1)同性婚の問題についてブログ記事を書いた時、1組の男女が結婚して家庭を築き、子供を育てるのが、社会の安定的維持に必須であると書いた。ここでもその考えに変化はない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43767549.html
そこで、個人が最も基本的な社会のユニットであり、更に、その上に第二層として家庭が存在すると考えた。しかし、その考え方は、採用しない方が良いと思うようになった。婚姻状態にある人は、居住地選択の自由や、職業選択の自由を個別に主張できない。つまり、束縛状態にある。しかし、それは健全な束縛であるのなら、社会構造の基本的ユニットとして個人を考えるのは無理かもしれない。また、そこで束縛を受けるのがほとんど女性だとしたら、それを女性差別と考えるのはおかしい。(補足1)
勿論、個人が社会の基本ユニットならば、個人として男女の間に差別はあってはならない。西欧諸国は、そのように考えて男女差別の撤廃を目指して努力をして来たようだ。そして、家庭を持っている女性、子供を育児中の女性に限らず、全ての個人を対象に男女平等ランキングを作った。しかし、不思議なことに彼らは完全な男女平等のモデルを持っていない。
それにも拘らず、日本がそのランキングで114位であり、OECDの中では最低ランクであると言って批判している。また、日本政府等もそれを深刻に受け取っている。それは文化の違いを無視した政治的プロパガンダではないのか?そのように利用されるランキングは、ある一部の国(人間)の利益を考えてつくられたのではないのか?
世界経済フォーラムが発表している世界男女格差レポートでは、経済活動の参加と機会、教育(識字率、初等<=>高等教育の男女比)、政治的進出(国会議員の男女比、閣僚の男女比など)、健康と生存(出生児の男女比、冷え金寿命の男女比)の各項目別に、指数を計算している。それに一定の重みをつけて合算し総合ランキングとしている。そのランキングで日本は114位だと言って、”深刻に騒いでいる”のは些か奇異である。(補足2)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%94%B7%E5%A5%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E6%8C%87%E6%95%B0
2)社会全体のことを考えるのなら、女性の最大の役割は、子供を産み育てることである。経済活動をしてお金を儲けることは、男性でもできるが、こどもを産み育てることは男性には出来ない。その重要な役割を、抜きにして男女差別のランキング付けをする愚かさを、その数字を見る者は気づかなければならない。
その出産育児をそのまま数値化して男女差を出すことはできないのだから、意味のある男女差別ランキングをつくるのなら、出産育児を受け持つ女性の地位の数値化を試みるべきである。パートナーの男性がどのように出産と子育てに協力しているのか、女性の経済的地位は家庭内でも一定レベルで確保されているかなどである。それをしなければ、上記統計はもっとも大きな因子を無視して統計をとっていることになる。それは非常に愚かなことである。
もし現在のような男女差別算定の方法を採用して、それを最小にすべく政治経済政策を立案すれば、次世代(子供世代)が育たないのは必然である。その愚かな考え方が、先進諸国での少子化の大きな原因だろう。女性が子供を産み育てるのなら、例えば男性は仕事で得た収入の大半を提供して、それに協力すれば女性差別が小さいことになるはずである。その場合女性の経済進出は小さいので、上記方法で女性差別を算定すれば非常に大きく出る。その健全な社会を維持しながら、女性差別を指摘されて頭を抱えているのが日本ではないのか?
結論を言えば、社会の最も基本的な単位は個人ではなく世帯と考えるべきである。勿論、世帯には単身世帯もあるし、家族数人の世帯もある。健全な世帯を作り上げるために社会はそのエネルギーを使うべきである。その時、個人は社会の基本単位ではないが、世帯構成員として社会に参加するのである。単身世帯は、現在でも所得控除額が少ないことなどで、家族世帯の子育てに関節的に経済的な協力をしている。ここで言いたいのは、社会の構成に関する考え方であり、その考え方はその他の経済的文化的法整備等に生かされる筈である。
そのように考えた時、男女差別は家族世帯における場合と、単身世帯における場合のふた通り、考察されるべきである。単身世帯における男女差別は、政治経済への参加において機会が平等に与えられているかという視点で考察される。一方、家族世帯では男女差別は、家庭内での生活における個人の自由度や構成員の協力関係などで比較考察されるべきである。
日本はこの点で男女格差の小さい国であった。それは、多くの家庭で財布の紐は主婦側が握っていることでも分かる。一方、英国では、共稼ぎでも家事は女性の仕事であるらしい。また、ドイツでは専業主婦が財布の紐を握ることなど考えられないという。つまり、そのような新しい男女差別の指標を用いたのなら、日本での男女差別が小さく、英国やドイツの男女差別が大きいということになるだろう。
https://biz-journal.jp/2018/01/post_22161_2.html
実際、そのような理由で、日本では男女差別撤廃運動が今ひとつ盛り上がらないと、(女性記者が書いた)その記事には書かれている。
3)男女の形式的平等の尺度(私の決めつけである)は、フェニミズム運動とともに重要視されるようになったのだろう。それはあらゆるイズム(ism)同様、あまり現実的ではない。(補足3)従ってその思想の詳細を議論するつもりはない。ウィキペディアの記事を読んでも、その思想は十分整理もされていないようである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
おそらく、近代政治と大衆文化の中で醸成されたものであり、型通りの論理を重視する西欧文化の下の非効率的運動だろう。つまり、本質的な男女差(健全な男女差)を人為的に解消しようとする理想主義的大衆運動である。永遠に達成できない目標を掲げる非現実的運動は、核廃絶運動に似て、政治的に利用されるだけで、結局は人類の幸福に寄与しないだろう。
個人の間の平等は、民主政治の原点であると言われる。その通りだが、立体的な構造の社会を、一次元の平面に圧延してまで個人を独立させる必要はない。それぞれの部分空間において個人間の平等を目指すのが、複雑な人間社会における本来のあり方だと思う。
その平等も、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という類の平等ではない。その意味で、ある特定の分野、例えば政治の世界をとり、そこでの男女間の進出割合に差があったとしても、それは差別ではない。無能な女性が政界に進出すれば、それは男女逆差別であり、社会の能率が著しく低下するだろう。
尚、同性婚の問題は再びどこかで議論したい。異性世帯と権利義務関係がかなりことなる形での同性世帯は、上記考え方で社会のあり方が組み替えられた時(つまり法整備がなされた時)には、比較的簡単に組み込まれるだろう。
補足:
補足1:憲法14条に法の下の平等を掲げて、性差別を禁止している。憲法24条では婚姻における男女平等と男女の協力を謳っている。その他の関連項目については法律で定めるとあるが、その民法は明治29年4月に作られ、31年7月に施行されている。
補足2:国際社会は、何かと数値化して比較することが好きである。多次元の世界を一次元に投影して、その長さでランクづけをする愚かさを承知で、そのような指数を出すのは、それを政治利用したいからである。民主政治と言う名の衆愚政治では、それが有効である。
補足3:communismなどismは主義と訳され、本質的に原理主義であり現実主義ではない。時代とともに変化する現実に追随できないのは、原理主義の宿命である。)
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2018年10月9日火曜日
2018年10月7日日曜日
「教科書を疑え」というノーベル賞受賞者の小・中学生に向けた言葉はちょっと変です
ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏のことば「教科書を疑え」が話題になった。読売新聞編集委員室から以下に引用する。
1)科学者をめざす小中学生へ:「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」「つまり、自分の目で物を見る。そして納得する。そこまで諦めない」 https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1046975868940275712/photo/1
またヤフーニュースによると本庶佑氏が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181001-00010009-bfj-sctch
これらは聞くに値する部分もあるが、適当に聞き流し無視すべきだというのが私の考えである。全国の900万人の小中学生に対して、教科書にかいてあることを信じないことが大事だなんて話すのは、ノーベル賞受賞が決まり気持ちがupsetしているとしか思えない。
真意を受け取られていないというのなら、何度もその後会見があったのだから、その際に打ち消しの発言をされるべきであった。しかし、そのような発言はマスコミには掲載されていない。
2)科学者をめざす小・中学生は、教科書を読み理解することが何よりも大事である。「りんごが地球との引力で、地球に引っ張られて落下することを、ニュートンは”万有引力”という理論で説明しました。」という文章が、理科の教科書にあるだろう。しかし、それを疑って何になる。勉強が遅れて、むしろ科学者への道を閉ざすことになる。
「りんごが落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見しました。」という文章になると、「発見とは、真理を見出すこと」と定義すれば、厳密には間違いと言えるかもしれない。科学は、真実を対象にしないからである。しかし、小・中学生ならそのように覚えても良いと思う。(補足1)「万有引力の発見」という言葉が厳密には間違いであるというのは、科学とその社会の本質的部分に関係するが、それは小中学生に、話すべきことではない。
常に新しい説に置き換わるべく、体系を開かれた状態に置くのが科学であり、それが宗教との違いの本質である。
日本の古い言葉に、「型にはまって、型を破る」というのがある。型にはまる段階が、教科書に学ぶ段階であり、型を破る段階は、分野の先端で教科書を疑う段階である。上記本庶佑氏の言葉は、一度も型にはまってもいない小・中学生に、型など無視すべきだと言っているように聞こえる。もちろん、本庶氏の真意はちがうだろう。しかし、そのような「金言」を吐くチャンスをあたえられたのだから、もう少し慎重に話をして欲しかった。
Nature Scienceに掲載の論文の9割は嘘だというのも、馬鹿げた発言である。これらに限らず、一流の雑誌は、科学界全体が真理探究に向けた戦いの記録である。その9割の論文に書かれた自然界についての解釈は、その時点(数年間)では受け入れられなかったとしても、科学の歴史として残る。
「歴史書に石田三成は関ヶ原で負けたことが書かれているが、彼は負けたのでその考え方や作戦なども含め、石田三成など現在では無視して良い存在だと思う」、そのように言うのに似ている。自然科学の例をあげる。ポーリングがDNAの三重螺旋モデルを出したが、最終的にはその説は、ワトソンクリックの二重螺旋モデルに敗れた。しかし、三重螺旋モデルがあったからこそ、そのアンチテーゼ的に二重螺旋モデルが出されたとしたら、ポーリングの説を「嘘だ」として片付けるのは正しい訳はないだろう。
3)応用研究の大変さ:
本庶氏らのPD-1の研究は、オプジーボの開発に繋がり、それが有力ながん治療薬となった。それがなければ、氏のノーベル賞はなかっただろう。おそらく、本庶氏らのその研究に注いだエネルギーの数百倍とか数千倍のエネルギーが優秀な企業研究者らにより注がれた結果、オプジーボは開発されただろう。
原理の発見は、思いつきのレベルから相当のエネルギーを要する場合まで色々存在するが、そのエネルギーは応用研究に比べて大きくはない。ノーベル賞に対する応用研究の寄与の大きさから考えて、その原理的研究にたいする賞賛のみが世界で巻き起こることに、かなりの違和感を感じる場合も多い。(この点では、基礎物理の理論研究などは除外する。)
もう一つわかりやすい例を挙げ、考えてみる。上記薬品などよりも医療の現場ではるかに大きな役割を果たしているMRI(磁気共鳴画像法)という診断方法がある。その原理は勾配磁場を体外からかけて、磁場情報を位置情報に変換するという簡単なものだった。ノーベル賞を受賞したロータバーの最初の実験では、水を入れた小さな二本の毛細管の配置が、NMR(核磁気共鳴)の信号から描かれた。そのNature誌に掲載された小さな種のような発表から、MRIという大樹に育てるにはそれこそ数千倍、或いはそれ以上の優秀な企業研究者の努力が必要だっただろう。
ノーベル賞は、それらの応用研究にほとんど光を与えることはない。現在ではこのような国際賞は政治的な意味が大きく、サイエンスの発展に特別に寄与するものではないと思う。(一部編集:9/7/19:00)
補足:
1)真実を対象にするのは、宗教である。科学は仮説を提唱し、多くの事象がその説で整理できれば法則と呼ばれる。しかし、それはいつでも、もっと一般的な仮説や法則を排除する訳ではない。そのオープンな構造が科学の特徴であり、大きな進歩の理由である。
1)科学者をめざす小中学生へ:「一番重要なのは、不思議だな、という心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って本当はどうなんだろうという心を大切にする」「つまり、自分の目で物を見る。そして納得する。そこまで諦めない」 https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1046975868940275712/photo/1
またヤフーニュースによると本庶佑氏が10月1日夜、記者会見で受賞の喜びを語った。本庶氏は自らの研究に対する姿勢を問われると、好奇心と「簡単に信じないこと」の重要性を強調。「(科学誌の)ネイチャーやサイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割」と語り、自分の目で確かめることの大切さを説いた。【BuzzFeed Japan / 吉川慧】https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181001-00010009-bfj-sctch
これらは聞くに値する部分もあるが、適当に聞き流し無視すべきだというのが私の考えである。全国の900万人の小中学生に対して、教科書にかいてあることを信じないことが大事だなんて話すのは、ノーベル賞受賞が決まり気持ちがupsetしているとしか思えない。
真意を受け取られていないというのなら、何度もその後会見があったのだから、その際に打ち消しの発言をされるべきであった。しかし、そのような発言はマスコミには掲載されていない。
2)科学者をめざす小・中学生は、教科書を読み理解することが何よりも大事である。「りんごが地球との引力で、地球に引っ張られて落下することを、ニュートンは”万有引力”という理論で説明しました。」という文章が、理科の教科書にあるだろう。しかし、それを疑って何になる。勉強が遅れて、むしろ科学者への道を閉ざすことになる。
「りんごが落ちるのを見て、ニュートンは万有引力を発見しました。」という文章になると、「発見とは、真理を見出すこと」と定義すれば、厳密には間違いと言えるかもしれない。科学は、真実を対象にしないからである。しかし、小・中学生ならそのように覚えても良いと思う。(補足1)「万有引力の発見」という言葉が厳密には間違いであるというのは、科学とその社会の本質的部分に関係するが、それは小中学生に、話すべきことではない。
常に新しい説に置き換わるべく、体系を開かれた状態に置くのが科学であり、それが宗教との違いの本質である。
日本の古い言葉に、「型にはまって、型を破る」というのがある。型にはまる段階が、教科書に学ぶ段階であり、型を破る段階は、分野の先端で教科書を疑う段階である。上記本庶佑氏の言葉は、一度も型にはまってもいない小・中学生に、型など無視すべきだと言っているように聞こえる。もちろん、本庶氏の真意はちがうだろう。しかし、そのような「金言」を吐くチャンスをあたえられたのだから、もう少し慎重に話をして欲しかった。
Nature Scienceに掲載の論文の9割は嘘だというのも、馬鹿げた発言である。これらに限らず、一流の雑誌は、科学界全体が真理探究に向けた戦いの記録である。その9割の論文に書かれた自然界についての解釈は、その時点(数年間)では受け入れられなかったとしても、科学の歴史として残る。
「歴史書に石田三成は関ヶ原で負けたことが書かれているが、彼は負けたのでその考え方や作戦なども含め、石田三成など現在では無視して良い存在だと思う」、そのように言うのに似ている。自然科学の例をあげる。ポーリングがDNAの三重螺旋モデルを出したが、最終的にはその説は、ワトソンクリックの二重螺旋モデルに敗れた。しかし、三重螺旋モデルがあったからこそ、そのアンチテーゼ的に二重螺旋モデルが出されたとしたら、ポーリングの説を「嘘だ」として片付けるのは正しい訳はないだろう。
3)応用研究の大変さ:
本庶氏らのPD-1の研究は、オプジーボの開発に繋がり、それが有力ながん治療薬となった。それがなければ、氏のノーベル賞はなかっただろう。おそらく、本庶氏らのその研究に注いだエネルギーの数百倍とか数千倍のエネルギーが優秀な企業研究者らにより注がれた結果、オプジーボは開発されただろう。
原理の発見は、思いつきのレベルから相当のエネルギーを要する場合まで色々存在するが、そのエネルギーは応用研究に比べて大きくはない。ノーベル賞に対する応用研究の寄与の大きさから考えて、その原理的研究にたいする賞賛のみが世界で巻き起こることに、かなりの違和感を感じる場合も多い。(この点では、基礎物理の理論研究などは除外する。)
もう一つわかりやすい例を挙げ、考えてみる。上記薬品などよりも医療の現場ではるかに大きな役割を果たしているMRI(磁気共鳴画像法)という診断方法がある。その原理は勾配磁場を体外からかけて、磁場情報を位置情報に変換するという簡単なものだった。ノーベル賞を受賞したロータバーの最初の実験では、水を入れた小さな二本の毛細管の配置が、NMR(核磁気共鳴)の信号から描かれた。そのNature誌に掲載された小さな種のような発表から、MRIという大樹に育てるにはそれこそ数千倍、或いはそれ以上の優秀な企業研究者の努力が必要だっただろう。
ノーベル賞は、それらの応用研究にほとんど光を与えることはない。現在ではこのような国際賞は政治的な意味が大きく、サイエンスの発展に特別に寄与するものではないと思う。(一部編集:9/7/19:00)
補足:
1)真実を対象にするのは、宗教である。科学は仮説を提唱し、多くの事象がその説で整理できれば法則と呼ばれる。しかし、それはいつでも、もっと一般的な仮説や法則を排除する訳ではない。そのオープンな構造が科学の特徴であり、大きな進歩の理由である。
2018年10月4日木曜日
ノーベル賞授与の主な対象は応用に繋がった研究である
今年のノーベル医学生理学賞に、京大特別教授の本庶佑氏とテキサス大学M.D. Anderson ガンセンターのJames. P. Allison教授が受賞した。今回も日本からノーベル賞受賞者が出たことで、日本の国家としての格を上げることになり、その点での寄与は議論の余地なく非常に大きいと思う。
ノーベル賞がそのような権威を持った以上、その近くにあると思われる研究を国家が積極的に支援するのは、戦略的(戦術的?)に正しいのかもしれない。(世界にアナウンスすべきことではないが)それと、一般の基礎研究支援とは別の視点で考えた方が良いと思う。(補足1)基礎研究の支援は、科学が人類全体の財産であるという広い視野で、しかし、日本の限られた予算の分配であるという事情も考慮しつつ行うのが良いと思う。
今回ノーベル生理学・医学賞の対象になった研究に関しては、科学関係の解説で有名なScientific American を読むとわかりやすい。日本のメディアでは、本庶佑氏の研究に対する評価の声が大きすぎて、中身の研究全体が見えにくいからである。尚、筆者は医学生理学の素人なので、間違い等があれば、指摘していただきたい。
1)がん細胞は、免疫細胞(Tセル)の活動を抑制する因子に働きかけて、自身への攻撃を避ける。これを邪魔する薬品を開発すれば、新しいタイプのガン治療薬が開発できることを示したのが、Allison教授である。免疫グロブリンの一種CTLA-4がT細胞の負の活性化因子であることに注目した。そして、CTLA-4に対する抗体(antibody)投与が、Tセル活性を回復させガンの抑制につながることを見出した。(1996年;Science vol. 271 p1734-6)
このCTLA-4(cytotoxic T-lymphocyte antigen 4; )は、P. Goldsteinにより1987年に発見されている。(補足2)1995年にそれがT細胞の負の活性化因子であるとの研究発表がMak, TWらによりなされている。(補足3)この種の研究は非常に多くあり、我々素人には業績判断は非常に難しい。(補足4)
ただ、CTLA-4に結合する薬物の投与が、ガンの治療につながることを最初に示したのが、上記Allison氏らのサイエンス誌上の論文なのだろう。(https://en.wikipedia.org/wiki/CTLA-4)Allison氏はこの方法がガン治療に有効だとの説得を17年間つづけた。その結果が、2011年の免疫療法薬の「Yervoy」の承認獲得である。この薬は悪性黒色腫(メラノーマ;皮膚ガンの一種)の患者に著効があった。
ノーベル財団の事務総長のThomas Perlmannによると、Allison氏のCTLA-4を用いた成功が、本庶佑氏を自分の発見したPD—1を用いたガン治療の方法に導いた。その結果、それが肺がん(米国で年間15万人が肺がんで死去する)をふくめて他の多くのガンに対してより有効であることを発見した。この発見に基づく薬(オプジーボだろう)とYervoyとの組み合わせで、多くのガン治療に効果が期待される。
https://www.scientificamerican.com/article/nobel-prize-for-medicine-goes-to-cancer-immune-therapy-pioneers2/(ここまでは、概ねScientific Americanに沿った説明)(補足4)
PD-1は本庶佑氏らにより1992年、プログラムされた細胞死(アポトーシス)関係の遺伝子のスクリーニングの際に、発見された。同じグループが1999年、PD-1が欠損したマウスが自己免疫疾患になることから、これが免疫の抑制因子であると結論した。
その後、PD-1への抗体投与が、ガン治療に有効だということで、その開発の説得に製薬会社を訪れたという(日本の新聞)。Scientific Americanの解説を信じれば、オプジーボ(薬品)を用いたこの免疫能力の回復による大きなガン治療効果が、ノーベル賞選考上の重要なファクターである。
2)ノーベル賞の条件は、先端物理の領域を除いて(補足5)、明らかに応用研究への道を拓いた研究だろう。免疫におけるPD-1 やCTLA-4という蛋白の発見や、その役割を明らかにするだけでは、(補足2、3の文献)ノーベル賞の候補にならなかったことなどで明らかである。
そのノーベル賞の性質については、LED関係者に対するノーベル賞授与の際、ブログ記事にも解説した。その根拠は、最初のLEDの発明者はノーベル賞の対象にはならなかったことである。それは赤外線のLEDの発明であり、通常の照明には利用できなかったからだろう。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.htmlhttps://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.html 今回のノーベル賞も応用研究に道を拓いた二人が受賞している。医学では基礎的研究の範囲だが、基礎科学には含まれないだろう。
日本では、ノーベル賞は基礎科学研究が受賞するという話が広く信じられている。その結果、直接役立たない研究にも研究費を出すべきだという論調がテレビやマスコミを支配する。それは全く事実に根ざしていない。その論理が、10日程前のブログに書いたように、岩手で計画されているリニア加速器誘致に利用されている。(9月24日のブログ記事参照)
補足:
1)両方の視点を一緒にしてしまうと、日本が得意な素粒子物理と生物学&医学分野が重点的に支援対象になってしまう。今年の物理学賞も、生物関連の研究に役立つレーザー開発だった。
2)Brunet, JF, Goldstein, P, et.al., Nature, 328 pp267-270 (1987).
3)Waterhouse, P, Mak, TW, et.al., Science, 270, 985-988(1995). 同様の研究が同じ年の同じ月の雑誌、ImmunologyにSarpe, AHらにより発表されている。
4)Scientific Americanでは、Allison 氏の業績についてより詳細に、友人のカリフォルニア大教授のLewis Laniernoの話などを挿入して述べている。Allion氏以外に、受賞対象になる可能性のあった受賞者として、四人程の米国人の名前をあげている。
5)2015年のニュートリノ振動に関する受賞などは、先端物理に関するものである。
ノーベル賞がそのような権威を持った以上、その近くにあると思われる研究を国家が積極的に支援するのは、戦略的(戦術的?)に正しいのかもしれない。(世界にアナウンスすべきことではないが)それと、一般の基礎研究支援とは別の視点で考えた方が良いと思う。(補足1)基礎研究の支援は、科学が人類全体の財産であるという広い視野で、しかし、日本の限られた予算の分配であるという事情も考慮しつつ行うのが良いと思う。
今回ノーベル生理学・医学賞の対象になった研究に関しては、科学関係の解説で有名なScientific American を読むとわかりやすい。日本のメディアでは、本庶佑氏の研究に対する評価の声が大きすぎて、中身の研究全体が見えにくいからである。尚、筆者は医学生理学の素人なので、間違い等があれば、指摘していただきたい。
1)がん細胞は、免疫細胞(Tセル)の活動を抑制する因子に働きかけて、自身への攻撃を避ける。これを邪魔する薬品を開発すれば、新しいタイプのガン治療薬が開発できることを示したのが、Allison教授である。免疫グロブリンの一種CTLA-4がT細胞の負の活性化因子であることに注目した。そして、CTLA-4に対する抗体(antibody)投与が、Tセル活性を回復させガンの抑制につながることを見出した。(1996年;Science vol. 271 p1734-6)
このCTLA-4(cytotoxic T-lymphocyte antigen 4; )は、P. Goldsteinにより1987年に発見されている。(補足2)1995年にそれがT細胞の負の活性化因子であるとの研究発表がMak, TWらによりなされている。(補足3)この種の研究は非常に多くあり、我々素人には業績判断は非常に難しい。(補足4)
ただ、CTLA-4に結合する薬物の投与が、ガンの治療につながることを最初に示したのが、上記Allison氏らのサイエンス誌上の論文なのだろう。(https://en.wikipedia.org/wiki/CTLA-4)Allison氏はこの方法がガン治療に有効だとの説得を17年間つづけた。その結果が、2011年の免疫療法薬の「Yervoy」の承認獲得である。この薬は悪性黒色腫(メラノーマ;皮膚ガンの一種)の患者に著効があった。
ノーベル財団の事務総長のThomas Perlmannによると、Allison氏のCTLA-4を用いた成功が、本庶佑氏を自分の発見したPD—1を用いたガン治療の方法に導いた。その結果、それが肺がん(米国で年間15万人が肺がんで死去する)をふくめて他の多くのガンに対してより有効であることを発見した。この発見に基づく薬(オプジーボだろう)とYervoyとの組み合わせで、多くのガン治療に効果が期待される。
https://www.scientificamerican.com/article/nobel-prize-for-medicine-goes-to-cancer-immune-therapy-pioneers2/(ここまでは、概ねScientific Americanに沿った説明)(補足4)
PD-1は本庶佑氏らにより1992年、プログラムされた細胞死(アポトーシス)関係の遺伝子のスクリーニングの際に、発見された。同じグループが1999年、PD-1が欠損したマウスが自己免疫疾患になることから、これが免疫の抑制因子であると結論した。
その後、PD-1への抗体投与が、ガン治療に有効だということで、その開発の説得に製薬会社を訪れたという(日本の新聞)。Scientific Americanの解説を信じれば、オプジーボ(薬品)を用いたこの免疫能力の回復による大きなガン治療効果が、ノーベル賞選考上の重要なファクターである。
2)ノーベル賞の条件は、先端物理の領域を除いて(補足5)、明らかに応用研究への道を拓いた研究だろう。免疫におけるPD-1 やCTLA-4という蛋白の発見や、その役割を明らかにするだけでは、(補足2、3の文献)ノーベル賞の候補にならなかったことなどで明らかである。
そのノーベル賞の性質については、LED関係者に対するノーベル賞授与の際、ブログ記事にも解説した。その根拠は、最初のLEDの発明者はノーベル賞の対象にはならなかったことである。それは赤外線のLEDの発明であり、通常の照明には利用できなかったからだろう。https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.htmlhttps://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2014/10/blog-post_8.html 今回のノーベル賞も応用研究に道を拓いた二人が受賞している。医学では基礎的研究の範囲だが、基礎科学には含まれないだろう。
日本では、ノーベル賞は基礎科学研究が受賞するという話が広く信じられている。その結果、直接役立たない研究にも研究費を出すべきだという論調がテレビやマスコミを支配する。それは全く事実に根ざしていない。その論理が、10日程前のブログに書いたように、岩手で計画されているリニア加速器誘致に利用されている。(9月24日のブログ記事参照)
補足:
1)両方の視点を一緒にしてしまうと、日本が得意な素粒子物理と生物学&医学分野が重点的に支援対象になってしまう。今年の物理学賞も、生物関連の研究に役立つレーザー開発だった。
2)Brunet, JF, Goldstein, P, et.al., Nature, 328 pp267-270 (1987).
3)Waterhouse, P, Mak, TW, et.al., Science, 270, 985-988(1995). 同様の研究が同じ年の同じ月の雑誌、ImmunologyにSarpe, AHらにより発表されている。
4)Scientific Americanでは、Allison 氏の業績についてより詳細に、友人のカリフォルニア大教授のLewis Laniernoの話などを挿入して述べている。Allion氏以外に、受賞対象になる可能性のあった受賞者として、四人程の米国人の名前をあげている。
5)2015年のニュートリノ振動に関する受賞などは、先端物理に関するものである。
2018年9月30日日曜日
同性婚の法制化と憲法の関係
1)同性間のパートナーシップを同性婚と呼び(補足1)、その関係を法的に結婚と同等と見做すかどうかが、議論されている。それを認めることは、戸籍法や財産権等を定める法律中の結婚(婚姻)や配偶者を、“同性婚”とその相手方を意味する言葉に読み替えることになる。それに関して、自民党など保守政党は反対であり、野党の民進党、社民党、共産党などは賛成である。
しかし、この同性間のパートナーシップ(“同性婚”)を従来の結婚と同等なものとして、現在の法を読み替えることは言語学的には無理である。更に、何よりも問題なのは、従来の結婚や家族を軽視することに繋がり、それは社会に混乱を持ち込む。
また、LGBTではない正常な同性間にもその様な関係を認めざるを得ないだろう。その結果、その関係を利用して相続税などの対象額を少なくすることなどに利用される可能性もあり、その点でも社会に混乱を起こすなど、問題点が多い。
杉田水脈氏の“同性婚”に関する新潮上での記事は、上記のような社会の混乱を意識しつつ、法整備などに関連して生じる様々な行政コストなどから、“同性婚”を認めるべきではないという主張なのだろう。元々“同性婚”を制度化することに賛成の野党政治屋らは、その中の攻撃し易い言葉尻を捉えて、大衆の反権力意識を醸成して居るのだろう。
2)仮に“同性婚”を認めるとしたときに、先ず大きな障害となるのは、“同性婚”は憲法24条に違反することである。それを既に安倍総理は指摘している。
憲法第24条: 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
この憲法問題を、小西洋之参議院議員(民進党)がlivedoor newsで粗雑に議論しているので、その反論の形で以下筆者の考えを述べる。小西氏は以下のように記している。(下線は本ブログ筆者による)http://blogos.com/article/316459/
実は、安倍内閣は、「同性婚は憲法24条に違反し、許されない」という解釈を何の根拠もなく打ち出していたのです。 発端は、2015年2月18日の参院本会議における安倍総理の以下の国会答弁です。 『憲法二十四条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法の下では、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。』
しかし、憲法の条文を解釈する際に大切なことは、その条文の根本的な意味(趣旨)に基づくことです。
憲法24条が定められた趣旨は、明治憲法下においては結婚には家長や父母の同意が必要であったものを改め(家族制の廃止)、あくまでも、結婚を個人の自由意志のみに基づくものにし、結婚する個人の尊厳の尊重を守ることにあります。
であるならば、個人の尊厳は男女であれLGBTの皆さんであれ、誰でも絶対に尊重されなければならないものであるのですから、憲法24条1項の「両性」を「男女」と解釈する必要性はないし、寧ろ、そのようにしてはならないのです。
小西議員の考え方(最初の二つの下線部)によれば、家族制は廃止されるべきであり、それが現憲法24条の趣旨だという。その趣旨が憲法のどこにあるのか? 本来憲法制定の趣旨は、前文に書かれるべきだが、個人の尊厳などという言葉は一切書かれていない。(補足2)また、同じ第3章の第13条には、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
小西氏は、憲法24条の前に存在するこの憲法13条を読んでいないのだろうか。“同性婚”も含め、個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り尊重されるのである。“同性婚”という同性間のパートナーシップを結婚と同等と公に認めることは、生物としての有史以来生き残ってきた人類の基本的生活形態に反する。家族で子供を産み育てるという、結婚と家族の特別な意味を否定することになる。それは、社会を混乱に導くことになり、公共の福祉に著しく反するだろう。
結婚や家族関係を、社会における個人間の関係の一つに過ぎないのであり、特別視する必要など無いと言うのは、異星人の暴論である。それなら、結婚など憲法で記述する必要などないではないか。
つまり、「人は成長して家族を為し、子を産み育てる」という個人の人生が、社会の健全な形での維持つまり公共の福祉のために必須である。社会の健全な形での維持は、民族および国家の繁栄の要諦である。家族関係維持を社会における基本的制度と捉える考え方を否定するのが、野党政治屋の考えなのだろう。
同性の間の結婚を両性の間の結婚と同一視するということは、別の角度から見ればこのようなことになる。
3)「法はその趣旨に基づいて解釈すべきだ」との考えは、法解釈の基礎だろう。しかし、それはどちらの解釈が正しいかということが問題となる場合であり、両性を同性と読み換えることはあり得ない。それは、自衛隊は他国を攻撃するための戦力ではないので、憲法違反ではないという憲法解釈と似た流儀の憲法解釈であり(補足3)、常日頃小西氏の民進党、社民党、共産党など野党が反対している憲法解釈ではなかったのか。
民進党、社民党、共産党などが、同性婚を制度として認めるべきだと主張しているが、その為に憲法24条を改訂すべきとは言っていない。つまり、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の「両性」という語句など無視すべきだと主張していることになるのだが、この事には本当にびっくりである。
上の内容と一部重複するが、私の結婚と家族に対する考え方と、この記事の結論を以下に記す。
家族は社会の構造図において、個人の直ぐ上の階層に位置する基本的単位だと理解している。そして、家族は最初一組の男女が結婚し夫婦となってスタートし、子供を得て家族が大きくなる。家族は、次の世代の担い手を養育するという、社会において重要な機能の大きな部分を負担する。
家庭においては、父親と母親は別の役割を持つ。父は家庭を守る義務があり、母は家庭を維持し子供の養育の中心となる。その男女の子供養育の場(人間では家庭)に於ける役割分担は、基本的にはほとんど全ての哺乳動物に共通である。それは遺伝子レベルから決定されている。この男女の自然な機能は、家族との生活の中で(家庭の中で)子供たちに学習されるべきである。
子供のいない家庭も存在する。しかし、家庭を維持することは、社会の中に調和的に生きる上で、双方に益となる。結婚しない人や、離婚した人、配偶者と死別した人など、独身の方も社会には相当数いるだろう。上記の様な制度を維持することは、それらの人々から家庭を維持する重要性への理解を得ることに繋がる。更に、その制度により安定な社会が維持されれば、それら独身の方々の利益にもなるだろう。
勿論、LGBTの方々が、独自に契約を行なって安定なパートナーとなり、家庭を築くことは好ましいことだろう。しかし、それに対して一般のハウスシェアリングと区別して、行政が関与する必要はないと思う。
以上の様な趣旨で、憲法24条も解釈するのが当然である。それに疑義を挟む人が居るとすれば、異星人か、他国の諜報機関の為に働く人だと思う。
補足:
1)広辞苑第二版で結婚を引くと、「男女が夫婦になること」とのみ書かれている。同性婚などという言葉は当然掲載されていない。同性の間の結婚はあり得ないのであり、従って、「同性間のパートナーシップ」と言うべきである。
2)憲法全文には、国民主権、平和主義(諸国民の公正と信義の信頼に基づく国際主義)が書かれて居る。
3)「国家における自衛権は、憲法以前の自然権である。憲法9条第一項は、それを否定していない。自衛隊はその自衛権の行使のために存在する。それは他国を侵略し、攻撃するための戦力に当たらない。」 私は、この考えに必ずしも同意する訳ではないが、以上が自衛隊合憲論の考えだと理解している。つまり、野党が批判する自衛隊合憲論は、もう少し緻密にその根拠が組み立てられているのだ。
しかし、この同性間のパートナーシップ(“同性婚”)を従来の結婚と同等なものとして、現在の法を読み替えることは言語学的には無理である。更に、何よりも問題なのは、従来の結婚や家族を軽視することに繋がり、それは社会に混乱を持ち込む。
また、LGBTではない正常な同性間にもその様な関係を認めざるを得ないだろう。その結果、その関係を利用して相続税などの対象額を少なくすることなどに利用される可能性もあり、その点でも社会に混乱を起こすなど、問題点が多い。
杉田水脈氏の“同性婚”に関する新潮上での記事は、上記のような社会の混乱を意識しつつ、法整備などに関連して生じる様々な行政コストなどから、“同性婚”を認めるべきではないという主張なのだろう。元々“同性婚”を制度化することに賛成の野党政治屋らは、その中の攻撃し易い言葉尻を捉えて、大衆の反権力意識を醸成して居るのだろう。
2)仮に“同性婚”を認めるとしたときに、先ず大きな障害となるのは、“同性婚”は憲法24条に違反することである。それを既に安倍総理は指摘している。
憲法第24条: 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
この憲法問題を、小西洋之参議院議員(民進党)がlivedoor newsで粗雑に議論しているので、その反論の形で以下筆者の考えを述べる。小西氏は以下のように記している。(下線は本ブログ筆者による)http://blogos.com/article/316459/
実は、安倍内閣は、「同性婚は憲法24条に違反し、許されない」という解釈を何の根拠もなく打ち出していたのです。 発端は、2015年2月18日の参院本会議における安倍総理の以下の国会答弁です。 『憲法二十四条は、婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立すると定めており、現行憲法の下では、同性カップルに婚姻の成立を認めることは想定されておりません。』
しかし、憲法の条文を解釈する際に大切なことは、その条文の根本的な意味(趣旨)に基づくことです。
憲法24条が定められた趣旨は、明治憲法下においては結婚には家長や父母の同意が必要であったものを改め(家族制の廃止)、あくまでも、結婚を個人の自由意志のみに基づくものにし、結婚する個人の尊厳の尊重を守ることにあります。
であるならば、個人の尊厳は男女であれLGBTの皆さんであれ、誰でも絶対に尊重されなければならないものであるのですから、憲法24条1項の「両性」を「男女」と解釈する必要性はないし、寧ろ、そのようにしてはならないのです。
小西議員の考え方(最初の二つの下線部)によれば、家族制は廃止されるべきであり、それが現憲法24条の趣旨だという。その趣旨が憲法のどこにあるのか? 本来憲法制定の趣旨は、前文に書かれるべきだが、個人の尊厳などという言葉は一切書かれていない。(補足2)また、同じ第3章の第13条には、「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書かれている。
小西氏は、憲法24条の前に存在するこの憲法13条を読んでいないのだろうか。“同性婚”も含め、個人の幸福追求の権利は、公共の福祉に反しない限り尊重されるのである。“同性婚”という同性間のパートナーシップを結婚と同等と公に認めることは、生物としての有史以来生き残ってきた人類の基本的生活形態に反する。家族で子供を産み育てるという、結婚と家族の特別な意味を否定することになる。それは、社会を混乱に導くことになり、公共の福祉に著しく反するだろう。
結婚や家族関係を、社会における個人間の関係の一つに過ぎないのであり、特別視する必要など無いと言うのは、異星人の暴論である。それなら、結婚など憲法で記述する必要などないではないか。
つまり、「人は成長して家族を為し、子を産み育てる」という個人の人生が、社会の健全な形での維持つまり公共の福祉のために必須である。社会の健全な形での維持は、民族および国家の繁栄の要諦である。家族関係維持を社会における基本的制度と捉える考え方を否定するのが、野党政治屋の考えなのだろう。
同性の間の結婚を両性の間の結婚と同一視するということは、別の角度から見ればこのようなことになる。
3)「法はその趣旨に基づいて解釈すべきだ」との考えは、法解釈の基礎だろう。しかし、それはどちらの解釈が正しいかということが問題となる場合であり、両性を同性と読み換えることはあり得ない。それは、自衛隊は他国を攻撃するための戦力ではないので、憲法違反ではないという憲法解釈と似た流儀の憲法解釈であり(補足3)、常日頃小西氏の民進党、社民党、共産党など野党が反対している憲法解釈ではなかったのか。
民進党、社民党、共産党などが、同性婚を制度として認めるべきだと主張しているが、その為に憲法24条を改訂すべきとは言っていない。つまり、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」の「両性」という語句など無視すべきだと主張していることになるのだが、この事には本当にびっくりである。
上の内容と一部重複するが、私の結婚と家族に対する考え方と、この記事の結論を以下に記す。
家族は社会の構造図において、個人の直ぐ上の階層に位置する基本的単位だと理解している。そして、家族は最初一組の男女が結婚し夫婦となってスタートし、子供を得て家族が大きくなる。家族は、次の世代の担い手を養育するという、社会において重要な機能の大きな部分を負担する。
家庭においては、父親と母親は別の役割を持つ。父は家庭を守る義務があり、母は家庭を維持し子供の養育の中心となる。その男女の子供養育の場(人間では家庭)に於ける役割分担は、基本的にはほとんど全ての哺乳動物に共通である。それは遺伝子レベルから決定されている。この男女の自然な機能は、家族との生活の中で(家庭の中で)子供たちに学習されるべきである。
子供のいない家庭も存在する。しかし、家庭を維持することは、社会の中に調和的に生きる上で、双方に益となる。結婚しない人や、離婚した人、配偶者と死別した人など、独身の方も社会には相当数いるだろう。上記の様な制度を維持することは、それらの人々から家庭を維持する重要性への理解を得ることに繋がる。更に、その制度により安定な社会が維持されれば、それら独身の方々の利益にもなるだろう。
勿論、LGBTの方々が、独自に契約を行なって安定なパートナーとなり、家庭を築くことは好ましいことだろう。しかし、それに対して一般のハウスシェアリングと区別して、行政が関与する必要はないと思う。
以上の様な趣旨で、憲法24条も解釈するのが当然である。それに疑義を挟む人が居るとすれば、異星人か、他国の諜報機関の為に働く人だと思う。
補足:
1)広辞苑第二版で結婚を引くと、「男女が夫婦になること」とのみ書かれている。同性婚などという言葉は当然掲載されていない。同性の間の結婚はあり得ないのであり、従って、「同性間のパートナーシップ」と言うべきである。
2)憲法全文には、国民主権、平和主義(諸国民の公正と信義の信頼に基づく国際主義)が書かれて居る。
3)「国家における自衛権は、憲法以前の自然権である。憲法9条第一項は、それを否定していない。自衛隊はその自衛権の行使のために存在する。それは他国を侵略し、攻撃するための戦力に当たらない。」 私は、この考えに必ずしも同意する訳ではないが、以上が自衛隊合憲論の考えだと理解している。つまり、野党が批判する自衛隊合憲論は、もう少し緻密にその根拠が組み立てられているのだ。
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