、どのような成果をあげても、必ず死ぬ存在である。その際、この世界に何らかの足跡を残したという実感を持たない場合、その寂しさは恐怖と言って良い位なのだろう。その足跡として、子供以上に確かなものはないのかもしれない。何故なら、子孫は永遠に続く可能性があるからである。つまり、上記老人も自分を親として認めてくれる子供が、日本の或いは世界のどこかにいてくれる限り、現在から死ぬ瞬間まで、自分の心の中を一定の豊かさに保つことが出来るのである。 

日本に住む限り、日本の中の”空気”を知っている。その空気には、”家族を拒否する病”の臭いが存在していることを、その老人も感じているのだろう。もし、子供に自分の窮状を告げれば、最初は何とかしようと努力するだろう。しかし、遠からずして努力の限界が近づくと、老いた自分を鬱陶しく思う様になり、子供に「親を捨てる」決断をさせるかもしれない(注2)。そうなってしまえば、文字通り“元も子もない”。

  今受けている、“生活保護と三畳一間の豊かさ”を、子供を頼りに倍にしようと考えて、窮状を子供に告げることは危険な賭けなのだ。つまり、子供が”家族を拒否する病”に罹患していた場合、これまで大切にして来た、自分を父親として受け入れてくれている心の中の子供の像を破壊してしまう可能性があるのだ。

4)日本は一般に豊かな国である。生活保護費を貰うという最底辺状況であっても尚、簡易宿泊所であれ、独立した部屋の中で眠ることが出来、食料も何とか手に入る。日本では、それ以下の生活を送る人々を見ることが(でき)ない国なのである。その一定以上の豊かさしか目にしないことが、人と人の結合を弱いものにするのだろう(注3)。 

  親子という関係や家族という関係は、全ての哺乳類の 遺伝子の中に、生き残ることと子孫を残す為に存在する筈である。そして、その目的がその個体において達成された時、幻のごとく消え去る様にプログラムされているのだろう(注4)。 人の場合、家族という関係は一生続く。しかし、子供が独立した時には、“家族という関係”は言わば残滓であり、社会的関係として残っているだけだと思う。つまり、それは人間の築いた文化としてであり、生物としてプログラムされたものではない。 

その残滓としての家族という関係も、豊かな日本では他の多くの社会的関係(注5)と同様に、消え去ろうとしているのだろう。 ”家族という病”はその本来”消え去った家族という関係”を、取り戻そうとすることだと思う。つまり、精神的肉体的に独立期に達した子供の、親に対する反発と、(その時点では残滓或いは幻でしかない)家族という関係に執着する親との”摩擦”なのだろう。 

5)人間は自分という意識を持つ唯一の動物である(注6)。自分という意識は、全体から個として切り離されることの自覚を意味する。また、自分という意識がなければ、考えることも智慧を持つことも出来ない(注7)。人は、智慧をもって生まれ、自分の死を知る唯一の動物である。そして、自分の生の意味、つまり、永遠の価値を、自分の一生の中に探す(注8)。しかし、人の一生の意味も動物のそれと本質的に同じであり、遺伝子にプログラムされているのは、子供を産み育てることのみだろう。そのような運命にある人間は、子孫を産み育てる段階は上り坂であり何の疑問も持たないが、それ以降は下り坂であり、前途に道が無くなったような感覚を持つと思う。そこで、上に書いたように、人は家族という関係をしっかり残して、子孫の中に自分を残すという欲求を持つのだろう。

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私(このブログの筆者)は、下重暁子氏の本「家族という病」を読んでいませんので、本文章はその本の内容と直接関係ありません。
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注釈: 
1)アマゾンには、読後(使用後)のコメントも他の商品同様に掲載されている。そこには、酷評が多いのだが、4点や5点(5点満点)を付けているのもあった。そのトップに紹介されていた長文のコメントの最後に「親の犠牲になるべきかどうか、選択を迫られている人にはおすすめです」ということばで締めくくられていた。 
  2)”家族という病”を主張する病に罹患した人の症状は、その限界のレベルが非常に低いことである。 
3)豊かさをエネルギーと考えれば、基本粒子である分子の世界まで、この法則は成り立つ。例えば、水分子はお互いに強く手をつなぐ性質をもっていて、0°Cまで互いの位置まで変化せず固まって存在する。つまり氷である。0°Cで液体となり、100度でバラバラになって空中を浮遊する。また、井上陽水の”人生が二度あれば”という歌がある。貧しい状況下一生懸命に自分を育ててくれ、そして年老いた親に対する感謝が唱われている。親孝行(=家族の絆)と貧しさは、対で存在するのだ。
4)哺乳類では、成長した子供に食物を与えず、親が独り立ちを促して追い払う行動をとる種が多い。それを、道徳との関連で考えるのは間違いで、家族の絆が消失した結果だと思う。
5)他の社会的関係も原始的なもの、例えば地域共同体の中での協力体制などは、生活を豊かにする為に発生したと思う。地域で協力する為の社会的関係は、豊かになれば消え去る。各種組織の消失は、社会科学分野でもエントロピー増大の法則との関連で理解されている。 
6)猫は鏡の中の自分の像を理解できない。自分の像を理解できるのは霊長類とイルカやクジラだと言われている。チンパンジーやイルカが死をしっているかは疑問である。死を知らないものに、Life(生命、人生)の空しさはないだろう。
  7)我の自覚がなければ、考えることは出来ない。「我考える(想うは訳としておかしい)故に我在り」は、「我在るが故に、我考える」でもある。 
8)智慧を持つことは旧約聖書の中の記述がいつも気になる。「禁止されていたにも拘らず、智慧の木から実を採って食べたアダムとイブは、自分が裸であることを知り、イチジクの葉で局部を覆う。それによりエデンの園から放逐され、子孫である人間は死する存在となった。」勿論他の動物も個体としては死ぬが、それを意識する智慧はない。従って、人以外の動物は自分の生命に空しいという気持ちを(自分の気持ちそのものも)持たないだろう。 
(5/22/22:00;5/23/7:00;5/24pm;5/25/am 改訂)

2015年5月18日月曜日

”平成維新”の失敗: 中央と地方の相互依存体質は革命がなければ変わらないだろう

大阪都構想は昨日の投票により否決された。大阪自民党府議連や共産党らの議員達は、議席を失うことによる私的な損害を防ぐため、市民府民の不利益が予想されるように理屈をつけて、必死に反対運動をしたのだろう。太田知事時代の放漫財政など、橋下氏以前の状態を考えて投票しろと言っても、一般市民府民のレベルでは無理である。

民主主義など何らかの“裏打ち構造”(注1)がなければ、衆愚政治に終わるというのは、既にギリシャ時代に証明されたことである。共産党と自民党が共闘する理由は何なのか?それは現在の議席確保以外に無いのである。それすら一般市民には理解できないのだから、救い様が無い。

大阪は再び、財政再建団体に向けて走り出すだろう。自民党と共産党が共闘するような議員連中に、まともな政治など出来る筈がない。昨年の野々村兵庫県議の涙の会見で、彼は感情の支配に負けて、県会議員という議席を失うことが最重要な問題であることを白状している。それは現在の地方自治体議会議員のレベルを証明している。

現在の形での地方自治体議会は、住民の多額の税金を投入して運営する価値などないのは、前回の統一地方選の低い投票率や多くの無投票当選が出たことで証明されている。それは、中央集権的に地方自治もかんがえるという現在の日本の政治体制の結果である。つまり、地方自治体など知事と行政職員が居れば、議会など不要なのだ。投票などに行っても、地方政治が変わることがないことを、10年もその中に生きていれば肌感覚的に判る。それは、最近テレビの政治番組で石破氏が出れば、私は自動的にテレビを切る原因でもある。

地方が必死に生き残る道を探すような、あの幕末の時の各藩のような、地方政治が現在の日本にも必要である。つまり、日本全体を見る視点も大事だが、地方の視点を持つことも日本国全体には同様に大事であるということである。それには、地方の知事や議会議員の出来不出来が、直接地方の人たちの生活に影響するようにすべきである。

地方創生は、地方のことは地方に任せることで初めて可能になる。それは、地方が中央から自立することを意味するのだが、それは同時に、中央が地方から自立することも意味している。現在は、それとは逆に地方は完全に中央に依存し、その地方が選出する形で中央の議会や内閣を作っている。そして、山口県の第4区の民意で、日本国は総理大臣を選んでいるのだ(注2)。

国会議員を選ぶ現行選挙のあり方は、点での依存であっても、中央が地方に強く依存するメカニズムである。そして、その中央の地方依存のメカニズムがあるが故に、地方も中央に強く依存し、その結果として地方創生を中央で考えるのである。その点を改革する第一歩が大阪都構想であり、それに続く道州制の導入構想である。今回の橋下氏敗戦で、道州制は大きな歴史的出来事が無い限り成立しないことが明らかになった。

最近、「明治維新という過ち」という本(原田伊織著、毎日ワンズ2015)を読んだ。そこには、薩長の下級武士達がテロリズムで江戸幕府を転覆させた経緯が細かく書かれていた。著者は、薩摩や長州の下級武士たちの数々のテロ行為を無駄且つ有害な行為として糾弾している。そして、もし彼らの企みとその後の所謂明治維新がなければ、大陸侵略へと進んで日本国を破滅に導いた昭和の失敗がなかっただろうとまで書いている(注3)。

歴史にIFはあり得ないのだがという前置きに続く、上記薩長下級武士の行為を攻撃する文章は、やはりおかしい。何故なら、将に、歴史にIFなどないからだ。そしてその証拠に、上記著書には日本国が列強の植民地になったという可能性には触れていない。薩長下級武士の熱意とその結果としてのテロがなければ、藩として薩長が倒幕に動くことはなかっただろう。それは大政奉還の直後の小御所会議において、山内容堂や松平春嶽が徳川慶喜を会議に呼ぶべきだと主張したことで判る(注4)。

つまり、“歴史に何故革命が必要だったか?”という問いに対する回答を、小さい規模ながら、今回の橋下氏の”平成維新の失敗”が与えていると思う。勿論、もっと大きなレベルで明治維新の成功が教えているのだが、成功だけに判り難い。何故なら、成功は一般には教訓にならないからである。

注釈:
1)細胞膜を裏側から支える蛋白質を裏打ち蛋白と言う。生体膜の主なる構造がリピッド二重膜だといっても、それだけでは細胞の形が維持出来ない。民主主義が脂質二重膜で、裏打ち蛋白にあたるのが、民の意見を誘導するための諸団体である。
2)この論理に反対の人は多いだろう。その方々には、“万が一山口4区で安倍さんが落選していたら、どのようにして彼を総理大臣に選ぶ方法が日本国民にあったか?”と問いたい。
3)詳細は、別途感想文に書く予定。
4)大政奉還した徳川慶喜を会議に呼んで辞官納地をさせることは、彼ら大名には出来なかっただろう。徳川300年の後、公武合体による統一国家(国民国家)が出来ると考えるのは、知性欠如というよりもっと重症の感覚欠如である。

2015年5月16日土曜日

大阪都構想よりも橋下を選べ

明日は大阪都構想を問う選挙が行なわれる。政治は、刻々と状況がかわる荒れた河を船で下るようなもので、操縦士としてのトップが重要である。下らない計算や屁理屈で反対意見を述べる、既存政党の政治屋どもには腹がたつ。どのように計算や議論をしても、成果の長期予測できないのは、会社経営でも国家の歴史でも同じである。操縦士として、一度橋下氏に大阪を任せるべきだ。

理論予測できるのは自然科学のうち、物理と化学だけである。経済や政治の理論は、正確な予測には用いられない。”理論”や”学問”の意味は、両者(物理や化学と政治経済)で大きく異なるのだ。二重行政の解消という目的に異存がない以上、既存政党のくだらぬ理論予測はプロパガンダでしかない。

日本には二人しか政治家は居ないと思う。安倍総理と橋下大阪市長である。他は全員、濃淡があるものの政治屋の要素が強い。安倍総理は自民党総裁ではあるが、これまでと違う全く新しい視点で外交を進めており、私自身、支持か不支持かは未だ揺れている(補足1)。他の自民党議員は党の総裁に従う烏合の衆であり、何でも良いから議席を保持したいという人達に見える。

今、ウエークで議論しているが、そこで紹介された二人の自民党幹部の意見が面白い。首相に近い菅官房長官の発言には、大阪都構想に対する理解の姿勢が見えるが、幹事長の谷垣氏は何よりも(大阪の)議席大事の発言で終わっている。谷垣氏は、そのような発言が政治屋であることの白状にあたることなど気にせず、ひたすら自民党府議連などとの関係に気を配っている。

つまり、日本の政党を保守と革新に分けると、既存政党は全て保守である。共産党は既に他に書いた様に、自民党に反対することで議席を得るだけの政党であり、単に自民党の影に過ぎない。従って、自民党を破壊する可能性を持つ政治勢力には反対する。民主党は無能の衆であり、どうして良いかわからないが、議席を保持したい人たちの集まりである。維新の議員も橋下氏の看板に集まっているだけだろう。

橋下市長は日本の将来を大阪市と大阪府から改革するという目的に向かって進んでいるが、あまりにも保守の反対が強く、住民がそちらに票を入れれば政治から身を引くだろう。その場合、新しい芽(補足2)は日本にはなくなる。

補足1:このまま安全保障関連法を安倍総理の考え通りに改訂すれば、日本の政治家の能力が今のままであれば、米国に対する完全従属になる危険性が高い。
補足2:橋下氏も、能力においても知識においても十分ではないだろう。ただ、彼の政治家としての遺伝子(自分に間違いがあれば、自分の面子に拘らず、誤りを認めて正しい方に政治を進めることができる)に期待している。


2015年5月13日水曜日

明治維新と銃の性能:尊王攘夷派の背後に外国(英国?)の影

「明治維新の過ち」(原田伊織著)と題する本を読んだ。その感想は後ほど書く予定(注1)だが、今回は面白い記述を一つ見つけたので紹介したい。それは、鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争の勝敗を決めたのは、薩長を中心とする西軍(通常官軍と呼ぶ)の武器の性能が圧倒的に高かったことである。 

戦闘の際に重要なのは銃と大砲であるが、19世紀はそれら武器の改良が進んだ時代である。当時使われた銃の種類を下の表に示す。
前装式では銃を垂直に立てて銃弾と火薬を銃口から装填する必要があるので、時間がかかる上に、攻撃され易くなる姿勢をとらざるを得ず、不利である。また、ライフル溝が彫ってある銃から発射された銃弾は、回転しながら飛ぶので、弾道が安定して正確に的を射ることができる。更に、連発式になれば発射の時間間隔が短くなり有利になる。発射までの間隔であるが、ゲーベル銃で一発撃つ間に、ミニエー銃では2回、スナイダー銃では6回発射できるという。スペンサー銃は、機動性を重視して銃身が短く作られているが、連発式ライフルであり、更に大きな威力があっただろう。

西軍はミニエー銃、スナイドル銃、スペンサー銃を主に用いたが、仙台藩などはゲーベル銃が主であった。また、銃だけでなく大砲の性能にも同様に大差があったと書かれている。(上掲書217頁から始まるセクション)つまり、戦闘になれば武器の点でも勝負にならないのである。

従って、経済力や外国との交易能力が勝敗を決めるということになる筈である。経済力は勿論、外交能力も幕府の方優れていたことは、明らかな事実である(注2)。薩摩は密貿易などで多少金があっただろうが、長州などの藩を考えると、高価な銃や大砲を幕府側に先だって揃えるのは困難だった筈である。それなのに何故、西軍(官軍)と東軍(幕府と佐幕派)で銃の性能に大差があるのか?その点には「明治維新の過ち」はふれていないのだが、恐らく西軍は海援隊などが英国のグラバーなどを通して、武器を多量に調達したのだろう(補足追加)。

西軍は、攘夷の対象である筈の英国などの国(注3)から資金面や作戦面などで、相当密接に関係していたのではないだろうか。幕府側と外国との関係に関しては、江戸城開城のときも、フランス公使が江戸城に何度も登城して、慶喜に抗戦してはどうかと進言したという例がある。グラバー邸に(トーマスグラバーと坂本龍馬らが)密談する部屋があったということも、このあたりのことと密接に関係ありそうだが、未だ十分には明らかにされていないようだ。

ただ、最近西鋭夫(スタンフォード大、フーバー研究所教授とあるが、判らない)と言う人の講演がネットで配信されており、その中(宣伝画面;有料なので全部は見ていない。)に、”坂本龍馬に何処かから大金が出ていた”という示唆があった。

補足:
1)池田信夫氏が感想文的なものを書いて発表している。http://agora-web.jp/archives/1640889.html
2)王政復古の大号令の後、将軍慶喜は諸外国に外交の相手は幕府であることを確認させている。
3)薩長が、攘夷を叫んだのは本音ではないだろう。本音は倒幕であると思う。また、池田屋事件の動機は、御所に放火して孝明天皇を長州に拉致する計画が発覚したからであった。そのことからも、尊王の気持ちも薄いことは明らかである。
補足追加:この本は一定の知識を前提としている様なので、その後半藤一利著の幕末史を読んだ。その中に、「薩長同盟の時に、薩摩がグラバー商会を通じて武器を買い、それを長州に廻すという約束がなされた」と言う内容の記述があった。(6/26)

2015年5月11日月曜日

ドイツの首相の柔軟さ

5月9日、ロシアは対ドイツ戦勝70周年式典を行なった。そこにはG7からの首脳出席はなく、中国の周近平主席と並んだプーチン大統領の日本の軍国主義を批判する演説が日本に報道された。

その翌日、そのドイツからメルケル首相はロシアを訪れ、プーチン大統領と会談を行ない、ウクライナ問題について話し合った。また、対ドイツ戦で死亡した兵士の墓に献花した。このメルケル首相の柔軟な姿勢は、色んなことを教えてくれる。

一つは、G7が出席しない様に米国からの圧力には形式的には応じるという姿勢であり、それは米国の国際社会における重みが無くなって来たということである。第二に、第二次大戦は遠い過去の出来事であり、ドイツは完全にその歴史を消化し終わっているということである。

メルケル首相が日本に来た時、日本と東アジアとの歴史認識問題にふれて、日本に早期の解決を進言した。その時の発言を、日本軍の東アジアでの行為とナチスの行為を同レベルの戦争犯罪と看做した様な発言を行なったと非難する向きが多かった。

確かにメルケル氏には、例えば、従軍慰安婦問題に関する詳細な知識はないので、過敏に反応する現在の日本では、あのときのメルケル批判は仕方ないかもしれない。しかし、今回のメルケル氏のロシアに対する対応をあわせて、あのときの日本政府に対する進言をもう一度反芻すべきではないだろうか。

2015年5月8日金曜日

英王女の名前をサルにつけるべきではない

高崎山で生まれたサルの子供にシャーロットと言う名前をつけたことが話題になっている。数百件の苦情メイルや電話で、動物園側も取り消しを考えていると報道されている。その件で、フジテレビ系記者の取材に対して、イギリス王室は、「名前のつけ方は自由」とコメントしたという。 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150508-00000947-fnn-int

英国には取り立てて反日感情がないと思うので、サルに王女と同じ名前をつけたからと言って、その行為に悪意を感じる人は少数だろう。しかし、もし将来関係が悪くなれば、それを反日感情の醸成に利用する人もでてくるだろう。従って、そのような名前は付けるべきではない。

例えば、韓国の動物園がゴリラの赤ちゃんに日本の親王の名前、悠仁(ひさひと)を公募で付けた場合、一部の人は非常に不愉快になるだろう。上記記事によると、英国でもこの猿の命名の件は話題になっているという。大多数の人が気にしなくても、一部が非常に不愉快になることは敢えてすべきでない。そのような問題の決定手順として、多数決的は相応しくない。

多数決は、それしか採決の方法が無い場合、或いは、多数の賛成が少数の反対を消し去ることが出来るような問題の決定に用いるべき、採決法である。少数が気分を著しく害し、それが多数の賛成によっても消し去れないような場合、出来れば多数決ではなく、もっと他の方法(補足)を採用すべきである。

補足(5/8午後)最後の節は一般論である。他の決定方法とは、例えばその分野の専門家の議論で決定するなどの方法である。

2015年5月6日水曜日

異常な韓国の反日運動:歴史の消化不良は日本も同じ

テレビでも既に報道されているが、韓国が「明治日本の産業革命遺産」がユネスコ世界遺産にノミネートされたことに反発している。例えば、人民日報の記事によると、“韓国外交部(外務省)の尹炳世(ユン・ビョンセ)長官は4日、国会外交統一委員会会議で活動状況について報告を行った際、日本政府が「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産への登録申請を希望している件に関し、「日本は、自分たちが朝鮮人労働者を強制徴用したという史実を否定し、関連施設の世界遺産登録を行おうとしている。このことに対し韓国政府は断固反対する」と述べた”とある。

この“朝鮮人労働者を強制徴用した”という文章は、誤解を産むように仕組まれている。この徴用は、第二次大戦前後のことだろうが、それは日本人全体にたいしておこなわれたことであり、徴兵と同様国民に義務として課されたものである。http://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮人強制連行によれば、池田信夫氏が指摘しているように、徴用は朝鮮人に限ったことではない。徴兵について問題にせず、徴用を強制連行或いは強制徴用として日本批判するのは、人権問題として世界に宣伝したいからである。この動機は、従軍慰安婦のケースと全く同じである。慰安婦も日本全体から集められたのであり、朝鮮人を選んだのではない。ましてや、慰安婦の強制徴用などなかったことは、唯一の証拠とされた吉田清治の証言が捏造であったとして、朝日新聞がそれを報じた記事を削除したことで明らかである。

韓国は、日本への憎しみを増幅して国民に植え付け、バラバラの釘を磁場で並べるように、国家としてのまとまりを得ようとしている様に見える。第二次大戦が事実上終了した8月15日を戦勝記念日として韓国は祝っているが、その時韓国が独立を回復したと言うより、混乱状態になったというべきだろう。そして未だに、反日しか国家統一の旗頭がないのではと思ってしまうくらいだ。その混乱の歴史に初めて真摯に向かい合ったのは、盧泰愚大統領だろう。

具体的には、韓国は最近まで済州島四・三事件や韓国本土での保導連盟事件で、数十万人という韓国政府による自国民虐殺事件があったことを隠して来た。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、この済州島四・三事件に関して、2003年10月に行われた島民との懇談会で初めて謝罪した。韓国は対日批判ばかりしていないで、自国の歴史と真摯に向かい合ってそれを消化することが、反日でない旗頭を得る道ではないのか。

実は同じことが日本にも言えるだろう。過去の戦争の原因や責任の在処を国家として検証せず、死んでしまえば皆神様だという具合に、安易に戦争関係者全ての名誉回復をおこない靖国に祀った。一方、東京裁判では一方的に米国との開戦に反対であった重鎮たちも処刑され、それを受け入れることで講和条約を結んだ。この両極端の間で、国民は統一した考えを持てないでいる。それが原因で、近隣諸国といまだに歴史問題としてもめているのである。

補足:
歴史問題で追加すると:中国への侵略行為は明白だと思うので、安倍総理には70周年記念談話があるとしたら、謝罪の必要は無いと思うが、その事実は明確にことばにしてもらいたい。

2015年5月4日月曜日

安倍総理の米国議会での演説は、自己破産的手法か?

安倍総理の米国議会での演説は、幾つかの問題を含むものの成功であったと思う。新聞紙上で全文を読んだが、話の筋は非常に良く出来ていて感心した。英語は下手だが、それでも堂々と45分間演説する姿には、政治家岸信介の家系の重みを感じる(注1)。

問題点は言うまでもなく枝野氏など民主党の方々が非難している通り、自衛隊法の改正はおろか国会で議論もせずに、地球規模で米国軍と自衛隊の連携を約束した点である。この点についてのみ、以下に書く。歴史問題などについてふれた部分の感想は、既に、時事放談の感想として他のブログに書いた。 この集団的自衛権行使を地球規模で行なうことは、憲法や自衛隊法上問題があると思う。そして元々、自衛隊を持つこと自体も憲法9条に違反する。そのことは、既に議論した様に憲法の条文を読めば明白である。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html

ただ、外交も財政も、法律無視のやり方は今に始まったことではない。日本国が隣国の軍事的脅威から領土保全を果たして来たのは、日米安全保障条約と軍隊でないと政治家が言い張る自衛隊(self defense force:自衛軍)があったからである。そして、貯金癖の強い国民と企業が大半の日本で、健全な経済を維持するのに必要な金(かね)の流通は、日銀の国債引き受けしかないのかもしれない(注2)。

借金を貯め込んだあとに、徐々に返済するように、法律も徐々に実態に合わせていくという方法では、最早手遅れだろう(注3)。その“付け”は、自己破産に似た、強引な安倍総理の様な手法でしか支払うことが出来ないのかもしれない。米国議会での演説でその決意を表明するのは、まさに米国が債権者(日本防衛の話)だという発言を強めたことが原因か、或いは、安倍首相が米国を債権者に仕立てる方法を思い付いたからだろう。

新聞紙上(中日新聞5/4、23面)には、ノーベル賞作家の大江健三郎氏、落合恵子氏、澤地久枝氏など参加した、横浜市で開かれた「憲法集会」の様子が記載されている。落合恵子氏の「集団的自衛権は、他国の人々と殺し合う権利でしかない」という発言が紹介されている。彼らは。憲法9条と日本の戦後平和主義が、日本を護って来たと本気で考えているらしい。

日本を代表する知性(に含まれる)と新聞などで紹介されている彼らが、そして、日本を代表する新聞など、更に、日本のテレビ(時事放談、サンデーモーニング)などが、同じ様な台詞をこの半世紀吐いて来たのだから、議論しても時間の無駄だろう。英米と違って、日本は民主主義という仮面を下手にかぶっている。

日本の戦後政治は、韓国と違って、政治家の身の安全保障には万全であったが、国家の安全保障は放置されたままだった。

注釈:
1)これは、政治家の二世にはろくなのはいないという、持論に反する文章に見えるかもしれない。しかし、安倍総理の政治家としての評価は、あの演説では定まらない。
2)日銀による市中銀行からの国債はぎ取り行為は、実質的に財政法で禁止された国債の直接引き受けである。日銀当座預金の大半に利子(0.1%の付利)がついていることは、銀行が国債を手放し易くするためだと思う。専門家の意見を聞きたいのだが。。。
3)強大になりつつある中国とは、友好関係を築く努力をすべきである。そして、同時に防衛努力も進めなければならないが、その為には憲法や自衛隊法の改訂を急ぐ必要がある。民主党と長々と議論していては、中韓に直接非難とそれによる日本国民洗脳の時間的余裕を与えてしまうのだろう。中曽根元首相も先日のテレビの画面上で、憲法改正をしなかった歴代政権の責任にふれていた(自分もふくめてだろう)。

2015年5月2日土曜日

ネパールでの地震災害救助隊について:生存者の生活支援も緊急の課題である

ネパールでの地震救援隊は各国から派遣されたが、がれきの中から救助出来る生存者の人数は少ないようだ。現地では、時間の経過とともに健常な被災者が水と食料の不足に悩んでいるようである。

先進国やBRICSレベルでは、怪我をせずに生き残ったものは差し当たり食料調達にはそれほど苦労しないだろう。従って、がれきの中から生存者を救助することや遺体の収容などが、救助隊の大切な仕事だろう。しかし、ネパールのような極貧国においては、緊急の救援と謂えども、怪我をせずに無事生き残った人、更に、家も無事だった人たちのことも考えて、国際支援をすべきである。

ネパールの1人当りGDPは世界172位で約700US$しかない。日常の生活において、既に食料と水が十分なだけ入手出来ないひとがかなりいるだろう。地震後にがれきの中から救助した人の数より、地震後の暴動などで死亡する人が多くならないことを願う。また、空港などの国に入り口まで支援物資を送り込むだけでは、人々の手に渡らないかもしれない。現地の状況に即した、救助と救援を行なってもらいたい。

半年ほど前、NHKのドキュメントで日本では考えられないような情景を観た。道路網も十分にはほど遠いネパールの山岳地帯で、小さい子供達が学校に行く時、河の上の1本のケーブルに懸けられた滑車付きの篭に乗り込み、自分でロープを引っ張って渡るのである。先進国文明とは情報のみでつながった、発展途上前期の国家の姿である。

災害支援も国家の発展段階に応じた体制がとられなければならないと思う。