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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2022年10月15日土曜日

思考とは人間の社会的行為である:「対話」に欠ける日本文化の弊害

日本では、「男は黙ってxxxx」「寡黙の人」などの言葉の対象となる人には、常に高い評価がついている。そして、それと裏腹の関係にあるのが、日本語の情報伝達における非効率である
 

それもあってか、喋れば失言となり吊し上げに合う場合も多く、政治家などは、黙っている方が安全だと考える人も多いだろう。その作戦が大抵成功するのが、上記言葉と沈黙に対する日本人の高い評価の由来である。その結果、日本語に論理展開の上での進化が見られないし、それもあって日本の機能社会に議論の習慣が定着しない。

 

20世紀、世界の政治と経済は、グローバルな競争と協調の目まぐるしい動きの中にある。世界は益々狭くなり、国家間の分業と競争、深刻な国際間摩擦などにより、戦略なき国家は低迷、衰退、消滅の危険性が高くなっている。

 

低迷の日本経済と低俗な日本政治は、議論することで衆知を集めて課題に対応するという習慣に欠けた日本文化の病的症状の反映である。それは、上記日本の言語文化の古代からの付けを、現在の日本国民が支払っているということではないのか。

 

今回は、このことを根本から考えてみようと思う。そのための一つの仮説は、「思考のプロセスは、情報発信を以て完了する」である。それは以前書いた記事「言葉の進化論」の一つのメカニズムでもある。つまり、思考と情報発信そして議論の繰り返しで、言葉は磨かれ、進化した。その結果、社会も言葉の進化とともに拡大したと考える。(補足1)

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482529650.html


 

1)近代日本の世界的知性による家畜化:トルーマンの言葉の意味

今年最大のニュースであるウクライナ戦争や安倍元総理の暗殺事件でも、日本国民はその真理を殆ど知らず、政治家も殆どなにも喋らない。政治家は国民に向けて喋るのが商売の筈だが、その低俗で情けない姿は、(日本人でないなら)目を覆うばかりであると言える。

 

日本の国会議員は500人を優に超えるだろうが、たった二人だけ沈黙しない議員がいた。ウクライナ戦争に関して発言した鈴木宗男議員と、安倍元総理暗殺に関する警察発表に深刻な疑問を呈した青山繁晴議員である。

 

鈴木宗男議員は、無知な国民によりネットで脅迫的な言葉をかけられるなど、被害を受けている。また、青山議員は、日本政府からか同盟国の高官からかは分からないが、「身の安全を考えた方が良いですよ」という意味の脅しを受けている。まともな政治家だけがこのようなことになる国は、共産圏か、途上国型独裁の国か、日本だけだろう。

 

その背景には、日本国民の多くが明治以降、真実の世界から隔離されていることがある。その悲劇は、所謂“明治維新”に始まる。それは、ヨーロッパから世界を席巻する(ユダヤ資本家が権力を握る)英国による日本の改造と調教であった。彼らは、中国大陸をフロンティアと考え、その開発の手先に日本を使おうと考えたのだと思う。(補足2)

 

そして、日本は作り替えられた自身の姿も実力も真面に見えなかった。現在まで、敵も味方も分からない状態に置かれているのである。その結果、日本の文化との相乗効果もあって、日本は覇権国の家畜状態になった。その操縦のために、中央集権化と大衆の奴隷化が行われた。(補足3)

 

家畜になることの恐ろしい点は、生れ育てられやがて殺されて食料となっても、自分達を利用した者に対して敵対心を持てないことである。その知的に崩壊した状態を示すのが、あの広島の原爆碑の文章である。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(補足4)

 

現在の日本の国会も家畜国の空気が支配的である。佐藤健志氏の「右の売国、左の亡国」にある通りである。その本の帯には、「勝手にしやがれ天下国家」となっているのだが、その言葉の通り佐藤健志氏をネットなどでも見かけなくなった。

 

たまたま普通の野生の遺伝子が残った人には、日本は住みにくい国となっているのだ。ひろゆきさんも、フランス在住なので、日本からの悪口など聞こえないふりをしておればよい。伊藤貫さんはニューヨークである。米国で殺されずに済むかどうか心配である。

 

このように完璧ともいえる家畜化は、日本の国会や岸田政権の米国追従路線として現れている。米国グローバリストらのウクライナを用いたロシア潰しに諸手を挙げて賛成し、ゼレンスキーの国会演説では国会議員のほぼ全員がスタンディングオベーションをするという軽薄さである。

 

日本にとってロシアは、地政学的に中国と対立している状態がこのましい。また、ロシアは広大な農地と膨大な資源を持つ国であり、日本の工業的能力と相性が良い。中国のサイレントインベージョン(補足5)が進む中、安倍元総理が努力し築いたこのロシアとの協力関係は、再野生化の一歩だったが、潰さてしまった。

 

日本がまともな姿を再構築するには、原点から社会や国家を考えて、言語環境も再構築する必要がある。つまり、義務教育からの組みなおしが必要だと思う。伊藤貫さんの言うように、プラトンの哲学的視点からの思考が大切だろう。しかし、大変な困難を経なければそれは無理だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=Dvx8a-kLDKg

 

ここで、現状の分析を更に掘り下げるのではなく、表題のテーマに戻りたい。


 

2)考えることと対話すること或いは書くことは社会的行為である:

 

人間は考える動物なのだが、考えるだけでは何かを考えたことにはならない。喋ることや書くことで、初めて「考える」という活動の一サイクルが完成し、考えたことになる。つまり、考えることは書くこと(或いは喋ること)で一つの意味ある行動として完結するのだ。

 

それは、「トイレに行く」と言って部屋を出た者が、排泄行為をしないで帰ってきたとした場合、普通の意味で「トイレに行った」ことにはならない。学校へ行くといって家を出ても、終日公園でぶらぶらしていたのでは、学校にいったことにはならない。思考も同じで、その結果を書かなければ、或いは喋らなければ、考えたことにはならない。

 

寡黙な人と考えない人とは殆ど同義である。勿論、沈思黙考の時間は存在するだろう。しかし、それを喋らない場合、或いは書かなかった場合には、居眠りしていたことと殆ど差はない。これに異論が出るのは当然だが、社会全体の変化を見た場合、上記殆どという形容詞は省けるだろう。
 

更に、思考の結果を書いた或いは人に喋っただけでは、それは殆ど無意味な単語の羅列なのかどうかは分からない。「思考」は別の人物に情報が伝達される毎に、まともな思考或いは「思想」に変質する。個人では思考とその外界へのアウトプットで動作が完了し、社会ではそれを思想にまで高めて、一連の思考&思想プロセスが完了する。

 

つまり、思考と思想のセットは、人間の社会的行為の一つである。思考は、対話を経て思想にまで高めることで、社会の文化をより高度に育てることに寄与する。その思考&思想プロセスの過程が何億回と繰り返されることで、その道具である言葉は進化するのである。このような広く社会を場とするプロセスを経ないで、言葉の進化は無いだろう。

 

個人或いはその師匠との間だけで上記思考のプロセスが展開されれば、全く別の人から見れば「奇妙奇天烈な言葉のやり取り」しか残されないということになるだろう。それは、例えば日本の禅問答のようなものだ。信徒はそのやり取りを記憶するのみで、その意味を把握することは至難の業だろう。そして、それがまともな思想なのかどうかも未定である。

 

禅問答の例として、三島由紀夫の金閣寺に出てくる南泉斬猫”がある。その感想文は、数年前に書いたが、一般人或いは多数の修行僧がそれを聖典として考えて、回答を導き出す行為は知的に無駄であると書いた。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12593840789.html

 

西欧文化と日本文化の違いは、例えばキリスト教の聖書と、仏教のお経を比べてみればわかる。両方とも中心的宗教の聖典だが、聖書は非常にわかりやすいが仏典はわけがわからない。仏典を有難がっているようでは、西欧文化を受け入れることは出来ない。それを日本風にモディファイするなんて、偉そうなことを言っても、消化不良で下痢してしまうだけだ。


 

3)日本文化の欠陥:ある人の発言について議論(批判)するのではなく、その人を憎む。

 

上に引用した鈴木宗男議員の発言に対して、日本のネット世論は誹謗中傷で満たされている。それを少し詳しく書く。https://news.yahoo.co.jp/articles/9e89c4e857a8656f8fb03ddcf7f9bf7bf6c12b24
 

10月7日、ウクライナのゼレンスキー大統領はビデオ演説で、北方領土を日本領と認める大統領令に署名したことを明らかにした。これを受けて鈴木氏は、10日に更新したブログで《有難迷惑な話である》と真っ向から批判した。
 

その理由として、《戦後の国際的諸手続き(ヤルタ協定、国連憲章、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約等)で、ロシアが現在実効支配しており、二国間で解決すべき問題である。ロシアを刺激しても何も得るものはない》と持論を展開した。

 

この全く論理明快な言葉に対して、上記週刊誌編集部が取りあげたネット世論の発言は以下の通り。

 

《これが日本の国会議員の言うことか。維新は何をやってるんだ》

《鈴木氏の主張は尤もらしく聞こえるが、彼の言論が常にロシアに寄り添っているのは何故?日本維新の会は見過ごすの?》《維新は鈴木宗男をこれ以上放置するな、支持率が急落してるのは、間違いなく鈴木宗男の度が過ぎたロシア擁護だぞ》
 

この低俗さは、表題に記した日本文化の特徴をよく表している。日本人は、人の意見を否定するのではなく、その人の人となり(人物)を否定する。それは、人の意見を否定するには論理的に言葉を用いる必要があるからである。

 

その用途に日本語は向かないので、大多数のネット民はツイッターなどの短い言葉で、「鈴木宗男が大嫌いだ」としか言えないのだ。

 

サ平和条約で日本は千島を放棄したことさえ、ゼレンスキーは引用していないだろう。無関係な国の大統領令に「千島は日本領」なんて書いて署名して、一体どんな意味があるのだ。彼は日本人を馬鹿にしているのだ。それが分からんのか。

 

同様に、表面的支援を「親日的」と判断して、適格に日本の骨抜きを完成したGHQとマッカーサーを、日本はその後親しみを以て勲章の対象としたのである。

 

それは兎も角、日本語は議論には適さないので、その困難を乗り越えるよりも、日本人は感覚的に判断して、その人とその意見を批判或いは擁護を行う。その際、その人物のこれまでの姿(作られたイメージかもしれない)が大きく働くのである。

 

一般に日本人は人でも国でも、安易に「親」と「反」に分類してしまう。韓国や中国は反日だとか、台湾や北欧は親日だとかの分類である。これも人の意見、国の戦略などを詳細に分析議論する能力が日本文化には無いからである。

 

それは自己の人格、国の“国格”が他から自立しておらず、その場面が敵と味方の場面なのか、味方どうしの場面なのかの区別さえできない情況である。その結果、とにかく和を大事に和で以て集合するということでその場を乗り切ろうとするのである。
(16:30;18:40、編集あり。翌朝再度編集し最終版とします。)

 

補足:

 

1)言葉は、社会の拡大とともにその必要性から進化したが、より精緻になるには敵者生存的な進化(ダーウィン的言語進化)が必要なのかもしれない。兎に角、精緻で能率的な議論を行うには、現在の日本語環境は不向きである。その克服こそ、日本の21世紀末まで生き残るには必須であると私は思う。それは出来ないことではない。明治に一度行っている筈である。

日本の文化庁には、文化審議会国語分科会というのがある。そこは一体何を議論しているのだろうか? 日本語の改良と日本文化の旧弊の打破は、インターネット社会になって可能な筈である。

 

2)日露戦争までは、その路線が続いたと思う。日露戦争において、資金面や戦略面から日本を応援したのがセオドア・ルーズベルト政権の米国であった。そこでロシアを北方に封じ込め、満州の開発を日本とともにやろうと思ったのが、桂ハリマン協定などであった。しかし、日本は米国の支援でやっと勝てた自己の姿が客観視できなかった。その結果が、日本を敵対視するオレンジ計画の策定、そして日本の敗戦に繋がる。

 

3)幕藩体制では、藩の諸侯は一定の力をもって中央の政治に参加した。幕府の最高幹部として老中やその第一位としての大老は、全国の譜代大名から選ばれた。一方、明治の体制では、最高位に神として天皇をおいた。つまり、現在の北朝鮮の情況に似ている。その直属軍として日本軍を置き、皇軍と呼んだ。そこへの兵士としての参加し戦死することは、名誉あることとされた。靖国神社の創設である。平たく言えば、庶民は奴隷状態だったのである。それが本質を表すそれらの言葉が社会の表に一切出ないのは、現在も同じ日本の言語環境である。

 

4)この文章を改めるべきだという少数の国民の声に対して、広島市は以下のように答えている。「碑文の中の「過ち」とは一個人や一国の行為を指すものではなく、人類全体が犯した戦争や核兵器使用などを指しています。」そこには日本とか日本民族という視点がなく、ルーズベルトートルーマンにより植えこまれたグローバリズムの視点が家畜である広島市にしっかりと根付いている。

この知性の欠片もない市長は、自分の子が暴漢に殺されたとしても、「私の子が殺されたのも、日本国民全体の犯罪なのです。“我が子よ、安らかに眠ってください。過ちは二度と繰返しませぬから”」と言うのだろうか?https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/kaitou/8239.html

 

5)サイレントインベージョン(Silent Invation; 静かな侵略)は、オーストラリアのチャールズ・スタート大学教授クライブ・ハミルトンが上梓した2018年の著作で、オーストラリアの政界(英語版)や市民社会における中国共産党の影響力増大について書かれている。日本語訳は、『目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画』( 奥山真司 (翻訳) 山岡鉄秀 (監訳)飛鳥新社)

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