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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2014年12月30日火曜日

貧富の差の拡大:ピケティ入門の為の本を読んでの感想

==この本、英訳版pdfは以下のサイトで自由に読めるようです。http://resistir.info/livros/piketty_capital_in_the_21_century_2014.pdf イントロを少し読みました。マルサスから始まって、マルクスやエンゲルスなど、資本についての考え方の歴史的なレビューがかかれています。やはり原著をゆっくりと読むべきだと思いました。(2015/1/1)==

池田信夫氏による「日本人のためのピケティ入門」を買って読んだ。これを読めば、英訳本700頁に及ぶ本の概略が判るというのだが、内容はほんの僅かであり、本当にこれで入門できるのかどうかは判らない。昨日本屋でこの本がこの分野の人気第二位だということだった。そこで、その本の大凡の内容と感想を書くことにした。

21世紀の先進国では、資本による収益率(γ)があまり変化せず、一方で成長率(g)が低下する(注1)。そのため、資本の蓄積が起こるが、所得はそれほど増加しない。そして、資本収益は貯蓄の形などで資本に追加される傾向が強いため、このr>gの関係は、資本/国民所得の比率(β)の増大を招く。(図5.3;34頁;以下図は全てピケティのHPに掲載されている)γ(資本収益率)があまり変化しないので、国民所得の内の給与以外による部分(資本分配率、資本収益/国民所得=α)が大きくなり(図6.5;41頁)、富豪と貧民の二分化が起こる。

つまり、このγ>gの関係が資本主義の根本的矛盾としてピケティの主張のエッセンスを為すという(14頁)。尚、ピケティは資本収益として賃金以外の全てをあげ、資本を資産の意味で用い、土地、工場の設備、金融資産などを含むという注釈が著者によりなされている(注2)。

これらの関係は、高度成長した資本主義国では、定常的な成長に近づくという仮定の下に成立する。ここで、資本と所得の比率(β)は、経済成長した国家では、貯蓄率/成長率に近づく。これを資本主義の第二根本法則という(注3)。また、α(資本収益/国民所得)は、(資本収益率(γ)x資本)/所得であるから、α=γxβとなる。この恒等式を資本主義の第一根本法則という(第一、第二法則:52-54頁)。

これが、この本の第三章の一節までをまとめて書いたものである。三章二節では、格差の原因が、三節では格差拡大の防止について書かれている。簡単にまとめると、大きな格差発生の原因は、新保守主義的政策、更にタックスヘイブンの出現である。その格差の固定化は、相続財産の増加とそれによる教育格差が原因である。解決には地球規模での資本課税とタックスヘイブン(オフショア)対策を、国際協調を強めることで実行する事が考えられるが、なかなか困難である。

この後半部分をもう少し詳細に書くと: 確かに、各国の過去40年ほどの資本と所得の比率は(図5.3)、1980年ころより急激に増加している。これは、先進国である英米で成長率が低下した1980年代に、所得に対する累進課税などを緩和したレーガンやサッチャーの新保守主義的政策以来強まったものと解釈される。1960年代には最高税率が80−90%だったのが、この時期に30%代に低下した(図14.1)。これが資本の蓄積とその後の経済のグローバル化で世襲的な富豪と国際的な金融資本が出来た原因である。この異常な状態から抜け出す為に、累進税率を再度高めるだけでは、富がタックスヘブンへ逃げることになる(注4)。ピケティは、グローバルな累進資本課税と、世界の政府による金融情報の共有を提案した。しかしながら、世界の主要な国が高度な協調関係を築くのは現状ではなかなか難しいとのことである(注5)。

これらの理論と富の偏在の説明は漠然とした把握というレベルでは簡単であるが、こんな内容で700頁の本になるのかと言う疑問は解けぬまま残る。「はじめに」に書かれている様に、ピケティの理論は過去の経済理論から導出されたものでなく、恐らくデータから経験的に導かれたものだろう。この理論的な部分は、本の主内容ではなく、膨大な過去200年のデータを取得して分析することなどに頁数を埋めているということである。

私(理系人間)の感想:
1) ユーロ圏は経済だけ一緒になり政治が別々なのが問題だと、昨年のギリシャ危機のときさんざん聞かされた。しかし、同じようなことが世界でも言えるのではないだろうか。経済だけグローバル化して、政治がそれに伴っていないのだ。
2) 今の世界経済に起こっていることは、この本で議論されている高度に発達した資本主義での富の偏在とは別の現象なのかもしれない。つまり、経済段階の異なる多くの国家の共存を考慮した経済モデルで理論を作る必要があるのではないだろうか。

注釈:
1)この不等式が何故成立するかの説明が全くない。おそらく、成熟した資本主義社会では、莫大な資本をもつ巨大化した企業は、資本収益率(資本の取り分)を決定する力が強いからだろう。
2)貸借対照表では資本は資産に一致する。ただ、一般家庭の家や土地は金を生まないので、この本の中での定義である資本に入れるのは無理があると思う。また、株や土地などは貸借対照表で金額に換算する際、実質的な価値と簿価では大きな差があるのが常である。しかし、そのような疑問にはこの本は答えてないし、原著に定義されているかどうかの記述もない。
3)工場の設備などは減価償却により一定年で無くなる。そして経済規模は徐々に増加する。定常的になれば、資本の額は過去の貯金が積み重なったものとなるので、その額は貯蓄率に比例する。国民所得も定常的な成長を仮定すれば、その額は低成長下でも直線的増加し、その額は成長率に比例する。
4)タックスヘブンについては、例えばhttp://www.777money.com/yougo_kolumn/yougo/tax_haven.htmを参照してほしい。
5)国際協調については2008年にBloomberg Businessweekの記事が日経により紹介されている(http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20080602/160101/?rt=nocnt)。

2014年12月26日金曜日

思考のダイナミックレンジ

 人間はある情報を受け取れば、それを頭脳で処理(つまり思考)して、それに対する行動を起こす。その行動の“大きさ”は、通常刺激が大きい程大きい(注1)。従って、限られた範囲ではあるが、人間の行動における情報処理部分の記述として、信号検出器の用語を用いることが出来る。そして、政治家などの評価がこれらの用語で直感的に記述できるばあいが多いと思う。

 信号検出装置の用語として、ダイナミックレンジ(dynamic range)の他に、上下の検出限界、上の検出限界を越えた信号に対する飽和や発振、更に信号の大きさを正しく識別出来る能力である線形性という言葉がある(注2)。これらは全て、人間の行動を考える上で有効である。例えば、発振は思わぬ状況に泣き出してしまい、その状況に対処できない状態の比喩として用いうる。ここでは思考能力において大きなダイナミックレンジを持つことが、最善の選択を得る上に大切であることを述べたい。

 ある事に対するダイナミックレンジの大きな思考は、当然その周辺の広い範囲での緻密な思考を伴う。広い範囲の思考は、想像力の大きさと高い知的能力を必要とする。また、ダイナミックレンジの大きな思考は、例えば政治の場合、悲惨な状況下においても冷静さを保ち、安易な解決に逃げるという誘惑を退ける勇気も条件となる。このあたりの記述には信号検出器の比喩では無理であるので、予め承知してほしい。

 最近の例では、米国Sony Pictures Entertainment社の映画に対する、北朝鮮の米国に対する脅しやサイバーテロの件が参考になる。この映画に関して、既に書いた様に表現の自由を主張するのには無理があると思うが、仮に主張出来ると仮定して話を進める。http://blogs.yahoo.co.jp/mohkorigori/56700446.html

 表現や学問の自由を主張する理由は、真理は広い範囲の中の何処にあるか判らない場合が多いので、人の活動の範囲に枠をはめてはいけないということである。今回の場合、「人命は地球より重い」という理由で、テロ予告に屈服すれば、将来に亘って同じ方法で脅しが行なわれ、結局人間活動において正当な自由が奪われ、大きな損害を被ることになる。そして、テロで失われるかも知れない人命とテロに屈した場合の予想される損害のどちらが大きいか、その損害の大小を思考によって決定しなければならない。両方とも大きすぎて、思考のダイナミックレンジを越えてしまうのでは、大統領失格ということになる。オバマ大統領は、北朝鮮の脅しに屈した場合の予想される損害の方が大きいと答えを出したのである(注3)。

 このオバマ大統領の判断と比較すべきは、日本で1970年に起こったよど号事件の時に福田元総理(父の方)の判断である。テロに屈服した福田さん(父親の方)は、総理の器では無かったことを示している。捕われていた赤軍のメンバーを開放した理由が、「人命は地球より重い」だった。つまり、福田元首相の思考がダイナミックレンジを越えて、発散してしまったのである。「人命は地球より重い」という表現がそれを証明している。もし、特別狙撃隊を用意して用いていたなら、数人の乗客の生命が失われたかもしれない。しかしその場合は、その後北朝鮮に拉致されることになった多くの人々の自由や命の喪失は無かったかもしれない。

==(このハイジャック事件はよど号事件ではなく、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件でした。訂正させていただきます。2015/1/12)==

 また、この福田元総理の“決断”とその後の多数の日本人拉致事件は、日本国が国家としての威厳を保持していないことを内外に印象つけた。

 ただ、その福田元総理の判断を国民は激しく非難しただろうか?非難した人は少数であり、世界の侮蔑の声とは裏腹に日本では大きな動きもなく過去のファイルの中だけに残った。つまり、福田元総理は日本人の思考のダイナミックレンジを承知の上で、自分の総理の席と日本の国家としての損失とを測定して、総理の椅子の暖かさを選択したエゴイストだっただけかもしれない。つまり、問題は日本国民の思考のダイナミックレンジなのである。

 思考のダイナミックレンジは、その国の歴史や文化によって大きく異なる。人と人のネットワークの中に埋没する様に行動してきた国民は、生まれてからの行動のレンジが狭く、思考の幅も狭くなる。その場合の思考のダイナミックレンジは当然低くなるのではないだろうか。逆に、予想される人生の幅が広ければ、それによって生じる感情の幅、思考のダイナミックレンジ全てが大きくなると思う。

 日本には、人と人の関係が定常的になる様に、古来独特の道徳規準「和をもって貴しとなす」がある。例えば、日光東照宮にある左甚五郎の彫刻「見ざる言わざる聞かざる」が示す様に、日本人は他人に自分の意見を述べるかどうかさえ、思考の範囲に置かない様に教育されている。人命どころか、人間関係破壊の危険性さえ、思考範囲の外に置くのが日本の文化である(注4)。 最近、「嫌われる勇気」と言う本が売れているとのことである。何と言う閉塞した人間空間に住む人たちだろうか(注5)。 

注釈:
1)行動の“大きさ”は判り難いかもしれない。個人では大きな買物であったり、大きな決断であったりするし、国家であれば大きな予算措置であったり、大胆な政策であったりする。 
2)ダイナミックレンジ(dynamic range)は、識別可能な信号の最小値と最大値の比率をいう。ダイナミックレンジを越えた信号が入力されると、最大の応答を示したままである場合、それを飽和という。また、一定以上の信号入力により、急に出力が最大限になってしまう場合を発散という。線形性とは、信号がA倍になったら、A倍の出力を発生することを言う。
3)相手が中国であったなら、オバマ大統領は別の対応をとったと思う。もちろん中国が相手なら、SPEはそんな映画は作らない。また、原則論で問題を処理するなら、“表現の自由”の原則よりも“人命は地球より重い”の原則の方が、説得力があるだろう。
4)“見ざる言わざる聞かざる”は、身分が上の人の悪しき行為を見たり批判したりしないということであり、儒教の考え方“避諱”だと思う。「避諱」は、孔子が「春秋」を編纂したとき、原則にしたということである。 5)私も例外ではない。反発はするものの、人間関係の重さに苦しんだ経験をもつ。

2014年12月20日土曜日

男性社会でのSTAP騒動:理研は恥に上塗り漆掛け

 昨日から”STAP細胞再現実験終了”、”STAP細胞存在せず”、”小保方氏理研退職”などの見出しのニュースがテレビなどで頻繁に報じられている。半年前に書いた様に、科学研究に多少とも拘った者には、STAP細胞の件は論文を取り下げた段階で、全て白紙になっている。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/06/stap.html新しい研究なら兎も角、再現実験として国費を投じるのは馬鹿げている。科学的には幽霊であれ、その存在を否定することは出来ないのだから。残るのは国費の不正使用の疑惑のみである。

 毎日新聞のニュースには、理研の野依良治理事長の「STAP論文が公表されてからこの 10ヶ月間余り、小保方晴子氏にはさまざまな心労が重なってきたことと思います。このたび退職願が提出されましたが、これ以上心の負担が増すことを懸念し、本人の意志を尊重することとしました。前途ある若者なので、前向きに新しい人生を歩まれることを期待しています。」とのコメントが掲載されている。http://mainichi.jp/select/news/20141219k0000e040186000c.html  科学研究費の不正使用と世紀の大捏造事件の疑いの極めて濃い小保方氏に対する、所属研究機関の長の何と暖かいコメントだろうか。しかも研究所の看板研究員がこの疑惑の中で自殺に追い込まれたのにも拘らずである。小保方氏は犯罪者である可能性が極めて濃いのだ。この理事長は何と無責任な発言をする人だろうか。

 中年のうさんくさい男性研究員なら、どのように扱われていただろうか? この熟柿のように成熟し尽くした男性社会の改質なくして、女性登用の拡大を叫ぶ首相の何と愚かな事か。

男性にとっては、この世は氷の世界だ。(井上陽水の歌を思い出す)

2014年12月19日金曜日

ザ・システム日本:「なぜ日本人は日本を愛せないのか」

 カレル・ウォルフレン氏著「なぜ日本人は日本を愛せないか」(和訳)を読んだ。文章は明快であり、多くの示唆に富む記述を含むが、途中から問題の本質を外しているではないかという感想を持った。

(A)日本人が日本を愛せない主な理由として、国民が自国の歴史に決着をつけていないことをあげている。つまり、第二次大戦の総括を行なっていないため、愛国心が芽生えないのだと云う考え方である。最初に結論を言うと、私には、著者の解析には無理があるように思えた。勿論、それも理由に含まれるかもしれないが、それよりも重要な理由は、日本が市民革命を達成して民主主義体制に移るという西欧の歴史の流れの中にないことだと私は思う。それは、以前のブログで日本人に愛国心は育たない理由として書いた通りである。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/11/blog-post_19.html (注1)

 西欧の人だけでなく多くの国の人々は、先の大戦は日本国民の主体的な体験であると考えているが、典型的な日本人の感覚ではそうではない。むしろ、最近の中国周近平主席の演説にあったように、http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM13H2D_T11C14A2NNE000/一部の軍国主義者(つまり、日本の支配階級が作る行政&官僚組織)の行為として解釈する方が正しい認識だと考える。従って、国民にその歴史の消化を強いることは出発点から間違っている。勿論、著者ウォルフレン氏もこの論理の存在について気付いている。

 この本の第二部の中頃226ペイジに「責任と悔恨」というセクションがある。そこで、「欧米国の多くの人は、日本人が過去の行為について何故ドイツ人の様に誠実さと悔恨の情を示せないか屢々不審に思う。(中略)そして、日本人が自分達自身をあの戦争の被害者のように感じていることに怒りすら感じる」とある。つづいて、「真に民主的な政治環境に育った欧米人にとって、ある国民に強いられて行なったことに関しては、その国民全体に罪があるとは言えない場合もある、という理屈を受け入れるのは、極めて難しいことなのだ」とある。

 また問題の本質は、「今日の日本と戦争中の日本政府とは全く別物だということを、世界に向けてはっきり表明できる仕組みがないのである」と分析している。しかし、今日の日本が戦争中の日本政府から改善され全く別ものであれば、著者の期待するような声明が既に首相より出され、問題は解決しているのではないだろうか? 

 つまり、マッカーサーが持ち込んだ新しい日本の姿は、単に戦前の日本に似非民主主義を上塗りをしただけではないのか?。マッカーサーの役割については、第二部において異なった角度から「マッカーサーの不幸な遺産」として言及されている。天皇を戦争責任論から遠ざけたことと、それを本国が了解する様に異常な憲法を制定させて、日本が国家になることを象徴的に否定したということである(180ペイジ)。現在の日本では、憲法により骨抜きにされたものの、元々の”国家の遺伝子”により戦前の日本型システムによる国の姿がしっかりと再生されていると思う。

 本来なら、敗戦の大きな混乱に乗じて、本当の民主主義を日本に移植するチャンスだったが、敵国の将にその義務はない。また、その後の形が定まらない内なら、国家の体を回復して市民意識を醸成できたかもしれない。戦後二十年間程過ぎれば、その可能性が消え去る。当時の自民党政治家たちが、現在の政治家より遥かに優秀に見えるものの、無能であったということだろう。

 何度もこのブログに書いた様に、太平洋戦争前後の歴史を総括することは非常に大切である。しかし、それは日本国改造の第一歩に過ぎないだろう。そして、その第一歩を踏み出しても、日本国民の大半は日本を真に愛する気持ちが生じてこないだろう。それは、日本国民の大半が理屈ではなく、感情として自分達がこの国の主人公だとは思っていないからだ。古代から現在まで一貫して、国民の大多数は披支配者でありつづけた。そして、この統治する側と統治される側の分離、水と油のような関係は、太平洋戦争で一銭五厘の葉書で招集されて一命をジャングルに落した人たちの家族や親戚達の記憶が残る、現在まで続いているのだ。

 第一部の中頃98ペイジにこのような記述がある。「もし貴方が市民でありたいのなら、あなたには、社会の行方に関心をもち、必要とあらば政治的活動に自ら乗り出していく義務がある。」これには全く賛成である。しかし、序論的部分でこの言葉が出てくる所に、著者の分析における限界を示している様に思う。一定の知性ある層にかなりのパーセンテージで市民意識の芽生えを期待するには、日本の権力機構の在処が明確になり、国民と明確につながる必要がある。しかし、この前提が成立するには、次のセクションでも述べる日本型政治社会システム(The System "JAPAN")が破壊されなければならない。安定した時代には、自己無撞着的なこのシステムから脱することは不可能に思える。

書きたいことのエッセンスはこれで終わりだが、以下に、表記本の感想を著者の文章を引きながらより詳細に最初から書く。

(B) 現在、多くの日本人は自国に対する不信感を持っている。また、この国家の将来に、大きな不安感を持っている。知的で有能な人ほどこの傾向が強く、その絶望感や無力感がこの国の将来に対する関与を躊躇わせている。目がよく見え人とほど、目の前の巨大な壁の立ちはだかる様が良く見えるのである。その原因とも結果とも言えるが、日本という国を十分に愛する人が、十分な数だけこの国にいない (p21)。これには、この国の文化とともに、この国のこれまでの歴史が関係している。 

 この様な状態から脱するには、多くの真の愛国心をもつような人材を育てる必要があるのだが、著者はその為に、“日本国民が自らの過去に決着をつけなければならない”(p27)と書いている。そして、それがこの本の第二部(pp147-252)の主題である。著者が“過去に決着”で意味することは、第二部の内容から察するに、主として太平洋戦争前後の日本の歴史的事実を日本自身が明らかにし、それを正しく評価することである(注2)。 

 著者によって指摘された”日本人が受け入れるべき過去”には異論がある。先ず、太平洋戦争時の戦争犯罪として南京の大虐殺や従軍の“性奴隷”について、中国や韓国の宣伝をほぼ認めているのには同意しかねる(注3)。また、太平洋戦争の日本側の原因である、軍事官僚(関東軍)の暴走の原因は、良く言われる様に明治憲法において、日本軍は内閣の下に無かったからである。そして重要なことは、「日本には人民が政治に参加する機会も経験もなく、国を治める側と治める対象である民衆は過去から現在まで分離したままであり、西欧諸国のようにそして米国のように、市民が民主主義を獲得した訳ではない」ということである。

 つまり、決着をつけるべき政治的過去は、日本の国民一般(人民或いは市民一般)には元々存在しない。国民一般が歴史への関与として重要なのは、市民革命的経験の無さをどう克服するかと言う点だと思う。

 第一部と二部に夫々次のような記述がある。“多くの米国人は、国が何をして何をしないかを決めているのは、最終的にはその国の人民だと信じている。一方、日本人の多くは、自分達の個人的行動が日本の統治のあり方に変化をもたらすことはあり得ないと思い込んでいる。”(p71)そして、真に民主的な環境で育った欧米人にとって、ある国民が強いられて行なったことに関してはその国民全体に罪があるとは言えない場合もある、という理屈を受け入れるには極めて難しいことである(pp228-9)。重ねて言うが、“過去に決着すること”が日本国民一般にとって困難なのは、それは自分の体験では無いためである。敢えて決着を付ける為には、新たに創造しなければならない。それが、ドイツと違って、日本での戦争再評価が困難な一つの大きな理由だと思う。

 統治する側は、江戸時代では幕府であり、その下の藩主を中心にした“官僚組織”である。その官僚組織が明治時代には天皇という冠を頂いた軍官僚であり、戦後はマッカーサーを中心にした米国官僚であり、そして、平和条約以後は霞ヶ関の官僚組織である。日本の何処にも何時の時代にも、人民や市民という階層が実際に力をもったことは無かった。この市民に統治する側にたった経験を欠いていることが、皮肉にも戦後民衆が、敵国の将であるダクラス・マッカーサーを新しい統治者として歓迎したことにつながる。

 この統治する側と統治される側の分離、水と油のような関係であり続けたのには理由がある。それは、この日本の統治機構が、統治する主体と統治主の委託により行政を行なう側が建前と本音で逆転するという(特性を持つ)ということである。そしてそれが、日本の統治機構の無責任体制の原因でもある。つまり、行政を行なう側は官僚組織であるが、それには本来説明責任つまりアカウンタビリティー(注4)がない。説明責任があるのは建前上の統治主体である政府である。しかし、官僚組織は本音の世界において統治主体であることを自覚しているため、説明すべき行政の経緯、つまり歴史資料を、日常書類の様に数年後には焼却するのである。それが、官僚組織が歴史の敵となる(P156)理由だと思う。

 このようなシステムになったのは、それが本当に統治する側と建前で統治の主体である側の双方にとって便利だからである。説明責任が無いのだから、何か特別なことが起こらない限り統治する側に居続けられるからである。その結果、統治機構の廻り全てが、それを前提に最適化するようになる。そしてそれらは総合して日本型政治社会システム(The System "JAPAN";日本という政治社会システムの方が良い命名かも)を作っている。 これは島国だからこそ可能になった、世界に類を見ないものだと思う。そして、このシステムはグローバル化した時代に日本が適応する際、その障害となるのだ。

 上記最適化は、self consistentの意味であり、見慣れない言葉を使って良いのなら”自己無撞着化(注5)”と言うべきかもしれない。例えば、三権分立の原則は何処かに消えて、最高裁判所は行政の後を追うだけになっている。具体的には、自衛隊は憲法9条に照らせば、違憲であることは明確であるが、しっかりした軍事力として存在している。また、大きな一票の格差も違憲である。こちらの理屈付けは、「違憲状態であるが違憲ではない。従って、行なわれた選挙結果は有効である。」という、言語的に支離滅裂なものである。マスコミも上記システムと敢えて対立するのは、企業とし得策ではない。従って、裁判所の発表通りに報じるので、国民は法律をお経のように難解なものと考えて納得する。更に、暴力的な人たちのグループも、日本独特のヤクザという組織を作ることになる。ヤクザは従って、一定の社会的役割を果たすとともに警察や公安と一定の距離をとって、共存或いは協力してきた(注6)。それらを含めたシステムは、巨大且つ強大であるが故に、ほとんどの人はそこにすっぽりはまり込むか、遠く距離をとるかのどちらかの態度をとる。これが、島国の社会全体を巻き込んで自己無撞着化したThe System "JAPAN"(ザ・システム ジャパン)の完成された姿である 。因に、元公安調査庁の菅沼氏によれば、21世紀初頭の暴力団の収入額は当時のトヨタの利益と同じ程度、一兆円に近いレベルであったとのことである。

 日本におけるこのシステムを解体し、日本国民に市民意識(シチズンシップcitizenship)を植え付けるチャンスは大戦後にあったかもしれない。しかし残念ながら、或いは、当然かもしれないが、マッカーサーは日本の事よりも自分の名の方が大切だったのである(pp188-192)。マッカーサーは日本に向かっては、新しい国を産む苦しみよりも甘い飴玉を与えて徹底的に幼児化する方針をとった(注7)。また、戦争の原因を好戦的な日本人による軍国主義によると評価する一方(東京裁判の人道に対する罪)、それを防止する為の安全装置としての憲法9条を、米国や諸外国に向かっての説明材料としたのである。ここが、この本の中で特に重要で日本人必読の箇所であると思う。
その結果、日本に伝統的な行政システムが官僚と政治貴族との間に保存され、一般国民は統治される側として下に沈んでいる状況は不変のまま残された。

 以上から、何度も繰り返すが、日本の知識人が政治に参加しない原因、愛国者が育たない本質的な原因は、日本に市民革命の歴史がなく、また、それを近くで学ぶ機会がなかったからだと思う。そして更に、日本という社会システムが巨大化複雑化した為(ザ・システムジャパン)、チャレンジするには高すぎる壁となって前に立ちはだかるからであると思う。しかし、全くそのような愛国者が出てこない訳ではない。著者は例として、江戸時代の安藤昌益や植木枝盛などをあげている。私は、最近出来た日本維新の会の橋下氏をあげたい。知識人の一人として立ち上がり、政治家となって果敢に政策を実行している。ただ、平時にそのような人が多数あらわれるだろうか?私は何らかの危機的状況が日本に起こらない限り無理だと思う。

注釈:
(1)書かれている内容を熟読すれば、このような内容もあると言えなくもない。しかし、それが中心的であるような明示的な指摘はなかった。
(2)勿論歴史全体について書かれている。しかし、その中心に太平洋戦争の国民としての"消化"がある。戦後は民主主義国家であると著者は考えているから、著者の考えにおいて『国家として』は『国民として』に等しい。そして、そのプロセスを戦後の政権は妨害しているのである。何故なら、第二部の最初の方に以下のように書かれている。「自民党の政治家たちは、歴史の問題に正面から取り組むのを避けることによって、党内の潜在的な問題から逃げて来た、つまり、かなり多くの自民党政治家、とりわけ1950年代、60年代の彼らは、1945年以前の抑圧的政府の内部に大きな位置を占めていた人々だったという問題から、逃げなければならなかったのだ。」
(3)「南京大虐殺の虚構」という類いのタイトルを持つ本は、たくさんある。また、性奴隷については、米国の日本による戦争犯罪に関する調査資料には、強制連行などの記述は全くなかったことが最近明らかにされている。また、それを発表した朝日新聞の記事は周知の様に最近取り消されている。しかし、これらは日本国あげて再調査し、これらが事実であれば或いは新たな事実が見つかれば、新たな補償等検討すべきである。
(4)アカウンタビリティーは説明責任と訳される。ある政策が立案されたとして、その必要性や実行方法、そしてその結果や評価などを説明する責任である。
(5)自己無撞着というのは、システムが与えられた条件を全て満たして、矛盾を生じない状態をいう。私個人は、量子化学の用語(self consistent field)でこの言葉を知った。
(6)引用したサイトで、元公安調査庁の菅沼氏が、ヤクザの社会的役割について講演している。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40
(7)国家の中心にあった天皇に戦争責任を問わないで、温存した。また、日本企業の米国内での経済的活動の自由度を大きく認めた。また、日米安全保障条約で日本の防衛を米国が主に行なう体制をとった。
(12/23; 再度編集)    

2014年12月18日木曜日

日本は北朝鮮との国交回復を目指すべき

 今日のニュースによると、オバマ大統領がローマ法王の仲介を得て、キューバとの国交回復を模索しているということである。共和党要人は、キューバが民主化されてから国交を回復すべきとの声明を出したが、それは間違いだと思う。北朝鮮もキューバも経済の発展がなければ、民主化はできないだろうし、現体制下ではその経済発展はなかなかできないだろう。

 米国がキューバとの国交回復を模索しているということは、日本も北朝鮮と国交回復を模索するチャンスであると思う。そして、それが実現すれば、拉致された被害者をはじめ、北朝鮮にいて帰国を希望する日本人をそっくり取り返すことが出来る。11月に私はブログに「北朝鮮をソフトランディングさせるべき」http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41810584.htmlということを書いた。北朝鮮問題は、徐々に解決できる問題ではないので、日本、韓国、米国の三か国が協力して、且つ、中国及びソ連の同意を得て、一気に解決すべきであると思う。

 以前のブログで書いた様に、北朝鮮から拉致被害者を取り戻すには、北朝鮮への戦後補償金の意味を持つかなり巨額の経済援助が不可欠である。そして、それを実現するためには日朝間の基本条約締結が不可欠だと思うが、それには二つの大きな障壁がある。それらは、北朝鮮の核兵器問題と日韓基本条約にある“韓国が半島の唯一正統な政府である”とする条文である。

 そこで、北朝鮮が非核化され、且つ、経済発展して民主化の準備ができた段階で統一するというシナリオで、米国と韓国の了解を得る必要がある。米国には、それだけではなく本格的なコミットメントを依頼しなければならない。日本だけの外交力では、北朝鮮の狡猾な外交と対峙することは無理だと思うからである。米国の助けを得て、日本が先頭に立って動く事が出来れば、一兆円レベルの経済支援と引き換えに、北朝鮮は核兵器の廃棄と体制の改革を実行することが出来るかもしれない。如何だろうか?

2014年12月9日火曜日

表通りの法と正義

女子高生がきわどいサービスを男性に提供するJKビジネス(注1)という商売があるらしい。こんな商売を放置することは、日本の社会通念のレベルの低さを世界に宣伝している様なものだ。法整備を含め厳しく取り締まるべきである。危険ドラッグ(以前は脱法ハーブと呼ばれていた(注2))など、灰色領域のハーブも白黒はっきりつけて法を整備し、取締りを厳しくすべきだ。

近代化されていない国家の特徴は、それらに白黒つけることがなされず、出来ず、又は故意に放置され、灰色領域が広く存在することである。そして、そのような前近代国家では、政府も社会も違法行為を灰色領域に押し込んで批判を避けようするのが常である。従軍慰安婦というのも売春が違法でなかった当時でも灰色領域にあり、日本政府が明確に白黒に峻別しないので、欧米では黒と受け取られつつある。「日本政府(軍)の関与は業者に便宜をはかり業者と共生を図っただけで、婦女子を拉致した訳でも強制したわけではない」と日本政府が主張するのなら、上記のような灰色領域も白黒に峻別する姿勢を示して、日本は本当の意味で法治国家である旨主張してほしい。

対馬からの盗まれた仏像の返還を止めた韓国の裁判所の決定、中国の共産党執行部の恐ろしく巨大な腐敗など、東アジアは未だに国家の中枢すら近代化されていない。そのような目で日本が見られない様に、灰色領域の取り締まりを厳しくするように民意を動員して行政に要求すべきである。

ただここで、本当の意味で”法と正義の下に近代化”されている国家などあるのか?深くに真実を隠して、巧妙にメッキがされているだけではないか?という質問はあり得る。しかし、”表通り”はしっかりと法と正義の支配で飾るのが、政治の義務であるとしか答え様がない。12月6日の記事、”建前と本音の二重らせん”もこのあたりの議論の参考にしてほしい。法も正義も表通り(つまり公の空間)に敷きつめるもので、常に表から作用させるものなのだ。

健康な人間でも、体には細菌が常に無数に存在する。細菌はコロニーをつくることもある。しかし、全身にそれらが広がった場合も、そして、全身消毒滅菌した場合も同様に、その人は死ぬ危険に晒される。社会においても、全身を殺菌消毒するように、表裏両面から法と正義を適用しようとすれば死滅するだろう。出来るだけ表から見える様に社会を作り、常に表から法と正義の明かりを照らすことが原則だろう。何故なら、法も正義も所詮人間の創った直線であり、現実も美も曲線で構成されている。それらを直線で近似するように全てにおいて強制するのは無理であり、全エネルギーをそれに注ぎ込めば「角を矯めて牛を殺す」ことになると、古代中国の天才は教えている。

注釈:
1)JKは女子高生(JoshiKousei)の省略形。AKB48のAKBは秋葉からの命名だが、秋葉は秋葉原の省略形。これらを見ても、日本の言語空間が貧弱である事が判る。また、男性は性的な関心で女子高生に接する事が明白だが、それを”きわどい”と言う言葉で誤摩化すのが一般的である。
2)法規制が追いついていないが、精神作用が強くて危険なハーブと言う意味で、脱法ハーブと呼ばれていたもの。しかし、今年これらハーブの名前が、危険ドラッグと改称された。drugは薬品であり俗には麻薬の意味でも用いられる。麻薬で危険でないものはないし、医薬品を危険というのは一寸非文明的である。いままで脱法ドラッグと呼ばれていた物の呼称とするには、”危険ドラッグ”は貧弱な言語空間での産物と言える。

2014年12月6日土曜日

”建前”と”本音”の二重らせん

1)“建前”という言葉の元々の意味は、“家屋の建築で、主要な柱や梁,棟木などを組み上げること”、また、その時に行う上棟式である。しかし、スペースアルク(http://www.alc.co.jp/)という何時も利用させてもらっているサイトで英訳すると、上棟式は出てこないで、注釈(注1)に書いた様に比喩的な用法が全てである。それを参考にすると、建前は殆どの場合、要するに、“公の立場”と“言葉上の理由付け”の二つの意味で用いられている。

 日常の会話では、“建前”は幾分軽蔑的に用いられて、“真理である本音”が大事であると考えられる場合多い。しかし、我々がかなり楽観的に人間関係を築いて、社会の中で一応安心して生活できるのは、人々が“建前”つまり“公の立場”を社会において堅持するからである。つまり、“建前”は元々の意味の通り、社会の骨組みをつくるものであり、人類が混沌の中から作り上げた文化そのものである。そして、この”公の立場”があってこそ、人は平等に生きる権利を得、社会にその存在(生存)を主張できるのである。個人としては、公に預けた“建前”と対を為すように、本音をしっかり心の中に保持して良いのである。

 インターネットやそれに手軽にアクセスできる携帯電話(スマートフォン)が問題視されるのは、その本音と建前の混在した世界をサイバースペース (ネット空間、電脳空間)として人々に提供するからである。つまり、本音と建前は二重らせんのように、同一の個人に存在するが、決して融合してはいけないのだ。この“二重らせん”の融合は、公の文化の下で享受出来ることになった近代文明の崩壊を意味する。
追加(12/8):(本題で言いたい事はこれで終わりだが、何故この文章を書く気になったかというと、DNAの二重らせん構造の発見でノーベル賞を貰ったワトソン博士が、そのメダルを競売に出したというニュースを見たからである。以下にその話を追加する。)

2) 因に、DNAの二重らせん構造を提案したワトソン博士のノーベル賞メダルが競売にかけられ、五億円の値段がついたと言う事である。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20141129-00041084/) ワトソン(以下敬称略)は、ロザリンド・フランクリンが撮影した、DNAのX線回折像を見てその二重らせん構造のモデルを思いつき、論文を書いてNature誌に発表した(1953年)。その後、ワトソンはクリックやウイルキンソンとともにノーベル賞に輝く(1962年)。その受賞後しばらくして発表した、ワトソンの著書“二重らせん”(1968年)で、DNAのX線回折写真を撮影したロザリンド・フランクリンを暗愚な研究者として描いているという。ノーベル賞を得るまでには、醜悪な人間ドラマというべき経緯が存在していたのだ(上記サイト参照)。

 ワトソンが、何故ロザリンド・フランクリンというユダヤ人女性を暗愚な研究者として描いたか? それは、恐らくワトソンがNature誌にその論文を出さなければ、ロザリンド・フランクリンが同じ事を論文にしてどこかに発表していた可能性があるからだと思う(注2)。この場合は、ノーベル賞が彼女にもたらされ、ワトソンのノーベル賞も学会での名誉ある地位も無かった筈である。つまり、その可能性が無い事を強調しなければ、ワトソンが本来の筆頭著者かもしれない彼女を外して論文を書いたことになり、その悪意ある行動の評価が社会に定着してしまうからである。

 現在の日本では、ある研究の為にX線回折像を撮影してもらった場合、その研究成果を論文にする際にはX線写真を撮った人も共著者になるのが当たり前になっている。しかし、本来の科学文化の中では、その論文の全てについて寄与がなければ(内容の主張=presentation=が出来なければ)共著者になってはならない(注3)。つまり、ロザリンド・フランクリンがX線像から二重らせんという長周期構造を思い付かない程に暗愚であったことにすれば、彼女を共著者にする必然性はないのである。私は、ワトソンが“本音”を隠して、その創造した“建前”を自著“二重らせん”に強調した可能性を感じる。

 更に言及したいのは、ワトソンが「アフリカの黒人は、遺伝子の段階から知能が劣るだろう」と発言したことで、学会等から忌避されてしまったことである。ワトソンは「あの発言で社会的に抹殺されてしまった」と英紙フィナンシャル・タイムズに嘆いているとのことである(上記サイト)。つまり、建前として大切にしなければならない事をわきまえず、思わず本音を公の空間で吐いてしまった為に、社会から抹殺されたのである。

 本音は、人権や報道の自由として局限された個人的空間に封じ込め、建前を公としての社会の骨組みとして採用したのが、人間の智慧であり文明の基礎である。ワトソンはこの建前と本音の二重らせん構造を十分わきまえていなかったようだ。

追加:DNA構造発見の経緯について書かれたものがありましたので、以下に参考文献として追加します。参考文献:http://thomas.s301.xrea.com/thinking/20seikisaidainohakken.pdf(12/6/11:05)

注釈:
1)辞書によると:polite face (礼儀的な顔); public position (公の立場); one’s public stance (人の公としての立場); one’s stated reason (人の言葉の上での理由)などが書かれている。 これらから本文章内では、“公の立場”と“言葉の上での理由付け”を建前の二つの側面からみた意味として用いる。関西地方では上棟式の意味ではフラットに発音し、本音と対する言葉で用いる場合と区別している。
2)同じ年に化学者として有名なライナス・ポーリンング博士も独自の3本鎖のDNA構造モデルをNature誌に発表している。その事から、競争の激しいテーマだったことが判る。
3)X線回折のデータをワトソン氏にフランクリンに相談無く見せたのが、ノーベル賞の共同受賞者のウィルキンソン氏ということである。それにも拘らず、ウィルキンソン氏が1953年のNature論文の共著者になっていないのは、この科学文化ではあり得ないことではない。従って、ウィルキンソン氏はロザリンド・フランクリン女史が撮ったX線回折データの意味が十分判らなかったのだろう。(12/7朝追加しましたが、ここで最終稿とし、追加は別途”二重らせん”を読んだあと書きます。) 上記()似ついて追加(12/8):二重らせんを60%位読んだが、興味が続かずギブアップする。その時点は、ワトソンらはポーリングが蛋白のαーヘリックス構造を見つけたのと同じ、分子モデルを用いる方法でDNAの構造を模索している段階である。ロンドンのロザリンド・フランクリンとモーリス・ウィルキンソンとの間の関係が極めて悪いというが、その根拠が明確ではないのが印象的である。しかし、それも答えを知っての事かもしれない。ウィルキンソン自身が第三の男とか何とか言う題で本を書いており、そこでのフランクリンとの関係は大分違うようだ。

2014年12月2日火曜日

民主主義は、まともな政治制度なのか?

 今日は衆議院選挙公示の日である。党首討論をテレビで見ても、まともな事を言っている人は殆どいないと感じる。今朝の(中日)新聞の一面には、各党の主張を掲げた党首の写真が載っている。

この道しか無い:どのみちですか?と聞きたい。この道と指し示す安倍さんの指先には道らしきものは何も出来ていない。もう二年たった。金をばらまいて株価は上がったが、国債の格下げが昨日発表された。皮肉を言いたいのは米国人だけではない。議員定数の削減や一票の格差是正、規制緩和などの言葉が空しく響く。

  軽減税率:そんなこと、手間ひまかけてやる必要がない。小手先のことを看板に掲げるこの党は与党の名に値するのか。
今こそ流れを変える時:流れが変わったことがあったが、貴党は、そこには泥沼しかないことを示されたのでないですか?
是々非々:何が是、何が非なのか?集団的自衛権行使容認とアベノミクスの前半が良くって、アベノミクスに後半がないという事に対して、是是非非といっているのだろう。「貴方の右半分、美人だわ」と言っている様に見える。自民党に戻られたら如何?

身を切る改革:やってもらいたいが、橋下党首が総理にならないとできないだろう。私が政界において応援しているのはこの党だけである。橋下さんによる大阪の市バスなどの民営化は、見事だった。しかし、それを国政でやるまでには、軽い舌を何とかしてほしい。また、身の安全確保を真剣に考えて欲しい。 

国民の生活が第一:当たり前のことを今更。。。日本改造計画は素晴らしい本だった。小沢さんのゼミで学者連中が組上げた本だとしても、小沢さんの思想が学者連中の原稿という形で具現化したものと信じたい。ただ、此の人は命を懸けて政治の世界にいるのだろうか?と何時も疑問に思って来た。小沢さんは碁が得意である。先の先まで読んで、この国を改革することが不可能だと悟りきっているのかもしれない。
暴走ストップ: 共産党にそのままお返ししたい。毛沢東、スターリン、チャウシェスクなど、皆暴走したのではなかったでしょうか?彼らとは違うと仰っても信用できません。
平和と福祉: 社民党さん、その看板は白紙と同じですよ。


 ところで、民主主義とは、日本で可能な制度だろうか?あの戦後どさくさにまぎれて制定された憲法が未だにそのままになっているこの国の異常さから、この疑問が何時も浮かぶ。自民党は田舎の結束した人間関係を利用し、そこで選出されることで安定した政権を維持してきた。都市部に人が集中するようになって、一票の格差が開いても、それを是正すると議席を失うのでやらなかった。最高裁判所判事は自分の席を暖めるのみで何もしなかった。違憲状態と違憲とは異なるという言葉の魔術を用いて、制度である筈の三権分立の原則を無視してきた。

 西欧では、民主主義が機能しているようにも見える。しかし、私は疑う。裏にプロ組織があり、その活発な活動が、国民世論を巧みに誘導しているだけだろうと。論理的思考が可能な言語を持ち、個人が自立した西欧諸国では、国民世論の誘導はそれだけ難しい。その結果、外から見て、民主主義が機能しているように見えるレベルの、緻密に偽造された偽民主主義なのだろうと。

 はなはだ失礼な話だが、一般国民は冷静にサイエンティフィックに見れば、烏合の衆である。それが、国家の行く末を正しく見ることなど出来る筈がない。まともにそのような制度を導入することになった日本が、現在の無責任体制に至るのはむしろ自然である(注釈1)。民主主義は、選挙権以外は無報酬で、国民の命を兵士として差し出させる国民国家と一体化した政治制度である。ギリシャが世界を席巻していたころに出来て、その後使いものにならないとして遺棄された民主主義が、国民国家という国家形態とともに復活したのである。民主主義は、その捨てられたときの遺伝子をそのまま持っているのだ。

注釈1:
日本では官僚組織が国家を運営することで、辛うじて体裁を維持していると思う。不安定な政治家という身分では、そして、民衆に選ばれなければならないという条件下では、政治家はプロフェッショナルな仕事はできないだろう。単に、官僚のつくった曲を、国会や内閣官房で演奏しているだけだ。プロと一般人の差は、例えば体操の白井さんを想像すれば良い。大学を卒業しても、更に大学院を出ても、一人前のプロ(専門家)にはなかなかなれない。国際政治がプロフェッショナルの世界であるなら、現在の日本の政治家の殆どは働く場がないだろう。以上のことは、上の写真のフレーズを見れば、そしてあの無様な大臣辞任劇を見れば明かだ。(本注釈は、12/3追加)

2014年12月1日月曜日

日本国は経済音痴か

 OPECで石油減産の取り決めがなされず、原油安が進むことになった。ロシアへの圧力とか米国のシェールガスの採掘への投資を防止するためとか諸説ある。日銀はこれで物価目標+2%の達成が困難になるとか、言っているらしい。消費者物価の計算には3通りあるので、生鮮食料やエネルギーを除いたコアコアCPI(中核部分の消費者物価指数)というので目標を立てれば良いと思うが、何故そう考えないのだろう。コスト増によるインフレが目標ではなかった筈だ。

日本の企業は純資産が増加しているのに、配当や給与を増加させない傾向が強い。個人だけでなく企業も貯め込む傾向がつよいのは、金は天下の回りものという、市場経済の原則に反する。誰かが貯め込めば、誰かが借金するしかないのがお金というものである。英国の経済学者スミサーズ氏によれば、1998年から今年まで、金を貯め込むのが個人から会社になり、借金をする役割が主に日本国家という構図に換わった。氏の書いたグラフからみて、およそ貯め込む金の3/4が企業による純資産増になっている。毎年、GDPの0.7%くらいの額を貯め込んでいるのだ。現在、労働の流動性が日本では低く、その利益剰余金が給与に回らない。その解決のために、同一労働同一賃金の原則に違反があれば提訴するように政治が制度面からencourageして、労使間の文化を変える様にすべきである。

 外国企業が日本に進出するなんてあり得ないのだから、法人税をこれ以上下げるのは日本人の幸せにはつながらない。法人税を下げれば、株価は上昇するだろうし、ゴールドマンサックスやモルガンスタンレーが投資額を増やすだろう。しかし、外国人による日本株投資を増加させる政策なんて、日本の個人投資家が犠牲になるだけである。外国のヘッジファンドは株価操作と高い情報収集能力で、個人投資家をカモにするだけだ(注釈1)。日本人が日本企業に投資する体制をつくるべきだ。

 たとへば、株主が国内企業の総会に出る場合、法令で旅費相当額を会社が負担すべきと定めるのはどうだろうか。今のままだと、地方の人間は旅費の関係で総会にでることは不可能である。もし旅費の負担を会社にさせれば、物が言えるので、株投資も増加する可能性が高い。ネットで見ている限り、株投資をしている者には、発言したい人が非常に多い。スミサーズ氏によれば、日本では企業の減価償却期間が短く設定されており、税制上企業が有利になっているとのこと。更に法人税を下げるなんてバカげている。

労働賃金の上昇、国内投資家への利益還元こそ、本来の需給関係でのインフレを達成する鍵である筈。

注釈:
1)グリーやディーエヌエーの株の評価が高いころ(2012-2013)、米国ヘッジファンドやドイツ銀行などは、膨大な空売りをかけた。国内のアナリストの評価など、ヘッジファンドの分析より遥かにレベルが低いことを証明するように、株価はある時は徐々に、突然急激(決算報告時)に低下し、膨大な利益を日本の個人投資家から吸い上げた。