日本人の多くは「乱取り」という言葉を聞いて、きっと柔道の稽古やスパーリングの光景を思い浮かべるだろう。技を試し、互いに切磋琢磨するスポーツのひとコマ――現代を生きる私たちにとって、それはごく身近で健全な響きを持つ言葉である。しかし、その「乱取り」の本来の意味が広く知られているだろうか。
歴史を少し遡った戦国時代、その言葉が指していたのはスポーツの稽古などではなかった。それは、合戦の勝者が敵地の村々へ押し寄せ、家財を根こそぎ奪い、若い女性と子供を生け取りにして人身売買の市場や海外の奴隷船へと売り払う、「略奪とサバイバルのシステム」そのものだったのである。
教科書や大河ドラマで描かれる華やかな英雄たちの裏側で、なぜそのような残酷な行為が「当然のルール」としてまかり通っていたのか。そこには、単なる道徳の欠如ではなく、「生きるか死ぬか」「食うか食われるか」という、人間社会の冷徹な生存の力学が隠されている。https://www.youtube.com/watch?v=jIUhldZWCB4
この歴史の奥底にある「生存闘争の原点」を直視するとき、そしてローマクラブの発行した本「成長の限界」とその後の世界政治の変容をみるとき、私たちは、私たちが置かれた現代、そして恐るべき未来の姿に気づくことになる。世界が再び「生存競争の時代」へと回帰していく中で、日本という国と日本人は、世界で最も脆弱な「最初の絶滅種」になる危険性を孕んでいるのだ。
1. 日本列島を縛り続けた「人口の天井」と戦国の乱取り
戦国時代の合戦や、それに付随する「乱取り」は、しばしば兵士たちの野蛮な暴走として語られがちだが、その本質は、日本列島における人間のマクロな生態系における「生存可能人口の上限」が生んだ極めて構造的な現象、つまり生き残り競争だった。この点を先ず考えてみたい。そこで世界及び日本の人口推移のグラフを下に示す。
この統計データ(下の図)が示す通り、戦国時代までは日本列島の人口は1000万人を少し超える程度で、非常の低くほぼ一定に抑えられていた。江戸時代に入り、政権安定と新田開発などで食料が増産されると100年ほどの間に人口が3倍ほどに急増した。これは、概算だが、30年を一世代とすると、一世代で50%程度の人口増に該当する。
それは、戦国時代までは生まれて成長した命の少なくとも50%は間引かれたことを示している。これは飽食の時代の少子化ではない。厳しい生存をかけた戦いの結果である。この「食料の限界(環境収容力)」と「増え続ける人口」の“綱引き”が現実の人口を決めていたのである。戦国時代と江戸時代後半は同様に、人口はマルサスの記述通りに天井を打っていたのである。
・食料生産手段という限られたパイの奪い合い:新田開発での食料増加は可住人口を増加させるが、日照りによる水不足は飢饉を引き起こす。すべてを含めた有限の生き残りの席を巡り、村と村、大名と大名が命をかけて衝突したのである。
・乱取りと兵糧・恩賞システム:支配者の領主とその家来のほかは十分な給料が出ないので、命を懸けて戦った雑兵つまり農民たちへの報酬は、敵地での略奪や人さらいで自ら獲得していたのである。敵の農村を根こそぎ奪う焦土作戦は、生き残るための冷徹な生存闘争だった。
上の動画の解説通り、戦国の村々は自ら武装して「惣村」を作り領主の命令により敵を攻撃し、敗走する武士を「落ち武者狩り」として狩ることなどで、この過酷なゼロサムゲームを必死に生き延びていたのである。
2. 産業革命と化学が生んだ「平和の幻影」――倫理として語られる戦争へ
先ほどの人口統計グラフ(上)を見ると、世界の人口は産業革命(19世紀)以降に急増している。日本の人口も世界の人口変化と同期して、19世紀から急上昇していることが分かる。
この決定的な転換をもたらしたのが、産業革命による機械技術の急速な発展であり、さらに20世紀初頭のハーバー・ボッシュ法による窒素固定化(化学肥料の大量生産)であった。
大気中から窒素を取り出し、アンモニアを合成し、農業生産力を劇的に引き上げたことで、人類は長年の「人口と食料のゼロサムゲーム」の呪縛から一時的に解放された。食料生産や様々な技術の飛躍的向上は、安定化した地域社会のなかに生活の改善をもたらし、「富をいかに分配するか」という国内の議論や政治改革を生み出す余裕(余白)をもたせた。
そのわずか250年間ほどの人々の生活向上と感覚の変化から、一般市民の生活改善を求める運動が市民革命に繋がり、民主主義、つまり法治と個人の自由を保障する政治体制が形成されたのである。食料不足による直接的な生存危機が薄れたこの時代、国家間の戦争の意味も大きく変質した。
クラウゼビッツの『戦争論』に代表されるように、近代の戦争は「外交の一環(手段)」として理論化され、生き残りをかけた民族間の殺し合いから、一定のルールの下で行われる近代主権国家間の外交・利権交渉へと戦争の定義が変化した。人々は戦争を「人の道や倫理」の檻に封じ込めることに成功した。ハーグ陸戦協定やパリ不戦条約が生まれたのである。
日本のような国でも、我慢と節約で領地を拡大しなくても貿易と工業によって(ある程度)豊かに生きられる時代が続いたことで、「戦争だけは絶対にいけない」というのんびりとした平和主義が国民の間に定着した。
数百年のタイムスパンを視野にいれた原点思考では、私たちが享受してきた高い道徳や倫理観の世界は、この「産業革命と科学の進歩が支えた一時的な豊かさと余裕」の上になり立つ一時的な幻影にすぎないということになるのだろう。
3. サバイバル競争の時代への回帰と、民主主義の脆弱性
大航海時代に地球が有限であることが広く人類に共有された。そして、1972年のローマクラブによる『成長の限界』は、地球資源の有限性などから産業の発展と地球上の可住人口の限界を予告することになった。
この大きな世界史の潮流の中で、炭酸ガス、メタン、窒素酸化物などの温暖化ガスの増加は、気候変動をもたらして人類の生存を脅かしているとのプロパガンダが流されることとなった。そして、N2Oガス発生原因である窒素肥料やメタンガス発生原因である牧畜の制限を通して、食料生産にブレーキを懸けているのである。
この運動は、地球温暖化防止によって人の生存を可能にする地球を維持するという趣旨の主張でおこなわれているが、地球上の可住人口を小さく維持する運動であるので、少なくとも部分的に自己矛盾を孕んでいる。もし、今後地質学者(氷河地質学)の定説通りに間氷期が終わり氷河期に差し掛かるとしたら、この運動は部分的ではなく完全な自己矛盾となる。
兎に角、現代において、世界は再び「生存のサバイバル競争」の時代へと引き戻されつつあるのだ。かつての戦国時代の「乱取り」が持っていたような、リソースの奪い合い、つまり殺し合いの戦争という本質が、形を変えて世界規模で現代に蘇っているのである。
この新たな生存競争の時代において、民主主義国家は構造的に極めて脆弱である。なぜなら、上述のように民主主義は戦争を単なる「倫理の問題」「悪事」として捉え、対話や平和を信じ込む社会が作り上げた、いわば幻想の時代の産物だからである。現実の暴力や生存の危機が迫ったときに致命的な判断の遅れを生じる。合意形成に時間をかけ、高い人倫を掲げる国から、冷徹な現実主義(リアリズム)に適応できずに静かに淘汰されていく――それが現在、歴史の冷酷な法則となっているのである。
真の強国やその中枢にいる俊秀たちは、この時代の変化と以上の論理を熟知している。彼らは自国が生き残るために冷徹に権力を集中させながら、競争相手であるその他の国々には「リベラル思想」や「平和主義」を伝道し、相手の警戒心や武装(精神的・物理的な防衛力)をそぎ落としていくのである。
4.なぜ日本人は「最初の絶滅種」になるのか
この世界構造の変化に照らし合わせたとき、日本の未来は極めて深刻である。
日本はエネルギーや食料の多くを海外に依存している国である。日本の繁栄は、第2章の結論を引用すれば、まさに“産業革命と科学の進歩が支えた一時的な豊かさと余裕”の上になり立っているのである。そして今、戦国時代末期あるいは江戸時代中期以降に日本列島が直面した「人口と資源の限界」の現代版に直面しているのである。
もちろん現代版なので豊かさのレベルには格段の差がある。しかし、その余裕も与えられた時間が過ぎれば徐々にその余裕を食い尽くすことになるはずである。長年の平和ボケの中で、「戦争はいけない」「話し合えば分かり合える」という美しい倫理観を内面化しすぎてしまった日本社会は、迫り来る生存競争の現実に対してあまりにも無防備である。
独裁や強権的な体制が生存のためにリソースを総動員するグローバルなサバイバル戦において、他国との合意形成ばかりを重んじ、現実の地政学的危機から目を背け続ける国は、真っ先に食い物にされる運命にある。
おわりに:
「乱取り」というかつての血生臭い生存の論理。人口の天井に縛られ、食うか食われるかの極限を生き抜いた先祖たちの歴史。それを「遠い昔の野蛮な話」として切り捨てるのか、それとも現代の私たちが直面している現実の鏡として見つめ直すのか。高い倫理をまとったまま、静かに淘汰への道を歩み始めるのか。
私たちは今、歴史の転換点において、あまりにも重い選択を突きつけられているのだ。日本は、まず世界標準の歴史学や地政学で、近代以降の日本を復習すべきである。一つの国が大きく舵を切る必要性に迫られたとき、最も有効な方法は“急がば回れ”の教育改革である。それについては:https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12981138550.html
補足:ここで重要な補足を一つしておきたい。日本の政治と経済の議論において、少子化を移民導入などの対策を要する大問題と考える人がほとんどだが、『成長の限界』と有限の地球という難題を考える際には、むしろ福音かもしれないのである。それは、将来のAIの各方面への導入を考えれば、なおさらである。先進国の少子化現象とAI等デジタル技術の発展は、民主主義政治を“幻想の時代の産物”から、人類の成長に呼び変えることが可能かもしれない。
追記:本記事の構成、歴史的事実の整理、およびマクロな生存論と地政学的考察の論理展開にあたっては、AIアシスタント(Gemini)との対話を通じて共同で推敲・統合が行われました。その後、10月13日早朝、全面改訂しました。
