靖国神社は戦争で命を無くした兵士達を神として祀る神社である。先ほどのニュースによると、安倍総理大臣が就任一年後の今日参拝した。それに対して、お決まりの、或いは、それ以上の批難が、日本国に併合された国や侵略された国(韓国及び中国)から出されている。(注釈1)
靖国神社には、東条英機を始め先の戦争に責任のある当時の各省大臣たちも、合祀されている。櫻井よしこさんが週刊誌に書いた様に、所謂右翼系と目される人たちは、戦争責任者とされた人も赦免されて合祀されていると考えている。(注釈2) この合祀によって靖国は、時の政府の決定に従い、国を守るためと信じて戦死した兵士達を神格化した神社から、戦争を机上で計画して実行した人たちの神社へと、部分的にではあるが、変質した。自民党の靖国神社に団体で参拝した人たち及び安倍総理は、「戦争指揮者達の霊に参拝する為ではない。国の為に命を捧げた兵士達の霊に参拝するために靖国に行ったのだ」というだろう。もしそうなら、彼ら戦争を指揮した者たちの合祀以後参拝されなかった昭和天皇と彼らの考え方の差は何かを説明すべきである。“もっともだ”と傾聴に値するものは何一つ出てこないだろう。
今回安倍総理の靖国参拝は、日本の今後にどのような影響を与えるかを十分考えないで行なわれた、軽薄な行為であると思う。“中国や韓国の国民や首脳がどのように感じるか”は、直接的には問題外であるが、“日本国がどのような影響を受けるか”を考える上には非常に大切なのである。今回の参拝は、隣国との摩擦を敢えて大きくし、中国に尖閣諸島へ軍を出動させるきっかけとなるかもしれない。
注釈:
1)国会議員団の靖国参拝に懸念を示す中国韓国を批判する安倍氏への反論(4月29日)
2)櫻井よしこさんの靖国参拝に関する考え方を批判する(8月29日)
(12月26日午後3時投稿、午後8時30分注釈を改訂)
補足:今回の安倍総理の靖国神社参拝に対して、同盟国である米国からも批判があった。それを政府筋は想定外だと思ったとのことである。私には米国の反発は当然のことと思っていた。つまり、今の政府要人の頭脳はその程度のことも判らないレベルだということである。
或いは、想定外というのは嘘で、安倍総理や自民党首脳にとって靖国神社参拝はそれほど大切なことなのかもしれない。「自分の命が無くなるとしても、家族とその子孫が今後平穏に暮らせるのなら、無駄死ではないだろう」と召集令状をもらい戦地に赴いた多くの兵士達は思っただろう。彼らの霊は、今回のような日本国を孤立へ導くかもしれない靖国参拝をけっして喜ばないだろう。昭和天皇ならそのように考えられたと思う。私のような典型的な日本人(と思っている)にとって、彼ら自民党首脳らは将に異教の徒なのかもしれない。(12/27朝補足)
補足2:靖国は神社であり、従って慰霊の場所ではない。拝礼する場所である。
また、この記事の最初に兵士を祀る施設と書いたが、実際は、神社は古代から戦争指導者として大きな働きをした英傑を神として祀る場所であり、決して一般兵士を祀る施設ではない。先の戦争は、負けた戦争ではあるものの、神社に祀るレベルの者は、戦争指導者である東条首相や阿南陸軍大臣等である。神社は彼らこそこの靖国に相応しいと考えている筈である。
兎に角、日本国は”ごまかしと曖昧”で運営されてきた国である。昨日の沖縄知事によるの辺野古埋め立て政府案に対する同意も、同様である。辺野古での基地建設に9年かかるのに、「5年で普天間を撤去する」という主なる合意事項を極めて曖昧な形にぼやかして首相は提示し、知事は受け入れた。同じ類いの”ごまかしと曖昧”の決定である。まともな論理が支配する国家にならなければ、”曖昧とごまかしの東アジア”から日本国は抜け出られず、その底に沈むだろう。
(12/28朝補足;同時に本文の日本語の二カ所訂正しました。)
注目の投稿
人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2013年12月26日木曜日
2013年12月23日月曜日
科学技術文明の発展と崩壊について
自然科学(自然哲学)は二十世紀に大きく進歩し(注1)、その工業技術への応用は、人類に全く新しい生活環境を提供することになった。それに比較して、人間や社会を対象にした通常哲学と呼ばれる分野に関しては、素人目には自然科学ほどの大きな発展は見えない。(注2)その原因は、用いる言葉にあるのではないかと思う。与えられた言葉により、人間の思考の範囲は決められてしまうので、その言葉を使う限り哲学の発展にも限界があることになる。(注3)一方、自然科学が大きく発展したのは、言葉として通常の言語の他に数学を用いたからであると思う。その結果、通常の言語で与えられた、例えば、粒子と波、エネルギーと質量(重さ)などの基本的概念の壁をも、突き破ることができた(注4)。その発展した科学を基礎にして、現代の技術文明の中心にある電子技術や新材料技術などが発展した。
その自然科学が奇跡的発展を遂げたことの原点にあるのは、やはりギリシャの哲学であると感じる。ソクラテスの”対話”を真理へ到達する方法とした考えに基づいて、現在の文明が築かれたのではないだろうか(注5)。科学は、対話という方法と数学という新しい言葉を用い、自然科学と相互作用的に発展した技術文明という土壌の上に、大きく育ったと思う。この自己駆動的に発展した”科学技術文明”にもやはり限界はあると思う。理由の一つに、人の寿命や知能が有限であるため、次の世代に整理された形で伝承することが可能な(文明に関する)情報の質と量に限界があるからである。更に、この科学技術文明は今や人間の直感を超えたところにあるため、人は屢々”携帯をもったサル”状態になってしまう。つまり、自分達が造り出した文明社会に人間が不適応状態になりつつあるためである。
文明の情報量と人の感覚からの乖離(注6)が大きくなるに従って、人生の目的(調和的な人生)と文明を維持すること及び文明から受ける利益との間に、大きな差が生じる。その時、“科学技術文明”はその頂上に至ると思う。この高度にバブル的に発展した文明の終わりは、停止するという形ではなく、カタストロフィックな崩壊的なものになるだろう。例えば、核戦争での大都市数個の破壊とその後の世界経済の破滅のような、論理的に継続しない形をとると思う。(注7)
注釈:
1) 進歩の度合いを計る物差はたくさんあり得るので、古代より着実に進歩して来たという言い方もあり得る。ここでは単に表層的な変化について述べているだけである。
2) NHKで放送された"サンデル教授の哲学講義"で、正義についてのレベルの高い講義が放送されていた。しかし、たかが正義について近代哲学者によっても繰り返し議論されているとしたら、驚きである。(追記参照)
3)現在、少しずつ勉強しているに過ぎないので、この言葉は言い過ぎかもしれない。
4) 量子力学は、電子(古典的には粒子)を波動として取り扱うことで、その原子分子での振る舞いを理解可能にした。また、原子力発電の原理は言うまでもなく、原子核分裂の際、一部の質量がエネルギーとして放出されることを利用している。
5) 対話は英語でdialogueであり、ギリシャ語でディアロゴス(二つのロゴス)というらしい。つまり、二つの理の対立により真理へ到達できるのである。この方法は、個の都合を排して真理へ近づく最善の方法である。ここで二つは、神(=自然観察)と人(哲学者の論理)なのだろう。
6)通常言語の概念を超えて発展した科学とそれによる技術が、人の感覚から乖離した所にあるのは当然かもしれない。例えば、コンピュータに置ける数テラバイトの記憶装置や数GHzの演算速度は、一台で全国民の個人情報を管理解析出来るレベルにある。
7)リアルタイムで情報が世界中を伝搬するため、人は人間固有の時間スケールより遥かに早い応答を要求される。また、やり取りされる情報の性格付けが時として容易でないため、突発的に異常なことが起こり得る。また、数世代に亘り文明から受ける利益は、人を傲慢にし、その結果この危険性を増す。崖を落ちるように一瞬の悲劇は生じるかもしれないと想像する。その後、知的真空状態(或いは虚無状態)の中で世界は混乱し、社会は信用を失い、世界経済は破綻するような気がする。追加:一言で言えば、この世界は6歳児が戦車を持っている状態にある。
(出来が悪くて改訂を繰り返しています。何を感じてこのような文章を書いているかだけでも、理解していただければと思います。平成25年12月23日午後、24日、25日夕改訂)
追記(12/29):近代の哲学が存在や認識についていろいろ議論しているのは知っていますが、それらは何か実りあるものを人類に与えたか疑問ですので、注釈2)には上げていません。私は、人が創造された時に、人の認識は全て人の内部に用意され、決定されていると思っています。更に、人と同時に創造された言葉にその表現が準備されていると考えています。ただ、人の創造が神によりなされたかどうかは判りません。これについてはホームページの巻頭に書いています。
その自然科学が奇跡的発展を遂げたことの原点にあるのは、やはりギリシャの哲学であると感じる。ソクラテスの”対話”を真理へ到達する方法とした考えに基づいて、現在の文明が築かれたのではないだろうか(注5)。科学は、対話という方法と数学という新しい言葉を用い、自然科学と相互作用的に発展した技術文明という土壌の上に、大きく育ったと思う。この自己駆動的に発展した”科学技術文明”にもやはり限界はあると思う。理由の一つに、人の寿命や知能が有限であるため、次の世代に整理された形で伝承することが可能な(文明に関する)情報の質と量に限界があるからである。更に、この科学技術文明は今や人間の直感を超えたところにあるため、人は屢々”携帯をもったサル”状態になってしまう。つまり、自分達が造り出した文明社会に人間が不適応状態になりつつあるためである。
文明の情報量と人の感覚からの乖離(注6)が大きくなるに従って、人生の目的(調和的な人生)と文明を維持すること及び文明から受ける利益との間に、大きな差が生じる。その時、“科学技術文明”はその頂上に至ると思う。この高度にバブル的に発展した文明の終わりは、停止するという形ではなく、カタストロフィックな崩壊的なものになるだろう。例えば、核戦争での大都市数個の破壊とその後の世界経済の破滅のような、論理的に継続しない形をとると思う。(注7)
注釈:
1) 進歩の度合いを計る物差はたくさんあり得るので、古代より着実に進歩して来たという言い方もあり得る。ここでは単に表層的な変化について述べているだけである。
2) NHKで放送された"サンデル教授の哲学講義"で、正義についてのレベルの高い講義が放送されていた。しかし、たかが正義について近代哲学者によっても繰り返し議論されているとしたら、驚きである。(追記参照)
3)現在、少しずつ勉強しているに過ぎないので、この言葉は言い過ぎかもしれない。
4) 量子力学は、電子(古典的には粒子)を波動として取り扱うことで、その原子分子での振る舞いを理解可能にした。また、原子力発電の原理は言うまでもなく、原子核分裂の際、一部の質量がエネルギーとして放出されることを利用している。
5) 対話は英語でdialogueであり、ギリシャ語でディアロゴス(二つのロゴス)というらしい。つまり、二つの理の対立により真理へ到達できるのである。この方法は、個の都合を排して真理へ近づく最善の方法である。ここで二つは、神(=自然観察)と人(哲学者の論理)なのだろう。
6)通常言語の概念を超えて発展した科学とそれによる技術が、人の感覚から乖離した所にあるのは当然かもしれない。例えば、コンピュータに置ける数テラバイトの記憶装置や数GHzの演算速度は、一台で全国民の個人情報を管理解析出来るレベルにある。
7)リアルタイムで情報が世界中を伝搬するため、人は人間固有の時間スケールより遥かに早い応答を要求される。また、やり取りされる情報の性格付けが時として容易でないため、突発的に異常なことが起こり得る。また、数世代に亘り文明から受ける利益は、人を傲慢にし、その結果この危険性を増す。崖を落ちるように一瞬の悲劇は生じるかもしれないと想像する。その後、知的真空状態(或いは虚無状態)の中で世界は混乱し、社会は信用を失い、世界経済は破綻するような気がする。追加:一言で言えば、この世界は6歳児が戦車を持っている状態にある。
(出来が悪くて改訂を繰り返しています。何を感じてこのような文章を書いているかだけでも、理解していただければと思います。平成25年12月23日午後、24日、25日夕改訂)
追記(12/29):近代の哲学が存在や認識についていろいろ議論しているのは知っていますが、それらは何か実りあるものを人類に与えたか疑問ですので、注釈2)には上げていません。私は、人が創造された時に、人の認識は全て人の内部に用意され、決定されていると思っています。更に、人と同時に創造された言葉にその表現が準備されていると考えています。ただ、人の創造が神によりなされたかどうかは判りません。これについてはホームページの巻頭に書いています。
2013年12月17日火曜日
都議会は検察の下請けか?或いは遊んでいるのか?都知事と徳州会の件
連日の都議会の様子をテレビで観て、表題のような疑問を持つ人は多いだろう。私には、都議会は検察のまねごとをしており、税金の無駄使いをしている様に見える。この見方は、一般の方の意見と同じであり、ここに披露したい。
民間放送には、放送法第1条、”公共の福祉に適合する”という条項に反しているかどうかの疑問は少しあるが、表面上は”公共の福祉に反する”とは言えないので、それほどの苦情を言う理由はない。しかし、国民から視聴料を取っているNHKまで民法同様だらだらとこの件を報道しているのには呆れる。政治や社会運営(権利義務、議会、法などの近代国家)における、日本文化の底の浅さを知る思いである。西欧文化に関してこの部分(注釈)での未消化があるだけでなく、日本文化として定着していた「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」や、"武士の情け"も消えたとしたら、テレビやインターネットなどの西欧からもたらされた新しいメディアによって、日本は益々住み難い社会に変わって行くことを危惧する。
注釈)日本など東アジアには、経済発展した社会を国家レベルで統治する文化はないと思う。西欧のそれを借用するしかないのである。例えば:ワイルドスワンズ(ユン・チアン著)に、「役人になって口利き料をもらわないのなら、何の為に役人になるのか?」というのが、中国の一般人の感覚であるという記述がある。
(理系人間ですので、常識に反した議論をしている可能性があります。ご指摘あれば感謝します。)
民間放送には、放送法第1条、”公共の福祉に適合する”という条項に反しているかどうかの疑問は少しあるが、表面上は”公共の福祉に反する”とは言えないので、それほどの苦情を言う理由はない。しかし、国民から視聴料を取っているNHKまで民法同様だらだらとこの件を報道しているのには呆れる。政治や社会運営(権利義務、議会、法などの近代国家)における、日本文化の底の浅さを知る思いである。西欧文化に関してこの部分(注釈)での未消化があるだけでなく、日本文化として定着していた「水に落ちた犬は打つな(不打落水狗)」や、"武士の情け"も消えたとしたら、テレビやインターネットなどの西欧からもたらされた新しいメディアによって、日本は益々住み難い社会に変わって行くことを危惧する。
注釈)日本など東アジアには、経済発展した社会を国家レベルで統治する文化はないと思う。西欧のそれを借用するしかないのである。例えば:ワイルドスワンズ(ユン・チアン著)に、「役人になって口利き料をもらわないのなら、何の為に役人になるのか?」というのが、中国の一般人の感覚であるという記述がある。
(理系人間ですので、常識に反した議論をしている可能性があります。ご指摘あれば感謝します。)
2013年12月15日日曜日
ユルキャラで観光客を集めようとする愚
愛知万博の時ころからか、多くの地方で観光客などの誘致の為に、ユルキャラと言われる変装した人がマスコットを演じている。同じ目的であるにしても、どうしてもっとオリジナルな方法を用いないのか不思議である。他人事ながら、恥ずかしく思う位である。
キャラクターの形が全く異なっていても発想が同じであるので、後に出てくるほど、非常に貧弱な印象をもってしまう。これは日本文化に、オリジナリティーという価値観が非常に希薄であることによる。類似の意味の無い或いは馬鹿げている風習を少し挙げる。例えば:
1) 小学生になると、何故かほとんどの子供が高価なランドセルを買ってもらい、ランドセルが歩いているような集団登校の様子が見られる。
2) 中学生になると、女子学生はどういう訳か、水兵さんの服を着て通学する。オリジナリティーは、スカートの短さで発揮している。
3) 学校のチャイムは何処に言っても、同じメロディーである。
4) 何処でエレベーターに乗っても、各階で止まる毎にバカ丁寧な同じ様なアナウンスが流れる。
5) スーパーマーケットでは、常にうるさい位の音楽らしきものが流される。売り上げに関係するのだろうか?
6) テレビでクイズ番組が流行ると、多くの局で同じ様な番組が多数放送されるので、芸能人は漢字の能力や京大や東大ブランドで飯を食えるようになるらしい。その他に、田舎を探訪するタイプの番組も、同じパターンで数局が放送している。もっと頭を使えと言いたい。
中国がHONGDAブランドでバイクを販売していると言って、笑っている人が多いが、日本でも似た様なものではないだろうか。
キャラクターの形が全く異なっていても発想が同じであるので、後に出てくるほど、非常に貧弱な印象をもってしまう。これは日本文化に、オリジナリティーという価値観が非常に希薄であることによる。類似の意味の無い或いは馬鹿げている風習を少し挙げる。例えば:
1) 小学生になると、何故かほとんどの子供が高価なランドセルを買ってもらい、ランドセルが歩いているような集団登校の様子が見られる。
2) 中学生になると、女子学生はどういう訳か、水兵さんの服を着て通学する。オリジナリティーは、スカートの短さで発揮している。
3) 学校のチャイムは何処に言っても、同じメロディーである。
4) 何処でエレベーターに乗っても、各階で止まる毎にバカ丁寧な同じ様なアナウンスが流れる。
5) スーパーマーケットでは、常にうるさい位の音楽らしきものが流される。売り上げに関係するのだろうか?
6) テレビでクイズ番組が流行ると、多くの局で同じ様な番組が多数放送されるので、芸能人は漢字の能力や京大や東大ブランドで飯を食えるようになるらしい。その他に、田舎を探訪するタイプの番組も、同じパターンで数局が放送している。もっと頭を使えと言いたい。
中国がHONGDAブランドでバイクを販売していると言って、笑っている人が多いが、日本でも似た様なものではないだろうか。
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