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2024年6月29日土曜日

円安の原因から日本文化の特徴を考える


おとといだったか、円ドルレートが160円を超えた。神田財務官が若干の口先介入をしても何の効果もなく、160円は単なる階段の踊り場かもしれないという予感を誘う。経済評論家の大井幸子氏がその原因について議論している。

 


その一つが日米の金利差であり、米連銀の高金利政策で各国通貨ともに対米ドルで安くなっている。ほとんどの国が政策金利を上げて対応しているが、日本はそれが軽々にできない状況下にあり、いまだゼロ金利のままである。(下のグラフで、日本円の価値は対ドルで今年12%減少している)


大井幸子氏は更にこの円安問題の根本的原因として、構造的に日本が赤字体質になっていることに言及している。大井さんが強調するのが、昨今のデジタル赤字である。米国の例えばGAFAMのデジタルサービスやコンテンツ利用に支払う金が年々増加している。2023年で5.6兆円、2030年には15兆円の赤字が予想されている。

これは、赤字体質の原因として日本に先端産業分野を牽引する企業が育ってこなかったこととも重なる。なぜ、日本にGAFAMやNvidiaが育たなかったのか? 大井さんは、日本の産業政策の失敗とそのような産業を育てる金融政策がなかったことなど、国家が行うマクロ政策の失敗を取り上げておられる。

この後半部分の考え方は間違いだと思うので、私は以下のコメントを書き込んだ。

日本の構造的赤字の原因として経済政策のまずさを取り上げておられるが、それは根本的に間違っています。日本に先端産業が育たない原因は日本文化にあります。日本の雇用文化、教育文化、美的感覚など。例えば和服と洋服の違いを見れば、その一端がわかる。和服にはボタンがない、服を上下に分ける工夫がないなど。陶磁器を見ても、自然に迎合し人工(アート)を排除する日本文化の特徴が現れている。(翌日削除; 6/30 再度コメントアップ)

その後失礼になると思い削除し、ここでこの文章の意味について記事を書くことにした。

これ以外に重要な点として、大井さんは食料品とエネルギーに関する日本の構造的貿易赤字について看過しておられる。それに言及しないでは画竜点晴を欠く議論になってしまう。あまりにも当然のこととして、言及されなかったのだろうが、一般向けの動画配信では一言だけでも言及すべきである。

この円安の問題は5月14日の記事にも書いているが、円安の原因は明らかである。日本は米ドルで買うものが多く、売るものが少ないのである。そんな状況下で、国民に米株買い入れを推奨するような新NISA制度を制定し実施するのでは、円安が益々進むのは当たり前である。

 
2)経済及び産業に対するマクロ政策について

日本の産業政策や金融政策が原因で日本にはGAFAM等が育たなかったという議論だが、一理あるものの、国家が行うマクロ政策に期待するのは本来間違いだと思う。

マクロ政策が大きなプラスの効果を出せるなら、共産党独裁の方が経済発展や産業振興には有利ということになる。それが間違いであることはソ連崩壊や中国経済の困難な状況が既に証明している。

自由主義経済の方が産業振興には良いのは、民間全体に経済主体が分散し其々が有利な方向を探す方が結局経済発展の効率が高いのである。従って、防衛・治安や厚生・保健など広い意味でのインフラ部分以外には、小さな政府で対応することが自由主義経済でも有利だと言うことになる。

 

経済産業省が支援金をばらまく場合でも、文科省が大学を一律に支援する場合でも、結局金の無駄使いに終わる可能性が圧倒的に大きい。

また、財政・金融政策だが、公式通りに進めることが必要だろう。アベノミクスの一本目の矢の異次元の金融緩和策は、病弱企業に一定の息継ぎを与えることになったものの、今日の円安の大きな原因となった。3本の矢のうちその他の2本を上手く放てなかったのは、上述のように政府による有効な産業振興策など元々無理な話であることを示している。

画期的アイデアは周辺の思わぬところから飛び出てくる。 米国のアップルやツイッターの創業物語などを読めば、国家の政策変更であのような企業が生まれるとは到底思えない。それら企業の成功は、創業者の人生を賭けた戦いや偶然の結果であり、米国の金融政策や産業政策の結果ではない。

スティーブ・ジョブズ(アップル創業者)もジャック・ドーシー(ツイッター創業者)も大学を中退し、様々な出会いと闘いの中で、あのような先端企業の種を生み出すことになった。そのような様々な人生と多彩な出会いが可能なことの背後に、日米の大きな文化の違いがあると思うのである。


3)日本文化の問題

近代の西欧は、産業革命を経て大きな産業技術の発展を遂げた。そして、近代工業が世界に広がり経済活動が活発化した結果、世界人口が急激に増加することになった。19世紀初頭には10億人に満たなかった人口が1950年には25億人になり、2023年には80億人を超えた。

この産業革命とその後の産業発展は金融の発展とともに西欧文化の中で進んだ。西欧では、人間は自然(人を養っている)と対峙し対立・克服する形で生活の改善を行っている。そして、自然と人工をNatureとArtという形で峻別する。(補足1) 一方日本では、人は自然と調和するのが良いとする文化である。

西欧における自然と人工の分立は、人工側(人間側)に連携を生み出す。人間側は自然の観察を集団で行い、対話と議論の文化を生み出す。西欧では、人の基本的な生き方は人(味方)の中で生きることであり、日本では人は基本的には自然の中で生きるのである。(補足2)

更に、西欧の神は民族のリーダーから生まれ、人の形をしている人格神(ヤハウェ)であるが、日本の神は自然(神道)である。日本人は外敵(野蛮人)よりも荒れる天候の方をより強く恐れたのだろう。

従って、日本人は自然に服従するが、西欧人は自然を克服する。人と人の連携なくして自然を克服することなどできないので、西欧は個人の人格を尊重すると同時に、人と人の間に“デフォルト”で味方である(補足2)という感覚を持つ文化を作り上げたのだろう。

その文化の違いによると思うのだが、日本人は自然に対しては受け身で対応する。例えば、日本の住宅は自然の空気を受け入れる形で造られ、冷暖房の工夫があまりない。日本の庭園は、自然を模倣する形が基本である。

その受け身の姿勢では、不足や不便が創意工夫と直結しない。不足や不便には先ずは我慢することが大事だと学校でも教える。それらの感覚が産業の種として育ちにくい。新しい次元の人工物にとっては、日本は砂漠である。

したがって、西欧の文化では人工的なデザインと工夫が重要だが、日本の工芸文化は自然の利用と模倣、つまり自分自身を自然に順応させるという部分が大きい。(補足3)

その結果の一つとして、日本の衣服には上下を分ける工夫がないし、ボタンで留めるという工夫もないことを思い出す。この日本文化の特徴は、ある意味深刻である。自分たちに馴染みのない環境が現れると、先ずはその環境を作り変えることを考えるべき時でも、そこへの順応を考えてしまう。それは、例えば戦後の日米関係のように、一歩間違えば卑屈な姿勢となってしまう。

上述のように日本では外の空間での人と人の心理的距離が遠い。(追補1)そのため会社などの機能体組織を屈託なく作ることができない。それでも組織を作らねばならないので、封建主義体制のような強い結合形式を会社は採用する。

それでは適材適所の原則が生かされず、労働の流動性も低くなる。9時〜17時は社会に出て機能体組織に参加して働き、それ以外の時は家庭でプライベートな時間を過ごすという西欧文化が日本に輸入できていないのである。

一事が万事、日本は隅々まで近代化されていない。明治以降、西欧文化を積極的に取り入れたが、どのようにして西欧文化が出来上がったかという歴史に学ぶことなく、その外形を模倣しそれに順応する方法で取り入れた。教育制度も学校や大学の制度を取り入れても、何故そのようなシステムを必要とするかについてはあまり学んでいない。

その根本原因を探すと、そこには言語文化の問題が横たわっている。言語の原点にある哲学が日本には育っていない。(追補2)そのため個人の思考や複数人の間の議論が深いレベルで出来ない。伊藤貫氏が言及していたのだが、日本では知識人でもパラダイム思考や哲学的思考(補足4)という思考の設定が不得意なのである。

追補:

 

1)他人の存在を無視するのではなく、むしろ重視し他人に遠慮することがその原因である。

 

2)日本では哲学を特別な学問のように考えられている。私は、何の前提も置かずに、単にそそぐ知的探求心を物や概念にそそぐ行為だと思う。自然科学が哲学の一分野として発展したことが、本来すんなりと理解されなければ、概念として「哲学」を理解できたことにならない。

 


補足:

1)artはnatureの対語である。artは普通芸術と訳されるが、人工と訳してもよいと思われる。それはartから派生したartificialという単語の意味を知ればわかるだろう。このように日本語と英語の間の壁は厚い。そのような注意は、schoolを学校、faceを顔と訳す場合にも必要である。

2)デフォルトは他に指定がなければという意味。ピッタリであり、既に日本語化していると感じたので用いた。

海外を旅した経験のある人は、ホテルから空港へのシャトルバスなどでも話かけられる経験をする人が多いだろう。私の乏しい経験からしても、日本での公空間における人と人との距離は外国でのそれよりもかなり遠いと感じる。日本語の赤の他人とか人ごみ(ゴミではなく混みだという人も多い)などの表現がこのことを暗示していると思う。

3)テレビ番組の「なんでも鑑定団」で、茶器等の鑑定を行う中島誠之助氏のセリフ「自然釉の作った景色が素晴らしい」などは、幾何学的模様と花鳥を描く西欧陶磁器の世界とはまるで美意識が異なる。この工芸品の世界でも、日本では自然を重視し、欧州では人工(アート)を重視する。

4)哲学的思考とは、原点から思考することである。そのことすらわかっていない人がほとんどである。物がなぜ下に落ちるか? その問題から地球が引っ張っているからであるという結論を出したのがニュートンである。日本人のほとんどは、「物が下におちるのはあたりまえだ」としてこの問題を思考できないだろう。そして上下の区別には定義が必要だと気づく筈。そこから人と人の間の上下とは何だろうという疑問がわき、社会学の視点を得るだろう。

 

(翌朝編集、追補を追加し最終稿とする; 6月30日、コメント再度アップ)

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