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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2018年7月31日火曜日

GDPの増大と世代間の分断&第二次人間復興の可能性

1)既に指摘したように、近代経済の発展の中に、家族内や大家族内のサービスや労働などを、その外に持ち出してGDP統計の額を増加させるプロセスを見ることができる。家族内の手仕事を奪いとり集合させて、法人(株式会社等)がより能率的に機械を用いて行うことになったのである。

大量生産方式での経済発展には、一定の規格化(画一化)が要求される。あらゆる活動とその目的をひとまず人間から取り上げて、規格化(画一化)し機械化する。そして、新しく変形した活動(目的)とそのプロセスを、人間に再配分するのである。その方法と動機(或いはエネルギー)は、機械技術と資本主義による法人(と一部富裕層)の利益を上げる本能(存在メカニズム)である。大多数の人間は、労働からの開放(補足1)の面から単純にそれを歓迎してきた。

製品やサービスの規格化或いは画一化は、必然的に人間及びその生活を規格化或いは画一化することになった。(補足2)勿論、全体を画一化することは流石に無理なので、世代間など人間とその生活に境界を設けて分断し、その境界内部を均一化規格化するのである。

分かりやすい例として、世代間の分断を考える。早くから子供を親から取り上げて、保育所に収容する。そこで、保育児童に対して均質な生活を能率よく提供するのである。それが子供にとっても、親(特に母親)にとっても、必ずしも良い状況とは言えないだろう。しかし、「女性の自律」という思想を与えられ、多くの人はその世代分断を歓迎するだろう。保育制度が発展し、関与した法人の利益となりGDPの増大となる。

介護をとっても同様である。先日のNHKテレビ番組で、入所金3500万円を支払って入所する豪華な海の見える老人ホームが放送されていた。全国から入所希望者が、この神奈川の巨大な老人ホームに集まるそうである。そこには新しい出会いもあるし、趣味の世界もある。(補足3)ただ、サービス提供者以外は全て老人の特別区域である。一言で言えば、不自由なく死を迎える日を提供する老人収容施設である。 http://sumikichi52.hatenablog.com/entry/2017/07/31/211108 (このブログは、NHKの放送内容をうまくまとめているので引用させていただく)

これも上記考え方を採用すれば、大家族から老人を取り上げ、彼ら老人に画一化した「老後」を提供するのである。それは、画一化した保育を実現する上でも大事なプロセスである。何故なら、年寄りの仕事として保育が大家族の下に残る可能性があるからである。

大家族を作り、老人が孫の面倒を見て農作業を手伝うと、そこに法人(資本)の介入する余地はない。しかし、老人を大家族から取り上げることで、その入所金の3500万円も、毎月支払う経費も、全て法人の稼ぎとなりGDPに算入される。農作業も次第に法人が支配するようになるだろう。

2)結論として、「現代文明は、世代間の分断でGDPを増大させた」ということになる。この経済(経世済民)は、人間中心ではない。このGDP的に豊かになった社会は、人間を人工的に改造する試みとともに進んできたのである。もし人間が自然界の存在であり続けるべきだとしたら、この社会は病んでいる。その病状の一つが晩婚化であり少子化である。

上に述べたように、世代間だけでなく全ての人間とその活動が、法人(資本)の利益のために分断され、境界内部は均質化規格化されるだろう。

しかし、この見方は本末転倒であると考える人がほとんどだろう。私もその一人であったし、現在もそうかもしれない。しかし、事件などの原因と結果を結ぶ論理を作り上げる時、「誰が得をするのか?」が鍵となる。何が巨大化し、巨大な得(利益)をあげているか?

この当たりで、数百年ぶりに人間復興の運動が起こる可能性と、それが不都合な法人や資本の連合によるもみ消し工作が行われる可能性がある。或いは、それは既に起こっているかもしれない。

米国などを中心とした、国家とその軍事を重視する風潮を高めるのが、そのもみ消し工作の正体かもしれない。人間を分断するには、先ず地域ごとに国家として分断しなければならない。その分断を確実にする為には、国家間に揉め事争い事を絶やさないことである。

補足:

1)一神教の考えでは、労働は神からの罰である。日本のように労働に生きがいを見出す文化は世界からみて特異である。
2)チャーリー・チャップリンのモダン・タイムズは、それを描いた映画である。
3)番組では、いきいきとした老人を中心に紹介していた。予断に支配されたのか何らかの意図を隠しているのか分からないが、施設の紹介において全体像を描こうという姿勢は全く無いようだった。

2018年7月30日月曜日

オームの死刑には反対できないという死刑制度反対の著名作家

1)オーム真理教の教祖以下幹部13名が、地下鉄サリン事件などの犯人として裁判を受け、死刑判決の後8年後の今月に死刑が執行された。(補足1)この判決に関して、国際的に著名な作家の村上春樹氏は、29日付けの毎日新聞に寄稿して、以下のように考えを示したという。 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180729-00000030-jij_afp-int

村上氏は自身について一般的には「死刑制度そのものに反対する立場」だとした上で、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド(Underground)」(1995年)を執筆する過程において事件の被害者や遺族の苦しみに触れた体験から、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」としている。(原文のまま)

このネット記事を読んだとき、当に“空いた口が塞がらない”状況となり、そのままこの文章を自分のMacBook Airに打ち込んでいる。“文章書き”なら、もっとハッキリと「自分には、日本国に於ける死刑制度の適否が分からない」と公言すべきだろう。

ただ、話の前提に“一般的には死刑制度そのものに反対する立場だ”が存在するというから、この人の言葉は私にはさっぱり理解できない。「死刑制度は廃止すべきだが、この人達を死刑にすることは理解できる」ということである。その存在する筈の根拠を論理的に言葉にしたいのだが、うまく見つからないのかもしれない。(補足2)

或いは、村上氏が公言できないのは自身の「死刑廃止論撤回」なのかも。つまり、この件の犯人達は当然死刑にすべきだと思うのだが、「死刑廃止の立場を返上します」とは、いろいろ事情もあり公言できないという可能性もある。

新聞に寄稿することは公言することだから、「自分は死刑制度反対の立場である。しかし、今回の死刑に反対だとは公言できない」と公言したのである。考えれば考える程、何が何だかわからなくなる。そこで視点を変えてみる。

2)もしかして、私は日本社会と日本語を理解していないのかもしれない。日本社会で日本語を用いるとき、最も大事な言葉は枝葉末節にあり、根幹にはないようだ。

村上氏の言葉では、「今回の死刑に反対だとは公言できない」の前に、“簡単には”が付いている。この「簡単には」が、日本社会における日本語の用法上、最も大切な言葉なのだろう。

日本人が共有すべきは言葉じゃない、心なのだ。「簡単には」は心の叫びを表している。それを聞いたとき、言葉をこえて判りあうのが日本人なのだ。言葉はそのための道案内の看板に過ぎない。(補足3)しつこく屁理屈をこね回す人だ。

そのような批判がどこかから聞こえるような気がする。私は日本人の血統にありながら、自然科学という"夷狄"の学問を少し勉強したためか、日本人の心をほとんど失ったのかもしれない。つまり、論理を無視し直感に訴える俳句の世界にいることを、忘れてはいけないのだろう。

補足:

1)送迎役であった高橋は2012年逮捕され、最終的に無期懲役となった。実行犯の内、自首扱いされた林郁夫も無期懲役の判決となった。

2)「法律は、一つの国家体制内での物、人、金の動きを整理するための規則であり、国家体制の枠を超えたことには適用できない」ことを十分理解されていない可能性がある。オーム事件は、国家体制を破壊することを目的としてなされたテロであり、日本軍が出動してオームの拠点の鎮圧と麻原以下の逮捕を行うべきであった。
首謀者は、軍事裁判の中で裁くのが本来の姿であり、その場合の死刑は一般犯罪の死刑廃止論とは必ずしも矛盾しない。つまり、戦争で敵兵を撃つことは死刑廃止の立場から私には出来ませんと、西欧の人も言わないだろう。
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43716015.html 
日本国は、憲法で非武装を宣言した国家である。得体の知れない国家では、国際的に著名な作家から論理矛盾的言葉が出るのも無理はない。

3)道路わきに頻繁に現れる標語板も、この国の特徴である。「大人が変われば 子供も変わる」という看板が、近くの中学校沿いの道に掲げてあった。
「何が言いたいのか?」「言いたいことがあるのなら、もっと明確に言うべきだ。」「日本人なら、分かるだろう。」

2018年7月27日金曜日

地下鉄サリン事件などの犯人13名の死刑執行に対する報道の貧困と、テロに対する行政の怠慢について

昨日、地下鉄サリン事件等の犯人6名の死刑が執行された。中日新聞一面のトップの見出しは、「オウム全13人死刑執行」という縦見出しと、「テロ解明されず」という横見出しであった。記事を斜めに読んでも、どこまでが解明の終着点かという記述はない。また、二面と三面に、「死刑廃止 進まぬ議論」と、「月二度執行 語られず」という夫々見出しで、死刑廃止論が展開されている。一連の記事は、高校の校内新聞レベルであり、何が何だかさっぱり理解出来ない。

行政機関としては、この事件を一応決着させた形である。裁きは所謂テロを対象にしたものではなく、通常の殺人犯罪としてのものである。「テロ解明されず」の一面見出しは、新聞社がそのあたりのことも分かっていない為に出したのだろうか?それとも、日本国家を骨抜きのままにするため、日本国がテロをさばいているのだと読者を誤魔化すためなのだろうか?

私が理解するテロは、体制転覆を狙う暴力革命的行為のことである。テロ行為は本来内戦の一種であるから、普通の裁判で裁くことはない。テロが行われた場合は、そのテロ集団を壊滅するのが現国家の取るべき措置である。そして捕獲された者の中で中心的人物は、普通の国なら、軍事法廷で当然死刑になるだろう。(死刑廃止論者に一応聞いてみたい。もし、軍事法廷でも死刑を廃止している国があるのなら、教えろと。)

軍隊のない日本では、軍事法廷の設置などを定める法律はないのだろう。つまり、日本は不戦の国であり、テロリストも存在する筈がないことを前提にしているのだろう?誰か専門に近いものは、この件をしっかり書くべきである。(私の勉強不足なのだろうが、目に着くようにもっと大きく出してもらいたい。)

現行法体系の中では、体制転覆を狙った“テロに似た犯罪”であると断定されたのなら、破壊活動防止法が適用されることになる。その場合、オウム真理教そのものが解散させられることになるだろう。それを見送ったのは、要するに宗教の自由という問題が鬱陶しく、本質的解決を避けた行政のサボタージュだろう。

新聞社が無茶苦茶なことを書いて、日本社会をかき混ぜる理由は、その当たりの議論を封じるのが目的だろう。メディアが新聞やテレビだけでなく、ネットなども出来たのだから、もっとまともな議論がなされるべきである。全くないのが不思議というか平和ボケと言うか、私には全く理解不能である。

ともかく、行政は今回の事件は単なる殺人事件として裁くことにしたのである。従って。サリンなど毒ガスを製造したにも拘わらず、宗教集団であるオウム真理教とその後継宗教集団の構成員には、これ以上の追求は行われないことになったと理解する。サリンの製造は、おそらく化学研究の一環なのだろう。つまり、これ以上解明する事など無いのである。

中国人群衆の自殺見物と「早く飛び降りろ」の合唱について

1)日経ビジネス記事に投稿された、ノンフィクションライター山田泰司氏による「中国人の火葬嫌いと自殺見物と村上春樹と」という記事を読んだ。先月、中国甘粛省慶陽という町での出来事についての記事である。ビルから飛び降り自殺しようとしている若い女性を見物しに集まった観衆から「早く飛べよ」とはやし立てる声がいくつも上がったという。中国ではこのような光景はその後も頻発しているという。 https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/258513/070500081/?P=1

自殺したのは、2年前からセクハラ被害にあい、悩んだ末に精神を病んだ19才の女性である。ビルの8階から飛び降り自殺を図ろうとした際、駆けつけた消防が数時間説得を試みた。見物に集まった野次馬の中から、上記の様な心ない野次がいくつも飛び、それを聞いた他の野次馬から笑い声が上がったという。様子を動画投稿サイトで実況中継する者もいたという。その女性は、ビルによじ登って近づき、説得に当たっていた消防隊員に礼を述べ、「飛び降りなきゃいけないみたい」の一言を残して身を投げ出し絶命した。

その事件を伝える中国メディアには「冷血」「鬼畜」といった言葉をタイトルに並べ、野次馬を厳しく非難するものが目立ったという。

この様な光景は、現代中国で現れた新しい現象と思いきや、そうではないというのである。中国メディアの記事でも引用されているのは、魯迅が文集「吶喊」の前文に紹介している同じ様な光景である。西欧医学の勉強のために日本に留学して来た魯迅は、東北医学校に籍を置いていた。微生物学の講義の中で、一区切りついたときに余談的に教授が示すスライドの中に、ロシアスパイで捕まり斬首される寸前の中国人と、それを無表情に見る何人かの中国人が映されていたのである。

魯迅は、「およそ愚劣な国民は、体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから私どもの第一要件は、彼らの精神を改変することである。」と書く。医学は決して重要なものでないと悟った魯迅は、その後文芸を志すことになったという。

澎湃新聞コラムニストの張氏は、「多くの人は、魯迅が描いた時代から100年後のいまなお、一部の国民は感覚が麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」と指摘。その上で、「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも無関心なのでもない。(彼ら見物人は)『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。『観客』は、無関心よりもさらに悪い『消費者』になった」と断じ、嘆いている。

2)一方、日経ビジネスのコラムの記事は、上記中国人コラムニストや魯迅の考えに賛同するものの、その原因を文芸的素養のなさに求めるのは無理があり、中国人の独特な死生観にあるという解釈を披露している。そして、以下のように見物する群衆の心理を推測している。

中国人の死生観は、徹頭徹尾「命あっての物種」であり、飛び降りて自死しようとしている人に対しては、「自分から死のうという理解不能な人は、どうぞ死んでください」という突き放した気持ちが、激しい言葉を躊躇なく発することにつながっていると解釈する。「生きていれば世の中楽しいことだってあるかもしれないのに、死ぬことはないじゃないか。止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」という思いが無意識のうちにあるのだろう。

日経ビジネスの記事で山田泰司氏は、中国で当局の意向に反して土葬が増加していることを取り上げ、自説の補強としている。土葬の増加を身体が生きている時と同様、「全く無傷」のまま土に還れる「全身而退」という中国の伝統思想の復活が進んだのだとし、この傾向を「死んでからも生きている時と同様の状態でいたいという心は、“命あっての物種”に通じる、中国の死生観を垣間見ることができる」としている。

更に、村上春樹の小説が中国で人氣があることから、「ノルウエイの森」の一節「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(講談社文庫版、上巻、P54)を引用して、その考えが“命あっての物種”と合い通じるとしている。

3)私は、日経ビジネスのコラムニストの分析は全く間違っていると思う。最後の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という言葉は、別に村上春樹の発明でも何でもない。「人間の生」をそれ以外の動物の生と分ける重要な点であり、ほとんどの宗教の原点でもある。そして、「死んでからも生きている時と同様の状態でいたい」という考えは、「命あっての物種」とは関係なく、死後の世界を考える人間の原始的且つ基本的感情である。(補足1)

コラムニストの自殺見物の群衆の心を推測した「止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」というのは、日本人が無理に解釈しようとした結果である。何故なら、もしその様な気持があるのなら、「どの飛び降り自殺の現場でも、野次馬が『暑いんだから早く飛べよ』と大声で叫んだり、『飛べ!飛べ!飛べ!』の大合唱が起きたりした」という記述を説明できる訳がない。

私の解釈を以下に書く。上記の自殺見物の様子は、中国人個人の典型的な社会的姿勢の反映だと思う。 つまり、中国は究極の個人主義の国であり、彼ら中国人が生きる社会は個人と個人のコネの集積に過ぎない。それ以外にあるのは、支配する側の強制と支配される側の服従だけだろう。そこには公(おおやけ)という心情も概念もなく、それが多少とも存在する日本や西欧社会との違いだと思う。つまり中国人は、自分でも自分の親族でもなく、更に自分の知人でもない人間に対して、全く無関心であるということである。同情は、同じヒトであるということだけでは、湧かないのである。

公空間が無ければ、ヒトとヒトの間には、仲間(同志etc)という関係、敵対という関係、それに“完全な他人の関係”の三通りしかない。同志という関係では親密に協力し合い、そして敵対という関係では命をかけて戦う。もしそうだとすれば、“完全な他人の関係”においては、自分が心情を寄せたり、具体的行動をしたりすることはない。単に真空空間の向こうの見物の対象にしかならないのである。

日本人には、この国に生きるヒトであれば全くの他人でも、同じ国の民であるという感覚があるようだ。それはおそらく天皇の存在が関係しているだろう。(補足2)また西欧社会には、個人主義を取りながら、市民革命を経て、市民が作る公(おおやけ)の空間(補足3)を民主主義社会運営の場としている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42603412.html 

何れにしても、西欧にしても日本にしても、同じ国の民であれば無関係な個人に対しても、一定の権利と義務の関係を想定するのである。(補足4)自殺すると称して、ビルの高い階層から下を覗き見る人を見たならば、自分の意思と行動の基準を、私空間から公空間のそれに切り替えて、救いの手を差し伸べるのである。

一方、中国では一般の民に存在するのは私空間だけである。選ばれた少数のエリートたちに存在するのも、本質的には私空間しか存在しないだろう。彼らの管理すべき空間は、公空間に言うよりも私空間の延長だろう。自分への利益誘導は、トップエリートの間にも蔓延していることは、それを示している。

大陸の広い空間のなかで生き延びることの困難さと、これまでの支配と被支配の歴史は、そこで生き残るに相応しい文化を構築した。それは、小さい島国で天皇の臣民としての形を1500年近く取り続けた国の民の心情と異なって当然である。

魯迅は、西洋医学を日本で学び中国に帰って医者になろうと考えたが、その考えは上記中国人スパイの処刑とそれを取り巻く中国人たちの姿を見て、「病死の多少は不幸と極まりきったものではない。だから我々の第一要件は、中国人の精神を改変することである。」という考えに変わる。

日本人には鬼畜に見えるかもしれない自殺直前の者に対する言葉と、中国人の思考の幅の広さ、ダイナミックな性格は、表裏一体をなすのだろう。魯迅と心無い言葉をかける大衆との間の差は、その広い思考レンジの中の緻密さだろう。(補足5)

逆に言えば、「命は地球より重い」などと言いう言葉を聞けば、一般庶民から総理大臣まで蜘蛛の網に引っかかったように身動きがとれなくなる日本人の思考レンジの狭さ、行動の鈍さを議論しないで、一方的に中国人の発想の大きさ故の粗野さを非難するのは誠に愚かである。

補足:

1)来世を考えるキリスト教などでも、土葬が基本である。

2)明治天皇が日露戦争のときに詠んだ歌、「四方の海、皆、同胞(はらから)と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」は、人間社会に対する日本人の理解を示している。勿論、国際社会を同胞の世界と理解するのはまちがいだろう。

3)公空間は、社会の中でのトラブルや過不足を、民一般が参加して解決するための場である。行政機関や立法機関などはその中に作られたそのための道具である。

4)自分の私的な時間と幾ばくかの財を公に拠出し、公の作り出した財やサービスを受取り、私的に用いる。その国の民は、その公の空間を作り維持する義務と権利を共有する。

5)上記心無い言葉は、自殺するか弱い精神を侮蔑する気持ち、非難する気持ち、自分に言い聞かせる気持ちなど、入り乱れているだろう。中国人であれ何人であれ、現実主義に立って考えればは、助ける言葉をかけるとした場合、同時に「その人の荷物を分担する方法」も自分に無ければならない。その人の荷物を担ぐ覚悟もなく、兎に角命は地球より重いのだからという説得ができるのは日本人くらいだろう。