――情報を国民と共有する意思のない行政――
阿部前巨人軍監督の暴行事件を巡る騒動を見ていて、私は一つの疑問を抱いた。なぜ日本の行政は、国民に必要最小限の情報を共有しようとしないのだろうか。
今回、警察は現行犯逮捕という重い措置を取りながら、その理由についてほとんど説明しなかった。その結果、警察の暴走を疑う声が広がり、わずか二日間で阿部氏の監督復帰を望む十二万筆もの署名が集まった。
後になって週刊誌報道によって新たな事実が明らかになると、今度は全く逆の議論が始まった。もし警察が当初から、捜査に支障のない範囲で逮捕の妥当性について説明していれば、この混乱の多くは避けられたのではないだろうか。社会全体が膨大な時間と労力を費やした。
その原因は、暴行事件そのものではなく、「情報の空白」にあったように私には見える。私は、この問題は単なる一事件にとどまらないと考えている。むしろ日本という国家そのものが、国民と情報を共有することを苦手としているのではないか。
そして、その体質こそが日本の病根ではないかと思うのである。
1.歴史に学ぶ
国家の強さとは何だろうか。軍事力だろうか。経済力だろうか。あるいは技術力だろうか。もちろんそれらは重要である。しかし、それらを正しく運用するためには、まず現実を正しく認識し、それを分析した上で国家の方針を定める能力が必要である。
誤った現実認識の上に築かれた軍事力も経済力も、やがて国家を誤った方向へ導く。歴史を振り返ると、多くの国家は敵との戦いに敗れる前に、現実認識に失敗している。例えば、嘗て世界第二の軍事大国であったソ連の辿った歴史を見ればよい。
ソ連は、宇宙開発でもアメリカと競い合い、豊富な天然資源も保有していた。しかし、その巨大国家は崩壊した。生産量は誇張され、失敗は隠され、問題点は上層部に届かなくなった。社会全体が真実を語れなくなった結果、国家は自らの現実を認識する能力を失っていったのである。
国家とは巨大な知的生命体のようなものである。国民が現実を感じ取り、互いに議論し、その中から生まれた知見を企業や行政が吸収・分析し、その上で政治が方向を定める。 この循環によって国家の知能は形成される。
ところが情報の流れが遮断されると、国家は現実を認識する能力を失う。それは人間の脳が目や耳からの情報を拒絶するようなものである。
国家を滅ぼすのは敵軍だけではない。現実認識能力の喪失もまた、国家を死に至らしめるのである。
2.現在の日本
私は現在の日本に、同じ危険性を感じる。
例えば:ウクライナ戦争において、日本は巨額の支援を行ってきた。しかし、国民に負担を求めるのであれば、その前提となる歴史的経緯や外交的判断について、より丁寧な説明が必要だったのではないだろうか。
中東情勢についても同様である。日本のエネルギー安全保障に直結する重大問題であるにもかかわらず、日本として何を目指し、どのような立場を取るべきかについての国民的議論はほとんど見られない。ただ同盟国に追従するだけで国家の将来が開けるとは、私には思えない。
少なくとも、この地域の歴史的概観無くしては、イラン戦争の真実はわからないし、それに基づいた日本の外交姿勢も本来決定不可能な筈である。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12959876080.html
少子高齢化問題についてもそうである。政府もマスメディアも人口減少を国家存亡の危機として語り、その延長上で移民導入が語られている。しかし一方で、AIの急速な発展によって中間層の仕事がかなり消失することが殆ど自明であると言われていることを無視している。
AI革命の進行によって社会がどのような姿になるのか、その中で雇用構造がどのように変化するのか、それらを抜きにして人口減少とその対策など、まともに議論できる筈がない。
私はここで特定の結論を主張したいのではない。なぜ政府は、国民が判断するために必要な情報や論点を共有しないのか。そして英知を国民の中から集めないのか? 限られた人たちの意見、そこには往々にして既得権益に縛られた人の意見が強く反映される。そのことを問いたいのである。
重要な問題について、国民は結論だけを知らされる。しかし、その結論に至るまでの情報や議論は共有されない。それでは国家全体の知恵は集まらないのだ。
3.情報循環を担うべきマスコミ
本来、民主主義国家において情報共有は政府だけの責任ではない。国民の不安、疑問、そして意見を吸い上げ、それそれを行政との対話につなげる役割を担う存在が必要である。そのために存在するのがマスコミである。
インターネットやSNSには、多様な意見や疑問が日々あふれている。もちろん誤情報も存在する。その中には専門家や行政が真剣に向き合うべき重要な問いや、参考にすべき意見も数多く含まれている。本来であれば、報道機関はそうした声を社会の議題として整理し、専門家による検証や公開討論の場を提供するべきである。
ところが現在の日本では、そのようなマスコミ本来の役割が見えなくなっている。重要な国家課題についての継続的な議論よりも、芸能や事件報道、消費情報や娯楽コンテンツが優先されている。
もちろん娯楽も社会には必要である。しかし国家の進路を左右する問題について国民的議論の場を提供することは、報道機関にしか果たせない重要な使命である。放送法第一条に記載されている役割を殆ど果たしていないのだ。
もしマスコミがその役割を放棄するならば、国民と政府を結ぶ情報循環は失われる。その結果、政府は国民の声を聞かなくなり、国民は政府を信頼しなくなる。そして社会全体の現実認識能力と将来の方向が見えなくなっていく。
国家の知能とは政府の知能だと考えるなら、ソ連が辿ったような現実認識能力の低下という問題から逃れることはできないだろう。国民、専門家、企業、行政、そしてマスコミが形成する巨大な知的ネットワークの維持と活用が、高度に発達した現在の情報化世界で生き残る資格である。
おわりに
情報公開は道徳論ではない。国家の生存戦略そのものである。国民を信用しない国家は、自らの目と耳を閉ざしているのと同じである。
今、日本が直面している危機を乗り越えるために必要なのは、さらなる管理や統制ではない。政府が客観的な情報を国民と共有し、国民との間に健全な情報循環を取り戻すことである。そしてマスコミは、政府の広報機関でも娯楽産業でもなく、国民と国家を結ぶ知的な媒介者としての役割を取り戻さなければならない。
二十世紀後半の世界は、金融と軍事を中心とする巨大なシステムによって支えられてきた。しかし今、AIの発展と情報技術の進歩によって、文明そのものが新しい段階へ移行しつつある。これからの時代に国家の命運を決めるのは、誰がより多くの情報を隠し持つかではない。誰がより正確に現実を認識し、社会全体の知恵を結集できるかである。
国家の強さとは権力の強さではない。社会全体が現実を認識し、学び、修正し続ける能力の強さなのである。
(注)本稿は、筆者とChatGPTとの対話を通じて論点を整理しながら作成したものである。ただし、文中の主張や見解についての責任はすべて筆者にある。

