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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2018年12月29日土曜日

極東アジアを第三次世界大戦の現場にしないように日本は独自の努力をすべき

1)日韓の問題:
韓国の軍艦が自衛隊哨戒機に向かってレーザー光で照準を合わしたとするケースで、日本側は「証拠画像」とする動画を公開した。韓国軍艦が北朝鮮の漁船員を救助する現場に、日本側哨戒機がその様子を撮影するために相当近づいたのだろう。そして、韓国軍艦は、自衛隊哨戒機を追い払う目的でレーザー照射したのだろう。 https://www.jiji.com/jc/movie?p=n001265

この動画では、自衛隊員は終始冷静に対応しているように見えた。何度か、「韓国軍艦船舶番号(Hull Number) 971。こちら日本Navy。我々はそちらのFCアンテナがこちらに向けられたことを確認した。何の目的なのか」という問いかけたが、その都度長い沈黙が後に続く。その後、「避けたほうがいいですね」という隊員の言葉で、自衛隊機が現場を徐々に離れたようだ。日韓の間に立ちこめる“苛立ちの空気”が伝わってくるように感じる。ただ、到るところに入る字幕「確認作業中」の時間帯でどの様な音声が入っているのか気になる。

動画では正確な高度やそのレーザー光が見えている訳ではないので、直接的証拠にはならないという韓国側の主張もある。しかし、そのように主張するには、あの沈黙から無理があるのは確かだろう。応答音声が入る設定になっていたとすればだが。しかし、攻撃の意図など皆無であることは確かだろう。http://japan.hani.co.kr/arti/international/32441.html

韓国軍側には、人道的な見地から当然のこととは言え、北朝鮮の漁船員救助の様子を日本側に撮影されることに、一種の不快感があったのだろう。それは、北朝鮮政府との何らかの接触と観られる可能性を意識したのかもしれない。この件、日韓双方はこの辺りで沈静化すべきである。日本政府も、韓国軍と日本自衛隊の長い協力関係に十分配慮すべきで、支持率の下がっている文在寅の韓国政府を韓国の全てと考えないことが重要であると思う。

安倍総理は頭にきて、渋る防衛大臣を強引に押し切り、動画公開を指示したと記事には書かれている。国家のトップが頭に来るというのは、我が国が傲慢か無知かの何方かである方に率いられていることになるので、この総理周辺に関する報道の部分は誤報であってほしい。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181228-00000110-jij-pol

2)北朝鮮との関係:
最近、北朝鮮と米国の交渉が進んでいないようである。そして、マティス国防長官がトランプ政権から去った。このことは、米朝関係が今後どのように進むのか、非常に深刻なことになりはしないか、心配である。 https://news.yahoo.co.jp/byline/iizukamakiko/20181228-00109207/

マティス辞任は、トランプが相談無くシリアからの米軍撤退を指示したことが直接原因だという解説が多い様だ。それは、ロシアとの衝突を中東で避けて、対立関係を、一点つまり中国に集中するためという解説もあった。(北野幸伯氏メルマガ)それなら、上記ヤフーニュースが懸念するように、米軍は韓国から撤退しないだろう。

もしそうだとすると、朝鮮半島のポイントは、トランプが北朝鮮を日本や韓国が納得するように如何に軟着陸させるかということになる。それには、トランプが北朝鮮との間で、北朝鮮の非核化(朝鮮半島の非核化)を段階的に行うという合意を、日韓の同意を得たのちにすることだろう。おそらく、そのためには米軍核兵器の日本国内持込を、日米韓で合意決定することが必要だと思う。

それには、日韓の関係を緊密な形に修復することが前提条件となる。そう考えると、今回のFCレーザー照射を大きく問題化するのは愚策だと思う。自衛隊も、官邸は彼らよりもかなり素人的であることを十分考えて、中心的情報のみに限って流すべきだと思う。この件、従来の歴史認識問題とかでの対立とは異なり、現在進行型の問題である。日韓双方は、先ずその事を確認した方が良いと思う。

北朝鮮も、最近はどうしたら良いのか分からない状況だろうと、危惧する。この寒空に、恐らく凍死者も出ているだろう。その情況下で不足するエネルギーに苦しんでいるだろう。日本側としては、人道的な対応も、小出しにでも良いから考えるべきだと思う。その中で、小さな解決の糸口が見つかる可能性もあると思う。

米国の大きな戦略に協力することも大事だが、韓半島と日本という地域の安定に対する独自の寄与も日本は考えるべきではないだろうか。その姿勢は、日韓両軍の猜疑心と警戒心の空気を一掃する可能性もある。兎に角、第三次世界大戦の現場にこの地域をしてはならない。 (以上、素人のメモとして書きました。)

2018年12月28日金曜日

死刑執行を報じる毎日新聞の記事及び死刑制度について

昨日2名が死刑執行された。ヤフーニュース欄に掲載された毎日新聞の記事(和田武士の署名がある)は、二人の死刑執行に関連して、“今回の執行で「死刑制度維持」という政府の姿勢が改めて鮮明になった。”と報じた。続いて、国際的に批判が多いと書き、最後に、“政府は単に執行を重ねるだけではなく、制度の存廃にとどまらない幅広い議論を喚起するためにも、情報公開を進めていく必要がある”と結んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181227-00000077-mai-soci

これは死刑制度に反対する勢力が、その廃止を目論む政治的プロパガンダとして書いた記事だろう。報道機関が少なくともニュースとして流す内容の記事ではない。何故なら、今回の執行は、日本という法治国家において、法に従ってなされただけだからである。死刑制度の是非を議論するのなら、ニュースとしてではなく、今回の死刑執行からは一度離れて、社説或いは論評記事として独立させるべきである。

文章を書き、それを発表することを業務としているからには、その辺りのことは十分知っている筈である。つまり、毎日新聞は一般紙ではなく、何かを目論む一派の機関紙的存在のように思える。購読は、それを承知の上ですべきである。

1)死刑制度について: 死刑制度の是非が議論されて久しいが、内閣府の調査によると、世論の80%は死刑を容認している。従って、それを法的な問題として深刻に議論するとしたら、それは専門家だけだろう。https://www.nippon.com/ja/features/h00101/ 

日本では、今回の死刑執行を国内問題として批判する根拠は全く無い。執行の命令書への署名は、山下法務大臣が本来の業務をこなしたに過ぎない。ただし、外交問題(つまり政治問題)の一つとしては、後で述べるように議論の余地はあると思う。

ここでは、裾野を広くとって一市民の立場から死刑制度を考えてみたので、以下にそれを書く。先ず、(素人の浅はかな知恵と言われるかもしれないが)ウィキペディアで死刑制度の議論を見てみた。そこには、社会契約説、人権、誤判の可能性、犯罪被害者への配慮、死刑の犯罪抑止効果、世界の趨勢、社会が負担するコストなどの側面から死刑制度の是非についての議論が整理されている。その項目を以下利用する。(捕捉1)

この中で、一番の問題は誤判の可能性である。従って、その犯罪と裁判に関する情報の公開は死刑制度を維持する上での必須要件だろう。更に、その情報を一般民が理解する時間的余裕を、結審更に執行までに置き、疑義があるとの主張があれば、それを裁判所或いは行政府は吸い上げる制度を作るべきだと思う。その情報公開は、一審終了後になされるべきだと思う。裁判権も本来、一般市民の権利に由来する筈だからである。誤判の疑いが無いと仮定して以下議論を続ける。

上記議論すべき諸要素の内、犯罪被害者への配慮と死刑の犯罪抑止効果についての深い議論は不要だと思う。犯罪被害者として残されているのは、被害者家族だろう。被害者家族については、経済的困難が生じれば、それに対する保障を社会福祉の観点からすべきである。被害者家族の報復欲求は当然存在するが、社会が法的処罰をする以上それは許されない。

犯罪抑止効果は、今後の同一犯人による類似犯を防止するという意味では、終身刑を制定することの議論と同じである。しかし、最後に議論するように、死刑が犯罪人の社会からの排除であるとすれば、排除した者を経費を掛けて長期隔離する必要はない。また、その抑止効果が、当事者以外の同種犯罪を抑止するという意味なら、それは死刑制度の副次的効果である。死刑制度を、「社会と個人の関係」の一つである「犯罪と処罰の関係」として根本的に議論する際、主なる目的について結論を導き出すのが先ず大事だと思う。

やっかいなのは、「世界の趨勢」であり、それに伴う国際的圧力である。国際的圧力には、「世界の中の日本」が短期的及び長期的に考えて、利益を損なわないように配慮すべきである。(補足2)

2)最後に残ったのは、社会契約説及び人権との関係での死刑制度の議論である。一言で私の考えを言えば、「一般の善良なる市民を自己の利益のみを優先して殺害した者は、社会に参加しその恩恵を受けて生きるという生来の権利を放棄した」とみなせる。社会の外にあるヒトは、動物としてのヒトに過ぎず、当然人権など存在しない。

その社会に属することを拒否したヒトは、社会から最も明白な形で排除されるのは自然である。死刑が相当とされるような例えば無差別殺人等は、国家と国家の戦争や、政治的テロリズムと似ている。現在の国家体制の下にある社会を、基点に内外の差があっても、否定するという点でこれらは全て同じである。つまり、テロに銃撃で応じることと、無差別殺人犯を死刑にすることは同等である。(補足3)

死刑廃止を人権問題として取り上げることは、上記考えを採用すれば不思議なことであると言わざるを得ない。「人権を放棄した者を排除する機能を社会が持つことは、人権問題である」という不思議な主張となるからである。この人権を背景にした死刑廃止論の発生理由と経緯が私にはさっぱりわからない。(捕捉4)それは単に残忍な光景を想像することで、気分が悪くなるというナイーブな人たちの主張ではないだろう。

一つの仮説は、それは高度に計画された国際的な政治的企みだという考えである。それは、民主主義という理想論と同時に、世界をコントロールするために出されたものだろう。

民主主義は先進国の看板にするには相応しいが、それを全面的に採用すれば国家がまともには機能しないことは明白である。(捕捉5)まともに運営されている国家では、現実的に国家を運営する制度が別に作られている。日本では米国追従路線とそれをよしとする官僚制度であり、米国では多くのシンクタンクと政治的に活動する報道機関などによる世論誘導、更に、間接民主制による国家元首の選任であると思う。

日本政治に迷走があるとすれば、安倍内閣による官僚独裁の廃止への動き(補足6)が原因であるし、米国政治に迷走があるとすれば、一般市民の考えでトランプ大統領を選任したことが原因だろう。

範囲外への人権思想の適用(誤用)、わざと諸外国政府に統治能力の低下を画策するための剣として使われているに過ぎない。統治能力を欠く様に民主政治を押し付けたアラブの春のケースと同様、強国による思想撹乱である。そのように私は、一市民として考える。 補足:

1)ウィキペディアには死刑容認論として、社会契約説を最初に確立したトマス・ホッブズ、ジョン・ロックやカントなどの啓蒙思想家の考え、「三大人権(自然権)である生命権と自由権と財産権の社会契約の違反(自然権の侵害)に相対する懲罰・応報として死刑・懲役・罰金を提示している。死刑は殺人に対する社会契約説の合理的な帰結である」を記している。私はこの意見に概ね賛成である。ただ、「懲罰・広報として」という部分には反対である。社会との契約を破棄したもの対して、社会内の権威が懲罰を加える必要はない。懲罰は社会復帰可能な者のみに対する教育的行為だからである。死刑は、社会からの排除であり二度と社会復帰はありえないからである。つまり、人を襲った熊にたいする駆除と同様の行為である。

2)それは、捕鯨の問題と同じであり、世界が仮に非常にいい加減な分析の下であっても、強力に政治圧力をかけてくれば、それに沿う判断が必要となる場合もある。それは戦争を含んだ外交の問題である。日本にまともな軍備が無い以上、世界とまともには外交できない。米国のような軍事力があれば、IWCなどからは当然脱退すべきであり、日本古来の捕鯨文化があるとすれば、それを守るべきである。

3)テロリストを捕捉すれば、死刑廃止の国では死刑にしないかもしれない。その一方で、国家(を操っている者たちの)体制に有害と見なした者は、裁判などせずに暗殺している。つまり、人権を持ち出して死刑廃止を主張している人たちは、政治的企みで行っているに過ぎない。そのように明言できるのは、トランプ大統領もケネディー元大統領暗殺事件の資料公開をしなかったからである。この件、議論されないのは、強い圧力で封殺したからだろう。

4)捕捉1にウィキペディアの社会契約説を唱えた大家たちの議論を紹介した。このような議論があるにも関わらず、社会契約を放棄したものの人権をも守るべきだという思想を流布するのは、大きな政治的企みだからである。

5)民主政治の先進国である英国で、国民投票という民主的な政治手段を採用した後、国家が迷走をはじめた。国民投票で決定したように、EUからの脱退が未だになされていない。国民投票をやりなおすべきだという議論まで出る始末である。大衆迎合主義と民主主義の区別は、一般につけられないのだが、失敗したケースをラベルする目的で大衆迎合主義(ポピュリズム)という印字が大事に保存されている。

6)内閣に人事局を設け、官僚の人事を各省庁の事務次官から取り上げて、内閣の下に置いた。それは、内閣の暴走を可能とする危ない組織改編である。

2018年12月25日火曜日

社会は常に個人との摩擦を内包した不安定な存在である:介護ヘルパーによる現金窃盗事件再考

この文章を書くに至った動機について:

2016年2月に“とくダネ”で放送された介護ヘルパーによる現金窃盗事件についてのブログに何度かコメントを貰った。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/02/blog-post_11.html それらのコメントでは、介護ヘルパーに対する厳しい意見を頂いたのだが、私の記事の趣旨については必ずしも理解いただいていないという印象を持った。そこで、ここで再度それらのコメントに答えるという意味で、記事を書く。

この種の事件は、全国で数多く生じているものと考えられる。昨日貰ったコメントでも、「カメラがなければ年寄りの被害妄想と思われ信頼されない。認知症になったら身ぐるみ剥がされるリスクもありそうで、自分自身の将来も心配になった。逆に稼ぎたい人間は老人を食い物にも出来る時代かもしれないです。」という文章があった。

私も、既に老人と言われる年齢となり、近い将来介護を受ける可能性もあり他人事ではない。そこで、3年近く前に書いたブログ記事の真意を説明したい。

社会において、故意或いは偶発的なルール違反が一定の割合で発生するのは、社会の本質的性質である。そこで、ルール違反をどの様に罰するのが良いのか?ルール違反を厳罰に処罰すればするほど、住みやすい社会となるだろうか?一定以上の処罰は社会をむしろ不安定にしないか?そもそも、法は何の為に存在するのか?ルール違反を処罰する基準を考える場合、その様な疑問に先ず答えることが重要である。

1)社会の基本的構造:

社会と個人の問題を原点に戻って、そこから考える。我々は動物であり、動物はその生存と繁栄(繁殖)を利己的な存在とすることで維持してきた。(補足1)その一方、その利己的性質を一部返上し、他人同士で協力して社会をつくり、利己的に生きるよりも大きな環境の改善や種としての繁栄を実現した。その過程で出来た社会生活の考え方や様式と方法が、文化であり、文明である。

現在の社会システムは、無数とも言える役割(つまり仕事)を分業し、個人が受け持つことで成立している。そして社会は、それら仕事に要求される知識や能力などを考慮して、給与などの待遇を設定し、個人を適材適所に個人の意思に従って分配する。もし、犯罪がある一定の仕事に集中して生じているとすれば、その社会が設定する仕事の内容とそこにつける個人の待遇などに問題がある可能性が高い。

犯罪多発を理由に、その分野に生きる個人を攻撃排除するのは、その個人の資質に本質的欠陥がある場合に限るべきであり、それは社会の機能維持における最終的手段であるべきである。その社会の暗黙の基本的メカニズムを理解し、社会を運営しなければ、犯罪に会う人と犯罪を犯す人の両方を大量に生み出すことになるだけで、一向に社会の改善は実現しないことになる。そのような不幸な人を生み出すだけの社会は、政治の責任で改善しなければならない。

そこで常に問題になるのが、それぞれの分野における個人の貢献と評価に関する不平等である。社会を運営していく上で常に配慮しなければならないことは、社会はその本質として、個人との間で摩擦を生じるということである。その摩擦が蓄積拡大すれば、社会を破壊するポテンシャルとなる。

つまり、社会は常に個人の動物としての生存欲求を否定する方向の圧力を、法或いはルールで個人に加えていることで、正常に機能している。ある個人に対して、社会つまりその個人以外の全てが、その個人という動物の生存欲求を押さえつける力を常に加えているということである。別の場面では、別の個人がそのような圧力を社会から受けることになる。特定の場面では、ルール違反は厳罰に処するべきだと多くのその他の社会構成員は言うのだが、それは諸刃の剣を振るっていることを知るべきである。

圧力をかけるのは、動物の生存欲求に沿った行動であり、自然且つ簡単だからである。別の場面で、社会から圧力を受ける側となった時、場合によっては土下座して許しを請うこともある。その際、想像力がある人は、自分が嘗て犯罪的振る舞いをした個人を攻め立てたことを思い出すだろう。

そのような場面に遭遇しない人は幸せである。その幸せが、たまたま自分が高待遇で社会に受け入れられているだけかもしれないのである。その個と社会の摩擦の場面を想像する力がなければ、社会を維持し発展する知恵など生まれない。社会は常に個人による破壊ポテンシャルの発生により不安定に存在するのである。それが、社会と個人の基本的関係である。

2)想像力の欠如は自分で自分の首を締めることに繋がる:

経済的に豊かな人は、老人の介護などには就かないだろう。何故なら、あまりにも待遇が低く、仕事がきついからである。自分と家族の生活を維持するために、本意ではないがその仕事に就き、収入を得て生計を立てているのである。その立場に立つ想像力があれば、監視カメラを着けるのは当然の防御措置だとしても、数千円の窃盗事件で賠償の約束をして土下座する介護人を、警察に引き渡して当然だとは思わない筈である。

多くの犯罪を隠して存在するのが社会、特に日本型社会、である。それは、犯罪と処罰が不均衡であるという面を、そして敢えて犯罪者を生み出さなくても良いケースも多くあることを、昔の人は直感的に知っていたからである。人間には想像力があり、その程度のことは事を荒げる必要などないだろうという知恵も働いていたと思う。(補足2)

勿論、その一方で安易に私的に犯罪的行為をもみ消してしまうのは、社会の改善の機会を無くする危険性がある。現在でも、社会と個人の関わりにおいて本質的に境界線上を歩くことを要請された仕事も存在する。(補足3)その一つが訪問介護の仕事だろう。

前回記事を書いたときに、社会がイェローカードを示し損害賠償で済ませておけば、その人は社会により人生を破壊されないで済んだだろう。また社会もその他の仕事に移すだけで、その人を善良な市民として受け入れることが出来ただろうと感じたのである。

社会のルールは、個人の人生を破壊するために存在するのではない。むしろ、その逆である。多くの境界上(塀の上)を歩むことを要求されている個人を、社会が全て敵にまわせば、社会そのものも破壊されるだろう。レッドカードしか審判が持たないのでは、サッカーの試合が成立しないのと同様、社会も非常に住みにくいだろう。

3)二つの社会:

犯罪の原因を、個人の所為だけにするのも、社会の所為にするも両方とも問題である。それは、本当の犯人を逃してはいけないという意味である。日本のルールは、個人を処罰のためだけにあるのではなく、社会構成員が互いに協力する体制を維持するためにある。つまり、ルール或いは法が、個人の行動規範としての役割だけを果たす様に、社会を構成する個人全てが努力をする必要がある。

日本文化の下、人々は善意を前提とする社会をつくり、それを維持する努力をしてきた。それは、道徳文化により事前に犯罪を防止する社会である。一方、世界の多くは、特に異文化が共存する社会では、悪意を前提とする社会であり、法により処罰することで犯罪を防止する。

前者、つまり日本の伝統的社会では、一旦犯罪者の烙印を押されると、それが軽微な犯罪によっても、その個人は社会で生きることが非常に困難になる。後者では、社会が正常な機能を保つために犯罪者という犠牲者を必要とするが、この場合は、しかしながら、犯罪者には更生のチャンスがより広く作られているのが普通である。

日本は、西欧型の多民族共存型社会が採用する、社会と個人のあり方を徐々に採用しつつあるように思う。急激な変更には犠牲者が付き物となる。前回の投稿文では、そのような犠牲者の数を出来るだけ減らすべきだと言ったのである。

有効な手段として、一つ明白なのは、待遇改善である。給与面での改善は、必然的にその仕事に対する社会の目に変更を加える。その両方が、その仕事の待遇改善に役立ち、結果として犯罪率を減少させるだろう。更に、介護ロボットの導入が有効な手段である。しかし、決して外国人の受け入れではない。(補足4)異なった文化の下で育った人を大勢いれることは、上記社会と個人の軋轢は社会のあらゆるところに顕在化し、治安悪化に繋がるだろう。

GDPは増加するが、その多くは監視システム等の治安維持システム(セコムの株は上がるだろう)、訴訟に関する後ろ向き経費などとして計上されるだろう。そして、個人は一層貧しく不安な生活を強いられるだろう。入管法の改訂は、現在の政治家の殆どが無能だということを証明している。

補足:

1)それは、例えば戦場という極限状況に人を置けば、その本性が現れることを歴史で学ぶだろう。3年以上前になるが、次に引用の記事を読んで頂きたい。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/blog-post.html

2)昔は2-3世代が同居することが、日本の家庭の基本的形態だった。現在では、1-2世代の同居が基本である。その場合、60代以上の高齢者の知恵が次の世代に円滑に渡されない。所謂世間知らずが世間、つまり社会、を形成することになる。知恵は、社会の建前のみを表面的に教える学校教育では、伝達されない。

3)認知症になった老人と多額の現金が施錠なしの棚に置かれた部屋で、一人で介護する仕事は、恐ろしい仕事である。その他に非常にわかりやすい例は、ピンクトラップが仕掛けられた国の外交官の仕事なども、非常に恐ろしい。そのような“塀の上”を歩まなくても一定以上の報酬を得る人は幸せである。

4)外国人の受け入れは、この善意を伝統とした社会という日本の伝統文化を破壊するだろう。社会は、必然的に西欧型の契約社会と法による処罰で機能を維持する形に変えなくてはならない。

2018年12月23日日曜日

戦後体制からの脱却は、憲法改正ではなく選挙制度の改革から始めるべき

1)戦後レジームからの脱却は安倍総理が政権についた動機だと言われる。しかし、その宣言は、欧米から歴史修正主義として批判の対象になった。ヤルターポツダム体制からの脱却となれば、第二次大戦とその中の日本について詳細な歴史的評価をしなければならない。それもしないで、戦後国際レジームからの脱却と言えば、欧米から批判されるのは当然だろう。

日本中でも右派と一般に謂われている人の多くは、戦後レジームの中で改正すべき点として、現在の日本国憲法とそれに従ってできた日本国の骨組み、特に自衛軍の創設(自衛隊の改称)と日米安全保障条約の下での防衛体制整備などを考えているだろう。戦後国際レジームに抵触しないのなら、その範囲において改訂することは、既に未来志向の関係にある欧米から干渉される筋合いはない。しかし、東京裁判史観はおかしい(実際にはおかしいとしても)とか、首相も天皇も靖国参拝することは当然だと言いだせば、国際的非難だけでなく、国内からも批判が出るだろう。

最近ジョージ・ナッシュ氏が編集したフーバー大統領の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』が刊行され、その日本語訳も出版されている。(補足1)私も、その解説本とも言える本(渡辺惣樹著、「誰が第二次大戦を起こしたのか」草思社)を読み、その感想をブログに書いた。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/blog-post_20.html https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/ii.html

当然、日本独自にあの大戦とそこに至る歴史に関する体系的な評価を作り上げることは大事である。ただ、それが東京裁判史観と一致しない場合でも、今後の国際情勢とその中の日本にとって利益になるかどうかを考えた上でなければ、戦後レジームからの脱却などという宣言をすべきではない。それが単なる右翼と、現実主義&保守主義の区別だと思う。

仮に、上記国際的な歴史修正が行われたとしても、惨敗だった先の戦争を指揮した者の責任を明らかにしないままに、総理大臣以下国政担当者は靖国神社に参拝すべきではないと思う。なんとか、国立墓地を設立し、そこに戦死者を祀り、国民が自由に参拝できるようにすべきだと思う。

2)日本の停滞はどこにあるかと言えば、政治の貧困である。元外務省の佐藤優氏は、「日本の官僚たちは心の中で政治家などバカにしている」と躊躇なく話しているように、どう考えても政治家のレベルは非常に低い。 https://www.youtube.com/watch?v=v6OomhRhUj0&t=837s

一方、戦後70年経ち、日本が国際社会の中で一応の存在感を持ち得ているのは、政治家が何もせずに米国追従路線をとったことと、その背景で日本が経済力をつけたこと、更に、霞ヶ関の官僚たちが一定のレベルにあったからだろう。しかし、戦後日本のレジームからの脱却となると、政治家としての能力が要求される。その壁に跳ね返されて元の自民党路線に戻った姿が、安倍総理の米国議会での演説だったと思う。その範囲の評価では、立派な演説だったと思う。

日本国憲法の改正も十分な準備が必要だが、現行憲法でも日本国には多くの解決すべき問題が残っている。それらは、①日本の国会議員が真に日本国民を代表するような選挙制度が確立されていないこと、②日本に三権分立の体制を確立していないこと、などである。例えば、最高裁が判断したように、集団的自衛権を持つ自衛隊(self defense force)が違憲でなければ、別に憲法を改正する必要はない。(補足2)

逆に、日本の裁判所が正常に機能していないとすれば、憲法など法律を整備しても何にもならない。日本の主権と、現在の国家体制においてそれを代表する元首をどう規定するのか、そのあたりの議論がなければどうにもならない。総理大臣が国家元首であるのなら、それは国民の意見が直接反映する選挙によらなければならない。

憲法改正=9条改正という類の憲法改正など、現時点では不要である。

3)先ず為すべきは、日本の国会議員を日本国民の真の代表とすることである。そのためには一票の格差を全廃すること、更に、小選挙区制を大選挙区制にすることの2点の改正が必要だろう。

国家機構が正常に機能するためには、国家機構が知的に成熟した国民の総意に基づく必要がある。知的でない国民が多数居たとした場合、或いは外国の利益を代表する一派が国民の中に混在しているとした場合、その一票が選挙結果に反映しない工夫が必要である。その一つが間接民主制である。(補足3)しかし、小選挙区制では選挙民と被選挙者との距離が近すぎて、地域の利益を超えた国家全体を考える人物が選ばれない可能性が高い。(補足4)

一方、全国区では極端な意見の人たちや、上記外国の利益を代表するような人たちも、強い組織を背景に数人の代表を国会に送ることが可能となる。それらの議員による妨害があれば、国会が正常に機能しなくなる。現状、日本の国会はそのような混乱の中にあるように思える。

それらを考えて、私は日本を15—20区程度に分けて、そこに完全な人口比で、議員定数を割り当てるように選挙制度を改定すべきだと思う。更に、それを新たに地方行政の区分けとすれば、尚良いと思う。

戦後の経済発展や高学歴化により、田舎の知的な人物は大都会に移動することが多くなった。その結果、田舎の票は地域の利益を優先し、視野の狭い人物を国会に送る傾向にある。その結果、外国に影響された勢力や明治の勢力が今でも国会で力を維持している状況である。 https://honkawa2.sakura.ne.jp/5237.html

最後に:

日本では人々は環境に自分を合わせようとする。その傾向は、神道の悪い面だろう。この辺で、日本人は自分に合わせるように、環境を変えるという風に考えるべきである。その風習が日本人をより積極的に、議論する国民にし、人と人の間の風通しも良くし、イジメやパワハラと言った公空間の改善も可能だろう。 補足:

1)フーバー元大統領の回顧録の要約版がネットに掲載されている:
http://midi-stereo.music.coocan.jp/blogcopy/hoover/hoover.htm

2)日本の最高裁など司法関係者はまともに仕事をして居ないと思う。最高裁は、砂川判決のように行政に阿る判決を出す自己保身的裁判官に支配されている。安保合憲論における、「高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という最高裁の判決理由は、私には屁理屈に思える。何故なら、「極めて明白」とはどういう意味かさっぱりわからないからである。もちろん、国家元首の存在しない国では、或いは米国大統領が国家元首なら、そのようなことになるかもしれない。その場合は、そう明言すべきだ。

3)ブレグジットは不適当だから、国民投票をやり直すべきだという意見を、英国民の多数が持っているようである。その再投票は愚策であるとの議論が以下のサイトに書かれている。 https://jp.reuters.com/article/lloyd-brexit-idJPKBN1O90R7 国民投票で決めたことを実行せずに、再投票にかけるのは民主主義の否定である。それがわからない人が多くいるのが世界の現状である。

4)IWCからの脱退が当然であると話す自民党幹事長は、鯨食文化の残る太地町のある和歌山県の選出である。父子二代の県会議員を経て、自民党幹事長まで上り詰めた。自民党幹事長としての知性と実力があるかと言えば、Qである。

2018年12月21日金曜日

国際捕鯨委員会から脱退するのは得策ではない

日本は国際捕鯨委員会(IWC)から脱退するという。IWCが、非科学的な根拠により鯨保護の姿勢を強めたことで、このままでは日本の鯨肉を食べる文化が消されるとの危惧があったのだろう。しかし、商業捕鯨を再開したい農林水産省だけの判断で、そのような決断をするのは問題である。安倍内閣は、どこの利益を代表しているのか、統制がとれているのか、わからなくなる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181220-00000104-mai-bus_all

もともと国際政治に論理や科学的根拠を求めることは、魚屋に野菜を買いに行くようなものだろう。鯨肉の消費量は既に、年間20万トン以上(1962年)から3000トン(2012年)にまで減少している。今更、国際世論に逆らって、商業捕鯨を再開することは愚の骨頂である。

IWCで強硬に捕鯨反対を主張するのはオーストラリアである。その国のシーシェパードという団体の、日本の船にたいする暴力行為を非難する日本人一般の気持ちは当然である。カンガルーの肉を食べるクセに、日本の鯨食文化を非難するのはおかしいという理屈もわかる。しかし、その理屈はオーストラリアや彼らの意見に同調する全ての国の大多数の人たちにもわかる筈である。つまり、それらの組織的行為が単に鯨を偏愛する人間の行為だと考えるのは愚かである。https://newsphere.jp/national/20140417-3/

推理に過ぎないのだが、もっと明確に言えば、彼らは日本に牛肉を売りたいだけなのだ。オーストラリアの外貨取得手段は、農産物と鉱産物である。それらを売って、やっとオーストラリアドルのレート(1ドル=約80円)を維持しているのである。それが維持できなければ、スマホや4kテレビが買えないのだから、死活問題である。もちろん、それに配慮せよと言うのではない。ただ、以下の日本の伝統を知るべきだと言いたいのである。つまり、「和を以って尊しとなす」の本意は、自分が10円得するからといって、相手に100円の損害を与えるような愚策を摂るべきではないということである。

この現在の世界秩序の中で、我々日本人の庶民一般は鯨肉よりずっと美味しい安いオーストラリア牛肉を食べることができる。それだけで良いではないか。そして、何よりもオーストラリアとは環太平洋&インド洋における中国覇権の防波堤を築いている仲である。ここで、下らないことで衝突することは得策ではない。

外交は、国際関係に対する視野を広く持たなければ、上手くいかないだろう。シチョウ当たりを遠くに打たれて、その事情がわからない様では、囲碁は打てないだろう。また、縁台将棋の次の一手には、外野からの声が大きく影響する。世界の先進国G7の中にあって、そのようなレベルの外交の"打手"では、世界の安定に寄与するどころか、障害になるだけである。

以上、玄人らしい口調で述べたのですが、全く素人の意見です。反論頂ければと思います。

追補: 予想通り、自民党の二階氏がIWCから脱退を強硬に支持している。これは、想像だが、中国関係の企みだと思う。日本を上記太平洋ーインド洋の国際連携から外す策略だろう。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181221-00000113-jij-pol(22時、追加)

2018年12月19日水曜日

宇宙開発という研究の意味と実態

1)小惑星リュウグウに水(の元)があったとか、なかったとか、或いは有機物があったとかなんとかいう話が今日10時頃のNHKで放映されていた。有機物があったことから、それらの破片が地球に飛来して生命誕生の切っ掛けになった可能性も考えられると解説員が言っていた。

その様な発言は非常に不愉快であり、愚劣に聞こえる。宇宙開発予算に国民の理解を得るための言葉で、JAXAの所長かだれかから是非そう発言するように言われたのだろう。それがまともに科学に関係している人から独自に出た発言だとすれば、科学的センスも研究者としての資質もゼロだろう。(補足1)この種のいい加減な話にNHKが協力するのなら、その経営費は視聴料ではなくそちらから貰えば良い。

「有機物の破片から地球の生命の誕生の謎が解明されるかもしれない」そんな意見を聞いて、聞き手のアナウンサーは素直に相槌をうっていた。「じゃ、その有機物の起源は地球からですか、他の天体からですか?他の天体だとしたら、地球の生命の起源は、その他の天体の有機物の起源がわからないと、やはり闇の中ですね」それくらいのツッコミができなければ、視聴者のためにいるのではなく、JAXAか何かの為にいることになる。

兎に角、宇宙科学の開発は全て軍事開発の隠れ蓑である。もっとストレートに軍事技術の開発をやったほうが経費が安くなる。火星など、ましてや小惑星(補足2)などが地球人のために利用できる日が来るとは思えない。それをするのなら、月移住の方が遥かに簡単だろうし、更にそれよりも南極移住の方が数桁費用的にも技術的にも簡単だろう。

JAXAの宇宙科学研究が軍事技術開発でなければ、解散すれば良い。その方が予算も人員も助かる。其の種の国立機関が山ほどある。プライマリーバランス云々を言うのなら、そのような役立たない機関を廃止すべきだ。

2)宇宙開発研究との関連でもう一つの話題について、少し書きたい。それは南アフリカ系の起業家イーロン・マスクのスペースX社(米国)が計画しているという、火星移住計画構想である。https://matome.naver.jp/odai/2135409072033199001

同社は、2018年中に月周辺に2名を送る計画だった筈である。その話はその後どうなったのか、是非発表してもらいたいものだ。http://www.bbc.com/japanese/39111989

周回軌道でも月旅行は技術的に非常に難しく、恐らくまだ開発研究は終わっていないだろう。有人で成功するには、現在のロケット技術では無理だろう。つまり、アポロ計画は捏造だったのだろう。それについては既に書いている通りである。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/12/11.html

イーロン・マスクは、単にほらを吹いているだけなのか、何か他に目的があるのか、或いは無知のためか? 恐らく最後のケースだろう。アポロ計画での有人月面旅行の成功を信じ、自分達の資金量と当時の米国の一回あたりの月面旅行の資金投入額などを試算して、月周回旅行なら何時でも出来ると軽くかんがえたのかもしれない。

補足:

1)以下の主張を筆者がするのには根本的理由がある。それは、筆者は科学と文明の二人三脚の時代が終わったと考えるからである。その認識に関する記事を、既にこのブログサイトにアップしている。(本年9月24日頃)https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2018/09/blog-post_24.html

2)小惑星の研究をするのなら、地球に衝突する可能性のある小惑星の特定、衝突するくらい近づくのなら、それを爆破したり軌道をずらせたりする研究などが必要である。水なんか、岩石の結晶水としてあるのかもしれないが、そんな研究は地球の生命誕生の謎を探ることに繋がる筈がない。それは理系研究者の直感である。議論歓迎します。

追補:宇宙開発や宇宙移住計画などは、政治の混迷を隠す隠れ蓑的に用いられる可能性もある。

2018年12月16日日曜日

中国の国家資本主義、米国のディープ・ステート、そしてトランプの反撃

1)中国の企業は資本主義的に経営されているが、それ以外の部分においては国家と一体だと考えられる。今回のファーウエイ(華為)のケースがそれを明確に示している。CFOであった創業者の長女が、カナダで米国の要請により逮捕された。国防に関係する同社の不正が容疑である。彼女は7つのパスポートを保持し、世界を股にかけて活動していた。国家が7つのパスポートを出していることは、国家が彼女に7つの人格を与えていたことになる。

この世界一に成長した通信機器の会社は、中国人民軍の関係者が1987年に起業した。その後の急成長が、“国家の支援”無くして可能な筈はないだろう。中国のグローバル企業は、特定の共産党幹部と繋がり、更にその背後に中国国家が厳然と存在する。あの国家は、国境までも超えた地域での企業活動の環境を整え、活動のためのインフラを整備する他、重要なポイントで企業に指示や支援を与えるのではないだろうか。

それら企業と共産党、行政機構が一体となっているのが、中国という国家なのだろう。(補足1)国家権力と13億人の国民(華僑華人を含めて)の相互の連携で、世界を舞台に企業活動している。大きな軍事力と何でもありの諜報活動、国内においては帝国主義的支配力を用いて、技術開発、資源調達、そして市場開拓を国家と企業が一体となって行なっている様に見える。 中国は、華為技術を含めて多くの巨大企業、その国家の支配下にある創業者及び経営者、及び諜報機関を含めた国家の諸機関からなる政治経済的怪獣のようである。そこで、中心的役割を果たすのが、全て共産党員と呼ばれる貴族階級の人間である。明治から昭和初期の、帝国主義の日本における財閥と似ているのかもしれない。

中国人は、広い大地での厳しい生存競争を生き抜いた、勤勉さと高い知能を持つ。その実力主義と中国文化の特徴である家族主義は、他に対する冷淡さと同族の強い結束力等と裏腹の関係にある。それらは、強い投資意欲と緻密な連携を産む。中国企業の多くは、“世界の工場”からノウハウなどの情報を持ってスピンオフして作られた企業だろう。それが一旦成功の道に入ると、野心的に大きなフィードバックにより、そして国家の支援もあり、短時間に大きなグローバル企業に育つことができる。

2)グローバルな経済体制は、アメリカが黙々と世界覇権維持の為に築き上げたものだろう。しかし、アメリカは西欧先進国文化圏の中心であり、先進文化の束縛から自由ではない。そのグローバルな経済体制の本当の司令塔は、民主主義を看板とする国家の中の地下深くに所謂ディープ・ステートとして存在すると言う人も多い。(補足2)

これまで、そこへ言及する人は陰謀論者として社会から排除されてきた。そのグローバリズム推進者たちは、ニューヨーク・タイムズなどのマスコミを牛耳り、世論誘導と政治資金の寄付などを武器に政治を牛耳ってきたと、“陰謀論者”は考えている。

兎に角、このグローバル経済を制限するために立ち上がったのがトランプである。グローバリズムは貧富の差を拡大し、その結果貧困層に落ちたWASPと呼ばれる人の支持で、トランプは大統領になったからである。

グローバル資本は、自国も外国も労働力の供給及び商品の市場として平等に見ることで成長する。その資本と行動を伴にする一部上流階級、及び、その資本の為に宣伝活動等を受け持つ芸能、報道、スポーツ界などが益々豊かになるが(補足3)、一方、労働力供給及び消費市場を構成する一般民は、その資本が移動する発展途上国と本質として同等な存在とみなされて、貧困化する。

グローバリズム経済の副作用で苦しむ米国や先進国諸国を横目に、中国はその恩恵を受けて成長を続け、世界覇権に近づいてきた。国家資本主義でもって、中華のアジアから中華のユーラシアを作り上げるという表明が、一帯一路構想の発表である。それは、習近平による大きくなった中国の米国に対する縄張り宣言であるが、米国は世界覇権をめぐる挑戦状と受け取ることになったのだろう。

米国は、近未来の中国が、米国の世界覇権とその経済的側面である米ドル基軸体制を危うくすると考えた。目が醒めた米国の反応は強烈であり、それが同盟国を巻き込んだ米中新冷戦の始まりである。早々と一帯一路構想を宣言することは、中国の伝統的戦略ではないだろう。(補足4)ただ、それにより国内の基盤を確かにする必要があったとすれば、習近平はその時点で大きな賭けをする必要に迫られていたということになる。

トランプが多大の出費となる世界覇権の放棄で、米国の慢性的赤字体質やWASPの貧困化などが克服できると考えたのなら、それは恐らく間違いだろう。グローバル化のネットワークに米国も深く依存する体質となっている今、世界覇権の放棄は世界の大混乱と米国の没落の原因となる可能性が高い。ドルの崩壊により、基軸通貨を失った世界は大混乱に陥る。その時、新たに基軸通貨となるのはやはり元かユーロだろう。

アメリカ第一主義と言ってみても、没落してしまっては何にもならない。米国は世界に米国債と、米ドルを配給して、今までやってきた世界一の赤字国である。その赤字体質は一朝一夕には変換できない。また、米国のグローバル企業の多くのトップ層としてインド人などの外国人が活躍していることなど、米国は大きく外国人に依存している。資本の多くを支えているのも、欧州などから来た外国人(ユダヤ人)だったことを考えると、閉鎖的な米国ではそれらの人々にとっても魅力に欠けることになるだろう。米国第一という宣言でグローバリズムから完全脱退することは、米国にとって致命的だと思う。

外国人に依存した米国は、見方を換えれば、世界に開かれたおおらかで夢の国アメリカである。それを大事にしてこそ、アメリカの更なる発展と安定があると思う。現在では、トランプ政権と米国議会など米国全体が反中国で一致していると報道されている。戦略家のルトワックは、この方向は当初から一貫してトランプの方針であると言っている。(補足5)兎に角、来年はたいへんな年になるだろう。

以上は一素人のメモであり、妄想の結果かもしれませんので、注意してお読みください。尚、専門的知識のある方による指摘等いただければありがたいと思います。

補足:

1)最近、アリババのジャック・マーが共産党員であることが明らかになった。これまで、アリババ創業という大成功が共産党員以外によりなされたと考えた中国の若者一般に、ジャック・マーが夢を与えていたという。 https://www.asahi.com/articles/ASLCX4TRKLCXULFA01D.html

2)https://www.youtube.com/watch?v=EYA2C_RgsZsに一つの解説がある。

3)昔の河原乞食が、現代のタレント貴族たちである。

4)中日新聞12月16日の社説で、鄧小平は絶対に覇権は目指さないと言ったと書かれている。その社説によると:1978年夏に日中平和友好条約締結のために訪中した園田直外相と鄧小平が会談した。その際、鄧小平は「中国は再三覇権を求めないことを表明している。この考えが変わるようなことがあれば、全ての国が中国に反対しても構わない」と言った。
まさに世界はその様に進んでいる。その鄧小平の言葉を素直に受けている中日新聞の主幹は、中国から何らかの利益を得ているのだろう。

5)トランプは、世界の多極化、つまりアメリカ・ファーストと他の各国は自国ファースト、の道を、本格的には追求はしないだろう。反グローバリズムは、他国に対する貿易赤字解消要求のための道具だった可能性がある。

2018年12月12日水曜日

巨大資本によるグローバルな植民地化:大前研一氏の講演(新世代の為の世界と日本 新たな繁栄を求めて)の感想

1)久しぶりに大前研一氏の講演(新世代の為の世界と日本 新たな繁栄を求めて:ダイジェスト版)をyoutubeで聞いた。世界の政治経済の動向については、面白かった。一つの視点から見た話だという前提を置けば、勉強になる良い講演だと思う。(補足1)ただ、その考え方は偏っていて、日本に古くからいる一部アメリカ人の方とそっくりなトランプ批判である。https://www.youtube.com/watch?v=35Y-pufajq8

最初、アメリカの国際政治や経済のあり方が、世界のモデルとなってきたという話から始まる。トランプ政権の誕生により、そのアメリカモデルが破綻したことを嘆く気持ちは、アメリカの新聞と同じである。しかし、アメリカモデルを破壊したのは、アメリカ自身である。もし、これまでのアメリカモデルが現実論の積み重ねで出来ていたのなら、中国の台頭に慌てふためくことはない筈だった。

多民族国家を束ねる工夫として、わかりやすい理想論を建前にし、見得にくい所で、本音で行動するという方針でやってきたのがアメリカである。それをブレジンスキーは白状している。「ネット社会になり、政治に詳しい人が100万も出てくれば、それに一々対処するより殺す方が簡単だ」という趣旨の発言は、世界に広がっている筈だ。

従って、前者だけ(理想論の部分)では世界各国のモデルたり得ない。その証拠に、アラブの春はなんだったのか?単に、アラブを破壊しただけである。その理想論、つまり少数派でも権利は保障されるという理想論(つまり自由と人権の論理)で国家を束ね、その支配層としてユダヤ社会が座ることに成功したと、現実論者のブレジンスキーが回顧録の中で書いているという。(馬渕睦夫さんの動画)

その米国の現実的な政治と経済における世界支配の中身を、理想論をラベルにして、世界のモデルであったと大前さんは言っている。大前さんは、米国の支配層の利益を代弁して、20世紀のアメリカの論理を主張しているにすぎない。大前氏の日本政治批判、安倍晋三と黒田東彦の批判は、多民族国家としての米国の歴史と看板の理想論を無視して、その強者の現実論を日本に適用しているように思える。

大前さんは自著の「The end of the nation state; The rise of regional economies」を紹介し、それが日本以外でよく売れたと言っておられる。Nation Stateが終わるというのは、グローバリズムという意味である。その主張を1990年代から、大前氏はやってきたのだ。勿論、"正義に基づいた"グローバリズムの実現は、遠いけれども人類の目標である。Nation StatesからThe global state of nationsへの移行を具体的にどのようにするかが、21世紀の人類に与えられた課題であると思う。(追補参照)

その難問の内、現在最大の課題が欧米とは異質なNationStateである中国の問題である。未だに帝国の領域に残る大国が、先を進む欧米に対し挑戦している姿が、現代の世界政治の渦の中心にある。その課題に向かって、現在トランプは戦っていると思う。

トランプは、グローバル資本のアマゾンなどを目の敵にしているようにも見える。米国におけるトランプ批判とは、現在の政権に対するグローバル資本の代弁者である米国報道機関の反論に過ぎないのだろう。アマゾンのトップがワシントン・ポストを所有していることを、講演で紹介している。

2)大前さんの考え方の実質は、自然競争の原理つまり強者の論理を優先すべきという考えである。従って、餌場は広い方がよく、世界規模で人も金も集めて会社を大きくするというグローバリズムを善とする。

世界経済を大きくするのには良い考え方であるし、将来の日本を強い経済の国にするのにも良い考え方だと思う。未来に、たくましい日本人と巨大な経済を今の延長上に探すのなら、弱者は滅びる方が日本の為になる。単なる法人ならそれは当然かもしれない。

ただ、政治は現在の人間にも一定の配慮が必要である。その視点が見事に欠けている。富とルールを分配するのが政治だとすれば、その配分は現在と未来の両方に向けてしなければならない。未来へ向けた部分は大前さんの考えが良いと思うが、それを全体だと聴衆が思い込むことへの配慮がなければならない。 その配慮が見えないので、このような批判をすることになる。講演で大前氏は、21世紀を見ての話だと言うが、その論理は先進国にとっては20世紀のバージョンである。20世紀に強者となったものが、21世紀も同じ原理で外の獲物を探したいという論理である。明らかに21世紀を直視しているトランプを糾弾する資格は、大前氏にはないと思う。

単に金儲けがうまさだけで、人間の能力を計るのは尊大である。人間は有史以来、人と人との協力とそのための弱者への配慮の方法を探してきた。それが人間の作り上げた文化である。グローバリズムは、将来の人類の夢であるが、その性急な追求は、自分が金持ちになりたいという人を作るだけである。

その中で、弱者は涙の中で死ぬのみであり、それが自然だというのはあまりにも残酷ではないのか。何故日本人は、いざというときのために金を貯めるのか?それは日本社会が、大前氏が主張する20世紀の経済の論理で変化し、家族関係が破壊され、老後は金しか頼るものがなくなったからである。

「税は資産課税だけにして、所得税と法人税は全廃する」という考え(講演の40分位から)には、老いて尚不安に苛まれる人への配慮の欠片もない。大前氏が日本人なら、座禅でもして、或いは、断食でもして、もう一度人間とは何か、文化とは何かを考えたらどうかと進言したい。

以上、大前氏の講演(動画でみた範囲)に対するコメントを繋ぎ合わせ、整理した文章である。筆者は理系で定年まで働いた素人なので、間違いがある可能性が高いので、玄人の方は是非その指摘や全体的な批判をしてもらいたい。

補足:

1)大前氏の講演のなかで、インド人は優秀であり多数が欧米グローバル企の経営者としなっていることを紹介している。そこで、ネット検索すると、そのリストが現れた。

• Softbank -ニケシュ・アローラ氏(Nikesh Arora)
• Google -サンダー・ピチャイ氏(Sundar Pichai)
• Microsoft – サヤト・ナデラ氏(Satya Nadella)
• Adobe systems -シャンタヌ・ナラヤン氏(Shantanu Narayen)
• Master card -アジェイ・バンガ氏(Ajay Banga)
• PepsiCo -インドラ・ヌーイ(Indra Nooyi)
• ドイツ銀行 -アンシュ・ジェイン氏(Anshu Jain)
• NOKIA -ラジーブ・スリ氏(Rajeev Suri)
• SanDisc -サンジェイ・メロートラ(Sanjay Mehrotra)
https://indiamatome.com/business/indianceo

大前氏は、インドの優秀な人は、自国に帰ってインドを豊かにしようとしないで、欧米で活躍することを考えると言っている。それは、世界を不均一に発展させるグローバリズムの結果の一つであると思う。つまり、現在のグローバリズムは、発展途上国の巨大資本による植民地化である。

追補:
上記21世紀の人類の課題とした部分で書いた「Nation States からThe global state of nations の実現」は、「諸民族が連携した世界国家の実現」の意味です。(13日早朝)

2018年12月11日火曜日

米中新冷戦の中での日本の生き残る道

文藝春秋12月号のエドワード・ルトワックの「米中冷戦、日本4.0が生き残る道」という記事を読んだ。ここで日本バージョン4.0とは、江戸幕府ができた日本、明治新体制、戦後体制に次ぐ、近代4番目の期待される改革後の日本を意味している。より具体的には、米中新冷戦の中を生きる新しい日本という意味である。

日本の何を新しくすべきなのか。それは米国との同盟を深化し、東アジアでの親米ネットワークの中心的役割を果たすべきだということらしい。米国は、各種ロビー団体も議会も反中で一致しており、反トランプの勢力から唯一批判がないのが、反中政策だと言う。共産党支配の中国との付き合い方は、最新且つ最大の米国の外交課題だろう。

私にはルトワックはトランプの背後に居るように思える。それは、この原稿全体を通して、これまでのトランプ政治と乖離した考えが見当たらないからである。

1)朝鮮半島について:

ルトワックの考えでの理想的な朝鮮半島の姿は、北朝鮮からの核廃絶と米軍の朝鮮半島残留のようである。核廃絶と米軍残留のどちらが大事かといえば、後者だと考えているようだ。そして、日本は半島の非核化や拉致問題解決を性急に実現しようと考えてはいけないと言って居る。現状、つまり、北朝鮮が核保有し在韓米軍が存在する状態が、日本にとってそんなに悪くないとも言っている。

日本人向けの文章なので、言葉を選んで居るが、おそらく反中を貫く為には米国と北朝鮮の協力関係樹立が望ましいと考えているのだろう。そのモデルはベトナムである。つまり、ベトナム戦争で勝ちながら、北ベトナムはベトナム統一後に親米反中になった。それと同じプロセスを朝鮮半島にも期待しているようだ。

北朝鮮がベトナム方式を採ると確信できるのなら、安倍政権の協力を得て、米国の制裁解除と日本の経済協力をセットで北朝鮮に提示する予定なのだろう。つまり、今となっては文在寅政権の韓国よりも、北朝鮮を中心に米国は考えて居るのだろう。ルトワックは明確に、「韓国の方が親中である」と言って居る。

実現すべきは、北朝鮮との協力関係樹立、北朝鮮の経済復興、それに対する日本の協力だが、その障害になるのが、北朝鮮の核兵器と拉致問題である。北朝鮮を親米国とする為に、ルトワックは上記二つの問題解決に対する日本の性急な欲求を抑えているのである。

また、仮に北朝鮮を非核化して、韓国主導の自主独立統一朝鮮が実現した場合、その延長上には中国の属国としての統一朝鮮しかあり得ないと考えている。それ故、日本が目を開いてしっかりと韓半島の二つの政権を見なくてはいけない。

日本に文在寅政権の本音を語ってくれたのが、あの徴用工裁判である。文在寅は最高裁のトップに、自分の考え通りの判決を出してくれる人物を据えた。あの判決は、文在寅の韓国の国際社会における信用を一挙に失う結果になっただろう。おそらく金正恩は文在寅をバカにしているだろう。何故なら、恐ろしい中国を知らないからである。

その考え方に似た分析を、9月20日のブログに紹介している。主として、藤井源喜さんの考えである。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43760281.html 日本と北朝鮮の関係は未だ敵対だが微妙に変化している。一方、韓国は表向きとは違って、今や反米反日だろう。この”逆転現象”(動きの方向)は、文在寅政権が続く限り続くと考えられる。

2)日露関係および日中関係について:

反中国の朝鮮半島、日本、東南アジア、豪州、インドの弧状のネットワークには、ロシアを入れることが大事であるとルトワックは考えている。シベリアの長い国境線は、必然的にロシアと中国の間に深い不信感を生じる。そのロシアにとって、非常に魅力的なシナリオは、日本との極東での経済協力である。

ルトワックの日本4.0の一つの大きな部分は、日露友好関係の樹立だろう。それは、トランプ政権も賛成だろうが、米国の反トランプ勢力は反対のようだ。その反露姿勢は、単に無知なのか、中国利権に完全に取り込まれている結果なのか分からないが、どちらかだろう。ウクライナの件やシリアの件に目が奪われているのも原因の一つかもしれない。(補足1)

日露友好関係樹立は、日本にとって中国の脅威の緩和に大きな働きが期待できる。更に、ロシアの天然資源とロシア市場の両面から経済的利点も多い。しかし、ロシア人のほとんどは忘れているか、或いは、知らないのかもしれないが、日本人にはロシア人に対する嫌な記憶が残っている。その障害を取り除くのが二島返還である。(補足2)

その必要性をロシアの人々に理解させるためには、ソ連は日本が降伏の意思を表明した後、日ソ中立条約に違反して一方的に宣戦布告し北方領土を奪い取ったこと、その後日本人を多数虐殺し婦女子を暴行したこと、数十万人という日本人を奴隷化してシベリアに抑留したことなどを、ロシア人に広く教えるべきである。このことも、欧米で一般に信じられている第二次対戦の歴史認識は、一方的であることを示している。つまり、英米と戦った日本やドイツを悪の帝国と捉えているが、一般に歴史のなかで一方的にある国が非難されているとしたら、それは誤解に基づく。(補足3)

また日本には、ロシアと中国を比較すれば、中国に親しみを感じる人の方が多い。その理由として、同じモンゴリアンであることや、漢語や箸を用いる共通の文化を持つこと、更に、中国に侵略された経験がないことなどがあるだろう。

しかし、中華帝国とも言うべき共産党支配の中国は、沖縄も中国に属すると明言し、太平洋を米国と二分しようと米国に提案した国である。ここは、新しい情勢の下、米国のトランプ政権に協力する姿勢が大事であると思う。

一般的に、その土地に住む人と国家体制は区別して考えるべきである。また、その国には複数の勢力が存在することを念頭に、現在の政権をその国自体と考えないことも大事である。そう考えれば、習近平の中国が早期に世界戦略を明らかにしたことは、馬脚を表したというべきであり、ずっと先にある日中友好が近づいたと考えるべきである。

勿論、日本の安倍政権は、既にそのことは考えて居る筈である。全体としては、既に書いた様に米国の代表的な戦略家であるルトワックは、トランプの背後に居るという印象を受けた。以上、素人の感想である。

補足:

1)ウクライナ問題の発端は、合法的に誕生しているヤヌコビッチ政権をどこかで計画されたテロで、大統領が逃亡したことである。この件、4年前に議論している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/03/blog-post_22.html

2)日ソ共同宣言で両国の戦争状態は終結した。その時、何故ソ連は日本に歯舞群島と色丹島の返還を約束したのか? それは、過去ソ連側に負い目となる行いがあったことを意味している。

3)戦前の日本やドイツを悪の帝国と決めつけるのが、ドイツ以外の欧米の人の常である。それが偏見に満ちたものであると、そろそろ知るべきである。既に、フーバー元大統領の考え方が明らかになり、フランクリン・ルーズベルトがある一派に支配されていたことが明らかになった以上、米国の一般国民もそれを知るべきである。
それと関連して、ケネディーが何故暗殺されたのか、中央銀行を国家の機関として持とうとしたリンカーンも何故暗殺されたのか、何故アフリカの内部から貧しい人たちが難民としてヨーロッパを目指す旅が可能なのか、何故ホンジュラスからあの時期に大勢の人が何の障壁もなる米国とメキシコの国境に集まることが可能なのか。それらの疑問は、全て一つの人たちの企みであると考えれば溶ける。

2018年12月9日日曜日

今上天皇は靖国神社を潰そうとしておられるのか?

靖国神社は国立戦死者追悼施設とし、展示内容等もそれに沿った姿にすべき:

1)文藝春秋12月号に掲載されている小堀前靖国神社宮司の記事を読んだ。小堀氏は、靖国神社がガラパゴス化していると嘆いているが、それは小堀氏がこぼした「天皇陛下が靖国神社を潰そうとしている」という言葉と裏腹になっている。その言葉について考えるが、そのためには、靖国神社と”靖国問題”について一応の理解が必要である。私もそれを復習するために、先ずそれらについて少しまとめておきたい。

靖国神社は、明治2年に時の天皇により「東京招魂社」として創建された。戦前は陸軍と海軍の共同管理下にあった。昭和21年(1946年)に宗教法人となり、単独の宗教法人として現在に至る。現在の視点で見れば、靖国神社は日本の若者を兵士として消費するための機関であったと言えると思う。(補足1)

明治12年に東京招魂社は靖国神社に改称された。明治憲法が制定されたのは明治22年であり、その第28条には信教の自由が定められていた。靖国神社が宗教施設であると考えれば、明らかに矛盾する。憲法が国民に対する国家体制の明示であるとすれば、明らかに靖国神社は憲法の上位に位置する。そのように考えれば、前宮司の「靖国神社は天皇陛下のお社と言っていい存在です」という言葉(文春95頁下段)が理解できる。しかし、それは時代錯誤である。

靖国神社を特殊法人として、靖国神社の宗教性を希薄化させる法案が、1969年から毎年自民党から議員立法の形で提出された。1974年に、衆議院で可決されるが、参議院で審議未了のまま廃案となった。この動きを前宮司は「政教分離」が厳しく言われた時期と解釈し、それを契機として昭和天皇が参拝されなくなったと書いている。(補足2)

私はこの法案において靖国神社の名前をそのまま用いたことは、大きな問題であり、廃案は当然だと思う。その法案の第2条に『靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであり、靖国神社を宗教団体とする趣旨のものと解釈してはならない』と書かれているという。しかし、これは全くの嘘だと思う。単に、「国立戦死者(或いは戦没兵士)追悼施設」とでも名前をつければ、あえて第二条にこのような文言を入れる必要性はない。神社という宗教施設の名称を用いる限り、そして、自民党が日本語を破壊したくないとすれば、この言い訳は全くの嘘である。(補足3)

次に、靖国問題について簡単に書く。靖国問題とは“A級戦犯”の合祀問題であり、中国や韓国などが日本に難癖をつける為の道具の一つである。これは、靖国神社を「国立戦死者追悼施設」としておけば全く問題にならなかっただろう。東京裁判で「平和に対する罪」という名目で殺された人たち(“A級戦犯”)を靖国神社に祀るかどうかの問題は、靖国神社の設立趣旨を考えれば明らかである。

靖国神社は戦死者の霊を祀ることを目的に創建された。従って、戦死者でない所謂A級戦犯たちの方々を祀るべきではない。多くの若者を戦地に送った彼らが、送られて戦死した人たちとともに祀られる理由はない。仮に、東京裁判も戦争の一環だったという話を正当だと認めるのなら、合祀の理由になるかもしれないが、その場合は、東京裁判を戦後の報復だと言って批判することは出来ない。更に、あの戦争を開始から敗戦まで総括して、東京裁判の看板から中身までの再評価をしなければならない。それらをしないで、合祀の正当性を主張するのは知能を持った人のすることではないと思う。

2)今上天皇が、靖国を潰そうとしていると前宮司が嘆いた根拠は、今上天皇がこれまでされた活動を根拠としている。つまり、天皇陛下はこれまで一度も靖国参拝されていない。その一方で、グアムやサイパンなどを訪問し、戦死者を慰霊されたことである。それらは、靖国には戦死者の霊は存在しないという考えに基づくと、前宮司は考えておられるのである。この考え方は、それなりに論理的である。

そして、「神道では、嘗ての戦地には、遺骨はあっても靖国神社の神霊はそこにもうおられないと考えます。靖国神社を永遠の静宮の常宮(神道の用語)としてお鎮まりくださいと毎日祝詞を申し上げているのですから、神霊が陛下と一緒に移動することはあり得ないと思われます。」と前宮司は書いている。 この考え方は、霊に関する伊勢神道の解釈なのかもしれないが、オリジナルな神道の考えとは全く異なるだろう。参考として、数年前に神道に関して書いた文章を紹介しておく。元々神道は自然の祟りをおそれる宗教であり、人は死後大自然の中に消滅するとしても、特定の神社という「現世の特定の場所」に鎮座する類の考えはない。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/06/blog-post_24.html

前宮司は、「陛下の慰霊の旅はあくまで亡くなった人を偲ぶということであり、亡き人々の神霊を祀ることではない」と断言する一方、「しかし、靖国神社の崇敬者のなかにも、亡くなった人の神霊もその場所に来ているのではないかと考える人がいる」と書いている。これらの文言をよく考えると、前宮司は本質的なことを心配しているのではなく、靖国神社に参拝する人が減少することを恐れていることがわかる。

つまり、文藝春秋の記事で小堀邦夫前宮司が書いているのは、宗教法人靖国神社の“営利団体的側面”においての危機でしかない。明治の時代に入り、帝国主義の世界を生き抜くためには、日本国も多数の若者の命を消費する必要があった。そのために考え出されたのが、国家神道である。その是非を論じることは、簡単ではないので、別に機会があれば書きたい。

私の伊勢神道に対する考えは、オリジナルな神道を乗っ取り、天皇家を中心とするヤマト(大和と倭の両方の漢字が用いられている)の為に創り出された宗教だというものである。(上に引用の記事参照)靖国神社は、現在ではほとんど観光の対象としての側面が目立つ伊勢神宮が先祖がえりした姿なのだろう。前宮司の危惧は、その靖国神社も伊勢神宮同様に、ほとんど観光の対象となってしまって良いのかと言うことではない

前宮司は、靖国がガラパゴス化(前宮司の言葉)した神社に見えたのは、かなりの黒字を抱えているものの、今上天皇の靖国に対する冷たい姿勢に危機感を持たない現在の神社上層部に対する苛立ちがあったからだろう。伊勢神宮の禰宜(宮司に次ぐ地位)を務めていた前宮司が、靖国神社の宮司になって、伊勢神宮の運営のノーハウを持ち込もうとしたのかもしれない。それが十分な理解を職員に得られなかったのだろう。

なお、神道については以下の記事も参照ください。「猫の駅長(タマ)が神社に祀られる:バカか冗談か、それとも神道を愚弄するものか」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42341597.html

補足:

1)神道には教義はない。従って、兵士として戦死したとしても、英霊になるという教義も、人は死んだのちにその霊が残るという教義もない。「靖国で会おう」と玉砕の前に言い合った兵士も、それを本当に信じたわけではないだろう。

2)昭和天皇が靖国参拝をやめたのは、A級戦犯合祀(昭和53年)があったからだと言う説がある。それは富田メモ(元宮内庁長官富田朝彦氏のメモ帳27冊にある昭和天皇の言葉)にそのように書かれているかららしい。一方、それは富田氏の天皇を守ろうとする意図に基づく捏造だと言う説もある。https://yoshiko-sakurai.jp/2006/08/03/508

3)自民党の1974年の靖国法案は、靖国神社の神道的(オリジナルな神道の)性質を希薄化する意味はあっても、明治初期の靖国設立の目的にそった国家神道の本格的な復活をめざしたのかもしれない。自民党全体は、一つの政治的思想に基づいている政党ではなく、現実的視点で政治を考える議員の集合に過ぎない。その中には、軍国主義的人物が居て、彼らが議員立法で出した法案が靖国法案だった可能性もある。とにかく、日本の政界には論理的に考えられる議員はあまり居ないので、最も大事な政治改革は、一票の格差の完全解消による都市部の比較的知的な有権者の票を生かすことである。

2018年12月4日火曜日

徴用工問題において、「時効のない人道に関する罪」で補償を要求する韓国の傲慢

1)韓国の元徴用工判決(補足1)に関する意見は既に書いている。(11月26日の記事)それに尽きるのだが、そこにコメントをいただいたので、そのポイントについての議論を新たな記事としてアップする。

今回の徴用工裁判において韓国の最高裁判所は、日本の不法な植民地支配下でなされた強制動員への「慰謝料」として賠償権を認め、この「慰謝料」は未払賃金や補償金などの民事的な請求とは異なると位置付けている。

つまり韓国側は、1965年の請求権協定の取り決めがあるため、通常の請求権補償を巡る争いでは負けるとわかっているので、日本の「不法な植民地支配」によって傷つけられた人権・人道問題への補償という新しい争点設定を持ち出したのである。http://agora-web.jp/archives/2035974.html

この「日本の不法な植民地支配」という論点は、全く根拠がない。何故なら、韓国議会の決議により日韓併合はなされているからである。その経緯については詳しく書かれている記事は多くあるが、徴用工判決との関係でのものを以下に引用する。https://president.jp/articles/-/26873

また、仮に「徴用自体が不法で人道に対する罪である」という論理が成り立ったとしても、それに時効がないとするのには無理がある。ウィキペディアによると、1968年の国連総会において、人道に対する罪に時効がないとする議決がなされたが、英米などが反対した他、主要国の多くは棄権しており、条約としての効力はない。

2)「時効を無くした人道に対する罪」(補足2)で世界を裁くという方法は、米国の一部勢力が米国を筆頭とする連合国(United Nations)の背後から打ち出した一つの戦術だと思う。

それは、力(米国の力)で特定の国々をねじ伏せるための道具として用意したのだろう。彼らは、ナチスのホロコーストに対しては、徹底した態度を取りながら、ソ連のポグリムやカチンの森事件にはそれほど騒がない。それは、「人道に対する罪」が彼らにとって一つの武器だということを証明している。武器を用いるかどうかは、相手と状況で判断されるからである。

「時効を無くした人道に対する罪」を掲げて、過去の戦争を裁く権威を、全ての現存人は持たない。その論理によれば、現存人類は過去に滅んだ民族に補償しなければならないということになる。過去の戦争全てにおいて、人道に対する罪の山が築かれている筈だからである。「絶滅した民族には補償しようがない」と逃げることはできない。どこかに民族の末裔が少数残っている筈だからである。

つまり、「時効を無くした人道に対する罪」は、現存人が等しく意識すべき「原罪」と言えるが、平和条約などで未来志向にある両国の国境を超えて、新たに補償を要求する理由にはなり得ない。宣戦布告以外には、その補償要求を貫徹する方法はないだろう。

ナチスのホロコーストも、ソ連のポグリムも、米国の原爆投下も、日本の重慶爆撃も、英仏伊西ポの植民地支配も、全て「人道に対する罪」である。歴史を真面目に振り返れば、そして「時効を無くした人道に反する罪」を持ち出せば、その瞬間に現在生きている我々全ては、その被告席に立たされることになる。

補足:

1)新日鉄住金を相手に争われた徴用工裁判の原告側の人たちは、実際には徴用工ではなく、任意に応募した人だという。西岡力氏がそれを明らかにしている。https://www.youtube.com/watch?v=oCvz8ZjXCWY

2)「人道に反する罪」は、人道という概念が定着してからの罪である。事後法での処罰や遡及処罰は日本国憲法に反するのだが、それは他国でも自明のことだろう。人道に対する罪から時効を無くするということは、人間の歴史と文明を否定するような考え方である。それゆえ、特別に「」付きで、「時効を無くした人道に対する罪」と書いたのである。

2018年12月2日日曜日

「自然」と「人工」が未分離な日本文化と低い技術開発能力の関係

1)日本人は、自然の中に生きることを善とし満足している一方、西欧人は、自然を克服して、「人工」の領域に生きる空間を拡大することを善としているのではないだろうか。その結果、日本では人工を追求した成果としての「技術」の開発が活発ではないと思う。

日本は、温暖な気候に恵まれ、良質の飲料水も豊富なので、食料と若干の衣服を手に入れさえすれば生きていける。たまに飢饉になっても、周りが海なので棲む領域の拡大には至らず、耐えることで生き延びる。その後飢饉が終われば、その記憶を民族として持ち続けることができず、ただ忘れるのみである。(補足1)そのような環境に住む民族は、世界でも少ないのではと想像する。日本の文化が、自然と融和的なのはその結果であり、それに慣れた日本人には殊更自然保護や環境改善を叫ぶことは、不自然だったと思う。

一方、近代文明は自然の解明という形で、西欧で誕生した。人間は自然の中で生まれたが、人口増加にともない必然として生存競争が生じる。その頻繁な争いに苦しむことから、自然の成り立ちや現象を解明し、その知識を用いて人工的環境をつくり、南北に居住地域を広げようと努力したのだと思う。その結果、自然を人工と別けて認識し、その両方に足を広げて生きる方法を身につけたと思う。

2)自然と人工という日本語を形容詞で用いる場合、英語ではnaturalとartificialが対応するだろう。それらの語幹部分は、natureとartである。それが、日本語で上記形容詞の名詞形、自然と人工物となるのなら、日本人と西欧人の言葉は(翻訳すれば)同じだということになる。(補足2)

しかし、そうはなっていない。英語のartを日本語に訳せば「芸術」であり、「芸術」は自然の対義語とは異質な概念である。Artの二番目の和訳として技術が出てくる。それらの辞書の記述は、artという英語の概念が二つあるというよりも、日本語の概念の区分の中にうまく当てはまらないということを意味している。

このことに最初に関心を持ったのは、大学教養部の英語教材:エリック・フロムの“The art of loving ”を読んだ時である。「愛する技術」や「愛する芸術」と訳すると、日本人男性のほとんどは三流週刊誌の何かエッチな記事のような印象を持つだろう。しかし、この本は哲学書である。そして、フロムが言いたかったことは、「愛」は人間特有であり、猿から人になったときに新たに身につけるべき人間的な性質であるということである。

このArtという言葉の解釈が、日本人には全く欠けている。人が生きることは、西欧人にとってartの実践であり、それが大事な人間関係に向かう時には愛(love)であり、道具に向かうときが技術である。そのように私は理解している。そして、日本には本当の意味のartという概念が欠けている。その文化的異質性が時として日本人がartとして表現したものが、世界を驚かせることになるのだろう。しかし、それは日本人が自慢すべきことではないと思う。

最近、日本人には日本の技術を自慢する人が多い。テレビ番組を見ると、「技術を学びに来日する外国人」を紹介する類のものが多い。テレビのプロデューサーは、その種の番組が日本人一般の自尊心を満足させ、高い視聴率を記録することを狙っているのだろう。その貧しい心にウンザリする。

何故なら、日本の道具には上記技術の観点が未成熟のように思えて仕方がないからである。つまり、日本の技術、特に昔のもの、は本物のようには見えないことが多い。本物なら日本人の生活にあったオリジナルな技術が多い筈。しかし、単に猿真似に見えるものが多いように見える。それは言い過ぎだろうか。

3)言いたいことは以上だが、ここで、例として白磁食器を取り上げて、更に持論を示したい。日本の白磁技術は、中国の景徳鎮で始まった技術が輸入され、最初に日本で焼かれたのは有田焼である。それが日本の伊万里港からヨーロッパに輸出された。このオランダの東インド会社からヨーロッパに運ばれたイマリ焼きは、西欧に大きなインパクトを与えたのである。(補足3)

西欧でも独自に白磁を製造するようになるが、その最初は、1710年に始まったドイツのマイセンである。その後、その技術は良質のカオリン含有粘土に恵まれた地方に、マイセンから或いは独自に広まった。その結果、西欧白磁は18世紀後半にはイタリア、英国、フランス、ドイツ、ロシアなど広い地域で焼かれるようになった。

上の写真は、英国ロイヤルクラウンダービーが製造しているIMARIのカップ&ソーサーである。日本のイマリ磁器をモディファイしたもので、独自の洗練されたパターンになっている。


ここで、西欧陶磁器と日本陶磁器を比較してみたい。最初に気がつくのは、西欧産の紅茶やコーヒーのカップには、当然のように取手が付いているが、有田などの茶飲みコップ(茶碗)には取手がついていないことである。その理由は、取手をつけるには一定の工夫、つまり、技術が必要だからだろう。

その陶磁器技術の先進国の日本で、茶碗に取手が無かったことは不思議である。それは、日本は現状をそのまま受け入れる文化を持ち、その不便を解消する必要性を感じることができなかったからだろう。それを一般化すれば、大げさに聞こえるかもしれないが、人間の生息する空間(この場合は文明空間)を人工の範囲に拡大しなかったからだと思う。(補足4

その日本の文化的特徴が、磁器の上の絵付けにも現れている。絵付けの技術に関しても、西欧磁器でのその後の発展の方が大きいと思う。斬新でart的な絵付けを施した品物が、日本では売れないことがその原因だろう。19世紀に入って、日本産でも西洋磁器のコピーのような華麗な絵付けの磁器がたくさん作られたが、そのほとんどが輸出用のノリタケなどの製品だと思う。それらは、ネットオークションではオールドノリタケとして一つのジャンルを作っている。(補足5)

日本が技術先進国だといっても、多くは西欧の二番煎じである。その原因の根本にあるのは、日本人は自然から離れた人工をあまり好まないことである。つまり日本の文化は、自然と人工を積極的に別けて、人工的領域に生きる空間を広げる工夫が無かったように思える。その文化の所為で、多くのオリジナルなものを賞賛するのではなく、批判する傾向にあると思う。(補足6)悪くいえば、それは日本の遺伝病である。この日本人の性質は日本のあらゆる側面に存在するが、それらの多くは山本七平の本に書かれている。

以上は素人の議論です。各方面のからの意見をお寄せください。

補足:

1)そのような状況では、多民族と争うことで領域を拡大するという方法も選択できない。その結果、民族を束ねる同族意識(愛国心など)をあまり持たない。

2)言語は、それを使う民族が世界をどのように理解しているかを直接表現している。聖書のヨハネによる福音書の冒頭の言葉、それに最近では、西部邁の「昔、言葉は思想だった」なども、その事実を表現している。

3)白磁技術は中国で古くに始まり、特に宋代(13世紀まで)の景徳鎮で焼かれたものが有名だった。中国から朝鮮、そして16世紀には日本に伝わった。日本では、秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮人や中国人の陶工(ウィキペディアの伊万里焼参照)を連れ帰ったのが始まりだという。17世紀に入り、北九州有田に良い原料石が見つかったとのことで、日本初の白磁の製造が1616年に有田で始まる。
 https://www.asobo-saga.jp/search/detail.html?id=2
オランダの東インド会社が、伊万里港で磁器を買い入れてヨーロッパに運んだのは、1650年ごろの話である。上記のサイトではマイセンに技術が伝わったのは、伊万里焼経由であると書かれている。それを契機に、ヨーロッパで白磁の開発が始まったのだろう。 ヨーロッパの多くの地域で18世紀初頭から中頃までに白磁の製造が始まったことから、ヨーロッパの磁器製造は、伊万里焼きなど東アジアの磁器の東インド会社を通して輸入が動機となっていることは確かだろう。

4)日本の古い家には庭があるが、それは自然のコピーである。田舎の自然に恵まれた場所でも同じである。また、茶碗の不完全な形を自然の景色になぞらえて鑑賞するなど、人工的なものにまで自然を取り入れようとする。何故、人工的なものなら、徹底的に人との関係のみを最優先しないのだろうか。例えば、庭なら何かをプレイするものを設けることの方が、その利用価値を上げると思う。

5)オールド・ノリタケの磁器の華麗さは、日本文化からでたものではなく、どこか不自然さを感じる。華麗なミントン(英国)やリモージュ(フランス)の磁器には敵わないだろう。

6)ダイソン型の扇風機は、空気清浄機や冷暖房機能をつけると総合的な空調機となる。その扇風機を東芝の研究者がダイソンよりも早く考えついた。しかし、それを製品化できないところ(会社の上層部が開発を認めないこと)に日本の技術が十分に人工を追求できない弱点がある。https://www.narinari.com/Nd/20091012482.html

2018年11月28日水曜日

点と線の正義:その間を気体のように埋める信用を取り除く現代資本主義文明

今年1月27日の日付で、別サイトに編集中のまま放置されていた文章を掲載します。

1)表題は、現代社会に於いて「正義は点と線のみで確保されている」との主張を表現している。つまり、我々は、近代国家の内部全体において、法と正義が支配していると考えるのは勘違いであると思うのである。それは、犯罪が現代社会の多くの領域で起こり得るという主張ではない。法と正義に反する行為が存在したとしても、それらが全て行政と司法により然るべく処理されると考えるのは間違いだという主張である。それは、これまで観てきた社会の諸事象から得た結論である。

この事実は、例えば、相撲協会での出来事を考察すれば、一般にも理解出来るだろう。犯罪は隠蔽され、闇に葬られることの方が多かっただろう。そうでなければ、部分的にせよ諦めて泣き寝入りをする人が多い筈がない。(補足1)また、商店街の住人で“みかじめ料”などのトラブルに巻き込まれた人には、上記命題が嫌というほど身に沁みている人が多いだろう。さらに、ネットオークションなどで壊れたものを高い値で買ってしまい、売り主と交渉してもはかどらず、結局泣き寝入りするしか無かった人もその考えに同意するだろう。

警察(行政)も司法も、結局点と線以外には完全には役立たないのである。個人が出来ることは、その点と線の上を歩くように、私的な努力をすることである。ただ、その私的な努力が点と線を動かす様になると、社会全体が法治国家という建前も維持できないことになる。それは独裁国家の入り口である。

点と線の上に乗る努力とは、司法や行政の中に人脈を作り上げることなどだろう。点と線を動かすとは、司法や行政(警察)への介入を意味する。国家の首脳レベルでは、そのような疑惑は歴史の中に多く有るだろう。東アジア諸国では、法と正義の支配する社会の確立そのものが怪しげである一方、西欧ではそれが一応完成しているようである。しかし西欧でも、空間全体の法と正義の支配は建前としてのみ成立しているのであり、現実は理想から遠く乖離しているだろう。

何れにしても、法と正義による社会の支配は、不完全且つ限定的である。

2)以上は国家とその中で生きる個人を対象にした議論であるが、世界とその中で“生きている”国家の関係を考えると、上記現実が一層理解し易いだろう。

近代になって、世界は凄惨な戦争を振り返り、国際的な枠組みを作るようになった。(補足2)現在では、国連憲章、国際司法裁判所、国連軍が国家に類似した枠組みをこの世界に作っている。西欧が中心になって作ったこの仕組は、絵に書いただけのようなものだが、世界政府的なイメージを想像させる。

つまり、国連憲章、国連軍、国際司法裁判所は、国家のシステムから類推すれば、世界の法、行政(警察)、司法ということになる。それを本気というか、あまりにも真面目に考えている(振りをしている)のが、日本政界における革新系野党である。また、与党にもそのように考える人が多く、今は野党に属するが小沢一郎氏がその代表だった。(補足3)

そのように世界のモデルを考えると、直ぐに「法と正義」が成立する「点と線」の上に乗っている国家と、そのような力と知恵のない国家の区別が明確に出来る。「点と線」を自分の上に引き寄せているのが、国連常任理事国と言われる国々であり、その中の最大最強の国は、点と線を自分で描いていると言えるだろう。(補足4)

上記のように、社会における「点と線の正義」というモデルは、国内と世界の両方を見ると理解し易いように思う。

3)文明による文化の破壊: 

そのような世界でどう生きるかだが、国によってもその具体的方法は異なるだろう。例えば、中国なら血縁を大事にして、一族から上級の共産党員を生み出して、そこからの利益誘導を考えるだろう。そのような国で、公務員の利益誘導や汚職を無くすることなど不可能である。「ハエも虎も叩く」の言葉には、その文の主語が大虎であったという“落ち”があることを中国人は知っているだろう。(補足5)

日本では血縁とともに地縁が大きな役割をしてきた。地縁は血縁を超える繋がりであり、全体として公正な社会構築の素地となり得る。それが、日本国民が米国の押し付けた憲法前文にそれほど違和感を感じない理由の一つだろう。また、野党の幼稚な正義論が未だに力を持つ背景にあるのだろう。

しかし、近代資本主義は血縁も地縁も破壊してしまい、現在ではこの国も荒涼とした社会になりつつある。(補足6)正義の社会が映る様な“レントゲン撮影”をすれば、この国の風景も砂漠のなかにオアシスと舗装道路だけ存在するようなものだろう。オアシスを離れたところにあるテント村が日本相撲協会だと考えれば、今回の春日野部屋での障害事件が理解できる。 https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12144-319617/

信用が空間を満たすことが、法と正義の支配が点と線ではなく面と体で成立する為の条件である。今朝も話題になっていた成人式用の貸衣装を業とする「はれのひ」の詐欺的商法や、最近多くなった企業による不正事件の増加は、日本的な“信用を重視する文化”の崩壊を示している。

それは単に歴史の出来事の一つではなく、人類史の必然の流れだろうと思う。つまり、文明と文化が並行して発展してきた近代史は終わり、現代以降は文明による文化の破壊のフェーズなのだろう。経済的に一定以上豊かになった人間は、思考する人間の特技を錆びつかせ、本能のみの存在に還るのである。

それを先送りできるとしたら、政治というサービス業の革新と効率化のみだろう。つまり、行政(警察)、司法、立法の三分野全ての効率を飛躍的に高くし、人知を超えた全く新しいタイプの社会主義の確立が必要だろう。それが出来るのは、天才かAGI(統合的な人工頭脳)である。

シンギュラリティー(補足7)というのは、ひょっとして人類史における明治維新的なものかもしれない。つまり、それは排除(攘夷)すべき対象ではなく、それにより新しい世界を開くということになるかもしれない。勿論、人間が人口頭脳の奴隷にならぬよう、注意が必要である。

(文章語句などかなりの編集あり、22:00)

補足:
1)1)琴光喜の追放などは、たまたま点の上に琴光喜が乗ってしまった結果だろう。ここで補足したいのは、点と線の上の正義でも、その他の分野や地域での不正義の発生を不完全ながら抑止する働きは存在する。
2)“歴史には無知”の領域に入る筆者だが、ウエストファリア条約(1648年)やパリ不戦条約(1928年)などが近代になって作られた、国際的枠組みの基本的なものだと思う。戦争のルールに関しては、ハーグ陸戦条約が知られている。
3)小沢一郎氏が国連中心主義を掲げる代表である。しかし小沢氏は、日本が世界の覇権を握る場合にのみ、国連中心主義が日本の外交姿勢になり得ることを知らないのか、知らないふりをしているのだろう。https://yoshiko-sakurai.jp/2007/10/25/633 宮沢喜一らを面接して、総理大臣を選んだと言われている小沢一郎にしてこの程度なのだ。
4)点と線の近くに居ると表現したのは、彼等常任理事国が正義を定義するのだから、正義は彼等の近くに存在する筈という位の意味である。
5)汚職追放を大々的に担ぎ出したのは、薄煕来である。彼は中国での権力闘争で、それを看板に勝ち抜こうとしたが、自身の不正やスキャンダルで失脚した。不正蓄財は温家宝など殆どの共産党幹部や元幹部で行われていると言われる。
6)経済発展で豊かになることは、人と人が協力する基本的文化を破壊する方向にも働く。更に、農村や山村から都市部への人口流動が全国的に生じ、それを受け入れる大規模団地が各地に作られ、地縁的協力の文化も破壊した。それは防寒のための体毛喪失と、服や着物の文化が同時進行的に人という動物に起こったことと重なって見える。
7)技術的特異点(Technological Singularity)、またはシンギュラリティ(Singularity)とは、人工知能(AGI)の発明が急激な技術の成長を引き起こし、人間文明に計り知れない変化をもたらすという仮説である。ウィキペディア参照。

2018年11月26日月曜日

韓国のプロパガンダ:日本の韓国統治非合法論

1)最近、チャネル桜で朝鮮半島に関する議論がなされ、youtube上に公開されている。そこで、西岡力氏や西村幸祐氏が、韓国には革命政権ができ、現在体制変換に向けて準備を整えているという趣旨の発言をしている。所謂、徴用工裁判の判決は、その活動の一環であると考えるべきだとしている。https://www.youtube.com/watch?v=oCvz8ZjXCWY

上記チャネル桜の番組で、西岡力氏は以下のような趣旨の分析をしている。「韓国が目指している戦時労働に対する補償の対象は、肉体的な苦痛に関するものではなく、奴隷労働を強制された精神的苦痛に関するものである」と。 その主張を韓国は21世紀に入り、国際社会に向けて発信しており、ニューヨークタイムズなどもその韓国の主張を受け入れた報道をしているという。1)

この徴用工判決が韓国の深い戦略のもとに出されたにも関わらず、日本の反応には戦略性が全くないと、西岡氏はいう。①日韓併合時の日本の対韓国インフラ投資の高い経済効果や基本条約後の経済協力金による奇跡的な経済復興などなどがあったこと、②当時の韓国にはそのような意地悪な見方がなかったこと(youtube 動画、西村幸祐氏)などを根拠に、そして、③国際社会は証拠と論理で動かせるとの誤解で、簡単に反駁できると甘く考えているからだろう。

彼らも日本人の多くも、慰安婦問題からも何も学んでいないのだ。2)

実際、他のyoutube動画などでは、保守系の論客たちは安易に韓国批判を展開している。しかし、将来予想される事態はそれほど簡単なものではないと西岡氏は警告しているのである。

2)日韓併合を違法であるとの国際的認定3)を得ようと、韓国が企画した会議が2001年に開催された「韓国併合再検討国際会議」である。この時には、併合は非合法だという結論にはならなかった。今後韓国は、この種目的の会議を画策するだろうし、実際にいろいろな企みをやっているだろう。4)https://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93Korea_Treaty_of_1910

その昔、ほとんどの国では国際的交渉において、嘘を並べることに一定の抵抗感を持っていただろう。しかし、現在の国際社会では、表の会議よりも裏の活動の方が活発なのではないだろうか。その流れに乗れば、韓国の工作が成功する日が来るかもしれない。つまり、過去の韓国や台湾の併合は、植民地支配でありこれまでの平和条約は全てやり直す必要があると、国際社会が結論つける日が来る可能性がある。その時、恐ろしいのはニューヨークタイムズの国である。

その恐ろしい国と上記企みの本当の黒幕は、現在対立状態なので、日本に少しだけ時間的余裕ができている。その黒幕が大手を振って表に姿を表す時がくれば(米中融和の時代が再びくれば)、朝鮮半島や台湾だけでなく、琉球も日本が“違法に”植民地支配したということになるだろう。日本は最悪のシナリオを想定して戦略を練り実行すべきである。

日本は、戦前の大日本帝国を悪の帝国にすることで利益や心理的安定を得ようとする国や組織に囲まれている。日本は残された写真や、会議や調査などの記録を基に、科学的方法で現在悪化しつつある状況を乗り切ろうとするかもしれなが、それは特別に有効というわけではない。論理で戦争をふっかける親切な国はない。それを韓国は教えてくれて居ると考えるべきである。

国際政治における歴史書は、過去の史記などの歴史書と同様、ほとんど覇権を持つものに都合の良い話で埋められる。最終的な勝者が作る物語に当てはまる出来事とその解釈が歴史の真実となる。そのような出来事がなければデッチ上げがなされるだろう。慰安婦の性奴隷性も、戦時労働(徴用工)の奴隷労働性も、歴史の真実となるかどうかは、覇権を持ったシナリオライターにより決められる。

3)日本は何をなすべきだろうか。先ずは、覇権国とは当然親密な外交を展開することだろう。そして、覇権国の国民に直接真実を知ってもらうべく活動することだろう。現在の覇権国の国民は、それを理解するだけの知性と正義感を持っている。それが日本の唯一の命綱かもしれない。

米国の権力は分断されている。働きかける時にはそれをよく考えるべきである。ケネディ暗殺を企画したグループは、米国WASPと呼ばれる人々の知性と正義感を悪用している。少数者の権利とか、レジティマシーとかコンプライアンスとか、日本で流行して居る標語は、すべてそのグループが作り出したのだろう。

ブレイクニー、ローガンなどの弁護士は、対日戦線では米国のために戦いながら、東京裁判のときには、日本の弁護をしてくれた。そのように論理を大切にする人たちもあの国にはいる。5)

論理的に反駁するのなら、後者の人たちの姿勢を見習うべきである。そして、日本は独自に日本の近代史を再評価し直すべきである。その際、日本の指導者の愚かな決断は、すべて明らかにすべきである。敗戦国は日本である。我々が学んだ日本史の背後に、蓄積された愚かさ、傲慢さなどがなければ、あのような惨めな敗戦国になる筈はない。

また、あのような慰安婦騒動も起こる筈はない。朝鮮半島や中国で行った日本の戦時行為を残らず詳細に調べ上げるべきである。そこには必ず何か、出て来る筈である。謝罪をするのなら、そのあとにすべきである。

事実と論理に基づいて国際政治をするのなら、本当の意味で真実を見る力や真実に対する敬意を持たなくてはならないと思う。真実を裏打ちするために、インテリジェンス機関やシンクタンクを育てるなど、”投資”をすべきである。そして、国際標準の外交活動を展開すべきである。

二つの勢力)

嘘は効果的に紳士的につかなくてはならないのだろう。タルムードの解説書には、そのように書かれて居る。(ユダヤ5000年の知恵)しかし、傲慢な人たちや強欲な人たちがそのような知恵を悪用したら、世界は暗くなる。東アジアで常に権力争いの中で知恵を磨いた民族が居る。その知恵が編み出した戦法には次のように書かれて居る。百戰百勝、非善之善者也、不戰而屈人之兵、善之善者也。知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。(https://ja.wikiquote.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%AD%90)

これら両民族を敵にしたのでは勝てそうにない。トランプもそう思ったのかもしれない。 補足:

(1)ニューヨークタイムズは、ウィキペディアにも記述があるように、その背後にユダヤ資本がある。彼らは、満州利権を日本から奪おうとして失敗したことを根に持ち、日本を恨んで居るのだろう。フグプランやシモン・カスペ事件も、日本嫌いの原因かもしれない。  例えば菅直人政権下で日本の植民地支配を批判する動きが活発化し、菅直人という売国奴的首相は謝罪の声明をだした。その時も米国のニューヨークタイムズ(2010/8/10)は、大々的に韓国が望むような報道をした。https://www.nytimes.com/2010/08/11/world/asia/11japan.html

(2)最近、モスクワ在住の北野幸伯氏はメルマガで、慰安婦問題について米国人ジャーナリストのマイケル・ヨンさんの本を引用して、「(慰安婦問題における)戦局を大きく変えることに貢献してくださった」と書いている。その本とは、「決定版・慰安婦の真実—戦場ジャーナリストが見抜いた中韓の大嘘」という本で、この11月刊行された。しかし、この本も帝国の慰安婦も、何の効果もニューヨークタイムズにはないだろう。トランプと米国マスコミの戦いを見てもわかるが、彼らは真実など争ってはいない。

(3)国際社会は法治社会ではない。国家間のトラブルを裁き、処罰を加えるための法治機関や、それを執行する行政機関など存在しない。それにも関わらず、日韓併合を違法だと国際社会に訴えるのは、日韓戦争(冷戦)に持ち込むためである。

(4)2010年6月23日、75人の韓国議員は、菅直人首相に対する日韓併合条約の法的無効化を提案した。また、2010年7月6日、韓国と日本の進歩的なキリスト教徒のグループが、更に、2010年7月28日、韓国と日本の約1000人の知識人が、夫々日韓併合条約が有効ではないという声明を出している。(ウィキペディアから抜粋)

(5)ローガン弁護人は、最終弁論において、アメリカの対日経済制裁と戦争挑発政策を批判し、大東亜戦争は「不当の挑発に起因した、国家存立のための自衛戦争」であったと論じ、真珠湾攻撃については「この日本の攻撃が自衛手段でないと記録することは実に歴史に一汚点を残すものであります」と述べ、アメリカの戦争責任を徹底的に追及した。(https://blogs.yahoo.co.jp/tomopapa1023/6997588.htmlより引用)この考え方は、連合国司令長官を解任されたマッカーサーの米国議会での離任演説でも語られている。 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1951-60/1951_makasa_shogen.html

2018年11月23日金曜日

グローバリズムと米国トランプ大統領の姿勢

グローバリズムについて、ウィキペディア(日本語)では、以下のように書いている:

グローバリズム(英: globalism)とは、地球を一つの共同体と見なして、世界の一体化(グローバリゼーション)を進める思想である。字義通り訳すと地球主義であるが、通例では、多国籍企業が国境を越えて地球規模で経済活動を展開する行為や、自由貿易および市場主義経済を全地球上に拡大させる思想などを表す。

以下、この記述をグローバリズムの定義と考えて議論する。

数百年の人類の目標をどう設定するかは自由であるが、地球を一つの共同体と見做すことなど遠分出来る訳がないことは、この100年間の世界での出来事を見れば明らかである。従って、思想の部分は凡そ非現実的だと思う。
現実的には、上記ウイキペディアの記事の“通例では”に続く文が、グローバリズムの中身だと思う。

1)グローバリズムの二つの側面について:

グローバリズムは2つの部分(側面)或いは段階からなる。一つは①「自由貿易および市場主義経済を地球上に広げる」であり、もう一つは②「国を跨いだ資本移動を自由にし、生じた多国籍企業に自由な経済活動を可能とする」である。グローバリズムの政治経済に与える影響の議論では、この二つを区別することが大事だと思う。

この内、市場主義経済と自由貿易の拡大は、財の生産を最も得意な国、或いは能率的な国で行い、それを互いに輸出入で交換することで、双方を豊かにするという人類の知恵だと思う。20世紀後半からその動きが活発になり、そのためにGATTなどの体制が作られた。例えば日本では、農業や資源生産は不利なので、農産物や石油・天然ガスなどの輸入が容易になり、且つ、それらの輸入量は増加した。その一方で、得意な輸送機器や工作機器などの輸出が増加している。

もう一つの面は、「国境を跨いだ資本投下を、世界中どこにでも可能にする」という、国際間の資本取引及び資本投下の自由化である。その結果、単純労働者を必要とする産業は発展途上国に移り、そこで安価に製品を作ることが可能となる。それは、仮に先進国全体の経済を豊かにしても、仕事の一部を途上国に奪われた先進国のブルーカラーは、失業や全体として賃金の実質低下に苦しめられることになる。そして、貧富の差の拡大とデフレ傾向が先進国共通の課題となる。

国内生産が不利であると考えた先進国に残った企業も、賃金の安い移民労働者を利用して他の先進国企業との競争を容易にしたいと考えるだろう。そして、必然的に人の移動の自由化を考える人が増え、移民受け入れの一つの圧力となっていると思う。

会社に対して、新たに“法人”という形で一定の権利と義務を付与し、保護育成してきたその国の国民にとっては、会社法人(企業)の裏切り行為である。一体、誰のために、そして、何の為に存在する法人なのか(補足1)、わからなくなってきている。

他民族は全く別の文化を持っているため、移民増加は治安の悪化や契約行為の複雑化(阿吽の呼吸ではすまなくなる。)、地域社会の破壊など、現在様々なトラブルを引き起こしている。国家全体としては、住民の間に深刻な分断を持ち込むことになる。それが地震の断層のように動いて、政治上の混乱の原因となる可能性がある。(補足2)

グローバル化の問題が議論される切っ掛けとなったのは、「デフレ傾向、貧富の差の拡大、移民の増加(治安の悪化や文化の破壊)」である。ネットでグローバリズムに否定的意見を出している方々としては、経済評論家では三橋貴明氏、政治評論家では馬渕睦夫氏が代表的である。

先進国においては、余剰労働力を新事業例えばサービス業などへ移動させることで解決するのが本来のあり方である。(補足3)もし、失業率が一定程度以下であり、GDPが順調に増加しておれば、問題の解決は本来国内で行われるべきだろう。

また、多国籍企業の進出により、発展途上国の経済は豊かになる。しかし、副作用として本来その国に企業が発生し、調和の取れた経済構造が出来るというプロセスを阻害することがある。従って、グローバリズムを新しいタイプの植民地主義と見る見方も存在する。つまり、途上国が経済発展する前に、そこに出かけて会社つくり、そこの儲けを占める体制を作っておきたいという先進国資本のエゴイズムだという主張が成立する。

この国際間の資本規制を取り払うことは、そして、多国籍企業の誕生と成長を許したことは人類の間違いだろう。(補足4)しかし後戻りは難しいので、何らかの軌道修正が必要だろう。

2)トランプ米国大統領の対外政策について:

今回のトランプ大統領のアメリカ・ファーストという姿勢は、米国の白人ブルーカラーの貧困層への転落の原因を、上で①と分類した自由貿易体制とみなし、それを破壊しようとしている様に見える。つまりトランプの米国は、自国の巨大資本の意向を汲み、グローバリズムを推進したにも関わらず、自国経済における歪、貧富の差の拡大などの上記問題点を自由貿易の所為にして、それをエゴイズム的に強引に解決しようとしているように見える。

下の図に示すように米国のGDPは順調に増加している。日本などに比較すればそれがよく分かる。この順調なGDPの伸びは、上記自由貿易体制の下に達成されたのだと思う。もし、保護貿易的な政策をとれば、世界の経済は縮小し、米国も大きな打撃を被るのではないだろうか。

米国が抱える白人ブルーカラーの貧困化の原因は、グローバル化による部分もあるだろうが、主に国内での富の不公平な分配ではないのか。ブルーカラーの不満を、グローバリズムのリーダーだった米国が、外国にその責任を押し付けるのはおかしい。

勿論、中国との知財に関するトラブルは、中国の責任として解決してもらわないといけない。しかし、その他の国との貿易自体は公正に行われている筈である。

具体的に話を進めると、トランプ大統領が問題として取り上げている、中国との貿易不均衡や日米の貿易不均衡自体は、本来問題にすべき事柄ではないと思う。世界の経済を豊かにした自由貿易体制においては、既に述べたように、自国が上手く生産出来ない物を生産する国に対しては輸入超過になり、得意な物の輸出相手国に対しては輸出超過になるのは当たり前である。それを一対一の国家間で差し引きゼロを目指すという考えは、物々交換の考え方である。

日本も産油国相手には輸入超過であり、貿易は不均衡だろう。そのかわり、別の国との間では、輸出が輸入を超える。それは当然のことである。日本は米国車に高い関税をかけているわけではなく、単に米国の車にそれほどの魅力がないだけである。円/ドルレートも、市場の取引で決まっており、その値は購買力平価からも日本の円が安すぎるということにはならない。

トランプの自由貿易自体を破壊しようとする、所謂「トランプの反グローバリズム運動」は、世界経済にマイナスだと思う。

ただ、移民阻止や外国資本の流入制限などは、その国が独自に決定すべき政策であると思う。グローバル化は人類の方向であるかもしれないが、あくまで新たな歪や不公正や不均衡を生じないような、ゆっくりとしたプロセスで自然に進むべきだと思う。

利己的な動機で拙速にグローバル化を行うことは、世界秩序を破壊することになると思う。現在の資本移動と資本投下の自由化を含むグローバル化は、速く進み過ぎたと思う。今後、多国籍企業の巨大化には何らかの歯止めをかけるとか、それらが上げた利益の分配の問題を国際的に公平となるような改革など、話し合いが必要だろう。

素人のメモですので、間違いの指摘など歓迎します。

補足:

1)単に人の集まりにすぎない会社(企業)に、法人という独立の人格を与えたのは、独自の権利と義務を普通の人(自然人)のように与え、その企業活動を容易にし、保護育成するためである。それは、あくまでもその社会或いは国家を構成する人のために役立つという前提の下の政策である。

2)多量の移民は、国内部に断層を生じさせる。それが国境を破壊するための企みであるかどうかは、現時点では分からない。ただ、最近のEU圏への移民を目指したボート・ピープルと米国を目指す中米からの移民キャラバンを見ると、似ているような気がする。

3)日本の人手不足は色んな側面がある。人口構成が極めて歪んでいること、定年制、若年層の高学歴化(全く高学力化ではない)など、別途議論し解決すべき問題が多い。また、外国人労働者を入れることに関して、年金問題と絡めた議論もある。

4)中国では多くの分野で、海外企業が進出をする場合、50%程度の資本を持つ合弁企業としてしか許可されないという。つまり、多国籍企業は100%出身国の資本で進出出来ない。

追補:米中覇権戦争と米国第一主義 (11/23/18:30追加)
トランプ大統領の反グローバリズム政策について真正面から反対するのは間違いかもしれない。その強引で利己的に見える米国第一主義は、現在米中の覇権戦争的な展開を見せている。中国の大胆な世界展開に力でストップをかけられるのは米国のみであるから、反自由貿易のような姿勢は、マッドマンズ理論を用いた巧妙な作戦であると考えられないこともない。

2018年11月21日水曜日

グローバリゼーションの系譜と民族の生きる戦略

人は物理的には弱い動物であるが、地球上を支配している。人が生き残り、地球上を支配するまでになったのは、人には代々継承される文化と文明があったからである。文化とは代々継承される知恵の集積である。(補足1) 民族や国家でも、長い歴史とその間に大きくなった知的体系(=文化)がある場合、生き残りに有利だろう。長い間に育てられた文化のレベルは、現在の民族のメンバー個人の知恵と、変化に適応する能力として測られる。以下民族としての生き残りの問題を考えてみる。 1)民族の生き残りは、多民族との競争における勝利である。民族が生き残った理由には、文化と地政学の両面がある。深く高い文化を持たなくても、山岳地深く住む民族は生き残ることができただろう。その逆のケースもあり得る。知や美を極めたとしても、戦いに破れればその民族は消滅する。

地政学的意味は時代とともに変化する。現在、ほぼ究極の移動手段を手にしているので、地政学的に地球は平坦になった。つまり、山岳民族も離島の民族も、簡単には生き残れない。生き残りには、文化と文明における総合的な力が要求される。

13世紀にユーラシア大陸の広い範囲を勢力圏に収めたモンゴル帝国は、必ずしも西欧に比較して高い文化を誇った訳ではない。それには、広いユーラシアでの争いを前提に作られた“武の文化”があったのだろう。

現在、世界を制覇しているとも思われるユダヤ資本を考えると、彼らは民族内での強い人的ネットワークと、政治と金融における知恵と力を持っている。その民族の団結と高い文化のレベルが、相互作用的に彼らに利をもたらした。その背後には、継承したユダヤの信仰(意思)やタルムードなどの知恵があったと思う。

現在、世界は第二次から四次までの産業革命後の生産性向上により、経済的に拡大した結果、戦いの動機はかなり減少している。しかし、将来大量消費の時代が続くだろうから、資源や食料の枯渇が必ず問題となる時期がくる。そして、再び民族の淘汰がなされる可能性が高いと思う。この危機を乗り越えるには、民族としての現状認識および生き残り戦略が不可欠だろう。特に、現在のグローバリゼーションの分析と、それに基づく対応が取れるかどうかだと思う。 2)経済のグローバル化は、国境の破壊又は崩壊への一里塚である。その差し当たりの効果は、先進国への移民の流入と途上国人口の増加と経済発展である。世界を広く経済発展させようとするグローバリゼーションと上記人口動態は、先進国の国境だけでなく文化も崩壊させるだろう。その先頭にあるのが、米国だろう。世界のリーダーの米国は、グローバリゼーションの旗手でもある。 米国は、世界の縮図だと思う。固有の民族も文化もない。その米国で大手を振る概念は、「自由と人権」であり、その社会における具体的表現がマイノリティへの差別撤廃(権利拡大)と法的コンプライアンスだろう。それらは米国の多様性や多文化主義的様相を益々強めて居る。また、「自由と人権」の政治的表現が「民主主義」である。

「自由と人権」そして「民主主義」に最高の価値をおくことが、米国により示された近代政治文化の普遍的方向のように見えるが、それは民族(国家)の生存という点で、全てではない。それと部分的に矛盾するのが、民族のエゴイズムであり、“本音と建前の二重螺旋”のうちの本音として存在する。

この「建前の米国」を世界にひろげる計画の原動力は、本音のエゴイズムである。その計画は、米国を牛耳る一部の逞しい人たちの本音によりエネルギーを与えられた世界戦略なのだろう。既にその方法は米国を牛耳る段階で有効性が証明されている。

マイノリティの一つでもあるユダヤ社会が、その少数派の権利確保という名目で運動を組織化し、米国を牛耳ることに成功したと、政界の重鎮だったブレジンスキーが回顧録の中で書いているという。https://www.youtube.com/watch?v=Z85BnnOPmZ4&t=412s 

ブレジンスキーは自分でタネを明かす不思議な奇術士だと思う。本音を明かす動機はわからないが、それは真実だろう。そして、抵抗勢力をコンプライアンスという言葉で封じてきたのだろう。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43792629.html

その建前と本音の間には、螺旋を数回りしたところで食い違いを生じる。自由の一表現である「銃で守る自由」は、非文化的であり往往にして銃により破壊される。また、“自由”の陰で消えそうに存在するのが“平等”である。経済生活上の不公平係数である“ジニ係数”は、米国において先進国中最大である。(補足2)自然発生した単独の民族から生じた文化なら、自由と平等は2本足のように存在する筈ではないのか?

米国の自由や人権は、建国当初のものから変質して来たのだろう。現在では、建国当初の主要メンバーだった白人達のブルーカラーの部分は貧困層であると聞く。(補足3)国家全体にそのような分断がある限り、米国の「自由と人権」は形骸化していると言える。中国が、内部の矛盾を外部に勢力を広めることで解消しようとして居るとよく言われる。その批判は米国にも当てはまるのではないのか。その姿は、トランプ大統領の外交姿勢で明らかになってきている。民族の淘汰は、見えたり隠れたりするかもしれないが、常に存在するというのが正しい理解だろう。

3)評論家の三橋貴明氏は、ネットでの解説において、国際共産主義運動を第一次のグローバリゼーションとし、資本と人の移動から国境障壁を無くす現在進行形のグローバリゼーションを第二次グローバリゼーションとしている。馬渕睦夫元ウクライナ大使は、その両方とも米国に多く在住するユダヤ資本家たちが推進したと、指摘している。

経済のグローバリズムは、株式会社のために国境を跨ぐ移動に際して、障害を取り除くことである。そのために、人や物、金の自由な移動を可能にする制度である。自由と人権の思想を自然人から法人に拡大し、国境を取り除いて世界に広げようとしているのである。それは、米国がこれまで国内で個人を対象に採用してきた考え方の延長上にある。

地球上に散らばりながら生存空間の拡大を目指してきた彼らユダヤ系資本家たちが先頭にたち、支配下にある法人とともにグローバルな自由度を獲得したのだろう。彼らは、グローバリゼーションの中で生き残る実力と自信があり、グローバリゼーションの中で消滅する他民族と他文化の運命も知って居るのではないだろうか。

馬渕大使は、その中で米国民の多数派で支配層だった白人・アングロサクソン・プロテスタント(WASP)の生き残りのために立ち上がったのが、反グローバリストのトランプであり、グローバル化の弊害から世界を救う活動家だと考えて居るようである。中米ホンジュラスからの移民キャラバンは、そのトランプへの反撃として引き起こされたという考えは十分説得力があるように思う。(昨日の記事)

トランプの姿勢はグローバリズムに敵対する動きであり、トランプが勝てばハッピーエンドだろうか。私には、トランプの単純な勝利は、世界に別の混乱を引き起こすように思える。差し当たり現段階で立ち止まり、今後の世界の未来を考えるべきである。

今回は、中途半端ですが、このあたりで終わります。民族の生き残りを標榜しながら、そこまで議論が進みませんでした。近いうちに続編を書きたいと思います。素人の考察ですので、いろんな角度から不十分な点や誤りを指摘いただけたらと思います。

補足:
1)文化は知恵と慣習の集積だが、慣習は知恵の継承の為に作られた習慣だと思う。つまり、継承する本体は知恵である。
2)http://top10.sakura.ne.jp/CIA-RANK2172R.html
2)ジニ係数を算出するプロットで、右端の富裕層にユダヤ資本家たちが並ぶ。WASP(白人アングロサクソンプロテスタント)の下に、更に有色人種が左側に並ぶのだろう。(補足1参照)それは自由と人権を標榜する国としては異常であると思う。

2018年11月20日火曜日

中米から米国を目指す移民キャラバンの不思議

中米ホンジュラスを出発した米国への移民を目指すキャラバンの約3000人が、グアテマラを経てメキシコに流入し、米国との国境の町ティファナに到着した。更に、4000人ほどが近く合流する見通しだという。ティファナ市長によれば、移民の流入は「少なくとも今後半年は続く」見込みだという。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181119-00010000-aptsushinv-n_ameもう一つのサイト

このキャラバンについては不思議な点が多い。出発はホンジュラスだそうだが、SNSで参加を呼びかけたのは誰なのか、何故グアテマラ国境を突破できたのか、何故、メキシコ国境を突破できたのか? 米国大統領がメキシコ国境に壁を築くと宣言したトランプの時に、何の保証もなくキャラバンに参加することなどできるのだろうか?(ウィキペディアに記述がある。)或いは、なんらかの保証のセリフを語るものがいたのか?

グアテマラやメキシコと言う国々はそんなに簡単に国境を突破できるのか? 普通の感覚では、国境警備隊に銃撃されると考えるだろう。私の想像だが、そのようにならなかったのは、国境警備隊を指揮する立場の者がなんらかの利益と引き換えに国境を開いたのだろう。

トランプ大統領は、その背後に民主党がいると選挙演説で主張したという。http://www.afpbb.com/articles/-/3194542 素人の感覚では、民主党が党としてそのようなことを画策するとは思えない。例えば、民主党を支援する勢力とか、大統領はもっと真実に近い情報を知って居るだろう。

その他に協力者として報道されているのは、著名なユダヤ人投資家のジョージ・ソロスの関係団体である。つまり、ソロスのオープンソサエティー財団や一部企業が支援して居るという報道がなされている。そのあたりのことは、このサイトに書かれている。

その記事の執筆者は、ソロスは人道的立場で貧しい移民希望者を支援しているのか、世界をボーダレス化して現政権を転覆させて、社会主義化させようとしているのか、或いは税金逃れのためなのか、見極める必要があると記事を結んでいる。

トランプ大統領は簡単には入国はさせないだろう。その結果、キャラバン参加者はティファナで長期間、不自由な暮らしを強いられるだろう。町の治安は悪化し、被害を受けるティファナ市民とキャラバン参加者との摩擦など、大きな混乱が生じる可能性がある。

このようなキャラバンを無責任に立ち上げたのがソロス氏だとすれば、彼は決して人道的立場にたつ人物ではないだろう。何千人という人の運命をあまりにも軽く見て居ると思う。

兎に角、トランプ大統領は難問を抱えたことになるだろう。
今後恐らく、メキシコは国境を閉めるだろう。この騒動で私腹を肥やした者もいるだろうが、その事実も次第に明らかになるだろう。ひどい事件であると同時に、世界の政治を知る上で非常に興味深い事件でもある。

2018年11月16日金曜日

日露平和条約に米国の協力は得られる筈:新冷戦の中での露日米の融和関係樹立の主張

1)日本は西欧的近代文化の中にある国であることを明確に表明すべきである。その論理を交渉の枠組として、日露平和条約にトランプ・米国の協力は得られる筈である。

昨夜の産経新聞配信のネット記事は、日露の領土交渉についてまとめている。その日露交渉史は、ロシアの返還可能な線と日本の要求する線が、位相を異にして、歯舞色丹両島返還を中心に南北に動いていることを端的に記述している。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181115-00000615-san-pol

ロシアの姿勢が強硬になる原因は、常に日米安全保障条約である。それは、北方領土が東西冷戦の現場であったことを示している。現在、東西冷戦は殆ど消滅して新冷戦の時代であると考えれば、ロシアは少なくとも現在その中心には無く、米国の協力とロシアの理解は、得られる可能性がかなりある。安保条約の役割も変化している筈だからである。

何れにしても、日本や朝鮮半島は冷戦での対立の境界線上にあり、従って、日露平和条約は考え方によれば新冷戦を緩和する役割を持つ。安倍内閣がこれ迄のように、東西冷戦の谷間で他動的に揺れるのではなく、自発的に新冷戦の緩和と解消に貢献出来るチャンスでもある。

新冷戦において、米国の相手の中心に現在存在するのは言うまでもなく中国である(追補2)。その中国との間では、日本は自由と開かれた貿易体制を築くというスタンスで関係改善を探っている。その両方(対中関係と対露関係)を上手く組み合わせることで、日本が新冷戦の解消に寄与出来る可能性があり、安倍総理はそのように動いていると思う。

トランプ・米国は、既に多極化の方向に動いている。しかし、中国が世界を中華秩序の中に飲み込んでしまうのではないかという懸念が、新冷戦の心理である。そして、ロシアをその中華新秩序のパートナーにするとすれば、米国の非常に愚かな選択となるだろう。

従って、日露平和条約締結への協力を切っ掛けにして、米国はロシアを一歩、新冷戦の中心から遠ざける事ができるのである。米国の協力とは、「今後(21世紀以降でも良い)新たなに日本領となった地域は、日米安全保障条約の第6条の適用外とする」の一文を日米地位協定に入れることへ同意するだけである。(最下段の追補参照)

2)紳士的敵対と野獣的敵対

これら一連の新冷戦を小さく砕き、解消させる方向に努力する日本外交の基本的論理は、日本は西欧近代文明の枠組の国であり、新興巨大勢力となった中国もその枠組の中に迎え歓迎する手引き役となり得ると主張することである。既に中国は、自由で開かれた貿易体制という、西欧の論理が中国の利益とも一致するとして受け入れているので、全く不可能な話ではないだろう。

中国がその発展のペースを緩め、一帯一路構想も自由と公正の西欧論理の枠組みで展開すれば良い。岩礁を元に埋立地をつくり、それを新しい領土とするような(西欧文化の中心的論理と矛盾する)姿勢を今後はとらないという意味の声明を、中国が得意のレトリックを用いて言明すれば良い。その中に、「中国は借金外交(China debt diplomacyの訳)など、元々意図しなかったのだ」も折り込めばもっと良いだろう。(補足1)

国家の間であれ、個人間であれ、敵対関係は当然ありえる。しかし、その敵対関係が紳士的或いは文明的なものか、それとも野獣的或いは異星人的であるのかは、大問題である。中国には少なくとも文化的で紳士的な敵対関係を、米国側(日本もその一員である)と取ってもらいたい。そのように中国と交渉できたら、日本の初めての主導的で自発的な国際貢献となるだろう。

その西欧文化圏の中に、ロシアは存在する筈である。米国のトランプ大統領には、新冷戦の拡大を防止するという観点から、日露平和条約の締結に理解と協力をしてもらうことは、可能だろうと考える。

補足:

1)韓国は、日本と同様に東西冷戦の谷間に浮遊する木の葉のような存在であった。日本と異なるのは、この数百年同じような情況だったことである。そのため、彼の国(かのくに)は、西欧近代文化を全く吸収していない。それが、日韓対立の根本原因である。韓国は、親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(ウイキペディアの同項目参照)などを持つ国であることを、世界に宣伝すべきである。徴用工問題も、法治主義という西欧近代文明を受け入れていない為に生じた話である。

追補:(16日21:00)日米安保があっても、日本の意思で色丹歯舞への米軍の展開は無いようにできる。佐藤優氏の解説参照: https://www.youtube.com/watch?v=uSzA57m0fag 追補2(17日午後2時半):新冷戦についての私の理解は間違っているかもしれません。現在でもシリアなど中東での対立が主なら、ロシアが新冷戦の中心だということになります。しかし、対中国の方が現在は大きな対立に見えます。

2018年11月15日木曜日

日露平和条約を二島返還を大きな成果と考えて結ぶべきである。また、統一朝鮮の成立前に日朝基本条約の締結と拉致被害者の救出を同時に達成すべきと考える

以下は、政治の素人の夢想を書いただけのものです。予めお断りしておきます。

1)安倍総理とプーチンロシア大統領がシンガポールで会談した。安倍総理は歯舞色丹の平和条約後の返還を約束した日ソ共同宣言をベースに、今後平和条約締結交渉をする意向らしい。中日新聞一面及びNHKニュースではそのように報じている。

中日新聞の朝刊三面の記事では、あくまでも4島返還が日本政府の方針であるとしており、平和条約と領土問題解決に際して日露両国の間には依然として深い溝が存在すると書いている。その一つとして、仮に二島返還で話をまとめるにも「これらの北方4島が第二次大戦の結果、合法的にソ連領と認めることが必要条件となる」とロシア側外交筋の考えとして書いている。

ただ、中日新聞等ではこの平和条約交渉の経緯についてあまり詳細には書いていない。(補足1)また、上記ロシア外交筋が用いたという「合法的」という言葉は、国内法の「合法的」とは意味がことなるが、その使用に何の配慮もない。

サンフランシスコ条約の際、千島列島の放棄に同意したのだから、そして、ソ連は戦勝国連合の同意を得て千島を取った。それを合法的というのなら、合法的であることは明白である。国後と択捉は放棄した千島に入るのは、吉田茂首相と西村条約局長の国会答弁でも明らかにされている。

更に、日露関係の改善を現在の国際情況全体の中で考えるという視点が全く欠けている。日本国民に日露平和条約締結に反対するように仕向けているのは、中日新聞、恐らく関係の深い東京新聞や朝日新聞が、反日新聞であることの結果だろう。

この件については、9月21日のブログ記事に書いたように、早期の平和条約締結が日本にとって大きな利益となる。是非、年内或いは出来るだけ早期に、日露平和条約を実現してもらいたい。何故なら、日本に時間はそれほどないからである。(9月21日の記事参照)

2)米国は北朝鮮との交渉での着地点をどのように設定するかは、中国と北朝鮮の関係次第だろう。北朝鮮が中国の属国ではなく、まともな独立国としての地位を得られるのなら、核兵器を隠して持つことを米国は許容するだろう。それは将来の、核を持った統一朝鮮の誕生に繋がる可能性を大きくする。

日本が何も手を打たなければ、中国、ロシア、朝鮮、米国の4つの核保持国の谷間で、孤児のようになり、経済と政治の両面で消滅の危機に晒されることになると思う。将来的には、米国はグアム以東に退き、日本との関係も緊密でなくなる可能性が高い。

最近の国際情勢では、米中新冷戦は今後数十年に亘って続く可能性が強いと見えるが、それは全く予測不可能である。米国にそれだけの体力があるかどうか分からないからである。

従って、日本はロシアとの関係改善、中国との関係改善などをオプションとして持つべきだろう。何方が簡単かと言えば、現在はロシアとの関係改善である。何故なら、米国と中国の覇権争いが差し当たり現在の国際環境の主なる潮流だからである。ロシアとの関係改善と極東での経済発展は、中国とロシアの間に一枚岩的な反日の動きを封じることに繋がるだろう。

韓国の徴用工裁判を見れば判るように、国際社会は準野生の世界である。法も正義も国際会議の中の話であり、二国間の外交や交渉の現場は、法と正義の支配から戦争までの間の連続した空間を作っており、「合法と非合法」などという言葉で仕分けができる空間ではない。

日露が接近できたとしても、更に、北朝鮮、韓国、中国の間に一枚岩的な反日同盟関係を築かせないためにはどうすべきかを考えるべきだと思う。場合によっては、北朝鮮といち早く日朝基本条約を締結し、拉致問題と一緒に片付けることも考えるべきだと思う。

韓国の反日は、北朝鮮が韓国で展開したオルグ活動の結果の可能性が高い。それは日韓の関係に楔を打ち込み、日米韓連携を崩す為だろう。現在、日韓関係は破壊に向けて進んでいるので、日本は北朝鮮との基本条約を、韓国による日本の負担額の吊り上げ工作(補足2)の前に、結んでしまうことが良いと思う。それは、反日統一朝鮮の誕生と成長を遅らせることにも繋がる。

元々、民主国家を経験した韓国と中世的共産党の名を冠した王朝との統一は、相当に難しいのだから、北朝鮮による韓国の吸収合併以外にその道はないだろう。文在寅韓国大統領の考えていることと、韓国一般の考えていることは大きく異なる可能性が高いと思う。

補足:

1)日ソ共同宣言は、米国の傀儡政権である吉田内閣ではなく、鳩山一郎内閣のときに締結されたことに注目すべきである。この二島返還で日ソ平和条約を結びたいとの鳩山内閣の意向を拒絶したのが時の米国国務長官ダレスであり、そのときに4島返還論が出来たという。(9月21日の記事参照)

2)徴用工問題は、北朝鮮と日本の基本条約締結に関する日本側の敷居を高くするためなのかもしれない。この効果自体については4日のブログ記事で書いた。
トランプ大統領は、金正恩を高く評価する発言を何度もしている。その意味は、もし米国が北朝鮮を承認し、その経済復興を日本にやらせれば、中国から独立した国家に育つ可能性があるからだろう。

河野外務大臣がしっかりした政治家であることを証明した動画+α

1)以下のyoutube にある動画が面白い。末松という立憲民主党衆議院議員が国会で質問に立ち、河野太郎外務大臣が答弁している。https://www.youtube.com/watch?v=eg1IsfFjVT0 

末松議員の質問は、3日に発表された河野外相の談話に関するものだろう。それは、トランプ米政権の新たな核戦略指針「核体制の見直し(NPR)」に関し、「わが国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にした。高く評価する」という談話(意見表明)である。

産経新聞によると、河野外相は「北朝鮮の核・ミサイル開発の進展で安全保障環境が急速に悪化している」と指摘。米国と危機意識を共有するとした上で「日米同盟の抑止力を強化していく」と表明したようだ。 https://www.sankei.com/politics/news/180203/plt1802030009-n1.html

末松議員は、「河野太郎さんは、2,3年前に世界から核廃絶する道を開くべく日本政府も努力しなければならないと(理想論を)話していた筈だが、その話は何処へ行ったのだ」という意味の質問を必死にやっているのである。そこで以下のコメントを投稿した。

末松さんは格闘しています。目標は核廃絶信仰へ河野太郎を勧誘すること。しかし、河野さんは当然現実問題を喋っている。宗教への勧誘は、教会の前でやることなのだが、場所を間違えている。戦場の指揮官に向かって、神の愛を説いているのだ。誰か、漫画に描けば面白い。

2)この動画は、政治家河野太郎の姿勢が明確に示されている点、そして、立憲民主党などの野党議員の国会活動の本質が見える点で、興味深い。河野さんは、現実と理想を上手に使い分けている。

本音と建前の使い分けは、民主主義世界の政治家教育では、初等中等教育の必須科目だろう。素人である大衆の前では建前を語り、玄人である筈の政治家の中では現実を語るのが、これまでの政治家の姿勢だったからである。

しかし、ネット社会になり、この政治家の姿勢維持が難しくなったと、昨年なくなった米国のブレジンスキーが白状している。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43792629.html

ブログの記事を読んでもらえば分かる通り、最初の発言でブレジンスキーは、ユダヤ社会がマイノリティーの権利拡大という「建前」で、「現実」の米国政治の支配権を獲得したことについて言及し、更に2番目の発言(100万人云々の話)で、その建前が通用しなくなりつつあることへの懸念を表明した。

そこでは、知りすぎた素人は殺した方が楽だと発言してしまった。(補足1)それは、玄人はだしの素人が現れたからである。現在、知識を持った素人とズブの素人的な職業政治家が、共存する時代となった。

そして、理想論ばかりで現実論など頭の端にもないのが立憲民主党の議員たちであることをリトマス試験紙的に示したのが、この動画での末松議員の質問である。(時々同僚から起こる拍手が、リトマス試験紙が有効であることを示している。)

日本の国会の正常化には、国民一人ひとりがユダヤ人のように原点から物事を考える習慣を身に着け、この手の理想論しか頭にない政党や議員を出来るだけ国会から排除することが必要だろう。

補足:

1)ただこのケースでは、年を取ることが、秀才ブレジンスキーからも本音と建前の使い分け能力を奪ってしまうことを証明したのか、それとも、年を取れば、話し相手すら間違えてしまうことを証明したのか、更には、玄人だけの秘密の会議を盗み聞きして、誰かがネットに流したのかわからない。

この発言は、「知りすぎた素人100万人を説得するよりも、殺したほうがよほど簡単だ」である。https://www.youtube.com/watch?v=Gc9rsvBIh9Uにあったのだが、今は削除されている。グーグルで「ブレジンスキー、100万人」で検索すれば、それに言及したサイトが出てくるが、そこで引用された動画は全て削除されているようだ。これも恐ろしい現実を示している。

2018年11月9日金曜日

外国人労働者の受け入れの前に日本の労働文化を見直すべき

1)安倍政権は、外国人労働者の受入枠拡大のための法令を、準備しているようだ。単純労働者を大量に入れることになるかもしれないのに、殆ど国民的議論のないままにそれを推し進めようとしている。在留資格として、専門性の高い職種のほか、特定活動従事という訳のわからない資格を設けて、要するに単純労働の長期在留者を作ろうとしている。それが一つの移民制度でなくて何なのか。(補足1)

日本の政府は、差し当たり労働者が必要だからという理由だけで外国人を受け入れるべく、なるべく有権者の反発を招かない文言で法令をつくるつもりだろう。しかし、それが将来的に移民に変身する可能性があるのなら、最初から移民制度として考えるべきである。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181109-00184845-diamond-bus_all&p=1

現状で移民を受け入れれば、日本社会は諸外国以上に不安定になるだろう。日本が、個人主義文化の国でないからである。会社の採用のあり方や就労形態を見ても、諸外国とは全く異なる。会社への就職は、主従の関係樹立であり、労働力を売り買いする契約ではない。そこに単純労働の外国人を実習生や短期雇用の労働者の形で入れれば、大きな不満を生じることになるだろう。その不満を持った多数の外国人が発生すれば、将来国際問題の火種になる可能性すら存在する。

70年以上も前の徴用工問題で、日韓の間に修復不可能な亀裂が生じようとしていることを、どう考えているのか?

一定数以下の少数の外国人なら、ローカルな努力が社会全体の問題になる前に、不満を吸収できるかもしれない。しかし、多数の外国人在留者が一定の社会的勢力にまで成長すると、現在の日本文化と致命的に衝突し、社会全体が不安定となるだろう。その事態になれば、治安の悪化や様々な社会的コストの増加で、日本の政治経済は破壊される可能性すらあると思う。

世界の中の日本を考える際、日本独特の文化をそのままにして、国際化社会に生きることは出来ないだろう。その議論を先ずしてから、外国人労働者の受け入れを考えるべきだと思う。

2)労働力の不足の問題も、総合的視点にたって問題点を整理しなければ、真に国家の利益となる様な解決法は見つからないだろう。経済界の一部から強力な圧力が政権側にあったのだろうが、その企業のエゴイズムに屈する形での法令改正は、国民への背信行為である。

先ず、労働力は何故不足しているのか?という問題を考えるべきである。GDPはこの20年間ほとんど増加していないのに、何故労働力が不足するのか。GDPが一定であり、労働生産性が減少した訳でもないのなら、通常労働力不足は考えられない。(補足2)

突然経済成長が始まった訳ではないのだから、老齢人口の増加と若年労働力の不足が原因だろう。しかし、それは本質的な労働力不足ではない。労働力があるにも関わらず、それを有効利用していないだけである。

もしそうなら、日本独特の中世的な労働文化を廃止して、西欧と同じ様にすれば問題は解決する。それは、会社と従業員の関係を、労働力の需要側と供給側という普通の関係にするだけである。そうすれば、定年制廃止がただちに可能であり、大量の「労働市場に提供される労働力」が発生する。(補足3)

また、その労働文化の改革により、若年労働力の不足も解決する可能性がある。何故なら、高校や大学の卒業生にとって、就職の意味が大きく変化することになるからである。大手企業と封建的な関係を結ぶわけでないのなら、一流大学に入学していなくても、自分の技量と能力を示せば、就職出来るはずである。就職という点だけなら、90%の仕事において大学教育など不要だろう。相応の中等教育と社内研修で済むだろう。(補足4)

大学進学率が日本や韓国で非常に高く、社会が学歴に異様に拘るのは、22-3歳のときの一流企業への就職が人生を決めるからである。人生は80年と長いのに、何故その大学に入る前の5年間ほどの努力、つまり体力と執着力、で全てが決まるのか?

米国では、仕事にアプライする際、履歴書に年齢は書かない。そして、年齢差別は強く禁止されている。雇用関係を、純粋に労働の需要側と供給側の関係と捉えることで、労働力の再配分の能率を上げているのである。まさに、適材適所がネチネチした人間関係に邪魔されることなく達成される社会なのである。 http://www.dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3509534_po_r070601management.pdf?contentNo=1&alternativeNo= 

そのような労働文化であれば、パワハラなど生じる素地はなくなるだろう。そのような上司の下には優秀な労働力は自然と来なくなるからである。無駄な高等教育もなくなり、大学に就業している教員や事務員が多数、企業に流れることになるだろう。

老齢の者も、そのような社会になれば、自分の能力を客観的に把握できるようになり、相応の社会貢献も可能になるだろう。定年後の優れた能力をボランティアとしてのみ用いるのは、もったいないと言える。

そのように考えれば、外国人労働力など、経済成長しない現状では日本に不要だろう。そして、経済成長は労働生産性の向上によりなされるべきである。その正常な経済成長なら、尚更外国人労働者は高度な人材に限る事が可能となる。

補足:

1)この法案を読んだことがなく、報道された記事の概要だけで議論しています。間違い等の指摘があればお願いします。

2)給与は労働生産性と比例関係にある。給与が殆ど一定であるから、労働生産性が減少したわけではない。

3)前日まで年俸1000万円の労働力が、突然ゼロ近辺まで落ちるのが定年制である。それは、労働力の対価として給与があるのではなく、椅子に給与が張り付いていることを示している。日本では、この種の多数の椅子が社会を硬直化させている。それに気づくべきだ。

4)前の記事でも書いたが、佐藤優氏が日本は学歴社会ではなく、入学歴社会だと言っていた。つまり、一流と言われる大学を卒業して一流の学力をつけることが社会で成功する鍵ではなく、一流と言われる大学に入学することが成功の鍵だとうのである。華々しい人生は、一流の高等教育ではなく、私立中高一貫教育を受けた中等教育によりもたらされるのである。

2018年11月4日日曜日

人の幼児期が長いことと、言葉と道徳とを学ぶこととの関係について

人は言葉を話し、人の言葉を信じる動物である。どのようにして人は言葉を話すことになったのか?人は何故、他人の言葉を信じることができるのだろうか。以下、断定的に「である」で終わる言葉は、学説を確認したという訳ではなく、単に自分の考えを述べたにすぎないことをお断りしておく。(補足1)

人は長じて嘘をつくようになる。嘘が社会生活の上で一定の効果を持つのは、その嘘の言葉を人は信じるからである。人は、全く前提を置かずに言葉を聞き、その後言葉の意味と信ぴょう性を判断するのではなく、信じることを前提としてその言葉を聞くのである。人が「止まれ」と言えば、それを聞いた人は先ず止まるだろう。そのことからも、上記命題は明らかである。

言葉は幼児期に人の頭に埋め込まれるのだろう。その段階では、まわりの人は皆その幼児の味方である。従って、自分が聞いた言葉と自分の体験が常に一致する。その一致により、幼児は言葉を学習すると同時に“言葉を信じる性質”を獲得するのである。人の乳幼児の期間が長いのは、道具としての言葉の学習と、それを用いた人との情報交換の方法を学習するためだろう。

人が草食動物のように、早期に自分の足で歩いたり走ったりできれば、生存に有利だと思うだろうが、人間としてはそうではない。

生まれてすぐに歩き出せば、言葉の習得前に、幼児は自分の味方以外の人物と出会うことになる。その結果、幼児は言葉が信じられないことを学ぶと言うより、言葉そのものの学習が出来ないことになる。言葉を学ぶには、頭脳が完成したとしても少なくとも2年程かかるだろう。従って3-4歳までは、完全に信頼できる母親とその家庭の下で育たなければ、言葉の習得と言語文化の基本がまともに習得出来ないことになるだろう。

「駄々をこねる」のも、言葉を学ぶ一環である。それに対する、親の反応を見ることで、幼児は言葉が人に何かを要求する時の道具となることや、その際の限度などを学ぶだろう。道徳とは、個人が要求できる範囲の自覚であると考えると、言葉と道徳は一体として幼児期に習得されることも理解できるだろう。

以上の説明で、幼児教育の大切さ、特に、母親と家庭が言葉と道徳の学習に如何に大事かが理解できるだろう。現在、男女平等や女性の自立が議論されている。また、それを助ける保育施設の拡充が課題だと考えられている。心配なのは、その様な議論をする人たちは、人の言語習得や道徳学習などにとって非常に大事な幼児期を対象にしていることを、十分考えているのではないことである。

何故なら、人類は未だ自分自身を理解していないからである。

補足:
1)ネット検索をしても、人の幼児期が長い理由についての議論が見当たらない。多分定説はないのだろう。

追補:今回の議論の基礎は、ダーウィンの進化論である。つまり、言葉でのコミュニケーション能力のある人が、肉体的に丈夫な人よりも人間社会に適応できること、それに適者生存の原理を仮定している。やや禁句に近いことを言うと、豊かさと平等は、人の平均としての社会的能力を低下させる。また、男女が分業的に生きてきた過去の歴史を否定し、同じことを権利として主張することも同様である。
(補足と追補は、11月5日早朝追加)

韓国最高裁の徴用工問題判決:政治を法と論理の世界だと思う日本の愚かさ

1)徴用工の問題で日韓関係が揺らいでいる。韓国最高裁は、韓国人元徴用工の主張を認めて、元徴用工に対し当該日本企業に賠償を命じる判決を出した。原告の要求は、未払い給与の支払いなどではなく、劣悪な環境で働かされた苦痛に対する賠償要求であり、当時の日本国家の決定に基づいてなされた徴用工制度に直接関係する。従ってそれは、日韓基本条約と同時にむずばれた請求権協定で、韓国側が一括放棄した権利である。この件、昨年8月のブログに既に議論している。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/08/blog-post_18.html

今朝(2018年11月3日)のテレビ番組ウェイクで、中央大法科大学院教授の野村修也氏は、「韓国は三権分立の国だから、大統領もこの判断を覆すことは出来ないだろう」と言っていた。この発言は、意味不明である。司法の判断を大統領権限で覆すことなど、出来る訳がない。多分、野村氏の発言は、「大統領はその最高裁の判断に従って、日本企業へ賠償させる様に動かざるを得ない」という意味だろう。しかしそれは単純な解釈だと思う。通常なら、大統領がその司法判断に従って行政を動かすだろうが、国家にとって非常に重要な影響がある場合、それを無視することも考えられるからである。

民主国家における行政の最終判断は、主権者の国民によりなされるべきである。しかし、国民全体の意思を直接確認することは通常不可能であり、それを国民の選任による国家元首が行う。つまり、大統領が日韓関係を破壊し、国民全体が多大な損害を被ると考えた場合、特例として司法の判断をそのまま行政に直接反映させないことも可能だろう。

以上述べたことは、通常大統領と呼ばれる地位は国家元首であり、単なる行政官のトップではないということを根拠にする。つまり、大統領の権威は三権の上位に位置する。極端な例をあげれば、国家存亡の時には国家元首は、憲法などの国家の法体系を停止する国家緊急権を行使する。(補足1) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%B7%8A%E6%80%A5%E6%A8%A9

もし韓国がそのような国なら、当然文在寅大統領は、韓国の今後の行政に今回の最高裁判決に従った措置を取るかどうかの判断が可能である。それは、福田総理のときのダッカでの人質解放の時にとった措置と同類である。

この問題が大きくなるとした場合(この放送を観た感想だが)、テレビが国民に正しい情報を与え、考える材料を与える役割など出来そうにない。日本の電波は、レベルの低い人達や、仮面を被った反日スパイ的な人に支配されているからである。

おそらく文在寅大統領はベトナムのような統一朝鮮を考えているだろう。その場合、韓国経済はひどい情況になる可能性がたかい。また、北朝鮮は日本と日韓基本条約に相当する条約を結ぶことになる筈である。その際、巨額の戦後賠償を得るには、この問題を大きくしておくことが有利だろう。

韓国は消滅するのだから、韓国に相当する地域は、二度目の賠償金を日本から手にするチャンスであると考えているかもしれない。

2)今回の韓国最高裁の判決は、文在寅大統領の顔色をうかがって出された判断だろう。今後それを利用して、無から有を出す日本相手の韓国風錬金術として利用するためである。そのようなことをすれば、国際的な悪評を世界にばらまくことになると、ナイーブに日本人は考えるだろう。

Youtube動画などでも、韓国批判をして溜飲を下げるような内容の動画がほとんどであり、テレビ同様に視野の狭い内容を流布している。その中で、日本の多くが簡単に片付ける程には単純な問題ではないと指摘したのが、佐藤優氏である。佐藤氏は、以下のような問題点を指摘している。 https://www.youtube.com/watch?v=T6vJjPpQnw4&t=1068s 

①日本企業は、保障をする法的義務が無いとしても、人道的観点と企業イメージの毀損を防止する観点から、個別に保障をしてきた例がある。今回の判決で、それが出来なくなるだろう。それが、韓国内に日本に対する不満を更に大きく醸成することになる。

②韓国が、日本企業の韓国内資産を差し押さえることになれば、日韓の経済交流は大きく縮小し、多大な経済的損害を生じることになる。更に、韓国は米国に存在する資産を差し押さえるべく、弁護士を使って活動した場合、米国での経済活動においても、日本企業は韓国リスクを背負うことになるだろう。もし、中国が韓国に習って、同様の行動をとれば更に大変な問題になる可能性がある。

③法理論としては日本側に利があるとして、安閑としていては日本が巨大な罠にハマってしまう可能性がある。その方法は、日本の徴用工の悲惨さを慰安婦問題と同様に捏造宣伝することである。その様に、米国市民の感情に訴えた場合、日本の国際的イメージを大きく悪化させることになる可能性がある。中国と韓国がこのようなプロパガンダを展開することになれば、慰安婦問題との相乗効果で、日本が窮地に立たされる危険性もある。

世界は衆愚政治の時代に入ったと思う。その兆候は、米国や最近のブラジルなど、到るところに現れて来ている。法と論理による政治参加ではなく、感情と怒りによる政治参加を主張し、それを扇動することで利益を得ようとする勢力が世界に台頭している。日本はそのような世界の動きに鈍感である。未だに、法と論理で物事が運ぶと幼稚に考えている。

貧富の差の大きい中国と米国(補足1)で、そのような衆愚政治の嵐が吹けば、世界は混乱の時代に入る可能性が高い。経済のグローバル化と先進国での大きな貧富の差が、そのような素地を一層強く世界中に作り出した。高い貧富の差に苦しむ世界の衆愚は、生贄を必要としている。そこで、最初の犠牲に日本国がなる可能性がかなり大きいかもしれない。非常に心配である。

補足:
1)貧富の差を表す統計数値にジニ係数がある。主要国の中でそれが大きい代表的国家は、米国、ブラジル、中国である。低い国家として北欧諸国がある。http://top10.sakura.ne.jp/CIA-RANK2172R.html

2018年10月30日火曜日

世界は混乱の時代にはいろうとしているのか?(ブレジンスキーの二つの発言をヒントにして)

馬渕睦夫氏が紹介したブレジンスキーの言葉は非常に興味深い。その言葉の意味は、①「米国の政治を握ってきたのはユダヤ系社会であり、その手法は簡潔に言うと、”マイノリティーの権利をまもれ”という政治活動であった。つまり:米国での黒人やヒスパニックはマイノリティーとして、政治的に軽視されてきた。知恵があり、マイノリティーの一つでもあるユダヤ社会が、その少数派の権利確保という名目で運動を組織化し、米国を牛耳ることに成功したというのである。  https://www.youtube.com/watch?v=Z85BnnOPmZ4&t=412s

この発言は、The Choice、Global Domination or Global Leadership、「選択:世界の支配者又は世界のリーダー」という題名の本に書かれているらしい。邦訳は、「孤独な帝国アメリカ」として出版されているが、現在アマゾンでも入手不可能である。

ブレジンスキーのもう一つの発言は、何度もこのブログで紹介している。それも馬渕睦夫氏のyoutube動画で知ったのだと思う。それは:②「この100年間に、人類史上初めて、大衆が政治的に目覚めた。これまでの時代では百万の人々をコントロールする事は簡単だったのです。しかし今日では、百万人をコントロールするよりも百万人を殺す方が限りなく簡単なのです。」 

上記発言は不真面目に言っているのではない。おお真面目に人類の将来を予測して言っているのである。それは、これまでの世界のリーダーであった勢力が、これら目覚めた人類を代表する100万人を支配することは非常に難しということである。元の動画を現在でもみることも出来る。 https://mizu888.at.webry.info/201310/article_146.html

この動画で紹介されている、Strategic Vision という著書には、多分この発言と関係したことが書かれているのだろう。この100万人は、当然一つの勢力ではあり得ず、別々の利益を代表していると考えられるので、世界は混乱の時代に入るしかない。ブレジンスキーは多分、そのように言いたいのだろう。この本は2012年に出版された。5年後の2017年に死亡しているので、余命いくばくもないことをしりつつ、上記発言をしたのなら、一層重みを感じる。

これら二つの発言を一緒に聞いたとしたら、その意味はもっと明確になる。「この100年間に世界の支配者となったユダヤ系勢力も、最早政治に目覚めた人たちを支配することは不可能である。大衆の群れとなった世界は、今後混乱の時代に入るだろう。」旧約聖書の時代の話には、異教徒や、羊の群れという言葉がよく出てくる。それらの話を思い出すと、「殺す方が簡単だ」という発言は、それほど特別ではなくスムースに耳に入るだろう。

ブレジンスキーの話の中で、世界的勢力として出てくるのは、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国などである。日本は「ひ弱な花」だから、言及の必要はないだろう。それに、「世界は政治的に目覚めている」とは言うものの、日本は例外である。朝日や毎日は、必ずしもブレジンスキーの方向とも言えないが、未だにしっかり日本の人の目や耳を塞いでいるのだから。

橋下徹氏の考え: https://www.youtube.com/watch?v=ETfxKDLVaCU

2018年10月28日日曜日

「自己責任論」を封圧する朝日と毎日 : 恐ろしい左翼系メディアの日本崩壊工作?

1)政府は、海外であれ国内であれ、国民保護に一定の尽力をするのは当然である。ただし、それは一定の範囲内、且つ、公平でなくてはならない。シリアで拘束され、今回解放された安田さんの件で、“自己責任論”を主張する人で、それを否定している人は皆無だろう。範囲があるのは、有限の資源・資金しか国は持たないからである。

国家の命令で行った行為の責任は、国家がとる。その最終的な形は、国家賠償である。戦死した兵士に軍人恩給がでること、勤務中にその業務が原因で死亡した国家公務員に出される賠償も、それが国家の責任においてなされた業務の結果なので当然である。(補足1)それ以外の国民の行為は、すべて自己責任で行われる。それについては、昨日ブログ記事として書いた。

安田さんのシリアでの取材も、アルジェリアにおいてプラント建設に従事した日揮の関係者の活動も、同様である。日揮の関係者10名は殺されたが、安田さんは生きて帰国できたのは幸運だった。https://sanpoturedure.blog.so-net.ne.jp/2013-01-25-9

日揮の方々は、当然自己責任の原則でアルジェリアに入っている。今回のケースで一点異なるのは、政府が退避勧告を出していた地域に、安田さんはその勧告を無視して入ったことである。従って、政府の通常の業務としての邦人保護活動の対象になるのかどうかさえ疑わしい。しかし、同じ日本国民として見過ごすわけにはいかないというのが、おおかたの意見だろう。ただ、テロリストに対して数億円の国民の税金を支払った上での解放だったとしたら、スキャンダルの一つになり得る。

  2)安田さんの開放について、政府はおそらくかなりの金銭的負担をするだろう。カタールが身代金として支払った3億円を、後々何らかの形で日本政府が支払う筈だからである。日本で自己責任論を巡って騒ぎが大きくなれば、政府はカタールと改めてその秘匿の交渉をする可能性があるが、もしそれがなければ、内閣官房機密費など隠れた予算が使われる可能性が高いと思う。

それは元毎日新聞記者の著名人であり、その配偶者の助命嘆願の様子もテレビで報道されていたことと関係しただろう。一般の無名の人間が海外で同じ様な目にあったとしても、そのようなことはしてくれないだろう。そのような裏があったとしても、それは政府を形成する政治家の判断であり、安田さん自身とその家族の方々は、この件で負担に思う必要など一切ない。

一般人の中には、そのような裏の可能性を敏感に察知している人も多いと思う。そのため、安田さんの拘束は、自己責任で退避勧告の出た地域に出かけた結果であり、自己で責任を負うべきだという意見がネット上で多く出された。多くは個人的且つ無名の声である。それに対して、大手メディアが介在する形での有名人の反論が、まるで消防士の火消しのようにネット上に出されている。毎日新聞などが、有名人のナイーブな反論を掲載するのは、その反論の最終的な責任を彼らに押し付けるためである。

その報道パターンから、左翼の言論封圧を想像する。この国の異常にレベルの低い言論空間は、言論弾圧などの事態に容易に進むことを示しており、一種の恐怖を感じる。例えば毎日新聞は(ヤフーニュース:毎日新聞10/27、21:19配信)、そのプロパガンダをアルピニストの野口健さんのツイッターを利用して行っている。

「邦人保護は国にとっての責務。事が起きてしまえば『自己責任だから』では片付けられない」「使命感あふれるジャーナリストや報道カメラマンの存在は社会にとって極めて重要」など。(補足2) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181027-00000073-mai-soci

しかし、毎日新聞は社説「シリアで拘束の安田さん:先ずは無事な解放を喜ぶ」の中で、以下のように書いているようだ。以下の動画中に表示された記事から、その社説の一部を再録する。https://www.youtube.com/watch?v=MPjiv3P6Jew

政府が「退避勧告」を出しているような危険地帯での取材には周到な準備が必要だ。危険を察知する状況判断も重要になる。安田さんが海外で武装勢力に拘束されたのは2004年のイラクに続いて二回目だ。最初の開放時には自己責任を追求する意見もあった。安田さんはトルコで謝意を示す生命を発表した。映像を見る限りしっかりした口調だ。邦人保護や戦場巣材で共有すべき教訓はないか。帰国後、是非話してほしい。

新聞社としての公式見解として、“最初の開放時には自己責任を追求する意見もあった”という表現で、日和見的に自己責任論を述べているのである。公式にはまともな見解を社説として出しながら、著名人の意見を使って大衆の中のまともな意見を封圧し、その他の大衆を愚かなる方向に導いているのである。

朝日新聞のこの件での大衆誘導としては、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」でのテレビ朝日の玉川徹氏の意見や、gooニュース7月12日21:30配信の記事中の石川智也氏の意見を、一昨日のブログで紹介し批判した。

補足: 補足1)テレビ朝日の玉川徹氏の、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」での発言は、軍人が捕虜になった場合の責任と今回のケースでの責任を同一視している。

補足2)”企業戦士”たちも、それから社会で活躍するその他全てのひとも、社会にとって重要な部分を背負っている。そのような意見を言うのなら、「職業に貴賎なし」と別のところで言うべきではない。

2018年10月27日土曜日

海外での邦人保護についての私の考え

昨日のブログに、安田純平氏の拉致被害について議論した。そこで、以下のように書いた。

「退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定するニュアンス(補足1)で自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。」

上記表現には多少誤解を招く部分があるので、もう少し書き足したい。一般論として、言うまでもなく、外国は日本の法令の適用外地域である。従って、外国に入国した後の旅行者の権利義務は、その国の法令によって決められる。

外国にいる日本国の外交官の仕事も、日本国民の生命保護などの為にするべきことが規定されているだろうが、保障までは不可能である。外国政府には、パスポートに書いてあるように、政府が設定した関門を、障害なく通過できるように配慮してもらうのが関の山である。つまり、外国での滞在は、最終的に自己責任でしなければならない。

今朝の読売系のテレビ放送「ウエイク」で橋本五郎解説員が、「日本政府はどの様な手段でも駆使して、邦人の保護をしなければならない」と言っていた。私は、この方は何もしらないか、大嘘付きだと思う。そんなに親切にはしてくれないのが普通である。(補足2)

更に、日本国内でも命の保障を含めて、基本的人権を享受する権利を示した条文は、日本国憲法第3章以外にはないと思う。(補足3)しかし、それは国家権力が、基本的人権の享受を妨げないという意味であって、一般国民の間のトラブルや天然災害を対象にしたものではない。(補足4)

国家は、発生した人権侵害の排除、捜査、侵害者の処罰はするだろうが、人権侵害を防止できなかったことの責任は取らないだろう。ある人に対する人権侵害を完全に予防するためには、その他の人間の自由を束縛することになるからである。

補足:

1)「人騒がせな」という非難や、「お騒がせして申し訳ありませんでした」という謝罪は、この自由と矛盾する。

2)私の経験(1987年)を書く。ソ連のノボシビルスクでの学会に参加するために、モスクワで迎えを待ったのだが、夜が近づいて来るのに迎えが来なくて困った時、大使館に連絡した。そのとき「あなたのパスポートは何色ですか?」と問われた。「赤色です」と答えたところ、「公用パスポートではないので、コチラとしては何ともできません」と撥ね付けられたことがあった。

3)憲法第11条:国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。憲法に記載がなくとも、自然権として基本的人権は当然存在すると考える場合も多い。

4)刑法第199条に「人を殺したるものは、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」とあるが、それは罪人を罰する法律であり、人の命の保障を示した法律ではない。更に、人を殺すことは悪であるという道徳を示したものでも、更に、人を殺してはならないという宗教的指示でもない。単に、裁判官に対する指示である。

2018年10月26日金曜日

安田純平氏のシリア取材に関する自己責任論

カメラマンの安田純平さんが、シリアでイスラム過激派に拘束されてから3年以上経過し、今月になって解放され帰国した。安田氏は、政府から退避勧告が出されていた地域に、勧告を無視して取材に潜入し、過激派に拘束された。このことを根拠に、拉致被害は自己責任であるという説がネット上に多く出された。また、それに「反論する主張」も多く出されたようだ。それらが噛み合った議論になっていないようなので、ここで考える。(補足1)

1)退避勧告が出された地域に取材に入ったので、拉致被害にあったことの責任は自分にある。ただ、個人の自由として退避勧告が出た地域に取材に入る権利は存在する。その権利まで否定しているニュアンスで自己責任という言葉を使っているのなら、それは間違いである。

先ず、”自己責任論”に反対する意見を少し拾ってみたい。テレビ朝日の玉川徹氏は、10月24日の「羽島慎一モーニングショー」で、紛争地帯に飛び込むフリージャーナリストの役割の大きさを力説。安田さんを「英雄として迎えないでどうするんですか」と主張した。

更に、「そもそも、ジャーナリストは何のためにいるんだ。民主主義を守るためにいるんですよ」と力説した。また、「たとえて言えば、兵士は国を守るために命を懸けます。その兵士が外国で拘束され、捕虜になった場合、解放されて国に戻ってきた時は『英雄』として扱われますよね。同じことです」と主張する。 https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-111222/

勇気ある行動でプロとしての仕事に従事したことは、賞賛に値するだろう。ただし、過激派に拉致されたことは失敗だったことも、明白な事実である。その失敗に、日本政府を自分の意思で巻き込んだとしたら、それは賞賛を大きく減少させるだろう。 このケースは、捕虜から解放された兵士のケースとは全くことなる。特に戦前の徴兵された兵士は、国家権力に従って、国家の為に命をかけて働かされたのである。今回のケースは国家のために働いたのではない。安田氏に敬意を示すとした場合、それは私的な取材活動において示した、プロ意識と勇気に対する敬意である。取材活動は社会の機能の一部を果たす重要な役割だが、そのような重要な役割は立派に働いている社会構成員の全てがそれぞれの分野で担っている。

「そもそも、ジャーナリストは民主主義を守るためにいるのだ」というのは、「ジャーナリストは」と助詞の「は」を用いる限り、思い上がった言葉である。上記のように、商社マンであれ、警察員であれ、医師であれ、会社の研究開発員であれ、学校の教師であれ、全ての職業人は、この国に異なった分野でこの国の繁栄と安全維持のために働いているのだ。(補足2)

2)更に、gooニュース7月12日21:30配信の記事に、朝日新聞記者の石川智也氏の意見が掲載されている。その記事の中での石川氏の意見を下に再録する。

石川:アメリカやイギリスのジャーナリストに聞いても、安田さんのような行動を称賛する声はあっても、迷惑をかけたなんて声が大勢を占めることはないと言うんですよね。後藤健二さんがISに殺害された当時、アメリカのオバマ大統領(当時)は「勇敢に取材してシリアの人々の苦境を外の世界に伝えようとした」と声明で称えました。(補足3)

一方で、日本は自民党の副総裁が「どんな使命感があっても蛮勇だ」と言ったり、2004年にイラクで高遠菜穂子さんたち3人が拘束された際にも、現都知事が「危ないところにあえて行ったのは、自分自身の責任だ」と言っています。政治家がこういう言葉を流布させてメディアが乗ってしまい、拘束された本人ばかりか家族や関係者に批判が行くことは極めて日本的だなと思います。 https://news.goo.ne.jp/article/jwave/entertainment/jwave-165226.html

この意見も、事の経緯と分析を全くしないで、訳のわからない批判をしている。

オバマ大統領(当時)は、後藤健二氏の勇気ある取材活動を讃えたのは当たり前である。後藤健二氏の家族以外は、後藤氏の批判などしていない筈である。拉致されたのは明らかに後藤氏にとっては失敗であった。その失敗は自分の命を失うことに繋がったが、誰にも負担をかけていない。自己責任で紛争地に取材に出かけたのは、勇気ある行動である。それを賞賛するのは、当たり前である。(補足4)

3)ジャーナリズムは近代国家において第四の権力と言われる報道の一角を担う重要な仕事である。取材活動はその中のデータ収集という基本的で重要な役割である。ただ、上述のように、社会の機能を分担する重要な役割は、立派に働いている社会構成員の全てが担っている。そしてそれらは、民間ベースで行われることであり、公的活動ではない。その意味では、安田氏らの取材活動は、他国の領海近くに遠洋漁業で出かけた漁船員と似ている。その国に領海侵犯で拿捕されたとしても、法に定められた手続きにより召喚を求めるだけであり、政府に取り返す責任はない。

繰り返すが、退避勧告を無視して私的判断で潜入した以上、政府に身辺警備をする責任はない。また、誘拐されたとしても政府には最終的に救出する責任はない。その政府の本来の活動範囲で、救出が可能となった時のみ救出されるのである。この点は、北朝鮮に拉致された人たちとは根本的に違う。北朝鮮による日本国内での拉致被害は、日本政府の責任である。北朝鮮を非難するが、日本政府を批判する声がほとんどないのは不思議である。

過激派に殺された湯川遥菜氏と後藤健二氏は、自己責任でジャーナリストとしての仕事に身を捧げた。それは賞賛されることはあっても非難することなど論外である。同じように安田氏の取材行為も賞賛されるべきである。ただし、それは自己責任の下で行われた行為であるとした場合である。

初めから、避難勧告地域にその勧告を無視して出かけ、拘束されたのは自己責任の範囲である。そして、政府が法に定められた範囲の行政および外交活動として、自国民である被拘束者を救うべく行動することも、また当然である。

今回のケースは、数億円の身代金がカタールから出されたと一部で報道された。国際政治に利用された可能性があると、AERAdotの記事は書いている。 https://dot.asahi.com/dot/2018102400082.html?page=1

もしそうなら、そして、そのカタールの行為により、日本政府の外交まで今後歪められるとしたら、安田氏の件が政治に与えた影響はかなり大きい。そのように安田氏が自己の判断で誘導したのなら、非難されても当然である。(補足5)ただし、日本政府が民意に迎合すべく、多額の税金を使って安田氏の救済に動いたとしたら、それで非難されるべきなのは、日本政府である。

補足:

1)後藤健二氏がイスラム国に拘束された事件、安倍総理は後藤氏に渡航中止を3回求めていたことを明かしたという。それにも関わらず、世耕官房副長官は「我々は自己責任論には立たない」と言ったと、以下のサイトに「自己責任の罠」という表題で紹介されている。私にはこの世耕氏の言葉の意味が理解できない。単に二世議員の政治屋的発言だろう。この件は深い意味があれば後で、議論の対象にしたい。https://www.excite.co.jp/News/society_g/20150205/Litera_843.html

2)ジャーナリズムも社会の中に存在する多くの私的活動の一つである。特別に扱うべきだとする理由はない。「ジャーナリストは民主主義を守るためにいる」という、思い上がった態度は批判されるべきである。 それは、「目や耳が、情報を集めるから人を守るのだと言って、腎臓や肝臓をバカにする」ようなものだ。

3)自己責任で、社会を支える重要な仕事に果敢に向かった点は、高く評価されるべきである。しかし、拉致されあとの解放が、国際政治や国内政治に影響をかなり与えたとすれば、その部分はプロとして失敗だったと思う。その政治への影響が、良い方向に働く可能性もあるが、それはこの場合問題ではない。

4)政府が退避勧告を出したとしても、自己責任でそこに出向く自由がある。それを批判するとしたら、個人主義という西欧の法体系で作られている日本の制度を知らないことになる。

5)安田氏が助命嘆願を政府に自己判断で求めたとすれば、それは自己責任の原則を破ったことになる。その部分は、非難させても仕方がないだろう。

2018年10月25日木曜日

善玉と悪玉が結託して演じた戦後政治

1)善玉と悪玉の戦いと善玉の勝利という結末を演じるのが、大衆ドラマのパターンである。人気を得るにはハッピーエンドでなければならないのは、人は本来怠け者の保守主義者であり、将来の困難や近くの醜悪から目を背けたいからである。

この種のドラマにおける善玉と悪玉は、対立しているように見えるが、実は裏で結ばれている。同様に、現実の世界の善玉と悪玉も裏で結ばれた一つの勢力と考えた方が良い場合が多い。善玉と悪玉を演じる人たちの顔は、同種の顔で造った全く異なる表情のように見える。ドラマが現実なのかドラマの舞台裏が現実なのか、自分は何をこのドラマから得ようとしているのか、良く考えるべきである。

1956年、日本政府は「もはや戦後ではない」というセリフを言い訳に用いて、戦後から脱却出来ない或いは脱却しない道を選択した。(補足1)戦前と同じ薩長土肥の勢力が戦後も日本を支配することになったため、彼ら為政者に(傲慢により)国を滅ぼした戦前を忘れてしまいたいという欲求があったからである。

そのセリフが、経済企画庁が出した経済白書に書き込まれた1956年、「太陽の季節」が芥川賞を受賞し、“太陽族”が海辺を闊歩した。その小説は読んでいないが、似たような慾望全開&無責任映画の「太陽がいっぱい」は、DVDで見た。何れも、歴史も倫理も深く考えない方が、個人にとっては幸せだという無責任な姿勢を描いている、下らないドラマなのだろう。(補足2)

2)人間の歴史が書ければ、数十万年という長い物語になるだろう。個人はその中の短い一瞬と言っても良い期間を生きるだけである。深層の事実など見ない方が、幸せだという人生の真理を唄ったのが、1976年に発表された井上陽水の「夢の中へ」だろう。人生の目的とか、真理の探求とか、そんな難しい解けない問題を考えるより、短い時間を楽しく過ごす方が良いではないかと誘う。退廃的な人生謳歌の歌のように感じるが、作者独特の皮肉なのかもしれない。よく出来た歌だと感じるのは、真実を見る作詞者の姿を、黒子のように感じるからである。

真理を知る苦労して、”悪”を見出したとしても、今度はそれと戦わなくてはならない。それを倒したとしても、真理を知る姿勢を保てば、新たな悪を見出すことになるだろう。そもそも、善と悪に分類して何になるのか?それは単に、戦いの相手を見つけるためではないのか。自分は戦わないと決めた時、善も悪も消滅するのではないのか、その道が短い人生と限りある能力の人間にとって幸せなのではないのか。

この真理という概念、善悪という概念を、仏教なども利用して巧みに否定するのが、日本の伝統であった。真実も現実も所詮夢の中の話である。その日本の文化とその歴史を、陽水は知っているのだろう。

○露と落ち露と消えにし我が身かな なにわのことも夢のまた夢 (豊臣秀吉の辞世の句)
○世の中は 夢かうつつか うつつとも夢とも知らず ありてなければ(古今和歌集に詠み人知らず)

“悪”が、運悪く(多分何かの間違いで)自分を突然襲うことになったとしても、死の必然を考えれば、隕石の直撃を受けて死ぬのとどこが違うのか。運命として諦めるしかないのだろう。キョロキョロと落ち着きなく周りを見渡すのは、視力自慢になっても、幸せとは言えないだろう。何もかも受け入れる生き方の方が、人生の総決算をすれば、大きいプラスを産むのかもしれない。

そのような考え方の伝統が、日本には広く深く存在する。日本政治が西欧化できない理由だろう。

3)近代社会は、西欧型社会である。その中に流れる思想は、キリスト教的世界観だろう。そこでは、「色即是空」や「夢のまた夢」的な考え方を受け入れる余地は全くない。従って、日本がこの西欧型世界に順応するには、それらを古典の古い本棚にしまい込まなければならない。

つまり、生の本質は戦いであり、戦いに勝利するには、善と悪の峻別が必須である。夢うつつの状態の人は、戦争は絶対悪だというだろう。非武装中立という夢は、確かに心地よい。西欧的視点からは訳の分からないこの後者の勢力が、この国の70%を占める。明治時代、英国からの貸衣装で演じた西欧風日本だったが、失敗した結果の”先祖帰り”だろう。

西欧的考え方を少し学べば、現在の我々の生は、祖先の戦争での勝利の結果として存在することが理解できる筈である。現在の国家も、そのようにして生き残ってきたのである。その歴史を学ぶ責任をこの社会で生きる権利を主張する者全てが持つべきだが、その責任感はほとんど無いのが現状だろう。

ただ、善玉と悪玉を取り違えることが往々にしてあり、その取り違えは仕組まれたものである場合も存在する。その場合、善悪の峻別と戦いの計画は、専門的知識を得た者に任せるしか無い。専門的知識に恵まれなかったグループは滅びることになるだろう。専門的知識のある者をどのようにして選任するのか、それが大きな問題である。

2週間ほど前になるが、TBS ニュースの報道によると:初入閣した柴山昌彦文部科学大臣は就任会見で、戦前の教育で使われた教育勅語について、「アレンジした形で、今の道徳などに使える分野があり、普遍性を持っている部分がある」などと述べた。 https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20181003-00000026-jnn-soci

これは安倍総理が、森友問題などでも分かるように、民族主義的主張をもっていることを表面的に捉えた上での、政治屋的発言だろう。これはまた、野党が批判する口実をワザと与えて、戦後続けてきたパターンで政権構造を維持するためだろう。国民を馬鹿にしているのである。

19世紀末に、長州の下級侍たちが京都の下級貴族と結託して孝明天皇を暗殺し、倒幕後に政権を得たのだが、その勢力が未だに政権を握っているのが日本の現実である。国際的には現時点では安倍総理以外は考えられない昨今だが、その根本構造を破壊しない限り、この国は催眠術にかけられたまま夢から冷めないだろう。(補足3)

先程述べたように、善悪を自民党と野党で分業して演じる安物ドラマが、戦後の日本の姿であった。明治維新と言われる革命は、英国の指導によるものだろうが、戦後の政治は米国の指示によるものである。そのような外国勢力の下で働くのが得意なのが、自民党の怪しげな人たちだろう。

「明治維新という過ち」など、昨今上記のようなモデルを指示する本が多くなった。今のままでは、国民全てがその説を自分の説にするのは遠くないだろう。教育勅語をモディファイして、それを教育に使うのも良いと言うたぐいの発言は、明治以来の勢力の靴を舐める仕草だろう。節操も何もない人物のものである。

補足:

1)戦後の政治体制から全く脱却していないにも関わらず、また、豊かになった経済の実相から一切目を背け、「もはや戦後ではない」とは良く言えたものだ。無知だったと言えば、言い逃れである。無知を装うことほど罪深いことがないのは、犯罪も同様である。

2)「太陽がいっぱい」のラストシーンは印象的である。アラン・ドロン演じる主人公の描くシナリオと、彼の属する現実の進行が、分岐して行く様子、そして浮遊した主人公が現実に落下する瞬間直前で映画は終わる。

3)この文章は安倍総理を批判したものではない。安倍総理と曽祖父の岸信介元総理は評価すべき点が多いと思う。ここでいう克服すべき(排除すべき)根本的構造とは、与野党が対立しているように見せて、同じ政治屋の仲間で政治劇を演じているだけの政治である。

2018年10月21日日曜日

憎しみと愛情と文化

人は可塑的であり、その土地の文化により育てられて、人間となる。人の着る布の材料や品質、そしてデザインなどは、その国の文化の一表現であるように、人間の行動には生身の生物としての部分と、それを修飾する着物の部分がある。社会での行動は、その後者の着物の部分であり、その地方、その国によって大きく変化する。

1)サウジアラビア政府によると思われる、同国の政治記者の在トルコ領事館での殺人事件は、事件そのものも異常だが伝えられる殺し方も残酷である。生きたままテーブルの上で切断されたという。https://www.fnn.jp/posts/00403389CX

日本では想像できないこの種の残酷な政治的殺害で思い出すのは、北朝鮮での張成沢などの殺害である。http://news.livedoor.com/article/detail/13662935/ 同じ人間のすることかと思う。しかし、そのような行動とそのパターンは、動物としての人の遺伝子に直接書かれていることではないだろう。

人間は社会的動物であり、それを維持する機能として“相手の立場に立つ”能力を持つ。更に、他の動物よりも想像力があるため、普通は残酷な殺害は好まない。ただ、その想像力や社会的能力は、憎しみという他の動物にない感情とともに存在する。従って、敵対する相手に対する殺害の方法は、他の動物よりも残酷になり得る。(補足1)

殺し方だけではない。例えば、女性の西欧社交界における大胆な服装や、アラブ社会での顔を完全に隠した服装なども、社会の主役であった男性が、古い時代より性欲とどう戦ったかという文化を表している。 西欧では、貴族や騎士道などの文化が創られ、それらは性欲に惑わされることを蔑む文化であり、大胆な服装はそれを反映している。一方、アラブ社会は専制政治の下、そのような文化は育たず、荒れ狂う性欲から女性を庇う方法は、見せないことであるという上からの司令(宗教的司令)が、そのまま女性の服装に反映したと考えられる。(補足2)

つまり、アラブでは専制的な支配が、西欧では貴族による封建的支配が、女性の服装という文化の一側面にあらわれたと見るべきである。(補足3)ただ、どちらも同様に戦っていたことは確かであり、動物としての人を見た場合、アラブの男性の方が性欲に支配され易いと言うことは出来ないだろう。

この西欧の進んだ(sophisticated) 文化は、貴族階級の存在とその社会(貴族階層に生じた社会)が生み出したと思う。独裁国では、文化の担い手は大衆であり、その環境下では今日の科学技術も、それに裏付けされた文化も誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は対話により可能となるからである。(補足4)哲学は開放系であり、そこに多くの人間が関与する手法を取るからである。

同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は哲学とは対照的に閉じた系であり、堕落するのみである。社会主義独裁の国家が堕落するのは、当然の結末である。(補足5)

2)作日の中日新聞朝刊35面に埼玉県で刺された老夫婦の記事が掲載されていた。男性は特にひどく切りつけられ、死亡した。その犯人として逮捕されたのが、孫の中学三年の少年である。同居していたわけではないのだが、老夫婦は同じマンションに住む関係で幼い頃から可愛がっていたという。

何があったか現在のところ十分報道されていないが、気の毒な老夫婦である。それまで、その少年に注いだ愛情の報いが、短絡的な何かへの怒りとそれによる祖父の刺殺だったとは。そのような事件の記事を見るごとに考えるのは、肉親の愛情も水も、上から下に流れるということである。愛情は常に親から子供に注がれる。老人から孫に注がれる。しかし、逆流はしないということである。

親族の愛情は、子供を育てるという生き物の遺伝子が由来だろう。生物には、子が親の面倒をみるという遺伝子はないのである。一方、子が親に対して持つ愛情は、人間の文化による支配がほとんどだろう。つまり、artificial (文化的)な愛情である。人間特有のこの愛は、山を登るような愛である。一方、歌謡曲などで歌われる男女の愛は、ポテンシャルの底に落ちるような愛であり、動物などにも共通している自然(nature)としての愛である。

この人間に特有の愛については、哲学者Erich Frommの「The art of loving」(日本語訳、「愛するということ」)に議論されている。このartはartificial (「人工の」と訳される)の語幹のartと同じであり、artの対義語がnature(自然)であることを知って、初めてartの意味が理解できる。artを芸術と訳するが、その本来の意味を知る人は少ない。日本語訳では、上記表題を直訳できないのは、いうまでもない。

人間特有の文化的愛情は、社会の構造などの変化で大きく変わる。現在の肉親間の関係も、貧しい時代の親子関係などから大きく変わった。その極端な例として、上記事件などを、我々は毎日見ている。

現在と近い将来、高度に発達した資本主義社会と、その中で生じた大衆文化は、どのような人間を育てるのだろうか。そのような視点にたって、教育から今後の政治経済システムまで考える必要があるのではないだろうか。

補足:

1)大昔の日本でも、似たようなことがおこなわれていただろう。ただ、大和朝廷誕生の時の出雲の国譲伝説や、明治の革命時での江戸無血開城など、日本の文化の下では、穏便にことを済まそうとする傾向が強い。それは、同じ土地で生きることを優先した結果であり、仲間意識が残っていたからである。

2)この問題から目をそらしたり、意図的に軽視しては、本質的議論はできない。例えば、プラトンの国家では、ソクラテスに対するケパロスの「老齢になり性欲の衰えとともに、談論の喜びが増してくる」という言葉に始まり、その話が「正義」の議論の口火となっている。

3)紳士は性欲なんかに支配されないという文化が、あのような女性の大胆な服装を作ったのだろう。しかし、その裏の仕掛けや暗黒部分はしっかり存在していた筈である。この問題で非常に興味深いのは、日本の吉原である。そこでの花魁の格の高さは、どのようにして生じ、どのような意味をもっていたのか?

4)独裁国では、結局トップは一人である。文化の担い手は大衆であり、今日の科学技術に裏付けされた文化は誕生しない。なぜなら、科学は自然哲学であり、哲学は貴族階級的な人たちの対話により産み育てられたからである。つまり、哲学は「文化」を開放系にして、そこに多くの知的人間が関与する手法を取るからである。同じことを独裁者が考えても、哲学は作れない。創れるのは、宗教である。宗教は閉じた系であり、堕落するのみである。

5)東アジアに社会主義国家が根強く残るのは、封建時代を持たなかったからだとどこかで見聞きしたことがある。対話つまり議論の習慣の無い文化圏では独裁政治が蔓延りやすい。日本では、議論と口論と喧嘩の区別が今ひとつされていないのが、心配である。日本の議論のない政治の世界は、ほとんどヤクザの世界である。

2018年10月18日木曜日

そろそろ資本主義経済は行き詰まりなのか?

1)先進国の大企業は、発展途上国に工場を移転して、安価に物を作って売りさばくことで、世界シェアの拡大を考える。しかし、元の国では雇用の喪失と安価な品物の輸入によりデフレが進行する。その発展途上国は、先進国の資本を受け入れ、その技術やノーハウを吸収し、自前の製造業も起こして、経済発展する。

その途上国も元の先進国も市場となるので、先進国の大企業は市場を大きくし、且つ、自身を巨大化して世界市場で有利に戦うことが出来る。その結果、国際的資本家は利益を拡大出来るのである。この様な資本進出を途上国の新しい植民地支配と見る人もいる。(補足1)

以上が経済のグローバル化とその結果に対する私の理解である。この経済システムを企業資本家から取り上げようと戦っているのが、トランプ大統領である。一方、そのやり方は、これまで作られてきた世界経済の慣習を破壊するので、これまで通り自由貿易を守ろうと主張して世界を飛び回っているのが、日本の安倍総理である。日本では日米首脳は仲が良いと報道されているが、実際のところはさっぱりわからない。「仲がよい」というふざけた表現は、日本の報道のレベルを表している。兎に角残念ながら、明らかにトランプ大統領の方が、先をみて行動しているだろう。

自由貿易といえどもルールがあり、それを守ることが前提である。社会を作って生きる人間の自由は、ルールを守る自己規制があっての話である。世界をルールが支配する体制にするには、世界に通じる権威とそれを支える権力が必要である。米国が抜けた世界に、そのようなものは望むべくもない。

安倍総理は何を考えているのだろうか。最も権力のない国のトップが、掛け声だけでルールの支配する世界が出来るとでも思っているのだろうか。

2)NHKスペシャル:資本主義の未来(10月14日午後9:00放送)

10月14日夜のNHKの午後9時からのNHKスペシャルで、世界の債務残高が増加して、資本主義経済が破滅の道に入っているという趣旨の話があった。その根拠として番組の最初に出された情報が、世界の債務残高は164兆ドル(1京8000兆円)と巨大化しており、世界のGDPの2倍以上にも達しているという話である。(補足2)

NHKの番組でも紹介されたように、資本主義の基本パターンは、借金をしてそれを投資に回して新規産業を創出するなど、経済成長をするという図である。従って、債務残高があるということは問題ではない。因みに、債務残高は貸借対照表の右側にある値のうち、純資産を差し引いた値と考えられるが、それは通常貸借対照表の左側に書かれている資産に変化している。問題があるとすれば、その資産が不良資産の場合、あるいは別の表現で、純資産がゼロまたはマイナスの場合である。 

日本のサラリーマンの財布を例に説明すれば、銀行にローン(債務)があってもそれに相当する住宅(資産)がしっかりと資産価値を持っていれば、その借金は別に問題にはならない。債務残高が増加したと言って騒ぐのは、債務の中身の分析がなければ、ほとんど空騒ぎにすぎない。そのような解説は、上記債務の急上昇に関してほとんどなかった。NHKの制作部門は解っているのだろうか?(補足3)

兎に角、この急激な債務の増加の一つの原因は、経済のグローバル化により、発展途上国におけるインフラ投資や先進国企業の安い労働力を目的とした工場移転などの資本投下である。そしてもう一つは、その結果先進国経済に空洞化が起こり、各国が景気回復の為に金融緩和策をとったことである。この10年間の急激な債務増加は、後者がメインだろう。

もしもその資本投下が、発展途上国政府の杜撰な計画に基づくインフラ投資なら、更に、その投資が途中で不正に抜き取られるようなことがあるとしたら、その国の経済は発展しない。その場合の投資は、不良債権化するだろう。また、途上国への企業進出を埋めるだけの新規産業が先進国に起こらないで、且つ、その企業が従来の先進国の需要に頼るのなら、先進諸国がデフレ不況になるのは当然である。 

その「もしも」が現実化した結果、先進諸国はデフレになり、その克服のために、大幅な金融緩和が行われたのだ。しかし、金融緩和したから新規産業がおこるという様な簡単な話ではない。その金は、新規投資ではなく不動産や株式などへの投資に向かう可能性が高い。それら不動産や株式の価値が上がったとき、その上昇理由が主として貨幣価値の低下であると気づいた時、バブル崩壊となり金融危機の再来となると思う。 

この恐ろしいシナリオは、貿易戦争や中東などでの実際の戦争を切っ掛けに起こり得ると思う。急激な物価上昇が起こり、国債や債券の値下がりから、金融機関の債務超過という連鎖反応がおこるだろう。日本銀行は主なる資産として日本国債をもっているので、我が国でも金融危機につながる可能性がある。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/12/blog-post_9.html(2017/12/9)

3)資本主義の行き詰まりなのか? 

NHKの番組では、資本主義の未来という副題がついていたが、その副題についての話はあまりなかった。つまり、従来型のグローバル化した資本主義が成立しないというネガティブな話に終始した。

先進国は、その住民たちに十分な生活を保障できるほどの供給力を付けている。それなら、無理に資源枯渇までの時間を短縮するように、途上国へ資本主義経済システムを輸出するのは、愚かなことである。そのシナリオでは、先進国住民には今後大きな損害しか無い。先進国は、途上国に資本介入するのではなく、途上国独自の歴史的発展過程を見守るだけで良い筈である。

つまり、それがトランプ大統領の考えだろうし、それを支持する馬渕睦夫氏らの主張ではないだろうか。発展途上国を植民地化しているのは、先進国の一部の資本家であり、先進国の住民ではない。そして、深刻な貧富の差が生じて、国内が二つの層に分断されている。(補足1参照)彼ら資本家から、先進国住民は政治的実権を取り戻すべきときなのだ。トランプが大統領に当選したのは、その国内の分断線の下側に大多数の国民がいることに米国民は気付いたことが理由である。

政治的実権を大多数の国民側に取り戻すことが、番組表題にある資本主義の未来の意味の筈である。NHKは、それが資本主義者の日本政府自民党政権が恐ろしくて言えなかったのだろう。国民から視聴料をもらって経営しているのだから、それをはっきりいう義務があるのではないのか。NHKは国民から視聴料を取らずに、その経営費用を政府予算として認めてもらうべきだ。 

(19日午前6:30編集)

補足:

1)昔の植民地化の時代では、先進国の住民は兵士として対象国に出て命をかけて戦った。今回の植民地化では、先進国住民はデフレ不況で貧困化する。一方の資本家は、自分をトップとして、それに協力する芸能人やスポーツ選手、更に投資家を新しい貴族階級とする。何れにしても悲惨なのは、下層の住民である。先進国政府は住民の本来の意図に沿って活動していないが、その国家を民主的に維持しなければならない。それに協力しているのが、上記芸能人やスポーツ選手、それにテレビなどのメディアである。国際資本家は頭が良いのである。(西部邁さんが好きだったオルテガや、ニーチェは、大衆は馬鹿だといえる正直者だった。)

2)ここで言う債務残高は、世界中の国家(つまり政府)の債務残高の合計ではない。世界中の国家など公共団体、民間団体(企業等)、個人などの債務の合計である。一般の人は、164兆ドルつまり1京8000兆円の債務のうち、日本の債務として1200兆円だけ入っていると思ったのではないだろうか。

この急激に債務が膨張している問題の指摘は、経済ジャーナル“ダイヤモンドオンライン”でもこの問題が7月19付け記事で指摘されている。そこでは、2017年末のデータとして債務残高が174兆ドルとなっている。NHKのデータが何年末のものかわからないが、何れにしても恐ろしい数字ではある。

その記事の出だしを再録する。 「グローバル債務残高」が膨張を見せている。これは先進国と新興国の政府部門、企業部門、家計部門の借金を国際決済銀行(BIS)が集計したものだ。世界金融危機前の2007年末は110兆ドルだったが、17年末はそこから58%も増えて174兆ドルに達した。https://diamond.jp/articles/-/175050

3)債務残高が非常に多くなっていることが、本当に深刻かどうかは数字ではわからない。例えば、日本を代表する優良企業であるソフトバンクの債務残高(純資産額を除いた負債)は、売り上げの2.7倍であることを考えれば分かる。http://www.ullet.com/9984.html

2018年10月15日月曜日

日本は米国に学ぶべき:開かれた組織とそれが構成する全体としての社会

1)米国の強みとして感じる重要な点は、社会における各組織が、外からの批判や評価を当然受けるものとして存在し、各組織がその批判を受けることで、外つまり全体の中で適切な位置を占めるように調整されること、そして各組織が、そのような感覚&調整機能を持っていることだと思う。(補足1)

昨日の朝、西鋭夫というスタンフォード大学Hoover InstitutionのFellow(補足2) の方のブログで、「時代遅れの教授会」という記事を読んだ。http://www.prideandhistory.jp/topics/000822.html

米国では、大学での講義の評価を学生が行い、そこで高い評価を得た教授は土地の新聞に紹介され、年俸も上がると書かれている。また、米国では大学新聞の学生記者が教授会を傍聴でき、審議内容を記事にできる。

それに比べて、日本の大学では教授会は閉鎖的で、自らの特権を守る組織となっている。その結果、日本の教授職は、業績評価なし、勤務態度の監査なし、学生による授業内容の審査なしで、一度雇われると終身クビにならない職業である。そのように書かれている。 日本の大学教授は、“学問屋”とでも言うべき職業である。世界の研究者が作り上げた学問を切り売りする商売である。「何々屋」とは、本来の仕事のあり方とは無関係に、その地位と収入を得ることを最優先にする人種のことである。代表的言葉として、「政治屋」がある。

数年前に、サンデル教授の講義風景が日本で放送され、話題になった。そこでは、教授からの質問に学生が答えるという形で、活発な議論が展開されていた。一方通行の日本の講義とは大きくことなり、双方に相当のエネルギーが必要になってくる。それだけ、濃い内容の授業が展開されていた。

2)日本は、東アジアの諸国同様に、遅れた社会の国である。幕末に西洋特に英国から、先進的な考え方を国家構築の思想として受け入れたが、それが徐々に消えていった。それは単に、中世の日本に戻っただけであるが、羽ばたくチャンスを逸して大きな幼鳥のままの状態のように見える。

それぞれの分野の職人たちは、その職人の組合だけが社会であり、その外には開かれていない。国会議員にとっては政治屋の作る世界だけが彼らの社会であり、選挙は単に“禊ぎ”であるからドブ板選挙が最善。それが終われば、政治屋社会のルールに従って権力を奪い合う競争に興じるのみである。

日本経済の中心の経団連という世界も、登り詰めたサラリーマン社長たちの親睦会のレベルなのだろう。官僚たちの世界も、何もかも、日本の組織はかなり閉鎖的な社会を形成している。そこは、ローカルなルールが支配している。亡くなった方を批判して申し訳ないが、西室泰三氏のように東芝を潰す原因を作った経営者が、その失敗にも拘らず、日本郵政の社長に何故成れたのか?(補足3)

大日本帝国時代の軍隊も同様である。ローカルな組織内のルールで動いて居たのだろう。その中の関東軍も同様だろう。暴走は必然であった。

そのような自分たちの将来を知っている大学の学生も、入学試験を終われば、あとは寝て暮らせば良いと心の奥底では感じている。たしか佐藤優氏だったと思うが、日本は学歴社会ではなく、入学歴社会だと言っている。そのような学生時代を自嘲気味にうたったのがデカンショ節だろう。(補足4)

補足:

1)生体内の各組織は当にそのようにできている。つまり、ホルモンは全体の情報を各組織に知らせ、それを受けて組織が全体の中でのふさわしい機能を果たす。

2)https://www.hoover.org/fellows?expertise=160に掲載されている。明治維新に対する解釈など日本の近代史についての啓蒙活動を展開しておられる。

3)米国ウェスティングハウス社を買収したものの、そこの経営で手腕を発揮するような人材は東芝に居なかったので、大赤字を出してしまう。その失敗にも拘らず日本郵政の社長に抜擢され、そこでもフランスかどこかの会社を買収し、巨額の損失をだしている。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/07/the-wall-street-journal.html

4)デカンショ節は民謡(丹波篠山デカンショ節)から、第一高等学校(後の東大)に始まり、全国の学生歌となったようだ。デカンショは、デカルト、カント、ショウペンハウエルを短縮したもので、半年三人の哲学者について勉強すれば、あとの半年は寝て暮らすという内容。要するに、名門大学に入学しただけで、あとは遊んで暮らして卒業を待つという大学生の生活を自嘲気味に歌ったのだろう。それが学生に受けた理由は、理想の学生生活ではないが、その後の人生において学生生活での勉学があまり意味を持たないということだろう。それは、大学で修得した学問など誰も評価しないことを意味する。その当時から、あの敗戦までの日本の歴史は決まって居ただろう。

2018年10月13日土曜日

太陽電池で全てのエネルギーを賄える時代が来る: 但し水素が介在しての話だが

1)中日新聞朝刊(10月13日、12版8面)によると、豊田自動織機(株)が、燃料電池で動くフォークリフト用の水素ステーションを、自社高浜工場に整備(建設?)する計画を明らかにした。水素太陽電池による水の電気分解で製造した水素ガスを貯蔵し、フォークリフトに充填する。

この太陽光発電で水素を製造し、それを燃料電池車に充填する方法は、将来非常に有望である。各家庭の屋根に太陽電池を設置すれば、コンバーターや蓄電機能を各戸に設置することで、家庭の電力から車の燃料までほとんど全てを太陽光で賄うシステムが完成する。

太陽電池を水素ガス製造に用いる方法は、過剰電力による停電の問題、離島設置した太陽電池、筏に浮かして設置した太陽電池などで発電した電力の貯蔵方法として、有望である。このことは既にブログに書いている。

例として、2,015年8月に書いた記事を次の節で再録する。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/08/blog-post_16.html

(念の為の追記:この記事の質問欄に、金属ボンベを水素貯蔵に用いる場合、金属の水素化物生成による劣化が指摘されている。これは、金属ボンベの内部のコーティングなどで克服できるだろう。この点、燃料電池車のミライの開発でトヨタは解決していると思う。)

2)屋上太陽光発電、水素での電力貯蔵、そして水素自動車のシステムはどうだろう?

今朝、まどろみながら、表題にあるような水素で電力を貯蔵するスマートハウスと水素自動車を組み合わせた、ミライのハウスを考えた。

太陽光(&風力)で発電した電力を貯める方法として、蓄電池に電気のまま貯める方法、ダムに水を汲み上げる方法(揚水発電所)、そして電気分解を行なって水素ガスとして貯蔵する方法などがある。

この中で、水素ガスにして貯蔵する方法が自動車と組み合わせる可能性を考えると有利に思える。蓄電池では大きな初期投資と減価償却が、揚水発電を利用する方法は離島などには利用出来ないという欠点がある。水素ガスでの貯蔵は、ボンベとコンプレッサーで容易に出来る。

スマートハウス構想(注釈1)では、太陽光発電で作った電力の余剰分を昼間蓄電池に貯め、夜間それを使う。これに、電気分解装置と水素貯蔵装置を取り付けて、電力貯蔵は主に水素で行なってはどうだろうか。そうすれば、コストの大きい蓄電池は小型化できる。

既に水素で発電して走る自動車(注釈2)が市販されている。この水素自動車を使えば、昼間貯蔵した水素と(夜間使わない)水素自動車で発電出来る。また、自動車の燃料も、水素ステーションなどなくても頻繁に補充できる上、車に搭載する水素タンクも大きなものが要らないだろう。

以上まとめると、水素自動車とスマートハウスを統合すれば、水素自動車の燃料補充の簡素化と水素タンクの小型化、スマートハウスの蓄電池の小型化が可能になる。そして、住宅地の電柱も不要になるのだ。

注釈:

1)例えば、ヤマダ電機がその構想を事業化している。

2)トヨタ自動車のミライである。最初、ミライには明るい未来はないと書いたことがあるが(2015/4/2)、この夢が正夢なら、それは間違いだったことになる。

2018年10月12日金曜日

株売買で大抵の人が損をする理由

1)ダウ平均株価が大幅に値下がりして、日経平均も値下がりするだろう。買いムードだった雰囲気も急に悪くなり、市場は曇りがちになるのでは。そんな雰囲気の中で、ほくそ笑む勢力が居る。米国の大投資家達である。何故か、彼らは株価を支配して稼いでいるからである。

株でもなんでも、相場での勝ち負けの行方は決まっている。相場を動かす者が勝ち、それに追随する者が負けるのである。ニューヨークの巨大な投資家は勝ち、日本などの個人投資家は負けるのである。その勝ち負けの行方を隠すのは、多くの出版物であり、その題名は「一年で資産を10倍にした伝説の投資家」などである。

英国ロスチャイルド家が巨万の富を得て、英国での貨幣発行権を得たのは、ナポレオンの負けをいち早く察知して、巨万の富を得たからだと言われている。その方法は、公債を空売りで一旦値下がりさせて、その後底値で買い漁ったことだと言われている。それを可能にしたのは、元々の資産力と情報力(ロスチャイルド家の団結力による)だろう。

株価操作は商法違反である。その捜査をかい潜って株価を操作して、儲ける悪者が現在でも居る。少なくともそう疑える中小株の売買傾向と値動きはかなり存在する。しかし大投資家は、そのような手を使う必要がない。自分の資金力だけで、合法的に株価を動かすことが出来るからである。(補足1)

重要な注釈:本当のところ、筆者はゴールドマン・サックスやシティバンク、そして、ウォーレンバフェットやジム・ロジャーズなどの投資家がどれだけの資金力があり、どれだけ株価を動かせるのか、知らない。しかし、それら大投資家には情報力や資金力があり、以下のモデルが多少とも適用できるように思う。それくらいの曖昧な話であることを承知して、以下お読みください。

2)原理的説明:

ある株の値段は、買いが続けば値上がりするだろう。それに尤もらしい理由が付けば、尚更その値動きはしっかりしたものになるだろう。しかし、その株の「適正だと判断される値段」は、誰も知らない。その前提で以下単純なモデルを立てて考える。

ある大きな投資家が売り買いを周期的に行うとする。その周期は前もっては、本人以外は誰も知らない。一定量づつ売り、その後買って全体の持ち株に変化がなくなる1周期を考えると、最も単純な値動きは下の図のようになるだろう。茶色の線は売り買いのタイミングを示すコサイン関数であり、黄土色の線はそれに多数の投資家が追随して出来る実際の価格である。

茶赤色が底になった時、その大投資家は売りから買いに変化すると、それより少し遅れて底値が生じる。多くの中小投資家が、値動きを察知するからである。実際の相場は、全体の売り買いで決まるので、黄土色の曲線が実際の株価である。その大投資家は、図の売り領域で一定量つづ売り、買い領域で一定量つづ買うとする。(補足2)

大投資家の売り買いで値動きが決まるが、一定の位相差(実際の値動きにズレ)が生じると考えた場合、図の空色曲線の端の部分だけの利益が生じる。この図の紫色と空色の曲線は、どちらも平均価格より上で売った時のその差額、或いは平均価格より下で買った場合のその差額をプラスの利益と考えて積算した結果を表している。

青色の積算曲線は大投資家の売り買いのタイミングで生じる利益曲線、紫色は実際の値動きで売り買いをスイッチした場合の利益曲線である。何れも底値から買い始めて、最高値になるまで買い続け、そこから売り初めて底値まで売ることを仮定して計算した場合である。

つまり、大投資家が売りを決断してから暫くして最高価格になり、買いを決断して暫くして底値になる。その位相のズレが、大投資家に利益をもたらすのである。(補足3) その利益は、当然、個人投資家などから渡されることになる。個人や小さい投資家は、大投資家の利益と証券会社の利益を、自分の損失で支払っていることになる。(補足4) 

3)適正価格が不明な点が、相場が大きく動く理由である。適正値についての一般的な視点を少し書く。①将来性の有無、②利益対株価の比(PER)、③会社の純資産と株価の比(PBR)、④配当利回り、⑤優待の魅力などがある。

将来性とは、②〜⑤の将来予想である。②は現在の株価が、一年間の純益(配当金はその一部)の何倍かという数字。純益の10倍程度以下なら割安株と言われるかもしれない。③は、決算報告での純資産(資本金や剰余金の総額)の何倍が、株価総額になるかという数字。普通の感覚では、1.0以下なら割安株と言われる可能性が高い。何れにしても、その数字の評価には、決算報告書を細かく読む力が必要である。配当利回りは、株価の何%の配当金がもらえるかという数字である。

PERの大きい代表的企業が、ファーストリテイリング(ユニクロ)であり、昨日の株価で44.93である。小さい企業としては例えば、トヨタ自動車の9.05が参考になる。投資家は、トヨタ自動車の将来を若干暗く、逆にユニクロの将来をかなり明るく見ている事がわかる。

個人投資家が損をするのが普通なのだが、何故、それでも株式市場に向かうのか? その理由は、勿論巨万の富を得る夢を見ることもあるだろうが、通常は現在の金融資産では将来が不安だからである。冷静な人でも、インフレや通貨安(これもインフレの原因の一つ)による貨幣価値の低下は、株式市場などの投資に向かう理由となり得る。

しかし、上の単純解析でも分かるように、売り買いを頻繁に行う取引では、個人投資家は大損をする可能性が高いだろう。結論としては、将来性のあると信じられる企業の株を長期保有するのが賢明であり、多少の含み損は、無視することだろう。お金持ちは、分散投資が肝心だとか、ルールを決めて取引を行うことが大事だとか言うだろう。肝心なのは、自分でよく考えること、金融で儲けることなど、ユダヤ金融に勝つ知恵を持つ人以外は、あまり考えないことだろう。

以上、全くの素人なのだが、予備知識無しに簡単なモデルを立てて、株式投資の損益を考えた。間違いの指摘、サジェスチョンなど歓迎します。

補足:

1)実際の売り買いで株価が動くのは当然である。ただ、株価操作を目的に申し合わせて、或いは情報を流して取引することを商法は禁止している。https://www.jpx.co.jp/regulation/preventing/manipulation/index.html

2)一定量を売るのではなく、価格曲線の勾配を利用した売り買いなど、モデルの修正はいくらでも可能である。その様なモデル修正のためのパラメータとしては、株式市場に参加している全体の資金量と自分の投資資金量の割合、政治的情況など多く考えられる。この種のモデル計算は、すでに多く為されている筈である。

3)この位相のズレと変化の周期との関係が同じなら、複数の大投資家が参加した一般的な値動きでも大投資家は必ず利益を生むことが出来るだろう。また、適当な規模の会社を選び、その売買に参加する大投資家が自分だけであると考えられる情況を創れば、利益は短時間で確実になるだろう。

4)この方法を用いれば、法に触れないで儲けることができるかもしれない。それは、投資顧問会社をつくり、そこが投資する仲間を募集する。そして、顧問が有望な銘柄を取り上げる。その情報により暗黙の了解で、組織的に売り買いをするのである。このような違法スレスレの取引が行われている可能性がある。