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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2017年12月31日日曜日

清濁併せ呑む日本文化と善悪を峻別する西欧文化

1)中部大学の武田邦彦氏が、日馬富士の暴行事件に関する話をしていたが、その中で日本の相撲、そして日本文化について語った部分が印象に残ったので、その延長の形で日本文化を考えてみた。武田氏の動画から得た文章はイタリックで書いた。それ以外は今回のオリジナルな分析である。https://www.youtube.com/watch?v=JSIHkwix5ME&t=533s

大横綱の双葉山は「待った」をしなかったという。相手が幾分早く立ったとしても、待ったをせず、堂々と横綱らしく受けて立つ相撲だったのである。

西洋の対決型のスポーツでは、試合の場では格の上下などはなく、細かく定められた同じルールの下で試合をする。そして、ルール違反に当たらない技を総動員して双方が戦い、その結果としての評価は勝ち負けが全てである。しかし相撲の場合、力士に細かく別れた格があり、試合の前に紹介される。試合は、ルール違反の判別には同じルールが適用されるが、格上の力士は格上らしく戦わなければ、評価が落ちる。つまり、評価は勝ち負けだけでなく、独特の“美学”が持ち込まれる。

西欧のスポーツでは、スタートは審判が宣言するが、相撲では対決姿勢を取るところまでは審判つまり行司に足されるが、試合の開始は対決者同士で決める。行司は、その後対決が正当かどうかを審判する。(補足1)つまり、相撲は西洋のスポーツに似ているが、しかし、ルールが全てではない日本的スポーツである。相撲の歴史を考えれば、神へ奉納する真剣勝負的な伝統行事なのだろう。

その原点から考えれば、現在の日本相撲協会は営業を重視した会社的経営に徹している。そして、モンゴル出身の力士に対して、上記の日本相撲のエッセンスを殆ど敎育していない。何故なら、白鵬は横綱になりながら、そして、圧倒的な強さを誇りながら、奉納相撲にふさわしくない相撲の美学に反する勝ち方をしているからである。

立ち会いに“エルボー”で相手を失神させるような技や、殆ど毎回の様に顔面パンチを用いて、自分優位の体制を取ろうとする。それは双葉山の受けて立つ相撲とは180度異なる。また、真剣勝負であるべきにも拘らず、モンゴル力士を含めてかなりの力士たちが、八百長相撲(モンゴル語でナイラ)を疑われている。(補足2)日本の古い奉納相撲を全く無視したような相撲を取らせる協会の姿勢は、この際厳しく批判されるべきである。このあたりで、公益法人という資格は剥奪すべきだと思う。

2)武田氏のその話の中で、日本文化の「清濁併せ呑む」という特徴が紹介されていた。中でも印象的だったのは、動画の6分10秒位から始まるインドの社会学者の話の紹介である。その社会学者が、「日本には性産業が無い様に見えて在り、それでいて社会は健全に見えるのが素晴らしい」と発言したというのである。

武田氏はこのインドの学者の話について、それ以上は言及しなかったが、上記双葉山の相撲なども合わせ考えると、日本文化の特徴が見えてくるように思うのである。つまり、近代日本は、個人を同一のルールで縛ることを建前上取り入れているが、それは日本文化の世界とは本質的に矛盾するのである。

日本文化の特徴は、人は分をわきまえて行動し、社会が全体として調和的に動くことをよしとしているのだと思う。ナチスの全体主義とは全くことなる、全体主義的文化と言えなくもない。別の表現を用いれば、日本は国家でありながら一つの生命体を構成するのである。インド学者の指摘した様に社会全体が、生物として必然としている人間の全てを、各個人がその”分”を弁えて行動することで受け入れるのだろう。

一方、西洋社会のあり方は、人間の中の汚い部分を違法の中に押し込め、犯罪者を同時に生み出すことで処理している。つまり、人を善人と悪人の二種類にわけて、この世を神の子である善人の棲家として、醜悪なる部分を悪人或いは異教徒の仕業として罰するのである。それは、全体から美しい部分或いは上澄み(“表社会”)を取り、その“人工社会”を正義の支配する社会、神の意志を実現した社会と定義するのである。その正義や平和は、その上澄み社会のみでは永続的に実現可能でないなどとは、およそ想像すらできないだろう。

3)西欧の社会で語られる人権、平等、自由、自然保護、動物愛護などは、その人工社会の概念であり、それを振りかざして異なったタイプの社会の国家を攻撃する姿は、まさに中世の異教徒弾圧的風景である。善悪は神の領域であり、従って、かれらには迷いはない。つまり、社会が表と裏で全体を為し、表だけでは安定に存在できないという考えは、想像すらできないだろう。

一方、日本社会では“悪人”に対しても一定の棲家を与えている。日本には「盗人にも三分の理」という言葉がある。また、幡随院長兵衛に始まるとされる侠客やヤクザなどは、西洋の悪人とはかなり実体が異なるだろう。ヤクザは西洋的観点からは、現代法に反する行為を日常的に行う悪人という範疇に入るが、しかし現在でも“裏社会”を仕切っているようである。

現在、日本は西欧的法治国家を標榜している。その一方で、上記インド人学者が素晴らしいとして評価したことや、例えば都市部再開発などにおいて、地上げと悪の汚名をセットで受け持つそれらの人々(裏社会の人々)を、単に処罰するだけで良いのかという疑問が残る。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40

21世紀の世界は混乱の世界だろう。そこで、行き詰まるのは西欧型社会である。神の論理と人間の本質の間の”ずれ”を、強引に退けるには犠牲者(生贄)が必要である。人の力が科学の力を借りて非常に大きくなった現在、その考え方では多大な犠牲者が必要となるかもしれない。それは人類の破滅に繋がる可能性すらあると思う。

インド人の学者が感心した日本の風俗などは、西欧の論理を用いれば二枚舌を用いているとか、悪に対する姿勢が毅然としていないなどの非難の標的となる。それは、人を全て同じ平面に並べた上で、人の性質を善と悪に分けるという、西欧の信仰に毒されているということではないのか?西欧的神の論理を原理としないで、人の“醜悪なる部分”も含めて全人格を受け入れる日本型社会(東洋型社会?)を世界が考えるとしたら、21世紀の世界を考える良い材料、或いは刺激になるのではないだろうか。

補足:

1)始まる前なら、力士は対決姿勢を一旦解除することを提案できる。それが「待った」である。双葉山は、相手が先に両手をついて試合を一方的にスタートしても、遅れを承知で手を付いてその試合開始に同意したのである。何れにしても手をつかなければ、試合は始まらない。
2)そもそも貴ノ岩暴行の原因(或いは誘因)に、横綱白鵬をボスとするモンゴル力士グループが、真剣勝負をする貴ノ岩に反感を持っていたことと、その真剣勝負で白鵬を破り稀勢の里の優勝をアシストした相撲があったという。

2017年12月28日木曜日

日本国は背骨の無い軟体動物である:貴ノ岩暴行事件をプローブ(検針)にして見た日本

1)「日本国は日本国民一人一人が支えている」と言えば、恐らく殆どの人が同意するだろう。しかし、日本国を支えているとの自覚は日本人にはあまり無いだろう。それが、貴ノ岩暴行事件に対する多くの人の反応を観ての感想である。

日本国を、一つの細胞にたとえると、壁に囲まれた色んな組織が見えるだろう。その壁の強さに順番があり、それを知ることが小学校以来教えられている「社会科」の最も基本的なテーマである。しかし、日本国民の殆どがそれを学んでいない。

日本国は、国民つまり個人により構成されている。その背景には、国土や歴史などがある。その個人は独立しており、他人が入り込めない領域を持つ。今用いている喩え話では、その個人を壁に囲まれた侵すことのできない領域を持つ存在と見ているのである。

近代国家では、その個人という領域が国内において外から明確に見え無ければならない。そして、その次に強い壁として、国家を取り囲む壁が存在する。これら二つの存在は、相互依存的である。国民の居ない国家はないが、国家無くしては個人の生存は危ういからである。国家を細胞に喩えたのは、それが世界における生存の基本的単位だからである。

勿論、個人は移民などとなって異なる国家を構成することもあるが、その場合はその新しい国家なくしては、その個人の存在は危ういのである。

その次に目立つ壁に囲まれた存在は、個人と同様、親族である。親族がそのように国家により認められているのは、互いの協力が国家の成立と安定に寄与するからである。親族の壁の中に手をいれる場合、国家の力も遠慮すべき場面がある。(補足1)

更に、もう少し弱い壁でつくられた色んな組織がある。法的人格が認められた存在の「法人」の壁も見える筈である。更に、法的人格は無いが、開放的或いは閉鎖的な個人が結びついた色んな組織がある。(補足2)

日本相撲協会は、その法人の一つである。相撲協会の人たちは、自分達の組織を「内部」と意識しているかもしれないが、それは国家あっての組織であり、国家の法の執行が当然優先される。法人は個人のあつまりであるが、その個人間には明確なすき間或いは空間がなければならない。その空間は国家の空気(つまり法秩序)が満たしている。(補足3)その部分を、公(おおやけ)という言葉で表現することもできるだろう。

今回の事件は、法人の壁の外で行われた私的犯罪である。貴乃花親方のすべきことは、相撲協会が如何なる取り決めをしていても、国家の組織である警察に連絡することであり、その捜査に協力することである。その結果、法人の業務に支障が出ると考えられるのなら、その事実について法人が知らされていないのなら、何らかの手段で報告する義務があるだろう。

しかし、その義務を果すことが、警察の捜査を妨害する可能性があると常識的に考えられれば、その義務違反で貴乃花親方が処分される理由はない。その常識として、「犯罪捜査は、犯行現場にいた人たちが互いに連絡を取り合うことを嫌う。そこで、捜査当局は関係者の夫々を隔離する」などが考えられる。

犯行の現場に最も近い相撲協会の担当理事が、そのように判断して事件の報告を直接理事長にせず、警察を経由して知らせたのなら、それは正しい判断である。

今朝の「とくダネ!」を観ていたが、元検事以外の人たちは、全く上記社会科の基礎がわかっていなかった。貴乃花親方処分はすべきでないという人はいたが、それも「犯罪を切掛として、貴乃花親方の協会内規違反が生じたのだから、処分すべきでない」というものであった。

2)因みに、①個人が国家に優先するただ一つの存在であり、そしてその個人が国家を支えていることを、日本人は意識していない。また、②国家が個人以外のあらゆる組織に優先することを、日本人は理解していない。更に、③国民が支える国家以外の強い壁は、その外には全くないということも理解していない。つまり、世界は国家と国家が互いの利益を追求する野生の世界であることを理解していないのである。

①や②は、③を原因としている。その原因は、ヨーロッパのように、国家間での悲惨な戦争を繰り返して、その結果、主権国家という概念に到達したという歴史を日本は持たないことである。この主権国家から、市民が支える国民国家になり、奴隷解放から民主国家になったのである。そして、民主国家の基本は個人主義である。

この個人主義や国民国家という考えは、西欧の伝統の中から生じたのだろうが、それを取り入れる決断を日本国が明治の時代にした。それは、日本国が独自に決断したと言って良いと思う。明治維新については、英国の企みであると言う人も多いだろう。しかし、それでも、その後の日本国の運命は日本国が背負うのであるから、外国の力と知恵を利用して、日本国が独自に成し遂げたと考えるべきであり、その覚悟を持つべきである。

それを、日本国は2,600年前から連続して存在するという風に考えようとするから、「明治維新という過ち」という解釈が出てくるのである。

(編集:17時20分) 補足:
1)親族間が庇い合うことを、国家もおおめに見る。例えば、犯人隠匿や証拠隠滅の罪は、親族の犯罪においては罰せられない場合もある。(刑法105条)
2)閉鎖的な組織として、高校の同窓会や米国の「ドクロと骨」のような組織がある。開放的な組織として、俳句の会や短歌の会などもある。
3)国内から個人の壁が明確に見えなければならないと上に書いた。換言すれば、国家以外の組織から個人が自立していることが、近代国家成立の要諦である。この個人間の空間から公を排除する組織がある。それらは、ヤクザであり、テロ組織である。相撲協会がヤクザ的組織になってはならない。

一昨年の日韓合意についての韓国文政権の検証について

韓国政府は一昨年、日本政府との間で、所謂慰安婦問題を最終的且つ不可逆的に解決するという合意を行った。韓国は、その後朴政権から文政権に代わり、その合意プロセスを検証した結果、”被害者”の立場を十分汲み取っていないという結論になったとし、それを元に今後の対策を考えると言っている。

また、「世論に配慮する半面、韓国政府は日本に対して否定的な検証結果が日韓関係に悪影響を及ぼすことも懸念している。このため、検証結果が発表されても、合意への韓国政府の立場は早期には示されず、先延ばしとなる可能性が高い」と日本との関係を蛇足的に報じている。 http://www.sankei.com/world/news/171226/wor1712260030-n2.html

韓国政府が国内の作業として、何をやっても日本政府に何か要求しない限り、問題にはならないのだから、今の時点でこのようなことについてグダグダ日本国内向けに報道する理由はない。you tube 動画では、三橋貴明氏が「日韓合意は安倍政権の愚策であり、韓国は何を言おうと放っておくべき」という意見をだしている。https://www.youtube.com/watch?v=aPNNCN6x3ZQ

そこで私は、以下の内容のコメントを投稿した。つまり:私は日韓合意直後に、あれは米国の圧力によるだろうとブログに書いた。韓国が蒸し返すだろうという理由ではなく、ウソに基づいて父祖を侮辱する合意だから反対したのである。安倍総理の独自判断なら、総理は無知だと言わざるを得ないとも書いたと記憶している。

チャネル桜の水島氏も日韓合意には大反対だった。理由は私の反対と同じである。しかし、合意直後に櫻井よしこさんが、快挙だと言ったのが気になっている。つまり、櫻井さんなどの安倍応援団の意見を聞いて、総理は判断した可能性もある。それについてもブログで攻撃した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2016/01/20151228.html

三橋氏は安倍総理と直接話しが出来るようなので、直接聞いてブログ読者に公表して欲しい。ただ、三橋氏は慰安婦問題について話すのなら、事実について先ず語るべきである。何故なら、慰安婦が韓国の主張の様に日本軍が強制的に性奴隷にしたと、視聴者が思うからである。

慰安婦問題については山ほど議論したが、その中でこの日韓合意については、以下にも書いている。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42593794.html そこでは田中宇氏の分析「オバマ大統領の圧力でなされたのだろうが、その圧力の理由は北朝鮮の核問題に関する日米韓の結束を確実にするためである」を紹介している。

補足:
1)この当時書いたブログで引用した櫻井よしこ氏の動画は削除されていた。類似の生きているサイトは:
http://www.nicovideo.jp/watch/sm28027280
https://www.youtube.com/watch?v=vN8chjUne68 等。

2017年12月26日火曜日

民間企業の技術革新による生産性向上は、国家の財政拡大でスイッチオンできるのか?

三橋貴明氏のyoutube上での講義「お金とは何か?失業率と戦争、基軸通貨」第6回を視聴した。“安い賃金の外国人を受け入れたら、日本の未来はない。技術革新による生産性向上が明るい道”と主張する講義である。それを見ての感想を書く。 https://www.youtube.com/watch?v=6-HCaOWRRi8

1)三橋氏は、「日本のデフレ経済を脱却するには、財政拡大による景気刺激が必要である」と、1929年の大恐慌と比較して主張している。そして、三橋氏の友人の藤井聡氏(内閣参与の土木屋)は、国土強靭化計画を主張して、経済立て直しを主張している。(補足1)

国土強靭化政策は、例えば巨大地震に備えて、数十メートルの防潮堤を作るなどの馬鹿げた話だろう。他への波及効果はむしろマイナスではないだろうか。(補足2)最近、十勝沖地震の危険性を喧伝しているのは、その藤井という土木屋の安倍総理への影響力を利用して、ゼネコンなどが画策しているのだろう。 講義の中で「安全」に金を使うのは良いとおっしゃるが、使う金に限りがある場合、そんな簡単な理屈では困る。日本人の伝統には、災害から正面対決して克服するという愚かな考えはない。30mの岸壁をつくっても、もし史上空前の地震があって津波がそこを越えれば、岸壁を築くことなく逃げることを考えた場合の方が、はるかに被害が小さい。彼らは、安全への投資には明確な限度がないということを知らない。

また三橋氏は、日本は内需依存型の国だと常々発言している。確かに、GDPの内訳からはその通りだろう。しかし、全てマクロの数字で考えるのは非常に危険だと思う。日本は、エネルギー自給率6%、鉄鉱石やボーキサイトなど資源の自給率0%、食料自給率35%(程度)の国である。従って、日本は基本的に貿易立国である。

現在景気がよくないと判断し、しかも1929年の世界不況と同じような原因と考えて、内需拡大で景気浮揚を考えるのは、分析も対策も間違っているのではないのか。

大規模な内需拡大を財政で行えば、現在健全な国債に対する信用も悪化するだろう。一旦国債に不安が生じれば、日銀は大部分の資産を国債でもっているのだから、円の信用低下から円安と大きなインフレにつながると思う。日本国債は円建てであるので、そして、財務省が日銀の株をほとんど持っている現在、その償還は確実である。また、円安による実質賃金低下とそれによる国際競争力の増加、および円安による国債の実質的減少により、円安とインフレは一定のところで歯止めは掛ると思う。

最終的に国民の銀行預金の実質的な目減りという形で、日本の財政や金融は、新しい均衡点に落ち着くと私は考える。しかし、国民は大部分の預金を目減りという形で失うだろう。

尚、高橋洋一氏が初めて作ったと自慢する国家の貸借対照表を正しく見れば、財政状況は健全であり、PM(プライマリーバランス)にこだわりすぎるのはよくないというのはわかる。そして、景気浮揚の為に生産性の向上を図るべきだという意見も机上の議論としてはわかる。しかし、その方法はもっと根本から考えなくては駄目である。

2)20世紀後半の(第何次か分からないが)産業革命時においても、日本にはグーグルもインテルもアップルもテスラもマイクロソフトも発生しなかった。その日米の差は、何なのか?

日本では、ダイエーという先端を走った企業の破綻に始まり、凄まじい小売業の再編、伝統的に強かったシャープ、東芝などの破綻、三菱重工の停滞、最近では三菱マテリアルなどの不正があった。この流れは、三橋氏の考えるほど単純な方法で克服はできないだろう。そこを問題視しないで、PMにこだわる財務省ばかりを槍玉にあげる意見には賛成できない。

グーグルやテスラはあまりにも遠いので、身近な家電を考えて見る。日本のシャープ、東芝、ソニーなどのテレビは、韓国や中国のブランドであるLGやハイセンスのテレビの倍の値段である。日本で売れても、外国で売れる筈がない。一方、扇風機や掃除機のような小型製品でも、最新式のものは全てヨーロッパで生み出された。

友人どうしだという安倍総理に近い藤井聡内閣参与や三橋貴明氏(補足3)など、財政拡大で景気浮揚を考える人たちは、マクロ経済政策では解決できそうにないこれらの現実を全くみていない。

その原因などについては、これまで何どもいろんな面から議論してきた。(補足4)日本の教育、雇用、(その改善が一向に進まない)日本の政治(補足5)、その背景にある日本文化などに本質的な原因があると私は思う。例えば、日本の大企業においても、経営のトップ層にはまともな人材がいないのではないのか?

何故、発想力豊かな人材が、経営者のトップになり得ないのか?そこを考えるべきだと思う。カンフル的な財政拡大を考える経済評論家やそれを内閣参与に抱える政府は、思い通りに国を動かすことになれば、結果として国を潰す可能性が高いと思う。

財政健全化を勧めているのは、財務省(補足6)だけではない。IMFもそのように発言している。三橋貴明氏、高橋洋一氏、上念司氏、藤井聡氏らが、財政均衡を主張する人たちを非難しバカにするのは、何時も相手が居ないところにおける大衆向けのパーフォーマンスに見える。総理は気をつけてもらいたいと思う。

補足:
追加補足:日銀の今までの金融政策は勿論成功をおさめた。この点誤解を受けないように追加します。(PM 5:25)
1)藤井氏は、韓国の経済についても、政府がどんどん金を使えばよいのだと言って居た。従って、その方は経済には無知だと私は考えている。
2)景観を害して、観光客の足が遠のくとか、漁に出にくくなり漁獲量が減少するなど、マイナスの効果が出る可能性がある。
3)最近の動画で、三橋氏は安倍総理と食事を共にしたと言っていた。
4)ダイソンの扇風機は、一旦機内に空気を吸い込んでから吐き出すタイプである。このタイプはすでに東芝の技術者が考案していた。 それを何故育てられなかったのか?日本の経営者が優秀であれば、採用できていただろう。また日本が、仕事の命令系統では上司と部下であっても、そこを離れれば対等に口がきけるという社会なら、そのアイデアは別のお偉方に流れて、製品化だれていたかもしれない。本ブログの12/9; 12/11の記事参照
5)内閣が参与や有識者会議などの外部の人間を多用するのは、民主主義の原則から考えて問題がある。日本は、三権分立の国であったことはなく、長く官僚独裁で動いてきた。それに行き詰ったので、安倍政権が考え出したのが“行政の独裁”だろう。大きな派閥を持たないことを逆手に取って、全ての基本方針を上記内閣参与や有識者会議などを用いて内閣で打ち出すのである。
6)高橋洋一氏は、あるyoutube動画で、財務官僚を東大阿法学部出身だと揶揄して居た。そんな威勢の良い姿勢は、仲良しの総理や大衆には勇ましく見えるかもしれない。しかし、それは財務官僚と対峙した場面で言ってもらいたい。

2017年12月22日金曜日

日本の不景気と問題点:日本は社会構造から変革を目指すべきである

1)先日、国債暴落から高インフレになる可能性を指摘した大前研一氏の意見と、それと真っ向から反対する上念司氏や三橋貴明氏の意見を比較した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43502877.html

多くの先進国では、経済のグローバル化により資本も仕事も発展途上国に流出する。そこで、政府が何も経済対策をしなければデフレ気味になる。企業の国内投資を促進すべく金融緩和が行われ、(補足1)その結果の円安で国内企業の競争力も高まり、日本製品の国際競争力が維持されて雇用が守られた。それでも、賃金上昇に至らないのは、同時に行われた非正規雇用の増大などの原因となった規制緩和の影響である。

労働市場の規制緩和も金融緩和も、そして、法人税減税も、全て企業競争力をつけさせるための政策である。最近は企業業績はかなり良いものの、労働賃金がなかなか上昇しないことで、世の中には不況風が依然吹いている。その原因の一つに、金融資産を多くもっている壮年及び老年層に将来不安があり、金を使わないので需要が伸びないという事情がある。(補足2)

上記のように設備投資や起業を非常に行いやすい環境にありながら、大企業も中小企業もその動きが貧弱なことは問題である。その一方、不正検査や不正会計など、ごまかしで当座の私的利益を守ろうとしているのも問題である。それらを総合して、日本の企業などの指導層に大胆な発想も、緻密な思考もないとしたら、それが日本の最も大きな問題である。

増税に関しては、今は時期ではないと思う。また同時に期待される財政拡大は、そのままGDPの増加になるが、現在の経済環境でその波及効果(乗数効果)に期待できるかどうかが問題だろう。また、通常のインフラ整備ならともかく、大震災に備えるタイプの財政拡大は、将来へ禍根を残すと思う。

何故なら、地震は日本国土全ての問題であり、ロバート・ゲラー博士の言う通り予知不可能だからである。最近の大地震を見ても、可能性が高いと考えられてきた場所以外で全て起こっている。それに、政府のその種の投資は、偏った富の分配に終わるのが、日本のこれまでの姿だろう。内閣の中にあまり経済のことがわかっていない土木屋(SF)がいる。千島海溝地震のことを言い出したのは、そのような人たちの企みではないかと疑う。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171219/k10011263721000.html

日本は、鉄鉱石やアルミ(ボーキサイト)等の資源(0%)、エネルギー(10%以下)、食料を外国に頼っている。最も自給率の高い食料でも、自給率は40%程度である。その国が何で食っているかを考えるべきである。日本は海外との経済交流で稼ぐ以外に食っていく道はなく日本製品の国際競争力の低下の深刻度は、多くの先進国と比較にならない。

安易な財政拡大で、当面の貯蓄を食いつぶす政策を訴える人たちは、無責任である。日本の健全な財政(財務省は不健全だと宣伝しているが)、海外債権を世界から積み上げた健全な国家全体の財務体質は、日本に残された時間と考えるべきだと思う。

2)日本には根本的な問題が残されている。それは、日本は国際社会で生きなければならないにも拘らず、自分自身を知る作業を十分行なっていないことである。日本文化の特殊性は、日本にとって長所なのか短所なのか、日本で指導的立場にある人のほとんどは、さっぱり理解していない。例えば日本には、公(パブリックな)空間がほとんど無く、公私の区別さえ未だに明確でない。それは日本の長所なのか、短所なのか?(補足3)

日本は法治国家と言えず、徳治国家的である。労働市場の問題とも絡むが、個人のあり方、個人に対する人物評価も日本は独特である。それは、高度に発達した社会構造にどのような影響を及ぼしているのか、政治や経済制度にどう影響しているのか。日本は今、経済改革の時期だと考える向きは多いが、文化と社会の改革時期だと考えるべきではないのか。

日本企業のトップに位置する人たち、日本政府のトップに位置する人たち、日本の官庁や地方行政のトップに位置する人たち、彼らは最適な人材なのか?少なくとも、明治以降の悲惨な歴史を見ると、リーダーの選出や組織のあり方が、世界を舞台にする以上、最善からは遠いのではないかと思う。

世界標準が最良だとは思わないないが、この地球上で生きて行く為には、社会のあり方についての考え方やその制度を世界の標準に適応させる努力はやはり必要ではないのか。そして、その変更した社会に適合した人材を配布する方法、そのための教育制度などの改革なども必要ではないのか。

この問題はあまりにも大きくて、筆者も十分考えている訳ではないし、考えがまとまったとしてもここに書けないだろう。そこで、一つだけ例をあげたい。それは最近問題になっている相撲取りが起こした暴行事件とその波紋である。それは日本の上記因子を考える大きなヒントになると思う。

3)この件は、西欧的見地に立てば、ほとんどプライベートな事件に見えるだろう。業務で地方に出向いていたとは言え、時間帯は自由時間内であり、スター選手が起こした事件ではあるが、単なる暴行事件である。刑事事件として鳥取県警が捜査し、検察から裁判所に捜査結果が送られて、犯人が処罰される。それだけでほとんど全ての手続きが終わる筈である。

しかし、何故かその犯人の所属部門(相撲部屋)の長が、相撲協会という法人の理事職を引責辞任しなければならないのである。つまり、日馬富士の起こした暴行犯罪は、日本文化と社会のルールに照らした場合、その部屋のトップも共犯なのである。ただ、法体系が西欧式であるため、国家により罰せられるのは日馬富士だけである。つまり、日本社会は西欧的な法体系によって組まれた国家体制に馴染んでいないのである。

その事件の真相報告とやらを、何故労働者を纏めて地方へ引率する責任者が、警察への連絡よりも優先して、その法人の長に連絡しなければならないのか? 連絡を怠ったのが原因で、何故責任追求されているのか? これらの現象を深く考えると、相撲協会は日本列島内の小さな独立国的な組織であることがわかる。つまり、日本のあらゆる組織は部分的に、西欧的な日本国家から独立しているのである。(補足4)

相撲取りの中で、横綱というポジションにある人は、品格及び技量ともに優秀で、優秀な取り組み成績を納めなければならないという。相撲がスポーツだと思っていては、この品格という言葉がでてくる理由は理解不能である。表向きの意味は、横綱は人格が優れていて、相撲の取り口に優雅さがなければならないということらしい。それは相撲のルールにはなく、相撲協会の希望というか要求を横綱に述べただけように見えるが、その希望に十分配慮しない力士は、横綱と言えども手痛い仕打ちを受ける。

相撲のルールそのものは、相手の顔面を手で叩いたり、足を蹴ったりするのも許される。猫騙しというふざけた取り口もルール上は許される。しかし、横綱はこれらの技を掛けるのはルールでは問題ないが、品格上問題だという。単純明快を欲する人間には、訳がわからない。

実際には、大関というポジションで2回連続優勝すれば、自動的に横綱になれるのだが、横綱になれば品格技量ともに抜群でなければならない。横綱はその力士が獲得する地位ではなく、その力士が演じるべき配役なのだ。 そして、横綱は品格・技量ともに優れているのは、その配役の脚本に書かれているのであり、その力士個人の性格ではない。

4)この国では何かで抜群に優秀な結果を残せば、全人格的に高い評価を獲得する。より正確には、獲得するのではなく期待されるのである。期待に背けば、仕打ちが非常に厳しいので、期待されるという西洋語を翻訳したような表現は、本当は適切ではない。

その証拠の一つだが、オリンピックで金メダルをとれば、国会議員となる資格も得られ、場合によっては大臣級ポストまで手に入れることができる。そして、単なる刑法犯罪を受けて、相撲協会に指導とやらをすることもできるのである。

新聞記事によれば:
"日本相撲協会が元横綱日馬富士関の暴行事件で関係者の処分を決定したことを受け、スポーツ庁の鈴木大地長官は21日、「暴力根絶に向けた厳しい処分。協会の姿勢が表れた処分になったのではないか」と述べ、対応に理解を示した" と報じられている。(補足5)https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201712210000384.html

鈴木長官も、金メダルをとり、代議士になった。しかし、そのポストは獲得したのではないし、授与されたのでも無い。その役柄を演じる運命になったのである。(補足6)彼は、「周囲の空気」にその役割を演じられるだろうと期待されたのだろう。彼はその地位で、独自の仕事をするのではなく、その地位に備わった脚本通りに振る舞う義務を負うのである。その期待を背負えなければ、自分から辞任しなければならない。それが日本の掟なのだろう。

このような法人と政府のトップクラスでの人材のあり方が、まさか、国際的環境で生きている大企業の中には無いと思いたいが、日本の中にそのような不連続な人材&文化前線があるとは思えない。習近平とキッシンジャーの日本評を、日本国民はもう少し真面目に受け取った方が良い。http://www.mag2.com/p/news/252419

尚、筆者には、この記事もかなり背伸びして書いているという自覚があります。遠慮なく、張り手、カチ上げを見舞ってください。 
(15:00編集;補足6は12/23am7:30追加)

補足

1)グローバル化の世界の流れに単独で逆らえば、そして、大幅な金融緩和や労働市場の規制緩和をしなければ、企業の国際競争力が失われ、本格的な不景気になる。
2)壮年、老年層の不安は、経済発展とそれによる家族制度の変質が原因である。日本社会では、個人は自立していないので、個人と個人の私的ネットワークがあまり形成されない。それが、産業の成長による人口移動と家族制度の一部崩壊により、要介護状態になった時の不安を高めているのだろう。
3)日本では会社に就職すると、そこの会社員になる。ただし、24時間365日そこの会社員である。退社後の時間は、法的にはプライベートな時間であるが、文化的には退社後も会社員である。
4)つまり、日本のあらゆる組織に所属する人間は、24時間その組織の人間である。ある組織の人間が起こした犯罪や事件などは、かなりの部分、その組織の責任となる。
5)鈴木長官殿、暴力根絶なんて可能ですか?冗談はよしてくださいと言いたい。
6)何かを獲得するのは個人であり、何かが授与されるのは個人に対してである。個人が明確でない社会では、地位は個人が獲得したり個人に授与されたりする対象ではない。従って組織では、その地位が仕事をしているのであり、個人が仕事をしているのではない。地位は組織に属し、その地位にある人が犯罪を起こした場合、個人の処罰を国家が、その地位の処分はその組織が行う。今回の場合、横綱という地位は相撲部屋の長の下にあり、24時間365日その関係は継続する。

2017年12月19日火曜日

日本相撲協会のごまかし体質

1)日馬富士による貴ノ岩暴行事件は、一段落したのかと思ったが、そうではなさそうである。捜査にあたった鳥取県警の公正さが問われる可能性も将来出てくるかもしれないと心配している。つまり、鳥取県警が事実をしっかりと把握しているか、事実を把握できるまで聞き取りや捜査をしたのか、心配である。

あるサイトに、「相撲協会がひた隠す「白鵬の嘘」と口裏合わせ 貴ノ花はいま何を想う?」と題する記事が掲載された。そこには、モンゴル勢が日馬富士の暴行を止めに入ったのは鶴竜であるが、「止めたのは白鵬である」と口裏合わせを行なったという風に書かれていた。

それより重大な疑惑は、協会に11月13日に提出された貴乃岩の診断書を作成した福岡県済生会福岡総合病院が、「当病院としては、重傷であるような報道がされていることに驚いている」旨のコメントを発表したことに関して、相撲協会の工作を匂わせるように書かれていることである。http://www.mag2.com/p/money/351432/2?l=qux0596bfd

最初に上記診断書の報道を聞いた時、医師が十分な日本語を話せないのかな?と疑問をもった。相撲協会に提出された診断書は「脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折、髄液漏の疑い」だった。その後、病院の医師は最後の”疑い”は、頭蓋底骨折及び髄液漏の両方に係ると言ったのである。https://cgskdgc.com/takanoiwa/

診断書の現物をみていないのだが、当時のテレビ報道なども同じだったので、上記文章を基に考える。頭蓋底骨折も疑いと読むのなら、疑いの範囲をそこで止める根拠は何なのかわからない。つまり、最初の脳震盪から全て疑いと読めないことはない。しかし、それでは診断書にならない。

まともに理系の大学を卒業した人間が日本語を使う時、このような場合は、“脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折と髄液漏の疑い”と書くか、更に慎重な人は、“脳震盪、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折と髄液漏の夫々疑い”と書く。普通は、夫々を挿入する。このような並列の表現を間違っていては、論理が重要な理系の学問を習得することは不可能なので、並列表現はしっかりと早い時期に先生から教えられる。(補足1)

診断書を書いたあとで、「”疑い”は頭蓋底骨折と髄液漏の両方に係る」と言うのは、医師自身の都合或いは何者かによる工作の結果である。危機管理委員会が発表した報告書でも、診断書の頭蓋底骨折と髄液漏れは、双方とも「疑い」であると強調しているとすれば、相撲協会の依頼があってのことだろう。(https://cgskdgc.com/takanoiwa/

2)今後、この件は日本とモンゴルで人々の記憶に長く残るだろう。この問題が深刻なのは、日本社会のごまかしと隠蔽の体質が問われているからである。つまり、日本相撲協会は、ごまかし体質のままに、日本政府から公益法人の資格が認められているのである。この件以前にも、八百長疑惑などの不祥事もあったが体質は変わっていない。

更により深刻なのは、現在の大相撲の存在そのものが、ある種のごまかしに頼っていることである。具体的には、外国人受け入れの問題である。もし「相撲は国技」というのなら、何故外国人を力士として採用しているのか? 外国人を受け入れるということは、外国人の文化も受け入れる覚悟が必要である。しかし、相撲が国技なら、その覚悟は国技を否定することになる。

今回の事件の背景には、その中心的問題の議論を避けて、経営に走った協会の姿勢がある。天皇賜杯授与のとき、君が代の演奏が行われる。そこで、堅く口を閉じている外国人力士を見ても、逆に義理がたく口を動かしている外国人力士を見ても、日本人の多くは苦々しい思いを持つだろう。

日本相撲協会は、優秀なマネージャーを雇い、国際スポーツ団体として再出発するか、古来の奉納相撲を自然に行える団体に戻るか、どちらかを選択すべきだと想う。

補足:
1)英語では、並列表現「A and B, respectively」と言う表現を使う。ここで、理系学部では、respectivelyつまり夫々の挿入をしっかり教えられる。

2017年12月16日土曜日

日本は中国の属国になり、中国と朝鮮の虐めの標的となるだろう

1)国際社会は野生の原理が支配している。適当な相手を見つけ出し、弱みにつけ込み、罠をしかけ、つるんで用意した窪みに落とし、四方八方から攻撃し殺して餌にする。正義とか論理とか、そんな話は後で作れば良い。真実の定義は、強者の言葉である。

若干古いのだが、偶然次の記事を見つけて読み、そのような感想をもった。中国が、「ロシア、韓国に反日統一共同戦線構築を提案した」と題する記事である。 https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2012_11_15/94728921/

2012年11月14日にモスクワで開かれた露中韓の三国による国際会議「東アジアにおける安全保障と協力」で演説にたった中国外務省付属国際問題研究所の郭 (ゴ・シャンガン)副所長のプレゼンテーションは、上記三ヶ国が抱える日本との領土問題を、戦後のサンフランシスコ講和条約の時点に戻って解決しようと呼びかけるものだった。

郭氏は、「51年にソ連と中国の承認なしに締結されたサンフランシスコ講和条約は内容が古くなっているとの見方を示し、それにかわるものとして新たな講和条約が結ばれなければならない」と語ったという。

しかし、日中はサンフランシスコ講和条約後に、それを前提として講和した筈である。また、日ソも同様に共同宣言で、サンフランシスコ講和条約を前提に平和条約の方向を決めた。韓国は当時日本に含まれていて交戦国ではなかったので、戦後1965年に講和条約ではなく”日韓基本条約”を締結している。

郭氏は、それらを十分承知しながら、強者の論理で歴史の捏造を提案したのである。この一つの出来事をとっても、中国という国家の恐ろしさが理解されるだろう。韓国同様、歴史も法や条約も過去に遡って書き換えられると思っている。

中国はすでに、パキスタン、スリランカ、バングラデシュ、ミャンマーに中国海軍が利用できる軍港を構築しているなど、AIIBや一帯一路構想という新たな拡張主義は、世界一の覇権国を目指していることを示している。http://blogos.com/article/21823/

中国の強い点は一党独裁体制であり、決断も早く実行の際の抵抗も少ない点である。その強い点は特に政治の面で発揮されるだろう。一方、経済の面では、独裁的に決定する方法は、いろんな面での小さい錯誤でも相互矛盾となって拡大し、上手くいかない。鄧小平が、独裁主義と自由主義を政経で使い分ける方法を発明したが、それは過渡的手法としてのみ有効だと思う。

現実には、独裁的手法がどうしても経済にも及ぶことになり、そこから歯車が狂い出すだろうと思う。そこで、政治の面での強さを用いて、他国から搾取する手法で乗り切る方法を考えるだろう。つまり、近隣にとって非常に厄介な国になると思う。

2)北朝鮮の核保持問題で世界は揺れているが、なんどもブログに書いてきたが、北朝鮮は本来日本の脅威ではない。何故なら、北朝鮮問題は朝鮮戦争の延長上にあり、当事国は米国(当時国連軍の衣を着ていた)、北朝鮮、中国(義勇軍の衣を着て居た)であるからである。

更に、北朝鮮問題で得をしてきた国、得をしている国は、それぞれ米国と中国であり、日本とは直接には無関係だからである。(補足1)それに、北朝鮮の核開発は、米国に対する防衛、つまり、朝鮮戦争における最終的勝利を目的に始められた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43440054.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43409195.html

北朝鮮問題で日本政府は脅威を感じているが、日本国民はそれほど脅威を感じて居ない。それは国家存亡の危機にあるのは、明らかに北朝鮮の方であるからである。勿論、金正恩政権の核を抱いた自爆は、大きな脅威であるが、それはないだろう。

ティラーソン国務長官の最近の発言などでも、北朝鮮の核保持を現在の状態まで認めることになると思われる。それは米国の支配層の本音である。例えば、オバマ政権で大統領補佐官を務めたコンドリーザ・ライス氏はニューヨーク・タイムズに寄稿したコラムの中で「我々は北朝鮮の核保有を大目に見ることができる。冷戦中にソビエトの何千もの核兵器を大目に見てきたように」と言ったという。https://abematimes.com/posts/2877513

これまでの絶対に核保持を許さないという姿勢は、単に日本での核武装論の高まりを考えてのことであり、日本に核武装論が起こらなければ、更に、日本に核共有論さえ起こらないのなら、核廃絶を北朝鮮に強要して金正恩の暴発を誘発する危険を犯すべきではないと考えている筈である。 日本の安倍総理以下の自民党政権と外務官僚たちは知性に欠けるため、米国追従を唯一の日本の命綱と考えている。それは、自民党結党時の政綱と矛盾しようが全く気にもとめていない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43493531.html

その腑抜け的日本政府(補足2)の対応を見定めた上で、米国は北朝鮮と協議に入るだろう。それは、日本が最低限の威厳を保った生き残りのチャンスを与えてくれた暴れん坊北朝鮮の消滅を意味する。その代わりに誕生するのが、対日強硬路線をとる憎っくき統一朝鮮だろう。そして、それと連携するのが、中国だろう。

その結果日本は、核保持あるいは最低限必要な核共有のチャンスを逃し、これまでの哀れな韓国の役をすることになる。それは有史以来朝鮮が考えてきた姿、つまり、東夷の国が中国の朝貢国となり、朝鮮の下に位置する中華秩序の完成である。

補足:

1)米国はこれまでの極東域での派遣国としての足場を、北朝鮮との戦争継続で得てきた。具体的には、日米安全保障条約を結び、在日米軍を置く根拠となった。それは、日本の再軍備防止、東西冷戦の戦略的拠点、更に、インド洋から中東までを視野に入れた、世界戦略の基地として存在したのだろう。また中国は、現在北朝鮮を制御する姿勢で、国際政治における大国としての地位を確立した。

2)米国供与の命綱がかくも脆いものであることなど、今だに自民党や外務官僚は気にもして居ない。それは官僚と官僚上がりの政治家は、自分と自分の家族の楽な人生という小さい視野しか持たないからである。だいたい、安定職として公務員を、そして定年後の天下りを目指す人間に、政治家の素質などある筈がない。

2017年12月13日水曜日

”土俵”が護れないのなら、日本相撲協会は公益法人の資格を返却すべき

1)先日報道された日馬富士による貴の岩暴行障害事件も、検察の書類送検で一段落しそうである。しかし、それを教訓として相撲協会が活かし、いろいろ言われている大相撲の改革ができるのか注目されるが、その見通しはたって居ないようである。

1)先日報道された日馬富士による貴の岩暴行障害事件も、検察の書類送検で一段落しそうである。しかし、それを教訓として相撲協会が、いろいろ言われている件に関して、大相撲改革ができるのか注目されるが、その見通しはたって居ないようである。

一方、その事件が新しい展開を見せるかどうかにも、依然関心が持たれている。そんなおり、その事件の深層に関する「週刊新潮、中瀬ゆかり」と題する動画を見つけた。(補足1)そこには、私が予想していた通りのことが語られており、事件の真相を知った感じがする。その動画が語る事件の背景と進行に、整合性があると感じたのである。https://www.youtube.com/watch?v=hjlAZrz_9hI

それによると、今回の日馬富士による貴の岩暴行事件の背景に、モンゴル勢の間にも存在する八百長体質がある様だ。八百長を非難しそれに与しなかったのが、貴乃花親方の弟子の貴ノ岩であった。そして、白鵬が貴の岩に自粛するように指導したという「粗暴な言動」の中に、貴の岩のいう「俺はナイラはやらない」が含まれるのだろう。 ナイラとはモンゴル語で八百長を意味する。

今回の事件の遠因となっているのは、どうやら今年の初場所で貴の岩が白鵬に初挑戦した相撲のようである。貴の岩がまさにそのガチンコ相撲(八百長でない相撲)で白鵬を下し、白鵬の優勝を困難にした。その相撲が結果として、稀勢の里の優勝とその後の横綱稀勢の里誕生に繋がったのである。

その相撲を、貴の岩が自慢げに「ガチンコで白鵬に勝った」と方々で喋り、それが白鵬の耳に入ったようだ。横綱として優勝し続けることが、相撲界に君臨する為の必須条件であると感じる白鵬にとって、八百長してでも何とかしたかったのだろうと想像する。

これらの貴の岩の言動に腹を立てた白鵬は、横綱だが格下の日馬富士を利用することを考え、「お前のことも、悪く言ってたぞ」と耳打ちしたという。この話はよくできて居て、捏造とは思えない。

当日、暴行を止めに入った照ノ富士が殴られ、鶴竜が止めに入ったが十分な力がなく、最後に止めたのは白鵬だという。横綱と大関が止めても止められず、最終的に白鵬しか止められなかったという事実は、上記の話がなければ非常に不自然である。

以上を総合して、白鵬の思い上がり、モンゴル勢の八百長などが、今回の暴行の背景にあったと思う。もともと大相撲が「ガチンコ相撲」が原則なら、白鵬が負けた貴ノ岩に恨みを持つ筈はない。

あの九州場所での嘉風戦で、白鵬は対戦者の自分が審判も兼ねる様な態度を取った。また、千秋楽での自分が万歳三唱の音頭をとったことや「今回の件を丸く収めるべきだ」という協会への干渉と取れる発言、さらに、巡業部長の貴乃花親方の下ではその後の巡業に参加したくないと発言するなど、白鵬の態度は目にあまる。「大相撲は自分でもっている」と考え行動しているのだろう。

そのほか、週刊文春に掲載されたという白鵬の愛人の話、それに付随した白鵬の言葉(ここに書くのを躊躇うので、動画を観てもらいたい)に真実味がある。これら全てを総括すると、白鵬は日本の相撲を汚していると感じる。あの肘打ちで顔面を狙う、カチ上げや、土俵を割った力士を土俵下に突き落とす荒い相撲など、日本の神に奉納する意味などあるとは言えないだろう。

完全に相撲協会は白鵬に乗っ取られたようだ。そんな状態では相撲協会を、公益法人の指定を取り消すべきだし、NHKは全国放送などすべきでない。

2)ウインブルドン方式というのを政治評論家の手嶋龍一氏が語って居た。英国がウインブルドンテニス大会を、ある時世界に解放したことで、その大会とテニスの地位が高くなった。その成功は、ウインブルドンの関係者が、「テニスコートを守った」からであると手嶋氏は語る。

つまり、ウインブルドンを世界に公開するが、同時に大会を公正で品格のあるものに守る決意をしたというのである。https://www.youtube.com/watch?v=maKL72yOnNs

大相撲も世界に開くのなら、同時にウインブルドン方式に習って、「土俵を守る」という決意がなければならない。その決意を示すことに、相撲協会は失敗しているのではないか、そう手嶋氏は指摘したいのだろう。

大相撲を世界に公開したものの、「日本伝統の土俵」を護れないのなら、日本政府は日本相撲協会を公益法人にして税制上優遇し、政府の指導の下にあるNHKが全国放送するという形で、支援&擁護する理由などないのだ。(補足2)

補足:

1)週刊新潮12月14日号に詳細が語られているようである。また、関連記事が週刊文春の同日号に記載されている。
2)先日の最高裁判決にあった様にテレビ設置者はNHKと視聴契約をする義務があり、従って視聴料は税金とほとんど同じ意味を持つ。それは、NHK放送が公益に寄与することが前提である。もし、単に娯楽番組の提供と引き換えに視聴料を取るのなら、NHKは民営化し、放送法第64条は廃止すべきである。

2017年12月11日月曜日

「和の国」で成立しない議論:和は結果であるべき

北朝鮮危機がテレビ等で話題になっているが、日本では誰もそれに備えるほど危機感を抱いていない。政治家はその難問を避けて自己保身に走り、テレビの評論家は大きな声で喋っても、その意見に必死に情報を集め解析したという努力のあとが感じられない。彼らには、利己主義が蔓延している。

声の大きい人に二通りある。知識と自信に基いて明確に喋る人と、知識の有無は分からないが、自分或いは自分の所属する団体の利益を考えて喋る人である。どちらが正しいのか、声の大きさだけでは全くわからない。この国では、互いの主張が矛盾していても、正面衝突することは稀である。

本人達が避けるのか、報道機関などがそのような場面設定を避けるのか分からない。多分両方のメカニズムが、この「和の国」では働くのだろう。「和の国」というのは、議論を避けることを優先する国のことであり、我が国を指している。議論は、問題を洗い出して解決の方法を見つける為にするのが一般的だが、この国では多くの場合議論は口論の始まりであり、口論は喧嘩で終わる場合が多い。無駄に終わり団結を阻害するのなら、最初から議論など始めない方が良いと考えるのだろう。(補足1)

勿論、個人が自分の知識を基に信用できる人を探し出し、その意見を参考にして何事も自己責任で判断するしかないのだが、この国ではそれが一層難しいのではないだろうか。

「和の国」の政治家は能力がないし、官僚やマスコミは利己的である。マスコミは、コスト削減か何か知らないが、何時も評論家の顔ぶれは同じである。(補足2)米国べったりの元官僚や元新聞社の人たちが、何時も同じことを喋っている。

シリアスな政治番組など地上波放送局では出来ないと思ったのか、嘗てかなり聴きごたえのあった政治バラエティー番組が、全編お笑い番組のようになったものもある。(補足3)この危機の時に、三流週刊誌のような番組作りをする神経がわからない。司会者には、放送法一条を読めといいたい。

この国ではまともな意見を述べる人が出演するのは、ミニコミ的番組のみである。(補足4)何故そのようになってしまうのか?この「和の国」の特徴、マスコミなどで意見を述べる資格を得た人(=リーダー的存在)の能力、彼らの選ばれ方、などについて少し考えてみる。前置きが長くなってしまったが、以下本論を始める。

尚、ここで考える日本の特徴は、人間に共通するものである。それを特別に色濃く社会全体で持つのが日本であるというだけである。

[1]

「和の国」の掟は人の非難をしないことである。目の前の人がバカげたことを言ったとしても、この国ではそれを非難をした途端、大衆の刃は非難した人に向かう。正論を提げても、言論意味不明の「人格者」には勝てない。何処の国でも、一番恐ろしいのは大衆の刃である。中国やロシアでもそれは同じである。(補足5)

多くの国では非難は議論の出発点になるが、この国では、非難は「和」の破壊という終着駅である。上述のように、議論は何も産まないからである。

和は大切である。絶対君主が支配する国でも、君主は一定の範囲だが、和の実現を体制維持の為の主要課題と考えるだろう。長期的には、広く国内全体の和が、その体制の命運を決めるだろう。しかし、「和」が社会での最重要な価値として宗教の様に信じられている国、つまり「和」絶対主義の国は日本以外にないだろう。

一般に国家の仕事は、国民の権利保障と福祉実現である。それは、国民の安全及び自由の確保と領土の保全といった国家の枠に関するものと、国内での「富の効率的な創生と公正な分配」に分けられるだろう。そこには和の実現という項目は不要である。何故なら、公正且つ豊かな分配の結果として、和が成り立つからである。表題に書いたように、和は結果であって方法ではなないのである。

つまり、和は目標であり方法ではない。しかし、「和」絶対主義の国では、「和」は方法であり且つ目的でもある。非常に深刻なことだが、この国では国際関係を考える際にも、「和」原理主義が、大手を振っていることである。どこの国が親日的でどこが反日的だとか、誰が親日的で誰が侮日的(反日的)だとかが、関心ごとの中心にある。(補足6)

社会という公の空間で和を中心に置くのは本質的に間違いである。何故なら、和は基本的に1:1の融和的関係の輪の広がりで達成される状態であり、公の(パブリックな)概念でないからである。

一方、議論や評論は、公の空間に投げかけ(パブリッシュし)、社会全体の(公の)空間でブラッシュアップされる。国家の運営は、公の空間でオープンに議論を行って、その方針を決定するのが基本である。(補足7)

[2]

正当なる分配は、分配の規則は何かという公の議論で決められるだろう。それが、社会への寄与と同じ社会に生を受けた人間の既得権の二つであるとして、それをどう評価しどう足し合わせるかするか。その方針決定には、解析的議論が不可欠である。議論が始まれば、複数の考え方が衝突し、方針はブラッシュアップされるだろう。その議論の場が公という空間の役割である。相撲で言えば土俵である。そして、その議論の積み重ねは、その社会の問題解決能力を育て、対外問題などが生じた時は能力の高い力の基礎となる。

しかし、残念なことに日本では、「和」は自己目的化しており、正当なる分配を議論するよりも、目で見える「横並び」で達成しようとする。

与党の国会議員らは、大臣ポストのバラ巻きで実現し、政党という社会での和を実現しようとする。そこには、公を向いた姿勢など存在しない。国権の最高機関にしてこのような非常にみっともない状況にある。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201708/CK2017080602000109.html 

同じ団地で、周囲の人が国産車に乗っているのなら、「和」の実現を考えて経済的に余裕のある人でもBMWやベンツは避けようとする。(補足8)個の自立して居ない人たちは、孤立とイジメをおそれ、社会で思いのままに振る舞う自由を無くしている。

横並びには“苦手な議論”は不要であり、偽りの平衡点に忍耐を持って立ち止まることで偽りの和が達成できる。「和」とは偽りの和である。その文化により、日本人は精神まで染め上げられている。小学生のランドセル、高校までの制服など、幼少期から極めて高い統一された姿に安心し、周囲に叛かないように教育される。それを明確に指摘したのは、山本七平だろう。

その「和の文化」の下、大金持ちでも質素に生活すること、能力があっても謙虚寡黙に徹する姿勢が、高く評価される。議論をする人間は、横並びから脱して高みを目指す理屈屋として嫌われる。明治の「万機公論に決すべし」は、日本に欠けたところを指摘したのだろう。

一方、文明国では組織がなければ社会は成り立たない。そして、その組織のリーダーや運営者の人選は必要である。自分が適当だと考えても、「和の国」では自薦より他薦が望ましい。その推薦は、「人格」と「能力」を基準になされる。人格者とは「和の社会」に適合した人の意味である。そして、能力は「人格」というブースターがなければ、他者に伝わらない。「能力」は本当の意味での能力ではない。

「人格」は一次元の物差し(高低)で測られる。これまでの「和の文化」での実績と、家柄、人脈、学歴、專門分野での実績などに基いて、周辺の人が作る。その人格という一次元の物差しで測った値が、これまでの所属した分野に関係なく人選の指標となる。

わかり易い例を挙げると、花を活けるのが得意な人が、日本相撲協会の評議員会議長になっていることが、最近の相撲界での事件で知れわたった。議長はテレビでこの事件について話をしているが、説得力は皆無である。法治国家の基本さえわかって居ない。その人は、家柄とその家で磨いた生け花の実績で、高い人格と評価されたのだろう。
http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20171129-OHT1T50079.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43485858.html

補足:
1)私は、この原因の一つとして日本語が議論に向かない、出来の悪い言語であると考えている。“日本語と日本教について” http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html “日本語と日本文化について”http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)例えば、日曜の朝の時事放談という番組があるが、そこに出た評論家は必ずと言っていいほど、その日の別の局に出演する。録画を両方で同日(金曜日)に済ませるのだろう。
3)日曜午後のSIIKというお笑い政治番組は、嘗て、勝谷誠彦や橋下徹などの議論で相当面白かった。しかし、自衛隊に命を救われた人が司会者になって以降、お笑い番組になってしまった。不愉快な顔を見たくないので、現在観て居ない。
4)現在もっとも面白いのは、西部邁と伊藤貫両氏の議論であり、youtubeで観ている。右寄りだと意識して観れば面白いのは、3時間番組のチャネル桜の水島社長司会の番組である。社長が人選をするのは当然だとしても、佐藤健志氏ら意見が異る人を出さないのは度量不足だろう。
5)唯一、大衆の刃を矯める力を持った例外は米国である。ブレジンスキー(今年5月死去)の言葉がそれを物語っている。https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html 米国程恐ろしい国はない。従って、日本も米国とは喧嘩をしないほうが良い。それを理解しなかった過去の日本のリーダーは、無能であった。
6)何処かで誰かが、米国には日本人と比べて中国人の方が話しが通じるという人が多いと言って居た。
7)森友問題や加計問題には、公という概念に疎い人たちの醜態が隠れている。
8)近くに住んで居ても「和」の満たすグループではない場合、その違いを強調する意味でなされるのが、ネグレクトや誇示的消費である。「和」を考える範囲の外にあると見なされる場合、その境界は憎しみや蔑みの感情で明確に色分けされる。

2017年12月9日土曜日

国債暴落と激高インフレを懸念する専門家と完全否定する専門家

昨日たまたまyoutubeで大前研一氏の動画を観た。そこでは、財政破綻とハイパーインフレの危険が語られていた。https://www.youtube.com/watch?v=qbhrserTfnQ(2015年8月9日公開)

今後も国家は赤字を出し続けるだろうから、格付け会社による日本国債の格下げなどを切っ掛けにして、ハイパーインフレが何時起こっても不思議ではないと語られていた。

大前氏は、その事態に対する準備をすべきだと語っている。個人、特に年金受給者などには、株や不動産などの価値ある資産への預金の移動を勧めている。また、企業などに外債や外国株に投資することを勧めている。(補足1)

これらの発言は、大前氏の本音なのだろうかと疑う。日本の企業に外債や外国株に投資する様に勧めるなど、外国への利益誘導的な発言かもしれない。また、日本に於けるハイパーインフレの危険性を、トルコなどの国と同様に考えているのは、誠に不思議である。尚、高いインフレ率の懸念は、野口悠紀雄氏の持論でもあったと記憶する。

この他、上の動画では日本政府の財政改革の一環として、道州制の導入に言及している。また、移民の導入を解禁して経済を大きくすべきだとも言っている。それらについては補足で筆者の考えを記す。(補足2)

大前氏の動画を見ていた時に、上念司氏の動画のサムネイルが画面横に出てきたので、それを視聴した。そこでは、ハイパーインフレの危険性は全く無いとし、政府は国債を発行して敎育投資や防衛への投資などで経済を刺激し、2%程度のインフレの実現を目指すべきという、大前氏の考えと180度異る議論がなされていた。https://www.youtube.com/watch?v=3mLdQQmStbY

経済を專門とする著名な評論家の間で、このように真っ向から意見が違うのは、日本で経済学が未だまともに発展していないからだろう。因みに、野口悠紀雄氏は東大工学部卒で元官僚、元東大教授の経済学者である。大前研一氏は早大理工学部卒で経営コンサルタント、スタンフォード大経営大学院客員教授などの錚々たる肩書を持つ。国債暴落の危険性を指摘するこの二人は、大学は工学部卒の経済学者・評論家である点も共通している。

一方、国債暴落とか、高いインフレ(ハイパーインフレ)など起こり得ないと解説している評論家に、三橋貴明氏、上念司氏、高橋洋一氏らがいる。国債暴落などあり得ないという三人のうち、二人は経済学部を卒業している。

私自身は殆ど上念司氏や三橋貴明氏の、国債を更に発行をして景気刺激しても、ハイパーインフレにはならないという説を正しいと思っている。以下は上念氏、三橋氏、高橋氏の動画などから学んで、筆者がまとめたものである。

その第一の理由は、日本国債は円で発行されていること、そして日銀が国債価格が急激に低下(長期金利の上昇)する兆候が出れば、直ちに国債を買取るという方針を続けるからである。国債を買い支える限り、国債の価格低下は起こらず、金利上昇も起こらない。

日銀の貸借対照表は膨張するので、円安を心配する人が多いかもしれない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43424501.html しかし、円安になれば、日本の製造業は国際競争力を持つ。現在、経常収支は黒字であり、外貨を円に換えて国内に持ち込む流れは変わらない。それに加えて、製造業がドルを余計に稼ぐことになれば、外国から持ち込むドルの量がその分増えて、円安を解消することになる。日本は、円安にブレーキが掛かるメカニズムを持っているのである。

国家の貸借対照表(BS)は依然として、米国よりも日本の方が健全である。この点、高橋洋一氏は、日本国政府の収税機能を資産に換算すれば、その健全さが分かると言っている。兎に角、円建てで国債が発行出来る限り、基軸通貨発行国の国債と同程度に安全であると思う。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

野口悠紀雄氏は、動画で何れ日銀は量的緩和を終了する必要があると、その出口に言及していた。その際、国債を売らなければならないが、そこで暴落するのではないかと言うのである。しかし、米国連銀のように怪しげな住宅ローン債券などへの投資は日銀には無いので、BSの縮小を急ぐ必要は無いと思う。

何年か経過して物価が倍になれば、国債の価値は実質半額になるので、そのまま日銀の資産として持っていても良いと思う。また、物価が上昇しなければ、その場合も国債は健全な資産である。

日銀の緩和政策で要注意なのは、突然且つ急激に予定していたインフレが進行した場合である。それは、日銀当座預金に積み上げられた約400兆円に登る預金が、金融業者などにより株式投資などに大量に廻った場合に起こると思う。その際、株式市場はバブル的になる可能性がある。

資産価値が上昇した部分のいくらかは、消費市場に流れて物価上昇が起こる。それが行き過ぎた場合は、日銀は更にバブルが成長しないように当座預金に付利をつけることや、国債の放出を考えなければならないだろう。それは、日銀の収益に悪影響を及ぼし、経営の悪化を導くのではないだろうか。それは円安懸念の原因になる。日銀は今の株高進行を少し警戒すべきだと思う。

またもう一つ恐ろしいのは、国際関係で異常な事態が生じることであると思うが、それは今回の議論の対象でないので省略する。

(以上は、元理系研究者のメモですので、批判コメント歓迎します。)

補足:

1)外国債の購入を勧めるのは、自説の日本国債暴落を実現したいためと言われても、抗弁できないだろう。米国債は、日本国債以上に危険かもしれない。財務情況は明らかに日本より悪い。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43416690.html

2)限られた人たちの考えが、議会等の議論なしに走り抜ける現在の日本政府のような政治体制よりも、大前氏の提案している道州制の方が良いと思う。日本は、知的に優秀、且つ、リーダー的素質を持った人が、国家などの組織のトップになりにくい文化の国である。従って、物事はできるだけ分散的に解決するほうが効率的である。そして中央国家は、防衛とか外交という国家の枠組みをしっかりと構築維持することに専念すべきだと思う。

次に、「移民解禁は当然」という大前氏の意見には唖然とした。日本経済は日本人のためにあり、外国人の為にあるのではない。人手不足は、デジタル技術の導入などに設備投資をして、労働生産性の向上で対応すべきであると思う。外国人の流入は、優秀で日本の為になる人に限るべきである。移民を安価な労働者として入れるのは、労働生産性を高める機会を逸することになる。

2017年12月7日木曜日

放送法64条が合憲だとする最高裁判決について

1)放送法第64条は、「テレビを視聴可能な状態で設置したものは、NHKと視聴契約をしなければならない」と規定している。今回、最高裁は、その強制契約が合憲であると判断した。

一方、日本国憲法は、憲法13条(個人の尊厳)と憲法29条(財産権)で契約の自由を保障している。これら憲法の条文は、何れも「公共の福祉に反しない限り」と枠をはめている。従って、今回の最高裁判決は、テレビを設置しながらNHKと視聴契約をしないことは、公共の福祉に反する行為であるということを意味する。

法律面からNHKの公共性を裏打ちするように、放送法第3節にはNHKの経営委員会の設置、委員の選定、職務等が記載されているので、法的には今回の判決は整合性があるようだ。この点、昨日の記事は誤っていることを認めざるを得ない。(補足1)

つまり、NHKの放送内容とか、国民の知る権利を確保する上でNHKが不可欠かどうかなどは、最高裁の判断することではないということである。法的な整合性のみ最高裁は判断するのであり、NHKの受信料のシステムが時代錯誤的であるとすれば、それを改めなかったのは立法府の怠慢であり、その修正を指示することは最高裁の仕事ではないということだろう。

2)受信者が契約を拒否した場合、NHK側は「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」とこの放送法64条を解釈している。一方今回の判決では、NHKが裁判を起こして勝訴した時に視聴契約は成立し、「受信料支払の義務は、テレビ設置の時点に遡る」としている。

このNHKが裁判をおこして勝訴することで契約成立と見做すという点を取り上げ、NHKが全てのテレビ設置済の未契約者を対象に裁判を起こすことは困難であるとして、NHKは敗訴したのだと宣伝する「不払い運動の指導者」もいる。https://www.youtube.com/watch?v=80J1hzVRXdk

しかし、スタンプを押すように、被告欄に名前を書くだけで訴状が出来上がるのなら、それほど困難ではないだろう。今後、NHKの現状やその受信料のあり方を不適当と考えて居られる方々は、その運動において別の戦略を取るべきだと思う。つまり、相手にすべきは総務省及び国会であり、最終的には放送法を改訂させる方向を考えるべきだろう。

放送内容への干渉は経営委員会で可能だが、有識者として選任されるのは異なった分野での成功者が多く、期待薄である。

3)この情報化社会にあって、NHKが未だに国民の知る権利を実現するための不可欠な存在だというのは、時代錯誤の極限だと私は思う。現在、我々国民が知る権利を十分活用しえないのは、情報が提供されないからではない。何が本物の情報であり何が作為的に流された情報であるかの識別方法を持たないことである。その点に関して、後で述べる様にNHKの報道は、知る権利を侵害する側である。

繰り返しになるが、各種情報をしる上でNHKに頼る必要は殆どない。現状では、国会中継などを除いて、NHKは何の役割も果たしていない。公共放送としての役割は、現在のNHKの五分の一で足りるのであり、その意味では視聴料は現在の五分の一以下で良い筈である。

国会中継や総理大臣談話などの公共放送として重要な部分には、例えば、NHKの一つのチャンネルを完全に使い、その放送の経費のみをテレビ設置税として徴収すれば良い。その税の根拠は、丁度自動車税と相似であると思う。公共放送を受信する上で、視聴料を支払わなければならないという論理は、私には理解不能である。

それ以外の娯楽番組は、民営化して視聴料を徴収するなり、民間などからスポンサーを受け入れるなりすればよい。前者の方法をとるのなら、未契約者のテレビ画面にはスクランブルをかければ済むことである。現状NHKは、立法府や行政府の怠慢により、抱き合わせ商法で金を稼いでいるといえる。今回最高裁は、その行為に免罪符をあたえたことになる。

つまり、三権夫々の立場から、NHKの現状を擁護しているのである。

4)NHKの放送内容であるが、公共放送を標榜しながらその質や姿勢は国民の利益に合致しているとは思えない。例えば、1996年に放映した「51年目の戦争責任」では、慰安婦募集に関連して軍が出した通達文を改竄して紹介し、不正な方法を用いてでも慰安婦を調達せよと命じていた証拠を突き止めたとして、その非道を糾弾してみせた。http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/4d3e5b172db4f6f8f032777a918177ba(補足1)

NHK受信料の契約を渋る多くの人達は、この国益に反するNHKの“公共放送”に不満を持っているのである。そのNHKの姿勢が原因なのか結果なのか分からないが、近い過去(自身或いは親)に朝鮮半島などにルーツを持つ人を多く採用していると聞くが、それも国益に反する放送を生む土壌となっていると思う。その根拠は、以前書いたブログ記事をご覧ください。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43060935.html

補足:
1)昨日の記事では、一方的に最高裁の判断を契約の自由を根拠に間違っているとしたが、「公共放送が国家の機能として必要である」と考えられれば、放送法64条の規定は合憲ということになる。現在のNHKの実態が、その役割を果たしているかどうかの審査や、現在のような大きな組織が必要かどうか、視聴料金が高すぎるのではないか、などの判断や適正化への指導などは、総務省や経営委員会の仕事である。
2)慰安婦問題については、朴裕河氏の「帝国の慰安婦」(日本語訳)が公平な視点でかかれている。朴裕河氏と思われる人のブログ記事を私が訳したものを引用しておく。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/07/blog-post_15.html (17:00、補足1の加筆)

2017年12月6日水曜日

最高裁は日本政治を劣悪にした原因の一つである(削除予定)

追補:

NHKの視聴料の問題は、最高裁の他に総務省(NHKの指導)や内閣(経営委員の選任)も責任があると思います。その点について、次の記事に書きます。

本文:
最高裁は三権の一つの役割を全く果たさない。それは戦後の日本政治を混乱に陥れた。例えば:
自衛隊が違憲であることは、日本語がまともな言語なら憲法9条の条文で明らかである。その判断が最高裁により示されなかった為に、日本は国家の体をなさないようになった。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_24.html

今年の安倍総理による理由なき解散も、最高裁がまともな判断をしなかった結果である。国権の最高機関である筈の国会を、行政の長がなんの理由も無く、スクラップにできるのである。これを違憲としなかったのは、最高裁は単なる行政の下部組織であり、専門家としてのプライドよりも自分の利益を優先するインチキ法律家が判事になっていることを示している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_30.html

今回、NHKの受信料制度が、憲法が保障する「契約の自由」に反するかどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、この制度を「合憲」とする初判断を示した。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171206-00000058-mai-soci

下級審の「受信料制度は、公共の福祉に適合し必要性が認められる」という判断が追認されたことになる。

NHKの受信料制度は放送法64条を根拠にする。放送法第64条:協会の放送を受信することの出来る受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。(以下省略)

ここで重要なのは、「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」と言うNHKの解釈であり、これら解釈も(テレビのニュースでは)追認されたと放送していた。

追補:12/7/am7, 前半の契約の成立の部分は、今朝12/7の中日新聞によれば間違いです。受信契約の一方的な成立は、裁判でのNHK側の勝訴によって確定する。その時の料金請求はテレビ設置の時点まで遡る。}

最近、櫻井よしこさんがyoutube動画上でこの件を議論している。放送法64条とNHKの受信料取り立ての問題点は、そこに全て出ている。https://www.youtube.com/watch?v=q2N4p9SX

「契約」は、当事者双方の合意に基づく行為である。その日本語の解釈まで曲げて、このNHKの略奪行為を法的に追認したのは、違憲とした場合の混乱を考えた行政的配慮だろう。日本の最高裁は、憲法解釈を全て行政に阿る姿勢で行っている。

重ねて言うが、日本は三権分立の国ではない。最高裁は、行政の下の役所に過ぎない。最高裁長官は、専門家のプライドよりも自分の利益を優先する、他の官僚たちと同じく利己主義者である。

2017年12月5日火曜日

フラットな社会に安定国家は成立しない(国家は、高貴な階層の人間を必要とする)

1)現在の社会はフラットであると言われる。総理大臣も一介のサラリーマンも社会的には差はない。言葉も同じであり、趣味も何もかも大してかわらない。その傾向は、米国にも出現しており、大統領の言葉と下町の言葉に大差ないことが話題になっている。

二年程前のあるテレビ番組(Sokomade I.I.)で、左翼のある女性(YT)が、「天皇ってかわいそうだよね」と発言した。人権も自由もないという類のことをその理由として喋っていた。しかし、それは根本的に間違っている。日本人の中で天皇は特別な存在であり、天皇には我々庶民が俗っぽく考える自由な振る舞いはあり得ない。そして、天皇は我々庶民には超えられない天井の上に存在し、そもそも世界が違うのである。

西洋にはnoblesse obligeという言葉がある。このフランス語は、「高貴さは(義務を)強制する」と訳される。上記の発言は、特別に高貴な天皇としてのobligeを不自由と感じる貧しい心が生んだのである。自分の思考における不自由がもたらした発言であることに気付かないのは、その女の人が完全に左翼信仰に染まっているということである。(補足1)

その“noblesse oblige”(英語でnoble obligationという)を感じる人が、日本にも世界にも殆ど居なくなった。貴族は通常金持ちではあるが、金持ちということは貴族を意味しない。貴族は金銭に支配されないという点で、経済的に豊かな人達は貴族の候補ではある。“貴族階層”の中の本当の貴族は、有史以来各種の俗な欲望以外を(も)考え追求してきた人たちである。その階層は、貧困層が混沌の中に停滞している中で貴族の文化を形成し、その中から近代文明が生まれた。

しかし、現在の金持ちの殆ど全ては、俗世界の経済活動にむしろ積極的であり、金に支配されている。それは、現代の日本社会(多分世界も)が単一の階層からなるフラットな社会になり、貴族と貴族文化が存在しないからだろう。(補足2)

数年前、ある新興金持ちのM氏が、「金儲けは悪いことですか」と喋ったテレビの画面が今でも目に浮かぶ。現在の金持ち達は、貴族階級を形成できずに巨大になり、世界の文化も何もかも破壊する最前線を担うことになっているように思える。そこから、調和的な新しい社会を構築する処方箋を人類は未だみつけてはいない。

2)太古の昔、「ヒト」は野生の動物であった。そこから社会を造って生きる「人間」となったプロセスを、再構成するシミュレーションは、社会の今後を考える上で参考になるだろう。

ヒトが人間になるまでに得た最も本質的なものは、言葉である。(補足3)その言葉は、社会構造の複雑化(発展)に伴って、より複雑(高度)な言語となっていく。つまり、社会と言語が密接に関連しながら発展し、そこに文化が生じる。例えば、武士の社会には武士の言葉があり、そして武士の文化が生まれる。また、農民には農民の言葉があり、農民の文化があっただろう。更に女性も、“部分社会”をつくり、特有の言葉や文字もあった。勿論、用事があれば話をするわけだから、言葉の構造や用法には共通の部分が多いだろう。

それらの部分社会の地位に自然と上下ができるが、それを階層と呼ぶことができる。例えば、武士の文化は、国(その社会集団)を守り安定化するために適したものだっただろう。国を守ることが、全ての住人の生存に必須であるので、武士階級は高い地位を自然に得たと思う。そして、それら各階層の文化は、社会を分業して担うのに重要な役割を果たした筈である。

我々は、それぞれの階層で身につけた知識や価値観、つまり、武士階級で言えば戦士としての勇気や、対面した相手に対する端正さなどを、身に纏う服の様に考えがちである。しかし、その喩えは部分的にしか正しいとは言えないだろう。服なら着替えが可能だが、その武士としての性質は、着替え不可能な皮膚の様なものであると思う。従って、成人した武士、農民、職人、商人は全て「別種の人間」といえるだろう。

逆に、人間社会で育た無かった野生のヒト、例えば狼に育てられ、狼の群れの掟の中で育ったヒトは、人間社会の基本を身につけることは最早不可能であり、いかに学習を重ねても服を着る様には人間にはなれない。例えば:http://karapaia.com/archives/52147667.html

上記の事実が示す重要なことは、「誕生間もないヒトは高度に可塑的な粘土のようなものであり、それを人或いは人間に成型するのは、社会の文化でありそれを身につけている両親や周囲の人達である」ということである。もし、適当な時期に相応しい形に成型しなければ、社会で生きる人間にはなれず、理解不能な無秩序な、或いは、奇異なヒトに成長するだろう。

この事実は少年犯罪における保護観察処分などの制度には、深刻な欠陥が存在することを示唆している。そして、異る文化圏にある国の間では、本当の意味で言葉が通じることは期待できないことを示している。言葉は翻訳できるのだが、通じないのである。また、同じ国でも、過去の歴史の出来事を現在の言葉や感覚で理解することには、本質的な壁が存在することを示している。(補足4)

3)ほとんどの日本国民にとって、現在最も大きな運命共同体は日本国家である。それは殆どどの国でも同じだろう。全ては国家あってのことである。その国家の複雑な構造の中で、人々は分業を行ってそれを支え、生きている。 

  その安定と繁栄は、各構造の力で決まる(勿論、ある弱い構造が全体を決める場合もある)。あらゆる構造を担う人材の育成、及び適材適所の配布は、国家の繁栄と安定に必須である。上記は当たり前の論理だが、ただ「人材の育成」には特別の意味を持たせたい。それは、人をパソコンに例えて話をすれば、単に各分野に相応しいソフトウエアをインストールしなければならないと言っているのではない。パソコンの基本設計から、そのインストールソフトを意識して、行わなければならないのである。  

特に高度な専門職、各構造の整合的な働きを実現する総合職(=国家の中枢を担う人材)などは、昔の貴族的な特別な教育が必要だと思う。それは、敎育現場の環境だけでなく、その中で生まれ育つ社会環境から、それら人材の育成に相応しい環境が必要だろうと思う。つまり、現代でも国家の中枢を担うような人材の育成には、そのための特別な階層或いは”部分社会”(相応に閉鎖的な社会)が必要なのではないか。  

最初に述べた皇室もその代表かと思う。天皇はその家系に生まれるという意味で、生まれながらに天皇としての準備ができており、その後成人までの環境は最も高貴な人を作り上げる為に必須の役割を果たしていると思う。また、日本の政界などでも、一国の宰相となり相応の活躍ができるのには、素材としての能力(上の言葉では可塑性)だけでは不可能だろう。 

フラットな世界では、何処で切り取っても同じ社会であり、そこで家族だけが特別であっても、国家を担うレベルの宰相は出来上がらない可能性がたかい。また、それを支える知的集団を、他国を真似て造ってみても、俄には機能しないだろう。  

我が国と比較して、高度な国家中枢を作る準備を整えた国がある。それらは米国や英国のなどの西欧諸国、それに中国である。中国は共産党という階層を作り、その中から人材育成をしている。ただし、共産主義思想は権力者による国家統治という考えと矛盾するので、共産党の階層が権力者的な国家の宰相を育てる環境となり得るかどうか今一つわからない。  

米国の場合、政治貴族は大金持ちの企業経営者とその周囲に一定の閉鎖性のある社会を作っており、政治を支配する階層となっている。エール大学などのアイビーリーグが作るエリート層(その中の特別な組織、スカル&ボーンズなど)などがそれである。その構造の中にCFR(外交問題評議会)やCSIS(戦略国際問題研究所)が組み込まれているのだろう。英米政府がこれまで国家をうまく操縦してきた様に見えるのは、そのような社会の構造があったからであり、表向きに標榜している民主政の所為では無いと思う。  

その民主という表の思想と裏の支配構造との暗黙の了解が崩れ、民主が前面に出かかっているのが現在のトランプ政権の成立のプロセスの可能性がある。それを揺り戻す動きが、政権内外で起こっていると思う。 

(21:50編集あり;理系人間のメモですので、批判等歓迎します。)

補足:

1)人間の創った壮大な文明における“noblesse oblige”を考えた時、obligeは下層或いは大多数からの視点での描写である。その強制(oblige, obligation)という部分は、高貴な上層の言葉を用いれば、誇り高き世界における自由ということになる。上記YT氏の言葉は、例えば、「哲学者って可愛そうね。一生頭を使って苦しんでいる。」と言う粗野な人の発言と似ている。その“強制”が高貴な身分と同居することを知らず、下層の言葉で不自由として抽出したのに気がついていないのである。それは、下層と上層の間での、無益な言葉のやり取りである。その下層の視点で壮大な文明社会を体系化したのが、左翼思想である。その視点は既にその思想の限界を示唆している。
2)高貴さは、全体として貧困を感じる社会の中でのみ維持されるのだろう。経済的豊かさを温度の上昇と考えれば、現在の情況が分かり易く説明できる。つまり、現在の社会は、多くの分子(人間)が結合して有機体(社会)をつくっていても、温度上昇により分子がバラバラになり構造が破壊された情況に近いのである。更に温度が上昇すれば、原子状態から素粒子状態にまでなる。それは、人間社会に話を戻せば、人格破壊を意味するのである。
3)通常、日本語で「もの」は、物か者である。“言葉は喋るときにつかうもの”という「もの」の使い方に自信がない。
4)この文章を理解した後に、ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の題名、或いは、ブレジンスキーの「政治に目覚めてしまった百万人を説得するよりも、殺す方が簡単である」という講演を聞けば、その人たちの考えが理解出来るかもしれない。ブレジンスキーの言葉:https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html

2017年12月2日土曜日

キッシンジャー氏は生まれながらの反日親中か?

1)昨日、政治評論家の加藤清隆氏のyoutube動画を観た。そこでは、トランプ大統領の知恵袋的なキッシンジャー氏に対する批判が語られていた。キッシンジャーは、米国において中国の利益を代表する人物であると語っている。https://www.youtube.com/watch?v=aSlZ_aiC4OU

キッシンジャーが10月にホワイトハウスに招かれた際、米中の取引で北朝鮮を平和裏に治める案を吹き込んだ可能性があるという。その内容はニューズウイーク紙の11/28日号に、中国専門家のBill Powell氏の記事として書かれているという。

それによれば:1.中国は全ての手段を用いて金正恩に核計画を諦めさせる;2.米国が検証し納得する;3.米国と北朝鮮を正式に承認し、経済援助を行う;4.在韓米軍は撤退する、の4項目であるという。(補足1)

この4番目は、日本にとって最悪のシナリオとなり得る。韓国にとっても最悪だと、加藤氏は言っているが、現韓国大統領にとっては織り込み済みのシナリオかと私は思う。

また加藤氏は、「トランプ大統領はキッシンジャーの意見に従ったために、米中首脳会談でも米国の主張が出来なかった。」更に、「キッシンジャーは中国の利益を代弁し、“日本に未来永劫核武装を許さない”という姿勢を米国政府に持ち込んでいる」と言っている。(「」中の文は話の内容であり、語りをそのまま書いたのではありません。)

その上で、キッシンジャーは「日本にとっては有害な人物と言う事もできる」と語っている。その様に語るのなら、その理由も具体的に語るべきである。「虫が好かない」レベルの「キッシンジャーは反日である」という議論は、有害無益であると私は思う。

2)キッシンジャーとともに、米国の国際戦略に重要な役割を果たした人に、ブレジンスキーがいた。あの「ひよわな花・日本」を書いた人である。今年死亡したらしいが、そのニュースが大きく報道されなかったことは、日本が政治と報道の両面で後進国であることを示している。

北野幸伯氏が自身のメルマガ「ロシア政治経済ジャーナル」にブレジンスキーの死去にふれている。そこで、伊藤貫氏(補足2)の著書「中国の核が世界を制す」の中の「ブレジンスキーもキッシンジャーも反日親中である」を引用し、更に、つぎの様に書いている。

キッシンジャーと同様の親中外交論を主張してきたブレジンスキーは、「中国こそは、アジアにおける”アメリカの自然な同盟国”と言ってよい。アメリカの国防政策は、日本政府の行動の自由を拘束する役割を務めている。この地域で優越した地位にある中国こそ、アメリカの東アジア外交の基盤となる国だ。」と述べているというのである。

一方、「この二人には違いもある。ブレジンスキーは日本人を小馬鹿にしているが、日本人を憎悪してはいない。それに比べてキッシンジャーは、日本人に対して鋭い敵意と嫌悪感抱いている。」とも書かれているという。
https://news.goo.ne.jp/article/mag2/world/mag2-250961

ところで、何故この二人の米国外交の中心的人物が日本軽視の戦略論を展開してきたのか? 私は、それを語らずして“誰それは日本に有害な人物である”と言うべきではないと思う。上記北野幸伯氏の文章では、その反日親中は、中国が彼ら二人の生い立ちから調べ上げ、プライドの高い二人の特性を利用して取り込んだ結果だと書いている。

それもその通りだろうが、キッシンジャーの反日姿勢(憎悪感を持つ)について、もう少し別の背景があるように思うので、それを書いてみたい。

3)加藤氏の話にある通り、反日キッシンジャーは“日本には未来永劫核武装はさせない”と思っているだろう。しかし、キッシンジャーは“日本も核武装をすべきである”と考えた時期があったと、或る本に書かれている。片岡哲哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」である。そのことは既にブログで紹介した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43129251.html

日本が佐藤栄作政権下であり、米国はニクソン政権下であった。そのニクソン政権の安全保障担当の補佐官がキッシンジャーだった。私の理解したところでは、米国が自国のアジア戦略において、何処に重点を置くかを考えた時、第一に日本を考えた。つまり、日本を核武装した米国の同盟国にすることを考えた。しかしその時、無能な佐藤総理が、日本はそのような役割はできないと断ったのだった。その結果、未来永劫日本国民は、中国、ロシア、米国、更に朝鮮の核の脅威に怯えることになったのである。そして、中国を米国のアジア戦略のパートナーと考えることになったのだろう。(補足3)

更に日米繊維摩擦の際、ニクソン大統領は佐藤総理に何とかして欲しいと対策を依頼した。沖縄が交渉の末に1972年5月に返還されたのだが、そのような時期だけにニクソンは佐藤が合意に基いて有効な手を打ってくれると思っていたが、佐藤は何もしなかったという。そこで、ニクソンは烈火のごとく「ジャップの裏切り」と怒ったという。佐藤は、愚かにも日本のもの(沖縄)は返還されて当然だと考えたのだと、書かれている。(ウイキペディア参照)(補足4)

つまり、そのような歴史的背景を念頭において、キッシンジャーの対日対中姿勢を考えなければならないと思うのである。「戦略なき政府は国を滅ぼす」である。

補足:
1)上記4項目とティラーソン国務長官の「四つのNO」とは関連があるという。1.北朝鮮の政権交代を望まない;2.北朝鮮の政権は滅ぼさない;3.半島の統一は加速させない;4.米軍を38度線以北に派遣しない、は北朝鮮の主張を取り込んだもので、これも出処はキッシンジャーではないかと加藤氏は言っている。
2)訂正:「核武装なき改憲は国を滅ぼす」の著者を伊藤貫氏と書いた事があるかもしれません。正しくは片岡哲哉氏です。
3)上記片岡哲哉著の本の中に、ニクソン政権の時、佐藤政権の日本に核武装を打診した旨の詳しい記述がある。その時の安全保障補佐官はキッシンジャーである。「北朝鮮の核武装と日本の核武装論」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html
4)「核武装なき改憲は国を滅ぼす」では、その怒ったニクソンの下に派遣されたのが田中角栄であり、田中は米国の駐留経費に金をつぎ込むことで解決したと書かれている。つまり、戦略もなにもなく、金で解決するという日米安保体制が出来上がったと書かれている。米国が、戦略的同盟の意志を無くすのは当然かもしれない。