馬渕睦夫氏が林原チャンネルで女性宮家創設問題を議論している。女性宮家の創設を主張している人は、女性天皇を次に皇位として実現し、その次に女系天皇を誕生させ、最終的に天皇という日本に特別の文化を消そうと企んでいると指摘している。(表現は関節的だが)https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s
私自身も、その大筋には同意するのだが、講演最初の方で馬渕さん(補足1)の「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という言葉に強く反応して、コメントを書いた。それに対する反論があり、その中の中心的なものに答える形で、今回一つの記事にした。
1)私が最初に書いたコメントは:
馬渕さんが危惧されているのは、日本政府に女性天皇、或いは、女系天皇を容認する動きがあるということだと思う。女性天皇又は女系天皇になれば、日本国民にとって大事な天皇の役割が果たせないのなら、その理由を明確に言ってほしい。 現在、日本は国民主権の立憲国家である。天皇の「本来の役割」が日本国家の基本に関係するのなら、上記議論の結果を憲法に反映すべきである。女系天皇がその地位にふさわしくないのなら、それを憲法に書くべきである。皇室典範のレベルではない問題なのだから、堂々と改憲論議として、話をしてもらいたい。陰謀と対決するのなら、真正面から行ってもらいたい。
このコメントに対する反論として、注目すべき意見があった。その内容は、以下の通りである。
「皇室典範のレベルではない問題」とおっしゃるが、「日本国憲法」と「皇室典範」は、今の時代は、言わば「並列」のもので日本国憲法の「下」に有るものでは有りません。「並列」なのも日本国憲法下の話で、「大日本帝国憲法」下では何物にも犯されない「孤高の典範」だったことを知らないようですね。考えてもごらんなさいよ。天皇の地位をどなたがお継ぎになるかという話に皇族以外が口を挟む不敬など存在しなかったのです。日本はこの時代を取り戻さなければなりません。
この方は、皇室典範は日本国憲法と並列であり、下に有るものではないと書いている。これは時代錯誤である。日本国憲法は昭和21年に制定され、その第二条に皇位継承については皇室典範に定めると書かれており、その後昭和22年に皇室典範が制定されている。大日本帝国憲法の時代には、確かに皇室典範は憲法から独立していた。それは、憲法よりも天皇が上位の存在だったからである。
しかし、現在の憲法の下では、「天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)のだから、憲法第二条に引用の皇室典範は憲法の下位にある法令の一つにすぎない。この議論のスタート地点で、上記コメントを書かれた方は間違いを犯しておられる。現行憲法に不満があるのは理解できるが、そして、別の角度(憲法9条)から私も現行憲法には不満があるのだが、その解決は憲法の改正によるしか無い。それ以外には、暴力革命、テロ、或いはクーデターの類の議論を無視した方法しか無いので、それを考える方々とは文字通り議論しても仕方がない。
重ねて云うが、私は現行憲法を完全に支持しているのではない。しかし、同時に私は、現在の日本国家は日本国憲法を最高法規として持ち、日本の国家形態を変更するには、この憲法を改正するしかないと考えている。政治は連続的に変更すべきであり、革命やテロ、クーデターの類によるべきではないというのが、私の基本的考えである。ただ、このままでは日本国民大半の生命が危機に陥るという場合、クーデターによる政変が起こるだろう。しかし、それには多大の犠牲を伴うので、平時の国民の議論と努力が大切である。(補足2)
2)二番目に書いたのが、表題に書いた馬渕さんの日本文化論に関するものである。
馬渕さんの「日本の文化とはひとえに天皇なんですね」という決めつけには同意しかねる。日本の文化とは日本国民の生活様式全般に関する総称である。あくまで現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない。勿論、日本国民の多くの精神的中心に天皇がおられるのかもしれない。それは現在でもそうなのかどうか、議論を要することであり、決めつけることではない。もし、馬渕さんの仰るようなら、日本国憲法は日本の文化と矛盾する。先にコメントしたように、改憲の話として天皇を論じてもらいたい。
これに対しても、1)に引用したコメント氏は、以下のようなコメントをくれた。長いので少し短縮して以下に示す。詳細は最初に引用のyoutubeでご覧ください。https://www.youtube.com/watch?v=2ZCOq7amniY&t=318s
日本国民の生活様式全般を古代から導いてきたのが歴代の天皇だ。天皇の命でいろんなことが行われてきたが、それが現代の日本文化に与えた影響は計り知れない。そして天皇は国民を「大御宝(オオミタカラ)」と呼んで保護した。これが日本の「国体」です。天皇を離れて日本文化を語る事は出来ません。「現在日本の主人公は日本国民であり、天皇ではない」というお話ですが、これはGHQに押し付けられた日本国憲法での話です。
「民主主義」が、有史以来最高の統治形態だと信じているのかも知れないが、これは西洋の考え方です。私達日本人は縄文からの天皇を中心とした国家形態(国体)を何千年と引き継いできました。それが出来たのは、簡単に言えば国民にとって「いごこちがいい」形だったのだと思います。この七十数年外国からの強い干渉を受けて必ずしも日本の本当の姿を国民が認識してない事が有るでしょうが、馬渕先生がおっしゃるように、本来は「日本文化はひとえに天皇なんです」。
この考えのエッセンスの大部分は理解できるが、同意できない部分もある。それは、「これが日本の国体です」という部分が、現在形であることである。現在日本の国体(国家形態)は、日本民族にふさわしいかどうかは別にして、日本国憲法に記述のある通りであり、天皇を日本の統治者とする明治以降昭和20年までの国家形態ではない。
この方の様に、現在の日本の政体を仮の姿と見ている人が多い。それは、日本の一部は未だ戦時から脱却していないことを意味している。それが、諸外国により「日本は未だに戦争の結果を受け入れていない」と言われる所以だろう。その責任が、戦後の吉田茂以来の自民党政権の嘘と建前で塗りつぶした政治になくて、何なのか。(これは言ってみてもしょうが無いのかも知れないが、その根本に議論のない日本文化、言語がまともに使えない日本語の言語空間という、日本の病根がある。後ろで引用の補足2参照)
日本文化の継承というが、70年以上継承してきた果が、この体たらくではないのか。
本題の国家形態に話を戻す。コメントされた方の支持される古来の天皇を中心とした国家形態が、”現在の日本民族”にふさわしいとは、必ずしも思わない。国民主権の日本とどちらが、グローバリズムの将来に向けて日本国民にふさわしいかどうか? それについての国民全体の意見は、一票の格差全廃をすること、地方政治と中央政治を完全に分離することなどを実施しないとわからない。先ず、その政治改革が第一だと思う。
3)日本の政治形態の歴史と将来について少し:
明治から昭和初期までの国家の形態は、国家権力の在処がわかりにくく、それが昭和の敗戦と300万人という犠牲者を生む原因となった。https://www.hns.gr.jp/sacred_place/material/reference/03.pdf
つまり、明治憲法の第一条に「天皇が統治する」とあるものの、実際は天皇を輔弼する内閣に実権が有るように見える。しかしその一方で、権力の大元の軍隊は天皇直属であり、訳のわからない国家形態であった。(補足2)私は、権力の在処が明確な方が、政治形態として良いと思う。それは訳のわからない連中に乗っ取られないためである。上記コメントの主は、天皇制が良いとお考えのようだが、権力の在処が曖昧なままで良いと考えておられるのだろうか?
更に遡って、江戸時代の日本では、最高権力を江戸幕府が持っていた。その上の権威として天皇が存在するものの、封建制という地方分権的な政治形態であり、日本国全体が暴走するような国家形態ではなかった。封建制はまっぴらだが、その地方分権には学ぶべきではないのか。300年以上の安定は、国家権力の在処が明確だったからだろう。
私も、現在日本の民主主義政治が最高の政治形態とは思わない。民主政治が衆愚政治に堕する可能性が大きいことは、多くの本にも書かれている。その点に関して考えたところを、既にブログ記事として投稿した。概略は補足(3)に書いた。詳細は、以下のブログ記事に書いた。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/07/populism-and-democracy.html
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/ii_31.html
ネット社会を迎えた現在、民主政治の真価が問われている。大勢の人間が公開で議論ができるこのネット空間を有効に利用して、知恵の集積を可能にし、それが政治に反映するシステム作りが出来れば、「無知なる者にも一人一票の衆愚政治」から脱却できる可能性がある。権力の在処が国民であり、その叡智が支配する国家の建設が必ずしも不可能ではない。地方分権と形で、国家を一般民の近くに移動させる。国民の間の議論が可能なように、そして、その中の優れた知恵が抽出されるようなシステムを、ネット社会を利用して作り出すのである。
ここで、民主政治に大きな進展がなければ、我々に未来は無いだろうと思う。天皇の皇位継承は天皇家に任せて、そちらの議論の方にエネルギーを使ったらどうかと思う。
補足:
1)馬渕睦夫氏は、元外交官。元ウクライナ及びモルドバ大使。「国難の正体」は、米国支配の日本の難しい状況について書いている。孫崎亨著の「アメリカに潰された政治家たち」の2冊を読んだのが、理系人間の私が政治経済関連でブログ記事を書く切っ掛けになった。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/02/blog-post_73.html 参照
2)因みに、この文章で「私は」を何度も用いた。何故なら、日本には主格をわざと省いて、発言をボカしてしまう文化がある。それでは議論が可能な言論空間は得られない。個人の自立なき日本文化の原点の具体例が、この「主格の欠如」である。日本文化を議論ができる文化にしないと、日本の復活はありえないと思う。youtubeのコメント欄では「言い合い」も結構あるが、それらは喧嘩の類であり、議論には程遠い。
3)だいたい、何故「輔弼」などという難解語を、もっとも大事な記述に用いるのか? これが、言語が通じない日本文化の典型的症例である。尚、余談だがイランの現在の国家形態は、この昭和初期の日本のものににている。大統領の上に最高指導者があり、イランの軍隊である革命防衛隊は最高指導者直属である。
4)民主政治が人間の作る国家の政治形態として良いかどうかは、国民が高い知識を持つように不断の努力をし、且つ、平等で独立した有権者としての地位を保てるかどうかにかかっている。個々の有権者にその能力が望めないのなら、民主主義は理想の政治形態ではないことになる。
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2019年6月30日日曜日
2019年6月29日土曜日
米国トランプ大統領の記者会見に見る民主主義
今日、G20首脳会議が終わった。NHKは、議長国日本の安倍総理と、米国トランプ大統領の記者会見を放送した。その様子を見て、大きな差を見出した人は多いだろう。私もその一人である。
安倍総理は、全体説明の後、4人ほどの内外の記者の質問に答えて、5分ほど予定時間を余らせて席を去った。日本人記者の質問は総合的なもので、答えの内容も具体性に欠け、それを視聴しても新たな情報量は極めてすくない。
一方、トランプ大統領の記者会見は、早い英語とわかりにくい同時通訳のためか、年寄りにはその内容は理解しにくいものだった。ただ、優に30人を超える記者の質問は、30分以上放送時間を延長しても終わる気配がなかった。答弁の途中で質問者から追加や確認の質問が入るが、それにも全て答える。
記者には有権者に代わって質問をする権利が、そして大統領にはそれらに答える義務があり、途中で質問を打ち切る権利など無いようだ。有権者の知る権利を、目の前のテレビが明確に見せてくれている。
日本では、政治家は自分の持つ政治的情報をまるで餌をやるように、記者に撒き与える。記者は、それに群がる野犬のように、それを急いで口に入れる。アラース。日本には民主主義など存在しない。
安倍総理は、全体説明の後、4人ほどの内外の記者の質問に答えて、5分ほど予定時間を余らせて席を去った。日本人記者の質問は総合的なもので、答えの内容も具体性に欠け、それを視聴しても新たな情報量は極めてすくない。
一方、トランプ大統領の記者会見は、早い英語とわかりにくい同時通訳のためか、年寄りにはその内容は理解しにくいものだった。ただ、優に30人を超える記者の質問は、30分以上放送時間を延長しても終わる気配がなかった。答弁の途中で質問者から追加や確認の質問が入るが、それにも全て答える。
記者には有権者に代わって質問をする権利が、そして大統領にはそれらに答える義務があり、途中で質問を打ち切る権利など無いようだ。有権者の知る権利を、目の前のテレビが明確に見せてくれている。
日本では、政治家は自分の持つ政治的情報をまるで餌をやるように、記者に撒き与える。記者は、それに群がる野犬のように、それを急いで口に入れる。アラース。日本には民主主義など存在しない。
2019年6月28日金曜日
「持続的鎮静」は法的議論を経ぬままに拡大加速化されるだろう
1)言葉は、人と人の間のコミュニケーションや議論の道具として、使われるべきである。しかし日本では、「言葉」を道具としてではなく、神のお告げの如く受け取る傾向がある。日本で言葉を軽々しく使うと、職場を首になったり、社会で非難轟々となる危険性がある。
例えば、70年前占領軍は日本に極めて特殊な憲法を押し付けたが、それを独立後も70年間拝み続けた。それは、政治家が無能だったという理由だけでは説明できないだろう。明治憲法も同程度の期間、一度も改訂できなかったのだから。(補足1)
「持続的深い鎮静」という不思議な言い回し表現を理解するには、日本の特殊な言語空間に関する本質的解説が無くてはならない。脱線気味だが、それが以上のようなことを書いた理由である。端的に言えば、このような表現を用いるのには、何かを隠す目的が存在するのである。(最後の文だけでは理解してもらえないと思ったのである。)
議論をもとに戻す。先に引用した小笠原内科院長はこう語っている。「この持続的深い鎮静は、病院や緩和ケア病棟、在宅医療を行う一部の診療所においては、かなりの頻度で実施されているところもあると聞きます。」http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376
一昨日の記事に書いたように、「持続的深い鎮静」は仮に患者の了解を得ているとしても、医師が毒液注入の栓を開く限り嘱託殺人である。患者の了解を得ることができなければ、殺人である。確実に鎮静ののち死に至ると、小笠原院長が書いていることから明らかである。
そして、医者には「それはあくまでも鎮静という治療行為である」との抗弁が用意されているだろう。そして、それを行政から司法まで、日本という国は擁護するだろう。しかし、例えば致死量のバルビツール酸を他人に飲ませば、飲ませた人は殺人罪で逮捕される。仮に、深い眠りと死の間に相当の時間差があるので殺人ではない、と言っても通らないだろう。確実に鎮静(眠り)ののち死に至るからである。
そのホスピスでの殺人行為は、西欧的論理では法的根拠を得ることなく、医療の現場で行われている。論理的でない日本語と日本文化の特徴を悪用して、根拠もなく拡大解釈する例は、既に日本国憲法と自衛隊と称する世界で有数の軍隊との関係を見れば明らかである。(補足2)「持続的深い鎮静」という言葉を見た時、私はそれらのことを思った。
過去の食料に乏しい時代、棄老という習慣がどこの国にもあっただろう。それを見事に描いた小説が深沢七郎の「楢山節考」である。しかしそれには、食料が十分なく、若者も子供たちも十分に食べることができないという時代背景があった。楢山節考で記述された「楢山参り」は、神との合一という名誉ある死と、その後に続く世代の深い沈黙とで、家族(社会)全体で老人の死を担う習慣である。(補足3)
一方、私が生を得て一定の判断力をもったころには、棄老などという忌まわしいことなど、仮にあったとしても、学者の議論の中にその痕跡が残るのみだった。その頃の習慣では、老人はほとんど在宅看護で最後を迎えた。それは主婦を初め、家族には大きな負担になったことは想像に固くない。しかし、それを人間の務めとして、受け入れる文化があった。
20世紀の最後の30年ほどで、資本主義社会の方向に豊かになった日本では、「老人の死」を病気治療という形で病院に移し、日常から排除した。その結果、外見を見る限り、専門の工場での流れ作業のように老人の死が扱われるようになった。その最後のプロセスがホスピス入院である。形を変えた棄老である。
その現象に慣れた新しい世代の個人は、結局、少子化で報いることになった。都合が良い部分だけでは「個人」となった人達は、自分の人生を第一に考えて「子供を多く育てることは、高学歴社会の現代、経済的負担が大きくなり、自分の人生の幅を狭くするだけである」と、考えるようになった。それは、或いは勘違いだと良いのだが、人類絶滅の一里塚だと私は思う。
2)現在大病院では、患者がベッドに寝たきりになると10日程で追い出され、終末医療専門の病院に運ばれる。ホスピスで働く医師の言葉によれば、患者自身が望んで(ホスピスに)来ることはめったにない。患者は、緊張し、またしょんぼりした様子でホスピスに入院してくるとのことである。そして、家に帰ることなく、ほとんどの人が一ヶ月程で亡くなる。(補足4) https://www.buzzfeed.com/jp/takuyashinjo/dr-burnout
しかし現在の光景でも、比較的のどかに見える日がくるかもしれない。団塊の世代が死に向かうとき、大病院やホスピス専門の病院は、“治療の回転率”をあげることになるだろう。法治国家とは言い難い我が国では、局所的な強い要請はそのまま”闇”(認められた闇だから、薄明かりというのが正しいだろう)での作業を加速する筈だからである。
そして、「持続的深い鎮静」は、医療ビジネスの商品と見なされるようになれば、回転数を上げるのは当然だろう。大資本が医療法人として名乗りを上げるだろう。現在医療はGDPの約12%を占めるが、それが大きく増加するだろう。
更に気になるのが、年金制度及び健康保険制度との関連である。その破綻が囁かれる現在、健康保険と年金制度の負担にならない様に大医療資本も協力して、一連の緩和ケアのプロセスが見直され、効率化がなされるだろう。政府は「緩和」「鎮静」「治療」という言葉の上にあぐらをかいて、何もしないのが日本の伝統である。
一部で批判が出て、裁判になったとしても、東アジア全体がそうであるように、日本の最高裁も行政の下部組織に過ぎないので、結果は明らかである。(大崎事件の最新要求に対する最高裁の判断を参照)
補足:
1)明治憲法の天皇に関する条項は、天皇を利用した革命戦争の時には、薩長軍の道具として有効に働いた。しかし、その後は憲法と現実の政治のあるべき姿との乖離を正す事ができず、日本国は軍部が暴走する国家となってしまった。未だに、明治憲法は生きているというアホが政治家の中にいる位、言葉に縛られる民族である。http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376
2)自衛隊という言葉の「自衛」は良い言葉である。従って、「軍隊」という悪い言葉にくっつく筈がないから、自衛隊は軍隊ではない。それが日本の言語空間における感覚である。それに反して、「戦争」という忌むべき言葉は、疑問文であっても否定文であっても、決して口にしてはならない。それが、丸山穂高議員を国会全体で非難した理由である。「持続的深い鎮静」では、「鎮静」という言葉が良い言葉であり、それが語句全体を支配する。言葉が社会を支配するのであり、その言葉が表す「実体」がどうあっても無関係である。慰安婦が売春婦でないのは、「慰安」がつくからである。海外から受け入れる「技能実習生」は、低賃金労働者ではない。何故なら、実習生だからである。これらすべて、言葉が実態に優先する言霊の国の現象である。
3)それを受け入れない老人は、闇の中で深い谷に遺棄される。それを待っているカラスの群れが、その瞬間に大きな羽音をたてて舞い上がる。小説のその場面を思い出すと、未だに肌寒さが伴う。
4)その医師の次の言葉を真剣に聞くべきである。
「一人の患者を最期まで支えるというのは、とてもパワーの必要な仕事です。あらゆる苦痛を薬で治療し、果てない悩みを聞き、家族の不安とやるせない思いを聞き続けます。自分に元々備わっている誠実さと優しさだけでは、この仕事を続けることはできない」
例えば、70年前占領軍は日本に極めて特殊な憲法を押し付けたが、それを独立後も70年間拝み続けた。それは、政治家が無能だったという理由だけでは説明できないだろう。明治憲法も同程度の期間、一度も改訂できなかったのだから。(補足1)
「持続的深い鎮静」という不思議な言い回し表現を理解するには、日本の特殊な言語空間に関する本質的解説が無くてはならない。脱線気味だが、それが以上のようなことを書いた理由である。端的に言えば、このような表現を用いるのには、何かを隠す目的が存在するのである。(最後の文だけでは理解してもらえないと思ったのである。)
議論をもとに戻す。先に引用した小笠原内科院長はこう語っている。「この持続的深い鎮静は、病院や緩和ケア病棟、在宅医療を行う一部の診療所においては、かなりの頻度で実施されているところもあると聞きます。」http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376
一昨日の記事に書いたように、「持続的深い鎮静」は仮に患者の了解を得ているとしても、医師が毒液注入の栓を開く限り嘱託殺人である。患者の了解を得ることができなければ、殺人である。確実に鎮静ののち死に至ると、小笠原院長が書いていることから明らかである。
そして、医者には「それはあくまでも鎮静という治療行為である」との抗弁が用意されているだろう。そして、それを行政から司法まで、日本という国は擁護するだろう。しかし、例えば致死量のバルビツール酸を他人に飲ませば、飲ませた人は殺人罪で逮捕される。仮に、深い眠りと死の間に相当の時間差があるので殺人ではない、と言っても通らないだろう。確実に鎮静(眠り)ののち死に至るからである。
そのホスピスでの殺人行為は、西欧的論理では法的根拠を得ることなく、医療の現場で行われている。論理的でない日本語と日本文化の特徴を悪用して、根拠もなく拡大解釈する例は、既に日本国憲法と自衛隊と称する世界で有数の軍隊との関係を見れば明らかである。(補足2)「持続的深い鎮静」という言葉を見た時、私はそれらのことを思った。
過去の食料に乏しい時代、棄老という習慣がどこの国にもあっただろう。それを見事に描いた小説が深沢七郎の「楢山節考」である。しかしそれには、食料が十分なく、若者も子供たちも十分に食べることができないという時代背景があった。楢山節考で記述された「楢山参り」は、神との合一という名誉ある死と、その後に続く世代の深い沈黙とで、家族(社会)全体で老人の死を担う習慣である。(補足3)
一方、私が生を得て一定の判断力をもったころには、棄老などという忌まわしいことなど、仮にあったとしても、学者の議論の中にその痕跡が残るのみだった。その頃の習慣では、老人はほとんど在宅看護で最後を迎えた。それは主婦を初め、家族には大きな負担になったことは想像に固くない。しかし、それを人間の務めとして、受け入れる文化があった。
20世紀の最後の30年ほどで、資本主義社会の方向に豊かになった日本では、「老人の死」を病気治療という形で病院に移し、日常から排除した。その結果、外見を見る限り、専門の工場での流れ作業のように老人の死が扱われるようになった。その最後のプロセスがホスピス入院である。形を変えた棄老である。
その現象に慣れた新しい世代の個人は、結局、少子化で報いることになった。都合が良い部分だけでは「個人」となった人達は、自分の人生を第一に考えて「子供を多く育てることは、高学歴社会の現代、経済的負担が大きくなり、自分の人生の幅を狭くするだけである」と、考えるようになった。それは、或いは勘違いだと良いのだが、人類絶滅の一里塚だと私は思う。
2)現在大病院では、患者がベッドに寝たきりになると10日程で追い出され、終末医療専門の病院に運ばれる。ホスピスで働く医師の言葉によれば、患者自身が望んで(ホスピスに)来ることはめったにない。患者は、緊張し、またしょんぼりした様子でホスピスに入院してくるとのことである。そして、家に帰ることなく、ほとんどの人が一ヶ月程で亡くなる。(補足4) https://www.buzzfeed.com/jp/takuyashinjo/dr-burnout
しかし現在の光景でも、比較的のどかに見える日がくるかもしれない。団塊の世代が死に向かうとき、大病院やホスピス専門の病院は、“治療の回転率”をあげることになるだろう。法治国家とは言い難い我が国では、局所的な強い要請はそのまま”闇”(認められた闇だから、薄明かりというのが正しいだろう)での作業を加速する筈だからである。
そして、「持続的深い鎮静」は、医療ビジネスの商品と見なされるようになれば、回転数を上げるのは当然だろう。大資本が医療法人として名乗りを上げるだろう。現在医療はGDPの約12%を占めるが、それが大きく増加するだろう。
更に気になるのが、年金制度及び健康保険制度との関連である。その破綻が囁かれる現在、健康保険と年金制度の負担にならない様に大医療資本も協力して、一連の緩和ケアのプロセスが見直され、効率化がなされるだろう。政府は「緩和」「鎮静」「治療」という言葉の上にあぐらをかいて、何もしないのが日本の伝統である。
一部で批判が出て、裁判になったとしても、東アジア全体がそうであるように、日本の最高裁も行政の下部組織に過ぎないので、結果は明らかである。(大崎事件の最新要求に対する最高裁の判断を参照)
補足:
1)明治憲法の天皇に関する条項は、天皇を利用した革命戦争の時には、薩長軍の道具として有効に働いた。しかし、その後は憲法と現実の政治のあるべき姿との乖離を正す事ができず、日本国は軍部が暴走する国家となってしまった。未だに、明治憲法は生きているというアホが政治家の中にいる位、言葉に縛られる民族である。http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1376
2)自衛隊という言葉の「自衛」は良い言葉である。従って、「軍隊」という悪い言葉にくっつく筈がないから、自衛隊は軍隊ではない。それが日本の言語空間における感覚である。それに反して、「戦争」という忌むべき言葉は、疑問文であっても否定文であっても、決して口にしてはならない。それが、丸山穂高議員を国会全体で非難した理由である。「持続的深い鎮静」では、「鎮静」という言葉が良い言葉であり、それが語句全体を支配する。言葉が社会を支配するのであり、その言葉が表す「実体」がどうあっても無関係である。慰安婦が売春婦でないのは、「慰安」がつくからである。海外から受け入れる「技能実習生」は、低賃金労働者ではない。何故なら、実習生だからである。これらすべて、言葉が実態に優先する言霊の国の現象である。
3)それを受け入れない老人は、闇の中で深い谷に遺棄される。それを待っているカラスの群れが、その瞬間に大きな羽音をたてて舞い上がる。小説のその場面を思い出すと、未だに肌寒さが伴う。
4)その医師の次の言葉を真剣に聞くべきである。
「一人の患者を最期まで支えるというのは、とてもパワーの必要な仕事です。あらゆる苦痛を薬で治療し、果てない悩みを聞き、家族の不安とやるせない思いを聞き続けます。自分に元々備わっている誠実さと優しさだけでは、この仕事を続けることはできない」
2019年6月25日火曜日
スイスの「安楽死」と日本の「持続的深い鎮静」
先日(6月2日)NHKスペシャルで、スイスで安楽死をした人に関するドキュメンタリーが放送された。多系統萎縮症(MSA)という難病に罹患した方である。何時かはこの安楽死の問題を考えて、ブログに書きたいと思っていた。
人は動物であり、出来るだけ生き続けるという強烈な欲望を本能としては持っている。それはあらゆる生物に共通の性質だろう。その一方、人は高度に精神的な生物であり、自殺による死亡率が高いことが他の生物にない特徴である。現代の社会生活は、人間生活のオリジナルな生活形態から大きく離れることになった。生物としての人間は、その生活形態との矛盾を今後多く抱えるだろう。安楽死の問題はその一つだと思う。
スイスと日本で行われている表題の行為は、かなり違うがともに自殺幇助に近い。両者の本質とその間の違い、安楽死が医療の現場で認められた時に、どのような影響がでるかなどを回を分けて考えて見たい。今回は、上記の「スイスの安楽死と日本の持続的深い鎮静」について、現状とその問題点や疑問点をやや羅列的に書いてみる。最後の部分で簡単に、日本の「持続的深い鎮静」を行う条件などについても書く。
1)安楽死は、今やかなり多くの国で行われているが、外国からの希望者を受け入れているのはスイスのみである。何故、彼らは文化の異なる国からも、安楽死希望者を受け入れているのか?彼らはヒューマニズムという観点から行っていると言うだろう。しかし、それを行う団体には大きな収入を得る手段となっていることも事実である。
何事でも、その解釈には、ふた通りの道がる。一つは:プロセスを論理的に追いかける方法であり、もう一つは:結果において誰が得をするかを見ることである。前者には論理の誘導が入り込む可能性があるので、後者の方が確かなことが多い。勿論、得とは「最終的な得」のことである。現時点の判断ではあるが、私はそれを許可するスイスと言う国は、ヒューマニズムに欠けた国だと思う。(補足1)
NHKで放送された限りでは、患者の安楽死を望む動機とその意思の確かさ、更に、家族の了解を慎重に確認したのちに、安楽死という自殺幇助行為が行われるようだ。しかし、スイスのその団体は、他国からの取材を認め放送されることを許可したのである。それは、国際的非難を避けるために、しっかりとした手順を踏んでいるとの印象を与えるための宣伝行為に見えなくもない。
つまり、この自殺幇助、その報道や出版も、ビジネスとして行われた面があることに注目したい。勿論、スイスの自殺幇助にはヒューマニズムと個人の人権という後ろ盾がある。また、報道や出版には「言論の自由」や人々の「知る権利」という後ろ盾がある。
しかし、最終的には人の命が奪われるという点と彼ら当事者にかなりの収入をもたらしているという結果の重みを考慮すべきであり、間違いなく彼らの行為は悪のグレイゾーンの中に一歩踏み込んでいる。従って、これらの経費や収入等の公開をすべきである。勿論、一定の報酬は得ることに問題はない。
2)一年以上前に、小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科院長)という人が、「安楽死は安楽に死ねない死」と題して、このスイスの団体の行う自殺幇助について批判的なブログ記事を書いている。
小笠原氏は、スイスのデグニタスという団体の行う安楽死について、以下のように記述している。「あくまで「自殺幇助」ですから、医師は直接的な行為はせず、死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。」(補足2) https://ironna.jp/article/8622?p=1
これはNHKで放送された現在のプロセスとは異なる。番組では、輸液装置を用い、最後の意思を確認したのち、薬液導入の栓を自殺する人が自分で開ける場面が放送されていた。その後30秒で意識を失うことが、事前に本人に知らされている。(補足3)
小笠原氏は続いて、日本の緩和医療では、安楽死と似ている「持続的深い鎮静」を、もっと慎重に行っていると主張している。つまり、その「持続的深い鎮静」は、①耐え難い痛みがあり、且つ、②死期が近づいた患者を対象に行う医療行為で、本人及び家族の同意を得て行われる。「持続的深い鎮静」を行うと、患者本人は死ぬまで昏睡(こんすい)状態に陥る。
今生の別れの時期と肉体の死に時間差があるため、家族は「自分たちが殺してしまった」と後悔する場合もあり、尋常な看取りではない。小笠原氏は、「“持続的深い鎮静”も、多くの人に迷惑をかけながら死んでいくことに違いないので、これを最後の手段であるとは認識ながらも、“抜かずの宝刀”と呼び、抜かないことに意義があると考えています」と言う。
3)しかし、テレビで放送された範囲では、小笠原氏が解説する「持続的深い鎮静」と患者の死へのプロセスそのものはほぼ同じに見えた。「持続的深い鎮静」では医者が患者に麻薬などの液体を血管に導入するが、スイスでの安楽死では最後の栓を開くのは本人である。
この生物学的な死へのプロセスに差はないが、スイスの安楽死の場合は行為の主体が本人であり、日本では医師或いは看護師などである。どちらが殺人により近いかと言えば、それは日本の「持続的深い鎮静」の方だろう。更に、思慮深いひとなら、この「持続的深い鎮静」という呼称には、多くのインチキがかくされ得ると直感的に感じるだろう。
もう一つの違いは、スイスでは肉体的所見として、死期が迫っているという条件がなくても、行われることである。しかし、その場合でも、希望者は精神的死期が来ていると証言するだろう。一方、日本の「持続的深い鎮静」の方では医師団は、死期が迫っていると言うだろうが、その判断もそこまでの治療も、ほとんどの場合同一の医師団による。
以上の比較でわかるように、この「持続的深い鎮静」こそ、闇の中にあると思う。少なくとも、「持続的深い鎮静」には、第三の目が注がれる必要がある。例えば、その一週間程度前に、所属学会も医局もすべて異なる医院への転院し、そこでそれを行うべきだと思う。
その前に、日本の行政はやるべきことがある。この種の「医療行為」が一般的になる前に、全ての医療データの一元管理(独立機関によるクラウド管理)を行い、ある患者がどこの病院で受診しようとも、その医療データ全てが共有できるシステムを構築するべきであったと思う。
次回は、保険制度や年金制度など行政との関連を書きたいと思う。
補足:
1)そのように感じるのは、一つにはスイスの銀行は犯罪者が預金を自由にできる国であるからだろう。兎に角、金銭的利益を追求する文化がこの国にあるようだ。なお、以下の全文において言えることだが、とりあえず結論を出して、前に進むことは現実問題として考える場合必要なことである。全て「らしい」で何が言えるのかという意見はあり得る。しかし、本を仮に読んだとしても、その本の評価が100%できる訳ではない。(例:吉田清治の慰安婦に関する本や、本田勝一の記事は、結局嘘が活字になっていた。)つまり、我々は差し当たりの知識で前に進まなければ、凡ゆる場面で一歩も進めないことになる。この弱点を埋めるのは、異なる大勢と議論することである。オープンな議論が真実に近づく唯一の方法であるのは、科学の世界でも、政治の世界でも同じである。しかし、政治の世界にはこの考えがない。それは、密室で誰かがこの政治を牛耳っているからかもしれない。(馬渕睦夫氏のThe Deep Stateを思い出す。)
2)小笠原氏のブログでは、スイスのデグニタスでの安楽死の場面を以下の様に記して居る。「死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。飲み切らないと死ねません。一瞬では死ぬことができないので、途中で飲めなくなる人もいると思います。中途半端に毒を飲んでしまったら、死ねない上に悲劇が待っていることでしょう」と書いている。 小笠原氏がスイスでの安楽死批判を、この記述に頼って居るところがある。
3)コップに薬液を入れて飲む方式は、過去行われた可能性がたかい。何故なら、そのような記述が宮下洋一氏による前著「安楽死を遂げるまで」に書かれているようだからである。この肝心の場面での方法改善により、デグニタスはNHKという主要メディアに公開しても、団体の主張に理解が得られると思ったのかもしれない。
人は動物であり、出来るだけ生き続けるという強烈な欲望を本能としては持っている。それはあらゆる生物に共通の性質だろう。その一方、人は高度に精神的な生物であり、自殺による死亡率が高いことが他の生物にない特徴である。現代の社会生活は、人間生活のオリジナルな生活形態から大きく離れることになった。生物としての人間は、その生活形態との矛盾を今後多く抱えるだろう。安楽死の問題はその一つだと思う。
スイスと日本で行われている表題の行為は、かなり違うがともに自殺幇助に近い。両者の本質とその間の違い、安楽死が医療の現場で認められた時に、どのような影響がでるかなどを回を分けて考えて見たい。今回は、上記の「スイスの安楽死と日本の持続的深い鎮静」について、現状とその問題点や疑問点をやや羅列的に書いてみる。最後の部分で簡単に、日本の「持続的深い鎮静」を行う条件などについても書く。
1)安楽死は、今やかなり多くの国で行われているが、外国からの希望者を受け入れているのはスイスのみである。何故、彼らは文化の異なる国からも、安楽死希望者を受け入れているのか?彼らはヒューマニズムという観点から行っていると言うだろう。しかし、それを行う団体には大きな収入を得る手段となっていることも事実である。
何事でも、その解釈には、ふた通りの道がる。一つは:プロセスを論理的に追いかける方法であり、もう一つは:結果において誰が得をするかを見ることである。前者には論理の誘導が入り込む可能性があるので、後者の方が確かなことが多い。勿論、得とは「最終的な得」のことである。現時点の判断ではあるが、私はそれを許可するスイスと言う国は、ヒューマニズムに欠けた国だと思う。(補足1)
NHKで放送された限りでは、患者の安楽死を望む動機とその意思の確かさ、更に、家族の了解を慎重に確認したのちに、安楽死という自殺幇助行為が行われるようだ。しかし、スイスのその団体は、他国からの取材を認め放送されることを許可したのである。それは、国際的非難を避けるために、しっかりとした手順を踏んでいるとの印象を与えるための宣伝行為に見えなくもない。
つまり、この自殺幇助、その報道や出版も、ビジネスとして行われた面があることに注目したい。勿論、スイスの自殺幇助にはヒューマニズムと個人の人権という後ろ盾がある。また、報道や出版には「言論の自由」や人々の「知る権利」という後ろ盾がある。
しかし、最終的には人の命が奪われるという点と彼ら当事者にかなりの収入をもたらしているという結果の重みを考慮すべきであり、間違いなく彼らの行為は悪のグレイゾーンの中に一歩踏み込んでいる。従って、これらの経費や収入等の公開をすべきである。勿論、一定の報酬は得ることに問題はない。
2)一年以上前に、小笠原文雄(日本在宅ホスピス協会会長、小笠原内科院長)という人が、「安楽死は安楽に死ねない死」と題して、このスイスの団体の行う自殺幇助について批判的なブログ記事を書いている。
小笠原氏は、スイスのデグニタスという団体の行う安楽死について、以下のように記述している。「あくまで「自殺幇助」ですから、医師は直接的な行為はせず、死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。」(補足2) https://ironna.jp/article/8622?p=1
これはNHKで放送された現在のプロセスとは異なる。番組では、輸液装置を用い、最後の意思を確認したのち、薬液導入の栓を自殺する人が自分で開ける場面が放送されていた。その後30秒で意識を失うことが、事前に本人に知らされている。(補足3)
小笠原氏は続いて、日本の緩和医療では、安楽死と似ている「持続的深い鎮静」を、もっと慎重に行っていると主張している。つまり、その「持続的深い鎮静」は、①耐え難い痛みがあり、且つ、②死期が近づいた患者を対象に行う医療行為で、本人及び家族の同意を得て行われる。「持続的深い鎮静」を行うと、患者本人は死ぬまで昏睡(こんすい)状態に陥る。
今生の別れの時期と肉体の死に時間差があるため、家族は「自分たちが殺してしまった」と後悔する場合もあり、尋常な看取りではない。小笠原氏は、「“持続的深い鎮静”も、多くの人に迷惑をかけながら死んでいくことに違いないので、これを最後の手段であるとは認識ながらも、“抜かずの宝刀”と呼び、抜かないことに意義があると考えています」と言う。
3)しかし、テレビで放送された範囲では、小笠原氏が解説する「持続的深い鎮静」と患者の死へのプロセスそのものはほぼ同じに見えた。「持続的深い鎮静」では医者が患者に麻薬などの液体を血管に導入するが、スイスでの安楽死では最後の栓を開くのは本人である。
この生物学的な死へのプロセスに差はないが、スイスの安楽死の場合は行為の主体が本人であり、日本では医師或いは看護師などである。どちらが殺人により近いかと言えば、それは日本の「持続的深い鎮静」の方だろう。更に、思慮深いひとなら、この「持続的深い鎮静」という呼称には、多くのインチキがかくされ得ると直感的に感じるだろう。
もう一つの違いは、スイスでは肉体的所見として、死期が迫っているという条件がなくても、行われることである。しかし、その場合でも、希望者は精神的死期が来ていると証言するだろう。一方、日本の「持続的深い鎮静」の方では医師団は、死期が迫っていると言うだろうが、その判断もそこまでの治療も、ほとんどの場合同一の医師団による。
以上の比較でわかるように、この「持続的深い鎮静」こそ、闇の中にあると思う。少なくとも、「持続的深い鎮静」には、第三の目が注がれる必要がある。例えば、その一週間程度前に、所属学会も医局もすべて異なる医院への転院し、そこでそれを行うべきだと思う。
その前に、日本の行政はやるべきことがある。この種の「医療行為」が一般的になる前に、全ての医療データの一元管理(独立機関によるクラウド管理)を行い、ある患者がどこの病院で受診しようとも、その医療データ全てが共有できるシステムを構築するべきであったと思う。
次回は、保険制度や年金制度など行政との関連を書きたいと思う。
補足:
1)そのように感じるのは、一つにはスイスの銀行は犯罪者が預金を自由にできる国であるからだろう。兎に角、金銭的利益を追求する文化がこの国にあるようだ。なお、以下の全文において言えることだが、とりあえず結論を出して、前に進むことは現実問題として考える場合必要なことである。全て「らしい」で何が言えるのかという意見はあり得る。しかし、本を仮に読んだとしても、その本の評価が100%できる訳ではない。(例:吉田清治の慰安婦に関する本や、本田勝一の記事は、結局嘘が活字になっていた。)つまり、我々は差し当たりの知識で前に進まなければ、凡ゆる場面で一歩も進めないことになる。この弱点を埋めるのは、異なる大勢と議論することである。オープンな議論が真実に近づく唯一の方法であるのは、科学の世界でも、政治の世界でも同じである。しかし、政治の世界にはこの考えがない。それは、密室で誰かがこの政治を牛耳っているからかもしれない。(馬渕睦夫氏のThe Deep Stateを思い出す。)
2)小笠原氏のブログでは、スイスのデグニタスでの安楽死の場面を以下の様に記して居る。「死ぬことができる薬液をコップに入れ、“これを全部飲めば死ねますよ”と言って安楽死を望む人に渡すようです。飲み切らないと死ねません。一瞬では死ぬことができないので、途中で飲めなくなる人もいると思います。中途半端に毒を飲んでしまったら、死ねない上に悲劇が待っていることでしょう」と書いている。 小笠原氏がスイスでの安楽死批判を、この記述に頼って居るところがある。
3)コップに薬液を入れて飲む方式は、過去行われた可能性がたかい。何故なら、そのような記述が宮下洋一氏による前著「安楽死を遂げるまで」に書かれているようだからである。この肝心の場面での方法改善により、デグニタスはNHKという主要メディアに公開しても、団体の主張に理解が得られると思ったのかもしれない。
2019年6月23日日曜日
諸国の北朝鮮に対する姿勢から、日本の将来を考える
日本の将来を北朝鮮問題を出発点にして考えてみた。結論は、米国が東アジアに覇権を維持している間に、安定した日中関係と日露関係を築かなければならないということである。つまり、最初は日露平和条約締結だろう。
1)朝鮮は、有史以来の中国の支配下の構図に嫌気がさしているだろう。更に、ロシアに対する脅威も常にあった。実際、李氏朝鮮時代にロシアの支配されたこともある。北朝鮮の核開発はそれら周辺からの完全独立を目指しておこなわれたのだろう。
しかし、中国とロシアという大国に挟まれた小国は、どちらかの支配下に入るしかない。歴史から考えても、現在の国力から考えても、北朝鮮を支配下におく筆頭の候補は中国である。プーチンがウラジオストクで金正恩を冷たくあしらったのは、北朝鮮との関係に野心を持つと思われては迷惑だという気持ちがあったからだろう。
つまり、中露関係の悪化を招いてまで、北朝鮮と親密に関係を結ぶメリットなど、ロシアにない。同じ理屈は日本にも当てはまる。(補足1)更に、核兵器をもった北朝鮮が経済的に豊かになれば、強烈な反日国が増えるだけである。もともと、韓国に反日行動を取らせたのは北朝鮮であることを忘れてはならない。佐藤優の"安倍総理は早期に訪朝すべき”というのは全く愚論である。https://www.youtube.com/watch?v=zQwyzRb8LE8
米国にとっても、北朝鮮と仲良くするメリットなどない。また、北朝鮮の核など米国の脅威ではない。あたかも米国の脅威だというのは、一つには米国にとっても北朝鮮の核廃絶は大問題だということで、日本に安心感を与えるためである。そして、米国が北朝鮮の完全な非核化が出来ると思っている筈はない。
北朝鮮の核の脅威を大げさに米国が言う二つ目の理由は、北朝鮮に経済制裁をするための口実作りである。それは、中国の方向に北朝鮮を押し付けるためだろう。もちろん、金正恩が完全に米国の配下になるのなら、統一朝鮮は対中国の盾になるが、そこまで育て上げる力も、それを維持するエネルギーも米国にはない。
元々、核兵器開発は対中国防衛、韓国併合、対日本攻撃を念頭においたものだっただろう。核保持を部分的にでも認めてもらって、アメリカとうまくやれるならやりたいだろうが、結局そんなことは許さないというのが、アメリカの一貫した態度である。その後、ウラジオストクでのロシアとの会談で、結局北朝鮮は中国の配下になるしかないと覚悟を新たにしただろう。
そのように考えると、「安倍さんが急いで北朝鮮を訪問すべきだ」なんて、バカみたいな考えだ。北の経済発展に協力すれば、トランプは東アジアの政治的安定を達成したと自分の成果にするだろう。そして、結局米国はアジアから去る。アジアに残らざるを得ない日本は、第二の強烈反日国を育て、それはその後に生来の反日国韓国と統一するだろう。その後、隣の反日大国とも協調して、日本を崩壊させる可能性が高い。
トランプは金正恩とうまくやりたいと思っている筈がない。トランプは一貫して、半島全てを中国に面倒見させるつもりだったと思う。日本は最悪の方向に向かうが、それは米国の知ったことではないと最後は言うだろう。
2)日本にとって、国家存亡の鍵となるのは、おそらくロシアである。中国と長い国境線をもち、最後まで中国と仲良くなれないロシアと日本は組むしか妙案はないだろう。最後に残された無策の結末は、中国の属国という立場である。それが最も可能性が高い日本の将来だろう。なぜなら、日本にはまともな政治がないからである。
そこまで考えれば、今ロシアからの北方領土返還が日露間の主要課題だなんて、言っておれない状況だろう。つまり、プーチンの一本勝ちのシナリオ以外に、日露平和条約はないように思う。(補足2)ひょっとして、国後で口を滑らせた人は、それを言いたかったのかもしれない。https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00243_201810300001&utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=link_back_edit_vb
プーチンも中国とロシアは世界一長い国境線をもち、最後は緊張した関係に戻る可能性を恐れているだろう。そこで、経済力をつけてシベリアに経済力と人口を増やしたい。中国と組めば、それは可能かもしれないが、中国もそれで豊かになり、益々尊大な態度で隣国に圧力を加えることになるだろう。
プーチンは自分の地位保全のためにロシア国民の世論に気を配っている。しかし最近ロシア政府は、北方4島がロシア領だという法的根拠はないと、サンフランシスコ条約の持つ問題点に言及・公表している。それが、日本とロシアが硬い袋を開ける結び目であることを、日本に示した信号だっただろう。
外交は、長い寿命を持つ民族(国家)と民族の関係だが、それを動かすのは国家首脳と官僚という有限な能力と寿命を持った人間である。プーチンも宇宙人ではないので、有限の地位を気にしつつ外交しなければならない。もっと、その現実的側面に気をつけるべきだろうと思う。
また、外交は今後の利益を最優先し、感情を抑えて行うべきだろう。それは知恵と知識を高めることによってのみ可能となると思う。日露平和条約交渉を北方領土問題に等しく考える今の日本人の貧弱な知恵では、日本にはロシアと平和条約のない形で、中国に飲み込まれることになる可能性が高い。(補足3)
この件で詳しいのは、プーチンと非常に親しいかもしれない北野幸伯さんである。彼のメルマガで、2012年11月に、中国が、ロシア、韓国に「反日統一共同戦線戦略」を提案したことを何度も日本の読者に注意喚起している。
時間はない。安倍総理が”身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と、自分の名声を犠牲にする気があるのなら別だが、そうでなければ早々に引退して、次のリーダーにこの件は任すべきだろう。 (これは政治に関心があるものの、所詮素人のメモです。)
上記は差し当たり日米同盟が最も大事であることを否定したものではありません。念のため。(23日夜追加)
補足:
1)日本の場合、米国の走狗となって北朝鮮を米国側に軟着陸させるということだろう。トランプも日本が金を出すと言っている。そのような損な役回りを真面目に考えるのは、偏に拉致被害者をお返し願いたいからなのだろう。この件、5月28日のブログ記事を参照してほしい。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html
2)ロシアは56年宣言に基づいて、歯舞と色丹は日本に返還すべきである。しかし、それに拘っていては、日本の将来に大きなマイナスとなると気付けば、今最低2島返還の希望を優先するのは本末転倒である。
3)この一連のことを総合的に考えて、対北朝鮮、対ロシア、対中国、対米国、そして対韓国の外交全てを考えなければならない。日本人は、その中で対北朝鮮外交=拉致問題、対ロシア外交=北方領土問題、対韓国問題=徴用工&慰安婦問題と、それぞれ独立に考えている。とんでもない間違いである。拉致問題など小さい問題である。拉致問題に拉致されては、日本人一億3千万人の将来はない。(拉致問題は日本の国内問題であるとの指摘はすでに何度もしている。)
1)朝鮮は、有史以来の中国の支配下の構図に嫌気がさしているだろう。更に、ロシアに対する脅威も常にあった。実際、李氏朝鮮時代にロシアの支配されたこともある。北朝鮮の核開発はそれら周辺からの完全独立を目指しておこなわれたのだろう。
しかし、中国とロシアという大国に挟まれた小国は、どちらかの支配下に入るしかない。歴史から考えても、現在の国力から考えても、北朝鮮を支配下におく筆頭の候補は中国である。プーチンがウラジオストクで金正恩を冷たくあしらったのは、北朝鮮との関係に野心を持つと思われては迷惑だという気持ちがあったからだろう。
つまり、中露関係の悪化を招いてまで、北朝鮮と親密に関係を結ぶメリットなど、ロシアにない。同じ理屈は日本にも当てはまる。(補足1)更に、核兵器をもった北朝鮮が経済的に豊かになれば、強烈な反日国が増えるだけである。もともと、韓国に反日行動を取らせたのは北朝鮮であることを忘れてはならない。佐藤優の"安倍総理は早期に訪朝すべき”というのは全く愚論である。https://www.youtube.com/watch?v=zQwyzRb8LE8
米国にとっても、北朝鮮と仲良くするメリットなどない。また、北朝鮮の核など米国の脅威ではない。あたかも米国の脅威だというのは、一つには米国にとっても北朝鮮の核廃絶は大問題だということで、日本に安心感を与えるためである。そして、米国が北朝鮮の完全な非核化が出来ると思っている筈はない。
北朝鮮の核の脅威を大げさに米国が言う二つ目の理由は、北朝鮮に経済制裁をするための口実作りである。それは、中国の方向に北朝鮮を押し付けるためだろう。もちろん、金正恩が完全に米国の配下になるのなら、統一朝鮮は対中国の盾になるが、そこまで育て上げる力も、それを維持するエネルギーも米国にはない。
元々、核兵器開発は対中国防衛、韓国併合、対日本攻撃を念頭においたものだっただろう。核保持を部分的にでも認めてもらって、アメリカとうまくやれるならやりたいだろうが、結局そんなことは許さないというのが、アメリカの一貫した態度である。その後、ウラジオストクでのロシアとの会談で、結局北朝鮮は中国の配下になるしかないと覚悟を新たにしただろう。
そのように考えると、「安倍さんが急いで北朝鮮を訪問すべきだ」なんて、バカみたいな考えだ。北の経済発展に協力すれば、トランプは東アジアの政治的安定を達成したと自分の成果にするだろう。そして、結局米国はアジアから去る。アジアに残らざるを得ない日本は、第二の強烈反日国を育て、それはその後に生来の反日国韓国と統一するだろう。その後、隣の反日大国とも協調して、日本を崩壊させる可能性が高い。
トランプは金正恩とうまくやりたいと思っている筈がない。トランプは一貫して、半島全てを中国に面倒見させるつもりだったと思う。日本は最悪の方向に向かうが、それは米国の知ったことではないと最後は言うだろう。
2)日本にとって、国家存亡の鍵となるのは、おそらくロシアである。中国と長い国境線をもち、最後まで中国と仲良くなれないロシアと日本は組むしか妙案はないだろう。最後に残された無策の結末は、中国の属国という立場である。それが最も可能性が高い日本の将来だろう。なぜなら、日本にはまともな政治がないからである。
そこまで考えれば、今ロシアからの北方領土返還が日露間の主要課題だなんて、言っておれない状況だろう。つまり、プーチンの一本勝ちのシナリオ以外に、日露平和条約はないように思う。(補足2)ひょっとして、国後で口を滑らせた人は、それを言いたかったのかもしれない。https://www.jiji.com/jc/v4?id=foresight_00243_201810300001&utm_source=yahoo&utm_medium=referral&utm_campaign=link_back_edit_vb
プーチンも中国とロシアは世界一長い国境線をもち、最後は緊張した関係に戻る可能性を恐れているだろう。そこで、経済力をつけてシベリアに経済力と人口を増やしたい。中国と組めば、それは可能かもしれないが、中国もそれで豊かになり、益々尊大な態度で隣国に圧力を加えることになるだろう。
プーチンは自分の地位保全のためにロシア国民の世論に気を配っている。しかし最近ロシア政府は、北方4島がロシア領だという法的根拠はないと、サンフランシスコ条約の持つ問題点に言及・公表している。それが、日本とロシアが硬い袋を開ける結び目であることを、日本に示した信号だっただろう。
外交は、長い寿命を持つ民族(国家)と民族の関係だが、それを動かすのは国家首脳と官僚という有限な能力と寿命を持った人間である。プーチンも宇宙人ではないので、有限の地位を気にしつつ外交しなければならない。もっと、その現実的側面に気をつけるべきだろうと思う。
また、外交は今後の利益を最優先し、感情を抑えて行うべきだろう。それは知恵と知識を高めることによってのみ可能となると思う。日露平和条約交渉を北方領土問題に等しく考える今の日本人の貧弱な知恵では、日本にはロシアと平和条約のない形で、中国に飲み込まれることになる可能性が高い。(補足3)
この件で詳しいのは、プーチンと非常に親しいかもしれない北野幸伯さんである。彼のメルマガで、2012年11月に、中国が、ロシア、韓国に「反日統一共同戦線戦略」を提案したことを何度も日本の読者に注意喚起している。
時間はない。安倍総理が”身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”と、自分の名声を犠牲にする気があるのなら別だが、そうでなければ早々に引退して、次のリーダーにこの件は任すべきだろう。 (これは政治に関心があるものの、所詮素人のメモです。)
上記は差し当たり日米同盟が最も大事であることを否定したものではありません。念のため。(23日夜追加)
補足:
1)日本の場合、米国の走狗となって北朝鮮を米国側に軟着陸させるということだろう。トランプも日本が金を出すと言っている。そのような損な役回りを真面目に考えるのは、偏に拉致被害者をお返し願いたいからなのだろう。この件、5月28日のブログ記事を参照してほしい。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_28.html
2)ロシアは56年宣言に基づいて、歯舞と色丹は日本に返還すべきである。しかし、それに拘っていては、日本の将来に大きなマイナスとなると気付けば、今最低2島返還の希望を優先するのは本末転倒である。
3)この一連のことを総合的に考えて、対北朝鮮、対ロシア、対中国、対米国、そして対韓国の外交全てを考えなければならない。日本人は、その中で対北朝鮮外交=拉致問題、対ロシア外交=北方領土問題、対韓国問題=徴用工&慰安婦問題と、それぞれ独立に考えている。とんでもない間違いである。拉致問題など小さい問題である。拉致問題に拉致されては、日本人一億3千万人の将来はない。(拉致問題は日本の国内問題であるとの指摘はすでに何度もしている。)
2019年6月21日金曜日
言葉の進化論(3):善悪に見る言葉の壁
言葉の進化論(3):善悪に見る言葉の壁
今回の記事の初めに、「言葉の定義域」という考えを導入する。「言葉が本来支障なく通じるのは社会の内部である」という今までの話を、「言葉の定義域は社会内部である」と言い換えるのである。つまり、言葉の壁で囲まれた範囲が「言葉の定義域」である。
この定義域という言葉を用いる利点は、言葉を社会内部以外に使用する場合などの考察に便利だからである。定義域が単語ごとに議論できるなどのメリットがある。例えば、善悪という言葉と違って、真理という言葉は社会を跨いで定義される。そのような違いが生じるのは、「真理」は「社会における団結」とは無関係だからである。
1)前回の文章で、「戦争で人を殺すことは悪か?」という疑問文を例に上げて、「善悪という概念は、社会の内部でしか明確な意味を持ちえない」と書いた。つまり、善悪の定義域は社会の内部である。
その理由として考えたのが、言葉の進化論(1)に述べた言葉の発生と進化のモデルである。つまり、言葉は元々我々個人が思考するために発生・進化したのではなく、思考のために最適化されていないと云うことである。
この考え方は、オリジナルなものかもしれない。例えば、近代哲学の偉人であるエマヌエル・カントが倫理を考えたとき、言葉は社会や善悪とは無関係に、思考の道具として与えられたと思った筈である。何故なら、カントは善悪を普遍的なものと考えているからである。
つまり、カントの人間が持つべき基本倫理である“定言命法(捕捉1)”は、絶対的であり、変遷や進化などを考えて居ないからである。
誰かが、カントの理想主義的倫理が、国際連盟や国際連合などの設立の基礎として機能したと言っていた。もしそうなら、それら国際機関が、時代の変遷に伴って機能不全に陥るのは当然の結果だろう。
この言葉に定義域があること、特に善悪が所属社会内の、しかも、その中で利益を多く得ている人間に便利な言葉であることに気づいていたと思われる偉人がいる。親鸞である。
言葉は「社会の繁栄と維持発展に最大限に寄与する個体間のコミュニケーション法」として発展してきた。一方、人間社会とは無関係に進化した言葉がある。数学である。従って数学の定義域は人間社会に限られていない。その優れた論理性により科学に用いられ、科学は全世界の研究者の参加を得て、大きく発展した。
世界の政治の混乱は、言葉が通じないことによる。利害相反や文化的反発がそのまま言葉の壁となり、互いの意思疎通ができないからである。深刻な危機にあるといえる世界政治の原因のかなりの部分は、言語が民族(社会)の境界を超えて通じないことによると考えられる。(捕捉2)
兎に角、この微妙な遷移状態にある世界で悲劇的結末を避けて生き残るためには、世界の政治家連中は、言葉に固有の定義域が存在することを十分意識すべきであると私は思う。
2)ここで、親鸞の有名なことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」を考えてみる。「善人が極楽往生できるのなら、悪人はより極楽往生にふさわしい」という意味である。
この親鸞の言葉は、一つの社会内部という言葉の定義域に留まっていては、理解不能である。親鸞が言う悪人とは、例えば、社会から死罪や流罪などの判決を言い渡された者である。そして善人とは、その社会から最も多くの利益を得ている余裕ある人達である。
悪人は善悪という言葉の定義域(社会)の外にいるが、善人は社会の中心にいる。従って、親鸞は敢えて言葉の定義域を超えて善悪を用い、衆生の心理的救出を考えたのだと思う。或いは、上記言葉の善悪は、すべての人間を視野にいれた阿彌陀佛の立場での善悪なのだろう。(捕捉2)
同じ善悪という言葉の概念も、定義域を大きく拡大すれば、意味が大きくことなるのである。社会内の論理でもって、親鸞の言葉がおかしいと言う前に、社会の内外を俯瞰する阿弥陀如来の視野で、善悪という言葉を用いていることに注意すべきである。
社会の外に跳ね除けた者(悪人)を、善悪という言葉で裁くのは、単にその反作用による社会の結束強化に期待するイジメに似た社会の現象である。それは中学校の生徒から存在する衆生の持つ悪しき習性だろう。
善悪という物差しは、悪人を評価する物差しではなく、攻撃する武器である。裁かれる側の者が極楽往生できないと考えるのは、社会を構成する側の傲慢である。救済を考えるのは阿弥陀さんなのだから。 世界全体を見る”阿弥陀如来の目”には、多くの善人や悪人の間に差はない。(捕捉2)むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。“悪人”が唱える「南無阿弥陀仏」は、元居た社会での“悪行”の阿彌陀佛による評価をすべて受け入れるという合意の言葉だろう。
ここで余計な事かもしれないが一言。親鸞は極楽の存在を信じていなかった可能性がある。ある宗教があったとして、その教団の中で(不真面目なニセ信者は別にして)その宗教を信じているかどうか不明、或いは疑わしいのは、ただ一人教祖である。教祖の位置は、数学で言うところの特異点である。(捕捉3)
半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。戦場での敵と味方の間を考えると、殺人さえ悪の烙印を押せなくなるのと同様である。
3)余分な追加事項:北朝鮮問題と善悪の問題
北朝鮮による日本国民の拉致は、善悪や犯罪の問題として論じるべきではない。日本と北朝鮮という二つの国家は国交のない野生の関係にある。従って、他国民の拉致は戦争行為と見るべきである。その解決には、この行為が本来戦争を意識して対応すべきことであると、両者が気づくことが大事である。
その第一ステップにも至っていないのだから、解決する筈がない。日本側の取るべきなのは、戦争を意識して北朝鮮に無条件で「返せ!」ということである。それを北朝鮮が拒否したときには開戦しかない。その緊張感を、日本も北朝鮮も持っていないのが現実ではないのか。
もし、日本は憲法上戦争できないとして、その第一ステップを取れないのなら、そしてそれが憲法改正を拒否する国民側の責任なら、その一部国民は被害者を見捨るという宣言をしたことになる。その認識を、全国民の前に明らかにすべきである。
従って、拉致被害者の会が交渉の相手にすべきは、日本国民とその代表である日本政府である。経済協力などの条件を持ち出しての北朝鮮との返還交渉などを、政府にせまるのは間違いである。
捕捉:
1)定言命法(Categorical Imperative: 断言的な強制)は、カントの倫理の中心的概念。ただ、こんな面倒な言葉を用いる哲学は、大学時代には拒否反応の対象であった。ここに書いたにわか仕込みの知識について、間違っている箇所があれば是非ご教授いただきたい。
2)この阿弥陀仏の役割と、カントを批判したヘーゲルの「絶対精神」は似た概念であるのが面白い。この絶対精神を考えることでヘーゲルは弁証法的変化(進化)を考えた。阿弥陀仏の目には、善悪も固定的でなくなるのと同様である。
3)この捕捉も本題からずれるのだが、どんな機会でも利用して言っておきたいことがある。それは世界政治でも、特異点に注意が必要だということである。特異点とは、例えばその国家のトップである。国家のトップは、常に国家のために自己犠牲的に思考し行動していると仮定できれば、世界政治の分析はもっと簡単だろう。 習近平は、トランプは、プーチンは、そして、日本の安倍晋三は、本当に夫々の国のことを第一に考えているのだろうか?
今回の記事の初めに、「言葉の定義域」という考えを導入する。「言葉が本来支障なく通じるのは社会の内部である」という今までの話を、「言葉の定義域は社会内部である」と言い換えるのである。つまり、言葉の壁で囲まれた範囲が「言葉の定義域」である。
この定義域という言葉を用いる利点は、言葉を社会内部以外に使用する場合などの考察に便利だからである。定義域が単語ごとに議論できるなどのメリットがある。例えば、善悪という言葉と違って、真理という言葉は社会を跨いで定義される。そのような違いが生じるのは、「真理」は「社会における団結」とは無関係だからである。
テキスト ボックス: 言葉の進化論(1):
言葉の誕生は個体の都合で生じたのではなく、人間が集団を為し、社会を形成し、敵と戦って生き残る過程で、誕生し進化したというモデルである。 因みに、動物としての人間も言語と社会と伴に変化(進化)したと考えられる。この付け足した部分は、4年前にブログ記事としてアップした「文明により改造、家畜化される人間」というモデルである。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html1)前回の文章で、「戦争で人を殺すことは悪か?」という疑問文を例に上げて、「善悪という概念は、社会の内部でしか明確な意味を持ちえない」と書いた。つまり、善悪の定義域は社会の内部である。
その理由として考えたのが、言葉の進化論(1)に述べた言葉の発生と進化のモデルである。つまり、言葉は元々我々個人が思考するために発生・進化したのではなく、思考のために最適化されていないと云うことである。
この考え方は、オリジナルなものかもしれない。例えば、近代哲学の偉人であるエマヌエル・カントが倫理を考えたとき、言葉は社会や善悪とは無関係に、思考の道具として与えられたと思った筈である。何故なら、カントは善悪を普遍的なものと考えているからである。
つまり、カントの人間が持つべき基本倫理である“定言命法(捕捉1)”は、絶対的であり、変遷や進化などを考えて居ないからである。
誰かが、カントの理想主義的倫理が、国際連盟や国際連合などの設立の基礎として機能したと言っていた。もしそうなら、それら国際機関が、時代の変遷に伴って機能不全に陥るのは当然の結果だろう。
この言葉に定義域があること、特に善悪が所属社会内の、しかも、その中で利益を多く得ている人間に便利な言葉であることに気づいていたと思われる偉人がいる。親鸞である。
言葉は「社会の繁栄と維持発展に最大限に寄与する個体間のコミュニケーション法」として発展してきた。一方、人間社会とは無関係に進化した言葉がある。数学である。従って数学の定義域は人間社会に限られていない。その優れた論理性により科学に用いられ、科学は全世界の研究者の参加を得て、大きく発展した。
世界の政治の混乱は、言葉が通じないことによる。利害相反や文化的反発がそのまま言葉の壁となり、互いの意思疎通ができないからである。深刻な危機にあるといえる世界政治の原因のかなりの部分は、言語が民族(社会)の境界を超えて通じないことによると考えられる。(捕捉2)
兎に角、この微妙な遷移状態にある世界で悲劇的結末を避けて生き残るためには、世界の政治家連中は、言葉に固有の定義域が存在することを十分意識すべきであると私は思う。
2)ここで、親鸞の有名なことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」を考えてみる。「善人が極楽往生できるのなら、悪人はより極楽往生にふさわしい」という意味である。
この親鸞の言葉は、一つの社会内部という言葉の定義域に留まっていては、理解不能である。親鸞が言う悪人とは、例えば、社会から死罪や流罪などの判決を言い渡された者である。そして善人とは、その社会から最も多くの利益を得ている余裕ある人達である。
悪人は善悪という言葉の定義域(社会)の外にいるが、善人は社会の中心にいる。従って、親鸞は敢えて言葉の定義域を超えて善悪を用い、衆生の心理的救出を考えたのだと思う。或いは、上記言葉の善悪は、すべての人間を視野にいれた阿彌陀佛の立場での善悪なのだろう。(捕捉2)
同じ善悪という言葉の概念も、定義域を大きく拡大すれば、意味が大きくことなるのである。社会内の論理でもって、親鸞の言葉がおかしいと言う前に、社会の内外を俯瞰する阿弥陀如来の視野で、善悪という言葉を用いていることに注意すべきである。
社会の外に跳ね除けた者(悪人)を、善悪という言葉で裁くのは、単にその反作用による社会の結束強化に期待するイジメに似た社会の現象である。それは中学校の生徒から存在する衆生の持つ悪しき習性だろう。
善悪という物差しは、悪人を評価する物差しではなく、攻撃する武器である。裁かれる側の者が極楽往生できないと考えるのは、社会を構成する側の傲慢である。救済を考えるのは阿弥陀さんなのだから。 世界全体を見る”阿弥陀如来の目”には、多くの善人や悪人の間に差はない。(捕捉2)むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。“悪人”が唱える「南無阿弥陀仏」は、元居た社会での“悪行”の阿彌陀佛による評価をすべて受け入れるという合意の言葉だろう。
ここで余計な事かもしれないが一言。親鸞は極楽の存在を信じていなかった可能性がある。ある宗教があったとして、その教団の中で(不真面目なニセ信者は別にして)その宗教を信じているかどうか不明、或いは疑わしいのは、ただ一人教祖である。教祖の位置は、数学で言うところの特異点である。(捕捉3)
半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。戦場での敵と味方の間を考えると、殺人さえ悪の烙印を押せなくなるのと同様である。
3)余分な追加事項:北朝鮮問題と善悪の問題
北朝鮮による日本国民の拉致は、善悪や犯罪の問題として論じるべきではない。日本と北朝鮮という二つの国家は国交のない野生の関係にある。従って、他国民の拉致は戦争行為と見るべきである。その解決には、この行為が本来戦争を意識して対応すべきことであると、両者が気づくことが大事である。
その第一ステップにも至っていないのだから、解決する筈がない。日本側の取るべきなのは、戦争を意識して北朝鮮に無条件で「返せ!」ということである。それを北朝鮮が拒否したときには開戦しかない。その緊張感を、日本も北朝鮮も持っていないのが現実ではないのか。
もし、日本は憲法上戦争できないとして、その第一ステップを取れないのなら、そしてそれが憲法改正を拒否する国民側の責任なら、その一部国民は被害者を見捨るという宣言をしたことになる。その認識を、全国民の前に明らかにすべきである。
従って、拉致被害者の会が交渉の相手にすべきは、日本国民とその代表である日本政府である。経済協力などの条件を持ち出しての北朝鮮との返還交渉などを、政府にせまるのは間違いである。
捕捉:
1)定言命法(Categorical Imperative: 断言的な強制)は、カントの倫理の中心的概念。ただ、こんな面倒な言葉を用いる哲学は、大学時代には拒否反応の対象であった。ここに書いたにわか仕込みの知識について、間違っている箇所があれば是非ご教授いただきたい。
2)この阿弥陀仏の役割と、カントを批判したヘーゲルの「絶対精神」は似た概念であるのが面白い。この絶対精神を考えることでヘーゲルは弁証法的変化(進化)を考えた。阿弥陀仏の目には、善悪も固定的でなくなるのと同様である。
3)この捕捉も本題からずれるのだが、どんな機会でも利用して言っておきたいことがある。それは世界政治でも、特異点に注意が必要だということである。特異点とは、例えばその国家のトップである。国家のトップは、常に国家のために自己犠牲的に思考し行動していると仮定できれば、世界政治の分析はもっと簡単だろう。 習近平は、トランプは、プーチンは、そして、日本の安倍晋三は、本当に夫々の国のことを第一に考えているのだろうか?
2019年6月20日木曜日
言葉の進化論(2):言葉の壁について
先の投稿文(言葉の進化論(1))で、言葉が人間社会の生成と進化と同時に、発生進化したというモデルを提出した。そのモデルを用いると、多くの言葉の機能とその限界に気づく。今回の話は、言葉は社会の内部でスムースに通じるが、その外側には「言葉の壁」があるという内容である。
1)先ずその一例として、丸山穂高議員の失言?を考える。彼は酒に酔って自分の心の内部にある「女を買う云々」という言葉を、外界にストレートに出してしまった。本来どうでも良い発言だったが、政治家として重要な発言(補足1)を攻撃する援護射撃として用いられた。
つまり、彼の本能に由来する心中をストレートに言葉に出せば、社会生活に支障を来すのである。これを、「個人の心の中と社会の間に言葉の壁が存在する」と、ここでは考える。(補足2)その原因だが、言葉の進化論(1)で述べたモデルを想起すれば、自明である。
言葉は、①社会の中で②社会の維持・発展のために③社会とともに発生し発展したのであり、個人の心の中を外部に発信するために出来たのではないということである。(捕捉3)
2)もう一つ例を挙げる。それは、哲学の授業か何かで出てきそうな疑問文「戦争で敵兵士を撃ち殺すことは悪なのか?」を考える。先ず、戦争で敵兵と遭遇したときの状況を想像してほしい。相手を撃たなければ、こちらが撃たれるという状況(或いは世界)は、言葉を用いて議論できる世界ではないことが直ぐ分かるだろう。
また、戦争で敵兵を殺すことは、自分たちの社会を防衛することであり、兵として当然の行為である。しかし、何の躊躇もなく「戦争で敵兵を殺すことは善です」と答えられる人は、殆ど居ないだろう。その心理的抵抗は、上記疑問文が言葉の壁(敵と味方という二つの社会の間にある)を跨いで問題設定されていることによる。
この場合の原因も、言葉の進化論(1)で述べた言葉の発生と進化のモデルを考えれば自明である。つまり、自分の所属社会の発展、繁栄、永続が、そもそも言葉の目的であるので、敵である異なる社会と自分の社会を跨いで文章を作ると、言葉が通常の意味を持たなくなり、スムースに理解されないのである。
3)結論:
自分の社会と対立する社会(あるいは他の社会)の間には、言葉の壁が存在する。自分の社会を国家とみなせるような言葉の使用では、仮に素晴らしい翻訳があったとしても、言葉の壁による障害を受けるのである。
この言葉の壁が取り除けるとしたら、それは国家の間の境界を取り除いたときだろう。この壁は、文化の違いに由来するのではなく、言葉に本質的なものである。
学校などでの言葉によるイジメも、社会の外に排除された少数派に対する、壁を超えた言葉の使用である。それは社会の内部の言葉による団結であり、外へ向けた攻撃の反作用を利用してなされることが多い。従って、それは元々言葉の本来の機能として含まれている。
以上から、言葉の壁は社会の壁である。社会の内部の維持・発展のために発生進化したという私の言語発生と進化のモデルにより、言葉の機能と正しい解釈が可能になると思う。
補足:
1)「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民の訪問団長に質問したのは、国後島の訪問団の意味を考えさせる取掛の為だったのだろう。従って、何の問題もない。恐らく、国後返還の為の運動の一環として行なっているとしたら、訪問団の運動は無意味であると指摘したかったのだろう。
2)丸山議員の"品の悪い言葉”も、そのような行動を一緒にする仲間内では問題とならない。それは、その仲間を含めた小さな社会の中の言葉の使用だからである。
3)言葉は心の中を直接他に伝える手段ではないが、心の中の考え(本音)を反映する。そして、我々は社会の中では、建前でコミュニケートする。つまり、言葉がスムースに自分の心の中から相手に向かって流れるわけではない。この本音と建前の乖離は、言葉の壁を乗り越えて対話するための本質的な乖離である。国家の外交も同様である。
1)先ずその一例として、丸山穂高議員の失言?を考える。彼は酒に酔って自分の心の内部にある「女を買う云々」という言葉を、外界にストレートに出してしまった。本来どうでも良い発言だったが、政治家として重要な発言(補足1)を攻撃する援護射撃として用いられた。
つまり、彼の本能に由来する心中をストレートに言葉に出せば、社会生活に支障を来すのである。これを、「個人の心の中と社会の間に言葉の壁が存在する」と、ここでは考える。(補足2)その原因だが、言葉の進化論(1)で述べたモデルを想起すれば、自明である。
言葉は、①社会の中で②社会の維持・発展のために③社会とともに発生し発展したのであり、個人の心の中を外部に発信するために出来たのではないということである。(捕捉3)
2)もう一つ例を挙げる。それは、哲学の授業か何かで出てきそうな疑問文「戦争で敵兵士を撃ち殺すことは悪なのか?」を考える。先ず、戦争で敵兵と遭遇したときの状況を想像してほしい。相手を撃たなければ、こちらが撃たれるという状況(或いは世界)は、言葉を用いて議論できる世界ではないことが直ぐ分かるだろう。
また、戦争で敵兵を殺すことは、自分たちの社会を防衛することであり、兵として当然の行為である。しかし、何の躊躇もなく「戦争で敵兵を殺すことは善です」と答えられる人は、殆ど居ないだろう。その心理的抵抗は、上記疑問文が言葉の壁(敵と味方という二つの社会の間にある)を跨いで問題設定されていることによる。
この場合の原因も、言葉の進化論(1)で述べた言葉の発生と進化のモデルを考えれば自明である。つまり、自分の所属社会の発展、繁栄、永続が、そもそも言葉の目的であるので、敵である異なる社会と自分の社会を跨いで文章を作ると、言葉が通常の意味を持たなくなり、スムースに理解されないのである。
3)結論:
自分の社会と対立する社会(あるいは他の社会)の間には、言葉の壁が存在する。自分の社会を国家とみなせるような言葉の使用では、仮に素晴らしい翻訳があったとしても、言葉の壁による障害を受けるのである。
この言葉の壁が取り除けるとしたら、それは国家の間の境界を取り除いたときだろう。この壁は、文化の違いに由来するのではなく、言葉に本質的なものである。
学校などでの言葉によるイジメも、社会の外に排除された少数派に対する、壁を超えた言葉の使用である。それは社会の内部の言葉による団結であり、外へ向けた攻撃の反作用を利用してなされることが多い。従って、それは元々言葉の本来の機能として含まれている。
以上から、言葉の壁は社会の壁である。社会の内部の維持・発展のために発生進化したという私の言語発生と進化のモデルにより、言葉の機能と正しい解釈が可能になると思う。
補足:
1)「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と元島民の訪問団長に質問したのは、国後島の訪問団の意味を考えさせる取掛の為だったのだろう。従って、何の問題もない。恐らく、国後返還の為の運動の一環として行なっているとしたら、訪問団の運動は無意味であると指摘したかったのだろう。
2)丸山議員の"品の悪い言葉”も、そのような行動を一緒にする仲間内では問題とならない。それは、その仲間を含めた小さな社会の中の言葉の使用だからである。
3)言葉は心の中を直接他に伝える手段ではないが、心の中の考え(本音)を反映する。そして、我々は社会の中では、建前でコミュニケートする。つまり、言葉がスムースに自分の心の中から相手に向かって流れるわけではない。この本音と建前の乖離は、言葉の壁を乗り越えて対話するための本質的な乖離である。国家の外交も同様である。
2019年6月18日火曜日
言葉の進化論(解説)
「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、これによってできた。」(In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God. He was in the beginning with God. All things were made through Him.)
これは新約聖書の中の一節である。「言葉」はWord(大文字で始まる)の翻訳であり、神の言葉であり神自身でもある。また、創世記に「神の姿に似せて人を作り給うた」とあるので、人の言葉は神の言葉(Word)を原型として作られたことになるだろう。
この思想では、世界は言葉の具現化であり、従って世界とその変化等は、言葉で完全に記述できる筈である。従って、世界の全ての言葉は、音声や表現形式は異なっても、この世界の全てを同じ様に表現できる筈である。つまり、ほとんどの人はふさわしい通訳さえ雇えば、世界中の人は言葉で全てに関してコミュニケーションが可能であると考えているだろう。
しかしそれは、現実の世界を見ればなんとなく判るように、少し言葉を信じすぎである。(これを示したのがソシュールの言語学である。)翻訳さえあれば全ての人が理解できるように、この世界の全てを表現することができるのなら、世界にこれほどトラブルが存在する筈がないのではないのか?その疑問について考えている途中で思いついたのが、前回書いた言葉の進化論の内容である。詳細は: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html
上記記事で言いたかったのは、言葉は上記聖書の記述のように完全なる言葉(The Word)をモデルにして作ったにしては、その基礎の部分から不完全すぎるということである。そして、言葉の生成モデルを以下のように考えたのである。
ヒトが社会を形成するプロセスの中でその管理維持のために、言葉の原型が猿の鳴声に似たホモ・サピエンス(人)の発声から生じた。その後、社会が大きく強く、そして言葉は複雑精緻化するという夫々のプロセスが、一緒に進行した。つまり、人が集合して社会をなし、その社会と不可分な形で言葉ができる。その社会が大きく複雑に成長する過程で、言葉も論理を得て現在のような言葉に進化したと考えたのである。
従って、その社会の進化のプロセスや形態が大きく違う民族の間では、翻訳者を介しても話題によっては言葉は完全には通じないだろう。(実際は、この世界の現状から遡って、上記モデルを考えたのである。)
このモデルを更に進めれば、人の進化論にまで至る。つまり、社会が大きく複雑になっていく段階で、人もその社会に順応していくだろう。その結果、人はルールに従う従順な生き物になったのである。そのプロセスについて書いたのが、以下の記事である。「文明により改造、家畜化される人間」: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html
この二つの記事を正しいとするのなら、人の性質も民族により大きく異なることになる。例えば、文明の家畜化の度合いが浅い民族は、戦闘的で簡単に残酷な扱いを多民族に対して行うこともできるだろう。 そして、その行為を非難し、その根拠を指摘しても、言葉の深いところで通じないのである。(2019/6/18/19:00;ed:6/19/5:00)
これは新約聖書の中の一節である。「言葉」はWord(大文字で始まる)の翻訳であり、神の言葉であり神自身でもある。また、創世記に「神の姿に似せて人を作り給うた」とあるので、人の言葉は神の言葉(Word)を原型として作られたことになるだろう。
この思想では、世界は言葉の具現化であり、従って世界とその変化等は、言葉で完全に記述できる筈である。従って、世界の全ての言葉は、音声や表現形式は異なっても、この世界の全てを同じ様に表現できる筈である。つまり、ほとんどの人はふさわしい通訳さえ雇えば、世界中の人は言葉で全てに関してコミュニケーションが可能であると考えているだろう。
しかしそれは、現実の世界を見ればなんとなく判るように、少し言葉を信じすぎである。(これを示したのがソシュールの言語学である。)翻訳さえあれば全ての人が理解できるように、この世界の全てを表現することができるのなら、世界にこれほどトラブルが存在する筈がないのではないのか?その疑問について考えている途中で思いついたのが、前回書いた言葉の進化論の内容である。詳細は: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/06/blog-post_18.html
上記記事で言いたかったのは、言葉は上記聖書の記述のように完全なる言葉(The Word)をモデルにして作ったにしては、その基礎の部分から不完全すぎるということである。そして、言葉の生成モデルを以下のように考えたのである。
ヒトが社会を形成するプロセスの中でその管理維持のために、言葉の原型が猿の鳴声に似たホモ・サピエンス(人)の発声から生じた。その後、社会が大きく強く、そして言葉は複雑精緻化するという夫々のプロセスが、一緒に進行した。つまり、人が集合して社会をなし、その社会と不可分な形で言葉ができる。その社会が大きく複雑に成長する過程で、言葉も論理を得て現在のような言葉に進化したと考えたのである。
従って、その社会の進化のプロセスや形態が大きく違う民族の間では、翻訳者を介しても話題によっては言葉は完全には通じないだろう。(実際は、この世界の現状から遡って、上記モデルを考えたのである。)
このモデルを更に進めれば、人の進化論にまで至る。つまり、社会が大きく複雑になっていく段階で、人もその社会に順応していくだろう。その結果、人はルールに従う従順な生き物になったのである。そのプロセスについて書いたのが、以下の記事である。「文明により改造、家畜化される人間」: https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html
この二つの記事を正しいとするのなら、人の性質も民族により大きく異なることになる。例えば、文明の家畜化の度合いが浅い民族は、戦闘的で簡単に残酷な扱いを多民族に対して行うこともできるだろう。 そして、その行為を非難し、その根拠を指摘しても、言葉の深いところで通じないのである。(2019/6/18/19:00;ed:6/19/5:00)
言葉の進化論(1):言葉は動物的な掛け声から社会の発展とともに文章を成す形に進化した(仮説)
1)最初人は、大家族的な群れを形成していただろう。そして、その群れが地縁の人たちをも含めて拡大する中で、ヒトの発声内容は家族間の単なる掛け声から、文章の形に変化しただろう。文章を発声して初めて、言葉の誕生と言える。構成員間の協力をよりトラブルの少ない、現在だけでなく将来も想定した、役柄を個体間に割り振った形でするには、文章無くしては不可能である。
文章は、主語と述語という成分を持つ。そこに副詞句などがあって初めて、上記時空に広がりを持つ集団としての機能発現が可能となる。この社会形成と言える人間の集団化に伴い、個体の識別(主語や目的語)や時空等を表す副詞句的な部分を持つ文章を使うようになる段階で、言葉の誕生とみなしうると思う。
その後社会は、血縁・地縁で結ばれていない人たちも含め、構成員の数を増やすことになる。社会維持と管理は細分化精緻化され、徐々に複雑になる。そのような社会では、構成員間のトラブルの解決や、今後の集団の方向を正しく議論するために、より進んだ言葉が必要になる。
公平な利害調整は、一般に難しい。しかし、それに失敗すれば社会は崩壊する。社会の拡大に伴って、ただ同じ社会に所属するという意識だけを共有する(あかの他人的な)関係が構成員間に多くなるので、言葉は論理的で客観的な会話、対話、記録、公示などに用いる道具に発展する筈である。
その段階で、言葉はおおやけ(公)、権利義務、善悪などかなり高級な概念と厳密な論理が、導入され、用いられるように進化するだろう。
このように社会の変化に伴って、言葉が進化する。逆に、言葉の進化により社会を大きく多機能に、且つ、強くできるだろう。このモデルは、社会(民族)と言葉の双生モデルとか、社会進化論的言語学とでも名付けることができるだろう。この段階の言葉と社会の進化は、ラマルク説的進化と呼べるかもしれない。
2)上記段階で、社会の形態が群れと言うレベルから小さな民族と呼ばれるレベルの集団に成長したと考える。それら民族が生き残りをかけて、他の民族と戦うことの連続が古代であった。生き残る民族は、緻密な言語体系を持ち、それを用いた戦略と機能的な軍事組織を作り得た民族だろう。その民族間の生存競争が、言葉の進化に重要な役割を果たしたと思う。これは生物におけるダーウイン的な適者生存による進化に相当する。
ただ、言葉と社会(あるいは民族)の進化は、生物の個体進化と違って、民族の征服・融合でも起こる。更に穏やかな、民族間の交流による進化もあっただろう。これら全てを引っ括めて、ダーウイン的進化と以下呼ぶ。(補足1)
英語などの西欧語が、日本語などに比較して優れた情報伝達機能を持っているのは、その民族間の交流と生存競争による言葉のダーウイン的進化を多く、そして地理的人口的に広い範囲で経ているからだと思う。
一方、日本語の場合は感覚的な言葉が多く、論理を取り込む言葉の発展が不十分である。それは、ダーウイン的な進化があまり起こらなかったからであると思う。
3)手元に2004年の雑誌「科学(岩波書店)」の7月号がある。「言語の起源」の特集号である。そこに、言語の起源がいろいろ議論されているが、ほとんどが未だ雲をつかむような話である。今後、少し勉強していきたいが、この雑誌のなかには大したヒントはないと思う。(補足2)
人間の進化も、言語と文化(社会)の進化と不可分だと思う。その人間と文化(文明)の相互進化は、人間の社会に対する家畜化という形で理解できる。(2015年3月12日のブログ記事:「文明により改造、家畜化される人間」https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html)
文明進化が社会(文化)の進化をもたらしたのだから、人間の生物としての進化、言語の進化、社会の進化の3つは、不可分だと考えられる。
今日はこのあたりで記事を閉めようと思う。次回にはボロアミ的な上記議論の修繕をして、もうすこし考え方を精緻なものにしたい。
以上は、言語学の素人が自分の考えを整理するためにかいたものです。批判等歓迎します。(6/18/6:00am;編集16:00)
補足:
1)言葉と社会の進化を2段階(ラマルク的なものとダーウイン的なもの)に分けたのは、話をわかりやすくするためである。両方のタイプの進化は最初から共存するが、その寄与の比率が発展段階によって異なると考えられる。
2)この科学の特集号では、文章中に寄稿者の「自分の専門ではないが」と言うセリフが多く現れる。それだけ、この分野が未発達なのだろう。ちょっと読んだところでは、それらは社会(文化)と言葉の進化を、其々別に考えているので、根本的なところで筆者の上記考えと異なる。
文章は、主語と述語という成分を持つ。そこに副詞句などがあって初めて、上記時空に広がりを持つ集団としての機能発現が可能となる。この社会形成と言える人間の集団化に伴い、個体の識別(主語や目的語)や時空等を表す副詞句的な部分を持つ文章を使うようになる段階で、言葉の誕生とみなしうると思う。
その後社会は、血縁・地縁で結ばれていない人たちも含め、構成員の数を増やすことになる。社会維持と管理は細分化精緻化され、徐々に複雑になる。そのような社会では、構成員間のトラブルの解決や、今後の集団の方向を正しく議論するために、より進んだ言葉が必要になる。
公平な利害調整は、一般に難しい。しかし、それに失敗すれば社会は崩壊する。社会の拡大に伴って、ただ同じ社会に所属するという意識だけを共有する(あかの他人的な)関係が構成員間に多くなるので、言葉は論理的で客観的な会話、対話、記録、公示などに用いる道具に発展する筈である。
その段階で、言葉はおおやけ(公)、権利義務、善悪などかなり高級な概念と厳密な論理が、導入され、用いられるように進化するだろう。
このように社会の変化に伴って、言葉が進化する。逆に、言葉の進化により社会を大きく多機能に、且つ、強くできるだろう。このモデルは、社会(民族)と言葉の双生モデルとか、社会進化論的言語学とでも名付けることができるだろう。この段階の言葉と社会の進化は、ラマルク説的進化と呼べるかもしれない。
2)上記段階で、社会の形態が群れと言うレベルから小さな民族と呼ばれるレベルの集団に成長したと考える。それら民族が生き残りをかけて、他の民族と戦うことの連続が古代であった。生き残る民族は、緻密な言語体系を持ち、それを用いた戦略と機能的な軍事組織を作り得た民族だろう。その民族間の生存競争が、言葉の進化に重要な役割を果たしたと思う。これは生物におけるダーウイン的な適者生存による進化に相当する。
ただ、言葉と社会(あるいは民族)の進化は、生物の個体進化と違って、民族の征服・融合でも起こる。更に穏やかな、民族間の交流による進化もあっただろう。これら全てを引っ括めて、ダーウイン的進化と以下呼ぶ。(補足1)
英語などの西欧語が、日本語などに比較して優れた情報伝達機能を持っているのは、その民族間の交流と生存競争による言葉のダーウイン的進化を多く、そして地理的人口的に広い範囲で経ているからだと思う。
一方、日本語の場合は感覚的な言葉が多く、論理を取り込む言葉の発展が不十分である。それは、ダーウイン的な進化があまり起こらなかったからであると思う。
3)手元に2004年の雑誌「科学(岩波書店)」の7月号がある。「言語の起源」の特集号である。そこに、言語の起源がいろいろ議論されているが、ほとんどが未だ雲をつかむような話である。今後、少し勉強していきたいが、この雑誌のなかには大したヒントはないと思う。(補足2)
人間の進化も、言語と文化(社会)の進化と不可分だと思う。その人間と文化(文明)の相互進化は、人間の社会に対する家畜化という形で理解できる。(2015年3月12日のブログ記事:「文明により改造、家畜化される人間」https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.html)
文明進化が社会(文化)の進化をもたらしたのだから、人間の生物としての進化、言語の進化、社会の進化の3つは、不可分だと考えられる。
今日はこのあたりで記事を閉めようと思う。次回にはボロアミ的な上記議論の修繕をして、もうすこし考え方を精緻なものにしたい。
以上は、言語学の素人が自分の考えを整理するためにかいたものです。批判等歓迎します。(6/18/6:00am;編集16:00)
補足:
1)言葉と社会の進化を2段階(ラマルク的なものとダーウイン的なもの)に分けたのは、話をわかりやすくするためである。両方のタイプの進化は最初から共存するが、その寄与の比率が発展段階によって異なると考えられる。
2)この科学の特集号では、文章中に寄稿者の「自分の専門ではないが」と言うセリフが多く現れる。それだけ、この分野が未発達なのだろう。ちょっと読んだところでは、それらは社会(文化)と言葉の進化を、其々別に考えているので、根本的なところで筆者の上記考えと異なる。
2019年6月16日日曜日
報道写真一枚に世界を変えるほどの力を与えてはならない:今日のあるテレビ番組に対する批判的レビュー
1)今日の「そこまで言って委員会」は、「世界を変えた報道写真の謎」という題目で、歴史的瞬間を収めた有名な報道写真が紹介された。
それらは:①天安門事件の際、鎮圧にあたった軍の戦車の前に立ちはだかる男の写真、②9.11同時多発テロの時に取られた「9/11 The falling man」(崩壊する高層ビルから飛び降りた人)の写真、③湾岸戦争本格化の切掛になったと言われる「油に塗れた野鳥の写真」、④アフリカのスーダンで餓死寸前の少女の後ろでその死を待つかのようなハゲワシの写真、⑤長崎原爆の被害を撮影した米軍従軍カメラマンによる「焼き場に立つ少年の写真」、⑥硫黄島の戦いの後に島に星条旗を掲げる兵士の写真などが、とりあげられていた。
それらの写真についての背景や情況を紹介し、写真を撮影した写真家の立場や気持ち、報道写真が果たした役割・意味や疑問点などを紹介する内容だった。
この番組で何時も引っ掛かるのは、この放送の興味本位に事件を語る姿勢である。以前、司会の辛坊治郎氏が、この番組はニュースショウでありニュース解説ではないと言ったが、それでも放送する限り公共の福祉に寄与するものでなくてはならない。(先日の「ブログ人の不幸を楽しむニュースというテレビ番組」参照)しかし今回も、残念ながらコメンテーター達が重大事件を雑談風に議論していた。(補足1)上記の内、3つの写真についての放送内容を要約して示す。
2)2番目の写真は、アルカイダに乗っ取られた飛行機が世界貿易センター(WTC)ビルに突っ込んだ事件に関係した写真である。WRCビルは、その後災に包まれて崩落するのだが、その高層階に取り残されたある人が、ビルに残って死ぬか飛び降りるかの選択に迫られ、究極の選択として後者を選び、まさにその人が落下中の写真であると紹介していた。その想像を超える恐怖を、明確に示しているように見える。不思議なことに、そのWTCビル崩落の場面は、現在米国では放送を自粛しているという。 WTCビル崩壊の場面は、中東での米国の軍事行動の際には、大いに利用したのに、何故今さら放送を自粛するのか?上記写真やWTCビル崩壊の動画を、米国マスコミが放映自粛しているという話をするのなら、この事件そのものの謎についても話をすべきである。例えば、WTCビルの第1、第2ビルの他に、第7ビルも崩壊したことの謎は、米国政府や報道機関の通常の説明では納得できない。何故なら、第7ビルには飛行機は衝突して居ないからである。何故、WTCの跡地を早々と公園にしてしまったのか?https://dot.asahi.com/wa/2012092600508.html
①の天安門事件の戦車の前に立つ男の話の時、現在中国では天安門事件全体がタブー視されていると詳しく紹介しながら、WTCビルの崩壊について、その謎の部分も紹介しないのは、非常に不自然である。(補足2)
4番目の餓死寸前の少女とその後ろのハゲワシの写真は、1993年にケビン・カーターというカメラマンが撮影した。この写真はニューヨーク・タイムズ紙に掲載され、アフリカの悲惨さを象徴するとして、世界中で有名になった。しかし、この写真家は1994年にピュリツァー賞を受賞した3ヶ月後に自殺したという。この写真に関して、過酷な状況にある幼い少女を助けずに、写真を撮ることを選んだ写真家を非難する声が巻き起こったことを、番組では写真家の自殺と関連つけて紹介していた。(補足3)https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120125/297289/?P=2
番組のこの部分では、参加したゲストコメンテーターのカメラマン二人に、写真家の姿勢に関して意見を求めて居た。そこで宮島茂樹氏は、自分は写真を優先的に撮っただろうときっぱりと発言していたのが印象的であった。カメラマンとしてのプロ根性を正直に明らかにした宮島氏には好感を持った。何故なら、カメラマンは現場に干渉しないことで、カメラマンたり得ると思うからである。現場に干渉する人間は、写真を捏造する人間にもなり得る。実際、③や⑥の写真は、現場を作って写真を撮ったということも、番組で紹介されていた。
なお、この写真に関する重要な点を、この番組は隠していた。それは、ハゲワシに狙われているという少女の母親が、そのシャッターを押す時、すぐ近くに居たことである。食料配布所で、両手を塞がれて居ては、十分な食料を手にすることが出来ないから道脇に暫く放置したのである。更に、ハゲワシは近くの汚物置き場に多数集まっており、写真の一羽も特に少女を狙っていたわけではないとウィキペディアのケビン・カーターの項には、その同じ場面にいた同僚の話として書かれている。
宮島氏らカメラマンもその話は十分知っている筈である。何故、話さなかったのか?
5番目の写真は、長崎への原爆投下で死亡した弟を背負い、焼き場に持ち込んだ少年の写真である。その写真は米国の従軍カメラマンのジョー・オダネル氏により撮影されたが、彼は40年以上封印していたという。1989年に反核の思いが込められた彫刻像を見たことを契機に写真を公開し、原爆正当化論が根強い米国において、批判に耐え続け2007年8月9日に85歳で亡くなるまで、各地で写真展を開き戦争反対を訴えたという。(https://www.asahi.com/articles/ASK877VJMK87PITB00V.html)
番組では、米国の一部がこの写真が原爆投下後の長崎で撮影されたとは思えないという疑問を、幾つかの根拠とともに提出しているということも極簡単に紹介していた。確かに、死亡した少年の顔も、それを背負う子供にも火傷などの痕は見当たらない。更に、何よりも43年間も封印されていた事情が、写真撮影を仕事にした人の考えとして納得できなければ、上記疑問を退けて真実を写したものとして受け入れられないだろう。
つまり、40年以上封印したことと、公開後は米国での批判に耐えて死ぬまで写真展を開いて戦争反対を訴え続けたたという後半部分の姿勢との接続が、我々視聴者の頭の中でスムースに出来ない。その困難を解消すべく、その公開する決断の経緯と心情の変化をもう少し詳細に紹介する義務が、番組を政策する者にあると私は思う。
3)結語:
これらの写真を全て同じ報道写真という範疇で紹介しているが、その中には最初から政治利用を目的に作られた写真が混ざっている。それが混ざり得るのは、それを紹介するマスコミが金儲け主義を報道の動機としているからである。
何が言いたいのか:一枚の写真は、どこまでも一枚の写真に過ぎない。その中に(衝撃的な)事実を十分な確度で含む事も、写真の出来次第で可能になると考えるのは間違いである。事実は常に、写真を含む多くのデータとそれらの綿密な分析と考察があってこそ明らかになる。その基本を無視した報道、それを持てはやす“何とか賞”は、有害無益である。(6月17日早朝編集)
補足:
1)報道番組には一定の基準(内部基準かもしれないが)がある。その基準を無視したいために「そこまで言って委員会」はニュース・ショーという性格づけを行なっている。
2)①と②の写真は供に、国家の政治と深く関わった場面である。その政治的出来事の意味とその中での写真の位置付けについて、一定の精度で話すべきである。天安門事件に関しては、特別ゲストとして6才から12才までを中国で過ごした岡田紗佳さん(25才)をゲストに呼び、「天安門事件のことは日本で初めて知った」と証言させている。
3)人の自殺には相当に深い事情があると考えるのが、思慮ある人間の姿である。また、他人が自分の仕事の大事な部分を詳しい事情も知らずに批判したとき、怒りをエネルギーに変えて反撃するのが普通のプロの姿である。
それらは:①天安門事件の際、鎮圧にあたった軍の戦車の前に立ちはだかる男の写真、②9.11同時多発テロの時に取られた「9/11 The falling man」(崩壊する高層ビルから飛び降りた人)の写真、③湾岸戦争本格化の切掛になったと言われる「油に塗れた野鳥の写真」、④アフリカのスーダンで餓死寸前の少女の後ろでその死を待つかのようなハゲワシの写真、⑤長崎原爆の被害を撮影した米軍従軍カメラマンによる「焼き場に立つ少年の写真」、⑥硫黄島の戦いの後に島に星条旗を掲げる兵士の写真などが、とりあげられていた。
それらの写真についての背景や情況を紹介し、写真を撮影した写真家の立場や気持ち、報道写真が果たした役割・意味や疑問点などを紹介する内容だった。
この番組で何時も引っ掛かるのは、この放送の興味本位に事件を語る姿勢である。以前、司会の辛坊治郎氏が、この番組はニュースショウでありニュース解説ではないと言ったが、それでも放送する限り公共の福祉に寄与するものでなくてはならない。(先日の「ブログ人の不幸を楽しむニュースというテレビ番組」参照)しかし今回も、残念ながらコメンテーター達が重大事件を雑談風に議論していた。(補足1)上記の内、3つの写真についての放送内容を要約して示す。
2)2番目の写真は、アルカイダに乗っ取られた飛行機が世界貿易センター(WTC)ビルに突っ込んだ事件に関係した写真である。WRCビルは、その後災に包まれて崩落するのだが、その高層階に取り残されたある人が、ビルに残って死ぬか飛び降りるかの選択に迫られ、究極の選択として後者を選び、まさにその人が落下中の写真であると紹介していた。その想像を超える恐怖を、明確に示しているように見える。不思議なことに、そのWTCビル崩落の場面は、現在米国では放送を自粛しているという。 WTCビル崩壊の場面は、中東での米国の軍事行動の際には、大いに利用したのに、何故今さら放送を自粛するのか?上記写真やWTCビル崩壊の動画を、米国マスコミが放映自粛しているという話をするのなら、この事件そのものの謎についても話をすべきである。例えば、WTCビルの第1、第2ビルの他に、第7ビルも崩壊したことの謎は、米国政府や報道機関の通常の説明では納得できない。何故なら、第7ビルには飛行機は衝突して居ないからである。何故、WTCの跡地を早々と公園にしてしまったのか?https://dot.asahi.com/wa/2012092600508.html
①の天安門事件の戦車の前に立つ男の話の時、現在中国では天安門事件全体がタブー視されていると詳しく紹介しながら、WTCビルの崩壊について、その謎の部分も紹介しないのは、非常に不自然である。(補足2)
4番目の餓死寸前の少女とその後ろのハゲワシの写真は、1993年にケビン・カーターというカメラマンが撮影した。この写真はニューヨーク・タイムズ紙に掲載され、アフリカの悲惨さを象徴するとして、世界中で有名になった。しかし、この写真家は1994年にピュリツァー賞を受賞した3ヶ月後に自殺したという。この写真に関して、過酷な状況にある幼い少女を助けずに、写真を撮ることを選んだ写真家を非難する声が巻き起こったことを、番組では写真家の自殺と関連つけて紹介していた。(補足3)https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20120125/297289/?P=2
番組のこの部分では、参加したゲストコメンテーターのカメラマン二人に、写真家の姿勢に関して意見を求めて居た。そこで宮島茂樹氏は、自分は写真を優先的に撮っただろうときっぱりと発言していたのが印象的であった。カメラマンとしてのプロ根性を正直に明らかにした宮島氏には好感を持った。何故なら、カメラマンは現場に干渉しないことで、カメラマンたり得ると思うからである。現場に干渉する人間は、写真を捏造する人間にもなり得る。実際、③や⑥の写真は、現場を作って写真を撮ったということも、番組で紹介されていた。
なお、この写真に関する重要な点を、この番組は隠していた。それは、ハゲワシに狙われているという少女の母親が、そのシャッターを押す時、すぐ近くに居たことである。食料配布所で、両手を塞がれて居ては、十分な食料を手にすることが出来ないから道脇に暫く放置したのである。更に、ハゲワシは近くの汚物置き場に多数集まっており、写真の一羽も特に少女を狙っていたわけではないとウィキペディアのケビン・カーターの項には、その同じ場面にいた同僚の話として書かれている。
宮島氏らカメラマンもその話は十分知っている筈である。何故、話さなかったのか?
5番目の写真は、長崎への原爆投下で死亡した弟を背負い、焼き場に持ち込んだ少年の写真である。その写真は米国の従軍カメラマンのジョー・オダネル氏により撮影されたが、彼は40年以上封印していたという。1989年に反核の思いが込められた彫刻像を見たことを契機に写真を公開し、原爆正当化論が根強い米国において、批判に耐え続け2007年8月9日に85歳で亡くなるまで、各地で写真展を開き戦争反対を訴えたという。(https://www.asahi.com/articles/ASK877VJMK87PITB00V.html)
番組では、米国の一部がこの写真が原爆投下後の長崎で撮影されたとは思えないという疑問を、幾つかの根拠とともに提出しているということも極簡単に紹介していた。確かに、死亡した少年の顔も、それを背負う子供にも火傷などの痕は見当たらない。更に、何よりも43年間も封印されていた事情が、写真撮影を仕事にした人の考えとして納得できなければ、上記疑問を退けて真実を写したものとして受け入れられないだろう。
つまり、40年以上封印したことと、公開後は米国での批判に耐えて死ぬまで写真展を開いて戦争反対を訴え続けたたという後半部分の姿勢との接続が、我々視聴者の頭の中でスムースに出来ない。その困難を解消すべく、その公開する決断の経緯と心情の変化をもう少し詳細に紹介する義務が、番組を政策する者にあると私は思う。
3)結語:
これらの写真を全て同じ報道写真という範疇で紹介しているが、その中には最初から政治利用を目的に作られた写真が混ざっている。それが混ざり得るのは、それを紹介するマスコミが金儲け主義を報道の動機としているからである。
何が言いたいのか:一枚の写真は、どこまでも一枚の写真に過ぎない。その中に(衝撃的な)事実を十分な確度で含む事も、写真の出来次第で可能になると考えるのは間違いである。事実は常に、写真を含む多くのデータとそれらの綿密な分析と考察があってこそ明らかになる。その基本を無視した報道、それを持てはやす“何とか賞”は、有害無益である。(6月17日早朝編集)
補足:
1)報道番組には一定の基準(内部基準かもしれないが)がある。その基準を無視したいために「そこまで言って委員会」はニュース・ショーという性格づけを行なっている。
2)①と②の写真は供に、国家の政治と深く関わった場面である。その政治的出来事の意味とその中での写真の位置付けについて、一定の精度で話すべきである。天安門事件に関しては、特別ゲストとして6才から12才までを中国で過ごした岡田紗佳さん(25才)をゲストに呼び、「天安門事件のことは日本で初めて知った」と証言させている。
3)人の自殺には相当に深い事情があると考えるのが、思慮ある人間の姿である。また、他人が自分の仕事の大事な部分を詳しい事情も知らずに批判したとき、怒りをエネルギーに変えて反撃するのが普通のプロの姿である。
2019年6月14日金曜日
イラン訪問で馬脚を現した安倍政権:憲法改正は安倍総理には無理である
1)安倍総理のイラン訪問は、今後何か特別のことが発表されなければ、非常に愚かなことだったと思う。トランプ米国大統領と会談の中で、自分ならイランの最高指導者に会えると言ったのだろうが、日本の総理大臣がイランと米国との睨み合いの仲介などという大役ができる筈がない。
昨日のNHK9時のニュースで、イランの専門家の慶応大教授が以下のように言っていた。日本が米国の対イランの姿勢に従わないで石油を買い続けるくらいのことをする覚悟がなければ、本当の意味での仲介などできないだろう。日本の安倍が行って説得しても、イランは一歩も動かなかったという、イラン攻撃のカードを一枚米国にプレゼントするだけである。しかし、そんなことは素人でも分かることである。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190614/k10011951761000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_020
ホルムズ海峡での日本タンカーの攻撃の分析が進んでいる。軽い気持ちでイラン訪問をする、日本の総理大臣に対する警告であったとの結論になりそうである。時事ドットコムニュースでは、イスラエルのイラン専門家メイル・ジャベダンファル氏(イラン出身)が電話取材に答えて、「攻撃はイランによるものだ」と主張したという。https://www.jiji.com/jc/article?k=2019061400158&g=int
また、米国のポンペイオ国務長官は、タンカー攻撃はイランの責任だと発表した。そしてその後米国は、不発に終わった吸着型機雷を除去している、イラン革命防衛隊の姿を撮影した動画を公表した。https://www.jiji.com/jc/article?k=2019061400174&g=int
タンカーが沈没しなかったこと、乗組員全員が無事退去できたことは不幸中の幸いだった。しかしそれは、対日関係をあまり悪化させたくないという攻撃した側の気持ちをあらわれていると考えると、上記イランの専門家や米国務長官の話が正しいように思える。
評論家の宮家邦彦さんは、この時期に首相がイランを訪問するのは、良いことだとしながらも、次のようにその危険性をたとえ話で話している。(9日のニッポン放送)
「イランとアメリカ、そしてサウジアラビアは、硬球を使って甲子園に出場できるようなチームです。しかし日本の野球は、軟球かソフトボールです。うまくやらないと火傷してしまいます。彼らは本気で命を懸けているのですから。」 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190609-00010016-nshaberu-int&p=1
2)安倍総理のイラン訪問は、大失敗だったと結論されるだろう。それは国際的に、日本の外交能力の無さを印象つけることになったという意味も含めてである。宮家さんのたとえ話では、所詮軟球か庭球を用いる草野球レベルなのである。
そんな草野球レベルの子供達に、高価で本格的な野球バットやグローブが必要だろうか? つまり、安倍総理がエースピッチャーで君臨している野球チームのレベルでは、そのような一人前の装備品は不要だろうということになる。
何が言いたいのか? 安倍総理は、中途半端な憲法の改正を自分の任期中にやりたいと思っているらしいが、それはやめた方が良いだろう。一人前の軍隊を持つ国として、相応しい実力を日本が備えているか疑問だからである。
悔しいが、モスクワの北野幸伯氏が言うとおり、日本は現状では憲法改正する外交能力がないようである。憲法改正は、日本が真の独立国家であること、独自の外交路線をとることの表明であるから、政治家や外交官の実力もそれに相応しくなくてはならない。
この件については、何度もブログに書いた。素人ゆえ、私自身の意見もかなり変わってきている。直近の意見は、先日チャネル桜で、「日本に本当の国家主権はあるのか?」という番組の感想文として書いた記事をブログに上げた。
そのチャネル桜の討論の出席者は、小堀桂一郎、加瀬英明、古森義久、馬淵睦夫、西岡力、室伏謙一、浜崎洋介の七氏である。https://www.youtube.com/watch?v=e6Rivki3O9k
その記事で以下のように書いた。
日本が国家としての体をなしていないことの原因を、出席者らはもっぱら第二次大戦後のGHQの日本統治と日本のメディアに求めている。彼らが、日本国を骨抜きにした結果、このような体たらく日本が出来上がったのだというのである。そのような把握の結果として、小堀桂一郎氏らは骨抜きにされる前の日本を復活させることを考え、司会の水島社長も天皇を中心とした国家体制の復活を主張するのである。
過去の政治に何の反省も必要ないのなら兎も角、あの戦争はやってはならない戦争であったことは確かである。それを承知しているのなら、その原因追求が先である。それをしないで、憲法を改正して戦争のできる国にするというのは、少なくとも、日本に住む日本国籍の人たちの総意ではないだろう。(一部編集あり) https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/04/blog-post_25.html
この意見が正しいことを、今回の安倍総理のイラン訪問は証明したと思う。この日本の弱点克服についても、何度か書いてきた。そのエッセンスは、上記記事の最後の方にも、以下のように書いている。それを結論にして、今回は記事を閉じる。
選挙区を道州制にして、一票の格差を完全撤廃する。この選挙制度改革は、地方の利権と中央政府の政治との間に距離をとることを主目的とする。更に、中央政府の機能を外交や治安などの限られた分野に限る。道州政府が成長すれば、互いに切磋琢磨することで、日本は活気付くだろうと思う。今回はこの点の指摘だけにする。
最後に一言だけ追加したい。それは、上記問題等いろんな問題を考えた時、何時も「日本には議論の文化がない」という基本的問題にたどり着く。其の議論なき文化の国、閉鎖的な組織の国から、議論のある開かれた組織の国への脱皮が如何にして可能になるかを考えるべきである。
昨日のNHK9時のニュースで、イランの専門家の慶応大教授が以下のように言っていた。日本が米国の対イランの姿勢に従わないで石油を買い続けるくらいのことをする覚悟がなければ、本当の意味での仲介などできないだろう。日本の安倍が行って説得しても、イランは一歩も動かなかったという、イラン攻撃のカードを一枚米国にプレゼントするだけである。しかし、そんなことは素人でも分かることである。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190614/k10011951761000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_020
ホルムズ海峡での日本タンカーの攻撃の分析が進んでいる。軽い気持ちでイラン訪問をする、日本の総理大臣に対する警告であったとの結論になりそうである。時事ドットコムニュースでは、イスラエルのイラン専門家メイル・ジャベダンファル氏(イラン出身)が電話取材に答えて、「攻撃はイランによるものだ」と主張したという。https://www.jiji.com/jc/article?k=2019061400158&g=int
また、米国のポンペイオ国務長官は、タンカー攻撃はイランの責任だと発表した。そしてその後米国は、不発に終わった吸着型機雷を除去している、イラン革命防衛隊の姿を撮影した動画を公表した。https://www.jiji.com/jc/article?k=2019061400174&g=int
タンカーが沈没しなかったこと、乗組員全員が無事退去できたことは不幸中の幸いだった。しかしそれは、対日関係をあまり悪化させたくないという攻撃した側の気持ちをあらわれていると考えると、上記イランの専門家や米国務長官の話が正しいように思える。
評論家の宮家邦彦さんは、この時期に首相がイランを訪問するのは、良いことだとしながらも、次のようにその危険性をたとえ話で話している。(9日のニッポン放送)
「イランとアメリカ、そしてサウジアラビアは、硬球を使って甲子園に出場できるようなチームです。しかし日本の野球は、軟球かソフトボールです。うまくやらないと火傷してしまいます。彼らは本気で命を懸けているのですから。」 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190609-00010016-nshaberu-int&p=1
2)安倍総理のイラン訪問は、大失敗だったと結論されるだろう。それは国際的に、日本の外交能力の無さを印象つけることになったという意味も含めてである。宮家さんのたとえ話では、所詮軟球か庭球を用いる草野球レベルなのである。
そんな草野球レベルの子供達に、高価で本格的な野球バットやグローブが必要だろうか? つまり、安倍総理がエースピッチャーで君臨している野球チームのレベルでは、そのような一人前の装備品は不要だろうということになる。
何が言いたいのか? 安倍総理は、中途半端な憲法の改正を自分の任期中にやりたいと思っているらしいが、それはやめた方が良いだろう。一人前の軍隊を持つ国として、相応しい実力を日本が備えているか疑問だからである。
悔しいが、モスクワの北野幸伯氏が言うとおり、日本は現状では憲法改正する外交能力がないようである。憲法改正は、日本が真の独立国家であること、独自の外交路線をとることの表明であるから、政治家や外交官の実力もそれに相応しくなくてはならない。
この件については、何度もブログに書いた。素人ゆえ、私自身の意見もかなり変わってきている。直近の意見は、先日チャネル桜で、「日本に本当の国家主権はあるのか?」という番組の感想文として書いた記事をブログに上げた。
そのチャネル桜の討論の出席者は、小堀桂一郎、加瀬英明、古森義久、馬淵睦夫、西岡力、室伏謙一、浜崎洋介の七氏である。https://www.youtube.com/watch?v=e6Rivki3O9k
その記事で以下のように書いた。
日本が国家としての体をなしていないことの原因を、出席者らはもっぱら第二次大戦後のGHQの日本統治と日本のメディアに求めている。彼らが、日本国を骨抜きにした結果、このような体たらく日本が出来上がったのだというのである。そのような把握の結果として、小堀桂一郎氏らは骨抜きにされる前の日本を復活させることを考え、司会の水島社長も天皇を中心とした国家体制の復活を主張するのである。
過去の政治に何の反省も必要ないのなら兎も角、あの戦争はやってはならない戦争であったことは確かである。それを承知しているのなら、その原因追求が先である。それをしないで、憲法を改正して戦争のできる国にするというのは、少なくとも、日本に住む日本国籍の人たちの総意ではないだろう。(一部編集あり) https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/04/blog-post_25.html
この意見が正しいことを、今回の安倍総理のイラン訪問は証明したと思う。この日本の弱点克服についても、何度か書いてきた。そのエッセンスは、上記記事の最後の方にも、以下のように書いている。それを結論にして、今回は記事を閉じる。
選挙区を道州制にして、一票の格差を完全撤廃する。この選挙制度改革は、地方の利権と中央政府の政治との間に距離をとることを主目的とする。更に、中央政府の機能を外交や治安などの限られた分野に限る。道州政府が成長すれば、互いに切磋琢磨することで、日本は活気付くだろうと思う。今回はこの点の指摘だけにする。
最後に一言だけ追加したい。それは、上記問題等いろんな問題を考えた時、何時も「日本には議論の文化がない」という基本的問題にたどり着く。其の議論なき文化の国、閉鎖的な組織の国から、議論のある開かれた組織の国への脱皮が如何にして可能になるかを考えるべきである。
2019年6月9日日曜日
米国がロシアを敵国とした世界政治とそのモデル
1)6月6日の会見でロシアプーチン大統領は、日本との平和条約の締結は現状困難であるとの認識を示した。その理由のひとつは、日本と米国との軍事協力だという。5月30日の外相会談でも、ラブロフ外相は日本のイージスアショアに対して、ロシアの脅威だと発言したのも、プーチン・ロシアの対日姿勢の一貫かもしれない。
イージスアショアも、日本の防衛というより、米国の防衛のために置かれると考えられるのかもしれない。(素人なので、中国が韓国のTHAAD配備に激しく反応したことと同様に考えた。)ただ、米国とロシアが何故対立するのか、今ひとつ分からない。
しかし、有力なモデルがないわけではない。それは、米国は世界の警察官としての仕事で高給をもらってきたというモデルである。元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏が示したものである。その馬渕元大使の分析には説得力がある。しかし日本政府は、警察官を信じる以外に、日本の生きる道はないと考えているようだ。そして、それも本当かもしれない。(補足1)
警察官が必要な世界には、必ず悪人がいる。もし、世界に悪人がいなければ、警察官は必要なくなる。ソ連が共産主義を捨てても、引き続き悪人の役を引き受ける羽目になったのは、ロシアの性根が腐って居るからだと世界の警察官は言ってきた。その世界政治が21世紀初めの20年間続いた。
米国大統領にトランプさんが就任して以来、どうも悪人がもう一人出来たようである。隣国中国である。昨年10月だったか、ハドソン研究所でのペンス副大統領の演説で、それが明確になったと言う人が多い。こんなブログ記事を書きながら、本(文章)を読むことが幼少より大嫌いだったので、未だ読んでいない。下記サイトに全文が翻訳されているので、今日中にでも読んでみようと思う。https://www.newshonyaku.com/8416/
トランプ大統領は、就任時から今まで、古いターゲット(悪人)と仲が良さそうだということで攻撃されて来たのだが、確かに議会等のトランプ攻撃の刃が鈍っているようだ。悪人役が交代の時期の様なのである。しかし、悪人役を長く演じると、自分は俳優だったのか本当の悪人だったのか、真実はどちらなのかわからなくなるかもしれない。(補足2)それが現在の世界政治の姿だということである。 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-29/PS9YAZ6TTDS701
2)話を元に戻す。警察官の高給の中身とは、ドル基軸体制の維持で得られる莫大な利益である。米国の連邦準備銀行(FRB; federal reserve bank)は世界中に決済通貨として米ドルをばら撒いている。そのばら撒く方法は、自分たちが刷ったドル札という紙切れで、諸外国に投資や融資をし、或いは、自国に必要な資源を買うことなどである。つまり、紙切れで世界中から買い物ができるというのだから、並みの高給ではない。(注:連邦準備銀行の元締めもFRB,The Federal Reserve Boardと呼ばれる)
そのことを貸借対照表で見るとわかりやすいかもしれない。債務欄(Liability)には、紙切れに印刷したドル札の合計額が書かれる。反対側の資産の欄には、対外投資額や外国への債権額が書かれる。それらは、一定の利潤を米国に運ぶだろう。総資産額が毎年自動的に大きくなるのである。世界一の借金王の米国の国債が、今でも一番信用がある。その理由は、米国が世界の警察官であるという身分と不可分な関係にあるということである。(補足3)
更に、発行したドル札には金利がつく。紙幣の本質は借金証書、つまり金を預かっていますという証明書なのに、利子というお金をその証書の発行主に支払うのである。(補足4)最初は不思議に思うのだが、紙幣の意味において、コペルニクス的転回が生じたのである。(下記の「警察官は泥棒を必要とする」というのも、社会のコペルニクス的転回である。)
そのFRBに入る金利や、諸外国への投資の利潤は、更に同様の対外投資に回されれば、原理的には諸外国の金融資本のほとんどを徐々に米国金融資本の配下に置くことも可能だろう。その非常に有利な国際的地位を簡単には手放す訳にはいかない。
何故、ロシアと対立してきたのか? それは、米国が世界の警察官というボスの位置に座るためにプレイしてきた芝居ではないのか? そのように謎を解決したと馬渕大使はおっしゃるのだろう。繰り返しになるが、警察官を演じるには悪人が必要である。それを引き受けて呉れたのが、或いは、引き受けさせたのがソ連であった。その延長上に現在の悪役ロシアが存在する。
つまり、米国はソ連を世界の脅威とすることで、米国の地位を確立したということだろう。そのメカニズムを1960年代に米国のケネディ大統領が破壊する可能性があった。(補足5)それがケネディ暗殺の本当の原因であるとほとんどストレートに馬渕睦夫氏は言っている。https://www.youtube.com/watch?v=WrigE8FsZmY&t=597s
上に引用の大使の話は非常に興味深い。ケネディ大統領は、ロシアと敵対しなくても良いと考えたというのだ。当時外務大臣だったグロムイコの回顧録に、そのことが書いてあると馬渕睦夫氏が暴露している。直接上記サイトの動画を視聴して見てください。
そのモデルを用いて、「何故、米国はNATOを東欧諸国にまで広げようとしてきたのか?」また、「何故ウクライナでの政変で親露のヤヌコビッチを追い出す運動を支持したのか?」「プーチンは本当に悪なのか?」などの疑問を考えると、何か明確に見えてくる様な気がする。日本の外務官僚や元外務官僚が忌み嫌う陰謀論である。DEEP STATEの存在である。https://www.youtube.com/watch?v=j1BQSxfMUkk
補足:
1)米国の覇権は、現在の世界秩序の上で大事である。ただ、一つの社会内部の言葉で語ると、以下のように狡いという印象の文章になる。その原因は、一つの言葉は社会の壁を跨いだ出来事を正当に表現する機能をもたないからである。例えば、野生の世界を一つの言語を用いて語ると、残酷で非情な描写になる。また、戦争とその周辺事項を通常の言語で語ると、一般人は忌避反応を示すことになる。世界政治を語る場合、その言葉の限界を知ることが特に重要だと思う。
2)善悪は社会が成立したときにルールとして制定される。半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、社会から阻害された人物に悪の烙印を押すのは、社会側の構成員の傲慢であるという意味である。全体を見る”阿弥陀如来の目”には、両者に差はない。むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。 プーチン・ロシアが反米なのは、ソ連時代の延長線上にある。そこから急に踵を返すことは出来ない。10年間はかかるだろう。その10年は、日本にとっても正念場である。中国を敵とすることの困難は、朝鮮半島が世界1であり、日本が世界2である。文在寅が親中路線をとったのも、安倍総理が日中友好の看板を新たに掲げたのも、それを示している。米ソ冷戦時代は、日本にとっては幸せな世界だった。
3)国債の信用は、そのCDR (credit default swap)の代金(保険料金と考えて良いらしい)を見るとわかる。下図はそれを示した図で、DEEP MAXというyoutubeサイトからとった。
縦軸が0.01%単位での料率である。中国国債がもっとも高いので、国債信用が中韓日米の中で一番低い。また、日米の国債の信用は、一番高い。世界の金融マンが計算したこの数値からは、中国の国債がデフォルトする危険性は2018年の末時点でも、そんなに高くないことを示している。
4)本質は借金証書なのだが、ニクソン大統領の時に、金には交換しませんと宣言した。それでも、しっかりと米ドルは世界の決済通貨としての地位を保っている。それは何故か? その答えが、米国の国力が世界ダントツだということである。国力とは、経済力と軍事力の二つの積であると考えるのが普通。その考え方では、日本の国力はゼロに近い。何故なら、日本は軍事力がゼロ、つまり戦争できない国だからである。日本人がそれでも平和を享受できるのは、米国の属国だからなのだろう。原爆を日本に落とした米国も、もう罪滅ぼしはしたのだからと、路上に孤児として日本を放置する日が近い。子殺しが頻発する昨今、いつまで丸山穂高をいじめて馬鹿騒ぎをする国なのだ。
5)トランプ大統領はケネディ暗殺に関連する文書の公開を見送った。そのことは、米国国家の本当の権力者たちが彼を暗殺したことを示している。そこで最も疑われるのがCIAであるが、CIAかどうかはわからない。その原因は、ソ連を敵と見なす方向を転換し、米国の真の支配者と対立する可能性が高くなったからだろう。ケネディは、トランプのようにもう少し慎重であるべきだった。https://biz-journal.jp/2018/06/post_23585.html
イージスアショアも、日本の防衛というより、米国の防衛のために置かれると考えられるのかもしれない。(素人なので、中国が韓国のTHAAD配備に激しく反応したことと同様に考えた。)ただ、米国とロシアが何故対立するのか、今ひとつ分からない。
しかし、有力なモデルがないわけではない。それは、米国は世界の警察官としての仕事で高給をもらってきたというモデルである。元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏が示したものである。その馬渕元大使の分析には説得力がある。しかし日本政府は、警察官を信じる以外に、日本の生きる道はないと考えているようだ。そして、それも本当かもしれない。(補足1)
警察官が必要な世界には、必ず悪人がいる。もし、世界に悪人がいなければ、警察官は必要なくなる。ソ連が共産主義を捨てても、引き続き悪人の役を引き受ける羽目になったのは、ロシアの性根が腐って居るからだと世界の警察官は言ってきた。その世界政治が21世紀初めの20年間続いた。
米国大統領にトランプさんが就任して以来、どうも悪人がもう一人出来たようである。隣国中国である。昨年10月だったか、ハドソン研究所でのペンス副大統領の演説で、それが明確になったと言う人が多い。こんなブログ記事を書きながら、本(文章)を読むことが幼少より大嫌いだったので、未だ読んでいない。下記サイトに全文が翻訳されているので、今日中にでも読んでみようと思う。https://www.newshonyaku.com/8416/
トランプ大統領は、就任時から今まで、古いターゲット(悪人)と仲が良さそうだということで攻撃されて来たのだが、確かに議会等のトランプ攻撃の刃が鈍っているようだ。悪人役が交代の時期の様なのである。しかし、悪人役を長く演じると、自分は俳優だったのか本当の悪人だったのか、真実はどちらなのかわからなくなるかもしれない。(補足2)それが現在の世界政治の姿だということである。 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2019-05-29/PS9YAZ6TTDS701
2)話を元に戻す。警察官の高給の中身とは、ドル基軸体制の維持で得られる莫大な利益である。米国の連邦準備銀行(FRB; federal reserve bank)は世界中に決済通貨として米ドルをばら撒いている。そのばら撒く方法は、自分たちが刷ったドル札という紙切れで、諸外国に投資や融資をし、或いは、自国に必要な資源を買うことなどである。つまり、紙切れで世界中から買い物ができるというのだから、並みの高給ではない。(注:連邦準備銀行の元締めもFRB,The Federal Reserve Boardと呼ばれる)
そのことを貸借対照表で見るとわかりやすいかもしれない。債務欄(Liability)には、紙切れに印刷したドル札の合計額が書かれる。反対側の資産の欄には、対外投資額や外国への債権額が書かれる。それらは、一定の利潤を米国に運ぶだろう。総資産額が毎年自動的に大きくなるのである。世界一の借金王の米国の国債が、今でも一番信用がある。その理由は、米国が世界の警察官であるという身分と不可分な関係にあるということである。(補足3)
更に、発行したドル札には金利がつく。紙幣の本質は借金証書、つまり金を預かっていますという証明書なのに、利子というお金をその証書の発行主に支払うのである。(補足4)最初は不思議に思うのだが、紙幣の意味において、コペルニクス的転回が生じたのである。(下記の「警察官は泥棒を必要とする」というのも、社会のコペルニクス的転回である。)
そのFRBに入る金利や、諸外国への投資の利潤は、更に同様の対外投資に回されれば、原理的には諸外国の金融資本のほとんどを徐々に米国金融資本の配下に置くことも可能だろう。その非常に有利な国際的地位を簡単には手放す訳にはいかない。
何故、ロシアと対立してきたのか? それは、米国が世界の警察官というボスの位置に座るためにプレイしてきた芝居ではないのか? そのように謎を解決したと馬渕大使はおっしゃるのだろう。繰り返しになるが、警察官を演じるには悪人が必要である。それを引き受けて呉れたのが、或いは、引き受けさせたのがソ連であった。その延長上に現在の悪役ロシアが存在する。
つまり、米国はソ連を世界の脅威とすることで、米国の地位を確立したということだろう。そのメカニズムを1960年代に米国のケネディ大統領が破壊する可能性があった。(補足5)それがケネディ暗殺の本当の原因であるとほとんどストレートに馬渕睦夫氏は言っている。https://www.youtube.com/watch?v=WrigE8FsZmY&t=597s
上に引用の大使の話は非常に興味深い。ケネディ大統領は、ロシアと敵対しなくても良いと考えたというのだ。当時外務大臣だったグロムイコの回顧録に、そのことが書いてあると馬渕睦夫氏が暴露している。直接上記サイトの動画を視聴して見てください。
そのモデルを用いて、「何故、米国はNATOを東欧諸国にまで広げようとしてきたのか?」また、「何故ウクライナでの政変で親露のヤヌコビッチを追い出す運動を支持したのか?」「プーチンは本当に悪なのか?」などの疑問を考えると、何か明確に見えてくる様な気がする。日本の外務官僚や元外務官僚が忌み嫌う陰謀論である。DEEP STATEの存在である。https://www.youtube.com/watch?v=j1BQSxfMUkk
補足:
1)米国の覇権は、現在の世界秩序の上で大事である。ただ、一つの社会内部の言葉で語ると、以下のように狡いという印象の文章になる。その原因は、一つの言葉は社会の壁を跨いだ出来事を正当に表現する機能をもたないからである。例えば、野生の世界を一つの言語を用いて語ると、残酷で非情な描写になる。また、戦争とその周辺事項を通常の言語で語ると、一般人は忌避反応を示すことになる。世界政治を語る場合、その言葉の限界を知ることが特に重要だと思う。
2)善悪は社会が成立したときにルールとして制定される。半野生の現代政治において、善悪を論じるのは、半ば愚かなことである。更に野生の世界(あるいは生物の世界)全体を見れば、悪とは敵の別名にすぎない。親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、社会から阻害された人物に悪の烙印を押すのは、社会側の構成員の傲慢であるという意味である。全体を見る”阿弥陀如来の目”には、両者に差はない。むしろ悪人の方が、その生涯において十分不条理な苦労を強いられて来たのであり、阿弥陀仏の憐れみの対象としてふさわしい。 プーチン・ロシアが反米なのは、ソ連時代の延長線上にある。そこから急に踵を返すことは出来ない。10年間はかかるだろう。その10年は、日本にとっても正念場である。中国を敵とすることの困難は、朝鮮半島が世界1であり、日本が世界2である。文在寅が親中路線をとったのも、安倍総理が日中友好の看板を新たに掲げたのも、それを示している。米ソ冷戦時代は、日本にとっては幸せな世界だった。
3)国債の信用は、そのCDR (credit default swap)の代金(保険料金と考えて良いらしい)を見るとわかる。下図はそれを示した図で、DEEP MAXというyoutubeサイトからとった。
縦軸が0.01%単位での料率である。中国国債がもっとも高いので、国債信用が中韓日米の中で一番低い。また、日米の国債の信用は、一番高い。世界の金融マンが計算したこの数値からは、中国の国債がデフォルトする危険性は2018年の末時点でも、そんなに高くないことを示している。
4)本質は借金証書なのだが、ニクソン大統領の時に、金には交換しませんと宣言した。それでも、しっかりと米ドルは世界の決済通貨としての地位を保っている。それは何故か? その答えが、米国の国力が世界ダントツだということである。国力とは、経済力と軍事力の二つの積であると考えるのが普通。その考え方では、日本の国力はゼロに近い。何故なら、日本は軍事力がゼロ、つまり戦争できない国だからである。日本人がそれでも平和を享受できるのは、米国の属国だからなのだろう。原爆を日本に落とした米国も、もう罪滅ぼしはしたのだからと、路上に孤児として日本を放置する日が近い。子殺しが頻発する昨今、いつまで丸山穂高をいじめて馬鹿騒ぎをする国なのだ。
5)トランプ大統領はケネディ暗殺に関連する文書の公開を見送った。そのことは、米国国家の本当の権力者たちが彼を暗殺したことを示している。そこで最も疑われるのがCIAであるが、CIAかどうかはわからない。その原因は、ソ連を敵と見なす方向を転換し、米国の真の支配者と対立する可能性が高くなったからだろう。ケネディは、トランプのようにもう少し慎重であるべきだった。https://biz-journal.jp/2018/06/post_23585.html
2019年6月7日金曜日
人の不幸を楽しむニュースというテレビ番組
ヤフーブログ(姉妹サイトとしてきた)が廃止になった。amebaブログ(新しい姉妹サイト)に引っ越したのを記念して、丸山穂高議員の発言を真似して、愚かな文章を書こうと思う。非難轟々になれば、ブログをやめようと思う。
1)恐らく日本での特殊な現象だろう。テレビのニュース番組に占める個人的悲劇の割合が極めて高い。新聞でも、その種の記事とローカルな政治や経済の話題で埋められている。英国BBCのニュース欄とは大違いだ。
今朝の7時のNHKニュースでは、今後予想される豪雨などの天気に関するニュースに続いて放送されたのは、2歳児が親に殺されたニュースや、老人の運転する車が暴走した事故などである。その悲劇的場面を微に入り細に渡って、動画や静画を駆使して放送するのである。
そのような放送が一体一般人に何のニュース価値があるのか? 日本国民にとっては、ずっと後で放送された中露接近の方が遥かに重要なニュースである。それについては別途文章にしたいが、この中露の動きは、日本の国家としての存立を考える上で最重要の出来事である。それを表面の薄皮一枚の報道で済ませるニュース番組など、見なくて良い。NHKなど民間放送にし、視聴料制度を廃止すべきだ。(補足1)
人は社会的動物として誕生して以来、他人を自分と所属社会との関連で考えるようになった。その結果、社会の中で大きな話題となった第三者を、集団で評価したり虐待したりするようになった。前者は、英雄を群れ全体で褒め称える行動として、後者は集団で惨めな、又は、悪辣な個人を虐める性質として、ヒトの特別の性質として成立した。もちろん、社会生活をする動物には、人ほどでないにしても、これらの性質の片鱗が見えるだろう。
更に、そこからの延長としてだと思うのだが、社会全体を考えるほどの論理的言葉を持たない大多数の一般人に、(社会の)リーダーの行為に付和雷同する性質が備わったと思う。つまり、組織の下で動く大衆的性質の獲得である。その典型的な例は、同じ番組で放送されていた丸山穂高議員に辞任を要求する国会決議に、付和雷同するその他議員(大衆議員)である。(補足2)
2)これら大衆感情に100%迎合しているのが、日本の放送局やマスコミである。それを揶揄して「マスゴミ」という言葉もできている。そんな批判は、高給取りのマスコミ人には”道真に東風”ではなく、馬耳東風だろう。(補足3)
西欧政治文化の中で、マスコミは重要な役割を担っている。一般市民と政府の間にあって、政治に対する市民のフィードバックを仲介する機能を果たさなければならない。市民にその機能を利用する動き(国政論議)がないのなら、マスコミが政治的に堕落するのは必然かもしれないのだが。
公共放送を自認し、視聴料を税金のように集めるNHKも、上記のように堕落の例外ではない。NHKがこの為体(ていたらく)では、日本に将来はないだろう。その所為かどうかは兎も角、何もしないか猿真似しかできない人が、国会など社会の重要な位置に多く居座っている。(補足4)
この国は危ない、逃げた方が得だと考え、既にこの国脱出している人が、特に知的な層に多い。どうもそのような考え方をする人は日本国民だけではないようだ。
その本質的原因は、西欧の市民文化と異なった文化のエリアに、西欧的政治システムを持ち込んだ結果なのだろう。東アジア全体に言えることだと思うが、ギリシャやローマの時代からの政治文化を導入しても、100年ほどでは上手く働かないのは当然かもしれない。近代政治制度やその背後にある法治主義など、東アジア諸国はマスターしていないのである。
補足:
1)NHKに視聴料を支払う義務を定めているのは、放送法である。何もしない国家だから、この放送法もそうは簡単には改正されないだろう。以下、位置的にふさわしくないのだが、引っ越した際の挨拶がわりに現行憲法に対する筆者の考えを書いておく。
憲法前文に、「日本国民は、①恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、②平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。その精神から、憲法9条に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。念願と信頼を元に決意し、それをそのまま憲法にして国家を縛るという宣言である。「人間の優しさを念願し、生物間の公正なる関係を信頼し、従順なる家畜とならんことをここに決意した」と、牛や豚が宣言するのに等しい。牛や豚もこれほどアホではあるまい。
2)北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた丸山議員が、11日の夜、国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と質問したことを非難された。それ以外の小さいことは、その非難に人格攻撃を付け足し嵩上げするためのものである。
その疑問文は、「何の為のビザなし交流団なのかわからない。旧島民のあなた(訪問団の団長)は島を取り戻すことを目的に参加しているとしたら、それは無理ですよ」というメッセージである。日露問題は、もっと将来を幅広い角度で見て考えるべきであると言いたいのだと思う。もし、そうなら私は丸山議員のこの発言は、理解できる。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_15.html
3)道真は学問の神様と言われる。その東風を感じて歌を読む道真と、何も感じない馬との差に着目して、四字熟語の”道真東風”を作ったということ。下らない冗談です。
4)上記丸山議員の非難決議に反対や棄権をした国会議員はほとんどいない。ただ一人、小泉進次郎氏が棄権したのみである。堂々と反対意見を述べ、反対票を入れるほどの人物ではないのが残念である。
1)恐らく日本での特殊な現象だろう。テレビのニュース番組に占める個人的悲劇の割合が極めて高い。新聞でも、その種の記事とローカルな政治や経済の話題で埋められている。英国BBCのニュース欄とは大違いだ。
今朝の7時のNHKニュースでは、今後予想される豪雨などの天気に関するニュースに続いて放送されたのは、2歳児が親に殺されたニュースや、老人の運転する車が暴走した事故などである。その悲劇的場面を微に入り細に渡って、動画や静画を駆使して放送するのである。
そのような放送が一体一般人に何のニュース価値があるのか? 日本国民にとっては、ずっと後で放送された中露接近の方が遥かに重要なニュースである。それについては別途文章にしたいが、この中露の動きは、日本の国家としての存立を考える上で最重要の出来事である。それを表面の薄皮一枚の報道で済ませるニュース番組など、見なくて良い。NHKなど民間放送にし、視聴料制度を廃止すべきだ。(補足1)
人は社会的動物として誕生して以来、他人を自分と所属社会との関連で考えるようになった。その結果、社会の中で大きな話題となった第三者を、集団で評価したり虐待したりするようになった。前者は、英雄を群れ全体で褒め称える行動として、後者は集団で惨めな、又は、悪辣な個人を虐める性質として、ヒトの特別の性質として成立した。もちろん、社会生活をする動物には、人ほどでないにしても、これらの性質の片鱗が見えるだろう。
更に、そこからの延長としてだと思うのだが、社会全体を考えるほどの論理的言葉を持たない大多数の一般人に、(社会の)リーダーの行為に付和雷同する性質が備わったと思う。つまり、組織の下で動く大衆的性質の獲得である。その典型的な例は、同じ番組で放送されていた丸山穂高議員に辞任を要求する国会決議に、付和雷同するその他議員(大衆議員)である。(補足2)
2)これら大衆感情に100%迎合しているのが、日本の放送局やマスコミである。それを揶揄して「マスゴミ」という言葉もできている。そんな批判は、高給取りのマスコミ人には”道真に東風”ではなく、馬耳東風だろう。(補足3)
西欧政治文化の中で、マスコミは重要な役割を担っている。一般市民と政府の間にあって、政治に対する市民のフィードバックを仲介する機能を果たさなければならない。市民にその機能を利用する動き(国政論議)がないのなら、マスコミが政治的に堕落するのは必然かもしれないのだが。
公共放送を自認し、視聴料を税金のように集めるNHKも、上記のように堕落の例外ではない。NHKがこの為体(ていたらく)では、日本に将来はないだろう。その所為かどうかは兎も角、何もしないか猿真似しかできない人が、国会など社会の重要な位置に多く居座っている。(補足4)
この国は危ない、逃げた方が得だと考え、既にこの国脱出している人が、特に知的な層に多い。どうもそのような考え方をする人は日本国民だけではないようだ。
その本質的原因は、西欧の市民文化と異なった文化のエリアに、西欧的政治システムを持ち込んだ結果なのだろう。東アジア全体に言えることだと思うが、ギリシャやローマの時代からの政治文化を導入しても、100年ほどでは上手く働かないのは当然かもしれない。近代政治制度やその背後にある法治主義など、東アジア諸国はマスターしていないのである。
補足:
1)NHKに視聴料を支払う義務を定めているのは、放送法である。何もしない国家だから、この放送法もそうは簡単には改正されないだろう。以下、位置的にふさわしくないのだが、引っ越した際の挨拶がわりに現行憲法に対する筆者の考えを書いておく。
憲法前文に、「日本国民は、①恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、②平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。その精神から、憲法9条に「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めている。念願と信頼を元に決意し、それをそのまま憲法にして国家を縛るという宣言である。「人間の優しさを念願し、生物間の公正なる関係を信頼し、従順なる家畜とならんことをここに決意した」と、牛や豚が宣言するのに等しい。牛や豚もこれほどアホではあるまい。
2)北方領土へのビザなし交流訪問団に同行していた丸山議員が、11日の夜、国後島の宿舎で酒に酔い、元島民の団長に「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と質問したことを非難された。それ以外の小さいことは、その非難に人格攻撃を付け足し嵩上げするためのものである。
その疑問文は、「何の為のビザなし交流団なのかわからない。旧島民のあなた(訪問団の団長)は島を取り戻すことを目的に参加しているとしたら、それは無理ですよ」というメッセージである。日露問題は、もっと将来を幅広い角度で見て考えるべきであると言いたいのだと思う。もし、そうなら私は丸山議員のこの発言は、理解できる。 https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/05/blog-post_15.html
3)道真は学問の神様と言われる。その東風を感じて歌を読む道真と、何も感じない馬との差に着目して、四字熟語の”道真東風”を作ったということ。下らない冗談です。
4)上記丸山議員の非難決議に反対や棄権をした国会議員はほとんどいない。ただ一人、小泉進次郎氏が棄権したのみである。堂々と反対意見を述べ、反対票を入れるほどの人物ではないのが残念である。
2019年6月3日月曜日
言葉の5W1Hを考慮した使い方を教育すべき:「死ぬなら一人で死ね!」を巡る議論
1)前回ブログで、数日前川崎市で児童等20名を殺傷し、その後自殺した50代の男性に対し、多くの人が鬱憤を晴らすかのように「死ぬなら一人で死ね!」と言いたいと、テレビやネットで発言した。この発言に対し、多くの教育評論家などが批判しているが、テレビ朝日が一般人に対してアンケート調査した結果では、その発言に48%の人が肯定的であったという。反対は30数パーセントだった。(6月3日朝の羽島モーニングショー)
一方、昨日朝のフジテレビ「THE PRIME」(日曜前7・30)にゲスト出演した橋本徹氏は、「自殺に悩んでいる人をしっかり社会が支えていきますというのは当然のこと」と前置きし、「やむにやまれず自分の命を断つときは、他人を犠牲にしてはならない。ちょっと言いすぎかも分からないけど、死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」(補足1)と述べた。http://news.livedoor.com/article/detail/16554498/
これら全ての意見や調査結果は、観察する角度を調節すれば、全て納得のいくものである。何故なら、それぞれが異なる前提の下で喋っているからである。つまり、これらの議論は噛み合っていない。
2)どのような発言でも、「誰が、誰に、何処で何時、何の目的(何故)で、どのように言うか」という5W1hを先ず明らかにし、その上で評価すべきである。しかし、ここ数日の議論のなかで、発言の5W1Hに明確に言及したものはほとんどなかったと思う。
例えば、あの事件の防止を目的にその様な言葉を事前に犯人に向かって言うのなら、それは一定の意味のある発言だろう。勿論、逆効果かもしれないが、目的と発言の間には明確な関係がある。しかし、あの事件が起こったのちに、今後類似の事件を防止することを考える段階での、「死ぬのなら一人で死ね!」的な発言は、その目的放棄の宣言になる。これが前回、その種の発言をした立川志らく氏を批判した理由である。
もし、今後類似の事件を防止するのが目的の議論なら、もっと前段階、例えば背景にある「引きこもり」が生じる原因やその対策の話に、長時間費すことになるだろう。
つまり、上記「死ぬのなら一人で死ね!」とテレビなどで言う人は、単に被害者側の親族の側にたち、自殺した岩崎という人を足蹴にしているに過ぎない。あとから現場に来て、犯人のいじめ(逆襲)に加わっただけである。それは、類似の状況にあるかもしれない多くの人に対して、幻想の中で痛みを生じさせ、類似の事件の発生を促すことになるだろう。
一方、犯人の岩崎に向かって「死ぬのなら一人で死ねよ」という場面の夢を見たひとが多かったかもしれない。それは全く非難されることではなく、極当たり前のことである。人に話す場面において、言葉は人と人が接触する人格の外面でのやりとりの道具であり、人格内部の思いの表現とは別だからである。
繰り返しになるが、このようなトゲトゲした言葉は、正当な戦いの際に自陣を鼓舞する目的で用いるのは良いが、戦うわけには行かない同胞や戦っては損をする相手に対して、使うのは賢明な行為ではない。
自分の内部の表現である思考や論文における言葉の使い方と、人と人の連絡の時に使う言葉の使い方は自ずと異なる。教育すべきは、5W1Hを考えた多様な言葉の使い方である。思考には思考の、依頼には依頼の、事実の解明には事実解明の、それぞれ言葉の使い方があるのだ。
因みに、政治家の発言で例をあげる。そのような言葉使い方を知らなかったのが、丸山穂高議員だろう。一方、言葉の使い方をよく知っている人として、トランプ米国大統領であげられる。(補足2)政治家としての優秀さには(比較することは失礼だが)、当然のことだが、大差がある。
補足:
1)「自分が死ぬ時、他人を巻き添えにしてはならない」と教育するべきだと、橋下徹氏が発言したのだが、その趣旨は明確でない。深く考えての発言ではないだろう。事件の犯人岩崎が多くの子供を巻き添えにしたのは、社会を敵と定めたからである。自分を社会の一員であると考えている人が病苦か何かで死ぬとき、社会の大事な一員を巻き添えにすることを考える筈がない。
また「死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」という発言だが、これも思いつきで言ったのだろう。政治家だったなら、言葉尻を捉えられて攻撃される類の発言である。”死に方”は人生の難題である。それを中等教育レベルで教えるような国に住みたくはない。
2)文在寅韓国大統領が、トランプ大統領の先月の日本訪問の際に、「ちょっとでも立ち寄ってほしい」と、トランプ大統領に電話会談で依頼した。トランプは、その気がないのだが、その際文大統領の言葉に対して「興味ある提案だ」と言ったのである。
一方、昨日朝のフジテレビ「THE PRIME」(日曜前7・30)にゲスト出演した橋本徹氏は、「自殺に悩んでいる人をしっかり社会が支えていきますというのは当然のこと」と前置きし、「やむにやまれず自分の命を断つときは、他人を犠牲にしてはならない。ちょっと言いすぎかも分からないけど、死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」(補足1)と述べた。http://news.livedoor.com/article/detail/16554498/
これら全ての意見や調査結果は、観察する角度を調節すれば、全て納得のいくものである。何故なら、それぞれが異なる前提の下で喋っているからである。つまり、これらの議論は噛み合っていない。
2)どのような発言でも、「誰が、誰に、何処で何時、何の目的(何故)で、どのように言うか」という5W1hを先ず明らかにし、その上で評価すべきである。しかし、ここ数日の議論のなかで、発言の5W1Hに明確に言及したものはほとんどなかったと思う。
例えば、あの事件の防止を目的にその様な言葉を事前に犯人に向かって言うのなら、それは一定の意味のある発言だろう。勿論、逆効果かもしれないが、目的と発言の間には明確な関係がある。しかし、あの事件が起こったのちに、今後類似の事件を防止することを考える段階での、「死ぬのなら一人で死ね!」的な発言は、その目的放棄の宣言になる。これが前回、その種の発言をした立川志らく氏を批判した理由である。
もし、今後類似の事件を防止するのが目的の議論なら、もっと前段階、例えば背景にある「引きこもり」が生じる原因やその対策の話に、長時間費すことになるだろう。
つまり、上記「死ぬのなら一人で死ね!」とテレビなどで言う人は、単に被害者側の親族の側にたち、自殺した岩崎という人を足蹴にしているに過ぎない。あとから現場に来て、犯人のいじめ(逆襲)に加わっただけである。それは、類似の状況にあるかもしれない多くの人に対して、幻想の中で痛みを生じさせ、類似の事件の発生を促すことになるだろう。
一方、犯人の岩崎に向かって「死ぬのなら一人で死ねよ」という場面の夢を見たひとが多かったかもしれない。それは全く非難されることではなく、極当たり前のことである。人に話す場面において、言葉は人と人が接触する人格の外面でのやりとりの道具であり、人格内部の思いの表現とは別だからである。
繰り返しになるが、このようなトゲトゲした言葉は、正当な戦いの際に自陣を鼓舞する目的で用いるのは良いが、戦うわけには行かない同胞や戦っては損をする相手に対して、使うのは賢明な行為ではない。
自分の内部の表現である思考や論文における言葉の使い方と、人と人の連絡の時に使う言葉の使い方は自ずと異なる。教育すべきは、5W1Hを考えた多様な言葉の使い方である。思考には思考の、依頼には依頼の、事実の解明には事実解明の、それぞれ言葉の使い方があるのだ。
因みに、政治家の発言で例をあげる。そのような言葉使い方を知らなかったのが、丸山穂高議員だろう。一方、言葉の使い方をよく知っている人として、トランプ米国大統領であげられる。(補足2)政治家としての優秀さには(比較することは失礼だが)、当然のことだが、大差がある。
補足:
1)「自分が死ぬ時、他人を巻き添えにしてはならない」と教育するべきだと、橋下徹氏が発言したのだが、その趣旨は明確でない。深く考えての発言ではないだろう。事件の犯人岩崎が多くの子供を巻き添えにしたのは、社会を敵と定めたからである。自分を社会の一員であると考えている人が病苦か何かで死ぬとき、社会の大事な一員を巻き添えにすることを考える筈がない。
また「死に方というところを教育することが、僕は重要だと思う」という発言だが、これも思いつきで言ったのだろう。政治家だったなら、言葉尻を捉えられて攻撃される類の発言である。”死に方”は人生の難題である。それを中等教育レベルで教えるような国に住みたくはない。
2)文在寅韓国大統領が、トランプ大統領の先月の日本訪問の際に、「ちょっとでも立ち寄ってほしい」と、トランプ大統領に電話会談で依頼した。トランプは、その気がないのだが、その際文大統領の言葉に対して「興味ある提案だ」と言ったのである。
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