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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2018年7月31日火曜日

GDPの増大と世代間の分断&第二次人間復興の可能性

1)既に指摘したように、近代経済の発展の中に、家族内や大家族内のサービスや労働などを、その外に持ち出してGDP統計の額を増加させるプロセスを見ることができる。家族内の手仕事を奪いとり集合させて、法人(株式会社等)がより能率的に機械を用いて行うことになったのである。

大量生産方式での経済発展には、一定の規格化(画一化)が要求される。あらゆる活動とその目的をひとまず人間から取り上げて、規格化(画一化)し機械化する。そして、新しく変形した活動(目的)とそのプロセスを、人間に再配分するのである。その方法と動機(或いはエネルギー)は、機械技術と資本主義による法人(と一部富裕層)の利益を上げる本能(存在メカニズム)である。大多数の人間は、労働からの開放(補足1)の面から単純にそれを歓迎してきた。

製品やサービスの規格化或いは画一化は、必然的に人間及びその生活を規格化或いは画一化することになった。(補足2)勿論、全体を画一化することは流石に無理なので、世代間など人間とその生活に境界を設けて分断し、その境界内部を均一化規格化するのである。

分かりやすい例として、世代間の分断を考える。早くから子供を親から取り上げて、保育所に収容する。そこで、保育児童に対して均質な生活を能率よく提供するのである。それが子供にとっても、親(特に母親)にとっても、必ずしも良い状況とは言えないだろう。しかし、「女性の自律」という思想を与えられ、多くの人はその世代分断を歓迎するだろう。保育制度が発展し、関与した法人の利益となりGDPの増大となる。

介護をとっても同様である。先日のNHKテレビ番組で、入所金3500万円を支払って入所する豪華な海の見える老人ホームが放送されていた。全国から入所希望者が、この神奈川の巨大な老人ホームに集まるそうである。そこには新しい出会いもあるし、趣味の世界もある。(補足3)ただ、サービス提供者以外は全て老人の特別区域である。一言で言えば、不自由なく死を迎える日を提供する老人収容施設である。 http://sumikichi52.hatenablog.com/entry/2017/07/31/211108 (このブログは、NHKの放送内容をうまくまとめているので引用させていただく)

これも上記考え方を採用すれば、大家族から老人を取り上げ、彼ら老人に画一化した「老後」を提供するのである。それは、画一化した保育を実現する上でも大事なプロセスである。何故なら、年寄りの仕事として保育が大家族の下に残る可能性があるからである。

大家族を作り、老人が孫の面倒を見て農作業を手伝うと、そこに法人(資本)の介入する余地はない。しかし、老人を大家族から取り上げることで、その入所金の3500万円も、毎月支払う経費も、全て法人の稼ぎとなりGDPに算入される。農作業も次第に法人が支配するようになるだろう。

2)結論として、「現代文明は、世代間の分断でGDPを増大させた」ということになる。この経済(経世済民)は、人間中心ではない。このGDP的に豊かになった社会は、人間を人工的に改造する試みとともに進んできたのである。もし人間が自然界の存在であり続けるべきだとしたら、この社会は病んでいる。その病状の一つが晩婚化であり少子化である。

上に述べたように、世代間だけでなく全ての人間とその活動が、法人(資本)の利益のために分断され、境界内部は均質化規格化されるだろう。

しかし、この見方は本末転倒であると考える人がほとんどだろう。私もその一人であったし、現在もそうかもしれない。しかし、事件などの原因と結果を結ぶ論理を作り上げる時、「誰が得をするのか?」が鍵となる。何が巨大化し、巨大な得(利益)をあげているか?

この当たりで、数百年ぶりに人間復興の運動が起こる可能性と、それが不都合な法人や資本の連合によるもみ消し工作が行われる可能性がある。或いは、それは既に起こっているかもしれない。

米国などを中心とした、国家とその軍事を重視する風潮を高めるのが、そのもみ消し工作の正体かもしれない。人間を分断するには、先ず地域ごとに国家として分断しなければならない。その分断を確実にする為には、国家間に揉め事争い事を絶やさないことである。

補足:

1)一神教の考えでは、労働は神からの罰である。日本のように労働に生きがいを見出す文化は世界からみて特異である。
2)チャーリー・チャップリンのモダン・タイムズは、それを描いた映画である。
3)番組では、いきいきとした老人を中心に紹介していた。予断に支配されたのか何らかの意図を隠しているのか分からないが、施設の紹介において全体像を描こうという姿勢は全く無いようだった。

2018年7月30日月曜日

オームの死刑には反対できないという死刑制度反対の著名作家

1)オーム真理教の教祖以下幹部13名が、地下鉄サリン事件などの犯人として裁判を受け、死刑判決の後8年後の今月に死刑が執行された。(補足1)この判決に関して、国際的に著名な作家の村上春樹氏は、29日付けの毎日新聞に寄稿して、以下のように考えを示したという。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180729-00000030-jij_afp-int

村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド(Underground)」(1995年)を執筆する過程において事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としている。(原文のまま)

このネット記事を読んだとき、当に“空いた口が塞がらない”状況となり、そのままこの文章を自分のMacBook Airに打ち込んでいる。“文章書き”なら、もっとハッキリと「自分には、日本国に於ける死刑制度の適否が分からない」と公言すべきだろう。

ただ、話の前提に“一般的には死刑制度そのものに反対する立場だ”が存在するというから、この人の言葉は私にはさっぱり理解できない。「死刑制度は廃止すべきだが、この人達を死刑にすることは理解できる」ということである。その存在する筈の根拠を論理的に言葉にしたいのだが、うまく見つからないのかもしれない。(補足2)

或いは、村上氏が公言できないのは自身の「死刑廃止論撤回」なのかも。つまり、この件の犯人達は当然死刑にすべきだと思うのだが、「死刑廃止の立場を返上します」とは、いろいろ事情もあり公言できないという可能性もある。

新聞に寄稿することは公言することだから、「自分は死刑制度反対の立場である。しかし、今回の死刑に反対だとは公言できない」と公言したのである。考えれば考える程、何が何だかわからなくなる。そこで視点を変えてみる。

2)もしかして、私は日本社会と日本語を理解していないのかもしれない。日本社会で日本語を用いるとき、最も大事な言葉は枝葉末節にあり、根幹にはないようだ。

村上氏の言葉では、「今回の死刑に反対だとは公言できない」の前に、“簡単には”が付いている。この「簡単には」が、日本社会における日本語の用法上、最も大切な言葉なのだろう。

日本人が共有すべきは言葉じゃない、心なのだ。「簡単には」は心の叫びを表している。それを聞いたとき、言葉をこえて判りあうのが日本人なのだ。言葉はそのための道案内の看板に過ぎない。(補足3)しつこく屁理屈をこね回す人だ。

そのような批判がどこかから聞こえるような気がする。私は日本人の血統にありながら、自然科学という"夷狄"の学問を少し勉強したためか、日本人の心をほとんど失ったのかもしれない。つまり、論理を無視し直感に訴える俳句の世界にいることを、忘れてはいけないのだろう。

補足:

1)送迎役であった高橋は2012年逮捕され、最終的に無期懲役となった。実行犯の内、自首扱いされた林郁夫も無期懲役の判決となった。

2)「法律は、一つの国家体制内での物、人、金の動きを整理するための規則であり、国家体制の枠を超えたことには適用できない」ことを十分理解されていない可能性がある。オーム事件は、国家体制を破壊することを目的としてなされたテロであり、日本軍が出動してオームの拠点の鎮圧と麻原以下の逮捕を行うべきであった。
首謀者は、軍事裁判の中で裁くのが本来の姿であり、その場合の死刑は一般犯罪の死刑廃止論とは必ずしも矛盾しない。つまり、戦争で敵兵を撃つことは死刑廃止の立場から私には出来ませんと、西欧の人も言わないだろう。
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43716015.html 
日本国は、憲法で非武装を宣言した国家である。得体の知れない国家では、国際的に著名な作家から論理矛盾的言葉が出るのも無理はない。

3)道路わきに頻繁に現れる標語板も、この国の特徴である。「大人が変われば 子供も変わる」という看板が、近くの中学校沿いの道に掲げてあった。
「何が言いたいのか?」「言いたいことがあるのなら、もっと明確に言うべきだ。」「日本人なら、分かるだろう。」

2018年7月27日金曜日

地下鉄サリン事件などの犯人13名の死刑執行に対する報道の貧困と、テロに対する行政の怠慢について

昨日、地下鉄サリン事件等の犯人6名の死刑が執行された。中日新聞一面のトップの見出しは、「オウム全13人死刑執行」という縦見出しと、「テロ解明されず」という横見出しであった。記事を斜めに読んでも、どこまでが解明の終着点かという記述はない。また、二面と三面に、「死刑廃止 進まぬ議論」と、「月二度執行 語られず」という夫々見出しで、死刑廃止論が展開されている。一連の記事は、高校の校内新聞レベルであり、何が何だかさっぱり理解出来ない。

行政機関としては、この事件を一応決着させた形である。裁きは所謂テロを対象にしたものではなく、通常の殺人犯罪としてのものである。「テロ解明されず」の一面見出しは、新聞社がそのあたりのことも分かっていない為に出したのだろうか?それとも、日本国家を骨抜きのままにするため、日本国がテロをさばいているのだと読者を誤魔化すためなのだろうか?

私が理解するテロは、体制転覆を狙う暴力革命的行為のことである。テロ行為は本来内戦の一種であるから、普通の裁判で裁くことはない。テロが行われた場合は、そのテロ集団を壊滅するのが現国家の取るべき措置である。そして捕獲された者の中で中心的人物は、普通の国なら、軍事法廷で当然死刑になるだろう。(死刑廃止論者に一応聞いてみたい。もし、軍事法廷でも死刑を廃止している国があるのなら、教えろと。)

軍隊のない日本では、軍事法廷の設置などを定める法律はないのだろう。つまり、日本は不戦の国であり、テロリストも存在する筈がないことを前提にしているのだろう?誰か専門に近いものは、この件をしっかり書くべきである。(私の勉強不足なのだろうが、目に着くようにもっと大きく出してもらいたい。)

現行法体系の中では、体制転覆を狙った“テロに似た犯罪”であると断定されたのなら、破壊活動防止法が適用されることになる。その場合、オウム真理教そのものが解散させられることになるだろう。それを見送ったのは、要するに宗教の自由という問題が鬱陶しく、本質的解決を避けた行政のサボタージュだろう。

新聞社が無茶苦茶なことを書いて、日本社会をかき混ぜる理由は、その当たりの議論を封じるのが目的だろう。メディアが新聞やテレビだけでなく、ネットなども出来たのだから、もっとまともな議論がなされるべきである。全くないのが不思議というか平和ボケと言うか、私には全く理解不能である。

ともかく、行政は今回の事件は単なる殺人事件として裁くことにしたのである。従って。サリンなど毒ガスを製造したにも拘わらず、宗教集団であるオウム真理教とその後継宗教集団の構成員には、これ以上の追求は行われないことになったと理解する。サリンの製造は、おそらく化学研究の一環なのだろう。つまり、これ以上解明する事など無いのである。

中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について

1)日経ビジネス記事に投稿された、ノンフィクションライター山田泰司氏による「中国人の火葬嫌いと自殺見物と村上春樹と」という記事を読んだ。先月、中国甘粛省慶陽という町での出来事についての記事である。ビルから飛び降り自殺しようとしている若い女性を見物しに集まった観衆から「早く飛べよ」とはやし立てる声がいくつも上がったという。中国ではこのような光景はその後も頻発しているという。 https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/070500081/?P=1

自殺したのは、2年前からセクハラ被害にあい、悩んだ末に精神を病んだ19才の女性である。ビルの8階から飛び降り自殺を図ろうとした際、駆けつけた消防が数時間説得を試みた。見物に集まった野次馬の中から、上記の様な心ない野次がいくつも飛び、それを聞いた他の野次馬から笑い声が上がったという。様子を動画投稿サイトで実況中継する者もいたという。その女性は、ビルによじ登って近づき、説得に当たっていた消防隊員に礼を述べ、「飛び降りなきゃいけないみたい」の一言を残して身を投げ出し絶命した。

その事件を伝える中国メディアには「冷血」「鬼畜」といった言葉をタイトルに並べ、野次馬を厳しく非難するものが目立ったという。

この様な光景は、現代中国で現れた新しい現象と思いきや、そうではないというのである。中国メディアの記事でも引用されているのは、魯迅が文集「吶喊」の前文に紹介している同じ様な光景である。西欧医学の勉強のために日本に留学して来た魯迅は、東北医学校に籍を置いていた。微生物学の講義の中で、一区切りついたときに余談的に教授が示すスライドの中に、ロシアスパイで捕まり斬首される寸前の中国人と、それを無表情に見る何人かの中国人が映されていたのである。

魯迅は、「およそ愚劣な国民は、体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから私どもの第一要件は、彼らの精神を改変することである。」と書く。医学は決して重要なものでないと悟った魯迅は、その後文芸を志すことになったという。

澎湃新聞コラムニストの張氏は、「多くの人は、魯迅が描いた時代から100年後のいまなお、一部の国民は感覚が麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」と指摘。その上で、「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも無関心なのでもない。(彼ら見物人は)『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。『観客』は、無関心よりもさらに悪い『消費者』になった」と断じ、嘆いている。

2)一方、日経ビジネスのコラムの記事は、上記中国人コラムニストや魯迅の考えに賛同するものの、その原因を文芸的素養のなさに求めるのは無理があり、中国人の独特な死生観にあるという解釈を披露している。そして、以下のように見物する群衆の心理を推測している。

中国人の死生観は、徹頭徹尾「命あっての物種」であり、飛び降りて自死しようとしている人に対しては、「自分から死のうという理解不能な人は、どうぞ死んでください」という突き放した気持ちが、激しい言葉を躊躇なく発することにつながっていると解釈する。「生きていれば世の中楽しいことだってあるかもしれないのに、死ぬことはないじゃないか。止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」という思いが無意識のうちにあるのだろう。

日経ビジネスの記事で山田泰司氏は、中国で当局の意向に反して土葬が増加していることを取り上げ、自説の補強としている。土葬の増加を身体が生きている時と同様、「全く無傷」のまま土に還れる「全身而退」という中国の伝統思想の復活が進んだのだとし、この傾向を「死んでからも生きている時と同様の状態でいたいという心は、“命あっての物種”に通じる、中国の死生観を垣間見ることができる」としている。

更に、村上春樹の小説が中国で人氣があることから、「ノルウエイの森」の一節「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(講談社文庫版、上巻、P54)を引用して、その考えが“命あっての物種”と合い通じるとしている。

3)私は、日経ビジネスのコラムニストの分析は全く間違っていると思う。最後の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は、別に村上春樹の発明でも何でもない。「人間の生」をそれ以外の動物の生と分ける重要な点であり、ほとんどの宗教の原点でもある。そして、「死んでからも生きている時と同様の状態でいたい」という考えは、「命あっての物種」とは関係なく、死後の世界を考える人間の原始的且つ基本的感情である。(補足1)

コラムニストの自殺見物の群衆の心を推測した「止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」というのは、日本人が無理に解釈しようとした結果である。何故なら、もしその様な気持があるのなら、「どの飛び降り自殺の現場でも、野次馬が『暑いんだから早く飛べよ』と大声で叫んだり、『飛べ!飛べ!飛べ!』の大合唱が起きたりした」という記述を説明できる訳がない。

私の解釈を以下に書く。上記の自殺見物の様子は、中国人個人の典型的な社会的姿勢の反映だと思う。 つまり、中国は究極の個人主義の国であり、彼ら中国人が生きる社会は個人と個人のコネの集積に過ぎない。それ以外にあるのは、支配する側の強制と支配される側の服従だけだろう。そこには公(おおやけ)という心情も概念もなく、それが多少とも存在する日本や西欧社会との違いだと思う。つまり中国人は、自分でも自分の親族でもなく、更に自分の知人でもない人間に対して、全く無関心であるということである。同情は、同じヒトであるということだけでは、湧かないのである。

公空間が無ければ、ヒトとヒトの間には、仲間(同志etc)という関係、敵対という関係、それに“完全な他人の関係”の三通りしかない。同志という関係では親密に協力し合い、そして敵対という関係では命をかけて戦う。もしそうだとすれば、“完全な他人の関係”においては、自分が心情を寄せたり、具体的行動をしたりすることはない。単に真空空間の向こうの見物の対象にしかならないのである。

日本人には、この国に生きるヒトであれば全くの他人でも、同じ国の民であるという感覚があるようだ。それはおそらく天皇の存在が関係しているだろう。(補足2)また西欧社会には、個人主義を取りながら、市民革命を経て、市民が作る公(おおやけ)の空間(補足3)を民主主義社会運営の場としている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42603412.html 

何れにしても、西欧にしても日本にしても、同じ国の民であれば無関係な個人に対しても、一定の権利と義務の関係を想定するのである。(補足4)自殺すると称して、ビルの高い階層から下を覗き見る人を見たならば、自分の意思と行動の基準を、私空間から公空間のそれに切り替えて、救いの手を差し伸べるのである。

一方、中国では一般の民に存在するのは私空間だけである。選ばれた少数のエリートたちに存在するのも、本質的には私空間しか存在しないだろう。彼らの管理すべき空間は、公空間に言うよりも私空間の延長だろう。自分への利益誘導は、トップエリートの間にも蔓延していることは、それを示している。

大陸の広い空間のなかで生き延びることの困難さと、これまでの支配と被支配の歴史は、そこで生き残るに相応しい文化を構築した。それは、小さい島国で天皇の臣民としての形を1500年近く取り続けた国の民の心情と異なって当然である。

魯迅は、西洋医学を日本で学び中国に帰って医者になろうと考えたが、その考えは上記中国人スパイの処刑とそれを取り巻く中国人たちの姿を見て、「病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから我々の第一要件は、中国人の精神を改変することである。」という考えに変わる。

日本人には鬼畜に見えるかもしれない自殺直前の者に対する言葉と、中国人の思考の幅の広さ、ダイナミックな性格は、表裏一体をなすのだろう。魯迅と心無い言葉をかける大衆との間の差は、その広い思考レンジの中の緻密さだろう。(補足5)

逆に言えば、「命は地球より重い」などと言いう言葉を聞けば、一般庶民から総理大臣まで蜘蛛の網に引っかかったように身動きがとれなくなる日本人の思考レンジの狭さ、行動の鈍さを議論しないで、一方的に中国人の発想の大きさ故の粗野さを非難するのは誠に愚かである。

補足:

1)来世を考えるキリスト教などでも、土葬が基本である。

2)明治天皇が日露戦争のときに詠んだ歌、「四方の海、皆、同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」は、人間社会に対する日本人の理解を示している。勿論、国際社会を同胞の世界と理解するのはまちがいだろう。

3)公空間は、社会の中でのトラブルや過不足を、民一般が参加して解決するための場である。行政機関や立法機関などはその中に作られたそのための道具である。

4)自分の私的な時間と幾ばくかの財を公に拠出し、公の作り出した財やサービスを受取り、私的に用いる。その国の民は、その公の空間を作り維持する義務と権利を共有する。

5)上記心無い言葉は、自殺するか弱い精神を侮蔑する気持ち、非難する気持ち、自分に言い聞かせる気持ちなど、入り乱れているだろう。中国人であれ何人であれ、現実主義に立って考えればは、助ける言葉をかけるとした場合、同時に「その人の荷物を分担する方法」も自分に無ければならない。その人の荷物を担ぐ覚悟もなく、兎に角命は地球より重いのだからという説得ができるのは日本人くらいだろう。

2018年7月24日火曜日

地球温暖化は本当に二酸化炭素濃度の増加によるのか?科学者は積極的に発言して欲しい。

1)国際社会を嘘つきたい放題にした切掛は、「社会主義という思想」に傾倒した人たちが理想と現実を混同し、本来科学的論理的に考えるべき政治に「社会主義という宗教」を持ち込んだことだと思う。その証拠を一つあげる。社会主義を目指した人たちのキャッチフレーズ「能力に応じて働き必要に応じて取る」があるが、それは少なくともあの時代にはありえない話である。それは、哲学や思想の中には存在根拠はなく、単に宗教的寓話に過ぎないのである。

また、共産主義を広めた勢力は、ルーズベルトの時代の米国の政治に介入した。社会主義が宗教であるとすれば、その布教には嘘はつきものだろう。世界の政治はあの時代、哲学(社会科学)から宗教への道を選んでしまったのではないだろうか。現在のグローバリズムも宗教であると気が付いた人が多くなっている。「世界から国境がなくなれば、戦争もなくなり平和の時代が来る」という教義あるいは宗教的寓話は、人間愛を説く宗教と似ている。 

現在、地球温暖化が厳しい現実問題となって、世界を襲っている。そして、それが人間の活動によるということは確かだろう。しかし、それを直ちに二酸化炭素が原因だとするのは、宗教的態度ではないだろうか。 

この問題は、政治的問題であるから、科学的解明だけでは不十分である。大衆の中にまで、議論を広げて政治的力を真実に基づいて作る必要がある。そのために、地球物理や気象学の人たちは積極的にネットなどで発言して、世論形成に尽くすべきである。

  大気の温室効果は、科学的に確認されている。しかし、その主役は水蒸気だった筈である。人類によるトータルなエネルギー消費の増加、野原の都市化や原野の砂漠化などで地球が少し温暖化すれば、それにより大気中の水蒸気量が増加して、温暖化が更に酷くなるなども考えられる。それが昨日書いた記事の主旨である。

以前、東工大の丸山茂徳教授により、地球温暖化二酸化炭素主因説はあやまりであるという指摘があった。大昔のことだが、地質学的データによれば、二酸化炭素濃度が現在の50倍あった時、赤道まで凍っていた時期があったなどの話も引用されていた。(http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/08/blog-post_26.htmlの注釈7を参照。) とにかく、多くの複雑なプロセスを科学的に検証していく姿勢がなければ、問題は解決しないだろう。

その昔、バートランド・ラッセルという人が宗教から科学へという本を書いた。現在、再びその言葉を思い出す時期であり、それができなければ人類は最後のチャンスを逸することになるかもしれない。

2)地球温暖化問題は、アルゴアのでっち上げに端を発したが、そこでも嘘のつきたい放題だった。海面が数メートル上昇するとか、なんとか言って、地球資源が途上国にまで使われて枯渇するのを恐れたのだろう。その二酸化炭素原因説の中心にIPCCがあるが、その説を宗教的に広める活動の結果、現在世界のほとんどの人はその説を信じているようだ。

ここでは、その強力な証拠の一つとされ、以前のブログにも引用したデータを紹介したい。それを再度引用する理由は、私の能力ではそれが十分解釈できていないからである。誰か、(ご自身のブログに書くなりして)気象学が専門の方のコメントが頂ければありがたい。

それは、Ira Glickstein, PhD という方がブログ(http://visualira.blogspot.com/)に掲載している、上空の人工衛星から観測した地球方向から来る赤外光のスペクトル(上)である。この人はIPCCの人かどうかはわからない。
https://wattsupwiththat.com/2011/03/10/visualizing-the-greenhouse-effect-emission-spectra/

明らかにCO2によると思われる15ミクロン付近の赤外光が大幅に減少している。地球からの熱線が二酸化炭素で遮蔽されているのである。よくできた図である。一方、下は人工衛星から検出器を地球方向に向けてとったものである。こちらは大気の窓の部分は宇宙に逃げるので、空からはあまり反射してこない。(下のスペクトルの凹の部分)

これが事実なら地球温暖化二酸化炭素原因説は、一段と説得力を増す。しかし、不思議な点は、15ミクロンより超波長側も水蒸気で遮蔽されているはずなのに、上のスペクトルには、ほとんど減衰せずに存在している。それをブログの記事を書いた人は、上空は寒いので水蒸気濃度が低いからだと言っている。つまり、水蒸気は地表近くに偏在し、影がぼやけてしまうというのである。(補足1)

一応それも筋は通っている。しかし、300度(摂氏27度)の黒体輻射のピークがなぜ15ミクロン付近にあるのか、私には理解できない。専門家の人も10ミクロン付近だと書いている。http://irina.eas.gatech.edu/EAS8803_Spring2018/Lec4.pdf 残念ながら、専門外(専門はナノ領域の分子科学)で実験手段も持たない私には、それ以上の反論はできない。

3)ところで、この問題を調べようとして検索などをすると、出て来るのはなぜか英語のサイトばかりである。なぜ、日本人が日本語で書いたサイトが出て来ないのか。中部大の武田教授などは、地球温暖化二酸化炭素原因説は嘘であると勇気ある発言をされている。しかし、その発言ははったりを効かせているもののあまり科学者的ではない。https://www.youtube.com/watch?v=JD1jlg2VoMM

武田教授は、自信があるのなら、なぜ、もう少し科学的態度でブログ記事(論文でも結構である)などにして主張しないのか。武田教授は気象学や地球物理は専門ではないので、それほど批判はできない。しかし、日本にはそれらの専門の方々は数百人といる筈である。何故もっと発信しないのか? その分野で飯を食ってきたくせに、沈黙は罪であると思うが、如何? 

補足:

1)地表から放出された赤外光のうち、15ミクロンから長波長成分は水蒸気で吸収される。そのすぐ上方では、その部分は影に隠れたように観測されないだろう。しかし、そのエネルギーはその部分で大気全体の加熱に使われ、上空で水蒸気が少なくなったところから発せられる赤外光は、再びそこに存在するガス(CO2)による吸収部分を除き黒体輻射に近くなるというのである。(最終稿は17:30)

2018年7月23日月曜日

二酸化炭素は本当に大気の窓を閉じ、地球温暖化の原因となっているのか?

0)現在の筆者の考え方について: 以下の記述(最初に書いたのは2014年)の考え方(理論)は現在でもそのまま正しいのですが、現在筆者が支持している結論はかなり変化しています。つまり、現在では人工的に発生さた二酸化炭素による地球温暖化は事実であると考えています。最新の記事を参照してください。海水温のデータから、それほど大きくはありませんがこの20年ほどの温暖化が事実であることを確認し、紹介しています。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/10/blog-post_27.html

1)年々気温が上昇しているというのは事実だろう。そして、年々空気中の二酸化炭素濃度が増加しているのも事実だろう。しかし、それでも、現在の大気の高温化は、二酸化炭素の増加が主因だと断定するのは非科学的態度である。広い範囲から犯人探しをしないと、取り逃がしてしまうことになり、問題を解決できない可能性がある。この重要な問題について、市民一般も一定の知識と関心を持つべきである。そこで、すこしイントロ的な記事を書く。

太陽からのエネルギーが地球に注がれ、現在の気温が保たれている。その際のエネルギーの流れを示したのが次の図である。(htpp://ja.wikipedia.org/wiki/地球エネルギー収支)
この図の右端、太陽エネルギーが地表で熱になり、その6%が空気中を赤外線の形で障害なく通って、宇宙に放出される。この放出口(大気の窓)を幾分狭くするというのが、現在二酸化炭素濃度増による地球温暖化説の主な部分である。

太陽から地球に来るエネルギーのほとんどは紫外から可視光であり、紫外線の短波長部分は上空オゾン層などで吸収されると考えられている。その後、上空から地表に降り注ぐ可視光や紫外光の一部(30%)は、途中で大気、雲は空中微粒子(エアロゾル)、更に地表(補足1)で反射され、宇宙に戻される。(黄色の矢印の数字を足し合わせると30 %になる。)

地表で吸収された太陽光(紫外光から赤外光まで)のエネルギーは、物体による吸収と熱エネルギーへの変換過程を経て、地球をあたためる。加熱された地表から宇宙への熱の放出は従って、赤外線で行われる。最終的には太陽エネルギーのほとんど全ては宇宙に戻されることで、地球の温度はほぼ一定(名古屋なら、絶対温度270-300度)に保たれる。

可視光は、地表と宇宙の間をほとんど障害なく通過することができるが、赤外線での放射は大気中のさまざまな成分ガスが邪魔をする。その中で一番大きな役割をするのが水蒸気である。それを示したのが下の図である。
上の青い山が、地表から宇宙まで障害なく通過できる赤外光の波長範囲である。それを覆うように書かれた3本の山形の線は、左からそれぞれ摂氏37度、氷点下13度、氷点下63度の地球から放出される赤外線の分布である。この青い山形が生じる理由は、それ以外の波長の赤外光をほとんど水蒸気が吸収してしまうからである。

この図の上から2番目が、大気層を通らない波長を黒く描いたグラフである。(上の青い山の部分が白くなっているのは、その領域の赤外線は素通りすることを示している。)この大気を黒くしている(赤外線も光だから、“暗く”とも表現できる)原因ガス成分とその寄与部分を示したのが、上から3番目以降である。

水蒸気、二酸化炭素、オゾン、メタン、NOガスと続く。一番底には、光吸収とは無関係な大気による“レイリー散乱”を示しており、最初の図の大気による太陽エネルギーの反射に寄与する部分である。

確かに二酸化炭素は、大気の窓を狭くしている。しかし、本当にこの部分が、現在進行している地球温暖化の主役かどうかは、この部分の知識からは全くわからない。図の3段目にある水蒸気の赤外吸収への寄与を見ればわかるように、地球の温室効果への寄与の大部分は水蒸気による。

ここまでを短く要約すると:太陽光エネルギーの30%は雲、エアロゾル、地表などで反射され宇宙に戻される。赤外線の形で最終的に宇宙に戻される70%の熱エネルギーのうちの6%が大気の窓(赤外波長8-14ミクロン)を通って、赤外光の形で直接放出される。残りの64%は、大気の対流、地表水分の蒸発と降雨によるエネルギー運搬、赤外線の吸収と放射の繰り返し、などで最終的に宇宙に放散するのである。これらプロセスの主役は水蒸気である。

大気の窓(赤外波長8-14ミクロン)経由の赤外放出に対し、二酸化炭素の吸収(波長15ミクロン)の裾野が濃度増加で広がって来る効果を、全て且つ唯一の原因のように考えるのは、おろかだと思う。

2)この問題は、アルゴア氏の本により大々的に誇張された形で持ち出された。以下私個人の考だが、その背景には先進国が資源を保存したいという政治的思惑があると思っている。従って今、より科学的の視点で研究を進めるべきである。IPCCから出されたデータなども、一から取得すべきだと思う。

そこで重要なのは、人類の経済活動の活発化による地表面の都市化や原野の開発と砂漠化の効果だろう。(補足2)

下の図は、長野と飯山の年平均気温のここ100年ほどのデータである。50kmほど離れた現在人口2万人の田舎町と人口40万人近いかなり大きな都会は、100年前には同じ程度の年平均気温であった。しかし、この100年間に、長野市の年平均気温が約一度高くなったのである。(補足3)
更に、エネルギー消費量の増大がそのまま直接地表面の温暖化に寄与するだろう。

我々は、これらの地球温暖化の諸原因を、冷静に客観的に長い時間スケールでそして何よりも科学的に考えなければならない。例えば、ここ数日気象台観測開始以来の最高気温を記録したからといって、すぐに二酸化炭素を悪者にするのは、科学的態度とは言えないと思う。

なお、フルバージョンの記事は、既に以下のサイトに4年前にアップロードしている。そこには原野の利用とそこの砂漠化を考えていないのは落ち度だったと思う。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/08/blog-post_26.html

2019/7/24/am5:30加筆修正

補足:

1)太陽電池を設置した場合、反射して宇宙に返されるエネルギーが減少するだろう。つまり、発電した電力の何%かは地球温暖化に直接使われる。つまり、細かい話をすれば、太陽電池は原子力発電と同様に、地球温暖化の原因となる。
2)原野は太陽光を吸収して、光合成で木材等として蓄積する。砂漠化した場合、そのような効果はない。ただ、砂漠により太陽からの入射光の反射係数なども変化するので、温暖化の方向に効くかどうかはわからない。ただ、気象変動の原因になることは十分考えられる。 3)IPCCは、温度測定ポイント近傍の都市化による温度上昇分を、地球全体の温度を見積もる際に、差し引いているかどうかは大きなポイントである。その点についてIPCCは明確にすべきであるとおもう。

2018年7月22日日曜日

中国で進む帝国主義化とその行方

1)中国の習近平国家主席は、憲法改正を行ってその任期制を廃止し、皇帝のような地位になりつつある。しかし、米国の経済制裁的な動きが習近平体制にとって致命的に働く可能性も残されており、最終的にそれが成功するかどうかはわからない。

福島香織さんは、youtube動画において、最近の習近平の姿は権力の座を降ろされる前の華国鋒の姿に似ていると指摘している。華国鋒は、現在の習近平と同様に多くのポストを名刺に刷ったが、鄧小平との権力闘争に敗れたのである。

国家主席という椅子は、外交的には中国という国家のトップが座るのだが、国内的にはその地位に大きな権限があるのではない。そこで、中国共産党総書記や中国共産党中央軍事委員会主席などのポストを兼務独占することで、地位を万全とするのである。(補足1)鄧小平は、国家主席の席を占めなかったが、中央軍事委員会主席のポストを抑えて、自分の権力を維持した。

今も昔も、権力維持には軍を抑えることが非常に重要であるが、習近平による軍の掌握は完全ではなかったと言われている。特に北部戦区となった旧瀋陽軍区(7戦区の内東北部)では、極最近まで江沢民派が力をもっていたという話を、中国に詳しい川添恵子氏が言っていたと記憶する。軍区再編(5戦区)で習近平が軍を掌握できたのかどうかわからない。

また、華国鋒は自分の座った椅子を博物館に展示するというようなことまでして、国民の個人崇拝を進めた。習近平も、G20で自分が座った椅子を浙江省の博物館に飾ったという。それを批判する意味を込めて、最近「華国鋒は罪を認めた」という表題の記事を、新華社ネットがしばらくの間だが、掲載したという。これも習近平の権力の翳りを暗示している。https://www.youtube.com/watch?v=9sVa4IMAoMs

コメンテーターの一人が、個人崇拝を進めることを、趣味が悪いことだと習近平は感じていないのか?という意味の発言をした。(上記福島氏出演の動画)しかしそうではないだろう。華国鋒も習近平もそのような趣味はなかっただろう。どのようにして、危うくなりつつある自分の地位を補強するのか考えた末の行動だっただろうと思う。

最近、8月に開催予定の北戴河会議(現役と長老の親睦会だが、実際には政治的重みのある会議)で、政治局拡大会議を開きたいという噂が流れているという。華国鋒は、その会議で主席の席を実質的に降ろされたと言う。ただ、現在の長老たちは、高齢な上に健康問題を抱えており、そのような波乱は起きないだろうという考えも福島さんは紹介している。(政治局拡大会議の話は、習近平サイドが流したデマの可能性が高いだろう。)

2)更に驚くべき話がある。中国が、国民全員の個人別社会信用度スコアを付けてそれを利用するシステムの導入を計画しているというのである。国家のために奉仕活動をしたならプラス5点、習近平の写真入りポスターに墨汁をかけるような悪態をした者は、マイナス20点と言う具合に点を付けるのである。(補足2)その積算した現在の点数を、例えば非常に高い場合、海外旅行に行くためにパスポートの発行を優先的にやってもらえる、といった具合に使うのである。 https://www.youtube.com/watch?v=AHhnF5ZSjIY

これは、個人スコアを政治的に利用したいという国家首脳の思惑が感じられる、計画である。資本主義経済体制をとりながら、中世的中華帝国を出現させる企みを背景にすれば、恐ろしい計画に見えてくる。(補足3)皇帝はもちろん習近平である。現在、その終着駅に向けた稜線渡りを、習近平は強風を受けながらしているのかもしれない。

「ネズミも虎も叩く」という習近平の方針とその実行は、共産党幹部の恨みを山ほど買っているだろう。将来的にはその手法に取り込むとした場合、中国国民は受け入れられるのだろうか。一族の一人が国家の官吏として出世したときに、その恩恵は一族全体に及ぶという古来の中国文化は、一朝一夕には変わらないからである。(補足4)

それに挑戦した腐敗追放運動は、何人かの重要な人物を葬り去ることに利用され、出世と権力掌握の手段となったのだが、広い深い範囲での不満蓄積の原因となっているだろう。それは双刃の剣であり、権力を失う原因ともなりえる。昔、国家主席の地位をめぐって習近平に挑戦した、薄熙来の「唱紅打黒」という国民に大人気だった政策と、その効果と副作用の点でよく似ている。とにかく、スローガンで政治を行うのは、中国も日本もやめた方が良い。

表題の行方という部分は、冒頭の米国との”経済戦争”の進み具合とも関係があり、よくわからない。しかし、突然トランプが方針転換して、中国いじめも中途半端におわるような気がする。

最近、チャネル桜の水島社長が、“トランプ外交は世界を変えるのか?”[H30/7/21]という題で、一部の人たちを集めて議論している。その中で、ゲストの一人であるペマ・ギャルポ氏が言っていたように、トランプ大統領にプリンシプルがあるようには思えないからである。(補足5) https://www.youtube.com/watch?v=SsEBcBYKFoE(ペマ発言は、20分ころから)

補足:

1)日本では、国家の意思を決定する最高機関は国会である。中国では全人代(全国人民代表大会)がそれに相当し、5年に一度開催される。中国共産党全国代表大会も5年に一度開催され、中国共産党の意思決定の最高機関である。第19回大会は、前者では2017年秋に、後者では2018年春に開催された。これら内向けと外向けの二重の看板は、国を治めることと外交を、組織的に分離できる点で便利だと思う。
2)習近平を礼賛するような習近平の写真入り政治ポスターに墨汁をかけて批判する様子を撮影し、それをネット配信した人がいる。更にその人は、捕まえに来る中国公安の人間の映像も撮影しネット配信した。その後、その人は逮捕されたのか行方不明となった。この話は、文革時代、毛沢東の写真が掲載された新聞を地面にしいて座った老婆が逮捕された話を思い出させる。(多分”ワイルドスワンズ”に書かれていたた話だと記憶する。)
3)佐藤健志氏は、このポイント制は便利な面もあるだろうと言っている。たとえば、自動車保険のゴールド免許での割引、何年間か無事故の場合の割引などは、類似した制度である。デジタル時代の今、条件が揃えばそして使い方を誤らなければ、面白い制度かもしれない。いずれ世界中に普及するような気がする。
4)この中国文化を適当なところで放置した方が中国経済には良いと、富士通総研と言う会社の柯隆という人が言っていた。しかし最近このかたをマスコミでみることはなくなった。
5)私は50分まで視聴して、以下のようなコメントを書いた。
ペマさん以外は、皆似たり寄ったりの見方をしているのは、日本の弱点そのものです。トランプは、米国貧民白人層を救済するという米国改革をやっているだけかもしれないのに、「グローバリズムから主権国家体制への回帰を目指している」なんて、深読みをする傾向も、ペマさん以外は共通している。中国潰しは、米国から富を奪い取る国、そしてドル基軸体制を破壊する可能性のある国だからであり、或いは、訳のわからない黄色人種の国だから、破壊すべきだと考えているのだろう。日本にも、米国にとってマイナスな部分は相当言ってくるだろう。アメリカファーストは、ジャパン・ファーストでもあると言う意見のようだが、アメリカの影響を取り去った時、何も残らない日本をどうするのか? ここの出席者は考えているのだろうか?

2018年7月20日金曜日

日本を普通の経済成長する国に変えることができるだろうか?

1)三橋貴明氏の主催する月刊三橋事務局からメイル配信を受けている。昨日朝のメイルは「マッカーサーを激怒させた一通の電報」と題されていた。それは、戦後共産主義と対峙するために、米国が西太平洋の抑えに日本を使おうと、経済復興させる路線をとったという話で始まる。

マッカーサーが日本の財閥解体など日本を二度と経済的に立ち上がれないようにしたのだが、その後トルーマン大統領から上記のような方針転換に関する命令電報がもたらされたというのである。

三橋氏が言いたいのは、日本の戦後の奇跡的経済発展は、主に米国の経済政策によってもたらされたのであり、日本人の勤勉さやそれによる頑張りの賜物というのは間違いであるということである。そして、現在の経済停滞からの脱却を目指すには、それにふさわしい経済政策が採用されるべきであるということだろう。
そのメイルは有料講座の案内なのだが、その出だしである上記の内容の話やこれまでの三橋氏の発言をyoutubeなどで既に聞いているので、講座を受ける気はない。

三橋氏の持論は、企業の生産性向上のための投資環境を政治が用意すべきだということだと思う。つまり、三橋貴明氏は、高橋洋一氏、藤井聡氏などと積極財政論を唱えているのである。しかし、上記マイナス成長の説明には、日本文化からの分析が必要だろう。

グローバル化によるデフレ傾向はどの先進国にも共通している。その主要国の中で、日本だけがマイナス成長であることを取り上げて、それを積極財政で解決すべきというのには反対である。日本の国債発行残高の対GDP比はダントツの世界一であり、あのギリシャの1.3倍、米国の2倍以上であるのが主要な理由である。 http://ecodb.net/ranking/imf_ggxwdg_ngdp.html

日本が経済的に病んでいるのは事実である。しかし、その原因を国民に明示する意思があるのなら、緊縮財政派の人間とまともに議論して、それを発信すべきである。仲間内の論文にもならない議論を、素人の国民一般に配布すべきではないと思う。

2)米国の経済発展は、個人が自立した米国文化の賜物だろう。個人の自立は、個人の自由な発想と、行動の源である。新しい芽をあらゆる世界に生む。あらゆる分野で、くだらないボスが幅を利かせて、新しい芽を摘んでいる日本とは大違いである。(補足1)

因みに、学校やその他で問題になっているイジメの頻発も、個人の自立していない日本だからこその現象である。個人の自立のないところに、創造性も生まれないし、ベンチャー企業も生まれないだろう。

個人が自立しない社会では、学校のクラスでもどこでも、異質なものを排斥して均質社会をなす。例えば、日本の一流企業の会社経営者が集まった団体である経団連の幹部が、極めて高い同質性を持った集団を作っていると指摘した記事が日本経済新聞に掲載された。(2018/6/21) https://www.nikkei.com/article/DGXMZO31995500Q8A620C1X12000/

経団連の正副会長19名の構成であるが、そのほとんどが東大や一橋など東京の大学出身であり、地方大からは京大出身者が一人いるだけである。また、19名全員が転職経験などなく、順調に出世階段を登ってきたサラリーマン経営者の人たちだという。更に、還暦過ぎの男性日本人だけで構成されているのである。

このような団体の出す信号が、日本の政治経済の方向に大きな意味があるとしたら、日本の経済に将来性などあるわけがない。このままの日本での積極財政は、日本の富の消滅につながるだろう。

自立しない個人は世襲に走る。そして、日本はあらゆる分野で世襲が支配する社会である。芸術工芸(補足2)、会社等経営、医者、政治家などである。例えば、発足当時の安倍第二次内閣の閣僚名簿を構成する者の50%程は二世議員であった。http://blogos.com/article/96845/

二世議員は選挙区などでの知名度などを考えると、選挙に非常に有利である。現在の総理のほか、次期総理候補と言われる石破茂、岸田文雄、小泉進次郎、野田聖子らは全て世襲議員である。http://www.notnet.jp/data02index.htm 衆愚政治と米国の指示と支持の下にある自民党政治の結果である。

勿論、能力があれば良いのだが、上記次期総理候補の人たちにそれほどの能力は感じられない。石破茂氏はテレビなどに出演した際、かなり論理的に話をする人だと思うのだが、それは創造的な所に発展したことがない。以下のページには石破茂氏への取材記事が掲載されている。しかし、単に二世議員の優秀な方という印象しかない。 https://toyokeizai.net/articles/-/218185

それ以外の人たちはそれ以下の人たちである。一国の総理総裁には、天才的な人しか成ってもらっては困る。日本文化の中で生まれ育った人がリーダーとして国を率いては、国際環境の中でこの国が正常に生き残るのは至難のことだろう。日本文化を変えることが、何よりも必要だと思う。差し当たり可能性があるとすれば、インターネットを利用した教育、それ以外としては、日本国を大統領制の国にすること、などが頭をよぎる。

補足:

1)20世紀初頭の画壇を支配していた黒田清輝が、フランスで活躍した藤田嗣治の才能を無視した話をテレビで視聴した。フランスに舞い戻り、レオナール藤田としてその後フランスで生きた。黒田は、爵位を得て貴族院議員となる。これもイジメの一種であり、新しいものを受け入れない日本の縮図とも言えるだろう。
2)高度な能力を要する世界の発展には、人材評価を他の世界の介入を廃して行うべきである。芸術、学問、政治、スポーツなどの世界でも、職業となった時に堕落と背中合わせとなると思う。印象的な出来事として、大リーグをお払い箱になった松坂選手が日本に帰って来てオールスターゲームに出場したことがある。米国では起こりえない事である。

2018年7月18日水曜日

人間社会における英雄の役割と出現の理由

人は何故英雄を必要とするかなどについて、以下議論します。勝手に推理しただけのまとまりの無い内容ですが、今回はその前半のつもりです。 1)今年初めの大谷の人気はすごかった。アメリカ人も地元の人は大はしゃぎという感じだった。スポーツではないが、将棋の藤井7段の活躍と、それに伴う人気もすごかった。以前から、この「人気」の存在の背景に人の生物としての特異性が存在すると考えている。それについて書いてみる。

人氣選手などが生じる背景に、ヒトの英雄を欲する習性があると思う。それと関連して重要なのは、人類の歴史(そして文化)は、大勢の人間の支持を得た(祀り上げた)英雄により作られてきたことである。この歴史的英雄も、スポーツや芸能など限られた分野で生じる小型短期的英雄も、規模は異なるが同じ人の習性が発揮された結果だと思う。

大きな歴史的レベルの話としては、例えば、キリスト教の誕生がある。聖書によると、ヒトは迷える羊に、神が羊飼いに、それぞれ喩えられる。そして、神の声(福音)を伝えるために人の世に現れたのがイエス・キリストである。

キリスト教の開祖と考えられているイエスは、キリスト教徒から見れば神であるが、その外に居る人間には一人の英雄に見える。(補足1)イエスは人々の英雄を欲する気持ちに応えたので、人々はその人の下に馳せ参じ、迷いから脱する道を教えられたということになる。 

キリスト教徒にとっては、イエスは救世主(キリスト)であり、人々の迷える魂はイエス・キリストにより安定的に固定され、以後は新たな強力な英雄が現れない限り離れることはないだろう。(補足2) 

短くまとめると以下のようになるだろう:
英雄を欲する心は、人生における根源的苦痛に由来する。その苦痛は決して解消されることはない。そして、その苦痛の理由や解消する方法を考えることが悩みであり、その悩みを解消してくれるかもしれない英雄を探すのである。しかし、その苦痛は生ある限りなくなりはしない。釈迦牟尼が看破したとおりである。

2)人の迷いの本質について:
生命体は、物理的にも化学的にも常に不安定である。水、燃料、酸素、そして自身の補修材料の補給を受けることで、その命を維持している。それらのうち一つでも絶たれれば、命はたちまち消滅する。生命は、そのような不安定な存在ではあるが、二つの点で極めて安定にできている。それらは、その①生命を維持し②子孫を残すという性質であり、不安定な生命の中心にありながら、遺伝子に頑強に設定されている。

ヒトは誕生後に意識を持った時、母親と強く結びつき何の不安もないだろう。その後成長して、上記2点において明確な方向に向けて立っている自分を発見する。その後時間が経過しても、ヒトはその生に対して明確な目的も価値も見出すことはできない。

ヒトの持つ知性は、日常の中で例えばどこかに向けて進む時、何らかの目的を持って進む自分を自覚している。また、何かを作る時その用途を予め考えて作る。しかし、その知性が自分の生命と人生の目的に向けられた時、全く無力であることに気付く。そして、将来の死を自覚するのみである。

全ての作られた物には目的が存在する。もし創造主(としての神)が存在するのなら、ヒト(つまり自分)を創造された理由が存在する筈である。それを知らない自分は、一刻も早くそれを知っている方の下に馳せ参じるべきであると考えるだろう。一方、創造主が存在しないのなら、一体自分は何者なのか、何のためにこの世に生を受けたのか? と悩む。

そのような考えが、人生における迷いの本質だろう。そして、その迷いを解消するために、自分の生きる目的と方向を教えてくれる英雄、あるいは神を人は探すのだろう。

3)原始の昔に戻って、人生の悩みの発生を考える:
上記のような人生の迷いが生じるには、その出発点に自分の生命と人生の目的を考えるという動機が存在する筈である。何事も順調に行っている時、普通ヒトは何も考えない。他人の受ける苦痛なども、自分の体験を思い出すことや幼児期の教育などの疑似体験がなければ、思い及ばないのが普通だろう。

そこで、ヒトが自分の生命と人生の目的を考える動機を以下考えてみる。

人はその知性により、互いに密接に団結できるようになった。その結果、人以外の外敵と戦って生き延び、地表の主となった。人が地表にあふれるようになると、次の段階としてそれら団結したグループの間での生存競争が起こる。そこで、より高度に組織化された「社会」と言える団結構造を作った部族が、有利に戦いを進めることになる。そのためには高度な情報交換も可能なように言語が発達した。

その結果、この地表で生きる生命の主人公はヒトなのか、ヒトが作る集団なのかわからない状況になった。その後者の極端な見方をとると、社会が大きな生命体であり、個人はその中で機能化された細胞とみなされる。

一方、個人としての人間のダーウイン的進化は、それほど早く進まない。個人は依然、自分の利益と欲求を優先する遺伝子に支配された存在であり、社会の発展に貢献するという遺伝子は存在しない。社会は、大きく発展するに従い、独自にその社会自体の目的と欲求を持つかのようであり、個人にそれに従うように強制力を発揮するようになる。

その社会と個人の対立が、個人が自分の人生の目的を考える動機であり、悩みや迷いの根源である。そして、この社会のリーダーとなり、社会と個人の仲介役としても働くのが、英雄である。

(以上、中途半端ですが、ここで今回は終わります。次回できれば、この続きを書きたいと思っています。)

補足:
1)イエスの弟子たちや大衆への語りをまとめた聖書の編纂や、キリスト教会をつくり大きな教団として育てたのはパウロだと言われる。http://mrtoris.jugem.jp/?eid=430に面白い話が掲載されている。
2)魂が固定されるとは、人生の悩み解消のリーダーとしてその英雄を選んだという意味である。宗教的意味があるので、そのような言葉を選んだ。
3)仏教では生即苦であり、キリスト教でも天国に入るのは死後のことである。

2018年7月13日金曜日

治山治水事業は通常行政の一環で行うべきで、「国土強靭化計画」などの掛声は不要

1)今回の西日本豪雨での死亡者数は最終的に200名以上になるだろう。被害は西日本全体にわたるが、死亡者の80%以上は岡山、広島、愛媛の3県で出ている。河川の堤防決壊や崖崩れが原因で亡くなった方がほとんどだろう。報道によると、被害地域はハザードマップに危険箇所と記載の場所にほとんど一致している。予想通りの災害であり、対策の遅れは非常に残念である。

一方、この機会とばかりに「国土強靭化計画」を言い出した人がネットで宣伝している。その一例が次の動画である。最初は、経済学者の三橋貴明氏であり、次が内閣参与で京大土木の藤井聡氏である。因みに、三橋氏は藤井氏の親しい知人らしい。
https://www.youtube.com/watch?v=Gtkak7ocZXM
https://www.youtube.com/watch?v=CcDS1mcsS5k

勿論、今回の災害を教訓に、多少の国債増額をしてでも必要だと誰もが納得する治山治水事業は一気にやるべきである。しかし、それは通常の予算を大幅に増加する形で行うべきで、「国土強靭化計画」などという掛け声は不要である。掛け声を用いた行政は、何も考えない人の支持をとりつける卑怯且つ危険なやり方である。(補足1)

上記動画では、南海プレート地震(東海、東南海地震)と首都直下型地震が同時に起こった場合の経済的損失を、土木学会が試算した内容を紹介して、国土強靭化の必要性を主張している。不自然な仮定の下での、不自然なシミュレーションを紹介していると、私には感じられた。

2)対策には緊急避難的対策と基本的対策の二種がある。基本的対策はゼロから多角的に立案すべきである。その際、前提条件を把握しておくことが大事だと思う。例えば、①日本は一人当たりの平地が非常に少ない国家であるということや、②食の安全や国防との整合性も考慮すべき、などである。また誰が考えても、天災を防止することは無理である。従って、③人的被害を減らす基本は逃げることだろう。

豪雨対策の場合:①土砂崩れの危険性のある場所や堤防決壊で住宅が浸水する可能性のある場所では新規住宅建設をさせない、②住宅が浸水する可能性のある場所に止むを得ず住宅を建設する場合は、人が立ち入る場所の一部を、必ず堤防よりも高くすることを義務付ける、などの対策が有効だろう。大幅に人的被害を減らす筈である。

従って、農漁村こそ高層マンションを一定の割合で住居として採用すべきだと考える。(補足2)河川氾濫や津波に対して堤防を高くする工事を考えることは、土木の方は潤うが一般には無駄が多い上に景観を害することになる。

緊急避難的対策は、夫々の箇所を対象に具体的でなければならない。例えば今回被害の大きかった岡山県倉敷市真備町をグーグルマップでみると、南北に流れる大きな高梁川とそれに西から合流する小田川と接し、中央部分に水田地帯と思われる農地が広がっている。両河川にそって堤防があり、今回小田川の堤防が決壊して洪水となったようである。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018071000730&g=oeq

以前から危険性が指摘されていて、小田川の高梁川との合流地域での水位を低下させる工事が計画されていたという。既に計画されているこれらの工事は急いで行うべきだ。冷静な分析による長期的視野の下での対策、緊急避難的問題即応型の具体的対策、何れにしても、大げさな掛け声や標語は不要だと思う。

補足:
1)掛け声で政治を行うのは日本の悪い伝統である。江戸末期の尊皇攘夷、戦前の鬼畜米英、戦中の一億玉砕、戦後の非武装中立などを並べて見ればわかる。大きな振幅で、左右に揺れた日本の政治史が理解できるだろう。掛け声政治は、議論を封じて全体主義を目指す時の方法である。
2)一戸建て住居は田園部の伝統であることは分かる。しかし、その伝統文化が作られた時代、洪水で現代以上の数の人がなくなっていただろう。それは継承したくないが、一戸建ての伝統は守りたいというのがエゴイズムなのかどうかは、都会を含めた全国で考えるべきことである。

2018年7月11日水曜日

日常生活と表面張力について:掃除や砂場遊びなど

表面張力は多くの日常現象に関係している。例えば雑巾で埃を拭き取る時に水の表面張力が中心的役割を果たしている。また、水分を含んだ砂場を歩くとき、くっきりと足跡ができるのも表面張力があるからである。ここでは、表面張力のメカニズムについての分子原子のレベルからの解説、およびそれら日常現象での表面張力の働きまでを解説をする。(注釈1)

目次
1)表面張力とは何か
2)固体や液体での原子・分子の凝集エネルギーと表面張力との関係について
3)固体表面を濡らす水について
4)アポロ宇宙船が月面着陸をした際の靴跡について
5)拭き掃除のメカニズム
ここで、原理的な部分に関心のない方は、3)から読まれても良いと思う。

1)表面張力とは何か:

表面張力というのは、文字通り表面の張力である。シャボン玉が出来るのは、表面張力の働きによるという話を聞く。しかし、その種の説明では今ひとつ表面張力の意味がわからないだろう。そこで、長さL1(m)で面積がL1L2(m2)の表面を作る思考実験を紹介して、表面張力という物理量は何を意味するかについて説明する。
図(1)において、シャボン液でも良いから、それを用いて長さL1の面を力Fで幅ゼロからゆっくり引っ張って、幅L2(面積L1L2)にまで広げる。(注釈2)力F(ニュートン)でL2(メートル)引っ張ったとすると、最終的に要したエネルギー(仕事)はFL2ジュールである。

つまり、表面は必ず縮もうとするのであり、ここではその力を1メートルあたりFニュートンとした。従って、その表面の張力はT=F/L1である。つまり表面張力Tの単位は、N(ニュートン)/m(メートル)である。その面を作るのに要したエネルギーはFL2ジュールだから、表面張力とその表面積の積(=表面エネルギー)となる。

つまり、表面張力とは単位面積(1平方メートル)あたりの表園を作るエネルギーのことである。通常の水でもシャボン玉でも表面張力は方向によらないので、上のケースでもあらゆる方向にF/L1という張力が働いている。ここで、上記思考実験で、裏も同様の表面であると考えれば、片面の表面張力は上記計算の半分となる。

2)固体や液体における原子分子の凝集力と表面張力との関係について

物質は、液体でも固体でも、分子原子で構成されている。一種類或いは複数の種類の原子が積み重なった形でできる場合や、数原子或いはもっと多くの原子が先ず分子をつくり、それが更に集合してできる場合がある。

つまり、金やアルミなど、原子が集合した形の金属、石英のように珪素原子と酸素原子が結合して積み重なる場合、更に希ガス(他の原子と結合しない原子)であるキセノンのように弱い引力で積み重なる場合などがある。

金属や金属酸化物などは物質全体に化学結合を形成しているが、希ガス原子や水分子などは、電気分極などによる比較的弱い電気的な力で凝集している。(注釈3)分子が球状であり、力に方向性がなければ、分子は球を積み上げた構造(最密構造)をとって固化(結晶化)する。一方、水分子のように球状でなく、方向性の強い力でつながっている場合、幾分嵩高い形で固化する。(図(2)参照)
水分子は、図(2)左下のように酸素(赤球)と水素(白球)から構成される非直線分子である。酸素は少しマイナスに、水素は少しプラスになるため、その結晶構造は右下のような幾分嵩高い構造(正4面体構造)をとる。これら分子が凝集して液体や固体で存在するのは、原子や分子がその静電力により互いに引き合っているからである。つまり、集まればエネルギーが下がるのである。

上の図でも分かる様に、表面にある分子は一般に内部にある分子よりも少ない分子としか相互作用できないので、エネルギーの高い状態にある。これが表面エネルギー(=表面張力と表面積の積)の発生機構である。従って、例えば水を例にとると、一滴の水全体では、表面積が大きいほどエネルギー的に損である。その結果、無重力空間で一滴の水を外に出せば、すぐに最小表面積の球状に変形する。

どの程度表面分子のエネルギーが高いのか、その目安を得るために、原子・分子の配列から考えてみる。
図(3)の最も簡単な最蜜構造を例にとり、一つの原子或いは分子(以下、分子)が、何個の分子と相互作用するかを数える。物質内部では一個の分子は12個の分子と最近接であり、強く相互作用できる。しかし、表面では9個の分子としか最近接になり得ない。従って、荒い近似だが表面分子の分子間相互作用は25%減少する。表面分子のエネルギーが相当高いことがわかると思う。

重ねて言うが、表面張力とは、この表面でのエネルギー増加分を単位面積あたりで表現した物理量である。この表面張力の発生原因は、固体でも同様であるから、表面張力の存在は固体液体を問わないということが分かる。氷を無重力空間に出しても球状に変形しないのは、それは分子間の結合の組み換えが液体におけるようには出来ないからである。

3)砂粒子表面を濡らす水により、砂まんじゅうができることについて:

砂はシリコン、アルミ、マグネシウムなど半導体や金属元素と酸素の化合物である。その原子構造において、酸素原子は幾分電気的にマイナスになり、金属原子などは幾分プラスになる。既に説明したように、水は水素と酸素の化合物であり、水素は若干プラスに酸素はその2倍の電荷だけマイナスになる。

少量のプラスとマイナスの電荷が分子内に生じているので、ある分子のプラス(マイナス)部分は他の分子のマイナス(プラス)部分に近づくことで、全体のエネルギーが下がる。多くの分子が、全体の静電エネルギーを最小にするように自動的に配置をとって凝集し、液体や固体となる。上の図の氷の立体分子構造もその電気的相互作用を最大に(エネルギーを最大限マイナスに)するように並ぶのが原因である。

固体表面に水を落とすと、水は固体表面のプラスやマイナスの電荷を水分子のプラスやマイナスで中和するように配置して、固体表面のエネルギーを下げる。それが、砂浜の砂が水に濡れる現象の分子レベルからの説明である。
図(4)の上は、砂粒子が水に濡れるプロセスを表す。砂表面に露出した酸化ケイ素や酸化アルミなどは、水分子と相互作用することでエネルギーが下がり安定化する。しかし、右の図のように水の表面は露出したままなので、水の表面張力によるエネルギー分だけ、まだエネルギー的に高い。

ここで、図(4)下のように、水に濡れた砂粒子どうしをくっ付ければ、表面の水どうしがくっつくことで、全体として水の表面積が減少する。従って、水に濡れた砂粒子は互いにくっついた方が安定(エネルギーが低下)だということになる。

この時、図(4)下のプロセスが生じるには、水で濡れた砂粒子どうしを機械的にくっ付ける必要がある。砂粒子が非常に近い場合は自動的に水の表面張力でくっつくが、それでも大きな砂の塊にまではならない。しかし、手で砂まんじゅうをつくったり、靴で水分を含んだ砂を踏みつけたりした場合、砂粒子がくっついてその形にくっきりと固まる。水がなければそのようなことは起こらない。

この現象はしっとりと濡らす程度の水の量で起こりやすい。例えば、砂全体が水で覆われてしまうような場合は、このような現象は起きない。水表面は砂全体の外にでてしまうからである。

4)アポロ宇宙船が月面着陸をした際残した靴跡について:

アポロ計画で、宇宙飛行士が月面にくっきりと靴跡を作ったことになっているが、あのような靴跡は月面では決して出来ないだろう。それは月表面には水あるいはそれに代わる液体がなく、砂は完全に乾いた状態であると思われるからである。その件については、以前ブログ記事として詳細に議論した。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/12/11.html

これは、水分がなければ砂はサラサラであり土饅頭ができないという事実は、非常に寒冷な地域で降った雪を固めて雪合戦ができないことと同じく、表面張力の問題である。尚、アポロ計画の嘘については、その月面での歩行についても解析している。地上での一歩は、約0.6秒(身長180cm位の人)ですが、月面では2.45倍の1.5秒くらいになります。アポロ乗組員の月面歩行は、地表と同じリズムのように見えます。これも捏造の証拠です。詳しくは:https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/07/blog-post_20.html 5)拭き掃除のメカニズム

拭き掃除をそのプロセスを考えて表現すれば、雑巾を水を濡らして、埃粒子を雑巾にくっ付けることである。このプロセスも、砂まんじゅうができるプロセスと同じように、説明することができる。

雑巾を作っている木綿はグルコースが積み重なった構造のセルロースという高分子からなっている。その構造をあるサイトから引用させてもらって以下に掲載する。

http://www.geocities.jp/don_guri131/02koubunnsitou.htmlより引用

セルロースはOH基を高い濃度で持つ点で水(H—OH) と共通しており、水がくっ付き易い。木綿の表面が水で濡れることで、エネルギー的に安定になるのである。それが、木綿タオルが吸水性に優れている理由である。その事情は砂粒子と水の関係と同じである。

埃が、綿ぼこりなど、元々木や草であった微粒子の場合、雑巾の表面に存在する水を共有することで、その表面エネルギーが減少する。つまり、砂まんじゅうができるプロセスと同様であり、雑巾が片方の砂粒子であり、埃がもう一方の砂粒子と考えれば良い。

注釈:

1)筆者は、荒く言えばナノ領域の分子化学が専門でした。表面張力などマクロ領域の物理化学は専門近傍の領域です。
2)「ゆっくり」とは専門用語を用いれば“準静的”にと言うことです。つまり、釣り合った力で引っ張って面を広げるという意味。
3)重い希ガス原子のキセノンは面心立方の結晶となる。引力はいわゆるファンデアワールス力という瞬間的に生じる電荷の偏りによる引力で説明されている。

2018年7月10日火曜日

北野幸伯著「中国に勝つ日本の大戦略」感想

2018年7月11日午前8:30改訂

1)北野幸伯著「中国に勝つ日本の大戦略」を、途中少し飛ばしたところもあるが、最終章「中国の近未来」を残してざっと読んだ。ここ10年ほどの日本を取り巻く国際政治に関する記述は、簡潔で分かりやすく書かれており勉強になった。

しかし、そこには日本のとるべき大戦略が書かれていると思ったが、それは著者も書いているが期待外れであった。米国との安保条約を宝として維持し、日本の名誉を汚す韓国の主張に対する反論なども抑えて、近隣諸国との友好関係を戦略的に推進あるいは構築すべきであるとの内容だからである。

その理由として書かれているのは、過去の歴史を見ると分かるように、同時に多くの国と対立しては外交で失敗するという、まあ当たり前のことである。その方法が、「戦略的忍耐」であるというから、読者ががっかりするのは当然だろう。以上の主張は単に、破滅への道は日米関係の破綻或いは中国や韓国を結果的に挑発してしまうことだという命題の対偶(補足1)をとって言葉にしたに過ぎないと思う。

この本の中で著者の姿勢を示していると思われる重要なポイントの一つは、日本の核武装は不可能だと決めつけていることである。その理由の一つとして、米中には日本に核兵器を持たせないという密約があると書いている。それは、ニクソン時代のキッシンジャーと中国周恩来らとの間で結ばれたという伊藤貫氏の本の中の記述の再録である。そこから短絡的に日本の核武装は国際的孤立への道だと結論している。北野氏は伊藤貫氏が日本の核武装を主張していることには全く触れていない。(補足2)

そして、自民党の伝統的方針である日米同盟の堅持、およびインド東南アジア諸国との戦略的関係構築やロシアとの関係構築などを目指すことに加えて、韓国との融和姿勢を回復することなどが、重要だとしている。特に慰安婦問題などを主張する韓国を現状のまま認め、融和路線を敷くべきだという主張は、日本の国家としての骨組みなど無視しろと言っているに等しい。

本来、このタイトルの本であれば、そこには:
戦後完全に抜かれてしまった日本の背骨を再生し、国家としての体裁を回復するかが最初に記述され、更にそれを前提にして、日米関係をいわゆる互恵関係の形での強化すること、インドとの強い関係の構築、韓国との友好関係の樹立などに関する方法論がなければならないだろう。後の部分は無くても良いくらいだと思う。国際問題の本質は、日本国をしっかり現代建築として立て直すという国内問題である。

2)日米関係が大事なことは言うまでもない。インドとの関係深化、ロシアとの関係回復、中国を刺激しなこと、全て大事なのは当然のことである。それらを日本が軟体動物的なその場その場の現実主義で成し遂げようとするしか生き残る方法がないのなら、差し当たり北野氏の書いた通り、そうすべきだろう。しかし、そこには国家としての発展はないし、国民にとって夢も希望もない。

安倍総理が戦後レジームからの脱却という言葉を引っさげて二度目の登板を果たした。それは、戦後完全に抜かれてしまった日本の背骨を再生し、国家としての体裁を回復することの宣言であった。しかし、靖国参拝で国際的なバッシングを受け、孤立することになった。安倍総理が戦後レジームの脱却と言いながら、単に戦前への復帰ととられかねない姿勢をとってしまったのは大失敗であったのは事実である。

これらの方針を北野氏は完全否定しているが、それは北野氏がどこか別の国の利益を代表しているのかと思わせる。ことの本質は、国際的関係を支配するのは野生の原理であり、日本イジメの良い材料を安倍総理が与えてしまったということである。それは安倍総理の国際関係と歴史認識不足や政治的能力が十分でなかったことが原因だと思う。

その後、米国議会において希望の同盟演説を行い、安倍総理は米国の評価を完全に回復した。そして、中国の「日米関係の分断工作」を無効化させることになった。これを北野氏は、高く評価しているが、おそらく昔からの自由民主党の伝統的方針通り行ったことが、世界の情勢変化とピッタリ合っただけだと思う。

日本の大戦略の第一は、日本の背骨の回復と頭脳のブラッシュアップである。それが、日本が国際的に名誉ある地位を占めるという厚い面の皮をつけることにつながる筈である。そのためには、日本の政治を田舎の政治屋から取り戻すことが何よりも大事だと思う。

具体的には、一票の格差完全撤廃と道州制など大選挙区制を実現し、主に都市部の知識階級から中央政府の政治家を選ぶという改革がもっとも有効だと思う。

そのために英雄が必要かもしれない(橋下徹は英雄に似ていたが、何者かに潰された)。英雄の出現には、その素地が必要である。その素地作りのため、国民が政治経済歴史など社会学への関心を持つことが大事である。それを阻んでいる日本のマスコミ、特にクイズ番組、健康番組、お笑いとスポーツのみを放送しているテレビ界を如何に改革するか、全ての日本国民は考えるべきである。

特に、力を持つ官僚たち、裁判官たち、知識人たち、報道界の人たちは、国難の今こそ行動すべきである。官僚たちは、かなりの割合で今の事態がわかっているだろう。日本政府の中枢にいるのだから、内閣にコネを作って意見を積極的に提出するなどの行動をすべきだと思う。最高裁の心ある人も立ち上がるべきである。一票の格差2倍は明らかに違憲なのだから、選挙の無効を宣言すべきである。その後、最高裁を首になり、細々と生きることになっても良いではないか。二、三人その程度の志を持つ判事はいないのか。

補足:

1)対偶「pならばqである」という命題の対偶は、「qでなければpでない」である。真なる命題の対偶は必ず真である。多分、中学の数学の教科書にある。

2)日本が背骨と立派な頭があり、そこにはまともな哲学や歴史認識があると世界が認めるなら、核武装も可能になる時代がくるだろう。軟体動物では、永久に憲法9条を堅持するしか、生き残る道はない。

2018年7月7日土曜日

一連のオーム事件とその犯人達の死刑執行は、非常に悲しい出来事であった

ここで、本日書いた二つのブログ記事に追加をしたい。 このサリン事件など一連のオーム事件とその犯人とされる人物の死刑執行に対する私の考えは、一言で言えば非常に悲しい事件であったということである。その理由を以下に述べる。

1)自然界は楽園ではなく、あらゆる生命を生かせるほどには豊かではない。そのため、誕生後何億年という時間を生き続けるために、生命は貪欲にできている。或いは、貪欲な命のみが現在まで生き延びたと言っていいと思う。

ヒトも、その様な生命の中の一種である。世界中の歴史上の英雄の伝記を復習するまでもなく、例えば最近話題になった紀州のドンファンを見ても、ヒトが富と自由を与えられたら、それを欲望で埋め尽くしても尚足りない位に貪欲であることが分かるだろう。これは、それらのヒトに特有ではなく、全てのヒトに共通である。

その一方で、ヒトは肉体的に弱いという弱点を、社会という複雑な群れをつくることで埋め合わせて生きる動物である。知性の獲得で、高度な協力システム(社会)を作ることが可能となり、地に満ちるほど“繁殖”した生き物である。貪欲な本性と、互いに自分を抑えて協力するという社会のシステムとを、両立させることは人間の知性を以てしても簡単ではない。

その社会との関わりの中でヒトは、その中で協力するための感情(友情、愛情、思いやり、同情など)と、社会から恩恵を要求するための(=十分受けていないことを示す)感情(憎しみ、恨み、嫉み、虚栄心など)を併せ持つことになった。人間はそれらの感情と動物の本性としての貪欲さを、自分の知性を用いて制御する必要がある。(補足1)それに失敗した場合、社会人としては破滅の人生を送ることになるのである。

このほとんど矛盾と言える程度の心理と行動のコントロールを運命つけられているのが人間である。社会と人間は、極めて複雑な壊れやすい機械とその部品に似ている。

2)サリン事件の井上死刑囚などは、人間としての知性を得る前に、完全に歯車が狂い誤作動する大きな人の下に入ってしまったのだろう。彼らを死刑から救えなかったのは、人がその方法を未だ知らないからである。一連の事件で被害者になった方々は勿論、井上死刑囚なども、非常に悲惨で気の毒な人生であったと思う。その同じ境遇に陥ったなら、人のかなりの割合は同じ末路を歩んだだろう。

一方、人権派弁護士たちが主張するように、直接的にテロ実行犯を救えば、社会のルールを破壊することになる。テロはこの社会システムを受け入れて生きている全ての人間に対する戦争行為であり、それは即座に射殺されることを覚悟の上でなされたと解釈される。それは人が生きるために必須の社会を防衛するためである。

多くの人は、人生のある時点で記憶に鮮明に残るレベルの失敗をしているだろう。その失敗がなければ、自分の人生は今の不充分な状況から程遠い豊かなものだっただろうと思う人も多いだろう。しかし、その失敗は取り返しがつかないことである。「サリン事件の実行犯の多くは“単に洗脳されていたための犯罪であり、許すべきだ”」と主張することは、レベルは格段に違うが、その取り返しのつかないことを取り返せと言っているに等しい。

今後、日本も世界の多くの国のように、テロリズムに苦しむ時期がくるかもしれない。近隣国の政治的不安定さは、その危険性を示唆している。その時、本来人の良い賢い人達と命を掛けて敵対することになる。そのときのために、今回の事件は非常に参考になると思う。

尚、地下鉄にサリンを撒かれるまで、その団体を放置したのは、行政の大失敗である。それを誰も議論の俎上に載せないのは、この国がそのようなテロ行為に十分対策が取れていないということを示している。

3)「テロは犯罪か?」について

社会の閉塞感が極限に達したとき、或いは未曾有の困難に民族が遭遇したとき、その社会システムの延長上にその民族の未来が無いと思われるときが歴史上あっただろう。その時、その社会を破壊するテロが起こる可能性が高くなる。

その一つが成功して、新しい社会システムを作り、民族を消滅から救うこともあり得る。つまり、時と場合によりテロは民族を救うこともあり得る。先のブログで明治維新を引用したのは、薩長の下級武士が起こしたテロが明治維新となり、現在の日本を作ったと考える歴史を読む(書く)人がいるからである。

つまり、テロ行為は現在の体制の範囲を超えた行為であり、善悪という判断基準に馴染まないのである。(補足2)別の表現では、テロ行為は体制側から見れば極悪非道の犯罪であるが、テロが成功して新しい政治レジームができたとすれば、救世行為とみなされることになる。

尚、一連のオーム事件を政治テロではなく、単に体制内犯罪と見る人もいるだろう。その場合死刑廃止をして犯人たちを放免する文化を、我が国は受け入れることは出来ない。死刑廃止は、欺瞞を前提とした西欧文化という風に私には見える。例えば米国では、死刑廃止を叫びながら、交通違反を犯した黒人青年を、ピストルを所持していなかったにも拘わらず、警官が射殺する事件が多発している。そのような国家で、死刑廃止を叫ぶのは欺瞞である。

補足:
1)仏教では、生病老死を四苦と言い、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦をあわせて八苦というが、この後ろの4つの苦が人間特有の上記運命に相当する。
2)善悪は体制内の概念である。社会は人々が協力できるように一定のルールを作り、それを法とした。その社会と法を守る行動とその動機付けが道徳である。ある一つの善悪の体系が現在の社会システムに存在するとして、その善悪体系は社会のシステムが大きく変わる時間軸を超えて、或いはその社会がつくられている(現在では国家)枠を超えては、成立しない。

テロリストは刑務所ではなく専用の収容所に入れるべき

 昨日の麻原以下のテロリストの殺害に関して、諸外国に非難の声が上がっているとの報道がされている。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180707-00000009-asahi-soci

しかし、あれは元々国家の転覆を目指したテロであり、それを犯罪として取り扱った行政に根本的ミスがあったと思う。テロリストを犯罪者として処遇したために、裁判を行い死刑に処することになってしまったのである。

そうではなく、地下鉄テロの実行者が明らかになった段階で、防衛行動の一環として、施設を除去して実行者を捕捉監禁すべきであった。テロリストは、裁判などの不要でありそれが適当なら、西欧諸国が行っているように銃殺するだけである。

西欧諸国でもテロの現場で、銃撃によりテロリストを殺害している。それと今回の麻原以下の殺害は同じであり、西欧諸国に非難される筋合いはない。

重ねて書くが、彼らは犯罪人ではなくテロリストである。人権は国家の枠を超えて存在し得ない。もし、基本的人権が国家の枠を超えて存在すると世界中が認めるなら、何故、パスポートなど作る必要があるのか?

朝日新聞には、つまらない声を報道するなと言いたい。

テロリストの死刑執行に反対する宗教: 日弁連とアムネスティ日本はその信徒である

1)昨日地下鉄サリン事件を起こした犯人の死刑執行があった。この事件の真実の姿はなかなかわかりにくいが、産経ニュースが報じた様に、司法はその動機を「麻原死刑囚が救済の名の下に日本国を支配して自らその王になることを空想。その妨げになる者を殺害しようとした」と解釈したのである。国家転覆を目指した政治テロであったということは確かだろう。(補足1)その前提で以下議論する。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180706-00000515-san-soci

先ず、今回の死刑執行の報道を受けて、日弁連会長は死刑廃止を改めて訴えた。アムネスティ日本もこの件での死刑執行に反対してきたが、それと同じ路線上のものだろう。https://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060106-n1.html

また、社会心理学専攻の西田公昭立正大教授は、「麻原(死刑囚)については仕方がないが、他の6人の死刑執行についてはショックだ。テロリズムが世界的な問題となる中、心の武装を解除する方法が国際的に議論されている。6人の事件後の心理的変化などは、今後のテロリズムの重要な鍵を握っているにも関わらず、十分な心理学的調査などが行われる前に死刑が執行されたのは犯罪抑止の面からみても残念で悔やまれる」とコメントした。 https://www.sankei.com/affairs/news/180706/afr1807060050-n1.html

また、教団からの信者の脱会を支援している滝本太郎弁護士は、「松本死刑囚の刑が執行されたと聞いてようやくこの時が来たと感じたが、ほかに6人が執行されたと聞いてぼう然とした。彼らは松本死刑囚の手足でしかなく、これから事件のことを何度も振り返ってなぜ自分が教団にはまってしまったのか説明してもらうという有益な仕事をしてもらいたかった」と述べたと報道されている。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011514101000.html

今回の死刑執行に反対する日弁連会長の声明では、死刑廃止論の立場から麻原彰晃の死刑にも反対している。一方、西田公昭氏と滝本太郎氏の今回の死刑執行に対する反対は、麻原以外の6名の死刑に関するものである。従って別に議論すべきだろう。以下にこの件及び上記意見について私の考えを記す。

2)麻原死刑囚の死刑にも反対する日弁連やアムネスティ日本は、もう少し反対の理由を明確にしてもらいたい。

この件は、化学兵器を使った国家転覆を目指した事件であり、現在我々が生きているこの社会を否定する行為であった。従って少なくとも主犯者の行いは、政治的テロリズムであり、日本国に対する戦争行為と解釈すべきである。繰り返すが、この件は日本社会の内部で終始した犯罪では無い。

従って、この件を行政の中で処理するのは本来おかしい。国家の法律には、“内戦行為を裁く”という考え方はあり得ない。従って、テロ等準備罪(共謀罪という名で施行)が仮にあり得るとしても、その行為の本丸に当たるテロ罪は無い。テロは犯罪ではないからである。つまりテロ実行者は、日本という社会から脱出し日本人という特権を捨てた上で、反日本国及び反社会行為に及んだのだから、即座に射殺されても何の疑問も残らないのである。

従って、アムネスティ日本や日弁連は、死刑廃止という立場で今回の死刑執行に反対するのは論理的ではない。反対するのなら、「テロ行為を行政で裁くのはおかしい」という論理で反対すべきである。この件、是非両団体のコメントを聞きたいものである。

勿論、社会から犯罪とも見なされずに殺される覚悟の上なら、個人はだれでもテロを働く自由はある。それが成功したのなら、新しい日本国の誕生となる。明治維新では、薩長の若い人たちは、当にそのようなテロを江戸や京都で働いた。(補足2) 3)次に、麻原以外の死刑執行に反対する意見について少し書く。この類の意見は、テロ実行犯は実はテロリストではなく、テロ計画者のみがテロリストであるという論理なのかもしれない。もしそうなら、世界中のテロの中で、テロリストは一人なのかもしれない。 上に引用の記事の中で滝本弁護士は更に以下のように述べている。「私を殺そうとした人に事件後に会ってみたらいい人だった。いい人がいいことをするつもりで犯罪に手を染めたという前例のない事件だったということをこれからも伝えていきたい。事件を風化させないためにも松本死刑囚以外は刑を執行してはならなかったのに、返す返すも残念だ」 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011514101000.html

しかし、このテロで殺される予定の人は滝本氏だけではない。警察の対処が遅れれば、論理的には、数千人、数万人の死者を出す内戦に発展したかもしれない出来事である。弁護士資格を持っている人がこのような理解の程度とは驚きである。

社会心理学専攻の西田公昭立正大教授の意見は一聴に値するが、その考えなら何故麻原の死刑執行にも反対しないのか。麻原のこの件を引き起こした動機が解明出来ているのなら、それを先ず発表してもらいたい。

私の印象では、日弁連、アムネスティ日本、滝本弁護士、西田教授の全ては、根本では同じ考えのように思う。人が人の命を奪うことが、何よりも嫌いなのであり、その考えは一つの宗教である。

補足:

1)従って、この件は犯罪行為としてではなく、テロとして考えるべきである。一般には犯罪とされ、その”犯人”は刑法により裁かれているので、ここでは両方の単語を用いる。

2)明治維新については何度かブログに書きました。
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42241483.html https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42249167.html

2018年7月6日金曜日

東国原氏の俳句の盗作疑惑

毎週木曜日の夕方、プレバトというテレビ番組内で放送されている俳句番組がある。夏井いつき氏という先生の名添削が、この番組を人気番組にしている。言うまでもないが、俳句は風景や出来事について、人の感覚に訴える形で読む仮名にして17文字で形成される短い詩である。

その高い人氣の一方で、この番組での成功がテレビタレントとしての地位を上げることから、様々な疑惑が囁かれてきたようだ。その一つが、俳句が得意な別人に作って貰っているという疑惑である。https://zizineta.com/purebato/ 今回、新たに盗作疑惑も出てきた。

6月7日に放送されたその番組で、東国原英夫氏が発表した①「梅雨明や 指名手配の 顔に×」という句が、昨年6月に宮崎日日新聞の文芸欄に掲載された②「梅雨寒や 指名手配の 顔に×」と酷似しているという指摘が、ツイッターでなされたという。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180705-00000041-dal-ent

この句が発表された時、夏井先生の評価が非常に高く、東国原氏は名人9段に昇段ということになった。

盗作の証明は難しいかもしれないが、数学で確率論を少し勉強したことのある人なら、間違いなく盗作だと思うだろう。(補足1)ただし、この句が東国原氏の頭の中で、一度吸収同化され、その後記憶から消え去り、その後自分の発想として出てきたという言い訳はあり得る。しかし、それは支持されないだろう。

ここで指摘したいことが、もう一つある。二つの俳句を眺めてみると、やはり②の句に重みがあると、東国原氏なら思うだろうということである。つまり、「指名手配の顔」に対して、東国原氏はどのような感情を持つだろうかと考えてみた場合、過去テレビなどで叩かれ、芸能界から閉め出されていた東国原氏の感覚では、むしろ②の俳句がふさわしいとおもうのである。

否、壮年から老年の域に達した普通の日本人(男性)なら、自分の人生を振り返り、梅雨明と☓印のついた指名手配の写真を並べる俳句を作る気にならないだろう。これまで何度も東国原氏の素晴らしい俳句を見ている。何かと才能に恵まれた東国原氏が、このようなことになったのは大変残念である。

補足:
1)梅雨、指名手配、顔に☓の3つがたまたま同居する確率は非常に小さいだろう。また、類句が昨年6月という僅か一年前に発表されていること、その新聞が宮崎の新聞であることなども、その疑惑を指摘したツイッターの主の推論を支持する。更に、東国原氏は番組の中で屡々、以前番組で読んだ誰かの俳句を、作者とともに復唱するという記憶力の良さを示している。

2018年7月4日水曜日

帝国にモラルは期待できない:中国の直線的行動

1)国際社会に善悪の基準(”モラル”)が生じたのは、其々の国家で個人が顔を出したからだと思う。つまり、それは18世紀のヨーロッパで生じた議会制民主主義の導入などの結果である。その歴史を共有しない国家が、世界の中の主要国に含まれることになり、国際社会は再び善悪の基準劣化の危険性に直面している。

国際社会には、元々構成する国家を“暴力装置”で従わせる超国家的権力やそれを正当化する権威もない。従って、本質は野生の支配する空間である。そこには従って、人間社会のようなモラルも法も、元来存在しない。(補足1)

しかし、現在個人のモラルに似た国家の“モラル”が、個人のモラルの投影として持ち込まれているように思える。そのモラルの投影の原動力は、繰り返しになるが、国家の運営に携わる人々を、個人としての権利を持った国民が選ぶというプロセスにある。

つまり、世界が独裁に向かうとしたら、同時に上記“モラル”も消え去ることになる。何故なら、モラルの役割は各個人が協力して社会を形成し、個人的利益追及を抑制することであり、そもそも独裁とは対極にあるからである。(補足2)

独裁国は“戦争あるいは紛争”において、勝利或いは解決に向かって個人を無視した戦術をとり、そこには配慮すべき個人の権利などは存在しない。また、軍事技術は高度に発展しており、従ってそのプロセスにおいて必然的に個人にとっては悲惨な場面を含むだろう。国際社会は益々文明社会から遠くなり、野生の世界に近くなる。

本質的に野生の支配にある「国際社会」での生存競争において、中途半端な“モラル”を持つ民主国は、それを持たない手足を縛られない独裁国と比較して不利である。その結果、民主国も生き残りのために独裁的国家に変貌するだろう。つまり、独裁は世界に伝搬する。世界から“モラル”は消失し、世界は混乱に向かう。それが、現在世界が向かっている方向だと思う。

2)現在世界の混乱は、全くことなった政治体制の国が覇権国と次席覇権国として存在することである。共産党独裁国家であった中国が、鄧小平の資本主義の導入という経済発展への近道を経て、その後スターリンや毛沢東の時代の独裁国の姿に変身した。

その巨大化した経済力を軍事力に転換し、世界制覇に向かって直線的に進んでいる。一帯一路およびAIIBにより、世界覇権を目指している様である。(補足3)それは、独裁国が運命的に持つ経済における非効率性を、発展途上国の支配や西欧先進国の経済力の吸収で補い、自分の体制維持を図っている様にも見える。

その危険性に気づいたのはオバマ政権末期の米国である。そこから高度な戦略的思考により中国封じ込めを行うべきところを、短絡的手法に切り替えてしまったのが、トランプ政権ではないのか。

北朝鮮の核兵器開発に対し、持たなくても良い恐怖を米国民に植え付けた。そして、それを取り除くと称して、朝鮮戦争そのものを解決するという歴史的偉業の主人公を目指した。そのために北朝鮮への経済制裁と米軍による軍事的圧力を稚拙に用いたため、結果として北朝鮮を中国の持ち駒としてプレゼントすることになった。

それだけでなく、将来韓国を含めた朝鮮半島全体を中国にプレゼントすることになり、日本も孤立の結果、このままでは最終的に中国圏となる可能性が大きいと思う。

実際、尖閣諸島は近々中国に侵略されるだろう。(補足4)最近特に危険性が増したのは、トランプの米国は北朝鮮に対して軍事オプションは取らないことを明確にしてしまったからである。米朝首脳会談の失敗により、そして、中国や北朝鮮のトップに比較して劣った米トップの能力により、東アジアは今後混乱し、“モラル”を持たない中国の直線的行動により支配される可能性が大きいと思う。

そのシナリオが成立しなくなるとすれば、中国経済の崩壊とそれに対する習近平政権のハンドルミスだと思うが、それに期待するのは情けない。

以上は、理系素人のメモとして書きました。(4日早朝三箇所語句修正あり)

補足:
1)国際秩序は、現在主に第一次大戦後整備されたパリ不戦条約や戦時国際法により保たれているようである。国連憲章などは、大戦後ということもあり理想論の方向に大きく展開している。(素人なのでこのあたりの知識はありません。)
2)独裁者は、常に自分の命の危険を感じている。そしていつかは命を失う。従って、独裁者の人間性(モラル)はその国家に投影されない。中国の大躍進運動や文化大革命のころの悲惨な光景は、ワイルドスワンズに書かれている。その本は、中国では発禁である。 民主政治の下での国民は、国家が続く限り存在する。従って、個人の生死を超えたモラルが存在し得る。(国民全体が命の危険を感じた時、その国家は全体主義という独裁制を採り、”モラル”を喪失する。)
3)中国は、バングラデシュやモルジブに独自に軍事基地を構築している。そのやり方は非常にスキャンダラスである。最近は、南太平洋のバヌアツに進出していて、オーストラリアも警戒しているという。
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-04-11/P706NI6JTSE901
https://jp.reuters.com/article/possible-chinese-base-pacific-idJPKBN1HI0TS
4)現在、中国海警局の公船が領海侵犯を繰り返している。7月から、海警局公船の乗組員はこれまでの公務員扱いから、組織改編により、軍人に準ずる武装警察官に統一されたという。http://www.1242.com/lf/articles/112610/?cat=politics_economy&pg=cozy