昨日のテレビ番組“そこまで言って委員会”で、出版が始まった昭和天皇実録とその内容、特に先の大戦における天皇の立場、についての議論があった。
大日本帝国憲法下での天皇の権力について:第1条の天皇主権の条文、第4条の天皇は国家の元首であるとの条文、第11条の「天皇は陸海軍を統帥する」という条文などで、権力が天皇に集中している印象を受ける。ただ、統治は憲法に基づいて行なわれ(第4条)、第55条の「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任す」という条文が根拠となり、実際は各大臣に行政が任せられていたことから、帝国憲法下の天皇に関するパネラー達の理解は、「権威はあっても権力は行使されなかった」というのが支配的であった。
ただ、津川雅彦氏と竹田恒泰氏は、戦争責任が天皇に向かうことを過剰に警戒してか、帝国憲法下の天皇権力を過小化する主張をしていた(注1)。竹田氏によれば、天皇が政府決定に関与したのは、ポツダム宣言受諾の時と、226事件の時くらいだったという。前者は御前会議での所謂“ご聖断”であったが、後者は天皇の暴徒鎮圧の意志が軍首脳に伝わり、結果として軍を鎮圧に導いたという間接的なものだった。従って、在位中の権力行使は合計しても1.5回程度であったということである。更に、竹田氏は旧皇族らしく「昭和憲法の下の天皇も帝国憲法下の天皇も実はたいして違わないのだ」と、主張していた。現憲法下でも天皇の国事行為として大臣の任命などがある(注2)が、帝国憲法第1条と第11条を考慮すれば、違いは明白であるにも拘らずである。
一方、実際に政府決定に強く関与したことがあったという事実や、帝国憲法第55条の条文の意味は、各国務大臣は天皇に“助言する”だけなのだから、最終的権力は天皇にあると解するのが言語上正しい筈である。この文字通りの理解で天皇の戦争責任を主張したのが、日本共産党や日本社会党である(注3)。
実際は、これらの意見の中間、つまりパネラー大半の理解である、”憲法上の天皇の権力と内政や外交において実際に“行使された権力”の間に、大きな差があった”というのが現実に近いと思う。
私の考えだが:昭和天皇個人に戦争責任を問うべきではないが、天皇という地位が軍の暴走の根拠として利用されたという事実により、戦争責任があったと思う。そして、新憲法で天皇にそのような権力を置かないという形で、”天皇と言う地位”が責任をとったのだと考えればよい。この考え方は、美濃部達吉の天皇機関説的な戦争責任の解釈なのだろう(注4)。
一方、占領軍が戦争責任を問わなかったのは、「権威があっても実際上権力行使は無かった」という理解によるのではなく、占領軍の政治的思惑によるものであったと思う。
昔から、権力者はあらわな権力誇示を嫌う。例えば、江戸で幕府をひらいた徳川家康は、全く権力の無かった天皇から征夷大将軍という地位を貰って、自分の権力を正当化した。このときの天皇は将に、“権威あれども権力なし”の状態だった。英国にも、「国王は君臨すれども統治せず」という慣習法としての憲法があるという。つまり、本当の権力者は如何に失政の言い逃れをするかについて腐心してきたのだ。それが責任論を複雑にする理由だろう。
注釈:
1)津川氏は「権威はあったが、権力はなかった」とパネルに書いたと記憶している。竹田氏は“昭和憲法下の天皇とたいして違わない”(以下の文章参照)という表現を用いていた。
2)竹田氏は、現憲法下でも天皇が大臣任命を拒否する特別の場合があるかもしれないと言っていた。しかし、憲法4条に規定する天皇の国事行為は、憲法1条の「天皇は日本国民統合の象徴である」を具体化するためのものと私は考える。従って、竹田氏の言うveto(拒否権)はあり得ない(象徴に国家元首のvetoはおかしい)と思う。竹田氏は憲法学者を名乗るなら、明確にこの件雑誌等に書いてもらいたい。
3)元共産党議長の宮本顕治氏の国会での発言が放送されていた。パネラーでは田嶋陽子氏が、帝国憲法の字句通りの解釈を行なっている。
4)この点、専門の方の意見を聞きたいと思います。
(2015/3/30;am10:55;同日17:20語句修正)
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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2015年3月30日月曜日
2015年3月25日水曜日
三重女子中学生殺害事件の軽い判決:裁判官は刑罰の意味が分っていない
昨日の表題事件の判決は、異常に軽いとしか言い様が無い。裁判官などの関係者は、現代までの社会の変遷も考えて、犯罪処罰の役割を根本から再考すべきであると思う。情報化社会にあって、犯行に及ぶ18歳未満の者は、少年法の存在を承知の上で重罪を犯す場合も多いと聞く(注1)。精神的発達の早い昨今、少年法も改正を早急に議論すべきである。
犯罪処罰の役割であるが、それは1)社会の枠組みを防衛すること、2)被害者とその家族の報復権の代行、の二つであると思う。前者には、社会の他の構成員に対して戒めを与える意味と、現犯罪者を放置した場合に予想される更なる犯罪の防止、という二つの意味があるだろう。後者について:国家と言う枠組みがなければ、被害者家族は自然的権利として、武器を持ち報復を試みるだろう。その権利を国家に引き渡すことで、社会は安定を維持する。加害者の少年(当時は高校三年生)の「更生の可能性」は次の問題であると思う。裁判官は、判決を下す上での罪状の次に最重要な要件として「更生の可能性」を考えて、上記2)の報復権を無視しているのは、専門バカだからだろう(最後の節参照)。
古代のハンムラビ法典でも、聖書にある戒律でも、死に至らしめた者は自分の命でそれを償うのが基本である。それら、「目には目を、歯には歯を」の原則は、それ以上の刑罰を戒める為につくられたのである。つまり、古代から犯罪は直接的被害の他に被害者親族や社会にも被害を与えるので、目には目以上の罰を下すのが多かったことを示している。それが、「更生の可能性」という謎のことばで、刑罰を「目には睫毛を」レベルに引き下げる慣習が出来上がった。それは、素人の私にはわからない理不尽なものに思える。
勿論、社会が複雑になり、その中で生きる人間の不適応症状を全て、ハンムラビ法典流に重罰に処すことは、社会を不安定にし、社会の活動を下げる可能性もある(注2)。その場合には、加害者側の犯罪に至る状況を考え、情状酌量の余地ありという形で刑罰を定める際に考慮される。
しかし、「更生の可能性」という謎のことばは理解できない。更生の可能性は死刑か有期刑か(終身刑は日本にはない)という判断のみの問題であり、懲役5-9年という短期の懲役刑を課す場合の減刑理由であってはならないと思う。“100万円の借金を踏み倒したのだが、若くて更生の可能性があるので、80万円の返還を命令する”のような不合理を感じる。
裁判官が判決後犯人に向けていった言葉は、「他人の痛みが分る人間になってほしい。事件と向き合うことが被害者への謝罪とあなた自身の立ち直りの第一歩だ」であった。この言葉は判決の一部をなし、私的な言葉ではない筈だから、その考えが判決の上で考慮されたことを意味している。これが、「更生の可能性」という謎の言葉の正体なのだ。現在の日本における裁判の根本的問題を示していると思う。 何故なら、
1)他人の痛みが分るかどうかは問題ではない。他人の痛みがさっぱりわからなくても、法律に禁止されたことをしないことが大切なのだ。(注3)
2)死亡した被害者に謝罪は出来ない。
3)立ち直るかどうかは、裁判官の仕事の範囲にはない(注4)。
裁判官も日本病に罹っている。
注釈:
1)少年法が定められた昭和23年当時よりも人間的にも精神的にも成長が早く、欧米では既に18歳から成人として扱う国が多く、日本でも少年法の改正が議論されている。尚、18-19歳の量刑は、成人と同じである。
2)その例として、セクハラ裁判がある。あまりにも女性側の敏感な視点で裁かれると、男性は町の中に出られなくなる。少なくとも満員電車には出来るだけ乗らないとか、エレベーター内に女性を見た時、他に男性がいなければ乗り込まないなどは常識的になっており、男性の社会での活動効率を下げている。
3)ニューヨークだけでも10万人くらいのサイコパスの人がいると言う。日本人にも100人に1-2人居るだろう。それらの人は元々被害者の痛みなど分らないし、その意味で更生の可能性などないのだ。そんなこと、裁判官はしらんのだろうか。
4)私は理系の元研究者であり、法学に関しては素人である。文系、特に法学系の人に批判してほしい。ただし、法理論的にではなく、1人の人間として、自分の哲学を披露する形で。
犯罪処罰の役割であるが、それは1)社会の枠組みを防衛すること、2)被害者とその家族の報復権の代行、の二つであると思う。前者には、社会の他の構成員に対して戒めを与える意味と、現犯罪者を放置した場合に予想される更なる犯罪の防止、という二つの意味があるだろう。後者について:国家と言う枠組みがなければ、被害者家族は自然的権利として、武器を持ち報復を試みるだろう。その権利を国家に引き渡すことで、社会は安定を維持する。加害者の少年(当時は高校三年生)の「更生の可能性」は次の問題であると思う。裁判官は、判決を下す上での罪状の次に最重要な要件として「更生の可能性」を考えて、上記2)の報復権を無視しているのは、専門バカだからだろう(最後の節参照)。
古代のハンムラビ法典でも、聖書にある戒律でも、死に至らしめた者は自分の命でそれを償うのが基本である。それら、「目には目を、歯には歯を」の原則は、それ以上の刑罰を戒める為につくられたのである。つまり、古代から犯罪は直接的被害の他に被害者親族や社会にも被害を与えるので、目には目以上の罰を下すのが多かったことを示している。それが、「更生の可能性」という謎のことばで、刑罰を「目には睫毛を」レベルに引き下げる慣習が出来上がった。それは、素人の私にはわからない理不尽なものに思える。
勿論、社会が複雑になり、その中で生きる人間の不適応症状を全て、ハンムラビ法典流に重罰に処すことは、社会を不安定にし、社会の活動を下げる可能性もある(注2)。その場合には、加害者側の犯罪に至る状況を考え、情状酌量の余地ありという形で刑罰を定める際に考慮される。
しかし、「更生の可能性」という謎のことばは理解できない。更生の可能性は死刑か有期刑か(終身刑は日本にはない)という判断のみの問題であり、懲役5-9年という短期の懲役刑を課す場合の減刑理由であってはならないと思う。“100万円の借金を踏み倒したのだが、若くて更生の可能性があるので、80万円の返還を命令する”のような不合理を感じる。
裁判官が判決後犯人に向けていった言葉は、「他人の痛みが分る人間になってほしい。事件と向き合うことが被害者への謝罪とあなた自身の立ち直りの第一歩だ」であった。この言葉は判決の一部をなし、私的な言葉ではない筈だから、その考えが判決の上で考慮されたことを意味している。これが、「更生の可能性」という謎の言葉の正体なのだ。現在の日本における裁判の根本的問題を示していると思う。 何故なら、
1)他人の痛みが分るかどうかは問題ではない。他人の痛みがさっぱりわからなくても、法律に禁止されたことをしないことが大切なのだ。(注3)
2)死亡した被害者に謝罪は出来ない。
3)立ち直るかどうかは、裁判官の仕事の範囲にはない(注4)。
裁判官も日本病に罹っている。
注釈:
1)少年法が定められた昭和23年当時よりも人間的にも精神的にも成長が早く、欧米では既に18歳から成人として扱う国が多く、日本でも少年法の改正が議論されている。尚、18-19歳の量刑は、成人と同じである。
2)その例として、セクハラ裁判がある。あまりにも女性側の敏感な視点で裁かれると、男性は町の中に出られなくなる。少なくとも満員電車には出来るだけ乗らないとか、エレベーター内に女性を見た時、他に男性がいなければ乗り込まないなどは常識的になっており、男性の社会での活動効率を下げている。
3)ニューヨークだけでも10万人くらいのサイコパスの人がいると言う。日本人にも100人に1-2人居るだろう。それらの人は元々被害者の痛みなど分らないし、その意味で更生の可能性などないのだ。そんなこと、裁判官はしらんのだろうか。
4)私は理系の元研究者であり、法学に関しては素人である。文系、特に法学系の人に批判してほしい。ただし、法理論的にではなく、1人の人間として、自分の哲学を披露する形で。
2015年3月24日火曜日
マイナンバー制:恐れる人たちと恐れる理由
マイナンバー制:恐れる人たちと恐れる理由
1)マイナンバー制とは、全ての国民に番号をつけることで、行政の能率化を図る制度である(注釈1)。それを国家が国民を管理する為の制度であり、国民の自由が侵害される可能性が高くなるとして、恐怖感を覚える方が多い様である。例えば、以下の一般の方のブログには将来の徴兵制や日常の行動を管理するためにも使われるというような書き方で、恐怖を煽っている。http://blogs.yahoo.co.jp/overthewind999/64881862.html そして、土曜日に投稿されたこの記事は、face bookでのシェアが今朝10時の時点で既に3500以上を記録している所をみると、多くの日本人の共感を得ているように思える。
なぜ、日本人はこのような意見に賛同する向きが多いのだろうか?
全ての国民の名前等を戸籍簿に記載するのは、当たり前のことになっている。そして、マイナンバー制が始まれば、その戸籍簿に番号をつけ、納税などの際にその番号を記載することになるのだろう。更に、何かの契約がなされた時に、その番号が記載され、税務処理などが非常に効率よくなるだろう。マイナンバー制は行政の立場からは便利なだけに、独裁国家などの体制下では国民には厳しい制度となる。しかし、日本国は独裁国家ではない。
“便利なもの=危険なもの”という等式は、包丁でも自動車でも同じである。ただそれを便利に使い、危険を防止するのが人間の智慧でありその集積としての文明である。マイナンバー制に関しても、全ての国民が政治を勉強し政治に積極的に参加することで、その危険性は少なくなり、行政の能率化による利益を国民全体が得ることになる筈だ。
2)ただ、国民は主権者であるということになっているが、政治にたいして或る種の壁を多くの日本人は感じている。そして、自分達が政府のトップに位置する内閣構成員を選んでいるにも拘らず、日本政府をあまり信用していない。それには、二つの理由が考えられる。その一つ目の理由であるが、それは過去と現在の政治家に対して、強い不信感をもっていることである。具体的には、先の戦争時に、国民の命を消耗品の様に扱った大日本帝国に対する記憶が残っていること、また、その時代の政治家の子孫である、現在政府を代表する国会議員達、所謂世襲議員、のレベルがあまりにも低く、国会での答弁も官僚達のメモを読むだけであること等を、国民は良く知っているからだろう。
無能で政治家としてのプライドのあまりない(ただし、威張るという意味では、プライドは高いが)議員にとっての政治責任は、国会議員の席を担保とするだけのものであり、一般国民の自己破産よりも遥かに軽い。そして、議員という地位にあるにも拘らず、国会やテレビで厳しい議論の洗礼を受けることはなく、国会の議席は子供に譲るまで守ることができる。それが許されるのは、対面で厳しく追及することを、日本文化はあさましい姿と評価するためである。年功序列、永年勤続表彰制度などの存在から判るように、地位あるものに時間は常に味方をするのが、儒教社会である日本の特徴である。
その結果、そのような社会では、芸能界やスポーツ界で名声を獲得するまでは、議員へ立候補は常に“敷居が非常に高い”こととなる。この政治参加への高い敷居が二つ目の理由である。(注2)
3)このような現状を克服する処方箋は多分一つしかない。それは各界で活躍している知識人達で既にマスコミなどで知名度が上がっている人の多くが、議員として立候補することである。そして、議員としての地位を、公衆の前での議論で維持するという習慣を日本社会に持ち込むことである。その例は既に、大阪の橋下徹氏が示している。
もし、橋下氏の意見が偏っているのなら、それを論破する知識人が同じ土俵に立てば良い。そのような場と政治慣習が出来れば、多くの人材がそこから出るだろう。松下政経塾という試みも萌芽の段階では良かったが、オープンなものにバージョンアップしなければ、中途半端な政治家を産むだけである。
注釈:
1)米国のsocial security numberやカナダのsocial insurance numberなど、多くの先進国は既に類似の制度を取り入れている。
2)他に、違法な領域を抱えた人は当然反対する。所得税などの脱税の多くは、マイナンバー制で防げる。
なぜ、日本人はこのような意見に賛同する向きが多いのだろうか?
全ての国民の名前等を戸籍簿に記載するのは、当たり前のことになっている。そして、マイナンバー制が始まれば、その戸籍簿に番号をつけ、納税などの際にその番号を記載することになるのだろう。更に、何かの契約がなされた時に、その番号が記載され、税務処理などが非常に効率よくなるだろう。マイナンバー制は行政の立場からは便利なだけに、独裁国家などの体制下では国民には厳しい制度となる。しかし、日本国は独裁国家ではない。
“便利なもの=危険なもの”という等式は、包丁でも自動車でも同じである。ただそれを便利に使い、危険を防止するのが人間の智慧でありその集積としての文明である。マイナンバー制に関しても、全ての国民が政治を勉強し政治に積極的に参加することで、その危険性は少なくなり、行政の能率化による利益を国民全体が得ることになる筈だ。
2)ただ、国民は主権者であるということになっているが、政治にたいして或る種の壁を多くの日本人は感じている。そして、自分達が政府のトップに位置する内閣構成員を選んでいるにも拘らず、日本政府をあまり信用していない。それには、二つの理由が考えられる。その一つ目の理由であるが、それは過去と現在の政治家に対して、強い不信感をもっていることである。具体的には、先の戦争時に、国民の命を消耗品の様に扱った大日本帝国に対する記憶が残っていること、また、その時代の政治家の子孫である、現在政府を代表する国会議員達、所謂世襲議員、のレベルがあまりにも低く、国会での答弁も官僚達のメモを読むだけであること等を、国民は良く知っているからだろう。
無能で政治家としてのプライドのあまりない(ただし、威張るという意味では、プライドは高いが)議員にとっての政治責任は、国会議員の席を担保とするだけのものであり、一般国民の自己破産よりも遥かに軽い。そして、議員という地位にあるにも拘らず、国会やテレビで厳しい議論の洗礼を受けることはなく、国会の議席は子供に譲るまで守ることができる。それが許されるのは、対面で厳しく追及することを、日本文化はあさましい姿と評価するためである。年功序列、永年勤続表彰制度などの存在から判るように、地位あるものに時間は常に味方をするのが、儒教社会である日本の特徴である。
その結果、そのような社会では、芸能界やスポーツ界で名声を獲得するまでは、議員へ立候補は常に“敷居が非常に高い”こととなる。この政治参加への高い敷居が二つ目の理由である。(注2)
3)このような現状を克服する処方箋は多分一つしかない。それは各界で活躍している知識人達で既にマスコミなどで知名度が上がっている人の多くが、議員として立候補することである。そして、議員としての地位を、公衆の前での議論で維持するという習慣を日本社会に持ち込むことである。その例は既に、大阪の橋下徹氏が示している。
もし、橋下氏の意見が偏っているのなら、それを論破する知識人が同じ土俵に立てば良い。そのような場と政治慣習が出来れば、多くの人材がそこから出るだろう。松下政経塾という試みも萌芽の段階では良かったが、オープンなものにバージョンアップしなければ、中途半端な政治家を産むだけである。
注釈:
1)米国のsocial security numberやカナダのsocial insurance numberなど、多くの先進国は既に類似の制度を取り入れている。
2)他に、違法な領域を抱えた人は当然反対する。所得税などの脱税の多くは、マイナンバー制で防げる。
2015年3月23日月曜日
チュニジアでのテロ:テロは西欧的視点からの対策だけでは解決しない
チュニジアでの観光客を狙ったテロで、日本人の方3名を含め21名の犠牲者が出た。豪華客船での地中海クルーズで立ち寄ったチュニジアの首都での悲劇だった。イスラム過激派の仕業であることが明確になり、改めて地球上の広い地域でテロの危険性があることを世界に教えた。地中海の美しい景色を豪華客船の上から観賞しての楽しい旅行とのコントラストがあまりにも強く、日本にいる我々にも大きなショックを与えた出来事であった。(補足)
イスラム原理主義とかイスラム過激派とは何なのか?何故あのような行為をするのか?などという議論がテレビで盛んに行なわれている。その思想的なことや歴史的なことの理解は、事件のプロセスやメカニズムを知る上に大切かもしれない。しかし、もう一つの見方がある。それは事件をひき起すエネルギーである。
この過激派が出現する領域に共通しているのは、貧しさである。不公平とも感じられる国境を跨いだ富の大きな差は、この地域が西欧科学技術文明との経済的接触を持ったときより生じたものである。豊かなサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、クウェート等の産油国とそれ以外で一人当たりのGDP(つまり一人当たり所得)は約一桁違う。http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html
2013年の統計によると、豊かなカタールの1人あたりGDPは約10万ドル、クウェートやアラブ首長国連邦で約4.5万ドル、サウジアラビアやバーレーンなどは約2.5万ドル程度である。一方、イラン、イラク、チュニジア、リビア、アルジェリア、エジプト等は約3-6千ドル、アフガニスタンは700ドル、ソマリアやシリアは統計に無かった。
日本の1人当りGDPは3万8千ドルだから、産油国は日本と同程度から世界トップレベルまでの豊かさである。一方、テロや国際紛争で新聞紙上にしばしば出てくる国々は、一桁低い所得であり、国家としての形が保てないシリアでは極貧状態である。
先進国でも貧富の差が問題になっているが、中東やアフリカの貧富の差は遥かに深刻だろう。そのような状況があるからこそ、命を捨てて怒りをぶちまける行為が可能なのだ。西側先進諸国の視点から警備強化や政治的安定性確保を対策と考えるだけでは、テロは解決しない。
そして、もう一つ気になることがある。それはテロにも金がかかるということである。自動小銃は数十万円する。その価格はテロが起こる地域の一人当たりGDPと同じレベルである。何か黒い影を感じるが、それについては既に書いた。
補足:犯人の内2人はその場で射殺されたという。テロ犯人の死と日本を含む西欧先進諸国から豪華客船で立ち寄った人たちの死。このコントラストも凄まじい。(書かないでおこうと思ったが、どうしても書きたかったので補足します。)
一足早く咲いた河津桜:原種に近い桜であり、花と同時に葉をつける。この方が自然であり、ソメイヨシノよりも私は好きである。
イスラム原理主義とかイスラム過激派とは何なのか?何故あのような行為をするのか?などという議論がテレビで盛んに行なわれている。その思想的なことや歴史的なことの理解は、事件のプロセスやメカニズムを知る上に大切かもしれない。しかし、もう一つの見方がある。それは事件をひき起すエネルギーである。
この過激派が出現する領域に共通しているのは、貧しさである。不公平とも感じられる国境を跨いだ富の大きな差は、この地域が西欧科学技術文明との経済的接触を持ったときより生じたものである。豊かなサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、クウェート等の産油国とそれ以外で一人当たりのGDP(つまり一人当たり所得)は約一桁違う。http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html
2013年の統計によると、豊かなカタールの1人あたりGDPは約10万ドル、クウェートやアラブ首長国連邦で約4.5万ドル、サウジアラビアやバーレーンなどは約2.5万ドル程度である。一方、イラン、イラク、チュニジア、リビア、アルジェリア、エジプト等は約3-6千ドル、アフガニスタンは700ドル、ソマリアやシリアは統計に無かった。
日本の1人当りGDPは3万8千ドルだから、産油国は日本と同程度から世界トップレベルまでの豊かさである。一方、テロや国際紛争で新聞紙上にしばしば出てくる国々は、一桁低い所得であり、国家としての形が保てないシリアでは極貧状態である。
先進国でも貧富の差が問題になっているが、中東やアフリカの貧富の差は遥かに深刻だろう。そのような状況があるからこそ、命を捨てて怒りをぶちまける行為が可能なのだ。西側先進諸国の視点から警備強化や政治的安定性確保を対策と考えるだけでは、テロは解決しない。
そして、もう一つ気になることがある。それはテロにも金がかかるということである。自動小銃は数十万円する。その価格はテロが起こる地域の一人当たりGDPと同じレベルである。何か黒い影を感じるが、それについては既に書いた。
補足:犯人の内2人はその場で射殺されたという。テロ犯人の死と日本を含む西欧先進諸国から豪華客船で立ち寄った人たちの死。このコントラストも凄まじい。(書かないでおこうと思ったが、どうしても書きたかったので補足します。)
一足早く咲いた河津桜:原種に近い桜であり、花と同時に葉をつける。この方が自然であり、ソメイヨシノよりも私は好きである。
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