注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2014年4月29日火曜日

日本における謝罪という儀式

 テレビでは、所謂お偉方が頭を揃えて下げる様子が毎日の様に放送されている。一昨日は理研の小保方ケースの調査委員長である石井上席研究員が頭をさげ、昨日はiPS細胞の発明でノーベル賞を受賞した山中教授が頭を下げていた。石井氏は、理研研究者2500人いる中で3人しかいない上席研究員の一人だということである。また、山中氏は日本を代表する知性の一人として著名な方である。論理的帰結として、そうしなければならないと思ってした謝罪の筈だと考えられる。しかし、彼らは本当に、何か頭を公衆の面前で下げるほどの悪い事をしたと思っているのだろうか?その後の会見の様子からみて、どうも、悪いことをしたと思っていない様なのである。それなら何故謝るのか?
 日本において、このように“組織のお偉方”が行なう謝罪は、単なる儀式であり、自分達が犯した罪を認めて(注1)相応の補償を行なう覚悟を示したものではないのである。(注2)その謝罪に対する文化を、日本固有のものと考えずに、外交の場面にまで持ち込む愚かな政治家が過去何人かいた。「謝ったのだから、これでチャラだろう」と日本側は考え、「謝ったことで、新たな賠償の出発点にあなたは立ったのだ」と考える隣国との間に、国際摩擦の原因を作ってしまったのである。因みに、米国は原爆を広島と長崎に落し、多数の民間人を国際法に反して殺傷したにも拘らず、公式には一度も謝罪していない。
 話を戻して、石井氏の件、元研究者の私から見て、ほとんど何の問題も科学的には存在しないだろう。小保方氏のケースとは根本的に異なると思う。(注3)図の切り貼りなどのデータのドレッシングレベルのことは、昔からあった。例えば、スペクトルに何時も出る装置特有のノイズを、加工して消し去る行為は、読者に誤解を与えない為に行なうことであり、好ましいことではないが、許される範囲である。それでは石井氏は何故謝ったのか?要するに、頭を下げておけば、責任は逃れられるし、面白くもない調査委員長も止められると思ったからだろう。日本の謝罪とはそのようないい加減なものであることを、特に、政治家は心に刻み付けて欲しい。(注4)

注釈:
1)本当に大きな罪を犯した場合、公衆の面前に出て会見などしない場合が殆どである。
2)民間企業のお偉方も、自社製品に不備があった場合、テレビの前で頭を揃えて下げる。これはその製品を買った人への謝罪ではなく、それ以外の大衆にたいして、自社の誠意を示し、その他の製品の評判が低下しないように行なうものである。従って、同じ“日本の謝罪”の範疇に入る。
3)その石井氏の切り貼りの件を、まるで小保方氏のケースと同等な捏造のように報道するテレビにも呆れる。将にマスゴミとしか言い様が無い。
4)謝罪は、賠償の出発点にたつ重い行為であるという、国際感覚を身につけて欲しいと言う意味である。

2014年4月28日月曜日

韓国船舶事故について

 チェジュ島に向かった韓国船の沈没は悲惨な事故であった。そして、その経緯が明らかになるにしたがって、あの事故は人災であったということになりつつある。人災を裏付ける情報は、スムーズには出てこなかったが、昨日の首相の辞任により明白になったと思う。この辞任は、行政が国民の安全を重視する方向で機能していなかったことを、韓国政府が認めたことを意味しているのである。今までの報道から、規制された重量の3倍以上を積載していたこと、そして、それを隠すために出港時にバラスト水を外に排出していたことが、事故の直接的原因であったと私は理解する。そして、このような過積載はこの海運会社の日常的な出来事であったにも拘らず、行政がそれを矯正できなかったことが明らかになったのである。
 洋の東西を問わず、当事者が都合の悪いことを隠すのは、よくあることである。しかし、ルールと真実を重んじる文化は西欧には存在する。例えば、米国の国家安全保障局で働いていたスノーデン氏(ロシアに亡命)から、ドイツ首相の電話を盗聴した記録を手に入れ、それを基に記事を書いた新聞社に2014年のピューリッツア賞が与えられたこと等は、それを証明している。一方、日本を含む東アジアの国々に、そのような文化は存在するだろうか?明らかにNOである。(注1)韓国国民の一部は、自国を三流国家と称することで、この事故とそれに対する拙い対応の責任が国家にあると批判している。
 この行政の機能不全状態は、そのまま、我日本国にも当てはまるのではないだろうか。そして、都合の悪いことは隠し、議論が沸き上がり自分の政治家としての地位が危うくなるかもしれないことは放置するのである。例えば、憲法9条をどう読んでも、自衛隊が合法であるといえない。一方、国家に軍隊がないのは、歴史を見ても判る様に、スシにネタがないようなものである(注2)。そして、当然の帰結として、なし崩し的に軍隊を持つようになったが、その法的根拠を60年間整備してこなかったのである。

注釈:
1)西欧文化の出発地ともいえる、地中海地方の歴史を書いた世界最初の歴史書ヒストリアは、実際にあったことを記録に残す趣旨で書かれている。一方、東アジア最初の歴史書史記は秦の始皇帝の正統性を示す為に書かれている。日本書紀も、史記を見習って、大和朝廷の正統性を主張する目的で書かれている。(岡田英弘著、歴史とはなにか、文芸春秋刊)つまり、中枢がご都合主義をとるのである。そして、70年も前のことを歴史問題と称して、講和条約締結後に政治に持ち込むのである。東アジアは三流国家の集まりである。韓国だけではない。
2)仙谷氏が自衛隊を暴力装置といっただけで、袋だたきに会う国である。「国家は軍隊という暴力装置を持つ」のは常識だと思うが、一旦国民の一部に議論が起こると、途端に政治家は自分の椅子を意識して、萎縮してしまうのである。橋下市長だけが唯一例外のように見える。

2014年4月27日日曜日

日本人の交渉 =国際社会に於ける日本誤解の原因=

 外交は国際間の交渉であるが、日本は一般に交渉事に弱いと考えられている。従軍慰安婦問題を例にとると、河野氏が、”その経緯や実態についての調査結果などに十分考慮しないで、慰安婦と呼ばれる方々個人への配慮が表に押し出された謝罪発言”を、国家の中枢から発表した。その河野談話により、その問題は解決に向かうよりも、より大きなものになってしまったのである。そこで、何故そのように相手側の事情を自分の都合よりも優先するような事態に、日本人は陥ってしまうのか?、その理由を考えてみた。
 一般的に交渉の進展をステップに分けると:1)Aは、何かを自分の都合や権利などを考えて相手Bに要求する;2)Bは、自分の都合と義務などを考えて、Aの要求の正統性や実行可能性を考えて、YES或いはNOか、3)Aの要求の一部を除いて、或いは、変更すれば受け入れ可能であるなどの返答をする;4)Aは、Bの指摘の正統性や要求変更の可能性を検討して、Bに返答する;5)そして合意或いは拒絶という結論に至るまで、3)と4)の交渉が継続される。(注1)
 ここで、日本においてこのような交渉過程が一般的だろうかというのが、今回の主題である。
 最初に指摘したいことは:上記1)のプロセスの段階で、Aは相手側Bの都合や実行可能性を、西欧などの場合に比較して重く考えて発言することが、日本の交渉における大きな特徴ではないだろうかということである。当然、交渉事はその成立可能性が無ければ、時間とエネルギーの浪費になるので、ある程度の成立可能性がなければ始めるのは愚かな行為ということになる。しかし、最初から相手側Bの都合を重く考えすぎると、交渉において損をするばかりか、社会全体としての能動性に欠けることになる。(注2)
 日本人が、相手側の都合を交渉事が始まる前に、過剰といえる位に重く考えるのは、日本文化の特徴のひとつである。そして、それは日本社会の性質に由来していると考える。幼少期に、親から「言い訳をするな、素直な人間になれ」と叱られた経験を持つ人は多いだろう。この教育上の台詞は、上記交渉事の2)からのプロセスを否定することを意味している。そして、「要求」は上位に在る者から、下位にあるものになされる行為であり、そして、その要求には十分下位の者の事情にも配慮が行なわれている筈のものであるから、答えは「YES」しか本来あり得ないという考え方に基づいている。
 つまり、上記交渉事のプロセス1)ー5)は、AとBが個人として対等の立場にあることが前提で成立するのであるが、日本は民主主義を標榜しながら、上位と下位の者が峻別されている儒教社会の国であり、その前提が成立していないということである。今でも、時代劇にあるように、「お代官さんが百姓どもの事情も十分考えた上での“お達し”なのだから、唯々諾々とお達しの通りに振る舞うのが人の道と言うものだ」的な社会なのである。この日本文化の特徴とそれがグローバル社会におけるデメリットになることについては、既に他の場所で「敬語の愚」と題して述べた(注3)。
 裁判における検察、弁護、判事の役割分担や、論理学における弁証法などの発想も、上記ステップbyステップの交渉プロセスと同様、人間一人では正しい”神の判断”に近づけないことを知り尽くした集団が考えだした、人類文明の近代化の礎とも言うべき智慧であると思う。これらは、ギリシャなどで開花した地中海文明にその基礎があるのだろう。(注4)  そのような西欧の伝統が、地球規模のスタンダードになっている今、社会に層状構造を持ち込んだ儒教の教えに順応してきた日本文化は、現状では賞味期限切れと言わざるを得ない。この儒教社会からの脱却は、幼少期の教育から進めなければでできない難題だろう。私は、この件については、明治維新のときの様に、国家の枠組みから換えなければ解決しないと考えている。突飛な提案だろうが、可能性があると思うのは、大阪都の実現と首都の江戸から大阪に移すことである。それを契機(ショック療法的契機)にして、社会の構造を原点から考え、構築し直すことであると考える。(注5)

注釈:
1)このプロセスは、研究者が論文を学会誌などに投稿して、編集者(とその手助けをする査読者)との交渉を経て、発表に至るプロセスと全く同じである。尚、甘利大臣のTPP交渉は、この範疇には入らないようだ。
2)社会は様々な問題を、指摘する側とされた側の交渉というプロセスを経て、解決する。それが、社会の”枠組み”がより実態にあった形に変化していくことにつながるのである。
3)敬語の愚
4)これは理系人間の浅い考えかも知れませんので、コメント期待します。 5)大阪の本音文化と東京の建前文化の違いを、積極的に利用すべきだと言う趣旨です。日本は官僚組織が支えている国家ですが、そこへ西日本の人間を多量に送り組むことで、新しい発想を持ち込むことが可能かと思う。関西圏の本音文化は、儒教的な江戸文化から脱却するチャンスを日本に与えるかもしれない。
[4/27投稿、4/30修正]

2014年4月25日金曜日

オバマ氏の尖閣諸島発言とTPP

日米中の関係:  オバマ大統領の訪問とTPP交渉の同時進行は、経済関係における米国の利益抜きに日米安保もあり得ないことを示している。  オバマ大統領は、日米の同盟は太平洋における米国の安全保障上も重要であると発言して、尖閣諸島の名前を明言する形で日米安保条約の重要性に言及した。しかし、米国の新聞フィナンシャルタイムズのネット版は、この同盟には見返りが無ければならない(注1)と指摘している。つまり、米中経済関係の大きさを考えれば、米国に経済的見返り抜きに日本や韓国の防衛にコミットするメリットがないということである。  TPPに関しては、裁判でとんでもない判決(注2)が出る可能性のある米国とISD条項に合意することなど(注3)の危険性があるが、これは安全保障を考えて選択しなければならない問題かもしれない。今となっては、日本国は前門の虎に後門のオオカミ遺伝子を持った親分の状態に置かれている様に見える。ただ、被害者意識を持たなければ、TPPはEUの前段階にあったEECの様なものと考えることも出来る。そのような場合、安全基準や裁判制度を含む社会制度も同じ方向を目指す必要があるのだから、そして、経済規模の差や片務協定的な日米安保を考えれば、日本の歩み寄りは米国のそれより大きくなるのは当然だろう。  今まで、一人前の国になるという努力を怠って来た我国が、グローバル経済の中で生きて行く道を今探しているのである。その自覚を政府とともに国民も持たねばならないと思う。共同宣言を何とか出すべきである。出さなければ、オバマ大統領の尖閣諸島に言及した発言も霞の彼方に遠ざかるだろう。 注釈: (1) Asian allies need to give something backと書かれている。 (2) マクドナルドのコーヒーを膝にこぼしてやけどしたことで、何億円も賠償金をとった人が話題になったこともある。理由は、コーヒーの温度が高く、やけどの可能性について注意が十分されてなかったことである。 (3) 「米国の安全基準を満たしていれば、米車を日本は受け入れる」というのが、豚肉の関税とともに、今回TPPが合意に至らなかった主な項目である。
追加:宮崎哲弥さんがどこかの番組で、「安全保障などの外交と経済とは別の問題で、リンクさせて考えるべきでない」と発言していました。しかし、国家とは経済活動の枠であり、その枠を守るのが安全保障だと考えます。外交と経済交流は従って密接に絡んだ問題だと把握すべきです。思いつきで発言されるのはよろしくないと考えます。(27/22:00)

2014年4月21日月曜日

「特定国立研究開発法人」制度の愚:スタップ細胞報道と関連して

 理化学研究所(理研)のスタップ細胞研究に関する捏造疑惑が、政府が成長戦略の一つと位置付け予定していた「特定国立研究開発法人」制度に影響を与えることになり、それが逆にスタップ細胞に関する報道に影響しているという話がある。私にもそのような解釈が、昨今のスタップ細胞報道の最も判りやすい解釈だと思う。もし、その通りなら、政府、マスコミ、マスコミという表舞台で活動する著名人が愚かな姿を世界に晒していることになる。
 この件の指摘は、経済学者の小笠原誠治氏のブログで見たのが最初である。(注1) スタップ細胞論文に関して否定的な評価が定着しつつあるにも拘らず、4月13日、森本元防衛大臣や中谷元防衛庁長官がテレビ放送報道2001において、「小保方氏が200回作成したというのだから、成功したのだろう」という発言を行なったのである。小笠原氏は、4月20日の同じ番組で芦田宏直氏という人が同様の発言をしていたとブログに書いている。(私は、昨日の放送は観なかった。)彼ら元政府幹部さえ、魂を簡単に売り渡す人種だったということである。「詳細な検討が他者によりなされ、現在否定的な評価が定着しつつあります」と指摘すれば、中谷氏や森本氏は、「いやー専門ではないもので、詳しくはしりません。」と逃げるのだろう。(注2)
 この「特定国立研究開発法人」であるが、その候補にあがっているのが、小保方氏のいる理研と経済産業省傘下の産業技術総合研究所(産総研)なのである。スタップ細胞の否定的な評価により、理研の指定は国民の批難を受ける可能性がある。その結果、台本どおりにはやり難くなったので、当面スタップ研究の評価をごまかそうとしているというのである。つまり、このままでは安倍氏の3本の矢の3本目が上手く打てないというのである。
 ここで私が言いたいのは、上記の情けないマスコミ周辺の姿など(注3)も一つだが、この「特定国立研究開発法人」は、東北のバカの壁と言われる聳える数百キロの防潮堤建設と並んで、金の無駄使いに終わるだろうということである。
 結論を言えば、科学振興は広く大学などの研究者のレベルアップ(留学の為の奨学金制度を拡充するなど)など底辺を広げることが大切であり、重点化は金の無駄使いに終わることが多いのである。何故なら、大発見は屢々思わぬ所から起こるからである。ノーベル賞に輝いた研究者の多くは京都大や東京大出身者であるが、その研究が他の場所でなされた場合も多い。例えば、湯川秀樹の中間子理論は大阪大で、朝永振一郎のくり込み理論は東京文理科大(後の筑波大)で、白川英樹の伝導性高分子は東京工業大で、山中伸弥氏のiPS細胞は神戸大である。理研理事長の野依良治氏も名古屋大での研究でノーベル賞を授賞された筈である。日本発の偉大な科学的発見を目指すなら、広く全国の大学に自由な研究環境(研究費を含めて)を実現すべきである。(注4)「特定国立研究法人」の指定や、競争的資金などによる重点化は、無駄使いに終わることが多い。
 ところで、何故理研と産総研なのか?(注5) 理研が優秀なる人が関係していたことはよく知られている。しかし、スタップ細胞の件と関連して、ノーベル賞受賞者、例えば湯川秀樹や朝永振一郎などが理研に所属していたことについての報道の仕方には問題がある。あのような報道では、ノーベル賞の研究を理研で行なったと一般人に誤解を与えることになる。理研の研究がノーベル賞に輝いたことはないのだ。上記両研究所には、現在でも多額の国費が投入されている。何故、それに加えて多額の金を経常的につぎ込む必要があるのか?大きな課題において萌芽的に成功を収めている研究があれば、既存の制度で支援は可能である。そして、全く思いもよらないノーベル賞級の研究を育てるのが目的なら、重点的に金をつぎ込むことは的はずれに終わる。特定の研究所を重点的に支援することが無駄に終わる理由は、それらは人が選ぶプロセスであり、一方、偉大な研究は神が研究者を選ぶプロセスだからである。白川英樹氏が電気伝導性高分子の発明によりノーベル賞を受けた時、白川氏は日本化学会賞すら受賞していなかったことを思い出すべきである。日本化学会という同じ専門家の会ですら、幹部と縁の薄い人に業績を評価して賞を出すことが出来なかったのである。日本は未だに縁故主義の国(注6)であり、“何かを客観的指標でもって選ぶ能力”など無いのだ。

注釈:
1)小笠原誠治氏の「経済ニュースゼミ」
2)テレビで元政府中枢が何かについて喋る場合は、この逃げ口上は使えないことを知らない筈がない。
3)そのような考え方が政府から出て、中谷氏や森本氏の発言に加えて、理研のバッジを付けて笹井氏が臨んだ会見における、「スタップ現象は存在すると思う」と言う発言なども、一繋がりの現象であると考える事も出来る。そうすると、前回書いた笹井氏の発言に対する疑問も解ける。
4)準教授や教授をその研究室出身者(大学院生及び助教)から選ばないなどの工夫がないと、縁故的採用が多い日本では、大学教官の質が上がらないことを指摘しておきたい。
5)理研は文部科学省の傘下、産総研は経済産業省傘下である。こんなところで、省益バランスに気を配るのも、特定研究法人指定が愚かな政策であることを暗示している。 6)元防衛大臣は政府の方から依頼されてあの様な発言をしたのだろう。人と人の関係が真実に優先する日本など東アジア諸国では、西欧文化は根付かないのである。 (4/21;午前8時投稿、10:30改訂;4/22最後の部分を改良して注6追加)

2014年4月16日水曜日

STAP細胞について=笹井氏の会見を見て

 今日の午後3時より行なわれた、理研笹井氏の会見を見た。先ず、一般論として研究を、企画、実験、解析、そして、論文執筆の4つの段階に分け、あのNature論文に関する自分の主な寄与は、最後の論文を書く段階であったという説明があった。これは、自分にこの研究論文における数々の疑惑の責任はないという宣言であるように聞こえ、共著者の一人である人の発言とは思えない。(注1)また、Nature論文2報は、データに不備が発見されたので、取り下げるべきだが、STAP細胞が無いとすると、説明が困難な現象がいくつかあるという。そして、STAP細胞は有力な仮説であり、理研で検証実験を行なうべきだというのである。私には訳が判らない。STAP細胞仮説が、理研において今後数ヶ月かけて検証実験すべき有力な仮説なら、そして、Nature論文2報に一部データに不備があっても論理が一貫しているのなら、撤回する必要はないだろう。データを差し替え、実験手法の詳細を同時に追加する形で補足をすれば良い。一般に、論文は実験とその論理的解析を根拠に研究者の主張を述べるものであり、真実を保証するものではない。中部大の武田氏が言う様に、新しい説を発表した論文には間違いはたくさんあり、その後の科学界に数年或いは数十年かけて定着するかどうかで、価値は決まるのである。(注2)
 笹井氏は、本心ではSTAP細胞は無いと思っていると私は思う。論文は取り下げて、小保方氏を除いた検証実験でSTAP細胞が見つかれば、それを小保方氏を除いて論文にするのだろうか?決してそんなことにはならないという自信があるのではないだろうか。ただ、自分が間違った論文の共著者になったことに対して、仕方が無いと言える程度の(他の研究者がうなづく程度の)理由が欲しかっただけだろう。その際、更に金と人の時間を浪費することなど、眼中にないのだろうと思う。私には、笹井氏がいさぎよい人ではなく、STAP人間に見えた。
 私の考えに似た投稿を発見したので、ここにhttp://okitahidehito.blog.fc2.com/blog-entry-4015.html”>引用しておく。(注3)

注釈:
1) シニアオーサーの一人ということである。シニアオーサーは、同時に連絡先著者(corresponding author, CA)になる場合が多い。著者欄の詳細が判れば追加します。マスコミに著者欄の詳細が示されずに、この問題が議論されているのが不思議である。筆頭著者は小保方さんであることは判っている。しかし、CAになっているのは誰で、役割分担はどのようであったかなど報道べきである。
2) 武田教授のyoutube サイトはここです。
3) 上手く飛ばない場合に備えて、サイトのアドレスを以下に書きます。http://okitahidehito.blog.fc2.com/blog-entry-4015.html

2014年4月13日日曜日

小保方氏の会見と武田教授の擁護発言を観ての感想:

 この件、もう書かないでおこうと思ったが、中部大の武田さんの発言をyoutubeでみた(注1)のが刺激になり、もう一度短い文章を書く気になった。
 小保方氏の会見をテレビで観て、二つの場面が印象にのこった。一つは、「スタップ細胞作成の手順を細かい所まで公開してはどうか?」という質問について、小保方氏が「次の研究などもあり、それは出来ない」とその件に否定的だったこと。二つ目は、「理研に裏切られたと思いませんか?」と理研の対応について意見を求められた時に、非常に理研に気を遣って「裏切られたと思うべきではない」と言ったことである。
 最初の点は、彼女がスタップ細胞の作成に自信がないことを明確に示している。何故なら、公開して他の研究所で次々にスタップ細胞が作られたなら、彼女はノーベル賞を始めとしての栄誉を得、科学者としての地位を一生保障される筈だからである。特許云々の問題は、理研が彼女の業績に否定的になっている今、全く気にする必要は無い。その意味では、自分の科学者としての栄誉を最優先できる恵まれた位置にいるのである。次の「理研に裏切られた気持ち」についてであるが、自分の大切な論文の内容を否定されたのだから、本来なら激しく反発する筈である。従って、自分の研究者としての地位を失うかもしれないので、理研に気を遣って慎重な発言になったと思わざるを得ない。
 あの論文が本来の彼女の研究成果であるなら、二つの印象に残った場面において、彼女の態度は互いに矛盾している。彼女が“成功したスタップ細胞作成の為の詳細な実験手順”を発表したのなら、理研幹部のネガティブな審査結果など吹っ飛ぶ位の援軍が、世界各国から出現する筈だからである。
 この件で、武田教授はyoutubeに意見を述べておられる。 (注2)武田教授の意見は、故意にデータの捏造が彼女に無かったとしたら、全くその通りである。しかし、そのデータ捏造の有無はこの件の中心に位置するので、その仮定を元に分析するのは的外れと言うしか無い。武田氏の発言にあるように、あのNature論文二報を殆ど自分で書いたのなら、彼女の科学者としての能力は卓越しており、未熟などという言葉で形容するのは失礼極まりない。しかし、会見において小保方氏は自分で自分の未熟さを認めておられる。彼女が自分の発想でテーマをたて、実験でデータを得、そして論文の第一稿を書いたのなら、口から出る筈の無い台詞である。因に、武田氏が述べておられる様に、発表された科学論文が全て真実を述べていると考えるのは、素人の誤解である。科学論文は、科学者が自説を展開して発表したものであり、正否はその後の研究が明らかにすることである。従って、人細胞起源のスタップ細胞が在るか無いかの検証は理研の仕事ではなく、今後学会の評価として自然に決着がつく。理研が検証実験を公金で行なうことなど、全く理解できない。以上、武田氏は、科学界の慣習を述べているに過ぎないのであり、今回のケースにはほとんど参考にならない。(注3)

注釈:
1) ヤフーの智慧ノートに要約が載っており、それを観たのが武田氏コメントを見つけたきっかけである。(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n270426)
2) https://www.youtube.com/watch?v=6MFRYEJ4q90; 
3) 科学界は、失敗や間違いはあるかもしれないが、データ捏造の可能性は全く前提にない。武田氏は、あの論文がNature誌から削除されても、他のところで、人の組織からスタップ細胞作成に成功したのなら、小保方氏もノーベル賞だと言っておられる。これは科学界の上記性格から考えて、その通りかもしれない。彼女の味方なら、「失敗はあったかもしれないが、捏造などあり得ない。論文撤回は強制されたから同意したのである。」という態度を貫く様に、助言すべきだろう。

2014年4月9日水曜日

ノーベル賞後、体制側にべったりとなった山中教授

 小保方氏のデータ捏造事件についてこれまで何回か書いて来た。その中で、学位を得た研究者に指導や教育を議論している、政府の姿勢を批判した。しかし、一昨日の山中教授による「30代は未だ未熟であり、指導しなければならない。。。」という発言に、足元を掬われた感じである。なにせ、ノーベル賞をとられた自然科学の権威ある方の意見であるから、それに反する私がごとき者の意見など、身内といえども受け入れがたいだろう。  ここでは私の意見を繰り返さない。今朝みたあるブログを見て、援軍を得た思いがしたので、その記事を引用したい。全く仰る通りと思う次第である。

2014年4月8日火曜日

定量性と統計的因子を大事にすべき=東北沿岸にバカの壁(巨大防潮堤)を築く卑怯な官僚&自民党政権

 地震による大津波は、宮城・福島沖では今後100年以上起こらないだろう。表題だけで言いたいことは全て言いおえている。以下に、何事の分析においても、定量性、頻度、速度などの視点が不可欠であることを例を挙げて述べる。
 先ず、わかりやすい問題から入る。「貧乏でも構わない、心の充実が幸せな人生に最も大切」という人がいる。この言葉に意味を持たせるには、ここで言う“貧乏”に関して、定量性、頻度、速度などの記述がなくてはならない。経済的には日本より遥かに貧しい、ブータン国民の幸福度が高いと話題になったことがある。各個人の主観であるだけに比較は難しいが、私には正直言って疑問が残る。また、ある知人は自分のホームページで「清貧党宣言」をしている。しかし、その考えも、どの程度の貧を前提にするが明白でなければ意味が無い。日本には、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に記述された“清貧”人生を理想型とする人も居るが、井上陽水と同様、私はこの詩にある様な人になりたいとは思わないし、この詩の考え方には同意できない。(注1)宮沢賢治が歌うような、”奇跡的”な人格を持つ人には普通なれない。それに比較してより確かなことは、発展途上国のネパールやカンボジアなどでは、貧からの脱出こそ人を幸福にし、且つ、社会を安全且つ平和にすると言うことである。(注2)また、先進国での犯罪も、富の不平等な分配により貧困層が一部に存在することが、大きな原因を占めるだろう。再度確認するが、「貧しさと人生(しあわせ)」を議論する場合、定量性において共通の視点がなくてはならない。
 「安全が基本」といっても、絶対的安全などこの世に存在しないし、安全を確保する為に我々に与えられた経済力や技術・知性などにも制限がある。従って、国民の安全を議論する場合には、どの程度の安全と安心感を、(平等に)国民にサービス出来るかという定量的視点が無くてはならない。東北大震災の復興対策についても、”一定以上の知性”(注3)による議論を経れば、1)人は自然の脅威を克服することなど出来ないこと;2)現実的な対策は、住民の大多数がその身に危険が及ぶ前に、早く逃げる様に備えること、であると気付く筈である。ところが、政府は東北地方の沿岸に巨大な防波堤を数百キロに渡って築く予定だというのである。この愚かな政策について、「バカの壁」と揶揄・批難する記事あちこちに投稿されているし、本にもなっていると思う。このような自民党や官僚の利権絡みと思われる政策決定が可能なのは、それを強烈に批判する勢力がこの国には存在しないからだろう。(注4)東北地方の大津波は既に起きたのであり、今生きている人は、そのような津波をこの地方で今後見ることはないだろう。近い時期に大津波が予想されるのは九州から関東にかけての太平洋沿岸である。お金に余裕があるのなら、津波対策はその地方にすべきであり、東北地方は後回しで良い。大規模な高台移転も漁業を営む人の日常を考えずに、土建屋の利権がらみで出て来た発想だろう。一番優先すべき政策は、そして主人公である筈の住民が最も望むことは、震災以前の状態への早い復帰だと思う。(注5)そして、予算に余裕があるのなら、この地方の将来の発展モデルを立案し、それに基づいた投資が次の段階の仕事になる筈である。しかし、政府の“震災からの復興事業案”に明確に存在するのは、建設業と自民党&官僚機構の利権だけであり、本来あるべき、限られた復興予算という制約のもとで、この地方の発展と住民の満足度を最大化するというような思考の跡が見えない。
 原発問題に関する今までの議論や報道も、同じ様に定量性(や確率)の視点を欠いて来たと思う。新型の原発に、福島原発事故の教訓を利用すれば、原子力エネルギーは絶対安全では無いにしろ、今後のエネルギー政策の基本の一つとして数えられると思う。大量の天然ガスの輸入が続くことで、現在電力会社だけでなく(注6)、国家全体でも経常赤字が続いている。それは双子の赤字に転落して大幅な円安から、日本が貧困国家へ転落することの可能性を強く示唆している。これは、非常に低い確率の原発事故とそれによる年間50mSvの放射線吸収よりも遥かに恐ろしい(注7)事態である。両方の悲劇のモデル、低確率だが起こりうる原発事故の危険性と、双子の赤字による国家の貧困の危険性の定量的比較により、どちらかを選択すべきである。(注8)
 以上、言いたいことは、危険性やそれに対する対策に、定量性、頻度(確率)、速度(早さ)が無ければ、夢のようなイラストや美辞麗句があっても、その政策価値はほとんど無いと言うことである。そこに、土建屋の利権が下味として加われば、その価値は大きなマイナスである。
 
注釈:
1) この詩を題材にして、井上陽水は「ワカンナイ」という題の歌をつくった。わかんないのは、「本当にあなたはそのような人になりたいのですか?」という疑問の表明だろう。
2) 一方、あまりにも浪費的な国家、社会、家庭は、資源や資産を浪費し長続きしないし、人を傲慢且つ粗雑にする可能性が高い。しかし、富と共存しがちなこれらの問題の解決は、貧からの脱出より軽い問題であり、解決の可能性も高い。
3)民主主義は、政府の政策に全国民の意見を平等に反映する制度ではない。それでは、国家は破綻し滅びる。民主主義政治の要諦は、如何に国民の知性を国民の代表が吸い上げることが出来るか、それを政策に反映出来るかにある。
4) マスコミの責任が大きいと思う。マスコミを牛耳るものたちも、自民党&官僚の支配層の一部に組み込まれていると思う。そうでないマスコミには、クルクル左派の人しかいない。まともな知性を持つ日本人には、現実的、現世利益的、つまり私利を重んじる人種が多い。(橘玲氏の括弧日本人のインゲルハートの価値マップ参照)
5) 高さが30m以上のマンションを沿岸に建設して、高層部に津波時全住民に開放する義務を負わせば良い。
6)株価に関心の無い方も多いだろう。原発事故の無かった、関西電力などの株価を見れば良い。今でも震災前の半分以下である。北海道電力だけでなく、全ての電力界者の財務情況は極めて厳しい。
7) この数値は、1年間に体重1kgあたり約0.01カロリーの放射線エネルギー吸収を示している。もちろんエネルギーだけで議論は出来ないが、裸で太陽から受けるエネルギーの1/100億に過ぎないのである。紫外線による皮膚がんを恐れないで、海水浴する人が怖がるべき数値ではないと思う。
8) キロワット・時当たり35円の電力では日本はやって行ける筈がない。現在の20円以下の料金でも、工場には重い負担であるという。英米仏などの国では、工場での電気料金は日本の半分位らしい。
(4/8/am; 4/8/pm日本語の修正;4/12/pm修正、最終稿とする。)

2014年4月6日日曜日

外国人一般労働者の受け入れに反対する。

 政府は建設作業員などの不足を理由に、一般労働者としての外国人受け入れを決めた。これは非常に愚かな決定である。何故なら、現在でも失業者が韓国や台湾などより高い日本で、その対策手段が減少するからである。
 日本での若年労働者の失業率が高いのは、日本の教育に問題があるからだと思う。それは、人は仕事をして社会に貢献し、給与を得て生きなければならないこと、そして、成人すれば自力で収入を得て生きて行く責任があることを、徹底的に教え込まないからである。自分探しとか訳の判らない言葉を用いて、出来るだけ“格好良く”楽をして金を稼ぐ方法を探すか、その機会が得られなければ、親のすねをかじって生きるかという選択の問題として、自分の将来を捉えている若い人が多すぎるのではないだろうか。2011年の統計によると、高校中学卒、短大高専卒、大卒以上での、年平均各階層別25歳以下の完全失業率は、夫々11.5, 7.0, 8.2%である。中年層では大卒以上の失業率は低く例えば、35-44歳で、各層失業率は夫々、2.2, 4.2, 5.2%; 45-54歳では、夫々、2.3, 2.5, 4.5%である。何故、これだけ高い失業率があるにも拘らず、人手不足の業界があるのか?また、何故、若年層で大卒以上の層が短大高専卒よりも失業率が高いのか?この統計結果から生じる二つの疑問から、どうしても上記のような若者達の生態にたどり着いてしまう。
 仕事は、自己実現とかいう甘ったるい思考の延長上にあるのではなく、生命体として命を繋ぐための収入を得る為にするのである。この最も基本的なことを義務教育の段階で教えていないのではないか?いったい誰が、このような教育を日本国に持ち込んだのか?外国人受け入れが大規模にならないうちに、政府は教育を含めて国内で出来る対策を必死になって考えてもらいたい。
 これから、益々仕事が少なくなる時代に入る。それは、国境を超えた大企業が経済活動、特に製造業、の中心となり、国内の仕事は一部の管理企画職以外は何もかも機械と少数のオペレーターが行い、そして単純労働は海外移転された工場に移る。国内で残った仕事は、大規模小売店や介護医療分野での接客サービス業、建築作業、第一次産業、公務員や教職員などが主になる。これまで大きな就労現場であった第二次産業が空洞化することは、大昔から言われて来たことである。この経済社会の変化へ対応するには、仕事に対する考え方の教育を含めた、労働の流動性を高めることが大切である筈。
 国内でしか調達出来ない(海外移転できない)筈の建築作業などの労働力は、差し当たり賃金上昇で解決すべきである。外国人なら、安い賃金で働くから移民として受け入れれば良いというのは、どこかで書かれた日本国破壊のシナリオを、日本政府が演じることになる。

2014年4月3日木曜日

STAP細胞の件での理研の会見について

 昨日、理研のSTAP細胞論文に関する調査報告会見がテレビで報道された。小保方氏が単独でデータを捏造や改竄したと認定し、他の共著者に不正行為はなかったと結論つけた。冒頭で理研の幹部が頭を下げて何かに謝罪した。
 中日新聞4月2日の朝刊では、阪大の中村準教授(科学技術社会論)の「不正を防ぐ為の研究倫理教育や指導が欠けていた。研究者の競争的環境が、短期的な見返りや成果を求めるような歪んだものになっていたのでは」と言う指摘、更に、阪大病理学の仲野教授の「捏造の責任が小保方氏一人にあるとしても、論文に関しては、個人の問題に帰着させるには無理がある。何故こういうことが起きたのか、組織として問題が無かったのかを検証し、問題があったのなら是正する必要がある」とのコメントが掲載されていた。
 まず、理研の会見について意見を述べる。冒頭で幹部が頭を下げ謝罪したのは、不可解な光景である。いったい何を誰に謝罪しているのか? しかし、理研幹部と阪大の2人の関連分野の方は、共有の視点を持っているようである。それは組織の研究管理という視点である。しかも、その視点は研究資金とか設備とかでなく、研究者の指導や教育へ向けられているのである。この点で至らなかったことを、理研の予算の出所である納税者に謝罪しているらしい。この理研幹部の謝罪は、日本独特の光景であり欧米の人には理解できないのではないだろうか。大学院を経て学位を得た者に、新たに(研究倫理的な面での)指導や教育をする必要などない。理研などの研究所において、研究者を対象に幹部がすべきことは、採用や昇降格、解雇等である。もちろん、若手研究者はプロの研究者として、自分の意志と力で研究能力の向上に日々努めるべきことは、言うまでもない。しかし、研究者の倫理や心得などの教育は、大学が学生相手にすべき仕事の筈である。この最も基本的なことを、上記の方々は判っていない。
 次に、捏造を含む論文に関する責任問題であるが、この責任には二種類あり、区別して議論すべきである。まず、論文の内容に関する責任であるが、これは筆頭著者にデータ捏造があったとしても、共著者全員の責任である。この点は仲野教授の意見と同じである。研究での作業分担があり、分担者がその意味を理解しないで協力し、その結果を集めて筆頭著者とcorresponding author(C.A.; 論文の責任者)のみで部品を組み立てるように論文を作成したのなら、著者は本来2人であり、残りの作業分担者の名前と作業の概略は謝辞の中で述べるのが本来の形である。(注1)その場合でも、筆頭著者とC.A.の方は同程度の責任がある。もし、筆頭著者がC.A.になっていない場合は、C.A.の方の責任が重い。C.A.が誰であるかの言及を含めて、そのような説明は理研の会見になかった。ただ、この論文の評価(負の評価)は、関係する研究者の評価に反映されるべきことであり、犯罪者のような取り扱いはしてはならないと思う。理研が成すべきことは、彼らの研究者としての評価を人事異動及び研究費配分などへ反映させることである。
 次に、データ捏造の責任であるが、これはデータ捏造した人以外に誰も気付かなかったのなら、ここでは小保方氏一人の責任である。この場合小保方氏は、共著者達及び自分の研究者としての評価を落した責任を持つ。小保方氏がこの件で謝罪するとすれば、共著者に対してである。データ捏造した者に対して理研が更に(人事的処分以外)なすべきことは、研究費の不正使用として、資金の返還などを求めることもくらいかとおもう。(注釈2)
   「STAP細胞が本当にあるのか?」と言う疑問をテレビでよく聞く。これは、論文が取り下げられれば、白紙である。つまり、上記「」内の文は、「心霊現象は本当にあるか?」と同程度の疑問文であり、改めて公金をかけて行なうべきでない。また、マスコミ全体が三流週刊誌のようになって、連日報道すべきことではない。

注釈:1)誰でも著者に入れ、自分も入れてもらうという業績を膨らませる不正が幅広く行なわれている。文部科学省はこの点を厳しく教授等に指導すべきである。
2)この件は、例えばプロ野球において、選手が筋肉増強剤を使うという様な不正をした場合と同じ様に考えれば良いと思う。球団はその選手の教育や指導の責任を問われることはない。球団幹部も、特に米国では、テレビの前で謝罪することはないだろうが、その選手は解雇されるかもしれない(野球界で生きられないかもしれない)。この比喩に同意されない人は多いだろう。しかし、研究者は個性あるプロフェッショナルであり、紋きり型の人材を養成するシステムになじまない。