注目の投稿
人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2020年1月31日金曜日
武漢に国際社会は注目すべき(現地からの動画発信の紹介)
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武漢市は1月23日午前10時に閉鎖された。その時、既に春節(旧正月)の人の移動が始まっていた。東京新聞によれば、武漢市の周先旺(しゅうせんおう)市長は二十六日夜、武漢が二十三日に事実上の「封鎖」となる前に、約五百万人が帰省や旅行ですでに武漢を離れていたと明らかにした。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/202001/CK2020012802000130.html
一体何のための封鎖なのか?情報の封鎖なのか? 感染の封鎖にはもはや役立たない。若者たちは、youtube動画で、武漢市民の窮状を訴えている。武漢市の病院は患者で溢れているという。病院で長時間待たされた後に看てもらっても、武漢市衛生検査委員会に報告され、許可が降りた人のみが病院の治療を受けることができるという。
病院に行くことは、自分を感染させるために行くようなものであるという。彼の予想では、政府発表の100倍の感染者が出ているだろうと言う。
交通が遮断された武漢市には、野菜などの食料はない。ガソリンスタンドも閉鎖され、自分では何もできないと訴えている。(補足1)公安を怖れながら、世界に助けを求める為に動画を公表していると言う。武漢の件が国際的に注目されることで、中国政府への圧力につながることを期待しているのである。
https://www.youtube.com/watch?v=pj45VVHBfPA
別の若者も、真実を世界に発信するために、youtube動画をアップロードしている。それを日本語に翻訳した人が、日本語字幕を入れて転送したので、我々にも真実の別の一片をしることができる。窮状は上記動画と同じだが、最後の方で、以下のように言っている。
皆が洗脳されている訳ではありません。我々も民主主義、自由、開放された社会を望んでいます。助けてください。我々武漢人には国際社会の関心が必要です。我々だけでは何もできません。
https://www.youtube.com/watch?v=Mcfn5Eh5OVE
更に、日本語で武漢の窮状を訴える若者もいる(日本からかもしれない)。彼もまた、武漢は地獄だという。「政府は、武漢をあきらめたのだろうか」と嘆く。千万人レベルの人の命を雑に扱った武漢市長を、犯罪人だ糾弾する。
https://www.youtube.com/watch?v=zaNgOwuQJxw
補足: 1)中国の街は恐らく城壁で囲まれているだろう。従って、封鎖は完璧にできる。それは、例えば山崎豊子の小説「大地の子」の人民解放軍による長春封鎖を描いた部分を読めばわかる。読んではいないのだが、遠藤誉の「チャーズ」にもっと詳細にかかれているかもしれない。勿論、今回の武漢封鎖の光景は「大地の子」の中の地獄ほどではないだろうが、性質としてよく似た恐怖感に苛まれているのだと思う。本当に気の毒である。
2020年1月30日木曜日
武漢肺炎ウイルスは開発中の生物兵器が漏れたのか?
以下は、及川幸久氏のクワイトフランクリー動画で放送された内容に、そこで引用された記事から抜粋した内容を加えて、簡単にまとめたものである。
尚、武漢市の現状は中国人youtuberが日本語で発信しています。補足2 を御覧ください。
武漢は戦場のようです。中国の政治は異常だということです。
1)武漢肺炎は生物兵器開発途中のウイルスが漏れ出たことが原因か?
中国武漢から広まった新型コロナウイルスは中国が開発中の生物兵器が漏れて世界中に拡散したという説がある。その可能性は、ワシントン・タイムズというワシントン唯一の保守系新聞が報道した。
The deadly animal-borne coronavirus spreading globally may have originated in a laboratory in the city of Wuhan linked to China’s covert biological weapons program, said an Israeli biological warfare analyst.
イスラエルの生物兵器アナリストによると、世界中に広がる致命的な動物媒介コロナウイルスは、中国の秘密生物兵器計画に関連する武漢市の研究所で発生した可能性があります。
https://www.washingtontimes.com/news/2020/jan/26/coronavirus-link-china-biowarfare-program-possible/
上記英語の原文では、may have originated と書かれており、might have originatedではないことは注目すべきである。上記武漢の研究所は、中国科学院武漢国家生物安全実験室で、中国初で唯一の最高度安全実験施設(レベル4)である。この実験室は、SARS(重症急性呼吸器症候群)やエボラ出血熱のような新たなウイルスのコントロールを主な目的とするという。
もし上記説が単なる陰謀論なら、この中国唯一のレベル4のウイルス研究所の存在する場所の近くで新型肺炎が発生したことが、原因だろう。ただ、根拠もなしに、このような説を流布することなど、一定の信用あるメディアには考えられない。
中国と関係が深い左派系新聞のワシントン・ポストの記事を下に引用しておく。ワシントン・ポストは、中国のプロパガンダ誌を時々折り込むこと(上記及川氏動画;補足1)を考えると、この件について何方に信頼性があるかは明らかである。
2)ウイルスの発生元に対する疑惑に対し、中国政府は沈黙している。
ワシントン・タイムズの1月27日付けの記事は、米国務省は昨年の報告書によれば、中国が条約に違反して、強力な生物兵器開発に密かに取り組んでいると書いている。以下に1月27日の記事から抜粋して、表題の疑いの根拠について若干記す。https://www.washingtontimes.com/news/2020/jan/27/china-silent-coronavirus-origins-amid-wuhan-seafoo/
英国のThe Lancetという有名な医学系雑誌に執筆している中国人研究グループ(29人)によれば、武漢のウイルスで最初に病気になった人は、12月1日に特定されたが、海鮮市場(動物売買の)とは関係無いと述べた。また、ジョージタウン大の感染症の専門家であるDaniel Lucey教授は、最も初期の感染は昨年の11月であると言っている。
ワシントン・タイムズは、少なくとも13人の犠牲者は、海鮮市場とは無関係に発病していると書いている。そして、感染媒体となったと疑われているジャコーネコなどの野生動物は、武漢の海鮮市場で1月1日の市場閉鎖まで販売されていたという。
初期の犠牲者(感染者)とその後の海鮮市場経由で感染した人たちの間の感染関係が明白ではないのだが、この疑問に関して、中国政府は沈黙しているというのである。それらが事実なら、そこからの推理は簡単だが、ここでは書かない。
以上、陰謀論ではあるが、中国政府がそれを完全に否定するには、軍隊を使って武漢を閉鎖するだけでなく、情報をオープンにして、世界の科学者とともに原因を究明する姿勢が大事である。中国にその姿勢は見られないだけでなく、米国による陰謀説を流布しているのは、非常に残念である。
補足:
1)米国ワシントン・ポストの他、日本でも毎日新聞が中国のプロパガンダ誌「チャイナウォッチ」を織り込んでいるという。https://www.jijitsu.net/entry/gurdian-mainichishinbun-propaganda-chinawatch
2)武漢の現状は現地の人がアップしています。中国政府の闇!新型コロナウイルスの怖さ!武漢はまさに戦場!
2020年1月29日水曜日
新型コロナウイルスから身を守る方法
武漢で発生した新型コロナウイルス(nCoV2019)の人—人感染が日本でも明らかになった。そこで、我々は防御をしっかりする必要があるだろう。及川幸久氏は、米国のジャーナリスト ローリーギャレットさんの記事を紹介している。https://foreignpolicy.com/2020/01/25/wuhan-coronavirus-safety-china/
ギャレットさんは、SARSウイルスが流行した時、多くの感染者に取材しているが自身は感染しなかった。その方法を紹介している。
1)外出の時に手袋をする。電車、地下鉄、バスの中でも。
2)手袋をとる時、顔や目をさわらないこと。手袋をする前に手を石鹸であらうこと。
市販の手を洗うジェルなどは使わない方が良いだろう。
3)手袋は複数持って、使った後には洗うこと。
4)マスクは室外ではあまり役立たない。室内でもそれほど役立たない。マスクを外出後捨てなければ、役立たないというより有害ですらある。マスクをするよりも、人混みを避けるべきだが、最低でも人から50cm離れること。クシャミや咳をしている人がいれば、マスクをするように依頼する。
5)家の中では、キッチンとバスルームの全てのタオルを取り除く、キレイなタオルに交換する。個人別にタオルを用いる。
6)ドアノブに注意。ドアノブに触る時には、手袋をするか、触った後に手を洗う。手摺、他人のパソコンや携帯に触ったら、直ぐに手をあらう。
7)食事の皿は個別にする。同じ皿から料理を取るときは、各自のはしや用具を用いない。
上記ギャレットさんの記事には無いが、多分他の記事にあったのだろう、及川氏は以下の項目も追加している。
8)自宅や職場の窓を空けて換気する。ウイルスは通気の良いところを好まない。
9)感染者の世話をする時、自分も感染者もマスクをする。手袋をして感染者のマスク交換をする。
補足: インフルエンザと同様の対策が有効。考えられる感染には、飛沫感染、接触感染、空気感染の三種類がある。マスクは飛沫感染を防ぐが、その後マスクの中にウイルスを含んだ飛沫(つばきなど)が存在することに注意が必要である。マスクは空気感染には、効果が限定的である。ウイルスの付着したサブミクロンサイズの粒子はマスクを素通りするからである。換気は病原菌を排出する意味で大事。外気は太陽光で殺菌される。
接触感染を防ぐには手洗いが大事だが、洗った後のタオルが汚れている可能性があるので注意が必要。
2020年1月23日木曜日
有識者会議を利用する政府の反民主的立法
今日の記事も及川幸久氏のブログ記事の紹介である。有識者会議という反民主主義的手法を用いて、官僚独裁の政治を行う現政府を批判した内容である。
https://www.youtube.com/watch?v=9-6H9ujDFzQ
政府が検討しているインターネット課税は、言論の自由という民主政治の基本に抵触するので、恐らく国会に出せないだろう。ただ、そのようなとんでもない法案でも、日本なら成立する可能性がある。この件は、議論が本格的になったとき、再度考えることにして、今回は有識者会議そのものについて少し書きたい。
政府は、有識者会議の権威を否定し以下のように言うだろう:
有識者会議は、法案提出の前に一度意見を国民から聞く組織として利用している。その上で、国会議員から再度意見を聞き、法案を修正の後決議する。つまり現行の方法は、二重に国民の意見を聞くことになり、より民主政治の精神に近い。
言い訳はいかようにも可能である。有識者会議で権威付けされて国会に提出された法案は、まともな議論を経ずに可決される。日本社会は、大学でも会社でも何でも、入口だけに関門のある不可思議な社会である。政府が意見を聞くための代表として、国民が国会議員を選出していることなど、実質的には無視しているのである。
以前、女系天皇を容認する皇室典範の改正法案を国会に出そうとした小泉内閣が、その法案の権威付けに有識者会議を用いた時、それを批判した。その記事はこのブログサイトの何処かにあるだろう。その有識者会議の出した結論は、内閣総理大臣決済と表示され、堂々と首相官邸のページに掲載されている。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html
この有識者会議の座長の吉川弘之氏は、工学部出身の人で当時産業科学研究所理事長であった。産総研は、日本最大の理系研究機関であり、独立行政法人として経産省官僚の天下り機関となった、元工業技術院という役所であった。当時の実態は筆者がよく知っている。
この吉川氏は、皇室と日本文化などに全くの無知な人だった。(補足1)その方が政府の脚本通りに、”ロボットのように”動いてくれるから好都合だったのだろう。米国や西欧諸国では、think tank が議論した行政方針をそのまま、行政機関トップのHPに掲載したりしないだろう。
有識者会議を利用して行う“行政府による立法” (補足2)と行政は、及川氏の指摘する通り、官僚独裁政治の一環である。官僚たちは全てを丸投げしてくれる内閣を利用して、政府を大きくして、自分たちの天下り先を拡大することに精をだしているのだ。
日本では、議員が法案を提出し国会での議論を経て法律を作ることを、まるで特殊であるかのように「議員立法」と呼ぶ。一般国民やマスコミは、別ルートの行政府から提案された法案を基に立法する形式を、殊更「内閣立法」などと呼ばない。国民は、そのように洗脳されている。
その一方、法案の中身を議論検討する筈の国会では、野党が、森友問題、加計問題、桜を見る会などを取り上げて、予定されたボケ役をしている。大事なことは全て、官僚が考えてくれた案を立法化して、政府がやってくれると思っているのだろう。彼ら与野党議員たちは、日本に巣食う政治家貴族である。与野党に分かれて劇を演じているだけである。その影で、内閣が作った重要法案は殆ど議論されずに、可決成立している。(補足3)
民主政治の基本が出来ていない日本には、米国のような共和制が必要だろう。効率の悪い政治になるだろうが、政治家だけでなく国民も、議論して何かを決めるという苦労を強いられることで、政治の質が改善されるように思う。
補足:
1)吉川弘之と論文で検索すれば分かる。ロボット工学が専門であったようだが、日本文化や天皇制に関する論文は一つもない。https://ci.nii.ac.jp/nrid/1000020010689
2)議員立法とことなり、政府提出の法案が国会で可決成立する確率は90%程度である。行政府は、実質的に立法府も兼ねている。国会は、三権分立制度という建前上の飾りに似ている。
3)例えば、国政上非常に重要な新入管法やアイヌ新法などは、ほとんど議論されずに、政府提案通りに可決成立している。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/02/blog-post_7.html
2020年1月15日水曜日
サンデル教授の講義で有名になったトロッコ問題について:
今日偶然、トロッコ問題を考えることになった。(補足1)この問題は、マイケル・サンデル教授のハーバード白熱教室の第一回目に紹介されているので、参考にされたい。
https://www.youtube.com/watch?v=_qcaASOgHy8
1)トロッコ問題とサンデル教授の講義:
トロッコ問題とは、路面電車の前方に方向を変えるポイントがあり、その前方に5人が作業をしている。このまま進めば5人をはね殺すことになる。ポイントのところに居る自分は、ポイントを切り替えればもう一方に路面電車を向かわせると、1人を犠牲にするが、5人の命を救える。そのような場合、ポイントを切り替えることが、道徳的に許されるだろうか?
図はウィキペディアから借用:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3%E5%95%8F%E9%A1%8C
上記トロッコ問題の趣旨は、最大多数の最大幸福という観点からすれば、ポイントを切り替えることが正しいとなる。(功利主義的)しかし、ポイントを切り替えれば、自分の行為として別ルートの人を殺してしまうことになるので、道徳的に無条件的に許されないと考えられる(カントの定言命法の一例)。普通、この矛盾を超えられずに悩む。
この問題について、私は以下のように考える。人の生命を操作する問題を、道徳や倫理問題として設定することは不可能である。何故なら、「人(生物としての人)」は、道徳や倫理を道具として利用し、「人間(社会的人)」となるが、社会を離れた状況下にある人は、それらに支配される存在ではないからである。
つまり、神が人を社会的存在として創造したという思想(宗教)を受け入れれば別だが、現代では通常、道徳は社会をつくるための“道具”であり、倫理はその根拠を与えるための思想として理解される。従って、社会を形成する以前の存在、社会を剥ぎ取った“裸の状態の人”、には善悪など存在しないのである。(補足2)
西欧において、カントとかいう人が定言命法(kategorischer Imperativ)なる概念を提出したのは、神が存在する前提があることに気が付かなかったのか、そのような前提など不要だと考えたからだろう。(補足3)つまり、神が上記“裸の状態の人”を作ったのなら、人の全ての行為は無条件に(社会の形成などとは無関係に)、神が定めた善悪の基準で評価される。
従って、上記トロッコ問題は、世界を支配する人格神が存在し、その神のみが出せる問題である。社会の中にどっぷり浸かっている人が、社会の境界から溢れるような場面の人、つまり、自分或いは他人の生死を自分が決める可能性のある状況に置かれている人に出せる問題ではない。(補足3&補足4)
ただ、その線路に横たわっている人物の何人かが、自分の親族なら、それは道徳や倫理と無関係に問うことは可能である。そして、その場合の判断は当然“法”も超える。法を超えた行為でも、法による処罰はある。それは、社会を守るためである。(補足5)
これと関連して、刑法の意味を書いておきたい。「人を殺したるものは、死刑又は3年以上の懲役に処す」という刑法の文章は、「人は人を殺してはならない」という神の領域の規則(道徳)ではない。つまり、“裸の状態の人”には人を殺す自由が存在するのである。(補足6)
勿論、それを実行した場合は、“社会を作る人”とその機関により逮捕され処刑される可能性がたかい。法律の理論では、「刑法に拘束されるのは裁判官であり、犯罪者ではない」ということになる。法は社会の規則であり、道徳は宗教つまり神の人に対する要請であり、社会と宗教は同一ではない。日本という単一文化の国では、この関係を知る(実践的知識として)のはマイノリティーだけだろう。
トロッコ問題に近いケースは、歴史上何回かあっただろう。そのひとつがミニョネット号事件である。つぎにそれについて簡単にレビューする。
英国の船ミニョネット号が、喜望峰からインドに向かう途中難破してしまった。4人が救命ボートの中で飢餓に苦しむが、そのうちに弱った1人を殺して飢えを凌ぐという極限情況を経験する。難破19日目にドイツ船に救助され、本国に戻され、殺人罪の被告となる。この救命ボードでの殺人事件(ミニョネット号事件)は、ウィキペディアに紹介されている。
裁判では緊急避難を適用した違法性の阻却(そきゃく:しりぞける事)が考えられたが、イギリス当局は起訴。最初の裁判の陪審員は違法性があるか否かを判断できないと評決したため、イギリス高等法院が緊急避難か否かを自ら判断することになった。(補足7)
イギリス高等法院はこれを緊急避難と認めることは法律と道徳から完全に乖離していて肯定できないとし、謀殺罪として死刑が宣告された。しかし、世論は無罪が妥当との意見が多数であったため、ヴィクトリア女王から特赦され禁固6ヶ月に減刑された。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://ddnavi.com/news/321617/a/
2)勉強をすると思考力をなくす? ミニョネット号事件を裁いた英国の裁判官
上記ミニョネット号事件とその判決及び女王による特赦のケースは、一般人の方が裁判官よりも賢かった(正しい感覚を持っていた)という実例である。この情況はイギリスだけではなく、日本でも同様だろう。つまり、猛勉強した人は思考力を失うのである。
最近書いたブログで、伊藤貫氏が西部邁氏との討論で言った言葉「私の同級生(東大経済学部)たちの殆は、18−9歳になったとき既に思考力を失っていたのです」を引用した。これは、当時東大経済学部に入学したひとの殆どは、他学部も同様だろうが、厳しい勉強の何年間を過ごして入試に合格したこと、そしてその勉強の効果として思考力を喪失していたことを示している。
もう15年ほど前になるが、研究所(産業技術総合研究所)の所属部門での飲み会のときに、「刑法の規定は、一般の人を縛るのではなく、裁判官を縛るのです」という話をしたら、向かいに座っていた10歳ほど年下の所属部門の長が、何度説明しても「私にはどうしても信じられない」と拒絶したことを、今では懐かしく思い出す。
社会学や人文学において大成するには、自然科学的知識は有用である。しかし、自然科学の勉強は社会や人間に対して目をむける時間を奪う。更に、もしその自然科学での努力が、上記猛勉強の類であれば、全ての知的分野で思考力を喪失する。それは、知的外堀となり、そこから這い出る事のできる人は少ない。
勉強やそのための読書が過度になり、時々の脳のリフレッシュを怠ると、思考力や人間としての正常の喪失する可能性がある。そのようになってはもはや、救いようがない。
類似の問題の議論として、以前に名大の「人を殺して見たかった」という女性(名大生)の殺人事件について書いたので、リファーしておく。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/02/blog-post_24.html
(19日早朝編集)
補足:
1)この問題を考える切掛になったのは、QUORAというサイトで偶然以下のようなページを発見したからである。「例えば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして、あなたは誰かが名乗り出るのを待っているだけの男ですか?」
これは都内のある大学の経済学部教授で松本貴典というハンドルネームの方による、トロッコ問題の変形である。その人は、鉄道技術に詳しいかたの「ポイントは通常中立に出来るので、そうすれば6人は助かる」という答えをツイッターか何かで見つけて称賛しているのだが、本文で述べたように、この方は問題を誤解しているのである。
2)浄土真宗の開祖と言われる親鸞のことば、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」は、社会の恩恵を受けなかった人たちが、自分の生命を維持するために緊急避難的に悪を為したとしても、それは罪ではない。ましてや、豊かに暮らしている役人たちに裁かれる理由などないと言う意味である。
尚、仏教では全ての生きる物に憐れみを持つべきであるというのが教えである。一方、キリスト教やユダヤ教の聖典では、異教徒を殺す行為は称賛される。人格神を持つ宗教は、種族の生き残りの戦争のために創られ、本来(古来)の神道や仏教とは異なる。アマテラスの伊勢神道は、元の神道を人格神的に変形したものである。
なお、社会から離れて人を殺す場面として、戦争での殺戮行為や正当防衛による殺人がある。(親鸞以外の記述は18日に追加)
3)仮言命法というのは「〜ならば」という仮定が入る命令である。つまり、定言命法というが、それは「人格神(ヤハウエ)が存在するならば」という前提を置いた、仮言命法である。日本人なら、カントよりも親鸞の思想の深さを再確認すべきである。
4)この問題と一定の関係にあるのが、以下の問題である。自分の車が、交通が頻繁ではない野原の交差点の赤信号で停止した。遠く見渡しても車がいない時、信号が青になるのを待つべきか? その時、小さいヤブの中に身を隠す警察官がいて、信号無視した自分を追いかけてきたとする。その時、あなたはどう考えるか?
5)この場合、ポイントの切り替えは、明らかに法や道徳という社会的基準の外の行為であることが、感覚的に分かる。つまり親族は、社会形成以前の存在である。
6)同様な関係が、現代世界の主権国家体制である。国家間には、十分な権威のもとに社会は形成されていない。従って、ある国には他の国を滅ぼす自由が存在するのである。条約を破棄することも基本的に自由である。つまり、単に損得の問題である。トロッコ問題の迷路から出ることの出来ない人は、その主権国家体制の原則も分からないだろう。他国の善意にある程度期待ができるのは、その国の文化に社会的善意が濃く存在する場合のみである。
7)緊急避難とは、個人が社会から離れている状況にあることを意味する。何処に避難するのかと言われて答えられない人は多いだろう。前節における用語では、社会という衣を脱ぎ捨てた裸の状態への避難である。
2020年1月13日月曜日
ゴーン事件のモデル: 政府官僚の天下先としての大企業と日本の中国化
カルロス・ゴーンが特別背任罪で逮捕されたのは、日産とルノーの合併の話を日本の経済産業省が阻止するためだという話は、以前から聞いていた。そのモデルを、及川幸久氏が動画Breaking Newsで一つの可能性として慎重に提示している。https://www.youtube.com/watch?v=CIxHszWdo4s
https://www.youtube.com/watch?v=FDPVwPUFV9s
それを私流に解釈し考察したのが以下の文章ある。以下の前半は、あくまでもクーデター説の紹介であり、ゴーン事件そのものの客観的な解説ではない。クーデターモデルを100%支持する訳ではないが、そのように考えると事件が解りやすいこともあり、また文章が作りやすいという事情もあって、そのようにした。読んでくださる方は、その前提で書かれていることに注意してください。
1)問題提起:
 経済産業省の天下り役員が一枚絡んでいたとすると、このゴーン事件は当初考えたよりも遥かに重大な問題を孕んでいる可能性が高い。官僚たちがコーポレート・ガバナンスとか、何とか言いながら、天下りの対象を私企業にまで拡大し、見方によれば、それは日本の中国化だからである。つまり、大企業と政府の一体化が、官僚の企みとして進んでいるのだ。
 最近、「安倍総理が変だ」という話をよく聞く。安倍晋三首相は昨年3月の参院予算委員会で、日中関係について「完全に正常な軌道へと戻った日中関係を新たな段階へと押し上げていく」と強調した。一昨年の10月の訪中以来、21世紀のナチスと呼ばれるほどの人権侵害を行う習近平支配下の中国に、安倍総理は完全に融和的な態度を採る方向に急変した。日本の経済界の中心である経団連は、それを高く評価した。https://www.keidanren.or.jp/speech/comment/2018/1026.html
 この国家の方針転換の背景に、私企業への天下り官僚が存在するとしたら、それは国家の一大事である。ゴーン事件で働いたと思われる豊田正和社外取締役は、腐敗を始めた経済界と国家の境界周辺で大繁殖している鼠の尻尾なのかもしれない。
 2)ゴーン事件は日産幹部によるクーデターだとするモデル:
 先ず、ゴーン事件は、日産のクーデターであると解釈するモデルを説明する。これは元社長の西川(さいかわ)氏や経産省から天下りした豊田正和社外取締役など日産の経営陣が、自分達の解雇を怖れて行なった工作であるとするモデルである。
 その背景にあるのは、西川氏が社長に就任以来、日産の業績が急降下した事実である。下に過去5年間の日産とトヨタの株価を示した。これらを素直にみれば、それは明らかである。ニッサンの経常利益は、及川氏の動画で紹介されているが、西川氏が社長になって以来急激に減少している。
ルノーと日産のアライアンスだが、その基本的部分に株の持ち合いがある。日産はルノーの株の15%を持ち、ルノーは日産の株の43%を持っている。また、ルノーの筆頭株主はフランス政府(現在約20%の株を保持)なので、フランス政府の意向が強く働けば、ルノーのCEOだったカルロス・ゴーン氏が西川氏らの解任を決めるメカニズムは、その動機とともに準備されている。
 西川氏らが自分たちの解雇を怖れたのには、もう一つの理由がある。それは、フランスのマクロン大統領が、国が保持する株の議決権を倍にできるフロランジュ法を適用して、フランス政府のルノーの経営権拡大を行ったことである。https://www.sankei.com/economy/news/181121/ecn1811210002-n1.html
 ニッサンの業績不振には、当然会長役のゴーン氏にも責任の一端はある筈。従って、ゴーン支配下のルノーという条件だけなら、一定の反論も可能だ。しかし、そこにフランス政府の圧力が働いた場合、その背後の上記業績不振を考えれば、西川氏の首は風前の灯火のように見える。その他の日産経営陣も同様に、フランス政府の意向が強く働くルノーを怖れたと考えられる。ゴーンが居なくなれば、日産とルノーの連携経路が一時不通になり、マクロン政権の圧力も日本の日産には届かないと考えても不思議はない。
 また、天下りの取締役を含めて経産省関係者は、ルノーにフランス政府が顔を出すのなら、ニッサンに日本の経産省が顔を出すのは、当然だろうと考えた。或いは、そのような考え方を政府・経済産業省に入れ知恵したのは、同省元審議官で2008年には内閣官房参与も務めた(多くのサイトで同じ記述がある)豊田正和氏だろう。
https://global.nissannews.com/ja-JP/releases/masakazu_toyoda_ja
 ただ、ゴーン氏が失脚したとしても、ルノーの持ち株比率が変わるわけではない。マクロン政権の意向が、日産にまで強く働くことには、長時間スケールでみればかわらない。そんな中、日産が日本国に必須の企業であり、日本政府の介入・助力があれば、それに対抗することが可能になる。日仏間の外交問題に格上げし、日産に対する日本政府の権限を増加させるのである。具体的には、送り込んだ社外取締役を抱える銀行などと協力して日産を増資すること、場合によっては日本政府がその一部を受け持つところまで行けば、完璧である。
 ただ、そのような法整備などを迅速に行う実力は日本政府にはない。そこで、西川氏も行なっていた有価証券報告書に、将来受け取ると約束した給与を記載しなかったことを、特別背任容疑とする方法だったのだろう。これが、今回のゴーン事件の日本政府も巻き込んだクーデターモデルである。
 このモデルが正しい可能性が大きい。その理由は、ゴーン逮捕の容疑として特別背任が挙げられているが、それは西川氏も同罪であったことである。西川氏は辞任したが、逮捕されていないという事実が、その理由である。
 裁判が行われたとした場合に、重要な論点が一つある。それは、未来に約束された給与を有価証券報告書に記載する義務があるかどうかという問題である。未来に約束された給与と類似したお金として、退職金がある。この退職金の経費としての計上は義務ではないと、及川氏は言っている。(ネット検索をして、退職給付引当金などの項目を見てください。)もしそうなら、今回のゴーン逮捕は、検察が何か他の悪事を探すために、証拠隠滅を防止する目的で行った可能性がたかい。
   3)日本の中国化:
 ゴーン事件を契機に私は、私企業への天下りの深刻な実態を知った。そして、現在、自民党長期政権の中で、日本政治の脚本を書く官僚たちは、自分たちの権益を拡大し、国内の私企業の経営にまで干渉する時代になってきたことを示している。背景の一つとして、①経済のグローバル化があるが、本質的な日本政府の特徴として、②天下りと大きな政府を企む官僚独裁という実態がある。これらを、及川氏は日本の中国化と呼んでいる。
 最初のグローバル経済の影響を考える。先進国政府は、大企業を国内に保持し、そこから税金を収めさせる形をどのように維持するかという問題がある。アマゾンが日本で大きな商売をしながら、つい最近まで殆ど法人税を支払って来なかった。それが可能なのは、多国籍企業体は会計処理により利益をかなり自由に移動させることが出来る点にある。(補足1)
 そのような多国籍且つ変幻自在の企業を監視するには、ある程度政府が介入せざるを得ないだろう。それがコーポレート・ガバナンス(企業統治)の一つであり、その一環として社外取締役制度を作り、会社の不正を外部の目により監視させる機能をもたせるのである。日本では2015年に上場企業では2名の社外取締役を置くことが実質義務化された。その結果、社外取締役が日本の官僚の天下り先となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E5%A4%96%E5%8F%96%E7%B7%A0%E5%BD%B9
企業のグローバル展開が進み、その結果優良企業は巨大化した。その結果、国家にとって個別企業との関係が大事になってきた。逆に、グローバル企業も、会社経営に外交など国家の行政が大きく関わるようになった。それは見方によれば、私企業の公益性が増加したということになるのだろう。
 例えば日本の豊田自動車の売上は30兆円ほどであり、日本のGDPの5%以上である。それら大企業の世界競争力を維持することは、政府にとっても国民にとっても重大事である。国家のトップは、その国の企業体の営業マンのように振る舞うニュースを見聞きするが、それはこのような背景があってのことである。
 今回のゴーン氏の件、西川前日産社長は、自分もやっていた“有価証券報告書の虚偽記載”を用い、元経済産業省審議官の天下り社外取締役の豊田正和氏とゴーン追い出しを画策したようである。その必要性として彼らが日本政府に漏らしたと想像するのは、「ルノーに日産が吸収合併されるので、その防止が日本国にとって非常に大事である」というリークだろう。
 そこに、自分たちの首が危ないという私的な動機とともにゴーンの本当の目論見が隠された可能性がある。日本国の為というよりも、自分たちの地位の確保が本当の理由だったと考えられる。それがゴーン氏の主張である。
 ゴーン氏の主張によれば、彼が計画したのは、持株会社を作ってその支配下に日産もルノーも入るという形式への移行である。ゴーン氏は更に、フィアット・クライスラーグループと連携し、世界最大の自動車会社として成長させることを目論でいたという。
 電気自動車のテスラ社やソニーなど新規参入の会社が成長して、従来の自動車産業界が斜陽化する厳しい時代にさしかかっている。この困難な時代をニッサンが生き残るためのゴーン戦略の邪魔を、西川と豊田の日産幹部がした可能性がたかくなる。
 4)エピローグ:
 一年以上も前から、日本政府の「日産を日本企業として確保するための活動」が始まっていたようである。カルロス・ゴーンが中心となって、ルノー、日産、三菱自動車を合併させれば、日産や三菱自動車は、ルノーの日本支社となる。そのように日本国民は教え込まれ、それに反対する右派の人たちは、ゴーン逮捕をむしろ評価していただろう。
 日本は永く官僚独裁と考えられていた。内閣を構成する与党議員らは、単に俳優であり、しっかりと霞が関が脚本を書いているというのである。一時民主党が政府を担ったことがあったが、それは官僚独裁国家の危機であり、霞が関が脚本執筆をサボることで、簡単に排除された。この件で、野党議員にバカが揃っており、やっぱり自民党議員でないとダメだと思わせるのも、官僚たちの計画通りだろう。
 日本政府と私企業との関係は中国と似た形になってきた。この中国化のプロセスの第一歩は、私企業の社外取締役というポストが官僚の天下り先になったことである。それを明確に示したのが、上記動画で紹介された日産の社外取締役となっていた豊田正明氏である。
 あるサイトに天下り官僚の日常がかかれている。「何もしなくていい、というのが実情です。企業にしてみれば、所管官庁の元幹部が天下りしていることで官庁とのやり取りがスムーズになるし、それが一番のメリットなのです。」「更に、それよりも問題なのは、財団法人などに理事として天下った官僚です。いつ会っても『暇だ、暇だ』と言っています」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50932?page=2
 補足:
 1)法人税は本社の所在地で支払う。子会社を、商売をする国に作り、そこに生じた利益を、様々な手法、例えば(ライセンス料や技術指導料など)経費として計上することなどで、本社が吸い上げることが可能だろう。同様の手法で、法人税率の低いところに利益をある程度集中させることが出来る。
2020年1月11日土曜日
旧社会党系政治家は政治的には5歳児レベルなのか?
1月8日のブログ記事にchukaのブログさんからコメントをもらったので、それに対する此方の返信を文章にし、そのブログ記事の補強としたい。コメントの要点は、①伊藤貫さんの主張を意味不明と断じ、更に、外交と外交評論家を”知的レベル(年齢)”で分類することの愚を指摘していること、更に、②米国の外交評論家はバランス・オブ・パワーに依拠して他者を批判しているのを聞いたことがない、の2点である。
1)旧社会党系議員は政治的に5歳児か?
民主党伊藤貫さんが、年齢で日本の政治家を評価したのは、マッカーサーが連合軍司令長官を解任されたあと議会で証言し、日本の政治が12歳レベルだといったことのアナロジーであることを先ず指摘したい。http://www.jice.or.jp/tech/columns/detail/31
そして、その後、年齢での政治家などのラベル付けは、日本では普通の政治文化になったと思う。旧社会党系の政治家が、日本人の為に日本の外交体制のあるべき姿に言及していると仮定した場合、彼らの非武装中立の主張は、まさに5歳レベルである。何故なら、17—18世紀にヨーローパで主権国家体制が生み出され、その延長上に現在の日本及び世界の政治と外交があることを、彼らは無視しているからである。つまり、主権国家の中心には、国家としての権威が、そして、それを裏付ける軍事力が必須であることは常識である。
ただ、8日のブログで私が指摘したのは、かれらが他国の利益のために、日本国の外交を非武装中立に誘導している可能性である。例えば、日本社会党の元委員長の勝間田清一がKGBのスパイだったことなどを考えると、かれら社会党の人たちは、自由主義の日本を破滅に導くべく(成人した政治家として)活動していた可能性が高い。現在テレビで活躍している田嶋陽子氏も、全くのバカなのかも知れないが、日本にとっての敵対勢力の一員と考える方が正しいだろう。
その幼稚を装った“左翼”に注意すべきだという姿勢&視点が、伊藤貫氏に抜けていたのなら、それは批判されるべきだと思うが、そんな筈はないと思う。その視点が欠けているように見えるのは、気のあった仲間である西部邁氏との“おしゃべり”を基に作成した動画だからだろう。https://www.youtube.com/watch?v=w7pe3Ptw_H4(補足1)
次に、上記動画では、自民党主流派と彼らの政治を支持する親米保守の人たち、例えば政治評論家では岡崎久彦氏や田久保忠衛氏らを例にあげ、彼らを10歳児と評価した。彼らも、主権国家体制の必須要件を殆ど無視している点は、旧社会党系の人たちと同様である。ただそれは、戦争に疲弊した日本国民を先ず食べさせることに専心したであろう、戦後直後の政治姿勢としては、一つの現実的な選択だったと思う。
“マッカーサースケール”で成人の域に達した日本のために働く政治家なら、1952年のサンフランシスコ講和条約直後に、主権国家としての体制を形だけでもとる(つまり、憲法改正)筈である。それで自分の政治生命が絶たれるとしても、その時期を正しく把握し実行するのが、政治家という職業的専門家の必須の能力である。そして、それをしなかった吉田茂を、批判しない親米政治家や政治評論家は、そのスケールで10歳と評価されて当然である。
更に、伊藤貫さんが半分くらいは理解できるとした、戦前保守といういわゆる右翼の評論家の方々だが、現在で活躍されている桜井よしこさんらがその範疇にはいるのだが、その人たちは主権国家として必須の軍事力保持を主張している。
ただ、靖国神社から戦争責任者を排除する必要など無いとし、現職総理は参拝すべきだと主張するのは、あの日本の敗戦から何も学ばないことの反映であり、私には看過できない。彼らを“マッカーサースケール”(これも私の命名です)を用いて、15歳としたのは、当然ではないだろうか。
これら右翼的な人たちの中には、自分の私的利益と引き換えに、米国の意図を実現するために働いている人もいるだろう。その方たちは、上記の重要な歴史的ポイントを指摘されると怒り出すので分かるだろう。彼らを10歳や15歳というのは失礼かもしれないが、その代わり売国奴として評価されるべきだと思う。
国家という概念を、WGIP(占領政策のうちの思想改造及び文化破壊の企み)は日本人から奪った。2016年2月に「保育園落ちた、日本死ね」という言葉がネットに投稿され、それが民主党議員による国会質問となった。その時私はブログ記事で、そんな愚痴は放っておくのが筋で、それを真面目くさって取り上げる民主党議員は下劣だと、そして、その質問にオタオタする内閣の劣悪さを、情けないことだと指摘した。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2016/03/blog-post_14.html
日本はまだ主権国家となっていないのだから、そのような言葉が国民から軽々しく愚痴として出るのは、ある意味止むを得ない。日本政府がしっかりと主権国家としてのあり方を考えて、文部行政を行っていない証拠である。反省すべきは、保育所の不足だけではない。もっと重要なのは、日本国民における国家意識の欠如である。
2)米国政治評論家はバランス・オブ・パワーで外交を語っているか?
バランス・オブ・パワー外交というのは、要するにパワーポリティクスのことだと理解する。伊藤貫氏は、バランス・オブ・パワー外交と言い換えたのは、現実の安定した世界では、パワーのバランスが成立しているからだと思う。
あるバランス・オブ・パワーが破壊されて、次のバランス・オブ・パワーに移行する際の乱れた状態が世界大戦である。この考え方の展開において利用されるのが、地政学的見方や国家のライフサイクルを仮定した見方である。(北野幸伯著「クレムリンメソッド」)呼び方はいろいろ在るが、要するに現実主義的外交のことである。
日本の右翼系の人たち、上記戦前保守の人たちは、このようなパワーポリティクスの歴史を、「善悪」という色分けをして考えるという幼稚さを持っている。日本は悪くなかった。悪いのは、日本を戦争に誘ったルーズベルト(フランクリンの方)だというのである。「善悪とは何か」という基本すら理解していないのである。
米国が日本を敵国と想定したのは、オレンジ計画の立案された1920年代だろう。米国が日本を利用して満州権益を得ることに失敗したことと、大きく膨張しつつあった日本を危険視してのことだろう。米国は、ロシア、中国特に蒋介石政府、英国など西欧諸国、を味方に引き込んで、日本を戦争に誘い込んだのは事実である。しかし、そのような争いが数千年の人間の歴史であり、人間の生態そのものであることに、日本の右派の人たちは気が付かないのだろう。
軍事力均衡(バランス・オブ・パワー)を基に、国家の外交を論じるのは、唯一の現実的な外交論である。毛沢東が、中国を訪問した田中角栄に、「日本には、ソ連、米国、ヨーロッパ、中国という敵があると指摘した。」そして、その環境のままでは、日本国の繁栄はありえないので、「中国と組まないか?」と誘いの言葉を投げかけた。(青木直人著、「敵国になり得る国米国」)
日本の敗戦後、日本は吉田茂の米国追従路線により、当時の米国は日本の友好国だと考える人日本人が多かっただろう。天才かどうかは私には分からないが、田中角栄は数少ないまともな政治家のひとりだった。かれも毛沢東も、米国は日本の友好国のように装っているが、その時日本の敵国だったことを正確に見抜いていたのだ。(補足2)
米国の姿勢をそのように導いたのは、日本である。それより7−8年ほど前には、ベトナム戦争を始めた米国は、日本を米国の片腕として使おうと考えた時期があったと思う。それは、日本に核武装を進言した頃である。それを聞いた佐藤栄作首相は、世界の動向とそれに対する米国の考えを全く理解しなかったため、米国の戦略の中で日本に重要なポジションを与えないと決断したという。(片岡鉄哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」)(補足3)
このように、自分の所属する陣営と、仮想敵対陣営の軍事力の比較で優位に立つことが大事だと考えるのが、バランス・オブ・パワーを考える外交である。米国は世界一の覇権国だが、その地位は、常に第2と第3の繋がりを妨害する戦略をとることで長期維持が可能となる。米国が中国に甘かったのは、ロシアと中国の接近を防止する意味があったのだと思う。キッシンジャーなどは、そのようなパワーポリティクスが中国の要人とは通じると考えたのだろう。
もしトランプが再選されたら、ロシアとの関係を改善する方向に動く筈である。中国は米国と敵対することになった以上、ロシアと友好関係を築き上げて、現状のパワーバランスを維持しようとする筈。中国に利権をたくさん持つ民主党系の人たちや、ロシア嫌いのユダヤ系の人たちは、ロシアとの関係改善に抵抗を感じるだろうが、結局はその方針に従うだろう。
この様な考え方は、ピーター・ナヴァロの「米中もし戦わば」(crouching tiger)」の第29章にかかれていると思う。その最後の部分に、以下のような文章がある。
この様な見地からすれば、ロシアにとってずっとましな長期戦略はアメリカ主導の「バランス連合」に加入することだろう。その方が、ロシアの技術と天然資源を、世界最大の産業基盤と兵力と人口に結びつける中露同盟よりも、ずっと世界の安定と平和的バランスに貢献するだろう。
また、エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」の4番目の章のなかに、「対中包囲網」の作り方として、中国を中心とする勢力と米国を中心とする勢力のバランス・オブ・パワーを論じている。非常に印象的な言葉がこの本の最後の方にある。「敵は潜在的な友である。友は潜在的な敵である」(193ページ)である。この言葉は、独立国は其々の事情で動く、それによりパワーバランスも変化し、敵味方が入れ替わる可能性もあり得るということを意味するだろう。
何れにしても、主権国家が国際社会のプレイヤーである。その主権を持たないで、戦後75年間が過ぎた。その責任は、与党自民党にある。それは自民党を構成する政治家とそれを支援する政治評論家が、マッカーサースケールで10歳レベルであり続けた結果だろう。
補足:
1)対談では、その対面した人と話をしているという当たり前の事実を重視する必要がある。それは、論文などのように他の学会メンバーや一般に対する自分の発見や考え方を主張したものとは異なる。ただ、youtubeに乗せる段階で、編集などをして、一般に向けたものにする必要がある。評論を目的とした対談などでは、最初から、一般に向けたメッセージのやり取りで進める場合も多い。
2)1972年2月に訪中したニクソンやキッシンジャーが語った「日米安保条約は日本の軍事力復活を防止するため」という所謂「瓶の蓋論」、そして、周恩来とキッシンジャーの間の「日本には絶対に核武装させない」という密約は、当然毛沢東の頭の中にしっかりと仕舞われています。
3)佐藤栄作は、非核三原則とかいうパワーポリティクスの世界で、自国に手錠を掛けて悦に入っているアホである。日本国民を裏切ったなんて、夢にも思っていないだろう。沖縄返還は、米国の経費と責任で沖縄基地を運営することが負担になったから、施政権の一部を日本に返還しただけのことである。しかも米国は、「サンフランシスコ講和条約に書かれていないので、沖縄返還は無効です」と、あとで中国が言うことを知っていた筈である。
2020年1月8日水曜日
日本は何故バランス・オブ・パワーを考えた現実的外交ができないのか
伊藤貫と西部邁の討論を軸にしたある動画で、国際政治に対するまともな感覚を持たない日本の幼稚な政治家及び政治評論家を批判している。そして、世界の政治はバランス・オブ・パワーで動いており、そのような思考を持つ政治家が必要だということを主張している。今回、その動画の内容を元にして日本国の現状と将来を議論してみる。https://www.youtube.com/watch?v=w7pe3Ptw_H4
1)日本外交の貧困:
動画では、日本の総じて愚かな政治家や政治評論家の分類がなされている。それらは、1.護憲左翼グループ、2.親米保守、3.戦前保守、である。それらに対して、動画配信主(おそらく伊藤貫氏)や欧米や中国の政治家が採っている立場を、4.古典的なバランス・オブ・パワー派としている。
護憲左翼グループとは、言うまでもなく、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を信奉する(例えば旧日本社会党系の)人たちである。この人達を伊藤貫は、「5歳児」だと形容している。
親米保守とは、米国を父親のごとく慕う「10歳児」のように振る舞っていれば、日本は安泰であると信じる人達である。自民党右派のほぼ全員がその範疇にはいるだろう。正直者のトランプが、アメリカ・ファーストと言っても、各国が自国ファーストで外交すべきだと言っても、目が覚めないレベルの知性しかない。
戦前保守とは、この動画の配信主が適当に名付けたグループで、戦前の日本を擁護する立場の人たちである。この立場の人達の根本的な知的欠陥は、日本が戦争に負けたことを軽視して、国際政治を善悪論で論じていることである。ここでは「15歳児グループ」と呼ぶことにする。(補足1)
動画配信の主は、自分の思考法はこれら幼稚な思考法と異なり、世界の主流の思考様式の一つ「古典的なバランス・オブ・パワー派」であるとしている。これは、17−19世紀に国際政治の基盤となった体制を前提にして、各国のバランス・オブ・パワーを外交の方針とする考え方だという。(補足2)
日本が生き残るには、その思考法を採用し、主権国家としてふさわしい核武装を含めた自衛力を持つべきだといっている。その核武装に関する考え方は、米国の国際政治学者のケネス・ウォルツ(Kenneth Waltz)から採っている。(補足3)
以上は、一部を除いて、よくわかる議論である。そこから次の話、日本が主権を回復する具体的方法を論じてほしかった。その中で出てくると予想されるのは、抵抗勢力だろう。(補足4)
2)国際関係を考える二つの思考パターン
伊藤氏は、国際関係を考える二つの思考パターンを紹介している。その内の一つは、国際関係を国際法と国際組織で社会化するという、素朴な理想論的思考パターンである。国際連盟の創設を提唱したアメリカのウイルソン大統領に因んで、「ウイルソニアン・パラダイム」、或いは、リベラル派のパラダイムと呼んでいる。
もう一つの考え方は、国際法や国際組織という権威が、世界警察軍などに裏打ちされた権力を持たない現状から、主権国家である各国が、バランス・オブ・パワーを維持して国際関係を協力的に運営する必要があるという考え方である。これを「リアリスト・パラダイム」と呼んでいる。(補足5)
ここで注意が必要なのは、共和党政権下の米国も、対外的には理想論を強要し、「民主主義、人権重視、法治主義、国際協調」が全てを解決するとして、民主革命の方向に多くの国に強要した。この場合は、権力行使の論理(道具)として、理想論的思考パターンを用いたのである。
また、国際政治の中では、現実主義を重視する本音を持ちながら、理想主義的建前論で交渉をする場面が多いのではないだろうか。ウイルソンが理想主義者かどうかさえ、全くわからない。ウイルソン的思考は、当時の時代背景から米国の利益を考えて打ち出された現実主義かもわからない。(補足6)
現在、軸足をどちらに置くかは別にして、これらは本来同時に持つべき思考モデルであり、何かを主張するための道具だろう。ウイルソン的思考パターンは、遠い未来の世界の理想像を考察するときや、外国(敵国や利用国)に提示するときに有用であり、リアリスト的思考は、現在の自国の足元を見る時に必須である。
日本の、「5歳児」、「10歳児」、「15歳児」と形容した政治家は、そのどちらにも属さない。単に幼稚な政治屋である。
伊藤氏は、「バランス・オブ・パワーを重視するリアリスト」の立場であるという。政治家ではないので、国際政治の分析の結果、バランス・オブ・パワーでそれが動いていると言う説を主張するという意味だろう。(8分あたり)
米国の著名な政治家(キッシンジャーやブレジンスキーなど)も同じ立場をとってきたと言うが、その場合は、戦争にならないように力のバランスに注視しながら、国益を追求する外交を行ってきたという意味だろう。ウィルソンの理想論など一顧だにしなかったのではなく、その際は用いなかっただけだろう。未来までを視野に置いた場合、リベラル的思考の無視は国益を害することになると思っていただろうと思う。
動画10分のところで、人類は、世界政府とか「世界警察軍」をつくる事が出来ない体質を持たないと指摘している。しかし人類は、ウイルソン的理想論は持ち続けて、世界政府の実現に向けた努力を継続すべきだと思う。(ただし、それはグローバリズムという意味ではない。)それが、長期スパンで思考できる人の現実主義的対応だと思う。
以上から、
政治家や政治評論家には、単に優秀な人と無能な人に分類されると思う。思考パターンとして二つあるとしても、それによって政治家のラベル貼りをやることは無意味或いは間違いだろうと思う。時が来れば、突然に壮大な理想論を掲げる優秀な政治家が現れるかもしれない。その時に、現実主義と称して、一年前のバランス・オブ・パワーの図式に固執する政治家は、単に無能な政治家だということになる。
現在、現実主義政治家に見える人たちは、現実の荒波の中を自ら積極的に動く動力を持っていないというだけの可能性もあるので、注意が必要だろう。
3)日本の国際政治学と日本の未来予測:
動画では、日本の国際政治学のレベルが極めて低いことが、日本の国際政治が幼稚な原因の一つであると主張する。(11分半)日本の大学で教えられているのは、殆どがウイルソニアン的思考パターンである。その理由の一つとして、リアリストの考えは、真正面から憲法前文と吉田外交を否定することになるからであるとしている。
しかし、大学には学問の自由が在り、日本の政治とは無関係な筈である。従って上記吉田外交云々は、教授たちは全員政治家志望ではないので、その理由説明にはなっていない。大学の中での国際政治学のレベルが低いのは、単にコネ採用をする大学の人事に主原因があると思う。
動画では、高坂正堯、佐藤誠三郎、衛藤瀋吉などの学者を、バランス・オブ・パワー外交を論じなかったとして批判している。ただ、バランス・オブ・パワー外交ができない政治家や官僚に諮問会議などの有識者として使われ有名になった学者は、そのような思考法を取らないのはある意味当然である。
この日本の保守(「10歳児」の考えを持つ)のあり方では、今後米国が東アジアから撤退したあと、米国に見捨てられた南ベトナムのようになるだろうと予言している。そして、最後の部分で、日本の言論人が「核の傘の欺瞞性」を追求することはないと指摘し、間接的に日本の核武装のみが日本の独立を維持できると主張して、終わっている。
4)日本の現状と未来へ向けて取るべき草の根運動:
以上の議論は、「主権国家ではない日本」について、その結論に念を押す作業を並べ立てているように思える。その命題は、その作業の前提にされているものの、そこからの克服がこの動画の中で主題になっていない。「画竜点睛を欠く」議論のように思える。最初のセクションで述べたように、如何にして主権国家を回復するかの技術論に入るべきであり、それが日本救済への道である。いきなり核武装に行くのは、”電気のショート”的な結果になるだろう。
主権のない日本国には、国際政治のフロントは、手の届かない部分の筈である。それにも拘らず、イランを訪問して、そのような真似をする安倍総理の頭脳を疑う。そして、強力な軍事力を持つ中国に、「黙れ」と言われれば、日本で行う国際的な議論など吹き飛んでしまう。
昨年訪日した中国の王毅外相の態度がデカかったという話があったが、それは日本側の政治家が卑屈な姿勢をとったからだろう。それは、日本が主権国家でないことが顕になって、自分達が政治家を首にならないように、国民をごまかす努力の結果の一つだろう。つまり、中国の王毅にこっぴどく叱られないように、低姿勢をつらぬいたのだろう。政治屋は本能的に、自分の地位を守る卑屈な方法を知っている。
つまり、独自に国際的政治を論じる環境には日本はない。国家主権の無い国の政治家が、絵に描いた国際政治を想像しての議論しても、保守やリベラルという単語がただ虚しく響くだけである。
それにマスコミ各社は、上記の王毅のデカイ態度など日本の現実をあまり報道しない。それは、地上波テレビ各社は、元々日本の崩壊と中国の属領化を待ち望んでいるのだから、当然だろう。 https://www.youtube.com/watch?v=bfhD9CKxC3s&t=3040s 【38分のところで言及】(補足7)
以上から、既存の政治やマスコミなど現在の日本のレジームには期待できないだろう。
そこで、日本人がミクロな活動として為すべきことは、自分たちの命運は、自分たちが乗船している船(国際航路)である日本国と伴にあることを、周囲の国民全員に教えて自覚させることである。そして、その定着を待って、米国の植民地から主権国家へ戻ること、憲法改正と自国軍の保持を行うのである。国家の細胞(つまり個人)のレベルからの生命力回復が不可欠である。
外国の傀儡政権である日本政府を動かすのは、その努力はすべきだが、至難である。ネット空間などを利用して個人や私的な集団(知的民兵組織)が、或いは、地方行政が主役になって動くべきである。学校での課外活動、更に、町内会レベルでの勉強会などを通して、出来るところから、国家と国民の命運は一蓮托生の関係にあることをゲリラ的に教育すべきである。ちょっと過激な表現だが、そのように私は思う。
(1月9日、早朝編集)
補足:
1)第一次大戦後、日本の周辺にはソ連、中国(中華民国)、アメリカの3つが覇権国であったが、大日本帝国は、それらすべてを敵に廻して戦争をする愚を犯した。戦前保守と言われる人たちが戦中の日本を全肯定する論理は、「悪いのは周りの国であり、日本は悪くない」、そして、対米戦争の原因は、日本を戦争に追い込んだルーズベルト政権の陰謀だというのである。陰謀だったとしても、それに巻き込まれて、敗戦が確実な米国に戦争を挑んだ愚が、許される訳ではない。
2)その基礎にあるのが、ウエストファリア体制或いは主権国家体制のことだと理解する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E4%BD%93%E5%88%B6
3)ウォルツは、論文“The Spread of Nuclear Weapons: More May Better,”では、核保有国が十数カ国になった方が世界はより安定するという主張を展開し、激しい議論となった。この議論をまとめたThe Spread of Nuclear Weapons: A Debateは、欧米では核問題を論ずる際の必読文献となっているという。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%84
4)上記1−3の分類に入る幼稚な政治家のグループに、それを装った外国の指示で動く人たちが大勢紛れ込んでいる筈である。氷山の一角として、日本共産党は1922年以降コミンテルン日本支部となったこと、社会党の党首が、KGBの司令で動いていたこと、などが疑われている。更に、それ以上の米国人脈が日本の与党にある筈。例えば、吉田茂の側近白洲次郎を、その種の重要人物にあげる人がいる。外交官のアメリカンスクールやチャイナスクールなども、外国からの影響の重要な窓口と考えられる。
5)パラダイムという単語は、主導的思考パターン或いは思考モデルという位の意味だろう。専門図式という解釈もウイキペディアには書かれている。例えば、地動説と天動説は二つのパラダイムである。単に地球が動いているだけでなく、宇宙の運動などに関する記述も地動説パラダイムにより為される。政治における現実主義と理想主義(ウイルソニアン的思考パターン)を、そのようなパラダイムという言葉を用いる是非はわからない。
6)「現実の国際政治では、理想主義は役立たない」という動画中の表題(8:53)は、私には、いまひとつ理解できない。遠くを諸外国と眺めるときには理想論も役立つだろう。日本国独自の生存と繁栄を考える場合には、現実主義の考え方は足元を見る意味で大事だろう。二つの考え方を巧みに使い分けてこそ、高度な政治が可能になると思う。
7)この動画の中で、馬渕元大使の40分以降の安倍擁護論は非常に苦しい。安倍総理は、トランプに見捨てられた自分を明らかにすれば、自分の政治生命が終わることを考え、安易に日中友好の中に日本の道を探すという致命的な間違いを犯している。それに異議を申し立てず、中国から金をもらった下地議員など自民党議員達は、売国奴的政治屋である。
2020年1月3日金曜日
日本の生産性をダメにした5つの大問題について:冷泉彰彦氏の文章へのコメント
1)日本企業が抱えた五つの大問題
表題は米国在住の冷泉彰彦氏(補足1)の記事の題名からとった。元の題名は、「もはや笑うしかない。日本の生産性をダメダメにした5つの大問題」である。MAG2NEWSの人気記事だという。https://www.mag2.com/p/news/426391/3
此方は全くの素人。小さい組織での研究という経験しかない元理系研究者には、議論も無理な課題のように思った。しかし、非常に大事な問題の議論でありながら、上記記事は問題の在処の中心にまで切り込んでいないと感じたので、自分の考えをまとめる意味もあり、短い文を書いてみた。コメントなどがあれば是非教えていただきたい。
この記事の主題は、日本の労働生産性(2017年)が先進国中最低で、OECD36ヶ国中20位の4733円(47.5米ドル)に低下したことの原因である。上記記事の分析は、以下のように要約される。
1。仕事が専門家に任せるという形になっていないこと。その部分に慣れた頃に、その従事者をローテーション人事で他の分野に移動させるので、使ったエネルギーの割に仕事の能率があがらない。
2。専門家化されていない人事の結果だが、権限が現場に降ろされていない。その一方、権限のある人には(アップデートされた)専門的技術や知識がない。そのために意思決定に時間がかかりすぎる。
3。一人当たりの会議参加時間が長すぎる。それは、幹部候補には全社的な動きを知らせるべきだとか、新企画はスタート段階から関連者の全員参加で会議しないと組織が動かないというような非合理な風土にある。しかも、現場の知識ある人が発言を控えて、素人だが権限のある人がダラダラ思いつきで喋って時間を取る。
4。コンプライアンスという言葉に踊らされて、規定や規則を増すため、文書量をふやしてしまう。これは、法令や社会正義の核を理解しない、コンプラ恐怖の経営者が規則を作って対応しようとすることに原因がある。
5。多国籍企業になっても、社内公用語が日本語の場合、文書は二つの言語で廻り、業務量は倍増化したり、誤解が生じたりする。
この5つの項目のうちの1−4は、要するに現場は高度な専門家として仕事をし、それを管理部門が統合するという形での会社経営が、日本では取り入れられていない。それは、会社の経営も同様で、専門家ではなく多くののセクションを経験した叩き上げがその仕事に就任する。
この日本の文化を引きずったままの企業では、国際競争が厳しい現在、勝ち残りは不可能だという指摘である。その問題提起が上記文章の全てであり、それでは、解決に向けた視点を読者に全く与えない。
2)カルロス・ゴーンの言葉
その解決には、西洋式の労働文化を取り入れれば良いのだが、日本では当然非常に困難かもしれない。兎に角、その理由を以下考えてみる。
日本では、労働つまり仕事が人生の中心あって、人生のほとんどを占拠していることが問題の核心である。従って、その問題の解決には、就業から終業までの労働時間と、それ以外のプライベートの時間を峻別し、労働を人生の中で相対化することが必要である。
その次に、会社と労働者の関係を、例えば国家がイニシアティブをとって、仕事の提供と報酬の受け取りという形の関係にする。よく言われている同一労働同一賃金の原則の徹底である。
人生における仕事の意味の相対化と、同一労働同一賃金の原則は、労働の流動性を高める。
仕事上の能力は、人的関係の束縛を離れて、お金と同様に社会の中をお金と逆方向に流れることになる。(補足2)
突然に職を失ったような場合でも、他の会社の同様のセクションがその仕事を必要としていれば、そこを新しい仕事の場とすることが可能となり、同等の報酬が得られるだろう。それは会社にも解雇という自由が増加して、経営の枠が広がる。年齢差別や性差別なども大きく減少するだろう。
人間として平等であるという関係が組織の上下で成立すれば、会議が解決しようとする問題が現場での双方向の議論で解決される。何処かで読んだのだが、あのカルロス・ゴーン氏が言っていた言葉が印象にのこっている。「フランスでは、トップが何かを決めた時、議論が起こるが、日本ではトップが何かを決めたら、議論は終わる」と。
社長と社員が就業時間内でもファーストネームで呼び合うようなフラットな人間関係が、上記西欧型の労働文化で可能になる。そして、各部門の専門家と管理部門の専門家の間での円滑な双方向の情報伝達も徐々に文化として定着するだろう。
3)運命論:
ただ、日本と西洋の労働文化は、二つの谷の流れのように、高い山で隔たれているだろう。それは、昨年書いた記事「国家の没落を我々は食い止められるのか:ロックインモデルを用いた考察」に述べた通りである。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12560835048.html
日本型労働文化は、日本の武士階級が作った儒教を根幹に持つ労使の文化であり、それは多くの因子の調整の結果として日本に定着した。それは一つの整合性を持った日本型の株式会社という組織を作った。
そこから、西欧型の労働文化への乗り移りは容易ではない。それは日本そのものの否定にも匹敵するほどの大改革である。その解決の方向は、おそらく、日本人が嫌うグローバリズムかもしれない。この大問題は、問題提起しかできないようなレベルの人では、解決の緒さえ見つけられないだろう。
補足:
1)冷泉彰彦はペンネーム。あの藤原家の傍流の冷泉家とは無関係である。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E5%BD%B0%E5%BD%A6
2)自分が得意な分野で仕事をして、その報酬としてお金をもらうという労働文化の国では、必然的にその仕事は専門的になるだろう。そして、高い報酬は難しい仕事をこなす専門家に支払われる。
(21時20分、補足2追加)
2020年1月2日木曜日
現職総理の靖国参拝より近代史の総括が大事:産経論説委員長の意見に反対する
1)現在の日本国政府は、明治の時代から続いている。そして、戦争を決めたのも、敗戦に終わったのも、その第一の責任は日本国政府にある。
産経新聞論説委員長乾正人氏は、「政権長きゆえに尊からず」と題した1月1日のコラムで、昨年までの世界の動きを概観し、広島での「正論」友の会の講演の際に会場から出た意見(下記の①)を引用して、以下のように書いている。
①「憲法改正がいますぐに断行できない政治状況は分かります。習近平を国賓で招くのも経済重視で我慢しましょう。しかし、靖国神社を6年も参拝しないのは許せません。靖国参拝の上、習近平を国賓として迎えれば日中間の歴史問題は一気に片付くでしょう。それができなければ、総理を長くやる意味はない」
②私は黙って頷(うなず)くしかなかった。首相を強く支持し続けてきた「岩盤支持層」に失望感が広がっている。
③国のため尊い命を犠牲にした戦死者を篤(あつ)く弔うのは、為政者としての責務である。この当たり前のことが、なぜできないのか。
乾正人氏の文章は、現職首相の靖国参拝に反対した、社会党や共産党など野党、朝日新聞、更に、「チャイナスクール」と呼ばれる外務官僚などへの批判へと続く。しかし私は、その意見には全く反対である。
私は上記③には全く賛成である。ただ、戦死した兵士達を篤く弔うだけでなく、戦争末期の沖縄戦に巻き込まれて死亡した一般市民、そして、都市部の原子爆弾などでの爆撃で死亡した一般市民たちへの弔いも同様に、或いはそれ以上に、重視されるべきである。
これらの弔いのためには、戦争までの近代史の総括と、そこから学んだことなどの公的な発表と出版が無くてはならない。合計300万人の人たちが何故、何のために、無残な死に方をしなければならなかったのか? (補足1)
2)現在の日本国政府は、明治の時代から続いている。そして、戦争を決めたのも、敗戦に終わったのも、その第一の責任は日本国政府にある。従って、戦争までの経緯とその分析を公にすることがけじめの第一である。
日本国政府は、あの日米戦争に対する責任の在処をごまかしてきた。その結果、日本国民の殆どは、1945年の敗戦の詔(或いは人によって、1952年のサンフランシスコ講和条約)から、日本国が始まったかのような錯覚を持っている。
それは大きな間違いである。途中に憲法改定を一回しているが、日本国政府は明治以来継続している。どの国でも、前政権の失敗などを明らかにして、次の政権に移るのが筋である。その政府の義務を、日本国政府は太平洋戦争と呼ばれる戦争全体について、一貫してサボっている。
1945年8月14日、ポツダム宣言の受諾を連合国側に通知したときの内閣総理大臣は、第42代の鈴木貫太郎であった。その後、1945年9月2日東京湾に浮かんだ米国の軍艦ミズーリ号上で降伏文書(補足2)に署名した時の総理大臣は、第43代東久邇宮だった。
更に、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約署名の時の総理大臣は、第49代の吉田茂だった。以上が、日本国政府が一貫していたことの必要且つ十分な証拠である。因みに、この時に連合国側の多くと国交を回復したが、中国、ソ連、朝鮮、台湾などとの国交は回復していなかった。(補足3)
つまり、日本国民への、戦争に至った経緯、その責任の在処、責任者の処罰などの報告が終わっていないどころか、始まっても居ないのである。そして時代は平成から令和に移った。何故、その責任者も祀られている神社に、現職総理が就任毎に参拝すべきなのか、さっぱりわからない。
おそらく、それは戦争責任を先送りするためだろう。つまり、戦争責任とは、永久国債の一つなのだろう。
国家と国家の関係の本質は、何度も書いてきたが、野生の関係である。つまり、強い国が弱い国を食い物にする。そして、国民一人一人の命運は、国家の命運にほとんど完全に依存する。それは、大海を航行する船とその乗客の関係に準える。
その野生を生き抜くには、国家が強くなくてはならない。更に、その国の政治を担う人間が聡明且つ勇敢でなくてはならない。この基本的関係を、日本国民の殆どが忘れている。そして国民をそのように目隠しするのは、上記戦争責任を曖昧にして(或いは戦争責任を曖昧にするために)、靖国参拝が大事であると主張する馬鹿者どもと、現政府担当者である。
過去に、この問題に関して文章を、「国家と国家の関係の本質は、野生の関係である」という理解を基礎として書いてきた。それらの重大な補足をすれば、「日米戦争の直接的動機は、Fルーズベルトが戦争をしたかったからである」。そして、そのようにルーズベルトが考えたのは、1929年の恐慌からの脱出を図った、ニューディール政策が上手く行かなかったからである。(https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2017/07/blog-post_20.html
&フーバー大統領の回顧録)
それを実行に移す対象国として、ドイツの次に日本が浮かんだのは、ルーズベルトの後ろに居たユダヤ人資本家達の日本に対する敵意だろう。その原因の一つは、日本が日露戦争を日本側の勝利に導いた米国を裏切って、満州権益を独り占めしようとしたことだろう。
個人間でも国家間でも、喧嘩や戦争の相手となる理由はそれほど単純ではないと思う。本当の理由、背景にある理由、表面上の理由(つまり言葉にしたときの理由)は多くの場合異なるだろう。豊かな国、急激に発展する国には、通常その背後に何らかの憎まれる原因が存在する。しかし、十分に戦力があるか、口実が見つからない国は、他からの攻撃の対象にはならない。
上記下線部の対偶をとれば、「他から攻撃の対象にされるのは、その口実を持つか、不十分な戦力しかない国である」となる。それが国際政治の基本であり、その基本を日本政府&国民は持っていない。その原因は、国民が近い過去に多くの犠牲を伴って手にした筈の教訓から、完全に目を塞がれているからである。その目隠しが、「何より先ず現職総理は靖国参拝すべき」という右翼という人たちの思想である。(補足4)
補足:
1)日本人は、過去の総括とは、大勢揃って頭を下げることだと思っている人が多いかもしれない。相手が罪を認めたのだからと、その件の損害賠償を要求すれば、「謝ったのだから此方は許すのが筋だろう」と反撃される可能性すらある。その、謝罪と賠償を完全に分離するのは、身内の思想である。それを日本国民全体に適用し、更に、国際関係にまでその考え方が常識だと思いこむのが、日本文化の危うさである。
2)ミズーリ号上で署名されたのは降伏文書だったのか、休戦協定の文書だったのかという議論があるが、そんなことは一般国民には重要ではない。それと絡んで、無条件降伏だったのか条件付き降伏だったのかという議論も虚しい。何故なら、GHQの支配下に入ったのは事実であり、天皇斬首も可能だったこと、更に、マッカーサー解任のときに20万人が沿道から見送った事実などから、無条件降伏だったことは明らかである。
3)1956年10月19日に日ソ間の国交回復がなされ、1965年6月22日に日韓基本条約が締結されたが、北朝鮮との間での終戦処理は終わっていない。中国との関係は少し複雑である。1949年に中華人民共和国の建国宣言がなされているので、日華平和条約(1952年8月5日発効)で戦後処理が終息したとは看做されないだろう。また、1978年に発効した日中平和有効条約により、日本と台湾に逃げた国民党政府との関係が無くなった。従って、台湾との戦後処理は未だ終わっていない。
4)佐藤健志著「右の売国、左の亡国」など参照。右翼の方々の太平洋戦争の原因に関する議論も、米国や国際共産主義運動の所為にするだけで、日本にとって無益且つ有害である。