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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2013年9月29日日曜日

JR北海道と過疎化

 JR北海道で線路幅が基準値からずれていたのに放置されていたことが問題になっている。脱線事故の原因究明の過程の中で、報道されるようになった。これはずさんな経営ではあるが、根本原因はJR北海道の財務情況が芳しくないことであると思う。同じような情況にあるのがJR四国であり、橋桁の修理もままならない情況であるとのことである。サンデーモーニングで河野洋平氏が、「国鉄分割民営化の時に既にこのような情況になることが解っていた。解決はこの時の問題点に戻ら無ければ出来ない(細かいところは間違っているかもしれない)」と言っていた。何故、河野洋平氏が解っていたことに目をつむって、分割民営化したか?おそらく、河野洋平氏の理解は中途半端であると思う。つまり、国は民営化されたJR#に、地方の採算のとれない路線を廃止して、採算のとれる様にスリム化することを期待したのではないだろうか。つまり、国の行政としては出来ない地方切り捨てでも株式会社なら出来るので、後の処理を民営化後のJR#に任せたというのが本当のところではないのか。その厳しい仕事が、出来なかったのは、中途半端な形で国との癒着がのこっていた事が一つであり、もう一つは私企業として経営が出来る優秀な人材を経営者として据えなかったことだと思う。力のある人がJR東海やJR東日本などの良いポストを取り、残った人がJR北海道などに配属されたのでは。この重要な人事の問題を、政府主導で行なわなかったのではないのか。
 ここで更に書きたいことは、JRについての上記議論を一般化して、過疎化への対応という問題についてである。一般に、経済構造が変化した時に、人の再分配が行なわれるのは必然である。誰でも生まれ育った土地に愛着があり、不便だがその場所に残る人も多いだろう。しかし、それは元々個人の選択の問題であり、その不便さや経済的困難な情況を、過疎(過度に疎になる)という言葉で表現するのは、正直に言わせてもらえば、一寸身勝手である。それは、地震などの天災で損害をうけた人は、本来自己の努力で、その損害を引き受けなければならないのと同様である。経済構造の変化は明らかなので、予見可能な分、天災に見舞われた人よりは対応は簡単だった筈である。他の地方の人が出来ることは、その自助努力への善意に基づく協力という範囲に限られる。一方、日本に於ける“民主政治”は、一票の価値を過疎地に2倍程度有利にしており、その結果、地方の過疎化を異常事態と捉え、その解消を政府の重点課題の一つとしている。人口再分配の経過措置として予算を計上するのは、行政としては当然のことであるが、それを阻止する方向で行なうのは間違っている。もちろん地方の自治体が新しい人を引きつける手段を創造すれば話は別であるが、中央政府の仕事ではない。
 更に一般化すれば、国民の間の危険や不幸を最少にすべく、本質的及び制度的な面で行政が関与するのは重要な仕事であるが、個々の災害や不幸は、セイフティーネット的なものは別にして、個人の負うべきことである。そこのところを国民に、正しく理解してもらうという努力を、日本の行政は十分行なっていないのではないのか。
注釈:
(1) JRは民営化された後の一定期間は、国(清算事業団など)との繋がりは継続されるが、その後は一私企業としての責任を果たすべきである。

2013年9月27日金曜日

日本病の症状について=具体例1

 福知山線の事故に間して、会社の経営者が業務上過失致死罪で強制起訴されたが、無罪になりました。NHK午後6時のニュースで、法律の専門家と思われる人が、刑法には枠があり、経営者を処罰することは無理なので、新しい法律を造るべきと言っていました。この方、ピント外れのコメントをしています。
 あの事故において、法で処罰されるべきは、運転士(いませんが)や不適応な運転士を業務から外さなかった現場の上司だと考えます。会社の最高幹部には本来の仕事がある筈。もちろん安全な設備や運行形態を実現するように、関係部局に指示するのはその一つであることは言うまでもありません。しかし、それ以下の具体的なことの責任は現場にある筈。日本社会で、最高幹部に関する典型的な理解は、双六の上がりのポジションのようなもので、会社の看板となることである。何かあるとテレビカメラの前で深々と(心の中とは無関係に)頭を下げることが一つの大事な仕事で、また、会社が看板を一新する場合には、首を差し出すのが最後の仕事のようです。この日本病に感染すれば、電器系S社やP社(失礼)などの大企業でも危機を迎えます。そんな国で、現場を知らない最高幹部を罰する法律を造れば、一寸雨が降るだけで、列車が動かなるのがオチです。
 この件で問題にすべきは、検察審査会という無駄な組織・制度だと考えます。法律の専門家数人(検察官、弁護士、裁判官)が証拠と論理的な討論の末出した結論に、素人が感情の趣くままに検察審査会を利用して、強制起訴するという馬鹿げた制度ですから。このことは、小沢一郎さんの政治資金規正法違反のケースで、証明されています。従って、行政の無駄だけはなく、有害な制度だとおもいます。廃止すべきです。

2013年9月22日日曜日

韓国政府は、対日歴史の捏造を企てている。日本国民は目覚めるべきである。

 韓国政府は過去の歴史を脚色して世界に宣伝することで、現在の韓国国民の不満の捌け口をつくり、且つ、日本の国際的地位を低下させることで間接的に利益を得ようとしており、それらの行いは、既に外交というよりも冷戦に近いレベルであると考える。つまり、過去の問題を論じているのではなく、過去の歴史は単なる冷戦的敵対行為の材料でしかない。日本政府と日本国民は、韓国の行為を正しく評価して、対韓国対策を戦略的に策定すべきである。

 韓国政府は、太平洋戦争以前の日韓併合と日本による統治、戦争中の日本軍の振舞、戦後の竹島占拠に対する日本の抗議などを激しく非難している。韓国はこれらの問題を真実の解明というスタンスで日本に抗議していない。例えば、竹島の問題でも、国際司法裁判所への提訴を日本国が呼びかけても応じることはない。(注1) 婦女子を国家がその政策の一環として、強制連行して性的サービスに従事させたという朝日新聞記者の記事についても、(注2)その事実の解明よりも、国際的に宣伝することを優先する姿勢も同じパターンである。これらから言えることは、韓国のやり方は、歴史は創り上げるもので、解明するものではないという理論で裏打ちされている様である。(注3)

  従って、日本国が執りうる対抗策も、正攻法と多角的な方法の二面作戦を執るべきだと思う。正攻法は言うまでもなく、国際司法裁判所などの力を借りて、韓国の主張するところの日韓の間に刺さった棘(とげ)の真偽を明らかにすることを目指す。この場合、例えば、国家として朝鮮半島の婦女子を強制連行して、性的サービスに就けるという事実があったのなら、改めて謝罪と賠償を行なわなければならない。その覚悟を明確にして、韓国政府と対峙すべきだと思う。また、単に家が貧しくて、親が本人に通知することなく対価を受け取った様な場合は、当時の日本やその他の国での社会情況を考慮に入れて、国家が謝罪すべき問題でなく、国際的な非難があっても毅然たる姿勢をとるべきである。また、同時に戦争時多くの地域や国で起こった、軍隊等による婦女子の性的暴行問題の調査と被害女性への保障問題を議論する場を立ち上げる様に提案すれば良い。平時の感覚で戦争時の犯罪行為を裁くことの空しさに気づく筈である。

 もう一つ、奇策に入るかもしれないが、日韓両国並びに国際社会に向かって、李王朝時代の朝鮮時代の半島の状態や、日韓併合に至った経緯、その後の政策などについて、研究公表&宣伝すべきである。(注4)日韓併合の真実とでも題して、シンポジウムをニューヨークで開くとか、色んな方向があるだろう。国立系大学は、その種の講座をもうけ、大規模に研究活動を展開することを第一歩とする。日韓だけでなく、東アジア歴史講座とする方が良いかもしれない。

 兎に角、日本国民全員が本腰を入れて、真実を最優先する姿勢と誠意を背景に、対韓国キャンペーンを展開すべきである。(注5)

注釈:

注1) 小和田氏は国際司法裁判所から退くべきである。それが、韓国の同裁判所に中立的判断は期待できないという言い訳を防ぐことになる。
注2) 吉田清治、本田勝一らの飯を食う為のネタ作りであったと言われている。
注3) 韓国は歴史を捏造しようとしているのだ。100年経てば、真実として定着する筈だと思っている。その試みを破壊すべく、戦略を練るべきである。
注4)併合後、日本国家が半島へ多額のインフラ投資を行なったことを宣伝すべきである。帝国大学も名古屋帝大や大阪帝大よりも早くソールに造られているのである。欧米の植民地支配とは全く異なる事を全世界に知ってもらうべきである。
注5) 対馬の寺から仏像が韓国人により盗難にあった。しかし、昔韓国にあった仏像だから、対馬には返さないという韓国当局の判断にはあきれる。安倍政権は、100%の危機感をもって、あの国に対峙すべきである。

2013年9月16日月曜日

言語空間とその進化、及び現実社会からの独立性

 野性の状態で生きている動物は言語をもたないことでも解る様に、言語は高度な社会を造って生活をするために存在する。人が他の人にその感情や経験を伝える場合、言語空間へそれら感情や体験を投影し、言葉に変換して伝える。言語空間をそう定義すると、言語の特徴及びそれを用いた表現の限界が理解出来る。個人のレベルで存在する記憶が言語でなされるではないか?という反論があるかもしれない。しかし、記憶したことを日記に書く場合には、言語空間に投影する作業が必要であり、多くの人がその時点で或る種の困難に遭遇することから解るように、体験は言語空間への投影を経ず記憶されていると考えられる。言語能力とはこの投影作業の能力であり、言語空間をなす基底(ベース)が言語である。現在、言語は体系的に整備されており、教育により記憶体得される。
   高度に体系化された言語の発生について、昔から疑問に思っていた。言語を神が造ったと考えれば理解は簡単であるが、神の存在を確認出来ない以上、上記疑問は消え去らない。(注1)
 ここでは、哲学の発展に伴って言語空間が整備されたとする方向で、この問題を考えてみたい。哲学は、人間、人間が造る社会、そして自然を、言語を用いて理解することだと思う。換言すれば、哲学とは、人間、社会、そして自然の、言語空間への投影作業であり、言語空間内の領域にある。(注2)
   言語が数千年或はそれ以上に亘って整備されたことは、我々人類が、個人やローカルな社会から独立した共通の“言語空間” (注3)を持っていることを意味する。人間や社会に関する哲学が発展した古代ギリシャの時代に、社会のあり方としてデモクラシーが考えられた。つまり、“公の社会とそこへの個人の参加の仕方”が、考察されたと思う。そして、“公の社会”への参加は、社会の抱える問題とその解決法を、公の空間で言葉により表現することでなされる。そのプロセスで、社会と人間、その両者の関係に対する理解が深まるのである。また、同時進行的に事象の論理的な言語空間への射影を可能にする、独立した(動かない)言語空間とそのベースとなる言葉ができたのではないだろうか。その伝統を持つ、西欧の言語が論理的に優れた構造を持つに至ったと考えられる。
 以上の考え方をサポートする証拠として、数学の発展が挙げられる。数学は広い意味での言語に属する。そのことは、数学は自然科学を表現するために用いられる道具であり、存在物から独立しているという事実から明らかである。(注4)
 そして、言語である数学は、それを用いて表現する科学の発展に伴って、発生整備されて今日の形になったと考えられる。このことは、一般の言語が整備された形へと発展したことと“公の社会空間”の発展が、丁度DNAの2本鎖のようにして進んで来たことと相似的である。
 さて、以上の考察から、何故言語空間の独立性(揺らぐかどうか)に地域差(文化の差)があるか?が解る。日本語は、残念ながら、論理的に整備されていない言語であると思う。その原因は、オリジナル日本語という小さな言語体系に、大きな体系を持つ漢語や西欧語が、“有力な管理者”がいない状態で輸入され定着したためと思う。この詳細も別に述べたので省略する。(注5) この現象論的な理解の他に、上記の”公(おおやけ)としての社会”の発展度の違いから解釈することも可能である。つまり、日本国民が共有している言語空間が、十分な普遍性と論理性(鏡の平面性に相当)を有していないことの裏側に、日本国は歴史的見て、「公としての社会」の未発達な段階にある事実が存在すると考えられる。
 今回、本文章を書くきっかけになったのは、最近造られた特別警報ということばである。警報を出さないで被害者が出た場合、気象庁全体の責任だということになり、トップの数人がテレビカメラの前で頭を深々と下げることになる。この外から見て滑稽で、内から見れば屈辱的な光景を避けたいため、予報官が警報を乱発してしまった。その結果、警報だけでは自発的に非難する人は殆どなく無視されるため、新たに造られたのが“特別警報”なのだろう。今回、福井、京都、滋賀にだされたこの特別警報は、経験したことの無い、命の危険に拘る事態であり、「命を守ることを各自最優先するように」という警報である。(注6)しかし、床上浸水した家屋の数は非常に多いだろうが、ほとんど死者はでないだろう。何れ、特別警報のインパクトは無くなるだろう。その時は、超特別警報なることばをつくるのだろうか?

 このような“ことばのインフレ”現象は、日本では確たる言語空間がなく、本来言語空間への投影対象となる筈の、社会のリアルタイムの風潮や個人の感情からの独立性が明確でないために生じる現象である。従って、現象を投影するスクリーンが動いてしまう一方、光源もぼんやりとした光しか発していないのである。この現象は、上で既に議論したように、“公としての社会”が未発達な状態の日本社会を示している。
注釈:

(1) http://island.geocities.jp/mopyesr/kantou.html


(2) 小説は言語空間から実体験空間への逆投影を言語側から行なったものと解釈される。

ところで、言語空間とひと言で言っても、そのベースである言語の出来次第で、鏡のような平面で像を映すのに良く出来たものから、ことばを受け取った側が、頭の中で被投影物に再構成する際に大きな困難を感じるものまである。ここでは、この揺らがない平坦な鏡のような言語空間へ進化するプロセスを論じているのである。
(3) これは、概念としての言語空間という意味。米国人を日本人では等しく言語空間を持つが、言語が違うことでその言語空間の性質はかなり異なる。 (4) 繰り返しになるが、自然科学の発展に伴って考えだされ発展した数学ではあるが、数学は自然科学の一分野でないことは周知の通りである。 (5) http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html


(6) 滋賀の安曇川上流に住む兄に電話したところ、避難をする程でもないし、大丈夫だということで安心した。

2013年9月13日金曜日

正常な医療行為を超えている不妊治療ー医学の進歩(?)は誰の為か?

  現在日本では、不妊の検査や治療を受けたことのある夫婦は、6組に1組の割合であるとのこと。そして、不妊治療専門のクリニックが世界一多く、体外受精の実施数も世界一になっていると言われている。http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0623/ その種のクリニックが繁盛している様だが、一方でダウン症などの異常児の出産との関係が議論されており、日本民族の将来が心配である。この不妊治療が多いことの原因の一つとして、女性の社会進出に伴って晩婚化が進み、自然妊娠が出来ないケースが増加したことがあるという。日本社会の西欧化に伴った歪みの一つであり、根本的な克服は困難かもしれない。ここでは、不妊治療に話を限って、問題点を考えてみたい。  不妊治療には色んなレベルがある。大きくわけて一般不妊治療と生殖補助治療(ART)の二種類に分けられる。一般不妊治療は子宮のコンディションを整えることとか、排卵を誘発するなどの方法、そして医師の手による人工受精で受精確率を高める方法などがある。一方、ART(Assisted Reproductive Technology)では、精子、卵子を直接取り扱い、生殖を補助する“工学的”不妊治療(私の造語)を意味する。ARTは、体外受精(IVF)と顕微授精(ICSI)にわけられる。顕微授精の場合、漢字として受精ではなく授精が用いられるのは、直接精子を卵子内に注入する方法だからである。ARTの場合は、胚を子宮に移植するのが一般的で、他に比べて障害児となる危険性は増加するだろう。数千万とも言われる精子間での競争で受精が行われることで、人間という種(しゅ)が守られて来たのである。その事実を無視する傲慢(医者と治療希望者の双方)な方法である。  男子に不妊の原因のある場合、精管の閉塞などを外科的に治療するタイプから、精子を精巣から直接採取するTESE(Testicular sperm extraction; 精巣からの精子採取)やMD-TESE(顕微鏡下で精子を探しながらのTESE)といった方法で、不妊治療がなされる場合がある。これらの場合、顕微授精を併用することになるだろうから、非常に人工的なプロセスで出産まで進むことになるだろう。ただ、TESE-ICSIでの受胎率は非常に低く、それだけに多額の費用と多くの危険性を覚悟する必要がある。注(1)  障害児が産まれる危険性は、これら種々のケースによって大きく異なると思うが、そのデータが蓄積公表されていない。注(2) それにも拘らず、不妊治療が保険外治療として広く行われ、医師たちが多額の報酬を得ているのは問題である。これは、医師の収入をねたんでいるのではない。保険外で高収入が得られる事が、医療の本来の姿を歪めている可能性があるからである。これらの医療は果たして、不妊に悩む人のためにあるのか、それとも医者の為にあるのか疑問に思う。
 古来より、子供を得ることを、子供を授かると言って来た。この表現には、新たな命を生じることは神の領域にあり、人知を超えた厳粛なる出来事であるという考えが根底にある。その伝統をいつの間にか破壊し、「子供を作る」という人間の領域に移して、埒外のARTなどで神の領域を犯しているのが現在の不妊治療だと思う。 実際、ネットで検索すると、ARTによる不妊治療に関する悩みや不幸な現実が掲載されている。例:http://blog.goo.ne.jp/uhb123/e/c19678692234b420b82f4c6888501485
<これは理系とは言え、他分野の元研究者の文章です。訂正すべきことがありましたら、ご指摘お願いします。>
注釈:
(1)コーネル大のページ(下のアドレス参照)には、この方法を実施する際の重要なことが書かれている。
a)TESEを行う前に、無精子症が治療可能かどうか完全な原因調査と健康診断を行う。
b)また、TESEを決める前に、女性側の妊娠可能性の評価を行わなければならない。そして、ここでは排卵サイクルを考えてTESEを実施している。
c)このTESE-ICSIでの妊娠確率は20%程度でる。
https://www.cornellurology.com/clinical-conditions/male-infertility/sperm-retrieval-techniques/non-obstructive-azoospermia-and-tese/
(2)障害児出産の確率は、外国での研究報告がいくつかある。この種の治療は、データが揃ってから行うべきであることを強く訴えたい。http://keywalker.afpbb.com/headline/search?q=%22ICSI%22&sort=date&type=text 注釈:

2013年9月8日日曜日

乞食から貴族へ:社会に於ける“価値の物差”の変化

 ここ数日ある漫画家の引退に関するニュースが何度も現れ、それに対する所謂“有名人”のコメントがテレビで報道されている。一人の漫画作家が仕事を止めることに、高いニュース価値があるのだろうかと驚いた。過去何度も止めるといって、止めなかった人であるから、今回も本当のところは解らないのに。手塚治虫氏の死去したときのニュースより大きいことに気づいた時には一寸不愉快な気分になった。(注1)

 そこでその原因を考えてみた。そして直ぐに思い付いたのが、漫才や落語で、そして今回の引退ニュースの主人公も含めて、近い過去に文化功労者が何人も出たこと;それほどでもない女優が国民栄誉賞に輝いたこと、などと同じ現象ではないかということである。つまり、社会における“価値の物差し”が刻々変化しているのである。昔、「物を生産しないし、社会への貢献が無視出来る程度である」として、“河原乞食”と言われた芸人たちが、今や豪邸に住む貴族になったのである。

 それに気づけば、原因の追求は終わったようなものである。つまり、テレビとインターネットの発展である。そして、その道の原点が、量子力学とその原子分子への応用である。(注2) そこを出発点に、半導体の発見およびその理論的理解から、トランジスターやダイオードを駆使した電子回路という工学の分野が飛躍的に発展した。白黒テレビは真空管の発明で可能になったが、その後の発展やインターネットは、この半導体工学なしには不可能であったと思う。そして、その名も無い理学や工学の秀才たちが創った舞台の上で、踊っているのが、低い社会的身分から貴族的身分に登りつめた人たちである。上記ニュースの主人公もその一人である。(注3)

 言うまでもなく、人間は社会を為して生きている。社会は複雑な構造をしており、その全容は天才でも一人では理解できないだろう。それは、人間と同様、骨組みから、頭脳や神経器官、循環器、消化器、内分泌器、解毒排泄器、運動器官、などで喩えられる分野がある。テレビ俳優(タレントというらしい)、スポーツ、漫画といった分野で活躍して居る人も、社会の一部分を支え、且つ、社会の他の部分から支えられているのである。本来、貴族になる理由はないのである。

 最近、家の門扉の廻りの割れたレンガを敷いた部分の修理を、左官屋さんに依頼した。暑い最中に、汗を流しながら、一人で黙々と作業が続けられた。冷たいものを飲んでもらおうと、清涼飲料水を持って行き、その際話を聞いた。「技術を息子さんに教えられたのですか?そして、後を継がれるのですか?」という問いに、その方は、「こんな仕事は勧められない。息子は電気の方に進んだ。それで良いと思う」との返事であった。かなり安い代金で良い仕事をしてもらい、大変感謝している。ただ、「こんな仕事は…」という台詞が非常に気になった。工事代金は、社会が決めた物差しにより決定されるのであり、私が無理を言った訳ではない。  つまり、物差しが歪んでいるのである。(注4)

注釈:

(1) 手塚治虫氏は、大学の医学部を出て、そこから今ではアニメといわれる分野の創始者となった人である。もちろん評価は非常に高いが、当時の“社会の物差”からは、さしたる表彰の対象となる存在ではなかった。

(2) 量子力学は物質の性質を支配する電子の挙動を説明する際に産まれた学問である。その分野の開拓者の何人かはノーベル賞の対象になっている。しかし、その波及効果は、その程度ではなく、将に世界を変えたのである。

(3) 舞台俳優になるには、特別の才能と努力を必要とし、科学者として大成するのと同様に、評価されるべきであると思う。従って、芸能を磨き伝承してきた人たちを乞食呼ばわりするのは、当時の“社会の物差”も歪んでいたからである。 (4) 否、その解析では中途半端である。乞食だって、禅僧とどう区別するのか?全ての人は、「産まれて来て、生きて死ぬ」ことで社会へ参加し貢献しているという見方が正しいと思う。この注釈が結論であるが、上には敢えて結論は書かない。ここは、仏教を論じるところではないのだから。

2020東京オリンピック

 今日、2020年のオリンピックが東京で開催されることとなった。シリアの件が無ければ、イスタンブールが最適だと思っていた。スペインはバルセロナで1992年にやっているので、そして、経済危機の可能性もあり、東京の方が適しているだろう。ただ、日本でやるなら、そして、政府が前面に出るのなら、本当は四国や九州の方がバランス的に良いと思う。  7年後と言えば、世界がその間にどのように変わるかも(もちろん自分がこの世に居るかどうかも)、心配の種である。経済的な枠組みも現在の姿から大きく変わっているかもしれない。(注1) 東アジアにおける日本の位置も同じく心配である。(注2) テロを避けて、イスタンブールを避けたが、東京も緊迫感が無いだけに心配である。何とかそれまでに、北朝鮮とは国交を回復し、安定な外交関係を築くべきだと思う。国交が無いだけに、白紙の紙に絵を描くごとく、しっかりした関係を持つことも可能だし、台無しの関係にもなり得るだろうと思う。 寺島実朗さんが関口さんの番組で言っていた様に、「これを機会に、戦争の出来ない、しかし、国際的に確固とした地位を持つ国になって欲しい」(私の理解であり、発言をそのまま再現したものではありません。)と思う。 注釈 1)ドルを決済通貨とした国際経済が、ユーロや元が決済通貨に加わるような事になったら、米国の多額の債務がどうなるのだろうか?経済は全く解らない人間だが、何となく心配である。 2)最近の韓国の姿勢にはあきれる。日中関係の修復が大事だろう。

2013年9月4日水曜日

最高裁判所判事はまともに議論しているのか?婚外子も嫡出子と同等の権利をもつのですか?

 最高裁で、「婚外子の遺産相続分が嫡出子のそれの1/2であるとする民法の規定は、法の下の平等を保障する憲法に反する」という判断が示された。(注1) 最高裁の判決の中でそう示されたのだから、民法をその規定を含めて矛盾の無いように改めるしかない。ただ、本当に妥当な判断だろうか?14人全員の一致した判断だというのだから、無効にすべきではないだろうか?(注2)などと思ってしまう。
 婚外子と言ってもいろいろある。事実婚状態にあった男女の間のこどもで、父親が死んでしまったと言うケースもあるだろう。そのようなケースでは、配慮はあって然るべきだと思う。だが、次のようなケースもある。所謂、二号さんや三号さん?に生まれた子供である。子供が同等の権利を有するとなると、人生の最初の婚姻関係として、お金持ちの二号さんを目指す女性も増加するかもしれない。民法の規定に反して、重婚を認める方向に一歩近づくことになるからである。これから格差社会になって行くから、最高裁もそのような事態にそなえているのだろうか?日本国は、そのような乱れた国になって行くのだろうか?
 言うまでもなく日本社会の枠組みは、一夫一婦制で出来ている。今回の判決は、既に日本国において一夫一婦制の原則が、部分的に破壊されていると、最高裁が判断したことになると思う。子供には責任はないという論理は、子供の全ての性質や情況に当てはまる。嫡出子である無しの他に、頭の良し悪し、外見の良し悪し、身体の良し悪し、全て子供の責任ではない。後の3つに関しては、子供に責任はないものの、最高裁判事を含めて誰も何もしてくれない。金持ちは、社会に於ける勝利者であるとすれば、ほかの人より平均して頭が良く、体力もあるだろう。法的差別も社会の偏見も少なくなるのなら、金持ちの二号さんを母に産まれるのも、結構ラッキーなことじゃないのか。法の下の平等というが、そもそも法(民法)が想定していない婚姻状態から産まれた子供である。従って、今までの解釈(1995年の最高裁判決)が全くおかしいという訳ではない。法に定めていないことを原因に持つ事に関して、法の下の平等という理屈は解らない。(注3) 
 高裁の判決を、何回もひっくり返せば時代遅れの価値観を持った人だと言われるだろう。14人全員一致の判断だという不自然さは、そろそろ、このような判決を出すのが無難だという”打算の産物”なら説明がつく。1995年から、日本国はそんなに変わってはいないのだから。(注2) とにかく、最高裁の判事なんて、何かにつけ、真面目に議論をしているようには思えない。例えば、「一票の格差」に関する裁判でも、2.0を超えたら違憲だとか、アホなことをこの前まで言っていたのだから。(注4) 
注釈:
1) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130904-00000073-jij-soci
2) イエスの処刑を全員一致で決めた判決は、当時の規定により無効であった筈といわれます。(サンへドリン規定)今回も、偏見、興奮、そして全員一致の打算の何れかによるので無効とすべきです。1995年に同じ民法の規定に対して合憲判決が出たのに、18年後の14人全員一致の違憲判決は不自然である。上記本文の理由に加えて、一人だけ反対すれば、目立ってしまう;全員一致なら自分だけの責任ではない;などの理由も考えられる。何れも最高裁判事には相応しくない理由である。
3)子供を差別するのは可哀想である。しかし、それで社会の骨組みが緩んでくるとしたら、そのような子供を少なくすることが完全ではないが最善の対策なのだ。全ての判断には2つの面がある。一面しか見ていないのでなければ全員一致なんてあり得ない。つまり、最高裁は真面目に審議をやって居ないのだ。
4) 一票の格差が1.1倍でも、可能な限り選挙区の区割りなどを考えて解消しなければならない。それが民主主義の原点である。そんなことも解らん連中が、最高裁判事になっているのが日本国の現状である。「完全に1.0にすると、田舎地区を代表するものの考えが国政に反映しない」という論理はインチキ論理である。街の者が、田園地区の必要性を考えなないで投票し、国政上マイナスになったとしても、それは選挙制度の責任でなく、選挙民の責任である。

2013年9月2日月曜日

ヒトの幼児性と知性&文明の関係

  今年の二月、もう半年以上も前になるが、グアム島で凄惨な通り魔殺人事件が起こった。元々善良な人と評価されていた犯人が、失恋かなにかで気が狂ったようになり、行った惨劇だった。4年ほど前にも秋葉原で似た事件があった。犠牲となった人とその遺族の方は非常に気の毒であり、凄惨な現場の情景をテレビで見た時、背筋が凍る思いであった。それを出発点にして、以下のような考察を行うのは遺族の方々には申し訳ない気持ちがするが、どうかお許しねがいたい。


 
 これらの事件は誠に憎むべき凶行であるが、計画性も何も無く、従って、幼児的な自己喪失の中で行われた様に私は感じる。つまり、自分の心の中で担いきれない精神的重荷が与えられた時、それまで善良に振る舞ってきた人が、人が変わった様に凶行に及ぶのである。これと対比的な捕食者的殺行為は、ライオンなど肉食動物では普通であり、ヒトが行う場合は例外的で精神障害(サイコパス)の結果であると考えられている。私は、グアムでの犯行は、「ヒトが幼児的性質を生涯持ち続ける」ことと関連して起こる人間社会に普遍的なタイプの犯行だと思う。“濃淡”は大幅に違うが、同じ様な“色”の行いは、普通に行われている。例えば、成人男性の行う卓袱台返しなどもその一例である。大きな60歳の男が行っても、何の得にもならず何の説得力もない、ダダをこねる行為と本質的に同じであると言う意味で幼児的である。

 ところで、この幼児性であるが、たまたま人間が持つ、くだらない性質ではなく、「(幼児性が)ヒトのヒトたる所以に深く拘っているのではないか」というのが、ここでの主題である。我々は、高度に発展した文明社会に生きている。その社会の根幹を為すのが、ヒトとヒトの密接な情報及び感情の交換である。それにより、緻密なルールを作り広い範囲において共同作業を行い、この文明社会を成長発展させてきた。「ヒトが緻密に感情などの交換を行う能力は、ヒトが幼児性を持つことにより得た、ヒト独特のものである」というのが私の考えである。

 どの動物でも幼児である間は、その生命を維持する上で100%母親に依存している。そして、幼児は親との接触で、(他の個体である)親との間に感情的な親和性(つまり、密接な感情の交換)を持つ。ヒト以外の動物の場合、成長して親から離れると同時に幼児性を失い、その結果、他の個体は親と云えども生存競争の相手になる。一方、上の例でも解るように、ヒトは一生涯この幼児性をのこしていると考えられる。ヒトが哺乳動物で唯一肌を露出していることは、成人になったあとでも幼児性を残していることを象徴していると思う。「裸と裸の付き合い」という言葉は、互いの親和的な感情を表している。


 ここでかなり大胆な仮説を提唱する。"他(タ)"に依存することを特徴とするヒトの“幼児性”が、"自と他"の区別やそれに基づく外界への探究心の根源になっているのではないだろうか。それは、他を意識しないで自分という存在を意識することはないからである。「我考える。故に我あり」という言葉において、「我あり」との結論にデカルトが至ったのは、他を意識しそれとの関係を“我”が考えたからである。つまり、「我、他を考える。故に我あり」だと思う。ヒト以外の動物、例えば、成長したライオンに「我」という意識があるだろうか?私は無いと思う。(注1)

 その理由は、他の個体を、自分の生命活動(食べて生きることと生殖活動)(注2)

の対象以外のものとしては捉えていないと思うからである。“我”の発見があって“他”を区別でき、そこで初めて「他と我との関係」を深く多角的に思考分析することが可能になる。そして、“他”の中には仲間のヒトのほかに、ヒトが活動する舞台としての自然などがあることを知るのである。つまり、知性の根拠としてヒトの幼児性があるのではないだろうか。別の表現では、「幼児性という不完全性が、他の存在への関心と探求の根源である」といっても良い。もし神が存在するとしても、完全なるが故にヒトの知性に相当するものはなく、従って神罰は神の思考の結果ではなく、数式適用の如く瞬時に下される筈である。 以上から、ヒトの作った高度な文明社会は、ヒトが幼児性を備え、“不完全である我”という意識を持った結果であると考える。

注釈:

注1) 従って、ライオンの成獣は人間より完全なる存在であると思う。厳しい自然の中で生きる動物の姿に気高さを感じるのは、その動物達が自立した完全なる生物に見えるからだと思う。

注2)生殖活動を行うオスはメスを同種の個体として意識する。人間以外の動物でも、唯一知性が関係する時期だと思う。

2013年9月1日日曜日

潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の日本批判について

 潘国連事務総長は、「日本のリーダーには(歴史問題に関して)深い省察と、未来へのビジョンが必要だ」(http://www.j-cast.com/2013/08/29182501.html)と韓国で帰省中に発言したということである。これは、明らかに国連事務総長という立場を忘れた発言であり、潘氏のその地位への適性が問われるべきである。

 安倍総理は、しかしながら、「歴史の問題については専門家の議論に任せていくというのが安倍政権の基本的な方針だ」という逃げの姿勢を貫いており、官房長官も潘事務総長の中途半端な訂正発言を有り難く頂戴して、早々に矛を収めてしまった。国連事務総長に、あなたの仰る「未来のビジョンとは何ですか?」「ひょっとして、日本が中国や韓国のプロパガンダ的歴史認識をそのまま認めることですか?」と強く問いただす機会であったのに、それを逸した内閣の無能さにはあきれる。これでは、「詳しく調査すれば、事務総長の言ったことが正しいということが解る」ということを認めたことになるが、それで良いのか?中途半端な和は問題をもっと深刻な形で将来に送ることになることが未だに解らないのか。(注1)

 彼ら内閣の政治家と比較して、橋下氏は明確な立場をとっている。例えば、「当事国を含めた国際的調査団を組織し、例えば、当時の日本国家が朝鮮半島の女性を強制連行して、所謂“従軍慰安婦”としたとの証拠が得られたのなら、日韓の講和条約とは別に、公的な謝罪と当事者への補償をすべきである」である。私は、この様な方向が、日韓の歴史問題、日中の歴史問題の未来志向な解決策であると思う。この際、潘国連事務総長に、東アジア歴史問題調査団を、西欧諸国やアジア諸国の中立的立場をとりうる当時の政治家や歴史家を中心に組織し、詳細に調査研究することにより、東アジアの近代歴史の確定を行うよう提案したら良かったと思う。

 ここで一つ追加したいのは、日本のマスコミのレベルの低さである。先日日本維新の会の政党パーティーが開催され、橋下氏が憲法問題などについて演説したとのことである。しかし、日本の全てのマスコミは取材しなかった。その理由は、明らかにしないか、政党パーティー券購入することは特定の政党支持につながる、という下らない理由である。何らかの協定を水面下で行ったのかと疑う。パーティー券15000円が、特定の政党支援につながるというのは、東証一部上場の企業の台詞ですか?取材費に計上して、日本維新の会の主張を橋下氏の演説から汲み取り、疑問点があれば質問を堂々とする良い機会だったと思う。どうせ、Ohさんレベルの解説委員を使っている会社なので、そこから選りすぐりを派遣しても、かえり撃ち質問が怖かっただけだろう。(注2)

注釈:
1)「歴史的事象に関する評価は、当時の感覚を取り入れて行わなければならない。」というのは、部分的に正しいと思う。政治家は、歴史書はどのように書かれて行くかをもっと研究すべきであると思う。つまり、政治をリアルタイムで進めて行くために、一定の時間内に歴史の評価を一旦暫定的に決めるのは政治家の仕事であると思う。その後、現実の政治とその歴史的事象が深く拘らない時代になって、詳細に歴史を確定するのが歴史学者の役割である。つまり、先の大戦の歴史は、未だ、現代政治に影響を持つ、政治家が関与すべき段階であるので、歴史家に任せるという発言は、”単に逃げている”ととられても反論できない。
注2) 「たかじんNO マネー」の番組で、水道橋博士の番組降板で話題になったシーン直後の、大谷氏と橋下氏の議論が非常に印象的だった。強制連行があったとして、その際の慰安婦の方に補償をすべきだと思いますか?「YESですかNOですか」という質問を何回も繰り返す橋下氏に、Oh氏はYESともNOとも答えられなかった。
ーーこれは元理系研究者の素人としての意見ですので、専門に近い人の厳しい批判をお願いします。ーーーー