1)北朝鮮問題が、一昨日のミサイル発射により時間軸上をかなり進んだ。それに対してトランプ大統領は29日、隣国や国連に対する「侮辱」を意味するもので、国際社会での孤立を深めるだけだと批判し、米国の対応には「全ての選択肢がテーブルの上にある」と述べた。http://www.bbc.com/japanese/41091853
安倍晋三首相は30日深夜、トランプ米大統領と電話で約30分間会談し、弾道ミサイル発射を繰り返す北朝鮮にさらなる圧力が必要との認識で一致した。http://www.sankei.com/politics/news/170831/plt1708310003-n1.html
金正恩朝鮮労働党委員長は、「恥辱的な韓国併合条約」が発効した1910年8月29日から107年に当たる29日に「日本人を驚がくさせる大胆な作戦計画」を立て、発射を承認したという。そしてその発射訓練は、「米国グアム島をけん制する前奏曲となる」と強調したという。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170830-00000007-jij-kr
更に、国連安保理は緊急会合を開き、北朝鮮による日本上空を通過した弾道ミサイル発射を非難し、発射の即時停止を求める議長声明を全会一致で採択した。https://www.nikkei.com/article/DGXLASGN30H26_30082017000000/
これらの北朝鮮問題を巡る各国と国連の反応は、全て従来の姿勢の延長上にある。時間軸を進めたにも関わらず、全てが従来の延長上にあるということは、それだけ選択肢の幅を狭めたことになる。それを各国や国連は、どう考えているのか?
2)直線上を動くことは、パチンコ玉でも出来る。慣性の法則に従えば良いだけである。それぞれの国の内部での、思考も計算もいらない。それで良いのか? 北朝鮮、米国、その衛星国である韓国と日本、ロシア、中国や国連に、何か最終的な図面ができているのか?
金正恩は若い世襲の指導者である。いままで、同じ方向を進んできたので、方向を徐々に変えることの難しさを実感しているだろう。おそらく打つ手がないのではないか。世間ではチキンレースというが、別の路に飛び移る方法を当事者が知っている場合がチキンレースである。本当にチキンレースなのか?両方とも、飛び移るべき別の道がわからずに、ただ前に進んでいるだけではないのか?
金正恩は国内での権威を保つために側近の粛清を繰り返して来た。張成沢など中国との太いパイプを持つ者も失っている。そのような状況では、金正恩個人が天才的であれば良いが、いろんな意見を周囲から聞き、それをヒントに道を選ぶというタイプの政治家なら、新しい発想に至らないのではと心配する。
ひょっとして、米国の大統領も類似の情況にあるとした場合、結末は非常に深刻なことになるのではないだろうか。つまり、トランプ大統領は、大統領になるまで東アジアでのこれまでの米国の政治には知識がなかった。それは、「韓国も日本も核兵器を持つのなら持てば良いではないか」と安易に発言したことからも明白である。そして、次々と側近の名前が変わるところを見ると、ギリギリのところまで“チキンレース”が進んだ段階では、国防長官や国務長官の助言も機能しないのではないのかと心配する。
3)解決のシナリオ:
私は、以下のよう考える。つまり、①北朝鮮を核兵器保持(中距離ミサイルまで)のまま国家承認することと、その後のシナリオが書けていないのなら、はっきり言って、金正恩の暗殺以外にこの“チキンレース”から降りる道はないのでは。
①のシナリオで、日米韓がNATOと同じように、②韓国と日本を対象に核兵器の共有を持ち出す場合、金正恩の暗殺は中国によってなされる可能性もあると思う。なぜなら、中国およびロシアは自分たちが巨大な核軍備を持つことで、日本などから得られる間接的利益を、既に予定利益として計上している可能性があるからである。
もちろん、①と②をそのまま中露が受け入れるのなら、北朝鮮問題は半ば解決したも同然である。また、トランプ大統領が当初考えていたアメリカファーストの政策、在外米軍の縮小も同時に達成できるのである。更に、米国は核兵器共有の代金を日韓に請求して、毎年固定した利益を計上できるだろう。
米軍が日韓両国に存在するのは、米国の西太平洋地域における覇権確保が理由である。冷戦が終結して、その最後の象徴的な朝鮮戦争を完全終結してしまえば、米国が西太平洋に残留する理由はない。http://www.mag2.com/p/money/290808?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000204_thu&utm_campaign=mag_9999_0831&l=qux0596bfd
しかし、覇権を中国に移動させることは、新たな悲劇を産む可能性が高い。そこで、その覇権の空白を埋めるのが核兵器の共有であり、西太平洋条約とでも呼ぶべき条約再編だと思う。一方の中国やロシアには、北朝鮮という核保持国が緩衝帯として温存され、安全保障上の問題は大きくはならない。(補足1)
ロシアと日本は海を隔ててではあるが、直接国境を接っしている。そこで、北海道の一部と北方4島を非核ゾーンとして、平和条約を締結する。また、北方4島は、日露経済協力特別区として、日露の経済協力の基地的存在にすれば、ロシアにも日本にも利益は大きい。この際、領土問題などは小さいと考えて、日ソ共同宣言時の取り決めをそのまま両国が受け入れるので良いと思う。(上記、非核ゾーンを非核&非軍事ゾーンに改正;9/2/am)
この新しい覇権構造における中国と日本の関係は別途交渉すべきであるが、おそらく尖閣諸島の譲渡ぐらいは日本もすべきであると思う。
以上、素人の意見をそのまま書きました。適当に読み飛ばしてください。
補足:
1)この場合、文在寅韓国大統領は、今までの韓国の反日プロパガンダの真相を韓国国民に説明する必要がある。京城が火の海になり、100万人が死亡することを考えれば、出来るはずである。
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2017年8月31日木曜日
ある原爆被爆者の死と日本の平和主義
これは前回の記事の焼き直しです。一定期間後、前回記事は削除の予定です。
1)30日に十二指腸乳頭部がんで亡くなった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員、谷口稜曄さん(88)は癒えることのない傷を負いながら核兵器廃絶を訴え続けてきた。時事通信の配信したニュースである。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170830-00000052-jij-soci
1945年8月9日、16歳だった谷口さんは郵便配達の途中、爆心地から1.8キロの長崎市住吉町で被爆した。背中一面に大やけどを負い、生死の境をさまよった。2010年に米ニューヨークで開かれた核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、被爆者代表として「核兵器は人間と共存できない」と訴えた。(30日19時のNHKニュース他)
上記時事通信の記事には谷口さんの言葉:「アメリカではなく、核兵器が憎い。二度と被爆者を生まないために運動してきた」が引用されている。核兵器で一瞬の内に数万人を焼き殺す爆弾を同じ人間対して使うことを決断する指導者が、この世界にいるということがどうしても信じられないのだろう。
しかし、核兵器は日本人が憎くて、天から落ちてきたのではない。落としたのは紛れもなく人間なのだ。勿論、アメリカを憎むのは何の解決にもならないし、現在のアメリカ人の半数以上も核兵器の日本への使用を正しいとは言わないだろう。しかし、戦争を早期に終わらせる為に正しかったという人も大勢いることも事実である。
昨日の文章では、「日本人ほど論理的思考が出来ない民族はいない」と書いた。しかしその後、それは大半の日本人には当てはまっても、谷口氏には当てはまらないと思うようになった。あれほどエネルギッシュに核兵器廃絶運動が出来た人が、その程度の知性の筈がないからである。ただ、「世界の人も日本人と同じように考えてくれる」と思って、上記のような発言をしたのだろう。
17条憲法の第一条に「和を以て尊しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、また悟れるものは少し」と書かれている。これは2000年近く言い伝えられた言葉であり、現在の日本人の骨となり血となっている。何度もブログ記事でそれは甘い考えだと言及してきた。
この言葉の意味を敢えて言い換えて見る。「人々は現時点では十分知恵がなく真理を知らない。その結果、異る主張のままグループに分かれている。だから、今の知恵のままに争うのは得策ではない」と説いている。聖徳太子は、一方が他方に屈するべきだとは考えていなかったのではないだろうか。
つまり、谷口氏の発言は、「米国が憎いと言ってしまえば、自分の運動の目的である核兵器廃絶は出来ない。米国も日本人も共に同じ人類の仲間であり、協力して核兵器廃絶に向かわなければならない」という戦略的なものなのだろう。それは、上記17条憲法第一条の考え方そのものである。
しかし、米国を始め一神教の文化圏の人たち、つまり世界の先進国の大半は、異る主張の者たちを抹殺してしまえば問題は解決すると考える傾向があると思う。それは、17条憲法と数百年しか違わない時に編纂された聖書の中の記述として屡々出てくる、“異教徒”との戦いと同じものである。日本国民一般も、性悪説と力の論理、或いは「戦争にチャンスを与えよ」が依然として国際政治の標準であると理解すべきである。(補足1)
核拡散防止条約は単に核兵器保持国のエゴイズムを裏書きするための条約である。そうではなくまともな条約なら、核保持国の核兵器保持の特権に等価な重い責任が無ければならない。つまり、北朝鮮への核兵器拡散を防止する責任があるのだ。しかし、それはできないだろうし、そのことはNPTは欺瞞的条約であることの証明となるだろう。
2)エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の中身は、欧米が中東やアフリカでの戦争に介入するのは得策ではないという意味である。それは単に“戦争ビジネス”に協力することに成ってしまうという警句であった。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43331789.html
19世紀のクラウゼビッツの戦争論にある、“戦争は外交の延長上にある”という考えは、今でも良く使われる。上記ルトワックの本の表題にある“戦争”も、そのような意味の戦争であり、それは現代発展途上国にのみ残された戦争だと思う。
何故なら、20世紀後半になって、核兵器の使用と国家体制の破壊が日本において行われ、“戦争”の意味が先進国では全く異なったものになったからである。第二次大戦は、ハルマゲドン的な21世紀型戦争への、遷移的な戦争だったと思う。
その巨大な武器による戦争と日本の徹底的な敗戦、そしてその後のマッカーサーの統治(補足2)は、明治維新以降自分のものだと思っていた国家の枠組みが、本当は偽物だったということを明らかにした。つまり、大日本帝国は西欧からの貸衣装を着ただけで、江戸幕府の日本と本質的に変わらなかったのである。(補足3)そしてその証明は、マッカーサー憲法を変更すら出来ない現在までの国会と日本国民の姿により為された。
谷口氏の考えは、経済のみならず世界政治までがグローバル化されていたのなら、有効だったかもしれない。未だ経済的にも政治的にも、世界は混乱の中にあり、唯一国家のみが民を“溺死”から守る船的存在である。従って、「アメリカではなく核兵器が憎い」という言葉は、日米の同盟関係強化の為なら、非常に有効だろう。
何故なら、米国の日本に対する憎しみと哀れみが混在した複雑な感情を消し去るのに寄与する可能性があるからである。米国にそのトラウマ的感情がなくなれば(補足4)、日本からは憧れと親和的感情が既に勝っているので、日米関係はより一層深くなる可能性が高いと思う。
兎に角、日本は平和的解決を全ての紛争や戦争において期待する国である。お目出度い国だというのも当たっている。しかし、日中和平交渉のときに鄧小平が田中角栄に言った言葉「今我々には尖閣問題を解決する知恵がない。将来の優れた知恵に期待しよう」的な対応、或いは上記17条憲法第一条の精神を、一神教の国も学ぶべきだと思う。
補足:
1)後述のようにルトワックの本の表題から採ったが、意味は多少ことなる。
2)第二次大戦後の連合国軍というか、実質的に米国軍の日本統治は、ある意味温情的なものであった。連合国軍司令長官のマッカーサーは、自分の考えた理想的な憲法を日本に与え、最終的には米国議会で日本の戦争動機を自衛の為だったと証言する程になった。
3)日本の再出発は、明治維新以降の歴史を再点検することに依ってのみ可能である。これは多分原田伊織氏の最近の雑誌サピオの記事の内容と同じだろうと想像する。(読みたいとは思っても、内容が想像の範囲だろうと思い買えなかった。)
4)第二次世界大戦は米国にとっても大変な戦争だったと思う。それは、日米ともにトラウマを抱えることになったとしても不思議ではない。しかし、日本国民が、憲法の非武装中立にしがみつく姿勢はトラウマではなく、上記のように江戸以前への本来の日本に戻ったと私は考える。
1)30日に十二指腸乳頭部がんで亡くなった日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表委員、谷口稜曄さん(88)は癒えることのない傷を負いながら核兵器廃絶を訴え続けてきた。時事通信の配信したニュースである。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170830-00000052-jij-soci
1945年8月9日、16歳だった谷口さんは郵便配達の途中、爆心地から1.8キロの長崎市住吉町で被爆した。背中一面に大やけどを負い、生死の境をさまよった。2010年に米ニューヨークで開かれた核拡散防止条約(NPT)の再検討会議で、被爆者代表として「核兵器は人間と共存できない」と訴えた。(30日19時のNHKニュース他)
上記時事通信の記事には谷口さんの言葉:「アメリカではなく、核兵器が憎い。二度と被爆者を生まないために運動してきた」が引用されている。核兵器で一瞬の内に数万人を焼き殺す爆弾を同じ人間対して使うことを決断する指導者が、この世界にいるということがどうしても信じられないのだろう。
しかし、核兵器は日本人が憎くて、天から落ちてきたのではない。落としたのは紛れもなく人間なのだ。勿論、アメリカを憎むのは何の解決にもならないし、現在のアメリカ人の半数以上も核兵器の日本への使用を正しいとは言わないだろう。しかし、戦争を早期に終わらせる為に正しかったという人も大勢いることも事実である。
昨日の文章では、「日本人ほど論理的思考が出来ない民族はいない」と書いた。しかしその後、それは大半の日本人には当てはまっても、谷口氏には当てはまらないと思うようになった。あれほどエネルギッシュに核兵器廃絶運動が出来た人が、その程度の知性の筈がないからである。ただ、「世界の人も日本人と同じように考えてくれる」と思って、上記のような発言をしたのだろう。
17条憲法の第一条に「和を以て尊しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、また悟れるものは少し」と書かれている。これは2000年近く言い伝えられた言葉であり、現在の日本人の骨となり血となっている。何度もブログ記事でそれは甘い考えだと言及してきた。
この言葉の意味を敢えて言い換えて見る。「人々は現時点では十分知恵がなく真理を知らない。その結果、異る主張のままグループに分かれている。だから、今の知恵のままに争うのは得策ではない」と説いている。聖徳太子は、一方が他方に屈するべきだとは考えていなかったのではないだろうか。
つまり、谷口氏の発言は、「米国が憎いと言ってしまえば、自分の運動の目的である核兵器廃絶は出来ない。米国も日本人も共に同じ人類の仲間であり、協力して核兵器廃絶に向かわなければならない」という戦略的なものなのだろう。それは、上記17条憲法第一条の考え方そのものである。
しかし、米国を始め一神教の文化圏の人たち、つまり世界の先進国の大半は、異る主張の者たちを抹殺してしまえば問題は解決すると考える傾向があると思う。それは、17条憲法と数百年しか違わない時に編纂された聖書の中の記述として屡々出てくる、“異教徒”との戦いと同じものである。日本国民一般も、性悪説と力の論理、或いは「戦争にチャンスを与えよ」が依然として国際政治の標準であると理解すべきである。(補足1)
核拡散防止条約は単に核兵器保持国のエゴイズムを裏書きするための条約である。そうではなくまともな条約なら、核保持国の核兵器保持の特権に等価な重い責任が無ければならない。つまり、北朝鮮への核兵器拡散を防止する責任があるのだ。しかし、それはできないだろうし、そのことはNPTは欺瞞的条約であることの証明となるだろう。
2)エドワード・ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の中身は、欧米が中東やアフリカでの戦争に介入するのは得策ではないという意味である。それは単に“戦争ビジネス”に協力することに成ってしまうという警句であった。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43331789.html
19世紀のクラウゼビッツの戦争論にある、“戦争は外交の延長上にある”という考えは、今でも良く使われる。上記ルトワックの本の表題にある“戦争”も、そのような意味の戦争であり、それは現代発展途上国にのみ残された戦争だと思う。
何故なら、20世紀後半になって、核兵器の使用と国家体制の破壊が日本において行われ、“戦争”の意味が先進国では全く異なったものになったからである。第二次大戦は、ハルマゲドン的な21世紀型戦争への、遷移的な戦争だったと思う。
その巨大な武器による戦争と日本の徹底的な敗戦、そしてその後のマッカーサーの統治(補足2)は、明治維新以降自分のものだと思っていた国家の枠組みが、本当は偽物だったということを明らかにした。つまり、大日本帝国は西欧からの貸衣装を着ただけで、江戸幕府の日本と本質的に変わらなかったのである。(補足3)そしてその証明は、マッカーサー憲法を変更すら出来ない現在までの国会と日本国民の姿により為された。
谷口氏の考えは、経済のみならず世界政治までがグローバル化されていたのなら、有効だったかもしれない。未だ経済的にも政治的にも、世界は混乱の中にあり、唯一国家のみが民を“溺死”から守る船的存在である。従って、「アメリカではなく核兵器が憎い」という言葉は、日米の同盟関係強化の為なら、非常に有効だろう。
何故なら、米国の日本に対する憎しみと哀れみが混在した複雑な感情を消し去るのに寄与する可能性があるからである。米国にそのトラウマ的感情がなくなれば(補足4)、日本からは憧れと親和的感情が既に勝っているので、日米関係はより一層深くなる可能性が高いと思う。
兎に角、日本は平和的解決を全ての紛争や戦争において期待する国である。お目出度い国だというのも当たっている。しかし、日中和平交渉のときに鄧小平が田中角栄に言った言葉「今我々には尖閣問題を解決する知恵がない。将来の優れた知恵に期待しよう」的な対応、或いは上記17条憲法第一条の精神を、一神教の国も学ぶべきだと思う。
補足:
1)後述のようにルトワックの本の表題から採ったが、意味は多少ことなる。
2)第二次大戦後の連合国軍というか、実質的に米国軍の日本統治は、ある意味温情的なものであった。連合国軍司令長官のマッカーサーは、自分の考えた理想的な憲法を日本に与え、最終的には米国議会で日本の戦争動機を自衛の為だったと証言する程になった。
3)日本の再出発は、明治維新以降の歴史を再点検することに依ってのみ可能である。これは多分原田伊織氏の最近の雑誌サピオの記事の内容と同じだろうと想像する。(読みたいとは思っても、内容が想像の範囲だろうと思い買えなかった。)
4)第二次世界大戦は米国にとっても大変な戦争だったと思う。それは、日米ともにトラウマを抱えることになったとしても不思議ではない。しかし、日本国民が、憲法の非武装中立にしがみつく姿勢はトラウマではなく、上記のように江戸以前への本来の日本に戻ったと私は考える。
2017年8月30日水曜日
北朝鮮のミサイル発射は何故重大な脅威なのだ
昨日の北朝鮮のミサイル実験を、安倍総理も菅官房長官も、重大な脅威のように言っていた。しかし、日本の上空(100km程度以上)を通る物体は人工衛星など色々あるが、元々問題でもなんでもない。北朝鮮も日本を標的にしたとは言っていないし、その理由もない。何故なら、日本はこの件の直接的な当事者ではない。朝鮮戦争の北朝鮮以外の当事国は米国(名目は国連軍)、韓国、中国である。
日本にとって北朝鮮の核は重大な脅威というが、中国の核の脅威の方が大きい。北朝鮮が吠える犬だというのなら、それを吠えさせたのは米国なのだから、米国が北朝鮮を国家承認すれば、すぐおとなしくなる。北朝鮮が国連に加盟した段階(1991)で、国家承認しておれば問題は大きくならなかっただろう。北朝鮮の核武装も防ぐことができただろう。
核兵器の放棄は、中国、米国、ロシアが大量の核兵器をミサイルに乗せて仮想敵国に向けて居る限り、説得力はない。もし、北朝鮮の核兵器が脅威だと日本が感じるのなら、日本も核開発すれば良い。もちろん、実際に着手すれば米国は猛烈に反対して、経済制裁などで日本経済は潰れるだろう。しかし、その前に北朝鮮の核開発はつぶされていただろう。中国も米国も日本の核装備ほど恐ろしいものはないからだ。
要するに、北朝鮮と対立しているのは米国などの核保時国である。自分たちの軍事的優位性を守ることを目的としたものであり、日本とは無関係である。わざわざ、北朝鮮の核兵器の標的になるべく、米国の飼い犬として、最初に撃たれる国として名乗りを上げるのは馬鹿馬鹿しい。何を考えているのか日本政府は。
国民を北朝鮮の核兵器の標的として並べることで、政治家たちは米国から一定の評価を貰いたいのだろう。もちろん、米国は強大な国で、現時点では日本は米国の言うとおり動くしか無い。しかし、徐々に米国離れを味方を得ながら実現するのが政治だろう。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、(中曽根康弘)らのエゴイズムと無策が日本をこのようにしたのだ。
マスコミも朝鮮戦争の歴史との絡みで、今回の問題を議論しない。休戦協定にはどのような記述があるのか(特に外国軍の撤退など)、国連が休戦協定に対してどのような声明をだしてきたか、それに対して米国や中国はどう対応したかなど、しっかりとまとめて国民の前に出すべきだが、一切そのような努力はしない。
この国の政治と歴史敎育は、連携して国民を白痴化している。それはどうも、薩長の新政府に始まる古い政治家とその家系の者たちを中心とした「政治貴族」の私的利益と関係しているのではないのか。
兎に角、日本の近代政治の歴史を考える上での鍵は、明治維新以降の政治家の質の低下だろう。その原因は、世襲政治と仲間内政治である。それを可能にしたのは、国民に歴氏の真実を隠したことである。第二次大戦との関連で言えば、日露戦争後に日本は列強の一角を占めたと考えたのが原因であり、その間違いを分析して冷静に国民に明らかにしていれば、中国本体への侵略などはなかっただろう。それが出来なかったのは、政治家の質がそれほど低下していたのだろう。勿論、憲法の統帥権に関する部分の修正すら出来なかったのも、政治家の質が低かったからだろう。
日本の再興を考えるのなら、明治維新以降の歴史の再評価を、例外を一切設けず、明治維新の際に薩長が利用した天皇の評価もふくめ、徹底して国民とともに行うことだと思う。
日本にとって北朝鮮の核は重大な脅威というが、中国の核の脅威の方が大きい。北朝鮮が吠える犬だというのなら、それを吠えさせたのは米国なのだから、米国が北朝鮮を国家承認すれば、すぐおとなしくなる。北朝鮮が国連に加盟した段階(1991)で、国家承認しておれば問題は大きくならなかっただろう。北朝鮮の核武装も防ぐことができただろう。
核兵器の放棄は、中国、米国、ロシアが大量の核兵器をミサイルに乗せて仮想敵国に向けて居る限り、説得力はない。もし、北朝鮮の核兵器が脅威だと日本が感じるのなら、日本も核開発すれば良い。もちろん、実際に着手すれば米国は猛烈に反対して、経済制裁などで日本経済は潰れるだろう。しかし、その前に北朝鮮の核開発はつぶされていただろう。中国も米国も日本の核装備ほど恐ろしいものはないからだ。
要するに、北朝鮮と対立しているのは米国などの核保時国である。自分たちの軍事的優位性を守ることを目的としたものであり、日本とは無関係である。わざわざ、北朝鮮の核兵器の標的になるべく、米国の飼い犬として、最初に撃たれる国として名乗りを上げるのは馬鹿馬鹿しい。何を考えているのか日本政府は。
国民を北朝鮮の核兵器の標的として並べることで、政治家たちは米国から一定の評価を貰いたいのだろう。もちろん、米国は強大な国で、現時点では日本は米国の言うとおり動くしか無い。しかし、徐々に米国離れを味方を得ながら実現するのが政治だろう。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、(中曽根康弘)らのエゴイズムと無策が日本をこのようにしたのだ。
マスコミも朝鮮戦争の歴史との絡みで、今回の問題を議論しない。休戦協定にはどのような記述があるのか(特に外国軍の撤退など)、国連が休戦協定に対してどのような声明をだしてきたか、それに対して米国や中国はどう対応したかなど、しっかりとまとめて国民の前に出すべきだが、一切そのような努力はしない。
この国の政治と歴史敎育は、連携して国民を白痴化している。それはどうも、薩長の新政府に始まる古い政治家とその家系の者たちを中心とした「政治貴族」の私的利益と関係しているのではないのか。
兎に角、日本の近代政治の歴史を考える上での鍵は、明治維新以降の政治家の質の低下だろう。その原因は、世襲政治と仲間内政治である。それを可能にしたのは、国民に歴氏の真実を隠したことである。第二次大戦との関連で言えば、日露戦争後に日本は列強の一角を占めたと考えたのが原因であり、その間違いを分析して冷静に国民に明らかにしていれば、中国本体への侵略などはなかっただろう。それが出来なかったのは、政治家の質がそれほど低下していたのだろう。勿論、憲法の統帥権に関する部分の修正すら出来なかったのも、政治家の質が低かったからだろう。
日本の再興を考えるのなら、明治維新以降の歴史の再評価を、例外を一切設けず、明治維新の際に薩長が利用した天皇の評価もふくめ、徹底して国民とともに行うことだと思う。
2017年8月29日火曜日
言葉の記述には時間的空間的限界がある:一神教の人たちと言葉の無限適用
1)「言葉」の伝達範囲には、時間的空間的に一定の限界がある。つまり、言葉には刹那的な言葉や永遠の言葉、自分や家族の範囲の言葉や全人類に向けた言葉など様々な言葉が存在するということである。それら範囲は通常言葉の中に示されているか、受け取る人間が容易にそれを感じ取る。
例えば、ジョンレノンの歌にイマジンというのがある。「想像してご覧、天国なんて存在しない。地の下には地獄など存在しないし、上には(天国ではなく)空があるだけ」で始まる。3番の歌詞で「あなたは私を夢を語る人だというだろう」と歌う通り、ジョンレノンは夢を語っている。
それは:
Imagine there’s no Heaven (all the people living for today)
Imagine there’s no countries (Nothing to kill or die for)
Imagine no possessions (Sharing all the world)
国家なんか存在しないとしたら、殺したり殺されたりの戦争などない。何かを所有するということがなくなれば、皆が世界を共有すれば良い。
このジョンレノンの言葉は、広い範囲を対象にし、長い時間を生きる言葉である(ただし、未だ訪れていない時が起点であるが)。勿論、それが価値の証ではない。
井上陽水の有名な歌に、「傘がない」がある。
都会では自殺する若者が増えている、
今朝来た新聞の片隅に書いていた。
だけども問題は今日の雨傘がない。
行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ、
君の町に行かなくちゃ、雨に濡れ
この歌詞は、ジョンレノンの歌と違って、言葉は自分の中だけか、或いは広くても「君」までしか存在する空間は広がらない。意味を持つ時間も今日だけかもしれない。しかし、だから利己主義で刹那主義の価値の低い言葉という訳ではない。
言葉は、本来の存在すべき空間と時間の中で解釈すべきであるし、そのように限定されていれば問題は起こらない。しかし、その範囲を超えて主張したり、働いたりしては問題の原因となりうる。前者のジョンレノンの歌では、イマジン(空想)の世界に限定されるべきであり、現実の世界に出てくれば大きな問題の原因となる。また、井上陽水の歌では、二人の間に存在する限り、その言葉は生き生きと若者の気持ちを表し伝達する能力を持つが、広い社会の中に出てもらっては困る。
そして、これらの言葉を発する(歌う)人は、それを十分に理解しているので、実際には問題にはならないし、立派な芸術作品として後世に残る。それは暗示的に、これらの言葉には時間的空間的限界があると示されているからである。
決して明示的ではないとしても、言葉の時間的空間的限界を、それを話す人間は意識しなければならないというのが、ここで言いたいことである。(補足1)
2)ところがこの言葉の暗示的“原理”を全く受け入れない立場が存在する。それは原理主義に染まった人たちや一神教を信じる人たちの立場である。
一神教の場合、教祖の言葉にもそれが発せられた時には、同じ限界があった筈である。それにもかかわらず、信者たちはその限界を時間的にも空間(人間社会の)的にも無限大に拡大して理解している。それは信者個人の問題ではなく、宗教の本質である。
また、社会主義思想や民族主義などを信奉する原理主義の人たちの立場がある。これも思想や主義に問題があるわけではなく、それを永遠不変の真理と考えてしまう無理解がそのような立場の原因である。従って、国民全てを対象に政治を考える議会の席に、これらを信奉する人たちは席を得る資格などない。
具体例を挙げると、人間社会の中で善と悪という重要な言葉がある。社会の偉大なリーダーが善と悪について語ったとしても、それはその時代のその地域或いは人たちの間の善と悪であり、他の民族や他の時代にはそのまま通用するとは限らない。
その結果、そのリーダーに率いられた部族は、他の部族などにより迫害を受けることになる。古代はそのような部族衝突の時代であり、部族の生き残りはリーダーの資質と戦略的思考力に懸かっていただろう。そこで、道は二つに別れる。迫害を跳ね除けて、自分たちの善と悪の基準を死守するか、或いは、迫害するものと平和共存を選ぶかである。
非常に優れたリーダーに率いられた部族は、前者の道をとる可能性が高いだろう。そして、その教えは信者の団結を一層固くし、心と頭の中に絶対的真理として徐々に変質するだろう。それが多くの一神教の発生の原点ではないだろうか。
つまり、教祖は一神教の種ではあるが、本体ではない。キリスト教の場合、イエスが教祖だが、パウロとその一派がそれを協会という組織を持つ大きな宗教に育てたのだろう。(補足2)
多くの宗教において、教祖とされる人は一般に聖典を残さない。聖典はその後その宗教を育てた人が、教祖やその教えを語る弟子の言葉をまとめて作るのが普通である。何故、教祖は聖典を作ったり作らせたりしないのか。それは教祖の時代には、その考え方は宗教にまで成長していなかったからだろう。
つまり、一神教は常に戦いの中にあった、或いは戦いの中で一神教が発生し成長したのではないだろうか。(補足3)その一神教の戦いの遺伝子が、豊かな時代の現在でも残る多くの戦いの重要な原因なのかもしれない。
3)全ての異教徒とその言葉の多くは、彼ら信者の中では悪の中に放り込まれ、自分たちの言葉は永遠の言葉、地の果てにまで通用する言葉と考えるのである。極端な言い方だが、人間としての条件が同じ宗教の信者であることなのである。従って、異なる宗教の者や全く土着の宗教の者は、人間では無いという感覚があるのだろう。(補足4)
神が決める善悪は、永遠普遍であり、変更の余地はない。それに従わないものは、暴力で従わせる以外に方法はない。それが一神教の世界で、争いが絶えないことと関係がありそうである。一方、日本では何が善で何が悪かは、人が決めるのである。従って、善悪は時代によって変化する。17条憲法の第一条の「和を以て尊しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、また悟れるものは少し」の部分は、まさにそれを言っている。
北朝鮮問題の主なる原因も一神教の世界の人たちが作った。(補足5)事情がわかった人たちが仲介に入らなければ丸くは収まらないだろう。「島根、広島、高知の上空を通ってミサイルと飛ばす」という言葉の中に、「日本よ仲介を引き受けてくれ」という意味が含まれていると私には思えるのである。
一神教の方達は、議論という戦いが得意である。どんなに偉大な国の人達でも自分が受け持つのは弁証法の片方(テーゼかアンチテーゼ)であり、統合する役者が居ないと話がまとまらないようだ。
補足:
1)このことを考えれば、自民党議員たちの多くの失言は、その発言の場所を考えれば(正確に報道すれば)問題にすべきでないケースが相当含まれている。
2)ニーチェ著「アンチクリスト」ブログ、3月31日の記事参照(3・31)
3)武田邦彦氏の動画、私はこの考え方に反対(コメントと残した)だが、この方の知識は我々より遥かに多いので参考になるかもしれない。 https://www.youtube.com/watch?v=J1c-5SzzfGk
4)日本人は、米国人を猿やゴジラといったことはない。しかし、彼らは日本人のことを黄色い猿としばしば言った筈である。聖書の中の異教徒という響きは、同じ人間という考え方には共鳴しない。
5)今年5月18日に朝鮮問題を解決する第一歩は、米国が踏み出す義務を持つという記事を書いた。
例えば、ジョンレノンの歌にイマジンというのがある。「想像してご覧、天国なんて存在しない。地の下には地獄など存在しないし、上には(天国ではなく)空があるだけ」で始まる。3番の歌詞で「あなたは私を夢を語る人だというだろう」と歌う通り、ジョンレノンは夢を語っている。
それは:
Imagine there’s no Heaven (all the people living for today)
Imagine there’s no countries (Nothing to kill or die for)
Imagine no possessions (Sharing all the world)
国家なんか存在しないとしたら、殺したり殺されたりの戦争などない。何かを所有するということがなくなれば、皆が世界を共有すれば良い。
このジョンレノンの言葉は、広い範囲を対象にし、長い時間を生きる言葉である(ただし、未だ訪れていない時が起点であるが)。勿論、それが価値の証ではない。
井上陽水の有名な歌に、「傘がない」がある。
都会では自殺する若者が増えている、
今朝来た新聞の片隅に書いていた。
だけども問題は今日の雨傘がない。
行かなくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ、
君の町に行かなくちゃ、雨に濡れ
この歌詞は、ジョンレノンの歌と違って、言葉は自分の中だけか、或いは広くても「君」までしか存在する空間は広がらない。意味を持つ時間も今日だけかもしれない。しかし、だから利己主義で刹那主義の価値の低い言葉という訳ではない。
言葉は、本来の存在すべき空間と時間の中で解釈すべきであるし、そのように限定されていれば問題は起こらない。しかし、その範囲を超えて主張したり、働いたりしては問題の原因となりうる。前者のジョンレノンの歌では、イマジン(空想)の世界に限定されるべきであり、現実の世界に出てくれば大きな問題の原因となる。また、井上陽水の歌では、二人の間に存在する限り、その言葉は生き生きと若者の気持ちを表し伝達する能力を持つが、広い社会の中に出てもらっては困る。
そして、これらの言葉を発する(歌う)人は、それを十分に理解しているので、実際には問題にはならないし、立派な芸術作品として後世に残る。それは暗示的に、これらの言葉には時間的空間的限界があると示されているからである。
決して明示的ではないとしても、言葉の時間的空間的限界を、それを話す人間は意識しなければならないというのが、ここで言いたいことである。(補足1)
2)ところがこの言葉の暗示的“原理”を全く受け入れない立場が存在する。それは原理主義に染まった人たちや一神教を信じる人たちの立場である。
一神教の場合、教祖の言葉にもそれが発せられた時には、同じ限界があった筈である。それにもかかわらず、信者たちはその限界を時間的にも空間(人間社会の)的にも無限大に拡大して理解している。それは信者個人の問題ではなく、宗教の本質である。
また、社会主義思想や民族主義などを信奉する原理主義の人たちの立場がある。これも思想や主義に問題があるわけではなく、それを永遠不変の真理と考えてしまう無理解がそのような立場の原因である。従って、国民全てを対象に政治を考える議会の席に、これらを信奉する人たちは席を得る資格などない。
具体例を挙げると、人間社会の中で善と悪という重要な言葉がある。社会の偉大なリーダーが善と悪について語ったとしても、それはその時代のその地域或いは人たちの間の善と悪であり、他の民族や他の時代にはそのまま通用するとは限らない。
その結果、そのリーダーに率いられた部族は、他の部族などにより迫害を受けることになる。古代はそのような部族衝突の時代であり、部族の生き残りはリーダーの資質と戦略的思考力に懸かっていただろう。そこで、道は二つに別れる。迫害を跳ね除けて、自分たちの善と悪の基準を死守するか、或いは、迫害するものと平和共存を選ぶかである。
非常に優れたリーダーに率いられた部族は、前者の道をとる可能性が高いだろう。そして、その教えは信者の団結を一層固くし、心と頭の中に絶対的真理として徐々に変質するだろう。それが多くの一神教の発生の原点ではないだろうか。
つまり、教祖は一神教の種ではあるが、本体ではない。キリスト教の場合、イエスが教祖だが、パウロとその一派がそれを協会という組織を持つ大きな宗教に育てたのだろう。(補足2)
多くの宗教において、教祖とされる人は一般に聖典を残さない。聖典はその後その宗教を育てた人が、教祖やその教えを語る弟子の言葉をまとめて作るのが普通である。何故、教祖は聖典を作ったり作らせたりしないのか。それは教祖の時代には、その考え方は宗教にまで成長していなかったからだろう。
つまり、一神教は常に戦いの中にあった、或いは戦いの中で一神教が発生し成長したのではないだろうか。(補足3)その一神教の戦いの遺伝子が、豊かな時代の現在でも残る多くの戦いの重要な原因なのかもしれない。
3)全ての異教徒とその言葉の多くは、彼ら信者の中では悪の中に放り込まれ、自分たちの言葉は永遠の言葉、地の果てにまで通用する言葉と考えるのである。極端な言い方だが、人間としての条件が同じ宗教の信者であることなのである。従って、異なる宗教の者や全く土着の宗教の者は、人間では無いという感覚があるのだろう。(補足4)
神が決める善悪は、永遠普遍であり、変更の余地はない。それに従わないものは、暴力で従わせる以外に方法はない。それが一神教の世界で、争いが絶えないことと関係がありそうである。一方、日本では何が善で何が悪かは、人が決めるのである。従って、善悪は時代によって変化する。17条憲法の第一条の「和を以て尊しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人みな党あり、また悟れるものは少し」の部分は、まさにそれを言っている。
北朝鮮問題の主なる原因も一神教の世界の人たちが作った。(補足5)事情がわかった人たちが仲介に入らなければ丸くは収まらないだろう。「島根、広島、高知の上空を通ってミサイルと飛ばす」という言葉の中に、「日本よ仲介を引き受けてくれ」という意味が含まれていると私には思えるのである。
一神教の方達は、議論という戦いが得意である。どんなに偉大な国の人達でも自分が受け持つのは弁証法の片方(テーゼかアンチテーゼ)であり、統合する役者が居ないと話がまとまらないようだ。
補足:
1)このことを考えれば、自民党議員たちの多くの失言は、その発言の場所を考えれば(正確に報道すれば)問題にすべきでないケースが相当含まれている。
2)ニーチェ著「アンチクリスト」ブログ、3月31日の記事参照(3・31)
3)武田邦彦氏の動画、私はこの考え方に反対(コメントと残した)だが、この方の知識は我々より遥かに多いので参考になるかもしれない。 https://www.youtube.com/watch?v=J1c-5SzzfGk
4)日本人は、米国人を猿やゴジラといったことはない。しかし、彼らは日本人のことを黄色い猿としばしば言った筈である。聖書の中の異教徒という響きは、同じ人間という考え方には共鳴しない。
5)今年5月18日に朝鮮問題を解決する第一歩は、米国が踏み出す義務を持つという記事を書いた。
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