1)智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される
日本人は論理の展開が苦手である。その挙げ句、屁理屈、理屈家などの言葉で、論理と屁理屈の区別を拒否する人が多い。その日本人を逆方向から見た場合、日本人に俳句好きが多いということになるのかも知れない。俳句の世界では、作品に論理の要素が少しでもあると徹底的に貶されるようだ。
最近、プレバトというテレビ番組で俳句が人気だが、それは先生役の夏井いつき氏の俳句添削と番組盛り上げの高い能力もあるのだが、日本人に俳句大好きが多いことが主因だと思う。それは、俳句の世界が論理ではなく感覚の世界だからである。論理展開が苦手な日本人は、感覚や感情を「人間的だ」として大事にするのだ。
ただ、俳句が得意な人は、論理展開が下手という訳ではない。例えば、夏目漱石は、正岡子規との付き合いが深く、俳句も相当上手かったようだ。その漱石の小説「草枕」の出だしが、有名な「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい――」という文章である。
この智が、論理であり、「智に働けば角が立つ」は、論理を用いれば日本人に嫌われるという意味である。(https://core.ac.uk/download/pdf/59179041.pdf この雑誌の45頁参照)
夏目漱石は英国留学で、個人主義と論理の世界を体験して来たことが、日本社会を眺める目を養うことになったのだろう。
2)日本の保守を支配する尊王攘夷思想
近代社会の運営と改善には、社会の不効率、不平等と不善を調査分析し、その改善の方法等を議論しなければならない。それには多数の人物によるデータの持ち寄りと議論が必要である。
近代政治は、社会を公と私の二つの空間に分け、私の空間では「個人」の自由を保障し、公の空間では「個人」にルールによる束縛を強制する。そのため、日本の伝統である“世間”を公空間に持ち込んでは、近代社会を作り、その基礎の上に近代政治を構築することができない。“世間”とは、公と私の二つの空間に分けられていない、感覚と情に支配された「智の働かないドロドロした社会」である。
このことが未だに分かって居らず、世間の中にどっぷり浸かっているのが日本人である。漱石の時代から100年以上経ってもなお、日本社会は「智に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される」社会なのである。その根本原因として、全ての国民は家族的でなくてはならないという、信仰のような幻想が日本の雲の上に広がっているのである。
そのメカニズムを一言で言えば、未だに尊王攘夷思想が日本の保守系の人の頭脳を占領していることだろう。政治の世界で論理を追求すれば、必ずぶち当たる厚い壁として存在する。尊王とは、日本国民は一つの大家族であるという幻想である。いつもテレビ番組「そこまで言って委員会」で、竹田恒泰氏が「仁徳天皇とかまどの煙の話」(補足1)を持ち出して主張する宗教である。
攘夷とは、思想的に日本の伝統と論理が衝突する場面で、古来の伝統を最優先する姿勢である。それは、例えば、以下の動画の馬渕睦夫元ウクライナ大使の日本維新の会に対する批判(19分30秒あたりから)と日本共産党に対する批判(20分ころから)を聞いて貰えばわかる。
「構造改革派とは、要するに日本を開くことだから、それが保守である筈はない」とか、「共産党は日本の風土ではキリスト教同様外来思想だから1%を超えられない。しかも皇室を認めないのだから、ダメなんです」と言っている。日本の風土(!?)を最優先して、国際関係に高度に依存して日本が存続出来ると信じておられる。米国のディープステートについて明らかにしてこられたのは、この日本風土最優先の視点からかもしれない。優秀な元外交官でも、個人の力はこの程度である。がっかりである。
3)一つの小さな体験
10月末の衆議院選挙では、選挙立会人の役割を担うことになった。始めての経験である。朝、6時45分までに選挙会場に入り、その後13時半まで小学校区の市民代表二人が選挙に立ち会う。後半は、別の二人が担当し、選挙を監視するのである。
そこでの体験だが、面白い光景を見た。もう一人の方は常連らしく、投票が終わった一人ひとりに「お疲れ様です」と云うのである。会場の市職員も同じように、まるで一音節のように短時間でスムースに「お疲れ様です」と発声していた。私も最初はその真似をしようとしたのだが、舌がもつれるので、止めることにした。
そして、「選挙民は選挙権の行使に来たのであり、行政の要請に応じたのではない」という「智」が頭に浮かんだ。しかし其れを云うと角がたつので、ぐっと飲み込んだ。
「智に働けば角が立つ」のは、「智」は社会を良い部分と悪い部分に分断するからである。そして、社会の悪い部分や非効率な部分の否定は、社会に「波風」を立てて全体の和を損なうのである。和を最高の徳と考えて易き方向に流されたのが、現代日本のテイタラクなのだが、それに気づく人は1%もいないだろう。
波風を立てぬように息を潜めて2600年、日本人は議論をすると舌がもつれて、口論のようになってしまう。そして、日本語は論理展開に便利なようには進化しなかったのである。
4)終わりに:(補足2)
言葉は人の精神の中に突如として発生したのではなく、人間が集団を為して社会を形成し、それが国家と呼べる様に成る過程で発生し、進化したと考える。社会の能率を上げ、運営が容易なようにするには、階層構造を持ち込み専門化と分業を実現しなければならない。
それがスムースに機能するためには、各階層間や各専門間で言葉による円滑な情報交換(議論)がなければならない。その要請の汲み上げと人間集団間の淘汰つまり戦争などの争いが、同時進行的に起こると考えた。スムースな情報交換とそれにより複雑で大きい社会(国家)を作り上げた集団(社会、国家)が生き残り、失敗した社会は滅びただろう。それが私の「言葉の進化論」の要点である。
ただ、島国など自然の要塞に恵まれた社会は、競合する相手が次々と代わって現れなかっただろう。そして、日本語は、日本社会とともに未発達の状態で時間が経過し、その間に漢語をとりいれた結果、言語がパッチワーク状態になったのだろう。
因みに、動物としての人間も、言語や社会と伴に進化(文明への家畜化)したと考えられる。この人間、社会、言語の相互依存的な進化のモデルは、「文明により改造、家畜化される人間」という2015年の記事の延長として2019年に書いた。
https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2015/03/blog-post_36.htmlまたは
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466514310.html
(12:50 編集あり;7日5時45分、youtube動画が引用されていなかったので追加しました。そして、その部分に文章も少し追加)
補足:
1)仁徳天皇は、ある時民家からかまどの煙が出ていないことで、民が炊く米を持っていない事に気づいた。そこで、宮廷の雨漏りを修繕し、見すぼらしい衣を新しくしたいという后の主張を退け、3年間税を免除した。そして、かまどの煙が再び出るようになったという民話。
2)言語の発達(進化)のメカニズムについて、言葉の進化論という題で、2019年の6月に記事を合計4本書いた。そのうちの一つで解説を行った。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482800585.html 更にその要約が、このセクションである。
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