2013年12月26日木曜日

安倍総理の靖国参拝について:

 靖国神社は戦争で命を無くした兵士達を神として祀る神社である。先ほどのニュースによると、安倍総理大臣が就任一年後の今日参拝した。それに対して、お決まりの、或いは、それ以上の批難が、日本国に併合された国や侵略された国(韓国及び中国)から出されている。(注釈1)
 靖国神社には、東条英機を始め先の戦争に責任のある当時の各省大臣たちも、合祀されている。櫻井よしこさんが週刊誌に書いた様に、所謂右翼系と目される人たちは、戦争責任者とされた人も赦免されて合祀されていると考えている。(注釈2) この合祀によって靖国は、時の政府の決定に従い、国を守るためと信じて戦死した兵士達を神格化した神社から、戦争を机上で計画して実行した人たちの神社へと、部分的にではあるが、変質した。自民党の靖国神社に団体で参拝した人たち及び安倍総理は、「戦争指揮者達の霊に参拝する為ではない。国の為に命を捧げた兵士達の霊に参拝するために靖国に行ったのだ」というだろう。もしそうなら、彼ら戦争を指揮した者たちの合祀以後参拝されなかった昭和天皇と彼らの考え方の差は何かを説明すべきである。“もっともだ”と傾聴に値するものは何一つ出てこないだろう。
 今回安倍総理の靖国参拝は、日本の今後にどのような影響を与えるかを十分考えないで行なわれた、軽薄な行為であると思う。“中国や韓国の国民や首脳がどのように感じるか”は、直接的には問題外であるが、“日本国がどのような影響を受けるか”を考える上には非常に大切なのである。今回の参拝は、隣国との摩擦を敢えて大きくし、中国に尖閣諸島へ軍を出動させるきっかけとなるかもしれない。
注釈:
1)国会議員団の靖国参拝に懸念を示す中国韓国を批判する安倍氏への反論(4月29日)
2)櫻井よしこさんの靖国参拝に関する考え方を批判する(8月29日)
(12月26日午後3時投稿、午後8時30分注釈を改訂)
補足:今回の安倍総理の靖国神社参拝に対して、同盟国である米国からも批判があった。それを政府筋は想定外だと思ったとのことである。私には米国の反発は当然のことと思っていた。つまり、今の政府要人の頭脳はその程度のことも判らないレベルだということである。
或いは、想定外というのは嘘で、安倍総理や自民党首脳にとって靖国神社参拝はそれほど大切なことなのかもしれない。「自分の命が無くなるとしても、家族とその子孫が今後平穏に暮らせるのなら、無駄死ではないだろう」と召集令状をもらい戦地に赴いた多くの兵士達は思っただろう。彼らの霊は、今回のような日本国を孤立へ導くかもしれない靖国参拝をけっして喜ばないだろう。昭和天皇ならそのように考えられたと思う。私のような典型的な日本人(と思っている)にとって、彼ら自民党首脳らは将に異教の徒なのかもしれない。(12/27朝補足)
補足2:靖国は神社であり、従って慰霊の場所ではない。拝礼する場所である。
また、この記事の最初に兵士を祀る施設と書いたが、実際は、神社は古代から戦争指導者として大きな働きをした英傑を神として祀る場所であり、決して一般兵士を祀る施設ではない。先の戦争は、負けた戦争ではあるものの、神社に祀るレベルの者は、戦争指導者である東条首相や阿南陸軍大臣等である。神社は彼らこそこの靖国に相応しいと考えている筈である。
 兎に角、日本国は”ごまかしと曖昧”で運営されてきた国である。昨日の沖縄知事によるの辺野古埋め立て政府案に対する同意も、同様である。辺野古での基地建設に9年かかるのに、「5年で普天間を撤去する」という主なる合意事項を極めて曖昧な形にぼやかして首相は提示し、知事は受け入れた。同じ類いの”ごまかしと曖昧”の決定である。まともな論理が支配する国家にならなければ、”曖昧とごまかしの東アジア”から日本国は抜け出られず、その底に沈むだろう。
(12/28朝補足;同時に本文の日本語の二カ所訂正しました。)

2013年12月23日月曜日

科学技術文明の発展と崩壊について

 自然科学(自然哲学)は二十世紀に大きく進歩し(注1)、その工業技術への応用は、人類に全く新しい生活環境を提供することになった。それに比較して、人間や社会を対象にした通常哲学と呼ばれる分野に関しては、素人目には自然科学ほどの大きな発展は見えない。(注2)その原因は、用いる言葉にあるのではないかと思う。与えられた言葉により、人間の思考の範囲は決められてしまうので、その言葉を使う限り哲学の発展にも限界があることになる。(注3)一方、自然科学が大きく発展したのは、言葉として通常の言語の他に数学を用いたからであると思う。その結果、通常の言語で与えられた、例えば、粒子と波、エネルギーと質量(重さ)などの基本的概念の壁をも、突き破ることができた(注4)。その発展した科学を基礎にして、現代の技術文明の中心にある電子技術や新材料技術などが発展した。
 その自然科学が奇跡的発展を遂げたことの原点にあるのは、やはりギリシャの哲学であると感じる。ソクラテスの”対話”を真理へ到達する方法とした考えに基づいて、現在の文明が築かれたのではないだろうか(注5)。科学は、対話という方法と数学という新しい言葉を用い、自然科学と相互作用的に発展した技術文明という土壌の上に、大きく育ったと思う。この自己駆動的に発展した”科学技術文明”にもやはり限界はあると思う。理由の一つに、人の寿命や知能が有限であるため、次の世代に整理された形で伝承することが可能な(文明に関する)情報の質と量に限界があるからである。更に、この科学技術文明は今や人間の直感を超えたところにあるため、人は屢々”携帯をもったサル”状態になってしまう。つまり、自分達が造り出した文明社会に人間が不適応状態になりつつあるためである。
 文明の情報量と人の感覚からの乖離(注6)が大きくなるに従って、人生の目的(調和的な人生)と文明を維持すること及び文明から受ける利益との間に、大きな差が生じる。その時、“科学技術文明”はその頂上に至ると思う。この高度にバブル的に発展した文明の終わりは、停止するという形ではなく、カタストロフィックな崩壊的なものになるだろう。例えば、核戦争での大都市数個の破壊とその後の世界経済の破滅のような、論理的に継続しない形をとると思う。(注7)

注釈:
1) 進歩の度合いを計る物差はたくさんあり得るので、古代より着実に進歩して来たという言い方もあり得る。ここでは単に表層的な変化について述べているだけである。
2) NHKで放送された"サンデル教授の哲学講義"で、正義についてのレベルの高い講義が放送されていた。しかし、たかが正義について近代哲学者によっても繰り返し議論されているとしたら、驚きである。(追記参照)
3)現在、少しずつ勉強しているに過ぎないので、この言葉は言い過ぎかもしれない。
4) 量子力学は、電子(古典的には粒子)を波動として取り扱うことで、その原子分子での振る舞いを理解可能にした。また、原子力発電の原理は言うまでもなく、原子核分裂の際、一部の質量がエネルギーとして放出されることを利用している。
5) 対話は英語でdialogueであり、ギリシャ語でディアロゴス(二つのロゴス)というらしい。つまり、二つの理の対立により真理へ到達できるのである。この方法は、個の都合を排して真理へ近づく最善の方法である。ここで二つは、神(=自然観察)と人(哲学者の論理)なのだろう。
6)通常言語の概念を超えて発展した科学とそれによる技術が、人の感覚から乖離した所にあるのは当然かもしれない。例えば、コンピュータに置ける数テラバイトの記憶装置や数GHzの演算速度は、一台で全国民の個人情報を管理解析出来るレベルにある。
7)リアルタイムで情報が世界中を伝搬するため、人は人間固有の時間スケールより遥かに早い応答を要求される。また、やり取りされる情報の性格付けが時として容易でないため、突発的に異常なことが起こり得る。また、数世代に亘り文明から受ける利益は、人を傲慢にし、その結果この危険性を増す。崖を落ちるように一瞬の悲劇は生じるかもしれないと想像する。その後、知的真空状態(或いは虚無状態)の中で世界は混乱し、社会は信用を失い、世界経済は破綻するような気がする。追加:一言で言えば、この世界は6歳児が戦車を持っている状態にある。
(出来が悪くて改訂を繰り返しています。何を感じてこのような文章を書いているかだけでも、理解していただければと思います。平成25年12月23日午後、24日、25日夕改訂)

追記(12/29):近代の哲学が存在や認識についていろいろ議論しているのは知っていますが、それらは何か実りあるものを人類に与えたか疑問ですので、注釈2)には上げていません。私は、人が創造された時に、人の認識は全て人の内部に用意され、決定されていると思っています。更に、人と同時に創造された言葉にその表現が準備されていると考えています。ただ、人の創造が神によりなされたかどうかは判りません。これについてはホームページの巻頭に書いています。

2013年12月17日火曜日

都議会は検察の下請けか?或いは遊んでいるのか?都知事と徳州会の件

 連日の都議会の様子をテレビで観て、表題のような疑問を持つ人は多いだろう。私には、都議会は検察のまねごとをしており、税金の無駄使いをしている様に見える。この見方は、一般の方の意見と同じであり、ここに披露したい。
 民間放送には、放送法第1条、”公共の福祉に適合する”という条項に反しているかどうかの疑問は少しあるが、表面上は”公共の福祉に反する”とは言えないので、それほどの苦情を言う理由はない。しかし、国民から視聴料を取っているNHKまで民法同様だらだらとこの件を報道しているのには呆れる。政治や社会運営(権利義務、議会、法などの近代国家)における、日本文化の底の浅さを知る思いである。西欧文化に関してこの部分(注釈)での未消化があるだけでなく、日本文化として定着していた「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」や、"武士の情け"も消えたとしたら、テレビやインターネットなどの西欧からもたらされた新しいメディアによって、日本は益々住み難い社会に変わって行くことを危惧する。

注釈)日本など東アジアには、経済発展した社会を国家レベルで統治する文化はないと思う。西欧のそれを借用するしかないのである。例えば:ワイルドスワンズ(ユン・チアン著)に、「役人になって口利き料をもらわないのなら、何の為に役人になるのか?」というのが、中国の一般人の感覚であるという記述がある。
(理系人間ですので、常識に反した議論をしている可能性があります。ご指摘あれば感謝します。)

2013年12月15日日曜日

ユルキャラで観光客を集めようとする愚

 愛知万博の時ころからか、多くの地方で観光客などの誘致の為に、ユルキャラと言われる変装した人がマスコットを演じている。同じ目的であるにしても、どうしてもっとオリジナルな方法を用いないのか不思議である。他人事ながら、恥ずかしく思う位である。
 キャラクターの形が全く異なっていても発想が同じであるので、後に出てくるほど、非常に貧弱な印象をもってしまう。これは日本文化に、オリジナリティーという価値観が非常に希薄であることによる。類似の意味の無い或いは馬鹿げている風習を少し挙げる。例えば:
1) 小学生になると、何故かほとんどの子供が高価なランドセルを買ってもらい、ランドセルが歩いているような集団登校の様子が見られる。
2) 中学生になると、女子学生はどういう訳か、水兵さんの服を着て通学する。オリジナリティーは、スカートの短さで発揮している。
3) 学校のチャイムは何処に言っても、同じメロディーである。
4) 何処でエレベーターに乗っても、各階で止まる毎にバカ丁寧な同じ様なアナウンスが流れる。
5) スーパーマーケットでは、常にうるさい位の音楽らしきものが流される。売り上げに関係するのだろうか?
6) テレビでクイズ番組が流行ると、多くの局で同じ様な番組が多数放送されるので、芸能人は漢字の能力や京大や東大ブランドで飯を食えるようになるらしい。その他に、田舎を探訪するタイプの番組も、同じパターンで数局が放送している。もっと頭を使えと言いたい。
 中国がHONGDAブランドでバイクを販売していると言って、笑っている人が多いが、日本でも似た様なものではないだろうか。

2013年12月12日木曜日

特定秘密保護法案と報道の自由

  特定秘密保護法は、主として安全保障に関する国家の秘密を守る為の法律であるということであり(注1)、その必要性は理解できる。ただ、昨日石破氏の発言にあった様な、”法律違反(注2)で漏らしたと思われる機密情報の報道をメディアに対して禁止する“こと(注3)、つまり報道機関を機密情報の二段目の防波堤とすることは、やり過ぎであると思う。それは、一つの法律という範囲を超えて、もっと大切な価値を破壊しかねない。つまり、そのような規制は、言論統制の入口を通過してしまうことになり、人類が築いて来た知恵を否定する傲慢なものであると思う。
 本来、この法律は行政の都合で制定するものであり、他分野の基本的な自由を束縛してはならない。メディアの報道の自由(もちろん報道しない自由もある。)と国民の発言の自由は、正義に基づくとそれらが信じる場合、如何に政府の活動にマイナスになると現政権が判断する場合でも保障されるべきである。その情報伝搬の責任は、別の件として国民の良識などにより裁かれるべきであると思う。現在の政府は日本国を代表するが、日本国の中心でも全てでもない。言論と報道の自由の統制は、近代国家であるべき日本国の致命的問題であり、当座日本国を代表する内閣、つまり政府、が汚名に晒されても、守るべきものであると考える。
 上記の様な発言が与党幹部から出るところを見ると、日本国には近代国家で常識とされる諸概念が、未だ十分根付いていないのだろう。実際、この国では自由主義、法治国家、三権分立などが確立していないと思われる出来事が多い。最近の報道でも、“最高裁判所も、行政を追認する機関に過ぎない”とか、“法の適用も行政(検察)のさじ加減で変わる”などの印象を受けた。具体的には:最高裁が「7月の選挙は、一票の格差が4倍程あり違憲状態だが、違憲でない」(参議院選)という訳の判らない判断をしたり;国家公安委員長が、宣言速度が60km/hのところでも交通の流れに乗れば70km/hで走っても良いと言ったり;首相が私企業に労働者の給与を上げる様要請した、などである。より深刻なのは、これらをメディアもそれほど大きく報道していないことである。
 近代国家の枠組みや基本理念を学校でしっかり教えるべきだと思う。

注釈: 1) ウィキペディアの記事を参照のこと。
2) それが法律違反かどうかは、裁判をしなければ判らない。従って、その規制は、広い範囲の言論統制に変貌しうる。
3) その後、石破氏はこの意見を打ち消したらしい。(12/11投稿、12/12大幅に修正)
 <理系人間の意見ですので、批判等歓迎します。>

2013年12月5日木曜日

善人と悪人(親鸞のことばについての私的解釈)

 親鸞のことば「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を理解するには、ある仮定を置く必要があると思う。それは、「親鸞は、この人間界で社会性を持った人(不特定の他人を相互扶助の相手として受け入れる人)のみを”善人”と”悪人”に分けている」と言うことである。(注1)この世には、生物学上のヒトであるが、”人間”とは言えない者もかなり居る。つまり、(母)親に愛情とともに育てられた人、或いは、社会の中で愛情を受けて育った人は、社会の中に生きることを受け入れる”人間”になるが、そのような幼少期を得ない場合は、外見は同じであるが、”人間”にまでなれず生物学上のヒトに留まる場合もありえる。阿弥陀仏の本願(他力本願の”他力”)が対象とするのは”人間”であり、生物学上のヒト一般ではないということである。

 善悪は社会を作って生きる人の間でのみ、意味を持つ価値基準である。そして、善は社会に貢献する行為や考え方、悪は社会において個人の利益を優先する行為や考え方である。人は社会の中でしか生きられないが、個人の利益を追求する姿勢が無くても生きられない。つまり、人は必ず社会に一時的に背く行為、つまり悪を為す事で生きている。(注2)そして、悪を為した後に何らかの精神的苦痛を感じる筈である。その苦痛は、悪の反対にある善を意識していることを意味している。

社会において苦しい境遇に追い込まれた人ほど、悪をなして生きる自分を意識することになる。「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」とあることから、善悪を特に意識しないで、生きる事の出来る(恵まれた)人より、自分が為した悪を意識して他力にすがる人が、救われるのだと解釈できる。石川五右衛門の辞世の句「いしかわや、浜の真砂がつきるとも世に盗人の種はつきまじ」は、この社会に悪は必然であることを歌ったのだと思う。貧しい時代に生きた五右衛門は、仕事が無くて盗人になって生きたのだろう。五右衛門を裁く側は生まれながらの幕府の役人で人生においてさしたる苦労をしなかったとしたら、どちらが極楽に近いと言えるか?親鸞の言葉は、そう解釈できると思う。

 善悪は社会に生きる人を前提にした物差だとすれば、それは社会の外を対象にしない。その社会の境界を国境と考える場合、国家間の戦争などで兵士が人を殺傷する行為は悪には入らないという考え方もあり得る。つまり、社会の内外をまたぐ場合、人は善悪という考え方から一時解き放たれる(注2)。それは、戦争が国家間の野性の原理に基づく生存競争であり、そこには善悪は存在しないのである。しかし、国を超えて“社会”(international community)と考えるべきであるとする考え方もあり、その場合戦争で敵を征服する行為は国家の手先になって悪をなすことになる。この”善悪”のブレによって、兵士は精神的苦痛を感じることになる。(注3)

 もとより私は地獄極楽などを信じる者ではないが、「善悪」は人に成長する段階で教育すべき概念だと思っている。ただ、社会を動かす力を持った人は、「善悪」は行為や出来事を計る物差しとして、社会の際をまたいでは役立たないことを、そして、”社会”と言える程にはなっていない国際社会において、世界の各国指導者達はそのことを承知して政治に参加していることを、承知すべきだと思う。(注4)

  注釈:
1) 野性の動物は善悪の枠の中に無い為、元々救済する必要がない。(つまり、善悪に苦しむ存在ではない)従って、野性のヒトも仏の救済の対象ではないし、仏を必要としない。
2) 人が個人の利益を優先するとき、社会との間に摩擦を生じる。人は、その行為を”悪”と言い、その社会との摩擦を(精神的)苦痛と感じる。
3)戦争におて敵兵を殺傷する行為は、社会の境界を超えているので、個々の兵に善悪という物差を当てることは意味がない。その代わり、”国際社会”の構成員である国家に、善悪の物差が当てられる事になる。
3) おそらくそのような人は、人口の0.1%位居ると思う。特に社民党の方には特にそう言いたい。
(12/10改訂)(2017/4/11; 改行のみ挿入)

2013年12月3日火曜日

米国航空会社の中国への飛行計画提出について—日本との比較ー

 日本では、米国政府が民間航空会社の中国政府への飛行計画提出を黙認することは、(米国政府の)中国による航空識別圏設定に対する姿勢が、中途半端であることを示していると受け取られている。この考え方は、ちょっとおかしい。
 この様な解釈をする人は日本政府が日本国全てを代表すると思っているのだろうが、そうではない。政府は、日本の行政を司る機関であるが、民間の活動を法による以外には束縛できない。単に要請しただけだという台詞は、航空行政を管轄する機関である以上吐けない筈。民間を動かしたいのなら、法に従って(そんな法があるかどうかは知らないが)飛行計画提出を禁止すればよい。既に書いた様に、民間航空は乗客の安全を第一に考えて、飛行計画を中国に送る自由がある筈。政府の姿勢に民間も“右に倣え”すべきだと言うのは全体主義的考え方である。
 また、米国民間航空の中国政府への飛行計画提出を米国政府が黙認したことを、中国政府は高く評価すると言っている。これも日本と同じ様に、民間と政府の区別がついていないか、或いは、その振りをして日本を非難するためである。
 尚、上記文章は前回の投稿とかなり重なるが、以下の引用を掲載したいこともあり、投稿することにした。防空識別圏に関して、田母神氏が、専門的なしかし非常に判りやすい解説をブログとして投稿しておられるので、ここでreferする。この説明では、中国の防空識別圏の設定は何ら問題が無く、中国が同時に出した公告が国際法違反だということである。この説明がマスコミではあまりないのは非常に不満である。

2013年12月1日日曜日

日本政府は民間へ干渉すべきでないー中国防空識別圏他ー

 中国が周辺諸国との調整無しに新たに防空識別圏を設定したことで、東アジア全体の緊張が高まっている。米国や日本の自衛隊機がそれ以前と同様に、中国に通告しないで飛行し、中国はスクランブルをかけたと報道した。
 この件に関し、私は11月26日のブログにおいて、日本政府が民間航空機に飛行計画の提出をしない様に要望したことを批判した。何故なら、民間航空機は乗客の安全を第一に考えるべきだからである。昨日、米国政府は米国の民間航空機に対して中国政府の求めに応じて通行計画の提出を進めた。そして同時に「防空識別圏における運用に対する中国の要求を、米政府が受け入れることを示すものではない」とも指摘した。この米国の対応は、自由主義の国では、通常政治と民間の経済活動をわけて考えるという趣旨から当然のことである。隣国のように、国を挙げてある国と対立するように政治が動くことは、政治の越権行為であり、本当の非常事態の時以外は慎むべきである。(注1)日本政府もこの米国の姿勢を見習うべきである。
 これと関連して、以前にも似た様な政治の動きがあった。それは、民間企業に賃金を挙げるように政府が直接要望したことである。賃金は民間企業と労働者(労働組合)が交渉すべき事であり、調整役として政府が間接的に関与する事があっても、直接企業に要望すべきことではない。(注2)これも自由な経済活動に政府が立ち入るという越権行為であると思う。政府の要望を受けた経済会と企業は、政府の要望を無視すれば、反政府的企業として国民から厳しい視線を受け、営業活動に悪影響が出るのではと考えてしまう。日本の社会主義的文化の傾向から考えて、そのような罠に陥ることはあり得ることであるが、それは外国から見れば、(自由主義を国是とする)我国政府の知性を評価する物差しの役割を果たしてしまう。
 次に、中国が米国機や自衛隊機に対してスクランブルをかけたという報道に関して、菅官房長官の何の利益にもならない発言が気になった。それは、29日夜、中国の通信社が伝えた中国軍機による自衛隊機と米軍機に対する緊急発進(スクランブル)について「特異な事例は報告されていない」と述べ、事実関係を否定した、ことである。中国が国内向けに、スクランブルをかけたと言っているのだから、そのまま放置すれば良いと思う。この発表は、スクランブルをかけるのなら、もっと真面目にかけるべきだと言っていることになり、非常に危険なことである。(注3)官房長官が、中国の悪口を国民に告げ口するような軽々しい行為は止めた方が良いと思う。

注釈:
1) 非常事態の時、どのように政治が動くかは予測不可能である。非常事態なのだから。
2) 要望は指導ではなく、何ら強制力を有しないので、あなたの批判はおかしいという意見があり得る。しかし、「政府の要望」は一般人の要望よりも遥かに重みがあり、半強制的な力がある。強力な武器を片手に持っていては、丁寧な言葉使いであっても、お願いは強制になるからである。
3) 中国から、「本当に喧嘩したいのか?」と居直られたらどうするのか?喧嘩を買う覚悟はあるのか?その時に、「親分助けてくれ」という台詞しか用意がないのなら、中国の国内向けの報道は無視すればよいと思う。