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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2016年3月28日月曜日

日本国が消滅しない様に、日本人は核アレルギーを克服しなければならない

以下は、日本の核抑止力と日本の将来について書いた私的メモです。

核兵器対策は国家戦略の基本であることを我々国民は理解しなければならない。現在、米国の核の傘の下にあると言われているが、米国の核の傘は中国の核には無力であることは、伊藤貫氏の「中国の核戦力に日本は屈服する」(小学館新書、2011、96-100頁&181-186頁)に書かれている。その理由は、米国民の命を日本のために犠牲にする気持ちなど更々ない上に、複数の弾道核ミサイルや巡航核ミサイルはミサイル防衛システムでは撃ち落せないからである。

1)中国の脅威:
国際関係を善意と信頼で組み立てることができないと教えてくれたのが、中国共産党政権である。あの尖閣諸島での漁船の体当たり事件、南沙諸島の岩礁を違法に埋め立てて軍事基地を作りつつあること、過去に潜水艦が日本領海を潜水したまま通過するなどの違法行為を重ねていること、小笠原近海でのサンゴの集団での密漁(https://ja.wikipedia.org/wiki/中国漁船サンゴ密漁問題)など、共産党政府支配の中国は、国際法や慣習を無視してきた。上記は米国の強力な覇権存在下での出来事である。世界が多極化して、米国が孤立化の方向に向かえば、中国の変化の方向は明らかだろう。中国は共産党という名の貴族が支配する帝国主義の国である(補足1)。

3月18日のBSプライムニュースの中で、中国出身の凌星光氏(福井県立大名誉教授)は、「現在太平洋は米国が一方的に抑えており中国にとって支障があるが、今後中国は米国に変わって支配するようになる」という趣旨の、中国政府の計画を代弁していた。中国が、太平洋を米国と東西に二分割し、西太平洋を中国が支配することを提案していることは既に有名である。

そうなれば、日本のタンカーなど船舶がマラッカ海峡やバシー海峡を自由に通れなくなる可能性が高くなり、日本は生存のために中国の思い通りに操縦されるだろう。それはどういう意味なのかについては、ウイグルやチベットの情況を思い出すとか、既に良く知られているが、1993年にオーストラリア首相が中国を訪問した際、「日本などという国は20-30年後には消えてなくなる」と時の首相である李鵬が言った言葉を思い出して、想像すればわかる。それは、日本が満州を支配し、南京に攻め込んだ報復である。

中国の国家戦略は過去中国の領土であったが、戦争などで奪い取られたところを取り返すことである。その中には台湾や沖縄も含まれている。その戦略については、やはり3月18日のBSプライムニュースで、中国出身の韓暁清氏(日中新聞社社長)が、正直に発言をしている。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42708818.html それはまた、上記伊藤 貫著の本に、「中国の国家目標は、2020年代以降にアジアの最強覇権国家となり、19世紀初頭に支配していた中華勢力圏を回復するというものである」と書かれている(134頁)。

2)安保条約と日本の自主的核武装放棄の関係
このような中国の覇権主義の餌食にならないためには、核武装が必須である。米国大統領予備選で共和党のトランプ候補が、「日本や韓国との安保条約は米国には負担であり、廃止すべきである。その場合、日本と韓国の核武装を容認する」という趣旨の発言をしている。この発言は画期的である。

ニクソンとキッシンジャーが1972年に中国を訪問した際、周恩来と交わした密約がある。その内容は「日本に自主的な核抑止力を持たさない。そのために米軍が日本に駐留させておく」である。トランプ候補の発言が画期的なのは、米中密約の解消を意味しているからである。ヒラリー・クリントンが大統領になれば、残念ながら密約の解消はないだろう。彼らの密約を守るために、毎年2000億円もの“思いやり予算”を献上しなければならないのである。http://www.asahi.com/topics/word/思いやり予算.html

この安保条約と核武装の関係に言及した上記トランプ発言を、異様に思う日本人は多いかもしれない。しかし、安保条約の重要な目的の一つは、上記密約にあるように、日本に核武装をさせないこと(日本が核武装しなくても良いこと)であり、それは今も変わっていない。そのことは、政治には素人であるトランプ氏にとっても、常識なのだ。例えば、日米安保改定50周年セミナーで、米国の政治家であり米日財団理事長のジョージ・パッカード氏が講演で述べている。安保条約は独自核装備をしなくても良いことを一つの目的に締結された。しかし、安保条約は永遠には続かないと。(補足2)

3)日本人の核アレルギー 日本国民はこの現実を理解すべきであるが、根強い核アレルギーと平和ボケが災いして核兵器保持への覚悟はできない可能性が高い。つまり、国際政治に関しては12歳の子供であると自覚して、護身用のナイフが持てないのである。その日本人という子供は、以下のようにして作られた。

朝鮮戦争が勃発して米国は再軍備を要求するようになったが、時の首相の吉田茂は再軍備など経済的に出来ないと、日本国憲法を逆手にとり避けていた。それに対して、米国極東司令部のマグルーダー中将は、「日本をまず富裕にしてから軍事的に強化するという概念は、日本人の倫理的体質を弱め、日本が自衛能力を獲得することを無期限に延期するだろう」と発言した。(日本永久占領301頁)( http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42715238.html で議論した。)吉田茂の姿勢はその後の吉田学校の生徒たちが作った池田内閣や佐藤内閣でも堅持されたのである。最後の生徒(池田勇人の秘書)である宮澤喜一に至っては、「憲法改正を誰かがやれば阻止しようと思う」という始末である。(日本永久占領、473頁)

イスラムの自爆テロを連日テレビニュースで見ていても、不思議なことに「平和は誰かが守ってくれる」「この時代、そんな無茶はしないだろう」と日本人の誰もが考えている。それが、マグリーダー中将の言う“倫理的体質が弱くなった”極限の姿である。自爆テロを極悪犯罪として捉えるのは、テロを仕掛けられる側の考えである。仕かける側にとっては言うまでもないが聖戦である。彼らは命を賭けて自分達の存在根拠をこの地球上において守ろうとしているのである。それが明日の日本の姿かもしれないことを知るべきであると思う。

近現代史の勉強と国民的議論を通して、日本が12歳の子供から成人になるまで、独自防衛の意思を高める様に国民は努力すべきであると思う。テレビ局も、不倫騒動、学歴詐称、女子学生の拉致監禁などの事件を娯楽として報道する醜い姿勢を反省して、今後の日本の生き残る狭い道を議論するのに公共の電波を使うべきである。

核兵器にたいしてアレルギーを持つのではなく、核兵器を向けられて自分達の権利を侵害される可能性にたいして、もっと敏感になるべきである。

補足:
1)シカゴ大学のモーゲンソー元教授は、「戦後の米国、中国、ソ連は、道徳的で反帝国主義的スローガンを唱えながら、実際には帝国主義外交を実践してきた」と、これら3国の偽善的な外交政策を描写した。(p30)
2)防衛省防衛研究所のホームページに日米安保条約改定50周年記念セミナーの講演要旨集が掲載されている。http://www.nids.go.jp/event/other/just/ その中にジョージ・パッカード氏の講演要旨もある。条約改定までの経緯について千々和泰明氏の解説に詳細に書かれている。

大相撲について:張り手など手を故意に顔面に向けて出す行為を禁止すればどうか

春場所は、白鵬が久しぶりに優勝した。テレビで見ていたが、この優勝を決めた相撲について、横綱の相撲にふさわしくないとの批判が解説者などから出ていた。また、勝負があっけなく決まった時、観客の大きなブーイングがあった。先ず、このブーイングはマナーに反する行為であり、観客に周知する必要があると思う。それに、決まり技の“肩透かし”にも全く問題がなく、白鵬の勝利は立派なものだったと思う。

優勝インタビューで白鵬は必死に自分を抑えて、「変化で決まると思わなかったので。本当に申し訳ないと思います」と涙を流しながら謝罪する場面もあった。ただ、涙を「謝罪の涙」と引用サイトなどで解釈しているが、そうではなく、休場などで優勝から遠ざかっていた8ヶ月を思い出し、且つ、父親の記録と並んだという思いによるものだと思う。 http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1622873.html

異なる文化で育ったこの若者に、日本人と同じ感覚と価値観で相撲界を背負わせる事に、若干無理があるのではないかと思う。それについては、外国人力士を入れる時に、相撲界は一定の配慮をしておくべきだった。

白鵬の気持ちを代弁するかのように、暴言に近い発言が同じモンゴル出身で元横綱朝青龍のドルゴルスレン・ダグワドルジ氏からあった。ドルジ氏の気持ちもわからんではない。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160327-00000105-dal-ent

大相撲はこのままの形では、何れ人気をなくすだろう。曲がり角にあると思う。

相撲にはスポーツの面と神事(伝統行事)の両面があると思う。後者の場合、日本文化に同化しきれない外国人を入れるのには無理がある。しかし、現在の相撲から外国人力士を排除した場合、面白くなくなるだろう。元朝青龍のツイッターにあるように、大相撲は現在外国人力士が支えているのだから。

私は、差し当たり一つだけルール改正をすれば、千秋楽のような相撲を含めて白鵬に対する非難が少なくなると思う。そのルール改正とは、「張り手など手を顔面に向けて故意に出す行為を禁止する」のである。このルール改正で、張り手の応酬のような荒々しい相撲はなくなる。

千秋楽の白鵬の相撲の決まり手の肩透かしに関しては、問題はないと思う。しかし、ただ立会いの時に顔面に手を差し出すのは、指が相手の目に入る可能性もあり、危険だと思う。

その後、大相撲は国際化したらどうかと思う。その際も一定のルール改正をしたらどうかと思う。
①髷なども現在の形は外人力士には馴染まないので、強制しなくて良いと思う。
②廻し(ふんどし)も固定方法を簡略化すれば良い。
③怪我を防ぐ意味で、土俵は盛土の上に作る必要はない。
元々、遠くの席からでも見えるように盛土の上に作られていたのだろうから、現在のように観客席が設定されておれば盛土の上に作る必要はない。
③体重は200kg未満とする。あまり大きな力士が今後増加しては、ダイナミックな相撲が少なくなる可能性がある。
④手を顔面に故意に向けることを禁止する。
⑤以上の他は従来通りのルールを採用する。
これでどうだろうか?

2016年3月27日日曜日

読書の意味を考えた

1)卒業と入学のシーズンがやってきた。学校の光景として、校庭に置かれた薪を背負いながら読書に励む二宮尊徳の銅像を記憶しているひとは多いかもしれない。しかし、どんな本を読んでいたのか、説明などなかったのではないだろうか。http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20120127/ninomiya

上記サイトによれば、二宮尊徳は儒教に関する本を読んでいたのではないかと書かれている。テレビなどの時代劇をみると、学校(寺子屋)では儒教、例えば、論語の文章を丸暗記する場面が多かったと想像する。もちろんその中には知恵がたくさん含まれている。例えば、「子曰く、学びて思わざれば則ちくらし、思いて学ばざれば則ちあやうし」は学習のあり方を適切に指摘していると思う。

つまり、本を読んで学んだつもりでも、自分の考えとして取り込めなければ(消化不良の形で単に記憶に残るだけでは)、知恵とはならない。また、何かを考えても他人の考えを取り入れて(読書や学習で)自分の考えを磨かなければ、独善に走る可能性がある。

社会の指導層は、読書し学んだ者でほぼ占められるが、彼らが消化不良の情報を元に動けば、社会を間違った方向に導く可能性がある。その典型例として、マルクスの本を読んで、消化できずに国を率いた悲劇が挙げられると思う(補足1)。

2)一般に、本を読んでも消化不良に終わる場合がほとんどである(補足2)。食べ物と同じで、消化不良の部分が排泄されるだけならほとんど害はない。しかし、吸収された場合、つまり、丸暗記と誤解の形で記憶に残った場合、その読書はむしろ有害となる。

もちろん、個人的にはその本を読了したという快感が残るので(浪費した時間を考えなければ)有害とばかりは言えないかもしれないが、社会にその消化不良の知識をばらまけば、社会全体では有害となる。政治のスローガンに用いるとか、ネット上に公開することで、人を惑わすことになるからである。(補足3)

どうすれば読書の害を無くするか? 

まず常識を動員して、人心を惑わすような本を見分けて読まないことである。しかし、古典として残った名著を読む場合、当時の時代背景を考えて読まなければ誤解は心の底にまで達する可能性があり、注意を要する。例えば、論語の「人に大切な心は、仁である。仁は、親に対しては孝、主従の関係に関しては義、仲間に対しては信である、全ての人に対して礼を保つ」などと説かれれば、かなりの説得力を持つ。

しかし、均一(注釈1)で狭い社会空間を前提にした思想であり、現在のように世界の価値観が交錯する時代の価値の物差しとしはそれほど有力とは言えないと思う(補足4)。“正しい”とか“真理”とか言うが、それらは所詮その社会での多数派の考えに過ぎない。万有引力の法則も多数派の意見であり、それは“科学的”に証明できる考え方ではない(補足5)。

従って、本の与えてくれる知識や知恵を理解したとしても、それらは自分が思考するための道具として用いるべきである。知的活動の主人公はあくまでも自分であり、自分が思考し自分が判断しなければならない。そのように考えて本を読むというのが、上記質問のひとつの答えになると思う。

つまり、人間は他人と知識を共有することはあっても、本質的には知的に独立した存在である。従って、その独立のプライドを失ったヒト科の動物は、ホモサピエンス(知的人間)とは言えないと思う。パスカルの言葉をモジルと:「人間は考える葦である。しかも孤独な葦である。」

補足:
1)資本論は精緻に資本主義経済を論じているのだろう。しかし、その成果からの遠望としての未来社会のモデルを、現実の政治で利用したのは何故なのか? 資本家から資本を取り上げて共有とし、共産主義社会を建設する。そして、労働者は「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことができる。精緻な理論とその杜撰な政治利用との間のどこかに、大きなインチキがなければ社会主義の失敗は説明できない。
2)二人は昼も夜も聖書を読んだ。だが私が白と読んだところをあなたは黒と読んだ。 (英国の詩人 ウィリアム・ブレーク)
3)これは、自分で自分の首を絞めるような言葉である。ただ、ネット上で公開した場合、一定の説得力がなければ、読まれないので害は少ない。一方、政治的に既に著名な人間によりブランドラベルが貼られると、読む人が多くなり有害の度合いも大きくなる。 4)机上の空論を繰り返して出来上がった精緻な空論の体系に思える。そのような現実離れした精緻な空論は、現実に利用されれば、例えば、皇帝による人民の家畜化指針などに用い得る。
5)自然科学の法則は、正確には仮説(仮定としておく説)である。それを元に、実験結果が例外なく説明された場合、それを法則と呼ぶ。
注釈:
1)人の身分には上下があるが、その”構造が社会(国家)全体で一定である”という意味で”均一”を用いた。

2016年3月24日木曜日

日米安全保障条約の改訂(1960年)について

以下は、最近読んだ片岡鉄哉著「日本永久占領」と外務省ホームページなどから得た情報を元に、日米安保条約の改訂について書いた私的メモである。本文中の引用ページは、「日本永久占領」の頁を示す。

1)戦後サンフランシスコ講和条約と同時に日米安全保証条約が締結された。この条約は、講和条約締結時に軍隊を持たないために、日本が防衛の為の暫定措置として米軍の駐留を希望し、米国も同意するという形で締結された。

旧安保の各条文の概要を書く:
前文には、「合衆国は日本国が攻撃的な脅威となるような軍備を持つことをさけつつ、侵略に対する自国防衛のため漸増的に自らの責任を負うことを期待する」と書かれている。
(第1条)米国は日本国内に陸海空軍を置く権利を得る。日本に駐留する米軍は、極東における国際平和維持に寄与し、日本国内の内乱や騒擾の鎮圧、日本への外部の武力攻撃に使用できる。
(第2条)日本国は米国の事前の同意なくして第三国に軍の基地使用、駐兵や軍の通過権利を与えない。
(第3条)米軍の配備を規律する条件などは両国間の行政協定による。
(第4条)日本区域における充分な平和維持の措置が他に生じた時は、効力を失う。(第5条)この条約は批准を要する。

この条約は講和条約後のものとしては、米国への隷属的な内容であり、改訂は自民党政権の課題であった。しかし、その時期については自民党内でも大きな開きがあった。当時その考えが希薄であったのは、吉田茂一派だと思う(補足1)。河野一郎や岸信介らは、憲法改正と安保改訂を早期に且つ同時に行いたかったが、吉田茂らの反対意見が強く、首相の岸はかなり早い時期に憲法改訂を諦めた。

改訂案では(岸内閣がマッカーサー二世駐日大使らと共に作ったものだと思う、詳細は後日触れる予定;当時大統領はアイゼンハワー、国務長官はダレスであった。)不平等な条項が一部削除されたり表現が和らげられたりしている。つまり、①米軍による内乱鎮圧の権利は削除された。②第三国の軍の通過権を排除する文章もなくなった。③極東有事の際に条約の実施に際して、事前協議を行う規定(第4条)が追加された。 ④“米国は日本に陸海空軍を置く権利を得る”という表現は、“陸海空軍を置くことを許される”という表現になっている。また、⑤条約の形態として相互協力的なものに変えられた:つまり、第5条で、「両国は日本国内での一方に対する攻撃は自国への脅威と解釈し、自国の憲法の範囲内で共通の危険に対処する」が追加された。

また、旧安保の第4条の代わりに、第10条で「どちらの国も10年後に条約終了を通告でき、その場合、1年後に条約は終了する」となっている。これが改定時の安保騒動に加えて、更に10年後にも安保騒動が起こりえた理由である。この条約では、国連の活動を非常に重視している様に書かれている。

ただ、肝心な点には何も触っていない。それらは、憲法の改正と軍備保持である。従って、改正案での変更点は、旧安保の包装紙を変えた様なものかもしれない。

2)重要な点は、旧安保は第4条にある様に、暫定的なものであり、日本が憲法改正と独自軍を保持することと同時に解消されるべきものであった。その点に最後まで拘ったのは河野一郎であった。「憲法改正、不平等条約改正、再軍備、自主外交の全てを骨抜きにした以上、河野は梯子を外された失望を味わったであろう。国を思う熱いナショナリズムで結ばれた同士関係(岸と河野)はナショナリズムという鎹を失ったのである」(452頁)と上記本には書かれている。

従って、岸信介は吉田茂の応援を得て、この安保改訂を成し遂げることになるが、それは岸の面子を保つ意味はあったが、日本がまともな独立国になる機会を無くしたことになるのかもしれない。岸の河野との同盟を諦めて、吉田の協力を仰ぐことになる姿勢を、上記本の著者は“両岸”と呼んでいる。(補足1及び補足2)

この安保条約改訂に反対する運動が、社会党や大学生の左翼的組織により日本列島を揺るがせた。所謂60年安保闘争であり、東大では女子学生が一人死亡した。安保改訂は日本が米国に隷属するという形を少しではあるが、解消するものであり、社会党や共産党には本来反対する理由はない。しかし、社会党は安保改訂阻止を掲げて国会を混乱させていた。

従って、安保改訂に対する反対というより、日米安保体制に対する反対であり、それは社会党の行動から明らかだった。つまり、安保改訂論議が始まるまえに、警察官職務執行法の改訂が岸内閣により提案された時(結局審議未了)、社会党の風見章訪中団の共同声明に、「日米安保条約破棄」と「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵である」という文言が入っていた。その翌年3月(1959年)の浅沼訪中の際の共同声明として発表された。(443頁)

現憲法下では、米国との同盟関係は日本の防衛にとって不可欠である。このような反日政党が国会の1/3の議席を占めていたこと、そして、東大や京大などのトップ大学で、学生たちが安保反対の大騒ぎを起こしたのは、日本国民の心の中にナショナリズムの感情はあっても“国家”という思想がなかったことを証明していると思う。

3)上記本「日本永久占領」の日米安保改訂の部分は非常に退屈で、読み終わるのに時間を要した。それは政争のための政争が延々と続くから、面白くないのである。その政争は、マッカーサーが育てた社会党や自民党官僚政治家らが、国家としての形を回復したいと考えた岸信介や河野一郎らの政治家と「国家」という概念の重要性(の感覚)を共有しなかったことが原因で生じたと思う。

この原因として、占領政治が日本から国家という骨組みを粉々に破壊したため、戦後いつまでたっても「国家として片輪の状態にある」という説をよく聞く。その「」内の言葉は意外にも、実際にマッカーサーが作った骨抜き憲法を擁護し、マッカーサーの下で権力を築いた吉田茂が、池田内閣の所得倍増計画で経済に集中していたときに発した言葉である(吉田茂“世界と日本”番町書房、1963;補足3)。しかし、「一旦国家という枠組みを国民が得ていたのなら、党人政治家がほとんどパージされたとしても、このようなことになるのだろうか?」という疑問は残る。

日本人も他の国同様十分強いナショナリズムを持っている。しかし、それが現実の政治体制の中に希薄にしか存在しないのは何故か。それは、一般国民の間に「政治は、明治の時代から薩長&貴族によるものであり、平民の関与するものではない」という意識が強くあるからだと思う。それを変えるには、有識者一般が投票する側だけでなく、投票される側に立つという形での政治参加に義務を感じる“空気”を醸成すべきであると考える(補足4)。

補足:

1)朝鮮戦争が勃発して、米国は再軍備を要求するようになった。吉田茂は「日本は貧乏であり再軍備など出来ない」と、マッカーサー1世の作った日本国憲法を逆手にとり、且つ、経済援助を要求することでこれを避けていた。それに対して、米国極東司令部のマグルーダー中将は、「日本をまず富裕にしてから軍事的に強化するという概念は、日本人の倫理的体質を弱め、日本が自衛能力を獲得することを無期限に延期するだろう」と発言した。また、アリソン駐日大使は「日本は自由陣営を支持するともしないとも、確固たる信条がないのだから、我々が勝ち馬であるときだけついてくるのだ」と報告している。(301頁)

2)このような改訂になったのは、中国共産党と台湾の金門砲撃(金門・馬祖砲撃)で、米国は台湾を後ろで支えることになる。条約を完全に対等なものにし、憲法改正と独自軍保持を行うと、日本も米国とともにこの種の紛争に直接関与することになる。その覚悟を問われることになり、自民党も左派を中心にして、二の足をふむことになった。

3)吉田茂も、当然のことながら、早期に憲法を改正して自国軍を持つ独立国家となることが理想であったと思う。しかし、GHQの存在下での脆弱な経済の回復が緊急かつ最優先の課題だったという言い訳を準備して、より安易な道を選択したのだろう。しかし、憲法改正と自国軍の保持は、経済復興の後で行うと考えることは、幼児に対して言葉を覚えさせてから歩行の訓練をするようなものだろう。

4)例えば、大学と名のつく全ての教育機関で教授及び准教授であった者に対して、60歳で定年退職し市会議員などへの立候補を義務化すればどうか。あるいは、国民に対して政治家になってほしい知識人を選挙の際にパソコン画面の中から選ばせる。そこで、一定数以上の票を得たものに選挙に立候補する義務を課するのである。もちろん、運動をしなければ落選するだろう。その場合は供託金没収(職場で選挙費用引当金の形で積み立てておく)という形で、これまで日本国のお陰で出世してきた礼金として諦めてもらう。しかし、何人かに一人は積極的に運動するはずである。これは極論である。しかし、橋下徹のような素人から政治家になる人間を日本に数千人誕生させれば、日本の政治は変わると思う。

2016年3月21日月曜日

米軍兵士の婦女暴行事件へ抗議する今日の沖縄でのデモ、何か変だ

アメリカ軍兵士の男による性的暴行事件が13日沖縄県那覇市であった。犯人は逮捕されたのだが、この事件に抗議して名護市辺野古の基地前で大規模な抗議集会が開かれた。動画を見ていただきたい。http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20160321-00000047-nnn-soci

しかし何か変だ。兵士個人による犯罪を政治利用している様に見えるのである。上記サイト動画に出てくるデモのプラカードを見ると、政治利用をデモの主催者が白状しているのである。そのプラカードにはUnforgivableと大書きし、その下にThat woman is Okinawaと書かれている(補足1)。許せない(unforgivable)はわかる。しかし、その次の文章は、「あの女性は沖縄である」と読める。つまり、その文章は「沖縄を米国軍が性的暴行した」という意味に解釈される。

その論理を無視したやり方は、近代国家にはふさわしくない。米軍基地を置くことに反対なら、正々堂々とこの種の刑事事件とは別に行えば良い。次のようなアナロジーを考えてもらいたい。

イスラム教徒の男が性的暴行を犯して逮捕されたとする。その抗議に、イスラム教信が米国をレイプしたというプラカードを掲げて、「イスラム人を米国から追放しろ」と要求するのと、今回のデモは相似である。これをまともなデモとして報道するのは誠に不思議である。

沖縄県議会でも明日抗議決議を行うそうだが、今回のデモと同じ論理で行うのだろうか?

補足:
1)プラカードの文章はThat woman is an okinawan.ではない。That woman is Okinawa. とは意味がことなる。冠詞がなく、大文字と小文字の区別のない日本語では、この論理のすり替えがわかりにくいかもしれない。

安倍政権の社会主義

自由と平等は民主主義の根幹となる概念である。しかし、結果としての平等を目指す政策は、社会主義の領域である。つまり、平等の原則は制度によって持ち込まれるべきであり、数値目標を立てて行うべきではない。安倍内閣は、数値目標を安易に掲げて、それに向かって社会を押し込むという愚かなことをしすぎると思う。

今朝の読売新聞によると、2020年頃までに女性の管理職比率を30%程度までに引き上げるという目標を掲げて、企業に圧力をかけているらしい。管理職にふさわしい女性がいれば、つまり彼女が管理職につくことで会社の業績向上が見込めるのなら、会社は当然彼女を管理職にするはずだ。ふさわしくない女性を管理職に無理やり昇格させて、会社の経営にマイナスになればそんな”平等”など意味がない。時の政権から臨時の見返りで会社自体は当面マイナスにならないとしても、その見返り分は国家全体としてのマイナスになる。そんな簡単な理屈がわからんのか?

数値を出せば、それに縛られてしまう。それが物価上昇率目標年2%の呪縛に囚われた、現在の日銀の姿だと思う。安倍政権の所謂アベノミクスの第一の矢は金融政策であった。それが、株価を底値から引き上げる役割をしたように見えた。しかしそれも経済に詳しい人には、上昇するフェーズに日銀の量的緩和が重なっただけで、つまり、株価上昇などの成果は単に平均回帰にすぎないという意見が多い(補足1)。金融で経済の舵取りができると考えるのは間違いであると口を揃えて言っている。

通貨は、本来物と物との交換の仲立ちをする脇役である。それに主役のような役割を期待するのはそもそも間違っていると思う。つまり、通貨にそれ以上の需要がないことが、金利がゼロ付近に張り付いていることでわかっているにもかかわらず、過剰な量的緩和を行うのはどう考えてもおかしい。

資本の移動が自由であり、関税がゼロに近く、更に輸送コストが低下した場合、低賃金でエネルギーや不動産などのコストの低い国に製造業が流れ、その結果価格が下落するのは当然である。それを補うには、新規産業や高付加価値産業の創出、それに国内外を移動できないサービス業や小売などの充実などしか方法はない。それは各企業が、組織をあげて努力するしかない。その組織の構成に注文をつけるのは、大衆への目くらましなのだろうが、愚かなことである。

アメリカは次期大統領の時代には、その程度はわからないが孤立主義の方向に動くだろう。政府は、その対策を考える方が大切ではないのか。

補足:
1)北野一、「日銀はいつからスーパーマンになったのか」、講談社2014 つまり、平均回帰への引き金になったということで、その効果は4ヶ月ほどで終わったと書かれている。 私的解釈をすれば:化学反応で言えば、金融政策は触媒的機能を果たすだけであり、触媒は反応速度を上げることはできても、化学変化の方向まで変えることはできない。

2016年3月20日日曜日

日曜日朝のくだらない政治番組

今朝も新報道2001を先ず見た。清原の件に関係して薬物汚染の話をしていた。元警察官僚の平沢がゲストである。くだらない。そんなもの、粛々と警察や裁判所が処理すれば良い。あとは、教育の問題として文科省が考えたりすれば良い。もうちょっと、国民が考えなければならないような問題を放送しろといいたい。チャネルを回した。

サンデーモーニングでは消費税の話と松島議員の居眠りやスマホいじりをやっていた。居眠りはくだらん議論をやっているからであり、松島議員だけの責任ではない。消費税ではコロンビア大のスティグリッツ教授の反対意見を放送していた。何も高い金をだして、あんな人を呼ぶこともなかろうに。ハーバードから帰っている元東大の伊藤隆敏さんで十分違うか?くだらないので切った。

日本の防衛をどうするのか?憲法改正は?中国の脅威は?

北朝鮮のミサイルは花火のようなものだ。核兵器も重たくてミサイルには乗らんだろう。中国や米国が持つ多弾頭の移動式のものは恐ろしい。中国から大阪など多くの都市が狙われている。数千万人が一瞬にして殺されるという。中国人ならかんがえるだろう。50年ほどほっとけば核汚染は海に流れて住めるようになる。それから大阪の土地に移住すれば良いと。

数千万人なら俺だって殺した。しかも自国民を。大躍進運動や文化大革命の毛沢東ならそういうだろう。毛沢東は他人の人生なんて、自分のおもちゃとしか思っていない。(BBCのサイト参照:http://news.bbc.co.uk/2/hi/7243500.stm ) だから、キッシンジャーに「おんなが欲しいのならいくらでもやる」と言えるのだ(伊藤貫著「中国の核戦力に日本は屈服する」87頁参照)。

しかし、キッシンジャーはすごい。その中国政府の官僚が、「キッシンジャーは、我々の目の玉が飛び出すくらいのカネを要求してくる」と嘆くのだから。(伊藤貫著「中国の核戦力に日本は屈服する」86頁参照)

米国要人たちと中国のピンクトラップやマネートラップこそ、日本の将来を決定する大きなファクターなのだ。ただ、主なる要因は日本人自身が何も考えない平和ボケの状態にあるからだ。松島議員の居眠りの時間、中国が真剣に東シナ海の制覇のシナリオを書いているだろう。

大きな問題は議論せず、楽観的に行く。それが日本の伝統的姿勢だ。

補足: 1) USA Todayに “Mao offered women to U.S.”という文章がある。以下がその中の文章。 "You know, China is a very poor country," Mao said, according to a document released by the State Department's historian office. "We don't have much. What we have in excess are women. So if you want them we can give a few of those to you, some tens of thousands." (国務省歴史文書オフィスにより公開された資料によると、毛沢東は“「中国は貧しい国だ」「金はない。余っているのは女だ。もしあなたがほしいのなら、2.3人差し上げる。」と言った。 a few of those to you, some tens of thousandsの解釈は動く。上記イギリスBBCは冗談だとか移住させるとか言っているが、冗談を装ったピンクトラップだと言える。

2016年3月19日土曜日

清原氏報道の教訓

1)元巨人軍選手の清原が保釈された。その映像がテレビに出ていたが、そこに群がる大勢のカメラマンなどは、大怪我をした動物に群がるハイエナの群れにみえた。この件についてはすでに少し書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C0%B6%B8%B6&sk=0

この程度の犯罪で、これほどマスコミが公共の電波を利用し、国民に時間と感情を使わせるのは、大きな浪費である。マスコミは公共の福祉に寄与するように、電波を使う義務を有する(補足1)。それにも拘らず、世の中の冷酷な部分を先頭にたって宣伝し、社会を安定且つ健全に保つ基本である人と人の間の宥和の精神を破壊しているように見える。

釈放され病院に入院した清原氏が、病室のカーテンの隙間から、外に並んでいる大勢の報道陣の姿をこっそり確認する姿をテレビは写していた。その氷のように冷たく動かない表情の裏に、やり場のない自分とその運命に対する怒りの感情を想像する。あるいは、虚しい気持ちとでも表現する方が適当かもしれない。

覚せい剤などの使用と保持の犯罪は、年間数万件あるという。それらの人々を無事健康な姿で社会に取り戻すことは、日本社会に大きな利益をもたらす。その視点で、服役後の更生を励ます姿勢をまずマスコミは示すべきである。具体的には、有名人であるから逮捕された事実とそれまでの経緯など、そこから一般人が教訓を汲み取るのに十分な情報だけ報道すれば、あとは出所まで何も報道することはないのだ。

2)清原氏は、犯罪人となって自由に動けなくなった自分を、まるで餌も求める残忍なハイエナにように囲んで攻めてくる姿を見て、ほんの少し前までヒーローの自分を追いかけて来ていた報道陣の本質を知っただろう。その画面を背景に、清原氏からの公式メッセージが流されていた。更生してもう一度社会に役立つ人間になる決意を示したものだったが、背景が背景だけに、まるで虚空に向けて発信しているように感じた。

人には落とし穴に落ち込んだ人間に石を投げつけるような残酷な側面はある。それは生存競争のメカニズムとして脳に仕組まれたものだろう。しかし、人間には互いに他人を認め合う性質を持ち、社会を作っている。その両方の性質を、バランスを保って持つのが成長した人間なのだろう。ただし、前者は個人の内面に置き、後者の性質を表に出すことが倫理的だと思う。

また人間には、集団(民族や国家)としての生存を賭けて競争するような場合もある。その場合は、個人はその憎しみの心を敵に向けて正面に出すこともある。それは、相手の集団への攻撃力を結集するためである。そのようなこころの存在について、バートランドラッセルが名言を残している。「他人、他民族、他国民を憎むことなしに幸福を感じられる人は少ない」と。(補足2)

その場合でも、国家は他の国家に対して融和的な性質を表に出さなければならないと思う。そして、競争のこころや憎しみのこころは国家の内部に置く。それが成熟した国家の政治(外交)の姿だと思う。そのバランスが崩れたとき、しばしば国家の狂気として歴史に残る。ナチスのホロコーストなどである。

補足:
1)放送法第1条:この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
2)英語では、Few people can be happy unless they hatesome other person, nation or creed. http://oaks.nvg.org/russell-quotes.html

2016年3月18日金曜日

韓国が米中の間で右往左往するのは、韓国大統領が真面目に自国の防衛を考えている証拠である

BSフジで北朝鮮問題を議論していた。森本元防衛大臣は、韓国世論で高まる核武装の考えは間違っていると言っていた。そして、朴大統領は米国との安全保障条約で北朝鮮の核に対応できると考えており、それが正しいとも言っていた。

森本氏の考えは間違っている(補足1)。韓国の核武装の考えは北朝鮮だけでなく、中国や日本を念頭においている。更に言えば、北朝鮮が今回の騒動の中で核兵器を使うことはない。同じくゲスト出演している東京国際大学の村井教授の「北朝鮮はチキンレースとして核兵器を全面に出している」という考えが正しいと思う。北朝鮮が核兵器を使うことは、中国も米国も許さない。もし使えば、金正恩王朝としての北朝鮮は潰れてしまうだろう。

韓国であれ日本であれ、核武装しなければ将来(20年後くらいか)まともな独立国としての地位を、この東アジアで確保できないだろう。それを北朝鮮が教えていると考えるべきである。少なくとも韓国国民は分かっているので、核武装を主張するのである。また、韓国大統領も、日本の首相もわかっているが、表に出せないだけであると思う。

核武装の必要性については、伊藤 貫氏が「中国の核戦力に日本は屈服する(今こそ日本人に必要な核抑止力)」(小学館、2011)において、米国の学者の意見を引用しながら書いている。つまり、日米安保を通した米国による核抑止力はバーチャルなものであり、中国の核兵器の抑止力にはならないのである。

世界に広く展開していた米の軍事力は今後徐々に縮小するだろうから、日本も韓国も中国の軍事力と如何に対峙するかを考えなければならない。そして、中国の核の脅威は、世界経済の状況が極めて悪くなったような場合、つまり経済的なつながりが抑止力としての機能をなくした時、深刻となる。日本や韓国は中国に隷属することになり、富の収奪や政治弾圧が行われるだろう。隷属するということは何のようなものかは、ウイグルやチベットの歴史を見ればわかる。

韓国大統領は就任以来、中国の通常兵器や核兵器の脅威を考えて、中国への接近政策を取ってきたと思う。そして、対日戦勝記念の軍事パレードでは習近平の隣に座った。韓国が中国にとって小さい存在であれば、昔の朝貢するような感じでほぼ独立した地位が保障されるかもしれない。そして、思い通りの対日姿勢が取れるだろう。

しかし、対北朝鮮との関係では中国はあてにならない。式典では中国の戦略として隣席を与えられたが、(気に食わないかもしれないが)親族である北朝鮮の位置とは、幾何学だけでは比較できない。つまり、北朝鮮の核兵器の脅威には、中国への通常の形での接近では対応不可能である。北朝鮮の核実験に対して、中国と話そうとしたパククネ大統領の電話に習近平が出なかった時、それを改めて思い知っただろう。

その結果、米国や日本との関係を再度利用しようとしたのである。それを右往左往と反町さんは言っているが、少なくとも日本の政界の不動の姿勢よりはましである。何故なら多少稚拙であったとはいえ、中国や北朝鮮の核兵器にたいする抑止力の構築を考えた結果だからである。そして、すでに独自核武装を真剣に考えているはずであり、その必要性を学習する経験となったのだから。

日本の場合は、中国の核の脅威は深刻である。このまま改憲や核武装をまともに議論さえできないようでは、中国侵略の歴史の逆のパターンが、日本列島で起こるだろう。

補足:
1)近い過去に防衛大臣であったために、愚かな政治的配慮をした発言なのかもしれない。しかし、本当に思ったことを話せないのなら、大学人として失格であり大学を去るべきである。森本氏は現在大学にいるのだがら、その意見は本心からのものと私は受け取る。そして、氏をくだらない学者だと判断させてもらう。

2016年3月16日水曜日

短歌と俳句について(2)

読売新聞の12面に、編集委員の書いた文章「啄木の面白い歌 読まれぬ悲しさ」を見つけた。その中に、ドナルドキーンさんが「明治時代の文学作品中、私が読んだ限り、私を一番感動させるのは石川啄木の日記である」という言葉があった。ちょっと意外に思った。

私は短歌や俳句という短い文で何かを訴えること、そして、その結果残された歌に、ある種の軽さを感じる。完結した作品であっても、その持つ価値は一編の小説に程遠いと思う。また、短い為に百人百様の解釈が生じうる。それで良いじゃないかといっても、解釈が180度近く違ってしまえば、やはり短歌や俳句という形式はメジャーとは見なせないと思う。

たとえば、
・いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
この石川啄木の有名な歌が上記新聞記事に引用されていた。私はこの歌を初めて読んだ時、すぐ良い歌だと思った。ただし、悲しいのは砂でなく啄木自身である。さらさらと指の間より落ちる砂に、自分の命を投影していると思う。啄木の手は砂にとって、阿弥陀如来の手である。

それに続く歌:
・しっとりと なみだを吸える砂の球 なみだは重きものにしあるかな
・大という字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰り来たれり
は、自分の命の重さを再確認し、悲しさから起き上がる様子を歌っていると思う。

なみだを吸って、砂はずしりと重くなり、存在感を示すようになる。なみだは命ある啄木の目より落ちたからである。そして、砂と自分の世界から目を外に転じて、視野をそして気持ちを大きく持とうということだろう。

最近よく見る番組に、夏井いつきさんの俳句のコーナーがある。そこで、素人俳句に対する指摘としてよく聞くのが、「散文になってしまっている」である。その指摘は当然なのだが、それは俳句の世界での話である。俳句で飯が食えるのならともかく、一般には散文形式でまともに文章を書く能力を養うことの方が、俳句において上達するよりも遥かに大事であると思う。

一握の砂には、上記のほか以下のような歌がある。やはり、短歌が受け持つことが可能な視野(範囲)は狭いと思う。俳句なら尚更である。
・ くだらない小説を書きてよろこべる おとこあわれなり 初秋の風
・ はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり じっと手を見る

上の句は愚痴にしか思えない。下の句は、手を見るところが面白いが、手に職があれば、もっと楽になっただろうという意味だろうか。

最近、写真を俳句を添えるやり方がある(俳句を写真に添えるのかもしれない)。 その方がより完結性が高くなる。短歌も文章の中に添えることで、相互補完的に主張を明確にできると思う。 短歌を連続して書く一握の砂のような詩集や、俳句に紀行文を添える奥の細道はその意味で、全体として完結した作品だと思う。つまり、一句を取り出して単独の文学作品のように扱うのはちょっと無理だと思う。
(以上、素人の意見です。)

2016年3月14日月曜日

保育園に落選して暴言を吐いたケース:無視するのがネットの賢い利用法だ

ネットのブログサイトでの暴言が話題になっている。http://anond.hatelabo.jp/20160215171759 上記サイトの日記らしいが、この種の暴言は無視して放っておくべきである。だれでもこっそりと暴言を吐いて鬱憤を晴らすくらいの自由はある。書いた人は、ネットで不特定多数に見てもらうまでは考えていただろうが、真面目に政治の舞台で取り上げられることなど念頭に置いていなかっただろう。

公の舞台で取り上げられることを具体的に企み、あのような暴言を吐いたのなら、それは言論的テロリズムである。そのような企みは通常不可能であるが、唯一可能なのは国会で取り上げられることを前提にブログに書いた場合である。つまり、質問に取り上げた民主党の議員と申し合わせて、アップロードした場合である。従って、この匿名の文章を取り上げる民主党の議員が、その言論テロリズムの共犯というわけである。

もし、ある人がナイフを砂浜にすてたとする。それを拾いあげて、別人がテロに用いたのなら、それはテロリストの単独犯である。同様に、上記暴言は単にネットに書き捨てた文章なら、それを拾いあげて政府を脅迫した民主党の山尾議員は言論テロリズムの単独犯ということになる。

更にもう一歩考えてみる。これが言論テロリズムとなったのは、質問を受けた側があまりにも弱かったことも一因である。軽い気持ちでパンチをちょっと放ったとしても、相手があまりにも脆弱な作りで死亡してしまえば、少なくとも過失致死罪となる。つまり、山尾議員が言論テロの単独犯となったのは、安倍内閣の政治家たちがあまりにも弱々しくうろたえたからである。

http://www.asahi.com/articles/photo/AS20160308004680.html 社会に対する不満は誰でも持っている。それをルールに従い社会に訴え、担当の部署が改善するのが、成熟した社会である。そのルールを踏み外したような行為はゆるされない。しかし、あの程度の暴言を拾いあげ、質問する法も愚かだが、それにオタオタして早速保育制度を重点的に拡充するのは、暴言に屈っしたことになりおかしい。

これからはなんでも不満があれば、民主党議員にあらかじめ通知してからネットに暴言を吐けば良いことになる。それがまともな政治ですか?

「XXさせていただく」という日本語;政治家はそんな言葉を吐くな

テレビニュースで、自民党谷垣幹事長の「アダムズ方式を検討させていただきまして。。。」という言葉を聞いたのが、この文章を書くきっかけである。政治家でも誰でも、頻繁にこの「させていただく」という言葉をつかう。この種の遜った表現を用いないと、票や客が逃げるのかもしれないという意識が働くのだろう。

しかし、私はこの種の日本語が気になる。まともな政治家なら、そのような気を使って集める票など宛てにするなと言いたい。米国大統領候補のトランプ氏でなくとも、欧米では、立候補し政治家になって国家を率いていこうとする人間なら誰でも、普通は能動表現を用いる。上記例では、「私が(あるいは我々が)アダムズ方式を検討した結果、。。。」と堂々と言えば良い。

ケネディーの就任演説、”My fellow Americans, ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.” 「あなた方国民に言う。国家があなた方に何ができるかを尋ねるな。あなた方が国家に何ができるかを尋ねなさい。」を思い出す。

近年、テレビやインターネットで、政治家の言葉が瞬時に多方面に伝達される時代になった。その時代の変化と日本語の特殊な言語文化が、「何々させていただく」という表現を矢鱈と多くしたのだと思う。このような受動的表現(補足1)は、行為者の明確な意思を現わさないという点で、人々や国家を率いるリーダーの言葉としてふさわしくない。「リーダーは遜った立派な人格の人がなるべきだ」という、伝統的な考え方を破壊すべきである。

この特殊な日本の言語空間の特徴は、個人の責任に触れないような表現に満ちていることである。

先ほどの金融政策に関するニュースでも、「日銀も慎重にならざるを得ないのではないか」のような表現を聞いた。その文章と「日銀は慎重になると思う」の違いは何かというと、自分の意見を明確にすることで生じるかもしれない責任を避けたいのである。そして、上の「何かおかしい」としてあげた文章の特徴は、責任回避を文章の中に含めているということである。

個人が明確に責任を取るような発言が普通になれば、日本社会は変化するだろう。政治家は、「君たち国民は、金がなくなったら麦飯を食え」と昔は言えたし、その程度の自信を昔の政治家はもっていたのだろう。

補足:
1)「XXさせていただく」は丁寧語かもしれない。その背後に「XXしたらどうか」という勧誘の文章が隠されているので、受動的表現とした。文法の詳細は、私は知らないので、この定義で「受動的表現」&「能動的表現」を理解してください。

2016年3月13日日曜日

日本経済と日本文化の関係

昨日の土曜コロシアムの経済についての議論は、アベノミクス批判に終始していたように思う。批判のための批判を繰り返すコメンテーターの言葉には飽き飽きする。日本経済の現状を安倍政権の経済政策だけで議論しているという愚かさに気づかないのか、敢えてそのように大衆を刺激する方向で番組をつくったのかどちらかである。兎に角、テレビなどマスコミの質の向上が、日本の政治経済にとっての体質改善に必須だと思った。

1)現在のデフレ経済の原因は、経済のグローバル化が進みすぎた結果であり、安倍内閣の経済政策の所為ではない。行き過ぎた円高を日銀の量的緩和で是正するというアベノミクスの第一の矢は見事に、77円のドル/円レートを110円以上の購買力平価から見て適当な値に戻し、多くの企業を(さしあたり)救った。ソニーやパナソニックなど大企業が軒並み、円高で青息吐息だったことを忘れてはいけない。

日本経済の問題を考える時に、経済のグローバル化の副作用に如何に対処するかの他に、この放置すれば77円という円高になった日本経済の体質についても考える必要があると思う。

日本経済はこれまで、個人は貯金する一方で、金を使うのは政府の役割のようなかたちで進んできた。その結果、公債残高が800兆円にもなっている。利払いが12兆円ほどであるから(財務省HP参照)まだ良いが、利息率が急上昇すれば新規国債発行はできなくなり、財政破綻する。M氏は財政支出を増やさなければ景気は回復しないというが、あまり簡単に言わないで欲しいものだ。

不景気の原因を国内で探せば、大きな借金を抱えている国よりも、多額の貯金を持っている一般国民が、投資であれ消費であれお金を使わないことが大きな原因の一つなのだ。そう思っている癖に何故言わないのだ。テレビに出て出演料を稼ぎたいという小さい根性が気に入らない。

法人減税を攻撃するが、日本のグローバル企業が競争力をなくしたら、日本経済は干上がる。そして、国家の富はそれら企業の競争力で決まる。安倍内閣の法人税(世界4位の高い負担率)を国際標準レベルまで下げる政策は間違っていないと思う。 http://ecodb.net/ranking/corporation_tax.html

日本人の暮らしがよくならないのが、日本人の実力なら、徒らに政府を攻撃するべきではない。また、解りやすいからといって個別に何かを取り出して攻撃をすべきではない。総合的に議論すべきであると思う。そして、社会の問題や文化の問題にまで、戻って考えるべきである。

2)国民は何故かセッセと預金をしながら、慎ましやかに生きている。その代わりに、政府がその金を使う役割をこっそり受け持ち、金を回している。何故、そのような損な役回りを一般国民はするのか?その原因は、アンケートをとれば明らかである。つまり、将来に対する不安であり、政府に対する不信、更に、最終的には誰も助けてくれないという孤独感である。その心理はどこから来るのか、本質的治療法はないか、そこを議論すべきである。

原因は、日本の政治および社会の文化にあると思う。日本の特徴は、攻めではなく高度に守り重点の社会であると言うことである(補足1)。更に原因を遡ると、日本は本質的に入口社会だということである。政治家や会社経営者などの支配層は、貴族であり従って世襲される。

人生を決めるのは生まれであったり、大学の名前であったり、会社の名前であったりする。そこに入った後、どれだけの実績を積んだかは問題にならない(補足2)。入った後の挽回はできない。今少しでも何かがあればそれを大事に守るしかない。

入口社会の特徴は身分の固定であり、システムの現状維持である。つまり、今持っている東大卒という勲章、何々家の出身であるという身分、何々という大物俳優の娘であるというコネ、何々会社社員という肩書き、などに物を言ってもらうしかない。それらを支えている現在の体制に変化があれば困るのである。

その結果、変化につながる全てに対して日本社会は抵抗する。変化につながるので、議論はなるべくしないし、現状維持の為に「和」を何よりも大切にする。一般庶民も今持っている貯金を非常に大切にする、今持っている健康を異常に気にする(補足3)。その性質は、貯金の量にも、身分の貴賎にも、健康の度合いにもよらない。

そしてその結果、未だに政府はお上であり、庶民は被支配者としての身分を甘受しているのだ。

その入口社会と対をなして、原因として日本文化の土壌中に根を張っているのが、議論を軽視或いは蔑視する社会の価値観(文化)である。それは同時に、出来の悪い日本語に対して美しい便利な言葉という評価を与え、国民に刷り込み、原状維持に努力する。

それらは、鶏と卵の関係にある。現状維持重視の”入り口社会”であるが故に、「議論は口論であり、口論は喧嘩であるから、議論は理屈屋の悪癖」という評価が定まったのである。それは、日本語の劣った情報伝達能力および論理展開能力と調和して、日本語の改善を妨げたのだと思う。また、そのような日本語を使い議論や個人評価を軽視するが故に、入口社会のままで、入ったあとの実績評価ができないのである。

日本語だけではない。東アジア全体が嘘つきと誤魔化しの文化圏(補足4)であるのも、言葉を軽視する文化と出来の悪い言語しか持たないからだと思う。言葉を軽視する文化、個人が自立しない文化、入り口社会は同根であると思う。

補足:
1)守りの姿勢は、人間一般或いは生命一般の性質である。ただ、過度に守りを考えると、守りのために攻撃するという非生産的な攻撃を生む。国家なら、防衛の為に戦争するのだが、その防衛ラインがどんどん外側に広がる。

2)正規雇用で入ったか、契約社員で入ったかによって、給与も大きく違う。入り口社会の特徴をこれほどよく表している現象はない。

3)「武士は命の使い方が大事である」の時代の人が聞いたら、水素水、マイナスイオン、ω-3脂肪酸、ヒアルロン酸、コンドロイチンで大金を使う現代人をどう思うだろうか?

4)あの悲惨な戦争を経験しながら、日本独自に議論を通して戦争の評価ができなかったし、今も出来ていない。その結果、GHQから憲法を作るよう指示されても、天皇主権制を維持した憲法草案(松本草案)しか作れなかった。そして、それが却下されGHQ民政局の作った草案が示された時、日本側の面々は茫然とし、顔は驚愕と憂慮の色を示していたという。
 内閣で議論してもまとまらず、結局再び天皇の聖断を仰ぐという情けない状態だった。そして幣原の後を継いだ総理大臣の吉田は、「これは自由に表明された日本国民の意思に基づいたものである」と国会で答弁することになる。(日本永久占領、 第4章参照)このあたりの吉田茂や幣原喜重郎など官僚政治家たちの系図の延長上に現在の政治がある。

2016年3月12日土曜日

マッカーサーと吉田茂について

戦後史の本である片岡鉄哉著「日本永久占領」(講談社α文庫、1999; さらば吉田茂—虚構なき戦後政治史、文芸春秋1992)を読んだ。その前半に書かれている米国の占領政策と日本の政治は、連合国最高司令官であるマッカーサーの独善的な個性に大きく依存した。そして、それに協力した吉田茂の役割も大きかったと思う。憲法と天皇に関する部分についてまとめ、感想なども追加して書く。(引用は文庫版の頁で行なった)

1)天皇制と憲法

ポツダム宣言にも、占領軍により通知された「降伏後初期対日政策」にも、天皇制維持の保障は何も書かれていなかった(補足1)。実際、米国国務省からマッカーサーの下に政治顧問として送られたジョージ・アチソンは、「天皇を処刑するのも一つの選択肢である」とトルーマン大統領に助言している。(54頁)一方、マッカーサーは敗戦国の元首の処刑には武人として抵抗がある上に、円滑な占領政策の遂行には天皇の協力が不可欠であると考えた。

マッカーサーは天皇を救うために、天皇制を明記した憲法に改定することを考え、幣原内閣に新しい日本国憲法草案の作成を命じている。国務省から憲法問題への干渉をなくすこと、具体的には、アチソンの憲法への関与を取り上げる目的で、それをGHQ民政局(GS、Government section)の専管事項とした(補足2)。1946年2月1日に、内閣の憲法問題調査委員会委員長である松本烝治国務大臣が作った原案が毎日新聞にスクープとして出た。松本案は天皇を立憲君主制の元首と位置付ける草案だった。マッカーサーはそれを却下し、二日後民政局に1。天皇を国民統一の象徴とする、2。戦争を放棄する、3。華族の廃止を骨子とした草案作成を強引に指示する。しかしこれは、ポツダム宣言第12項の規定を無視したことになる。(補足3)

松本草案の却下と民政局作成の草案を示された時、内閣を構成する人々は茫然となった。特に外相・吉田茂の顔は憂慮に満ちていたと書かれている(補足4)。民政局に説明されても内閣では受け入れるという結論に達しないため、又も最後は天皇の聖断(2月)を仰ぎ、受け入れることになる。その後、幣原内閣は総辞職する。(補足5)

そして、6月20日開催の国会で憲法が議論されることになる。幣原の後に総理大臣になった吉田茂は「これは自由に表明された日本国民の意思に基づいたものであります」と説明する役割を担うことになる(補足6)。マッカーサーのその後の異常とも思える日本統治は、すべてこの憲法を守り抜くことが縦糸として存在すると考えれば、説明がつくと「日本永久占領」には書かれている。

マッカーサーは、「日本の憲法を書く機会をつかんだときに、これでシーザーになれると思い込んだのだった」と著者は書いている。そして自分の作った憲法に強い執念をもち、全てにおいて憲法が出発点になった。(148頁)この考え方は一般的ではないかもしれないが、マッカーサーの性格などをウィキペディアでみると分かるような気がする(補足7)。https://ja.wikipedia.org/wiki/ダグラス・マッカーサー

憲法改正を言い出さない社会党を執拗に育てようとしたことも、その考え方で納得が行く。そして、1949年の選挙で大勝するまでは、吉田茂はマッカーサーのしつこい虐めの対象であった。吉田が選挙で大勝したあと二人は緊密に連携するようになったことの裏に何かあるはずである。つまり、憲法を守る二人の約束があったとすれば説明がつく。(153頁)そして、吉田は憲法改正よりも経済優先の政策を始めることになる。憲法は1946年の11月3日公布、翌年1947年5月3日施行された。

東京裁判は1948年に閉じられ、天皇が罰せられる危険性は消えた。1951年4月マッカーサーは司令官を首になり、その年の9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印が行われた。しかしその後、吉田政権及び吉田学校の出身者の内閣からは、憲法改正の話はでなかった。

2)マッカーサー統治の評価

マッカーサーが天皇陛下を救ったのは、円滑な武装解除と新しい日本の構築が目的であった。大規模な要人追放(パージ)で、社会党などの左翼を一大政治勢力にしたのは、日本の政治を大きく左方向に旋回させるためであった。新憲法を含む大規模改造は、天皇の命を救うことと引き換えになされたため、日本国内での強い反対を封じることになった。国民一般にも非難の声が広がらなかったのは、厭戦気分と日々の生活で精一杯だったからだろう。ひもじい思いをしていた日本人に食料を放出し、DDTをかけてシラミ退治をしてくれたことも、寛大な占領軍を印象つけたのだろう。

一方、国務省から視察に来たジョージ・ケナンはマッカーサーの日本統治を厳しく批判している。「マッカーサー将軍のこれまで(1947年4月)の占領政策は、一見して共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」と回想録(George F. Kennan,”Memories” p376)に書いているそうである(補足8)。

つまり、世界は冷戦の時代に入っており、米国本土では日本との講和条約の締結と再軍備が考えられていた。戦争放棄の憲法には国務省は懐疑的であり、国防省と統合参謀本部は絶対反対していた。裸の独立国家にはあり得ないからであり、従って、講和条約の交渉で日本の首相が改憲と再軍備を主張すれば、両省は支持するのに決まっていた。(149頁)

マッカーサーは日本の再軍備に反対であった。「それまでおこなってきたことと矛盾し、日本における我々の威信を傷つける」と言ったという。つまり、日米の政治よりも自分のメンツを優先したと考えられる。その他、再軍備は極東の諸国を離間させる;再軍備しても植民地なしでは5等の軍事パワーにしかなれない;コストが高すぎて日本には賄えない;日本人自身が反対している;そして、最後に”日本の軍国主義を復活させる”が後日付け加えられた。

そこで、マッカーサーは講和条約と同時に米国の日本防衛義務を考えていた。これらは全てマッカーサー憲法を守るために考えられたというのが、この本に書かれた戦後史のモデルである。とにかく、日本の現在まで続く異常な政治の原点がここにある。

3)以下感想を混ぜて書く。

その後マッカーサーは、米国議会での証言で「ドイツ人は45歳だが日本人はまだ12歳くらいである」という言葉を、日本と自分の政策の弁護のために用いた。

私には、日本人はマッカーサーにより20歳の青年から、12歳の少年にされてしまったと思う。それまで20歳の未熟な青年レベルだったというのは、明治憲法における国家の形が、権力と権威を分離するものであり、国家の方向を決めるシステムとして不完全だったからである。そのため、肝心な場面で内閣だけで決断ができない。また、戦争で負けてもその責任の在り処が明確に出来ず、同じ間違いを何度も繰り返すことになる。

立憲君主制に拘れば、天皇処刑の理由を米国国務省やロシアなどの他の連合国に与えることになる。それでも、内閣で象徴天皇制の受け入れを決められず天皇の聖断を仰いだ(86頁)ことも、明治体制の不完全性を証明している。明治憲法は明治維新後、明治時代の早い時期に象徴天皇制に改正すべきだったのではないだろうか。それができなかったことは、明治維新も日本独自で成し遂げたのか疑わしいということになる。(最近、西鋭夫はそう講演しているらしい。(例えば: http://mickeyduck.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-f92d.html

吉田茂は、憲法ができ象徴天皇制として天皇の地位が安泰となったのち、マッカーサーの下で権力を振るうことになる。再軍備と憲法改正に反対だったマッカーサー路線を、マッカーサーが帰ったのちも引き継ぐ。経済発展が先ず大事だというのはわかる。しかし国家の骨組みである憲法をまともな形に改正できないことはない。既定路線を走る官僚的政治家だったのだろう。

この本の210頁に書かれている文章をコピーする。
吉田とマッカーサーは何をやっていたか。彼らは、米国政府の政策と日本の国益に反して戦後体制を温存していた。逆コース(まともな独立国に日本を戻すこと)をサボタージュしていた。マッカーサーは追放の解除を引き延ばして、吉田内閣の安定をはかっていた。吉田は再軍備阻止のために社会党と裏取引をやっていた。吉田は1949年の総選挙以来、官僚を政治に登用して、追放中の職業政治家のお株を奪おうとしていた。(後日、これが吉田学校となる。)そして、もっとひどいことに、二人だけで日本の将来の外交を恣意的に決定しようとしていたのである。

マッカーサーが朝鮮戦争の方針でトルーマンの意向に反したことで、1951年4月司令官を首になる。日本を離れる時に、沿道に20万人の日本人が詰めかけて見送り(補足7)、毎日と朝日の両新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載したとのこと、更に、衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表した(ウィキペディア参照)。

一般市民は何もわからないだろう。しかし、新聞や国会のこの姿は非常に情けない。日本国のまともな政治家などを根こそぎ追放され、国家の骨組みを破壊されたことを感じてさえいないのだろうか。その後、マッカーサーが行った米国議会での証言を聞いて、マッカーサー記念館の創設などの話は立ち消えになったという。騙す方も悪いが、騙される方にも責任があると思う。

補足: 1)ポツダム宣言には天皇の地位に関する記述はなかったので、政府は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す」と8月10日(1945年)連合国側へ回答した。しかし、12日に米国から「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」という回答が届いた。従属するという文章に議論が起こりまとまらないので、天皇は14日の御前会議で宣言の受諾を確認された。内閣書記官長の書いた終戦の詔勅には、国体の護持に成功して降伏するとの一節が入っていた。しかし、皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしていなかった。
2)マッカーサーの資格は連合軍最高司令官(SCAP)と米軍の極東司令官であった。SCAPとして行うことには、米国国務省の力は及ばなかった。
3)ポツダム宣言第12項「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。」
4)この時、民政局長のホイットニーから、他国からの天皇を処罰せよとの圧力が強くなっているので、この案を作ったという説明がされた。
5)「天皇が統治するが、各省大臣は天皇を補弼する」という権力の在り処が分からない憲法では、最も大事な場面で天皇の聖断を仰ぐという形になる。これではまともに国家の運営などできないことは何度も学習してきた筈である。それでも、この形に拘る幣原首相や吉田外相などの日本の官僚出身政治家は、性根から自分は一ミリのリスクも取らず、長いものには巻かれるのである。 新憲法に関する人民投票は4月10日行われた。幣原内閣は22日に総辞職し、その後の選挙で鳩山一郎の自由党は第1党となるが、直後に鳩山は追放される。マッカーサーはまともな政治家は徹底的に追放するのである。
6)これは「日本国国民の自由に表明した意思」というポツダム宣言第12項の体面を繕うためである。そして吉田は、「国体が維持されるという保証があったから日本はポツダム宣言を受諾したのであり、この憲法で国体は事実上維持されたと言明した。しかし、民政局から「日本の降伏は無条件降伏である。発言を訂正せよ」とのクレイムがついた。つまり、GHQはポツダム宣言にこだわっていないことになる。因みに、吉田はこの時第9条について「これは自衛の戦争も否定するものだ」と言っている。
7)3代前は英国人(スコットランド)だったというが、名誉欲が強く、制服を嫌い格好つけることに熱心、絶対に自分の間違いを認めない性質など、この人のキャラクターが日本統治に濃く反映されたのではないだろうか。マッカーサーが解雇されて米国に帰る時、20万人が沿道で見送った。それを、マッカーサーは回顧録で200万人と書いているという。このエピソードも、この人の性格をよく表していると思う。
8)ケナンは、「パージは全体主義的だ」と決めつけている(111頁)。更に、東京裁判についても、「戦争指導者に対する制裁は、戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義とは関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾すべきでない」と言っている。

米国の政治勢力も一枚岩ではなく、政治や外交においても、多くの勢力のせめぎあいの結果であると思われる。

2016年3月8日火曜日

米国では宣伝次第で嘘も真実の衣を着るかも知れない

1)ヌード画像を盗撮された人気記者に、5500万ドルの賠償金支払いを命じた判決が出された。米国のこの高い賠償額は一体何を根拠に算出されたのだろうか? この画像をネットに載せられたことによる精神的苦痛が5500万ドルと評価されたのだろうが、あまりにも高い。日本の命の値段をはるかに超えるこの額に先ずびっくりした。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160308-35751422-bbc-int

このケースで、もっとびっくりするのは、犯人以外にホテル側にも賠償を命じた点である。ドアの覗き穴を細工してカメラをセットらしいが、それにホテル側が気づかなかったからだろう。弁護士の判決後の言葉「犯人だけに賠償義務を負わせても結局賠償金が取れないからだろう」に説得力がある。

美人(人気者)の涙をTwitterで世界に流して、同情を集めたらしい。その涙に、陪審員も濡れたのかもしれない。「世間の注目を集めるために自らビデオを流出されたのではないかと噂されたことが、何よりつらかった」と話したということだが、それは十分美しかったということだろう。魅力に欠ける記者ならもっと恥ずかしい筈だから、それより高い賠償金が相応しいのだが、逆に55万ドル位に減少しただろうと思ってしまう。

米国の陪審員制度というのは、異常である。その真似を日本もしているが、馬鹿げたことだと思う。陪審員制度だけでなく、米国の司法文化そのものにも一種恐怖の様なものを感じる。(TPP締結後の裁判なども心配だ。)

2)以前にも米国の裁判結果にびっくりしたことがある。有名なマクドナルド事件である。ある人が、マクドナルドのドライブスルーでコーヒーを買って、駐車場で飲もうとした。カップを膝で挟んで蓋をとり、ミルクと砂糖を入れるときにこぼしたのだ。熱いコーヒーが衣服に沁み、3度の火傷をした。

そのコーヒーがあまりにも熱いのに、何の注意もなかったのが原因だとして裁判をおこした。その結果、60万ドルほどの賠償金を手にしたのである。https://ja.wikipedia.org/wiki/マクドナルド・コーヒー事件

ホットコーヒーが熱い(マックは85度)のは当たり前だが、家庭のコーヒーメーカーによる入れ立てのコーヒー(72度程度らしい)よりも13度ほど温度が高かったのが、裁判の決め手となったようである。マクドナルドはできるだけ冷めないように温度を高くしたのが、仇になったようだ。この裁判について、バカバカしいと思うのは私だけだろうか。

これらに似た裁判結果が蓄積されたのだろうが、それが色んな影響を世界に残した。その一つは、あらゆる商品の説明書にバカバカしいような注意書きが多くなったことである。

日本では、”そんなこと常識だろう”の一言で終わることが、彼の国ではそうはいかないため、契約書や説明書などがやたらと長くなる。その結果、契約書なら読まないでサインしたり、パソコン画面でクリックしたりすることが多くなった。全ての契約書や説明書は1000字以内という暗黙の了解が欲しいものだ。

3)韓国系米国人が旧日本軍向けの戦時売春婦を性奴隷だとして米国で宣伝していることを思い出した。全米いたるところにブロンズ像を置いて、日本軍(当然韓国人兵士もいた)に20万人の少女が強制連行されて性奴隷にされたと宣伝しているのだ。日本ではまともに信じる人など少ないだろうと普通思うが、そうだとすると愉快だということは、そのままあの国では真実になる可能性がある。

今回の裁判のケースやマクドラルドコーヒー裁判のことを考えると、その像が置かれた近くの多くの米国人は本当だと思っている可能性が高い。嘘でもなんでも、プロパガンダのやり方次第で想像以上の効果が出る国なのだろう。設置した者たちはそれをよく知って活動しているのだろう。

そういえば、もっと近くの国にも鯨が人の 生活や文化より大事だと言って騒ぐbakaもいる。Bakaという言葉を使いたくないのだが、自分の所属する文化の価値観などから一切離れて考えることができないのだから、それ以外の言葉では表せない。あのパーフォーマンスがあの国で一定の理解を得ていることにも注意が必要である。

2016年3月6日日曜日

戦後日本政治の本質は官僚政治である:官僚に改革という発想はない

1)戦後、日本の政治を決めたのはポツダム宣言(補足1)とそのGHQの勝手な解釈である。ポツダム宣言の項目12にあるのは、「日本国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立」であるが、それはマッカーサーがそう認識する政府の樹立であり、従って、日本の政治は完全な傀儡政権がおこなった。日本の降伏は、「条件付き降伏」だという人がいる。しかし、軍隊のみならず、日本国の無条件降伏の立証が、上記政府の形態にある。

マッカーサーが行ったのは、当時の党人政治家の殆ど全ての追放(ポツダム宣言項目6による)である(合計34892人)。そして、官僚の殆どが戦前の状態で温存された。その結果、戦後の与党政治家の殆どは、官僚出身の政治家となった。代表が吉田茂と吉田学校の出身者(佐藤栄作、池田勇人など)であり、かれらは戦後長期政権を誇った。その結果の第二は、日本社会党の大躍進であり、戦後長い間議会の1/3を占めた。

2)今朝の時事放談の最後に、ゲスト出演していた古賀氏が「今の政治家はレベルが低い。やはり昔あった派閥の役割が見直されるべき」というような発言をしていた。その派閥の教育とは、古賀氏所属の池田勇人が作った宏池会などの教育だろう。 

何をとぼけたことを言っているのかと言いたい。一億人の中から優れた人材を選ぶ方法を考えるのが第一である。政治家の二世三世と官僚出身者に吉田学校的教育を施しても、所詮ドブ板選挙に強い政治家を育てるだけであり、優秀な改革を目指す政治家など育つ訳がない。(安倍総理は祖父岸信介の政治を目指しておられる様なので、期待したい。)

補足:

1)停戦協定に、ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取るとある ポツダム宣言、項目6:日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
項目12:日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。

2016年3月5日土曜日

健康幻想を売る商売

なんとか酵素、水素水、マイナスイオンなどの宣伝を多く見る。それらは、健康幻想を売る商売とでも言うべきだろう。最近よく見るのが水素水であり、その性質や効能がネットに記載されている。以下のサイトもその一つである。http://www.skincare-univ.com/article/006577/

水素水とは水素分子を含む水のようだ。水素分子は水素原子(原子記号H)が2個繋がった分子(H−HまたはH2)であり、誰でも学校で習う最も簡単な構造を持つ分子である。水素は水に溶けにくく、窒素ガスや酸素ガス同様わずかしか溶けない。空中の水素濃度は低い(モル比0.500ppm)ので水素水を作ったとしても時間がたてば水素は空中に逃げていく。

水素は還元剤であり、水素を含む水を飲み、その水とともにからだに吸収されれば体が還元雰囲気下に置かれるというのが売る側の理屈だろう。しかし、臨床実験データをしっかり取らなければ、正確なことはわからない。その様な実験が上記サイトなどに引用されていないのは、実験がされていないからだろう。

実験がなされない理由は簡単である。まともな研究者なら、直感的に効果が期待されないと思うからである。長年、電子スピン共鳴法でフリーラジカルを観測してきたので、何か書かなければならないと思って書いている。

上記サイトでは、その健康に寄与するメカニズムは、活性酸素を除去する働きにあるとのことである。活性酸素というのは化学にはない用語だが、医学の分野で酸素原子を含むフリーラジカル(補足1)の意味で使われているようだ。・O2- (スーパーオキシドラジカル;・はラジカルであることを示す)や・OH(OHラジカル)を指す。

上記サイトでは活性酸素として、癌の発生の一つの原因とされているOHラジカルを取り上げ、水素水を飲むと、その中の水素分子がそのOHラジカルと反応して水(H2O)にし、無害化するとしている。

しかし、この説はインチキである可能性がたかい。なぜなら、水素水の水素濃度はppmレベルであり、https://www.abist-hf.com/(補足2)それが体内に吸収されたとしても、体液中での濃度はそれよりかなり減少する。OHラジカルは生体内で10億分の1秒程度の短い時間で消滅するhttps://en.wikipedia.org/wiki/Hydroxyl_radicalので、普通は体を構成する蛋白質分子などの中に存在するSH基やハイドロキノン性のOH基との反応、キノンや他の二重結合(補足3)への付加反応、などで消滅するだろう。水素分子はこれらに比べてOHラジカルとの反応性が低く、効果があるとは思えない。

ビタミンCやコエンザイムQ10などの還元性栄養素を摂るより、水素水の方が効果があるとは少なくとも物理化学的には思えない。このような栄養素をサプリとして買って飲むのも、どれだけ効果があるかわからない。普通に食事で摂れば良いと思う。

マイナスイオンが健康に良いなどという宣伝も良く見るが、これについても昔別サイトで批判した。兎に角この国の行政は、遊んで税金を使っている。この種のチエックをもっと真面目に行い、なけなしの金をこの種のインチキに使う人をなくす様にすべきである。

補足:
1)通常分子内で電子は対をなして存在するが、対をなしていない電子(不対電子という)を含む分子をフリーラジカルと呼ぶ。フリーラジカルは通常R・のように書くが、・は不対電子を表す。
2)ナノバブルで水素ガスを水中に入れることができれば確かに長時間水中に存在するだろう。現役研究者なら、水に重水を使いこの水のナノバブル化水素ガスのNMR(核磁気共鳴法)が観測してみたい。
3)Sは硫黄原子、キノンは芳香環に酸素が2個入った構造(C6H4O2のベンゾキノンが一番簡単な分子)

各戸にドローンポートを作ることを政策として進めたら良い

朝のアイデアである。これから高齢者世帯が多くできる。それに備えて、スーパーがネットで注文を受けて配達するサービスを始めている。配達には現状相当のコストがかかる。また、配達員を語っての犯罪もかなりあり、高齢者は不安である。そこで、ドローンによる配達が考えられている。

テレビでアマゾンが流したコマーシャルは、ドローンが家の庭に商品を置くシーンであった。ここで提案したいのは、各戸が規格化されたドローン専用のポートを置くことである。そうすれば、配達された場合には家に信号が送れる上に、ドローンに対して位置の信号も送れてその信号の授受が印鑑代わりになるのではないだろうか。

集合住宅ではベランダに多分80cm四方くらいのポートを設置出来るし、各戸も家の庭よりも二階のベランダに突き出した形で設置すれば、その後盗難などの危険を防ぐことができる。

2016年3月2日水曜日

第二次世界大戦での降伏は無条件降伏だった

昨日の記事に現れた無条件降伏について、すこしまとめてみたい。以下に無条件降伏(補足1)が出された経緯、ポツダム宣言と関係文書、宣言受諾と戦後統治などの相互関係を簡単に書き、その後少し議論を追加する。

無条件降伏は1943年1月のカサブランカでの会議で、フランクリンDルーズベルト米国大統領が枢軸国に対する戦争終結に関して提案した。無条件降伏を持ち出した動機は、第一次大戦でドイツと停戦協定から対等な形で講和条約を結んだことへの反省であった。

4月にルーズベルト大統領が死亡したために、日本に対する停戦勧告であるポツダム宣言は、トルーマン大統領の下で作られた。国務次官代理の前駐日大使のジョセフ・グルーの考えもあり、初稿では立憲君主性を残すと書かれていた。その後、国務長官がジェームズ・バーンズになり、その次官補のディーン・アチソンは日本を共和制にすべきであると考えた。そして、7月26日に発表された最終稿では、天皇制への言及はわざと削除されていた。また、直前の案では宛先が「日本国民」となっていたが、英国の要求により「日本政府」に替えられた(補足2)。

国務長官のバーンズは天皇制廃止を主張したが、統合参謀本部と占領政策を実行する米陸軍は、天皇の統治への利用を考えて暫定的存続を主張した。一方、天皇制に対する言及がないことで、陸軍参謀総長、海軍軍令部長、陸軍大臣は本土決戦を主張した。会議では決着はつかないので鈴木貫太郎首相は御前会議を要請し天皇に聖断を乞うた。

天皇からポツダム宣言受諾の聖断を得て、帝国政府は8月10日「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに、帝国政府は右宣言を受諾す」と回答した。その回答を受け取った米国は議論の末に、「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」「最終的な日本政府の形態は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答した。

12日に到着したこの回答の意味、特に「従属する」について議論が起きる。14日に天皇陛下は自分のイニシアティブで御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。ポツダム宣言の文書だけでなく、この米国による回答文もポツダム宣言の解釈を助ける文章として受け入れたことになる。

最終的には皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしなかった。それは、皇室の廃止という脅しで、円滑な武装解除と占領政策を可能にしたのである。占領統治が始まり、9月下旬に「降伏後初期対日政策」(文書コードSWINCC 150/4)がマッカーサーから手渡されることになる。外務省はこの文書の皇室に関する部分について、「米国政府は我皇室制度の存続に関し将来の如何なる保障をも与うることを拒むもの」と解釈している。

「日本永久占領」の著者は日本の降伏を無条件降伏であると断言している。その降伏の結果として、ポツダム宣言(補足3)にある通りに、GHQは日本の政治を(外交を含め)完全に支配し、且つ戦争に責任のある国家の指導者を「平和に対する罪」により処罰したのである。

降伏の形態を具体的にポツダム宣言の条項との関連を書くと:国家を率いていたリーダー達を排除し(ポツダム宣言条項 6)、国家の形態を民主主義と定め(条項10)、その達成のために武装解除(条項 13) 及び必要な国土を連合軍が占領する(条項7)となる。更に、「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令感に従属する」(米国からの4/12の返答)のである。

国が占領され、政府はGHQの支配下におかれ、国家の指導者の処罰(死刑)などが条件で降伏した。これを、条件付き降伏と呼ぶのは、言葉遊びでしかない。

更に、米国国務省からマッカーサーの下に政治顧問として送られたジョージ・アチソンは、トルーマンに「天皇を処罰するのも一つの案だ」と助言している。(日本永久占領、54頁) 終戦後天皇は退位すべきだという議論があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/昭和天皇の戦争責任論 しかし、退位は自殺行為であったのだ。つまり、天皇が退位せずに残ったのは、天皇の戦争責任論を避けるためである。責任がない以上退位する理由はないからである。

天皇が退位すれば、国務省が天皇の責任追求を厳しくすることが目に見えていた。天皇無責任説はマッカーサーが(国務省と天皇の間に立って)天皇を守り抜くために「日本政府に入れ知恵した可能性が強い」と「日本永久占領」の著者のは書いている。

補足

1)無条件降伏の概念は、「戦敗国の指導者が戦勝国により「平和に対する罪」で処罰されることである(「日本永久占領」48頁)。ケント・ギルバート氏のように、「日本の領土を日本4島および周辺島嶼とする」というポツダム宣言の条項8や、戦勝国の思う通りの国家が出来たら占領軍は撤退する(同条項12)などを降伏条件と考えて、条件付き降伏と呼ぶのはおかしい。
2)宛先が「日本国民へ」だと、ポツダム宣言は当時の政府を最初から相手にしないということになる。
3)降伏文書には、主にポツダム宣言と4月12日日本側が受け取った回答文の内容が書かれている。

===これは、片岡鉄哉著「日本永久占領」から学んだものと、ウィキペディアを参考にして書いたもので、私的なメモである。===

2016年3月1日火曜日

ポツダム宣言に関するケント・ギルバート氏の解釈に違和感を感じる

1)最近急にテレビに現れ、いわゆる右派傾向を強めつつある日本人の好みに合った発言している、ケント・ギルバート氏に違和感を感じる。以下の“ポツダム宣言は「無条件降伏」ではない 日本政府は条件付きで降伏した”と題するケント氏の記事も、その違和感を増幅するものである。http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150530/dms1505301000005-n1.htm

ケント氏は以下のように書いている。“ポツダム宣言」の英文と日本語現代語訳を、久しぶりに読んでみた。申し訳ないが、数カ所で笑ってしまった。例えば、第10条の後半だ。「言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである」とある。終戦後、徹底した検閲を通じて日本のマスコミを管理し、虚偽の報道で日本人に贖罪(しょくざい)意識を植え付けた側が、宣言では日本政府に“言論の自由を確立しろ”と命じているのだ。

しかしである。言論の自由といっても、現在でも一定の枠がある。ポツダム宣言の第10項には、「民主主義的傾向の再生と強化に対する全ての障害を取り除かなければならない」と書かれている。また、第6、7項に、“世界征服に乗り出す勢力の影響がなくなったと確認されるまで、占領する”とある。従って連合国の視点にたてば、言論統制は軍国主義の復活を防止するという趣旨で行ったという言い訳が可能であり、ケント氏のいうように笑ってしまうことではない。

更に、ケント氏は“第5条は『Followingare our terms』で始まる。「我々の条件を以下に示す」という意味だ。日本政府は条件付きで降伏したのである”と書き、「軍国主義の追放」「領土占領」「日本領土は本州、北海道、九州、四国と諸小島」「戦争犯罪人の処罰」「民主主義復活」「平和的政府の樹立」という約束項目を紹介している。Termsは項目であり、条件(condition)と訳すのには少し違和感がある。

それらは、机の両側に座って、出し合った条件とは意味がことなる。例えば、溺れかかっている人がいるとする。これら項目は、「1。浮き輪があるが1000円だ。2。使用後は100円で買い戻してやる。3。買うか買わないかはそちらの自由だ」とその人に言う場合の3項目に近い。「おれは溺れてなんかいない」と言えるのか。当時の日本は、そのような状況にはなかったと思う。

無条件降伏の要求はこの後の第13条、「全日本軍」に対するものだ”もおかしい。補足2に示した原文と訳にあるように、第13項は、日本政府に対して全日本軍の無条件降伏を要求している。従って、ケント氏の言う“全日本軍に対するものだ”は正しくない。

実力行使できるのは、人間であれば手足であり、国家にとっては軍隊である。項目13は、手足を完全且つ無条件に封鎖しろと、日本政府に要求しているのである。日本のマスコミなどでよく出る、「日本は無条件で降伏したわけではない」というセリフには注意すべきである。

2)ポツダム宣言は、連合国側により停戦勧告として1945年7月26日に出され、それに同意することが日本から連合国側に8月14日通知された(補足3)。この文書を日本の全国民は読むべきだと思う。読めばその当時日本の置かれていた状況などが良くわかる。

つまり、生殺与奪を決定する側に連合国があり、日本は俎の鯉の状態であったのだ。そして、ポツダム宣言の本質的な意味は:「戦争が一部の軍国主義者によって計画実行されたのであり、その他の国民はその意志を共有していない」という理解を共有することを条件(補足4)に、連合国側が停戦を提案したということである。それを受諾した事は、日本には大東亜共栄圏建設に賛成した人は多いだろうが、この時点ではそれにこだわるのは賢明でないと判断したのだ。上記、「軍国主義の追放」「領土占領」などは停戦後の状態を記したものであり、停戦の条件は上記下線部である。

その時の日本の置かれた状況とポツダム宣言の文章に関して、一定の理解をしてから敗戦後のことに言及すべきだと思う。そして、大きな声で「日本は無条件で降伏したわけではない」と言う人の意見には、注意すべきであると思う。右にも左にも反日分子は居るからである。

国家と国家の関係は、未だに野生のルールの支配する領域にあるといえる。国際条約といっても、国家権力の下にある法律と契約との関係とは質的に全く異なることを理解すべきだと思う。

追加:
無条件降伏かどうかは、普通”天皇制の護持”に関して言及される。この点については、日本は無条件降伏したのだ。そのプロセスを以下に書くと、ポツダム宣言に対して、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す」という8月10日付の連合国側への回答した。しかし、これに対して米国から「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」という回答が12日に東京に着いた。従属するという文章に議論が起こるが、天皇は14日の御前会議で宣言の受諾を確認された。内閣書記官長の書いた終戦の詔勅には、国体の護持に成功して降伏するとの一節が入っていた。しかし、皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしていなかった。(片岡鉄哉著、「日本永久占領」より引用)

補足:

1)10. We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
(直訳)第10項:我々は日本人の奴隷化や民族の殲滅を意図しない。しかし、我々の囚われ人に対して虐待に至った者を含めて、全ての戦争犯罪人に対する厳正な正義が行われるべきである。日本政府は日本国民の間での民主主義的傾向の再生と強化に対する全ての障害を取り除かなければならない。基本的人権の尊厳視に加えて、言論、宗教、思想の自由が確立されなければならない。(意訳はウィキペディアにある。原文に対する誤解を防ぐ意味で直訳を行った)

2)13. Wecall upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrenderof all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances oftheir good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utterdestruction.
(直訳)我々は日本政府にたいして日本全軍の無条件降伏を宣言すること、そして彼らが心からそのように行動するという正確且つ十分な保証を差し出すことを要求する。日本のそれ以外の選択は、直ち且つ完全な破壊である。

3)ソ連が参加したのは8月の8日である。尚、ポツダム宣言受諾は1945年8月14日、スウェーデンとスイスの在外公使館経由で連合国側に通知された。ウィキペディアによると8月14日にトルーマンが全米に発表しているので、その日の内に届いている。日本では8月15日に天皇から全国民にラジオ放送により公表された。

4)条件と言っても、”その条件を飲めば停戦してあげる”という条件なのだ。