はじめに――経済が層状化し始めているという違和感
近年、世界各地で「成功」や「豊かさ」を象徴するものとして、高級消費が増加している。かつては例外的であった高級消費がいまや特別なものではなくなり、その上に存在する超高級消費と合わせると、経済全体の中で大きな存在感を持つ「上流経済層」に成長し始めている。
この変化は、嘗ての中流階級の上下の分断と同期している様に見える。上側は、従来の上流階級や超富裕層と接続し、将来経済の主流を構成する可能性を持つ。一方で下側は、貧民層と連続しながら、主流経済から切り離された傍流経済へと押し出されていく。
この傾向が進めば、社会は明確に二分される。住む場所、通う学校、利用する医療、買い物をするスーパーマーケットに至るまでが階層化され、異なる経済層に属する人々は、同じ社会にいながら接触点を失っていく。
本稿の問題意識は、こうした現象を単なる「格差」としてではなく、経済そのものが相分離を起こし始めている兆候として捉える点にある。
第1章――金融膨張と「ダム化」する資金
米国をはじめとする先進諸国では、長年にわたり政府支出が拡大してきた。その多くは国債発行や信用創造を通じて金融化され、結果として金融取引の総額は、実体経済の規模を大きく上回る水準に達している。
重要なのは、これらの資金が単純に循環しているわけではないという点である。現代の金融は、実体経済に還流しきれない資金を、さまざまな形で滞留させる装置を発達させてきた。複雑な金融商品、保険商品、仮想通貨、不動産や希少資産。これらはすべて、余剰資金を溜め込むために工夫された「ダム」として機能している。
金融はもはや血液のように循環しているのではなく、水位を上げながら貯留され、層を形成しているのである。
第2章――金融の心臓部と上流経済の形成
金融経済が成り立つための心臓部は、依然として実体経済と政府支出である。生産、雇用、公共投資、社会保障といった分野が資金の流れの源泉であり、それが無くなければ金融は価値の源泉を失う。
この心臓部の中心に近い位置を保有し、その動きの決定に関与又はその情報への接近可能性を持つ人々は、構造的に多大な金融資産を蓄積することができる。
その結果、超富裕層を中心とした層が形成され、彼らのために高級金融、高級住宅、高級サービス等が供給される。実体経済の成長以上に金融経済が膨張することで、資産価格の上昇が先行し、その恩恵を受けられる層に富が集中する。その結果として、超富裕層が増加し 、高級サービスと高級消費も大きな経済となる。
この超富裕層の高級経済によって、下層まで富の分配が起こるという説が所謂トリクルダウン(trickle down;したたり落ちる)仮説である。それが事実なら問題はそれほど深刻ではないかもしれない。しかし近年の傾向を観察すると、それは嘗ての中流階級の中ほどまでを富裕にするのみのようである。
このようにして、金融資本主義の自由放任主義によって社会全体が二分されつつあり 、富裕層のための、富裕層による経済が自己完結し始める。それはもはや大衆市場を前提とせず、薄利多売という経営原理も採用しない。
第3章――主流経済の転倒とトリクルダウンの限界
金融の膨張とともに、上流経済のボリュームは拡大していく。ここで言うボリュームとは、人数や雇用ではなく、資金量である。経済の主流が、生活を支える人数ではなく、動かされる資金の総額によって定義されるようになると、重大な転倒が生じる。
トリクルダウンは途中で止まるため、中流の下半分は下層・貧民層とともに下流経済へと押し出される。そして、上流経済における消費・サービス業は高利益・低量・閉鎖的となり、下流経済は低利益・疲弊・軽視される。これこそが、経済の相分離である。
この相分離に大きな役割を果たすのがデジタル化やAI、更にロボット技術である。このような技術は実体経済に位置する人の数を減少させるので、これらの技術を扱える能力と、それに接近できる環境を持つ人だけがが中流層から上流経済への合流が許されるのである。
これまで相分離とは無縁だった農業なども、最近、上流経済の為の部分が分離を始めた。その結果が、一粒数千円のイチゴやひと房数万円のブドウなどの超高級ブランド食品である。不動産では相分離は目立っていて、金融資産のように東京都港区などのマンションを保有する中国人の話なども聴かれる。
数億円から100億円のタワーマンションが話題となる一方、自動車を住宅とする下層に転落しつつある嘗ての中流階級の姿が世界のほぼ全先進国にみられる。
第4章――制度ではなく「比率」を変えるという発想
この問題を、再分配や規制強化だけで解決することは難しい。根本的な問題は、金融の相対的ボリュームが過大であることにある。必要なのは、金融を管理することではなく、自然に痩せさせることである。その方向性は、三つに整理できる。
第一に、実体経済を大きく成長させること。資金が向かう先を金融以外に広げることで、滞留を防ぐ。
第二に、覇権争いや戦争を抑制し、政府支出の膨張を避けること。とりわけ軍事や地政学的対立は、金融膨張と極めて相性が良い。
第三に、自然な物価上昇を許容すること。緩やかなインフレは、金融資産の実質価値を薄め、実体経済を相対的に有利にする。
金融の相対的縮小を支える補助手段として、税制と国際秩序の整備は不可欠である。租税ヘッジ地区を国際条約によって廃止し、金融の逃走経路を塞ぐこと。法人課税を利益ではなく付加価値中心に移行し、課税と企業の存在地の分離をなくすこと。
これらは金融を直接叩くのではなく、実体経済を相対的に有利にするための調整である。
第5章 なぜこの方向を取れないのか――不安心理と政治
経済の主役は本来、民間であり、政府ではない。政府の役割は、安定とルールを提供することである。
しかし現実の政治では、政府支出が成長の代替手段として用いられがちである。政府支出は政治家にとって、最も即効性のある権力行使の手段だからだ。
政府支出の制限とは、政治家に打ち出の小づちを使うなと求めることである。それに消極的であるのは、ある意味で自然である。だからこそ、政治家の質を期待できるかどうかは、国民の責任となる。
人々が金融に依存するのは、強欲だからではない。将来不安を、金融資産によって購買するしかないからである。政治や国家、社会への信頼が弱いほど、人々は個人で備えるしかなくなる。政治に信頼できない国ほど、この傾向は強い。
歴史的に見ると、人の健康や老後の不安は、家族或いは大家族単位で解消するのが普通だった。資本主義の発展によって人々は預貯金を不安解消のために重要だと考えるようになった。その思想は、株式会社などの法人にも普通になり、金融経済の膨張の主要な仕掛けの一つになっている。
人々が将来不安を金融資産で解消しようとすることと、家族や大家族の部分的崩壊が同期して進むことで、不安解消は常に未完であった。それを政治と社会が、それを引き受けることが出来なければ、この社会の持続可能性は著しく損なわれることになるだろう。
あとがき――将来不安を、社会が引き受け直すために
将来不安は、必ずしも個人が金融で抱え込む必要はない。政治を含めた社会全体が引き受けることも可能である。任意の人間関係で作る社会と公的な機構である政治を健全に育てるという知恵と覚悟を、全ての国民が持たなければならない。それが近代国家というものである。
そのためには、家庭の外側に、人が人として存在できるもう一つの空間を意識する必要がある。不安や異論を持ち寄り、反対意見を排除せず、集団で思考できる社会的空間である。それが近代国家に相応しい政治も育てることを可能とする。
しかし日本社会では、その形成を妨げている重要な原因を一つあげるとすれば、それは、日本の言語文化である。反対意見が敵意とみなされ、異論が沈黙を強いられる言語空間では、社会は安心の場にも、思考の場にもなり得ない。この「社会という空間」の改善は、人々の不安の引き受け先だけでなく、政治改革そのものに直結する。
反対意見が許容され、異なる立場が言葉として往復する社会では、政策は説明を求められ、批判に耐え、修正されることを前提とせざるを得ない。社会が集団で思考する能力を持てば、政治家は短期的な支出拡大や打ち出の小づちに依存しにくくなる。なぜなら、それらは必ず言葉として検証され、将来への影響を問われるからである。
(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

