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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2014年6月29日日曜日

安倍内閣のあせり=中国による尖閣諸島侵略計画?

 尖閣諸島は何れ中国に盗られると思う。それは野田氏が国有化宣言をしたときに決定されていることだと思う。ただ、日米安保がある限り、直線的に占領軍を派遣するのは、中国にも覚悟が必要である。そこで、現状の日米安保の下では、一つには偶発的な事故を誘発することで占領してしまう方法をとるか、それが成功しなければ、中国漁民の漂着とその保護の為の軍の一時立寄という形をとると思う。その時、日本の自衛隊が攻撃すれば、戦争になる。しかし、米軍の陰が濃く存在し、且つ、攻撃せずに執拗に出て行く様に警告を繰り返せば、立ち去るかもしれない。その場合は、「自国の領土に漂着した漁民を助けるために、立ち寄って何が悪い」と日本を批難する。そして、退去したのは中国は平和国家であり、むやみに戦争はしたくないからだ、という趣旨の声明を出す。
 これは米軍の関与と西欧諸国などの予想される反発を避けるためである。その後、本当に侵略するのは、日米安保に何らかのかげりが生じたときだと思う。そのときは、漁民の安全のための舟だまりを建設するという、石原案を踏襲すると思う。そこで自衛隊が攻撃すれば、もちろん戦闘になるが、中国軍も領土防衛の意識が出来上がっているので、士気もたかくなっているだろう。そして、米国との安全保障条約にかげりを生じている(と仮定している)ので、西欧の批難はすくなく、米国も援軍は送ってこず、安保条約は完全に形骸化する。
 
中国が2段階侵略計画を立てるとすると、その理由は中国の意志を欧米に知らせる為である。その中国の目論みを知って(注釈1)、米国はそのように日米安保条約の形骸化の方向に今後動くだろうという私は予想する。

 安倍政権の焦りは、このような理由があるからではないだろうか。しかし、憲法の無理矢理解釈は、西欧の信用を無くすので、逆効果ではないだろうか。それよりも、従来の96条改訂から、憲法改定の計画を進める方が、よほど賢明であると思う。
==これは理系元研究者の妄想かもしれません。批判等歓迎します。==
注釈:
1)尖閣諸島は中国にとって非常に重要な意味があるとすれば、そして中国に強い侵略の意図があれば、西欧は一歩後退するだろう。もしそうなら、日本も一歩後退した方が破滅的な結果を避けるためには賢明であると思う。兎に角、係争地であることを認めることは覚悟しておく方が良いと思う。

人間は勉強すればするほど頭が悪くなる?今朝の時事放談を見て考えたこと

 人は小学校から大学まで教育を受ける場合、合計して約16年間学校に行く。そこで、先生から授業を受け、教科書を読み、テストの前の一週間位は、自由時間の殆どを勉強に充てる。そして、この16年間の勉強で、社会的地位の大半が決まるのが日本の実情である。人生は現在80年位あるのだから、その20%の期間の勉強で、社会における立場が決まるのは、その社会にとってあまり効率の良いシステムで無い様に思う。
   その効率の悪さは日本の政治において顕著である。この16年間の勉強で東大を卒業した連中が官僚になり、実質的に政治を行なう全ての人材だからである(注1)。現在の日本が、戦後約70年経っても米国の属国的立場にあるのは、その16年間勉強した東大の官僚達、そして官僚から政治家になった多くの自民党国会議員達の所為である。
 東大は言わずと知れた日本一の大学である。しかし、これまでの政治家と官僚の無様な国家運営は、彼らが利己主義者か頭が悪いかのどちらかではないかという疑いを抱かせるに十分である。首相になったからには、余程の大物(マイナスの意味で)でなければ、国家の今後を考えて政治に当たる筈である。日本国がその間に歩んだ道筋が全くの対米追従であったことから判断すると、彼らに大物(プラスマイナス両方の意味で)が居なかったことは明らかである。
 東大に入るには、中学校位から勉強をして有名高校に入り、そこでトップクラスの成績を残す必要がある。その間の猛勉強により、先人の考え方を学ぶだけで頭の余白を無くし、発想が貧弱になった人たちが、官僚から政治家になったのではないかと思ってしまう。(注2)そして、当時の所謂出世の道筋は東大から官僚になることであったとすれば、その世俗的な姿勢はそもそも発想の豊かさとは矛盾する。特に長期政権を担った吉田茂(約2600日)や佐藤栄作(約2800日)が大志を持って総理大臣になったのであれば、今日の日本と違って、自主独立の日本になっていただろう。
 今朝の時事放談では2名の東大卒元官僚で元自民党幹部が出席していた。彼らの発言も平凡であり、流石に日本の元幹部だった人たちだと思わせるものはなかった。「最後に(与党)議員達に一言」と司会役のM氏の言葉に、K氏は「次回の選挙は自民党にとっては苦戦になるだろう」という趣旨のもの、T氏は「一人一人が自分で考えて行動すべき」という言葉で応じた。T氏の発言は今の議員達の質の悪さを正しく指摘している。多くの自民党元幹部の一人というレベルの政治家T氏からみても、今の自民党議員達は自分で考えて行動できていないと言うのだから、憲法などまともに読める筈がない。K氏の発言は、”憲法解釈の変更を話題にしたあとだけに、次の選挙のことを言うなんて!”、流石K氏だと思わざるを得ない。

==ご意見等歓迎します。==
注釈:
1)戦後、オリンピックから大阪万博までが国の形を整える時期だとして、そのときの自民党政権元総理で、池田勇人以外は全員東大出身である。そして、東大出の殆どが元官僚である。
2)「読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。」というショーペンハウエルの言葉を教育者は噛み締めるべきだろう。勉強ばっかりして、自分で考えたり行動したりしなければ、頭は悪くなる一方なのだ。

2014年6月28日土曜日

総理大臣(次の?)は日中関係を修復して、憲法改正をすべき。河野談話なんか早急に見直すべき

 韓国の中央日報によると、米国の下院外交委員長が、河野談話の検証結果を発表したことを遺憾だ発言したという。検証したものを発表してはいけないというのは、米国の国是の一つである筈の「言論の自由」に反する。日本の今回の中途半端な主張は要するに、『日韓の融和の為にあのような談話を発表したが、検証結果は必ずしも真実ではない。しかし、それを否定するような新しい談話も出さない』というものである。これもおかしい。検証の結果、「韓国の主張を取り入れて、日本国として不本意な談話を発表した」ということが判ったのなら、新しい談話としてその事実を正式に発表すべきである。国際信義は、真実にある。何かにおいて真実に基づかない決定がなされたのなら、それは国際信義に反する圧力があったからで、出来るだけ早急に改めるべきである。それは、今の日韓関係を考えると戦争に近い外交であり、大きな批難を米国、韓国、中国から受けるだろう。これまでの自民党政権の負債を一挙に無くすのは無理かもしれないが、せめて河野談話の見直しくらいは、今チャンスであるから行なうべきである。

 何故、今チャンスかというと、米国も、韓国内の米軍基地に慰安婦施設を作らせて、米軍兵士に利用させたことが、裏付けられたからである。その根拠は、韓国の米兵相手の元慰安婦が韓国政府を相手どって訴訟を起こしたことである。そのことは、韓国も米国も日本が慰安婦施設を軍の管理の下に持っていただけでは、批難する資格はないことを意味している。韓国の場合、自国人女性を慰安婦として働かせただけでなく、逃げ帰ろうとした慰安婦を警察が引き戻したという。戦争中の日本軍相手の慰安婦よりも悪条件だったかもしれない。韓国はこの件、もみ消しに動くだろう。それがもみ消されないうちに、国際的な話題にすることが大切である。米国から圧力はあるだろうが、裏(外国を含め)から国際的に有名な事件として、広めるべきである。しかしながら、今日まで一向にマスコミの話題に上らない。内閣情報調査室はいったい何をしているのか?
 
米国には、日本を属国的立場において、東アジア支配の基地に使いたいという考えがあるだろう。その為には、慰安婦問題などで日本の政治を弱体化させたいのだと思う。その為には事実を反映していない河野談話を正式なものとして、後は兎に角幕を引いてしまいたいのだろう。つまり、国家の安全は、真の独立にある。安倍さんが本当に日本を独立国にしたいのなら、堂々と憲法改正して、米国にも新しい同盟関係を提案すべきである。その為には、中国との関係をもっとよく見せなければならない。尖閣諸島の帰属が日中の間で問題であることは田中角栄氏の時代から続いているのだから、それ位認めて日中関係を修復しべきだと思う。靖国神社なんか、明治時代に出来た歴史のない国家神道であり、あんなものへの参拝を日本人の命運と引き換えにするというのなら、早く総理大臣なんか止めてしまえいいたい。

2014年6月27日金曜日

韓国政府による米軍用慰安婦制度設置;Comfort woman for US force in Korea

 今朝のヤフーニュースによると、韓国の元米軍慰安婦122人が韓国政府を相手取り、損害賠償の訴訟を起こしたという。記事によると、韓国政府は米軍基地内に慰安婦を置く制度を作り、彼女らは人身売買などにより基地村に連れてこられ米軍の相手をさせられた。韓国政府は基地内での売春が違法だったにも拘らず黙認し、むしろ外貨稼ぎに利用していたという。
このビッグニュースをいち早く入手してブログに書いたのは、小笠原氏である。氏のブログにはモンキーハウス(慰安婦の性病治療施設)は1996年まで存在していたという。今日の中日新聞には何もそのようなことは書いてない。今朝の読売オンラインにも何も無い。揃いも揃って、何と言うプアな新聞社達だ。
 米国に設置された慰安婦の像に耳があれば、このニュースとどう聞くだろうか。きっと、鉛の涙をこぼすに違いない。
Abstract: According to the Yahoo News (Japanese version), 122 women accused Korea Government of abusing them as Comfort Women in the US military base in Korea. (I could not find that item in Yahoo News of USA)

2014年6月24日火曜日

東京都議会でのセクハラ騒ぎと安倍総理のピンぼけ謝罪

I) 東京都議会で自民党の鈴木議員が、みんなの党の塩村議員が「女性の妊娠・出産に対して都がもっとサポートすべきではないか」という質問中に、「早く結婚したほうがいいんじゃないか」というようなヤジを飛ばした。それがセクハラになるとのことで、散々マスコミに報道され、5日経った23日鈴木議員が直接塩村議員に謝罪することになった。また、鈴木議員は都議会での自民党会派を離脱することで責任をとることになった。私はこの件について既に書いたように、下品なヤジであることはその通りだが、何故そんなに騒ぐのかさっぱり判らない。例えば、若い男の議員の質問に、塩村議員が同じヤジを飛ばしたらどうなっていただろうか?だれもセクハラだとはいわないだろう。だとしたら、鈴木議員のヤジをセクハラということが、すなわち女性差別でありセクハラではないのか?

II) それは兎も角として、今日24日、何を思ったのか、総理大臣が塩村議員の所属する「みんなの党」の浅尾氏に謝罪するまでに、波及範囲が拡大した。このようなことば狩りの狩人達が闇から狙っている社会では、地方議員であっても議会や委員会では、なるべく不要かもしれない様な発言はしないようにしなくてはならないと思うだろう。将に”沈黙は金”の社会である。そのような社会は、所謂”空気が支配する社会”になり、その社会は全体として迷走や暴走するようになる。今回のセクハラ事件に対する報道などもその一つであると思う。そして、このような社会の特徴は、全体主義的国家が出現する必要条件なのだ。終戦間際に、国家トップ層の”一億玉砕してでも戦うべき”という考えが、国民の間にも広く流された。こんな無茶苦茶な考え方は、上層部の何処かで止まる筈だったとおもう。恐らく、国家中枢にいた人はにこのことを終戦後問いただせば、「あの当時の空気では、一億玉砕をオーム返しするしかなかった」と言い訳しただろう。この「空気の支配する国」日本は、その当時から何も変わっていない。

III) 謝ることを、日本語では謝罪ともいう。安倍総理にどのような罪があって、あやまったのか。謝ったからには、何らかの賠償をするつもりなのだろうか?これが、国際的な言語感覚をもつなら、安倍総理の謝罪から生じる疑問だと思う。
 何か小さいトラブルがあると、日本人は簡単に謝罪をする。この場合の謝罪は、本当の意味の(西欧的な)謝罪ではなく、単に「その事実を確認している」と言う程度の意味しかない場合が殆どである。安倍総理の謝罪発言の後、安倍総理が何らかの責任をとるとか賠償をするとかについての話はなかったようだから、謝罪に関する国際的な感覚を持っていないことは明らかである。
 一般に、上記のような日本人の謝罪は、その後その件に関しては何も言わないで、双方が”水に流す”ことを阿吽の呼吸で了承するのが普通である。もし、「罪をみとめたのだから、賠償しろ」と言えば、「謝罪させた上に、賠償金までとろうとするのか、人でなし!」と怒りだすのが普通である。
 村山富市元総理や河野洋平元官房長官が、東アジア諸国に戦争の際に迷惑をかけたという趣旨の謝罪を行なったのは、相当の重い意味を持たせただろうが、それでも日本的感覚の謝罪であっただろう。一つには、米国が終戦間際に行なった原爆投下や都市部空襲に関して、一切謝罪しないという事実と比較すれば、明らかである。更に、慰安婦を名乗る女の方が河野談話の発表後に現れて、日本国に補償を要求したことがあった際、日本国内の反応は、日韓基本条約締結後の賠償要求はあり得ないとして、怒りの声が上がった。つまり、その後河野談話にあるような慰安婦が現れ補償を要求するのなら、韓国政府がそれに答えるべきである、との考え方が支配的であった。もし、賠償問題については解決済みなら、何故その後あのような謝罪をするのか? つまり、村山談話や河野談話における謝罪も、上記の日本式謝罪であったのだと思う。水に流して終わりにしなくて、それを外交のてこに用いようとする国、法が西欧社会のように機能しない国を相手に、あのような謝罪をするのだから、政界の人間にも国際的感覚のない人が多い。
=6/24/22:00; 6/25/6:30修正=

神仏混淆経:日本人の宗教(私論)

 日本人に「あなたの宗教は何ですか?」と問えば、宗教は無いと答える人が多い。しかし、多くの宗教色の強い年中行事や最近の伊勢神宮の参拝数の増加などを考えると、また、神社で手に入れたお守りやお札を大切にして、古くなっても決してゴミ箱に捨てることが出来ない典型的な日本人をみると、日本人の多くが無宗教だとは思えない。実際、文科省により発表されている大まかな宗教別信者数のデータによると(1)、神道系の信者数は約1億人、仏教系が8500万人、キリスト教系は200万人、諸教は900万人もいるそうである。これらを合計すると日本の人口を遥かに越えている。米国では、殆どがキリスト教系信徒であり、その合計した信徒数は人口より少ない(2)。上記統計を知っても、普通の日本人は驚かない。それは、日本人の多くは神道と仏教の両方に関係していることを自覚しているからである。宗教の信者の数が人口の約2倍というのは、統計における宗教の分類が実態に合ってないからである。

 上の数字では、神道系の信者数が最も多い。しかし、敢えて答えれば神道よりも仏教が自分の宗教に近いと答える人が多いのではないだろうか。何故なら、日本人にとって最も重要な宗教的行動は、肉親の葬式や祖先の墓参りであり、葬式を執り行なうのは普通は僧侶であり、墓を維持管理するのは仏教寺院であるからである。そして人々は、人の本質が魂であり(従って火葬を嫌わない)、死後その魂が極楽(つまり、一神教の天国に相当)に往くという、日本仏教の考え方を漠然と受け入れていると思う。また、親族の位牌を阿弥陀仏像と供に仏壇に置き、神のように崇め拝んでいるのである。(3)

 一方、元々の神道は、山などの自然を神として信仰するものであった。神道には聖典はなく明確な教義もない。最も古い形では、神社すら無い場合があると云う(4)。神道は自然を恐れる宗教であったが、自然の脅威から徐々に開放された人間には、こころの安らぎを得るには偶像も聖典もない神道は今一つものたりない。不安の根源である死後の世界についても、神道は何も与えてくれない。そこで、仏教における極楽を死後の世界として受け入れることで、まるでダルマに目が入ったごとくに、生まれ変わったのが新しいタイプの神道で、現在の日本人の多くが持っている宗教であると思う(5;神仏混淆の独自モデル)。誰もそんな宗教があるとは言っていないが、これが、ここに提案する考え方である。従って、日本人の多くは神道と仏教の両方を宗教として持っているのではなく、それらが統合した一つの宗教(神仏混淆教と名付ける;明治以前の神仏混淆状態の宗教)をもっているのだと思う(6)。ただ、表現として、その成分である神道と仏教がそのまま職業的組織として残っただけであると思う。

 ところで、この日本人の宗教は、時代が明治に入ると廃仏毀釈により破壊が試みられ、新しく国家神道という官製新興宗教がつくられた。(7)国家神道&天皇、富国強兵、国民国家を三位一体として、明治政府の骨格をつくろうと試みたのだと思う。大変な改革であり、現在の視点でバカなことをしたと言うのは簡単だが、明治新政府を運営した人達の発想力や実行力は、天才的であったと思う。しかし、その新しい国家神道など定着する筈がない。人心は新しい明治日本という国民国家からは、すぐに離れていったのではないだろうか。これが、第二次大戦が終わった後国民の多くが、鬼畜米英の大将である筈のマッカーサーを、まるで救世主の如く受け入れた背景だったのかもしれない。

 その後、この官製新興宗教である国家神道が最後に残したのが、靖国神社である。靖国参拝を出来なかったことが痛恨の極みといった総理大臣は、日本人の心からは遠い所にあると言って良いと思うが、それに気付いていない日本人も多い。国民国家の考え方に賞味期限があるのではないかと言われている昨今(8)、現在の総理の上記考え方もアナクロであると笑う日が来るだろう。
 (素人の浅はかな考え方と思われる方は、反論して下さい。これは、挑発ではなく、お願いです。)

注釈:
1)http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa07/shuukyou/1262852.htm
2)例えば、中岡望氏のブログに最近の米国の宗教事情が書かれている。それによると約80%がキリスト教(51%がプロテスタントで、24%がカソリック)、他に多いのが無宗教や無派閥で16%だという。http://www.redcruise.com/nakaoka/?p=420
3)位牌が何を意味するのか、あまり気にしないと思う。回向という言葉で死者の霊を極楽に導く様に阿弥陀仏に願をかけているのだろうが、拝む対象についても阿弥陀仏像なのか位牌なのか普通は気にしていない。
4)岡谷公二著、神社の起源と古代朝鮮、平凡社新書(2013)134-135頁 ここには神道の原点についての興味ある記述がある。『「必ず常設の社殿があるものでなければ、神社でない如く考えたのは明治以来といってもよく、又少しも根拠のないことであった」(氏神と氏子、柳田国男)神の拠り代である森の一部を伐って、祭の際の雨露をしのぐ為の社殿を設けるとは、人間の都合からでたことであり、極端な言い方をすれば、神への冒涜である。』
5)現在人の宗教についての感覚を述べたモデルである。神仏混淆の歴史については、例えば、ウィキペディアの神仏混淆参照
6)ただ、表現として、神道(神社)と仏教(寺院)が別々にあるので、日本人の宗教感覚は希薄なままである。
7)廃仏毀釈(http://ja.wikipedia.org/wiki/廃仏毀釈)は明治政府がやったことではない、神仏混淆を禁止しただけだという。上記Wikipediaでもその主張はされているが、より判りやすいものとして、ヤフーの知恵袋から引用する。

(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1283701667) しかし、その考え方は根本的に間違っていると思う。何故なら、神道を国教とすることは、必然的に日本人固有の神仏混淆教から仏教をはぎ取って捨てることを意味し、廃仏毀釈を意味するのである。
8)岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)第三部、「国民国家とは何か」を参照
== 6/24; 6/26編集==

2014年6月23日月曜日

都議会でのヤジにたいして、マスコミは騒ぎ過ぎである

 一地方議会とはいえ、一言の下らないヤジで大騒ぎするこの国の政治家の愚かさには、6月でも背筋が寒くなる。また、それを取り上げて鬼の首をとった様に大騒ぎするこの国のマスコミのレベルの低さにもうんざりする。尖閣諸島での緊迫、世界の緊迫、日本の抱えた数々の問題などを真面目に考えて、政治家の責任を果たそうと努力している人たちの話とは思えない。ヤジを飛ばした人、ヤジを飛ばされた人、それを報道する人、彼らはいったい何の為にそんなに騒いでいるのか?
 もちろん、下品なヤジであり、その的にされた人は不愉快だろう。しかし、その程度の不愉快さは、メディアがそばにいるのだから、これは下品なことであることとその理由を述べるだけで十分ではないのか。連日多くのテレビ放送の時間をとって報道すべきことではないと思う。それを見聞きして、あのヤジが許されないと思う都民は、次回に一票を入れないことで十分ではないのか。
 鈴木議員にも一言。あの程度のことで、深々と頭を下げるのなら、議員を止めろといいたい。日本人の議員は、下品なヤジを飛ばしたことで批難され、議席を失うことを恐れて、テレビカメラの前で相手の人に深々と頭を下げて謝るのだと、世界の酒場で笑い者になるだろう。もちろん、世界の報道も異国情緒豊かに、塩村議員の批難発言を受けて、女性蔑視だと批難をして楽しむだろう。それは、鈴木議員をバカなヤジを飛ばす奴だという報道ではない。日本国は、先進国ぶっているが、未だに女性差別の残っている国であるという報道である。
 下らないことを、マスコミなどに告げ口して大騒ぎする塩村議員の下品さは、鈴木議員の下品さと大差ない。
補足:(6/24) この件、都議会がそのようなヤジを妨げる雰囲気になかったのも原因の一つであると思う。そう考えると、議会の運営を正常に保つ責任は議長の責任であるのだから、そのような議会の雰囲気に放置した議長も責任を問われるべきである。もし、今回のような下品なヤジが飛べば、そのヤジを飛ばした者を退場にするべきであったし、それで、今回のケースは終わりにすべきであったと思う。

安倍政権の危険な姿勢

集団的自衛権行使への憲法解釈変更の危険性=追加

 安倍政権が目論んでいる憲法解釈を変更して、集団的自衛権行使を可能にすることは、憲法改正して自衛軍を持つことよりも危ない方向にある。何故なら、憲法改正して自衛軍を持つことで国の形をかえれば、日米安保条約をかなり対等な関係に近づけることができる。しかし、現状での憲法解釈変更だけでは、安全保障を米国に依存した国の形のまま、米国の善悪や損得の判断によって、日本の自衛隊が紛争地に派遣される危険性が高くなるからである。
 安倍政権は、わざわざ中国との緊張関係を高めるという、裏板から我国の米国従属の性質を補強するという、捨身の戦略をとっている。そして、それを近隣諸国や世界に宣伝している。それで、安倍さんは一人前の国に近づくことになると考えているのだろうか。本当に一人前になるのは、独立国として持つべきものを全て持つことであり、その中には諸外国に対する独自の友好敵対の判断を持つことも含まれる。安倍日本は、アジアやアフリカに広がる嫌米国を敵にまわす愚かなことをしようとしている。
 従って、日本が一人前の国になる為には、米国との友好関係を維持しながら、中国と出来るだけ良い関係を築き、その上で憲法改正して独自軍を持つことである。この難しい問題を解ける人以外は総理大臣になるべきではないし、総理はそれ以外の方向に進むべきではない。そして、尖閣諸島は今回の様に急いで集団的自衛権行使を姑息とも言える方法で可能にしてでも、中国から守り通すほどの大きな価値のある島ではないと思う。また、このような事態になった経緯を検討して、米国と中国の真意をつかみ取るべきである。つまり、石原氏は米国の罠にはまったと言う説(注1)もあるし、野田氏が中国の罠にはまって国有化宣言をしたとの説(注2)もある。両国が何を狙っているかのモデルを今の政府は持って、今回のような早急な対策を打ち出しているのだろうか。北朝鮮の暴発モデルによる、邦人保護との関連で集団的自衛権を議論するのは、国民の支持を得たいための芝居だと思う。
 尖閣諸島問題では、野田元総理大臣は決定的なミスをしたので、その尻拭いはしなくてはいけない。私は、中国の了解を得ていない国有化決断は、“めくら蛇に怖じず”であるとヤフーの知恵袋に書いた。(注3)その尻拭いは、尖閣諸島は係争中であることを認めることであり、鄧小平の「将来の者の智慧に委ねる」まで、日本は後退しなければならないと思う。それが、今となっては日本がすべき中国への譲歩だろう。しかし、その前に安倍氏は総理の席から降りるべきである。ミスをしながら、居直ってしまうことが出来るのは、核保有国の軍事大国である。実力のない者が、大男に喧嘩を売れば、命を無くする可能性すら生じることを知らないのかと言いたい。このようなことは、喧嘩したことの無い育ちの良い人にはわからんかもしれない。安倍氏が、”正義の国米国”なんて妄想を抱いているとしたら、そして、そんなのに日本国民を付き合わせるとしたら、それは歴史的罪であると思う。
 やがて中国は経済的困難に直面しするだろう。それは、中国の経済発展は、安い賃金という先進諸国にとっての魅力があったからであり、独自の技術もブランドもないからである。そして、若者の減少や荒れた金融政策の弱点が露出したとき、大混乱になるかもしれない。その時の爆風を逃がす口として、日本を利用することに、安倍総理は協力している様に見える。
(これは理系人間の素人考えです。ご批判歓迎します。)

(6/23/am; 18:00改訂) 注釈
1)田中宇氏のブログ2012/9/13:日本の政治騒乱と尖閣問題 2)これは多くのサイトが書いている、中国の下級官僚との約束を日本側が鵜呑みにしたとう説である。 3)この時、最初のうちは大きなデモがおこったものの、中国政府は対応を決める為か冷静だった。そこで、打ち合わせ済みかと思ったが、そうではなかった。従って、この智慧ノートの最後の文章が結論となる。野田氏が中国に騙されたという説もある。(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n116087)

2014年6月21日土曜日

日本人の意志伝達:”誠意”の役割について

日本人の意志伝達における”誠意”の役割
I ) 一昨日より、石原伸晃環境大臣の“失言”問題を手がかりに、日本人の意志伝達手段としての言葉の位置と重要性について考察してきた。その結果わかったことは、日本人の社会には、言葉に対する根強い不信感があることである。その理由として、「言葉は表の世界のものであり、裏の世界である心の中には及ばない」という理解が日本社会にあるのだろう。当然のことだが、ある人を動かすのは最終的にはその人の心であり、紙に書かれた言葉ではない。従って、何か約束をしてもそれが実行されるかどうかは、その人の心に強く依存するのである。それが、誠意(つまり、心の中)が表れた約束でないと日本人は信用しない理由である(1)。
 この人の心と行動の関係は、西欧社会でも同じであろう。違うのは、西欧社会では、法と法を厳密に執行する慣習が出来上がっていることである。そして、法に対する尊崇の気持ちは、聖書の律法(モーセ5書など)などにより社会に根付いていると思われる。
 日本において、この法の支配が行渡らなかったのは、成文法を文化において持たなかったことが原因なのだろう。江戸時代の大岡裁きでも判る様に、その時代まで法典に基づく裁判はないと思う。たぶん、法典と言えるものは、明治時代に西欧から輸入され作られたのが最初だろう。
 ただ、誠意のある約束がなされていれば、法による約束よりも社会全体の不満が少なくなるかもしれない。例えば、事情に変化が生じても、双方がその新しい事情により一方的不利益が生じない様、暗黙の了解でその契約が変更される場合が多いからである。(2)つまり、約束には誠意が大切であるという日本社会は、同時に法律を幾分軽視する社会(3)である。また、順調に事が進んでいれば、法律や長大な契約文書を読まなくても円滑に動く、効率の高い社会でもある。しかし逆に、誠意で解決できない問題を抱えると、人間関係の破綻に至る場合が多い。

II) 誠意の表現: 
 誠意つまり相手方を思いやる心(4)が自然な形で存在するのなら、お互いにその表現も自然にでるだろう。しかし、意識的に表現しなければならないとなると、言葉と誠意は別の世界に由来する以上、言葉は無力である。従って、それは儀式化されている場合もあるが、それ以外は何らかの別の方法をとるしかない。頻繁にテレビで見る、組織のお偉方が揃って頭を下げるのは、儀式に分類される誠意の表現の一つである。その他の方法としては、個人であれば、その人間が持っている信用と態度を表に出すことだと思う。信用は、もともと(初期値として)親から相続した家系、名刺に書かれている所属機関や学歴と資格、予想される富の量などが重要であるが、その後の関係において蓄積した相手に与える安心感がそれに加わる。一方、態度であるが、それは場面毎に期待された役割を果たすに相応しいものでなければならない。その為には、所謂“空気を読む”感覚と、上手く振る舞う能力が必要である。所謂大衆というレベルの人を相手にする場合は、頭を低くして、目下の者にも丁寧に応対する振る舞い(演技)が重要である。そのような“腰の低い人”は、人格者というラベルを大衆から貰うであろうし、その人の言葉には誠意がこもっていると看做される。(しかし、大事をなす人は、この種の人格者の中にはいないだろう。)
 誠意が機能しなかった時には、法による解決という習慣がない日本では、典型的なケースでは既に述べた様に人間関係の破綻に至る。具体的には、苛めなど陰湿な人間関係の歪みとなって、社会を暗くする。

III)日本社会の本質的特徴:
 日本社会は、個人に誠意を持って、つまり周囲のことを考えて、行動することを要求する。それは、法律に定めたことではなく、法律を越えた本質的な要求であるので、時として、法を無視することも許される。西欧社会における法の原点が、聖書の諸記述ならば、日本国の誠意の原点は十七条の憲法中の“和”であると思う。モーセの十戒の中にあるように、“殺すなかれ”や“盗むなかれ”まで法に定めなければならないのなら、それに頼る社会が非効率なのは当然である。一方、和が最優先されるべき社会は家族社会、つまり、家庭である。家族的社会の一番の特徴は、何事も総和ととって判断できるということである。満足度や損得においても総和をとるから、自分が多少の損をしても、周囲がそれ以上の得をするのなら、自分の損は甘受しようという社会である。従って、何かを解決しなければならないとき、その最適任者が自然にそれを行なうことになるので、効率は高い。日本社会は、所属する人々に準家族的態度を要求する社会だと思う。
 対照的な社会は米国などの個人主義の社会である。個人が自分の利益を出来るだけ優先して、その主張の範囲は第三者を訴訟という形で巻き込んで決めようという社会である。こちらは能率が低いのは言うまでもないが(5)、ルールの下の平等や富の故なき不平等分配などが防止されて、所謂風通しの良い社会となる。国際的基準が、この個人主義であるから、グローバル化の中で孤立を避けつつ一定の地位を保つ為には、日本人は相当の頭の切り替えを行なわなければならない。

  注釈:
1)“ことば”が人間の言語能力と“世界”との相互異化現象の結果なら、そして、“伝統的日本”において法律が表の世界に無かったのなら、“ことば”は法に代わって約束を形容する“誠意”を産み出したと考えられる。外国とは“世界(法律が用意されている)”が違うのだから、外国語にぴったりする訳語がないのは自然なことである。普通、“誠実”は、英語でsincereと訳される。しかし、Oxford Learner’s Dictionariesによるとsincereは本物の(genuine)の意味と正直な(honest)の二つが同義語として現れる。どちらも、日本語の誠実の意味ではない。尚、ここで用いた裏の世界は、通常の”裏世界”の定義とは異なりますので、その点ご了承下さい。
2)例えば、何かの売買契約を一ヶ月後の引き渡しを条件に行なったとする。もし、その間に貨幣価値が半分になったとする。その場合、「こんなことは想像していなかったのだから、何とか互いに新たな損得の生じない様にしてもらえませんか」と売り主が言えば、一定の売買価格の引き上げがなされるだろう。それは、双方に誠意があるからである。
 つまり、西欧的契約社会では、この誠意が埋め合わせる部分を全て言葉に置き換えることを意味し、長大な契約書が出来ることになる。 3)少し前のことになるが国家公安委員長が、「車が順調に流れていれば、制限時速60kmの道路で、70km/hで走っても良いのだ」と発言して、ちょっと問題になったことがある。これは、「安全に運転しようという誠意」、そして、「急いでいる人も居るので、その人のことも考えて上げよう」という誠意があれば、ある程度の法律無視は許されるという趣旨である。この姿勢で社会が動いて行けば効率は良い。その効率の良さが成立するのは、日本人は疑似家族国家であるからなのだろう。ただ、その法律無視或いはルール無視が、バブル化すると全体主義的な暴走になる可能性がある。
4)誠意は英語に訳するのは困難だと思う。思いやりも同様だが、considerationが最も相応しいだろう。つまり相手(conは一緒、sideは側の意味)のことを考えることである。契約は自分のこと(利益)を考えてするのだから、誠意が表にでる日本は、契約社会ではないのである。
5)法律は状況によらず一律の基準に従うことを要求する。田舎道で誰も通らないことが確認できても、そこに通りかかった車は信号が赤の場合青に変わるのを待たねばならない。日本では、黄色信号は急げの意味を持つので、外国での運転には気をつけなければならない。
(6/22, 一部修正)

2014年6月19日木曜日

日本人の間の意志伝達は、“誠意”でなされ、言葉は誠意を包む紙に貼ったラベルである:石原伸晃環境大臣の発言撤回の背景

I) 石原環境大臣は、19日の参院環境委員会において、東京電力福島第1原発事故の除染で出た汚染土の中間貯蔵施設建設予定地である、大熊及び双葉両町の姿勢に関して、「最後は金目でしょ」と発言したことを撤回し、「国会終了後速やかに福島を訪ね、直接おわびしたい」と述べた。しかし、辞任するかとの問いには、「職務をしっかり丁寧に全うしたい」と述べたという。
 これで収まるのなら、国会議員の公式の場でなされた発言が、この国では非常に軽いことになる。国の最高機関での発言においても、都合が悪くなれば何時でも撤回できるのなら、ことばに信用など始めからないことになる。小中学校で、「自分の発言には責任を持て」と教えることが、できない。何せ、大臣様がいい加減な発言を何時でも出来るし、翌日でも撤回自由というのだから。
 しかし、自然科学という「ことばと論理の世界」に浸かって来た私には、見えなくなっているものがあったのである。そして、”日本人の心”を取り戻して良く考えると、彼らが何を主張しているかが判って来た。つまり、表題に書いた様に、日本人の重要なる意志伝達手段は、“誠意”であり、言葉は誠意を包む包装紙に貼ったラベルなのである。石原伸晃さんは、「“誠意はある”昨日はちょっと半分破れた包装紙だった」と言っているのである。今日、「まともな包装紙に包み直します。「国会終了後、直接謝罪に東北に出向きます」と言って、いいかげんな包装紙に間違ったラベルを貼ってしまったが、誠意は本物で変化はないといっているのだ。従って、それ以上の追求は、かわせる筈である。正気(日本人的思考)に戻った石原伸晃や山本一太などの、所謂”ずる賢い政治家”はそのことを体の芯から体得している。
II)昨日、ソシュールの言語学入門書の読後感想文で、”ことば(言語活動)”は元々連続的で混沌としていた世界を不連続化し、夫々に表現と意味を与える相互異化活動であると紹介した。それは、西欧人の意志疎通のための“言葉”の話である。日本国では、言語の異化活動の及ぶ範囲は、世界の中の表だけであり、世界の裏は、その異化活動に含まれない。従って、この国では”ことば(ソシュールのランガージュ)”の異化活動は限定的で、”ことば”は中途半端な形で出来上がる。それを埋め合わせる様に、日本(東洋)には、ことば(ラング)に相当するものの他に、ソシュールがほとんど見落としていた意志を伝達する社会的契約として“誠意”が加わって、意志の伝達手段が完結する。(注1)
 つまり、「金じゃない誠意が大切だ。」「言葉じゃない態度で示せ。」というのが日本の意志伝達の文化である。契約条項は言葉で書かれているが、それは紙切れであり、包装紙(表の世界)である。それで誠意を包み込み相応しい態度と儀式(裏の世界)で相手に渡さなければならない。契約の成立には、言葉が包み込む、本心つまり心の中の本質である誠意が最重要になるのだ。(注2)
 つまり、“言葉”が意思伝達手段である西欧でのように、論理を尽くして説明しても通じない場合でも、日本国では現地へ出向くという態度などで誠意を示せば通じる可能性がある。その上で「頭を下げる儀式」をしなければならない。金はその次に、失礼ですけれども、これを何とか(反対の態度を)収めてもらえませんでしょうか?と言って差し出すのである。もちろん、どれ一つ欠けてもいけないのは言うまでもない。それが“誠意ある態度”の式次第である。言葉を用いて論理を展開するのは、この東の端の日本国では野暮なやり方である。それは、西欧文化から借りて来た“建前”を飾るものに過ぎない。最終的に大切なのは“誠意”と”それがこもった態度”なのだ。日本国が、明治以降行なった近代化とよぶ西欧化は、表向きだけなのだ。科学や技術という西欧の産み出したものは、利用させてもらう。しかし、日本人の魂を売り渡した訳ではない。
III) ところで、その誠意とは一体何なのか? しばらく考えてみて、それらしいものが見つかった。それは、感情共有の確認である。今回の場合、故郷に住めなくなった家族なら、自分達の気持ちがわかるだろう。その気持ちを共有するのが、誠意であるらしい。ただ、人間は心の中がのぞける訳ではない。そこで、現地に出かけ、そこの住民達に悔しさがあるのなら、その悔しさを共有することを態度で示さなければならない。その悔しさが共有出来れば、頭をさげ、失礼ながらと言って補償金を差し出すのは、自然な態度としてでてくるであろう。
 つまり、家族的な感情の共有とそれを裏付ける態度と賠償額、それらがセットになって、相応しい言葉というラベルを貼って包装されていなければならないのだ。それが、意思伝達のワンセットである。屢々、「相手の気持ちになって、物事を進めなければならない。」というが、この”相手の気持ちになるのが”誠意”である。
IV) 山本七平氏はこのようなプロセスの分析をして、「空気の研究」を書いた。重要な記述がその中にあった。「従って、我々は常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そして、我々が通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、”空気が許さない”という空気的判断の基準である。」
 空気は、誠意のような感情の共有により創りだされる支配の力であり、もっとマクロな概念である。しかし、この二重基準の構造という本質は上記の議論と相似形をなしているし、原因も同根である。(注3)
注釈:
1)世界の表とは目に見える範囲である。世界の裏とは目に見えない心の中の意味。西欧人も使う、身振りや手振りはことばを判りやすくする手段ではあるが、ことばの意味をひっくり返すほどの意味はない。一方、日本の誠意の有る無しは、ことばの意味を判定する。
2)中身と包装紙の関係は逆でもかまわない。契約条項は紙に書くので、それを包装紙とした。
3)心の中に神(一神教の)が入り込む西欧では、出来上がっている言葉は同じ宗教の下では効率よく意志伝達に使える。それは言葉の相互異化現象の対象とする世界が、完全だからである。しかし、東アジアの国では、その相互異化現象が心の中に及ばないので、発した言葉と心の中とは異なる。それが東アジアにおけるダブルスタンダードの原因である。従って西欧のダブルスタンダードは、背教の徒によるので、社会全体からみて犯罪色が強いと思う。 (2/20/8:00;2/21/6:00改訂;2/23注3追加)

2014年6月18日水曜日

丸山圭三郎著「言葉とは何か」を読んで: ソシュールの言語学への入門

 人は言葉を話す唯一の動物である。私は、言葉に関する感心は昔から強く、日本語の特徴や成立についても特に感心が高かった。そこで、表題の本(ちくま学芸文庫、2008年)を見つけて早速購入し読んでみた。この本は主に、近代言語学の父と呼ばれるフェルナンド・ド・ソシュール(フランス、1857-1913)の言語学を中心とした近代言語学の入門書である。ソシュール以前の言語学は、 第I期:世界に色んな物や概念の存在は先験的なものであり、それに名前をつけるのが、言語であると考えられていた。その後19世紀になって、第II期: インドの古語、サンスクリットの発見に伴って、言語の歴史と起源を探ったが、結果は惨憺たるものだったということである。ソシュール以降が第III期であり:ソシュールの新しい言語論を出発にして、言葉のあり方とその構造についての考察が主な主題になった。
 ソシュールは言葉の“概念とその具体的な存在形式”を厳密に考察した。そして “人間の持つ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力、及びそれらの行動”をランガージュ(Langage)と呼び、色んな地域(言語共同体)での国語体をラング(Langue)と呼んだ。そしてラングは体系をなしている。ソシュールの意味する体系をなすラングとは、他(の単語)との関係において個(の単語)が意味を持つような相互依存型の体系である。そして言葉の状態とその変遷を、共時態と通時態という概念で解析した。(注1)
 ソシュール言語学で重要な点は、言葉に依存しない概念も事物(もちろん、人間が知覚し把握する事物や概念)もないという考え方である。そして、『言葉の体系は、カオスのような連続体である“世界”に、人間が働きかける活動を通じて産み出され、それと同時にその連続体であった“世界”もその関係が反映されて不連続化し、概念化するという“相互異化活動”が言葉の働きである』(103頁)と要約される。つまり、言葉は既に存在する概念にたいする表現ではなく、言葉は表現であると同時に内容(概念)であるということである。ソシュールは、その表現をシニフィアン、内容(概念)をシニフィエと呼ぶ。両者は言葉のユニットの両面であり、統合的にシーニュと呼ぶ。
 その他、言語の恣意性(つまり日本語では牛はcow, ox, beefも牛という言葉を用いるなど、国語により言語(概念)体系が異なること)、更に、言葉には外示的意味(最大公約数的意味、denotation)と共示的意味(個人的、情況的意味、connotation)があるなどの記述がある。しかし、それらは言語学的には大切であっても、私にはそれほど興味はない。
 私が最も興味があるのは、その言語の発生と人間が言語を習得する過程である。前者に関しては、言語学は既に書いた様にヨハネの福音書のことばを持て余している状態である。つまり、言語学第II期を教訓として言葉の発生に関しては議論出来そうにないとして避けた。私は、最初に書いたヨハネによる福音書の中の「始めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」という言葉の定義は、人間の智慧では否定できそうにないと思う。(注2)ソシュールの言う相互異化過程も、その過程を仮定しただけで、我々はその結果としてのことばしか知らない。(注3)一方、後者は教育学か発達心理学の領域なのかもしれないが、恐らく未開拓領域だろう。それは、私がHP上(注4)にかいた、生物学的ヒトが人間になる過程と定義したものである。(注5)結論として、言語学は言語の発生および習得過程(人類として、そして、一人の人間としての両面での)に何も言えないのなら、未だ萌芽期の段階に留まっていると言えると思う。

注釈:
1)ある一定の時期の言葉の体系(共時態1)と次のある一定の時期の言葉の体系(共時態2)の変化、つまり体系全体としての変化を研究するのが通時的研究ということになる。その変遷のあり方を通時態というのだろう。この第5節(82-89頁)の最後に突然、共時態と通時態という言葉があらわれたので、それを用いて、自分でこの節の解釈を要約してみました。
2)あるネット記事(http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/kenkyu/99s1/saussure.html)には「諸言語の起源の問題は一般に認められているような重要性をもたない。そんなものは、存在すらしないのだから」(『一般言語学講義』)と書かれている。言語学を理解していないのだろう。しかし、丸山圭三郎のこの「言語とは何か」には、「この問題(言語の起源)の重要性を否定したからではありません。逆に、言語の起源を探ることが、あまりにも大きな問題であるだけに、言葉そのものの本質を究明したあとでない限り下がつけられないという、方法論上の反省に基づくものでした」(48頁)と書かれている。
3)もちろん、国によって概念の区切りがことなるという、言語の恣意性はその異化過程の結果だろうとは考えることは一つのモデルとして可能である。
4)私は福音書の文章についての感想及び日本語と英語の比較について、HPにアップロードしている。
5)これについては、HPの上記文章で、幼少期に母親とその周囲から獲得する言葉によりヒトは人間に生まれ変わると書いた。
= 2014/6/18pm; 6/19am, edited;=

ことば狩りの国日本:石原環境大臣の発言と野党と住民の反応の非論理

 東京電力福島第一原発事故に伴う中間貯蔵施設建設をめぐる石原伸晃環境相の「最後は金目(かねめ)でしょ」という発言をめぐって、野党7党が衆議院環境委員会の開催を求めることで一致したという。そんなに国会は暇なのか。また、その発言に対して、建設候補地がある大熊、双葉両町の住民は「故郷を追われる人の気持ちが分からないのか」と批判の声を上げたという。
 何処かに施設を作らなければ、除染工事が進まないのである。「経済的な補償と引き換えに、何処かに設置するしかない」という意味の発言だが、多少苛ついたために荒っぽい表現となり、”失言”と批難されても仕方はない。しかし、「発言の仕方や内容によっては、保証の為の条件なしで、候補地にして名乗りを上げる自治体はあるのか?」と、野党7党や、大熊、双葉町両町の住民に聞いてみたい。どこも反対では身動きが取れない。補償額によっては、財政上の負担も大きくなるので、愚痴の一つも出るのは仕方ないと思う。
 揚げ足しかとれないのなら、議員など止めてしまえと野党にいいたい。野党は、言葉狩りをして何の利益があるのか?文句を付けるのなら、有効な代替案を披露してからやれといいたい。また、候補地になった町の住民には、先の被害は運命的なものであるから、この際新しい出発をする為の資金を国から貰って、前向きに頑張ってもらいたい。
 日本の経済成長は、多くの影響を我々国民の生活形態に与えた。原発と、大地震が原因で起こってしまったその事故も、経済成長と象徴とその歪みの一つであると思う。我々団塊の世代の多くも、経済成長に伴って故郷を去り、見知らぬ都会に暮らすことでしか生きる方法が無かった。事故でふるさとを追い出されることになったこととは、情況は違うが、その違いは補償金の有る無しで埋め合わすしか無いのではないかと思うが、如何でしょうか?
 もっと広い視野で世界をみれば、ウイグル人、クルド人、タタール人など悲惨な例は多い。外国人の労働者受け入れは、そのような悲劇(日本人、中国系、東南アジア系、どちら側か判らないが)の素地を作る政策である。同じ視点でも、議論することはある筈。ことば狩りなどするしか能がないのかといいたい。
(6/18pm; edited 6/19/8:00;)

安倍政権の特区と特例

 安倍政権は深い考察なしに、次々と新しい政策を取り入れている。そして、特区や特例などという言葉で、その政策は制限付きだというラベルを貼って、反対論の拡大を防止している。その代表例といえば、経済特区での外国人労働者の受け入れ、集団的自衛権行使を現憲法下で可能にする解釈変更などである。
 しかし、その特区や特例は病巣のようなものであり、やがて全国と全範囲に広がるだろう。公明党はそのインチキを半ば知りつつ、染み付いた与党の欲望にまけて同意するだろう。安倍氏が深い考察をして、その後のシナリオを持っているのなら、それなりの安心感があるだろう。しかし、あの人にはそのような知性は欠片もないだろう。操り人形のように、現在、現世利益追求に邁進する勢力に利用されていることすら、気が付いていないだろう。
 外国人労働者の受け入れは、やがて来る経済停滞の時期に、治安の低下となって、全国民に恐怖の夜をプレゼントするだろう。集団的自衛権行使の現憲法下での容認は、日本国の国際的信用低下の原因になるだろう。そして、対米依存のままの米国の力の低下は、周辺諸国との屈辱的関係の原因になるだろう。安倍政権は一日も早く潰すべきだと思うが、橋下氏や江田氏では無理だろう(注釈1)。
 もし、尖閣諸島周辺での異常事態が発生すれば、米国の空約束が明らかになり、(注釈2)安倍政権の崩壊と全国規模の混乱の後、或いは、良い方向が見えるかもしれない。
注釈: 1)橋下氏や江田氏は期待できるが、それに続く人材がいないと思う。民主党の前原氏なんかと組んだとしたら、石原氏とのごたごたの新しいバージョン、しかももっと劣悪な劇を、演じることになると思う。橋下氏の発言にあるように、政治に頼って飯を食っている連中には、まともな政治ができないのだ。その代表が、政経塾出身者であり、自民党二世三世議員達である。 2)アラブにおいて、独裁からの開放には、混沌がまっていた。同様に、日本の隷属からの開放には、アジアに混乱の渦が生じるかもしれない。 =これは、退役理系人間の考えです。政治経済に造詣の深い方の反論を期待します。=

2014年6月16日月曜日

STAP論文のインチキ処理に手間取る理研や文科省は、日本の評判を下げる張本人

 どのような分野であれ、一定の確率でインチキが暴露されて大騒ぎになるのは、名誉欲、金欲、愛欲その他諸々の欲と情に翻弄されがちな人間の作る社会だから、仕方の無いこと。さっさと首謀者を処分して、おしまいにするのが、最もノーマルで有効な対策である。文科省下村大臣の記者会見によると、理研は改革委員会を設置して、外部有識者委員会における報告を参考にして、文部科学省内に設置される理化学研究所研究不正防止改革タスクフォースの監視のもとで、研究不正をなくするための実行性あるアクションプランをつくると言う話である。(注1)笑わないで記事にするのか、記者のみなさん?
 研究というものが判っていないお偉方が、或いは判っていても、老後の楽しみに研究機関を弄くり回す様子こそ、世界の恥である。   また、文部大臣の意向としては、再現実験を、小保方さんを入れたチームで行なう方針だという。錬金術の再現実験を金と時間と人の力を使って、錬金術師を中心にするようなものである。
   一般に科学研究において、現在受け入れられている仮説(つまり理論)と観測結果を基に、「存在しないだろう」という主張をすることはできる。しかし、「存在しない」ことを示すことは出来ない。従って、何年やっても、今までは確認できなかったが、「存在するかもしれない」という疑問は無くならない。また、論文の実験の部(Experimental)で示した方法で、その分野での技術を持った者が作ることが出来なければ、その論文は学会に受け入れられないし、その発表者も作ったことにはならない。(注2)
   今回のSTAP細胞の件は、要約すると:スタップ現象の存在を示す為に、時間と多大な金を使っても研究したが、成功しなかった。そこで、その担当研究者がインチキをして論文にしたが、そのネタがバレてしまった。それだけのことである。そんなことに長々と有識者会議とかを設置し、不正防止アクションプランを作るとか、文科省内に不正防止改革タスクフォースを組織するとかいうのは、外国では笑い話の種にされるだけである。
 何故、日本と言う国は、個人の資質に原因を求めないのか? JR福知山線の脱線事故の時も、運転手の資質は一切問われなかった。(注3)この国は、全ての人を倫理的に及び能力的に平等(注4)に扱い、何か事件があっても、その責任は全てその人の置かれた情況の所為にする、”情況下倫理が支配する国”なのかもしれない。(注5)

注釈
1)http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/detail/1348588.htm
研究は自由な雰囲気の下で進み、優秀な研究者は多種多様な経歴、感覚、技術を持った高度に知的な集団の自由闊達な議論などにより生まれる。そこは、管理という言葉はもっとも相応しくない場所でもある。一律形式で実験ノートをつけ、管理者のチェックを一定期間事に受けるとか、研究環境の安全のため一律の基準で実験室をチェックするとかいうことを検討するとしたら、そんなところで、世界一流の研究は生まれず、トップレベルの研究者は育たないだろう。
2)今まで、それに反する現象を観測できなかった、つまり差し当たり正しいとされる、仮説の集積が科学である。従って、「真理」や「絶対」とは一線を画するのが、科学の文化。それが判っていない”偉い人”が多すぎる。真理を主張するのは宗教である。
  3)担当運転手は、事故の直前だけでなく、何度も停車位置を間違うなどのミスをしていた。運転手としての資質に問題が在ったと思うが、それは全く問題にされなかった。
4)平等でないことは承知の上だが、平等に扱わなければ”和が保てない”という建前論(山本七平氏の空体語に近い)が、本音との境界を越えて侵略する場合が屢々生じる。これを”山本學”では空気の支配という。 
5)つまり、「悪いのはその個人でなく、そのような情況では仕方なかった。従って、責任はそのような情況を作った側だ」と言う倫理基準。山本七平著、「空気の研究」文芸春秋1983年、第二章「水=通常性」の研究
(6/17補足修正)

2014年6月14日土曜日

明快&正直は最善の策&高村副総裁への提案

 言葉の使い方から議論に入ります:サッカーでわいていますが、初戦のコートジボワールとの試合は絶対にまけられない試合だそうです。
 この「絶対に負けられない」という表現は、受け身なのか?それとも、”絶対に負ける訳にはいかない”の省略だとしたらどういう省略なのか?日本語も苦手な私にはわからない。何故、「絶対に勝たないといけない」或いは「絶対に勝ちたい」と言わないのか?何故、日本人の言語表現は複雑なのか?日本文化そのものが、受身と被害妄想が複雑に絡んだところに特徴があるような気がする。「嫌よ嫌よも好きのうち」ということばがあるが、これも同様で、論理もなにもあったものじゃない。理研神戸ではないが、All Clearしてからでないと(性根から叩き直さないと)、この文化は治療不能なのかも。遡っても純粋な(と言っても人種と言う意味ではない(注1))日本人の私には、天につばをはくようなものだが。
 最近議論になっている、高村氏の集団自衛権行使を可能にする憲法解釈における、情況の定義も極めていい加減(いい加減という表現も、その元の意味からの転移は不思議だが、意味は通じる)。集団自衛権行使行使の要件として、これまで検討されてきた「我が国の存立が脅かされる」場合などに加えて、新たに「国民の生命、自由が根底から覆されるおそれがある」場合が盛り込まれているとのこと。満州は日本の生命線と言いながら、大陸に攻め込んだことを、政治家は記憶しているのだろうか? ”自由が根底から覆される”なんて持って回った様な、場合によっては無意味に転移するような言葉で、何を表わそうとしているのか?”外国により捕われる恐れ”ならそうはっきり言えば良い。おそれなら何の恐れでも何時でもある。家を出た瞬間から、交通事故で死ぬ恐れがあるに決まっているだろう。こんな言葉遊びして、何の役に立つのか?
 軍事力を持ち、且つ、用いるのなら、憲法を改正するしかないだろう。因みに私は、憲法9条を改正して、防衛軍を持つことには賛成だ。また、前文に絵に描いた様な理想論が書かれているが、そんなものに国民の命を託すことなど出来る筈が無い。
 理研のスキャンダルにも言えることだが、「honesty(and clarity) is the best policy」という言葉を日本社会は上から下まで、何度も繰り返して噛み締めるべきである。味が出てくるまでに時間がかかるので。

注釈:1)米国陸軍Intelligence Bulletin、1942年10月号の記事:「(日本人は)彼らが信じている人種的純潔性とは異なり、実際は少なくとも4つの基本的人種の混血である。それらは、マレー系、モンゴル系、満州・朝鮮系、アイヌのような日本の固有部族である。」

2014年6月13日金曜日

非効率な後期教育と人手不足ー社会の慣習から変えるべきー

 無駄な大学教育を行ないながら、建設業や介護分野の仕事を外国人に奪われるのは愚かなことである。
 大学進学者は既に50%を越えた。おそらく、半分以上の大学生は、ほとんど将来の仕事に役立たない学問について、動機も明確でなく、且つ、熱意のあまり湧かないままに、授業にでているのだろうと想像する。その様な学生の比率は、授業料や生活費を親からの仕送りに頼っている学生ほど、高いのではないかと思う。勉強において早熟な一部の高校生以外は、一度就職して社会に出るべきだろう。そして、もし実社会での経験から、学問に興味が出れば大学に入学するという様に、後期教育(大学と大学院)のスタイルを変えた方が時間及び経済的効率が高くなるだろうと考える。一方、この変化には、社会の制度や文化に大きな変革が必要である。
 米国のような個人主義(注1)の国では、高校までの学費や生活費は親が持つが、大学以降は奨学金やアルバイトなどで自分自身が調達する。親が大学や大学院の学費を支払うのは、家族制度が核家族的に変化した現在、親側の世代に不利である。つまり、世代間の相互扶助があれば、その経済的負担に親の世代は耐えられるであろうが、それが無ければ、より不自由な老後になる可能性が高い。そして、その親の過重な負担でなされた後期高等教育が必ずしも子供の為になると限らないのなら、尚更悲惨である。(注2)経済がグローバル化した現在、先進国において今後の経済停滞は必然であり、日本における年金の破綻も時間の問題であるから、これは多くの家庭において深刻な問題だろう。
 一般に、経済界は多様な人材を必要とする。技能職などへの適応には、例えば金型加工や伝統技能などは特に、成人するまでに基礎的訓練を行なうべきである。殆どが大学までストレートに進学する現行制度では、高度な技能者を得るのは困難になるだろう。(注3)また、建築業や介護職などの分野では、現在人手不足で外国人労働者の受け入れが考えられている。(注4)一方、大学や大学院を出て就職するべき、研究教育職、企画経営職、医者や弁護士など専門職は、社会全体としての必要数が大学進学率のようには増加しない。更に、様々な事務職などは、電子化に伴って省力化が進んだ結果、必要数はむしろ減少するだろう。つまり、国内の仕事は少なくなる傾向にあるので、若者の労働における嗜好が偏ったままにして、経済界からの外国人労働者の受け入れに対する圧力に政府は屈するべきではない。
 以上の様々な問題の解決は、部分的なものを場当たり的に行なうことでは不可能である。つまり、労働力の流動性を高めることと同時に、就学形態の自由度を高めること、若者の自立年齢を下げること、労働の意味を若者に再確認させること、などを同時進行的に行なうべきである。また、日本の儒教的な風習、年功序列や企業や官庁における、役立たない老年者の厚遇などは徐々に廃止して、労働者一般にその資源を開放すべきである。
 社会全体が価値観や制度を変えるには、労働者と経営者双方が一定の苦しみに耐えて困難を乗り越えるしかないのである。外国人労働者受け入れ解禁などの、経済界のみを対症療法的に厚遇するのは、禍根を未来にのこすだけである。(注5)

注釈:
1)個人主義というと日本では誤解による負のイメージが強い。個人が他人の意見に付和雷同することなく、自分で考えて自分で行動するというあり方を言う。日本の様に、“社会全体の空気や、インチキ権威”に人が支配されることが比較的すくない。また、民主主義の成立要件である。
2)大学や大学院卒業まで、親が面倒を見るのが当たり前のような空気が現在の日本にはある。しかし、その結果として、実力がないにも拘らず、「3K仕事は嫌だ」とか、「自分らしい仕事がしたい」などという、仕事の意味を理解しない若者を産むことになったのである。
3)スポーツ選手が儲かる仕事になって以来、早期教育が行なわれている。その結果のレベル向上は言うまでもない。成人してからでは、現在の一流選手を基準にすれば、同じ才能をもってしても初心者レベルにしか上達しないだろう。
4)外国人は当然、発展途上国から受け入れることになる。そこのモラルの基準は当然のことながら、日本と異なる。フランスなど西欧諸国での治安低下などに学ぶべきである。政府は、信用と安全は重要な社会にインフラであることを再確認すべきである。これは人種における偏見ではない。国が違えば、文明発展の段階もことなることを言っているに過ぎない。仮に、現在の日本に江戸時代の日本人を受け入れることが出来たとしても、同様に社会にはマイナスだろう。
5)グローバル経済ではあるが、国内企業の資本は国内で70%程度抑えている。日本の経常収支が黒字なのは外国で日本由来の資本に金を稼がせているからである。これを維持することは生命線であるから、ジャパンプレミアム付きの天然ガスで発電する情況から早急に抜け出すべきである。原発(加圧水型)など、まともに使えば、安全である。放射能など20mシーベルト/年以下なら、害がないことはデータが示している。元総理2人は、米国か何処かの回し者である可能性が高い。(因に、筆者は元総理と違って、第一種の放射線管理主任者免状所持者、且つ、元放射線化学研究者です。)(2014/6/14一部改訂)

2014年6月12日木曜日

山本七平著「水=通常性の研究」について

 山本七平氏の「空気の研究」(文言春秋;文庫)の二つ目の文章は、表題の「水=通常性の研究」(文庫版、以下省略、91-172頁)である。「水」は「空気」と対をなして日本社会の雰囲気を作る因子としている。水という単語を用いたのは盛り上がった雰囲気を元に戻す「水を差す」という言葉からとっただけであり、必ずしもぴったりする言葉ではない。それが補足的に通常性という言葉を付け足した理由であると思う。

 水は全ての考え方を(日本的)通常性に換えてしまう力であり、それは消化酵素のようなものであるとしている。例として浄土宗としての仏教の変質や日本共産党の変質をあげ、議論している。(94-100頁)何故そのような日本社会の通常性へ適合するように消化してしまう「水」が存在するかについては、単に営みの連続性(記憶による)と、人にも何にでも存在する「異常性の排除」というメカニズムをあげている。(103頁) また、この日本における通常性の特徴として、「情況倫理」と表現されるものをあげている。たとえば、「あの情況ではああするのが正しいが、この情況ではこうするのが正しい」「当時の情況ではああせざるを得なかった。今の基準でとやかく言うのは見当違いだ。批難されるべきはそのような情況を創りだした方だ」というものである。(108頁;注1)この過度な(つまり日本型)情況倫理的な論理は、背後に自己無謬性があるからであり、そして自己無謬性の成因には日本型平等主義がある。(113頁)日常的に慣れ親しんでいる(日本型)情況倫理的思考に異常性を感じる人が多くないかもしれないので、著者はそれと対照的な「固定倫理」の考え方との違いを説明している。それは19世紀までの西欧で厳密に用いられていた倫理である。(123頁)

 情況倫理に過度に頭を占領された例として、通知簿にオール3をつけた音楽教師の例があげられている。この例は、流石に嘲笑的に批判されたが、人間を基準とする日本的平等主義の終着駅であることに気付いた人は少ないかもしれない。しかし、複雑な論理を展開するまでもなく、人間を平等とする人間中心での倫理があるとすれば、それで人間を裁くことは不可能である。ただ、倫理が無ければ社会は成り立たないので、情況を超越した一人間、又は一集団、或いはその象徴に、その基準を求めることになる。そして、「一人の絶対者、他は全て平等」という原則が出来上がる。(127頁;注2)  絶対者を持つことは、それに対する信仰のようなもの、つまり臨在感をもつことになる。

 このような情況の原因を、著者は日本型儒教を用いて説明している。儒教には、「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中にあり」(論語、子路第13)とあり、真実或いは社会の法よりも人間関係を重視する。また、上記親子の間の「孝」の他に、「忠」という人間関係もあるが、それは主君或いは会社などへの契約的忠誠である。その儒教の考え方が、日本では「忠孝一致」という考え方が、統治者に都合良く追加された(136頁)。一方西欧では個人主義が伝統としてあり、上記のような情況にはならない。その出発点として、聖書のエレミヤ書の中の言葉をあげている。

 以上のように、忠孝一致で極限に達した人間関係重視(つまり、真実や法の軽視)と、それと従属関係にある情況倫理の支配が「通常性」の中身なら、何らかの問題が生じた時に、大衆が大きく一方向に偏る、つまり空気に支配される、のは当然の結果である。一見、良い方に「空気」が偏った例は、明治維新であり、それは「文明開化」というシンボルが臨在韓的に把握され、文明化の「空気」が出来たからである。(154頁)世の中に、西欧諸国との対立という新たな情況が生じたなら、その文明の出所を忌避する「鬼畜英米」の空気に支配されても不思議ではない。それは、まるで日本社会全体の、宗教的回心或いは転向のようである。

 以上、空気にしても通常性(水)にしても、日本に置ける束縛、つまり、自由の喪失について、そのメカニズムを述べたものである。しかし(情況倫理が支配的な)日本では、どこに自由という概念をおいて良いのか解っていない。大切なのは、「空気」に「水を差す」自由である。そして、戦後、「自由」を語った多くの人は、この「水を差す自由」をいつでも行使しうる「空気」の醸成に専念してきたのである。しかし、その「”水を差す自由”という空気」にも水が差せることを忘れている(注3)という点で、結局、空気と水(=通常性)しかないのである。(最終頁)
 以上が、「水(=通常性)の研究」を私の理解で補足を入れつつ要約した文章である。この章も解り難い。その理由は、著者が「空気」と「水」という表題のキーワードに拘り過ぎているからだと思う。特に「水」の使い方は、おかしい。“水を差す(通常に戻る)”場合と“情況倫理に支配された通常性(=水)”は全く別物だと思う。上記解釈では、その区別をしている。 

 私の考えを一言で言うと、日本には西欧にある“自由という伝統”がないということである。それは、一神教とその聖典(つまり聖書)をもつ西欧と、人間しか目に入らない儒教文化の東アジアの差であると思う。偶像を厳しく禁止し、神と人との一対一の関係を築くことで、人は人間関係から本質的自由を得る。民主主義は人と人の間に本質的自由がある状態、つまり個人主義が存在する所でしか成立しない。自由と放任はべつものである。最終頁の「水を差す自由という空気」に水がさせないのは、「自由」の本質と獲得のメカニズムが解っていないだけである。そして人類は、神(ヤーベ神)を持つ以外に「自由」を獲得する方法を発見していないようである。(注4)

 戦後、米国が日本に注入したと考えている自由は、実は放任と誤解されたのであり、日本のような行き過ぎた儒教圏(忠孝の区別ができない)での放任は、同時に注入したと考えている民主主義を別物に変質させたのである。
(以上の解釈等に、誤解があると思われるなら、御指摘下さい。歓迎します。)

注釈:
1)この情況倫理は何処の国にもある考え方であるが、日本では過度に働いているという意味で書いていると思う。たとえは、「あの時にドロボーしたのは、空腹で命が危ないと思ったからである」が真実なら、どこの国でも裁判において減刑される筈である。
2)「一人の絶対者、他は全て平等」という原則では、絶対者が実際に力を持たなければ、集団は流動的状態になり、空気が醸成される。この水=通常性の文章は、空気の醸成メカニズムという視点で書かれている。空気に「水を差す」意味での「水=通常性」はほとんど効果がない。それが、この文章を理解しにくくしている理由だと思う。最後の方にもう一度このことを「私の考え」として書いています。
3)これは、”政府の方針には何でも反対”という所謂左翼系新聞(A新聞やM新聞)が醸成した「空気」だろう。それらマスコミには、政府に賛成する自由(水を差す自由と言う空気」に水を差す自由)はない。社民党なども同様な症状にあると見える。
4)ここでの「自由」は歪んだ人間関係を排除する自由の意味で、西欧人はそれを神への束縛と引き換えに手に入れているにすぎないと言える。当然、人間は協力して生きて行かねばならないのであり、その為の「法と正義」が、神により準備されている。従って、聖典の考慮した範囲を越えない情況下にある限り、西欧社会は悪魔(実際には、屢々入り込む)が入り込まない限りよく工夫された社会であると思う。別の言い方では、西欧社会では、人間関係において自由を獲得したが、神との関係において束縛されている。従って、イスラムとユダヤの争いとその深刻さは、日本人には理解できない。(2014/6/14一部改訂)

2014年6月10日火曜日

韓国における貧富の差=金慶珠氏の発言へ? 

 土曜日の石原良純氏がホストを務めている激論コロシアムにおいて、三橋氏からだと記憶するが、韓国貧困層の経済的困難が指摘された。この指摘に対して、何時も偏見に満ちた日本非難をする金慶珠女史(注1)が、韓国と日本のジニ指数の値に大差ないので、貧富の差は日韓で大差ないという趣旨の発言をした。金慶珠氏は、何時も“韓国は正常で日本は卑怯”的発言をする人である。その金氏であるから、詳細は三橋氏の指摘通りであることを知りながらも、韓国は正常であると、韓国政権を擁護する趣旨で発言をしているのだと思った。
 調べて見ると、ジニ係数だけでは本当の貧困層の悲惨さは、相対的にも判断できないことが判る。ジニ係数の算出方法は簡単で、以下の通りである。先ず、横軸に所得の低い順番に家計の割合をとり、縦軸に所得の積算値の割合をとったグラフを作る。グラフの範囲は両軸とも0〜1.0である。そのグラフは考案者の名前に因んで、ローレンツ曲線(注2)と呼ばれる。この曲線とy=xという直線が囲む面積を2倍したのがジニ係数である。100倍して%で表わす場合もある。
 上図とジニ係数の定義から明らかな様に、貧困層の経済的情況はローレンツ曲線の形を無視するジニ指数だけでは判らない。つまり、貧困層への所得分配はローレンツ曲線の原点付近の勾配で判断される。
 それに近いデータとして、下位10%の貧困層の消費が全体の何%の消費に当たるかという統計がある。NationMasterという定評のあるサイトが発表しているデータを見ると、その値は日本では4.8%であるのに対して、韓国は2.9%である。従って、金女史の抗弁は正しくないのである(注3)。三橋氏には、その番組で間髪を入れずに、反論して欲しかった。
 経済だけでなく、今やいろんな指数が幅を利かしている。指数は中身の複雑な計算をしないで、何かの傾向を知ることができるので便利である。しかし、重要な条件を殆どの利用者が忘れている。それは、1)指数とそれが表わす実態の間にかなりの乖離がある場合が殆どであるということ; 2)その求め方を知らない人を対象にした場面では、その指数は屢々悪用されるということである。

注釈:
1)東海大の先生をしているのだが、堀プロ所属のタレントでもある。田嶋陽子さんと同じで、日本の悪口を言う役柄を受け持っているという捉え方もある。ただ、頭は相当良い。
2)統計分布のLorentz曲線とは別物である。
3)このような議論には、その他に一人当たりGDP(韓国は日本の63%程度)と物価が不可欠である。物価ではビッグマックの値段は同程度であるが、その他は韓国での方がかなり安いそうである。

2014年6月9日月曜日

山本七平著「空気の研究」について

 山本七平著「空気の研究」(注1)を読んだ。体力のない私には非常に読み難い本だった。ここで、その要点と私のオリジナルな解釈を混ぜて、感想文を書く。

 日本人の社会は、(場の)空気の支配を受けやすいというのは、何時も感じていることである。山本七平氏は、日常の様々な場面、及び、歴史的な出来事、例えば、戦艦大和の無謀な出航や、自動車による公害問題などを例にあげ、空気に支配されて出した決断による多くの失敗をリアルに描写している。そして、日本社会の特徴として「我々は常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そして我々が通常口にするのは論理的判断基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。」と書いている(文庫版22頁)。

 山本七平氏は、「空気の支配」における二つの本質をあげている。一つは、A) 空気支配の背後にあるのは、対象への「臨在感的把握」に基づく判断基準であること。(文庫版30頁)つまり、日本人は物や言葉を臨在感的に把握する傾向が強く、それが「空気支配」の起こりやすい背景としてある。臨在感とは、あるものの背後に超自然的な何かを感じる感覚のことである(注2)。キリスト教などの一神教(他にユダヤ教とイスラム教)では、偶像崇拝(つまり、臨在感的把握の対象物)を強く禁止している。それは、神と人との直接契約であるべき信仰に、何か別のもの(神性をもったもの)が入り込む可能性が出てくるからである。その結果、神を除く全てを、臨在感的に把握する可能性が低くなり、「空気による支配も」顕著ではない。

 有力な人またはグループが、ある命題(例えば“原発は全廃すべきである”)を提案すると、その説或いはその説の対象とする物体(原発)が、臨在感を伴って人々に把握される場合がある。その結果、その説が日本全体を支配してしまう。これが「空気の支配」の人工的醸成である。それを許してしまう、もう一つの「空気の支配」の本質は、B)「空気の支配」は「対立概念で対象を把握することを排除すること」である。対立概念で対象を把握すれば、たとえその対象が臨在感的把握によっている場合でも、絶対化されず、対象に支配されることはあり得ない。(文庫版51頁)

 この空気による支配が日本で顕著なのは、日本の言語にたいする文化とアニミズム的な宗教文化に原因がある。「言葉の偶像化による空気支配」が起こるのは、言葉の本質が理解されていないからである。つまり、「人間が口にする言葉には、「絶対」といえる言葉は皆無なのであって、人が口にする命題はすべて、対立概念で把握出来るし、把握しなければならないのである。そうしないと、人は、言葉を支配出来ず、逆に、言葉に支配されて自由を失い、言葉を把握できなくなってしまうからである。」(文庫版74頁)最後に、聖書の創造の物語とヨブ記を材料にして、この命題の相対化の重要性を説いて、この「空気の研究」という文章は終わっている(文庫版88頁)。

     ところで、人工的でない「空気」であるが、それは殆どの場合、「保守的な考え方の支配」に置き換えられるのではないだろうか。長い間につくられた日本の社会にある、慣習や価値観に従うことを、半ば強制されたように感じることを「空気の支配」と言えると思う。(注3)従って、社会の変化が急になると、この空気の支配がその変化への対応の邪魔になる場合が多い。日常での空気支配においては、その原因やあり方において、おそらく儒教の影響が大きいと思う。儒教は、“道徳”という装置を用いて、(師と弟子、父母と子供、先生と生徒、君と臣など)社会に層状構造を持ち込み、その層内では平等&均質性を、層間では絶対的差別を強要する。「空気の研究」にも、「日本の道徳は、差別の道徳である」という記述がある。(文庫版12頁)つまり、その伝統的価値が絶対的なものとして社会に生きている事実をミクロに見れば、「空気の支配」となるのだと思う。

 日本では、山には山の神が、海にも海の神が存在する。また、言葉にも霊的感覚が付随している。例えば、八の字は末広がりで縁起が良いとか、女の厄年が33(散々)歳で、男の厄年が42歳(死に)だとか、数え上げればきりがない。日本の国教たる神道の伝統下では、あらゆるものに臨在感があるので、我々は常に自然を始め自分を取り囲む周囲を恐れ、且つ、それらに感謝して生きている。つまり、超自然的な雰囲気に満たされた空気の中で生きているのである(注4)。その毎日の生活の中に、周囲の雰囲気に支配される習性が出来上がっていると思う。

 それに加えて、山本七平氏が「日本教について」で、指摘しているように日本語で、論理の筋を保って話をしたり、文章を書いたりするのはかなり困難である(注5)。そこで、会話の能率を高める為に、どうしても単語そのものに価値判断が含まれる。それに比較して、英語圏などでは、単語ではなく文章そしてそこの論理で、物事の価値を判断する。この言語環境に置ける差は、非常に大きな文化的差を生む。一例を上げると、「女」と「女性」をNHKニュースでは明確に区別し用いている。“50代の女が、20歳の女性を暴行し、死に至らしめた”という文章では、「女」という単語の中に、マイナスの価値が既に含まれているので、「女性」と入れ替えることが出来ない。しかし、広辞苑(第二版)で“おんな”を引くと、「人間の性別の一つで、子を生み得る器官をそなえている方、女子、女性」とある。つまり、女=女性なのである。広辞苑でも基本的な単語さえ、正確な意味を定義できないのか、それとも天下のNHKが間違った定義で基本的な単語を用いているのか? 

 この日本の言語空間の特異性は、言葉に霊的な何かが容易に臨在することの背景となっていると思う。例えば、原子爆弾を被弾した以降、「原子」という単語に霊が乗り移った様に、日本人は拒否反応を示した。実験用原子炉の導入の際、担当した学者がその空気との闘いに多大なエネルギーを要したことが書かれている。(注6;文庫版21頁)今でも、原子炉という言葉に、放射能という未知の幽霊よりも恐ろしい悪魔が臨在しているように感じている人が、二人の元総理以外にも大勢いる。つまり、原発に反対するという空気が日本中に満ちているのであり、そこには論理も何もない。言葉でも何でも臨在感的把握は、その対象物に神性をみるのだから、その後の命題の論理的展開などあり得ない。つまり、絶対的価値を生じるのである。

 以上、日本において空気の支配が起こりやすい原因として、(1)儒教の影響が日常の価値の中に根付いていること;(2)汎神論的な神道が、国の背景に存在すること;(3)日本語は、原始的な骨格を持つ言語であり、単語に価値が含まれてしまうという特徴がある;の三つの原因があると私は思う。繰り返しになるが、それら:未発達な言語空間(注7)での論理展開の困難さ、それが原因で単語に価値を付着させる習慣、山や海など全てのものに神性を見る神道文化、人々の間に満ちている儒教的慣習、これらの全てはワンセットで、日本文化をかたち作っていると言えると思う。

 山本七平氏の「日本論」における着眼点の鋭さは、恐らく、氏がキリスト教徒の家に生まれ、自分自身も洗礼を受けていること、つまり西欧文化の下に半分生きたということと関係があると思う。そして、神道という汎神教が支配的な国と一神教の国を比較するという視点で、解説したのがこの本であると思う。ただ読後、「山本七平氏は、何故もっと簡単に「空気の研究」を書けないのか」と、読者でありながら不遜な言葉が頭にうかんだ。

注釈:
1)山本七平著「空気の研究」(文芸春秋、文庫版)は、三つの文章からなる。その最初が“「空気」の研究”、次の文章が“「水=通常性」の研究”、最後が“日本的根本主義について”である。この感想文は、最初の二章を読んでの第一章に関するものである。
2)例えば、神社でおみくじを貰った場合、そこに書かれた自分の運気を見た後、くずかごに捨てる人はあまり居ない。それは、何か神聖なものを感じているからである。
3)日本には「小学生はランドセルを背負う」という根強い慣習がある。人生で一番高価なカバンを持ったのは、小学生の頃だったという人が多いのでないだろうか。この慣習に逆らう人は殆どいないが、我が家は一度試みた。1980年代後半の事であるが、こどもが小さいので布製サックを背負わせて通学させたことがあった。しばらくすると、近所で悪評が立った。その悪評がめぐりめぐって、我が家のこどもが苛められることになるかもしれないので、仕方なくランドセルを購入した。
4)「空気」を訳せば、プネウマ(pneuma)となるが、この英語は精霊或いは霊の意味である。それと同時に、pneumatics(空気力学)の単語から判る様に、元々空気という意味もある。従って、空気の支配は外国でもあるし、あったのである。
5)山本七平氏の「日本教について」の感想文も、既にブログに書いている。
http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html
6)この担当教授として、千谷利三という名前があった。関係ないが、私の出身講座の初代教授である。
7)日本語のこのような特徴は、別にHPに書いた。
http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
(2014/6/9)