今朝(6/29)、NHK7時の朝のニュースはギリシャ金融危機から始まり、17分頃からタマ駅長死去のニュースが現地中継を含めて放送された。8時から”特ダネ”という番組を見る場合が多いが、今朝(6/29)トップに出て来たのが、やはりタマ駅長死去のニュースだった。その県の知事を始め、何と全国から3000人が別れの式に集まったという。
動物駅長の先駆けであったとのことであるが、何故こんな下らないことに関心があつまり、くだらない式をするのか不思議である。ただ、いままで何度も似た様な現象が起きている。例えば、ユルキャラブームである。あんなぬいぐるみの中に人が入って、アニメから出て来た様な動作をして、それに何故人気が集まるのか?新聞やテレビで、”タマ駅長なんて馬鹿げている”とか、”ユルキャラなんて馬鹿げたことで客集めをして恥ずかしくないのか”とか、その様な意見が全く出ていない。日本語の中に、”大人げない”という批判を封じる言葉が用意されているからか。
その”私が馬鹿げたと感じる”様なことが頻繁に起こる理由を考える。
それは、日本人は一般に他人の言動や行動に対して明確に反対意見を述べることが少ないことである。その行動規範は、日本文化の根底に、”他人を指さして(比喩的)何かを批判すること”が、絶対悪であるという暗黙のルールが存在することに由来すると思う。失敗や怠慢、不必要な行為などであっても、その行為の主である人と関連つけて批判するのは悪なのである。従って、批判する場合は全て、”環境、制度、政治”など人の周辺に向けられる(補足1)。
しかし、日本人の心の中に直接的な批判(個人批判など)がないかと言うとそうではない。それは、通常陰でひそひそ行なわれ、表で出ないので反って過激なものとなる。作家の百田氏が自民党の勉強会で、沖縄の基地問題について過激な発言をしたことが話題になっている。これも、たまたま表に漏れてしまったから大問題になっているだけである。陰の出来事で終わるなら問題にはならないし、この種の沖縄の新聞などに対する批判は、国内では日常茶飯事だろう。(補足2)
何かが流行したとすると、批判が現れないために、それは不思議なレベルまで巨大化する。つまり、日本では多くの現象は“バブル化”して、その後“バブル崩壊”するというパターンを示す。言霊信仰のある日本では、標語なども流行し「言論バブル」を担う。例えば、過去スローガンとなった、富国強兵や八紘一宇と言う考えも、反対者が国民の数十パーセントはあったと思うが、国内を制覇するレベルのバブルとなった。そして、それは戦後潰れて、非武装中立や非核三原則などにとって代わられた。
与謝野晶子が敢然と、「君死に給うことなかれ」と詠んだのは、この日本文化に反抗して行なわれた。そのような行為に特別の勇気が必要な様では、そして当たり前の気持ちを詠んだだけ(補足3)なのに、その歌が永久保存されるほど有名になる様では、日本は何時までたっても文化的言論封圧の国ということになると思う。
補足:
1)宝塚線の脱線事故が、運転手が電車運転の資質に欠ける人だった。しかし、「その人を運転業務につけた事とそれに携わった人」を批判する議論は殆どなかった。それよりも、ATMの問題、過密ダイヤ、業務員の教育などの問題の議論に終始した。
2)その百田氏の「沖縄の新聞二つを潰すべきだ」という言葉が、“言論の自由”との関連であるまじき発言だと批判されている。百田氏が新聞社を潰すことなど、どう考えても出来ないので、単に愚痴を漏らしただけである。そんな批判をする野党や沖縄の人たちの知性を疑う。
3)誤解があるといけないので、補足します。ここでは、この考え方(反戦)の支持・不支持を議論していません。弟の命を大切に思う普通の感覚から、反戦を詠ったものだということで、引用した次第です。
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2015年6月30日火曜日
2015年6月29日月曜日
触ると葉を閉じお辞儀をし、夜は眠る草;オジギソウ
1)農協の花木コーナーで、オジギソウを見つけた。早速買って、鉢に植えた。
手で触ってどう反応するかを写真に収めたのが下の写真である。左が触る前で、右がその2−3秒後である。
まるで貝殻を閉じるように、葉っぱをたたむ。
恐らく、卵を産みつけるために止まった虫などを、追い払うためだろう。 動く植物であり、たいへん興味深い。
オジギソウの名前の由来だが、触ると葉っぱを閉じるだけでなく、枝もお辞儀する様に下に動く。枝の角度(矢印の先)が変わっているのが、よく見れば解ると思う。
オジギソウは多年草だが寒さに弱い為に、日本では冬を越せない。冬には室内にいれれば、次の年も芽をだすだろう。
補足:オジギソウがお辞儀するメカニズムを研究した人がいます。その方の解説を引用します。
2)オジギソウは夜眠る。日没とともに葉をとじ、朝になると葉を開く。 この点はネムノキも同じである。実は草本と木本の違いはあるが、オジギソウはネムノキの仲間である。
そこで、夕方と早朝写真をとってみた。 曇りだったためか、夕方日没の時間前午後6時頃には、葉を閉じ始めた(下写真上)。翌朝5時前に起きて、うす暗かったのでフラッシュを炊いてとった写真が(中)である。その後明るくなったときには葉が完全に開いていた。
触れば直ぐ閉じて、夜は眠る。まるでペット動物のような草である。(本当に草と呼んで良いのだろうか?)
2)の部分は次の日に追加しました。
手で触ってどう反応するかを写真に収めたのが下の写真である。左が触る前で、右がその2−3秒後である。
まるで貝殻を閉じるように、葉っぱをたたむ。
恐らく、卵を産みつけるために止まった虫などを、追い払うためだろう。 動く植物であり、たいへん興味深い。
オジギソウの名前の由来だが、触ると葉っぱを閉じるだけでなく、枝もお辞儀する様に下に動く。枝の角度(矢印の先)が変わっているのが、よく見れば解ると思う。
オジギソウは多年草だが寒さに弱い為に、日本では冬を越せない。冬には室内にいれれば、次の年も芽をだすだろう。
補足:オジギソウがお辞儀するメカニズムを研究した人がいます。その方の解説を引用します。
2)オジギソウは夜眠る。日没とともに葉をとじ、朝になると葉を開く。 この点はネムノキも同じである。実は草本と木本の違いはあるが、オジギソウはネムノキの仲間である。
そこで、夕方と早朝写真をとってみた。 曇りだったためか、夕方日没の時間前午後6時頃には、葉を閉じ始めた(下写真上)。翌朝5時前に起きて、うす暗かったのでフラッシュを炊いてとった写真が(中)である。その後明るくなったときには葉が完全に開いていた。
触れば直ぐ閉じて、夜は眠る。まるでペット動物のような草である。(本当に草と呼んで良いのだろうか?)
2)の部分は次の日に追加しました。
2015年6月28日日曜日
明治維新とは何だったのか?
一月程前たまたま本屋で、原田伊織著の「明治維新という過ち(毎日ワンズ、2015/1/15)」(以下A)を見つけた。我々が単純に理解していた明治維新に関する知識が全く間違っているという。つまり、吉田松陰が開いた松下村塾(補足1)の塾生が中心になって成し遂げた、偉大な革命という明治維新の物語が、最終的に勝利し生き残った長州の元下級武士である山形有朋らの官製物語であるというのである。
その後読んだ、半藤一利著の「幕末史(新潮社2012/11/1)」(以下B)と井上勝生著の「幕末・維新(岩波新書、2006/11/21)」(以下C)でも、感情的な表現は少ないものの、上記「明治維新という過ち」とその内容に大差がない。いままで日本の一般国民が学校教育を経て持った歴史に関する理解とは遠い所に、幕末の歴史的事実があることが判った。一般用の歴史書として書かれたCの索引には、伊藤博文や高杉晋作の名はあっても吉田松陰や松下村塾はなかった。
ペリー提督が浦賀に錨を降ろした時(1853年)に大騒ぎになり、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった4杯(4隻)で夜も眠れず」と詠われたと学習した。しかし、オランダに毎年送る様要請した報告書(オランダ別段風説書)により、幕府はペリーが来ることを前の年から知っていた。また、既に1842年に捕鯨などで立ち寄った船に必需品を提供する「薪水給与令」を出し、異国船打払令(1825年)を撤回している。さらに、ペリー来航より7年前に米国海軍士官のジェームズ・ビドルが、軍艦2隻で同じ浦賀に来て開国を要求したが、幕府は拒絶している(A43頁)。
19世紀後半の日本の行政を握っていた幕府は、中国でのアヘン戦争やインドの植民地化、西の方でのクリミヤ戦争、イギリスの産業革命など全て知っていたのである。万国公法なども漢訳されたものを入手しており、すくなくとも幕府は世界情勢と日本の現状を基に、日本のとるべき方向を議論し、大凡の解答を得ていたと思う。そしてその改革が幕府だけでは成し遂げられないことを知り、朝廷と諸藩に説明し協力を得る努力をしている。日米修好通商条約締結の年(1858年)に、孝明天皇の異母妹の和宮を将軍家の御台所にする話が始まっている(B第3章)ことは、朝廷の協力が必要と考えていた証拠の一つである。
幕府は諸大名に日本の外交について諮問をし、例えば島津藩は斉彬が藩主の時から外国との通商に賛成している。また、その後ハリスと日米修好通商条約を締結のころには、ほとんどの大名の間で合意形成がなされている。土佐藩も朝廷に条約承認を求めている(C52-3頁)。日本が何らかの形で近代化し、統一して通商外交を行なうのが、進むべき方向であるという考えは、諸藩幕府朝廷の人たちの殆どが、攘夷決行の日(1963年5月10日)には解っていたと思う。長州でも最初は攘夷論が藩の主流ではなく、1861年に航海遠略策として、幕府朝廷に対して海外への貿易進出を提案した(C77頁)。実際、1863年5月12日には留学生5名を西欧に送っている。その2日前5月10日が、朝廷の工作で幕府(将軍後見人慶喜)が諸藩に攘夷決行の日として通知命令した日である(詳細は、B第4章)。実際に攘夷を実行したのは、長州だけであった(補足2)。
“倒幕と明治維新”は、単なる権力闘争であり、維新と呼ばれる様な性質のものではない。攘夷も勤王(や尊王)も、闘争相手を攻撃する口実に過ぎない。そして、最も法も倫理も無視して、混乱の時にこそ有力な手段となるテロリズムで実権を得たのが、長州や薩摩の下級武士の集団だったということになる。その舞台を用意したのが、孝明天皇の頑迷な攘夷であり、それを120%(補足3)利用した岩倉具視だろうと思う(B第7章)。半藤一利さんはB6章で、通商条約の勅許を慶応元年まで渋っていた孝明天皇について、批判的に書いている。“天皇家というのはいつも面白いですね。皇統が大事というのが先ず来て、次に万民を苦しませたくない、この二つで結局「致し方ない」となるのです。太平洋戦争終結のときの昭和天皇もそうでした(B223頁)。”
歴史物語を勝った側が創るのは、中国の史記や日本書紀など昔からのことである(補足4)。歴史に「もし」は禁物だが、幕末の時代に日本国という枠があったとしたら、日本全体では無駄で大きな損失をしたことになる。
Cの前書きに、“日本の開国は比較的早く定着した。そうであれば、幕末・維新期の対外的危機の大きさを強調するこれまでの評価を大幅に見直す必要がある。”とある。そして、切迫した対外的危機を前提にするから、専制的な近代国家の急造が「必至の国家的課題」だったということになると書かれている。また、慶応元年には条約の勅許が出て、ペリー以来の騒動が決着したが、その時のことについて半藤さんは書いている。“慶応元年のこの時(1865年10月4日)、日本の国策は一つになったのです。ですから本来なら、ここで倒幕などと言って国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。”
補足:
1)松下村塾を開いたのは、吉田松陰の叔父、玉木文之進である。玉木は明治2年に塾を再開し、明治25年までつづいた。Aの第三章に詳しく書かれている。
2)薩摩の生麦事件や長州の米国商船攻撃事件の莫大な賠償金は、主に幕府により支払われた。それは財政を悪化させることと、諸外国に対する信用を無くすという二つの面で幕府にとって大きな打撃になった。
3)孝明天皇の死亡経緯とそれが持つ決定的な意味については、Bの256-260頁に記載されている。天皇の死亡がなければ、簡単には倒幕に至らなかったのである。
4)岡田英弘著「歴史とは何か」(文春新書、2001)
その後読んだ、半藤一利著の「幕末史(新潮社2012/11/1)」(以下B)と井上勝生著の「幕末・維新(岩波新書、2006/11/21)」(以下C)でも、感情的な表現は少ないものの、上記「明治維新という過ち」とその内容に大差がない。いままで日本の一般国民が学校教育を経て持った歴史に関する理解とは遠い所に、幕末の歴史的事実があることが判った。一般用の歴史書として書かれたCの索引には、伊藤博文や高杉晋作の名はあっても吉田松陰や松下村塾はなかった。
ペリー提督が浦賀に錨を降ろした時(1853年)に大騒ぎになり、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった4杯(4隻)で夜も眠れず」と詠われたと学習した。しかし、オランダに毎年送る様要請した報告書(オランダ別段風説書)により、幕府はペリーが来ることを前の年から知っていた。また、既に1842年に捕鯨などで立ち寄った船に必需品を提供する「薪水給与令」を出し、異国船打払令(1825年)を撤回している。さらに、ペリー来航より7年前に米国海軍士官のジェームズ・ビドルが、軍艦2隻で同じ浦賀に来て開国を要求したが、幕府は拒絶している(A43頁)。
19世紀後半の日本の行政を握っていた幕府は、中国でのアヘン戦争やインドの植民地化、西の方でのクリミヤ戦争、イギリスの産業革命など全て知っていたのである。万国公法なども漢訳されたものを入手しており、すくなくとも幕府は世界情勢と日本の現状を基に、日本のとるべき方向を議論し、大凡の解答を得ていたと思う。そしてその改革が幕府だけでは成し遂げられないことを知り、朝廷と諸藩に説明し協力を得る努力をしている。日米修好通商条約締結の年(1858年)に、孝明天皇の異母妹の和宮を将軍家の御台所にする話が始まっている(B第3章)ことは、朝廷の協力が必要と考えていた証拠の一つである。
幕府は諸大名に日本の外交について諮問をし、例えば島津藩は斉彬が藩主の時から外国との通商に賛成している。また、その後ハリスと日米修好通商条約を締結のころには、ほとんどの大名の間で合意形成がなされている。土佐藩も朝廷に条約承認を求めている(C52-3頁)。日本が何らかの形で近代化し、統一して通商外交を行なうのが、進むべき方向であるという考えは、諸藩幕府朝廷の人たちの殆どが、攘夷決行の日(1963年5月10日)には解っていたと思う。長州でも最初は攘夷論が藩の主流ではなく、1861年に航海遠略策として、幕府朝廷に対して海外への貿易進出を提案した(C77頁)。実際、1863年5月12日には留学生5名を西欧に送っている。その2日前5月10日が、朝廷の工作で幕府(将軍後見人慶喜)が諸藩に攘夷決行の日として通知命令した日である(詳細は、B第4章)。実際に攘夷を実行したのは、長州だけであった(補足2)。
“倒幕と明治維新”は、単なる権力闘争であり、維新と呼ばれる様な性質のものではない。攘夷も勤王(や尊王)も、闘争相手を攻撃する口実に過ぎない。そして、最も法も倫理も無視して、混乱の時にこそ有力な手段となるテロリズムで実権を得たのが、長州や薩摩の下級武士の集団だったということになる。その舞台を用意したのが、孝明天皇の頑迷な攘夷であり、それを120%(補足3)利用した岩倉具視だろうと思う(B第7章)。半藤一利さんはB6章で、通商条約の勅許を慶応元年まで渋っていた孝明天皇について、批判的に書いている。“天皇家というのはいつも面白いですね。皇統が大事というのが先ず来て、次に万民を苦しませたくない、この二つで結局「致し方ない」となるのです。太平洋戦争終結のときの昭和天皇もそうでした(B223頁)。”
歴史物語を勝った側が創るのは、中国の史記や日本書紀など昔からのことである(補足4)。歴史に「もし」は禁物だが、幕末の時代に日本国という枠があったとしたら、日本全体では無駄で大きな損失をしたことになる。
Cの前書きに、“日本の開国は比較的早く定着した。そうであれば、幕末・維新期の対外的危機の大きさを強調するこれまでの評価を大幅に見直す必要がある。”とある。そして、切迫した対外的危機を前提にするから、専制的な近代国家の急造が「必至の国家的課題」だったということになると書かれている。また、慶応元年には条約の勅許が出て、ペリー以来の騒動が決着したが、その時のことについて半藤さんは書いている。“慶応元年のこの時(1865年10月4日)、日本の国策は一つになったのです。ですから本来なら、ここで倒幕などと言って国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだったのです。”
補足:
1)松下村塾を開いたのは、吉田松陰の叔父、玉木文之進である。玉木は明治2年に塾を再開し、明治25年までつづいた。Aの第三章に詳しく書かれている。
2)薩摩の生麦事件や長州の米国商船攻撃事件の莫大な賠償金は、主に幕府により支払われた。それは財政を悪化させることと、諸外国に対する信用を無くすという二つの面で幕府にとって大きな打撃になった。
3)孝明天皇の死亡経緯とそれが持つ決定的な意味については、Bの256-260頁に記載されている。天皇の死亡がなければ、簡単には倒幕に至らなかったのである。
4)岡田英弘著「歴史とは何か」(文春新書、2001)
2015年6月27日土曜日
金ジョンウンの胸のバッジ
今朝NHKテレビが、金ジョンウンがいつも胸につけている金日成と金正日の肖像画をデザインしたバッジを、最近外して公の場に現れていると、その映像と伴に報道していた。そして、自分の権威を一段と高めるためであろうという専門家の分析を紹介していた。
しかし、金日成や金正日の権威を越えるとはどういうことを意味するのか?私は、この分析は間違っていると思う。
金ジョンウンは一定の海外教育を受けており、現在の北朝鮮の世襲制共産党独裁が不自然であるとの感覚をもっているのではないだろうか。つまり、金ジョンウンは世襲制の廃止を考えているのだと思う。
金ジョンウンが今後の北朝鮮のあるべき姿として考えているのは、恐らく、中国型の共産党独裁国家であると思う。その第一歩は、「朝鮮民主主義人民共和国はキム一族が支配する王制ではない」と世界に示す必要がある。「たまたま3代までは、金一族が相応しい人材としてトップに就いたが、今後も最も相応しい人物が、金一族に含まれなくてもトップになるのだ」という意思表示であると思う。
勿論、今後このバッジが幹部の胸から消えることはないだろうが、それは神格化された皇帝のバッジから、建国の英雄をデザインしたバッジという意味になるのだろう。
しかし、金日成や金正日の権威を越えるとはどういうことを意味するのか?私は、この分析は間違っていると思う。
金ジョンウンは一定の海外教育を受けており、現在の北朝鮮の世襲制共産党独裁が不自然であるとの感覚をもっているのではないだろうか。つまり、金ジョンウンは世襲制の廃止を考えているのだと思う。
金ジョンウンが今後の北朝鮮のあるべき姿として考えているのは、恐らく、中国型の共産党独裁国家であると思う。その第一歩は、「朝鮮民主主義人民共和国はキム一族が支配する王制ではない」と世界に示す必要がある。「たまたま3代までは、金一族が相応しい人材としてトップに就いたが、今後も最も相応しい人物が、金一族に含まれなくてもトップになるのだ」という意思表示であると思う。
勿論、今後このバッジが幹部の胸から消えることはないだろうが、それは神格化された皇帝のバッジから、建国の英雄をデザインしたバッジという意味になるのだろう。
2015年6月21日日曜日
時事放談(6/21)の感想:仙谷由人氏と武村正義氏がゲスト
今朝のゲストは、武村正義氏と仙谷由人氏であった。最初の話題は再び集団的自衛権の国会審議についてであった。それについて、両人は集団的自衛権行使を現在の憲法の下で導入するのは無理であり、安倍政権の国会での説明も全く理解出来ないと言う意見を述べていた:
武村氏の意見:殆どのことは個別自衛権の範囲で可能であり、安倍政権は世界の警察官が続けられなくなった米国の代わりをする為ではないかと疑われる。 仙石氏:憲法解釈論として、集団的自衛権を中東からオーストラリアの様に地理的に広い範囲で行使するというのはどう考えても無理である。立憲主義を蔑ろにしている。アカデミズムの立場では無理(補足1)。
その後、年金情報の漏洩、韓国との関係改善について話合われていたが、今回は省略する。憲法論としては、既にブログに書いた様に自衛隊も個別的自衛権行使も合憲とは言い難い。その合憲か違憲かの域を出ないご両人の議論からは、何も学ぶべきことなどないと思う。以下に私の感想を述べる。
私は現政権の方向を支持したい。それは、機密情報を含め事情を一番知っているのは現政権であり、事情は説明不可能な場合が多いからである。そして、現状では米国との信頼関係を修復強化する以外に、道が無い様に思うからである。中国の露骨な海洋進出を前にして、尖閣諸島の問題やシーレーンの確保の問題などが危機的な情況に至るのを阻止するには、ネジ曲がった憲法解釈があと30度位曲がるのも仕方がないと思うのである。
例えば、幕末の歴史書を読んでいると、歴史は規則、論理、善悪で進むものではないということが良くわかる。幕末の混乱が西軍の勝利という形になり、“明治維新が成功”した決定的と思われる出来事は、王政復古の大号令の後の小御所会議であった。岩倉具視や大久保利通らが、徳川慶喜を擁護する松平春嶽と山内容堂らとの激論の末に、慶喜の失政の罪を決定した。午後5時に始まった会議は深夜12時まで及び、紛糾した議論の中で潮目が動いたのは、門の外を警備していた西郷隆盛の言葉「短刀一本あればケリがつくことでごわせんか」が山内容堂らに耳打ちされた時であった。(半藤一利著、幕末史、297頁)
彼らの議論、特に武村正義氏の議論は無責任である。政府側に説明出来ないが説明すれば理解されるであろうことがあればどうするのだ。例えば、憲法改正を議論するのが筋であるというのは正論である。しかし、現在の状況で憲法改正は国民の中で過半数を得るだろうか。私は否だと思う。また、憲法改正を隣国や米国は受け入れるか?それも否だと思う。例えば、ソ連のモスクワ国際関係大学を卒業した北野幸伯氏は、著書「クレムリンメソッド」(集英社インターナショナル、2014/12)で、以下のように書いている。“日本以外の世界は、「善か悪か」に関係なく、「どうすれば勝てるか」を考えている。日本は、右傾化、軍国主義化、歴史修正主義と解釈されることを、極力避ける努力が必要です。そして、憲法改正、靖国参拝、歴史修正については、現状「善悪論」から離れて考える必要があります。” つまり憲法に触れば、歴史修正主義の疑いを中国韓国だけでなく、米国からも受けるかもしれないというのである。
隣国などが一番歓迎する方向は、日本国が衰退の後自滅することである。 従軍慰安婦問題に話が及んだとき、武村氏は“日本は朝鮮半島を36年間植民地支配したことを忘れてはならない。韓国の立場に立って考えれば判るが、その悔しさを理解すべきだ。”と発言した。私は、韓国の悔しさを理解することよりも、日本がそのようにならない方法を考え理解すべきだと、彼に言いたい。
集団的自衛権行使を可能にしようとしている現政権を批判した仙谷由人氏が、最後に“日本人がこれからどう生きていくかについての危機感が少ない”と発言した。鏡を見て言っているのかと思ったが、鏡はスタジオにはなかった。
補足:
1))更に、仙石氏は次の様に発言した。「現政権の答弁の仕方がいい加減で、同語反復が多い。何故そうなのかという説明がなく、説得力がない。今の様な説明を続けていれば、時間を掛けても逆に反感が高まるだけではないか。北朝鮮と中国の脅威が安全保障環境の変化だとすれば、韓国とどう連携するのかが話し合わなければならない。それをしたくないから、中東の機雷掃海なんて言っている。中東の地域紛争に首を突っ込むことなど出来るのか。」
武村氏の意見:殆どのことは個別自衛権の範囲で可能であり、安倍政権は世界の警察官が続けられなくなった米国の代わりをする為ではないかと疑われる。 仙石氏:憲法解釈論として、集団的自衛権を中東からオーストラリアの様に地理的に広い範囲で行使するというのはどう考えても無理である。立憲主義を蔑ろにしている。アカデミズムの立場では無理(補足1)。
その後、年金情報の漏洩、韓国との関係改善について話合われていたが、今回は省略する。憲法論としては、既にブログに書いた様に自衛隊も個別的自衛権行使も合憲とは言い難い。その合憲か違憲かの域を出ないご両人の議論からは、何も学ぶべきことなどないと思う。以下に私の感想を述べる。
私は現政権の方向を支持したい。それは、機密情報を含め事情を一番知っているのは現政権であり、事情は説明不可能な場合が多いからである。そして、現状では米国との信頼関係を修復強化する以外に、道が無い様に思うからである。中国の露骨な海洋進出を前にして、尖閣諸島の問題やシーレーンの確保の問題などが危機的な情況に至るのを阻止するには、ネジ曲がった憲法解釈があと30度位曲がるのも仕方がないと思うのである。
例えば、幕末の歴史書を読んでいると、歴史は規則、論理、善悪で進むものではないということが良くわかる。幕末の混乱が西軍の勝利という形になり、“明治維新が成功”した決定的と思われる出来事は、王政復古の大号令の後の小御所会議であった。岩倉具視や大久保利通らが、徳川慶喜を擁護する松平春嶽と山内容堂らとの激論の末に、慶喜の失政の罪を決定した。午後5時に始まった会議は深夜12時まで及び、紛糾した議論の中で潮目が動いたのは、門の外を警備していた西郷隆盛の言葉「短刀一本あればケリがつくことでごわせんか」が山内容堂らに耳打ちされた時であった。(半藤一利著、幕末史、297頁)
彼らの議論、特に武村正義氏の議論は無責任である。政府側に説明出来ないが説明すれば理解されるであろうことがあればどうするのだ。例えば、憲法改正を議論するのが筋であるというのは正論である。しかし、現在の状況で憲法改正は国民の中で過半数を得るだろうか。私は否だと思う。また、憲法改正を隣国や米国は受け入れるか?それも否だと思う。例えば、ソ連のモスクワ国際関係大学を卒業した北野幸伯氏は、著書「クレムリンメソッド」(集英社インターナショナル、2014/12)で、以下のように書いている。“日本以外の世界は、「善か悪か」に関係なく、「どうすれば勝てるか」を考えている。日本は、右傾化、軍国主義化、歴史修正主義と解釈されることを、極力避ける努力が必要です。そして、憲法改正、靖国参拝、歴史修正については、現状「善悪論」から離れて考える必要があります。” つまり憲法に触れば、歴史修正主義の疑いを中国韓国だけでなく、米国からも受けるかもしれないというのである。
隣国などが一番歓迎する方向は、日本国が衰退の後自滅することである。 従軍慰安婦問題に話が及んだとき、武村氏は“日本は朝鮮半島を36年間植民地支配したことを忘れてはならない。韓国の立場に立って考えれば判るが、その悔しさを理解すべきだ。”と発言した。私は、韓国の悔しさを理解することよりも、日本がそのようにならない方法を考え理解すべきだと、彼に言いたい。
集団的自衛権行使を可能にしようとしている現政権を批判した仙谷由人氏が、最後に“日本人がこれからどう生きていくかについての危機感が少ない”と発言した。鏡を見て言っているのかと思ったが、鏡はスタジオにはなかった。
補足:
1))更に、仙石氏は次の様に発言した。「現政権の答弁の仕方がいい加減で、同語反復が多い。何故そうなのかという説明がなく、説得力がない。今の様な説明を続けていれば、時間を掛けても逆に反感が高まるだけではないか。北朝鮮と中国の脅威が安全保障環境の変化だとすれば、韓国とどう連携するのかが話し合わなければならない。それをしたくないから、中東の機雷掃海なんて言っている。中東の地域紛争に首を突っ込むことなど出来るのか。」
2015年6月20日土曜日
学問と政治の関係:安保法制&国歌斉唱要請
国旗国歌要請:文科相「適切判断」迫る 国立大学長は困惑と題する記事http://mainichi.jp/select/news/20150617k0000m040055000c.htmlによると、
下村文科相は16日、「各大学の自主判断」としながらも「長年の慣行により国民の間に定着していることや、(1999年8月に)国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」と要請した。
国旗・国歌法は、国旗の形や図柄や国歌の詩やメロディーを示したもので、国民が何かの時に国歌を斉唱しなければならないなどの内容は全く書かれていない。一方学問の自由に関しては、憲法23条に「学問の自由は、これを保障する」と明確に定められている。学問を行なうところは主に大学なので、「学問の自由」が重要であるとするこの憲法の規程は、そのまま「大学の自治」が重要であるとする根拠となる。従って、文部大臣の要請にはあまり根拠がなく、学長たちの困惑は当然である。
この政府の要請に関するコメントを書いたが、それにたいして学問の自由の意味が十分理解されていない方のコメントがあったので、ここに最初から説明を試みる。
学問は、“真理とそれらを繋ぐ論理の発見、集積、及び検証”を目的とする人間の知的行為とでも定義できるだろう(注釈1)。学問の構築・発展は、通常分野を限定して進められる。それは、時空を越えてこの世界全体を対象にするほど、人間の智慧は優れていないからである。つまり、多くの専門領域の夫々に「学会」を設立し、研究者が協力して夫々の領域で学問を極める様努力する。
専門分野に別けて、学問を深めるのは、丁度、スポーツに多くの種目があり、夫々の種目で技を高めるようなものである。ある種目を専門とする者の技は、一般の人など到底及ばないレベルに達する様に、学問においても、ある分野の専門家の知識や論理は、一般人の知識レベルを遥かに越える。そして、それらの知識や論理を、政治や経済などの活動に活用してきたのである。その結果、個人の能力を遥かに越えた文明社会を築き、我々はその恩恵を受けているのである。
学問が発展するには、研究者の集まりである学会や大学などが、全体として真理や論理を最優先する必要がある。一方、研究者や学会&大学を代表する者も人間であり、私的な経済的及び社会的利益などから自由ではない。従って学会や大学は、出来るだけフラットな組織を持ち、真理と論理を最優先する心(雰囲気)をその構成員と伴に、作り上げる不断の努力が必要である。政治など外部からの干渉は、簡単に学会の機能を毀損する可能性がある(注2)。従って、学問の自由がその発展の為に必須となる。
一方政治は、人間と人間が活動する全ての領域を対象にする。区分けは通常地理的なものであり(注3)、最も明瞭な区分として国家がある。政治の目的は、国民の安全を確保し経済的豊かさを維持或いは促進することであり、総合的、現実的、そして具体的である。それは、狭い専門領域で真理や論理を最優先する学問の存在形式とは大きく異なる。政治との関わりでは、学問はその限られた専門分野から政治を評価する物差(基準)としての役割も持つ。そして、学問からの評価を十分価値のあるものにする為には、多くの専門分野からの評価を総合しなければならないと思う(注4)。
この評価は、政治という多変数関数の変化を評価するのに、夫々の変数に関する微分係数(偏微分)を得て、それを基に政治の全微分を得ると言えるかもしれない。何れにしても、評価する対象が評価の物差に干渉しては、正常な評価は出来ない。従って、学問の正常な発展と政治との関わりを可能にする為には、学問は自己完結的(つまり学問は自由)でなければならない。
また、学問はあらゆる人間活動の“基礎”にあるべきものであるが、夫々受け持つ範囲は狭く且つ現実に直結していない。従って、逆にある狭い領域の学問が、政治に干渉する場合、間接的かつ限定的でなければならないと思う。最近の例では、安全保障に関する政治的問題に憲法学が干渉するとしても、間接的限定的でなければならないと考える。民主党のように、憲法学者の意見を天下の宝刀のように持って、安倍内閣の安保法制を批判するのは、既に書いた様に(最近の投稿数題)適切ではない考える(注5)。
注釈: 1)「学問の自由」という場合の学問という言葉に、適当な英訳が辞書にみつからない。辞書にはknowledge;learning;ologyなどが書かれている。ここでは、science(科学) 或いはphilosophy(哲学)とするのが適当だと思う。 2)例えば、スタップ細胞のスキャンダルは、理化学研究所の特定研究法人への指定を得るという研究所の方針(政治との関わり)と無縁ではない。 3)勿論、宗教的、風俗的なものもある。 4)例えば防衛問題では、憲法学だけではなく、法学、歴史学、政治学、地理学、財政学、等の他色んな側面から、国民の将来に亘っての安全確保を目的に戦略的問題として考えなければならない。 5)憲法による政治の評価、つまり違憲云々の判断は、最高裁判所が行なうのであり、学者が行なうのではない。 (6/20/22:00改訂)
国旗・国歌法は、国旗の形や図柄や国歌の詩やメロディーを示したもので、国民が何かの時に国歌を斉唱しなければならないなどの内容は全く書かれていない。一方学問の自由に関しては、憲法23条に「学問の自由は、これを保障する」と明確に定められている。学問を行なうところは主に大学なので、「学問の自由」が重要であるとするこの憲法の規程は、そのまま「大学の自治」が重要であるとする根拠となる。従って、文部大臣の要請にはあまり根拠がなく、学長たちの困惑は当然である。
この政府の要請に関するコメントを書いたが、それにたいして学問の自由の意味が十分理解されていない方のコメントがあったので、ここに最初から説明を試みる。
学問は、“真理とそれらを繋ぐ論理の発見、集積、及び検証”を目的とする人間の知的行為とでも定義できるだろう(注釈1)。学問の構築・発展は、通常分野を限定して進められる。それは、時空を越えてこの世界全体を対象にするほど、人間の智慧は優れていないからである。つまり、多くの専門領域の夫々に「学会」を設立し、研究者が協力して夫々の領域で学問を極める様努力する。
専門分野に別けて、学問を深めるのは、丁度、スポーツに多くの種目があり、夫々の種目で技を高めるようなものである。ある種目を専門とする者の技は、一般の人など到底及ばないレベルに達する様に、学問においても、ある分野の専門家の知識や論理は、一般人の知識レベルを遥かに越える。そして、それらの知識や論理を、政治や経済などの活動に活用してきたのである。その結果、個人の能力を遥かに越えた文明社会を築き、我々はその恩恵を受けているのである。
学問が発展するには、研究者の集まりである学会や大学などが、全体として真理や論理を最優先する必要がある。一方、研究者や学会&大学を代表する者も人間であり、私的な経済的及び社会的利益などから自由ではない。従って学会や大学は、出来るだけフラットな組織を持ち、真理と論理を最優先する心(雰囲気)をその構成員と伴に、作り上げる不断の努力が必要である。政治など外部からの干渉は、簡単に学会の機能を毀損する可能性がある(注2)。従って、学問の自由がその発展の為に必須となる。
一方政治は、人間と人間が活動する全ての領域を対象にする。区分けは通常地理的なものであり(注3)、最も明瞭な区分として国家がある。政治の目的は、国民の安全を確保し経済的豊かさを維持或いは促進することであり、総合的、現実的、そして具体的である。それは、狭い専門領域で真理や論理を最優先する学問の存在形式とは大きく異なる。政治との関わりでは、学問はその限られた専門分野から政治を評価する物差(基準)としての役割も持つ。そして、学問からの評価を十分価値のあるものにする為には、多くの専門分野からの評価を総合しなければならないと思う(注4)。
この評価は、政治という多変数関数の変化を評価するのに、夫々の変数に関する微分係数(偏微分)を得て、それを基に政治の全微分を得ると言えるかもしれない。何れにしても、評価する対象が評価の物差に干渉しては、正常な評価は出来ない。従って、学問の正常な発展と政治との関わりを可能にする為には、学問は自己完結的(つまり学問は自由)でなければならない。
また、学問はあらゆる人間活動の“基礎”にあるべきものであるが、夫々受け持つ範囲は狭く且つ現実に直結していない。従って、逆にある狭い領域の学問が、政治に干渉する場合、間接的かつ限定的でなければならないと思う。最近の例では、安全保障に関する政治的問題に憲法学が干渉するとしても、間接的限定的でなければならないと考える。民主党のように、憲法学者の意見を天下の宝刀のように持って、安倍内閣の安保法制を批判するのは、既に書いた様に(最近の投稿数題)適切ではない考える(注5)。
注釈: 1)「学問の自由」という場合の学問という言葉に、適当な英訳が辞書にみつからない。辞書にはknowledge;learning;ologyなどが書かれている。ここでは、science(科学) 或いはphilosophy(哲学)とするのが適当だと思う。 2)例えば、スタップ細胞のスキャンダルは、理化学研究所の特定研究法人への指定を得るという研究所の方針(政治との関わり)と無縁ではない。 3)勿論、宗教的、風俗的なものもある。 4)例えば防衛問題では、憲法学だけではなく、法学、歴史学、政治学、地理学、財政学、等の他色んな側面から、国民の将来に亘っての安全確保を目的に戦略的問題として考えなければならない。 5)憲法による政治の評価、つまり違憲云々の判断は、最高裁判所が行なうのであり、学者が行なうのではない。 (6/20/22:00改訂)
2015年6月18日木曜日
個別的自衛権行使が合憲であるとする、ある憲法学者のこじつけ
昨日国会は、集団的自衛権行使の問題で党首討論を開いた。集団的自衛権行使が違憲であるとして、改めて攻撃するためには、自衛隊も個別的自衛権も合憲であるとの認識で一致していなければ、噛み合った議論にはならない。自衛隊が違憲であると考える社民党や共産党が、集団的自衛権行使を憲法違反として与党攻撃するのは、予算と時間の無駄使いである。今回、個別的自衛権が合憲であるかどうか考える機会があったので、ここにその考察を書く。
個別自衛権行使は合憲で集団的自衛権行使は違憲と解釈する論理が、憲法が専門の木村草太・首都大学東京准教授の寄稿として紹介されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150616-00000008-wordleaf-pol その論理は、以下の理由でこじつけであると思う。先ず、木村准教授の考えを上記サイトからの引用で、以下に抜粋する。
『憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条(補足1)の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。』
つまり、一般的な項目と特別な項目が矛盾しておれば、後者を前者の例外とするのが、法律の読み方であるというのである。判り易い例では、刑法第199条:「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と、刑法第36条:「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」という正当防衛の規定の関係である。人を殺しても、正当防衛にあたる特別の場合、刑法199条は適用されない。
この論理を憲法9条と憲法13条に適用するというのだ。憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれているので、この条文全てを議論に用いるべきである。ゴリ押しだと言うのは、この条文の前半部分も考慮すれば、「立法その他の国政」の中に、個別自衛権行使に不可欠の外交や戦争をいれることは不可能だと思われるからである。
つまり、憲法13条前半部分にある「全ての国民は、個人として尊重される」がこの条文のエッセンスであり、それをより具体的に示したのが後半部分であると考えられる。明らかに、軍隊(自衛隊)を用いての防衛活動は、兵士個人の命を無視する活動であり、全ての国民を個人として尊重する場面ではない。(補足2)従って、木村准教授の解釈に示された「国政」の中に外交や戦争は含まれず、憲法9条の例外として用いることは不可能である。
木村准教授は政治家におもねる発言をしておられる。学者にあるまじき態度であると思う。
尚私は、安倍政権の集団的自衛権行使を可能にする安保法制に賛成である。魂を抜かれた日本国では、超法規的手段でしかこの国と国民を守ることなど出来ないからである。
第九条: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第十三条: すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
個別自衛権行使は合憲で集団的自衛権行使は違憲と解釈する論理が、憲法が専門の木村草太・首都大学東京准教授の寄稿として紹介されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150616-00000008-wordleaf-pol その論理は、以下の理由でこじつけであると思う。先ず、木村准教授の考えを上記サイトからの引用で、以下に抜粋する。
『憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条(補足1)の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。』
つまり、一般的な項目と特別な項目が矛盾しておれば、後者を前者の例外とするのが、法律の読み方であるというのである。判り易い例では、刑法第199条:「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と、刑法第36条:「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」という正当防衛の規定の関係である。人を殺しても、正当防衛にあたる特別の場合、刑法199条は適用されない。
この論理を憲法9条と憲法13条に適用するというのだ。憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と書かれているので、この条文全てを議論に用いるべきである。ゴリ押しだと言うのは、この条文の前半部分も考慮すれば、「立法その他の国政」の中に、個別自衛権行使に不可欠の外交や戦争をいれることは不可能だと思われるからである。
つまり、憲法13条前半部分にある「全ての国民は、個人として尊重される」がこの条文のエッセンスであり、それをより具体的に示したのが後半部分であると考えられる。明らかに、軍隊(自衛隊)を用いての防衛活動は、兵士個人の命を無視する活動であり、全ての国民を個人として尊重する場面ではない。(補足2)従って、木村准教授の解釈に示された「国政」の中に外交や戦争は含まれず、憲法9条の例外として用いることは不可能である。
木村准教授は政治家におもねる発言をしておられる。学者にあるまじき態度であると思う。
尚私は、安倍政権の集団的自衛権行使を可能にする安保法制に賛成である。魂を抜かれた日本国では、超法規的手段でしかこの国と国民を守ることなど出来ないからである。
第九条: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第十三条: すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
2015年6月16日火曜日
憲法審査会参考人の学者は、自衛隊&個別自衛権行使が合憲であることを示すべき
昨日の日本記者クラブでの会見で、憲法学者の早稲田の長谷部氏と慶応の小林氏が、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案について「憲法違反」との見解を重ねて示した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150615-00000117-jij-pol
この中で、小林氏は更に「憲法を無視した政治を行おうとする以上、独裁の始まりだ」と安倍政権を痛烈に批判した(補足1)。この二人の憲法学者は、先日の憲法審査会での発言で話題になった人たちである。
両氏に要求したいのは、先ず、自衛隊及びそれを用いた個別自衛権行使が合憲であることを、一日本国民としてではなく憲法(補足2)を専門としる“学者として”示すことである。憲法9条の第二項であるが、それは「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれている。憲法は明確に軍隊保持と戦争をする権利を国家から奪っている。“自衛の為の最小限の軍備は戦力に当たらない”という様な誤摩化しは、学者を名乗る以上出来ないだろう。
もし、自衛隊も個別自衛権行使も憲法違反だというのなら、改めてこの時点で集団的自衛権行使を違憲だと批判する資格はない筈である。今問題になっているのは、現状の安全保障体制が合憲で、安倍内閣の提案している新しい体制が、合憲の枠を越えるかどうかという議論だからである。
更に、小林氏には、独裁の定義を明確にしてもらいたい。安倍政権に終止符を打つ事は、我々国民が次回選挙で野党を選べば出来ることである。更に、安倍政権が掲げる集団的自衛権行使を可能にする法整備も、その時に改訂出来る。独裁とは小林氏が気に入らない政権につける形容詞だとすれば、小林氏の方が独裁志向ではないのか?
このような混乱を日本にもたらせたのは、憲法を専門とする学者や彼ら及び彼らから薫陶を受けた最高裁判事ではないのか。一昨年のブログに書いた様に、自衛隊を合憲としたところから、この様な混乱は容易に予想される。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html
補足:
1)私は、現在の憲法の不備にはずっと批判的であった。一方、昨年までは安倍政権の集団的自衛権行使する方向への”性急な動き”も批判してきた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/05/blog-post_16.html しかし、今は、この国が変化するには、安倍さんのような数の論理(最低限の民主主義)による強引の手法も時として必要だと思う様になった。
2)第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この中で、小林氏は更に「憲法を無視した政治を行おうとする以上、独裁の始まりだ」と安倍政権を痛烈に批判した(補足1)。この二人の憲法学者は、先日の憲法審査会での発言で話題になった人たちである。
両氏に要求したいのは、先ず、自衛隊及びそれを用いた個別自衛権行使が合憲であることを、一日本国民としてではなく憲法(補足2)を専門としる“学者として”示すことである。憲法9条の第二項であるが、それは「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれている。憲法は明確に軍隊保持と戦争をする権利を国家から奪っている。“自衛の為の最小限の軍備は戦力に当たらない”という様な誤摩化しは、学者を名乗る以上出来ないだろう。
もし、自衛隊も個別自衛権行使も憲法違反だというのなら、改めてこの時点で集団的自衛権行使を違憲だと批判する資格はない筈である。今問題になっているのは、現状の安全保障体制が合憲で、安倍内閣の提案している新しい体制が、合憲の枠を越えるかどうかという議論だからである。
更に、小林氏には、独裁の定義を明確にしてもらいたい。安倍政権に終止符を打つ事は、我々国民が次回選挙で野党を選べば出来ることである。更に、安倍政権が掲げる集団的自衛権行使を可能にする法整備も、その時に改訂出来る。独裁とは小林氏が気に入らない政権につける形容詞だとすれば、小林氏の方が独裁志向ではないのか?
このような混乱を日本にもたらせたのは、憲法を専門とする学者や彼ら及び彼らから薫陶を受けた最高裁判事ではないのか。一昨年のブログに書いた様に、自衛隊を合憲としたところから、この様な混乱は容易に予想される。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html
補足:
1)私は、現在の憲法の不備にはずっと批判的であった。一方、昨年までは安倍政権の集団的自衛権行使する方向への”性急な動き”も批判してきた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/05/blog-post_16.html しかし、今は、この国が変化するには、安倍さんのような数の論理(最低限の民主主義)による強引の手法も時として必要だと思う様になった。
2)第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
2015年6月14日日曜日
集団的自衛権論議:憲法学者と政治家とで意見が違って当たり前
衆議院憲法審査会において3名の学者が、集団的自衛権行使は憲法違反であると発言したことを、内閣が提出した安保法制に反対の民主党から、辻本議員が質問に立ち政府攻撃に利用している。しかし、このやり方は幾重にも間違っていると思う。
先ず、学者と政治家で意見が異なって当たり前である。学者は政治的な意見として発言していない筈だからである。そして、政治家は国民の(目先から遠い将来までの)利益を考えて意見すべきだが、一方学者は、その学問領域内で最適化されたものを発言すべきであるからである。
つまり、国民の安全や国家の存亡に拘るときは、憲法など無視することも政治的意見としては当然選択範囲に入るのであり、学者と政治家は同じ土俵に立つことは殆どない。従って、学者の意見を金科玉条のごとくかざすのは、政治家として落第だということになる。
数日前のブログに、BS激論というTV番組での西部邁氏の発言の一部、「憲法学者の多くが自衛隊は憲法違反であるとの意見を持っている」を引用した。そのような学者に自衛隊を用いた集団的自衛権について意見を聞いても、合憲という答えなどはじめから出てくる筈はない。もし、「合憲と考えても良い」という人が居たら、それは学者の看板を外して、政治家に変身した人の筈である。
憲法をどのような角度から読んでも、自衛隊(軍隊:self defense force)とそれを用いた安全保障(=国際紛争解決)は違憲である。そして、これまでの我国の安全保障であるが、自衛隊を設立する時に憲法を無視せざるを得ない理由があり、それを現在まで引きずっているのである。
今回安倍内閣が提出した安全保障関連法の審議を行なうとしたら、我国が自衛軍を持てなかった理由から、昨今の国際政治環境の変化までを含めて議論しなければならない。それが違憲か合憲かという議論を国会で行なうのは、場違いである。この件、国会で行なうとしたら、憲法をどう改訂して現状に合わせるかであると思う。憲法審査会は将にその議論の為につくられたのだから。衆議院のHPに、「憲法審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する機関です。」と明確にその目的が書かれている。(6/15午前改訂)
先ず、学者と政治家で意見が異なって当たり前である。学者は政治的な意見として発言していない筈だからである。そして、政治家は国民の(目先から遠い将来までの)利益を考えて意見すべきだが、一方学者は、その学問領域内で最適化されたものを発言すべきであるからである。
つまり、国民の安全や国家の存亡に拘るときは、憲法など無視することも政治的意見としては当然選択範囲に入るのであり、学者と政治家は同じ土俵に立つことは殆どない。従って、学者の意見を金科玉条のごとくかざすのは、政治家として落第だということになる。
数日前のブログに、BS激論というTV番組での西部邁氏の発言の一部、「憲法学者の多くが自衛隊は憲法違反であるとの意見を持っている」を引用した。そのような学者に自衛隊を用いた集団的自衛権について意見を聞いても、合憲という答えなどはじめから出てくる筈はない。もし、「合憲と考えても良い」という人が居たら、それは学者の看板を外して、政治家に変身した人の筈である。
憲法をどのような角度から読んでも、自衛隊(軍隊:self defense force)とそれを用いた安全保障(=国際紛争解決)は違憲である。そして、これまでの我国の安全保障であるが、自衛隊を設立する時に憲法を無視せざるを得ない理由があり、それを現在まで引きずっているのである。
今回安倍内閣が提出した安全保障関連法の審議を行なうとしたら、我国が自衛軍を持てなかった理由から、昨今の国際政治環境の変化までを含めて議論しなければならない。それが違憲か合憲かという議論を国会で行なうのは、場違いである。この件、国会で行なうとしたら、憲法をどう改訂して現状に合わせるかであると思う。憲法審査会は将にその議論の為につくられたのだから。衆議院のHPに、「憲法審査会は、日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する機関です。」と明確にその目的が書かれている。(6/15午前改訂)
2015年6月13日土曜日
衆議院憲法審査会の参考人意見の利用は野党の非合法作戦か?
衆議院憲法審査会の参考人質疑が6月4日開かれ、早稲田大学の長谷部恭男教授ら3 人の憲法学者が、集団的自衛権の限定的行使を容認した政府見解について「憲法違反 」との意見を表明し、各紙が報じた。そして、安倍内閣がその成立を目指している、安全保障関連法案の行く末に大きな影響を及ぼそうとしている。ある評論家が、これで潮目が変わったと発言する位である。
衆議院憲法審査会は、小渕内閣の時から準備が始まり、最初の委員が選任されたのが、2011年10月の野田内閣の時である。衆議院憲法調査会のHP (http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/gaiyo.htm)を見ると、憲法調査会は、日本国憲法改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する為に国会に設置されたと書かれている。このHPを信じれば、憲法調査会の設置の目的は、下線部にかかれたことであると解される。従ってこの調査会の権威は、この下線部の目的から判断される所にあり、それ以外にはない(注1)。
憲法調査会で招致された3名の参考人が、どのような経緯で安倍内閣の出した安全保障関連法案が違憲だという意見を述べたのか、新聞を読んでも、社民党のホームページ(http://www5.sdp.or.jp/comment/2015/06/05/戦争法案に対する衆議院憲法審査会参考人の「違/」などを見ても書かれていない。憲法調査会は裁判所でなく、行政に於ける何かについて違憲判断をする資格はないので(注2)、参考人達が野党議員か誰かの疑似餌的質問にひっかかったのだろう。
資格のないものが、何かを言って資格のある者の意見や行為を縛るのは、法治国家ではあってはならない。従って、国会において、あの意見を学者の意見としてとり上げるのはかまわないが、憲法審査会で出た意見という権威付けはおかしい。最近のこの件についての議論の為され方は、私には全く訳がわからない。
注釈:
1)確認の為には、法律を調べる必要がある。もし与党が合憲というお墨付きを得ようとしたとしたら、見当違いも甚だしい。
2)資格があるのは、最高裁判所である。学者の意見としてとり上げることは非合法ではないが、学者の意見は学問領域以外、国民の利益、国民の安全、国際環境の変化などとは一切無関係に出される。その点、野党議員とりわけ社民党や元社民党議員(辻本)は全く判っていない。
(6/14am8:20改訂)
衆議院憲法審査会は、小渕内閣の時から準備が始まり、最初の委員が選任されたのが、2011年10月の野田内閣の時である。衆議院憲法調査会のHP (http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/gaiyo.htm)を見ると、憲法調査会は、日本国憲法改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する為に国会に設置されたと書かれている。このHPを信じれば、憲法調査会の設置の目的は、下線部にかかれたことであると解される。従ってこの調査会の権威は、この下線部の目的から判断される所にあり、それ以外にはない(注1)。
憲法調査会で招致された3名の参考人が、どのような経緯で安倍内閣の出した安全保障関連法案が違憲だという意見を述べたのか、新聞を読んでも、社民党のホームページ(http://www5.sdp.or.jp/comment/2015/06/05/戦争法案に対する衆議院憲法審査会参考人の「違/」などを見ても書かれていない。憲法調査会は裁判所でなく、行政に於ける何かについて違憲判断をする資格はないので(注2)、参考人達が野党議員か誰かの疑似餌的質問にひっかかったのだろう。
資格のないものが、何かを言って資格のある者の意見や行為を縛るのは、法治国家ではあってはならない。従って、国会において、あの意見を学者の意見としてとり上げるのはかまわないが、憲法審査会で出た意見という権威付けはおかしい。最近のこの件についての議論の為され方は、私には全く訳がわからない。
注釈:
1)確認の為には、法律を調べる必要がある。もし与党が合憲というお墨付きを得ようとしたとしたら、見当違いも甚だしい。
2)資格があるのは、最高裁判所である。学者の意見としてとり上げることは非合法ではないが、学者の意見は学問領域以外、国民の利益、国民の安全、国際環境の変化などとは一切無関係に出される。その点、野党議員とりわけ社民党や元社民党議員(辻本)は全く判っていない。
(6/14am8:20改訂)
政治家が大切にすべきは、日本国民の安全であり、日本国憲法ではない(改訂版)
§1)新安保法制に関する議論が盛んである。3名の憲法学者による違憲解釈が出てから、新安保法制を違憲として政府を攻撃する野党の勢いが増している様に見える。野党の政治家であっても日本国の政治家であるならば(学者ではないのだから)、第一に考えるべきは、憲法よりも国民の安全である(補足1)。
集団的自衛権行使を可能にする新安保法制は違憲であり許せないとする、民主党などの姿勢の根拠は、(A)国民の命よりも憲法に反しないのとが大切、或いは、(B)現在及び将来において、日本に対する大きな脅威はなく、集団的自衛権行使を可能にする必要がない、のどちらかだろう。
(B)に類似した意見として、冷戦時代の危険が高かった時でさえ、集団的自衛権行使は自民党政府も違憲判断を持っていたのに、何故今憲法の壁を無視してまで可能にするのかという議論がある。それは、物騒な時代でも我が家には鍵が掛けてなかった。現在、あの時代よりは安全と思われるのに、何故玄関に鍵を付けるというのか、と言う議論と等価である。
つまり、過去の経緯や周辺事態とは独立して、本来の国家としてあるべき姿から考えて、政府案を議論すべきである。先ほどBS5チャンネル"激論”で(6/13/am)、枝野氏と磯崎総理補佐官が、田原氏の司会で議論していた。野党第一党の幹部でありながら、枝野氏の議論は、憲法解釈を重視する上記(A)の姿勢、又は、現在の脅威と冷戦時代の脅威を比較して、上記(B)の立場を主張するものであり、国家のあるべき姿という視点に立っていない。つまり、反対の為の反対にしか見えない。
§2)6/11午後8時からBSフジで放送されたニュース番組で、小池晃氏、岡本行夫氏、西部邁氏のゲスト3名が安保法制について議論していた。その中で西部邁氏が、大半の憲法学者は集団的自衛権だけではなく、自衛隊自体も憲法違反だという意見を持っていると発言していた。更に、前提として憲法9条や非核三原則などを置かずに、安全保障体制を第一歩から議論すべきであると発言していた。将に正論である。しかし、それも学者的意見である。
自民党政府が正面から憲法改正を表に出せない理由は、国会の2/3(国民の過半数)が憲法改正に賛成しそうにないからである。そのような国論が出来上がったのは、米国が日本を本格的な武装した国家にしたくないという考えを持ち、戦後の日本を設計したことが原因であると思う。
これまでの自民党による安全保障体制は、米国の日本を仮想敵国とする戦後の姿勢とそれにより日本国の背骨に埋め込まれた憲法9条という制約の下で、解釈改憲により築かれて来た。その代わりとして持ち込まれたのが、日米安全保障条約である。そろそろ、米国は日本を保護国から普通の同盟国にしようと考えているかもしれない。それが先日の安倍総理に上下両院議員の前での演説をセットした背景にあるのだろう。
また、発展途上国であった中国が、あと数年くらいでGDP世界一の巨大国家となる。そして、共産党独裁に新しい中華思想(補足2)がカップルした世界一の軍事大国の隣に、我国が位置することになるのである。そのような時代背景があっての新安保体制構築を安倍内閣は考えているのだと理解する。
政府を構成する政治家は、国民の安全に対して責任を自覚し、上記のような変更が困難な憲法や複雑な国際環境(米国が日本を仮想敵国と看做していた;補足3)という制約下で、国家のあるべき姿を模索している様に見える。その責任と制約条件とを共有しないで新安保法制を批判するのは簡単である。しかしその態度は、国民の安全よりも自分の議席や地位を重視する卑怯な政治屋的態度である。
§3)6月12日、日本記者クラブにおける会見で、元自民党幹部の四名が新安保法案に反対の意志を表明した。山崎拓、亀井静香、武村正義、藤井裕久、の各氏である。亀井氏は、「必ず戦死者が出る。戦争に負けて以来、ある意味最大の危機」と言った。また武村氏は、「集団的自衛権の行使は、国際紛争解決の為の武力行使だ。必要と考えるなら、憲法改正の道を歩むべきだ」と言ったという。(中日新聞/6/13日朝刊第一面)
何を寝ぼけたことを言っているのか?
個別自衛権行使が国際紛争解決にあたら無いのか?(自衛の戦争は、国際紛争にふくまれないのか?)
憲法改正の道など何処にあるのか?あるなら、絶対多数をを維持していた時代の自民党が何故やらなかったのか?
そもそも、憲法9条第二項は言語学的には明確に自衛隊を違憲と記述しているのだ。(補足4)これまでの自民党による安全保障体制は、米国の日本を仮想敵国とする戦後の姿勢と、それにより日本国の背骨に埋め込まれた憲法9条という制約の下で、解釈改憲により築かれて来たのだ。この経緯を無視出来る立場には、この四氏は無い筈だ。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
補足:
1)憲法学者が、学者としての意見を聞かれたのなら、集団的自衛権行使は違憲であると答えるのは当然である。何故なら、国民の安全なども含め命題に無い前提を全て無視して考察するのが学者の仕事だからだ。
2)アジアインフラ投資銀行(AIIB)と新シルクロード計画などは、中華思想そのものであると思う。
3)北朝鮮が核実験をした時に、米国のライス国務長官が急いで日本に来て、北朝鮮の核兵器から日本を守ると発言した。このことは明確に日本を仮想敵国と看做していたことを示している。つまり、北朝鮮により日本が核攻撃される可能性が高くなっても、日本に絶対核武装させないという米国の姿勢を示している。また、田中角栄総理の時代に日本が米国と対中国関係の改善を競った時、田中元総理の早業の国交回復を「あのジャップめ!」と、当時の国務長官だったキッシンジャー氏が悔しがった。米国の日本を見る目は、それらの事実に明確に現れている。
4)彼らに問いたい。お孫さん達に、戦車に乗り、戦闘機を操縦し、軍艦に配備された自衛官の写真を見せて、自衛隊は軍隊ではないと自信を持って、説得できますか?なお、個別自衛権を憲法9条の例外とする考え方があるが、その批判については後日の本ブログを参照してほしい。(6/22追加)
集団的自衛権行使を可能にする新安保法制は違憲であり許せないとする、民主党などの姿勢の根拠は、(A)国民の命よりも憲法に反しないのとが大切、或いは、(B)現在及び将来において、日本に対する大きな脅威はなく、集団的自衛権行使を可能にする必要がない、のどちらかだろう。
(B)に類似した意見として、冷戦時代の危険が高かった時でさえ、集団的自衛権行使は自民党政府も違憲判断を持っていたのに、何故今憲法の壁を無視してまで可能にするのかという議論がある。それは、物騒な時代でも我が家には鍵が掛けてなかった。現在、あの時代よりは安全と思われるのに、何故玄関に鍵を付けるというのか、と言う議論と等価である。
つまり、過去の経緯や周辺事態とは独立して、本来の国家としてあるべき姿から考えて、政府案を議論すべきである。先ほどBS5チャンネル"激論”で(6/13/am)、枝野氏と磯崎総理補佐官が、田原氏の司会で議論していた。野党第一党の幹部でありながら、枝野氏の議論は、憲法解釈を重視する上記(A)の姿勢、又は、現在の脅威と冷戦時代の脅威を比較して、上記(B)の立場を主張するものであり、国家のあるべき姿という視点に立っていない。つまり、反対の為の反対にしか見えない。
§2)6/11午後8時からBSフジで放送されたニュース番組で、小池晃氏、岡本行夫氏、西部邁氏のゲスト3名が安保法制について議論していた。その中で西部邁氏が、大半の憲法学者は集団的自衛権だけではなく、自衛隊自体も憲法違反だという意見を持っていると発言していた。更に、前提として憲法9条や非核三原則などを置かずに、安全保障体制を第一歩から議論すべきであると発言していた。将に正論である。しかし、それも学者的意見である。
自民党政府が正面から憲法改正を表に出せない理由は、国会の2/3(国民の過半数)が憲法改正に賛成しそうにないからである。そのような国論が出来上がったのは、米国が日本を本格的な武装した国家にしたくないという考えを持ち、戦後の日本を設計したことが原因であると思う。
これまでの自民党による安全保障体制は、米国の日本を仮想敵国とする戦後の姿勢とそれにより日本国の背骨に埋め込まれた憲法9条という制約の下で、解釈改憲により築かれて来た。その代わりとして持ち込まれたのが、日米安全保障条約である。そろそろ、米国は日本を保護国から普通の同盟国にしようと考えているかもしれない。それが先日の安倍総理に上下両院議員の前での演説をセットした背景にあるのだろう。
また、発展途上国であった中国が、あと数年くらいでGDP世界一の巨大国家となる。そして、共産党独裁に新しい中華思想(補足2)がカップルした世界一の軍事大国の隣に、我国が位置することになるのである。そのような時代背景があっての新安保体制構築を安倍内閣は考えているのだと理解する。
政府を構成する政治家は、国民の安全に対して責任を自覚し、上記のような変更が困難な憲法や複雑な国際環境(米国が日本を仮想敵国と看做していた;補足3)という制約下で、国家のあるべき姿を模索している様に見える。その責任と制約条件とを共有しないで新安保法制を批判するのは簡単である。しかしその態度は、国民の安全よりも自分の議席や地位を重視する卑怯な政治屋的態度である。
§3)6月12日、日本記者クラブにおける会見で、元自民党幹部の四名が新安保法案に反対の意志を表明した。山崎拓、亀井静香、武村正義、藤井裕久、の各氏である。亀井氏は、「必ず戦死者が出る。戦争に負けて以来、ある意味最大の危機」と言った。また武村氏は、「集団的自衛権の行使は、国際紛争解決の為の武力行使だ。必要と考えるなら、憲法改正の道を歩むべきだ」と言ったという。(中日新聞/6/13日朝刊第一面)
何を寝ぼけたことを言っているのか?
個別自衛権行使が国際紛争解決にあたら無いのか?(自衛の戦争は、国際紛争にふくまれないのか?)
憲法改正の道など何処にあるのか?あるなら、絶対多数をを維持していた時代の自民党が何故やらなかったのか?
そもそも、憲法9条第二項は言語学的には明確に自衛隊を違憲と記述しているのだ。(補足4)これまでの自民党による安全保障体制は、米国の日本を仮想敵国とする戦後の姿勢と、それにより日本国の背骨に埋め込まれた憲法9条という制約の下で、解釈改憲により築かれて来たのだ。この経緯を無視出来る立場には、この四氏は無い筈だ。
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
補足:
1)憲法学者が、学者としての意見を聞かれたのなら、集団的自衛権行使は違憲であると答えるのは当然である。何故なら、国民の安全なども含め命題に無い前提を全て無視して考察するのが学者の仕事だからだ。
2)アジアインフラ投資銀行(AIIB)と新シルクロード計画などは、中華思想そのものであると思う。
3)北朝鮮が核実験をした時に、米国のライス国務長官が急いで日本に来て、北朝鮮の核兵器から日本を守ると発言した。このことは明確に日本を仮想敵国と看做していたことを示している。つまり、北朝鮮により日本が核攻撃される可能性が高くなっても、日本に絶対核武装させないという米国の姿勢を示している。また、田中角栄総理の時代に日本が米国と対中国関係の改善を競った時、田中元総理の早業の国交回復を「あのジャップめ!」と、当時の国務長官だったキッシンジャー氏が悔しがった。米国の日本を見る目は、それらの事実に明確に現れている。
4)彼らに問いたい。お孫さん達に、戦車に乗り、戦闘機を操縦し、軍艦に配備された自衛官の写真を見せて、自衛隊は軍隊ではないと自信を持って、説得できますか?なお、個別自衛権を憲法9条の例外とする考え方があるが、その批判については後日の本ブログを参照してほしい。(6/22追加)
2015年6月11日木曜日
日銀総裁の不愉快な口先為替介入
黒田日銀総裁が今日6/10の国会答弁で、「さらに円安に振れることは、普通に考えればありそうにない」などと発言したことを受け、東京市場でドル/円レートが124円台半ばから122円台まで急落した。あまりに大きい効果に驚いたのか、経済産業大臣が黒田発言について“「趣旨が曲解された」などと述べたことが伝わり、今度は黒田発言の1/3ほどの効果だが、急上昇に転じた。
この種の為替への介入ととられかねない予定外の発言は、市場に混乱を持ち込む。今回の黒田総裁の発言そのものは、「”実質実効円レート”からみてこれ以上の円安はない」と言ったそうで、その通りであると専門家は言う(注1)。しかし、市場は発言者の地位から考えて、何か意図があっての発言と受け取る。日を改めてもドル/円相場に大きな変化がないことは、日銀は今後金融緩和をしないと市場に受け取られたことになる。
この発言によるナーバスな為替の変化は、日銀による(そして世界的な)異常と言える程の通貨量増加策が原因であると思う。つまり、正常に投資などに向かわないお金が金融機関などにあふれていることが、このような不安定な為替の動きの原因だろう。
上は日銀及び米国連銀が銀行へ送りだした金(マネタリーベース)の総量の変化である。日銀はこの図の端で約270兆円、米国連銀は4.5兆ドルであり、経済規模から考えて、日銀の方が大きい位である。かなりの部分が日銀当座預金に0.1%の金利(付利という)を貰って眠っているとしても、世の中お金であふれていることには違いない。
夢遊病の様な状態の大量のお金が、株式や為替の市場に流れ込んでいれば、株価はバブル的になる。そして、今回の日銀総裁の一言の様に何か金融に影響しそうなことがあると、それら相場に大きな影響を与える。今回の混乱はそれ程大きくはないが、今後更に大きな問題が生じる可能性がある。それは、連銀の利上げとそれに伴って起こるかもしれない混乱である。これは、テイパータントラムtaper tantrum((米ドル量の)先細り癇癪)と呼ばれ、新しい経済用語となっているようだ。
テイパータントラムの可能性が示唆される様になった切っ掛けは、たぶん2013年5月下旬に当時ニューヨーク連銀の議場だったバーナンキ氏が量的緩和を終了すると発表した後の出来事だろう。その発表直後に新興国のドルが流出し、それと呼応する様に各国の金利が上昇した。日本の株価は1日で1000円以上下落し、その後3000円ほど下げて底値になった。このことで、今の世界の金融は非常に恐ろしい情況にあることが判った。昨日の件も、同様の教訓を与えたと言えるのだろう。
兎に角、近い未来に何か大きな混乱があるかもしれない。遠くで眺めるだけで済む様に祈っている。(素人のメモですので、批判歓迎します。)
注釈:1)黒田総裁の発言の中の、”実質実効円レートが低い”とは、要するに外国から日本に来た人は平均して安く買物が出来るということだろう。
この種の為替への介入ととられかねない予定外の発言は、市場に混乱を持ち込む。今回の黒田総裁の発言そのものは、「”実質実効円レート”からみてこれ以上の円安はない」と言ったそうで、その通りであると専門家は言う(注1)。しかし、市場は発言者の地位から考えて、何か意図があっての発言と受け取る。日を改めてもドル/円相場に大きな変化がないことは、日銀は今後金融緩和をしないと市場に受け取られたことになる。
この発言によるナーバスな為替の変化は、日銀による(そして世界的な)異常と言える程の通貨量増加策が原因であると思う。つまり、正常に投資などに向かわないお金が金融機関などにあふれていることが、このような不安定な為替の動きの原因だろう。
上は日銀及び米国連銀が銀行へ送りだした金(マネタリーベース)の総量の変化である。日銀はこの図の端で約270兆円、米国連銀は4.5兆ドルであり、経済規模から考えて、日銀の方が大きい位である。かなりの部分が日銀当座預金に0.1%の金利(付利という)を貰って眠っているとしても、世の中お金であふれていることには違いない。
夢遊病の様な状態の大量のお金が、株式や為替の市場に流れ込んでいれば、株価はバブル的になる。そして、今回の日銀総裁の一言の様に何か金融に影響しそうなことがあると、それら相場に大きな影響を与える。今回の混乱はそれ程大きくはないが、今後更に大きな問題が生じる可能性がある。それは、連銀の利上げとそれに伴って起こるかもしれない混乱である。これは、テイパータントラムtaper tantrum((米ドル量の)先細り癇癪)と呼ばれ、新しい経済用語となっているようだ。
テイパータントラムの可能性が示唆される様になった切っ掛けは、たぶん2013年5月下旬に当時ニューヨーク連銀の議場だったバーナンキ氏が量的緩和を終了すると発表した後の出来事だろう。その発表直後に新興国のドルが流出し、それと呼応する様に各国の金利が上昇した。日本の株価は1日で1000円以上下落し、その後3000円ほど下げて底値になった。このことで、今の世界の金融は非常に恐ろしい情況にあることが判った。昨日の件も、同様の教訓を与えたと言えるのだろう。
兎に角、近い未来に何か大きな混乱があるかもしれない。遠くで眺めるだけで済む様に祈っている。(素人のメモですので、批判歓迎します。)
注釈:1)黒田総裁の発言の中の、”実質実効円レートが低い”とは、要するに外国から日本に来た人は平均して安く買物が出来るということだろう。
2015年6月7日日曜日
拉致問題:そこまで言って委員会での飯島発言について
今日中部地方で放送された「そこまで言って委員会」で、北朝鮮による日本人拉致の問題が解決出来ない可能性の大きい事が、同番組に出演した飯島内閣参与により示唆された。そして、北朝鮮による松茸密輸の問題とか朝鮮総連の建物競売の問題などで、北朝鮮との間がぎくしゃくして、拉致問題解決を邪魔するような環境を作りだしたのは、日本政府の一部による可能性が大きいと言うことである。
安倍内閣の公約は、拉致問題はこの内閣で解決するというものであった。しかし、解決が出来ないのなら、安倍内閣の責任ではなく、北朝鮮の責任であるとの印象を作る為に、政府の一部が動いている可能性が高いという(注1)。飯島参与は5月に問題解決の為に北朝鮮を訪問しており、現内閣の一員であるので、話の信憑性がたかい。
既にこのブログでも書いた様に、普通に考えた場合拉致問題の解決が非常に困難であることは最初から判っていた。 それは、北朝鮮が奥に隠していたテロ的行為を、自発的に明らかにして解決することであり、北朝鮮の国家としての安定と貧困からの脱出が、拉致問題解決に続いて連続的に進むと言う保証が与えられなければ、出来ないことだからである。
北朝鮮は、日本と韓国が国交を正常化したのと同じプロセス: 北朝鮮と日本との基本条約締結と日本からの1兆円規模の経済協力金支払とをセットに、拉致問題も同時に全面解決する道以外を、考えていないと思うのである。もちろん、一兆円規模のお金の支払いだけでも北朝鮮は良いが、それは日本国民が納得する筈がない(注2)。
ただ、北朝鮮と日本が基本条約を締結して、北朝鮮を半島の二番目の国として日本が承認することは、日韓基本条約に反するので、韓国と米国が上記シナリオに納得する筈がない。そのことを昨年の5月に上記ブログに書いた。
私は、拉致問題の解決をあまりにも安易に考えているマスコミや政府要人の発言にはずっと懐疑的であった。上に書いた基本的なことすら、かんがえていなかったのではないのかと疑う(注3)。また、この困難(日韓基本条約や韓国の半島統一の国是)に触れた意見を、テレビなどで聞いたことがない。もし、経済制裁(むち)と数百億円規模の経済援助(あめ)で、問題が解決すると考えていたとすれば、それも甚だしい見当違いだろう。
注釈:
1)飯島参与は、北朝鮮の不正を捜査する時、現場が東京でも動くのは警視庁ではなく、都道府県の警察であると言う”不思議”を、その傍証として話していた。 。
2)単に金を支払って、国家として日本や米国の承認を得なければ、核兵器を放棄出来ない。核兵器を放棄しないで、多額の金を北朝鮮に渡すことには韓国も米国も日本国民も納得しない。
3)そんな事ある筈がないと思いたいが、昨日話題になった様に、憲法審査会参考人の人選を与党が誤ったことなど考えると、あり得ないことではないだろう。
安倍内閣の公約は、拉致問題はこの内閣で解決するというものであった。しかし、解決が出来ないのなら、安倍内閣の責任ではなく、北朝鮮の責任であるとの印象を作る為に、政府の一部が動いている可能性が高いという(注1)。飯島参与は5月に問題解決の為に北朝鮮を訪問しており、現内閣の一員であるので、話の信憑性がたかい。
既にこのブログでも書いた様に、普通に考えた場合拉致問題の解決が非常に困難であることは最初から判っていた。 それは、北朝鮮が奥に隠していたテロ的行為を、自発的に明らかにして解決することであり、北朝鮮の国家としての安定と貧困からの脱出が、拉致問題解決に続いて連続的に進むと言う保証が与えられなければ、出来ないことだからである。
北朝鮮は、日本と韓国が国交を正常化したのと同じプロセス: 北朝鮮と日本との基本条約締結と日本からの1兆円規模の経済協力金支払とをセットに、拉致問題も同時に全面解決する道以外を、考えていないと思うのである。もちろん、一兆円規模のお金の支払いだけでも北朝鮮は良いが、それは日本国民が納得する筈がない(注2)。
ただ、北朝鮮と日本が基本条約を締結して、北朝鮮を半島の二番目の国として日本が承認することは、日韓基本条約に反するので、韓国と米国が上記シナリオに納得する筈がない。そのことを昨年の5月に上記ブログに書いた。
私は、拉致問題の解決をあまりにも安易に考えているマスコミや政府要人の発言にはずっと懐疑的であった。上に書いた基本的なことすら、かんがえていなかったのではないのかと疑う(注3)。また、この困難(日韓基本条約や韓国の半島統一の国是)に触れた意見を、テレビなどで聞いたことがない。もし、経済制裁(むち)と数百億円規模の経済援助(あめ)で、問題が解決すると考えていたとすれば、それも甚だしい見当違いだろう。
注釈:
1)飯島参与は、北朝鮮の不正を捜査する時、現場が東京でも動くのは警視庁ではなく、都道府県の警察であると言う”不思議”を、その傍証として話していた。 。
2)単に金を支払って、国家として日本や米国の承認を得なければ、核兵器を放棄出来ない。核兵器を放棄しないで、多額の金を北朝鮮に渡すことには韓国も米国も日本国民も納得しない。
3)そんな事ある筈がないと思いたいが、昨日話題になった様に、憲法審査会参考人の人選を与党が誤ったことなど考えると、あり得ないことではないだろう。
時事放談(6/7)感想
今回のゲストは二階氏とカーチス氏であった。議論の中でもっとも重要だったのは、二階氏が率いた3000人訪中団と新安保体制の話であった。訪中団は民間交流であり、それは政治背景を作る上で大切であるが、私の目には昔の朝貢使節のように見えた。
習近平主席も大使節団を前にご機嫌なのは当然だろう。カーチス氏は、“中国も日米の間に楔などいれることは出来ないと、安倍総理の訪米などで気が付いただろう。また、日本からの最近の投資減少が中国経済に響いており、少し反省しているのだろう”と指摘した。
新安保法制に関する国会での議論であるが、先ず、自民側参考人が集団的自衛権行使を違憲だと発言したことで、自民党の人選の拙さが指摘された。これは、全く呆れてものが言えない位である。議論する場が、政権非難する場となっては、どうしようもない。議論は、賛成派と反対派がするものである(注1)。
カーチス氏による、”安倍総理と中谷防衛大臣の米国での発言と日本での発言が全くことなる”という指摘は重要である。つまり、“両首脳が米国で話をしたのは、米国が日本を守ると同時に日本側も米国を守るという相互防衛関係を築くという内容だったが、日本での話には後半部分が無く、片務的なものの様に国民に誤解を与えるものである”。
二枚舌は論理で説得する自信の無い人が使う常套手段である。国家の首脳がそのようでは、高い国際的信用を築くことは不可能である。私は、”集団的自衛権行使”は、相互義務関係を示しており当然日本側も米国を守るという意味であるが、それを口に出せないほど両首脳は説得力に自信が無いのだろう。
日本の置かれた国際的環境が大きく速く変化しているいま、戦後70年間放置され老朽化した憲法や防衛関連法を前にして、ステップbyステップでその変化に追随する実力が、現在の政治家にはないのである(注2)。
中国が南シナ海で岩礁のような島を埋め立てて空港を作り、そこを軍事基地化している。中国の軍事費の増加や海軍力の増強は、単に中国の防衛のためとは思えないレベルである。そして、中国の経済力は何れ世界のトップに立ち、AIIBが大きくなって、元を世界の決済通貨に育て上げることをたくらんでいるのだろう。そして、FRBの変わりを中国の中央銀行が将来果たすかもしれない(注3)。
世界の枠組みが大きく変化していることを説明しなければ、新安保法制の話など判らない。日本での新安保体制の国会議論は極めてプアである。国家国民の将来などより、自衛隊員の安全が大事だと言う野党(注4)を相手にして右往左往している。カーチス氏が言うまでもなく、“国家国民の安全保障制度が変わり、自衛隊員の危険性が増す可能性があっても、それは国家国民の防衛の為である”からだと正面から言い切ることが出来ないのだ。
注釈:
1)従来の自民党の有識者会議などでは、与党案に賛成する者ばかり集めていたが、それも同様に非難されるべきである。
2)優秀な人材をことごとく排斥してきたのは米国である。(孫崎氏の著書を参照)
3)21世紀の中華構想だろう。鼠族から宮殿を住まいにする人たちが共存する国、異なる宗教を持つウイグルや内モンゴル、出世は一族を豊かにするためと蓄財に励む幹部達、それらの巨大な矛盾を抱えた国を崩壊から守るのは中華思想ではないだろうか。
4)野党系図のもとにあるのは、コミンテルンの指示で動いていたと言われる勝間田清一氏の日本社会党である。反日なのは当然である。
習近平主席も大使節団を前にご機嫌なのは当然だろう。カーチス氏は、“中国も日米の間に楔などいれることは出来ないと、安倍総理の訪米などで気が付いただろう。また、日本からの最近の投資減少が中国経済に響いており、少し反省しているのだろう”と指摘した。
新安保法制に関する国会での議論であるが、先ず、自民側参考人が集団的自衛権行使を違憲だと発言したことで、自民党の人選の拙さが指摘された。これは、全く呆れてものが言えない位である。議論する場が、政権非難する場となっては、どうしようもない。議論は、賛成派と反対派がするものである(注1)。
カーチス氏による、”安倍総理と中谷防衛大臣の米国での発言と日本での発言が全くことなる”という指摘は重要である。つまり、“両首脳が米国で話をしたのは、米国が日本を守ると同時に日本側も米国を守るという相互防衛関係を築くという内容だったが、日本での話には後半部分が無く、片務的なものの様に国民に誤解を与えるものである”。
二枚舌は論理で説得する自信の無い人が使う常套手段である。国家の首脳がそのようでは、高い国際的信用を築くことは不可能である。私は、”集団的自衛権行使”は、相互義務関係を示しており当然日本側も米国を守るという意味であるが、それを口に出せないほど両首脳は説得力に自信が無いのだろう。
日本の置かれた国際的環境が大きく速く変化しているいま、戦後70年間放置され老朽化した憲法や防衛関連法を前にして、ステップbyステップでその変化に追随する実力が、現在の政治家にはないのである(注2)。
中国が南シナ海で岩礁のような島を埋め立てて空港を作り、そこを軍事基地化している。中国の軍事費の増加や海軍力の増強は、単に中国の防衛のためとは思えないレベルである。そして、中国の経済力は何れ世界のトップに立ち、AIIBが大きくなって、元を世界の決済通貨に育て上げることをたくらんでいるのだろう。そして、FRBの変わりを中国の中央銀行が将来果たすかもしれない(注3)。
世界の枠組みが大きく変化していることを説明しなければ、新安保法制の話など判らない。日本での新安保体制の国会議論は極めてプアである。国家国民の将来などより、自衛隊員の安全が大事だと言う野党(注4)を相手にして右往左往している。カーチス氏が言うまでもなく、“国家国民の安全保障制度が変わり、自衛隊員の危険性が増す可能性があっても、それは国家国民の防衛の為である”からだと正面から言い切ることが出来ないのだ。
注釈:
1)従来の自民党の有識者会議などでは、与党案に賛成する者ばかり集めていたが、それも同様に非難されるべきである。
2)優秀な人材をことごとく排斥してきたのは米国である。(孫崎氏の著書を参照)
3)21世紀の中華構想だろう。鼠族から宮殿を住まいにする人たちが共存する国、異なる宗教を持つウイグルや内モンゴル、出世は一族を豊かにするためと蓄財に励む幹部達、それらの巨大な矛盾を抱えた国を崩壊から守るのは中華思想ではないだろうか。
4)野党系図のもとにあるのは、コミンテルンの指示で動いていたと言われる勝間田清一氏の日本社会党である。反日なのは当然である。
2015年6月5日金曜日
憲法学者の怠慢
ニュースによると、衆院憲法審査会は4日、憲法学の専門家3人を招いて、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使を含む新たな安全保障関連法案について、参考人質疑を行った。その結果、与党が推薦した参考人をはじめ全員が「憲法違反だ」と批判した。
この件、論理的には憲法違反であることに異論はない。しかし、彼ら憲法学者が、国政の重要事項である新しい安保法制について、これまで自分の考えを発表してこなかったことに、私は大きな不満を感じる(注1)。
一般に知識人は、自分が意見出来ることにたいしては、積極的に発言する義務を有する。何故なら、彼らは知識人であることにより、社会からその地位と経済的厚遇を得ていると同時に、その義務を果たすことが、民主主義が正常に機能する条件だからである。
私のこの不満は蓄積したものである。何故なら、明らかに自衛隊は憲法違反の存在であるにも拘らず(注2)、彼ら憲法学者らと最高裁判事らは自衛隊違憲説を定説にまで成長させなかったからである。もし、憲法学者らがマスコミ等で自分の意見を積極的に公表していたなら、今頃憲法は改訂されており、このような騒動にはなっていなかっただろう。
私は非武装中立を主張する者ではない。国境が国際的に重要な意味を持つ以上、憲法を改訂して軍隊を持つべきだと思う。これまで憲法改正をしなかったのは政治の怠慢である。しかし、政治家を動かすのは有権者であり、それをリードするのは知識人達である。従って、その責任は政治家だけでなく、知識人特に大学法学部の憲法に関して知識を持つ者達にもある。それが不満の理由である。
政治家は、外国の圧力や国民の説得など(注3)、種々の面倒なことをしたくない為、改訂に動かなかった。その内外の圧力を撥ね除けるのに最も有効なのは、知識人達が過去の戦争に関する正鵠を得た議論をして、現行憲法の不備にたいするコンセンサスを作ることである。その中心的位置に居るべきなのは、今回の衆議院憲法審査会に招かれた参考人を始めとする、法律や歴史関係の分野で大学教授の地位にある者達である。
注釈:
1)与党は、政府の考えを否定するような学者を参考人に呼ぶ筈はない。従って、少なくとも与党推薦の学者は、これまでに自分の意見をマスコミやネットで公表してこなかったことになる。
2)第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
自衛隊はおもちゃではなく本物のミサイル、戦車、戦闘機、航空母艦などを持っている。軍隊でないという主張など通る筈がない。
3)米国を始め多くの国(国連常任理事国や韓国)が憲法を改正しないように圧力をかけるだろう。何故なら、日本などの第二次大戦の敗戦国は軍備を持たない方が良いからである。また、仮に憲法を改正して自衛軍を持ち、その後米国から自衛軍出動要請があった場合、憲法改正を国民から非難されて政治家生命を失う可能性が大きい。 追加:与党推薦の憲法学者も朝日新聞で安倍政権批判を書いていたという。従って、1)の注釈は成立しない。自民党の議員達の勉強不足ということになる。従って、このブログの前半引用(注1)までは意味を為さないが、このまま残す。日本の国会はガタガタなのだろう。呆れてしまう。こういうのを”あいた口がふさがらない”というのだろう。(6/6テレビ番組ウエークを見て補足)
この件、論理的には憲法違反であることに異論はない。しかし、彼ら憲法学者が、国政の重要事項である新しい安保法制について、これまで自分の考えを発表してこなかったことに、私は大きな不満を感じる(注1)。
一般に知識人は、自分が意見出来ることにたいしては、積極的に発言する義務を有する。何故なら、彼らは知識人であることにより、社会からその地位と経済的厚遇を得ていると同時に、その義務を果たすことが、民主主義が正常に機能する条件だからである。
私のこの不満は蓄積したものである。何故なら、明らかに自衛隊は憲法違反の存在であるにも拘らず(注2)、彼ら憲法学者らと最高裁判事らは自衛隊違憲説を定説にまで成長させなかったからである。もし、憲法学者らがマスコミ等で自分の意見を積極的に公表していたなら、今頃憲法は改訂されており、このような騒動にはなっていなかっただろう。
私は非武装中立を主張する者ではない。国境が国際的に重要な意味を持つ以上、憲法を改訂して軍隊を持つべきだと思う。これまで憲法改正をしなかったのは政治の怠慢である。しかし、政治家を動かすのは有権者であり、それをリードするのは知識人達である。従って、その責任は政治家だけでなく、知識人特に大学法学部の憲法に関して知識を持つ者達にもある。それが不満の理由である。
政治家は、外国の圧力や国民の説得など(注3)、種々の面倒なことをしたくない為、改訂に動かなかった。その内外の圧力を撥ね除けるのに最も有効なのは、知識人達が過去の戦争に関する正鵠を得た議論をして、現行憲法の不備にたいするコンセンサスを作ることである。その中心的位置に居るべきなのは、今回の衆議院憲法審査会に招かれた参考人を始めとする、法律や歴史関係の分野で大学教授の地位にある者達である。
注釈:
1)与党は、政府の考えを否定するような学者を参考人に呼ぶ筈はない。従って、少なくとも与党推薦の学者は、これまでに自分の意見をマスコミやネットで公表してこなかったことになる。
2)第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
自衛隊はおもちゃではなく本物のミサイル、戦車、戦闘機、航空母艦などを持っている。軍隊でないという主張など通る筈がない。
3)米国を始め多くの国(国連常任理事国や韓国)が憲法を改正しないように圧力をかけるだろう。何故なら、日本などの第二次大戦の敗戦国は軍備を持たない方が良いからである。また、仮に憲法を改正して自衛軍を持ち、その後米国から自衛軍出動要請があった場合、憲法改正を国民から非難されて政治家生命を失う可能性が大きい。 追加:与党推薦の憲法学者も朝日新聞で安倍政権批判を書いていたという。従って、1)の注釈は成立しない。自民党の議員達の勉強不足ということになる。従って、このブログの前半引用(注1)までは意味を為さないが、このまま残す。日本の国会はガタガタなのだろう。呆れてしまう。こういうのを”あいた口がふさがらない”というのだろう。(6/6テレビ番組ウエークを見て補足)
2015年6月4日木曜日
戦後70年記念談話とトルコ議会でのエルトゥールル号記念式典(雑感)
和歌山県串本沖の海岸で125年前、トルコ軍艦エルトゥールル号が遭難した。その時、地元の人の献身的な救助活動により69名が救助された。昨日のNHKニュースによればその記念式典が行なわれたトルコ議会の会場には、串本にある記念碑の写真を挟んで、トルコと日本の国旗が大きく掲げられた。周知の様に、その後の日本とトルコの友好関係が、30年前のイラン・イラク戦争の最中に、トルコ航空機がイランに取り残された日本人200人余の命を救うことにもつながった。
またテレビは、事故の現場である串本の記念碑の前で、一人のトルコ人が祈りを捧げる場面を写していた。インタビューされたその人は、日本に対する感謝の気持ちを、「トルコ人は忘れない」と言う言葉とともに、125年前の出来事に対して世代を越え、現在形で話していた。
この場面を見て、第二次大戦前後の日本軍の東アジアでの行為に関する、我々現代に生きる日本人の対応について、再び考え込んでしまった。つまり、記念式典などがあれば、少なくとも総理大臣や政府要人は、現在形で過去の日本の行為について、謝罪の言葉があって然るべきなのだろう。
幸せな気持ちで何か想い出す時に、感謝の言葉を口にするのは容易である。何故なら、その言葉は相手に通じ易く、一部は反射するように還ってきて、更に自分を幸せな気分にしてくれるからである。それに比べて、不幸な出来事に対する謝罪や悔恨の言葉を口にするのは困難なことである。その辛さの一部もやはり相手側から反射して、その言葉を口にする人の気持ちを更に暗くする。
その“しんどい”仕事を、やはり日本の代表である総理大臣は、しなければならないのだろう。
もちろん、過去の戦争が日本の正義の戦いだと思うのなら、その必要はない。しかし、あの戦争の始まりは、日本の満州侵略とそこからの中国大陸への侵攻であったことに異論はないだろう。リットン調査団の報告を受けて行なわれた国際連盟の決議を不服として、松岡洋右が国連を脱退した時から、日本国の命運はまるで坂道を転げ落ちるように敗戦へと向かった。殆どの日本国民は、正義の戦いとは思っていない筈である。もちろん、日本国の危険性を最小にすることを目的にした行為だと当事者は主張したが、それは大陸の人たちの不幸が著しく増加させることを無視したものであった。その行為は、日本を含めて東アジア全域の人にとって、危険性を著しく増加させる不幸な結果に終わった。
ところで、その背後について最近考えている。つまり、身勝手な皇国史観を抱き込んだ尊王攘夷思想の延長に過去のアジア侵略があったのではないだろうか。「随分離れていて関係ないのでは?」という人には、「明治元年から満州事変まで、わずか63年であり、敗戦から今年2015年までの戦後70年よりも、かなり時間的に短い」と答えたい。
明治からの3/4世紀は、江戸時代の安定した日本の姿(幕末維新、井上勝生著、岩波)からは考えられない。その過激な日本は、明治の混乱の際に幕末の下級武士や下級公家らの活動などにより、日本に導入されたという意見がある(明治維新という過ち、原田伊織著、毎日ワンズ)。あの戦争は、その人たち”維新の志士”から引き継いだ考えを持つ、昭和の軍人と政治家たち(薩長)の過ちの結果であるというのである。東アジアの国への謝罪の言葉は、同時に日本の近代史を総括すれば、自然に口から出てくるのだろう。
長州出身の安倍さんには、そのことを考えて欲しい。
またテレビは、事故の現場である串本の記念碑の前で、一人のトルコ人が祈りを捧げる場面を写していた。インタビューされたその人は、日本に対する感謝の気持ちを、「トルコ人は忘れない」と言う言葉とともに、125年前の出来事に対して世代を越え、現在形で話していた。
この場面を見て、第二次大戦前後の日本軍の東アジアでの行為に関する、我々現代に生きる日本人の対応について、再び考え込んでしまった。つまり、記念式典などがあれば、少なくとも総理大臣や政府要人は、現在形で過去の日本の行為について、謝罪の言葉があって然るべきなのだろう。
幸せな気持ちで何か想い出す時に、感謝の言葉を口にするのは容易である。何故なら、その言葉は相手に通じ易く、一部は反射するように還ってきて、更に自分を幸せな気分にしてくれるからである。それに比べて、不幸な出来事に対する謝罪や悔恨の言葉を口にするのは困難なことである。その辛さの一部もやはり相手側から反射して、その言葉を口にする人の気持ちを更に暗くする。
その“しんどい”仕事を、やはり日本の代表である総理大臣は、しなければならないのだろう。
もちろん、過去の戦争が日本の正義の戦いだと思うのなら、その必要はない。しかし、あの戦争の始まりは、日本の満州侵略とそこからの中国大陸への侵攻であったことに異論はないだろう。リットン調査団の報告を受けて行なわれた国際連盟の決議を不服として、松岡洋右が国連を脱退した時から、日本国の命運はまるで坂道を転げ落ちるように敗戦へと向かった。殆どの日本国民は、正義の戦いとは思っていない筈である。もちろん、日本国の危険性を最小にすることを目的にした行為だと当事者は主張したが、それは大陸の人たちの不幸が著しく増加させることを無視したものであった。その行為は、日本を含めて東アジア全域の人にとって、危険性を著しく増加させる不幸な結果に終わった。
ところで、その背後について最近考えている。つまり、身勝手な皇国史観を抱き込んだ尊王攘夷思想の延長に過去のアジア侵略があったのではないだろうか。「随分離れていて関係ないのでは?」という人には、「明治元年から満州事変まで、わずか63年であり、敗戦から今年2015年までの戦後70年よりも、かなり時間的に短い」と答えたい。
明治からの3/4世紀は、江戸時代の安定した日本の姿(幕末維新、井上勝生著、岩波)からは考えられない。その過激な日本は、明治の混乱の際に幕末の下級武士や下級公家らの活動などにより、日本に導入されたという意見がある(明治維新という過ち、原田伊織著、毎日ワンズ)。あの戦争は、その人たち”維新の志士”から引き継いだ考えを持つ、昭和の軍人と政治家たち(薩長)の過ちの結果であるというのである。東アジアの国への謝罪の言葉は、同時に日本の近代史を総括すれば、自然に口から出てくるのだろう。
長州出身の安倍さんには、そのことを考えて欲しい。
2015年6月2日火曜日
政治問題を考える場合、もっと弁証法的手法を導入すべき
弁証法的手法は、ある問題について客観的判断を求める際に便利である。弁証法といってもここでは対話法と言い換えても良い位の意味で用いている。つまり、裁判の弁護側と検察側の様に、夫々の立場を代表する役割を二つのグループに与えて、その立場を主張させ、為政者を選ぶ国民や選ばれた為政者が、裁判官的視点でその議論からその問題についての判断材料を得るのである。
つまり、有識者会議を組織する場合、有識者に自分の学説や主張は別にして、二つの立場のどちらかになってもらう。例えば、「尖閣諸島の領有権を中国が主張しているが、それに対して日本はどのような対応をとるべきか?」という政治課題がある。それについて日本で聞くのは殆ど、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、中国の主張は全く根拠に欠けるものである」である。しかし、論客に自己の主張は一旦棚上げにして、双方の立場で議論してもらうと、もっと客観的な考察が可能かもしれない。(注1)
現在の様な世論で定着しては、それは誘導された世論かもしれないという不安が残る上に、今後の日中両国関係として、両政府間の対立と双方の国民感情の悪化しかないという方向以外に出てこない。それで良い筈が無いと思う(注2)。
過去の日本の歴史を見ても判るが、日本は一丸となって勝つか負けるかのどちらかであり、負ければ悲惨な数十年があり、勝てばそれが対日国際感情の悪化と将来の敗戦の準備となる。ここで、政府、マスコミ、知識人すべてが、双方に役割を割り振った形での対話を進めて、複眼思考が出来る国にした方が良いと思う。
前回の時事放談については既に前回ブログに書いたが、そこで藤井氏が屢々言ったのは、「あなたは判っている人だから、あなたと(議論を)やるのは嫌なんだが」という言葉である。日本人は、前にも書いたが、議論と討論と口論と喧嘩の区別がなかなか難しい言語環境にある。元大蔵官僚の藤井氏ですら、議論すべき最高の相手である筈の高村氏と、議論は嫌だと本音が出てしまう。
米国(西欧)では、サンデル教授の熱血講義を聞いた人は判っただろうが、議論はむしろ楽しむものである。何故なら、より高い理解に双方が辿り着くからである。一度、そのような議論を有識者でやってもらいたいものだ。中国の利益を代表する側の人も、そのような役割だから、右翼に狙われる危険性はない。
南沙諸島の問題でも、日本が戦時中占領しており、終戦後台湾の領有になったという経緯があると、何処かで読んだ。もしそうなら、台湾の領有権主張にはある程度根拠があり、台湾が中国の一部であるのなら、中国の主張にも微小かもしれないが、ある程度の根拠があるかもしれない。その件も、上記のような有識者会議を組織すれば、新しい理解が産まれるかもしれない。
注釈:
1)イスラエルかどこかで、全く反対の命題を二つ与えて、「それらの命題が夫々正しいと主張するよう、論理展開せよ」という試験問題があったという記事を読んだ。
2)共産党や社民党が居るではないかという意見があるだろう。しかし、かれらはアンチテーゼになり得ない。単に国会に於いて自分の議席を維持するという観点で主張しているからである。
つまり、有識者会議を組織する場合、有識者に自分の学説や主張は別にして、二つの立場のどちらかになってもらう。例えば、「尖閣諸島の領有権を中国が主張しているが、それに対して日本はどのような対応をとるべきか?」という政治課題がある。それについて日本で聞くのは殆ど、「尖閣諸島は日本固有の領土であり、中国の主張は全く根拠に欠けるものである」である。しかし、論客に自己の主張は一旦棚上げにして、双方の立場で議論してもらうと、もっと客観的な考察が可能かもしれない。(注1)
現在の様な世論で定着しては、それは誘導された世論かもしれないという不安が残る上に、今後の日中両国関係として、両政府間の対立と双方の国民感情の悪化しかないという方向以外に出てこない。それで良い筈が無いと思う(注2)。
過去の日本の歴史を見ても判るが、日本は一丸となって勝つか負けるかのどちらかであり、負ければ悲惨な数十年があり、勝てばそれが対日国際感情の悪化と将来の敗戦の準備となる。ここで、政府、マスコミ、知識人すべてが、双方に役割を割り振った形での対話を進めて、複眼思考が出来る国にした方が良いと思う。
前回の時事放談については既に前回ブログに書いたが、そこで藤井氏が屢々言ったのは、「あなたは判っている人だから、あなたと(議論を)やるのは嫌なんだが」という言葉である。日本人は、前にも書いたが、議論と討論と口論と喧嘩の区別がなかなか難しい言語環境にある。元大蔵官僚の藤井氏ですら、議論すべき最高の相手である筈の高村氏と、議論は嫌だと本音が出てしまう。
米国(西欧)では、サンデル教授の熱血講義を聞いた人は判っただろうが、議論はむしろ楽しむものである。何故なら、より高い理解に双方が辿り着くからである。一度、そのような議論を有識者でやってもらいたいものだ。中国の利益を代表する側の人も、そのような役割だから、右翼に狙われる危険性はない。
南沙諸島の問題でも、日本が戦時中占領しており、終戦後台湾の領有になったという経緯があると、何処かで読んだ。もしそうなら、台湾の領有権主張にはある程度根拠があり、台湾が中国の一部であるのなら、中国の主張にも微小かもしれないが、ある程度の根拠があるかもしれない。その件も、上記のような有識者会議を組織すれば、新しい理解が産まれるかもしれない。
注釈:
1)イスラエルかどこかで、全く反対の命題を二つ与えて、「それらの命題が夫々正しいと主張するよう、論理展開せよ」という試験問題があったという記事を読んだ。
2)共産党や社民党が居るではないかという意見があるだろう。しかし、かれらはアンチテーゼになり得ない。単に国会に於いて自分の議席を維持するという観点で主張しているからである。
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