1)ニュースには二種類ある。娯楽としてのニュースと情報提供のためのニュースである。大衆は前者を好み、多少とも知的な者は後者を望む。商業主義が支配している放送の世界で、民間放送はどれを選ぶかは自明である。ポピュリズムが支配する国の公共放送(補足1)も同様である。
娯楽としてのニュースは、時として残忍な事件であったり、スリリングなスポーツであったり、人気者の結婚式や葬式だったりする。
小池新都知事が築地市場から豊洲への移転を、一旦止めたという政治ニュースも、娯楽番組風に悪者退治の序章風の脚色で流す。小池知事は、期待に違わず爽やかな口調で鮮やかにその理由を説明する。
情報提供のニュースとして流す場合、目的と決定の間の合理性を示さなければならない。オリンピックの円滑な開催のために、環状二号線工事の早期着工がどの程度大事なのか? 豊洲への移転完了が環状2号の着工には必須であるのなら、その工事を遅らせてまで、土壌処理を行った後の豊洲の地下水のベンゼン等含有量の確認を待つ理由は何か?公衆衛生法などの法的問題なのか?
2)最終チェックを待たないでの移転は、再度の土壌洗浄を要することになる確率と、最終チェックを待った場合にオリンピックの円滑開催が不可能となる確率にそれぞれの重要度を掛け合わせて比較し、後者の方が大きいと言う事ではないのか(補足2)。それなら、見切り発車的移転の決定を非難する理由はない。その辺りが、放送や記者会見を聞いていてもわからない。
時間が無限にあれば、あるいは単なる個人の問題なら、立ち止まるのは悪いことではない。しかし、政治の決断の前には、総合的な損得勘定が前もってなされていなくてはならない。小池知事の説明の場面をテレにで見る限り、そのようには見えなかった。
また、食の安全が大事というが、何故土壌の残余ベンゼン等が市場の食品を汚染するのか、そのメカニズムの定量的説明が必要だろう。運びこまれた魚と地下水が接触することがあるのか?普通に水道水を使い、普通に建てたビルのなかでの作業なら、魚がベンゼンで汚染する筈がないだろう。それにもかかわらず、食の安全の方が大事ですからと、言ってのける小池知事とそれを無批判に流す放送担当者の神経がわからない。
あのような新知事のパーフォーマンスを、カッコよく放送するのは、それが娯楽だからだ。
補足:
1)NHKが公共放送なら、国家が予算を出すべきだ。そうでなければ、郵政や国鉄同様、民営化すべきだ。
2)それに直前の日程変更は、市場関係者に混乱と損害を強いることになる。実際の損害でこれが大きいだろうが、それは日程を一月移転としておけば防げただろう。
注目の投稿
人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2016年8月31日水曜日
北朝鮮の体制は何時までもつのだろうか?
韓国の統一省報道官は31日の定例会見で、「教育担当の副首相、キム・ヨンジン氏が処刑されたほか、朝鮮労働党の金英哲(キム・ヨンチョル)統一戦線部長も(粛清され)革命化教育を受けている」と明らかにした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160831-00000038-mai-int
高官の処刑が続いているが、その理由は明確ではないのかもしれない。トップが重臣達にたいして疑心暗鬼になっているのだろう。国家の最高指導部の顔ぶれが一定の期間同じであると、謀反の危険性が高まるという風に考えているのかもしれない。
この情況は、恐怖政治とは若干異なる。恐怖政治は圧倒的にトップの権力が強く、その権力の絶大なるところを見せつけるために時々粛清が行われる。しかし北朝鮮の現状は、トップの権力が圧倒的に強いのではなく、常に謀略の危険性が芽生える情況にあるのではないだろうか。
仮にその様な情況を仮定すると、一定期間が過ぎるとまな板の消毒を行う様に、常に最高指導部のメンバーを入れ替える必要がある。トップがそのような考えに陥っているとすると、北朝鮮の体制はまさに末期症状を示していると言うことになる。
国家指導部の質が徐々にであっても、際限なく低下していくことになる。そして論理的な議論などなど抜きで、国家の操縦はトップ一人で行うことになり、暴走の危険性が非常に高くなる。
体制崩壊へ向けた謀略があるとすれば、このように仕向けることになるのだろう。日本や韓国にとって、非常に危険なことになってきたと思う。
高官の処刑が続いているが、その理由は明確ではないのかもしれない。トップが重臣達にたいして疑心暗鬼になっているのだろう。国家の最高指導部の顔ぶれが一定の期間同じであると、謀反の危険性が高まるという風に考えているのかもしれない。
この情況は、恐怖政治とは若干異なる。恐怖政治は圧倒的にトップの権力が強く、その権力の絶大なるところを見せつけるために時々粛清が行われる。しかし北朝鮮の現状は、トップの権力が圧倒的に強いのではなく、常に謀略の危険性が芽生える情況にあるのではないだろうか。
仮にその様な情況を仮定すると、一定期間が過ぎるとまな板の消毒を行う様に、常に最高指導部のメンバーを入れ替える必要がある。トップがそのような考えに陥っているとすると、北朝鮮の体制はまさに末期症状を示していると言うことになる。
国家指導部の質が徐々にであっても、際限なく低下していくことになる。そして論理的な議論などなど抜きで、国家の操縦はトップ一人で行うことになり、暴走の危険性が非常に高くなる。
体制崩壊へ向けた謀略があるとすれば、このように仕向けることになるのだろう。日本や韓国にとって、非常に危険なことになってきたと思う。
2016年8月30日火曜日
アハムービーと茹で蛙理論と日本の対米従属姿勢
1)テレビで有名な茂木健一郎のアハムービーというのがある。写真の一部が徐々に変化するのだが、その変化した箇所を発見するというゲームである。変化の前後を見ると明らかに大きな変化があるにも拘らず、ずっと見ているとその変化に気付かないのである。
https://www.youtube.com/watch?v=I-52JXWqsPg
また、ビジネスの分野でよく知られている言葉に、茹で蛙の法則というのがある。蛙は60度の湯の中では死ぬので、突然60度の湯に放り込むとすぐ飛び出るが、蛙が浸かった水を徐々に加熱して60度にすると、蛙は逃げるタイミングを逸して、死亡するというのである。事実は、蛙はどちらのケースでも逃げて死を免れるらしい。
しかし、この話がビジネスの分野で良く語られるのは、「人間は漸次的な変化は万一それが致命的なものであっても、受け入れてしまう傾向が見られる」から、先細りの営業成績などに慣れない様にと警告する際に用いられるからだと、ウィキペディアに書かれている。
茹で蛙理論のモデルは、いろんな政治問題にも適用されうると思う。日本の対米従属姿勢は、まさに茹で蛙状態ではないだろうか。釜を茹でているのは、米国だろう。湯かげんが良い状態では、米国は日本の同盟国のように思える。しかし、単純な同盟関係ではなさそうである。それは、最近湯の温度が高くなってきたように思うからである。
2)日本の安倍内閣は米国の属国としての地位を徐々に強めつつある。集団的自衛権行使を可能にしたのは、日本防衛のための日米協調強化のためだと説明される。しかし、日米協調強化は日本にとって非常な重荷になる可能性がある。
北朝鮮が、核兵器の小型化、潜水艦搭載型ミサイルへの搭載、その多弾頭化と軍事大国の道を進みつつある現在、どこかの段階で、米軍は朝鮮戦争を再開するだろう。その際、日本はその戦争に巻き込まれることになるからである。
米国はクリントン政権の時に北朝鮮の爆撃を考えたことがあり、日本にも通知されたと言われる。http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/545.html しかし、上記サイトによれば、韓国の反対で実行されなかった。その結果、今の北朝鮮の核保持国としての姿がある。
米国が、朝鮮戦争を早期に終わらせ、平和条約の締結から北朝鮮の承認まで進めていれば、我が国の拉致被害者も帰国できていただろう。小泉政権の時に、日本と北朝鮮の間にどのような取引があったのだろうか? それに対して、どのような他国(韓国と米国)との連絡や交渉があったのだろうか?
その拉致問題解決の試みの全容(失敗の理由をふくめ)を、明らかにしてほしいものだ。また、韓国の目の前に、半島統一という絵に描いた餅をぶら下げて、朝鮮戦争の終結(米、北朝鮮、中国の当事者による平和条約締結)に反対するように仕向けたのは、米国だろうか?
3)上に書いたように、朝鮮戦争が再開されれば、日本軍は集団的自衛権故にそれに参加することになるだろう。憲法9条の改訂は、その体制を完成することになる。安倍政権は日本国の真の独立のために、憲法を改訂するというが、それは米国が朝鮮戦争に日本を巻きこむ作戦の日本向けカタログの文章ではないのか。
茹で蛙理論で言えば、安倍内閣は蛙という仮の姿であった我々は人間の姿を取り戻すことを決意すると言って(戦後レジームからの脱却と言って)、集団的自衛権行使を可能にし、憲法改訂を目標に設定した。それは、米国が湯の温度を更に高くする戦略を代弁しているだけではないのか?二度と出られない、ズブズブの同盟関係(属国状態の完成形)のようになりはしないのか?
仮の姿から本来の姿を取り戻すのなら、一旦湯から出て体を冷ましてから頭も冷まし、曇っていない鏡に自分の姿を写してみることが大事である。しかし、それができたのは佐藤内閣までだったと思う。今湯から出れば、病気になるだろう。しかし、出なければ茹で上がるだろう。このような状態を作ったのは、自民党と官僚独裁体制である。しかし、攻撃すれば済むというものではないところが悲しい。
==素人の駄文に付き合いくださりありがとうございました。==
また、ビジネスの分野でよく知られている言葉に、茹で蛙の法則というのがある。蛙は60度の湯の中では死ぬので、突然60度の湯に放り込むとすぐ飛び出るが、蛙が浸かった水を徐々に加熱して60度にすると、蛙は逃げるタイミングを逸して、死亡するというのである。事実は、蛙はどちらのケースでも逃げて死を免れるらしい。
しかし、この話がビジネスの分野で良く語られるのは、「人間は漸次的な変化は万一それが致命的なものであっても、受け入れてしまう傾向が見られる」から、先細りの営業成績などに慣れない様にと警告する際に用いられるからだと、ウィキペディアに書かれている。
茹で蛙理論のモデルは、いろんな政治問題にも適用されうると思う。日本の対米従属姿勢は、まさに茹で蛙状態ではないだろうか。釜を茹でているのは、米国だろう。湯かげんが良い状態では、米国は日本の同盟国のように思える。しかし、単純な同盟関係ではなさそうである。それは、最近湯の温度が高くなってきたように思うからである。
2)日本の安倍内閣は米国の属国としての地位を徐々に強めつつある。集団的自衛権行使を可能にしたのは、日本防衛のための日米協調強化のためだと説明される。しかし、日米協調強化は日本にとって非常な重荷になる可能性がある。
北朝鮮が、核兵器の小型化、潜水艦搭載型ミサイルへの搭載、その多弾頭化と軍事大国の道を進みつつある現在、どこかの段階で、米軍は朝鮮戦争を再開するだろう。その際、日本はその戦争に巻き込まれることになるからである。
米国はクリントン政権の時に北朝鮮の爆撃を考えたことがあり、日本にも通知されたと言われる。http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/545.html しかし、上記サイトによれば、韓国の反対で実行されなかった。その結果、今の北朝鮮の核保持国としての姿がある。
米国が、朝鮮戦争を早期に終わらせ、平和条約の締結から北朝鮮の承認まで進めていれば、我が国の拉致被害者も帰国できていただろう。小泉政権の時に、日本と北朝鮮の間にどのような取引があったのだろうか? それに対して、どのような他国(韓国と米国)との連絡や交渉があったのだろうか?
その拉致問題解決の試みの全容(失敗の理由をふくめ)を、明らかにしてほしいものだ。また、韓国の目の前に、半島統一という絵に描いた餅をぶら下げて、朝鮮戦争の終結(米、北朝鮮、中国の当事者による平和条約締結)に反対するように仕向けたのは、米国だろうか?
3)上に書いたように、朝鮮戦争が再開されれば、日本軍は集団的自衛権故にそれに参加することになるだろう。憲法9条の改訂は、その体制を完成することになる。安倍政権は日本国の真の独立のために、憲法を改訂するというが、それは米国が朝鮮戦争に日本を巻きこむ作戦の日本向けカタログの文章ではないのか。
茹で蛙理論で言えば、安倍内閣は蛙という仮の姿であった我々は人間の姿を取り戻すことを決意すると言って(戦後レジームからの脱却と言って)、集団的自衛権行使を可能にし、憲法改訂を目標に設定した。それは、米国が湯の温度を更に高くする戦略を代弁しているだけではないのか?二度と出られない、ズブズブの同盟関係(属国状態の完成形)のようになりはしないのか?
仮の姿から本来の姿を取り戻すのなら、一旦湯から出て体を冷ましてから頭も冷まし、曇っていない鏡に自分の姿を写してみることが大事である。しかし、それができたのは佐藤内閣までだったと思う。今湯から出れば、病気になるだろう。しかし、出なければ茹で上がるだろう。このような状態を作ったのは、自民党と官僚独裁体制である。しかし、攻撃すれば済むというものではないところが悲しい。
==素人の駄文に付き合いくださりありがとうございました。==
2016年8月28日日曜日
空気の支配する国日本の弱点について:高畑淳子は何故記者会見を開いて謝罪するのか?
日本社会の特徴は、人と人の間に不可解な「空気」が濃く存在することである。その結果、ある集団の構成員の破廉恥な罪は、他の構成員に連帯責任がを強要する。また「空気」を過剰に意識し、支配された集団は、論理的に設定された筈の目標を見失って迷走する。それらは全て、個人の自立が大人になっても達成されていないことによる。その背景には、日本文化があると思う。
1)ここ数日間、ある俳優による強姦事件がテレビの報道バラエティ番組を占拠したように報道されていた。その異常とも言える報道頻度と時間は、日本の報道界のレベルの低さを示しているが、別の視点で見れば、日本社会がそれを要求しているからである。更に驚いたのは、母親が記者会見を行い、謝罪し、更に今後の俳優としての活動の自粛に言及したことである。
その事件と相前後して報道されたのが、埼玉県で高校一年生が殺され河川敷に埋められた事件である。この事件では、地元のカラーギャングが犯人で、その理由は連絡を取らなかったからというものである。http://mainichi.jp/articles/20160825/k00/00e/040/155000c
この種の集団は、個人では出来ない目立った行為や時として不法な行為を集団で行い、瞬間的な優越感に浸るのだろう。チーム内では”個人の壁”をある程度持つのはリーダーのみであり、あとの構成員は個人とは言えない筈である。殺された被害者はそのチームの使い走りたなって一週間ほどして、チームから逃れようとしたのだろう。個人としての行動をすれば、厳罰が下るのがその種のチームの姿である。
2)上記二つの出来事は同根である。人間は集団で生き、集団にはボスがいる。小さい集団では、集団の意思はボスの意思である。そこで重要なことは、その集団の意思を知ることであり、敏感に感じることである。日本社会というような大きな社会では、その意思は山本七平風にいえば「空気」ということになる。
最初の例では、高畑淳子さんは鋭敏に空気を察知して、謝罪会見を行った。もちろんそれは、将来の仕事と自分達の生きる空間の確保のためである。決して、自分が社会に対して責任を負うべきだとは思ってない筈である。悪いと思っているとしたら、片親という家庭環境しか息子に与えることが出来なかったことが、息子の性格に影響したのではないかとの思いだろう。
あの会見は、社会への謝罪の形をとっているものの、今後の社会によるイジメを回避するためのものである。そこでは論理的なことを決して言ってはならない。空気が嫌うのは論理であるからである。ひたすら、詫びて涙を流すのが正しいやり方である。
二番目の例は、もっと強く結びついた小さな社会の出来事である。この種の小さな集団は、社会からは浮いた存在である。そのため、常に構成員が社会に吸収されて集団が分解してしまう危険性があり、その危険の自覚がその小さな社会の結束力となっている。
その集団では構成員の間での互いの存在確認が頻繁にラインなどのスマホツールを用いて行われていただろう。準構成員とみなされていた被害者が、この集団から一般社会に逃避しそうになったため、集団のルールに反したことの罰と、(同じことであるが)その集団の団結力の確認のために、殺されたのだと思う。殺したのは個人ではなく、集団である。唯一個人として責任を負うのは、その集団のリーダーである。
3)中学校などでのイジメの典型でもあるこのような傾向は、人間である限り共通して持っている。しかし、特に日本でその傾向が強いのは、この国の人々は殆ど“個人の自立”を感覚的に理解していないからである。個人の自立とは、例えば独自の意見を自分の言葉で発言することである。
この国のどのような社会でも良いから、新参者(評価がプラスマイナスゼロである)が独自の意見を集会などで言ってみれば良い。その発言者はその社会でただちに孤立し、その社会の構成員に陰口の種を提供することになる。
「個人では構築し得ない深い論理的モデルを、集団での議論を通して構築し、難問を解決すること」は西欧が築いた一つの文化の形式である。この「万機公論に決すべし」と明治時代にうたった理想が、未だ実現していないことをすべての日本人は知っている。そして人々は、ひたすら“世間”の空気を読むことに専心し、その空気の支配を受ける。それが、あの大きな社会である筈の東京都議会で一人のつまらない議員が、ボスとして君臨できた理由である。ボスは空気を支配する祈祷師である。東京都議会は、日本国のモデルでもある。
1)ここ数日間、ある俳優による強姦事件がテレビの報道バラエティ番組を占拠したように報道されていた。その異常とも言える報道頻度と時間は、日本の報道界のレベルの低さを示しているが、別の視点で見れば、日本社会がそれを要求しているからである。更に驚いたのは、母親が記者会見を行い、謝罪し、更に今後の俳優としての活動の自粛に言及したことである。
その事件と相前後して報道されたのが、埼玉県で高校一年生が殺され河川敷に埋められた事件である。この事件では、地元のカラーギャングが犯人で、その理由は連絡を取らなかったからというものである。http://mainichi.jp/articles/20160825/k00/00e/040/155000c
この種の集団は、個人では出来ない目立った行為や時として不法な行為を集団で行い、瞬間的な優越感に浸るのだろう。チーム内では”個人の壁”をある程度持つのはリーダーのみであり、あとの構成員は個人とは言えない筈である。殺された被害者はそのチームの使い走りたなって一週間ほどして、チームから逃れようとしたのだろう。個人としての行動をすれば、厳罰が下るのがその種のチームの姿である。
2)上記二つの出来事は同根である。人間は集団で生き、集団にはボスがいる。小さい集団では、集団の意思はボスの意思である。そこで重要なことは、その集団の意思を知ることであり、敏感に感じることである。日本社会というような大きな社会では、その意思は山本七平風にいえば「空気」ということになる。
最初の例では、高畑淳子さんは鋭敏に空気を察知して、謝罪会見を行った。もちろんそれは、将来の仕事と自分達の生きる空間の確保のためである。決して、自分が社会に対して責任を負うべきだとは思ってない筈である。悪いと思っているとしたら、片親という家庭環境しか息子に与えることが出来なかったことが、息子の性格に影響したのではないかとの思いだろう。
あの会見は、社会への謝罪の形をとっているものの、今後の社会によるイジメを回避するためのものである。そこでは論理的なことを決して言ってはならない。空気が嫌うのは論理であるからである。ひたすら、詫びて涙を流すのが正しいやり方である。
二番目の例は、もっと強く結びついた小さな社会の出来事である。この種の小さな集団は、社会からは浮いた存在である。そのため、常に構成員が社会に吸収されて集団が分解してしまう危険性があり、その危険の自覚がその小さな社会の結束力となっている。
その集団では構成員の間での互いの存在確認が頻繁にラインなどのスマホツールを用いて行われていただろう。準構成員とみなされていた被害者が、この集団から一般社会に逃避しそうになったため、集団のルールに反したことの罰と、(同じことであるが)その集団の団結力の確認のために、殺されたのだと思う。殺したのは個人ではなく、集団である。唯一個人として責任を負うのは、その集団のリーダーである。
3)中学校などでのイジメの典型でもあるこのような傾向は、人間である限り共通して持っている。しかし、特に日本でその傾向が強いのは、この国の人々は殆ど“個人の自立”を感覚的に理解していないからである。個人の自立とは、例えば独自の意見を自分の言葉で発言することである。
この国のどのような社会でも良いから、新参者(評価がプラスマイナスゼロである)が独自の意見を集会などで言ってみれば良い。その発言者はその社会でただちに孤立し、その社会の構成員に陰口の種を提供することになる。
「個人では構築し得ない深い論理的モデルを、集団での議論を通して構築し、難問を解決すること」は西欧が築いた一つの文化の形式である。この「万機公論に決すべし」と明治時代にうたった理想が、未だ実現していないことをすべての日本人は知っている。そして人々は、ひたすら“世間”の空気を読むことに専心し、その空気の支配を受ける。それが、あの大きな社会である筈の東京都議会で一人のつまらない議員が、ボスとして君臨できた理由である。ボスは空気を支配する祈祷師である。東京都議会は、日本国のモデルでもある。
2016年8月27日土曜日
日本は朝鮮戦争に巻き込まれないように手を打つべき:アメリカのシナリオを警戒すべき
昨年9月、安倍政権と与党は集団的自衛権行使を可能にする様に、憲法解釈の変更と関連法の改訂を完了した。その際、我々日本人の頭に強く念頭にあったのは尖閣問題など中国との軋轢であった。しかし、安倍政権をこの方向に導いた米国の思惑は、別のところにあったのではないかと思う。
それは、北朝鮮である。最近、北朝鮮はSLBMの発射に成功した。また、繰り返し行っている核実験により、核の小型化を目指している。それに成功すれば、米国もその脅威の対象になる。
もし、来年ヒラリークリントンが新しい大統領に就任すれば、小型核搭載のSLBMを実践配備するまでの短い間に、米国と韓国の聯合軍は朝鮮戦争を再開する可能性がある。そしてその際、北朝鮮は日本にある米軍基地をミサイル攻撃する可能性が高い。勿論、それがなくても、米国は日本周辺で北朝鮮と戦うことになり、集団的自衛権の条項により、日本は北朝鮮と交戦状態に入るだろう。
つまり、安倍総理の韓国との不思議な慰安婦問題での合意(米国の強い圧力があった筈である)などを含め米国の日本操縦のシナリオが最後に描いているのは、日本と中国との尖閣問題での衝突などではなく、もっと大きな朝鮮戦争ではないだろうか? 朝鮮戦争再開となれば、尖閣とは違って、日本に多大の被害を直ちにもたらす可能性大である。
そんな話は聞いていないと言っても、通用しない。日本国民にできることは、日朝平壌宣言を思い出して、北朝鮮にブレーキをかける一方、米国に“強く圧力をかけて”朝鮮戦争終結を勧めることである。しかし、米国は日本の進言など完全に無視するだろう。
そこで、大統領選において民間人から強力にトランプ支持の応援をすべきである。在米日本企業にも協力してもらうのが良いかもしれない。それから、「朝鮮戦争の再開ではなく平和条約締結を」と北朝鮮承認のキャンペーンを行う事であると思う。北朝鮮の承認は、拉致被害者の帰国をもたらすだろう。
この件と関連した最近の記事を読んでほしい。例えば、8月25日に書いた記事(以下のものと同じ:http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42944116.html )と、その末尾に引用した記事(この数年間に書いた「朝鮮戦争終結と北朝鮮承認、それに拉致被害者奪還」について書いた記事の一部)を読んでほしい。
それは、北朝鮮である。最近、北朝鮮はSLBMの発射に成功した。また、繰り返し行っている核実験により、核の小型化を目指している。それに成功すれば、米国もその脅威の対象になる。
もし、来年ヒラリークリントンが新しい大統領に就任すれば、小型核搭載のSLBMを実践配備するまでの短い間に、米国と韓国の聯合軍は朝鮮戦争を再開する可能性がある。そしてその際、北朝鮮は日本にある米軍基地をミサイル攻撃する可能性が高い。勿論、それがなくても、米国は日本周辺で北朝鮮と戦うことになり、集団的自衛権の条項により、日本は北朝鮮と交戦状態に入るだろう。
つまり、安倍総理の韓国との不思議な慰安婦問題での合意(米国の強い圧力があった筈である)などを含め米国の日本操縦のシナリオが最後に描いているのは、日本と中国との尖閣問題での衝突などではなく、もっと大きな朝鮮戦争ではないだろうか? 朝鮮戦争再開となれば、尖閣とは違って、日本に多大の被害を直ちにもたらす可能性大である。
そんな話は聞いていないと言っても、通用しない。日本国民にできることは、日朝平壌宣言を思い出して、北朝鮮にブレーキをかける一方、米国に“強く圧力をかけて”朝鮮戦争終結を勧めることである。しかし、米国は日本の進言など完全に無視するだろう。
そこで、大統領選において民間人から強力にトランプ支持の応援をすべきである。在米日本企業にも協力してもらうのが良いかもしれない。それから、「朝鮮戦争の再開ではなく平和条約締結を」と北朝鮮承認のキャンペーンを行う事であると思う。北朝鮮の承認は、拉致被害者の帰国をもたらすだろう。
この件と関連した最近の記事を読んでほしい。例えば、8月25日に書いた記事(以下のものと同じ:http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42944116.html )と、その末尾に引用した記事(この数年間に書いた「朝鮮戦争終結と北朝鮮承認、それに拉致被害者奪還」について書いた記事の一部)を読んでほしい。
2016年8月26日金曜日
高畑淳子のおばさん、何を記者会見しているのだ?
金曜日の朝の民放4局で、高畑淳子氏による息子高橋裕太容疑者の起こした強姦致傷事件(補足)に関する、謝罪記者会見が放送されていたらしい。テレビチャンネルを一通り回してスイッチを切った。
何故母親が成人となった息子の犯罪に関する謝罪を行うのか? しかも大事件のように民放のほとんどすべてを巻き込んで。それよりも大事なニュースはないのか?
こんな事件の記事は、新聞3面の一コラムで十分だ。類似の事件は山ほどある。最近のテレビ放送は知恵のない者がプロデュースしているのか、芸能人の葬式とか不祥事を最優先して放送する。
補足:(午後4時10分追加)
高畑裕太がホテル従業員を強姦して警察に逮捕された。彼は異常性欲の所為にしている。もし、異常性欲という病気なら、その治療としてテストステロンを製造する臓器の摘出などの手術を受けるべきだ。本当にその手術を受ける覚悟で言っているのではなかろう。
単に、生まれながらの芸能人としてのぼせ上がっているだけだろう。芸能人だから何とかなるだろうと、これまで何度も同様のことを行ったのだろうと想像する。この事件を報じた昨日のテレビ番組で、元バレー選手でタレントの河合俊一が言った言葉が彼らの生態を表している。
「彼(高畑裕太)なんか男前だし、口説けばその様な相手は何とかなるだろうに、どうしてそんなことをしたのだろう。」女性を人間として見ていない、ふざけた言葉だ。自分がやってきた様に適当に相手を探して欲望を満たせば、刑務所に行かなくてもすむのに。相手がどう思っても、その場限りの出来事で終わらせば良いのだからと、そう言いたいのだろう。世の中の女ども、この河合 俊一の言葉をよく覚えておけ。
テレビタレントたちはのぼせ上がっている。一つのスポーツや一つの芸があるからといって、特別の待遇をするのは、現在の社会の歪な構造に関係がある。お前たちが人間として優秀な訳ではない。また、実際に必要な社会の第一の機能において役立っている訳ではない。世界を相手に研究開発し、世界の各地で営業をし、世界を相手に投資をし、日本に富をもたらしている人間がいるから、テレビタレントにも仕事と高い分配金が支払われているのだ。ソノバビッチめ。
何故母親が成人となった息子の犯罪に関する謝罪を行うのか? しかも大事件のように民放のほとんどすべてを巻き込んで。それよりも大事なニュースはないのか?
こんな事件の記事は、新聞3面の一コラムで十分だ。類似の事件は山ほどある。最近のテレビ放送は知恵のない者がプロデュースしているのか、芸能人の葬式とか不祥事を最優先して放送する。
補足:(午後4時10分追加)
高畑裕太被告と芸能人の一部が持つ考え方を批判する
高畑裕太がホテル従業員を強姦して警察に逮捕された。彼は異常性欲の所為にしている。もし、異常性欲という病気なら、その治療としてテストステロンを製造する臓器の摘出などの手術を受けるべきだ。本当にその手術を受ける覚悟で言っているのではなかろう。
単に、生まれながらの芸能人としてのぼせ上がっているだけだろう。芸能人だから何とかなるだろうと、これまで何度も同様のことを行ったのだろうと想像する。この事件を報じた昨日のテレビ番組で、元バレー選手でタレントの河合俊一が言った言葉が彼らの生態を表している。
「彼(高畑裕太)なんか男前だし、口説けばその様な相手は何とかなるだろうに、どうしてそんなことをしたのだろう。」女性を人間として見ていない、ふざけた言葉だ。自分がやってきた様に適当に相手を探して欲望を満たせば、刑務所に行かなくてもすむのに。相手がどう思っても、その場限りの出来事で終わらせば良いのだからと、そう言いたいのだろう。世の中の女ども、この河合 俊一の言葉をよく覚えておけ。
テレビタレントたちはのぼせ上がっている。一つのスポーツや一つの芸があるからといって、特別の待遇をするのは、現在の社会の歪な構造に関係がある。お前たちが人間として優秀な訳ではない。また、実際に必要な社会の第一の機能において役立っている訳ではない。世界を相手に研究開発し、世界の各地で営業をし、世界を相手に投資をし、日本に富をもたらしている人間がいるから、テレビタレントにも仕事と高い分配金が支払われているのだ。ソノバビッチめ。
日本は北朝鮮問題を独自に(米国とは独立に)、原点から考えるべき
北朝鮮は、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)を発射し、日本海の防空識別圏を通過して落下した模様である。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160824-00000013-mai-kr 自衛隊が迎撃したという話は聞かないので、迎撃ミサイルというのは少なくとも近隣から発射された場合には無力なのだろう。もちろん大陸間弾道弾のように高速で落ちてくる場合にはもっと難しいだろう。イージス艦は何か働いたのか(下図参照)、明らかにしてほしいものだ。
おそらく今回は、SLBMが落ちるまで探知できなかったのだろう。THAAD(日本にはない)とかPAC-3 とか言っても、数値データとしての性能など公表されていないだろう。70年間国家間の戦争などなかったのだから、その実戦性能はバレないなら非常に効率のよい金儲けとなる。(イラクでテスト済みというけれど)それは迎撃ミサイルだけでなく、米軍の駐留そのものにも言えることだろう。トランプが「引き上げるぞ」と言っているのは、価格交渉の常套手段である。
東アジアでの混乱は、米国の軍産共同体の稼ぎ場所として、米国が作り上げたのだろう。朝鮮戦争を終わらせず、いままで引っ張って、紛争の拠点としたのだ。朝鮮戦争の司令官であった、マッカーサーが北朝鮮を潰して平定してしまおうと言った時、彼は首になって本国に召喚された。馬淵睦夫さんの「国難の正体」の中に書いてある通りだと思う。
北朝鮮は何とか朝鮮戦争を終わらせて、平和な国にしたかったのだ。しかし、米国が許さない。韓国を半島唯一の政府ということにし、日本にもその戦略に協力させて、日韓基本条約を締結させた。北朝鮮は朝鮮戦争の終結を画策しても、米国は振り向かず、その代わり6カ国協議とかいう訳のわからないシステムを作って、それに丸投げすることで北朝鮮の考えを潰した。また、日韓が仲良くなると困るから、最初の大統領に李承晩という反日人間を置いた。
すべて、米国の利益のために、この東アジアを利用しているのだと思う。
おそらく今回は、SLBMが落ちるまで探知できなかったのだろう。THAAD(日本にはない)とかPAC-3 とか言っても、数値データとしての性能など公表されていないだろう。70年間国家間の戦争などなかったのだから、その実戦性能はバレないなら非常に効率のよい金儲けとなる。(イラクでテスト済みというけれど)それは迎撃ミサイルだけでなく、米軍の駐留そのものにも言えることだろう。トランプが「引き上げるぞ」と言っているのは、価格交渉の常套手段である。
東アジアでの混乱は、米国の軍産共同体の稼ぎ場所として、米国が作り上げたのだろう。朝鮮戦争を終わらせず、いままで引っ張って、紛争の拠点としたのだ。朝鮮戦争の司令官であった、マッカーサーが北朝鮮を潰して平定してしまおうと言った時、彼は首になって本国に召喚された。馬淵睦夫さんの「国難の正体」の中に書いてある通りだと思う。
北朝鮮は何とか朝鮮戦争を終わらせて、平和な国にしたかったのだ。しかし、米国が許さない。韓国を半島唯一の政府ということにし、日本にもその戦略に協力させて、日韓基本条約を締結させた。北朝鮮は朝鮮戦争の終結を画策しても、米国は振り向かず、その代わり6カ国協議とかいう訳のわからないシステムを作って、それに丸投げすることで北朝鮮の考えを潰した。また、日韓が仲良くなると困るから、最初の大統領に李承晩という反日人間を置いた。
すべて、米国の利益のために、この東アジアを利用しているのだと思う。
2016年8月25日木曜日
オバマ大統領による核先制不使用宣言は、北朝鮮の暴発防止が目的か? つまり、米国の核の脅威に動揺して北朝鮮が先制核攻撃をするのを防止 する為かもしれない、しかし。。。
世界一の核軍事強国である米国が核の先制不使用を宣言することにより、他の核保持国が核兵器を背景にして、周辺諸国に対し強圧外交を遠慮なく展開できることになる。つまり、いかなる核保持国でも、核保持特権国としての待遇を国際社会で得ることになる。
1)オバマ米国大統領が、任期を僅かに残す今、最後っ屁のように出してきたのが核先制不使用の宣言(案)である。同盟国の日本、韓国、フランス、英国などが反対していると、ワシントンポスト紙が報じた。この記事を引用して朝日新聞社説は、安倍総理はオバマ氏に力を添えるべきだと書いている。 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12518308.html?_requesturl=articles/DA3S12518308.html
その中で、川口順子元外相や豪州のエバンズ元外相らアジア太平洋地域の元閣僚らは最近、オバマ政権に先制不使用(宣言)を求め、日本を含む米国の同盟国に支持を促す声明を出したと書かれている。豪州にとっては中国の核の脅威は小さいので、有りえないことではない。しかし、日本は直接中国と尖閣等で対峙しており、川口氏が本当にそう思っているとしたらバカか、反日分子だろう。
佐藤優氏は動画で、この件の安倍総理の反対を当然だとして 支持し、朝日新聞の社説を感情と論理を混同していると批判した。https://www.youtube.com/watch?v=CeA3Q8ePYRo そして、「例えば北朝鮮が核兵器を日本に向けて発射準備をし、発射のスイッチを押し、核ミサイルが飛び立つまで、核兵器の使用ができないのだから、そして、その核兵器を撃墜できるとは限らないのだから、米国の核の傘の意味がなくなる」と説明している。
その論理もちょっと不完全に思う。日本を第三国が核攻撃しても、米国への核攻撃ではない。従って、核先制不使用宣言をした場合、日本の代わりにする核反撃も放棄することになる。つまりその宣言は、友好国に置いた核の傘を廃止しますと、米国の方から宣言することに等しい。
もちろん日米安保条約があっても、日本の核反撃に米国は核攻撃を用いる可能性はほとんど無いだろう。可能性があるとしたら、相手が米国へ核反撃しても100% 撃墜できる自信があるときだけである。それもやらないというのが、核先制不使用宣言である。(補足1)
日本と米国は確かに「日本国とアメリカ合衆国との相互協力及び安全保障条約」という名の条約を締結した同盟国である。しかし、この条約文には核という字は一字も書かれていない。つまり核の傘とは、米国が持っている核兵器が使われるかもしれないという可能性を、仮想敵国が勝手に感じる脅威なのである。核の傘は、国際的軋轢はいろいろあっても、戦端が開かれる前にのみ意味のある概念である。平和の時には命の値段が非常に高く、それが核の傘という幻を見せる。しかし一旦核兵器が使われてしまえば、命の値段は急落し、同時に核の傘は幻となって消失してしまう類のものなのだと思う。
2)敢えて、核兵器を先制使用しないと宣言する意味は何か? 今までは、オバマ氏の政治的パーフォーマンスと考えてきたが、よく考えれば具体的な意味もある。核兵器を互いに向けて、米国とその仮想敵国が向かいあっている時に、核においても強者である米国の先制不使用宣言は、仮想敵国の心理的動揺による米国への核先制攻撃を防止するように働く。(補足2)つまり、北朝鮮による米国への核先制攻撃の確率を大きく減少させることになる。
同様に、同盟国日本への核攻撃の確率も減少するだろう。したがって、対北朝鮮という問題においては、米国の核先制不使用宣言は、三沢などの米軍基地の存在する日本への核先制攻撃の可能性を減らし、日本の安全にも寄与する。つまり、佐藤優氏の北朝鮮を例に挙げた理屈は、現在のところ成立しないと思う。
北朝鮮が経済的にも復興して強力な軍事大国になった時は、話は別である。また、現時点で日本における米国の核の傘は、中国を意識していると思う。尖閣諸島の日本からの略奪を考え、沖縄を独立させて併合するシナリオを考えている可能性のある国として、中国は警戒されている。(そのように予想される)中国の画策を恐れるのは、中国が強力な核軍事力を持っているからである。
なお、北朝鮮問題は米国が平和条約を締結して、北朝鮮を承認すれば解決するだろう。核兵器の削減も総合的に交渉すれば可能だろうと思う。その趣旨で、以前に幾つか記事を書いてきたので、引用します。
北朝鮮に核兵器を開発させたのは米国である:ロイターの記事 2016年1/24 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42622974.html
北朝鮮をソフトランディングさせるべき 2014年11/03 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41810584.html
補足:
1)つまり弱小核保持国相手の場合のみである。しかし、先制不使用宣言をすれば、それも無いと宣言することになる。
2)オバマ氏の頭には、真珠湾奇襲攻撃があるのかもしれない。
1)オバマ米国大統領が、任期を僅かに残す今、最後っ屁のように出してきたのが核先制不使用の宣言(案)である。同盟国の日本、韓国、フランス、英国などが反対していると、ワシントンポスト紙が報じた。この記事を引用して朝日新聞社説は、安倍総理はオバマ氏に力を添えるべきだと書いている。 http://digital.asahi.com/articles/DA3S12518308.html?_requesturl=articles/DA3S12518308.html
その中で、川口順子元外相や豪州のエバンズ元外相らアジア太平洋地域の元閣僚らは最近、オバマ政権に先制不使用(宣言)を求め、日本を含む米国の同盟国に支持を促す声明を出したと書かれている。豪州にとっては中国の核の脅威は小さいので、有りえないことではない。しかし、日本は直接中国と尖閣等で対峙しており、川口氏が本当にそう思っているとしたらバカか、反日分子だろう。
佐藤優氏は動画で、この件の安倍総理の反対を当然だとして 支持し、朝日新聞の社説を感情と論理を混同していると批判した。https://www.youtube.com/watch?v=CeA3Q8ePYRo そして、「例えば北朝鮮が核兵器を日本に向けて発射準備をし、発射のスイッチを押し、核ミサイルが飛び立つまで、核兵器の使用ができないのだから、そして、その核兵器を撃墜できるとは限らないのだから、米国の核の傘の意味がなくなる」と説明している。
その論理もちょっと不完全に思う。日本を第三国が核攻撃しても、米国への核攻撃ではない。従って、核先制不使用宣言をした場合、日本の代わりにする核反撃も放棄することになる。つまりその宣言は、友好国に置いた核の傘を廃止しますと、米国の方から宣言することに等しい。
もちろん日米安保条約があっても、日本の核反撃に米国は核攻撃を用いる可能性はほとんど無いだろう。可能性があるとしたら、相手が米国へ核反撃しても100% 撃墜できる自信があるときだけである。それもやらないというのが、核先制不使用宣言である。(補足1)
日本と米国は確かに「日本国とアメリカ合衆国との相互協力及び安全保障条約」という名の条約を締結した同盟国である。しかし、この条約文には核という字は一字も書かれていない。つまり核の傘とは、米国が持っている核兵器が使われるかもしれないという可能性を、仮想敵国が勝手に感じる脅威なのである。核の傘は、国際的軋轢はいろいろあっても、戦端が開かれる前にのみ意味のある概念である。平和の時には命の値段が非常に高く、それが核の傘という幻を見せる。しかし一旦核兵器が使われてしまえば、命の値段は急落し、同時に核の傘は幻となって消失してしまう類のものなのだと思う。
2)敢えて、核兵器を先制使用しないと宣言する意味は何か? 今までは、オバマ氏の政治的パーフォーマンスと考えてきたが、よく考えれば具体的な意味もある。核兵器を互いに向けて、米国とその仮想敵国が向かいあっている時に、核においても強者である米国の先制不使用宣言は、仮想敵国の心理的動揺による米国への核先制攻撃を防止するように働く。(補足2)つまり、北朝鮮による米国への核先制攻撃の確率を大きく減少させることになる。
同様に、同盟国日本への核攻撃の確率も減少するだろう。したがって、対北朝鮮という問題においては、米国の核先制不使用宣言は、三沢などの米軍基地の存在する日本への核先制攻撃の可能性を減らし、日本の安全にも寄与する。つまり、佐藤優氏の北朝鮮を例に挙げた理屈は、現在のところ成立しないと思う。
北朝鮮が経済的にも復興して強力な軍事大国になった時は、話は別である。また、現時点で日本における米国の核の傘は、中国を意識していると思う。尖閣諸島の日本からの略奪を考え、沖縄を独立させて併合するシナリオを考えている可能性のある国として、中国は警戒されている。(そのように予想される)中国の画策を恐れるのは、中国が強力な核軍事力を持っているからである。
なお、北朝鮮問題は米国が平和条約を締結して、北朝鮮を承認すれば解決するだろう。核兵器の削減も総合的に交渉すれば可能だろうと思う。その趣旨で、以前に幾つか記事を書いてきたので、引用します。
北朝鮮に核兵器を開発させたのは米国である:ロイターの記事 2016年1/24 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42622974.html
北朝鮮をソフトランディングさせるべき 2014年11/03 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41810584.html
補足:
1)つまり弱小核保持国相手の場合のみである。しかし、先制不使用宣言をすれば、それも無いと宣言することになる。
2)オバマ氏の頭には、真珠湾奇襲攻撃があるのかもしれない。
2016年8月23日火曜日
「オバマの核先制不使用宣言」についてのある外交評論家の考え方:さっぱりわからない。
田中宇氏は外交評論家で、有料ブログに無料ブログを混ぜてネット配信をしている。田中氏は今日無料記事として、オバマ氏の核先制攻撃不使用宣言についての考えを配信した。その内容は、全く以外だった。田中氏は、オバマ氏の政治的パーフォーマンスを正面から最大限に評価しているのである。http://tanakanews.com/160822nuke.htm
オバマ氏は、大統領就任直後に核廃絶の目標を発表し、ノーベル平和賞をもらった。しかし、その後は全く核廃絶の動きを見せなかったのだが、それについて田中氏は「しかし、その後のオバマは、米議会など米国内外の軍産複合体に阻まれ、核廃絶を進められなかった。」と書いている。
田中氏は、米国大統領の指導力が、現在の世界の政治的勢力図のままで、そして米国の産軍複合体を抑え込めば、核廃絶のための現実的な力になると信じておられるようだ。詳細に引用記事を挿入しての記事なので、正に「木を見て森を見ず」の典型だと思う。
極め付けは、以下の文章である。「オバマの主導で世界が核先制不使用を宣言すると、北朝鮮や中国との緊張が緩和され、米国が”米軍がいなくても日本は自衛できる”と考える流れになり、在日米軍が撤退傾向となり、対米従属を続けられなくなる。だから日本はオバマの計画に反対している。戦後日本の平和主義は対米従属のためのものであり、偽善だった。」
田中氏は、戦後の東アジアにおける外交的緊張は、すべて米国の産軍複合体の企みの結果であり、産軍複合体が活動をやめれば中国や北朝鮮と日本との緊張も消滅すると考えておられるようだ。また、田中氏は米国が核先制不使用を宣言することは、同盟国に対する核の傘が消滅することになることがわかっていないのか、それとも、元々核の傘など何の外交的意味がないと思っているのかどちらかだろう。
私は、中国が軍事力で隣国を脅すことが可能なのは、核兵器を持っているからであり、日本が米軍に期待するのは核の傘であると思っている。また、中国の覇権的姿勢は米国の産軍複合体に挑発された結果では説明できないと思っている。日本は、対米従属を好んでしているのではない。
更に、先日のオバマ氏の広島訪問に関し、「今から思うと、5月末のオバマの広島訪問は、今回の先制不使用などの計画の先駆となる象徴的な動きだった。オバマは、安倍首相とともに広島を訪問することで、安倍(や後ろで操っている日本外務省)に「口だけでなくちゃんとやれよ。俺はやるぜ」というメッセージを送ったともいえる。」と書いている。オバマ氏のこのパーフォーマンスも、まともな外交と考えておられるには全く驚きである。
オバマ氏の広島訪問をこのように評価するなんて、空いた口がふさがらない。オバマ氏の核廃絶や核兵器先制不使用宣言に関する活動について、何度か批判的記事を書いてきたので、以下にそれらのサイトの一部を引用する。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42929474.html http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42937637.html
核廃絶どころか、核不拡散すら実現できないことを、戦後の世界政治は証明してきたではないのか? スーパーマンの真似をする「エーカッコシー」を最大限評価するというのは、何か別の意図があるのだろうか。
追補:田中氏のブログを何年間か有料で読んでいたので、この様文章をブログに書きました。「そんな人知らない」という人には、不自然に見えるかもしれません。
オバマ氏は、大統領就任直後に核廃絶の目標を発表し、ノーベル平和賞をもらった。しかし、その後は全く核廃絶の動きを見せなかったのだが、それについて田中氏は「しかし、その後のオバマは、米議会など米国内外の軍産複合体に阻まれ、核廃絶を進められなかった。」と書いている。
田中氏は、米国大統領の指導力が、現在の世界の政治的勢力図のままで、そして米国の産軍複合体を抑え込めば、核廃絶のための現実的な力になると信じておられるようだ。詳細に引用記事を挿入しての記事なので、正に「木を見て森を見ず」の典型だと思う。
極め付けは、以下の文章である。「オバマの主導で世界が核先制不使用を宣言すると、北朝鮮や中国との緊張が緩和され、米国が”米軍がいなくても日本は自衛できる”と考える流れになり、在日米軍が撤退傾向となり、対米従属を続けられなくなる。だから日本はオバマの計画に反対している。戦後日本の平和主義は対米従属のためのものであり、偽善だった。」
田中氏は、戦後の東アジアにおける外交的緊張は、すべて米国の産軍複合体の企みの結果であり、産軍複合体が活動をやめれば中国や北朝鮮と日本との緊張も消滅すると考えておられるようだ。また、田中氏は米国が核先制不使用を宣言することは、同盟国に対する核の傘が消滅することになることがわかっていないのか、それとも、元々核の傘など何の外交的意味がないと思っているのかどちらかだろう。
私は、中国が軍事力で隣国を脅すことが可能なのは、核兵器を持っているからであり、日本が米軍に期待するのは核の傘であると思っている。また、中国の覇権的姿勢は米国の産軍複合体に挑発された結果では説明できないと思っている。日本は、対米従属を好んでしているのではない。
更に、先日のオバマ氏の広島訪問に関し、「今から思うと、5月末のオバマの広島訪問は、今回の先制不使用などの計画の先駆となる象徴的な動きだった。オバマは、安倍首相とともに広島を訪問することで、安倍(や後ろで操っている日本外務省)に「口だけでなくちゃんとやれよ。俺はやるぜ」というメッセージを送ったともいえる。」と書いている。オバマ氏のこのパーフォーマンスも、まともな外交と考えておられるには全く驚きである。
オバマ氏の広島訪問をこのように評価するなんて、空いた口がふさがらない。オバマ氏の核廃絶や核兵器先制不使用宣言に関する活動について、何度か批判的記事を書いてきたので、以下にそれらのサイトの一部を引用する。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42929474.html http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42937637.html
核廃絶どころか、核不拡散すら実現できないことを、戦後の世界政治は証明してきたではないのか? スーパーマンの真似をする「エーカッコシー」を最大限評価するというのは、何か別の意図があるのだろうか。
追補:田中氏のブログを何年間か有料で読んでいたので、この様文章をブログに書きました。「そんな人知らない」という人には、不自然に見えるかもしれません。
2016年8月22日月曜日
信仰の自由はどこまで政治の場面で主張し得るのか?
世界の国々でも日本でも、信教の自由が憲法に定められているケースは多い(補足1)。信教とは宗教を信じることであり、信教の自由とは特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。また、宗教とは、超越的絶対者や神聖なるものへの信仰(補足2)である。更に、信仰とは信じ仰ぐことであり、自分をその教えに従属させることである。
宗教に関して、もう少し詳しく我流解釈を書くと次のようになる。“宗教とは、世界と人間の理解、そして人間の行動と精神のあり方に関する、其々教祖の言葉や聖典の文章を、信者である個人が尊び受け入れることである。” それは、聖典や教祖の言葉にある記述に関する限り、精神における個人の自由はないと考えられる。(つまり、他からその人の精神の一部が、完全に予測可能である。)
一方、民主主義の原則は、有権者である個人が政治信条などにおいて独立を保ち、自分の意思でもって政治に参加することである。そこで、教祖や聖典の言葉が政治的判断に直接的に影響する場合、その宗教を信じる自由と民主主義を含むあらゆる政治体制とは、まともな形では両立しなくなる(補足3)。
大日本帝国憲法は、「社会の安寧秩序を妨げず、臣民に与えられた義務に背かない限りにおいて」と、条件付で信教の自由を認めている。非常に大まかな縛りの文章であるが、上記問題に関して考慮済みである(補足1b)。実際日露戦争のとき、良心的兵役拒否したキリスト教関係の人は、逮捕収監された。
日本国憲法では、それに相当する文言は「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」である(補足1a)。この文言では、個人の信教の自由による行為には踏み込んでいない。宗教団体は地下に潜ることは可能であるから、現行憲法はこの点に関してかなり防備が弱いと思う。
一神教の敬虔な信者である外国人を移住者として受け入れる場合、上記問題は難しい事態を招く可能性があると思う。「国家か神か」という選択になった場合、一神教の信者は神を選ぶことになるからである(補足4)。現在、国際政治の場における参加主体は、国家であり宗教でも民族でもない。従って、この種の問題は国際政治を不安定にする。
キリスト教圏などにおいて、信教の自由が政治と衝突しないのは、政治に積極的に参加する層に宗教心が薄く(補足5)、且つ、宗教において高い地位にある人が、政治と宗教の関係に深い理解をもっているからだろう。
補足:
1a)日本国憲法第20条: 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2: 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3: 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1b) 大日本帝国憲法第28条:日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
2)広辞苑第二版では宗教を以下のように説明している。“神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会を営む。”
3)宗教の聖典に書かれた思想や教祖の口述による思想が、そのまま信者全体に採用され、其々が個人の考えという衣をかぶって政治の舞台に出てくる。
4)同じ宗派の敬虔な信者たちが、二つの敵対する国家に分断された場合などのケースで、この種の問題が生じるのではないだろうか。
5)「神は死んだ」と言っても、その方の身に危害が加えられたとは本などに書いてない。
宗教に関して、もう少し詳しく我流解釈を書くと次のようになる。“宗教とは、世界と人間の理解、そして人間の行動と精神のあり方に関する、其々教祖の言葉や聖典の文章を、信者である個人が尊び受け入れることである。” それは、聖典や教祖の言葉にある記述に関する限り、精神における個人の自由はないと考えられる。(つまり、他からその人の精神の一部が、完全に予測可能である。)
一方、民主主義の原則は、有権者である個人が政治信条などにおいて独立を保ち、自分の意思でもって政治に参加することである。そこで、教祖や聖典の言葉が政治的判断に直接的に影響する場合、その宗教を信じる自由と民主主義を含むあらゆる政治体制とは、まともな形では両立しなくなる(補足3)。
大日本帝国憲法は、「社会の安寧秩序を妨げず、臣民に与えられた義務に背かない限りにおいて」と、条件付で信教の自由を認めている。非常に大まかな縛りの文章であるが、上記問題に関して考慮済みである(補足1b)。実際日露戦争のとき、良心的兵役拒否したキリスト教関係の人は、逮捕収監された。
日本国憲法では、それに相当する文言は「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」である(補足1a)。この文言では、個人の信教の自由による行為には踏み込んでいない。宗教団体は地下に潜ることは可能であるから、現行憲法はこの点に関してかなり防備が弱いと思う。
一神教の敬虔な信者である外国人を移住者として受け入れる場合、上記問題は難しい事態を招く可能性があると思う。「国家か神か」という選択になった場合、一神教の信者は神を選ぶことになるからである(補足4)。現在、国際政治の場における参加主体は、国家であり宗教でも民族でもない。従って、この種の問題は国際政治を不安定にする。
キリスト教圏などにおいて、信教の自由が政治と衝突しないのは、政治に積極的に参加する層に宗教心が薄く(補足5)、且つ、宗教において高い地位にある人が、政治と宗教の関係に深い理解をもっているからだろう。
補足:
1a)日本国憲法第20条: 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。2: 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。3: 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
1b) 大日本帝国憲法第28条:日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨(さまた)ケス及臣民タルノ義務ニ背(そむ)カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
2)広辞苑第二版では宗教を以下のように説明している。“神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され、禁忌された神聖なものに関する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会を営む。”
3)宗教の聖典に書かれた思想や教祖の口述による思想が、そのまま信者全体に採用され、其々が個人の考えという衣をかぶって政治の舞台に出てくる。
4)同じ宗派の敬虔な信者たちが、二つの敵対する国家に分断された場合などのケースで、この種の問題が生じるのではないだろうか。
5)「神は死んだ」と言っても、その方の身に危害が加えられたとは本などに書いてない。
2016年8月21日日曜日
尖閣問題の議論の動画を乗っ取る音楽
最近、尖閣問題を議論する動画をyoutubeでみていると、妨害のためと思われる音楽が大きな音量で流されることがよくある。以下のサイトは宮家邦彦氏が議論しているが、中国外交に戦略が欠けているという話になった時、妨害音楽が鳴り出す。時間は、3分30秒くらいからである。https://www.youtube.com/watch?v=EMQLa31CYqw
犯人が中国だとすれば、さすがに中国はやることが汚いということになる。まあ、このあたりの技術については、中国は高い能力をもっているのだろう。
尖閣周辺の石油資源だが、佐藤内閣のときにアメリカのメジャーから日本と共同開発をするという申出があったのを、佐藤総理は断ったらしい。だれかが、それがこの問題の遠因だと書いている。この記述は複数のサイトにあるが、例えば=> http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7937886.html 戦争になるのは、利権がらみが常である。ここはややこしい場所なのだから、メジャーと日本企業の共同開発という形を受け入れとけば、尖閣問題なんか生じていなかったことになる。 日米密約をしておきながら、非核三原則を恥ずかしげもなく宣言して、ノーベル平和賞をもらうなど、佐藤栄作という人は本当にくだらない首相だった。ノーベル平和賞をもらって喜ぶ、国家のトップなんて、たいていくだらない政治家だ。
尖閣周辺の石油資源だが、佐藤内閣のときにアメリカのメジャーから日本と共同開発をするという申出があったのを、佐藤総理は断ったらしい。だれかが、それがこの問題の遠因だと書いている。この記述は複数のサイトにあるが、例えば=> http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7937886.html 戦争になるのは、利権がらみが常である。ここはややこしい場所なのだから、メジャーと日本企業の共同開発という形を受け入れとけば、尖閣問題なんか生じていなかったことになる。 日米密約をしておきながら、非核三原則を恥ずかしげもなく宣言して、ノーベル平和賞をもらうなど、佐藤栄作という人は本当にくだらない首相だった。ノーベル平和賞をもらって喜ぶ、国家のトップなんて、たいていくだらない政治家だ。
2016年8月20日土曜日
核兵器禁止条約など意味がない
国連の核軍縮に関する作業部会は、核兵器そのものを禁止する新たな条約の交渉を来年にも始めるべきだと、国連総会に勧告することを決めた。しかし、作業部会には核保有国が参加せず、参加した日本など非核保有国からも慎重な意見が出ている。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160820/k10010643301000.html
こんなことを国連がするのは早すぎる。国連が世界政府としての機能を持ち、世界政府にふさわしい権威と権力を持つようになって、初めて意味が出てくる。国連は未だに第二次大戦時の連合国の集まりが骨格であり、戦後大きな進歩はない。それが分かっていないのなら、幼稚というか、スタンドプレイ的というか、無責任な人たちである。
条約を無視して国益を優先することは歴史に山ほどある。国際政治は力の原理が支配している。その力の中で最終的な段階で意味を持つのが軍事力であり、それを構成するのは主に核兵器である。何とか核の傘を有効にするように日本も年間数千億円の国家予算を使っている。それは条約などあてにならないからだ。
例えば第二次大戦の時、法的に有効である日ソ中立条約を無視して、ソ連が無防備な日本軍と日本市民を虐殺し、兵士等をシベリアに拉致し、そして北方領土を奪いとった。今でも、国際関係は基本的に野生の原理が支配している。日本は現在、日中平和有効条約が中国によって尊重されることを祈っている。そんなことを、外交官なら知らない筈はないだろう。
また、国際世論といっても、大した力になり得ない。例えば中国のベトナムやフィリピン沖での振る舞いに対して国際仲裁裁判所が出した判断が、それほど中国を規制するのに役立っていないことを考えれば明らかである。
理想論で、無知な大衆をごまかそうとする勢力には注意が必要である。
こんなことを国連がするのは早すぎる。国連が世界政府としての機能を持ち、世界政府にふさわしい権威と権力を持つようになって、初めて意味が出てくる。国連は未だに第二次大戦時の連合国の集まりが骨格であり、戦後大きな進歩はない。それが分かっていないのなら、幼稚というか、スタンドプレイ的というか、無責任な人たちである。
条約を無視して国益を優先することは歴史に山ほどある。国際政治は力の原理が支配している。その力の中で最終的な段階で意味を持つのが軍事力であり、それを構成するのは主に核兵器である。何とか核の傘を有効にするように日本も年間数千億円の国家予算を使っている。それは条約などあてにならないからだ。
例えば第二次大戦の時、法的に有効である日ソ中立条約を無視して、ソ連が無防備な日本軍と日本市民を虐殺し、兵士等をシベリアに拉致し、そして北方領土を奪いとった。今でも、国際関係は基本的に野生の原理が支配している。日本は現在、日中平和有効条約が中国によって尊重されることを祈っている。そんなことを、外交官なら知らない筈はないだろう。
また、国際世論といっても、大した力になり得ない。例えば中国のベトナムやフィリピン沖での振る舞いに対して国際仲裁裁判所が出した判断が、それほど中国を規制するのに役立っていないことを考えれば明らかである。
理想論で、無知な大衆をごまかそうとする勢力には注意が必要である。
植松容疑者は精神異常なのか?
相模原事件の殺人犯、植松容疑者の衆議院議長などに充てた手紙や手記にメモなどを読んだ。読売新聞7月28日朝刊12版には、公開されたもののほぼ全文が掲載されている(補足1)。それを基に頭に浮かぶままに、いろんな考えを書いてみた。
§1:
植松容疑者の手紙にあるように、車椅子に一生縛り付けられていて、保護者からも見捨てられている状況では、障害者は社会の重荷であることは事実である。そこから、短絡的に人間をふた通り:社会にとって完全な重荷になる人間と社会に何らかの寄与をしている人間に分けて、前者を物理的に排除するというヒトラー的思想を持ち、大量殺人に至ったのである。
この手紙(補足1)は何箇所か論理的に飛躍しているが、これだけの手紙を書く能力のある人間はそれほど多くはないだろう。精神異常や精神錯乱者のものとして簡単には片付けるのは間違いだと思う。論理に飛躍のある箇所とは、①「自分の行いが世界経済の活性化や第三次世界大戦の防止に役立つ」と書いているところである。ただ、社会的弱者に対する福祉予算の拡大により財政的に身動きがとれない社会が、世界経済の足を引っ張っていると考えたのなら、全く的外れというわけではない。また、経済の低迷が世界戦争の引き金になる可能性があるという考えも歴史的に正しい。
そして、②「今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をするときだと考えます」と書いている。この意味は、彼の行為をスタートにして、優性思想を基礎においた社会をつくるという革命だろう。革命という言葉から、彼はその行いが合法的ではないと十分判っていることを示している。①と②の中で、自分が火付け役になって、政治が動くかもしれないと考えるところは、異常である。精神異常なのか、薬物依存の結果なのか、あるいは、それらとは無関係に精神的孤立の中で醸成された異常なのかは、専門医の領域である。
§2:
ただ、彼の犯行には別の動機があるようだ。それは手紙にも書かれているように、自分の容姿や自分の現実に対する不満である。およそ人間の企みの本質的動機はほとんどが私的なものである。政治家でも、多くは私的な動機をうまく公的な動機にすり替えて(あるいは融合させて)、公的な支援を得て公的な貢献を行う。そして、その公的貢献と並行して私的目標を達成するのである。(補足2)
その不満の源泉が、彼の生まれにあるのかもしれない。インターネットでは、彼は大陸系の人間であるとの指摘がある。それが真実だとすると、羊の喉をかっ切って殺すことに抵抗を感じない感覚の由来がわかるような気がする。微妙な問題なので控えるが、異文化の下に育った人間には感覚的に大きな違いがある。それは、子孫の平安と引き換えに自爆攻撃を仕掛けた日本の英霊(補足3)を、米国人は決して理解できないであろうということと相似的である。
植松容疑者の行為は許されない。それは、一旦生まれた以上、障害者になった者も当然生きる権利がある。彼らが重荷になったとしても、最後まで面倒を見る社会こそ、障害のない人間にとっても住みやすい社会だからである。病気になって長期入院などが確定的になった段階で、安楽死処分されたのでは健常者も安心して生きることができない。
しかし、この植松容疑者の考えを完全否定するのは理想論的である。資本は、より便利な介護装置や、全ての癌にある程度効く可能性のあると言われる薬品をびっくりするくらいの値段で売りつけようとする。その一方で、有限の資源を余命幾許もない人間に重点的に配分するのを現実の社会は防止しようとする。つまり、裏の見えないところで、表では処理できない難問を分散的に処理をして帳尻を合わすのである。裏の帳尻合わせは極めて不公平であるのが常である。
具体的には、老老介護に疲れ果てた夫婦に無理心中を強いたり、動けなくなった親を見捨てたり殺したりするまで放置するなどで、社会は個別に問題を処理していくのである(裏での処理)。悲劇のニュースソースを提供することでGDPの増加に寄与させ、生き残ったものは犯罪者として処理することが、社会の表での関与である。骨までしゃぶり尽くすのが資本の論理であり、見て見ぬ振りをして放置するのが政治(特に日本の政治)の論理である(補足4)。植松容疑者の容疑を明確にして、死刑にすれば済むことではない。人間に知恵があるのなら、もう一度必死に考えるべき問題である。
補足: 1)植松聖が渡した手紙というのがA4のレポート用紙に合計で10枚にもなる内容だったそうだ。その内3枚の内容が公表された。新聞掲載の手紙は少し編集されているようだ。
http://hiroron.info/%E6%A4%8D%E6%9D%BE%E8%81%96%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%84%E3%81%9F%E6%89%8B%E7%B4%99%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%96%87%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%81%8C%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%EF%BC%81%EF%BC%81%E7%8A%AF-1002
2)典型的な例は、米国大統領だろう。優れた政治家には、これは当てはまらない人は多いだろう。彼らは、自分の信じる政策を、リスクをとって実行する。そのタイプの政治家として、最近では、安倍総理や前大阪市長が当てはまるかもしれない。
3)そのような攻撃を計画した日本の大本営やその下の軍令部の人間、そのような戦争を始めてしまった帝國の指導者は、決して許されるべきではない。靖国神社が英霊を祀るのであれば、日本国民が全ての霊に向かって参拝できるようにすべきである。歴史を裁くのは愚かなことだというのは事実だろう。しかし、あの戦争は未だ歴史の中にはなく、現在の我々日本人の未決着の問題である。 4)スイスなど世界の一部では、安楽死希望者には合法的にその希望に沿うシステムがあるという。http://healthpress.jp/2015/04/70-2.html
§1:
植松容疑者の手紙にあるように、車椅子に一生縛り付けられていて、保護者からも見捨てられている状況では、障害者は社会の重荷であることは事実である。そこから、短絡的に人間をふた通り:社会にとって完全な重荷になる人間と社会に何らかの寄与をしている人間に分けて、前者を物理的に排除するというヒトラー的思想を持ち、大量殺人に至ったのである。
この手紙(補足1)は何箇所か論理的に飛躍しているが、これだけの手紙を書く能力のある人間はそれほど多くはないだろう。精神異常や精神錯乱者のものとして簡単には片付けるのは間違いだと思う。論理に飛躍のある箇所とは、①「自分の行いが世界経済の活性化や第三次世界大戦の防止に役立つ」と書いているところである。ただ、社会的弱者に対する福祉予算の拡大により財政的に身動きがとれない社会が、世界経済の足を引っ張っていると考えたのなら、全く的外れというわけではない。また、経済の低迷が世界戦争の引き金になる可能性があるという考えも歴史的に正しい。
そして、②「今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をするときだと考えます」と書いている。この意味は、彼の行為をスタートにして、優性思想を基礎においた社会をつくるという革命だろう。革命という言葉から、彼はその行いが合法的ではないと十分判っていることを示している。①と②の中で、自分が火付け役になって、政治が動くかもしれないと考えるところは、異常である。精神異常なのか、薬物依存の結果なのか、あるいは、それらとは無関係に精神的孤立の中で醸成された異常なのかは、専門医の領域である。
§2:
ただ、彼の犯行には別の動機があるようだ。それは手紙にも書かれているように、自分の容姿や自分の現実に対する不満である。およそ人間の企みの本質的動機はほとんどが私的なものである。政治家でも、多くは私的な動機をうまく公的な動機にすり替えて(あるいは融合させて)、公的な支援を得て公的な貢献を行う。そして、その公的貢献と並行して私的目標を達成するのである。(補足2)
その不満の源泉が、彼の生まれにあるのかもしれない。インターネットでは、彼は大陸系の人間であるとの指摘がある。それが真実だとすると、羊の喉をかっ切って殺すことに抵抗を感じない感覚の由来がわかるような気がする。微妙な問題なので控えるが、異文化の下に育った人間には感覚的に大きな違いがある。それは、子孫の平安と引き換えに自爆攻撃を仕掛けた日本の英霊(補足3)を、米国人は決して理解できないであろうということと相似的である。
植松容疑者の行為は許されない。それは、一旦生まれた以上、障害者になった者も当然生きる権利がある。彼らが重荷になったとしても、最後まで面倒を見る社会こそ、障害のない人間にとっても住みやすい社会だからである。病気になって長期入院などが確定的になった段階で、安楽死処分されたのでは健常者も安心して生きることができない。
しかし、この植松容疑者の考えを完全否定するのは理想論的である。資本は、より便利な介護装置や、全ての癌にある程度効く可能性のあると言われる薬品をびっくりするくらいの値段で売りつけようとする。その一方で、有限の資源を余命幾許もない人間に重点的に配分するのを現実の社会は防止しようとする。つまり、裏の見えないところで、表では処理できない難問を分散的に処理をして帳尻を合わすのである。裏の帳尻合わせは極めて不公平であるのが常である。
具体的には、老老介護に疲れ果てた夫婦に無理心中を強いたり、動けなくなった親を見捨てたり殺したりするまで放置するなどで、社会は個別に問題を処理していくのである(裏での処理)。悲劇のニュースソースを提供することでGDPの増加に寄与させ、生き残ったものは犯罪者として処理することが、社会の表での関与である。骨までしゃぶり尽くすのが資本の論理であり、見て見ぬ振りをして放置するのが政治(特に日本の政治)の論理である(補足4)。植松容疑者の容疑を明確にして、死刑にすれば済むことではない。人間に知恵があるのなら、もう一度必死に考えるべき問題である。
補足: 1)植松聖が渡した手紙というのがA4のレポート用紙に合計で10枚にもなる内容だったそうだ。その内3枚の内容が公表された。新聞掲載の手紙は少し編集されているようだ。
http://hiroron.info/%E6%A4%8D%E6%9D%BE%E8%81%96%E3%81%8C%E6%9B%B8%E3%81%84%E3%81%9F%E6%89%8B%E7%B4%99%E3%81%AE%E5%85%A8%E6%96%87%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%81%8C%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%EF%BC%81%EF%BC%81%E7%8A%AF-1002
2)典型的な例は、米国大統領だろう。優れた政治家には、これは当てはまらない人は多いだろう。彼らは、自分の信じる政策を、リスクをとって実行する。そのタイプの政治家として、最近では、安倍総理や前大阪市長が当てはまるかもしれない。
3)そのような攻撃を計画した日本の大本営やその下の軍令部の人間、そのような戦争を始めてしまった帝國の指導者は、決して許されるべきではない。靖国神社が英霊を祀るのであれば、日本国民が全ての霊に向かって参拝できるようにすべきである。歴史を裁くのは愚かなことだというのは事実だろう。しかし、あの戦争は未だ歴史の中にはなく、現在の我々日本人の未決着の問題である。 4)スイスなど世界の一部では、安楽死希望者には合法的にその希望に沿うシステムがあるという。http://healthpress.jp/2015/04/70-2.html
2016年8月19日金曜日
生前退位という陛下に失礼なことば:日本語の難しさ
1)「生前退位」は失礼である。
“天皇陛下が生前退位の意向をお持ちである”とNHKテレビが初めて報じた。その報道について、明治天皇の玄孫の竹田恒泰氏は「生前退位」とは失礼な言い方だとテレビ番組「そこまで言って委員会」で指摘した。しかし、NHKはその後も「生前退位」を使い続けている。
生前ということばは、元々は「以前生きていたとき」の意味である。「生前、彼は酒豪だった」という風に使う。生前の「前」は、以前の「前」であり、生存中という意味はない。現在では例えば、生前贈与というような言葉で、「生前」が「生存中」という意味で使われるようになったが、それには訳がありそうである。その生前贈与と似た意味で、生前退位も使える筈だとNHKは考えたのだろう。
この生前贈与という言葉であるが、死んでから贈与など出来ないのだから、生前を贈与の前に付ける意味などないと普通考える。しかし、この「生前」には特別の意味がある。生前贈与とは、死亡した時相続されるだろうと思われる財産を、例えば親が生きている間に相続税の軽減を狙って子等に贈与しておくという意味である。死亡前に財産を譲っておくということだから、生前贈与の「生前」には、「死後」を意識した意味が含まれている。この生前贈与の例があるので、その意味の生前を退位の前につけて、「生前退位」をいう言葉をNHKは作ったのだろう。ご存命中の退位とすれば、問題視する人は現れなかっただろう。
追補:生前贈与という言葉もおかしい。しかし定着していると仮定して、上のようにごちゃごちゃと書いた。(8月20日午前10:50)
この「生前」は「以前、生きている時」という副詞句的意味を、漢字二文字で表したのだろう。(補足1)つまり、生前退位という言葉は、今上天皇の死後に御位の移動を回想的に言う時に使わるる言葉である。したがって、竹田恒泰氏が失礼だというのは、根拠のある指摘である。こんな考察は、NHKの連中にはできないのだろうか?
2)日本語は厄介なことばである。
日本語において、漢字の用法で混乱を生じるのは、十分日本語が発達していない段階で漢語を受け入れたため、日本語の骨格を歪めてしまったからだろう。(補足2)
漢語の特徴は、単語を互いの関係を無視してくっ付けて別の言葉を作ることである。上記「生前退位」もその一つである。日本語でもこの前後の関係を無視して、二つの熟語をくっ付けて使うので、誤解を生じやすい。例えば、「事前交渉」は「事前に交渉すること」であり、誤解が少ない。「深山幽谷」も同様に「深山と幽谷」の意味であり、誤解が少ないと思う。日本語では、普通助詞を適当に補って理解するのである。補うべき助詞であるが、事前交渉では「に」であり、深山幽谷では「と」であり、全く異なることに注目すべきである。
しかし、上記「生前退位」のところでも議論したように、深山幽谷の意味は微妙に「深山と幽谷」からずれるのである。どちらもその意味を問われれば、「人里遠く離れた奥深い山と、そこにある静かな谷」の意味だと答えるだろう。しかし我々日本人は、「深山幽谷」と「深山と幽谷」の違いを感じることができる。前者には言葉の意味に加えて、幽谷の佳人や仙人などを感じるのである。(補足3)
日本語では漢字(熟語)だけでなく、単語もくっ付けて新しい言葉にする。コンビニと人間をくっ付ければ「コンビニ人間」となる。しかし、その前後の単語の関係は大きく振れる。この夏の芥川賞受賞作は、「コンビニ人間」である。これまでの用法では、「コンビニ人間」は「コンビニで食料から日常雑貨など全てを買って、それで簡便な生活を送っている怠惰な生活を送る者」くらいの意味であったと思う。しかし、この芥川賞受賞作では「生まれながらにコンビニで働くように成形されたような人間」の意味である。しかし、ざっと芥川賞の選評を読んだところ、その点についてのコメントはなかった。
「生前退位」も「コンビニ人間」も、日本語の粗雑な特性を教えてくれる言葉である。
尚、日本語で論理的議論が出来ないと良く言われる。その原因の一つは、上記例でも明らかなように単語に明確な定義がないことである。そのため、言霊が単語の中に入り込む余地があるのだ。対照的に英語などの西欧語では、単語が語源から整合的に組み上げられていて、意味が自ずと単語の中に含まれている。(補足4)
補足:
1)以前の前後をひっくり返した「前生(ぜんしょう)」という言葉は、前世の意味で今生(こんじょう)の対語である。
2)このことについては、以前書いたことがあります。このブログページを引用します。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/iii2013.html
3)単語に別の意味、神聖な感覚や侮蔑的な感覚などが加わる性質は、日本語において特に顕著である。これを言霊という。納得出来ない人が多いかもしれないので、別の例を挙げる。(男と女)と(男性と女性)という言葉はほとんど同じような意味がある。しかし犯罪を報じるニュースで犯人に言及するときは、前者(男や女)が使われるが、それらは決して被害者には使われない。その代わりに、後者(男性や女性)が使われる。つまり、「50歳の男性が35歳の女を殺した」ではなく、「50歳の男が35歳の女性をころした」と放送される。
4)日本語と英語の比較については、ホームページの一角に書いています。http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
“天皇陛下が生前退位の意向をお持ちである”とNHKテレビが初めて報じた。その報道について、明治天皇の玄孫の竹田恒泰氏は「生前退位」とは失礼な言い方だとテレビ番組「そこまで言って委員会」で指摘した。しかし、NHKはその後も「生前退位」を使い続けている。
生前ということばは、元々は「以前生きていたとき」の意味である。「生前、彼は酒豪だった」という風に使う。生前の「前」は、以前の「前」であり、生存中という意味はない。現在では例えば、生前贈与というような言葉で、「生前」が「生存中」という意味で使われるようになったが、それには訳がありそうである。その生前贈与と似た意味で、生前退位も使える筈だとNHKは考えたのだろう。
この生前贈与という言葉であるが、死んでから贈与など出来ないのだから、生前を贈与の前に付ける意味などないと普通考える。しかし、この「生前」には特別の意味がある。生前贈与とは、死亡した時相続されるだろうと思われる財産を、例えば親が生きている間に相続税の軽減を狙って子等に贈与しておくという意味である。死亡前に財産を譲っておくということだから、生前贈与の「生前」には、「死後」を意識した意味が含まれている。この生前贈与の例があるので、その意味の生前を退位の前につけて、「生前退位」をいう言葉をNHKは作ったのだろう。ご存命中の退位とすれば、問題視する人は現れなかっただろう。
追補:生前贈与という言葉もおかしい。しかし定着していると仮定して、上のようにごちゃごちゃと書いた。(8月20日午前10:50)
この「生前」は「以前、生きている時」という副詞句的意味を、漢字二文字で表したのだろう。(補足1)つまり、生前退位という言葉は、今上天皇の死後に御位の移動を回想的に言う時に使わるる言葉である。したがって、竹田恒泰氏が失礼だというのは、根拠のある指摘である。こんな考察は、NHKの連中にはできないのだろうか?
2)日本語は厄介なことばである。
日本語において、漢字の用法で混乱を生じるのは、十分日本語が発達していない段階で漢語を受け入れたため、日本語の骨格を歪めてしまったからだろう。(補足2)
漢語の特徴は、単語を互いの関係を無視してくっ付けて別の言葉を作ることである。上記「生前退位」もその一つである。日本語でもこの前後の関係を無視して、二つの熟語をくっ付けて使うので、誤解を生じやすい。例えば、「事前交渉」は「事前に交渉すること」であり、誤解が少ない。「深山幽谷」も同様に「深山と幽谷」の意味であり、誤解が少ないと思う。日本語では、普通助詞を適当に補って理解するのである。補うべき助詞であるが、事前交渉では「に」であり、深山幽谷では「と」であり、全く異なることに注目すべきである。
しかし、上記「生前退位」のところでも議論したように、深山幽谷の意味は微妙に「深山と幽谷」からずれるのである。どちらもその意味を問われれば、「人里遠く離れた奥深い山と、そこにある静かな谷」の意味だと答えるだろう。しかし我々日本人は、「深山幽谷」と「深山と幽谷」の違いを感じることができる。前者には言葉の意味に加えて、幽谷の佳人や仙人などを感じるのである。(補足3)
日本語では漢字(熟語)だけでなく、単語もくっ付けて新しい言葉にする。コンビニと人間をくっ付ければ「コンビニ人間」となる。しかし、その前後の単語の関係は大きく振れる。この夏の芥川賞受賞作は、「コンビニ人間」である。これまでの用法では、「コンビニ人間」は「コンビニで食料から日常雑貨など全てを買って、それで簡便な生活を送っている怠惰な生活を送る者」くらいの意味であったと思う。しかし、この芥川賞受賞作では「生まれながらにコンビニで働くように成形されたような人間」の意味である。しかし、ざっと芥川賞の選評を読んだところ、その点についてのコメントはなかった。
「生前退位」も「コンビニ人間」も、日本語の粗雑な特性を教えてくれる言葉である。
尚、日本語で論理的議論が出来ないと良く言われる。その原因の一つは、上記例でも明らかなように単語に明確な定義がないことである。そのため、言霊が単語の中に入り込む余地があるのだ。対照的に英語などの西欧語では、単語が語源から整合的に組み上げられていて、意味が自ずと単語の中に含まれている。(補足4)
補足:
1)以前の前後をひっくり返した「前生(ぜんしょう)」という言葉は、前世の意味で今生(こんじょう)の対語である。
2)このことについては、以前書いたことがあります。このブログページを引用します。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/iii2013.html
3)単語に別の意味、神聖な感覚や侮蔑的な感覚などが加わる性質は、日本語において特に顕著である。これを言霊という。納得出来ない人が多いかもしれないので、別の例を挙げる。(男と女)と(男性と女性)という言葉はほとんど同じような意味がある。しかし犯罪を報じるニュースで犯人に言及するときは、前者(男や女)が使われるが、それらは決して被害者には使われない。その代わりに、後者(男性や女性)が使われる。つまり、「50歳の男性が35歳の女を殺した」ではなく、「50歳の男が35歳の女性をころした」と放送される。
4)日本語と英語の比較については、ホームページの一角に書いています。http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2016年8月17日水曜日
天皇陛下のお言葉について(2)宮内省と内閣は何故早く対応できなかったのか?
1)天皇陛下が、譲位の思いを国民への談話の形で発表されたのは、8月8日である。この言葉で注目されるのが、摂政は解決にはならないことと、象徴という言葉を何回も使われたことである。天皇が直接国民への談話という形で、国政に関係することを話されるのは異例であり、本来なら事前に宮内庁や内閣がご意向を汲んで対応するべきであった。
天皇が国民に直接談話の形でご意向を発表されたのには、深い理由があると思う。その一つは、宮内庁か内閣の怠慢である。天皇が譲位の意思をお持ちだというニュースがNHKで流された日の翌朝、宮内庁長官はそんな話は無いと明確に否定した。しかし、他の報道機関もその真偽を確かめて、相次いでNHKと同じ内容の報道をした。そして、それが確かであることが、8月8日の談話で明確になった。
宮内庁は、天皇と内閣の橋渡しをする機関であるから、その橋渡しができなかったことが明確になった時点で、その責任を追及されるべきである。しかしなんの前説もなく、天皇のおことばが宮内庁のホームページに淡々と掲載されている。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
一方内閣もその責任を宮内庁長官に問う兆候は全くないし、国民への説明も単に「重く受け止める」というだけであった。その後のニュースは、秋に皇室典範の改訂にむけて有識者会議を組織すると報じている。そのような対応は、国民をバカにしているという意見がどこからも出てこないのが不思議である。
今後、有識者会議を組織するのなら、その人選を含めて詳細にその目的、設置する理由を国民に説明すべきである。目的は憲法上、天皇のお言葉と直接関係があってはならない。
2)何故そのようななし崩し的に皇室典範の改訂に向かうのか?こちらで勝手に考えてみる。
おそらく宮内庁は、内閣に天皇のご意向を何度も伝えた筈である。それ故、内閣は宮内庁の責任を問わないのである。内閣は天皇のご意志に沿いたくないので、ずっと無視してきたのだろう。そこで、天皇と内閣の板挟みになった宮内庁は、NHKにリークするという強硬手段をとったのだろう。
しかし、天皇のご意志を報道機関にリークしたことが明確になれば、それは守秘義務違反になる。また、天皇のご意志で内閣が動けば憲法違反になるので、翌朝の宮内庁長官は、そんな話はないと否定したのである。では、何故内閣は天皇のご意志を無視したのか、また、何故天皇は強く今回の発表にこだわられたのか?
天皇は、安倍内閣の考えている憲法改訂の方向を推察され、良からぬ方向だと危惧されたのだろう。その危惧とは、「安倍内閣は、天皇の立場を立憲君主的なものに変更する」可能性があることだろう。それが、談話の中で象徴という言葉を何度も使われた理由だと思う。天皇のご意向が無視され続けたことと、衆参両院で安倍政権が改憲勢力を確保したことで、陛下の心の中に高まった危惧の気持ちを宮内庁が強く感じたのではないだろうか。
天皇はここ数百年実際的な意味での権力の座にはなく、単に日本の権威の頂点にあったのみである。この権力と権威の分裂は、あの悲惨な戦争の一つの原因であったと思う。天皇の権威を借りて、独裁的な体制を作り上げることは、その善悪は別にして日本政治における伝統的形だったと思う。明治維新の際にも、天皇の地位は倒幕に利用された。民主主義の時代である現代、そのような天皇の政治利用は避けなければならないと思う。
自民党の新憲法草案では、天皇を「国家の元首」としている。また、天皇の国事行為については、天皇が国家の元首であるという線に沿って書かれている。https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
例えば、草案5条には、「天皇はこの憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する機能を有しない」と書かれているが、現行憲法3条に相当する条文は、単独の条文から第6条の第4項として変更の上残されている。(補足1)そのほか随所に天皇の国政への関与を強める表現が盛り込まれている(補足2)。それらは草案5条の”国政に関する機能を有しない”に矛盾する。天皇陛下がこの草案が新憲法となることを危惧されるのは、十分理解できる。
自民党の憲法草案では、現行憲法の9条二項を削除して、国防軍の設置を規定している。天皇を国家の元首とするのではなく、日本国民統合の象徴とする条文を残すのなら、天皇陛下は国防軍の設置に反対の気持ちを持たれないと思う。
憲法9条だけでなく、論理もなにもないのが、この国の政治の実態である。法(ことば)と実際(世界)をもっと近づけてほしいものである。
補足:
1)憲法3条:「天皇の国事に関するすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」に相当する条文は、自民党草案では6条4項にある。ただし下線部分が「内閣の進言を必要とし」に書き換えられている。天皇は元首であるから、内閣の助言を内閣の進言に変えたのである。
2)「憲法4条:天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」に相当する自民党草案5条の文章において、下線部「行為のみ」の「のみ」が削除されている。
天皇が国民に直接談話の形でご意向を発表されたのには、深い理由があると思う。その一つは、宮内庁か内閣の怠慢である。天皇が譲位の意思をお持ちだというニュースがNHKで流された日の翌朝、宮内庁長官はそんな話は無いと明確に否定した。しかし、他の報道機関もその真偽を確かめて、相次いでNHKと同じ内容の報道をした。そして、それが確かであることが、8月8日の談話で明確になった。
宮内庁は、天皇と内閣の橋渡しをする機関であるから、その橋渡しができなかったことが明確になった時点で、その責任を追及されるべきである。しかしなんの前説もなく、天皇のおことばが宮内庁のホームページに淡々と掲載されている。http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12
一方内閣もその責任を宮内庁長官に問う兆候は全くないし、国民への説明も単に「重く受け止める」というだけであった。その後のニュースは、秋に皇室典範の改訂にむけて有識者会議を組織すると報じている。そのような対応は、国民をバカにしているという意見がどこからも出てこないのが不思議である。
今後、有識者会議を組織するのなら、その人選を含めて詳細にその目的、設置する理由を国民に説明すべきである。目的は憲法上、天皇のお言葉と直接関係があってはならない。
2)何故そのようななし崩し的に皇室典範の改訂に向かうのか?こちらで勝手に考えてみる。
おそらく宮内庁は、内閣に天皇のご意向を何度も伝えた筈である。それ故、内閣は宮内庁の責任を問わないのである。内閣は天皇のご意志に沿いたくないので、ずっと無視してきたのだろう。そこで、天皇と内閣の板挟みになった宮内庁は、NHKにリークするという強硬手段をとったのだろう。
しかし、天皇のご意志を報道機関にリークしたことが明確になれば、それは守秘義務違反になる。また、天皇のご意志で内閣が動けば憲法違反になるので、翌朝の宮内庁長官は、そんな話はないと否定したのである。では、何故内閣は天皇のご意志を無視したのか、また、何故天皇は強く今回の発表にこだわられたのか?
天皇は、安倍内閣の考えている憲法改訂の方向を推察され、良からぬ方向だと危惧されたのだろう。その危惧とは、「安倍内閣は、天皇の立場を立憲君主的なものに変更する」可能性があることだろう。それが、談話の中で象徴という言葉を何度も使われた理由だと思う。天皇のご意向が無視され続けたことと、衆参両院で安倍政権が改憲勢力を確保したことで、陛下の心の中に高まった危惧の気持ちを宮内庁が強く感じたのではないだろうか。
天皇はここ数百年実際的な意味での権力の座にはなく、単に日本の権威の頂点にあったのみである。この権力と権威の分裂は、あの悲惨な戦争の一つの原因であったと思う。天皇の権威を借りて、独裁的な体制を作り上げることは、その善悪は別にして日本政治における伝統的形だったと思う。明治維新の際にも、天皇の地位は倒幕に利用された。民主主義の時代である現代、そのような天皇の政治利用は避けなければならないと思う。
自民党の新憲法草案では、天皇を「国家の元首」としている。また、天皇の国事行為については、天皇が国家の元首であるという線に沿って書かれている。https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf
例えば、草案5条には、「天皇はこの憲法に定める国事に関する行為を行い、国政に関する機能を有しない」と書かれているが、現行憲法3条に相当する条文は、単独の条文から第6条の第4項として変更の上残されている。(補足1)そのほか随所に天皇の国政への関与を強める表現が盛り込まれている(補足2)。それらは草案5条の”国政に関する機能を有しない”に矛盾する。天皇陛下がこの草案が新憲法となることを危惧されるのは、十分理解できる。
自民党の憲法草案では、現行憲法の9条二項を削除して、国防軍の設置を規定している。天皇を国家の元首とするのではなく、日本国民統合の象徴とする条文を残すのなら、天皇陛下は国防軍の設置に反対の気持ちを持たれないと思う。
憲法9条だけでなく、論理もなにもないのが、この国の政治の実態である。法(ことば)と実際(世界)をもっと近づけてほしいものである。
補足:
1)憲法3条:「天皇の国事に関するすべての行為は、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」に相当する条文は、自民党草案では6条4項にある。ただし下線部分が「内閣の進言を必要とし」に書き換えられている。天皇は元首であるから、内閣の助言を内閣の進言に変えたのである。
2)「憲法4条:天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」に相当する自民党草案5条の文章において、下線部「行為のみ」の「のみ」が削除されている。
2016年8月16日火曜日
中国が釣魚島に漁船員(民兵)を上陸させたとき
中国が尖閣周辺に多くの漁船におそらく民兵を乗せて派遣している。それを取り締まるような風に、公船が領海侵犯を繰り返している。外国の報道によれば、公船と漁船の間で人の移動が観測されているという。
http://jp.reuters.com/article/idJP2016080901002477
つまり、領海内であたかも漁船の取り締まりを行っているような行為を行い、ここが中国の領海と主張しているようなのである。その行為については、ほとんど日本国内で報道されていない。日本政府は無視をしているようだ。
誰かが8月15日が中国漁船員の上陸があるかもしれないとの予告をしていたが、それはなかったようである。しかし、中国は台風を待っているのかもしれない。漁船は台風を避けるように尖閣に上陸するというシナリオである。そして、多くの漁船員が上陸した時に、その漁船員を救助するという名目で、公船も尖閣に停泊するだろう。
その時、どうするか? 北野幸伯氏は直ちに自衛隊を派遣して、それら中国人を排除すべきであると書いている。つまり、それをしないで単に「直ちに退去するように」とアナウンスするだけで実力行使しないとか、国際機関に提訴するとかしても、成功しないだろうというのである。まあ、日本政府もそんなに愚かではないだろう。その時のために防衛大臣を交代させたのだから。
また、米国の力を頼りにしても、自衛隊が率先して中国人排除に動かなければ、米国も協力のしようがない。須田氏はyoutubeで、フォークランド紛争のときの英米の協力について話している。つまり、米国はあの時英国軍に気象情報を提供した、つまり、英米の関係と雖もその程度の協力しかしなかったと紹介している。まあ、アルゼンチンとイギリスとでは勝負は見えているから、それで十分だろう。
自衛隊はその時の為にあるのだから、数時間で奪回作戦が実行できる軍を尖閣に派遣すべきであると私は思う。明確な態度を示さなければ、沖縄を次に奪われるだろうと、北野氏は書いている。まあ、北野氏が心配するほど、日本政府は腰抜けではないだろう。なお、別サイトに書いたように、日米の沖縄返還協定にはイチャモンをつける余地が残っていると思うのである。(数日前のブログに記載)
つまり、領海内であたかも漁船の取り締まりを行っているような行為を行い、ここが中国の領海と主張しているようなのである。その行為については、ほとんど日本国内で報道されていない。日本政府は無視をしているようだ。
誰かが8月15日が中国漁船員の上陸があるかもしれないとの予告をしていたが、それはなかったようである。しかし、中国は台風を待っているのかもしれない。漁船は台風を避けるように尖閣に上陸するというシナリオである。そして、多くの漁船員が上陸した時に、その漁船員を救助するという名目で、公船も尖閣に停泊するだろう。
その時、どうするか? 北野幸伯氏は直ちに自衛隊を派遣して、それら中国人を排除すべきであると書いている。つまり、それをしないで単に「直ちに退去するように」とアナウンスするだけで実力行使しないとか、国際機関に提訴するとかしても、成功しないだろうというのである。まあ、日本政府もそんなに愚かではないだろう。その時のために防衛大臣を交代させたのだから。
また、米国の力を頼りにしても、自衛隊が率先して中国人排除に動かなければ、米国も協力のしようがない。須田氏はyoutubeで、フォークランド紛争のときの英米の協力について話している。つまり、米国はあの時英国軍に気象情報を提供した、つまり、英米の関係と雖もその程度の協力しかしなかったと紹介している。まあ、アルゼンチンとイギリスとでは勝負は見えているから、それで十分だろう。
自衛隊はその時の為にあるのだから、数時間で奪回作戦が実行できる軍を尖閣に派遣すべきであると私は思う。明確な態度を示さなければ、沖縄を次に奪われるだろうと、北野氏は書いている。まあ、北野氏が心配するほど、日本政府は腰抜けではないだろう。なお、別サイトに書いたように、日米の沖縄返還協定にはイチャモンをつける余地が残っていると思うのである。(数日前のブログに記載)
日本は理系人間を政治や報道の世界に活用すべき
1)科学の本質:
最近の天気予報は全くあたらない。昨日の予報(愛知)では、今日は曇りと雨のマークが付いていたはずであるが、今朝の予報は晴れ時々曇りであり雨マークはない。気象は自然現象であり、科学の研究対象である。予測が難しいのはわかるが、その理論が十分発達しておれば、もっと予報の確度が上がる筈である。
ここで思い出すのは、スパコン開発予算を審議する際に、気象のシミュレーションの刻みが細かく出来、天気予報の精度も上がるという主張がなされたことである(下の知恵袋記事参照)。しかし、その主張は正しくないことが、この当たらない天気予報で証明されたのではないだろうか。
どんなに高速のコンピュータを用いて詳細なシミュレーションをしても、人の頭でつくるモデル(つまり理論)が本質を捉えていなければ、明日の天気も正しく予報できないのである。科学研究は、自然現象の理解のためにより本質をついたモデルをつくることであり、コンピュータがいくら高速になっても科学の発展には直接関係がないのだ。
2)政治の世界で科学の本質が理解されていないこと:
ここで理化学研究所に「京」という大型コンピュータを作る際の国会審議について復習したい(2009年)。この件、蓮舫議員による「何故世界一位の計算能力を持つコンピュータをつくらなければならないのでしょうか?二位では何故いけないのでしょうか?」という質問で大きな話題になった。
科学の本質がわかっていないとしか思えないピンボケ批判が、理研所長の⚫⚫を筆頭に文部官僚や自民党議員らから出され、それが日本を席巻した。そのような雲行きのなか、私は蓮舫議員を擁護する記事を書いた。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n70418
その後、2010年6月17日、蓮舫議員は産経新聞などのインタビューで答えて「(日本が)科学技術の分野で一番を目指す。あるいは他の分野でも一番を目指すのは当然だ」と発言。何を勘違いしたのか産経新聞は、「上記事業仕分けの時の発言を修正した」と評した。(補足1) 日本を代表する産経新聞の幹部も科学の本質が全くわかっていないのである。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%88%AB)
ここで、科学技術という単語であるが、科学と技術という意味であり、一つの意味を表す単語ではない。深山幽谷のように関係が深い二つの単語を並列につないだだけの単語である。(その関係も、科学技術と深山幽谷とでは全く異なる。日本語は非常に出来が悪い言語である。だからこそ=>3)) (補足2)
3)理系人間を優遇して、政府や報道機関の幹部に登用すべき:
化学専攻だった理研所長、文部官僚達、その尻馬にのる自民党議員達(文教族というらしい)、それに産経新聞等の報道機関などの多くの人は、科学技術とスパコンの性能を切っても切り離せないものと考えていることがわかる。つまり、これら日本の表舞台で活躍する人々は、科学も技術も科学技術もわかっていないのである。 日本では、理系一種採用の官僚は技官とよばれ、今でも第一線に出るまで出世するのは困難である。文系一種の官僚だけで、霞が関は抑えられている。しかし、この世界の政治において、理系の知識人抜きに、日本が生き残れると考えるのは非常に甘い。
今後日本も優秀な理系官僚を増やして、政府中枢に登用すべきである。もちろん、現在政府機関で働いている理系人間は、悪い待遇のもとで集められたのであり、それほど優秀ではないだろう。20年程度の長期間を想定して文系幹部官僚のかなりの部分の入れ替えを行うべきであると思う。
因みに、原爆投下の記念日にBSフジのプライムニュースで、歴史家の秦郁彦教授が「原子爆弾が投下された時、政府中枢の中で唯一理系だったのは昭和天皇であり、その天皇のみが原爆の恐ろしさを正しく理解されていた」と話していた。上記スパコンの話では、政府中枢にはまともな理系人間は一人もいなかったのだろう。 補足:
1)科学とは何の関係もないのは科学は頭でするものであり、スパコンでするものではないからである。スパコンの技術も、如何に大規模にするかという問題であり、お金と排熱などの問題だけだろう。革新的な技術、例えば量子コンピュータのような発展は、何もない。
2)ここも論理に飛躍があったので、補足します。要するに言葉を厳密に使えるのは理系人間であるという意味。言葉は定義をしてから使うことが大事で、その点に理系が敏感である。例えば、文系の人は力(ニュートン)、エネルギー(ジュール)、単位時間当たりのエネルギー(ワット)の区別すらできない人が多い。つまり、理系の方が数学や物理学の法則を勉強する分、多くの言葉を知っているからだと思う。
最近の天気予報は全くあたらない。昨日の予報(愛知)では、今日は曇りと雨のマークが付いていたはずであるが、今朝の予報は晴れ時々曇りであり雨マークはない。気象は自然現象であり、科学の研究対象である。予測が難しいのはわかるが、その理論が十分発達しておれば、もっと予報の確度が上がる筈である。
ここで思い出すのは、スパコン開発予算を審議する際に、気象のシミュレーションの刻みが細かく出来、天気予報の精度も上がるという主張がなされたことである(下の知恵袋記事参照)。しかし、その主張は正しくないことが、この当たらない天気予報で証明されたのではないだろうか。
どんなに高速のコンピュータを用いて詳細なシミュレーションをしても、人の頭でつくるモデル(つまり理論)が本質を捉えていなければ、明日の天気も正しく予報できないのである。科学研究は、自然現象の理解のためにより本質をついたモデルをつくることであり、コンピュータがいくら高速になっても科学の発展には直接関係がないのだ。
2)政治の世界で科学の本質が理解されていないこと:
ここで理化学研究所に「京」という大型コンピュータを作る際の国会審議について復習したい(2009年)。この件、蓮舫議員による「何故世界一位の計算能力を持つコンピュータをつくらなければならないのでしょうか?二位では何故いけないのでしょうか?」という質問で大きな話題になった。
科学の本質がわかっていないとしか思えないピンボケ批判が、理研所長の⚫⚫を筆頭に文部官僚や自民党議員らから出され、それが日本を席巻した。そのような雲行きのなか、私は蓮舫議員を擁護する記事を書いた。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n70418
その後、2010年6月17日、蓮舫議員は産経新聞などのインタビューで答えて「(日本が)科学技術の分野で一番を目指す。あるいは他の分野でも一番を目指すのは当然だ」と発言。何を勘違いしたのか産経新聞は、「上記事業仕分けの時の発言を修正した」と評した。(補足1) 日本を代表する産経新聞の幹部も科学の本質が全くわかっていないのである。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E8%88%AB)
ここで、科学技術という単語であるが、科学と技術という意味であり、一つの意味を表す単語ではない。深山幽谷のように関係が深い二つの単語を並列につないだだけの単語である。(その関係も、科学技術と深山幽谷とでは全く異なる。日本語は非常に出来が悪い言語である。だからこそ=>3)) (補足2)
3)理系人間を優遇して、政府や報道機関の幹部に登用すべき:
化学専攻だった理研所長、文部官僚達、その尻馬にのる自民党議員達(文教族というらしい)、それに産経新聞等の報道機関などの多くの人は、科学技術とスパコンの性能を切っても切り離せないものと考えていることがわかる。つまり、これら日本の表舞台で活躍する人々は、科学も技術も科学技術もわかっていないのである。 日本では、理系一種採用の官僚は技官とよばれ、今でも第一線に出るまで出世するのは困難である。文系一種の官僚だけで、霞が関は抑えられている。しかし、この世界の政治において、理系の知識人抜きに、日本が生き残れると考えるのは非常に甘い。
今後日本も優秀な理系官僚を増やして、政府中枢に登用すべきである。もちろん、現在政府機関で働いている理系人間は、悪い待遇のもとで集められたのであり、それほど優秀ではないだろう。20年程度の長期間を想定して文系幹部官僚のかなりの部分の入れ替えを行うべきであると思う。
因みに、原爆投下の記念日にBSフジのプライムニュースで、歴史家の秦郁彦教授が「原子爆弾が投下された時、政府中枢の中で唯一理系だったのは昭和天皇であり、その天皇のみが原爆の恐ろしさを正しく理解されていた」と話していた。上記スパコンの話では、政府中枢にはまともな理系人間は一人もいなかったのだろう。 補足:
1)科学とは何の関係もないのは科学は頭でするものであり、スパコンでするものではないからである。スパコンの技術も、如何に大規模にするかという問題であり、お金と排熱などの問題だけだろう。革新的な技術、例えば量子コンピュータのような発展は、何もない。
2)ここも論理に飛躍があったので、補足します。要するに言葉を厳密に使えるのは理系人間であるという意味。言葉は定義をしてから使うことが大事で、その点に理系が敏感である。例えば、文系の人は力(ニュートン)、エネルギー(ジュール)、単位時間当たりのエネルギー(ワット)の区別すらできない人が多い。つまり、理系の方が数学や物理学の法則を勉強する分、多くの言葉を知っているからだと思う。
2016年8月15日月曜日
芥川賞受賞作「コンビニ人間」の感想
芥川賞受賞作が掲載されたので、文藝春秋を久しぶりに買った。早速、受賞作「コンビニ人間」を読んだ。面白いと思う一方、非常に不自然な感じがした。理系人間ではあるが、不遜なる感想を書いてしまうことになる。
1)あらすじを簡単に書く:
主人公は小学生から高校生までは、病的というべき性質であり、友達もできずいつも一人で黙っている女の子だった。それは、人間が普通に持つ人の痛みや命の尊さなどに対する感覚を持たないサイコパス的性質である。カウンセリングを受けた結果は、家族の愛情で普通に戻ることを期待しようというものだった。
大学生になり、親元を離れ仕送りを受けて通学することになる。沈黙と孤独の生活は変わらない。一年生の時にアルバイトに興味を覚え、ビルの一角にできたコンビニを見つける。そこに応募し、簡単な面接ののち採用され、結局20年近くそこで働くことになる。それまで社会人としては白紙状態だった主人公は、そこでコンビニでの仕事である、挨拶の仕方、客の気持ちの推察、レジ業務、商品の配列など全てを学び、優秀な「コンビニ人間」として作り上げられる。
また、男性に興味はなく、その他の社会性を一切持たないままであった。その結果、正業につくべく他社に応募しても、全て採用試験は不合格だった。しかし、「コンビニ人間」として自分が作り上げられたことで、一旦は家族や田舎の同級生からノーマルな社会人と認められるようになる。その後、主人公は年の経過とともに変化しないので、再びノーマルな社会人として見られなくなり、風変わりな男性を家に入れることで年齢相応の姿を偽装することになる。男性に全く興味がないが、二人でいる方が社会の好奇の目から逃れられるからである。
その後、その仮面夫婦的な役割の夫役を引き受けたニート的な男性の要求で、もっとまともな仕事を変わることを考え、コンビニを止めて職をさがす。ほとんど書類選考でおとされるが、一社に奇跡的に面接に呼ばれることになったので、二人は電車で出かける。面接までの僅かの時間にふと近くのコンビニに入ってしまう。その店は人手不足なのか、非常に管理の悪い状況であった。それを見た主人公は、店員でもないのに体が勝手に動き出し、商品の並び変えなどをしてしまう。そこで自分は、「コンビニ人間」以外では生きていけないことを自覚して、その男性とその場で喧嘩別れをしてしまうのであった。
2)感想であるが:
「コンビニ人間」という発想は面白いし、コンビニを水槽のように記述し、コンビニ人間をその中に飼われて居る生物のように思わせるのも新奇である。社会を一つの機械と考えて、人間をその部品を構成する一個の歯車と見る見方も、一定の支持はあるだろう。
しかし、コンビニ店員として優秀な人は、機械の歯車とは違ってその他の接客業においても十分適応できると考えるのが普通である。「コンビニ人間として生まれた」という記述は、機械にはめ込まれた歯車のように他に転用できない人間として作りあげられたと主張している。コンビニ人間になるのが、人間としての柔軟性に由来するのなら、それ以前の病的な人格と矛盾する。従って、コンビニ人間にしかなれないDNAを持ったこの世に生まれたことになる。しかし、そんなことなどあるわけがない。
小説の中では、コンビニでアルバイトを始めて、そこで「コンビニ人間として生まれた」と書かれている。そして、それ以前は回想として書かれており、「コンビニ人間として生まれる前は、どこかおぼろげである」と書かれている。そこまで読んだ時は非常に新鮮な感じがして期待したのだが、その後の「コンビニ人間誕生」の物語は、ごく普通の研修であったり、先輩の姿を真似ることであったりする。誕生というからには大きな誕生の苦しみや雷光に打たれるような痛みが書かれていなければならない。
また、コンビニ人間となったのちには普通に同窓会へ参加し、友人と話を繕う姿には普通の人間としての柔軟性を感じ異常を感じない。なによりも、「普通の社会人」という考えを押し付ける周りからの防御を考える姿は、「普通」を証明している。
幼少期からのサイコパス的な性質を含め、30代になっても変わらないという設定だが、それはコンビニ人間として客の嗜好を正しく推測するまで“成長”する姿と矛盾するので、「コンビニ人間としての誕生」でなくてはならないという書き手の事情は分かる。また、主人公以上に社会性を持たない異常な男性を飼うことになる(同棲することになる)のも一連の事情の延長線上にあるのだろうが、そのプロセスももっと異常でなくてはならない。主人公ではなくその男性の記述の方に、妙にリアリティーがあるのみである。
つまり、小説はどのように書くことも可能であるが、あまりにもこの主人公と話の進行には小説的リアリティー(読者が納得する話の筋)がない。サイコパスでもなんでも、緻密に書けばリアリティーが出てくる筈だと思うのである。同じ号に記載されている芥川賞選評のなかで、島田雅彦氏の評価が当たっているのだろう。(8月16日朝編集)
1)あらすじを簡単に書く:
主人公は小学生から高校生までは、病的というべき性質であり、友達もできずいつも一人で黙っている女の子だった。それは、人間が普通に持つ人の痛みや命の尊さなどに対する感覚を持たないサイコパス的性質である。カウンセリングを受けた結果は、家族の愛情で普通に戻ることを期待しようというものだった。
大学生になり、親元を離れ仕送りを受けて通学することになる。沈黙と孤独の生活は変わらない。一年生の時にアルバイトに興味を覚え、ビルの一角にできたコンビニを見つける。そこに応募し、簡単な面接ののち採用され、結局20年近くそこで働くことになる。それまで社会人としては白紙状態だった主人公は、そこでコンビニでの仕事である、挨拶の仕方、客の気持ちの推察、レジ業務、商品の配列など全てを学び、優秀な「コンビニ人間」として作り上げられる。
また、男性に興味はなく、その他の社会性を一切持たないままであった。その結果、正業につくべく他社に応募しても、全て採用試験は不合格だった。しかし、「コンビニ人間」として自分が作り上げられたことで、一旦は家族や田舎の同級生からノーマルな社会人と認められるようになる。その後、主人公は年の経過とともに変化しないので、再びノーマルな社会人として見られなくなり、風変わりな男性を家に入れることで年齢相応の姿を偽装することになる。男性に全く興味がないが、二人でいる方が社会の好奇の目から逃れられるからである。
その後、その仮面夫婦的な役割の夫役を引き受けたニート的な男性の要求で、もっとまともな仕事を変わることを考え、コンビニを止めて職をさがす。ほとんど書類選考でおとされるが、一社に奇跡的に面接に呼ばれることになったので、二人は電車で出かける。面接までの僅かの時間にふと近くのコンビニに入ってしまう。その店は人手不足なのか、非常に管理の悪い状況であった。それを見た主人公は、店員でもないのに体が勝手に動き出し、商品の並び変えなどをしてしまう。そこで自分は、「コンビニ人間」以外では生きていけないことを自覚して、その男性とその場で喧嘩別れをしてしまうのであった。
2)感想であるが:
「コンビニ人間」という発想は面白いし、コンビニを水槽のように記述し、コンビニ人間をその中に飼われて居る生物のように思わせるのも新奇である。社会を一つの機械と考えて、人間をその部品を構成する一個の歯車と見る見方も、一定の支持はあるだろう。
しかし、コンビニ店員として優秀な人は、機械の歯車とは違ってその他の接客業においても十分適応できると考えるのが普通である。「コンビニ人間として生まれた」という記述は、機械にはめ込まれた歯車のように他に転用できない人間として作りあげられたと主張している。コンビニ人間になるのが、人間としての柔軟性に由来するのなら、それ以前の病的な人格と矛盾する。従って、コンビニ人間にしかなれないDNAを持ったこの世に生まれたことになる。しかし、そんなことなどあるわけがない。
小説の中では、コンビニでアルバイトを始めて、そこで「コンビニ人間として生まれた」と書かれている。そして、それ以前は回想として書かれており、「コンビニ人間として生まれる前は、どこかおぼろげである」と書かれている。そこまで読んだ時は非常に新鮮な感じがして期待したのだが、その後の「コンビニ人間誕生」の物語は、ごく普通の研修であったり、先輩の姿を真似ることであったりする。誕生というからには大きな誕生の苦しみや雷光に打たれるような痛みが書かれていなければならない。
また、コンビニ人間となったのちには普通に同窓会へ参加し、友人と話を繕う姿には普通の人間としての柔軟性を感じ異常を感じない。なによりも、「普通の社会人」という考えを押し付ける周りからの防御を考える姿は、「普通」を証明している。
幼少期からのサイコパス的な性質を含め、30代になっても変わらないという設定だが、それはコンビニ人間として客の嗜好を正しく推測するまで“成長”する姿と矛盾するので、「コンビニ人間としての誕生」でなくてはならないという書き手の事情は分かる。また、主人公以上に社会性を持たない異常な男性を飼うことになる(同棲することになる)のも一連の事情の延長線上にあるのだろうが、そのプロセスももっと異常でなくてはならない。主人公ではなくその男性の記述の方に、妙にリアリティーがあるのみである。
つまり、小説はどのように書くことも可能であるが、あまりにもこの主人公と話の進行には小説的リアリティー(読者が納得する話の筋)がない。サイコパスでもなんでも、緻密に書けばリアリティーが出てくる筈だと思うのである。同じ号に記載されている芥川賞選評のなかで、島田雅彦氏の評価が当たっているのだろう。(8月16日朝編集)
2016年8月14日日曜日
オバマ大統領の核廃絶宣言(2)
1)オバマ米国大統領が核兵器先制攻撃不使用宣言を見送るようだ。それは米国にとって当たり前だろう。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160813-00000196-jij-n_ame しかしその一方で、オバマ氏は核実験全面禁止を国連に提案する予定だという。これは米国自身に被害は及ばないので、米国政府や議会は無視している。http://mainichi.jp/articles/20160805/k00/00e/030/189000c
私にはこれらのオバマ氏の行動は、国際平和に寄与することを目指したものではなく、単にノーベル平和賞をもらったことを意識して、自分の行動との整合性をとるためと見える。
核先制不使用を宣言することは、ある国が通常兵器で如何に邪悪な行動に出ても、米国は自国が対象でなければ放置することを意味している。それは、自国の若者を多数死に追いやるような通常兵器での”警察行動”は、直接米国の被害を防止する意味がないなら出来ないからである。
また、自国が通常兵器での攻撃対象になっても、米国は通常兵器で応戦することになる。従って核兵器を一切先制攻撃に使用しないと宣言することは、核兵器はそのような通常兵器での攻撃を防止する抑止力にならないことになる。またその宣言は、直接米国への攻撃でなければ、同盟国を核攻撃しても核反撃しないと宣言することになる。つまり、友好国が頼りにするだろう米国の核の傘を廃止する宣言でもある。
「このような宣言を真剣に考えるオバマという人は、なんという無責任な人だろうか。自国や友好国の国民の命よりも、自分のメンツの方が大事なのだろうか」そう思わざるを得ない。そもそも核兵器は拡散の方向にあったし、今後も拡散し続けるだろう。それは時計の針が逆周りをしない限り、止まることはない。文系の知性に欠ける人たちは、物理の拡散法則を無視して「人間の英知」とやらを信用するのか?
2)そんなことを考えるより、自分の国でピストル保持の免許制度を導入したらどうか? ピストルを保持しない黒人青年が、白人警官に殺される場面が何度も世界に報道されている。「自分は核兵器廃絶を他国に強制する」とか「自分なら核兵器は先制使用しないことにする」という無責任な宣伝放送を世界に向けてするよりも、この自国の深刻な問題を、自分の”平和への強い思い”を力に解決したらどうか。
国家という強い権力があるのだから、核廃絶よりも遥かに少ない覚悟とエネルギーで可能となる。とは言うものの、それでも相当の覚悟がなければで無理である。なぜなら、ピストルを持つ権利を主張することには、「ピストルを持ちそれを使う可能性のある荒くれ男と対峙するには、自分もピストルを持つこと以外に方法がない」という正当な理由があるからだ。
核兵器の国家による保持も、個人を国家に読み替えれば同じ理屈で廃絶は困難である。しかも国家権力が個人に対して持つ権力よりも、国際的な枠組みが各国に対して持つ強制力は遥かに弱いのだ。
3)日本は戦後十分平和的な行動をとってきたにも拘らず、核兵器を持った大国が力を背景に日本領である離島を奪い取ろうとしている。その現状をこのノーベル平和賞受賞者はどう考えているのだろうか。
また、核兵器を最近保持することになった隣国は、ミサイルを日本の排他的経済水域に飛ばしている。一時期米国はこの国をテロ支援国家の指定をしたが、それを解除した。その国の核兵器保持を承認していない筈なのに、その核兵器を廃絶する努力も十分しないで、オバマ氏は何を言っているのか?
国際平和 を深く祈念するという崇高な姿勢を、その粗野な核大国による国際法に反する略奪行為の防止にむけたらどうか。離島を略奪されようとしている国は、米国とこの60年以上友好国であり続け、軍事的困難な情況になれば共に戦うという、安全保障条約を締結している国なのだ。
「米国は、尖閣に他国の公務員と思われる人間がその離島に上陸した時には、その友好国への侵略と見做し、その国の防衛軍と協力して直ちにその島の防衛あるいは奪還のための戦闘に参加する」と宣言してはどうか? その口先介入だけで、その島の紛争は未然に防げる。確実に一つの紛争を、口先だけで解消できるのだ。ちょっと思い切ればできる、確実に平和に寄与するこの効率的な宣言をしないで、出来もしない核兵器からみの宣言を模索するのは何かおかしいと思わないのか?
4)核兵器を持つことは、その国にとって得なことである。それが事実でなくなれば核廃絶は自然に達成されるだろう。そしてそれが唯一の核廃絶の道なのだ。
「9段線が地理学上如何に不自然な線であっても、その中の島も岩礁も太古の時代から自国の領土であり、それを埋め立てて自国の領土とし、そこに軍事基地を作る自由があるのだ」と核兵器を持つ大国だから宣言できるのである。おそらくその国は、「尖閣諸島なんて奪うことは容易だ、我々は核兵器を保持する大国なのだから。要は如何に損を最小限にできるタイミングを選ぶかだ」と思っているだろう。
核兵器保持が損な選択であるようにする方向は存在する。それは、世界政府(現在の国連ではない)を実現し、その平和維持軍が現状核兵器以上の強力な兵器を持って、世界を監視する体制を作るのである。そのような体制ができればどの国も他国の核攻撃を恐れなくなるだろう。そして維持費のかかる核兵器など無駄に持ちたくなくなるだろう。
しかし、そのような世界の体制ができるまでは、核兵器廃絶はいくら叫んでみても出来ないだろう。要するに、核保持が国家にとって得な情況が続く限り核廃絶は原理的に不可能なのだ。
オバマ大統領に聞きたい。核武力を背景にした上記のような国際法に反する行為を目の前にして、それに具体的に対応する能力を持ちながら、特に有効な手段を行使することなく、「核実験全面禁止宣言(条約)」とか「核兵器先制攻撃不使用宣言」とかを考えることは、あなたの本心ですか?
核先制不使用を宣言することは、ある国が通常兵器で如何に邪悪な行動に出ても、米国は自国が対象でなければ放置することを意味している。それは、自国の若者を多数死に追いやるような通常兵器での”警察行動”は、直接米国の被害を防止する意味がないなら出来ないからである。
また、自国が通常兵器での攻撃対象になっても、米国は通常兵器で応戦することになる。従って核兵器を一切先制攻撃に使用しないと宣言することは、核兵器はそのような通常兵器での攻撃を防止する抑止力にならないことになる。またその宣言は、直接米国への攻撃でなければ、同盟国を核攻撃しても核反撃しないと宣言することになる。つまり、友好国が頼りにするだろう米国の核の傘を廃止する宣言でもある。
「このような宣言を真剣に考えるオバマという人は、なんという無責任な人だろうか。自国や友好国の国民の命よりも、自分のメンツの方が大事なのだろうか」そう思わざるを得ない。そもそも核兵器は拡散の方向にあったし、今後も拡散し続けるだろう。それは時計の針が逆周りをしない限り、止まることはない。文系の知性に欠ける人たちは、物理の拡散法則を無視して「人間の英知」とやらを信用するのか?
2)そんなことを考えるより、自分の国でピストル保持の免許制度を導入したらどうか? ピストルを保持しない黒人青年が、白人警官に殺される場面が何度も世界に報道されている。「自分は核兵器廃絶を他国に強制する」とか「自分なら核兵器は先制使用しないことにする」という無責任な宣伝放送を世界に向けてするよりも、この自国の深刻な問題を、自分の”平和への強い思い”を力に解決したらどうか。
国家という強い権力があるのだから、核廃絶よりも遥かに少ない覚悟とエネルギーで可能となる。とは言うものの、それでも相当の覚悟がなければで無理である。なぜなら、ピストルを持つ権利を主張することには、「ピストルを持ちそれを使う可能性のある荒くれ男と対峙するには、自分もピストルを持つこと以外に方法がない」という正当な理由があるからだ。
核兵器の国家による保持も、個人を国家に読み替えれば同じ理屈で廃絶は困難である。しかも国家権力が個人に対して持つ権力よりも、国際的な枠組みが各国に対して持つ強制力は遥かに弱いのだ。
3)日本は戦後十分平和的な行動をとってきたにも拘らず、核兵器を持った大国が力を背景に日本領である離島を奪い取ろうとしている。その現状をこのノーベル平和賞受賞者はどう考えているのだろうか。
また、核兵器を最近保持することになった隣国は、ミサイルを日本の排他的経済水域に飛ばしている。一時期米国はこの国をテロ支援国家の指定をしたが、それを解除した。その国の核兵器保持を承認していない筈なのに、その核兵器を廃絶する努力も十分しないで、オバマ氏は何を言っているのか?
国際平和 を深く祈念するという崇高な姿勢を、その粗野な核大国による国際法に反する略奪行為の防止にむけたらどうか。離島を略奪されようとしている国は、米国とこの60年以上友好国であり続け、軍事的困難な情況になれば共に戦うという、安全保障条約を締結している国なのだ。
「米国は、尖閣に他国の公務員と思われる人間がその離島に上陸した時には、その友好国への侵略と見做し、その国の防衛軍と協力して直ちにその島の防衛あるいは奪還のための戦闘に参加する」と宣言してはどうか? その口先介入だけで、その島の紛争は未然に防げる。確実に一つの紛争を、口先だけで解消できるのだ。ちょっと思い切ればできる、確実に平和に寄与するこの効率的な宣言をしないで、出来もしない核兵器からみの宣言を模索するのは何かおかしいと思わないのか?
4)核兵器を持つことは、その国にとって得なことである。それが事実でなくなれば核廃絶は自然に達成されるだろう。そしてそれが唯一の核廃絶の道なのだ。
「9段線が地理学上如何に不自然な線であっても、その中の島も岩礁も太古の時代から自国の領土であり、それを埋め立てて自国の領土とし、そこに軍事基地を作る自由があるのだ」と核兵器を持つ大国だから宣言できるのである。おそらくその国は、「尖閣諸島なんて奪うことは容易だ、我々は核兵器を保持する大国なのだから。要は如何に損を最小限にできるタイミングを選ぶかだ」と思っているだろう。
核兵器保持が損な選択であるようにする方向は存在する。それは、世界政府(現在の国連ではない)を実現し、その平和維持軍が現状核兵器以上の強力な兵器を持って、世界を監視する体制を作るのである。そのような体制ができればどの国も他国の核攻撃を恐れなくなるだろう。そして維持費のかかる核兵器など無駄に持ちたくなくなるだろう。
しかし、そのような世界の体制ができるまでは、核兵器廃絶はいくら叫んでみても出来ないだろう。要するに、核保持が国家にとって得な情況が続く限り核廃絶は原理的に不可能なのだ。
オバマ大統領に聞きたい。核武力を背景にした上記のような国際法に反する行為を目の前にして、それに具体的に対応する能力を持ちながら、特に有効な手段を行使することなく、「核実験全面禁止宣言(条約)」とか「核兵器先制攻撃不使用宣言」とかを考えることは、あなたの本心ですか?
2016年8月13日土曜日
グローバリズムによる国内の分断線
表題は、昨日の読売新聞の9面(13版)に北大教授吉田徹氏のコラムにあった言葉である。グローバリズムにより国民が豊かになる層と貧困化する層に分断されるというのである。そして、貧困層による反グローバリズムの声が、トランプ旋風や英国のEU離脱(ブレグジット)を引き起こしたのである。この問題について、素人の一人として考えを整理する。
1)資本主義とグローバリズム:
資本主義社会では、ほとんどの場合会社(法人)が生産や販売の主体であり、一般市民は最終消費の主体である。市民は生産や販売などの会社の業務において、労働者という形で参加する。また、会社の経営には資本の提供という形で間接的に参加する場合がほとんどである。会社が法人と呼ばれるのは、その経営の主体が会社自身であるからである。会社の種々の契約(売買契約、請負契約、労働契約)などは、例えば代表取締役社長など会社を代表する人物の名で行うが、社長も解雇されることもあるので労働者である。会社の意思の最高決定の場は、株主総会であり、それは資本を会社に提供したもの全ての意思の総合と見做される。
つまり、資本主義はその本質として、社会を労働者と資本家という二つに分断する性質を“遺伝子的”に持っている。民主主義が健全に資本主義と共存するには、ほとんど全ての個人が労働者と資本家という二つの立場で社会に参加することが条件だと思う。
一方、社会の基礎は国家が作り管理しなければならない。国家は、平和と安全や各種インフラの整備と管理などの役割を果たすが、上記社会の分断は国家の枠組みである民主主義の健全な維持を困難にするので、法整備などでそれを阻止する方向に動く。それは、グローバリストには規制と感じられる。つまり、民主主義の立場に立てば、適当な規制の範囲があり、なんでも撤廃するのが良いとは限らない。新自由主義(ネオリベラリズム)は、その規制をできるだけ少なくし、小さい政府を目指す考え方であり、グローバル経済はそれが世界規模に実現した姿である。
2)グローバル経済の主役は「優秀なる遺伝子を持った資本」である:
グローバリズム社会の一つの特徴は、会社がより良い経営環境(安価な労働力やゆるい規制など)を目指して出身国以外へ移動し、同業他社と競争することである。つまり、物やサービスの地理的移動のコストが低くなり、且つ、資本移動の障壁がほとんどなくなれば、企業の国籍はあまり問題ではなくなり、競争は地球規模的になる。その結果、元の出身国の雇用は減りグローバル化できる物品の価格は下がることになる。サービス業などの多くは海外にでる意味がないが、上記雇用の減少などの結果、不景気となる。
一つの会社の活動の範囲は通常限られているが(補足1)、他の会社との協力関係がその会社の活動に大きく影響する。その結果、法人よりも大きな存在である「資本」が多くの分野の企業を束ねる存在となり、それが経済の本当の主体になる。その結果、会社は一つの巨大な資本の支配下で活動するようになり、会社は「資本」にとっての構成員となるだろう。
グローバル経済という経済体制は、米国や西洋諸国を中心とした国際的巨大資本の意思に沿って徐々に出来と思う(補足2)。そして「資本」に自己増殖の遺伝子が存在すると思う。優秀で強力な資本は大きくなり、劣った弱小資本は滅びるか他に吸収されるだろう。つまり、優秀なる遺伝子を持った資本(個人にとって有害であっても)は、益々巨大になりやがて世界の経済を支配することになる(補足3)。そして、そのような優秀な資本は、上記国民の間の分断をつくり、貧富の差の原因となる(補足4)。
3)グローバル経済における国家の役割:
貧富の差の縮小は、国家による最低賃金や富の再分配という形で行われ、それは資本にとっては規制となる。グローバル化の世界から孤立の道を取ることができない国は、企業競争力を損なわない範囲でしかそれら規制を維持することができない。
国家の役割は、国民に現在と将来への安心を提供することである。具体的には、平和で安全な国家を建設すること、時代にあった法律の整備刷新を行うこと、快適な生活環境を提供すること、将来を担う子供たちへ良い教育環境を与えてくれることなどである。一方、国家は経済活動に有利なインフラや法環境などの整備を行い、会社や「資本」を相手にサービス業を営んでいる。この両方の視点からみて、伴に合格点を得ることは至難の技である。
会社や「資本」という顧客よりも、国民の要求を優先するような国家を国民は作るべきであることは言うまでもない。しかし、会社が元気にならない国において、国民は幸せを享受できる筈がない。自己増殖の遺伝子を持つ「資本」を如何に穏やかに活動させるかが、21世紀の世界政治の仕事だと思う。
グローバル経済は、「資本」が国家の規制を嫌った結果出来上がったとすれば、世界全体を大きな国家的枠組みとして改造しなければ、根本的解決は無理だろう。つまり、これまでにない密接で深い国際協調の体制である。それができた時点では、タックスヘイブンなどは消滅している筈である。
4)以上素人の理系人間が、世界の構造について今まで得た知識を元に、想像力も働かせて考えてみた。しかし解らないこととして残るのは、一般勤労者の所得由来の資本、生まれながらの少数の富裕層の持つ資本、さらに特定の個人数人のグループによる世界的な巨大資本、それぞれが全く別の動きを経済においてするのなら、上記のような国際協調は所詮無理だろうと思う。
世界の99.9%の人口を占める大多数の勤労者がその不満を解消するには、勤労者が中心となった全く新しい政治改革が必要となると思う。それが米国などで始まっている動きと違うのだろうか?
補足:
1)最高責任者は一人でなければ、会社はまとまらない。一方、一人の最高責任者が采配できる範囲は限られる。
2)経済のインターナショナル化には二つの道がある。一つは、共産主義としてのインターナショナルであり、それは20世紀初頭世界的になったが、結局非効率な経済システムということで失敗に終わった。もう一つの試みが、20世紀後半から21世紀前半にかけてのグローバル化経済である。この両方とも、ある巨大資本が関係しているという説がある。
3)資本の遺伝子とは、その資本を動かす資本家の戦略的思考である。優秀な資本家は、優秀な経営者を選び、その時代的背景などの多次元の舞台で戦略的思考ができ、資本を動かし競争相手の資本を駆逐するだろう。
4)ニケシュ・アローラ氏は、Googleの元経営者で後継者候補としてソフトバンクに二年前入社した。その後、経営路線が現社長と合わず退社したが、2年間に得た報酬は約60億円だった。日本の最低賃金で働く人がそれだけ稼ぐには、4200年かかる。同じ労働者でも、これだけの差が生じる社会は健全である筈がない。資本家としての報酬なら、もっと大きい人は多数いるだろう。
1)資本主義とグローバリズム:
資本主義社会では、ほとんどの場合会社(法人)が生産や販売の主体であり、一般市民は最終消費の主体である。市民は生産や販売などの会社の業務において、労働者という形で参加する。また、会社の経営には資本の提供という形で間接的に参加する場合がほとんどである。会社が法人と呼ばれるのは、その経営の主体が会社自身であるからである。会社の種々の契約(売買契約、請負契約、労働契約)などは、例えば代表取締役社長など会社を代表する人物の名で行うが、社長も解雇されることもあるので労働者である。会社の意思の最高決定の場は、株主総会であり、それは資本を会社に提供したもの全ての意思の総合と見做される。
つまり、資本主義はその本質として、社会を労働者と資本家という二つに分断する性質を“遺伝子的”に持っている。民主主義が健全に資本主義と共存するには、ほとんど全ての個人が労働者と資本家という二つの立場で社会に参加することが条件だと思う。
一方、社会の基礎は国家が作り管理しなければならない。国家は、平和と安全や各種インフラの整備と管理などの役割を果たすが、上記社会の分断は国家の枠組みである民主主義の健全な維持を困難にするので、法整備などでそれを阻止する方向に動く。それは、グローバリストには規制と感じられる。つまり、民主主義の立場に立てば、適当な規制の範囲があり、なんでも撤廃するのが良いとは限らない。新自由主義(ネオリベラリズム)は、その規制をできるだけ少なくし、小さい政府を目指す考え方であり、グローバル経済はそれが世界規模に実現した姿である。
2)グローバル経済の主役は「優秀なる遺伝子を持った資本」である:
グローバリズム社会の一つの特徴は、会社がより良い経営環境(安価な労働力やゆるい規制など)を目指して出身国以外へ移動し、同業他社と競争することである。つまり、物やサービスの地理的移動のコストが低くなり、且つ、資本移動の障壁がほとんどなくなれば、企業の国籍はあまり問題ではなくなり、競争は地球規模的になる。その結果、元の出身国の雇用は減りグローバル化できる物品の価格は下がることになる。サービス業などの多くは海外にでる意味がないが、上記雇用の減少などの結果、不景気となる。
一つの会社の活動の範囲は通常限られているが(補足1)、他の会社との協力関係がその会社の活動に大きく影響する。その結果、法人よりも大きな存在である「資本」が多くの分野の企業を束ねる存在となり、それが経済の本当の主体になる。その結果、会社は一つの巨大な資本の支配下で活動するようになり、会社は「資本」にとっての構成員となるだろう。
グローバル経済という経済体制は、米国や西洋諸国を中心とした国際的巨大資本の意思に沿って徐々に出来と思う(補足2)。そして「資本」に自己増殖の遺伝子が存在すると思う。優秀で強力な資本は大きくなり、劣った弱小資本は滅びるか他に吸収されるだろう。つまり、優秀なる遺伝子を持った資本(個人にとって有害であっても)は、益々巨大になりやがて世界の経済を支配することになる(補足3)。そして、そのような優秀な資本は、上記国民の間の分断をつくり、貧富の差の原因となる(補足4)。
3)グローバル経済における国家の役割:
貧富の差の縮小は、国家による最低賃金や富の再分配という形で行われ、それは資本にとっては規制となる。グローバル化の世界から孤立の道を取ることができない国は、企業競争力を損なわない範囲でしかそれら規制を維持することができない。
国家の役割は、国民に現在と将来への安心を提供することである。具体的には、平和で安全な国家を建設すること、時代にあった法律の整備刷新を行うこと、快適な生活環境を提供すること、将来を担う子供たちへ良い教育環境を与えてくれることなどである。一方、国家は経済活動に有利なインフラや法環境などの整備を行い、会社や「資本」を相手にサービス業を営んでいる。この両方の視点からみて、伴に合格点を得ることは至難の技である。
会社や「資本」という顧客よりも、国民の要求を優先するような国家を国民は作るべきであることは言うまでもない。しかし、会社が元気にならない国において、国民は幸せを享受できる筈がない。自己増殖の遺伝子を持つ「資本」を如何に穏やかに活動させるかが、21世紀の世界政治の仕事だと思う。
グローバル経済は、「資本」が国家の規制を嫌った結果出来上がったとすれば、世界全体を大きな国家的枠組みとして改造しなければ、根本的解決は無理だろう。つまり、これまでにない密接で深い国際協調の体制である。それができた時点では、タックスヘイブンなどは消滅している筈である。
4)以上素人の理系人間が、世界の構造について今まで得た知識を元に、想像力も働かせて考えてみた。しかし解らないこととして残るのは、一般勤労者の所得由来の資本、生まれながらの少数の富裕層の持つ資本、さらに特定の個人数人のグループによる世界的な巨大資本、それぞれが全く別の動きを経済においてするのなら、上記のような国際協調は所詮無理だろうと思う。
世界の99.9%の人口を占める大多数の勤労者がその不満を解消するには、勤労者が中心となった全く新しい政治改革が必要となると思う。それが米国などで始まっている動きと違うのだろうか?
補足:
1)最高責任者は一人でなければ、会社はまとまらない。一方、一人の最高責任者が采配できる範囲は限られる。
2)経済のインターナショナル化には二つの道がある。一つは、共産主義としてのインターナショナルであり、それは20世紀初頭世界的になったが、結局非効率な経済システムということで失敗に終わった。もう一つの試みが、20世紀後半から21世紀前半にかけてのグローバル化経済である。この両方とも、ある巨大資本が関係しているという説がある。
3)資本の遺伝子とは、その資本を動かす資本家の戦略的思考である。優秀な資本家は、優秀な経営者を選び、その時代的背景などの多次元の舞台で戦略的思考ができ、資本を動かし競争相手の資本を駆逐するだろう。
4)ニケシュ・アローラ氏は、Googleの元経営者で後継者候補としてソフトバンクに二年前入社した。その後、経営路線が現社長と合わず退社したが、2年間に得た報酬は約60億円だった。日本の最低賃金で働く人がそれだけ稼ぐには、4200年かかる。同じ労働者でも、これだけの差が生じる社会は健全である筈がない。資本家としての報酬なら、もっと大きい人は多数いるだろう。
2016年8月11日木曜日
尖閣及び沖縄領有権問題を考える(2)
昨日に続いて、表題の問題につき整理します。前回の疑問点:サンフランシスコ平和条約第3条を根拠に米国の施政権の下におかれた沖縄が、日米間の沖縄返還協定で日本に返還されたのだが、その二つの条約が整合的かどうかという点が気になる。
ちなみにサンフランシスコ講和条約の第3条は以下のような文章である。 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
ここで、米国による国連への提案はなされなかったので、その下の“合衆国は領水を含むこれら諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする”が沖縄返還協定まで有効だった。 領有権に関しては、サンフランシスコ平和会議での米国のダレス国務長官の演説、及びケネス・ヤンガー英国全権の演説、それを引用した吉田茂総理の演説により、日本の潜在的権利が確認されるとのことである。 http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/c/b76a28892b58e4049e4208c73f299ada
従って、領有権は潜在的に日本が持ち、沖縄返還協定で施政権が日本に帰ったのだから、沖縄は日本に復帰した。
しかし、平和条約3条に規定されている「琉球諸島などを信託統治制度の下におく」という部分が実現していないのだから、沖縄の領有権については未定であると考える立場もあり得る。それは、平和条約が想定した沖縄が日本の領土となるルートは、「米国の施政権下=>米国を施政権者とする信託統治領=>沖縄独立=>日本との合併」であるという考えである。
つまり、“米国の施政権下”という状態から日米間の協定のみで日本に施政権を返還することは、平和条約第3条に想定されていないのではないかという考えである。尖閣問題は、内閣官房のHPに記述がある。しかし、この点については何もかかれていない。http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/senkaku.html
ちなみにサンフランシスコ講和条約の第3条は以下のような文章である。 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
ここで、米国による国連への提案はなされなかったので、その下の“合衆国は領水を含むこれら諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする”が沖縄返還協定まで有効だった。 領有権に関しては、サンフランシスコ平和会議での米国のダレス国務長官の演説、及びケネス・ヤンガー英国全権の演説、それを引用した吉田茂総理の演説により、日本の潜在的権利が確認されるとのことである。 http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/c/b76a28892b58e4049e4208c73f299ada
従って、領有権は潜在的に日本が持ち、沖縄返還協定で施政権が日本に帰ったのだから、沖縄は日本に復帰した。
しかし、平和条約3条に規定されている「琉球諸島などを信託統治制度の下におく」という部分が実現していないのだから、沖縄の領有権については未定であると考える立場もあり得る。それは、平和条約が想定した沖縄が日本の領土となるルートは、「米国の施政権下=>米国を施政権者とする信託統治領=>沖縄独立=>日本との合併」であるという考えである。
つまり、“米国の施政権下”という状態から日米間の協定のみで日本に施政権を返還することは、平和条約第3条に想定されていないのではないかという考えである。尖閣問題は、内閣官房のHPに記述がある。しかし、この点については何もかかれていない。http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/senkaku/senkaku.html
2016年8月10日水曜日
尖閣及び沖縄領有権問題を考える
尖閣問題:静かになれば問題を放置し、騒がしくなればおろおろする日本政府
尖閣諸島周辺での中国漁船風の船200隻と中国公船が領海侵犯を繰り返し、おおきな問題になっている。この問題について、多くの解説がyoutubeなどにアップロードされているが、ほとんど日本の立場や中国の脅威を強調するのみで、何の解決にも寄与するものではない。丁度、戦争前に多くのマスコミが鬼畜米英と騒ぎ立てて、ますます戦争を意識する空気を醸成したのと同様である。日本は何十年経っても何の進歩もしていない。
重要な問題は何事でも、原点からスタートして考えることが肝心である。宙に存在する「中国は強引に国際法を無視して海上進出をしてくる」という点を仮の原点とし、そこから議論を始めてしまえば、議論の幅が限られ問題は解決しないだろう。
注釈:以下に、素人の私が大胆なことを書きますが、根拠をあげて間違いを指摘してくださればと思います。本当は、尖閣も沖縄も国際法的に(論理的に)100%日本国が領有権を持っていると確認したいので、間違っていれば良いと思っています。
§1:
原点から思考する場合には、先ず、「尖閣は日本の領土であると、大威張りで言えるのか?」という問題を、もう一度考える事になる。そう考えると、第二次世界大戦に戻らなければならない。つまり、戦争に負けた日本は、連合国に沖縄などの南方の島を奪われたのである。つまり、それ以前に日本が鰹節を釣魚島で作っていたと言う事実は、領有権を考える上での原点ではないのである。
沖縄が米国(連合国)の占領状態から日本に返還されたのは、1972年である。この際、日本と米国は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」に1971/6/17に調印し、1972/5/15に発効した。(ウィキペディアより)しかし、その際に返還された島の中に尖閣諸島の名前を明記するように日本側は要求したが、米国は尖閣諸島の施政権は返還したが領有権については態度を明確にしていない。ニクソン政権は中国に配慮したと下の記事には書かれている。緯度経度で線を引いて示しているという人はいるだろうが、それは尖閣諸島の存在など頭になかったという米側の言い訳や、米国だけの一存で日本に返せる島々ではないという反論があり得る。 http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/163012
つまり、領有権については日本、中国、台湾で決めてくださいというのが米国の基本的姿勢である。また、中国は尖閣諸島の他に、沖縄についても領有権を主張しそうな雰囲気である。私は素人なので、自信を持って書けないのだが、中国側は沖縄返還条約にそれらの島々の領有権を決める能力はないと考えているのだろう。その議論を始めるには、サンフランシスコ講和条約の第3条に戻らなければならない。
サンフランシスコ講和条約(第三条):日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
講和条約締結後、沖縄を支配していたのは連合国の承認を得た米国(上記3条)である。しかし、返還協定の締結は日本と米国の二国間で行われたのであり、他の連合国とは合意していないと思うのである。つまり、サンフランシスコ講和条約三条で米国が施政権を得たのであり、領有権まで得た訳ではない。(補足1)従って日本に返還されたのは施政権である。沖縄返還協定にはreversion(返還)という言葉が用いられており、米国からは領有権についても返還されたように思うが、それは連合国全体との協定ではない。
以上のような事情を考えれば、100%一方的に中国が難癖をつけてきているとは言えないのではないのか。政府はそのような事実を国民に告げずに、反中親米の雰囲気作りに尖閣問題を利用しているのではないのか? もし、上記の解釈が間違っていないのなら、尖閣諸島よりも沖縄問題の方が重要であり、深刻化する前に考えておくべきである。まさに“胸襟を開いて”交渉できない状況下では、そのような大きな問題を、しかも原点から交渉して日中が妥結することは不可能だろう(補足2)。
この件と関連して、2014年に中国漁船が大挙して小笠原諸島に現れ、サンゴを密漁したことがあった。これは、小笠原諸島の領有権についても未だ未確定な部分があると、中国は暗に主張しているのではないだろうか。サンフランシスコ講和条約3条との関係で、沖縄と小笠原は同じような地位にあるからである。
§2:
この一ヶ月ほど、中国漁船と公船による尖閣諸島周辺での領海侵犯は、非常に危険なレベルにあると思う。ある人はこの15日に中国民兵が尖閣に上陸する可能性があると指摘している。この件、一昨年の秋に行われた尖閣問題についての合意と関係があると思う。この時点で私は、尖閣は中国に盗られるだろうと、ブログに書いた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/11/blog-post_8.html それは、日本と中国双方は「尖閣諸島等東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していると認識する」との合意である。この合意は、安倍総理と習近平主席との会談を実現するために日本側が尖閣問題について一歩譲歩した印象を与えた。その後すぐに、インドネシアのジャカルタで25分程の会談が実現した。 この合意により日本政府は、尖閣諸島をめぐる領有権問題の存在を事実上認める道を開いたのである。当時日本外務省幹部は、異なる見解は「緊張状態が生じている」にかかっているとして、尖閣の領有権問題をめぐるものではないと説明した。日本の外交官などは、この種の誤魔化しを頻繁にする。自分がその問題を担当する間何もなければ、それで自分の経歴に傷がつかないという浅ましい根性が原因だろう。この件、佐藤優氏の記事が詳しい。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41113
この問題の解決には、すでに§1で書いたように米国の影に影響を受けることなく原点から考える必要があると思う。問題の本質が見えて来れば、解決の方法はある筈である。
補足:
1)サンフランシスコ講和条約において沖縄に対する潜在的領有権が日本にあることが確認されたという意見もある。しかし、明確にはわからない。 http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/c/b76a28892b58e4049e4208c73f299ada
2)その交渉の落とし所は、おそらく尖閣は中国領と日本は認め、それ以外の日本が実効支配している沖縄とその周辺には、中国は一切権利を主張しないというところである。しかし、その合意を条約の形で確認できるのは、安倍総理ではないだろう。
尖閣諸島周辺での中国漁船風の船200隻と中国公船が領海侵犯を繰り返し、おおきな問題になっている。この問題について、多くの解説がyoutubeなどにアップロードされているが、ほとんど日本の立場や中国の脅威を強調するのみで、何の解決にも寄与するものではない。丁度、戦争前に多くのマスコミが鬼畜米英と騒ぎ立てて、ますます戦争を意識する空気を醸成したのと同様である。日本は何十年経っても何の進歩もしていない。
重要な問題は何事でも、原点からスタートして考えることが肝心である。宙に存在する「中国は強引に国際法を無視して海上進出をしてくる」という点を仮の原点とし、そこから議論を始めてしまえば、議論の幅が限られ問題は解決しないだろう。
注釈:以下に、素人の私が大胆なことを書きますが、根拠をあげて間違いを指摘してくださればと思います。本当は、尖閣も沖縄も国際法的に(論理的に)100%日本国が領有権を持っていると確認したいので、間違っていれば良いと思っています。
§1:
原点から思考する場合には、先ず、「尖閣は日本の領土であると、大威張りで言えるのか?」という問題を、もう一度考える事になる。そう考えると、第二次世界大戦に戻らなければならない。つまり、戦争に負けた日本は、連合国に沖縄などの南方の島を奪われたのである。つまり、それ以前に日本が鰹節を釣魚島で作っていたと言う事実は、領有権を考える上での原点ではないのである。
沖縄が米国(連合国)の占領状態から日本に返還されたのは、1972年である。この際、日本と米国は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」に1971/6/17に調印し、1972/5/15に発効した。(ウィキペディアより)しかし、その際に返還された島の中に尖閣諸島の名前を明記するように日本側は要求したが、米国は尖閣諸島の施政権は返還したが領有権については態度を明確にしていない。ニクソン政権は中国に配慮したと下の記事には書かれている。緯度経度で線を引いて示しているという人はいるだろうが、それは尖閣諸島の存在など頭になかったという米側の言い訳や、米国だけの一存で日本に返せる島々ではないという反論があり得る。 http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/163012
つまり、領有権については日本、中国、台湾で決めてくださいというのが米国の基本的姿勢である。また、中国は尖閣諸島の他に、沖縄についても領有権を主張しそうな雰囲気である。私は素人なので、自信を持って書けないのだが、中国側は沖縄返還条約にそれらの島々の領有権を決める能力はないと考えているのだろう。その議論を始めるには、サンフランシスコ講和条約の第3条に戻らなければならない。
サンフランシスコ講和条約(第三条):日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
講和条約締結後、沖縄を支配していたのは連合国の承認を得た米国(上記3条)である。しかし、返還協定の締結は日本と米国の二国間で行われたのであり、他の連合国とは合意していないと思うのである。つまり、サンフランシスコ講和条約三条で米国が施政権を得たのであり、領有権まで得た訳ではない。(補足1)従って日本に返還されたのは施政権である。沖縄返還協定にはreversion(返還)という言葉が用いられており、米国からは領有権についても返還されたように思うが、それは連合国全体との協定ではない。
以上のような事情を考えれば、100%一方的に中国が難癖をつけてきているとは言えないのではないのか。政府はそのような事実を国民に告げずに、反中親米の雰囲気作りに尖閣問題を利用しているのではないのか? もし、上記の解釈が間違っていないのなら、尖閣諸島よりも沖縄問題の方が重要であり、深刻化する前に考えておくべきである。まさに“胸襟を開いて”交渉できない状況下では、そのような大きな問題を、しかも原点から交渉して日中が妥結することは不可能だろう(補足2)。
この件と関連して、2014年に中国漁船が大挙して小笠原諸島に現れ、サンゴを密漁したことがあった。これは、小笠原諸島の領有権についても未だ未確定な部分があると、中国は暗に主張しているのではないだろうか。サンフランシスコ講和条約3条との関係で、沖縄と小笠原は同じような地位にあるからである。
§2:
この一ヶ月ほど、中国漁船と公船による尖閣諸島周辺での領海侵犯は、非常に危険なレベルにあると思う。ある人はこの15日に中国民兵が尖閣に上陸する可能性があると指摘している。この件、一昨年の秋に行われた尖閣問題についての合意と関係があると思う。この時点で私は、尖閣は中国に盗られるだろうと、ブログに書いた。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/11/blog-post_8.html それは、日本と中国双方は「尖閣諸島等東シナ海の海域において近年緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していると認識する」との合意である。この合意は、安倍総理と習近平主席との会談を実現するために日本側が尖閣問題について一歩譲歩した印象を与えた。その後すぐに、インドネシアのジャカルタで25分程の会談が実現した。 この合意により日本政府は、尖閣諸島をめぐる領有権問題の存在を事実上認める道を開いたのである。当時日本外務省幹部は、異なる見解は「緊張状態が生じている」にかかっているとして、尖閣の領有権問題をめぐるものではないと説明した。日本の外交官などは、この種の誤魔化しを頻繁にする。自分がその問題を担当する間何もなければ、それで自分の経歴に傷がつかないという浅ましい根性が原因だろう。この件、佐藤優氏の記事が詳しい。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41113
この問題の解決には、すでに§1で書いたように米国の影に影響を受けることなく原点から考える必要があると思う。問題の本質が見えて来れば、解決の方法はある筈である。
補足:
1)サンフランシスコ講和条約において沖縄に対する潜在的領有権が日本にあることが確認されたという意見もある。しかし、明確にはわからない。 http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/c/b76a28892b58e4049e4208c73f299ada
2)その交渉の落とし所は、おそらく尖閣は中国領と日本は認め、それ以外の日本が実効支配している沖縄とその周辺には、中国は一切権利を主張しないというところである。しかし、その合意を条約の形で確認できるのは、安倍総理ではないだろう。
2016年8月8日月曜日
天皇陛下のお言葉について
天皇陛下はこれまで、天皇としての多くの公務を果たされるとともに、常に国民と思いを共有されるよう努力されたと思う。例えば、災害等で苦境にある国民に対しては、直接現場に出向いて励まされ、元の生活を取り戻す戦いへの勇気を与えてこられた。また、過去の戦争によって多くの犠牲者が出た場所に出向かれ、その霊を慰められたこともその一つだと思う。
今日天皇陛下は、上記のような活発な活動が象徴天皇にふさわしいとお考えになり、若い体力のある皇太子に出来れば譲位したいという思いを、国民全てに感じさせるような談話を出されたと思う。天皇陛下のお言葉のうち、皇位に関する部分は、①老齢により象徴天皇としての務めを果たせなくなりつつあることと、②摂政を置いた場合、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはなく、その間社会の停滞や国民生活への影響が懸念される、の2点だと思う。
天皇陛下の談話は、象徴天皇には今まで天皇陛下がなされた様な活発な活動が求められるという前提で発表されたと思う。しかし、国民の多くは老齢になられた天皇に、毎年同様のご活躍を期待するほどは厚かましく無いと思う。国民も同様に年をとるのだから、天皇陛下にはその年齢にふさわしい日常をお送りいただくことこそ、国民とともにある天皇陛下だと思うのである。
天皇陛下には摂政を置かれて、憲法にある公務は全て摂政に任され、末長く天皇の地位を保っていただきたいと思う。平成の時代ができるだけ長く続くことを国民の一人として期待しています。
今日天皇陛下は、上記のような活発な活動が象徴天皇にふさわしいとお考えになり、若い体力のある皇太子に出来れば譲位したいという思いを、国民全てに感じさせるような談話を出されたと思う。天皇陛下のお言葉のうち、皇位に関する部分は、①老齢により象徴天皇としての務めを果たせなくなりつつあることと、②摂政を置いた場合、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはなく、その間社会の停滞や国民生活への影響が懸念される、の2点だと思う。
天皇陛下の談話は、象徴天皇には今まで天皇陛下がなされた様な活発な活動が求められるという前提で発表されたと思う。しかし、国民の多くは老齢になられた天皇に、毎年同様のご活躍を期待するほどは厚かましく無いと思う。国民も同様に年をとるのだから、天皇陛下にはその年齢にふさわしい日常をお送りいただくことこそ、国民とともにある天皇陛下だと思うのである。
天皇陛下には摂政を置かれて、憲法にある公務は全て摂政に任され、末長く天皇の地位を保っていただきたいと思う。平成の時代ができるだけ長く続くことを国民の一人として期待しています。
2016年8月7日日曜日
日本国家を株式会社に例えれば、財務状況の健全な企業ということになる?
日本国は1100兆円もの借金を抱えて破産寸前であるという話を何度も聞く。一方、今日の“そこまで言って委員会NP”で解説員の長谷川幸洋氏が、日本国の借金はたいしたことはないという話をしていた。そこでは日本銀行による国債買い上げを、返す必要のない債務と考えて話を進めていたが、それは若干問題があると思う。何故なら日本銀行の通貨発行量がその分増加し、日銀の信用に問題を生じる可能性があるからである。
ここでは、財務省の発表した貸借対照表を取り上げ、日本を会社に見立てた場合の健全度を考えてみた。それは長谷川氏だけでなく、デフレ経済の今どんどん国債を発行して、財政出動すべきであると自信満々に言う人もいるからである。経済に関しては素人なので、コメントなりいただければ幸いである。
上は財務省が公開している国の貸借対照表である。国債は、政府短期証券と公債であり、950兆円ほどある。それを含めて負債合計は1140兆円程になる。一方、資産の方を見ると、金融資産として有価証券、運用寄託金、出資金などがある。有価証券とは米国債や株式会社化された企業の株などだろう。また、運用寄託金は年金基金などだろう。ここで有形固定資産は高速道路などインフラだろうが、その計算(減価償却の見積もり方など)がどのようになされたのかわからない。
実際の借金は金融資産を引き算した680兆円位になる。この時点で良く聞く債務の額の1000兆円という値は、金融資産を差引かない意味のない数字であることがわかる。
ところで政府には毎年50兆円の税収がある。日本国を仮に企業とみなすと、それは利益に相当する。そして、上記表において日本の個人や会社が購入している国債を資本、外国が買っている国債を長期借入金、短期債権を短期借入金とみなすことになる。そう考えると、会社の評価に良く使われる総資本利益率(ROA)は4.3%程度になる。外国人の買っている国債や政府短期証券の和は200兆円を固定負債及び流動負債と考えると、それらの和は総資本の17%も無い。したがって日本株式会社は、財務内容の良い健全な会社と見なしうる。
比較のため、日本の代表的な優良企業であるトヨタ自動車を例にとり考えてみる。トヨタの資本(株主資本と剰余金)は18兆円であり、借入金は固定負債13兆円、そして、流動負債16兆円である。経常利益として2兆円が予想されており、総資本利益率は4.2%程度となる。そして、総資本のうち固定負債だけでも30%位で、固定負債と流動負債(短期負債だが買掛金なども含む)の和は、総資本の60%を超える。
日本の企業は剰余金をもっと投資に使うなり、配当や給与にだすべきだという意見はあるが、日本株式会社に比べれば財務内容は良くないということになる。日本は世界一の債権国である。日本人が国債を日本国の株式のつもりで持てば、日本株式会社の財務状況はそれほど悪くないことになる。
ここでは、財務省の発表した貸借対照表を取り上げ、日本を会社に見立てた場合の健全度を考えてみた。それは長谷川氏だけでなく、デフレ経済の今どんどん国債を発行して、財政出動すべきであると自信満々に言う人もいるからである。経済に関しては素人なので、コメントなりいただければ幸いである。
上は財務省が公開している国の貸借対照表である。国債は、政府短期証券と公債であり、950兆円ほどある。それを含めて負債合計は1140兆円程になる。一方、資産の方を見ると、金融資産として有価証券、運用寄託金、出資金などがある。有価証券とは米国債や株式会社化された企業の株などだろう。また、運用寄託金は年金基金などだろう。ここで有形固定資産は高速道路などインフラだろうが、その計算(減価償却の見積もり方など)がどのようになされたのかわからない。
実際の借金は金融資産を引き算した680兆円位になる。この時点で良く聞く債務の額の1000兆円という値は、金融資産を差引かない意味のない数字であることがわかる。
ところで政府には毎年50兆円の税収がある。日本国を仮に企業とみなすと、それは利益に相当する。そして、上記表において日本の個人や会社が購入している国債を資本、外国が買っている国債を長期借入金、短期債権を短期借入金とみなすことになる。そう考えると、会社の評価に良く使われる総資本利益率(ROA)は4.3%程度になる。外国人の買っている国債や政府短期証券の和は200兆円を固定負債及び流動負債と考えると、それらの和は総資本の17%も無い。したがって日本株式会社は、財務内容の良い健全な会社と見なしうる。
比較のため、日本の代表的な優良企業であるトヨタ自動車を例にとり考えてみる。トヨタの資本(株主資本と剰余金)は18兆円であり、借入金は固定負債13兆円、そして、流動負債16兆円である。経常利益として2兆円が予想されており、総資本利益率は4.2%程度となる。そして、総資本のうち固定負債だけでも30%位で、固定負債と流動負債(短期負債だが買掛金なども含む)の和は、総資本の60%を超える。
日本の企業は剰余金をもっと投資に使うなり、配当や給与にだすべきだという意見はあるが、日本株式会社に比べれば財務内容は良くないということになる。日本は世界一の債権国である。日本人が国債を日本国の株式のつもりで持てば、日本株式会社の財務状況はそれほど悪くないことになる。
「原爆は戦争を早期に終わらせ、多数の米兵の命を救うために投下した」という物語誕生の経緯
昨夜のNHKスペシャルの内容とその意味:
昨夜のNHKスペシャルは、「決断なき原爆投下」という題で放送された。終戦の年の1945年4月に急逝したルーズベルト大統領のあと、副大統領のトルーマンが引き継ぎなしで大統領に昇格した。原爆の投下に関する引き継ぎもなかったので、開発の進み具合や投下の予定などについても無知だった。原爆開発の責任者であったグローブズ将軍(技術将校出身)から報告書を渡されても、たった20数ベージのものだったが、読まなかったという(補足1)。
原爆開発は最終段階にあり、原爆投下のための509混成部隊は1944年の秋に編成され、原爆投下の目標の選定が最初物理学者を中心に進められた。その効果が最大となる場所を探した結果、第一候補が京都であった。日本の敗戦が確定的になっても尚、原爆を投下する理由は、マンハッタン計画(原爆開発計画)に多額の予算を認めた議会にたいして、説明する責任を考えてのことであった。
その選定報告を聞いた陸軍長官のスティムソンは、京都は認めなかった。その理由は、米国がヒトラーを超える残虐行為を行ったという国際社会の非難を考えてのことである。その考えにトルーマンも賛成した。(補足2)その結果、広島、小倉、新潟、長崎が候補地となった。投下の時期は、日本の天候から考えて8月に投下する予定になっていた。
最初の核実験はニューメキシコ州で7月16日に成功裏に行われた。7月25日のトルーマンの日記には:「原爆の投下の目的は軍事施設に限る。決して女性や子供をターゲットにしないように言った」と書かれている。そしてグローブズ将軍は、広島は日本軍司令部のある軍事都市であると、事実を改竄して広島選定の報告書を書いた。
広島にウラン型原爆が8月6日に投下され、スティムソン陸軍長官はその写真をトルーマン大統領に8月8日午前に見せた。トルーマンは「こんな破壊行為を行った責任は、大統領の私にある」と言った。その数時間後に長崎にプルトニウム型原爆が投下された。トルーマンは8月10日に全閣僚を集めて、これ以上の原爆投下を中止する旨の命令を出した。
原爆投下の責任を感じたトルーマンは、事実を米国民から隠す方向に情報を操作した。つまり、「原爆は戦争を早期に終わらせ、多数の米兵の命を救うために投下した」と放送した。そして、世論を操作するためのこの物語が米国に定着した。
このNHKの作った物語が、どこまで信頼できるのかわからない。なぜなら、広島が軍事都市であるかないかは、大統領自身が独自に情報を探せば出てくることである。トルーマンは大学を出ていない珍しいタイプの大統領だが、その資質を問うという話も全くなかった。日記に書かれた内容も、単に心のアリバイ作りでトルーマンが書き残したのかもしれない。そのような分析を欠いていては、そのまま信じることはできない。疑問が残る不十分な内容だと思った。
補足:
1)なぜこの報告書を熟読しなかったのか、それについては放送で触れられていなかった。
2)ここで理系人間の視野の狭さを嫌という程思い知らされた。物理学者たちとMIT出身で技術将校上りのグローブズは、国際法や一般市民の命よりも米国議会への説明を重視し、文系のスティムソン(イエール大とハーバードのロースクール)は国際社会での米国の立場を考えた。トルーマンは大学を出ていないが、日記には「女性や子供の殺傷は避ける」という記述があり、自由な思考の結果スティムソンの意見に賛成したのだろう。
昨夜のNHKスペシャルは、「決断なき原爆投下」という題で放送された。終戦の年の1945年4月に急逝したルーズベルト大統領のあと、副大統領のトルーマンが引き継ぎなしで大統領に昇格した。原爆の投下に関する引き継ぎもなかったので、開発の進み具合や投下の予定などについても無知だった。原爆開発の責任者であったグローブズ将軍(技術将校出身)から報告書を渡されても、たった20数ベージのものだったが、読まなかったという(補足1)。
原爆開発は最終段階にあり、原爆投下のための509混成部隊は1944年の秋に編成され、原爆投下の目標の選定が最初物理学者を中心に進められた。その効果が最大となる場所を探した結果、第一候補が京都であった。日本の敗戦が確定的になっても尚、原爆を投下する理由は、マンハッタン計画(原爆開発計画)に多額の予算を認めた議会にたいして、説明する責任を考えてのことであった。
その選定報告を聞いた陸軍長官のスティムソンは、京都は認めなかった。その理由は、米国がヒトラーを超える残虐行為を行ったという国際社会の非難を考えてのことである。その考えにトルーマンも賛成した。(補足2)その結果、広島、小倉、新潟、長崎が候補地となった。投下の時期は、日本の天候から考えて8月に投下する予定になっていた。
最初の核実験はニューメキシコ州で7月16日に成功裏に行われた。7月25日のトルーマンの日記には:「原爆の投下の目的は軍事施設に限る。決して女性や子供をターゲットにしないように言った」と書かれている。そしてグローブズ将軍は、広島は日本軍司令部のある軍事都市であると、事実を改竄して広島選定の報告書を書いた。
広島にウラン型原爆が8月6日に投下され、スティムソン陸軍長官はその写真をトルーマン大統領に8月8日午前に見せた。トルーマンは「こんな破壊行為を行った責任は、大統領の私にある」と言った。その数時間後に長崎にプルトニウム型原爆が投下された。トルーマンは8月10日に全閣僚を集めて、これ以上の原爆投下を中止する旨の命令を出した。
原爆投下の責任を感じたトルーマンは、事実を米国民から隠す方向に情報を操作した。つまり、「原爆は戦争を早期に終わらせ、多数の米兵の命を救うために投下した」と放送した。そして、世論を操作するためのこの物語が米国に定着した。
このNHKの作った物語が、どこまで信頼できるのかわからない。なぜなら、広島が軍事都市であるかないかは、大統領自身が独自に情報を探せば出てくることである。トルーマンは大学を出ていない珍しいタイプの大統領だが、その資質を問うという話も全くなかった。日記に書かれた内容も、単に心のアリバイ作りでトルーマンが書き残したのかもしれない。そのような分析を欠いていては、そのまま信じることはできない。疑問が残る不十分な内容だと思った。
補足:
1)なぜこの報告書を熟読しなかったのか、それについては放送で触れられていなかった。
2)ここで理系人間の視野の狭さを嫌という程思い知らされた。物理学者たちとMIT出身で技術将校上りのグローブズは、国際法や一般市民の命よりも米国議会への説明を重視し、文系のスティムソン(イエール大とハーバードのロースクール)は国際社会での米国の立場を考えた。トルーマンは大学を出ていないが、日記には「女性や子供の殺傷は避ける」という記述があり、自由な思考の結果スティムソンの意見に賛成したのだろう。
2016年8月6日土曜日
広島に原爆が投下された日に考える:今放送中のウエイクでの池上さんの発言について
今放送中のウエイクでの発言池上さんは言った。「広島の人々が、原爆投下された時から70 年たち、オバマ大統領の広島訪問時の演説を聞いたのちに、”憎むべきは敵国ではない、憎むべきは戦争であり、絶対悪である原爆である”という結論に至った」と。
”憎むべきは戦争であり、絶対悪である原爆である”というのは、大きな間違いである。歴史は戦争と戦争の当事者の物語である。戦争を憎むのなら、戦争の生き残りである我々現存人類を憎むことになる。また、原爆は絶対悪ではない(補足1)。それを一般市民の殺戮に用いるのが悪なのだ。
原爆は単なる非常に強力な一兵器なのだ。ロスアラモスで核兵器開発に携わった元研究者が言っていた。「原爆はその後70年間の戦争を防止した。平和に役立つ兵器である」と。この理屈は、原爆を搭載した強力なミサイル兵器を多数保有する国だけの真理である。原爆を持たない中東の人に、この言葉をどう思うか聞けば判る。
平和はありがたい。しかし、これまでは力と力の平衡としての平和しか存在しない。完全な平和は死の世界であり、絶対零度の世界なのだ。力と力の平和は、力のない者である弱者の死滅を意味する。弱者が平和を享受できるのは、強者の邪魔にならない間だけである。そんなこともわからんで、テレビで発言してほしくない。
補足:(8/7追加)
1)物体に善悪のラベルを貼るのは、汎神論が支配する国に特有の現象である。日本人には、物質的存在である山や川が信仰の対象になる。人格神を信仰する欧米人には絶対にない現象である。未だピンと来ないかもしれない。つまり、原爆は物であり善悪とは無関係である。原爆を投下して人を殺すことが悪であるが、使わないで世界の戦争を防ぐ道具にすれば、その行為は善となる。ピストルが悪ではない。ピストルをぶら下げて、街の治安を維持することは善であるのと同様である。
オバマ大統領のインチキ
オバマ米大統領が核実験の全面禁止を求める決議案を国連安全保障理事会に提出することを決めたと報じられている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160805-00000021-mai-int 米 露中英仏などの保持国が核兵器全部を廃棄してからならわかるが、自分たちが核兵器を保持したまま、核実験の全面禁止だけを国連安保決議として出すのは卑怯である。(補足1)
核兵器保持国の現職大統領が、自国が核兵器を実戦配備しながら核実験禁止を提案するなんて、あつかましいにも程がある。核兵器廃絶を目指すとかなんとか出来もしないことを言って、ノーベル賞をもらうなんて、本当にいやらしい政治家だと思う。そもそも、そんな賞を現役の米国大統領がもらうなんて考えられない。ノーベル文学賞とかノーベル物理学賞とか、大統領になる前の自分の専門でもらうのならわかるが。
イチローが国民栄誉賞を打診された時、現役 だからという理由で辞退した。そんな理屈わからんだろう(補足2)。
元に戻って、核実験禁止条約を提案するのなら、なぜ核兵器全廃条約を提案しないのだ。結局、日本や韓国などに核兵器を持たさないで、核兵器保持国が特権的な地位を保持するための決議案だ。本当に嫌な人だ。
広島へ来て、インチキスピーチを出して日本人を誑かしたことに、多くの日本人は気づいていない。出来もしない理想論を吐くのは、学者でも三流学者である。政治家は現実主義を貫くべきである。オバマ大統領は現実論と理想論の間をスペースシャトルのように自由に往来できるようだ。
補足:
1)CTBTがあり、日本も署名している。駄目押しみたいな提案をするのは、一つにはCTBTから脱退することを邪魔したいからである。現在米国はCTBTを批准していないので、加盟国も避難轟々となることを覚悟すれば、そして相応の理由があれば脱退できると思う(素人意見だが)。しかし、改めてこのような提案を出すのは、核保持国の特権を維持することと、オバマ氏個人のノーベル委員会へ部分的でも借りを返したいからだろう。
2)(同日夜追加)国民栄誉賞の選考委員に野球選手としての技術や成績を評価する資格はない。イチローが評価をしてほしい相手は、プロとしてのイチローの野球技術と成績がわかる人であり、イチローのプレイをみて楽しむ観客だと思う。ご苦労さんでしたという賞なら、引退してからで良いと思っている筈だ。
核兵器保持国の現職大統領が、自国が核兵器を実戦配備しながら核実験禁止を提案するなんて、あつかましいにも程がある。核兵器廃絶を目指すとかなんとか出来もしないことを言って、ノーベル賞をもらうなんて、本当にいやらしい政治家だと思う。そもそも、そんな賞を現役の米国大統領がもらうなんて考えられない。ノーベル文学賞とかノーベル物理学賞とか、大統領になる前の自分の専門でもらうのならわかるが。
イチローが国民栄誉賞を打診された時、現役 だからという理由で辞退した。そんな理屈わからんだろう(補足2)。
元に戻って、核実験禁止条約を提案するのなら、なぜ核兵器全廃条約を提案しないのだ。結局、日本や韓国などに核兵器を持たさないで、核兵器保持国が特権的な地位を保持するための決議案だ。本当に嫌な人だ。
広島へ来て、インチキスピーチを出して日本人を誑かしたことに、多くの日本人は気づいていない。出来もしない理想論を吐くのは、学者でも三流学者である。政治家は現実主義を貫くべきである。オバマ大統領は現実論と理想論の間をスペースシャトルのように自由に往来できるようだ。
補足:
1)CTBTがあり、日本も署名している。駄目押しみたいな提案をするのは、一つにはCTBTから脱退することを邪魔したいからである。現在米国はCTBTを批准していないので、加盟国も避難轟々となることを覚悟すれば、そして相応の理由があれば脱退できると思う(素人意見だが)。しかし、改めてこのような提案を出すのは、核保持国の特権を維持することと、オバマ氏個人のノーベル委員会へ部分的でも借りを返したいからだろう。
2)(同日夜追加)国民栄誉賞の選考委員に野球選手としての技術や成績を評価する資格はない。イチローが評価をしてほしい相手は、プロとしてのイチローの野球技術と成績がわかる人であり、イチローのプレイをみて楽しむ観客だと思う。ご苦労さんでしたという賞なら、引退してからで良いと思っている筈だ。
2016年8月5日金曜日
靖国参拝が問題なのではなく、下手な戦略で日本国を破滅に導いた人たちを靖国に祀ることが問題なのである
日本国のために命を捧げた人たちのみが靖国に祀られているのなら、そこに首相以下が参拝するのは当然である。しかし、無計画に戦争を遂行し、多くの若者を無駄死にさせた指導者も同様に靖国に祀られていることが問題なのである。
昨日のブログに書いたように、勝てる訳がない戦争(太平洋戦争)を始め、稚拙な戦略で日本国を荒廃に導き、民族の間に亀裂を作った日本の当時の指導者たちは、靖国神社に祀られる資格はない。それは気持ちの問題ではなく、能力の問題である。いかに国を思い、必死に考えて国家の舵取りをしたとしても、結果が惨憺たるものであった以上、靖国に祀られる資格はないと思う。
奇襲攻撃をせざるを得無いような戦争(補足1)、そして、その最初の戦い(真珠湾攻撃)において既に自爆攻撃(甲標的9軍神)を行わせるような戦争の指揮者は、全て日本国民の前において犯罪人である。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を用いて、兵士を消耗品のように扱った戦争指導者は、靖国に祀られる資格はない。
占領軍指令長官が日本に到着したとき、日本の庶民の多くは歓迎した。それは、あまりにも悲惨な戦争を強いられたからである。日本国民の心を深刻な分裂に導き、ほとんど反日分子が野党として国会で多数の議席を占有し、未だに国家としての体裁をなしていないのは、あの戦争の結果である。(補足2)
あの戦争を含めて、日本の近代史が総括できないのは、現在でも国家の指導層が戦争時の指導層の子孫であるだけでなく、明治維新以来、同じ一派が国の指導者として力を持っていることと関係しているからかもしれない。
日本国民の全てが、靖国神社になんのためらいもなく参拝できるようにすべきである。
補足:
1)戦後長い間、真珠湾攻撃が奇襲になったのは、在米大使館員が翻訳とタイプに手間取ったためであるという説が政府により流された。(半島一利著、昭和史)しかし、現在では最初から奇襲の方針であったことが明らかになっている。実際、当時の在米大使館員はその後全て出世している。
真珠湾攻撃についてまとめたサイトがありました=> http://kenjya.org/nichibeishinjyuwan.html
2)もちろん、占領軍の日本骨抜き政策(片岡鉄也著、「日本永久占領」参照)が日本から独立国のDNAを破壊したという考え方もある。当然、両方が協奏的に働いた結果であり、片方のみに帰すのは間違いだろう。本文では、話の筋に従って簡潔に表現した。
昨日のブログに書いたように、勝てる訳がない戦争(太平洋戦争)を始め、稚拙な戦略で日本国を荒廃に導き、民族の間に亀裂を作った日本の当時の指導者たちは、靖国神社に祀られる資格はない。それは気持ちの問題ではなく、能力の問題である。いかに国を思い、必死に考えて国家の舵取りをしたとしても、結果が惨憺たるものであった以上、靖国に祀られる資格はないと思う。
奇襲攻撃をせざるを得無いような戦争(補足1)、そして、その最初の戦い(真珠湾攻撃)において既に自爆攻撃(甲標的9軍神)を行わせるような戦争の指揮者は、全て日本国民の前において犯罪人である。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を用いて、兵士を消耗品のように扱った戦争指導者は、靖国に祀られる資格はない。
占領軍指令長官が日本に到着したとき、日本の庶民の多くは歓迎した。それは、あまりにも悲惨な戦争を強いられたからである。日本国民の心を深刻な分裂に導き、ほとんど反日分子が野党として国会で多数の議席を占有し、未だに国家としての体裁をなしていないのは、あの戦争の結果である。(補足2)
あの戦争を含めて、日本の近代史が総括できないのは、現在でも国家の指導層が戦争時の指導層の子孫であるだけでなく、明治維新以来、同じ一派が国の指導者として力を持っていることと関係しているからかもしれない。
日本国民の全てが、靖国神社になんのためらいもなく参拝できるようにすべきである。
補足:
1)戦後長い間、真珠湾攻撃が奇襲になったのは、在米大使館員が翻訳とタイプに手間取ったためであるという説が政府により流された。(半島一利著、昭和史)しかし、現在では最初から奇襲の方針であったことが明らかになっている。実際、当時の在米大使館員はその後全て出世している。
真珠湾攻撃についてまとめたサイトがありました=> http://kenjya.org/nichibeishinjyuwan.html
2)もちろん、占領軍の日本骨抜き政策(片岡鉄也著、「日本永久占領」参照)が日本から独立国のDNAを破壊したという考え方もある。当然、両方が協奏的に働いた結果であり、片方のみに帰すのは間違いだろう。本文では、話の筋に従って簡潔に表現した。
自由主義経済は便利なものを作ることで成長する。そして、究極の便利な環境において人間と人間社会は破壊されるだろう
1)便利なものは危険である。どのようなものでもその定理が当てはまる。便利さとは、人から何かを取り上げることだからだ。
取り上げられた仕事はしなくても良いので、その能力を他に割り振れる。その分、より広い体験、大きな能力、新しい発想などが得られる。しかし、それには前進するという意思が明確にある人に限られる。
その結果、社会においてますます欠かせない人材と、なんの役にも立たない人材という格差を生じる可能性が高い。ペッパーが受付業務を行い、自動運転の自動車(この言葉何か変だ)がネットワークで繋がれてタクシー業務を行い、コンピューター付きブルドーザーが特殊車両の運転業務を奪うだろう。
便利なものが世に続々と出た時、仕事を奪われた人にどのような仕事を提供できるのか? 貧富の差をあまり大きくしないようにするのにはどうすれば良いのか。その問いは受付ロボットを作るより難問だろう。国によっては、傭兵という仕事を考えるかもしれない。その国は、世界に混乱と争いを輸出するだろう。便利なものは、人類を破滅に導く可能性が高い。
2)スマホは便利である。それは基本的にインターネットに繋がれた、入出力機能も持つパソコンだからである。動画を見たりチャットをしたり、ゲームをしたりできる。時間つぶしには便利だが、大事な時間も潰してしまう危険性が高い。
モンスターを探して閉じ込めるゲームが流行っていると聞くが、その中に浸かる時間が長く且つ頻度が多くなると、その人はゲームの中から出られないのではないかと心配する。そして、街を歩く人もハンティングの対象のモンスターを見る感覚で見るようになるかもしれない。それは思い過ごしだろうか。
もしゲームの感覚が精神の成長に影響すると考えた場合、そのような人たちは周りの人間をモンスターなどの類型的な分類で理解しようとするだろう。突飛なことを言うようだが、相模原の大量殺人事件もそのような理解で障害者を見た結果ではないかと思う。
本来、人間はもっと複雑だし、社会もゲームの世界よりも遥かに複雑である。見る角度を変えれば全く違った世界が目の前に広がるのが、むしろ普通である。善人は悪人に、モンスターは天使になる可能性もあるのだ。
兎に角、小学生からスマホいじりで大きくなった人間は、想像力に乏しくオリジナリティーに欠ける人間に育つのではと心配する。そのような環境(スマホ環境)は、本当の意味で新人類を育ててしまうだろう。そして、旧世代の人間とは、言葉は通じず、感情の共有すらできないかもしれない。そのような世界にまともな未来があるとは思えない。
取り上げられた仕事はしなくても良いので、その能力を他に割り振れる。その分、より広い体験、大きな能力、新しい発想などが得られる。しかし、それには前進するという意思が明確にある人に限られる。
その結果、社会においてますます欠かせない人材と、なんの役にも立たない人材という格差を生じる可能性が高い。ペッパーが受付業務を行い、自動運転の自動車(この言葉何か変だ)がネットワークで繋がれてタクシー業務を行い、コンピューター付きブルドーザーが特殊車両の運転業務を奪うだろう。
便利なものが世に続々と出た時、仕事を奪われた人にどのような仕事を提供できるのか? 貧富の差をあまり大きくしないようにするのにはどうすれば良いのか。その問いは受付ロボットを作るより難問だろう。国によっては、傭兵という仕事を考えるかもしれない。その国は、世界に混乱と争いを輸出するだろう。便利なものは、人類を破滅に導く可能性が高い。
2)スマホは便利である。それは基本的にインターネットに繋がれた、入出力機能も持つパソコンだからである。動画を見たりチャットをしたり、ゲームをしたりできる。時間つぶしには便利だが、大事な時間も潰してしまう危険性が高い。
モンスターを探して閉じ込めるゲームが流行っていると聞くが、その中に浸かる時間が長く且つ頻度が多くなると、その人はゲームの中から出られないのではないかと心配する。そして、街を歩く人もハンティングの対象のモンスターを見る感覚で見るようになるかもしれない。それは思い過ごしだろうか。
もしゲームの感覚が精神の成長に影響すると考えた場合、そのような人たちは周りの人間をモンスターなどの類型的な分類で理解しようとするだろう。突飛なことを言うようだが、相模原の大量殺人事件もそのような理解で障害者を見た結果ではないかと思う。
本来、人間はもっと複雑だし、社会もゲームの世界よりも遥かに複雑である。見る角度を変えれば全く違った世界が目の前に広がるのが、むしろ普通である。善人は悪人に、モンスターは天使になる可能性もあるのだ。
兎に角、小学生からスマホいじりで大きくなった人間は、想像力に乏しくオリジナリティーに欠ける人間に育つのではと心配する。そのような環境(スマホ環境)は、本当の意味で新人類を育ててしまうだろう。そして、旧世代の人間とは、言葉は通じず、感情の共有すらできないかもしれない。そのような世界にまともな未来があるとは思えない。
2016年8月4日木曜日
政府要人の靖国参拝に反対する(再々 掲)
新防衛大臣として稲田氏が任命された。靖国に先頭きって参拝して安倍総理に阿る人間だと思う。 以下は、3年前桜井よしこさんが週刊新潮に投稿した文章を批判した文章だが、意見は全く変わっていないので今年もこれを掲載する。
週刊新潮2013年の8月15・22日号の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの上記自民党議員たちには、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。
櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯(注釈1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。
この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。そして、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか? しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている。
更に桜井さんは:2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。(注釈2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。
絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。(注釈3) 西欧諸国に戦争を挑み、国家の存立さえ危うくなってもなお、自分達の立場に固執して何百万人を無駄死に追いやったのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。
戦死者のほとんどは国家へ命を捧げた方々であるが、何故神社ではなく墓地に埋葬し、国民が純粋な気持ちで墓参できるようにしないのだ?明らかに靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家神道の施設なのである。
注釈:
1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。
2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。
3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
週刊新潮2013年の8月15・22日号の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの上記自民党議員たちには、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。
櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯(注釈1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。
この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。そして、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか? しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている。
更に桜井さんは:2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。(注釈2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。
絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。(注釈3) 西欧諸国に戦争を挑み、国家の存立さえ危うくなってもなお、自分達の立場に固執して何百万人を無駄死に追いやったのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。
戦死者のほとんどは国家へ命を捧げた方々であるが、何故神社ではなく墓地に埋葬し、国民が純粋な気持ちで墓参できるようにしないのだ?明らかに靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家神道の施設なのである。
注釈:
1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。
2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。
3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
安倍晋三総理の賞味期限
1)農業の大規模化や株式会社化が、今世紀の農業にとって不可欠なのだが、未だに農地委員会が農地売買の許可権限をもっている。”規制緩和路線”の本気度を測るもっとも良いこのケースで、安倍総理は結局何もやっていない。アベノミクスとは単なるマネタリーベースを巨大にすることと、財政政策だけなのだ。日本橋と霞ヶ関に建っているビルの中から、一歩も出ないでできることだけしかやっていない。
そんなことなら、アホでもできる。アベノミクスは同志社の浜教授のいう通り、アホのミクスということになる。俺は、安倍さんを応援してきたが、韓國との慰安婦問題の片付け方には非常に腹がたったので、それは止めた。しかも、未だに農地委員会から農地売買の許可権限を取り上げてないのだから、経済政策についても評価すべきものはない。規制緩和なんか最初からあまり考えていなかったのだろう。札を多くすればデフレは解決して、株価 も上がるくらいに安易に考えて、白川前日銀総裁をバカにしていただけなのだろう。
4年間すでに日本の舵取りをやっているが、結局安倍さん何もやっていない。第三の矢なんて偉そうなことを行ってみても、小泉 元首相の郵政民営化(補足1)レベルのことなど、何一つできていない。最初はなんとなく、米国のポチのような態度から日本の首相も脱却かと思ったが、結局米国のより可愛いポチだったようだ。
2)日本の核の傘は、中国による南シナ海の領海化で消滅するという理屈もある。しかし、米国に変わって、南シナ海で中国と対立するなんて愚かだ。日本が本当に核抑止力を持つのなら、独自の核装備以外にない。この点、米国は中国以上に日本にとって敵対的だ。何故なら、結局北朝鮮の核装備を中国は許しているが、米国は日本や韓国の核装備を許して来なかったし、決して許さないだろう。
例えば、核装備を考えた韓国の朴正煕元大統領を暗殺している。もちろん、朴正煕の暗殺と米国との関係はいつものように定説にはなってない。日本の中川昭一の不自然な死亡も同じようなことかと疑っている。日本も中国傘下の方が独自の防衛力を持ちやすいだろう。中国との敵対姿勢を強めている安倍政権は、日本の安全にとってはマイナスの方向に進んでいる。
安倍総理の出世の源である北朝鮮の拉致問題でも、朝鮮戦争休戦協定に参加した国が集まって、平和条約締結以外に解決方法はない。しかし、米国は6カ国協議というのを作って、東アジア全体を安定化ではなく混乱を保存する道具としている。6カ国協議に丸投げすることで、自分から終戦と平和条約締結の 方向を避けている。つまり、北朝鮮がまともな国になっては困ると考えているのだ。
日本は新しい発想力のある首相を必要としている。
補足:
1)業務の効率化の意味で言っているだけ。米国資本による日本経済の支配の一環という考え方もあるので、その是非はここでは対象にしません。日本も、円高なら円資金で外国資産への投資を考えるべきということは、すでに書いた。
そんなことなら、アホでもできる。アベノミクスは同志社の浜教授のいう通り、アホのミクスということになる。俺は、安倍さんを応援してきたが、韓國との慰安婦問題の片付け方には非常に腹がたったので、それは止めた。しかも、未だに農地委員会から農地売買の許可権限を取り上げてないのだから、経済政策についても評価すべきものはない。規制緩和なんか最初からあまり考えていなかったのだろう。札を多くすればデフレは解決して、株価 も上がるくらいに安易に考えて、白川前日銀総裁をバカにしていただけなのだろう。
4年間すでに日本の舵取りをやっているが、結局安倍さん何もやっていない。第三の矢なんて偉そうなことを行ってみても、小泉 元首相の郵政民営化(補足1)レベルのことなど、何一つできていない。最初はなんとなく、米国のポチのような態度から日本の首相も脱却かと思ったが、結局米国のより可愛いポチだったようだ。
2)日本の核の傘は、中国による南シナ海の領海化で消滅するという理屈もある。しかし、米国に変わって、南シナ海で中国と対立するなんて愚かだ。日本が本当に核抑止力を持つのなら、独自の核装備以外にない。この点、米国は中国以上に日本にとって敵対的だ。何故なら、結局北朝鮮の核装備を中国は許しているが、米国は日本や韓国の核装備を許して来なかったし、決して許さないだろう。
例えば、核装備を考えた韓国の朴正煕元大統領を暗殺している。もちろん、朴正煕の暗殺と米国との関係はいつものように定説にはなってない。日本の中川昭一の不自然な死亡も同じようなことかと疑っている。日本も中国傘下の方が独自の防衛力を持ちやすいだろう。中国との敵対姿勢を強めている安倍政権は、日本の安全にとってはマイナスの方向に進んでいる。
安倍総理の出世の源である北朝鮮の拉致問題でも、朝鮮戦争休戦協定に参加した国が集まって、平和条約締結以外に解決方法はない。しかし、米国は6カ国協議というのを作って、東アジア全体を安定化ではなく混乱を保存する道具としている。6カ国協議に丸投げすることで、自分から終戦と平和条約締結の 方向を避けている。つまり、北朝鮮がまともな国になっては困ると考えているのだ。
日本は新しい発想力のある首相を必要としている。
補足:
1)業務の効率化の意味で言っているだけ。米国資本による日本経済の支配の一環という考え方もあるので、その是非はここでは対象にしません。日本も、円高なら円資金で外国資産への投資を考えるべきということは、すでに書いた。
2016年8月3日水曜日
公人への犯罪を特別に取り扱う法整備をすべきではないか
国会議員や地方の首長などの公人に対するの暴行や殺人などの犯罪は、万人が納得行くように大規模且つ慎重緻密に捜査し、裁判も特別に行ってその詳細を公開し、処罰も特別に制定するよう、法整備すべきだと思う:
公人、例えば内閣総理大臣、は単に一人の人間ではない。その政治的行動は、有権者全ての意思を担って行われる。従って、彼らを暴力で支配しようとすることは、その選出にかかわる住民市民の権利侵害にあたるだけでなく、この民主主義という政治体制を毀損するものだと言える。そして、通常の事件よりも重い事件と考え、その捜査や裁判などに関して、特別に扱うべきである。(補足1)
2002年10月衆議院議員の石井紘基氏が刺殺された。議会での重要な質問を3日後に控えたその日の朝、家を出た直後に刺殺された。その議会質問について家族には、政権がひっくり返るかもしれないと話していたと言う。鞄からはその資料がなくなり、鞄を握りしめていたと考えられる石井氏の左中指が切断されていた。しかし、犯人として逮捕された右翼活動家の伊藤白水は、個人的な恨みを主張し、最高裁は動機は分からないとし、終身刑という量刑のみを言い渡して裁判を終わった。
犯行から裁判まで、一連の仕組まれた出来事のような感想を持ってしまうのは、あまりにも短期間の捜査と淡白な裁判経過だからだろう。
そのような感じを国民に与えないためには、公人の刺殺事件にしてはもっと徹底した捜査と情報公開をやるべきであると思う。実際その後、テレビ朝日系の記者大野公二氏の長期にわたる犯人との接触により、犯人伊藤白水は誰か政界の人物に依頼されて石井氏を殺したことが判明したのである。
「当方の事件はいろいろと政治の裏で動く金や人脈が関係していたこともあり、当方一人に全部背負わせて刑務所で死んでくれれば、一番良いという結論がでた結果だと思っています」という言葉が、下記三番目の動画で、自筆と思われる手紙の画面とともに、犯人の言葉として語られている。
テレビ朝日の報道によれば、犯人との接触の途中で刑務所の移動があり数年連絡が途切れた。そして8年間に亘る取材の最後の段階で、受刑中の犯人に対してこれ以上大野氏と会わないようにとの圧力がかかったようである。
https://www.youtube.com/watch?v=-tn1Oq7jA-A
https://www.youtube.com/watch?v=KsB4QE49r9Q
https://www.youtube.com/watch?v=X34iRa7oXFM
公権力がまともに捜査しておれば、必ずや石井紘基議員の殺害を指示した人物を探し当てることができたであろう。もちろんそれが国家を揺るがすことになったかもしれないが。 先月末、東京都知事として小池百合子氏が当選したが、小池氏の殺害予告を行った犯人が昨日逮捕されたと聞く。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6209817 現在、世界中で政治の混乱が続いており、日本でもテロの起こる可能性が非常に高くなっている。
石井氏のようなケースをできるだけ防止する工夫をすべきである。その一つが、公人に対する犯罪を特別に重く取り扱い、捜査や裁判をより大規模且つ緻密に行い、適宜情報を公開し、そして、その刑罰も特別に考えることだと考える。
補足:
1)以下は、「偽装社会 日本はなぜ死因不明社会なのか?」という題で公開された動画である。政治工作は時として憲法の精神を無視して行われる。それを単なる個人的犯罪と同程度に扱うことは許してはならない。捜査や裁判の能力は限られている。それが、死因不明社会をつくる原因である。https://www.youtube.com/watch?v=zqMdHEXdtlc
公人、例えば内閣総理大臣、は単に一人の人間ではない。その政治的行動は、有権者全ての意思を担って行われる。従って、彼らを暴力で支配しようとすることは、その選出にかかわる住民市民の権利侵害にあたるだけでなく、この民主主義という政治体制を毀損するものだと言える。そして、通常の事件よりも重い事件と考え、その捜査や裁判などに関して、特別に扱うべきである。(補足1)
2002年10月衆議院議員の石井紘基氏が刺殺された。議会での重要な質問を3日後に控えたその日の朝、家を出た直後に刺殺された。その議会質問について家族には、政権がひっくり返るかもしれないと話していたと言う。鞄からはその資料がなくなり、鞄を握りしめていたと考えられる石井氏の左中指が切断されていた。しかし、犯人として逮捕された右翼活動家の伊藤白水は、個人的な恨みを主張し、最高裁は動機は分からないとし、終身刑という量刑のみを言い渡して裁判を終わった。
犯行から裁判まで、一連の仕組まれた出来事のような感想を持ってしまうのは、あまりにも短期間の捜査と淡白な裁判経過だからだろう。
そのような感じを国民に与えないためには、公人の刺殺事件にしてはもっと徹底した捜査と情報公開をやるべきであると思う。実際その後、テレビ朝日系の記者大野公二氏の長期にわたる犯人との接触により、犯人伊藤白水は誰か政界の人物に依頼されて石井氏を殺したことが判明したのである。
「当方の事件はいろいろと政治の裏で動く金や人脈が関係していたこともあり、当方一人に全部背負わせて刑務所で死んでくれれば、一番良いという結論がでた結果だと思っています」という言葉が、下記三番目の動画で、自筆と思われる手紙の画面とともに、犯人の言葉として語られている。
テレビ朝日の報道によれば、犯人との接触の途中で刑務所の移動があり数年連絡が途切れた。そして8年間に亘る取材の最後の段階で、受刑中の犯人に対してこれ以上大野氏と会わないようにとの圧力がかかったようである。
https://www.youtube.com/watch?v=-tn1Oq7jA-A
https://www.youtube.com/watch?v=KsB4QE49r9Q
https://www.youtube.com/watch?v=X34iRa7oXFM
公権力がまともに捜査しておれば、必ずや石井紘基議員の殺害を指示した人物を探し当てることができたであろう。もちろんそれが国家を揺るがすことになったかもしれないが。 先月末、東京都知事として小池百合子氏が当選したが、小池氏の殺害予告を行った犯人が昨日逮捕されたと聞く。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6209817 現在、世界中で政治の混乱が続いており、日本でもテロの起こる可能性が非常に高くなっている。
石井氏のようなケースをできるだけ防止する工夫をすべきである。その一つが、公人に対する犯罪を特別に重く取り扱い、捜査や裁判をより大規模且つ緻密に行い、適宜情報を公開し、そして、その刑罰も特別に考えることだと考える。
補足:
1)以下は、「偽装社会 日本はなぜ死因不明社会なのか?」という題で公開された動画である。政治工作は時として憲法の精神を無視して行われる。それを単なる個人的犯罪と同程度に扱うことは許してはならない。捜査や裁判の能力は限られている。それが、死因不明社会をつくる原因である。https://www.youtube.com/watch?v=zqMdHEXdtlc
2016年8月1日月曜日
人間は本当に月面に立ったのだろうか?
最近、米国によるアポロ計画において月にアームストロング船長などが着陸したというのは捏造であるという内容の動画がアップロードされた。https://www.youtube.com/watch?v=MHHI87ePoqE この動画は、非常に説得力があるので、その根拠を今までに発表されたデータとともに独自に考察してみた(補足1)。
日本の宇宙情報センター(JAXA)によると、米国の「アポロ計画」は、本来、有人宇宙船を月軌道上にのせる計画だったが、1961年のケネディ大統領(当時)の演説により、月面に有人宇宙船着陸を成功させる計画に変更された。アポロ計画では最後の17号まで合計6回の月面着陸に成功し、12人の宇宙飛行士を月面に送ったとされる。(補足2) http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/apollo_program.html
しかし、米国の月面着陸は捏造だという説がアポロ計画終了後すぐに出された。 その一つが、“We never went to the Moon: American 30 billion dollar Swindle”という表題の本である。(1976年に初版が自費出版、2002年にHealth Research Book社から出版)著者のBill Kaysingという人は、1963年までNorth American Aviation(宇宙船製造を行うメジャーな会社)の一部門であるRocketdyne(ロケットエンジン製造会社https://en.wikipedia.org/wiki/Rocketdyne)に勤務していた人である。
これらのサイトにある捏造疑惑の根拠であるが、最もよく知られているのが、
1)月面に立てられた星条旗が風に揺れている。この場面は、最初の動画の5分08秒の星条旗の様子をみてもらえばわかる。
2)月面で撮った写真の空に星が見えていない。空気のない月ではカメラが太陽の方向を避けて空に向かった場合、満天の星空が見える筈である。発表された写真の空は暗く写っているが、星はない。これが夜間の砂漠を照明して捏造撮影したと考えれば説明できる。複数の照明器具で照明したのなら、影の方向にそれが現れる可能性がある。(それを指摘した場面もテレビで見たことがある)
3)ロケットにはサターンV型ロケットが用いられたが、月の近くまで着陸船や帰路のエンジンなどを運ぶことができたのだろうかという疑問がわく。Wikipediaによると、これは上記ビルケーシングの本に書かれた疑惑の根拠の最初のものらしい。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Kaysing
ここでは、3)の詳細を推測する。サターンVロケットの能力は、スカイラブの打ち上げに用いられたことで見積もれると仮定する。サターンVロケットは重さ76tのスカイラブを高度435kmの軌道上に持ち上げて地球を周回させた。
月まで運ぶのは、月着陸用宇宙船と月から地球へ帰還するためのロケットである。月からの帰路には逆噴射して減速しなければ大気中で燃えてしまうので、往路と復路は運ぶ物体に関しては同程度のエネルギーを要する。アポロ司令船だけでスカイラブの体積の1/3くらいはあるので(補足2)、月からの帰還に用いるロケット部分を含めて、少なくとも合計100トンくらいはあるだろう。(サターンVの重さは3000トンなので、この100トンは小さすぎるだろう。)しかし、それを月まで運ぶにはスカイラブを435kmまで持ち上げるエネルギーの約10倍必要である。同じサターンV型ロケットでできるのだろうか?(補足3)
380000kmは地球の半径よりも遥かに大きいので、無限大と考えると、地球表面の重力に逆らって地球半径分の距離を移動するエネルギーに等しい。つまり、スカイラブと同じ程度のものを月近くまで運ぶには、スカイラブの高さに持ち上げるよりも遥かに大きなエネルギーが必要だということになる。(補足4)
4)上記動画(https://www.youtube.com/watch?v=MHHI87ePoqE)では、放射線の影響を詳細に取り上げている。放射線の帯バンアレン帯を通過するときの被曝や、太陽フレアに伴う放射線(アポロ計画中に観測された最大のフレアで、960remという放射線を出した)によりかなりの健康被害が出る筈であると述べている。月表面では荷電粒子(α線やβ線)を逸らせてくれる地磁気や吸収してしまう大気がないので、太陽活動が活発になると大量の放射線を浴びることになる。荷電粒子は宇宙服で防げるが、その際二次放射線として出るγ線を大量に浴びることになる。
そのほか重要な状況証拠として、なぜ他の国、例えば旧ソ連、は月に行くことがなかったのか。なぜ優秀だったサターンVをアポロ計画後すぐに廃棄したのか?など、多くの疑問がそれぞれ説得力をもって捏造説を支持しているように思える。
(月まで運ぶためのロケットの推進力に関する記述を修正しました。スカイラブの軌道に乗せるには、地球の自転速度から10倍程度加速する必要があります。それを最初投稿した文章では考慮に入れていませんでした(補足3参照)。いずれも概算に過ぎないのですが、恥ずかしい限りです。2016/11/1)
補足:
1)アポロ計画に捏造があるかどうかは、米国がそのような捏造をする国かどうかを判断する上で重要である。つまり、あの9.11の捏造説の評価にも影響するのである。国際政治評論家の田中宇氏のブログなどでは、9.11事件の米国捏造説は疑う余地がないという風に感じる。例えば、以下のサイト参照。(ただし会員サイトで有料かもしれません。)http://tanakanews.com/g0516WTC.htm
この件、飛行機の衝突により火災が発生し、最終的に世界貿易センタービルの多くが崩壊した。この世界貿易センタービル群の内、第七ビルは飛行機が直接衝突していないのに、全く同じ形で崩壊していることが明らかにされている。これが9.11の飛行機衝突までは別にして、WTCビルの崩壊が自作自演だったとする説の最も大きな根拠である。
2)JAXAのホームページ:アポロ宇宙船がサターンV型ロケットで打ち上げられた。そのロケットブースターは全長110m、最大直径10m、打ち上げ重量2,941トンのロケットで、月までの往復77万kmを飛行できる能力があった。サターンVはスカイラブの打ち上げにも用いられた。スカイラブは、総重量76t、軌道作業室は全長約15m、直径6.6mである。また、アポロ司令船・機械船は全長約10m直径約4mである。スカイラブは高度435km、軌道傾斜角50度の円軌道を回っていた。
3)実際にはもっと複雑な計算を要する。それは地上に存在する我々は地球の自転速度で回転しているが、スカイラブは静止座標で考えればすでに地球による重力エネルギー(負の値)の半分を運動エネルギーの形で打ち消している。そこから月の引力圏に入るまでに、重力ゼロ(位置エネルギーは依然負である)の状態に達する。そこから月の周回軌道に入るまでに、若干の減速が必要になる。更に、地球に帰還する際には、特に地球の引力圏に入ってから減速しなければならない。そのエネルギーは質量あたりでは月に向かって上昇する時のエネルギーと同じである。これら全体の計算は我々素人には出来ないが、概略の議論は可能である。結論として、アポロ宇宙船を打ち上げて月面着陸させ無事地球に帰還させるには、スカイラブへ打ち上げる際のブースターの10倍程度の推進力を持つロケットが必要だろう。
4)スカイラブや宇宙ステーションのあるところは既に無重力だと思う人が多いだろう。しかし地上数百キロの上空での重力は、地表の値から数パーセント小さいだけである。引力の式はGMm/r^2で(Mは地球の質量、mは物体の質量、Gは万有引力定数)、月表面まで物体を運ぶエネルギーの大体の値は、この式を地表面の位置6400kmから38000kmまで積分(rに関して)することでもとまる。詳細な計算は補足3にあるようにもっと複雑である。
日本の宇宙情報センター(JAXA)によると、米国の「アポロ計画」は、本来、有人宇宙船を月軌道上にのせる計画だったが、1961年のケネディ大統領(当時)の演説により、月面に有人宇宙船着陸を成功させる計画に変更された。アポロ計画では最後の17号まで合計6回の月面着陸に成功し、12人の宇宙飛行士を月面に送ったとされる。(補足2) http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/apollo_program.html
しかし、米国の月面着陸は捏造だという説がアポロ計画終了後すぐに出された。 その一つが、“We never went to the Moon: American 30 billion dollar Swindle”という表題の本である。(1976年に初版が自費出版、2002年にHealth Research Book社から出版)著者のBill Kaysingという人は、1963年までNorth American Aviation(宇宙船製造を行うメジャーな会社)の一部門であるRocketdyne(ロケットエンジン製造会社https://en.wikipedia.org/wiki/Rocketdyne)に勤務していた人である。
これらのサイトにある捏造疑惑の根拠であるが、最もよく知られているのが、
1)月面に立てられた星条旗が風に揺れている。この場面は、最初の動画の5分08秒の星条旗の様子をみてもらえばわかる。
2)月面で撮った写真の空に星が見えていない。空気のない月ではカメラが太陽の方向を避けて空に向かった場合、満天の星空が見える筈である。発表された写真の空は暗く写っているが、星はない。これが夜間の砂漠を照明して捏造撮影したと考えれば説明できる。複数の照明器具で照明したのなら、影の方向にそれが現れる可能性がある。(それを指摘した場面もテレビで見たことがある)
3)ロケットにはサターンV型ロケットが用いられたが、月の近くまで着陸船や帰路のエンジンなどを運ぶことができたのだろうかという疑問がわく。Wikipediaによると、これは上記ビルケーシングの本に書かれた疑惑の根拠の最初のものらしい。 https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Kaysing
ここでは、3)の詳細を推測する。サターンVロケットの能力は、スカイラブの打ち上げに用いられたことで見積もれると仮定する。サターンVロケットは重さ76tのスカイラブを高度435kmの軌道上に持ち上げて地球を周回させた。
月まで運ぶのは、月着陸用宇宙船と月から地球へ帰還するためのロケットである。月からの帰路には逆噴射して減速しなければ大気中で燃えてしまうので、往路と復路は運ぶ物体に関しては同程度のエネルギーを要する。アポロ司令船だけでスカイラブの体積の1/3くらいはあるので(補足2)、月からの帰還に用いるロケット部分を含めて、少なくとも合計100トンくらいはあるだろう。(サターンVの重さは3000トンなので、この100トンは小さすぎるだろう。)しかし、それを月まで運ぶにはスカイラブを435kmまで持ち上げるエネルギーの約10倍必要である。同じサターンV型ロケットでできるのだろうか?(補足3)
380000kmは地球の半径よりも遥かに大きいので、無限大と考えると、地球表面の重力に逆らって地球半径分の距離を移動するエネルギーに等しい。つまり、スカイラブと同じ程度のものを月近くまで運ぶには、スカイラブの高さに持ち上げるよりも遥かに大きなエネルギーが必要だということになる。(補足4)
4)上記動画(https://www.youtube.com/watch?v=MHHI87ePoqE)では、放射線の影響を詳細に取り上げている。放射線の帯バンアレン帯を通過するときの被曝や、太陽フレアに伴う放射線(アポロ計画中に観測された最大のフレアで、960remという放射線を出した)によりかなりの健康被害が出る筈であると述べている。月表面では荷電粒子(α線やβ線)を逸らせてくれる地磁気や吸収してしまう大気がないので、太陽活動が活発になると大量の放射線を浴びることになる。荷電粒子は宇宙服で防げるが、その際二次放射線として出るγ線を大量に浴びることになる。
そのほか重要な状況証拠として、なぜ他の国、例えば旧ソ連、は月に行くことがなかったのか。なぜ優秀だったサターンVをアポロ計画後すぐに廃棄したのか?など、多くの疑問がそれぞれ説得力をもって捏造説を支持しているように思える。
(月まで運ぶためのロケットの推進力に関する記述を修正しました。スカイラブの軌道に乗せるには、地球の自転速度から10倍程度加速する必要があります。それを最初投稿した文章では考慮に入れていませんでした(補足3参照)。いずれも概算に過ぎないのですが、恥ずかしい限りです。2016/11/1)
補足:
1)アポロ計画に捏造があるかどうかは、米国がそのような捏造をする国かどうかを判断する上で重要である。つまり、あの9.11の捏造説の評価にも影響するのである。国際政治評論家の田中宇氏のブログなどでは、9.11事件の米国捏造説は疑う余地がないという風に感じる。例えば、以下のサイト参照。(ただし会員サイトで有料かもしれません。)http://tanakanews.com/g0516WTC.htm
この件、飛行機の衝突により火災が発生し、最終的に世界貿易センタービルの多くが崩壊した。この世界貿易センタービル群の内、第七ビルは飛行機が直接衝突していないのに、全く同じ形で崩壊していることが明らかにされている。これが9.11の飛行機衝突までは別にして、WTCビルの崩壊が自作自演だったとする説の最も大きな根拠である。
2)JAXAのホームページ:アポロ宇宙船がサターンV型ロケットで打ち上げられた。そのロケットブースターは全長110m、最大直径10m、打ち上げ重量2,941トンのロケットで、月までの往復77万kmを飛行できる能力があった。サターンVはスカイラブの打ち上げにも用いられた。スカイラブは、総重量76t、軌道作業室は全長約15m、直径6.6mである。また、アポロ司令船・機械船は全長約10m直径約4mである。スカイラブは高度435km、軌道傾斜角50度の円軌道を回っていた。
3)実際にはもっと複雑な計算を要する。それは地上に存在する我々は地球の自転速度で回転しているが、スカイラブは静止座標で考えればすでに地球による重力エネルギー(負の値)の半分を運動エネルギーの形で打ち消している。そこから月の引力圏に入るまでに、重力ゼロ(位置エネルギーは依然負である)の状態に達する。そこから月の周回軌道に入るまでに、若干の減速が必要になる。更に、地球に帰還する際には、特に地球の引力圏に入ってから減速しなければならない。そのエネルギーは質量あたりでは月に向かって上昇する時のエネルギーと同じである。これら全体の計算は我々素人には出来ないが、概略の議論は可能である。結論として、アポロ宇宙船を打ち上げて月面着陸させ無事地球に帰還させるには、スカイラブへ打ち上げる際のブースターの10倍程度の推進力を持つロケットが必要だろう。
4)スカイラブや宇宙ステーションのあるところは既に無重力だと思う人が多いだろう。しかし地上数百キロの上空での重力は、地表の値から数パーセント小さいだけである。引力の式はGMm/r^2で(Mは地球の質量、mは物体の質量、Gは万有引力定数)、月表面まで物体を運ぶエネルギーの大体の値は、この式を地表面の位置6400kmから38000kmまで積分(rに関して)することでもとまる。詳細な計算は補足3にあるようにもっと複雑である。
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