1)日韓の問題:
韓国の軍艦が自衛隊哨戒機に向かってレーザー光で照準を合わしたとするケースで、日本側は「証拠画像」とする動画を公開した。韓国軍艦が北朝鮮の漁船員を救助する現場に、日本側哨戒機がその様子を撮影するために相当近づいたのだろう。そして、韓国軍艦は、自衛隊哨戒機を追い払う目的でレーザー照射したのだろう。
https://www.jiji.com/jc/movie?p=n001265
この動画では、自衛隊員は終始冷静に対応しているように見えた。何度か、「韓国軍艦船舶番号(Hull Number) 971。こちら日本Navy。我々はそちらのFCアンテナがこちらに向けられたことを確認した。何の目的なのか」という問いかけたが、その都度長い沈黙が後に続く。その後、「避けたほうがいいですね」という隊員の言葉で、自衛隊機が現場を徐々に離れたようだ。日韓の間に立ちこめる“苛立ちの空気”が伝わってくるように感じる。ただ、到るところに入る字幕「確認作業中」の時間帯でどの様な音声が入っているのか気になる。
動画では正確な高度やそのレーザー光が見えている訳ではないので、直接的証拠にはならないという韓国側の主張もある。しかし、そのように主張するには、あの沈黙から無理があるのは確かだろう。応答音声が入る設定になっていたとすればだが。しかし、攻撃の意図など皆無であることは確かだろう。http://japan.hani.co.kr/arti/international/32441.html
韓国軍側には、人道的な見地から当然のこととは言え、北朝鮮の漁船員救助の様子を日本側に撮影されることに、一種の不快感があったのだろう。それは、北朝鮮政府との何らかの接触と観られる可能性を意識したのかもしれない。この件、日韓双方はこの辺りで沈静化すべきである。日本政府も、韓国軍と日本自衛隊の長い協力関係に十分配慮すべきで、支持率の下がっている文在寅の韓国政府を韓国の全てと考えないことが重要であると思う。
安倍総理は頭にきて、渋る防衛大臣を強引に押し切り、動画公開を指示したと記事には書かれている。国家のトップが頭に来るというのは、我が国が傲慢か無知かの何方かである方に率いられていることになるので、この総理周辺に関する報道の部分は誤報であってほしい。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181228-00000110-jij-pol
2)北朝鮮との関係:
最近、北朝鮮と米国の交渉が進んでいないようである。そして、マティス国防長官がトランプ政権から去った。このことは、米朝関係が今後どのように進むのか、非常に深刻なことになりはしないか、心配である。
https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20181228-00109207/
マティス辞任は、トランプが相談無くシリアからの米軍撤退を指示したことが直接原因だという解説が多い様だ。それは、ロシアとの衝突を中東で避けて、対立関係を、一点つまり中国に集中するためという解説もあった。(北野幸伯氏メルマガ)それなら、上記ヤフーニュースが懸念するように、米軍は韓国から撤退しないだろう。
もしそうだとすると、朝鮮半島のポイントは、トランプが北朝鮮を日本や韓国が納得するように如何に軟着陸させるかということになる。それには、トランプが北朝鮮との間で、北朝鮮の非核化(朝鮮半島の非核化)を段階的に行うという合意を、日韓の同意を得たのちにすることだろう。おそらく、そのためには米軍核兵器の日本国内持込を、日米韓で合意決定することが必要だと思う。
それには、日韓の関係を緊密な形に修復することが前提条件となる。そう考えると、今回のFCレーザー照射を大きく問題化するのは愚策だと思う。自衛隊も、官邸は彼らよりもかなり素人的であることを十分考えて、中心的情報のみに限って流すべきだと思う。この件、従来の歴史認識問題とかでの対立とは異なり、現在進行型の問題である。日韓双方は、先ずその事を確認した方が良いと思う。
北朝鮮も、最近はどうしたら良いのか分からない状況だろうと、危惧する。この寒空に、恐らく凍死者も出ているだろう。その情況下で不足するエネルギーに苦しんでいるだろう。日本側としては、人道的な対応も、小出しにでも良いから考えるべきだと思う。その中で、小さな解決の糸口が見つかる可能性もあると思う。
米国の大きな戦略に協力することも大事だが、韓半島と日本という地域の安定に対する独自の寄与も日本は考えるべきではないだろうか。その姿勢は、日韓両軍の猜疑心と警戒心の空気を一掃する可能性もある。兎に角、第三次世界大戦の現場にこの地域をしてはならない。
(以上、素人のメモとして書きました。)
2018年12月29日土曜日
2018年12月28日金曜日
死刑執行を報じる毎日新聞の記事及び死刑制度について
昨日2名が死刑執行された。ヤフーニュース欄に掲載された毎日新聞の記事(和田武士の署名がある)は、二人の死刑執行に関連して、“今回の執行で「死刑制度維持」という政府の姿勢が改めて鮮明になった。”と報じた。続いて、国際的に批判が多いと書き、最後に、“政府は単に執行を重ねるだけではなく、制度の存廃にとどまらない幅広い議論を喚起するためにも、情報公開を進めていく必要がある”と結んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181227-00000077-mai-soci
これは死刑制度に反対する勢力が、その廃止を目論む政治的プロパガンダとして書いた記事だろう。報道機関が少なくともニュースとして流す内容の記事ではない。何故なら、今回の執行は、日本という法治国家において、法に従ってなされただけだからである。死刑制度の是非を議論するのなら、ニュースとしてではなく、今回の死刑執行からは一度離れて、社説或いは論評記事として独立させるべきである。
文章を書き、それを発表することを業務としているからには、その辺りのことは十分知っている筈である。つまり、毎日新聞は一般紙ではなく、何かを目論む一派の機関紙的存在のように思える。購読は、それを承知の上ですべきである。
1)死刑制度について: 死刑制度の是非が議論されて久しいが、内閣府の調査によると、世論の80%は死刑を容認している。従って、それを法的な問題として深刻に議論するとしたら、それは専門家だけだろう。https://www.nippon.com/ja/features/h00101/
日本では、今回の死刑執行を国内問題として批判する根拠は全く無い。執行の命令書への署名は、山下法務大臣が本来の業務をこなしたに過ぎない。ただし、外交問題(つまり政治問題)の一つとしては、後で述べるように議論の余地はあると思う。
ここでは、裾野を広くとって一市民の立場から死刑制度を考えてみたので、以下にそれを書く。先ず、(素人の浅はかな知恵と言われるかもしれないが)ウィキペディアで死刑制度の議論を見てみた。そこには、社会契約説、人権、誤判の可能性、犯罪被害者への配慮、死刑の犯罪抑止効果、世界の趨勢、社会が負担するコストなどの側面から死刑制度の是非についての議論が整理されている。その項目を以下利用する。(捕捉1)
この中で、一番の問題は誤判の可能性である。従って、その犯罪と裁判に関する情報の公開は死刑制度を維持する上での必須要件だろう。更に、その情報を一般民が理解する時間的余裕を、結審更に執行までに置き、疑義があるとの主張があれば、それを裁判所或いは行政府は吸い上げる制度を作るべきだと思う。その情報公開は、一審終了後になされるべきだと思う。裁判権も本来、一般市民の権利に由来する筈だからである。誤判の疑いが無いと仮定して以下議論を続ける。
上記議論すべき諸要素の内、犯罪被害者への配慮と死刑の犯罪抑止効果についての深い議論は不要だと思う。犯罪被害者として残されているのは、被害者家族だろう。被害者家族については、経済的困難が生じれば、それに対する保障を社会福祉の観点からすべきである。被害者家族の報復欲求は当然存在するが、社会が法的処罰をする以上それは許されない。
犯罪抑止効果は、今後の同一犯人による類似犯を防止するという意味では、終身刑を制定することの議論と同じである。しかし、最後に議論するように、死刑が犯罪人の社会からの排除であるとすれば、排除した者を経費を掛けて長期隔離する必要はない。また、その抑止効果が、当事者以外の同種犯罪を抑止するという意味なら、それは死刑制度の副次的効果である。死刑制度を、「社会と個人の関係」の一つである「犯罪と処罰の関係」として根本的に議論する際、主なる目的について結論を導き出すのが先ず大事だと思う。
やっかいなのは、「世界の趨勢」であり、それに伴う国際的圧力である。国際的圧力には、「世界の中の日本」が短期的及び長期的に考えて、利益を損なわないように配慮すべきである。(補足2)
2)最後に残ったのは、社会契約説及び人権との関係での死刑制度の議論である。一言で私の考えを言えば、「一般の善良なる市民を自己の利益のみを優先して殺害した者は、社会に参加しその恩恵を受けて生きるという生来の権利を放棄した」とみなせる。社会の外にあるヒトは、動物としてのヒトに過ぎず、当然人権など存在しない。
その社会に属することを拒否したヒトは、社会から最も明白な形で排除されるのは自然である。死刑が相当とされるような例えば無差別殺人等は、国家と国家の戦争や、政治的テロリズムと似ている。現在の国家体制の下にある社会を、基点に内外の差があっても、否定するという点でこれらは全て同じである。つまり、テロに銃撃で応じることと、無差別殺人犯を死刑にすることは同等である。(補足3)
死刑廃止を人権問題として取り上げることは、上記考えを採用すれば不思議なことであると言わざるを得ない。「人権を放棄した者を排除する機能を社会が持つことは、人権問題である」という不思議な主張となるからである。この人権を背景にした死刑廃止論の発生理由と経緯が私にはさっぱりわからない。(捕捉4)それは単に残忍な光景を想像することで、気分が悪くなるというナイーブな人たちの主張ではないだろう。
一つの仮説は、それは高度に計画された国際的な政治的企みだという考えである。それは、民主主義という理想論と同時に、世界をコントロールするために出されたものだろう。
民主主義は先進国の看板にするには相応しいが、それを全面的に採用すれば国家がまともには機能しないことは明白である。(捕捉5)まともに運営されている国家では、現実的に国家を運営する制度が別に作られている。日本では米国追従路線とそれをよしとする官僚制度であり、米国では多くのシンクタンクと政治的に活動する報道機関などによる世論誘導、更に、間接民主制による国家元首の選任であると思う。
日本政治に迷走があるとすれば、安倍内閣による官僚独裁の廃止への動き(補足6)が原因であるし、米国政治に迷走があるとすれば、一般市民の考えでトランプ大統領を選任したことが原因だろう。
範囲外への人権思想の適用(誤用)、わざと諸外国政府に統治能力の低下を画策するための剣として使われているに過ぎない。統治能力を欠く様に民主政治を押し付けたアラブの春のケースと同様、強国による思想撹乱である。そのように私は、一市民として考える。 補足:
1)ウィキペディアには死刑容認論として、社会契約説を最初に確立したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家の考え、「三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である」を記している。私はこの意見に概ね賛成である。ただ、「懲罰・広報として」という部分には反対である。社会との契約を破棄したもの対して、社会内の権威が懲罰を加える必要はない。懲罰は社会復帰可能な者のみに対する教育的行為だからである。死刑は、社会からの排除であり二度と社会復帰はありえないからである。つまり、人を襲った熊にたいする駆除と同様の行為である。
2)それは、捕鯨の問題と同じであり、世界が仮に非常にいい加減な分析の下であっても、強力に政治圧力をかけてくれば、それに沿う判断が必要となる場合もある。それは戦争を含んだ外交の問題である。日本にまともな軍備が無い以上、世界とまともには外交できない。米国のような軍事力があれば、IWCなどからは当然脱退すべきであり、日本古来の捕鯨文化があるとすれば、それを守るべきである。
3)テロリストを捕捉すれば、死刑廃止の国では死刑にしないかもしれない。その一方で、国家(を操っている者たちの)体制に有害と見なした者は、裁判などせずに暗殺している。つまり、人権を持ち出して死刑廃止を主張している人たちは、政治的企みで行っているに過ぎない。そのように明言できるのは、トランプ大統領もケネディー元大統領暗殺事件の資料公開をしなかったからである。この件、議論されないのは、強い圧力で封殺したからだろう。
4)捕捉1にウィキペディアの社会契約説を唱えた大家たちの議論を紹介した。このような議論があるにも関わらず、社会契約を放棄したものの人権をも守るべきだという思想を流布するのは、大きな政治的企みだからである。
5)民主政治の先進国である英国で、国民投票という民主的な政治手段を採用した後、国家が迷走をはじめた。国民投票で決定したように、EUからの脱退が未だになされていない。国民投票をやりなおすべきだという議論まで出る始末である。大衆迎合主義と民主主義の区別は、一般につけられないのだが、失敗したケースをラベルする目的で大衆迎合主義(ポピュリズム)という印字が大事に保存されている。
6)内閣に人事局を設け、官僚の人事を各省庁の事務次官から取り上げて、内閣の下に置いた。それは、内閣の暴走を可能とする危ない組織改編である。
これは死刑制度に反対する勢力が、その廃止を目論む政治的プロパガンダとして書いた記事だろう。報道機関が少なくともニュースとして流す内容の記事ではない。何故なら、今回の執行は、日本という法治国家において、法に従ってなされただけだからである。死刑制度の是非を議論するのなら、ニュースとしてではなく、今回の死刑執行からは一度離れて、社説或いは論評記事として独立させるべきである。
文章を書き、それを発表することを業務としているからには、その辺りのことは十分知っている筈である。つまり、毎日新聞は一般紙ではなく、何かを目論む一派の機関紙的存在のように思える。購読は、それを承知の上ですべきである。
1)死刑制度について: 死刑制度の是非が議論されて久しいが、内閣府の調査によると、世論の80%は死刑を容認している。従って、それを法的な問題として深刻に議論するとしたら、それは専門家だけだろう。https://www.nippon.com/ja/features/h00101/
日本では、今回の死刑執行を国内問題として批判する根拠は全く無い。執行の命令書への署名は、山下法務大臣が本来の業務をこなしたに過ぎない。ただし、外交問題(つまり政治問題)の一つとしては、後で述べるように議論の余地はあると思う。
ここでは、裾野を広くとって一市民の立場から死刑制度を考えてみたので、以下にそれを書く。先ず、(素人の浅はかな知恵と言われるかもしれないが)ウィキペディアで死刑制度の議論を見てみた。そこには、社会契約説、人権、誤判の可能性、犯罪被害者への配慮、死刑の犯罪抑止効果、世界の趨勢、社会が負担するコストなどの側面から死刑制度の是非についての議論が整理されている。その項目を以下利用する。(捕捉1)
この中で、一番の問題は誤判の可能性である。従って、その犯罪と裁判に関する情報の公開は死刑制度を維持する上での必須要件だろう。更に、その情報を一般民が理解する時間的余裕を、結審更に執行までに置き、疑義があるとの主張があれば、それを裁判所或いは行政府は吸い上げる制度を作るべきだと思う。その情報公開は、一審終了後になされるべきだと思う。裁判権も本来、一般市民の権利に由来する筈だからである。誤判の疑いが無いと仮定して以下議論を続ける。
上記議論すべき諸要素の内、犯罪被害者への配慮と死刑の犯罪抑止効果についての深い議論は不要だと思う。犯罪被害者として残されているのは、被害者家族だろう。被害者家族については、経済的困難が生じれば、それに対する保障を社会福祉の観点からすべきである。被害者家族の報復欲求は当然存在するが、社会が法的処罰をする以上それは許されない。
犯罪抑止効果は、今後の同一犯人による類似犯を防止するという意味では、終身刑を制定することの議論と同じである。しかし、最後に議論するように、死刑が犯罪人の社会からの排除であるとすれば、排除した者を経費を掛けて長期隔離する必要はない。また、その抑止効果が、当事者以外の同種犯罪を抑止するという意味なら、それは死刑制度の副次的効果である。死刑制度を、「社会と個人の関係」の一つである「犯罪と処罰の関係」として根本的に議論する際、主なる目的について結論を導き出すのが先ず大事だと思う。
やっかいなのは、「世界の趨勢」であり、それに伴う国際的圧力である。国際的圧力には、「世界の中の日本」が短期的及び長期的に考えて、利益を損なわないように配慮すべきである。(補足2)
2)最後に残ったのは、社会契約説及び人権との関係での死刑制度の議論である。一言で私の考えを言えば、「一般の善良なる市民を自己の利益のみを優先して殺害した者は、社会に参加しその恩恵を受けて生きるという生来の権利を放棄した」とみなせる。社会の外にあるヒトは、動物としてのヒトに過ぎず、当然人権など存在しない。
その社会に属することを拒否したヒトは、社会から最も明白な形で排除されるのは自然である。死刑が相当とされるような例えば無差別殺人等は、国家と国家の戦争や、政治的テロリズムと似ている。現在の国家体制の下にある社会を、基点に内外の差があっても、否定するという点でこれらは全て同じである。つまり、テロに銃撃で応じることと、無差別殺人犯を死刑にすることは同等である。(補足3)
死刑廃止を人権問題として取り上げることは、上記考えを採用すれば不思議なことであると言わざるを得ない。「人権を放棄した者を排除する機能を社会が持つことは、人権問題である」という不思議な主張となるからである。この人権を背景にした死刑廃止論の発生理由と経緯が私にはさっぱりわからない。(捕捉4)それは単に残忍な光景を想像することで、気分が悪くなるというナイーブな人たちの主張ではないだろう。
一つの仮説は、それは高度に計画された国際的な政治的企みだという考えである。それは、民主主義という理想論と同時に、世界をコントロールするために出されたものだろう。
民主主義は先進国の看板にするには相応しいが、それを全面的に採用すれば国家がまともには機能しないことは明白である。(捕捉5)まともに運営されている国家では、現実的に国家を運営する制度が別に作られている。日本では米国追従路線とそれをよしとする官僚制度であり、米国では多くのシンクタンクと政治的に活動する報道機関などによる世論誘導、更に、間接民主制による国家元首の選任であると思う。
日本政治に迷走があるとすれば、安倍内閣による官僚独裁の廃止への動き(補足6)が原因であるし、米国政治に迷走があるとすれば、一般市民の考えでトランプ大統領を選任したことが原因だろう。
範囲外への人権思想の適用(誤用)、わざと諸外国政府に統治能力の低下を画策するための剣として使われているに過ぎない。統治能力を欠く様に民主政治を押し付けたアラブの春のケースと同様、強国による思想撹乱である。そのように私は、一市民として考える。 補足:
1)ウィキペディアには死刑容認論として、社会契約説を最初に確立したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家の考え、「三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である」を記している。私はこの意見に概ね賛成である。ただ、「懲罰・広報として」という部分には反対である。社会との契約を破棄したもの対して、社会内の権威が懲罰を加える必要はない。懲罰は社会復帰可能な者のみに対する教育的行為だからである。死刑は、社会からの排除であり二度と社会復帰はありえないからである。つまり、人を襲った熊にたいする駆除と同様の行為である。
2)それは、捕鯨の問題と同じであり、世界が仮に非常にいい加減な分析の下であっても、強力に政治圧力をかけてくれば、それに沿う判断が必要となる場合もある。それは戦争を含んだ外交の問題である。日本にまともな軍備が無い以上、世界とまともには外交できない。米国のような軍事力があれば、IWCなどからは当然脱退すべきであり、日本古来の捕鯨文化があるとすれば、それを守るべきである。
3)テロリストを捕捉すれば、死刑廃止の国では死刑にしないかもしれない。その一方で、国家(を操っている者たちの)体制に有害と見なした者は、裁判などせずに暗殺している。つまり、人権を持ち出して死刑廃止を主張している人たちは、政治的企みで行っているに過ぎない。そのように明言できるのは、トランプ大統領もケネディー元大統領暗殺事件の資料公開をしなかったからである。この件、議論されないのは、強い圧力で封殺したからだろう。
4)捕捉1にウィキペディアの社会契約説を唱えた大家たちの議論を紹介した。このような議論があるにも関わらず、社会契約を放棄したものの人権をも守るべきだという思想を流布するのは、大きな政治的企みだからである。
5)民主政治の先進国である英国で、国民投票という民主的な政治手段を採用した後、国家が迷走をはじめた。国民投票で決定したように、EUからの脱退が未だになされていない。国民投票をやりなおすべきだという議論まで出る始末である。大衆迎合主義と民主主義の区別は、一般につけられないのだが、失敗したケースをラベルする目的で大衆迎合主義(ポピュリズム)という印字が大事に保存されている。
6)内閣に人事局を設け、官僚の人事を各省庁の事務次官から取り上げて、内閣の下に置いた。それは、内閣の暴走を可能とする危ない組織改編である。
2018年12月25日火曜日
社会は常に個人との摩擦を内包した不安定な存在である:介護ヘルパーによる現金窃盗事件再考
この文章を書くに至った動機について:
2016年2月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/02/blog-post_11.html それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。
この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。
私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前に書いたブログ記事の真意を説明したい。
社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、法は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。
1)社会の基本的構造:
社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的な存在とすることで維持してきた。(補足1)その一方、その利己的性質を一部返上し、他人同士で協力して社会をつくり、利己的に生きるよりも大きな環境の改善や種としての繁栄を実現した。その過程で出来た社会生活の考え方や様式と方法が、文化であり、文明である。
現在の社会システムは、無数とも言える役割(つまり仕事)を分業し、個人が受け持つことで成立している。そして社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、個人を適材適所に個人の意思に従って分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中して生じているとすれば、その社会が設定する仕事の内容とそこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。
犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきであり、それは社会の機能維持における最終的手段であるべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、社会を運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。
そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する不平等である。社会を運営していく上で常に配慮しなければならないことは、社会はその本質として、個人との間で摩擦を生じるということである。その摩擦が蓄積拡大すれば、社会を破壊するポテンシャルとなる。
つまり、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えていることで、正常に機能している。ある個人に対して、社会つまりその個人以外の全てが、その個人という動物の生存欲求を押さえつける力を常に加えているということである。別の場面では、別の個人がそのような圧力を社会から受けることになる。特定の場面では、ルール違反は厳罰に処するべきだと多くのその他の社会構成員は言うのだが、それは諸刃の剣を振るっていることを知るべきである。
圧力をかけるのは、動物の生存欲求に沿った行動であり、自然且つ簡単だからである。別の場面で、社会から圧力を受ける側となった時、場合によっては土下座して許しを請うこともある。その際、想像力がある人は、自分が嘗て犯罪的振る舞いをした個人を攻め立てたことを思い出すだろう。
そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦の場面を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。社会は常に個人による破壊ポテンシャルの発生により不安定に存在するのである。それが、社会と個人の基本的関係である。
2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:
経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。
多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)
勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。
前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。
社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。
3)二つの社会:
犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人を処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。
日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。
前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。
日本は、西欧型の多民族共存型社会が採用する、社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。
有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、上記社会と個人の軋轢は社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。
GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。
補足:
1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。3年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。
3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。
4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。
2016年2月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/02/blog-post_11.html それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。
この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。
私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前に書いたブログ記事の真意を説明したい。
社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、法は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。
1)社会の基本的構造:
社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的な存在とすることで維持してきた。(補足1)その一方、その利己的性質を一部返上し、他人同士で協力して社会をつくり、利己的に生きるよりも大きな環境の改善や種としての繁栄を実現した。その過程で出来た社会生活の考え方や様式と方法が、文化であり、文明である。
現在の社会システムは、無数とも言える役割(つまり仕事)を分業し、個人が受け持つことで成立している。そして社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、個人を適材適所に個人の意思に従って分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中して生じているとすれば、その社会が設定する仕事の内容とそこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。
犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきであり、それは社会の機能維持における最終的手段であるべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、社会を運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。
そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する不平等である。社会を運営していく上で常に配慮しなければならないことは、社会はその本質として、個人との間で摩擦を生じるということである。その摩擦が蓄積拡大すれば、社会を破壊するポテンシャルとなる。
つまり、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えていることで、正常に機能している。ある個人に対して、社会つまりその個人以外の全てが、その個人という動物の生存欲求を押さえつける力を常に加えているということである。別の場面では、別の個人がそのような圧力を社会から受けることになる。特定の場面では、ルール違反は厳罰に処するべきだと多くのその他の社会構成員は言うのだが、それは諸刃の剣を振るっていることを知るべきである。
圧力をかけるのは、動物の生存欲求に沿った行動であり、自然且つ簡単だからである。別の場面で、社会から圧力を受ける側となった時、場合によっては土下座して許しを請うこともある。その際、想像力がある人は、自分が嘗て犯罪的振る舞いをした個人を攻め立てたことを思い出すだろう。
そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦の場面を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。社会は常に個人による破壊ポテンシャルの発生により不安定に存在するのである。それが、社会と個人の基本的関係である。
2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:
経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。
多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)
勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。
前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。
社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。
3)二つの社会:
犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人を処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。
日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。
前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。
日本は、西欧型の多民族共存型社会が採用する、社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。
有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、上記社会と個人の軋轢は社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。
GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。
補足:
1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。3年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post.html
2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。
3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。
4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。
2018年12月23日日曜日
戦後体制からの脱却は、憲法改正ではなく選挙制度の改革から始めるべき
1)戦後レジームからの脱却は安倍総理が政権についた動機だと言われる。しかし、その宣言は、欧米から歴史修正主義として批判の対象になった。ヤルターポツダム体制からの脱却となれば、第二次大戦とその中の日本について詳細な歴史的評価をしなければならない。それもしないで、戦後国際レジームからの脱却と言えば、欧米から批判されるのは当然だろう。
日本中でも右派と一般に謂われている人の多くは、戦後レジームの中で改正すべき点として、現在の日本国憲法とそれに従ってできた日本国の骨組み、特に自衛軍の創設(自衛隊の改称)と日米安全保障条約の下での防衛体制整備などを考えているだろう。戦後国際レジームに抵触しないのなら、その範囲において改訂することは、既に未来志向の関係にある欧米から干渉される筋合いはない。しかし、東京裁判史観はおかしい(実際にはおかしいとしても)とか、首相も天皇も靖国参拝することは当然だと言いだせば、国際的非難だけでなく、国内からも批判が出るだろう。
最近ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』が刊行され、その日本語訳も出版されている。(補足1)私も、その解説本とも言える本(渡辺惣樹著、「誰が第二次大戦を起こしたのか」草思社)を読み、その感想をブログに書いた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/blog-post_20.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/ii.html
当然、日本独自にあの大戦とそこに至る歴史に関する体系的な評価を作り上げることは大事である。ただ、それが東京裁判史観と一致しない場合でも、今後の国際情勢とその中の日本にとって利益になるかどうかを考えた上でなければ、戦後レジームからの脱却などという宣言をすべきではない。それが単なる右翼と、現実主義&保守主義の区別だと思う。
仮に、上記国際的な歴史修正が行われたとしても、惨敗だった先の戦争を指揮した者の責任を明らかにしないままに、総理大臣以下国政担当者は靖国神社に参拝すべきではないと思う。なんとか、国立墓地を設立し、そこに戦死者を祀り、国民が自由に参拝できるようにすべきだと思う。
2)日本の停滞はどこにあるかと言えば、政治の貧困である。元外務省の佐藤優氏は、「日本の官僚たちは心の中で政治家などバカにしている」と躊躇なく話しているように、どう考えても政治家のレベルは非常に低い。 https://www.youtube.com/watch?v=v6OomhRhUj0&t=837s
一方、戦後70年経ち、日本が国際社会の中で一応の存在感を持ち得ているのは、政治家が何もせずに米国追従路線をとったことと、その背景で日本が経済力をつけたこと、更に、霞ヶ関の官僚たちが一定のレベルにあったからだろう。しかし、戦後日本のレジームからの脱却となると、政治家としての能力が要求される。その壁に跳ね返されて元の自民党路線に戻った姿が、安倍総理の米国議会での演説だったと思う。その範囲の評価では、立派な演説だったと思う。
日本国憲法の改正も十分な準備が必要だが、現行憲法でも日本国には多くの解決すべき問題が残っている。それらは、①日本の国会議員が真に日本国民を代表するような選挙制度が確立されていないこと、②日本に三権分立の体制を確立していないこと、などである。例えば、最高裁が判断したように、集団的自衛権を持つ自衛隊(self defense force)が違憲でなければ、別に憲法を改正する必要はない。(補足2)
逆に、日本の裁判所が正常に機能していないとすれば、憲法など法律を整備しても何にもならない。日本の主権と、現在の国家体制においてそれを代表する元首をどう規定するのか、そのあたりの議論がなければどうにもならない。総理大臣が国家元首であるのなら、それは国民の意見が直接反映する選挙によらなければならない。
憲法改正=9条改正という類の憲法改正など、現時点では不要である。
3)先ず為すべきは、日本の国会議員を日本国民の真の代表とすることである。そのためには一票の格差を全廃すること、更に、小選挙区制を大選挙区制にすることの2点の改正が必要だろう。
国家機構が正常に機能するためには、国家機構が知的に成熟した国民の総意に基づく必要がある。知的でない国民が多数居たとした場合、或いは外国の利益を代表する一派が国民の中に混在しているとした場合、その一票が選挙結果に反映しない工夫が必要である。その一つが間接民主制である。(補足3)しかし、小選挙区制では選挙民と被選挙者との距離が近すぎて、地域の利益を超えた国家全体を考える人物が選ばれない可能性が高い。(補足4)
一方、全国区では極端な意見の人たちや、上記外国の利益を代表するような人たちも、強い組織を背景に数人の代表を国会に送ることが可能となる。それらの議員による妨害があれば、国会が正常に機能しなくなる。現状、日本の国会はそのような混乱の中にあるように思える。
それらを考えて、私は日本を15—20区程度に分けて、そこに完全な人口比で、議員定数を割り当てるように選挙制度を改定すべきだと思う。更に、それを新たに地方行政の区分けとすれば、尚良いと思う。
戦後の経済発展や高学歴化により、田舎の知的な人物は大都会に移動することが多くなった。その結果、田舎の票は地域の利益を優先し、視野の狭い人物を国会に送る傾向にある。その結果、外国に影響された勢力や明治の勢力が今でも国会で力を維持している状況である。 https://honkawa2.sakura.ne.jp/5237.html
最後に:
日本では人々は環境に自分を合わせようとする。その傾向は、神道の悪い面だろう。この辺で、日本人は自分に合わせるように、環境を変えるという風に考えるべきである。その風習が日本人をより積極的に、議論する国民にし、人と人の間の風通しも良くし、イジメやパワハラと言った公空間の改善も可能だろう。 補足:
1)フーバー元大統領の回顧録の要約版がネットに掲載されている:
http://midi-stereo.music.coocan.jp/blogcopy/hoover/hoover.htm
2)日本の最高裁など司法関係者はまともに仕事をして居ないと思う。最高裁は、砂川判決のように行政に阿る判決を出す自己保身的裁判官に支配されている。安保合憲論における、「高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という最高裁の判決理由は、私には屁理屈に思える。何故なら、「極めて明白」とはどういう意味かさっぱりわからないからである。もちろん、国家元首の存在しない国では、或いは米国大統領が国家元首なら、そのようなことになるかもしれない。その場合は、そう明言すべきだ。
3)ブレグジットは不適当だから、国民投票をやり直すべきだという意見を、英国民の多数が持っているようである。その再投票は愚策であるとの議論が以下のサイトに書かれている。 https://jp.reuters.com/article/lloyd-brexit-idJPKBN1O90R7 国民投票で決めたことを実行せずに、再投票にかけるのは民主主義の否定である。それがわからない人が多くいるのが世界の現状である。
4)IWCからの脱退が当然であると話す自民党幹事長は、鯨食文化の残る太地町のある和歌山県の選出である。父子二代の県会議員を経て、自民党幹事長まで上り詰めた。自民党幹事長としての知性と実力があるかと言えば、Qである。
日本中でも右派と一般に謂われている人の多くは、戦後レジームの中で改正すべき点として、現在の日本国憲法とそれに従ってできた日本国の骨組み、特に自衛軍の創設(自衛隊の改称)と日米安全保障条約の下での防衛体制整備などを考えているだろう。戦後国際レジームに抵触しないのなら、その範囲において改訂することは、既に未来志向の関係にある欧米から干渉される筋合いはない。しかし、東京裁判史観はおかしい(実際にはおかしいとしても)とか、首相も天皇も靖国参拝することは当然だと言いだせば、国際的非難だけでなく、国内からも批判が出るだろう。
最近ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』が刊行され、その日本語訳も出版されている。(補足1)私も、その解説本とも言える本(渡辺惣樹著、「誰が第二次大戦を起こしたのか」草思社)を読み、その感想をブログに書いた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/blog-post_20.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/ii.html
当然、日本独自にあの大戦とそこに至る歴史に関する体系的な評価を作り上げることは大事である。ただ、それが東京裁判史観と一致しない場合でも、今後の国際情勢とその中の日本にとって利益になるかどうかを考えた上でなければ、戦後レジームからの脱却などという宣言をすべきではない。それが単なる右翼と、現実主義&保守主義の区別だと思う。
仮に、上記国際的な歴史修正が行われたとしても、惨敗だった先の戦争を指揮した者の責任を明らかにしないままに、総理大臣以下国政担当者は靖国神社に参拝すべきではないと思う。なんとか、国立墓地を設立し、そこに戦死者を祀り、国民が自由に参拝できるようにすべきだと思う。
2)日本の停滞はどこにあるかと言えば、政治の貧困である。元外務省の佐藤優氏は、「日本の官僚たちは心の中で政治家などバカにしている」と躊躇なく話しているように、どう考えても政治家のレベルは非常に低い。 https://www.youtube.com/watch?v=v6OomhRhUj0&t=837s
一方、戦後70年経ち、日本が国際社会の中で一応の存在感を持ち得ているのは、政治家が何もせずに米国追従路線をとったことと、その背景で日本が経済力をつけたこと、更に、霞ヶ関の官僚たちが一定のレベルにあったからだろう。しかし、戦後日本のレジームからの脱却となると、政治家としての能力が要求される。その壁に跳ね返されて元の自民党路線に戻った姿が、安倍総理の米国議会での演説だったと思う。その範囲の評価では、立派な演説だったと思う。
日本国憲法の改正も十分な準備が必要だが、現行憲法でも日本国には多くの解決すべき問題が残っている。それらは、①日本の国会議員が真に日本国民を代表するような選挙制度が確立されていないこと、②日本に三権分立の体制を確立していないこと、などである。例えば、最高裁が判断したように、集団的自衛権を持つ自衛隊(self defense force)が違憲でなければ、別に憲法を改正する必要はない。(補足2)
逆に、日本の裁判所が正常に機能していないとすれば、憲法など法律を整備しても何にもならない。日本の主権と、現在の国家体制においてそれを代表する元首をどう規定するのか、そのあたりの議論がなければどうにもならない。総理大臣が国家元首であるのなら、それは国民の意見が直接反映する選挙によらなければならない。
憲法改正=9条改正という類の憲法改正など、現時点では不要である。
3)先ず為すべきは、日本の国会議員を日本国民の真の代表とすることである。そのためには一票の格差を全廃すること、更に、小選挙区制を大選挙区制にすることの2点の改正が必要だろう。
国家機構が正常に機能するためには、国家機構が知的に成熟した国民の総意に基づく必要がある。知的でない国民が多数居たとした場合、或いは外国の利益を代表する一派が国民の中に混在しているとした場合、その一票が選挙結果に反映しない工夫が必要である。その一つが間接民主制である。(補足3)しかし、小選挙区制では選挙民と被選挙者との距離が近すぎて、地域の利益を超えた国家全体を考える人物が選ばれない可能性が高い。(補足4)
一方、全国区では極端な意見の人たちや、上記外国の利益を代表するような人たちも、強い組織を背景に数人の代表を国会に送ることが可能となる。それらの議員による妨害があれば、国会が正常に機能しなくなる。現状、日本の国会はそのような混乱の中にあるように思える。
それらを考えて、私は日本を15—20区程度に分けて、そこに完全な人口比で、議員定数を割り当てるように選挙制度を改定すべきだと思う。更に、それを新たに地方行政の区分けとすれば、尚良いと思う。
戦後の経済発展や高学歴化により、田舎の知的な人物は大都会に移動することが多くなった。その結果、田舎の票は地域の利益を優先し、視野の狭い人物を国会に送る傾向にある。その結果、外国に影響された勢力や明治の勢力が今でも国会で力を維持している状況である。 https://honkawa2.sakura.ne.jp/5237.html
最後に:
日本では人々は環境に自分を合わせようとする。その傾向は、神道の悪い面だろう。この辺で、日本人は自分に合わせるように、環境を変えるという風に考えるべきである。その風習が日本人をより積極的に、議論する国民にし、人と人の間の風通しも良くし、イジメやパワハラと言った公空間の改善も可能だろう。 補足:
1)フーバー元大統領の回顧録の要約版がネットに掲載されている:
http://midi-stereo.music.coocan.jp/blogcopy/hoover/hoover.htm
2)日本の最高裁など司法関係者はまともに仕事をして居ないと思う。最高裁は、砂川判決のように行政に阿る判決を出す自己保身的裁判官に支配されている。安保合憲論における、「高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という最高裁の判決理由は、私には屁理屈に思える。何故なら、「極めて明白」とはどういう意味かさっぱりわからないからである。もちろん、国家元首の存在しない国では、或いは米国大統領が国家元首なら、そのようなことになるかもしれない。その場合は、そう明言すべきだ。
3)ブレグジットは不適当だから、国民投票をやり直すべきだという意見を、英国民の多数が持っているようである。その再投票は愚策であるとの議論が以下のサイトに書かれている。 https://jp.reuters.com/article/lloyd-brexit-idJPKBN1O90R7 国民投票で決めたことを実行せずに、再投票にかけるのは民主主義の否定である。それがわからない人が多くいるのが世界の現状である。
4)IWCからの脱退が当然であると話す自民党幹事長は、鯨食文化の残る太地町のある和歌山県の選出である。父子二代の県会議員を経て、自民党幹事長まで上り詰めた。自民党幹事長としての知性と実力があるかと言えば、Qである。
2018年12月21日金曜日
国際捕鯨委員会から脱退するのは得策ではない
日本は国際捕鯨委員会(IWC)から脱退するという。IWCが、非科学的な根拠により鯨保護の姿勢を強めたことで、このままでは日本の鯨肉を食べる文化が消されるとの危惧があったのだろう。しかし、商業捕鯨を再開したい農林水産省だけの判断で、そのような決断をするのは問題である。安倍内閣は、どこの利益を代表しているのか、統制がとれているのか、わからなくなる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000104-mai-bus_all
もともと国際政治に論理や科学的根拠を求めることは、魚屋に野菜を買いに行くようなものだろう。鯨肉の消費量は既に、年間20万トン以上(1962年)から3000トン(2012年)にまで減少している。今更、国際世論に逆らって、商業捕鯨を再開することは愚の骨頂である。
IWCで強硬に捕鯨反対を主張するのはオーストラリアである。その国のシーシェパードという団体の、日本の船にたいする暴力行為を非難する日本人一般の気持ちは当然である。カンガルーの肉を食べるクセに、日本の鯨食文化を非難するのはおかしいという理屈もわかる。しかし、その理屈はオーストラリアや彼らの意見に同調する全ての国の大多数の人たちにもわかる筈である。つまり、それらの組織的行為が単に鯨を偏愛する人間の行為だと考えるのは愚かである。https://newsphere.jp/national/20140417-3/
推理に過ぎないのだが、もっと明確に言えば、彼らは日本に牛肉を売りたいだけなのだ。オーストラリアの外貨取得手段は、農産物と鉱産物である。それらを売って、やっとオーストラリアドルのレート(1ドル=約80円)を維持しているのである。それが維持できなければ、スマホや4kテレビが買えないのだから、死活問題である。もちろん、それに配慮せよと言うのではない。ただ、以下の日本の伝統を知るべきだと言いたいのである。つまり、「和を以って尊しとなす」の本意は、自分が10円得するからといって、相手に100円の損害を与えるような愚策を摂るべきではないということである。
この現在の世界秩序の中で、我々日本人の庶民一般は鯨肉よりずっと美味しい安いオーストラリア牛肉を食べることができる。それだけで良いではないか。そして、何よりもオーストラリアとは環太平洋&インド洋における中国覇権の防波堤を築いている仲である。ここで、下らないことで衝突することは得策ではない。
外交は、国際関係に対する視野を広く持たなければ、上手くいかないだろう。シチョウ当たりを遠くに打たれて、その事情がわからない様では、囲碁は打てないだろう。また、縁台将棋の次の一手には、外野からの声が大きく影響する。世界の先進国G7の中にあって、そのようなレベルの外交の"打手"では、世界の安定に寄与するどころか、障害になるだけである。
以上、玄人らしい口調で述べたのですが、全く素人の意見です。反論頂ければと思います。
追補: 予想通り、自民党の二階氏がIWCから脱退を強硬に支持している。これは、想像だが、中国関係の企みだと思う。日本を上記太平洋ーインド洋の国際連携から外す策略だろう。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181221-00000113-jij-pol(22時、追加)
もともと国際政治に論理や科学的根拠を求めることは、魚屋に野菜を買いに行くようなものだろう。鯨肉の消費量は既に、年間20万トン以上(1962年)から3000トン(2012年)にまで減少している。今更、国際世論に逆らって、商業捕鯨を再開することは愚の骨頂である。
IWCで強硬に捕鯨反対を主張するのはオーストラリアである。その国のシーシェパードという団体の、日本の船にたいする暴力行為を非難する日本人一般の気持ちは当然である。カンガルーの肉を食べるクセに、日本の鯨食文化を非難するのはおかしいという理屈もわかる。しかし、その理屈はオーストラリアや彼らの意見に同調する全ての国の大多数の人たちにもわかる筈である。つまり、それらの組織的行為が単に鯨を偏愛する人間の行為だと考えるのは愚かである。https://newsphere.jp/national/20140417-3/
推理に過ぎないのだが、もっと明確に言えば、彼らは日本に牛肉を売りたいだけなのだ。オーストラリアの外貨取得手段は、農産物と鉱産物である。それらを売って、やっとオーストラリアドルのレート(1ドル=約80円)を維持しているのである。それが維持できなければ、スマホや4kテレビが買えないのだから、死活問題である。もちろん、それに配慮せよと言うのではない。ただ、以下の日本の伝統を知るべきだと言いたいのである。つまり、「和を以って尊しとなす」の本意は、自分が10円得するからといって、相手に100円の損害を与えるような愚策を摂るべきではないということである。
この現在の世界秩序の中で、我々日本人の庶民一般は鯨肉よりずっと美味しい安いオーストラリア牛肉を食べることができる。それだけで良いではないか。そして、何よりもオーストラリアとは環太平洋&インド洋における中国覇権の防波堤を築いている仲である。ここで、下らないことで衝突することは得策ではない。
外交は、国際関係に対する視野を広く持たなければ、上手くいかないだろう。シチョウ当たりを遠くに打たれて、その事情がわからない様では、囲碁は打てないだろう。また、縁台将棋の次の一手には、外野からの声が大きく影響する。世界の先進国G7の中にあって、そのようなレベルの外交の"打手"では、世界の安定に寄与するどころか、障害になるだけである。
以上、玄人らしい口調で述べたのですが、全く素人の意見です。反論頂ければと思います。
追補: 予想通り、自民党の二階氏がIWCから脱退を強硬に支持している。これは、想像だが、中国関係の企みだと思う。日本を上記太平洋ーインド洋の国際連携から外す策略だろう。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181221-00000113-jij-pol(22時、追加)
2018年12月19日水曜日
宇宙開発という研究の意味と実態
1)小惑星リュウグウに水(の元)があったとか、なかったとか、或いは有機物があったとかなんとかいう話が今日10時頃のNHKで放映されていた。有機物があったことから、それらの破片が地球に飛来して生命誕生の切っ掛けになった可能性も考えられると解説員が言っていた。
その様な発言は非常に不愉快であり、愚劣に聞こえる。宇宙開発予算に国民の理解を得るための言葉で、JAXAの所長かだれかから是非そう発言するように言われたのだろう。それがまともに科学に関係している人から独自に出た発言だとすれば、科学的センスも研究者としての資質もゼロだろう。(補足1)この種のいい加減な話にNHKが協力するのなら、その経営費は視聴料ではなくそちらから貰えば良い。
「有機物の破片から地球の生命の誕生の謎が解明されるかもしれない」そんな意見を聞いて、聞き手のアナウンサーは素直に相槌をうっていた。「じゃ、その有機物の起源は地球からですか、他の天体からですか?他の天体だとしたら、地球の生命の起源は、その他の天体の有機物の起源がわからないと、やはり闇の中ですね」それくらいのツッコミができなければ、視聴者のためにいるのではなく、JAXAか何かの為にいることになる。
兎に角、宇宙科学の開発は全て軍事開発の隠れ蓑である。もっとストレートに軍事技術の開発をやったほうが経費が安くなる。火星など、ましてや小惑星(補足2)などが地球人のために利用できる日が来るとは思えない。それをするのなら、月移住の方が遥かに簡単だろうし、更にそれよりも南極移住の方が数桁費用的にも技術的にも簡単だろう。
JAXAの宇宙科学研究が軍事技術開発でなければ、解散すれば良い。その方が予算も人員も助かる。其の種の国立機関が山ほどある。プライマリーバランス云々を言うのなら、そのような役立たない機関を廃止すべきだ。
2)宇宙開発研究との関連でもう一つの話題について、少し書きたい。それは南アフリカ系の起業家イーロン・マスクのスペースX社(米国)が計画しているという、火星移住計画構想である。https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001
同社は、2018年中に月周辺に2名を送る計画だった筈である。その話はその後どうなったのか、是非発表してもらいたいものだ。http://www.bbc.com/japanese/39111989
周回軌道でも月旅行は技術的に非常に難しく、恐らくまだ開発研究は終わっていないだろう。有人で成功するには、現在のロケット技術では無理だろう。つまり、アポロ計画は捏造だったのだろう。それについては既に書いている通りである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/12/11.html
イーロン・マスクは、単にほらを吹いているだけなのか、何か他に目的があるのか、或いは無知のためか? 恐らく最後のケースだろう。アポロ計画での有人月面旅行の成功を信じ、自分達の資金量と当時の米国の一回あたりの月面旅行の資金投入額などを試算して、月周回旅行なら何時でも出来ると軽くかんがえたのかもしれない。
補足:
1)以下の主張を筆者がするのには根本的理由がある。それは、筆者は科学と文明の二人三脚の時代が終わったと考えるからである。その認識に関する記事を、既にこのブログサイトにアップしている。(本年9月24日頃)https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_24.html
2)小惑星の研究をするのなら、地球に衝突する可能性のある小惑星の特定、衝突するくらい近づくのなら、それを爆破したり軌道をずらせたりする研究などが必要である。水なんか、岩石の結晶水としてあるのかもしれないが、そんな研究は地球の生命誕生の謎を探ることに繋がる筈がない。それは理系研究者の直感である。議論歓迎します。
追補:宇宙開発や宇宙移住計画などは、政治の混迷を隠す隠れ蓑的に用いられる可能性もある。
その様な発言は非常に不愉快であり、愚劣に聞こえる。宇宙開発予算に国民の理解を得るための言葉で、JAXAの所長かだれかから是非そう発言するように言われたのだろう。それがまともに科学に関係している人から独自に出た発言だとすれば、科学的センスも研究者としての資質もゼロだろう。(補足1)この種のいい加減な話にNHKが協力するのなら、その経営費は視聴料ではなくそちらから貰えば良い。
「有機物の破片から地球の生命の誕生の謎が解明されるかもしれない」そんな意見を聞いて、聞き手のアナウンサーは素直に相槌をうっていた。「じゃ、その有機物の起源は地球からですか、他の天体からですか?他の天体だとしたら、地球の生命の起源は、その他の天体の有機物の起源がわからないと、やはり闇の中ですね」それくらいのツッコミができなければ、視聴者のためにいるのではなく、JAXAか何かの為にいることになる。
兎に角、宇宙科学の開発は全て軍事開発の隠れ蓑である。もっとストレートに軍事技術の開発をやったほうが経費が安くなる。火星など、ましてや小惑星(補足2)などが地球人のために利用できる日が来るとは思えない。それをするのなら、月移住の方が遥かに簡単だろうし、更にそれよりも南極移住の方が数桁費用的にも技術的にも簡単だろう。
JAXAの宇宙科学研究が軍事技術開発でなければ、解散すれば良い。その方が予算も人員も助かる。其の種の国立機関が山ほどある。プライマリーバランス云々を言うのなら、そのような役立たない機関を廃止すべきだ。
2)宇宙開発研究との関連でもう一つの話題について、少し書きたい。それは南アフリカ系の起業家イーロン・マスクのスペースX社(米国)が計画しているという、火星移住計画構想である。https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001
同社は、2018年中に月周辺に2名を送る計画だった筈である。その話はその後どうなったのか、是非発表してもらいたいものだ。http://www.bbc.com/japanese/39111989
周回軌道でも月旅行は技術的に非常に難しく、恐らくまだ開発研究は終わっていないだろう。有人で成功するには、現在のロケット技術では無理だろう。つまり、アポロ計画は捏造だったのだろう。それについては既に書いている通りである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/12/11.html
イーロン・マスクは、単にほらを吹いているだけなのか、何か他に目的があるのか、或いは無知のためか? 恐らく最後のケースだろう。アポロ計画での有人月面旅行の成功を信じ、自分達の資金量と当時の米国の一回あたりの月面旅行の資金投入額などを試算して、月周回旅行なら何時でも出来ると軽くかんがえたのかもしれない。
補足:
1)以下の主張を筆者がするのには根本的理由がある。それは、筆者は科学と文明の二人三脚の時代が終わったと考えるからである。その認識に関する記事を、既にこのブログサイトにアップしている。(本年9月24日頃)https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_24.html
2)小惑星の研究をするのなら、地球に衝突する可能性のある小惑星の特定、衝突するくらい近づくのなら、それを爆破したり軌道をずらせたりする研究などが必要である。水なんか、岩石の結晶水としてあるのかもしれないが、そんな研究は地球の生命誕生の謎を探ることに繋がる筈がない。それは理系研究者の直感である。議論歓迎します。
追補:宇宙開発や宇宙移住計画などは、政治の混迷を隠す隠れ蓑的に用いられる可能性もある。
2018年12月16日日曜日
中国の国家資本主義、米国のディープ・ステート、そしてトランプの反撃
1)中国の企業は資本主義的に経営されているが、それ以外の部分においては国家と一体だと考えられる。今回のファーウエイ(華為)のケースがそれを明確に示している。CFOであった創業者の長女が、カナダで米国の要請により逮捕された。国防に関係する同社の不正が容疑である。彼女は7つのパスポートを保持し、世界を股にかけて活動していた。国家が7つのパスポートを出していることは、国家が彼女に7つの人格を与えていたことになる。
この世界一に成長した通信機器の会社は、中国人民軍の関係者が1987年に起業した。その後の急成長が、“国家の支援”無くして可能な筈はないだろう。中国のグローバル企業は、特定の共産党幹部と繋がり、更にその背後に中国国家が厳然と存在する。あの国家は、国境までも超えた地域での企業活動の環境を整え、活動のためのインフラを整備する他、重要なポイントで企業に指示や支援を与えるのではないだろうか。
それら企業と共産党、行政機構が一体となっているのが、中国という国家なのだろう。(補足1)国家権力と13億人の国民(華僑華人を含めて)の相互の連携で、世界を舞台に企業活動している。大きな軍事力と何でもありの諜報活動、国内においては帝国主義的支配力を用いて、技術開発、資源調達、そして市場開拓を国家と企業が一体となって行なっている様に見える。 中国は、華為技術を含めて多くの巨大企業、その国家の支配下にある創業者及び経営者、及び諜報機関を含めた国家の諸機関からなる政治経済的怪獣のようである。そこで、中心的役割を果たすのが、全て共産党員と呼ばれる貴族階級の人間である。明治から昭和初期の、帝国主義の日本における財閥と似ているのかもしれない。
中国人は、広い大地での厳しい生存競争を生き抜いた、勤勉さと高い知能を持つ。その実力主義と中国文化の特徴である家族主義は、他に対する冷淡さと同族の強い結束力等と裏腹の関係にある。それらは、強い投資意欲と緻密な連携を産む。中国企業の多くは、“世界の工場”からノウハウなどの情報を持ってスピンオフして作られた企業だろう。それが一旦成功の道に入ると、野心的に大きなフィードバックにより、そして国家の支援もあり、短時間に大きなグローバル企業に育つことができる。
2)グローバルな経済体制は、アメリカが黙々と世界覇権維持の為に築き上げたものだろう。しかし、アメリカは西欧先進国文化圏の中心であり、先進文化の束縛から自由ではない。そのグローバルな経済体制の本当の司令塔は、民主主義を看板とする国家の中の地下深くに所謂ディープ・ステートとして存在すると言う人も多い。(補足2)
これまで、そこへ言及する人は陰謀論者として社会から排除されてきた。そのグローバリズム推進者たちは、ニューヨーク・タイムズなどのマスコミを牛耳り、世論誘導と政治資金の寄付などを武器に政治を牛耳ってきたと、“陰謀論者”は考えている。
兎に角、このグローバル経済を制限するために立ち上がったのがトランプである。グローバリズムは貧富の差を拡大し、その結果貧困層に落ちたWASPと呼ばれる人の支持で、トランプは大統領になったからである。
グローバル資本は、自国も外国も労働力の供給及び商品の市場として平等に見ることで成長する。その資本と行動を伴にする一部上流階級、及び、その資本の為に宣伝活動等を受け持つ芸能、報道、スポーツ界などが益々豊かになるが(補足3)、一方、労働力供給及び消費市場を構成する一般民は、その資本が移動する発展途上国と本質として同等な存在とみなされて、貧困化する。
グローバリズム経済の副作用で苦しむ米国や先進国諸国を横目に、中国はその恩恵を受けて成長を続け、世界覇権に近づいてきた。国家資本主義でもって、中華のアジアから中華のユーラシアを作り上げるという表明が、一帯一路構想の発表である。それは、習近平による大きくなった中国の米国に対する縄張り宣言であるが、米国は世界覇権をめぐる挑戦状と受け取ることになったのだろう。
米国は、近未来の中国が、米国の世界覇権とその経済的側面である米ドル基軸体制を危うくすると考えた。目が醒めた米国の反応は強烈であり、それが同盟国を巻き込んだ米中新冷戦の始まりである。早々と一帯一路構想を宣言することは、中国の伝統的戦略ではないだろう。(補足4)ただ、それにより国内の基盤を確かにする必要があったとすれば、習近平はその時点で大きな賭けをする必要に迫られていたということになる。
トランプが多大の出費となる世界覇権の放棄で、米国の慢性的赤字体質やWASPの貧困化などが克服できると考えたのなら、それは恐らく間違いだろう。グローバル化のネットワークに米国も深く依存する体質となっている今、世界覇権の放棄は世界の大混乱と米国の没落の原因となる可能性が高い。ドルの崩壊により、基軸通貨を失った世界は大混乱に陥る。その時、新たに基軸通貨となるのはやはり元かユーロだろう。
アメリカ第一主義と言ってみても、没落してしまっては何にもならない。米国は世界に米国債と、米ドルを配給して、今までやってきた世界一の赤字国である。その赤字体質は一朝一夕には変換できない。また、米国のグローバル企業の多くのトップ層としてインド人などの外国人が活躍していることなど、米国は大きく外国人に依存している。資本の多くを支えているのも、欧州などから来た外国人(ユダヤ人)だったことを考えると、閉鎖的な米国ではそれらの人々にとっても魅力に欠けることになるだろう。米国第一という宣言でグローバリズムから完全脱退することは、米国にとって致命的だと思う。
外国人に依存した米国は、見方を換えれば、世界に開かれたおおらかで夢の国アメリカである。それを大事にしてこそ、アメリカの更なる発展と安定があると思う。現在では、トランプ政権と米国議会など米国全体が反中国で一致していると報道されている。戦略家のルトワックは、この方向は当初から一貫してトランプの方針であると言っている。(補足5)兎に角、来年はたいへんな年になるだろう。
以上は一素人のメモであり、妄想の結果かもしれませんので、注意してお読みください。尚、専門的知識のある方による指摘等いただければありがたいと思います。
補足:
1)最近、アリババのジャック・マーが共産党員であることが明らかになった。これまで、アリババ創業という大成功が共産党員以外によりなされたと考えた中国の若者一般に、ジャック・マーが夢を与えていたという。 https://www.asahi.com/articles/ASLCX4TRKLCXULFA01D.html
2)https://www.youtube.com/watch?v=EYA2C_RgsZsに一つの解説がある。
3)昔の河原乞食が、現代のタレント貴族たちである。
4)中日新聞12月16日の社説で、鄧小平は絶対に覇権は目指さないと言ったと書かれている。その社説によると:1978年夏に日中平和友好条約締結のために訪中した園田直外相と鄧小平が会談した。その際、鄧小平は「中国は再三覇権を求めないことを表明している。この考えが変わるようなことがあれば、全ての国が中国に反対しても構わない」と言った。
まさに世界はその様に進んでいる。その鄧小平の言葉を素直に受けている中日新聞の主幹は、中国から何らかの利益を得ているのだろう。
5)トランプは、世界の多極化、つまりアメリカ・ファーストと他の各国は自国ファースト、の道を、本格的には追求はしないだろう。反グローバリズムは、他国に対する貿易赤字解消要求のための道具だった可能性がある。
この世界一に成長した通信機器の会社は、中国人民軍の関係者が1987年に起業した。その後の急成長が、“国家の支援”無くして可能な筈はないだろう。中国のグローバル企業は、特定の共産党幹部と繋がり、更にその背後に中国国家が厳然と存在する。あの国家は、国境までも超えた地域での企業活動の環境を整え、活動のためのインフラを整備する他、重要なポイントで企業に指示や支援を与えるのではないだろうか。
それら企業と共産党、行政機構が一体となっているのが、中国という国家なのだろう。(補足1)国家権力と13億人の国民(華僑華人を含めて)の相互の連携で、世界を舞台に企業活動している。大きな軍事力と何でもありの諜報活動、国内においては帝国主義的支配力を用いて、技術開発、資源調達、そして市場開拓を国家と企業が一体となって行なっている様に見える。 中国は、華為技術を含めて多くの巨大企業、その国家の支配下にある創業者及び経営者、及び諜報機関を含めた国家の諸機関からなる政治経済的怪獣のようである。そこで、中心的役割を果たすのが、全て共産党員と呼ばれる貴族階級の人間である。明治から昭和初期の、帝国主義の日本における財閥と似ているのかもしれない。
中国人は、広い大地での厳しい生存競争を生き抜いた、勤勉さと高い知能を持つ。その実力主義と中国文化の特徴である家族主義は、他に対する冷淡さと同族の強い結束力等と裏腹の関係にある。それらは、強い投資意欲と緻密な連携を産む。中国企業の多くは、“世界の工場”からノウハウなどの情報を持ってスピンオフして作られた企業だろう。それが一旦成功の道に入ると、野心的に大きなフィードバックにより、そして国家の支援もあり、短時間に大きなグローバル企業に育つことができる。
2)グローバルな経済体制は、アメリカが黙々と世界覇権維持の為に築き上げたものだろう。しかし、アメリカは西欧先進国文化圏の中心であり、先進文化の束縛から自由ではない。そのグローバルな経済体制の本当の司令塔は、民主主義を看板とする国家の中の地下深くに所謂ディープ・ステートとして存在すると言う人も多い。(補足2)
これまで、そこへ言及する人は陰謀論者として社会から排除されてきた。そのグローバリズム推進者たちは、ニューヨーク・タイムズなどのマスコミを牛耳り、世論誘導と政治資金の寄付などを武器に政治を牛耳ってきたと、“陰謀論者”は考えている。
兎に角、このグローバル経済を制限するために立ち上がったのがトランプである。グローバリズムは貧富の差を拡大し、その結果貧困層に落ちたWASPと呼ばれる人の支持で、トランプは大統領になったからである。
グローバル資本は、自国も外国も労働力の供給及び商品の市場として平等に見ることで成長する。その資本と行動を伴にする一部上流階級、及び、その資本の為に宣伝活動等を受け持つ芸能、報道、スポーツ界などが益々豊かになるが(補足3)、一方、労働力供給及び消費市場を構成する一般民は、その資本が移動する発展途上国と本質として同等な存在とみなされて、貧困化する。
グローバリズム経済の副作用で苦しむ米国や先進国諸国を横目に、中国はその恩恵を受けて成長を続け、世界覇権に近づいてきた。国家資本主義でもって、中華のアジアから中華のユーラシアを作り上げるという表明が、一帯一路構想の発表である。それは、習近平による大きくなった中国の米国に対する縄張り宣言であるが、米国は世界覇権をめぐる挑戦状と受け取ることになったのだろう。
米国は、近未来の中国が、米国の世界覇権とその経済的側面である米ドル基軸体制を危うくすると考えた。目が醒めた米国の反応は強烈であり、それが同盟国を巻き込んだ米中新冷戦の始まりである。早々と一帯一路構想を宣言することは、中国の伝統的戦略ではないだろう。(補足4)ただ、それにより国内の基盤を確かにする必要があったとすれば、習近平はその時点で大きな賭けをする必要に迫られていたということになる。
トランプが多大の出費となる世界覇権の放棄で、米国の慢性的赤字体質やWASPの貧困化などが克服できると考えたのなら、それは恐らく間違いだろう。グローバル化のネットワークに米国も深く依存する体質となっている今、世界覇権の放棄は世界の大混乱と米国の没落の原因となる可能性が高い。ドルの崩壊により、基軸通貨を失った世界は大混乱に陥る。その時、新たに基軸通貨となるのはやはり元かユーロだろう。
アメリカ第一主義と言ってみても、没落してしまっては何にもならない。米国は世界に米国債と、米ドルを配給して、今までやってきた世界一の赤字国である。その赤字体質は一朝一夕には変換できない。また、米国のグローバル企業の多くのトップ層としてインド人などの外国人が活躍していることなど、米国は大きく外国人に依存している。資本の多くを支えているのも、欧州などから来た外国人(ユダヤ人)だったことを考えると、閉鎖的な米国ではそれらの人々にとっても魅力に欠けることになるだろう。米国第一という宣言でグローバリズムから完全脱退することは、米国にとって致命的だと思う。
外国人に依存した米国は、見方を換えれば、世界に開かれたおおらかで夢の国アメリカである。それを大事にしてこそ、アメリカの更なる発展と安定があると思う。現在では、トランプ政権と米国議会など米国全体が反中国で一致していると報道されている。戦略家のルトワックは、この方向は当初から一貫してトランプの方針であると言っている。(補足5)兎に角、来年はたいへんな年になるだろう。
以上は一素人のメモであり、妄想の結果かもしれませんので、注意してお読みください。尚、専門的知識のある方による指摘等いただければありがたいと思います。
補足:
1)最近、アリババのジャック・マーが共産党員であることが明らかになった。これまで、アリババ創業という大成功が共産党員以外によりなされたと考えた中国の若者一般に、ジャック・マーが夢を与えていたという。 https://www.asahi.com/articles/ASLCX4TRKLCXULFA01D.html
2)https://www.youtube.com/watch?v=EYA2C_RgsZsに一つの解説がある。
3)昔の河原乞食が、現代のタレント貴族たちである。
4)中日新聞12月16日の社説で、鄧小平は絶対に覇権は目指さないと言ったと書かれている。その社説によると:1978年夏に日中平和友好条約締結のために訪中した園田直外相と鄧小平が会談した。その際、鄧小平は「中国は再三覇権を求めないことを表明している。この考えが変わるようなことがあれば、全ての国が中国に反対しても構わない」と言った。
まさに世界はその様に進んでいる。その鄧小平の言葉を素直に受けている中日新聞の主幹は、中国から何らかの利益を得ているのだろう。
5)トランプは、世界の多極化、つまりアメリカ・ファーストと他の各国は自国ファースト、の道を、本格的には追求はしないだろう。反グローバリズムは、他国に対する貿易赤字解消要求のための道具だった可能性がある。
2018年12月12日水曜日
巨大資本によるグローバルな植民地化:大前研一氏の講演(新世代の為の世界と日本 新たな繁栄を求めて)の感想
1)久しぶりに大前研一氏の講演(新世代の為の世界と日本 新たな繁栄を求めて:ダイジェスト版)をyoutubeで聞いた。世界の政治経済の動向については、面白かった。一つの視点から見た話だという前提を置けば、勉強になる良い講演だと思う。(補足1)ただ、その考え方は偏っていて、日本に古くからいる一部アメリカ人の方とそっくりなトランプ批判である。https://www.youtube.com/watch?v=35Y-pufajq8
最初、アメリカの国際政治や経済のあり方が、世界のモデルとなってきたという話から始まる。トランプ政権の誕生により、そのアメリカモデルが破綻したことを嘆く気持ちは、アメリカの新聞と同じである。しかし、アメリカモデルを破壊したのは、アメリカ自身である。もし、これまでのアメリカモデルが現実論の積み重ねで出来ていたのなら、中国の台頭に慌てふためくことはない筈だった。
多民族国家を束ねる工夫として、わかりやすい理想論を建前にし、見得にくい所で、本音で行動するという方針でやってきたのがアメリカである。それをブレジンスキーは白状している。「ネット社会になり、政治に詳しい人が100万も出てくれば、それに一々対処するより殺す方が簡単だ」という趣旨の発言は、世界に広がっている筈だ。
従って、前者だけ(理想論の部分)では世界各国のモデルたり得ない。その証拠に、アラブの春はなんだったのか?単に、アラブを破壊しただけである。その理想論、つまり少数派でも権利は保障されるという理想論(つまり自由と人権の論理)で国家を束ね、その支配層としてユダヤ社会が座ることに成功したと、現実論者のブレジンスキーが回顧録の中で書いているという。(馬渕睦夫さんの動画)
その米国の現実的な政治と経済における世界支配の中身を、理想論をラベルにして、世界のモデルであったと大前さんは言っている。大前さんは、米国の支配層の利益を代弁して、20世紀のアメリカの論理を主張しているにすぎない。大前氏の日本政治批判、安倍晋三と黒田東彦の批判は、多民族国家としての米国の歴史と看板の理想論を無視して、その強者の現実論を日本に適用しているように思える。
大前さんは自著の「The end of the nation state; The rise of regional economies」を紹介し、それが日本以外でよく売れたと言っておられる。Nation Stateが終わるというのは、グローバリズムという意味である。その主張を1990年代から、大前氏はやってきたのだ。勿論、"正義に基づいた"グローバリズムの実現は、遠いけれども人類の目標である。Nation StatesからThe global state of nationsへの移行を具体的にどのようにするかが、21世紀の人類に与えられた課題であると思う。(追補参照)
その難問の内、現在最大の課題が欧米とは異質なNationStateである中国の問題である。未だに帝国の領域に残る大国が、先を進む欧米に対し挑戦している姿が、現代の世界政治の渦の中心にある。その課題に向かって、現在トランプは戦っていると思う。
トランプは、グローバル資本のアマゾンなどを目の敵にしているようにも見える。米国におけるトランプ批判とは、現在の政権に対するグローバル資本の代弁者である米国報道機関の反論に過ぎないのだろう。アマゾンのトップがワシントン・ポストを所有していることを、講演で紹介している。
2)大前さんの考え方の実質は、自然競争の原理つまり強者の論理を優先すべきという考えである。従って、餌場は広い方がよく、世界規模で人も金も集めて会社を大きくするというグローバリズムを善とする。
世界経済を大きくするのには良い考え方であるし、将来の日本を強い経済の国にするのにも良い考え方だと思う。未来に、たくましい日本人と巨大な経済を今の延長上に探すのなら、弱者は滅びる方が日本の為になる。単なる法人ならそれは当然かもしれない。
ただ、政治は現在の人間にも一定の配慮が必要である。その視点が見事に欠けている。富とルールを分配するのが政治だとすれば、その配分は現在と未来の両方に向けてしなければならない。未来へ向けた部分は大前さんの考えが良いと思うが、それを全体だと聴衆が思い込むことへの配慮がなければならない。 その配慮が見えないので、このような批判をすることになる。講演で大前氏は、21世紀を見ての話だと言うが、その論理は先進国にとっては20世紀のバージョンである。20世紀に強者となったものが、21世紀も同じ原理で外の獲物を探したいという論理である。明らかに21世紀を直視しているトランプを糾弾する資格は、大前氏にはないと思う。
単に金儲けがうまさだけで、人間の能力を計るのは尊大である。人間は有史以来、人と人との協力とそのための弱者への配慮の方法を探してきた。それが人間の作り上げた文化である。グローバリズムは、将来の人類の夢であるが、その性急な追求は、自分が金持ちになりたいという人を作るだけである。
その中で、弱者は涙の中で死ぬのみであり、それが自然だというのはあまりにも残酷ではないのか。何故日本人は、いざというときのために金を貯めるのか?それは日本社会が、大前氏が主張する20世紀の経済の論理で変化し、家族関係が破壊され、老後は金しか頼るものがなくなったからである。
「税は資産課税だけにして、所得税と法人税は全廃する」という考え(講演の40分位から)には、老いて尚不安に苛まれる人への配慮の欠片もない。大前氏が日本人なら、座禅でもして、或いは、断食でもして、もう一度人間とは何か、文化とは何かを考えたらどうかと進言したい。
以上、大前氏の講演(動画でみた範囲)に対するコメントを繋ぎ合わせ、整理した文章である。筆者は理系で定年まで働いた素人なので、間違いがある可能性が高いので、玄人の方は是非その指摘や全体的な批判をしてもらいたい。
補足:
1)大前氏の講演のなかで、インド人は優秀であり多数が欧米グローバル企の経営者としなっていることを紹介している。そこで、ネット検索すると、そのリストが現れた。
• Softbank -ニケシュ・アローラ氏(Nikesh Arora)
• Google -サンダー・ピチャイ氏(Sundar Pichai)
• Microsoft – サヤト・ナデラ氏(Satya Nadella)
• Adobe systems -シャンタヌ・ナラヤン氏(Shantanu Narayen)
• Master card -アジェイ・バンガ氏(Ajay Banga)
• PepsiCo -インドラ・ヌーイ(Indra Nooyi)
• ドイツ銀行 -アンシュ・ジェイン氏(Anshu Jain)
• NOKIA -ラジーブ・スリ氏(Rajeev Suri)
• SanDisc -サンジェイ・メロートラ(Sanjay Mehrotra)
https://indiamatome.com/business/indianceo
大前氏は、インドの優秀な人は、自国に帰ってインドを豊かにしようとしないで、欧米で活躍することを考えると言っている。それは、世界を不均一に発展させるグローバリズムの結果の一つであると思う。つまり、現在のグローバリズムは、発展途上国の巨大資本による植民地化である。
追補:
上記21世紀の人類の課題とした部分で書いた「Nation States からThe global state of nations の実現」は、「諸民族が連携した世界国家の実現」の意味です。(13日早朝)
最初、アメリカの国際政治や経済のあり方が、世界のモデルとなってきたという話から始まる。トランプ政権の誕生により、そのアメリカモデルが破綻したことを嘆く気持ちは、アメリカの新聞と同じである。しかし、アメリカモデルを破壊したのは、アメリカ自身である。もし、これまでのアメリカモデルが現実論の積み重ねで出来ていたのなら、中国の台頭に慌てふためくことはない筈だった。
多民族国家を束ねる工夫として、わかりやすい理想論を建前にし、見得にくい所で、本音で行動するという方針でやってきたのがアメリカである。それをブレジンスキーは白状している。「ネット社会になり、政治に詳しい人が100万も出てくれば、それに一々対処するより殺す方が簡単だ」という趣旨の発言は、世界に広がっている筈だ。
従って、前者だけ(理想論の部分)では世界各国のモデルたり得ない。その証拠に、アラブの春はなんだったのか?単に、アラブを破壊しただけである。その理想論、つまり少数派でも権利は保障されるという理想論(つまり自由と人権の論理)で国家を束ね、その支配層としてユダヤ社会が座ることに成功したと、現実論者のブレジンスキーが回顧録の中で書いているという。(馬渕睦夫さんの動画)
その米国の現実的な政治と経済における世界支配の中身を、理想論をラベルにして、世界のモデルであったと大前さんは言っている。大前さんは、米国の支配層の利益を代弁して、20世紀のアメリカの論理を主張しているにすぎない。大前氏の日本政治批判、安倍晋三と黒田東彦の批判は、多民族国家としての米国の歴史と看板の理想論を無視して、その強者の現実論を日本に適用しているように思える。
大前さんは自著の「The end of the nation state; The rise of regional economies」を紹介し、それが日本以外でよく売れたと言っておられる。Nation Stateが終わるというのは、グローバリズムという意味である。その主張を1990年代から、大前氏はやってきたのだ。勿論、"正義に基づいた"グローバリズムの実現は、遠いけれども人類の目標である。Nation StatesからThe global state of nationsへの移行を具体的にどのようにするかが、21世紀の人類に与えられた課題であると思う。(追補参照)
その難問の内、現在最大の課題が欧米とは異質なNationStateである中国の問題である。未だに帝国の領域に残る大国が、先を進む欧米に対し挑戦している姿が、現代の世界政治の渦の中心にある。その課題に向かって、現在トランプは戦っていると思う。
トランプは、グローバル資本のアマゾンなどを目の敵にしているようにも見える。米国におけるトランプ批判とは、現在の政権に対するグローバル資本の代弁者である米国報道機関の反論に過ぎないのだろう。アマゾンのトップがワシントン・ポストを所有していることを、講演で紹介している。
2)大前さんの考え方の実質は、自然競争の原理つまり強者の論理を優先すべきという考えである。従って、餌場は広い方がよく、世界規模で人も金も集めて会社を大きくするというグローバリズムを善とする。
世界経済を大きくするのには良い考え方であるし、将来の日本を強い経済の国にするのにも良い考え方だと思う。未来に、たくましい日本人と巨大な経済を今の延長上に探すのなら、弱者は滅びる方が日本の為になる。単なる法人ならそれは当然かもしれない。
ただ、政治は現在の人間にも一定の配慮が必要である。その視点が見事に欠けている。富とルールを分配するのが政治だとすれば、その配分は現在と未来の両方に向けてしなければならない。未来へ向けた部分は大前さんの考えが良いと思うが、それを全体だと聴衆が思い込むことへの配慮がなければならない。 その配慮が見えないので、このような批判をすることになる。講演で大前氏は、21世紀を見ての話だと言うが、その論理は先進国にとっては20世紀のバージョンである。20世紀に強者となったものが、21世紀も同じ原理で外の獲物を探したいという論理である。明らかに21世紀を直視しているトランプを糾弾する資格は、大前氏にはないと思う。
単に金儲けがうまさだけで、人間の能力を計るのは尊大である。人間は有史以来、人と人との協力とそのための弱者への配慮の方法を探してきた。それが人間の作り上げた文化である。グローバリズムは、将来の人類の夢であるが、その性急な追求は、自分が金持ちになりたいという人を作るだけである。
その中で、弱者は涙の中で死ぬのみであり、それが自然だというのはあまりにも残酷ではないのか。何故日本人は、いざというときのために金を貯めるのか?それは日本社会が、大前氏が主張する20世紀の経済の論理で変化し、家族関係が破壊され、老後は金しか頼るものがなくなったからである。
「税は資産課税だけにして、所得税と法人税は全廃する」という考え(講演の40分位から)には、老いて尚不安に苛まれる人への配慮の欠片もない。大前氏が日本人なら、座禅でもして、或いは、断食でもして、もう一度人間とは何か、文化とは何かを考えたらどうかと進言したい。
以上、大前氏の講演(動画でみた範囲)に対するコメントを繋ぎ合わせ、整理した文章である。筆者は理系で定年まで働いた素人なので、間違いがある可能性が高いので、玄人の方は是非その指摘や全体的な批判をしてもらいたい。
補足:
1)大前氏の講演のなかで、インド人は優秀であり多数が欧米グローバル企の経営者としなっていることを紹介している。そこで、ネット検索すると、そのリストが現れた。
• Softbank -ニケシュ・アローラ氏(Nikesh Arora)
• Google -サンダー・ピチャイ氏(Sundar Pichai)
• Microsoft – サヤト・ナデラ氏(Satya Nadella)
• Adobe systems -シャンタヌ・ナラヤン氏(Shantanu Narayen)
• Master card -アジェイ・バンガ氏(Ajay Banga)
• PepsiCo -インドラ・ヌーイ(Indra Nooyi)
• ドイツ銀行 -アンシュ・ジェイン氏(Anshu Jain)
• NOKIA -ラジーブ・スリ氏(Rajeev Suri)
• SanDisc -サンジェイ・メロートラ(Sanjay Mehrotra)
https://indiamatome.com/business/indianceo
大前氏は、インドの優秀な人は、自国に帰ってインドを豊かにしようとしないで、欧米で活躍することを考えると言っている。それは、世界を不均一に発展させるグローバリズムの結果の一つであると思う。つまり、現在のグローバリズムは、発展途上国の巨大資本による植民地化である。
追補:
上記21世紀の人類の課題とした部分で書いた「Nation States からThe global state of nations の実現」は、「諸民族が連携した世界国家の実現」の意味です。(13日早朝)
2018年12月11日火曜日
米中新冷戦の中での日本の生き残る道
文藝春秋12月号のエドワード・ルトワックの「米中冷戦、日本4.0が生き残る道」という記事を読んだ。ここで日本バージョン4.0とは、江戸幕府ができた日本、明治新体制、戦後体制に次ぐ、近代4番目の期待される改革後の日本を意味している。より具体的には、米中新冷戦の中を生きる新しい日本という意味である。
日本の何を新しくすべきなのか。それは米国との同盟を深化し、東アジアでの親米ネットワークの中心的役割を果たすべきだということらしい。米国は、各種ロビー団体も議会も反中で一致しており、反トランプの勢力から唯一批判がないのが、反中政策だと言う。共産党支配の中国との付き合い方は、最新且つ最大の米国の外交課題だろう。
私にはルトワックはトランプの背後に居るように思える。それは、この原稿全体を通して、これまでのトランプ政治と乖離した考えが見当たらないからである。
1)朝鮮半島について:
ルトワックの考えでの理想的な朝鮮半島の姿は、北朝鮮からの核廃絶と米軍の朝鮮半島残留のようである。核廃絶と米軍残留のどちらが大事かといえば、後者だと考えているようだ。そして、日本は半島の非核化や拉致問題解決を性急に実現しようと考えてはいけないと言って居る。現状、つまり、北朝鮮が核保有し在韓米軍が存在する状態が、日本にとってそんなに悪くないとも言っている。
日本人向けの文章なので、言葉を選んで居るが、おそらく反中を貫く為には米国と北朝鮮の協力関係樹立が望ましいと考えているのだろう。そのモデルはベトナムである。つまり、ベトナム戦争で勝ちながら、北ベトナムはベトナム統一後に親米反中になった。それと同じプロセスを朝鮮半島にも期待しているようだ。
北朝鮮がベトナム方式を採ると確信できるのなら、安倍政権の協力を得て、米国の制裁解除と日本の経済協力をセットで北朝鮮に提示する予定なのだろう。つまり、今となっては文在寅政権の韓国よりも、北朝鮮を中心に米国は考えて居るのだろう。ルトワックは明確に、「韓国の方が親中である」と言って居る。
実現すべきは、北朝鮮との協力関係樹立、北朝鮮の経済復興、それに対する日本の協力だが、その障害になるのが、北朝鮮の核兵器と拉致問題である。北朝鮮を親米国とする為に、ルトワックは上記二つの問題解決に対する日本の性急な欲求を抑えているのである。
また、仮に北朝鮮を非核化して、韓国主導の自主独立統一朝鮮が実現した場合、その延長上には中国の属国としての統一朝鮮しかあり得ないと考えている。それ故、日本が目を開いてしっかりと韓半島の二つの政権を見なくてはいけない。
日本に文在寅政権の本音を語ってくれたのが、あの徴用工裁判である。文在寅は最高裁のトップに、自分の考え通りの判決を出してくれる人物を据えた。あの判決は、文在寅の韓国の国際社会における信用を一挙に失う結果になっただろう。おそらく金正恩は文在寅をバカにしているだろう。何故なら、恐ろしい中国を知らないからである。
その考え方に似た分析を、9月20日のブログに紹介している。主として、藤井源喜さんの考えである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43760281.html 日本と北朝鮮の関係は未だ敵対だが微妙に変化している。一方、韓国は表向きとは違って、今や反米反日だろう。この”逆転現象”(動きの方向)は、文在寅政権が続く限り続くと考えられる。
2)日露関係および日中関係について:
反中国の朝鮮半島、日本、東南アジア、豪州、インドの弧状のネットワークには、ロシアを入れることが大事であるとルトワックは考えている。シベリアの長い国境線は、必然的にロシアと中国の間に深い不信感を生じる。そのロシアにとって、非常に魅力的なシナリオは、日本との極東での経済協力である。
ルトワックの日本4.0の一つの大きな部分は、日露友好関係の樹立だろう。それは、トランプ政権も賛成だろうが、米国の反トランプ勢力は反対のようだ。その反露姿勢は、単に無知なのか、中国利権に完全に取り込まれている結果なのか分からないが、どちらかだろう。ウクライナの件やシリアの件に目が奪われているのも原因の一つかもしれない。(補足1)
日露友好関係樹立は、日本にとって中国の脅威の緩和に大きな働きが期待できる。更に、ロシアの天然資源とロシア市場の両面から経済的利点も多い。しかし、ロシア人のほとんどは忘れているか、或いは、知らないのかもしれないが、日本人にはロシア人に対する嫌な記憶が残っている。その障害を取り除くのが二島返還である。(補足2)
その必要性をロシアの人々に理解させるためには、ソ連は日本が降伏の意思を表明した後、日ソ中立条約に違反して一方的に宣戦布告し北方領土を奪い取ったこと、その後日本人を多数虐殺し婦女子を暴行したこと、数十万人という日本人を奴隷化してシベリアに抑留したことなどを、ロシア人に広く教えるべきである。このことも、欧米で一般に信じられている第二次対戦の歴史認識は、一方的であることを示している。つまり、英米と戦った日本やドイツを悪の帝国と捉えているが、一般に歴史のなかで一方的にある国が非難されているとしたら、それは誤解に基づく。(補足3)
また日本には、ロシアと中国を比較すれば、中国に親しみを感じる人の方が多い。その理由として、同じモンゴリアンであることや、漢語や箸を用いる共通の文化を持つこと、更に、中国に侵略された経験がないことなどがあるだろう。
しかし、中華帝国とも言うべき共産党支配の中国は、沖縄も中国に属すると明言し、太平洋を米国と二分しようと米国に提案した国である。ここは、新しい情勢の下、米国のトランプ政権に協力する姿勢が大事であると思う。
一般的に、その土地に住む人と国家体制は区別して考えるべきである。また、その国には複数の勢力が存在することを念頭に、現在の政権をその国自体と考えないことも大事である。そう考えれば、習近平の中国が早期に世界戦略を明らかにしたことは、馬脚を表したというべきであり、ずっと先にある日中友好が近づいたと考えるべきである。
勿論、日本の安倍政権は、既にそのことは考えて居る筈である。全体としては、既に書いた様に米国の代表的な戦略家であるルトワックは、トランプの背後に居るという印象を受けた。以上、素人の感想である。
補足:
1)ウクライナ問題の発端は、合法的に誕生しているヤヌコビッチ政権をどこかで計画されたテロで、大統領が逃亡したことである。この件、4年前に議論している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/03/blog-post_22.html
2)日ソ共同宣言で両国の戦争状態は終結した。その時、何故ソ連は日本に歯舞群島と色丹島の返還を約束したのか? それは、過去ソ連側に負い目となる行いがあったことを意味している。
3)戦前の日本やドイツを悪の帝国と決めつけるのが、ドイツ以外の欧米の人の常である。それが偏見に満ちたものであると、そろそろ知るべきである。既に、フーバー元大統領の考え方が明らかになり、フランクリン・ルーズベルトがある一派に支配されていたことが明らかになった以上、米国の一般国民もそれを知るべきである。
それと関連して、ケネディーが何故暗殺されたのか、中央銀行を国家の機関として持とうとしたリンカーンも何故暗殺されたのか、何故アフリカの内部から貧しい人たちが難民としてヨーロッパを目指す旅が可能なのか、何故ホンジュラスからあの時期に大勢の人が何の障壁もなる米国とメキシコの国境に集まることが可能なのか。それらの疑問は、全て一つの人たちの企みであると考えれば溶ける。
日本の何を新しくすべきなのか。それは米国との同盟を深化し、東アジアでの親米ネットワークの中心的役割を果たすべきだということらしい。米国は、各種ロビー団体も議会も反中で一致しており、反トランプの勢力から唯一批判がないのが、反中政策だと言う。共産党支配の中国との付き合い方は、最新且つ最大の米国の外交課題だろう。
私にはルトワックはトランプの背後に居るように思える。それは、この原稿全体を通して、これまでのトランプ政治と乖離した考えが見当たらないからである。
1)朝鮮半島について:
ルトワックの考えでの理想的な朝鮮半島の姿は、北朝鮮からの核廃絶と米軍の朝鮮半島残留のようである。核廃絶と米軍残留のどちらが大事かといえば、後者だと考えているようだ。そして、日本は半島の非核化や拉致問題解決を性急に実現しようと考えてはいけないと言って居る。現状、つまり、北朝鮮が核保有し在韓米軍が存在する状態が、日本にとってそんなに悪くないとも言っている。
日本人向けの文章なので、言葉を選んで居るが、おそらく反中を貫く為には米国と北朝鮮の協力関係樹立が望ましいと考えているのだろう。そのモデルはベトナムである。つまり、ベトナム戦争で勝ちながら、北ベトナムはベトナム統一後に親米反中になった。それと同じプロセスを朝鮮半島にも期待しているようだ。
北朝鮮がベトナム方式を採ると確信できるのなら、安倍政権の協力を得て、米国の制裁解除と日本の経済協力をセットで北朝鮮に提示する予定なのだろう。つまり、今となっては文在寅政権の韓国よりも、北朝鮮を中心に米国は考えて居るのだろう。ルトワックは明確に、「韓国の方が親中である」と言って居る。
実現すべきは、北朝鮮との協力関係樹立、北朝鮮の経済復興、それに対する日本の協力だが、その障害になるのが、北朝鮮の核兵器と拉致問題である。北朝鮮を親米国とする為に、ルトワックは上記二つの問題解決に対する日本の性急な欲求を抑えているのである。
また、仮に北朝鮮を非核化して、韓国主導の自主独立統一朝鮮が実現した場合、その延長上には中国の属国としての統一朝鮮しかあり得ないと考えている。それ故、日本が目を開いてしっかりと韓半島の二つの政権を見なくてはいけない。
日本に文在寅政権の本音を語ってくれたのが、あの徴用工裁判である。文在寅は最高裁のトップに、自分の考え通りの判決を出してくれる人物を据えた。あの判決は、文在寅の韓国の国際社会における信用を一挙に失う結果になっただろう。おそらく金正恩は文在寅をバカにしているだろう。何故なら、恐ろしい中国を知らないからである。
その考え方に似た分析を、9月20日のブログに紹介している。主として、藤井源喜さんの考えである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43760281.html 日本と北朝鮮の関係は未だ敵対だが微妙に変化している。一方、韓国は表向きとは違って、今や反米反日だろう。この”逆転現象”(動きの方向)は、文在寅政権が続く限り続くと考えられる。
2)日露関係および日中関係について:
反中国の朝鮮半島、日本、東南アジア、豪州、インドの弧状のネットワークには、ロシアを入れることが大事であるとルトワックは考えている。シベリアの長い国境線は、必然的にロシアと中国の間に深い不信感を生じる。そのロシアにとって、非常に魅力的なシナリオは、日本との極東での経済協力である。
ルトワックの日本4.0の一つの大きな部分は、日露友好関係の樹立だろう。それは、トランプ政権も賛成だろうが、米国の反トランプ勢力は反対のようだ。その反露姿勢は、単に無知なのか、中国利権に完全に取り込まれている結果なのか分からないが、どちらかだろう。ウクライナの件やシリアの件に目が奪われているのも原因の一つかもしれない。(補足1)
日露友好関係樹立は、日本にとって中国の脅威の緩和に大きな働きが期待できる。更に、ロシアの天然資源とロシア市場の両面から経済的利点も多い。しかし、ロシア人のほとんどは忘れているか、或いは、知らないのかもしれないが、日本人にはロシア人に対する嫌な記憶が残っている。その障害を取り除くのが二島返還である。(補足2)
その必要性をロシアの人々に理解させるためには、ソ連は日本が降伏の意思を表明した後、日ソ中立条約に違反して一方的に宣戦布告し北方領土を奪い取ったこと、その後日本人を多数虐殺し婦女子を暴行したこと、数十万人という日本人を奴隷化してシベリアに抑留したことなどを、ロシア人に広く教えるべきである。このことも、欧米で一般に信じられている第二次対戦の歴史認識は、一方的であることを示している。つまり、英米と戦った日本やドイツを悪の帝国と捉えているが、一般に歴史のなかで一方的にある国が非難されているとしたら、それは誤解に基づく。(補足3)
また日本には、ロシアと中国を比較すれば、中国に親しみを感じる人の方が多い。その理由として、同じモンゴリアンであることや、漢語や箸を用いる共通の文化を持つこと、更に、中国に侵略された経験がないことなどがあるだろう。
しかし、中華帝国とも言うべき共産党支配の中国は、沖縄も中国に属すると明言し、太平洋を米国と二分しようと米国に提案した国である。ここは、新しい情勢の下、米国のトランプ政権に協力する姿勢が大事であると思う。
一般的に、その土地に住む人と国家体制は区別して考えるべきである。また、その国には複数の勢力が存在することを念頭に、現在の政権をその国自体と考えないことも大事である。そう考えれば、習近平の中国が早期に世界戦略を明らかにしたことは、馬脚を表したというべきであり、ずっと先にある日中友好が近づいたと考えるべきである。
勿論、日本の安倍政権は、既にそのことは考えて居る筈である。全体としては、既に書いた様に米国の代表的な戦略家であるルトワックは、トランプの背後に居るという印象を受けた。以上、素人の感想である。
補足:
1)ウクライナ問題の発端は、合法的に誕生しているヤヌコビッチ政権をどこかで計画されたテロで、大統領が逃亡したことである。この件、4年前に議論している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/03/blog-post_22.html
2)日ソ共同宣言で両国の戦争状態は終結した。その時、何故ソ連は日本に歯舞群島と色丹島の返還を約束したのか? それは、過去ソ連側に負い目となる行いがあったことを意味している。
3)戦前の日本やドイツを悪の帝国と決めつけるのが、ドイツ以外の欧米の人の常である。それが偏見に満ちたものであると、そろそろ知るべきである。既に、フーバー元大統領の考え方が明らかになり、フランクリン・ルーズベルトがある一派に支配されていたことが明らかになった以上、米国の一般国民もそれを知るべきである。
それと関連して、ケネディーが何故暗殺されたのか、中央銀行を国家の機関として持とうとしたリンカーンも何故暗殺されたのか、何故アフリカの内部から貧しい人たちが難民としてヨーロッパを目指す旅が可能なのか、何故ホンジュラスからあの時期に大勢の人が何の障壁もなる米国とメキシコの国境に集まることが可能なのか。それらの疑問は、全て一つの人たちの企みであると考えれば溶ける。
2018年12月9日日曜日
今上天皇は靖国神社を潰そうとしておられるのか?
靖国神社は国立戦死者追悼施設とし、展示内容等もそれに沿った姿にすべき:
1)文藝春秋12月号に掲載されている小堀前靖国神社宮司の記事を読んだ。小堀氏は、靖国神社がガラパゴス化していると嘆いているが、それは小堀氏がこぼした「天皇陛下が靖国神社を潰そうとしている」という言葉と裏腹になっている。その言葉について考えるが、そのためには、靖国神社と”靖国問題”について一応の理解が必要である。私もそれを復習するために、先ずそれらについて少しまとめておきたい。
靖国神社は、明治2年に時の天皇により「東京招魂社」として創建された。戦前は陸軍と海軍の共同管理下にあった。昭和21年(1946年)に宗教法人となり、単独の宗教法人として現在に至る。現在の視点で見れば、靖国神社は日本の若者を兵士として消費するための機関であったと言えると思う。(補足1)
明治12年に東京招魂社は靖国神社に改称された。明治憲法が制定されたのは明治22年であり、その第28条には信教の自由が定められていた。靖国神社が宗教施設であると考えれば、明らかに矛盾する。憲法が国民に対する国家体制の明示であるとすれば、明らかに靖国神社は憲法の上位に位置する。そのように考えれば、前宮司の「靖国神社は天皇陛下のお社と言っていい存在です」という言葉(文春95頁下段)が理解できる。しかし、それは時代錯誤である。
靖国神社を特殊法人として、靖国神社の宗教性を希薄化させる法案が、1969年から毎年自民党から議員立法の形で提出された。1974年に、衆議院で可決されるが、参議院で審議未了のまま廃案となった。この動きを前宮司は「政教分離」が厳しく言われた時期と解釈し、それを契機として昭和天皇が参拝されなくなったと書いている。(補足2)
私はこの法案において靖国神社の名前をそのまま用いたことは、大きな問題であり、廃案は当然だと思う。その法案の第2条に『靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであり、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない』と書かれているという。しかし、これは全くの嘘だと思う。単に、「国立戦死者(或いは戦没兵士)追悼施設」とでも名前をつければ、あえて第二条にこのような文言を入れる必要性はない。神社という宗教施設の名称を用いる限り、そして、自民党が日本語を破壊したくないとすれば、この言い訳は全くの嘘である。(補足3)
次に、靖国問題について簡単に書く。靖国問題とは“A級戦犯”の合祀問題であり、中国や韓国などが日本に難癖をつける為の道具の一つである。これは、靖国神社を「国立戦死者追悼施設」としておけば全く問題にならなかっただろう。東京裁判で「平和に対する罪」という名目で殺された人たち(“A級戦犯”)を靖国神社に祀るかどうかの問題は、靖国神社の設立趣旨を考えれば明らかである。
靖国神社は戦死者の霊を祀ることを目的に創建された。従って、戦死者でない所謂A級戦犯たちの方々を祀るべきではない。多くの若者を戦地に送った彼らが、送られて戦死した人たちとともに祀られる理由はない。仮に、東京裁判も戦争の一環だったという話を正当だと認めるのなら、合祀の理由になるかもしれないが、その場合は、東京裁判を戦後の報復だと言って批判することは出来ない。更に、あの戦争を開始から敗戦まで総括して、東京裁判の看板から中身までの再評価をしなければならない。それらをしないで、合祀の正当性を主張するのは知能を持った人のすることではないと思う。
2)今上天皇が、靖国を潰そうとしていると前宮司が嘆いた根拠は、今上天皇がこれまでされた活動を根拠としている。つまり、天皇陛下はこれまで一度も靖国参拝されていない。その一方で、グアムやサイパンなどを訪問し、戦死者を慰霊されたことである。それらは、靖国には戦死者の霊は存在しないという考えに基づくと、前宮司は考えておられるのである。この考え方は、それなりに論理的である。
そして、「神道では、嘗ての戦地には、遺骨はあっても靖国神社の神霊はそこにもうおられないと考えます。靖国神社を永遠の静宮の常宮(神道の用語)としてお鎮まりくださいと毎日祝詞を申し上げているのですから、神霊が陛下と一緒に移動することはあり得ないと思われます。」と前宮司は書いている。 この考え方は、霊に関する伊勢神道の解釈なのかもしれないが、オリジナルな神道の考えとは全く異なるだろう。参考として、数年前に神道に関して書いた文章を紹介しておく。元々神道は自然の祟りをおそれる宗教であり、人は死後大自然の中に消滅するとしても、特定の神社という「現世の特定の場所」に鎮座する類の考えはない。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/06/blog-post_24.html
前宮司は、「陛下の慰霊の旅はあくまで亡くなった人を偲ぶということであり、亡き人々の神霊を祀ることではない」と断言する一方、「しかし、靖国神社の崇敬者のなかにも、亡くなった人の神霊もその場所に来ているのではないかと考える人がいる」と書いている。これらの文言をよく考えると、前宮司は本質的なことを心配しているのではなく、靖国神社に参拝する人が減少することを恐れていることがわかる。
つまり、文藝春秋の記事で小堀邦夫前宮司が書いているのは、宗教法人靖国神社の“営利団体的側面”においての危機でしかない。明治の時代に入り、帝国主義の世界を生き抜くためには、日本国も多数の若者の命を消費する必要があった。そのために考え出されたのが、国家神道である。その是非を論じることは、簡単ではないので、別に機会があれば書きたい。
私の伊勢神道に対する考えは、オリジナルな神道を乗っ取り、天皇家を中心とするヤマト(大和と倭の両方の漢字が用いられている)の為に創り出された宗教だというものである。(上に引用の記事参照)靖国神社は、現在ではほとんど観光の対象としての側面が目立つ伊勢神宮が先祖がえりした姿なのだろう。前宮司の危惧は、その靖国神社も伊勢神宮同様に、ほとんど観光の対象となってしまって良いのかと言うことではない。
前宮司は、靖国がガラパゴス化(前宮司の言葉)した神社に見えたのは、かなりの黒字を抱えているものの、今上天皇の靖国に対する冷たい姿勢に危機感を持たない現在の神社上層部に対する苛立ちがあったからだろう。伊勢神宮の禰宜(宮司に次ぐ地位)を務めていた前宮司が、靖国神社の宮司になって、伊勢神宮の運営のノーハウを持ち込もうとしたのかもしれない。それが十分な理解を職員に得られなかったのだろう。
なお、神道については以下の記事も参照ください。「猫の駅長(タマ)が神社に祀られる:バカか冗談か、それとも神道を愚弄するものか」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42341597.html
補足:
1)神道には教義はない。従って、兵士として戦死したとしても、英霊になるという教義も、人は死んだのちにその霊が残るという教義もない。「靖国で会おう」と玉砕の前に言い合った兵士も、それを本当に信じたわけではないだろう。
2)昭和天皇が靖国参拝をやめたのは、A級戦犯合祀(昭和53年)があったからだと言う説がある。それは富田メモ(元宮内庁長官富田朝彦氏のメモ帳27冊にある昭和天皇の言葉)にそのように書かれているかららしい。一方、それは富田氏の天皇を守ろうとする意図に基づく捏造だと言う説もある。https://yoshiko-sakurai.jp/2006/08/03/508
3)自民党の1974年の靖国法案は、靖国神社の神道的(オリジナルな神道の)性質を希薄化する意味はあっても、明治初期の靖国設立の目的にそった国家神道の本格的な復活をめざしたのかもしれない。自民党全体は、一つの政治的思想に基づいている政党ではなく、現実的視点で政治を考える議員の集合に過ぎない。その中には、軍国主義的人物が居て、彼らが議員立法で出した法案が靖国法案だった可能性もある。とにかく、日本の政界には論理的に考えられる議員はあまり居ないので、最も大事な政治改革は、一票の格差の完全解消による都市部の比較的知的な有権者の票を生かすことである。
1)文藝春秋12月号に掲載されている小堀前靖国神社宮司の記事を読んだ。小堀氏は、靖国神社がガラパゴス化していると嘆いているが、それは小堀氏がこぼした「天皇陛下が靖国神社を潰そうとしている」という言葉と裏腹になっている。その言葉について考えるが、そのためには、靖国神社と”靖国問題”について一応の理解が必要である。私もそれを復習するために、先ずそれらについて少しまとめておきたい。
靖国神社は、明治2年に時の天皇により「東京招魂社」として創建された。戦前は陸軍と海軍の共同管理下にあった。昭和21年(1946年)に宗教法人となり、単独の宗教法人として現在に至る。現在の視点で見れば、靖国神社は日本の若者を兵士として消費するための機関であったと言えると思う。(補足1)
明治12年に東京招魂社は靖国神社に改称された。明治憲法が制定されたのは明治22年であり、その第28条には信教の自由が定められていた。靖国神社が宗教施設であると考えれば、明らかに矛盾する。憲法が国民に対する国家体制の明示であるとすれば、明らかに靖国神社は憲法の上位に位置する。そのように考えれば、前宮司の「靖国神社は天皇陛下のお社と言っていい存在です」という言葉(文春95頁下段)が理解できる。しかし、それは時代錯誤である。
靖国神社を特殊法人として、靖国神社の宗教性を希薄化させる法案が、1969年から毎年自民党から議員立法の形で提出された。1974年に、衆議院で可決されるが、参議院で審議未了のまま廃案となった。この動きを前宮司は「政教分離」が厳しく言われた時期と解釈し、それを契機として昭和天皇が参拝されなくなったと書いている。(補足2)
私はこの法案において靖国神社の名前をそのまま用いたことは、大きな問題であり、廃案は当然だと思う。その法案の第2条に『靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであり、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない』と書かれているという。しかし、これは全くの嘘だと思う。単に、「国立戦死者(或いは戦没兵士)追悼施設」とでも名前をつければ、あえて第二条にこのような文言を入れる必要性はない。神社という宗教施設の名称を用いる限り、そして、自民党が日本語を破壊したくないとすれば、この言い訳は全くの嘘である。(補足3)
次に、靖国問題について簡単に書く。靖国問題とは“A級戦犯”の合祀問題であり、中国や韓国などが日本に難癖をつける為の道具の一つである。これは、靖国神社を「国立戦死者追悼施設」としておけば全く問題にならなかっただろう。東京裁判で「平和に対する罪」という名目で殺された人たち(“A級戦犯”)を靖国神社に祀るかどうかの問題は、靖国神社の設立趣旨を考えれば明らかである。
靖国神社は戦死者の霊を祀ることを目的に創建された。従って、戦死者でない所謂A級戦犯たちの方々を祀るべきではない。多くの若者を戦地に送った彼らが、送られて戦死した人たちとともに祀られる理由はない。仮に、東京裁判も戦争の一環だったという話を正当だと認めるのなら、合祀の理由になるかもしれないが、その場合は、東京裁判を戦後の報復だと言って批判することは出来ない。更に、あの戦争を開始から敗戦まで総括して、東京裁判の看板から中身までの再評価をしなければならない。それらをしないで、合祀の正当性を主張するのは知能を持った人のすることではないと思う。
2)今上天皇が、靖国を潰そうとしていると前宮司が嘆いた根拠は、今上天皇がこれまでされた活動を根拠としている。つまり、天皇陛下はこれまで一度も靖国参拝されていない。その一方で、グアムやサイパンなどを訪問し、戦死者を慰霊されたことである。それらは、靖国には戦死者の霊は存在しないという考えに基づくと、前宮司は考えておられるのである。この考え方は、それなりに論理的である。
そして、「神道では、嘗ての戦地には、遺骨はあっても靖国神社の神霊はそこにもうおられないと考えます。靖国神社を永遠の静宮の常宮(神道の用語)としてお鎮まりくださいと毎日祝詞を申し上げているのですから、神霊が陛下と一緒に移動することはあり得ないと思われます。」と前宮司は書いている。 この考え方は、霊に関する伊勢神道の解釈なのかもしれないが、オリジナルな神道の考えとは全く異なるだろう。参考として、数年前に神道に関して書いた文章を紹介しておく。元々神道は自然の祟りをおそれる宗教であり、人は死後大自然の中に消滅するとしても、特定の神社という「現世の特定の場所」に鎮座する類の考えはない。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/06/blog-post_24.html
前宮司は、「陛下の慰霊の旅はあくまで亡くなった人を偲ぶということであり、亡き人々の神霊を祀ることではない」と断言する一方、「しかし、靖国神社の崇敬者のなかにも、亡くなった人の神霊もその場所に来ているのではないかと考える人がいる」と書いている。これらの文言をよく考えると、前宮司は本質的なことを心配しているのではなく、靖国神社に参拝する人が減少することを恐れていることがわかる。
つまり、文藝春秋の記事で小堀邦夫前宮司が書いているのは、宗教法人靖国神社の“営利団体的側面”においての危機でしかない。明治の時代に入り、帝国主義の世界を生き抜くためには、日本国も多数の若者の命を消費する必要があった。そのために考え出されたのが、国家神道である。その是非を論じることは、簡単ではないので、別に機会があれば書きたい。
私の伊勢神道に対する考えは、オリジナルな神道を乗っ取り、天皇家を中心とするヤマト(大和と倭の両方の漢字が用いられている)の為に創り出された宗教だというものである。(上に引用の記事参照)靖国神社は、現在ではほとんど観光の対象としての側面が目立つ伊勢神宮が先祖がえりした姿なのだろう。前宮司の危惧は、その靖国神社も伊勢神宮同様に、ほとんど観光の対象となってしまって良いのかと言うことではない。
前宮司は、靖国がガラパゴス化(前宮司の言葉)した神社に見えたのは、かなりの黒字を抱えているものの、今上天皇の靖国に対する冷たい姿勢に危機感を持たない現在の神社上層部に対する苛立ちがあったからだろう。伊勢神宮の禰宜(宮司に次ぐ地位)を務めていた前宮司が、靖国神社の宮司になって、伊勢神宮の運営のノーハウを持ち込もうとしたのかもしれない。それが十分な理解を職員に得られなかったのだろう。
なお、神道については以下の記事も参照ください。「猫の駅長(タマ)が神社に祀られる:バカか冗談か、それとも神道を愚弄するものか」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42341597.html
補足:
1)神道には教義はない。従って、兵士として戦死したとしても、英霊になるという教義も、人は死んだのちにその霊が残るという教義もない。「靖国で会おう」と玉砕の前に言い合った兵士も、それを本当に信じたわけではないだろう。
2)昭和天皇が靖国参拝をやめたのは、A級戦犯合祀(昭和53年)があったからだと言う説がある。それは富田メモ(元宮内庁長官富田朝彦氏のメモ帳27冊にある昭和天皇の言葉)にそのように書かれているかららしい。一方、それは富田氏の天皇を守ろうとする意図に基づく捏造だと言う説もある。https://yoshiko-sakurai.jp/2006/08/03/508
3)自民党の1974年の靖国法案は、靖国神社の神道的(オリジナルな神道の)性質を希薄化する意味はあっても、明治初期の靖国設立の目的にそった国家神道の本格的な復活をめざしたのかもしれない。自民党全体は、一つの政治的思想に基づいている政党ではなく、現実的視点で政治を考える議員の集合に過ぎない。その中には、軍国主義的人物が居て、彼らが議員立法で出した法案が靖国法案だった可能性もある。とにかく、日本の政界には論理的に考えられる議員はあまり居ないので、最も大事な政治改革は、一票の格差の完全解消による都市部の比較的知的な有権者の票を生かすことである。
2018年12月4日火曜日
徴用工問題において、「時効のない人道に関する罪」で補償を要求する韓国の傲慢
1)韓国の元徴用工判決(補足1)に関する意見は既に書いている。(11月26日の記事)それに尽きるのだが、そこにコメントをいただいたので、そのポイントについての議論を新たな記事としてアップする。
今回の徴用工裁判において韓国の最高裁判所は、日本の不法な植民地支配下でなされた強制動員への「慰謝料」として賠償権を認め、この「慰謝料」は未払賃金や補償金などの民事的な請求とは異なると位置付けている。
つまり韓国側は、1965年の請求権協定の取り決めがあるため、通常の請求権補償を巡る争いでは負けるとわかっているので、日本の「不法な植民地支配」によって傷つけられた人権・人道問題への補償という新しい争点設定を持ち出したのである。http://agora-web.jp/archives/2035974.html
この「日本の不法な植民地支配」という論点は、全く根拠がない。何故なら、韓国議会の決議により日韓併合はなされているからである。その経緯については詳しく書かれている記事は多くあるが、徴用工判決との関係でのものを以下に引用する。https://president.jp/articles/-/26873
また、仮に「徴用自体が不法で人道に対する罪である」という論理が成り立ったとしても、それに時効がないとするのには無理がある。ウィキペディアによると、1968年の国連総会において、人道に対する罪に時効がないとする議決がなされたが、英米などが反対した他、主要国の多くは棄権しており、条約としての効力はない。
2)「時効を無くした人道に対する罪」(補足2)で世界を裁くという方法は、米国の一部勢力が米国を筆頭とする連合国(United Nations)の背後から打ち出した一つの戦術だと思う。
それは、力(米国の力)で特定の国々をねじ伏せるための道具として用意したのだろう。彼らは、ナチスのホロコーストに対しては、徹底した態度を取りながら、ソ連のポグリムやカチンの森事件にはそれほど騒がない。それは、「人道に対する罪」が彼らにとって一つの武器だということを証明している。武器を用いるかどうかは、相手と状況で判断されるからである。
「時効を無くした人道に対する罪」を掲げて、過去の戦争を裁く権威を、全ての現存人は持たない。その論理によれば、現存人類は過去に滅んだ民族に補償しなければならないということになる。過去の戦争全てにおいて、人道に対する罪の山が築かれている筈だからである。「絶滅した民族には補償しようがない」と逃げることはできない。どこかに民族の末裔が少数残っている筈だからである。
つまり、「時効を無くした人道に対する罪」は、現存人が等しく意識すべき「原罪」と言えるが、平和条約などで未来志向にある両国の国境を超えて、新たに補償を要求する理由にはなり得ない。宣戦布告以外には、その補償要求を貫徹する方法はないだろう。
ナチスのホロコーストも、ソ連のポグリムも、米国の原爆投下も、日本の重慶爆撃も、英仏伊西ポの植民地支配も、全て「人道に対する罪」である。歴史を真面目に振り返れば、そして「時効を無くした人道に反する罪」を持ち出せば、その瞬間に現在生きている我々全ては、その被告席に立たされることになる。
補足:
1)新日鉄住金を相手に争われた徴用工裁判の原告側の人たちは、実際には徴用工ではなく、任意に応募した人だという。西岡力氏がそれを明らかにしている。https://www.youtube.com/watch?v=oCvz8ZjXCWY
2)「人道に反する罪」は、人道という概念が定着してからの罪である。事後法での処罰や遡及処罰は日本国憲法に反するのだが、それは他国でも自明のことだろう。人道に対する罪から時効を無くするということは、人間の歴史と文明を否定するような考え方である。それゆえ、特別に「」付きで、「時効を無くした人道に対する罪」と書いたのである。
今回の徴用工裁判において韓国の最高裁判所は、日本の不法な植民地支配下でなされた強制動員への「慰謝料」として賠償権を認め、この「慰謝料」は未払賃金や補償金などの民事的な請求とは異なると位置付けている。
つまり韓国側は、1965年の請求権協定の取り決めがあるため、通常の請求権補償を巡る争いでは負けるとわかっているので、日本の「不法な植民地支配」によって傷つけられた人権・人道問題への補償という新しい争点設定を持ち出したのである。http://agora-web.jp/archives/2035974.html
この「日本の不法な植民地支配」という論点は、全く根拠がない。何故なら、韓国議会の決議により日韓併合はなされているからである。その経緯については詳しく書かれている記事は多くあるが、徴用工判決との関係でのものを以下に引用する。https://president.jp/articles/-/26873
また、仮に「徴用自体が不法で人道に対する罪である」という論理が成り立ったとしても、それに時効がないとするのには無理がある。ウィキペディアによると、1968年の国連総会において、人道に対する罪に時効がないとする議決がなされたが、英米などが反対した他、主要国の多くは棄権しており、条約としての効力はない。
2)「時効を無くした人道に対する罪」(補足2)で世界を裁くという方法は、米国の一部勢力が米国を筆頭とする連合国(United Nations)の背後から打ち出した一つの戦術だと思う。
それは、力(米国の力)で特定の国々をねじ伏せるための道具として用意したのだろう。彼らは、ナチスのホロコーストに対しては、徹底した態度を取りながら、ソ連のポグリムやカチンの森事件にはそれほど騒がない。それは、「人道に対する罪」が彼らにとって一つの武器だということを証明している。武器を用いるかどうかは、相手と状況で判断されるからである。
「時効を無くした人道に対する罪」を掲げて、過去の戦争を裁く権威を、全ての現存人は持たない。その論理によれば、現存人類は過去に滅んだ民族に補償しなければならないということになる。過去の戦争全てにおいて、人道に対する罪の山が築かれている筈だからである。「絶滅した民族には補償しようがない」と逃げることはできない。どこかに民族の末裔が少数残っている筈だからである。
つまり、「時効を無くした人道に対する罪」は、現存人が等しく意識すべき「原罪」と言えるが、平和条約などで未来志向にある両国の国境を超えて、新たに補償を要求する理由にはなり得ない。宣戦布告以外には、その補償要求を貫徹する方法はないだろう。
ナチスのホロコーストも、ソ連のポグリムも、米国の原爆投下も、日本の重慶爆撃も、英仏伊西ポの植民地支配も、全て「人道に対する罪」である。歴史を真面目に振り返れば、そして「時効を無くした人道に反する罪」を持ち出せば、その瞬間に現在生きている我々全ては、その被告席に立たされることになる。
補足:
1)新日鉄住金を相手に争われた徴用工裁判の原告側の人たちは、実際には徴用工ではなく、任意に応募した人だという。西岡力氏がそれを明らかにしている。https://www.youtube.com/watch?v=oCvz8ZjXCWY
2)「人道に反する罪」は、人道という概念が定着してからの罪である。事後法での処罰や遡及処罰は日本国憲法に反するのだが、それは他国でも自明のことだろう。人道に対する罪から時効を無くするということは、人間の歴史と文明を否定するような考え方である。それゆえ、特別に「」付きで、「時効を無くした人道に対する罪」と書いたのである。
2018年12月2日日曜日
「自然」と「人工」が未分離な日本文化と低い技術開発能力の関係
1)日本人は、自然の中に生きることを善とし満足している一方、西欧人は、自然を克服して、「人工」の領域に生きる空間を拡大することを善としているのではないだろうか。その結果、日本では人工を追求した成果としての「技術」の開発が活発ではないと思う。
日本は、温暖な気候に恵まれ、良質の飲料水も豊富なので、食料と若干の衣服を手に入れさえすれば生きていける。たまに飢饉になっても、周りが海なので棲む領域の拡大には至らず、耐えることで生き延びる。その後飢饉が終われば、その記憶を民族として持ち続けることができず、ただ忘れるのみである。(補足1)そのような環境に住む民族は、世界でも少ないのではと想像する。日本の文化が、自然と融和的なのはその結果であり、それに慣れた日本人には殊更自然保護や環境改善を叫ぶことは、不自然だったと思う。
一方、近代文明は自然の解明という形で、西欧で誕生した。人間は自然の中で生まれたが、人口増加にともない必然として生存競争が生じる。その頻繁な争いに苦しむことから、自然の成り立ちや現象を解明し、その知識を用いて人工的環境をつくり、南北に居住地域を広げようと努力したのだと思う。その結果、自然を人工と別けて認識し、その両方に足を広げて生きる方法を身につけたと思う。
2)自然と人工という日本語を形容詞で用いる場合、英語ではnaturalとartificialが対応するだろう。それらの語幹部分は、natureとartである。それが、日本語で上記形容詞の名詞形、自然と人工物となるのなら、日本人と西欧人の言葉は(翻訳すれば)同じだということになる。(補足2)
しかし、そうはなっていない。英語のartを日本語に訳せば「芸術」であり、「芸術」は自然の対義語とは異質な概念である。Artの二番目の和訳として技術が出てくる。それらの辞書の記述は、artという英語の概念が二つあるというよりも、日本語の概念の区分の中にうまく当てはまらないということを意味している。
このことに最初に関心を持ったのは、大学教養部の英語教材:エリック・フロムの“The art of loving ”を読んだ時である。「愛する技術」や「愛する芸術」と訳すると、日本人男性のほとんどは三流週刊誌の何かエッチな記事のような印象を持つだろう。しかし、この本は哲学書である。そして、フロムが言いたかったことは、「愛」は人間特有であり、猿から人になったときに新たに身につけるべき人間的な性質であるということである。
このArtという言葉の解釈が、日本人には全く欠けている。人が生きることは、西欧人にとってartの実践であり、それが大事な人間関係に向かう時には愛(love)であり、道具に向かうときが技術である。そのように私は理解している。そして、日本には本当の意味のartという概念が欠けている。その文化的異質性が時として日本人がartとして表現したものが、世界を驚かせることになるのだろう。しかし、それは日本人が自慢すべきことではないと思う。
最近、日本人には日本の技術を自慢する人が多い。テレビ番組を見ると、「技術を学びに来日する外国人」を紹介する類のものが多い。テレビのプロデューサーは、その種の番組が日本人一般の自尊心を満足させ、高い視聴率を記録することを狙っているのだろう。その貧しい心にウンザリする。
何故なら、日本の道具には上記技術の観点が未成熟のように思えて仕方がないからである。つまり、日本の技術、特に昔のもの、は本物のようには見えないことが多い。本物なら日本人の生活にあったオリジナルな技術が多い筈。しかし、単に猿真似に見えるものが多いように見える。それは言い過ぎだろうか。
3)言いたいことは以上だが、ここで、例として白磁食器を取り上げて、更に持論を示したい。日本の白磁技術は、中国の景徳鎮で始まった技術が輸入され、最初に日本で焼かれたのは有田焼である。それが日本の伊万里港からヨーロッパに輸出された。このオランダの東インド会社からヨーロッパに運ばれたイマリ焼きは、西欧に大きなインパクトを与えたのである。(補足3)
西欧でも独自に白磁を製造するようになるが、その最初は、1710年に始まったドイツのマイセンである。その後、その技術は良質のカオリン含有粘土に恵まれた地方に、マイセンから或いは独自に広まった。その結果、西欧白磁は18世紀後半にはイタリア、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど広い地域で焼かれるようになった。
ここで、西欧陶磁器と日本陶磁器を比較してみたい。最初に気がつくのは、西欧産の紅茶やコーヒーのカップには、当然のように取手が付いているが、有田などの茶飲みコップ(茶碗)には取手がついていないことである。その理由は、取手をつけるには一定の工夫、つまり、技術が必要だからだろう。
その陶磁器技術の先進国の日本で、茶碗に取手が無かったことは不思議である。それは、日本は現状をそのまま受け入れる文化を持ち、その不便を解消する必要性を感じることができなかったからだろう。それを一般化すれば、大げさに聞こえるかもしれないが、人間の生息する空間(この場合は文明空間)を人工の範囲に拡大しなかったからだと思う。(補足4)
その日本の文化的特徴が、磁器の上の絵付けにも現れている。絵付けの技術に関しても、西欧磁器でのその後の発展の方が大きいと思う。斬新でart的な絵付けを施した品物が、日本では売れないことがその原因だろう。19世紀に入って、日本産でも西洋磁器のコピーのような華麗な絵付けの磁器がたくさん作られたが、そのほとんどが輸出用のノリタケなどの製品だと思う。それらは、ネットオークションではオールドノリタケとして一つのジャンルを作っている。(補足5)
日本が技術先進国だといっても、多くは西欧の二番煎じである。その原因の根本にあるのは、日本人は自然から離れた人工をあまり好まないことである。つまり日本の文化は、自然と人工を積極的に別けて、人工的領域に生きる空間を広げる工夫が無かったように思える。その文化の所為で、多くのオリジナルなものを賞賛するのではなく、批判する傾向にあると思う。(補足6)悪くいえば、それは日本の遺伝病である。この日本人の性質は日本のあらゆる側面に存在するが、それらの多くは山本七平の本に書かれている。
以上は素人の議論です。各方面のからの意見をお寄せください。
補足:
1)そのような状況では、多民族と争うことで領域を拡大するという方法も選択できない。その結果、民族を束ねる同族意識(愛国心など)をあまり持たない。
2)言語は、それを使う民族が世界をどのように理解しているかを直接表現している。聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉、それに最近では、西部邁の「昔、言葉は思想だった」なども、その事実を表現している。
3)白磁技術は中国で古くに始まり、特に宋代(13世紀まで)の景徳鎮で焼かれたものが有名だった。中国から朝鮮、そして16世紀には日本に伝わった。日本では、秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮人や中国人の陶工(ウィキペディアの伊万里焼参照)を連れ帰ったのが始まりだという。17世紀に入り、北九州有田に良い原料石が見つかったとのことで、日本初の白磁の製造が1616年に有田で始まる。
https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=2
オランダの東インド会社が、伊万里港で磁器を買い入れてヨーロッパに運んだのは、1650年ごろの話である。上記のサイトではマイセンに技術が伝わったのは、伊万里焼経由であると書かれている。それを契機に、ヨーロッパで白磁の開発が始まったのだろう。 ヨーロッパの多くの地域で18世紀初頭から中頃までに白磁の製造が始まったことから、ヨーロッパの磁器製造は、伊万里焼きなど東アジアの磁器の東インド会社を通して輸入が動機となっていることは確かだろう。
4)日本の古い家には庭があるが、それは自然のコピーである。田舎の自然に恵まれた場所でも同じである。また、茶碗の不完全な形を自然の景色になぞらえて鑑賞するなど、人工的なものにまで自然を取り入れようとする。何故、人工的なものなら、徹底的に人との関係のみを最優先しないのだろうか。例えば、庭なら何かをプレイするものを設けることの方が、その利用価値を上げると思う。
5)オールド・ノリタケの磁器の華麗さは、日本文化からでたものではなく、どこか不自然さを感じる。華麗なミントン(英国)やリモージュ(フランス)の磁器には敵わないだろう。
6)ダイソン型の扇風機は、空気清浄機や冷暖房機能をつけると総合的な空調機となる。その扇風機を東芝の研究者がダイソンよりも早く考えついた。しかし、それを製品化できないところ(会社の上層部が開発を認めないこと)に日本の技術が十分に人工を追求できない弱点がある。https://www.narinari.com/Nd/20091012482.html
日本は、温暖な気候に恵まれ、良質の飲料水も豊富なので、食料と若干の衣服を手に入れさえすれば生きていける。たまに飢饉になっても、周りが海なので棲む領域の拡大には至らず、耐えることで生き延びる。その後飢饉が終われば、その記憶を民族として持ち続けることができず、ただ忘れるのみである。(補足1)そのような環境に住む民族は、世界でも少ないのではと想像する。日本の文化が、自然と融和的なのはその結果であり、それに慣れた日本人には殊更自然保護や環境改善を叫ぶことは、不自然だったと思う。
一方、近代文明は自然の解明という形で、西欧で誕生した。人間は自然の中で生まれたが、人口増加にともない必然として生存競争が生じる。その頻繁な争いに苦しむことから、自然の成り立ちや現象を解明し、その知識を用いて人工的環境をつくり、南北に居住地域を広げようと努力したのだと思う。その結果、自然を人工と別けて認識し、その両方に足を広げて生きる方法を身につけたと思う。
2)自然と人工という日本語を形容詞で用いる場合、英語ではnaturalとartificialが対応するだろう。それらの語幹部分は、natureとartである。それが、日本語で上記形容詞の名詞形、自然と人工物となるのなら、日本人と西欧人の言葉は(翻訳すれば)同じだということになる。(補足2)
しかし、そうはなっていない。英語のartを日本語に訳せば「芸術」であり、「芸術」は自然の対義語とは異質な概念である。Artの二番目の和訳として技術が出てくる。それらの辞書の記述は、artという英語の概念が二つあるというよりも、日本語の概念の区分の中にうまく当てはまらないということを意味している。
このことに最初に関心を持ったのは、大学教養部の英語教材:エリック・フロムの“The art of loving ”を読んだ時である。「愛する技術」や「愛する芸術」と訳すると、日本人男性のほとんどは三流週刊誌の何かエッチな記事のような印象を持つだろう。しかし、この本は哲学書である。そして、フロムが言いたかったことは、「愛」は人間特有であり、猿から人になったときに新たに身につけるべき人間的な性質であるということである。
このArtという言葉の解釈が、日本人には全く欠けている。人が生きることは、西欧人にとってartの実践であり、それが大事な人間関係に向かう時には愛(love)であり、道具に向かうときが技術である。そのように私は理解している。そして、日本には本当の意味のartという概念が欠けている。その文化的異質性が時として日本人がartとして表現したものが、世界を驚かせることになるのだろう。しかし、それは日本人が自慢すべきことではないと思う。
最近、日本人には日本の技術を自慢する人が多い。テレビ番組を見ると、「技術を学びに来日する外国人」を紹介する類のものが多い。テレビのプロデューサーは、その種の番組が日本人一般の自尊心を満足させ、高い視聴率を記録することを狙っているのだろう。その貧しい心にウンザリする。
何故なら、日本の道具には上記技術の観点が未成熟のように思えて仕方がないからである。つまり、日本の技術、特に昔のもの、は本物のようには見えないことが多い。本物なら日本人の生活にあったオリジナルな技術が多い筈。しかし、単に猿真似に見えるものが多いように見える。それは言い過ぎだろうか。
3)言いたいことは以上だが、ここで、例として白磁食器を取り上げて、更に持論を示したい。日本の白磁技術は、中国の景徳鎮で始まった技術が輸入され、最初に日本で焼かれたのは有田焼である。それが日本の伊万里港からヨーロッパに輸出された。このオランダの東インド会社からヨーロッパに運ばれたイマリ焼きは、西欧に大きなインパクトを与えたのである。(補足3)
西欧でも独自に白磁を製造するようになるが、その最初は、1710年に始まったドイツのマイセンである。その後、その技術は良質のカオリン含有粘土に恵まれた地方に、マイセンから或いは独自に広まった。その結果、西欧白磁は18世紀後半にはイタリア、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど広い地域で焼かれるようになった。
上の写真は、英国ロイヤルクラウンダービーが製造しているIMARIのカップ&ソーサーである。日本のイマリ磁器をモディファイしたもので、独自の洗練されたパターンになっている。
ここで、西欧陶磁器と日本陶磁器を比較してみたい。最初に気がつくのは、西欧産の紅茶やコーヒーのカップには、当然のように取手が付いているが、有田などの茶飲みコップ(茶碗)には取手がついていないことである。その理由は、取手をつけるには一定の工夫、つまり、技術が必要だからだろう。
その陶磁器技術の先進国の日本で、茶碗に取手が無かったことは不思議である。それは、日本は現状をそのまま受け入れる文化を持ち、その不便を解消する必要性を感じることができなかったからだろう。それを一般化すれば、大げさに聞こえるかもしれないが、人間の生息する空間(この場合は文明空間)を人工の範囲に拡大しなかったからだと思う。(補足4)
その日本の文化的特徴が、磁器の上の絵付けにも現れている。絵付けの技術に関しても、西欧磁器でのその後の発展の方が大きいと思う。斬新でart的な絵付けを施した品物が、日本では売れないことがその原因だろう。19世紀に入って、日本産でも西洋磁器のコピーのような華麗な絵付けの磁器がたくさん作られたが、そのほとんどが輸出用のノリタケなどの製品だと思う。それらは、ネットオークションではオールドノリタケとして一つのジャンルを作っている。(補足5)
日本が技術先進国だといっても、多くは西欧の二番煎じである。その原因の根本にあるのは、日本人は自然から離れた人工をあまり好まないことである。つまり日本の文化は、自然と人工を積極的に別けて、人工的領域に生きる空間を広げる工夫が無かったように思える。その文化の所為で、多くのオリジナルなものを賞賛するのではなく、批判する傾向にあると思う。(補足6)悪くいえば、それは日本の遺伝病である。この日本人の性質は日本のあらゆる側面に存在するが、それらの多くは山本七平の本に書かれている。
以上は素人の議論です。各方面のからの意見をお寄せください。
補足:
1)そのような状況では、多民族と争うことで領域を拡大するという方法も選択できない。その結果、民族を束ねる同族意識(愛国心など)をあまり持たない。
2)言語は、それを使う民族が世界をどのように理解しているかを直接表現している。聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉、それに最近では、西部邁の「昔、言葉は思想だった」なども、その事実を表現している。
3)白磁技術は中国で古くに始まり、特に宋代(13世紀まで)の景徳鎮で焼かれたものが有名だった。中国から朝鮮、そして16世紀には日本に伝わった。日本では、秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮人や中国人の陶工(ウィキペディアの伊万里焼参照)を連れ帰ったのが始まりだという。17世紀に入り、北九州有田に良い原料石が見つかったとのことで、日本初の白磁の製造が1616年に有田で始まる。
https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=2
オランダの東インド会社が、伊万里港で磁器を買い入れてヨーロッパに運んだのは、1650年ごろの話である。上記のサイトではマイセンに技術が伝わったのは、伊万里焼経由であると書かれている。それを契機に、ヨーロッパで白磁の開発が始まったのだろう。 ヨーロッパの多くの地域で18世紀初頭から中頃までに白磁の製造が始まったことから、ヨーロッパの磁器製造は、伊万里焼きなど東アジアの磁器の東インド会社を通して輸入が動機となっていることは確かだろう。
4)日本の古い家には庭があるが、それは自然のコピーである。田舎の自然に恵まれた場所でも同じである。また、茶碗の不完全な形を自然の景色になぞらえて鑑賞するなど、人工的なものにまで自然を取り入れようとする。何故、人工的なものなら、徹底的に人との関係のみを最優先しないのだろうか。例えば、庭なら何かをプレイするものを設けることの方が、その利用価値を上げると思う。
5)オールド・ノリタケの磁器の華麗さは、日本文化からでたものではなく、どこか不自然さを感じる。華麗なミントン(英国)やリモージュ(フランス)の磁器には敵わないだろう。
6)ダイソン型の扇風機は、空気清浄機や冷暖房機能をつけると総合的な空調機となる。その扇風機を東芝の研究者がダイソンよりも早く考えついた。しかし、それを製品化できないところ(会社の上層部が開発を認めないこと)に日本の技術が十分に人工を追求できない弱点がある。https://www.narinari.com/Nd/20091012482.html