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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2015年9月29日火曜日

公(おおやけ)という感覚がない中国

1)最近、中国の政治経済の今後を考えるネット番組を観た。その一つは河添恵子氏が中心に、「SEALDSらの運動の背後に中国が存在する」と指摘・議論をする番組であり、(A)https://www.youtube.com/watch?v=sn9fc3ZWiMA 一つは、SakurasoTVの3時間番組、「危ない中国の行方」と題する番組、 (B) https://www.youtube.com/watch?v=FbSpqD8iw9Q 最後に、現在富士通総研主席研究員の柯隆氏による日本記者クラブでの「どうなる中国経済」と題した講演である。(C) https://www.youtube.com/watch?v=lbSMgEU2pwA 

すべて今年9月に公表されたものである。何れも、中国の特徴として、公務員の汚職が文化として定着していることを指摘しており、それは河添氏が上記講演(A)で指摘した、「中国では現在もほとんど “公”という感覚がない」という言葉に集約されると思う。

上記の3番組は非常に広い範囲に亘る議論であるが、その中から一つだけこの「中国には公という感覚がない」をとりあげた。公とは何か、何の為にあるのか、その存立の条件はなにか、などについて素人ながら考えてみた。

2)河添氏は、“公(おおやけ)”を、“私(わたくし)”に対することばで、公共と同じ意味に使っている。公(おおやけ)は、社会全体の運営や発展を考える意識やその空間とでも言えるだろう。つまり、英語のプライベート(private)に対することばパブリックpublic (people in general; 人々一般)と同義だろう(補足1)。

公は大宅または大家と書き、朝廷や宮廷、そして国家が原義であり、公共という意味は後で生じた。公共というのはpublicの訳として明治時代に作られた和製漢語であるから、その概念は明治以前の我国にはなかったのである。公も、明治以降に公共の公の意味で用いられるようになった。英語に訳せばともにpublicである。現在の日本には公共や公は根付いているように見えるが、そうでない場面に幾度も出くわす。

公とよく似た言葉に“お上(おかみ)”がある。このことばのニュアンスは、民衆から離れて上にある国家組織を指し、前近代的国家ではこのお上が、社会の運営や基盤整備などの行政と外国との付き合いである外交など(場合によっては戦争)を行う(補足2)。

このように考えれば、中国では「おおやけ」という感覚がないのは当然だということになるだろう。なぜなら、お上(共産党幹部特に党主席)が国家の政治のすべて行うからである。若干中国には失礼な比喩であるが、日本でも江戸時代には、お上の支配階級と被支配階級の農工商を生業とする庶民がいた。被支配階級の人間は、公のことを考えることもその必要性もないが、支配階級が動員をかければ、作業や戦争にかり出されることになる。そのような作業をする際、駆り出された人には被害者意識的なものは残るが、決して「おおやけ」の感覚で参加したと思う人はいないだろう。

公あるいは公共というのは、その“お上”としての立場を民衆一般がとり、従って、同時に支配・被支配の関係がなくなった時に初めて生じる概念である。つまり、民主国家になって生じる市民の義務の在処である。河添恵子さんが「中国には公という感覚がない」とか、「彼らは日本人とは全く異なる人間である」というのは少々変であり、異なるのは日本と中国の歴史的段階であり、それに伴う文化の違いであると思う。

最近、習近平主席が汚職の撲滅運動を行っている。それは胡錦濤前主席の側近にまで及び、胡錦濤さんは自殺未遂まで起こしたと言われている(B)。この件、汚職撲滅運動を権力闘争に用いたのであり、公の感覚を中国に持ち込もうとしたわけではない。なぜなら、共産党一党独裁、しかも党主席が皇帝のように振る舞う体制には、公の感覚など育ち得ないからである。単に規則を厳しく適用することで、自分の地位を誇示安定させるのが目的で、丁度急に厳格に取り締まりをする交通安全運動のようなものである。終われば、運転する人のあたまから制限速度は消えているし、黄色信号は青信号となんら変わらない。

中国人で著名な評論家で富士通総研主席研究員の柯隆氏の日本記者クラブでの講演(C)で、氏は中国での汚職は経済活動の潤滑油的な役割もあると言っておられる(補足3)。権力闘争にその汚職撲滅を用いたのは、共産党幹部の組織において背後に層の厚い人脈を持たない周近平主席の戦略であると理解できるが、難しいのはそこから如何にして出るかの出口戦略であるという(補足4)。

あまりに徹底してしまうと、経済にマイナスとなるというのである。例えば、工事費の3割を中央政府が持ち、残りを地方政府が持つ形で公共工事の金を地方政府に交付しても、なかなか工事が進まない。監視の厳しい情況下では、役人に旨味がないため積極的に動かないのだという。

柯隆氏が経済活動の潤滑油的な面もあるという同じことを、河添氏はそれを腐りきっていると形容するのである。二人の物差しの違いは、“公”という感覚のない文化への理解度だと思う。

工業製品にISO規格があることで象徴される様に、グローバル社会では、感覚や物差しの共通化が必要であることはいうまでもない。 しかし、グローバル社会に接したときに、ことなる文化の国が順応するには一定の時間がかかるのは当然であるだろう。それは先進国側の国も、同様に考えるべきことである。日本の中国との急激な経済交流は、河添氏の指摘とおり、そして、昨今の中国と日本の関係を考えると、更に、中国経済の現状を考えると拙速に過ぎたと思う。孫氏の兵法に「拙速は巧遅に勝る」というのがあるそうだが。。。

補足:

1) peopleはbody of persons comprising a communityと語源辞書には書かれており、共同体を構成する人々の意味である。従って、public は共同体に属する人々一般に関係するという意味である。

2) 広辞苑にあるのは、①天皇、朝廷、②政府、官庁、③貴族、④主君、などの意味がある。①と②は、おおやけと同じ意味である。ここでは、同じ意味の二つのことばの用途が分離したと考え、そのような意味に用いた。

3) ワイルドスワンズに書かれている。公務員になって、そのコネで一族に貢献しないのなら、何の為になったのかわからないそうである。

4) 米国をはじめ世界中で行われている大規模な金融緩和も出口戦略が非常に難しい。今回の話題と全く関係がないイエレン氏のことを思い出した。何れにしても出口戦略に頭を悩ますようなことは、できるだけやらない方が良いと思う。

2015年9月27日日曜日

企業が主役の新しい国家とグローバル政治

安倍総理がスマホなどの携帯の利用料金が高すぎるという発言を行った。その発言を受けて、総務省が年内に対策を立てることになったという。この安倍発言で、携帯3社の株価が急落した。 そして、三社の経営者たちも新しい料金体系を考えるということで、この騒動は決着しそうである。

しかし、自由経済の原則から考えて、首相発言も不思議だが、その意向を受けて料金体系を改める動きに出る携帯3社も不思議である。携帯3社の株価は、安倍発言の直後料金体系見直しの姿勢が出る前に急落したので、市場は首相の発言の段階で携帯運営会社の料金値下げと収益悪化を正しく予見していたことになる。

三社に料金を引き下げたプランが可能なのに、それがないままに棲み分けてきたことは不思議である。従来の見方によれば、携帯3社は互いに競争関係にありながら、何らかの価格協定のような違反行為があったと疑われても仕方ないのではないだろうか。

しかし、それは表には出ることはないだろう。そして同時に、行政も独禁法違反という形ではない新しい介入の仕方があることを主張しているのである。それは日本独特のものなのか、それとも世界的に起こりつつある大きな政治的経済的変化なのだろうか。

最近の日本経済は、韓国のような財閥支配とまでは言えないのかもしれないが、多くの巨大な会社群が牛耳っている。そして、巨大資本は国家行政と密接な関係を持つ。行政府によるトップセールスなどは、企業にとってグローバル経済で生き残る上で非常に大切になっている。

今や、外国への新幹線の売り込みや、外国からの天然ガスなどの資源の獲得など、優秀なセールスができる首長が期待されるようになっている様に見える。それに対する疑問も一向に出ないのも不思議である。

このようなグローバルな国家による市場開拓の情況は、昔の植民地獲得競争とが重なって見える。

先日から米国を訪問している中国の周近平主席も、米国で活発に経済活動を行った。中国のアリババなどの巨大企業の経営者を引き連れて、米国の巨大企業のアップルやマイクロソフトなどのトップと会議を持った。米国企業のトップを“てこの支点”のように用いて米国政府を動かそうとしている様にも見える。つまり、裏から見れば米国の政治を牛耳っているのは、何とか資本だという話は良く聞くのだが、今や国家と巨大企業の密接な関係が当たり前で、真正面からの光景であるかの様である。

以上から、歴史は新しい段階に入っているようである。つまり、国際関係を国民国家という単位で考える時代から、徐々に企業国家という単位で議論する時代である。中国は、帝国から企業国家へと直接向かうようにも見える。

素人の意見ではありますが、馬鹿げた意見と言って無視しないで、出来れば意見・反論等お願いします。

2015年9月25日金曜日

日本仏教は葬式宗教か?

1) 今日(9/25)の中日新聞文化欄に、新宿区経王寺の住職、互井観章氏による仏教再生を探る(下)という記事が掲載されていた。主眼とするのは、仏教が日本でどのように定着し、今後どのように生き残るかである。

仏教の定着について互井氏は、「現在の日本仏教は死者供養を中心とした仏教である。儒教・道教と結びついた仏教が伝来し、日本の風土(神道やアニミズム)と融合し、大きな変革を幾度も経て、現在に至った。」と記し、更にその具体的な姿を、「お盆に死者(の霊)が帰ってくることも、お墓に亡き人の霊が眠っていることも、死者にお経を上げると成仏することも、何の抵抗もなく受け入れられている。その仏教的風習を大切にしてきたのは村などの共同体であり、家であった。」と解説している。

この文章を読んで、日本仏教の本質について、素人ながら考えるヒントを得たように思った。そこで、以下に私の日本仏教についての考えを書き記す。

2)元々インドで発生した仏教は、色界を空、つまり物質からなる現世に実体はないと捉え、その知恵(般若)を正しくつければ、現世の宿命である生病老死など四苦八苦から超越すること(つまり解脱)ができるとする宗教であると思う。仏教はあくまで苦(思い通りにならないこと)を個人の問題として捉え、そこからの超越とその方法を教えるのが本来の姿であると思う。その知恵は真理のことばであり、それを理解することが解脱である。

日本に伝来した当時の仏教は、ほとんど上流階級のものだった。ほとんどの人が仏教伝来前に持っていた宗教は、神道である。日々の食料調達にすべての神経をすり減らすような生活に生きている個人は、八百万の神々の怒りにふれないように、ただひたすら祈りを捧げる。
仏教の大衆化に伴って、この世の心配事である“災難や自然現象”に関することは神道に任せて、日本独特の(死者の)霊を弔う形の仏教へと発展したのだろう。そして、仏教と家族制度、そして地域共同体が、それぞれ日本独特のものに、トータルとして調和的に出来上がったのだろう。

この日本仏教の本質は、「この世とあの世を跨いで、先祖、自分、および子孫の霊魂が一体となってそのつながりを確保し、それを永久に保つことで、一族のすべての霊が救われる」ということである。つまり、自分が死亡した時には、分断されていた先祖の霊と親族関係を回復し、現世から来世に亘って揃って安心立命の境地を得るのである。つまり、先祖の供養は自分の本質である霊魂と先に霊魂のみとなった先祖との繋がりを確保することである。

供養の文字通りの意味は、供え養うことである。つまり、この世に生きる子孫が墓の手入れを始めとして、法事などの供養をしてくれなくては、あの世の先祖の霊が糸の切れた凧のようになり、安泰で無くなるのだろう(補足)。つまり、“家”とは過去から未来へと、そして、この世とあの世の境を超えて永続的に存在する、一族の霊の住処なのである。そして先祖の墓は、あの世に存在する家とこの世の家とを結ぶ大切な門であり、それを荒廃させてしまうと、”家”の永続性がとぎれてしまうのである。

日本の仏教は、このように魂の永続と家という親子親族関係とを関連つけた宗教であると思う。もちろん宗派によって、この平均的な日本の仏教像からズレが存在すると思う。浄土真宗は、上記のような傾向が少ない筈である。しかし、それも時代とともに平均的日本仏教に近づいたのではないだろうか。

補足:この先祖供養は、神道の鎮魂を取り入れたものだと思う。そして、神道と日本的仏教は渾然一体となっているとも考えられる。つまり、死者はすべて神となると考えれば、供養と鎮魂は同一のものとなり、靖国神社への参拝は仏教の墓参りと同じものとなる。

平和憲法が平和を支えてきたわけではない:大江健三郎氏の幼稚さ

大江健三郎氏が集会で今回の安保法案に関連して、これまで平和が続いたのがまるで憲法の規定と海外に自衛隊が出なかったことが理由のように言っています。それは全く幼稚な考えであることを、歴史が証明しています。

以下にマオリ族に虐殺され、住む島を奪われたモリオリ族の話を書きます。著作権に触れる可能性がありますが、引用をすることで許してもらいます。もちろん、180年たった現代、実際にこのようなことが起こる訳がありません。しかし、自分たちの価値観や考え方が、隣国にも通用するような考え方は身を滅ぼすことになるかもしれないという、良い例と考えて引用します。

1835年11月19日のことですから、大昔の話ではありません。ニュージーランドの東のチャタム諸島に、銃やその他の武器で武装したマオリ族が数百人乗り込んできました。彼らは、「抵抗するものは殺す。以後、モリオリ族(島に住んでいた)は奴隷である」と集落を廻って告げた。モリオリ族の人数は、襲ってきたマオリ族の倍いたが、平和的な彼らは戦争を忘れていた。そして、会議を開いて戦争を避ける道を選んだ。

マオリ族は、会議の結果を聞く前に大挙してモリオリ族を襲い、数日のうちに数百人を殺して、多くを食べてしまった。その後モリオリ族は奴隷となったが、彼らもほとんどは数年のうちに殺されてしまった。生き残ったモリオリ族の人達は、「薮や洞穴に逃げたが、駄目だった。彼らは女や子供もみさかいなしに殺した」と証言した。

一方、マオリ族の兵士は、「我々は慣習に従って島を征服し、全ての住民をとらえた。逃げたものは捕らえて殺した」と説明した。

「銃・病原器・鉄」(ジャレド・ダイヤモンド著、倉骨彰訳、草思社文庫、2012)より抜粋要約。

これだけです。大江さんも、落合恵子さんも、石田純一さんも、冷静に考えてほしいと思います。

もらったコメント:
米国のイラクへの軍事介入は、「大量破壊兵器を持っているから戦争は必要」とされなされた。その時の、「信頼できる情報」として米国に従い、協力金を払ったが、自民党政権はその嘘がばれても責任をとる行動をしてはいない。また、そのとき憲法9条がなければ、大義の無い戦争に自衛隊送って、殺し殺される事態を招いていたであろう。(要約)

それに対する回答:
その件、おっしゃる通りです。その様なことにならない様、日本は独立国としての地位を獲得することが必要です。つまり、日本は現在子供です。 しかし、大人になかなかなれないから、子供のままでいようというのが、あなた方の考え方です。 そして、あなたのコメントにある様な自民党は、あなた方護憲派の票が作ったのです。
ついでに、自衛隊は憲法9条第二項違反です。それもあなた方(護憲派なのか、コミンテルンの支持者(勝間田元社会党委員長など)なのか、わかりませんが)の票が改憲を妨げてきたのです。 子供のままでは滅びる。だから、大人になる努力をして、包丁も鉄砲も使うことを考えよう。それに失敗して滅びるかもしれない。滅びるとしても、後者の努力をする道を選ぼうと言っているのです。

元のブログ(別サイト)から、一部修正のうえ再掲。元の記事は=>http://blogs.yahoo.co.jp/mohkorigori/57138123.html#57138809

2015年9月23日水曜日

日中韓三国首脳会議は慎重に:慰安婦像を使った中韓連携

韓国と中国は、朝貢をする属国と宗主国の関係になりつつある。この東アジアでの国際環境の大きな変化の中で、どう日本が生き残るかを、最重要課題として政府は考えるべきである。

環太平洋地域へと視野を広げた場合、そして、その中での日中韓関係が将来どのような関係になるのか、そしてどうなるべきなのか、新しく構築されつつある中国と韓国の関係を考えて、日本は戦略を立てているのだろうか。
TPPは重要なステップになるだろうし、環太平洋諸国との良い関係の構築が益々重要になるだろう。そのためにも、今回の安保関連法可決は重要な環境整備となっただろう。

一方、韓国と中国が開催を決めた、日中韓の首脳会議については、日本は参加を含めて慎重に考えるべきであると思う。中国と韓国は、この件でどのような戦略(グランドデザイン)のもとに、何を具体的目的として会議を開こうとしているか、既に綿密に打ち合わせている筈である。日本は日中韓の間でどのような位置を占めるのか、三国間でどのよう利益を目指すことが可能なのか、どのような戦略で臨むのかなど、相手方が既に打ち合わせをしていることを前提に、戦略をたてるべきであると考える。複数回開くべきということにして、第一回目は時間を短くすべきではないだろうか。

今日の時事通信から配信されたニュースによると、中国系住民の提案による慰安婦像の設置が、サンフランシスコ市議会において全会一致で決まったようだ。(補足1)中国系住民は、移民となってどこに住んでも中国人である。中国人は、特に外国に住む中国人は、ある意味で純粋に中国の為に働くだろう。

つまり、今回のケースは、日本を共通の敵対国と考える方向で、中国が韓国と本格的に連携して、全世界でキャンペーンを始めたことを示していると思う。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150923-00000042-jij-n_ame

これまでこの件では、日本は歴史書や資料を示して、真実を主張するというスタンスで、韓国と対峙してきた。その方法は、この問題への実効的な対処法では結果としてなかったと思う。

多くの日本人は、真実は強いと考えている。そして、イギリスの諺「ペンは剣よりも強し」を引用する。確かにペンは剣より強いだろう。しかし、ペンは必ずしも真実を書かない。いやむしろ、嘘を書くために使われた例の方が多いだろう(補足2)。

その諺の意味は、剣は目前の相手に向かって用いる一時の武器であるが、ペンは無限の時間にわたって無限の人に対して効果を発揮する武器であるということである。その意味では、公園などに設置された慰安婦の像は、日々多くの人に対して、冤罪である筈の日本の汚らしい性犯罪を宣伝する武器である。そのような武器を用いる国に対して、まともな応対をする必要など全くないと思う。

つまり、慰安婦の像は、緻密な秦郁彦氏の検証論文より遥かに力を発揮し、真実ではなく嘘を世界史の中に定着させるだろう。そしてそれは、我々の子孫を超えて幾世代にもわたって、世界中の無知な人達による日本人に向けられた蔑視の眼差しをつくり続けるだろう。

この世界に、特に政治の世界に、真実など残ってはいない。力と嘘がこの世界を作り上げ、歴史として定着したのだから。

そのように考えて、再度韓国との関係、更に日中韓の三国関係を綿密にたててもらいたいと思う。例えば、独立行政法人・日本近代史研究所のようなものを設立して、集中的に明治以降の歴史を検証し、世界に開かれた学会を毎年開くなどの地道な活動や、政府が表裏を含めて360度の方向から、世界に向けて慰安婦の実像に関するキャンペーンを張るなどの努力も必要だと考える。

補足:

1)姉妹都市である大阪市の橋下市長が、先月27日付けでサンフランシスコ市議会に、慎重な対応を求める公開書簡を送るなど日本側から懸念の声も上がっていた。
2)歴史家、岡田英弘氏の本(歴史とは何か;文春新書)によれば、 最古の歴史書である史記は、秦の始皇帝が正統な中国の皇帝であると嘘を交えて書いたものである。勿論、日本書紀も同様の書物である。

<以上は、理系人間の考えであり、専門的な知識に裏打ちされたものではありません。批判等歓迎します。>

2015年9月22日火曜日

翁長知事の琉球独立の意思:沖縄県民の意思を日本国民全体がもっと真剣に考えるとき

翁長知事が国連人権理事会で、沖縄が琉球国という独立国であったことに言及し、基地移設問題に関して、沖縄県民の自己決定権がないがしろにされていると演説した。ことここに至っては、沖縄県翁長知事とその周辺の真意を、日本国民全員が見極めるべき時であると思う。

最近の一連の翁長知事の行動は、琉球国として沖縄が独立すべきであるとの雰囲気を、沖縄県人に醸成する意図を持っていることを示している。それは地方自治の範囲を逸脱しており、看過すべきではない。

それ故、政府に辺野古での工事を強行させるのは、得策ではない。地政学的に重要な沖縄の地において、翁長知事に反日本政府の姿勢をこれ以上とらせるべきではない。それはやがて沖縄全体の反日姿勢へと醸成される可能性があるからである。

国連人権理事会で日本政府の代表者が、「日本政府にとって一番大切なことは、安全保障環境が悪化する中、国民の安全を守ることだ。辺野古への移設は米軍の存在による抑止力を維持し、住宅密集地にある普天間飛行場のリスクを取り除く唯一の道だ。今後も継続して理解を得られるよう説明する」と語ったという。それは従来通り辺野古での工事強行の姿勢を貫くつもりだろう。それは今となっては愚かな選択であり、政府の無能さを証明していると思う。

翁長知事の勝手な反日姿勢が、この問題を複雑化させているとこれまで感じてきた。しかし、この問題を最重要課題として取り上げる際、差し当たり知事の意見を正面から受け止めるべきであると思う。そして、沖縄県民が翁長知事の言う通りに米軍基地の島という負担に堪え兼ねているのなら、その負担は取り除く方法について再度議論が必要だ。

普天間飛行場の安全問題を解決することで、県民に差し当たり納得してもらえるのなら、例えば約一万戸の住宅を移設するなどの別途解決方法もあると思う。基地移設に必要な費用約4000億円があれば、それは可能な筈である。

私は、この基地移設には何らかの沖縄権益が政治家周辺にあるのではないかと疑っている。同様の問題が、オリンピック競技上の建設にもあったと疑っている。建設費の訳の分からない肥大化に対する十分な説明は無かったからである。

沖縄基地の件、政府はごり押ししかできないだろう。このまま強行すれば、取り返しがつかない事態になる可能性を恐れる。

そこで、再度この問題を沖縄県民とそれ以外の日本全国の住民とで考えることを提案する。つまり、日本国全体の住民が解決策を模索すれば、翁長知事とその周辺の本当の意図が見えてくる筈である。そして、それがどの程度沖縄県民の支持を得ているかも判るだろう。それまでの間の普天間基地の危険性は、運用のプランニング等で最小限にする様に米軍にも要請すれば良い。

もし、翁長知事の行動の根元にあるのが、沖縄県の琉球王国としての独立運動なら、そしてそれが沖縄県民に根源的欲求として根付いていないのなら、全く別の対応が必要になる。例えば、住民投票を行って県民の意思を問うとか、独立した場合の軍事的経済的危険性をシミュレーションして、沖縄県民に見てもらうなど、いろいろな案が出てくるだろう。

兎に角、沖縄県民と他府県の日本国民との共通の利益を、日本国民すべてが探すという姿勢で、再度この問題を考えるべきである。

2015年9月21日月曜日

世論調査に関するいくつかの疑問

安全保障関連法案が通り、それに対する賛否や、参議院等で審議が十分だったかどうか等についての世論調査(共同通信社)が新聞等に掲載されている。今朝の中日新聞一面にも世論調査の結果が掲載されており、その結果、審議が不足だったというのが79%であり、圧倒的だった。

更に、安保関連法案成立(注1)で、自衛隊が戦争に巻き込まれるリスクが「高くなる」は68%、変わらないは27.1%;安保関連法案に賛成は、34.1%で反対は、53%である。一面記事は調査結果のみであるが、2面で調査の詳細と野党の意見などを紹介している。

ところで、この種の世論調査にどの程度の意味があるのだろうか? 

我々が以下の冷厳なる事実を考えなければならない。先ず、政治特に昨今の国際政治は、情報量もインテリジェンスに属する部分を含めて多く、そのダイナミックスは複雑であり、それを材料に国家の方向を決めるのはまさに専門家の仕事であるということである。

その専門家の仕事に対して、全くの素人が準備不十分のままに、 “感じ”でアンケートに答えて、それが実際の政治に反映されることは良いことか?全く疑問である。世論を沸き立たせて政治の主導権をとろうとしたのが、ドイツのヒトラーなど全体主義者たちである。従って、世論調査を繰り返し、世論を誘導するような行為は厳しく慎まなければならない。

間接民主制における世論調査は、政権に対する信任か不信任かの調査で十分である。具体的政策に対する世論調査は、本来不要な筈である。行うのなら、政治家が参考にするためだけに行い、結果は国民に知らせるべきではないのではないか。

具体的な政策に対する世論調査を行い、それを公表し、政権与党を批判する材料にするのは、政治を国民が直接動かすことにつながり、間接民主主義の原則に違反すると思う。法令にも憲法にも反対なら、次回選挙で多数を獲得して、改訂すれば良い。それが民主主義というものだ。

過半数の議員が法令を改訂しようとしているのに、物理的に妨害するという今回の野党の行動は、間違っている。国会の衛士たちが、あのような事態を力で防止する様に、もっとしっかり教育すべきである。

しっかりと説得すべきというが、説得されたという感覚は主観的なものである。今回のケースでは、民主党などはいくら説明を繰り返しても、説明不十分だというに決まっている。代案がないのだから。

補足:

1)中日新聞では、安保法案と書いている。これは誤解をまねく。正しく安全保障関連法案というべきである。

2015年9月20日日曜日

若者の反安保関連法反対運動:ある女性研究者の誤解?

1)中日新聞の視座というカラム(2015/9/20)に女性社会学者のKさんが、”「戦争反対」が意味するもの”と題して、SEELDSなどの若者の政治活動について書いている。要約すれば、経済的な構造変化により、貧困化と差別化が進む社会になり、そのような環境に育った「若者たちが反対している「戦争」は、安保法制が示唆する海外での武力行使の可能性にとどまらない。背景にあるのは今ここにある「生存」を、軽視する社会に対する強い抗議ではないか」(「 」内は原文のまま)ということになる。

中日新聞の視座というカラム(2015/9/20)に女性社会学者のKさんが、”「戦争反対」が意味するもの”と題して、SEELDSなどの若者の政治活動について書いている。要約すれば、経済的な構造変化により、貧困化と差別化が進む社会になり、そのような環境に育った「若者たちが反対している「戦争」は、安保法制が示唆する海外での武力行使の可能性にとどまらない。背景にあるのは今ここにある「生存」を、軽視する社会に対する強い抗議ではないか」(「 」内は原文のまま)ということになる。

この文章を観て、SEELDSの若者はなんと言うだろうか。恐らく、自分たちの政治的活動に対する侮辱であると言うだろう。なぜなら、自分たちや親たちの生存に対する“社会の軽視”を、安保関連法反対という形で社会の代表たる政府に反発しているのだと、筆者は書いているからである。

おそらくこの考えはSEELDSなどの若者から聞いたのではなく、自分の持論を展開しただけだろう。SEELDSの安保法制反対のデモは、主張の是非はともかく、純粋に政治的運動だろう。その真面目な運動が理解出来ないために、自分の得意な社会学の分野に無理矢理引き込んだような文章だと思う。そして、SEELDSのデモは、電気店に行っておもちゃがないと文句を言っているようなレベルのものだと決めつけているのだろう。新聞社はもっとまともなものを載せたらどうかと、言いたい。

2)Kさんはウィキペディアに掲載されている関西学院大学准教授の40歳に未だ数年ある女性研究者である。経歴の割に相当なスピード出世である。社会学が専攻だということだから、政治や経済には一定の知識があるはずの方である。それにも拘らず、このような文章を新聞に載せられたことは、非常に残念である。

女性の地位向上と女性の社会進出はこれからの日本の発展には、大事なプロセスである。そのために、現在の社会は安易に女性を登用するのではなく、男性の壁を自力で打ち破る位の女性を育てることが最も大切であると思う。

男性社会とはいっても、昔から、能力のある女性を歓迎してきたと思う。結婚による家事の負担増や育児の時間などのハンディをなくすように社会がなれば、あとは女性が活躍するうえで現状何の障害もないと思う。むしろ、男性よりも能力的に劣る女性が男性に代わって地位を得ることで、社会の活動度が減少する傾向に既にあるのではないかと思う(補足1)。

3)ところで、わが国における経済構造の変化について若干考える。経済のグローバル化により、製造業は海外流出するか、国内に残る場合はコストを削減するかの選択を迫られている。その結果、平均の労働賃金は低下する。平均としての賃金低下は、中流層と下流層という形で労働階級を相分離させるように働いたのである。つまり、国家の労働階級全体が貧しくなったのが、第一の原因であり、それを政治が完全に埋め合わせることは不可能である。

それを埋め合わせるのは労働の質の向上である。つまり、新商品を開発する発想力や新技術の研究開発能力、新しくGDPに寄与する分野を創造する発想力(補足2)などを、社会が獲得することにかかっている。つまり、教育制度の改善(補足3)と人的資源開発、更には、年齢差別や形式的な身分や地位の廃止(フラットな人事構成)などに向けて努力すること、また同時に、能力を正当に評価する文化の醸成などにかかっている。

すべての不満を政治にぶつけるのは根本的に間違っている。

補足:

1)日本の理化学分野を例にとると、経験から、学会や周囲を見渡して、男性研究者の平均的業績よりも女性研究者のそれが勝っているとは決して言えない状況だった。つまり、登用において女性を優遇すれば、研究者の質が低下することになる。

2)地方創生を中央で考えていては新しい発想は生まれない。GDPは北海道から沖縄までの国内生産の総和であるから、それぞれの地方の特徴を生かした産業創生が肝心である。それには、道州制が最もふさわしい。多くは東大の勉強家たちが出身の中央官僚の発想では、たかが知れているのだ。

3)貧しい家庭の出身で優秀なものには、枠を決めて大学院までの学費を無料にするなどの工夫。大学の質の向上と多様な人材交流のために、同一大学からの教員採用を禁止するなどの措置が望まれる。

時事放談感想

安保関連法案が通ったので、久しぶりに時事放談を観た。ゲストは石破茂さんと藤井裕久さんである。

1)石破さんの考えは、戦争になる危険性は軍事バランスが崩れたときに高まる。東アジアでは中国の軍事力が高まり、現在は日本に手を出すという意図はないが、日米の同盟強化は軍事バランスを保つことで事前に紛争を防ぐことに役立つ。安保関連法の問題には、国の独立が如何に大事かということ、それに対する脅威が増しているかどうかということ、憲法との関連などの側面があり、すべての議論が大事。

国連は万能ではないので、国連が機能するまでに国連自身が個別的及び集団的自衛権の行使を認めている。そして、集団的自衛権は世界すべての国が固有の権利としてもっている。民主党がそれを危険なものだと思うのなら、次回に政権をとった時、国連で集団的自衛権削除を主張すれば良い。惨憺たる結果に終わることを知っているから、そんなことしないだろう。国内向けと国外向けで意見を換えるようなことはいけないと思う。

2)藤井さんの意見は、先ず、大多数の世論が反対の時に、強行するのはけしからんと思う。集団的自衛権とは対等な軍事同盟であり、それが原因で第一次世界大戦がおこった。確かに一国では平和を築くことはできないが、同盟は戦争の可能性が増すので危険である。やはり、安保理の拡大などを目指して、国際連合を育てる努力が大事である。

今回の安保関連法が出てきた背景として、中国の肥大化、米国は世界から出来るだけ手を引きたい、そして安倍さんの偏った歴史観がある。

3)少し比較をしてみる。最初に、安倍さんの歴史観が偏っているという藤井さんの意見は、自民党に対する侮辱的発言だと思う。それについて石破さんの反論が無かったのは意外であるし、何を考えていたのか解らない。また、藤井さんの国連重視の姿勢はアナクロ的であると思う。勿論強力で権威ある国連を育てられれば、それにこしたことはない。しかし、国連があまり役立たないことを、戦後の70年間の世界史が実証してきたような気がする。

それ以外の点は、要するに二人は、夫々異なった局面を想定して、夫々について正しいことを喋っておられるのだろう。

つまり、藤井さんには現在の日本政府が脅威を感じて中国を注視しているという感覚がないが、石破さんにはそれがあるということである。現在及び将来に亘って、日本国が脅威と把握すべきことについての認識の違いが、二人の間に大きな溝をつくっているということである。その認識に於ける差は、二人が持つ情報の差と感覚の差が主な原因として生じるのだろう。その違いを議論しなければ、対談にもなにもならない。安保関連法の話の後は、政局の話であるので、省略する。

2015年9月19日土曜日

田瀬さんと御厨さんの対談について=週刊ニュース新書感想

今回の安保法案について、御厨さんは集団的自衛権行使にはすべて反対というわけではないが、それを可能にするには憲法改正が先であるべきといっている。しかし同時に、安倍さんが法案を急いだのは、この時期しか法改正は無理だと考えたからだろうと発言している。

これは明らかに矛盾している(補足1)。なぜなら憲法改正の方が困難な仕事だからである。憲法の方が先だというこの論理は、民主党と似ている。民主党は憲法改正には反対だろうから、この安保法案反対の理由も国民に対するごまかしである(補足2)。

国際政治環境の変化が急であり、集団的自衛権行使が出来るような法整備が必要なら、憲法の件とは独立して審議し、賛否の意見を明らかにすべきである。 それに、集団的自衛権は国連憲章51条で明確に認められ、国連加盟の段階で日本も認めているのだから。

田瀬さんの戦争をしない国から、戦後70年たって初めて戦争のできる国になった、と今回の安保法案に言及しているが、これは誤解を招く(補足3)。これまでも自衛の戦争ができる国であったからである。今回の法では、集団として自衛戦争を戦うことが出来る様になったのである。

つまり、自衛の戦いのある段階で、例えば、敵国が米国を攻撃している場面でも、敵国を日本国が攻撃できる。戦争を全体としてとらえるのなら、集団的自衛権がなければ、日米同盟でスクラムを組んで敵対国と戦うことは不可能である。自衛戦争が合憲なら、なぜ集団的自衛戦争が違憲なのかわからない。

アベノミクスの評価にかんして、地方の中小企業までには効果が至っていないと、マイナス評価の理由を挙げている。日銀のマネタリーベース増加に対して、田瀬さんは金を使ってと表現しているが、それは間違いである。日銀の金は国債などの購入に使われていて、資産となって残っている(補足4)。

日銀がやっていることは、マネタリーベースの増加からマネーストックの増加を目指したのであり、それはある程度成功している。ただ、幕引きはむつかしいのは事実だが、あの1ドル80円の状況を放置すれば、今よりはるかに悲惨なことになっていただろう。

補足:

1)「集団的自衛権には全く反対という訳ではないが、憲法改正が先であるべき。しかし憲法改正は不可能だろう。」という意見は結局、「日本が持たなくても良い」という考えであることを示している。それなら、明確にそう発言するのが、政治評論家の義務だろう。ここの矛盾という表現は不十分なので、補足します。

2)「憲法改正して、関連法案を議論するのが筋だ」といいながら、「憲法改正には反対だ」というのなら、集団的自衛権は不要だという議論をしなければならない。違憲だという議論に終始したのは、この議論をしたくないからであり、国民に対する背任行為である。

3)このようなことをテレビでこの種の番組を担当している者がいうから、デモで「戦争させない」というようなプラカードを出すのだ。田瀬さん!個別的自衛権を行使できるということは、自衛の戦争をするということではなかったのですか?

4)安倍さんが憎いと言っても、このようなグレイ領域の嘘をつくのは言論人にふさわしくない。勿論、「金を使って、資産を購入することを含めている」という言い訳は可能だが、正しく「お金の流通量を何倍にも増やす」と何故言えないのか。

(同日18:50補足修正)

2015年9月17日木曜日

集団的自衛権の問題:民主党の欺瞞と自民党の怠慢

安保関連10法案の審議採決が参議院で行われている。国会の内外は、気が狂った様な反対運動が展開されている。しかし、この件、前の衆議院選挙の時に既に議論になっていると、時事通信の田崎史郎氏が今朝も言っていた。 http://www.sankei.com/politics/news/141130/plt1411300026-n1.html いまになって、そんなに熱くなって禅問答的反論をしたり、鴻池氏の委員長室を物理的にブロックしたりするなんて、馬鹿げている。選挙を意識したパーフォーマンスを、重要法案を人質にとってする野党の連中の反日姿勢にはうんざりだ。

ただし、集団的自衛権行使を可能にする法案に問題が無いかと言えば、たくさんあるだろう。第一に憲法との整合性が問題なのは言うまでもない。憲法との整合性が最優先なら、この法案よりも憲法改正を行うべきである。しかし、集団的自衛権行使を可能にする法改正でもこれだけ反対が多いのだから、現状では出来る筈はない。従って、その挑戦は最優先ではなく、国際政治環境の急激な変化に差し当たり対応することが最優先だと与党は主張しているのである。法は国民の利益を確保するためにあるのであり、それに手足を縛られて重大な損害を得る可能性がある場合は、緊急非難的に特別法で乗り切ることは当然であると考える。“憲法9条は守りましたが、国は滅びました”は、法律の正しい運用である筈がない(補足1)。国会前のデモに参加している憲法学者たちに、是非この考えをどう思うか答えてもらいたいものだ。

自衛隊と個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だという複雑な憲法解釈は、自衛隊を創設するために自民党政府が用いたごまかしだったと思う。つまり、自衛隊とそれを用いた個別的自衛権行使は、憲法9条を一歩超えているのだが、その外にもう一線ひいて、個別的自衛権までの行使であれば、憲法13条があるから合憲なのだと言って、急場を乗り切ったのである。その後始末をこれまでしなかったのは、自民党政治家の無責任の所為だと思う。

国連憲章51条に、加盟国は個別的自衛権と集団的自衛権を用いて、他国の武力攻撃に対処できると明記されている。また、日米安全保障条約の前文にそれを引用して、“両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、(中略)次の通り協定する”と書かれている。つまり、日本国は既に集団的自衛権を認めているのである。その集団的自衛権という言葉に、潜在的というような言葉はついていない。権利があるけど使えないなどというのは、これも、誤摩化しである。「生存権はあるが、現在その権利は主張できない」という言葉に意味があるとしたら、死後復活が可能な神の世界においてだけである。

民主党が今回の法案が、超えてはならない一線を超えるようなことを言っているが、それは自分たちと選挙民の両方を誤摩化していると思う。もし、自衛軍と個別的自衛権行使に反対なら、そのように主張し、自衛隊の廃止を提案すべきである。否、今までにその提案をしてこなかったことは、既に賛成を表明していることになる筈である。従って、今回その具体的手続きとしての自衛隊法やPKO協力法などの改正を行うことに、何故今になって反対するのか解らない。

議事堂の前の一般市民は、日本が既に受け入れている国連憲章も日米安全保障条約も詳細に読んでいないので、今回の法案で初めて日本国が集団的自衛権を確認し主張するものと考えているかもしれない。そのような人たちを巻き込んで、自分たちの反対の輪に組み入れるのは卑怯である。今回の法改正は、単に出来ていなかった準備を行うたぐいのものである。

憲法は、米国の占領が終わった時点で改正するのが適当だっただろうが、どういう訳かやらなかった。冷戦時代に、ベトナム戦争などに参加しないですんだのは、憲法をかえなかった一つの良い効果だっただろう。冷戦が終わり平成の時代になって、直ちに改正をすべきであったが、自民党の力も落ち短期政権の連続で出来なかったのだろう。冷戦終結前だが、中曽根さんの時代が最後のチャンスだったかもしれない。ロンの信頼が本当に篤かったのなら、ヤスは憲法改正できた筈だ。今となっては、どこかから爆弾の一発くらい落ちないと、国民の目が覚めないだろう。

補足: 1)これに対しては、反日政党はそのような脅威などどこにあるのか、言ってもらいたいと居直るだろう。そこで、中国は重要な脅威であり、それへの対応のための準備が緊急課題である、とは外交上言えない。政権担当者は無責任野党と違って、インテリジェンスまで国民に明らかには出来ないだろう。

知的能力(知性)とは何か

人間の知的能力には多くの面があるが、それらは、1。記憶力、2。論理・分析力、3。想像力、4。直感力、5。空間的時間的感覚、6。美的感覚、などだろう(補足1)。知的能力は、生命体としての能力の一つであり、従って生命力の一側面であると思う。

これらも更に何種類かの能力に細分されるだろう(補足2)。つまり、知的能力は”多次元のベクトル空間(補足3)を張る”とでも言えるだろう。上記6つの側面は思いつくままにリストアップしたまでであり、他にもいろんな組の捉え方があるだろう。

6番目に美的感覚と書いたが、これは、生命力と知的能力の境界に位置する重要な能力であり、人を人たらしめる能力だろう。ただ、生命体固有の能力の部分と、文化により調整される部分を持つ。

知的能力の内、そのエネルギーは体液循環により与えられ、情報収集は感覚器と神経系、更に脳の記憶領域からの引き出しにより行われる。それらの処理と最終的な出力すべき情報の組み立てなどは、主に頭脳が担当する。

人は、生命維持(社会の維持も当然含まれる)と再生産を能率的に行う為に、様々な能力を持っている。知的能力は、その行動の指針を得るための能力である。

知的能力は、自分自身と他の生命体(社会も含む)、そして自然などの周囲・環境と、それらの運動や変遷などを理解し、それらに働きかけるための作戦を立てる能力である(補足4)。それらを実行する能力として、四肢を使った運動能力、あるいは、目や耳などの感覚器を使った状況把握能力、更に顔の表情と口舌を使った対話・説得能力などが付け加わる。これらすべてが総合されて、人間の能力を成す(補足5)。

今後、このブログを書くための準備として、この文章を書いた。このような考察は、哲学(philosophy= 知を愛する)の内どの学問分野に属するのか解らないが、筆者は素人である。プロの方がおられたなら、コメントを歓迎します。

補足:

1)知的能力を鍛えるのが学校であり、途中の成果を試験するのが大学入試だとすると、それらの現状が如何に不完全であるか解るだろう。特に入試では、主に最初の二つの能力をテストするに過ぎない。
2)記憶にも、図形・パターンの記憶、事実の記憶、論理の記憶、概念の記憶、感覚の記憶などがある。更に、記憶場所によって長期記憶と短期記憶に分類される場合もある。論理の記憶は、論理展開の能力と重なる部分である。このことで解る様に、知的能力はある種の多次元空間での信号伝達能率と有用情報抽出能力とでも言える。
3)ベクトルとは長さと方向を持った量であり、矢を思い浮かべれば理解できる。我々が生きる物理的空間は、x軸、y軸、z軸の3つの方向があるので、3次元ベクトル空間といえる。
4)自分自身に働きかける行為として、学習や休息・娯楽も含まれる。
5) これらの考えを理解するには、コンピュータを想像すると良い。頭脳は、CPUと記憶装置、更にそれに組み込まれたソフトで構成される。コンピュータは人間の頭を参考にして作られたのだろう。

2015年9月16日水曜日

安保法制で揺れる国会とその周辺

我国の安全に対する重大な脅威となる他国の軍事行動を、同盟国と集団となって阻止することを可能にする法律改正案が、参議院で議論されている。野党はこの集団的自衛権行使が憲法違反であるとする従来の解釈から、廃案を目指している。更に、国民の一部もデモなどで反対の意志を表明している。

与党と野党の議論は全くかみ合っていない。与党は最近の国際環境の変化を理由に、その必要性を法案提案の理由としているが、野党は憲法との整合性を理由に反対している。自衛隊(自衛軍)を持ち、自衛の戦争を行う権利を合憲としている、従来の(憲法9条と憲法13条)憲法解釈を認めるのなら、何故今回の安保法制に反対するのか、私は今ひとつ理解に苦しむ。憲法学者たちの過半数は、自衛隊すら憲法違反だといっているのだから、彼らは現時点で出る幕はない。

つまり、核兵器を持つ周辺のある国が軍事行動をした場合、自衛隊のみでは対処できないのは明らかである。その場合、“自衛隊と米軍が日本国の自衛戦争において集団的に行動する”という今回の方向は、自衛戦争及び自衛隊が憲法9条の例外規定となるという(憲法13条による)従来解釈を前提にすれば、不自然ではない。

一部国民のデモで用いられているプラカードをみると、「憲法9条を壊すな」、「戦争させない」、「戦争法案反対」などと書かれたものが圧倒的に多い。しかし、憲法9条の解釈を変えるという話は国会ではされていない。また、戦争をしないとは野党も言っていない。つまり、デモ隊のプラカードは野党の考えにも一致していない。自衛戦争を可能だとする従来の憲法解釈をも否定するものである。

野党の主張の主な点は、「自衛隊の集団的自衛行動が、日本の自衛の範囲を超える可能性があるのではないか?」という理由から、集団的自衛権行使そのものを否定している。

野党の考えは日本国のためにならないのは、以下のような喩え話で考えるとわかりやすい。

近くで自宅に侵入することを狙っていると思われる強盗らしき人間がいる。そこへピストルを持つ警官が駆けつけて強盗と対峙している時、後ろにもう一人強盗が現れて、背後からナイフで警官に斬りかかろうとしている。そのとき、野党の考え方をとれば、自分が現時点ではたとえ強盗の脅威の下に無いとしても、こん棒を用いて警官の背後の強盗に殴りかかる行為(集団的自衛権行使)は、自衛のための武力行使にあたらないことになる。 

野党は憲法に違反するといって反対する。なぜなら、強盗が明白に自宅に侵入して自分に危害を加えるかどうかは現時点では”物理的に”明白とはいいがたいこと。更に、警官を襲おうとしている強盗がこちらに向き代わって、自分が襲われるかどうかわからないからである。

デモを行っている民衆の考えは、プラカードの内容から考えて全く的外れに思える。しかし、野党はデモをする民衆の応援をし、彼ら民衆側からSEALDsの代表を選び公聴会に呼んで協力を得ているので、本音はデモをする民衆と同じだと思われる。

2015年9月15日火曜日

生活保護費と医療費はクレジット支払いにすべき

貧困ビジネスという言葉が話題になってから久しい。例えば、生活保護費をとる手助けを例えば路上生活者などに行い、その生活保護費を言わば横取りする悪徳業者が問題になっている。http://matome.naver.jp/odai/2133777889336820501 その一方、本来生活維持に使うべき大切なお金を、支給日からパチンコ屋で浪費する姿がテレビ等で放送されている。

更に、低い年金をやりくりして、頑張っている層に多数の国民がいる。彼らより高額の生活保護費に疑問を持つ人も多いだろう。

このような問題を解決し、更に、制度のあり方を考える上で重要なデータを得ることが可能な、生活保護費のクレジット支払いの制度を導入したらどうだろうか。つまり、生活保護者に特別なクレジットカードを支給するのである。もちろん、一定以上の額は使えないし、残額はクレジットカードとペアで開設された銀行口座に残る。ただし、保護者がこの口座から現金を引き出すことは出来ない。

そのクレジットカードが利用できる場所が限られるのは、一般のクレジットカードと同様である。例えば、遊興施設ではそのクレジットは使えない様にすれば良いだろう(補足1)。

その結果上に引用した様な、生活保護者の面倒をみる振りをして、業者と組んだ病院に通院させ薬漬けにして、生活保護費と医療費の両方から公金を奪い取るなどの、悪徳貧困ビジネスも追放できるだろう。

病院での支払いをクレジットにする方法は、一般の患者にも用いるべきである。検査項目や投薬量などのデータがクレジット会社を経て収集でき、過剰医療の防止が可能になる(補足2)。更に、それと同期する形で、病院間での診断データの共有も、例えばクラウドコンピューティング(補足3)を用いて行い、多くの診療機関で有効利用するのである。

もちろん、病院間の診療データの共有は、秋から始まる国民総背番号制度を利用すれば、クレジット支払いを用いなくても、比較的簡単に出来るだろう。

それにしても、国民総背番号制とは嫌な命名である。北米の様に社会保険番号(Social Insurance number)と呼び、上記のように国民の生活を守る制度にしたらどうだろう。

2)生活保護費のクレジット支払いの制度に対して、野党はプライバシーの侵害になるとして、反対するだろう。日本ではプライバシーという言葉に特別の意味をかぶせている様に見える。ちょうど、平和とか憲法とかいう言葉と同様に、まるで水戸黄門の印籠の様に反対派は持ち出す。それは間違いである。(補足4)

また、医療データの一括管理には医師会が猛反発するだろう。過剰医療が彼ら開業医の多額の収入を支える柱だからである。しかし、医療費の削減は今後の国家の重要課題である。医学部の定員を減らす方法で、削減しようというのは、非常に姑息な方法である。

医者は大勢の方が良い。医学部で学んで、民間企業などで医薬品や新規医療器具の開発などに進む人も必要だからである。自由な人材の流れは、経済社会に活気をもたらすはずである。

補足:

1) 一定の額まで利用可能にすることも出来る。

2) この場合一部例外があるとしても、病院でのすべての患者すべての診療をクレジット支払いにする。この場合も特別のクレジットカードを全国民に持たせるのが良いかもしれない。

3) 病院はすべてクラウドコンピューティングでは、データをパソコン中ではなく、大きなネット会社のサーバーに保存する方法である。厚労省にサーバーを設置する方法もあるだろう。

4) 普通の市民も、100%の個人情報秘匿は出来ない。個人情報という言葉が社会に登場した時には、部分的な公開に停め、全部公開するのは問題があるという風に使われたと記憶する。
 犯罪人でもなければ、例えば地域社会で自分が全く謎の人間として存在するのは非常に寂しいことではないだろうか。

2015年9月13日日曜日

開戦16年前に出版された太平洋戦争の正確なシミュレーションと日本の反応

井沢元彦著「なぜ日本人は最悪の事態を想定できないかー新・言霊論」を読んでいて、大正時代に出版されていた太平洋戦争の正確な予言(イギリス人バイウォーターによる)とそれに対する日本の反応に関する記述に出会った。世界大恐慌はまだ5年先、ロンドン軍縮会議も満州事変よりも前に、太平洋戦争をそのプロセスから結果までほとんど正確にシミュレーションした本がイギリス人専門家により発表出版されていたのである。

中国権益で対立した米国と日本は戦争になること、日本の米軍基地奇襲で戦争が始まり、最初戦局は日本優位に進むが、やがて逆転し、ソ連も参戦して樺太などを占領する。いくつかの海戦からグアム島などを米軍が占領し、東京空襲を経て日本の敗戦で戦争は終わる。奇襲がハワイでなくフィリピンと記述されていたなどの違いはあるものの、その本は戦争の開始から終了までのプロセスを正しくシミュレーションしていた。(補足1) これだけなら、世界は広いので戦争を予言し、そのプロセスを事前に当てる人もいるだろうで、話はすむ。しかし、1。本の全訳は、海軍少佐の石丸藤太という人により直ちになされ、それに対する批判的コメントとともに「バイウォーター太平洋戦争と其の批判」(大正15年、文明協会刊)として出版された。そして、それは軍を始め中枢により広く読まれた。 日本国は、その本から少も学ぶことができず、2。戦争が予言通りに進み悲惨な敗戦に終わった。それにも拘らず、3。現在の日本でその事実を知る人がほとんどいないのである。この以上3点が現実に起こりえたことは驚くべきことである。井沢氏は、この現象を言霊信仰によるとしている。 日本では不愉快な予測を突きつけられると、それを論理的に検証しても発表ができない空気がある。そして、激しく反発する意見が歓迎されて、広く空気にのって伝搬し、日本を破滅へと導くのである。それは、「米国に日本は負ける」と言えば、それが其の通りになると言霊信仰の日本人は思うからである。その悲惨な結果は、自然災害のように、沈黙とともに水に流されるのである。水に流されたのだから、現代人はほとんど知らないのである。 受験生を抱える家庭では、雨粒でも落ちると言ってはいけないし、結婚式ではスタートのテープを切ると言ってはいけない。そのように言えば、受験生は落ちるし、夫婦の縁は遠からず切れると信じているからである。当事者にそう指摘すれば、「信じてはいないけど、縁起が悪いから言わないのだ」と訳のわからない否定をするだろう。空気の支配と言霊信仰は、現象とそのメカニズムの違いがあるだけで、同根なのだろう。 補足: (1)ウィキペディアから抜粋し少し補足すれば、ヘクター・C・バイウォーターは1921年『太平洋におけるシーパワー:米日の海洋問題の研究』において、大日本帝国とアメリカ合衆国との海洋上の紛争を予測し、1925年に上に記した本『太平洋戦争:日米関係未来記』(英語:The Great Pacific War)を発表した。同書でバイウオーターは、決戦時の日本の行動やアメリカ合衆国のアイランドホッピングを含め、日本とアメリカの多くの行動を正しく予測した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘクター・C・バイウォーター)

言葉と定義:国際社会における誤解とその利用

1)言葉は、多くの単語が体系をなして一つの世界をなしている。つまり、一つの単語は、他の単語を用いて定義されて、全体としては一つの閉じた世界を作っているのである。その言葉を用いるものは、自分の頭の中にその言葉が作っている世界を持っている。

例えば動物という言葉(単語)は、広辞苑第二版によると「植物と共に生物を構成する二大区分の一」と定義される。動物は単に動く物ではなく(自動車は動物に入らない)、植物と生物という言葉を用いて定義されるのである。更に、「構成する」とか「区分」などの言葉も同様に他の言葉で定義される。このような定義を繰り返せば、一つの閉じた”言語空間”、つまり、一つの世界をつくる。

対話とは、二人の人間が同じ”言葉の世界”で、言葉の伝達という形で行う意志の伝達である。有効(円滑)な対話には、相手の確認、各自が持つ言葉の世界の同一性(近似性)の確認、そして対話の“前提”の確認が、夫々必要である。会談は、言葉の世界における互いの差の確認、立場の差の確認、それらの調整、などにほとんどの時間を費やす(補足1)。

誤解は、上記確認が間違ってなされる場合に生じる。上記確認は完全に独立していないので、どの確認に間違いがあり話が通じなかったと明確に示せない場合も多い。よくあるケースは、相手の確認と共通の前提の確立をいいかげんにしてしまった場合の誤解である。例えば、自分が配偶者と話をしているつもりでも、配偶者は話の内容によっては、一人の独立した人間としての立場をとる(配偶者であるという前提をとらない)場合もある。其の場合は、話は食い違ってくるだろう。

更に厄介なのは、言葉の世界に違いがある場合である。ここでは悪意(これも定義が必要だが)を片方が持つ場合は想定していないし、外国語を話す人と互いに母国語で話す場合、理想的な通訳の存在を前提としている。それでも言葉の世界に違いがある場合、話が通じない。誤解の解消は、非常に困難な場合が多い。

2)言葉の世界の違いは、単語の定義から存在する。例えば、“国家”という言葉さえ、人により定義が異なる。金曜日(2015/9/11)のBSフジのプライムニュースに出席したホン・ヒョン(洪熒)氏は、中国要人が持っている可能性が高い中華思想には、国境という概念が存在しないと指摘した。つまり、中国人の頭の中の“中国”は、明確な国境を想定しておらず、従って近代国家を意味していないということである。

そして、中国の人々は、国籍と関係なく中国出身の人はすべて“中国人”と理解しているようである。移民先に中華街を作って、そこをまるで中国の飛び地と考えているかもしれない。以前、張景子さん(出自は、朝鮮系中国人)が日本国籍をとった理由を問われて、「その方が便利だったから」(補足2)と話していたのを思い出す。国籍という言葉の定義は、中国人と日本人では異なることを示している。

United Nationsを国際連合と訳したため、日本と諸外国とで国連に対する定義が相当異なるらしい。その誤解があるため、日本が世界第二の国連拠出金を負担しても、国連が反日姿勢を明確にする場合がある。先日中国が開催した抗日勝利70周年記念式典とそこでの軍事パレードに、潘基文国連事務総長が出席した。それに対して、菅官房長官が懸念を示した件である。http://www.sankei.com/politics/news/150907/plt1509070033-n1.html

国連トップが、一方の国が他の国との戦争に勝利したことを記念する軍事パレードに参加したことに対して、「国連は加盟国間の問題については中立であるべきだ」と菅官房長官が非難したのだが、それに対して、潘基文氏は「中立ではなく、正義の立場から参加した」と反論した。

これは、過去の既に講和条約などで清算した関係であっても、そしてまた両国が同じ国連加盟国であっても、”正義の中国と邪悪な日本”という過去の構図は現在も生きていると、国連事務総長が決めつけたことを意味する。更に、抗日戦争に勝利したのは、中華民国ではなく、毛沢東率いる中華人民共和国であるという主張を、国連事務総長が認めたことになる。

仮に中国の周近平主席が、抗日戦争に勝利したのは中国の人民であることには変わらないと主張するのなら、それは、戦った相手は日本国民ということを意味する。国家間の戦争という近代の考え方ではなく、この”民族と民族の戦い”という考え方を採用すると、講和は永遠にあり得ないことになりかねない。日中平和友好条約締結時に、中国国民も日本国民も、軍国主義者の率いた日本帝国の被害者であるとの中国要人の声明は、嘘だったということになる。

兎に角、潘基文国連事務総長の今回の行動に対して明確に抗議し、場合によっては国連への拠出金を半減する程度のことはすべきである(補足3)。それにしても何故、菅官房長官は懸念を表明するという表現を用いるのか? 英語に訳すると関心がある(serious concern)程度の意味になり、あまり非難したことにならないと思う。

3)日本人が自衛隊という言葉を話したなら、英語ならself defense forceと訳される。それを、再度日本語に翻訳すると自衛軍となる。このように翻訳を往復で行って意味が異なる場合、両者の定義はことなる。この単語の定義をこのままにしていては、話が通じない(補足4)。

自衛隊という言葉は、新しく作られて言葉であり、それを作った側に緊急避難的な意図があったと思う。つまり、現行憲法下で軍隊を持つ必要があったということである。憲法を変えられなかったのは、その言葉には特別の言霊(補足5)が宿っていて、改正不可能になっていたからである。

緊急避難的な言葉は、短期間で廃止しなければならないが、戦後長期政権を担った自民党の総理大臣がすべて政治屋だったため(つまり命をかける程の決意がなかったため)、現在も放置されたままである。その結果、自衛隊という言葉が根付いてしまい、国家の防衛を議論する際にも、自衛隊員の身の安全が事細かに議論されることになる(補足6)。

日本人の言葉は、時代により状況により大きく変化する。例えば、命という言葉の重みは昭和初期に一銭五厘の紙程度に軽くなり、戦後無限大に発散したのち、現在も地球より重い。地球より重い命が、介護施設で、深夜の商店街で、祭りの帰りの夜道で、失われているのにも拘らずである。もし、命が地球より重いのなら、地球など瞬間的に蒸発してなくなっているはずである。つまり、“命は地球より重い”という文章がそのまま受け入れられるほど、”命”に宿っている言霊は強く重いということである(補足7)。

その日本で病的に高まっている命という言葉の重さを利用して、民主党などは安保法制などにおいて反日姿勢をとっている。上記中国的な言葉の世界を採用すれば、彼らの多くは本当は日本人ではなく、他国の利益を代表しているのではないかと思う。

補足:

1) このような会話のプロセスは、プログラムを組んで電子計算機で計算するプロセスに似ている。実体験として、電子計算機は非常に頑固な対話の相手のように感じた。ほとんどの時間はプログラムミスの修正(つまり、こちらが言葉や立場を相手に合わす)に費やされた。

2) 日本国のパスポートの方が諸外国に自由に出入りできて便利だと言っておられたと記憶する。

3)  潘基文氏が、自分が国連事務総長なのか韓国代表なのか自分でも立場を特定できていないのであれば、国連が今回の発言に対してある程度の措置をとるべきである。

4) 日本の最高裁判所の判事や政府要人と米国人とは、自衛隊と憲法の関係についての話は通じない。憲法9条第2項は、一切の戦力保持を禁止しているからである。

5) 憲法改正する日本の動きに対して、諸外国は歴史修正主義の非難を浴びせるだろう。執拗な隣国や諸外国は、日本から憲法を変える自由さえ奪おうとしている。また、国民もそれらの国の意図に賛成している人たちのプロパガンダにより、重い言霊を感じる様になってしまった。言霊=>沈黙の文化(2)参照。

6) 日本で命の安全な職業としてランキングをとれば、自衛隊員はコンビニ店員、警察官、更には、タクシー運転手などよりも遥かに安全な職業だろう。多くの国際的な企業の職員は、例えばアルジェリア人質事件に巻き込まれた日揮の職員の例にある様に、自衛隊員よりも危険な職業かもしれない。

7)  ”白髪千丈”の様に、日本も中国も言葉が大げさというか、いい加減に用いらる。

2015年9月9日水曜日

潘基文国連事務総長は北朝鮮を軟着陸させる努力をすべき

トルコを経由してギリシャに向ったシリア難民の小舟が転覆し、トルコ側に漂着した3歳児の写真が衝撃を伴って、世界中に伝搬した。また、シリアやアフリカの政情不安の国々からヨーロッパを目指す難民の船が難破するニュースが連日報道されている。ヨーロッパはギリシャ危機以上の難問を抱えることになった。大勢の難民を受入れるドイツでは、今後賛否両論とどれだけどの地方が受入れるかで国が揺れる事態になるかもしれない。

同様の問題が東アジアでも起こる可能性がある。朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の政情が不安定になれば、韓国、日本、中国に大勢の難民が押し寄せることになるだろう。難民として国を出るのは命懸けであり、それは国に残るのも命がけということを意味している。北朝鮮がそのようになる事態を防ぐのは、シリアなどに比べて或いは簡単かもしれない。それは、米国、韓国、日本などが北朝鮮の現政治体制を認めて、それを良い方向に進めることである。

北朝鮮は国連に1991年に加盟している。従って、国連事務総長の潘基文氏は北朝鮮を正式な国として認めている筈である。そうであるなら、北朝鮮と韓国との戦争を終結させ、講和の為に働く絶好のポジションにいることになる(補足1)。

21世紀になって、どちらかが戦争で統一することなど非現実的であるし、もしそのような企みがあれば、両国民の多数を悲惨な運命に導くことになる。従って、差し当たり両国間に講和条約を結ぶこと以外にないのではないか。そして、米国も正式な北朝鮮と国交を樹立したなら、北朝鮮が核兵器に拘る必要も減少する。その一連のプロセスは、北朝鮮の核兵器放棄実行を条件とするべきである。核兵器放棄は重要であるだけ、北朝鮮にも重い決断である。従って、一連のことを一挙に行なう必要があると思う。

更に、日本も北朝鮮を承認し、日朝基本条約を締結できるだろうし、その際に韓国に対して行なったような経済協力金を支払い、北朝鮮経済の復興を助けることが可能になる。そこまでが見通せる形で北朝鮮に提示し、国連が必死に調整の努力をすれば、可能かもしれない。そうなれば、拉致問題は自然に解決するだろう。

北朝鮮が中国型の自由経済を取り入れて経済的に豊かになれば、中国よりも簡単に金正恩は主席から大統領という名前になり、北朝鮮民主主義共和国に国名を変えることの可能だろう。韓国も、そうなればUnited States of Koreaへの道を考えればよい。

補足:

(1)これまで潘基文氏は国連事務総長と言う立場に相応しい行動をしてきたとは言い難い。あるメディアは次期韓国大統領を目指しているのではないかと報道したと記憶している。そんなことを考えずに、北朝鮮の安定に寄与しノーベル平和賞を目指したらどうか。
 これまで潘基文氏に関して批判的に書いて来たが、何とか現在の地位を利用して大きな仕事をして欲しい。以下にこれまでの潘基文氏について書いたブログをあげておく。

http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の日本批判について

http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_3.html
村山元総理と潘基文国連事務総長の中国軍事パレード参加について

http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/09/blog-post_6.html
抗日戦勝70周年記念、世界同時株安、五輪エンブレム;一週間の出来事

== これは理系人間の素人の意見ですので、批判等歓迎します。==

2015年9月8日火曜日

基軸通貨について(個人的メモとして)

主要20カ国の財務相・中央銀行総裁会議が閉幕した。http://www.yomiuri.co.jp/economy/20150905-OYT1T50001.html 話題の中心は中国の経済(今後&透明性確保や構造改革)と米ドルの利上げ時期だった。米ドルの利上げから通貨の弱い新興国への外国の投資が減少し、それをきっかけにそれらの国の不景気が心配されている。一方、これに反対する意見もあるから経済は解り難い。

経済のズブの素人がこの様な問題について十分な考察など出来る筈はないのだが、自分の考えをまとめておきたいので、以下続ける。詳しい方のコメントが貰えれば有り難い。

ここでやはり問題は、米国の利上げである。IMFが心配する様に、米国が純粋に国内問題として、基準金利をあげたり下げたりして、他国が強い影響を受けるのは問題である。

本来なら、米ドル以外に何か良い国際決済通貨を考えるべきだと思う。(補足1)

元々、通貨は多くの場合中央銀行や政府の負債の証書として発行される。従って、現在世界最大の債務国である米国という表現と、米ドルは世界の基軸通貨であるという表現は殆ど等しいと思う。そして、世界経済に必要な巨大な通貨発行量を維持するのは、GDPの世界シェアが相当大きくないと、財政破綻の危険性もあり、かなり難しいだろう。(補足2)。

世界経済が膨張し、米国のGDPの世界シェアは2014年で約22.5%であり、10年前より10%ほど低くなっている。 http://www.nli-research.co.jp/report/econo_letter/2014/we141017us.pdf この徐々に下がる傾向は、反転することが殆ど考えられず、米ドルが基軸通貨としての地位を維持する困難は増加するだろう。(補足3) 

金本位性が崩壊したのも、必要な基軸通貨と金価格をリンクさせれば、金があまりにも高くなり過ぎるからであると思う。(その一方、本当は米国中央銀行の倉庫には金はないという説も裏でささやかれている。 http://tanakanews.com/140120gold.htm

世界各国が未だに外貨準備として金を保有している様に、金の通貨としての役割が未だ残っている。そして、金価値がグラムあたり暴騰すると言う説もあるが、金バブルが再び来るかどうかは全くわからない。(金バブルは来ると言う米国投資家、ジムロジャーズ氏の意見) 金に価値が集中していたのは過去の話であり、現在では価値は多くのものに分散しているからである。

現在の工業的価値や宝飾品としての価値から遥かに高い価値を金に与えるのはやはり無理だろうから、何らかの形で、安定した決済通貨を世界が発明する必要があるのではないだろうか。

補足:
1)もし突然決済通貨が米ドル以外にできれば、米国のドルは急落するかもしれないだろう。
2)債務はドル建てなので、ドルが急に同時期に戻ってくると、急激なインフレが始まり国債は暴落すると思う。
3)米ドルが決済通貨として位置を今後も占めれば、世界経済がより多くの米ドルを必要とするだろう。その場合、米国が赤字を嫌って、通貨供給量を減らせば米ドルが高くなり、米国経済も世界経済も正常にまわらなくなる。

2015年9月7日月曜日

沈黙の文化(2)言霊 on 議論、憲法

1)日本は沈黙の国であり、人の間に上下構造を導入すること、そして、上下の人が持つべき心得として用意した“人の道”或いは“徳”の連携で、トラブルを事前に防ぐという文化を持つ。 また、トラブルを生じたこと自体を悪とし、当事者を咎めるため、名と恥を“空気(山本七平氏の云うところの)“の中に漂わせて、社会全体で共有する。名と恥の文化は、沈黙の文化に等しいと思う。

更に、沈黙の世界で“重さ”をました言葉には、霊が伴うようになる。つまり、沈黙の文化は言霊の社会を産むのである。言霊については多くの著作があるが、最近読んだ本に井沢元彦さんの「日本は何故、最悪の事態を想定できないか」がある。最悪の事態をことばにすると、それが起こってしまう危険が増す気がするのである。

例えば、受験を控えた子供を持つ家庭では、落ちると言う言葉が禁句になる。野球の選手は背番号をつけるが、日本人選手にない背番号は4番と42番である。数字に意味があるのではなく、夫々“死”と“死に”と同音だからである。

2)全ての言葉から、霊を除く努力をしなくてはならない仕事として、科学者がある。研究においては最悪の事態も想定しなければ、まともな仕事は出来ない。愚鈍とでも云うべき姿勢で、論理を追いかけるのが研究者の原点である。それを守らなかった人があの小保方晴子さんだ。(注1)

科学者だけではない。占い屋や神社仏閣などでの仕事以外の全ての仕事、プロとしての仕事をこなすには、言霊の罠から自由でなければならない。当然、政治家も同様である。

政治の原点にあるのは、”国民の生命、安全、財産を守ること”だと思う。その原点を常に意識して、「何について、何を目的に、どこまで」議論するのか、が大切である。しかし、最近民主党の岡田さんの意見をテレビで聞いていると、議論や憲法ということばに存在する言霊を利用している様な気がする。ただ、議論の為の議論を永遠に要求し、国政を停滞させている様に見えるのである。当然、議論と言霊は矛盾する。つまり、言霊の国にまともな議論は存在しない。

憲法学者の大多数は、“自衛隊は憲法違反”だと思っている一方、最高裁判所は”自衛隊は合憲”としている。つまり、現在の日本は、憲法が言霊で守られていて改正出来ず、法治国家としての体を為していないのである。そのような状態で、安保法制に関して“憲法違反である疑いが濃い”などという言葉を鬼に金棒的に利用する野党は、上記政治の原点を離れていると思う。

憲法改正やそれに関連する法令改正は、国会議員全員が“十分な議論と民主的手続を経て行なった”と納得する形では、何処かの国から砲弾が打ち込まれない限り出来ないと思う。また、その様に法改正が出来たと納得するときには、全体主義的に政治が進むだろう。そう考えてしまう昨今である。

注釈:
1)あれだけの損害を日本の科学界と日本国に与えながら、辞職と後追い解雇だけで済んだ。余程この国の為政者や組織のトップは、”個人攻撃”に付随する怨霊・言霊が怖いのだろう。従って、オリンピック・エンブレムの疑惑の中心である佐野氏、オリンピック組織委員会、エンブレム審査委員らへの処分もあまりないだろう。

2015年9月6日日曜日

抗日戦勝70周年記念、世界同時株安、五輪エンブレム;一週間の出来事

1)抗日70周年記念式典

中国共産党政権は、抗日戦勝70周年記念と大規模な軍事パレード(始めて)を行なった。これは国内向けには、江沢民や胡錦濤の前で軍事パレードを大々的に行なう事で、習近平による軍の掌握を印象付ける意図があったのだろう。一方国外には、共産党政権がこの様な式典を行なうのは歴史の歪曲である上、記念式典の中で大々的に軍事パレードを行なうのは、時代遅れの印象を与える。更に、隣国には恫喝外交の用意に見える。

この様な場で、中国主席と韓国大統領が会談を行い、近い内に日中韓(多分、中韓日とよんだのだろう)3カ国首脳会談を行ないましょうと同意したという。

外務省は歓迎の意向だというが、周近平の式典挨拶に日本との関係において未来志向の内容がなかったのだから、韓国大統領の米国向け点稼ぎに過ぎないと思う。式典後に、日本の意向を電話かなにかでも確認したのなら兎も角、しなかったのならこのような三国間の会議開催を二国のみで発表するのは失礼だと思う。個人間の話に置き換えれば、犯罪人であった日本に対して、その後性格が矯正されているか、呼びつけて話をしてみようと言う場合、あの様な場は相応しい。

2)覇権国家の責任:

世界同時株安は、中国の経済停滞と米国の緩和の解消つまり利上げ予想が重なった結果だと云う。

米国の利上げは深刻な影響を途上国に与えると言われている。それは米ドルが世界の基軸通貨となっているからである。FRBは国内経済を考えて利上げを考えるというのが支配的な考え方らしいが、それは一寸不十分な姿勢だと思う。米国は基軸通貨としての地位を手に入れ、そのメリットを十分受けて来たのであるから、米国は世界に対して金融の安定化を考える義務があると思う。つまり、IMFの考え方、今は利上げに相応しくない、というのが世界全体をみた考え方であり、その意見を積極的に検討すべきであると思う。

また、歴史に言及する場合も、歴史学者が学問として研究した結果にもっと配慮すべきであると思う。人類が今後迷走して困難にぶち当たるとすれば、それは覇権国が自己都合で一方的に歴史を歪曲したときであると思う。

その真理(或いは歴史学者による歴史解釈)を優先するという義務を、派遣国である米国や中国、更に、国連などは十分果たしていないのではないか。

今回の中国の抗日戦勝70周年記念式典への参加に国連事務総長が参加したことは全く理解できない。抗日は国民党の行なったことであり、毛沢東は関係なかったのだから。潘基文氏は国連事務総長に相応しくない。

戦後70年、人類はグローバルな協力体制を築く方向を目指すとすれば、歴史も戦勝国の自己都合ではなく、世界が共有できる歴史を確認すべきであると思う。そして、各国に夫々都合の悪い事実が出て来ても、当事国はそれを受入れるべきであるし、他の国はそれに寛容であるべきである。そのような第二次大戦後の歴史と価値観の国際的構築において、国連は戦勝国連合から世界国家に向けた進化をするべきであると思う。

3)エンブレム問題

これは佐野氏ありきの選考であった疑いが極めて濃い。その証拠に、選考がおわったあと、類似デザインが外国にあった為、大会組織委員会が選考委員会に連絡なしにデザイン変更したことでも解る。丹羽氏が時事放談で発言していた様に、会社なら責任を追求し、責任者は首にするのが常識だ。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42377177.html

デザインを模倣して作った段階では、佐野氏個人の不正であり、処分すれば済む。しかし、デザインを変更してまで、佐野氏のデザインに拘る大会組織委員会の姿勢は、不正の範囲がずっと大きかったことになる。責任追及が明確な形でなされないと日本国の恥となる。

2015年9月5日土曜日

沈黙の文化と言論の文化

世界には二つの文化が存在すると思う。一つは日本を含めアジアに広く存在する沈黙の文化であり、もう一つは西欧の文化に代表される言論(能弁)の文化である(注釈1)。近代文明は言論の文化の下に築かれたので、それを日本などが取り入れるには、同時に言論の文化の成果としての諸習慣もとりいれなければならない。その結果、日本等アジア諸国の文化がキメラ的構造をなし、西欧型のオープンな社会が出来難い理由の一つだと思う。

沈黙の文化と言論(能弁)の文化の差が何により出来たかは、その地域で発生した言語と深く関係すると思う。しかしその問題は難問であり、しばらくはそのままにして、その現象面を先に考える。両文化の差は、社会に於ける構成員間の利益調整の方法における差として現れる。

沈黙の文化では、利益調整が必要なケースを事前に減少させる様に、身分の上下を作る。その場合、上の者が圧倒的に有利になるが、そのままでは社会の破壊につながるので、上の者には人徳が必要だということにする。つまり、個人の内部で利益主張が正当かどうかを考えることで、トラブルの種を減少させるのである。

言論の文化では、利益主張をお互いに出し合って、その論理の正当性を双方或いは仲裁人を含めて検証する。そのプロセスの蓄積は自然と法を産みだすだろう。この場合、利益の正当性を個人の内部で深く検討するという教育や習慣が社会に根付いていないので、君主と臣民のような上下関係があれば、その君主は暴君になる可能性が大きい(注釈2)。

神のあり方も全く両文化で異なる。沈黙の文化では、開祖が深く思考して涅槃の境地に達したとしても、それを信者に伝える手段が限られる。経文があったとしても、涅槃の境地に辿り着く道案内に過ぎない。従って、信者ひとりひとりに厳しい修行と深い思考が要求される。つまり、色即是空は真理の言葉というより、真理に近づくための案内のことば(或いは標語)であると思う。

一方、言論の文化圏では、悟りを開くのは開祖であり、それは言葉で弟子や信者に伝えられる。聖典となった開祖の言葉を信じて実行することが、天国への道となる。宗教の真理は、教祖の言葉で全て伝えられるため、教祖は神に一致する。例えば、キリスト教のヨハネによる福音書冒頭には、言葉は神であったと書かれている。このような宗教が成立するにはことばが完全でなくてはならない。そして、ことばと信者の間に、偶像(仏教では阿弥陀像など普通に存在する)があってはならないと言う事になる。

しかし、言葉には限界があれば、信仰にも書かれた真理にも限界がある。そして、異なる聖典が現れ、宗教対立が起こることになる。

以上基本的な両文化の特徴を書いたが、このモデルを基に国際的問題を含めていろんな問題の本質を解析できると思う。

注釈:

1)沈黙の文化をgoogleで検索すると、日本文化を沈黙の文化と紹介する文章はたくさんある。しかし、この様な言論(又は、能弁)の文化との対比の形で議論した例は、私の検索範囲では出てこなかった。

2)自分がその利益を受ける正当性を(心の)内部で考えることが、沈黙の文化の特徴だと書いた。これは、例えば、正当性を気にする中国や日本の王朝の特徴と関係があるのではないだろうか。史記や日本書紀という歴史書は、歴史上の出来事の記憶のためではなく、その王朝の正当性を示すことを目的に書かれたという。(岡田英弘著、歴史とはなにか)
 更に、過去の歴史において、この文化の違いがアジアの大国であった中国と西欧の覇権国であった英国や米国(現在も)の覇権構造(の違い)に反映したと考えられる。今後の覇権国のあり様(日本の選択する相手国)を考えるヒントになるのではないだろうか。

2015年9月4日金曜日

楢山節考の感想(後半に粗筋添付)

楢山節考を読んで考えたこと

楢山節考は、深沢七郎作の有名な小説であり、題材は山梨県か何処かの寒村に残る姨捨山伝説だと言う。(注釈1)

山村の慣習として、古来棄老が行なわれていたのは事実だろう。その背景は云うまでもなく、慢性的に食料事情の逼迫である。その村及びその周辺で生きることが出来る人数が、主に田畑での食料生産能力で決っており、毎年産まれる新しい命があれば、その皺寄せは容易に想像できるように、これから産まれる予定の子供と老人に向う。

しかし、表の文化として存在したとしたら、楢山節考にあるような形だろうと思う。つまり、村人の生活の中心に、神格化された山が存在して、そこへ一定の年齢になれば老人を移す。その山の祭りを毎年最重要な行事として行う。更に、山に入る老人の家では前日に、過去に山へ親などを送った経験者に対して、祝いの酒などを振る舞うのである。呼ばれた経験者は、付き添うその家の主に対して、山に入る手順と掟を一つ一つ伝える。それは神の存在する山に上がる祝いであるが、死出の旅へ向う老人との別れの宴でもある。別れの杯は祝いの杯と重なることで、互いに難行に向う勇気を与えるのである。

山に入るときに出来ることはただ黙っていること、老人を山に残して帰るときには振り返らないこと、残された老人が出来ることは精一杯念仏を唱えることである。そして、家族に出来ることも、過去を振り返らないことである。次の日から必死に生きることが、遺棄した老人に対する義務であり、子供達の生命力や無知と無感覚がそれを助けるだろう。

日本文化の原点を見る様な思いで、この小説を読んだ。神道のオリジナルな形の一つとして、山岳信仰がある。白山や御岳山など信仰の対象となる大きな山には深い未開の山林がある。7-8年前に狭い途を岐阜県側から御岳山に向ってドライブしたことがある。この小説を読み終わって、その谷の深さを想像した。(感想文には再度挑戦の予定)


注釈:

(1)一般には棄老伝説という。実際に老人を遺棄することが慣習としてあったかどうかについては、否定的な考えも多い。姨捨山は実際に存在するが、それも似た発音の別の名前から変化したらしい。https://ja.wikipedia.org/wiki/姨捨山 以下に私が書いた粗筋を掲載するが、ずっと短い粗筋はウイキペディアにある。https://ja.wikipedia.org/wiki/楢山節考

すこし長くなってしまったが、以下に粗筋を書く。

村から七つの谷と三つの池を越えた所に楢山があり、その山には神が宿るとされている。村の重要な行事は盆の前日の楢山祭りであり、各戸では楢山参りが重大時である。楢山参りとは、70歳になった家の年寄りを楢山に送り出すことを言う。おりんと付き添って行く辰平の親子も今年がその楢山参りの年であった。他の行事は、それらと比較して大きな意味がなかった。正月もただ外に出ないというだけであり、結婚もただ一緒に住む様になるというだけである。

楢山祭りの当日おりんは、家の前に座っている隣村から一人で来た既に息子辰平の後妻と決っていた“お玉”に気付いた。おりんは、お玉を家に招き入れ、食事を振舞った。それが息子の辰平の再婚であった。辰平の再婚には16歳になる長男けさ吉は反対をしていた。その理由は、付き合っている女の子“松やん”が居て、後で解ったのだが、妊娠していたのである。一月ほどして、いつの間にか松やんは家に上がってくる様になった。それがけさ吉の結婚であった。

松やんは食い扶持を減らす為に、早めに実家を追い出されたようであった。食料難のこの村では、歳相応に歯が抜けず、おりんのように揃った歯は恥であった。お玉が後妻に来た時に思いきって、石臼の角に歯をぶつけて欠いた。口中血だらけになり、恐ろしい顔つきになり、小さい子供達には本当に鬼婆と思われる様になってしまった。

楢山まつりの後、秋になったある日の夜、急に外が騒がしくなり「楢山様に謝るぞ!」という奇妙な叫び声が聞こえた。盗人が出たのである。雨屋の亭主が隣の家に忍び込んで、豆のかます(叺)を盗んだところを家中の者に袋だたきにされたのだった。

食料を盗むことは重罪であった。最も重い「楢山様に謝る」という制裁の対象にされるのである。駆けつけた者が、その家の食料を奪い取って、皆で分け合ってしまうのである。抵抗には、出向いた男どもが戦わねばならない。両方とも必死である。その後の家捜しで、芋が雨屋の縁の下から十分成長していないものも含めて大量に出てきた。村の者達は、どこの家ではどの位芋がとれるかを全てしっていたのである。

何処の家でも冬をこすことが出来るかどうか、ギリギリであり、二代続いて「楢山様に謝る」ことになった雨屋は、激しい憎しみの対象となった。その三日後、村中が騒がしくなり、裏山の墓場ではカラスが騒ぎだし、そして翌日雨屋の人間は全員居なくなったことが知れ渡った。それ以降、雨屋のことを口にしないという村中の申し合わせが出来上がった。

おりんにとって楢山まいりは人生最後の目標だった。その日のことばかりを胸に描いていた。山に行く前日の行事の準備をしてきたのである。誰も知らない間に、白萩様(白米)も、椎茸も、岩魚の干物も、家中が腹一杯食べられ、村の人に出す濁酒も十分な様に準備をしてきた。

正月の4日前おりんは、明日楢山まいりをする決心をした。辰平に、山に行ったことのある村の人たちに今晩くる様に声をかけて来いと告げた。渋る辰平に、言わなければ明日は自分1人で行くと告げた。その声には辰平を服従させる力強さをもっていた。

楢山参りは初冬の雪がつもらない時期が最も良いとされていた。出発の前日には過去に参った人たちを迎え、酒宴を開いて祝うのである。そこで、その客人が老人を連れて山に入る一家の主に、改めて楢山参りの掟などを話すのである。

一つ、お山に行ったら物を云わぬこと。
一つ、家を出る時には誰にも見られないこと。
一つ、山から帰る時には必ず後ろを振り向かぬこと。(勿論、帰るのは付添人だけである)
次の人は、楢山への道順を話す。「裏山の裾を廻って、三つ目の山を上れば池がある。四つ目の山をのぼり、谷を廻れば2里半、途中七曲がりの道があり、そこが七谷というところ。そこを越せば、楢山様のみちになる。」

この教示後は誰も物を云ってはならない。その後、消える様に皆去っていく。最後にリーダー格の人が、辰平を手で招いて戸外に連れ出し、小声で、「嫌ならお山までいかなくても、七谷の所から帰ってもいいのだぞ」と、是も決まり通りに云って去った。

その夜の丑三つ時、外の方で誰かが泣いているのを聞いた。その声は隣家銭屋の“又やん”のもので、一年前に楢山参りに行くと思われていたが、どうやら今年参るらしい。銭屋の倅が現れ、辰平と鉢合わせになり、荒縄を食い切って逃げだしたことを告げた。

おりんは、楢山参りを嫌がる“又やん”を「馬鹿なやつだ」と思いながら、「山の神さんにも息子にも、生きているうちに縁が切れちゃあ、困るらに」と叱るように言い聞かせた。

次の日、渋る辰平を責め立てる様にせかして、背板に乗り楢山への途についた。裏山の裾を廻って柊の木の下を通ってからは楢山参り以外では入ってはならない領域である。楢山の頂上が見えてからは、そこに住む神の命令で歩いているのだと思って歩いていた。

頂上に近づくに従って、死骸とカラスが増えてくる。地を蹴って脅しても、カラスは憎らしいほどに落ち着いていた。死骸のない岩陰に来た時、おりんは辰平に足を動かすことで「ここで良い」と合図した。

おりんは、用意したムシロの上に立ち、じっと下を眺めていた。おりんは、手を延ばして辰平の手を握り、辰平を来た方向にむけた。辰平は身体中が熱くなり、脂汗でびっしょりだった。おりんは、辰平の手を固く握りしめ、背中をどんと押した。

辰平は後ろを見ないように歩みだした。10歩ばかり歩いて、おりんの乗っていない背板を天に突き出して、大粒の涙を落した。楢山を中程まで降りた時、雪が降ってくるのを見た。そして、ふだんおりんが、「わしが山に行く時には、きっと雪がふるぞ」と云った通りになった。楢山参りの時に雪が降るのは、その人は運が良いと云い伝えられている(注釈1)。

辰平は掟を破って、猛然と山を登りだした。おりんはムシロをあたままでかぶって念仏を唱えていた。髪にも膝にも雪が積もっていた。「おっかあ、雪が降って来たよう」と大きな声で云った。おりんは静かに手を出して、帰れと振った。

帰りの途中七谷まで来た時、銭屋のせがれが荒縄で罪人のように縛られた又やんを、深い地獄の谷に落そうとしているのをみた。縄の間から僅かに自由になる指で倅の襟をつかむがそれを払いのけようとして、危うくふたりとも谷に落ちかかった。倅が又やんの腹を蹴飛ばすと、ようやく鞠のように斜面を転がっていった。そして、谷底から竜巻の様に、カラスの大群が舞い上がって来た。

家に帰った時は暗くなっていた。末の子がおりんが居ないので、寂しがっているに違いない。「おばあ、いつ帰ってくる?」と聞かれたらどう答えようと、戸口で中をみた。しかし子供達は全て知っていて、おりんの居ない家に既に慣れていた。長男のけさ吉は昨夜おりんが丁寧に畳んでおいた綿入れを着ており、その嫁は昨日までおりんがしめていた帯を大きくなったお腹にまいていた。(注釈2)

粗筋の注釈:
(1)雪が降り積もれば、楢山の頂上近くへは近づけない。頂上について帰りに雪が降り出せば、カラスは来ないし早くあの世に旅立てるのである。
(2)辰平が帰って来たとき、お玉の姿が見えなかった。おそらく、どこかで泣いているのだろう。お玉は優しい人で、後妻として来た時から、おりんは前の嫁より良いと思っていた。けさ吉の性格はどうやら辰平ではなく、前の嫁に似ているようだ。

2015年9月3日木曜日

村山元総理と潘基文国連事務総長の中国軍事パレード参加について

中国の抗日戦争祝勝70周年の軍事パレードに、村山元総理が参加したそうな。非武装中立を日本で唱えていた社会党元党首が、中国の軍事パレードに参加したことは、社会党が反日政党であったことを証明している。つまり、日本と対峙する外国の軍事増強には賛成と言う訳だ。そんな人と協力して総理大臣に担いだ、武村正義氏や河野洋平氏は、非常に下らない政治屋だったことを改めて証明した。抗日戦争を主に戦ったのは国民党ではないかというコメントが霞むほどの、馬鹿げた話である。

同様に、驚くべきことは国連の事務総長が軍事パレードに参加したことである。単に韓国の政治家というのなら、解らないでもないが、国連のトップである。そして、現在の国連は、第二次大戦の連合国の集まりから変質して、全世界の平和や人権などに寄与する、世界政府に脱皮すべき存在である。そのトップであるという意識が潘基文(パン・ギムン)氏には全くないようだ。この様な人は早急に国連事務総長の座から去るべきである。既に、一昨年に、潘基文(パン・ギムン)国連事務総長の日本批判について書いた。

更にパンギムン氏の中国軍事パレードへの参加は、朴大統領の軍事パレード参加の意図を考えるヒントになる。つまり、今回の韓国大統領の中国軍事パレード参加は、朴大統領の偏った考え方や対日姿勢ではなく、韓国の本質的な姿勢であることを示している。

2015年9月2日水曜日

五輪エンブレム問題とコネ社会日本

1)五輪エンブレムの件、選考課程に疑問があるようだ。つまり、最初に佐野氏のデザインを採用すると決っていたのではないかという疑惑である。 http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/09/02/kiji/K20150902011051750.html

エンブレムが新たに選考し直されることになったが、それは実質的に選考が失敗だったことの証明である。発表された佐野氏デザインの五輪エンブレムを見た最初の感想は、「Lと言う字と○を組み合わせて、何を象徴しているのかさっぱり解らない」というものだった。開催地TOKYO或いは2020年オリンピックの開催コンセプトなどを表わす様なものが、さっぱり確認できなかった。

一方、大会組織委員会専務理事・事務総長の武藤敏郎氏は、会見を行い、大差であのエンブレムが選ばれたと言っている。審査員8名の内、4名が佐野氏のデザインを選び、残りの4名がバラバラに他の案を推したとのことである。圧倒的な差であのデザインにが選ばれたというのは全く意外である。また、”始めに佐野氏ありき”ということは全く無いと否定している。しかし、上記サイトにも疑問として言及されているが、選考の結果選ばれたと言いながら、選考後原案から修正されたというのも解り難い。

佐野研二郎氏の兄は、経済産業省のキャリア官僚であり、かつて知財関係(著作権の対象となる特許や商標など)を扱ったこともある課長だということである。また、かつての同僚である永井一史氏(多摩美術大学の教授仲間)の父は東京五輪エンブレム審査委員代表を務めた永井一正氏だそうである。(グーグル参照)始めに佐野氏ありきという選考の下地としては十分である。兎に角、完全にバレるまで組織委員会全体でシラを切る姿は、国民の一人として全く腹立たしく思う。

日本は、危機意識が薄れると、完全なコネ社会に戻るようだ。

2)人が生きる上での基本となる社会が国家となり、現在のように大きくて高度な組織となると、それぞれの分野に優秀な人材が分配されなくては正常に運営できない。現在の組織がコネの範囲で人材を選ぶと、数世代で人材の質は劣化してしまう。それは、例えばこの50年程の政治家のレベルを見れば解る。

国家を構成員とするグローバルな国際社会が世界の枠組みを形成し、そこに激しい競争が存在する現在、コネ社会からの脱却が国家の命運を決すると思う。コネを廃するという道徳が社会の中に根付くことが、先進国としての条件である。東アジアはこの点で西欧にかなり劣っている。

人が社会を作って生きている以上、地位を築くのにはコネが大きな力になるのは自然なことである。それは古今東西を問わない。しかし、西欧人は心の中に人格神がいる分だけ、コネの力は小さいだろう。東アジアはこのハンディを乗り越える工夫をしなければ、結局西欧には太刀打ちできないだろう。

2015年9月1日火曜日

苛めの防止&人としての基本

1)以前に苛めを防止するには、その中身により暴行罪や脅迫罪という刑法の存在を現場の教師や生徒自身に教えることが大事であると書いた。つまり、法的に無力な教師ではなく、出番があれば警察に出てもらうことが、大切である。

”虐められている子供も、安全な生活を営む権利を持つ”ということを幼少期より、学校で教育することが大切である。それは道徳や倫理という類いのものではない。社会の恩恵を受ける条件として、その保持と実行が強制される基本的ルールである。その基本的ルールを守ることが出来なければ、社会からの恩恵と保護を受けることが出来ない存在となることを教えるべきである。

道徳は、人の道及び徳である。それは人として生きる前提が整っている人間に対して、より多くの社会への貢献とその為の人格形成を教える。しかし、最初にその前提部分、つまり“野獣ではなく人として生きること”を、確実に教えるべきである。

2)昨今、小さいボートに乗って、政情不安定な北アフリカから、命懸けでイタリアやギリシャに逃れる人が増加している。ユーロ圏では、年間数十万人に達する難民をどう受入れるかは、ギリシャの財政危機以上の難問として議論されている。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150829/k10010208491000.html

日本では当然の様に受け取られている生存の権利を、難民になって地中海を彷徨うアフリカの人たちは持っていない。我々日本人は、当たり前だと思っている生存の権利は、本当は大きな財産である。つまり、健康で文化的な生活を営む権利(憲法25条)は、我々日本人が日本人として産まれた瞬間に贈られる特別な財産であることを明確に意識すべきである。

それは特権であるから、それに対応する義務も意識しなければならない。その義務の一つが、他人の権利を踏みにじる野獣ではなく、生存の権利を他人にも認める人(ヒト)として生きることである(注釈1)。

3)特権はその上に座しているだけでは保持できないのは、真理であり歴史も教えている。国防と同様、軍備を揃え、日々特権保持の訓練をすることが大切である。

一人で荒野に生きる時には、権利も義務もない。ただ、戦って獲物を得て生きる。それが生き物である人間の原点であり、その遺伝子は我々人間が等しく持っている筈である。集団で生きるときに始めて、他の個体との境界をどう決めるかという問題が生じ、そこに権利と義務が生じる。権利は相手に自分の生命を主張し、義務は相手の生命を認めるという、裏表の関係がある(注釈2)。

自分もこの世のこの空間で生きるのだという主張が原点であり、それが”生命の逞しさ”である(注釈3)。権利や義務は、長い時間をかけて主張し認めあうが、我々は動物と同じ様に、瞬間瞬間とその連続を生きなければならない。そこでは、”戦って生きる”という生命としての基本が必須要件である。

人は、その生命としての基本(野性)と、社会で生きる人としての基本の両方を、バランスをとって持たなければならない。長い歴史の中で、野性を抑える方向で人は文明を築いて来た。そのため、集団で生きる人としての基本のみを意識しがちである。個性にばらつきのある子供達を教育する時、この両方のバランスを教師が自覚して、教育に当たる必要がある。人として戦う気概を育てるのも教育だと思う。

注釈:

1)もう一つの重要な義務は、国内の公共の諸案件と正常な外交関係を持てるよう、国家の政治に貢献することである。
2)集団で生きる様になると、集団と集団との境界も問題となる。そこに、人類は更に高度な権利と義務関係を生み出して来た。それらが人間の文化であり、その構築過程が歴史であると考える。
3)“逞しさ”を他人への親切やその能力の様に教える人もいるが、それは柱が出来上がった上の枝葉の領域のことである。