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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2026年2月4日水曜日

異常な金融経済から、人間のための経済を取り戻す

はじめに――経済が層状化し始めているという違和感

 

近年、世界各地で「成功」や「豊かさ」を象徴するものとして、高級消費が増加している。かつては例外的であった高級消費がいまや特別なものではなくなり、その上に存在する超高級消費と合わせると、経済全体の中で大きな存在感を持つ「上流経済層」に成長し始めている。

 

この変化は、嘗ての中流階級の上下の分断と同期している様に見える。上側は、従来の上流階級や超富裕層と接続し、将来経済の主流を構成する可能性を持つ。一方で下側は、貧民層と連続しながら、主流経済から切り離された傍流経済へと押し出されていく。

 

この傾向が進めば、社会は明確に二分される。住む場所、通う学校、利用する医療、買い物をするスーパーマーケットに至るまでが階層化され、異なる経済層に属する人々は、同じ社会にいながら接触点を失っていく。

 

本稿の問題意識は、こうした現象を単なる「格差」としてではなく、経済そのものが相分離を起こし始めている兆候として捉える点にある。

 

1章――金融膨張と「ダム化」する資金

米国をはじめとする先進諸国では、長年にわたり政府支出が拡大してきた。その多くは国債発行や信用創造を通じて金融化され、結果として金融取引の総額は、実体経済の規模を大きく上回る水準に達している。

 

重要なのは、これらの資金が単純に循環しているわけではないという点である。現代の金融は、実体経済に還流しきれない資金を、さまざまな形で滞留させる装置を発達させてきた。複雑な金融商品、保険商品、仮想通貨、不動産や希少資産。これらはすべて、余剰資金を溜め込むために工夫された「ダム」として機能している。

 

金融はもはや血液のように循環しているのではなく、水位を上げながら貯留され、層を形成しているのである。

 

2章――金融の心臓部と上流経済の形成

金融経済が成り立つための心臓部は、依然として実体経済と政府支出である。生産、雇用、公共投資、社会保障といった分野が資金の流れの源泉であり、それが無くなければ金融は価値の源泉を失う。

この心臓部の中心に近い位置を保有し、その動きの決定に関与又はその情報への接近可能性を持つ人々は、構造的に多大な金融資産を蓄積することができる。

 

その結果、超富裕層を中心とした層が形成され、彼らのために高級金融、高級住宅、高級サービス等が供給される。実体経済の成長以上に金融経済が膨張することで、資産価格の上昇が先行し、その恩恵を受けられる層に富が集中する。その結果として、超富裕層が増加し 、高級サービスと高級消費も大きな経済となる。

この超富裕層の高級経済によって、下層まで富の分配が起こるという説が所謂トリクルダウンtrickle downしたたり落ちる)仮説である。それが事実なら問題はそれほど深刻ではないかもしれない。しかし近年の傾向を観察すると、それは嘗ての中流階級の中ほどまでを富裕にするのみのようである。

 

このようにして、金融資本主義の自由放任主義によって社会全体が二分されつつあり 、富裕層のための、富裕層による経済が自己完結し始める。それはもはや大衆市場を前提とせず、薄利多売という経営原理も採用しない。
 

3章――主流経済の転倒とトリクルダウンの限界

金融の膨張とともに、上流経済のボリュームは拡大していく。ここで言うボリュームとは、人数や雇用ではなく、資金量である。経済の主流が、生活を支える人数ではなく、動かされる資金の総額によって定義されるようになると、重大な転倒が生じる。

 

トリクルダウンは途中で止まるため、中流の下半分は下層・貧民層とともに下流経済へと押し出される。そして、上流経済における消費・サービス業は高利益・低量・閉鎖的となり、下流経済は低利益・疲弊・軽視される。これこそが、経済の相分離である。

 

この相分離に大きな役割を果たすのがデジタル化やAI、更にロボット技術である。このような技術は実体経済に位置する人の数を減少させるので、これらの技術を扱える能力と、それに接近できる環境を持つ人だけがが中流層から上流経済への合流が許されるのである。

 

これまで相分離とは無縁だった農業なども、最近、上流経済の為の部分が分離を始めた。その結果が、一粒数千円のイチゴやひと房数万円のブドウなどの超高級ブランド食品である。不動産では相分離は目立っていて、金融資産のように東京都港区などのマンションを保有する中国人の話なども聴かれる。

 

数億円から100億円のタワーマンションが話題となる一方、自動車を住宅とする下層に転落しつつある嘗ての中流階級の姿が世界のほぼ全先進国にみられる。
 

4章――制度ではなく「比率」を変えるという発想

この問題を、再分配や規制強化だけで解決することは難しい。根本的な問題は、金融の相対的ボリュームが過大であることにある。必要なのは、金融を管理することではなく、自然に痩せさせることである。その方向性は、三つに整理できる。

 

第一に、実体経済を大きく成長させること。資金が向かう先を金融以外に広げることで、滞留を防ぐ。

第二に、覇権争いや戦争を抑制し、政府支出の膨張を避けること。とりわけ軍事や地政学的対立は、金融膨張と極めて相性が良い。

第三に、自然な物価上昇を許容すること。緩やかなインフレは、金融資産の実質価値を薄め、実体経済を相対的に有利にする。

 

金融の相対的縮小を支える補助手段として、税制と国際秩序の整備は不可欠である。租税ヘッジ地区を国際条約によって廃止し、金融の逃走経路を塞ぐこと。法人課税を利益ではなく付加価値中心に移行し、課税と企業の存在地の分離をなくすこと。

 

これらは金融を直接叩くのではなく、実体経済を相対的に有利にするための調整である。

 

第5章 なぜこの方向を取れないのか――不安心理と政治

経済の主役は本来、民間であり、政府ではない。政府の役割は、安定とルールを提供することである。

しかし現実の政治では、政府支出が成長の代替手段として用いられがちである。政府支出は政治家にとって、最も即効性のある権力行使の手段だからだ。

 

政府支出の制限とは、政治家に打ち出の小づちを使うなと求めることである。それに消極的であるのは、ある意味で自然である。だからこそ、政治家の質を期待できるかどうかは、国民の責任となる。

 

人々が金融に依存するのは、強欲だからではない。将来不安を、金融資産によって購買するしかないからである。政治や国家、社会への信頼が弱いほど、人々は個人で備えるしかなくなる。政治に信頼できない国ほど、この傾向は強い。

 

歴史的に見ると、人の健康や老後の不安は、家族或いは大家族単位で解消するのが普通だった。資本主義の発展によって人々は預貯金を不安解消のために重要だと考えるようになった。その思想は、株式会社などの法人にも普通になり、金融経済の膨張の主要な仕掛けの一つになっている。

 

人々が将来不安を金融資産で解消しようとすることと、家族や大家族の部分的崩壊が同期して進むことで、不安解消は常に未完であった。それを政治と社会が、それを引き受けることが出来なければ、この社会の持続可能性は著しく損なわれることになるだろう。

 

あとがき――将来不安を、社会が引き受け直すために

将来不安は、必ずしも個人が金融で抱え込む必要はない。政治を含めた社会全体が引き受けることも可能である。任意の人間関係で作る社会と公的な機構である政治を健全に育てるという知恵と覚悟を、全ての国民が持たなければならない。それが近代国家というものである。

 

そのためには、家庭の外側に、人が人として存在できるもう一つの空間を意識する必要がある。不安や異論を持ち寄り、反対意見を排除せず、集団で思考できる社会的空間である。それが近代国家に相応しい政治も育てることを可能とする。

 

しかし日本社会では、その形成を妨げている重要な原因を一つあげるとすれば、それは、日本の言語文化である。反対意見が敵意とみなされ、異論が沈黙を強いられる言語空間では、社会は安心の場にも、思考の場にもなり得ない。この「社会という空間」の改善は、人々の不安の引き受け先だけでなく、政治改革そのものに直結する

 

反対意見が許容され、異なる立場が言葉として往復する社会では、政策は説明を求められ、批判に耐え、修正されることを前提とせざるを得ない。社会が集団で思考する能力を持てば、政治家は短期的な支出拡大や打ち出の小づちに依存しにくくなる。なぜなら、それらは必ず言葉として検証され、将来への影響を問われるからである。

 


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

 

 

2026年1月31日土曜日

畏れ多い神に対する二つの表現:一神教と多神教

まえがき

ハリウッド女優として著名なナタリー・ポートマンが、日本への留学経験を振り返り、日本人の静けさや日常の所作に込められた敬意と感謝の感覚について語っている。この動画が、私がこの議論を始める直接のきっかけである。彼女は、町の清潔さや人々の控えめな態度を、日本人の宗教性の反映であると的確に捉えている。


今回は、ナタリー・ポートマンの言葉の紹介からはじめて、人と宗教の関わりを、一神教と多神教の壁を超えて考えてみたい。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=cgoTWcwtTMg)

 

1.ナタリー・ポートマンが見た日本――日常に溶け込む神の臨在

この動画の中で、ナタリー・ポートマンは、日本に降り立った直後の感覚から語り始めている。その語りは、日本人自身が意識することの少ない日本社会の特質を、外部者の視点から驚くほど正確に捉えている。

 

彼女がまず語るのは、日本に到着した直後の空気感である。空港から町へ出たとき、そこには騒音や混乱ではなく、無音に近い秩序が支配していた。人々は声を荒げず、互いの存在を邪魔しない距離を自然に保っている。秩序や規則というよりも、「他者の存在を尊重している空気」が、空間全体に満ちているように感じられたという。

 

さらに日本での日常生活を通じて、彼女は別のことに気づいていく。食事の前後に手を合わせ、「いただきます」「ごちそうさま」と言う所作。道具や食材を粗末に扱わない態度。誰かのために用意されたものを、当然の権利として消費するのではなく、感謝とともに受け取る姿勢である。

 

彼女自身、ユダヤ教徒として食前・食後の祈りに親しんできた。ただ、日本のその祈りは、何も宗教的なものではなく、単なる食事の際の挨拶のようなものだと気づいた。しかし、その「挨拶」の中には、命あるものすべてへの感謝や、他者への敬意が確かに込められている。

 

日本人自身はそれを信仰行為だとは意識していないが、国際的な基準、とりわけ一神教文化圏の視点から見れば、それは明確に信仰行為と呼ぶべきものである。しかもその信仰は、特定の神を名指しすることなく、日常の行為として静かに実践されている。

 

重要なのは、日本人自身がそれを「宗教的行為」としてほとんど自覚していない点である。信仰を主張するつもりもなく、神を意識的に拝んでいる感覚もない。それでも日常の所作の中に、あらゆるものに対する敬意と慎みが染み込んでいる。この点において彼女は、日本の生活文化の底に、多神教的伝統が生きていることを見抜いた。

 

彼女は、この感覚を決して自分にとって異質なものとは捉えなかった。そして、ユダヤ教の中にも、神は唯一でありながら「あらゆるところにいる」と考えられてきた伝統があることを指摘している。神は神殿の中だけに存在するのではなく、人の行為や関係の中に臨在する。この「神の臨在」という感覚は、日本神道における神の在り方と、驚くほどよく似ている。

 

ナタリー・ポートマンの語りは、日本文化を外から観察した感想にとどまらない。それは、一神教の内部に存在する臨在の感覚と、日本の多神教的伝統が、深いところで通じ合っていることを示す、貴重な証言である。

 

2.白いキャンバスとしての神――一神教と多神教という二つの表現

ここから、より一般的な宗教の問題へと進みたい。

 

人間が神について語るとき、そこでの表現されるのは神そのものではなく、神を前にした人間の姿である。一神教と多神教の違いも、神の性質の違いと言うより、人間が超越した存在にどう向き合い、それをどのように表現してきたかの違いとして理解すべきではないだろうか。

 

神が、何も描かれていない白いキャンバスだとするなら、一神教と多神教は、その上に人間の活動を絵具として描かれた二つの絵である。キャンバスそのものは同じで、違うのは、絵を描いた人間の置かれた状況と、その中で戦い生き延びてきた姿である。

 

多神教は、人類が最初に神を「感じた」形に近い。自然の圧倒的な力、生命の誕生と死、偶然と必然が交錯する世界の中で、人々は神を感じ、神を畏れながら生き延びた。神は定義されず、所有されず、ただ「そこに在るもの」として敬われ怖れられた。日本の神道に見られるように、神は万物に宿るが特定の箇所には閉じ込められない。

 

一方で一神教は、異なる歴史的条件の中で生まれた。厳しい自然環境、絶え間ない対立、集団の分裂が生存に直結する社会において、人々は選民となって神を独占せざるを得なかった。神は唯一となり、善悪は明確化され、共同体をまとめる規範の中心となる。それは、人間が生き抜くために、神の表現を圧縮し、制度化した結果である。

 

重要なのは、どちらが正しいかではない。一神教も多神教も、人間が畏れ多い超越に向き合ったときの、異なる応答の形にすぎない。多神教は神を畏れたままにし、一神教は神をまとめ上げて規範とした。その違いは、神の違いと言うより、人間社会の置かれた条件の違いである。

 

あとがき

経済のグローバル化と情報ネットワークの発達によって、人々は否応なく異なる価値観や信仰と接する時代に入った。その過程で、相互理解を深める契機が増えた一方で、宗教や信仰の違いが新たな摩擦を生む場面も少なくない。本稿で述べた、超越神と人々の関係、及びその歴史と多様性は、そのような異なる立場や勢力のあいだをつなぐ、一つの架け橋となりうるのではないだろうか。

 


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

 

 

2026年1月30日金曜日

日本はなぜ自らの安全をまともに語れないのか

――無能な政治家と、その尻ぬぐいを引き受ける評論と司法――


はじめに

衆院選公示前日のテレビ朝日「報道ステーション」において、各党代表が出演し、選挙に臨む姿勢を公表した。その中で高市首相は、北朝鮮を「核保有国」と表現した。この発言は直ちに、高市氏の「無知をさらけ出す見解」として攻撃の対象となった。

 

同日に収録・配信されたYouTubeチャンネル「デモクラシータイムズ」では、高瀬毅氏と政治評論家の半田滋氏がこの問題を取り上げ、高市首相の一連の安全保障発言の危うさとして問題視した(以下、当該番組)。

 

https://www.youtube.com/watch?v=lkVAwRvH45g 

 

半田氏は、「日本はNPT加盟国であり、北朝鮮を核保有国と認めたことは一度もない。従って首相の発言は正しくない」と断じ、官房副長官が翌日に行った「完全否定」会見をもって、その誤りは是正されたと説明した。

 

しかし、北朝鮮が核保有国であることは国際的にも常識であり、高市首相の発言を間違いであるとする政治の方が異常なのである。https://forbesjapan.com/articles/detail/60930/page2

 

評論家が議論すべきは、この政治の異常そのものである。このような真実の隠蔽を、政治家の専門家芸として評価することは誤りである。マスコミや評論家は、日本国民の安全と福祉の実現を原点に置き、政治家と国民の間のメッセンジャーになるべきである。

 

1.評論家は「分析者」ではなく「後処理係」なのか

当該番組における半田氏の議論は、一貫して次の方向を向いている。
北朝鮮は事実上核を持っているだろう
しかし日本政府はそれを認めてはならない
なぜならNPT(核兵器不拡散条約)の枠組みが崩れるからだ

 

一部には、これを冷静で理性的な議論だと受け取る人もいるだろう。確かに、ねじれた政治空間に生きる政治家として、高市氏が専門用語を用いなかったことは問題かもしれない。しかし高市氏の発言は、国民に向けて現実を述べただけである。

 

評論家が行っているのは、首相の現実認識を国民の安全保障という観点から検証することではなく、核保有大国の利益のために構築された国際条約(NPT)を擁護する立場からの攻撃である。

 

政治家が現実を誤認する
評論家が「言い方の問題」に変換する
官僚が「政府見解に変わりはない」と収拾する

 

日本ではこの図式が繰り返される。実際の時系列はともかく、評論家が国民の側に立っていないことは明白である。この循環の中で、誰一人として「では日本の安全はどうなるのか」を正面から問わない。評論家は権力を批判しているようで、実際には政治の失敗を制度論で覆い隠す尻ぬぐい役を果たしているにすぎない。

 

北朝鮮が核ミサイルを保有していることは国際社会の常識である。中国とロシアは言うまでもなく核大国であり、核威嚇を現実の外交カードとして用いている。この状況下で、「北朝鮮を核保有国と呼んではいけない」という言語的禁欲が、日本国民の安全を高めるのか?

 

NPTは理念として尊重されるべきだとしても、すでにNPTが安全保障の現実を統制できていないことは明らかである。それにもかかわらず、現実を語ること自体を「不適切」とし、条約違反か否かという形式論に議論を押し込める態度は、安全保障ではなく、思考停止を守っているだけである。

 

2.安全保障の危機は政治空間でのごまかしの成果である

本来、安全保障をまともに語れない政治家は、民主主義社会では淘汰される。現実を直視できない、国民に説明できない、責任を取らない――そのような人物が政権中枢に居座れるのは、評論家・学者・司法が一体となって、その場しのぎの尻ぬぐいをしているからにほかならない。

 

その政治家の欺瞞と無策、そして尻ぬぐいの積み重ねが、現在の安全保障危機を招いているのである。典型的な例を挙げる: 自衛隊は明確に軍事的実力組織である。しかし政治家はそれを認めたがらず、認めなくても済む。そのご都合主義は、国民の多くが「戦争の惨禍」と「軍隊」を同一視し、忌避してきたからである。

 

このようにして自衛隊が現実に存在し続けているのは、最高裁が自衛隊は、軍隊を持たないと定めた憲法9条に違反するという判断を回避してきたからである。それは統治行為論と呼ばれ、司法の限界として認識されてきた。そして評論家や学者は、それを高度な判断として容認してきた。これこそが、倒錯した日本政治の現実である。


日本国民が周辺核保有国の脅威におびえる現状は、日本国憲法と政治家のごまかしを、専門技術として正当化してきた最高裁・評論家・学者の尻ぬぐいの結果である。

 

同様の構造は、佐藤栄作の非核三原則とその継承にも見られる。それが温存されてきたのは、「米軍が核兵器をわざわざ取り外して沖縄に寄港するのか」という問いをタブー化してきた、マスコミ・学者・評論家の努力の成果である。

 

因みに、ニクソン政権期に首相であった佐藤栄作が、核武装を決断し、国民に対して「日本は自らを守る国家になる」と説明していたなら、日本は核保有国として米国の対中国封じ込め戦略に主体的に参加する国家になっていた可能性がある。この歴史の真実も、マスコミ・学者・評論家の世界では今なおタブーである。

片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)

 

3.なぜ正常な道が選ばれなかったのか

何故、政治家の無策と誤りを、マスコミ・評論家・学者、そして司法が尻ぬぐいしてきたのか?そしてこの構造は、放置され今後も続くのだろうか。

 

日本の政治家は、日本国民のためには働いているように見えて、実は他の大きな力の支配下にある。マスコミと評論家もその政治秩序の中だけに存在し得るのである。それ故「政治の根本矛盾を指摘しない」ことこそが、日本の政治評論家の活動条件だからである。

 

つまり、国民と政治の間に厚い壁が存在し、政治が国民のために存在していないことを明確に示している。市民革命では、国民が暴力を含む力で、政治を国民の支配下に置いたのである。その経験を経た国々、つまり近代国家では、政治は国民が支え、国民のために存在するのである。

 

米国は南北戦争を市民革命として経験し、民主国家となった。現状は理想から乖離しているとはいえ、米国はなおそれを回復する知性とエネルギーを持つ国家である。一方、残念ながら現状の日本は近代国家ではない。さらに言えば、過去に近代国家であったという歴史的記憶すら持たない国である。

 

ただし、近代国家となる可能性が完全に失われたわけではない。現在の苦境を把握し乗り越えたなら、その先に近代国家を得る可能性があると思う。

 

おわりに

日本の問題は、政治家が無能であることだけではない。無能であり続けることを許してきた、評論・学問・司法を含む言論空間そのものにある。安全を語らないことで安全を装う時代は、すでに終わっている。
それを直視できない者に、政治を語る資格はない。

 

補足

1: 真面な議論も全く無いわけではない。三浦瑠麗氏の以下の文章を今朝みつけたので、補足とします。


2.ただ、chatGPTの調査によると、韓国も日本同様公式文書では「持っている」と断言していない。したがって、補足1の記事の中での「北朝鮮を核保有国と呼ばないのは日本だけのガラパゴス」という三浦氏の主張は、公式表現の事実としては正確ではないようだ。ただ、核の現実を前提に議論を回しているかどうかという点では、日本の言論空間の萎縮は際立っている。

 

 (本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)

2026年1月26日月曜日

エリート支配の官僚制国家の限界

――トランプとイーロン・マスクに見る国家管理の転換点――

 (本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)

はじめに

現代の世界秩序は、民主主義や自由主義を標榜しながら、実態としては専門家、官僚、国際機関、巨大資本によるエリート支配の官僚制国家へと収斂してきた。その過程で、国家はあたかも意思をもつ主体であるかのように語られ、人間一人ひとりの生や責任は、制度や理念の背後に押し込められてきた。

 

こうした構造に対して、しばしば同列に語られる二人の人物――ドナルド・トランプとイーロン・マスク――は、まったく異なる立場から、しかし共通して、この官僚制国家のあり方に異議を唱えている。本稿では両者を単なる政治家や実業家としてではなく、国家と文明の構造を直感的に捉え直そうとしている存在として位置づけ、その共通点と相違点を整理する。

 

1.国家は主体なのか、それとも道具なのか

近代以降、国家はしばしば人格をもつ主体として扱われてきた。国家の名において戦争が行われ、制裁が課され、国民の犠牲が正当化される。しかし冷静に考えれば、国家とは本来、人間の生存と共同体の維持のために作られた道具であり、それ自体が倫理的主体であるはずがない。

 

トランプの政治行動には、この感覚が強く表れている。彼は理念や国際秩序よりも、今そこで無駄に失われる人命を減らすことを優先する傾向がある。長期占領や抽象的正義の名の下での介入に消極的である点は、国家を神聖視していないことの裏返しでもある。

 

しばしば「MAGAMake America Great Again)」は国家主義的スローガンとして解釈される。しかしそれは、リベラリズム的価値を掲げるエリート支配構造を破壊するための短期的・戦術的表現である可能性も高い。本稿では、トランプを一貫した国家主義者として評価する立場はあえて取らず、官僚制国家への破壊的作用という機能に限定して論じる。

 

国家は守るべき神話ではなく、人間を生かすための装置である。この認識は、トランプにおいては理論ではなく感覚として現れている。

 

2.文明を主体と考えるということ

一方、イーロン・マスクは国家を否定してはいないが、国家を人類文明を構成する一つの制度的単位として相対化している。彼の語る「文明」や「人類存続」とは、個々の国家を超えた、人間とその歴史の連続体である。

 

文明を主体と考えるということは、抽象的な集合概念を持ち出すことではない。それは、世代を超えて受け継がれてきた人間の試行錯誤と、その蓄積としての歴史を主体として捉えるという意味である。国家はその過程で用いられてきた道具の一つに過ぎず、絶対的な存在ではない。

 

この点で、トランプとマスクは異なる言葉を用いながらも、国家を最終目的として扱わないという立場を共有している。

 

3.短い視界と長い視界――方向の一致

トランプとマスクの最大の違いは、視界の長さにある。トランプの視界は数年から十年程度であり、崩れつつある秩序を当座で是正することに向いている。一方、マスクの視界は数十年から数百年に及び、人類文明の存続確率そのものを問題にする。

 

しかし重要なのは、短期的な方向性において両者はかなり一致しているという点である。

 

理念先行のリベラリズム、専門家と官僚による自己目的化した支配、正しさを自認する人々の思い上がり――これらに対する拒否感は共通している。壊している対象が同じである以上、両者が同じ方向を向いているように見えるのは自然なことである。

 

4.国家管理の主体をどこに置くのか

 

国家が道具であるなら、その管理主体は本来、構成員全体であるべきだ。しかし近代国家では、情報処理と管理コストの制約から、それは技術的に不可能だった。その結果、代表制と官僚制が必然として生まれた。だが現在、私たちはすでにネット社会の中に生きている。この環境を利用すれば、全員参加型の情報共有、分散的な検証、履歴の保存といった仕組みは、少なくとも技術的条件としては整いつつある。

このような、ネットを基盤とした国家管理の構想は、決して前例のない空想ではない。現代の消費文明は、次々に現れる製品を、市場――すなわち多くの人々の評価――によって育ててきた。製品は使われ、評価され、生き残り、淘汰される。その累積が標準を形作ってきた。

ここで、消費財の製造から分配に至るこの仕組みを、政治や政策の分野に応用することを考える。実行された政策もまた、その結果が可視化され、評価され、次に反映されるべき対象となる。誰かが正しいと宣言したからではなく、どのような結果をもたらしたかによって評価される。これらの履歴は、改竄が困難で、関係者に共有される形で記録される。

重要なのは、市場経済を基盤とする自由主義経済圏が、リベラリズム的な国家運営を採用した共産圏のエリート支配国家に対して、消費文明という分野において決定的な優位を確立してきたという歴史的事実である。生活の質、技術革新、選択の多様性において、その差は明らかである。この現実を、国家運営の分野においても直視すべきであろう。

このような国家管理モデルに参加する一般市民の能力差は、生得的属性ではなく、過去の実績と寄与によって測られる。無関心は許されるが、その場合は寄与ゼロとして平均的な国家サービスを受け取るにとどまる。これは排除や制裁ではなく、参加の自由と責任を対応させた結果に過ぎない。参加は自由だが、影響力は責任と寄与に比例する。政策の具体的な実行については、縮小された官僚機構がこれを担うと考えればよい。

以上の構想は、人間に代わって判断する「AIによる統治」を意味するものではない。AIは、評価の集計や履歴管理を補助する道具として用いられるにすぎず、最終的な主体はあくまで人間である。本章で述べたのは、AIを補助的に用いた政府運営モデルの一つの可能性に関する提案である。

 

5.国際関係における暫定的な位置づけ


現在の国際関係においては、近代的な国家主体論が依然として支配的である。しかしそれは、国内政治の現状においても同様であり、国際関係だけが特別に遅れているわけではない。いずれも方向性が定まれば、時間が解決していく問題である。

本稿で提示してきた国家管理モデルは、国内政治において構成員全体の評価と履歴管理を中核に据えるものであったが、国際関係においても、同一原理を直ちに否定する理由はない。

具体的には、国内政治のための帳簿とは別に、国際関係に関わる政治的行為を記録・評価するための、もう一つの帳簿を用意するという発想が考えられる。制裁、通商、軍事行動、環境政策など、複数国家に影響を及ぼす判断について、その結果と影響を国境を越えて蓄積するための帳簿である。

もっとも、このような仕組みが一挙に導入されることは現実的ではない。国内政治においてさえ、ネット社会を前提とした管理構造の導入には国ごとの時間差が存在する。したがって、国際関係においても、各国の事情を踏まえた経過措置を現実的に組み上げていく必要がある。

本稿では、国際政治を直ちに再設計しようとするものではない。ただし、国家を主体ではなく道具として捉え、評価と履歴によって政治を管理するという方向性が、国内にとどまらず国際関係にも連続的に適用され得ることは、ここで確認しておきたい。

おわりに

トランプは、エリート支配の官僚制国家という虚構を破壊する役割を担っている。マスクは、文明を支える技術基盤を更新し、人類存続という時間軸を突きつけている。両者は同じ世界を夢想しているわけではないが、同じ構造的限界を直感している。

 

国家を主体ではなく道具として捉え直すこと。理念ではなく、人間の生と責任を基準に世界を再構成すること。そこに、この二人が同時代に現れた意味がある。

 

この先の制度設計は、人類がもう少し先に進んでから、より能率的に考えることができるだろう。本稿は、その入口に立ったに過ぎない。

(2026/1/25)