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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2026年2月13日金曜日

エプスタイン事件の深層

それはスキャンダルではなく、欧米エリートの「血の盟約」である


 

現在、米国政治はエプスタインファイルの内容をめぐって揺れている。日本のマスコミでも盛んにあちこちで報道されているが、セレブたちによる大性犯罪スキャンダルとしてのみで、本質的な話は隠されたままである。

 

その一方、youtubeなどでは、相当本質に近い形で論じているものも存在する。以下にその一つを引用しておく。https://www.youtube.com/watch?v=LkHjShsvjjg

 

 

1.  何も報じないマスコミ

最近、エプスタイン事件に関する膨大なFBIの捜査記録が黒塗りで公開された。日本の主要メディアでの解説は、上に述べたように致命的に的外れであるが、おそらく米国でも真相は隠されているだろう。この事件の本質は、性犯罪ではなくある種の諜報活動であり、それが示すのは国際的な政治システムの存在である。

 

公にその点を指摘したのが、プーチン大統領単独会見をやってのけた元FOXテレビの司会者であったタッカー・カールソンである。彼は次のように発言している:https://www.youtube.com/watch?v=SN1bMtgrNAA

 

「エプスタインは、多分米国以外の政府のために働いていたと考えられる。我々は、どの政府のために彼が働いていたかを聞く権利がある。そして今懸念されるのは、その外国政府がイスラエル政府であると口にすることが誰にもゆるされていないことである。」

 

尚、エプスタインの協力者として少女を集めたのは、ギレーヌ・マックスウェルと言う女性である。彼女は、第二次大戦中にナチスの迫害を逃れてチェコスロバキアからイギリスに逃れたユダヤ人難民の一人で、後に英国メディア王となったロバート・マクスウェル(1991年にカナダで不審死)の娘である。ロバート・マクスウェルはエプスタインの知人であり、イスラエルの諜報機関であるモサドのエージェントであったとうわさされている。

 

ギレーヌ・マックスウェルは、裁判で20年の刑が言い渡され収監された。彼女は沈黙することで命は保障されたようだ。

 

2.  秘密クラブを強固に保つ「弱み」の共有

私たちが目にする米国の政治は、民主党と共和党の対立の中で進行しているように見える。しかし、タッカー・カールソンが指摘するように、彼らはエプスタインのプライベートジェットであるロリータエクスプレスに同乗し、あの「快楽の島」へと度々向かっていた。

政治家だけでなく、米国経済を牽引するテック企業のオーナーや金融界のエリートたち、更には外国要人もその中に含まれていた。彼らは、表舞台では対立と交渉を演じているが、裏舞台では一つの「超権力体」を形成するかのように、決して表に出せない秘密を共有していた、或いは共有させられていたのである。

なぜ、世界の頂点に立つ人々がそのようなリスクを背負うことになったのか。その理解には、エール大学の「スカル&ボーンズ」に見られるような、欧米エリートの伝統的な「結社」のロジックを知る必要があるのかもしれない。

入会儀式で自身の最も恥ずべき秘密を告白し、組織にその弱みを握らせることで、絶対的な忠誠と沈黙を誓い合う。あの島は、その「契り」を国家規模、あるいは国際政治規模までスケールアップさせる“現代の聖域”だったのかもしれない。

一線を共に越え、互いに「人質」を差し出す。この強固な「弱みの共有」こそが、金よりも確実な、新世界秩序の達成を目指す最強の契りを担保するためなのかもしれない。

 

3. 驕れる者たちの「錯覚」

彼らは、自分たちこそが科学と技術、そして財力を用いて、人類をそして人類社会をアップデートする(トランスヒューマニズム的な野心を持った)「新しい神」であるとうぬぼれていたのではないのか。あの島での行為は、彼らにとっての「特権」の確認であり、自分たちだけの閉ざされた空間であれば罰せられることはないと、本能と錯覚に支配されていたのかもしれない。

その「聖域」での記録は、今もどこかで誰かによって管理・運用され続けているだろう。今我々に必要なのは、現実の世界はどれだけその企みに侵食されているのかを知り、彼らとどのように対峙すべきかを考えることである。

 

あとがき

我々の民主的文明も、現在の経済的繁栄も、単に「世界全体」の一角であり、別の一角にはエプスタイン島事件に絡むエリートたち、そして更に別の一角にはあの「聖域」での記録を保持する人たちや組織も存在するのだろう。ひょっとして、これらが一つの不可分な巨大生命体のようにこの地球上に存在するのかもしれない。

 

そして、エプスタイン島で自分たちは特別であり罰せられることにはならないと考えた人たちが傲慢なら、清廉潔白な一般市民だけでこの世界が維持できる、或いはしてきたと思うのも、同様に思い上がりなのかもしれない。

 

今回の文章は、公式発表の「黒塗り」の向こう側を透視するための、一つの試みに過ぎません。注意して内容を受け取ってください。最後に、本記事の構成にあたっては、GoogleのAI・Geminiとの対話を通じて論点を整理しました。

 

 

2026年2月7日土曜日

ダボス会議で語られる「日本経済」と生活実感としての日本の乖離

 

今回取り上げるのは、ダボス会議において行われた「日本」をテーマとするセッションである。この会議はテレビ東京との共催で実施され、テレビ東京によってYouTube上に公開されている。登壇者には日本の片山財務大臣をはじめ、豪州の元首相、国内外の企業経営者が名を連ね、形式としては「日本経済の現状と将来」を国際社会に説明する場であった。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=Bou7c3eI7sc

 

結論から言えば、ここで語られた日本像は、国際会議という場の性質を色濃く反映した、政府目線のきわめて楽観的な物語であり、国内で生活する人々の実感とは大きな隔たりがある。

 

1.片山さつき in Davos

ダボス会議のような国際政治・経済の舞台では、「日本」とはほぼ自動的に日本政府を意味する。ここで語られるのは、家計や労働者、地方経済ではなく、財政運営、国家戦略としての産業政策、そして地政学的な立ち位置などである。

 

これは日本固有の問題ではない。米国でも欧州でも、国際会議において語られる「国の姿」は、常に“政府の政府による政府のための”物語になりやすい。生活水準の低下や家計の逼迫といった論点は、構造的に議題から外れやすい。今回のセッションも、その例外ではなかった。

若者支持率56%という「空気の数値」

片山大臣は、若年層の政治への信頼が56%に達したという数字を示し、日本社会に新たな楽観が広がっていると述べた。しかし、この種の支持率は、実質賃金の持続的上昇や可処分所得の改善と結びついたものではない。

 

多くの場合、新政権発足直後の期待、「変化が起きている」という演出、そして国際舞台での肯定的評価、等によって生じる短期的な高揚感である。実体を伴わない「祭りの空気」と言ってよく、これをもって日本経済の基調判断とすることはできない。

プライマリーバランス改善の実像

片山大臣は、日本の財政は改善されており、プライマリーバランスが達成されていることを強調した。しかし、この点についても重要な前提が語られていない。日本では長年にわたる異次元の金融緩和によってインフレが進行し、その結果として名目税収が増加していることである。
 

すなわち、プライマリーバランス達成は、政策努力の成果というより、インフレを通じた実質的な増税の結果である。しかもインフレや間接税は、低所得層ほど負担が重くなる。財政指標の改善と国民生活の改善は、必ずしも一致しない。

 

このことは、**Engel係数(=食費/全支出)28.6%**という数字が明確に語っている。これは過去40年間で最悪水準であり、同時期の米国(16.4%)と比べても、日本国民の生活における金銭的余裕が大きく損なわれていることを示している。

 

この事実を前にして「これから積極財政に転じる」と語ることは、政策転換ではない。それは、これまでの無策にも等しい財政拡大策を肯定し、今後も継続するという意思表明にすぎないのではないのか?

 

2.今さら積極財政とは何を意味するのか

——本当に日本は、これまで積極財政ではなかったのか——

 

このセッションでは、日本がこれから「積極財政」に転じるかのような語りがなされた。しかし、ここで上記の根本的な疑問が生じる。日本は、これまで積極財政ではなかったのか?
 

日本はすでに長年にわたり、異次元の金融緩和、国債発行を前提とした財政運営、資産市場を強く意識した政策対応を継続してきた。問題は「積極か否か」ではない。何に対して積極だったのかである。実態を見れば、日本の財政運営は一貫して二重構造を持っていた。

  • 金融・資本市場に対しては極めて積極的

  • 一方で、家計・実体経済に対しては抑制的

この矛盾を最も端的に示しているのが、消費税の新設と度重なる税率引き上げである。消費税とは、形式上は「消費」に課される税であるが、その実体は付加価値税である。すなわちそれは、「価値を加える」経済活動そのものに広く網をかける税であり、生産・流通・サービス・労働といった実体経済のあらゆる段階にコストとして作用する。

 

日本は、異次元の金融緩和を続けながら、同時にこの付加価値税を新設し、さらに税率を引き上げるという政策を実行してきた。これは、金融を拡大する政策と、経済活動を抑制する税制を同時に進めるという、きわめて特異な組み合わせである。結果として、

  • 株価は上昇した

  • 名目税収は増えた

  • しかし生活コストも同時に上昇した

そして上の図にしめしたように、Engel係数の先進国最大値という結果、つまり国民は食うのがやっとという事態になったのだ。

 

おわりに

今回のダボス会議・テレビ東京共催セッションは、新政権が国際社会に向けた「国家としての日本の説明」としては或る意味で整合的ではある。しかし、そこで語られた内容をそのまま日本経済の実態評価とみなすことはできない。

 

国家の財政上の数字が改善していることと、国民の生活が良くなっていることは、自動的には結びつかない。この二つを峻別すること――それが、今回のセッションを読む上で最も重要な視点である。

(2/8 早朝編集あり)


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

 

 

2026年2月4日水曜日

異常な金融経済から、人間のための経済を取り戻す

はじめに――経済が層状化し始めているという違和感

 

近年、世界各地で「成功」や「豊かさ」を象徴するものとして、高級消費が増加している。かつては例外的であった高級消費がいまや特別なものではなくなり、その上に存在する超高級消費と合わせると、経済全体の中で大きな存在感を持つ「上流経済層」に成長し始めている。

 

この変化は、嘗ての中流階級の上下の分断と同期している様に見える。上側は、従来の上流階級や超富裕層と接続し、将来経済の主流を構成する可能性を持つ。一方で下側は、貧民層と連続しながら、主流経済から切り離された傍流経済へと押し出されていく。

 

この傾向が進めば、社会は明確に二分される。住む場所、通う学校、利用する医療、買い物をするスーパーマーケットに至るまでが階層化され、異なる経済層に属する人々は、同じ社会にいながら接触点を失っていく。

 

本稿の問題意識は、こうした現象を単なる「格差」としてではなく、経済そのものが相分離を起こし始めている兆候として捉える点にある。

 

1章――金融膨張と「ダム化」する資金

米国をはじめとする先進諸国では、長年にわたり政府支出が拡大してきた。その多くは国債発行や信用創造を通じて金融化され、結果として金融取引の総額は、実体経済の規模を大きく上回る水準に達している。

 

重要なのは、これらの資金が単純に循環しているわけではないという点である。現代の金融は、実体経済に還流しきれない資金を、さまざまな形で滞留させる装置を発達させてきた。複雑な金融商品、保険商品、仮想通貨、不動産や希少資産。これらはすべて、余剰資金を溜め込むために工夫された「ダム」として機能している。

 

金融はもはや血液のように循環しているのではなく、水位を上げながら貯留され、層を形成しているのである。

 

2章――金融の心臓部と上流経済の形成

金融経済が成り立つための心臓部は、依然として実体経済と政府支出である。生産、雇用、公共投資、社会保障といった分野が資金の流れの源泉であり、それが無くなければ金融は価値の源泉を失う。

この心臓部の中心に近い位置を保有し、その動きの決定に関与又はその情報への接近可能性を持つ人々は、構造的に多大な金融資産を蓄積することができる。

 

その結果、超富裕層を中心とした層が形成され、彼らのために高級金融、高級住宅、高級サービス等が供給される。実体経済の成長以上に金融経済が膨張することで、資産価格の上昇が先行し、その恩恵を受けられる層に富が集中する。その結果として、超富裕層が増加し 、高級サービスと高級消費も大きな経済となる。

この超富裕層の高級経済によって、下層まで富の分配が起こるという説が所謂トリクルダウンtrickle downしたたり落ちる)仮説である。それが事実なら問題はそれほど深刻ではないかもしれない。しかし近年の傾向を観察すると、それは嘗ての中流階級の中ほどまでを富裕にするのみのようである。

 

このようにして、金融資本主義の自由放任主義によって社会全体が二分されつつあり 、富裕層のための、富裕層による経済が自己完結し始める。それはもはや大衆市場を前提とせず、薄利多売という経営原理も採用しない。
 

3章――主流経済の転倒とトリクルダウンの限界

金融の膨張とともに、上流経済のボリュームは拡大していく。ここで言うボリュームとは、人数や雇用ではなく、資金量である。経済の主流が、生活を支える人数ではなく、動かされる資金の総額によって定義されるようになると、重大な転倒が生じる。

 

トリクルダウンは途中で止まるため、中流の下半分は下層・貧民層とともに下流経済へと押し出される。そして、上流経済における消費・サービス業は高利益・低量・閉鎖的となり、下流経済は低利益・疲弊・軽視される。これこそが、経済の相分離である。

 

この相分離に大きな役割を果たすのがデジタル化やAI、更にロボット技術である。このような技術は実体経済に位置する人の数を減少させるので、これらの技術を扱える能力と、それに接近できる環境を持つ人だけがが中流層から上流経済への合流が許されるのである。

 

これまで相分離とは無縁だった農業なども、最近、上流経済の為の部分が分離を始めた。その結果が、一粒数千円のイチゴやひと房数万円のブドウなどの超高級ブランド食品である。不動産では相分離は目立っていて、金融資産のように東京都港区などのマンションを保有する中国人の話なども聴かれる。

 

数億円から100億円のタワーマンションが話題となる一方、自動車を住宅とする下層に転落しつつある嘗ての中流階級の姿が世界のほぼ全先進国にみられる。
 

4章――制度ではなく「比率」を変えるという発想

この問題を、再分配や規制強化だけで解決することは難しい。根本的な問題は、金融の相対的ボリュームが過大であることにある。必要なのは、金融を管理することではなく、自然に相対的に痩せさせることである。その方向性は、三つに整理できる。

 

第一に、実体経済を大きく成長させること。資金が向かう先を金融以外に広げることで、滞留を防ぐ。

第二に、覇権争いや戦争を抑制し、政府支出の膨張を避けること。とりわけ軍事や地政学的対立は、金融膨張と極めて相性が良い。

第三に、自然な物価上昇を許容すること。緩やかなインフレは、金融資産の実質価値を薄め、実体経済を相対的に有利にする。

 

金融の相対的縮小を支える補助手段として、税制と国際秩序の整備は不可欠である。租税ヘッジ地区を国際条約によって廃止し、金融の逃走経路を塞ぐこと。法人課税を利益ではなく付加価値中心に移行し、課税と企業の存在地の分離をなくすこと。

 

これらは金融を直接叩くのではなく、実体経済を相対的に有利にするための調整である。

 

第5章 なぜこの方向を取れないのか――民の不安と利己的政治

経済の主役は本来、民間であり、政府ではない。政府の役割は、安定とルールを提供することである。

しかし現実の政治では、政府支出が成長の代替手段として用いられがちである。政府支出は政治家にとって、最も即効性のある権力行使の手段だからだ。

 

政府支出の制限とは、政治家に打ち出の小づちを使うなと求めることである。それに消極的であるのは、ある意味で自然である。だからこそ、政治家の質を期待できるかどうかは、国民の責任となる。

 

人々が金融に依存するのは、強欲だからではない。将来不安を、金融資産によって解消しようとするからである。政治や国家、社会への信頼が弱いほど、人々は個人で備えるしかなくなる。政治に信頼できない国ほど、この傾向は強い。

 

歴史的に見ると、人の健康や老後の不安は、家族或いは大家族単位で解消するのが普通だった。資本主義の発展によって人々は預貯金を不安解消のために重要だと考えるようになった。その思想は、株式会社などの法人にも普通になり、金融経済の膨張の主要な仕掛けの一つになっている。

 

人々が将来不安を金融資産で解消しようとすることと、家族や大家族の部分的崩壊が同期して進むことで、不安解消は常に未完であった。それを政治と社会が、引き受けることが出来なければ、この社会の持続可能性は著しく損なわれることになるだろう。

 

あとがき――将来不安を、社会が引き受け直すために

将来不安は、必ずしも個人が抱え込む必要はない。政治を含めた社会全体が引き受けることも可能である。任意の人間関係で作る社会と公的な機構である政治を健全に育てるという知恵と覚悟を、全ての国民が持たなければならない。それが近代国家というものである。

 

そのためには、家庭の外側に、人が人として存在できるもう一つの空間を意識する必要がある。不安や異論を持ち寄り、反対意見を排除せず、集団で思考できる社会的空間である。それが近代国家に相応しい政治を育てることも可能とする。

 

しかし日本に於いてその形成を妨げている重要な原因を一つあげるとすれば、それは、言語文化である。反対意見が敵意とみなされ、異論が沈黙を強いられる言語空間では、社会は安心の場にも、思考の場にもなり得ない。この「社会という空間」の改善は、人々の不安の引き受け先だけでなく、政治改革そのものに直結する

 

反対意見が許容され、異なる立場が言葉として往復する社会では、政策は説明を求められ、批判に耐え、修正されることを前提とせざるを得ない。社会が集団で思考する能力を持てば、政治家は短期的な支出拡大や打ち出の小づちに依存しにくくなる。なぜなら、それらは必ず言葉として検証され、将来への影響を問われるからである。

 


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

 

 

2026年1月31日土曜日

畏れ多い神に対する二つの表現:一神教と多神教

まえがき

ハリウッド女優として著名なナタリー・ポートマンが、日本への留学経験を振り返り、日本人の静けさや日常の所作に込められた敬意と感謝の感覚について語っている。この動画が、私がこの議論を始める直接のきっかけである。彼女は、町の清潔さや人々の控えめな態度を、日本人の宗教性の反映であると的確に捉えている。


今回は、ナタリー・ポートマンの言葉の紹介からはじめて、人と宗教の関わりを、一神教と多神教の壁を超えて考えてみたい。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=cgoTWcwtTMg)

 

1.ナタリー・ポートマンが見た日本――日常に溶け込む神の臨在

この動画の中で、ナタリー・ポートマンは、日本に降り立った直後の感覚から語り始めている。その語りは、日本人自身が意識することの少ない日本社会の特質を、外部者の視点から驚くほど正確に捉えている。

 

彼女がまず語るのは、日本に到着した直後の空気感である。空港から町へ出たとき、そこには騒音や混乱ではなく、無音に近い秩序が支配していた。人々は声を荒げず、互いの存在を邪魔しない距離を自然に保っている。秩序や規則というよりも、「他者の存在を尊重している空気」が、空間全体に満ちているように感じられたという。

 

さらに日本での日常生活を通じて、彼女は別のことに気づいていく。食事の前後に手を合わせ、「いただきます」「ごちそうさま」と言う所作。道具や食材を粗末に扱わない態度。誰かのために用意されたものを、当然の権利として消費するのではなく、感謝とともに受け取る姿勢である。

 

彼女自身、ユダヤ教徒として食前・食後の祈りに親しんできた。ただ、日本のその祈りは、何も宗教的なものではなく、単なる食事の際の挨拶のようなものだと気づいた。しかし、その「挨拶」の中には、命あるものすべてへの感謝や、他者への敬意が確かに込められている。

 

日本人自身はそれを信仰行為だとは意識していないが、国際的な基準、とりわけ一神教文化圏の視点から見れば、それは明確に信仰行為と呼ぶべきものである。しかもその信仰は、特定の神を名指しすることなく、日常の行為として静かに実践されている。

 

重要なのは、日本人自身がそれを「宗教的行為」としてほとんど自覚していない点である。信仰を主張するつもりもなく、神を意識的に拝んでいる感覚もない。それでも日常の所作の中に、あらゆるものに対する敬意と慎みが染み込んでいる。この点において彼女は、日本の生活文化の底に、多神教的伝統が生きていることを見抜いた。

 

彼女は、この感覚を決して自分にとって異質なものとは捉えなかった。そして、ユダヤ教の中にも、神は唯一でありながら「あらゆるところにいる」と考えられてきた伝統があることを指摘している。神は神殿の中だけに存在するのではなく、人の行為や関係の中に臨在する。この「神の臨在」という感覚は、日本神道における神の在り方と、驚くほどよく似ている。

 

ナタリー・ポートマンの語りは、日本文化を外から観察した感想にとどまらない。それは、一神教の内部に存在する臨在の感覚と、日本の多神教的伝統が、深いところで通じ合っていることを示す、貴重な証言である。

 

2.白いキャンバスとしての神――一神教と多神教という二つの表現

ここから、より一般的な宗教の問題へと進みたい。

 

人間が神について語るとき、そこでの表現されるのは神そのものではなく、神を前にした人間の姿である。一神教と多神教の違いも、神の性質の違いと言うより、人間が超越した存在にどう向き合い、それをどのように表現してきたかの違いとして理解すべきではないだろうか。

 

神が、何も描かれていない白いキャンバスだとするなら、一神教と多神教は、その上に人間の活動を絵具として描かれた二つの絵である。キャンバスそのものは同じで、違うのは、絵を描いた人間の置かれた状況と、その中で戦い生き延びてきた姿である。

 

多神教は、人類が最初に神を「感じた」形に近い。自然の圧倒的な力、生命の誕生と死、偶然と必然が交錯する世界の中で、人々は神を感じ、神を畏れながら生き延びた。神は定義されず、所有されず、ただ「そこに在るもの」として敬われ怖れられた。日本の神道に見られるように、神は万物に宿るが特定の箇所には閉じ込められない。

 

一方で一神教は、異なる歴史的条件の中で生まれた。厳しい自然環境、絶え間ない対立、集団の分裂が生存に直結する社会において、人々は選民となって神を独占せざるを得なかった。神は唯一となり、善悪は明確化され、共同体をまとめる規範の中心となる。それは、人間が生き抜くために、神の表現を圧縮し、制度化した結果である。

 

重要なのは、どちらが正しいかではない。一神教も多神教も、人間が畏れ多い超越に向き合ったときの、異なる応答の形にすぎない。多神教は神を畏れたままにし、一神教は神をまとめ上げて規範とした。その違いは、神の違いと言うより、人間社会の置かれた条件の違いである。

 

あとがき

経済のグローバル化と情報ネットワークの発達によって、人々は否応なく異なる価値観や信仰と接する時代に入った。その過程で、相互理解を深める契機が増えた一方で、宗教や信仰の違いが新たな摩擦を生む場面も少なくない。本稿で述べた、超越神と人々の関係、及びその歴史と多様性は、そのような異なる立場や勢力のあいだをつなぐ、一つの架け橋となりうるのではないだろうか。

 


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)