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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

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2017年7月22日土曜日

「誰が第二次世界大戦を起こしたのか:フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く」を読んだ(II)

1)今回は二回目で、日本の真珠湾攻撃までの経緯に関するメモである。

米国のフランクリン・ルーズベルトが英国やフランスに対して、ヨーロッパへの参戦の意向を秘密裏に伝達したものの、米国国民の同意をどう得るかが問題だった。民意は、関係の薄い外国の戦いに参加することに反対だったからである。そこでドイツの脅威を宣伝するキャンペーンを行なった。例えば、1940年8月18日のブリット駐仏大使のスピーチを、ニューヨークタイムズが報道している。

「我が国は丁度一年前のフランスの置かれた状況にある(補足1)。今決断し行動を起こさなければ手遅れになる。現在英国艦隊が枢軸国を閉じ込めているが、いつ大西洋に進出し我が国を脅かすか、誰も予測できない。」

一方、1940年1月に米国は、日本との通商修好航海条約を破棄し、5月には米国主力艦隊を大西洋からハワイへ移駐して、日本との対決姿勢を明確に示すようになる。日独伊三国同盟が成立したのは、1940年9月である。その時点で日米の対立は一層明確になった。(補足2)

1940年11月5日の大統領選において、ルーズベルトはアメリカ史上初の三選を目指すのだが、そのために大きな嘘をつく。それは上記のような自国民への脅しは成功しなかったからである。10月30日のボストンでの演説で次のように述べた。

「今私の話を聞いている父や母の皆さんに、もう一度はっきり申し上げる。私はこれまでも述べてきたように、今後も何度でも繰り返すが、あなた方の子供たちが外国の地での戦争に送りこまれることは決してない。」

当選後の年末に再びヒトラーに対する恐怖を煽る「炉辺談話」をラジオ放送した。しかし、アメリカ国民はルーズベルトのおとぎ話のような脅しを信じなかった。ラジオ及びテレビの発明により、今後多くの“民主主義国”において政府が国民向けに嘘をつく場面が出て来るだろうが、これがその原点であると思う。

2)英国の制空権獲得のための航空戦(1940/7〜1941/5)に失敗したドイツは、目標を独ソ戦に切り替えた。ドイツに駐在武官として派遣されていた米軍のスミス大佐は、1940年12月に米国に帰国し、ドイツ軍のロシア国境付近への集結と英国攻撃の可能性がなくなったことを報告している。

独ソ戦は、その1941年6月に始まった。米国民の多くは、ヒトラーとスターリンの対戦は高みの見物で十分と考えていたのだが、ルーズベルトは何故かそうではなかった。直ちに「ソ連へできるだけの援助を行う」との談話を発表した。

一方、フーバーは”民主主義と自由の米国”とは本来親和性のない共産主義が、世界に蔓延する可能性があるとの演説を行なって、ルーズベルトのソ連支援を批判した。そして国民世論はそれに賛同した。

ルーズベルトは、既に米国のヨーロッパの戦争からは中立の立場を取るという方針を捨て、武器貸与法(1941/3)を成立させており、英国やソ連に事実上無制限の武器等の援助を可能にした。最終的にソ連への巨額の支援がなされることになったが、それを民主主義の国である米国はどう説明するのだろうか?(補足3)

英国は、独ソ戦の開始で危機は去りホッとしたはずだが、反共主義者のイメージが濃いチャーチルも、この時ルーズベルトに完全同調する。何故なのか。(補足4) 3)ルーズベルトは国民世論を参戦指示に向けるために、ドイツと日本を刺激する作戦を始める。ドイツに対する策は限られているので(補足5)、ターゲットを日本に向けた。

この本には無いが、1940年11月に日米間の開戦を望まない米国の神父2名が日本を訪れて和平を勧め、そこから和平への話し合いが始まった。神父二人と日本の代表(野村大使、来栖大使ら)はワシントンでハル国務長官と話し合った。しかし、独ソ開戦により米国は和平の敷居を上げていった。https://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index13.html (補足6)

1941年11月26日の野村、来栖、ハルの会談で、日本の最終打開案の拒否と所謂ハル・ノートが手渡される。ハル・ノート第二部には、中国及びインドシナからの軍の撤退を要求しているが、中国の中に満州が含まれるのかどうかは分からない。最後の段階で、“中国(但し満州を除く)”が単に“中国”とだけになったことを考えると、わざとわかりにくくして受け入れがたくしたのだろう。

真珠湾攻撃の翌日に反日だったスチムソン陸軍長官の日記が引用されている。そこには「日本がわが国を攻撃したとの報を受けた時、私の最初の感慨は、これでようやく我が国がどっち付かずの立場から解放されたというものだった。国民がようやく一致団結できる」とかかれていた。(148ページ)

補足:

1)1940年6月14日、ドイツ軍はフランスパリに無血入城(軍隊は英国軍とともに英国本土に撤退していた)し、6月22日、ドイツとフランスは休戦協定に調印した。
2)1936年に11月に日本とドイツ間で防共協定が結ばれ、1937にはイタリアが加わり、日独伊防共協定となる。その同じ年の7月に盧溝橋事件で日中戦争が始まった。ルーズベルトの隔離演説はこの年の10月であり、その頃すでに対日戦略が練られていた筈である。
3)最終的な支援額は、英国が310億ドル、ソビエトが110億ドル、フランスが30億ドル、中国が15億ドルである。このソビエトへの多額の支援額は、ルーズベルト政権が何を狙って参戦したかを証明している。http://www.historycentral.com/ww2/events/lendlease.html
4)チャーチルは次のように演説した。「(ソビエトが犯した)過去の罪、愚かな行為とそれが生み出した悲劇、こんなものは全て水に流す。今ロシアの兵士が太古の昔から祖先が耕してきた大地を必死に守っている。いかなる国家いかなる人間も、ヒトラーと手を携える限り我が国の敵である。」
5)1941年7月、ドイツ潜水艦の攻撃をルーズベルトは出していた。

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