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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2025年10月31日金曜日

日本はグローバリズムと民族主義の間でバランスをとって生き残るべき

 日本は貿易に依存する国である

 

日本は国際社会の中でバランスをとって生き残るべき国である。グローバリズムの流れに乗って日本文化を乱す慣習など受け入れる必要はないし、これ以上の外国人移民受け入れも治安の劣化を考えれば損害の方が大きい。その一方、反グローバリズム或いは民族主義を強く打ち出すことにも同程度に慎重であるべきである。

 

その理由は簡単である。米国とロシア以外の国は、豊かな暮らしを確保するための物品を自国だけでは調達できない。日本はとりわけ食料とエネルギーという重要物資の調達体制において決定的に脆弱である。自国製品を世界の国々に輸出して外貨を獲得し、世界の別の国々から安いものを調達することで決定的に他国に依存している。

 

そのため、輸出入や外貨の交換などに関する国際的枠組を受け入れ、更にその円滑な運用体制創りに貢献しなければならない。そのためには、人的そして文化的な交流を地理的にも拡大するのは自然である。それをグローバリズムと呼ぶのなら、それは日本及び世界において必然である。


ただ、日本はグローバリズムに乗り遅れてはならないとか、人手不足の日本は移民を大量に受け入れるべきだとか、軽々しく考えるべきではない。世界は日本人が考えるほど単純ではない。覇権的な国家は、特別な意味をグローバリズムと言う言葉に載せて、自国の戦略に利用しているのが現実である。

 

日本の伝統文化を守り切り、反グローバリズムを国是とすべきだと過激に語るのは時代錯誤であるが、現在のグローバリズムというバスに不用意に乗り込むのも認識不足である。日本は、両者の間でバランスをとって、独自の位置を探すべきである。

 

「バランスをとる」は曖昧な態度をとるという意味ではない。世界を早急に統一したいという類の政治的グローバリズム(米国ネオコン政権)は拒否すべきであるが、文化的グローバリズムの受け入れは慎重に進め、経済的グローバリズムは日本の国益を考えて進めるべきということである。なお、拒否すべきグローバリズムについての詳細は、以下の拙記事に書いた。

 

 

 

 高市政権の外交的無理解

 

しかし、世界の現実を理解し、国際政治の構造を読み解ける政治家がどれほどいるだろうか。
高市早苗首相は就任直後の20251021日、ウクライナのゼレンスキー大統領からX(旧Twitter)で祝辞を受けた。それに対し彼女は次のように応じた。

「ゼレンスキー大統領の温かいお祝いのお言葉に心から感謝申し上げます。日々侵略に立ち向かうゼレンスキー大統領及びウクライナの人々の勇敢さに敬意を表します。両国の関係は、特別なグローバル・パートナーシップの下、今後もますます強固に発展していくと確信しております。」

この発言は一見すれば模範外交的だが、そこに使われた「特別なグローバル・パートナーシップ」という表現には、米国ネオコン勢力が推進してきた軍事的グローバリズムへの追随姿勢が読み取れる。


ゼレンスキー政権を全面的に支援してきたのは、まさにネオコン的戦略を体現した米国民主党政権である。その延長線上に高市政権が合流する構図は、戦略的自立を失った戦後日本外交の典型でもある。現在のトランプ政権はネオコン勢力の圧力下にあるものの、明確にその路線から距離を取っていることが判っているのだろうか。
 

トランプ大統領はウクライナへのトマホーク供与を拒否し、プーチン大統領との直接的な対話を模索している。トランプ政権下の米国は「米国第一主義」というナショナリズム的現実主義を採っており、グローバリズムからナショナリズムへと重心を移しつつある。その中で、高市首相だけが過去のネオコン路線に盲目的に追随しているように見える。
 

この外交的鈍感さと日本の国益無視は、単なる政策の誤りではなく、国家戦略を構築する知性の欠如を示している。前回記事にも書いたように、二兆円規模のウクライナ支援金の目的とその具体的成果を先ず示してほしいものだ。

 

もし日本がこのまま米国の外交方針に無批判に追従すれば、やがて米国の代理として中国と戦う構図に追い込まれ、第二次世界大戦を超える国家的悲劇に直面することになりかねない。高市政権には憲法改正をしてほしくない。

 

 


 国民の政治的無自覚からの脱却には教育が必要

 

この危険な道を日本が進む可能性を高めているのは、政治家だけではない。彼らを選び、米国ネオコン政権への追従を許している国民の無自覚にも根源がある。

 

日本経済新聞社とテレビ東京が2025102426日に実施した世論調査によれば、高市内閣の支持率は74%に達し、石破茂前内閣の発足時を20ポイント以上も上回った(出典:日本経済新聞 20251027)。いったい高市氏のどこを評価しているのだろうか?
 

この数字は、高市政権が国際政治でどのような立場を取っているかを吟味するよりも、「安定」や「同調」に安心を求める国民心理を映している。マスコミは世界を報道せず、国民が現実を理解せず、政治家が覇権国家の米国に殆ど無自覚に迎合する。その結果、日本は他国の戦略の中で漂流し、自らの国家意思を持てないまま「従属国家の構造」を強化してしまう。

 

この構造的な愚を乗り越えるには、単なる政権交代では不十分である。日本はまず、自国の近代史を主権者である国民の視点で客観的に再評価しなければならない。明治以降、日本がどのようにして近代国家を築き、どのように国際関係の中で位置づけられてきたのか。その歴史的連続性を理解することこそ、真の自立への第一歩である。

 

そしてこの再評価を国民全体の知的基盤とする。その為にも、学校教育で日本の近代史を重点的に教え、そして生徒に考えさせるなどの教育の改善が不可欠である。戦後教育は「反省」と「従順」を美徳とし、独立国家としての自意識と批判的思考を育ててこなかった。今こそ教育を、政治的中立を超えた「国家の知的防衛」の場へと変えねばならない。

 

希望を持てると筆者が感じるのは、この方針をたてて躍進した政党が既に日本に存在することである。たとえば:

 


 

IⅤ 結語──歴史を学び直す国にのみ未来がある

 

政治家の劣化は、国民の無知の鏡である。米国が右往左往しても、それに必死に追従する日本は、まるで遺伝子操作を経た家畜のような国家である。

 

なお、この強烈な比喩はここ数年日本の近代史を眺めてきた結果である。(補足:この近代史の総括について、以下の拙記事を推薦したい。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12883638698.html

 

この愚を断ち切る唯一の道は、教育の刷新と若い世代によるマスコミ改革である。インターネットやAIもその助けとなるだろう。

 

歴史を忘れた国に未来はない。日本が再び世界の中で自立した国家として立つためには、自国の歴史を学び直し、世界の厳しい現実を見る知性と感覚を取り戻すこと、知的・精神的に自立した国民を育てる日本の改造こそが出発点となる。

(以上の文章は、openAIのchatGPTとcopilotの協力で作成しましたが、最終版はAIのチェックを経ていません。)

2025年10月27日月曜日

高市政権への要望──ウクライナ戦争を見誤るな

ウクライナ戦争の行方をどう捉えるか。それは単なる外交問題ではなく、日本の国家戦略を決める試金石である。米国ネオコン勢力とグローバル資本が進める“戦略的消耗戦”の中で、日本が自らの立場を見失えば、どんな経済政策も無意味になる。本稿では、高市政権に求められる外交的自立の条件を論じる。

1) はじめに

新たに誕生した高市政権は、「安全保障と経済再建の両立」を掲げて船出した。しかし、真の危機は日本国内にはない。世界の構造変化の中で、日本がどの陣営に、どの距離感で立つのか――この判断を誤れば、どんな経済政策も空回りする。

 

現在、世界政治の焦点はウクライナ戦争である。この戦争をどう理解するかが、日本の外交・安全保障の出発点になる。

 

2) ウクライナ戦争の本質──ネオコンの戦略とNATOの拡大

ウクライナ戦争を「ロシアの侵略」とだけ見るのは浅い。この紛争の起源は、1991年のソ連崩壊にまで遡る。その後、米国のネオコン勢力と国際的金融・軍事エリートは、冷戦後の米国覇権下の単極世界を維持するために、かつてロシアの勢力圏だった地域へとNATOを拡大し続けた。

 

東欧諸国、バルト三国、ジョージア、そしてウクライナ。この拡大は、ロシアを「民主化」させるという美名のもとに進められたが、実際には欧米の覇権を支える軍事・金融ネットワークのロシア勢力圏への拡大政策だった。

 

プーチン政権が2000年代にロシアの資源と国家主権を取り戻すと、米国ネオコン勢力は明確に「ロシア体制の転覆」を長期目標に掲げるようになった。つまりウクライナ戦争とは、欧米の金融・軍産複合体がロシアを周縁国の一つとするための代理戦争なのだ。

 

この視点を持たなければ、現在の英・仏・独が自国経済を犠牲にしてまでゼレンスキー政権を支援する理由は理解できない。

 

3) 日本外交の盲点──日米関係は同盟ではなく、主従関係である

高市総理は「日米関係を外交の基軸とする」と述べた。それ自体は現実的な方針だが、問題は「基軸」と「依存」の区別を見失っている点にある。

 

米国は今や「民主主義の守護者」ではない。その外交を動かしているのは、ネオコン系シンクタンク・巨大軍需産業・グローバル資本ネットワークであり、トランプ派とバイデン政権では政策目標が真逆である。

 

バイデン政権:ロシア包囲・NATO再活性化・ドル体制の延命
トランプ派:孤立主義と国内回帰(グローバル化の否定)

 

したがって、日本が「日米関係を基軸にする」と言うならば、分裂する米国の政治構造と路線対立の現実を前提に、日本がどの局面で誰と組むのかを明確にする必要がある。それを曖昧にしたまま「自由で開かれたインド太平洋」だけを唱えるのは、外交ではなく単なる米国追従にすぎない。

 

4) 岸田政権の2兆円支援をどう評価するのか

日本は岸田政権下で、総額2兆円規模の対ウクライナ支援を行った。だが、その成果は何だったのか。日本が主導的外交プレゼンスを得たわけでもなく、欧州各国と同様、米国の戦略に従属する形で財政負担を負っただけである。

 

高市政権はこの2兆円支援の効果検証と外交的成果の評価を行うべきである。これは単に過去の政策批判ではない。日本がどこまで米欧の代理戦略に巻き込まれるのか、ウクライナ以後の秩序再編に、日本がどの位置で発言するのかを決めるための出発点である。

 

5) 今後の日本外交への要望

1. ウクライナ戦争を“代理戦争”として分析する視点を持て
単に欧米が主張する「道義的スローガン」に相乗りするのではなく、地政学と国益の観点から戦争構造を理解すべきである。

 

2. 分裂する米国の政治を前提にした“多軸外交”を確立せよ
 米国の政権交代や国内分断に備え、欧州・インド・ASEANとの複合的外交回路を強化。「日米基軸」は維持しつつも、「米国以外と戦略的に連携できる外交力」を育てる。その視点の先には、対東アジア各国との外交、特に対ロシア、対中国の緊張緩和の為の外交も無くてはならない。

 

3. 支援外交の透明化と成果の検証を行え
 対ウクライナ支援の財政効果、外交的リターン、国内経済への波及を定量的に検証。国会で説明責任を果たすことが、民主主義国家としての基本である。

 

4. 戦争経済ではなく、人間安全保障を基軸にせよ
 緊張する国際関係を勘案して安全保障や経済復興は語るべきであり、ロシアから「石油を買うな」と言われる状況においても、現実的対応を取らなければならない。「世界戦争が起これば元も子もない」というのは直感ではなく現実であり、それを政策に組み込むべきである。

 おわりに

ウクライナ戦争をめぐる世界の動きは、単なる「正義と侵略」の物語ではない。それは、米国ネオコン勢力とグローバル資本が、自らの支配構造を維持するための戦略的消耗戦となっている。

 

日本は、もはやその代理戦争に無条件で資金と国益を差し出す余裕はない。高市総理が本当に「国家の自立」を掲げるなら、まずはこの戦争の歴史的構造を理解し、「米国ネオコンたちの道義」ではなく「日本の現実」を基準に外交を再設計する勇気が求められる。

 

(本稿の執筆にあたっては、OpenAIのChatGPTの協力を得ました。)

2025年10月26日日曜日

高市早苗政権での憲法改正に反対

 

――「戦後日本の主権構造」再考――

 はじめに

私は高市早苗政権の下で憲法改正を行うことに反対である。 それは単なる政策上の不一致ではなく、日本という国家の主権と歴史的自己認識に関わる問題だからだ。12年前、私は「アメリカの属国としての日本」の中でこう書いた。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466513972.html (文献1)

 

戦後日本は、政治的にも経済的にもアメリカの庇護下で再出発したが、その庇護は保護であると同時に支配でもあった。日本の政治家は、国家を自らの手で統治する主体ではなく、アメリカの戦略の代行者にすぎない。

 

この構造が変わらないまま、憲法改正を論じること自体が、国家の主権を回復するどころか、むしろ従属を法的に固定化する行為になりかねない。

 

 明治国家の継承と「未清算の近代」

高市氏をはじめとする自民党保守層は、しばしば「明治の精神」や「自主憲法の制定」を口にする。
だが彼らは、明治国家がいかにして暴走し、国民を戦争へと導いたかを真正面から検証していない。

 

明治憲法下の政治構造は、立憲体制を装いながら実質的には統帥権の独立によって文民統制が崩壊し、国家の軍事機能があろうことか軍部に吸収された。 その反省を経て戦後の日本国憲法は成立したはずだが、戦後政治はこの過程を学問的にも政治的にも十分に総括してこなかった。


そのままの思考の上に「憲法に自衛軍を持つ」と書き込めば、日本国の軍事運用機能が再び“他者”に吸収される危険を招く。 実際、次のセクションで述べるように、現行の日米安保体制の下で有事の際には、自衛隊の指揮系統が米軍の作戦統制下に入る仕組みが準備されている。

 

 つまり、明治期における「軍部への吸収」が、戦後体制では「米国への吸収」という形で構造的に再現されているのである。高市政権の改憲論は、この危険な回路を自覚することなく制度化しようとしている点で、極めて危うい。


 

 米国戦略の中での日本

私は上記ブログ記事に書いた。(文献1)

 

日本は、冷戦期には対ソ連包囲の最前線として利用され、冷戦後は対中戦略の一翼を担うことを求められている。いずれの場合も、日本が主体的に国際秩序を構想したことは一度もない。

 

この国際政治における米国民主党系の対ロシア包囲の構造は今も続いている。現在のウクライナ戦争は、その延長線上にある。

 

 米国ネオコン勢力は、ソ連崩壊以降、ロシアの再台頭を阻止するためNATOを東方へ拡大してきた。ウクライナのゼレンスキー政権は、その最終局面での代理者として現在戦っているのだ。 それを「民主主義対専制主義」という単純な物語で受け入れているのが、日本の現政権である。

 

そして日米安全保障体制の根底には、ほとんどの国民が知らぬままに「有事の際には米軍が自衛隊を指揮する」という密約が存在する。 この密約は、戦後初期に吉田茂が米国側と口頭で交わした約束であり、限られた外務官僚によって今日まで非公式に継承されてきたとされる。

 

 米国の公文書には、この密約の存在を示唆する記述が残っているという。 日本国民にとって極めて腹立たしいこの事実については、以下の記事が詳しい。出典:現代ビジネス「自衛隊の“指揮権”を米軍に委ねた吉田茂の『密約』──防衛政策の原点を問う」(https://gendai.media/articles/-/118982?imp=0

 

このような実態を前にして、憲法に「自衛軍」を明記すれば、それは自主防衛の確立ではなく、米国の作戦体系の中に完全に組み込まれた“従属的軍事国家”の確立に等しい。
それこそが、改憲の最も危険な帰結である。

 

 主権と憲法の順序を誤るな

国家の根幹は、憲法ではなく主権意識にある。 誰の意思によって憲法を作るのか、その基盤が曖昧なままでは、どのような条文を加えても国民主権の独立国日本が出来上がる訳ではない。 現在の日本では、安保政策も外交方針も実質的に米国の承認なくして成立しない。 この状態で憲法を改正しても、それは「自主憲法」ではなく「管理憲法」に過ぎない。

 

改憲を語る前に、日本はまず「主権を取り戻す」ことの意味を考えなければならない。すなわち、自国の防衛・外交・経済政策を、自国の判断で遂行する構造を取り戻すことである。その基礎を欠いたままの改憲は、戦前の轍を踏むだけだ。その為にも、日本は自国の近代史を総括する必要がある。

 

 結語──「憲法」より先に「自立」を

高市早苗政権が掲げる改憲論は、国家の自立を装いながら、その実、戦後体制の延長線上にある。 戦前の誤りを直視せず、戦後の従属を脱せぬまま、「強い日本」を唱えることほど危険なことはない。12年前に書いた結びの言葉を、いま再び繰り返したい。

 

日本が真に独立国家となるのは、アメリカに守られることでなく、自らの過去の歴史を直視し、世界の中で自らの立場を考えることから始まる。

 

だから私は 高市早苗政権の下での憲法改正には反対する。それは主権を取り戻す道ではなく、従属を永続させる道だからである。

尚、昨年の今頃、米国に従属した日本の実態をブログ記事にしているので引用しておきます。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12871941450.html


 

(この文章は、chatGPTの協力を得て作成しました)

2025年10月24日金曜日

経済停滞の文化的根因──情報交換が円滑に進まない日本社会

「失われた30年」と呼ばれる日本経済の長期停滞は、金融や財政政策の失敗だけでは説明できない。その深層には、情報が正しく評価されず、流れないという社会構造――文化的な問題――が横たわっている。 本稿では、組織・教育・文化の三つの層から、その本質を考える。

1)情報が滞る日本の組織文化

戦前の陸軍と海軍は共に国家の組織でありながら、情報を共有して国家戦略を立てるどころか、愚かにも互いに対立するという構造的な愚から、無謀な対米戦争に国を引きずり込んだ。

この「分断構造」は戦後の官庁や企業にも引き継がれ、縦割り行政、系列主義、忖度文化が「情報の壁」を作った。

 

そのような社会構造では、情報の正しさよりも、誰が発したかが重視され、評価が人間関係に左右される。その結果、現場の声は上層部に届かず、意思決定は限られた個人の判断に集中する。
これが、日本型組織において失敗が繰り返される意思決定の構造である。

 

2)人間関係優先が生む知的停滞

日本社会では、「和を以て貴しとなす」という価値観が根付いている。その結果、上下左右に構造を持つ組織においても、摩擦を避けるために意見を言わない「沈黙の合意文化」が形成される。この日本の弱点は、元日産社長カルロス・ゴーンの言葉に端的に表れている。


「フランスでは社長が何かの案を出すと、部下の間で議論が始まる。しかし、日本では社長が案を出すと、部下は議論を止める。」

 

対人関係の平穏が、真実を語る勇気よりも優先される社会では、情報が磨かれず、“知の発酵”が起こらない。稟議書は形式化し、会議は報告会と化し、現場の知見は体系化されることがない。日本企業の「慎重さ」はしばしば称賛されるが、その裏には「恐れる文化」とも言うべき停滞がある。

 

3)日本型教育が生み出した「考えない個人」

この情報文化の根底には、教育の問題がある。日本の学校教育では、教師から与えられた知識を暗記し、「自分で考え、意見を持つ訓練」を軽視してきた。子どもは教師の意図を読むことに長けても、自らの考えを形成し、それを論理的に表現する訓練の機会は乏しい。

 

また、社会に出るための訓練は集団への調和を重視するが、集団を率いる教育は行わない。その結果、社会に出ても上司に従うことに慣れているが、自らの意見を発信することを避ける。結果として、組織の中で情報が議論・評価・統合されることがなく、上層部の意向だけが“組織の意見”として流通する。

 

教育の貧困が、社会および組織の情報の貧困を生み出している。一例をあげれば、東芝によるウェスティングハウス買収は、この構造による個人決断型の悲劇の典型である。社内ではリスク情報が共有されず、財務・法務部門の異論は封じられ、最終的にごく少数のトップによる判断で巨額投資が決定した。
 

この失敗は、単なる経営判断ミスではなく、情報が文化的に流れない組織の必然的帰結である。戦前の陸海軍と同じように、組織内部で対話がなく、外部の批判も遮断された。この構造が変わらない限り、同じ種類の失敗は繰り返されるだろう。

 

4)変革への鍵──情報を「対話化」する社会へ

あることに関する情報はしまい込むのではなく、絶えず対話を通じて磨く文化を作ることが、日本再生の鍵である。形式的な稟議や報告ではなく、異なる意見を交わし、相互に検証する制度を作ることが求められる。こうした文化的弱点を克服するため、公用語を英語とする企業も増えている。それは、情報に関する固定化した上下関係を打破し、その流れを水平化しようとする試みである。

 

より根源的な日本文化の改質のためには、教育の再構築を待たなければならない。上に述べた教育の再構築は時間を要するが、本質的な解決策である。ディベート・探究学習・批判的思考などの能力向上を通じて、「考える個人」を学校から社会に新たに送り込むことになるだろう。そして、失敗に寛容で異論を歓迎する文化を育てる。それが、社会そして個々の組織における情報の滞りを解消する唯一の道である。

 

おわりに

日本の経済停滞の根因は、デフレギャップやマネーストックなどの数値ではなく、組織において情報が議論を通して円滑に流れないという日本文化にある。情報が上下左右に流れず、評価もされず、その後の発信も磨かれたものではない――。
 

その結果、国家も企業も「考えない組織」となっている。経済とは、貨幣と財の流れの問題であると同時に、人と人との信頼、そして情報の流れの問題である。その流れを取り戻すためには、まず「考える個人」を取り戻さねばならない。
 

考える個人が増えなければ、考える国家は生まれない。そしてそれこそが、日本が「失われた30年」を超えるための最大の改革である。

 

(本稿はChatGPTの協力を得て作成しました)

2025年10月19日日曜日

責任回避の合意システム──日本を動かしてきた「無責任の構造」

著者:ChatGPTOpenAI GPT-5

初めに

日本はなぜ、重大な局面で「決断が遅れる国」なのか。なぜ、戦争も改革も、誰が決めたのか分からないまま進むのか。その背景には、明治以来一貫して日本社会を貫く“構造”がある。それが──「責任回避の合意システム」である。
この構造は単なる組織の欠陥ではなく、日本の政治文化そのものであり、明治国家の制度設計から現代の官僚制・企業・政治にまで連綿と続いている。本稿では、その歴史的起源、心理的メカニズム、現代社会への影響、そしてこの構造をどう超えていけるのかを考察する。

① 「誰も決めない国家」──無責任の体系とは何か

「責任回避の合意システム」とは、誰も最終責任を取らないまま、全員の“合意”で物事を進める仕組みのことだ。このシステムでは、個人の判断よりも“全体の和”が重んじられ、方針は「反対がないこと」によって決まり、失敗しても「全員で決めた」ため、誰も処罰されない。戦前の政治家・軍人・官僚の意思決定は、まさにこの構造に支配されていた。開戦も、敗戦も、「誰が決めたか分からない」まま進んだ。そしてこの体質は、敗戦後も“平和的形をまとったまま”生き延びたのである。

②制度の起源──明治憲法が生んだ「二重構造」

明治憲法(1889年)において、国家の最高権限である「天皇大権」は二つの系統に分かれて存在した。統治(行政)は内閣が行い、統帥(軍事)は天皇直轄の参謀本部・軍令部が行った。その結果、政治と軍事の指令系統は分離され、「内閣は軍を統制できず、軍も政治の責任を負わない」という構造が生まれた。両者は共に“天皇の名”で行動するため、実際の最高責任者は誰なのか、常に曖昧だった。こうして、日本国家は「責任を分散することで安定する構造」を制度的に内蔵した。

③ 文化の根──「和」と「玉虫色の合意

制度s上に、日本人特有の文化心理が重なった。「和を以て貴しと為す」文化は、対立を避け、個人の意見を引っ込める傾向を生む。合議と根回しの美徳は、全員一致の“反対ゼロ”文化を作り、玉虫色の表現は、どちらにも取れる曖昧な合意を生む。これらは表面上の調和を生むが、決定の遅延と責任不在を同時に生む。つまり「争わないための合意」が「決めないための合意」に変質していった。

④ 太平洋戦争──決めないことで決まる国家

この構造が致命的な結果を生んだのが、1941年の対米開戦である。御前会議では「全員一致」原則が採られ、異論が出ると延期。最終的に「全員一致でやむを得ず開戦」という形が整えられた。東條英機首相は「皆が賛成した以上、私も従う」と発言。近衛文麿は外交の打開を試みながらも、調整不能を理由に総辞職。こうして、誰も望まない戦争が、誰の責任でもなく始まった。

 

⑤ 戦後に生き延びた「無責任の文化」
 

敗戦と占領を経ても、この体質は消えなかった。GHQの統治構造と官僚制の再編によって「平和的無責任体制」として再生した。官僚制では課長会議・局長会議で全員一致が重視され、政治では派閥調整・連立政治が“誰の政策でもない政策”を生み、企業では稟議・根回し文化が徹底された。こうして「責任の所在を曖昧にすることで安定を保つ」統治様式が定着した。

⑥ 利点と代償──“平和”と“停滞”の同居

この構造は日本の「平和の代償」としての無責任体制を形成した。敗戦後の日本は政治的には安定したが、国家としての主体的意志を失っていった。秩序と安定の裏には、改革の遅れと決断の欠如という代償が潜んでいた。

⑦ 打破への条件──責任を取る勇気

この体質を変えるには、制度改革よりも文化改革が必要である。誰かが責任を取る覚悟を持ち、明確に決断を下し、失敗しても説明責任を果たすリーダーシップ文化を再構築することだ。責任とは、罰を受けることではなく、未来を引き受ける意志である。この意志を持つ者が現れたとき、日本は初めて“合意の国”から“決断の国”へと変わるだろう。

⑧ 結語 ──「決めない」という伝統を超えて

明治の制度に根ざし、昭和の戦争を導き、戦後の安定と停滞を同時に支えてきた「責任回避の合意システム」。それは日本の悲劇でもあり、同時に日本の知恵でもあった。だが、世界が激変するいま、この構造のままでは、再び“流される国家”になる。必要なのは、和を破壊することではなく、責任を共有する勇気である。未来を決めるとは、「誰かが決めたことに従う」のではなく、自分たちが決めたことの結果を引き受ける覚悟に他ならない。

 

ブログ管理者から一言 以上は、私の質問に答える中でチャットGPTが用いた表題の文言に共鳴したので、その解説文を書いてもらったものです。

2025年10月14日火曜日

靖国問題──高市自民党総裁・公明党・中国外交の交錯点

はじめに

 

高市早苗氏の自民党総裁への選出を契機に、公明党が連立解消を決断した。この政治動向の背後には、靖国参拝をめぐる近隣諸国との外交及び歴史認識の問題(靖国問題)、そして日本国内の戦争を含む近代史の総括を棚上げしてきた問題など、重要な問題が複雑に絡み合っている。

 

靖国問題は、「中国や韓国による内政干渉」として片づけられることが多かった。しかしそれでは、戦後日本が自らの歴史とどう向き合ってきたか、あるいは向き合ってこなかったかという、より深い問題を覆い隠してしまうことになる。本記事では、以下の三つの視点からこの問題を考察する:

  1. 高市氏の総裁選出と公明党の連立離脱に見られる政治的背景

  2. 靖国参拝をめぐる歴史認識と外交的意味

  3. 新しい世界へ対応する際の課題としての近代史の復習・評価

これらを通じて、靖国問題が単に中国の外交カードではなく、日本の政治文化と歴史認識の「鏡」であること、更にはこの問題の解決が現在進行形の多極化した世界に対応するカギともなることを明らかにしたい。

 

1. 公明党・中国問題と靖国問題の関係性

高市早苗氏が自民党総裁に選出されたことで、これまで連立を組んでいた公明党が連立解消を決断した。公明党が提示した連立維持のための条件:

 

首相として靖国神社に参拝しないこと; ② 外国人との共生を政策として受け入れること; ③ 政治と金の問題に毅然と向き合うこと、の三条件を高市氏は完全には受け入れなかったためである。

 

高市氏は、以前から「首相になっても靖国に参拝する」と明言していたので、①の靖国参拝に象徴される対中国の政治姿勢が連立解消の主因であると見る向きも多い。その他、高市氏の政治姿勢は保守的民族主義的な面があり、グローバリスト的政党(綱領参照)には受け入れ難いとの分析もあるだろう。

 

自民党総裁として高市氏を応援する右派政治家の中にはもっと過激な意見を出している人もいる。或いは、そちらの方がより本質的かもしれないので引用する。現職議員・北村晴男氏(日本保守党)が以下の動画で過激に語っている。https://www.youtube.com/watch?v=MqWklRiJoOc

 

公明党側は③の「政治と金の問題」が決裂の理由だと説明しているが、これは表向きの理由であり、実際には高市氏のような対中強硬姿勢の政治家が首相になることは、中国と親密な関係を築いてきた公明党にとって何かと好ましくないからだろうという。

 

公明党斎藤代表と自民党高市新総裁との会談の4日前に、駐日中国大使が国会議事堂を訪れ斎藤代表と会談しており、公明党の毅然たる姿勢からも中国の意見が影響を与えた可能性が高いと思われると北村議員は語っている。

 

 

政治と金の問題は高市新総裁誕生と同時に発生したのでない以上、このあたりの経緯を明確にすることは、公党である公明党の日本国民に対する責任だろう。

 

なお、公明党と中国共産党政権との深い関係の構築とそれが田中角栄による中国共産党政権との国交正常化において重要な役割を果たしたことについては、前参議院議員・浜田聡氏がyoutube動画で詳細に解説している。この動画は日本国民全員が視聴すべきであると思う。ただこのテーマは今回はこれ以上議論しない。https://www.youtube.com/watch?v=sHRmaMCC5A0

 

 

 

2. 歴史認識問題と靖国参拝の意味

中国が対日外交で用いる「歴史認識問題」は、日本の保守層からは「中国による歴史の捏造に基づく外交カード」と見なされることが多い。しかし、果たしてそれだけで片づけてよいのだろうか。

 

日中平和友好条約の締結によって、日中戦争を含めて中国との過去の国家間の関係は決着している。平和条約とは、これまで敵対してきた二国がその歴史に終止符を打ち、今後は未来志向で行こうと言う国家間の約束である。実際、日本は条約締結後に当時の金額で3兆円以上の無償援助を含む政府開発援助(ODA)を行い、中国の経済発展に貢献している。

 

それにも拘らず、中国では現在でも小中学校で「反日教育」が行われており、これは条約精神に反する行為である。ただ、日本の首相の靖国神社参拝を中国が「戦争の正当化」と受け取っているのなら、これも平和条約の精神に反する部分もあり中国での反日教育実施の理由づけになり得る。

 

日本のアジア太平洋戦争(1937年に始まった日中戦争から1945年に終わった対米戦争とその他連合国諸国との戦争)とそれに至る明治以降の近代史の総括なしに、首相らの靖国参拝に対する近隣諸国の批判を“難癖”或いは感情的な敵対行為と評価できない筈である。

 

十分に歴史学会のレビューに耐えられるレベルの近代史の理解なしに、思慮浅い右派の票を得る目的で靖国参拝を主張し実行しているのなら、その政治家は日本に対する悪感情を近隣諸国に喚起することで日本国民に損害を強いてきたことになる。

 

勿論、それよりも重要なのは、近代史の総括により日本国のこれまでの経済的政治的発展と明治以降の80年間の専制政治において戦争の犠牲になった数百万人数の兵士や市民の犠牲との関係を国民に提供することは、大日本帝国を引き継いだ日本国の責任である。

 

筆者自身は保守的な立場にあり、国政政党の中では歴史の総括とそれに基づく教育の重要性を主張している参政党に共感する部分が多い。従って、日本政府が近代史の総括をしてこなかったことには強い不満を抱いている。現時点での政治家の靖国参拝は、日本国家の傲慢な姿勢の反映だと思う。

 

繰り返すが、数百万人の犠牲の上に何を得て何を失ったのか。その問いに答えないまま80年が経過したことは、国民の政治不信を深める一因ともなっている。石破総理の半分私的な80年談話など、全く不十分でその発表の趣旨すらわからない。

 

3. 首相の靖国参拝問題:倫理と制度の視点から

 

靖国神社には、大東亜戦争で命を落とした一般兵士だけでなく、戦争指導者とされ東京裁判で死刑となった人たち合祀されている。その中には誤った方向に国家を導いた人物も含まれる。その評価を抜きにして無批判に彼ら全員を合祀した靖国へ首相らが参拝することは、近隣諸国に過去の戦争を正当化する政治的行為と感じる可能性が無いとは言えない。

 

そのように近隣諸国が感じる背景に、日本の現在の憲法は旧憲法の改正手続きに基づいて制定されており、官僚制・司法制度・教育体制なども含め、日本国は大日本帝国の延長線上にある。ドイツがナチ体制との法的断絶を明示したのとは対照的なのだ。

 

筆者は戦争で死亡した兵士に対して敬意を抱いている。その慰霊施設の中に誤った判断によって国民に多大なる犠牲を強いた指導者たちも合祀されていることは全く理解できない。被害者と加害者を同じ施設で祀っている可能性が高いからである。

 

あたかも日本の戦争指揮者も等しく日本の明治以降の近代史の被害者だったと主張する行為のように見える。それが、戦争指導者の末裔も多く含まれる現在の日本の政治指導者たちが、父祖の過ちを隠蔽するために行っているのか、非論理的な日本の文化の産物なのか分からない。

 

無責任の国家の代表が、戦場で亡くなった多くの若い命の慰霊をするのなら、まず過去の戦争の経緯や意味、そしてその責任の在り処を明確にすべきである。

 

国家のトップが、戦場で犠牲となった人たちの慰霊のために参拝したいのなら、戦場以外で亡くなったひとたちは分祀した後にすべきである。分祀は簡単ではないという人もいるが、制度的に実施可能なはずだ。国会で法を定め、靖国神社にその伝達を行うだけで良い。

 

中国や韓国が靖国を外交カードとして使うのは事実だが、それを許しているのは、日本自身が過去と真剣に向き合ってこなかったからである。そして単純に「首相の靖国参拝が当然」と反発するのではなく、「何故彼らは反発するのか」「なぜ今、参拝するのか」と冷静に問う社会こそ、成熟した民主国家である。

 

靖国問題は、右か左か、愛国か反日かといった単純な対立で終わらせてはならない。歴史と政治倫理を大切にし、それと正面から向き合う政治的文化的成熟度が、多極化するグローバル世界の入口で日本人が問われるのだと思う。

 

4.終章

現在の世界情勢は非常に流動的である。その一つの理由は、米国の権威と権力の相対的低下である。世界は多極化の時代をむかえつつある。

 

いままで、世界を一極支配してきた米国の友好国として、日本は平和と経済的繁栄を経験してきた。

しかし、その時代はもう終わりである。日本は米国の権力が去った東アジアで、地域の覇権国となる中国或いはロシアから吹く寒風のなかで生きていく必要がある。

 

その準備のためにも、日本は過去の戦争を含む明治以降の近代国家建設とアジア太平洋戦争による挫折を正確にレビュー(復習、再評価)すべきである。

 

その結果、米国の威光で一極支配のスクリーンに射影された中国やロシアの像ではなく、異なるロシアや中国を見る可能性がある。既にウクライナ戦争や中東戦争における米国の書いた物語は誤りに満ちていると本ブログでも指摘してきた。日本に与えられた時間は限られている。

 

(この記事の作成には、部分的にchatGPT及びCoPilotの協力を得ました)

 

2025年10月9日木曜日

三面等価の原則から見た日本経済の病理―― 信頼と循環の喪失

1. 三面等価の原則とその仕組み

 

経済学では、国内で生産された財やサービスの総額(GDP)は、国民が得た所得の合計、および国民が支出した総額と一致するという「三面等価の原則」がある。この原則が成立するのは、会計上すべての生産物と所得が何らかの「支出」として計上されるように仕組まれているためである。

たとえば、企業が生産した商品が売れ残った場合、それは「在庫」として残るが、在庫の増加は企業による投資(在庫投資)として支出に含まれる。同様に、家計が貯蓄したお金は銀行を通じて企業などに貸し出され、やはり投資として計上される。こうして、見かけ上は「生産=所得=支出」が常に一致するのである。

しかし、この一致はあくまで会計上のものである。在庫は長く放置されれば価値が下がり、翌年度の会計において減損処理を行う必要がある。過剰な在庫は資源の浪費であり、次年度の生産計画を縮小せざるを得ない

また、貯蓄も過剰になるのは、消費や投資に円滑に向かわないことを意味し、上図の矢印が示す循環が滞り、経済の停滞を招く。したがって、経済が持続的に循環し、国民が必要な物資を安定的に得るためには、過剰な在庫や過剰な貯蓄を抱えず、適度な流動性を保つことが重要である。


貨幣は社会を循環してはじめて意味を持ち、単なる貯蓄としての過度な停滞は、血液が流れを失うように経済の生命力を奪ってしまう。

 

2. 世界経済における「赤字国」の役割とそれを拒否するトランプ

 

経済の健全な循環を維持するには、世界全体でみて消費と投資がバランスを取らなければならない。国内の三面等価が成立するのと同様に、国際経済においても「一国の貯蓄超過(黒字)」は、他国の「過剰な消費と投資(赤字)」によって支えられている。


この意味で、戦後の世界経済では、米国が恒常的な経常赤字を引き受けることで、他国の黒字=成長を可能にしてきたといえる。つまり、米国の家計と企業が旺盛な消費・投資を続けることによって、日本やドイツ、中国などの輸出主導型経済は生産を拡大し、所得を増やし、国内に雇用を生み出してきたと言える。


米国の赤字は単なる浪費ではなく、世界経済を回す「最終需要」の供給源であり、国際的な三面等価の均衡を保つための「潤滑油」であったともいえる。ところが、近年のトランプ政権をはじめとする「アメリカ・ファースト」的政策は、この構造に明確な転換をもたらそうとしている。

 

すなわち、米国がこれ以上「世界の赤字国」を引き受けることは、不可能となってきたと現政権が考えているためである。世界経済における米国のシェアが縮小してきたことが主要な原因の一つである。そこで、「自国のバランスを取る」方向へ舵を切ろうとしているのである。


この政策は一見合理的に見えるが、グローバルな経済循環においては、需要の受け皿が失われることを意味し、結果的に世界的な需要不足とデフレ圧力をもたらし、それが米国内にも波及する危険が高いので、他国が対応する時間的余裕を置いて、慎重に行ってもらいたい。

 

トランプのMAGA(アメリカを再び偉大に)政策を反グローバリズムとして賞賛する向きも多いが、これまでの経済の発展は国際分業とグローバルで自由な経済交流(つまりWTO体制)に負うところが非常に大きかったので、行き過ぎた孤立主義が世界に広がることは経済に大きなマイナスである。

 

従って、反グローバリズム運動を進める人たちは、主権国家体制を守り特定の政治権力のグローバル展開に反対するという運動に限定するべきである。WTO体制と主権国家体制の矛盾点、例えば安全保障に関する国内産業の保護などは、WTOにおいて論理的に主張するべきだと思う。


 

3. 日本が取るべき新しい経済モデル

 

日本は長らく、貯蓄超過国=黒字国として、米国の赤字構造に依存してきた。もし米国がその赤字を縮小すれば、日本の輸出依存型モデルは縮小を迫られる。このとき日本が採るべき道は、国内での「赤字を引き受ける主体」を育てることである。

先ず、政府が将来への公共投資・科学技術投資・社会保障投資を拡大し、民間部門の過剰貯蓄を吸収する形で需要を創出することである。企業や家計が過剰に貯蓄し、消費や投資を控えるとき、政府がその「反対側」に立たねば経済循環は止まる。

米国が世界経済の「最後の買い手」である時代が終わりつつある今、日本は、国家が国内の赤字を意図的に引き受け、資金を未来の成長基盤へと循環させることが、今後の日本経済における重要な課題となる。

 

それは単なる財政拡大ではなく、社会の生産力、生活の質、政治の質を高め、将来の経済をより健全化するためでなくてはならない。将来の富を先取りして消費するのではなく、将来の富を生み出すための土壌を耕すものでなければならない。

 

ただし、日本が自国の赤字によって経済循環を支えるとき、無制限な財政拡張は許されない。
なぜなら、日本は食料やエネルギーを海外に依存しており、通貨価値の下落はただちに国民生活の基盤を脅かすからである。


長期的且つ過度な財政赤字は、日本円の信用を低下させ輸入物価の上昇を通じて食とエネルギー購入すらままならない円安地獄を作り出す。すなわち、政府が引き受ける赤字を「消費的支出」ではなく、科学技術、人材育成、食料・エネルギーの自給体制、災害対応インフラなど、長期的に国民生活の安全と競争力を支える分野に的を絞るべきである。

また、財政運営を監視する独立機関や、マネタリーベースと国債発行の連動を制御する制度的枠組みなど、財政規律を支える仕組みが必要である。財政拡大は「無限に可能」ではなく、通貨への信頼を維持する範囲で、最大限に有効活用する技術が求められる。(追補)

結論として、日本に必要なのは、支出を恐れる縮小均衡の発想でも、放漫財政による通貨価値の破壊でもなく、「将来への投資としての赤字」と 「通貨の安定を守る規律」の均衡点を探る知恵である。
米国が財政再建に乗り出した今、それが日本が自立した経済循環を築くためのカギとなる。


追補)現在すでに通貨の信用維持と積極財政が両立しない情況に非常に近いかもしれない。財政拡大はインフレ率の上限を設定して行うべきだろう。(10/9/21:15) 


4. 日本の文化的壁と政治的課題 ― 経済循環を妨げる心理の構造

 


しかし、問題は財政運営の技術や制度設計だけではない。根本には、日本社会そのものが抱える深い心理的・文化的構造が存在する。それは、過度な貯蓄志向と、政治への不信、そして変化への慎重すぎる姿勢である。

日本人は戦後長らく「将来に備えて貯める」ことを美徳としてきた。この行動様式は勤勉と節制の象徴として経済成長を支えたが、現在では逆に**経済循環を阻害する「貯蓄の壁」**となっている。
家計が貯蓄を積み上げ、企業が内部留保を膨らませ、政府がその資金を吸収しても、有効な需要が生まれなければ経済は動かない。


この構造の背景には、国民の根深い政府不信と、将来に対する漠然とした不安がある。本来、将来を心配するならば、貨幣を死蔵するのではなく、より良い社会と人生を築くために資金を循環させる知恵が必要である。
 

安心して消費や投資を行える社会とは、政府と国民の間に信頼の契約が成立している社会である。
ところが現在の日本では、政府の指導層が積極財政派と均衡財政派に分裂し、互いの議論に耳を傾けず、国民への説明責任を十分に果たしていない。
 

この知的・政治的貧困こそが、国民の不信を強め、さらに貯蓄を増やすという悪循環を生み出している。したがって、財政規律の確立や経済循環の再生には、単に金融・財政政策を超えた、教育と政治文化の刷新が不可欠である。


教育は、未来への不安ではなく、未来を創る能力を育てるものでなければならない。政治は、恐怖や不信を利用するのではなく、国民に「信頼して資金を流す勇気」を与えるものであるべきだ。信頼を取り戻し、国民が貯蓄を投資と消費へと循環させるとき、日本経済は初めて真に自立した力を取り戻すだろう。

 

教育は未来を恐れる心を育てるのではなく、未来を創る力を育むべきである。政治は国民に節約を説く前に、信頼できる政策と責任を示すべきである。そのとき初めて、日本人は貯蓄を安心して投資と消費に転じ、経済は「信頼を基礎とした循環」へと回帰するだろう。

 

結語 ― 経済の問題は、信頼の問題である

 

経済は、貨幣と財の流れの問題であると同時に、人と人との信頼のネットワークの問題でもある。そもそも経済システムとは、人々が互いに助け合い、生産したものを分かち合って生活するために生まれた社会的仕組みである。

 

在庫が滞り、貯蓄が動かないのは、単に数字の問題ではなく、心の交流が失われているからだ。信頼が生まれれば貨幣は動き、貨幣が動けば経済は蘇る。今、日本に必要なのは新たな金融理論でも巨大な公共事業でもない。国家と国民の間にもう一度、信頼を取り戻すこと。その信頼こそが、貨幣を動かし、人を動かし、未来を動かす原動力となる。

 

(本稿の構成と表現の整理にあたっては、ChatGPTの助言を参考にしました。)

2025年10月2日木曜日

米国はイスラエルの属国だったのか?

 

国際政治関係のyoutuberである及川幸久氏が、「タッカー・カールソンが暴露:ネタニヤフがトランプをコントロールしている」と題する動画をアップした。

 https://www.youtube.com/watch?v=A22BK77TbI8

 

 

タッカー・カールソンは命を懸けて、イスラエルのネタニヤフ政権が行っているガザでのホロコーストやヨルダン川西岸域での暴力的な入植活動と、そのイスラエルを支持している米国のトランプ政権をXで批判し続けている。

 

以前にも紹介したが、今年7月初旬のことになるが大学等のキャンパスで保守政治を広める活動をしている非営利団体Turning Point USA の集会で、タッカー・カールソンはジェフリー・エプスタインの顧客ファイルの公開を中止したトランプを批判した。

 

 

 

エプスタインは、誘拐した少女を孤島に閉じ込めて米国内外の著名人に売春させ、設置したカメラでそれを撮影していた。タッカー・カールソンは、それがイスラエルの諜報機関モサドの指令による活動だった可能性に言及したのである。

 

タッカー・カールソンを集会に招待したのが、Turning Point USA の創始者であるチャーリー・カークであり、彼は今年9月に暗殺された。

 

その犯行の裏にイスラエルが存在する疑いはあるが、これも確かではない。チャーリー・カークはガザでの虐殺とその実行者であるネタニヤフを強く批判していたのだが、彼の死後ネタニヤフは不思議と「彼はイスラエルの友だった」という類の発言を繰り返しているという。

 

及川氏は上記動画で、米国内でネタニヤフ首相に対する批判を強めている人物として、作家のキャンディス・オーエンズ氏や「イスラエル・ロビー」の著者であるシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授をあげている。

 

及川氏の動画では触れられていないが、国際機関で活動をしてきたコロンビア大のジェフリー・サックス教授も、イスラエルのネタニヤフ政権に批判的である。

 

ジェフリーサックス教授は、中東での米国の戦争は全てイスラエルにとっての理想の中東を建設するために、イスラエルロビーとネタニヤフが米国に実行させた戦争であると講演で語っている。https://www.youtube.com/watch?v=hA9qmOIUYJA

 

 

つまり、イラク戦争などは米国がイスラエルの代理で引き起こした代理戦争だったというのである。

なお、ジェフリーサックス教授の講演内容は、長周新聞により日本語に翻訳されている。https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/34317と34414

 

トランプとネタニヤフの関係を暗示するものが存在する。今年二月に米国を訪問したネタニヤフがトランプに贈った品である。

 

ネタニヤフは、二人の関係は地面に深く根を張った樹木のようであると言いたいのだろう。ただ、その真ん中にセットされているのは、ポケベルのようなものである。その深い意味は、「お前(トランプ)は俺(ネタニヤフ)の指示に従うべきだ」と米国でも話題になったようだ。

 

(12:00 編集)