注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2015年2月28日土曜日

二つの陰謀論:佐藤優氏と宮家邦彦氏の対談を読んでの感想

Voice 3月号の巻頭討論「ユーラシアの地政学」を読んだ。テレビでおなじみの佐藤優氏と宮家邦彦氏の対談をまとめたものである。二番目のセクションからは面白く読ませていただいた。二番目からのセクションタイトルは、「プーチンの思惑」、「日豪関係の重要性」、「韓国との付き合い方」、「中国こそ韓国の脅威」、そして「21世紀のグレート・ゲーム」である。例えば、最後のセクションでは、宮家氏が”やはり日本人にとって大切になるのは、四方を海に囲まれた我国が地政学的に如何に恵まれているか、翻って各国が地政学的にどんな状況にあるのか、という想像力でしょうね。”と発言している。この点は本当にその通りであると思った。

しかし、最初のセクション「反知性主義の病理」には一部納得し難い箇所があり、その点に絞って感想を書く。最初に佐藤優氏が、“日本の言論界では反知性主義が席巻しだしている"として、ヘイトスピーチを行い、排外主義的な書物を出版する人たちを非難している。この点には同意するが、そこからの二人の意見には同意しかねる。佐藤氏の反知性主義の定義は、「客観性や実証性を無視もしくは軽視して、自分が望む様に世界を理解する態度のこと」である。そして、”反知性主義は学歴の高い人でも陥る危険がある。外務省をやめた途端に反米主義者になったり、陰謀論者になる人がいて情けないですが、日米同盟は日本の外交に欠かせない要件です。この点が崩れた人の本は読まなくて良いでしょう”と発言している。

私はこの部分の発言で、この人の限界を見た気がする。“外務省を止めたとたんに反米主義者になった人”と非難しているのは、孫崎享氏なのだろうか。また、陰謀論者になった人とは馬淵睦夫氏なのだろうか。両氏の本を読んだが、非常に示唆に富んだ内容であり、日本の戦略を考える上で役立つ筈だと思った(注釈1)。

もちろん、日米関係は日本外交に欠かせない要件であると思う。しかし、孫崎享氏の考えを反米主義として、馬淵睦夫氏の分析を陰謀論として葬ることでしか、彼らと対峙出来ない人は、そもそも外交専門家としては貧弱に思える。そのような姿勢で、夫々自国の利益をしたたかに追求する外交の場に臨むのは、自国の手足を縛ってしまうようなことになると思う。勿論、現場に居る人は米国の思惑と推理できることがあっても、それを本に書くことはできないだろう。しかし、退職したのなら、国家機密保護の原則にふれない範囲で自由に発表してよい筈である。

続いて宮家氏が、“我々が対峙しているのは、歴史学ではなく、現実としての国際政治です。過去の価値ではなく、現代の価値で戦っている、ということです。現代の価値とは、自由、民主、法の支配、人権、人道という普遍的価値を意味します。こうした普遍的価値に背を向けて、過去の価値体系で議論しても、国際政治の場では何の意味もありません。”と発言している。

表舞台で、これらを普遍的価値と看做すのは当然だろう。しかし、日本が関係を大切にすべき国家である、米国を始めとする西欧諸国が、本当に「自由、民主、法の支配、人権、人道」で動いているのか? 現代的価値というが、その現代は何時から始まったのか?第二次大戦後なのか、それ以前なら何時頃なのか?それを明らかにしなければ議論にならないと思う。そして、何よりも、米国のCIAやM何とかという英国の秘密情報機関、米国と結びつきが強い、イスラエルのモサドなどが、その現代的価値を重視して動いているのか?

本音があるのなら、もう少し本音を出して話して欲しい。本音があっても出せないのなら、そのような発言をしないで欲しい。世界が上記現代的価値で動いていると思う人が多くなるのは、日本の有権者を全体的に幼稚にしてしまう。

佐藤氏による反知性主義の定義は、「客観性や実証性を無視もしくは軽視して、自分が望む様に世界を理解する態度のこと」であった。諜報機関が裏で活動することも多い外交の世界では、当然秘密裏に(宮家氏の定義した)”現代的価値”を無視したことが起こり得て、それが外交を考える上で鍵となることも多い筈である。サイエンスではないので、客観性や実証性に縛られると、非常に外交における思考の幅を狭めてしまうと思う。

陰謀論を披露する人々だが、二つに分類出来ると思う。真面目な陰謀論者と陰謀で陰謀論を語る者である。真面目な方は、例えば上に挙げた馬淵睦夫氏である。彼が著した「国難の正体」は、私を含め素人の読者には非常に参考になる本である(注釈2)。もちろん、それを100%信じるのは反知性主義かもしれない。しかし、そのような考え方を披露するのは、反知性主義では決して無いと私は思う。

陰謀で陰謀論を語る者とは、「東日本大震災(地震)は、地震兵器で某国がひき起した」などと語る人である。“陰謀で陰謀論を語る人”は、真面目な陰謀論者を抱き込んで、一緒にゴミ箱に捨てられる役を引き受けているのだろう。もちろん、そのような陰謀があるかどうか客観性も実証性もない。しかし、外交とはそのような世界ではないのか?

注釈:
1)1)孫崎享著「アメリカに潰された政治家たち」と馬淵睦夫著「国難の正体」は、有益な本だと思う。そのような考え方があることを、日本人は知るべきである。
2)このように具体名を挙げると、「馬淵さんはちょっと極端な意見を述べただけで、反知性主義者ではありません」と反論されるかもしれない。しかし、彼らには反論の資格がない。何故なら、彼らは反知性主義者の具体名を挙げていないし、且つ、外務省を退職した馬淵睦夫氏が書いた「国難の正体」は、あるグループの陰謀をのべたものであるからである。

中一殺害事件に関して:

中学一年生殺害事件についての報道がいろいろなされている。何の為に報道しているのか疑問に思うものが多く(注1)、大きな犠牲を払っても何も学ばないのは情けない。

犯人と思われる高校生3人が昨日逮捕されたが、ほとんど黙秘しているようだ。今朝のウエイクというテレビ番組でもその件に触れ、“主犯と思われる男が、「人を殺してみたい」と言っていた”との証言を、友人関係の中から得ていることが報道されていた。

以前の投稿(2/21のブログ参照)で、「人を殺してみたい」という人間は、幼少時に健全なる親子関係を経験していないだろうと書いた。健全なる親子関係とは、親から愛情を受けて育てられていることを実感しながら、社会に生きる為の基本ルールを教わることである。

気になるのは、最近そのような幼少期を持てないこどもたちが増加してはいないかということである。もし増加しているとしたら、それは“社会を構成する基本ユニットは家庭であるべきである”という意識が、社会からそして行政から無くなりつつあることが原因ではないのか。

行政は、男女共同参画と称して、家庭を基本ユニットとする伝統的枠組みを敢えて破壊しようとしている。また、グローバル経済の中で、多くの人が国内外で右往左往している様に見える。そして、成人全ての人生の中心に仕事があり、“家庭とそこで生まれる子供”を中心に置くべきであるということを、日本政府も日本社会もほとんど忘れている様に見える。

個人を社会の基本的構成員として考えるのは、神を精神の中心に置くキリスト教社会の伝統であると思う(注2)。そこでは、男女二人が神にたいする誓いでもって家庭を築くという、伝統も同時に存在する。その後者の伝統が無いにも拘らず、前者の形だけ丸呑みで受け入れようとしている現在の日本社会の姿勢に、基本的問題があるのではないだろうか。

注釈:
1)推理小説を紹介する様な報道は控えてもらいたい。1人の将来ある若者が殺されたのだから。 2)キリスト教などでは、唯一神と人は一対一で信仰という”契約関係”を結ぶ。そして、神の像や崇拝の為の物体など神と人の間に介入するものの存在を、厳しく禁止している。(モーセの十戒)
知的文化の象徴である大学でも、欧米の伝統と日本のそれとは大きく違う。今年一月に米国の大学に移った、経済学の伊藤隆敏教授の講義前(大学院)の準備は、学生の名前と顔を覚えることだった。議論を教授と学生達の間で、明確に個人を特定して進めるためである。(モーニングサテライトにて放送;写真は伊藤教授のコロンビア大ではないが、同じくアイビーリーグの一つであるコーネル大)

2015年2月25日水曜日

ISISはCIAが作った:米国元将軍が言っている

CNNのニュースに出演した米国の元将軍(陸軍)が、「ISIS(イスラム国)はシリアのアサド政府と戦わす為に、我々の友人及び同盟国がお金を出して作った」と言っている。https://www.youtube.com/watch?v=QHLqaSZPe98

別のサイトでは、著名な週刊誌The Nationの“The CIA is training syria’s rebels:Uh-Oh. Says a top Iraqi leader” と題する記事を見せて、その中に書かれた”CIAはヨルダンに秘密基地を持ち、その中でシリアの反乱軍を訓練して、ISISやアルカイダと一緒にアサド政権と戦わせている“とある、 https://www.youtube.com/watch?v=P9U6nSoeuPc

このサイトでは、更にフランスで起こった自爆テロに関して、CBSはunder wear bomber(自爆テロリストだろう)は二重スパイだと報道し、Guardianはunder wear bomberはCIAで働いていたと報道している。

引用されているCNN, The Nation, CBS, Gardianなどは全て有名な米国のマスコミである。それらが、このような本質に切り込んだ、そして自国に不利になるかもしれない、報道を行なっているのに、何故、日本のマスコミは何も言わないのだ。

政府からもらった情報をそのまま掲載したり放送したりして、国民から視聴料や購読料をとっている。泥棒同然ではないか。情けない国の情けないマスコミだ。

2015年2月24日火曜日

名演説の力: 昨夜のテレビ番組の感想

昨夜、池上彰氏が戦後の世界を変えた言葉について、その背景やその後の歴史の変化について紹介していた。面白く、且つ、為になる番組だったが、同時に強い不満感も持った。

その番組では、素晴らしい演説が紹介されていた。例えば、人種差別に反対するキング牧師の演説では、 “I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.”(私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。)を筆頭にして、多くの形での人種差別をあげ、”I have a dream that "という同じ形の文章で繰り返し、その撤廃を聴衆に強く訴えている。そして、それらが心に刻み込まれるように工夫された名演説である。(http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-king.html)  (注釈1)

ケネディー大統領の演説も非常に有名である。その中の「そして、同胞であるアメリカ市民の皆さん、国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか。また同胞である世界市民の皆さん、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、人類の自由のために共に何ができるかを考えようではありませんか。」が特に有名であるが、それだけでなく世界のリーダーとしてなされた演説全体を味わうべきだと思う。http://www.jfklibrary.org/JFK/Historic-Speeches/Multilingual-Inaugural-Address/Multilingual-Inaugural-Address-in-Japanese.aspx

しかし、このような名演説を味わうときに、同様に重要なことは、キング牧師やケネディー大統領が凶弾に倒れたことである。その事実を深刻にそして同時に考えるべきだと思うのは、世界を動かしているのは、このような名演説を携えて登場する知性と勇気に満ちたリーダーなのだろうかという疑問が残るからである(注釈2)。

例えばケネディー大統領の暗殺の場合、明らかに綿密に計画されたものであると考えられる。そして、それを裏付ける様に、弟のロバートケネディーもその後暗殺された。上記疑問は、ケネディー大統領が暗殺されたことだけでなく、それ以上に、その暗殺とその謎に対して米国が十分な調査とその報告を行なっていないことから生じるのである。

冒頭に書いた強い不満感とは、昨夜の番組は片方の視点でしかこれらの名演説にふれていないからである。つまり、「世界を変えた名言から知る戦後70年」というサブタイトルをつけながら、「本当に名言は世界を変えたのか?」という疑問について何の答えも用意していなかったからである。

大衆が仮に、知性と勇気をもったリーダーを選ぶことが出来れば、世界が平和と繁栄に向かうという前提が成立するかどうか?それがイエスでなければ、大統領の名演説も現実の政治の中ではなく、人文科学(文学など)のなかでのみ意味を持ち、且つ、民主主義は実際に政治を動かす勢力の隠れ蓑の意味しか無いことになる。少なくとも、その疑問に答える努力が番組内でなされなければ、視聴者である選挙権者に誤解を与えることになる。

注釈:

1)この同型文を繰り返して演説する方法は、20年程前にフランクリン・ルーズベルト大統領が日本の真珠湾攻撃を非難する演説をラジオで行なった時にも用いられている。http://ameblo.jp/shinjiuchino/entry-10933130759.html 既に大統領は、無線傍受により攻撃を知っていたが、日本の不意打ちを強調して反日感情を全米に醸成する目的で、“Last night, Japanese forces attacked Hong Kong. Last night, Japanese forces attacked Guam.” と“昨晩、日本軍はXXを攻撃しました”を繰り返す方法を用いている。真珠湾攻撃の経緯を知っている日本人にとっては、これを聴いた時に米国民が抱いた反日感情の強さと同じ程度に、ルーズベルトの狡猾さに腹立たしく思うだろう。

 この演説は、キング牧師のものとは全く歴史的な役割が異なるが、聴衆に訴える手法は同じだろう。また、米国の政治的な強さは、裏舞台での緻密な戦略立案の後に、このような演説で国民の力を結集出来るルーズベルトのような政治家が存在することだろう(又は、だったのだろう)。
 因に、日本の民主党があれほど無様な姿を晒したのは、舞台裏(裏舞台ではなく)の協力が得られなかったからだろう。別の言葉で言えば、自分達が人形でありながら、自分の意志で動こうとして舞台裏に嫌われたのだろう。

2)キング牧師の演説の最初の方にこの様な文章が出てくる。文章、しかも憲法という形で書かれた”ことば”でも、100年間実現しないことについて、不渡手形という強い表現で非難している。
”100年前、ある偉大な米国民が、奴隷解放宣言に署名した。今われわれは、その人を象徴する坐像の前に立っている。この極めて重大な布告は、容赦のない不正義の炎に焼かれていた何百万もの黒人奴隷たちに、大きな希望の光明として訪れた。それは、捕らわれの身にあった彼らの長い夜に終止符を打つ、喜びに満ちた夜明けとして訪れたのだった。 しかし100年を経た今日、黒人は依然として自由ではない。100年を経た今日、黒人の生活は、悲しいことに依然として人種隔離の手かせと人種差別の鎖によって縛られている。”
”われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。
今日米国が、黒人の市民に関する限り、この約束手形を不渡りにしていることは明らかである。”

2015年2月21日土曜日

愛とは何かを考える

天城越えは、歌手石川さゆりのヒット曲である。「隠しきれない移り香が いつしかあなたに浸みついた 誰かに盗られるくらいなら あなたを殺していいですか」で始まる歌詞で知られる。この歌を初めてテレビで聴いたとき、演歌としての出来が素晴らしいことと同時に、このように禁句的な歌詞にビックリした(注1)。

多くの人に歌われることは、 “天城越え”で表現される感情が多くの人が普通に持っていることを意味していると思う。そして、人と人の間に存在する感情とそれが作る社会を考えるヒントになるだろう。(注2)

つまり、男女関係においても恐らく親子関係においても、人にとって他の人との関係が命と同じレベルの重みを持つ場合があるということである。その理解を延長すると、“愛情とは、人にとって等しくかけがえの無いもの、つまり命を交換することにより成立する”という考えに到達する。ここで交換の意味は、相手の命を自分の命と等価と考える瞬間があり得るという意味である(注3)。 判り易い例を挙げれば、子供の命が危険な状態にあれば、親は自分の命の危険を冒して、救出を考えるのが自然だろう(注4)。

何かを交換することで成立する繋がり、或いは結合、は自然界にかなりある。例えば、原子と原子は、電子を交換することで結合して分子を作る。結合を作る前には、原子Aの電子aと原子Bの電子bの区別は明確であるが、結合を作った後は、どちらの電子か区別出来ず、両方の原子にとってそれら二つの電子が等価になるのである。

その様な関係、つまり命の交換としての愛情を感じること無く、大人になった人は不幸である。また、その様に感じていた愛情が、実は本物ではなかったと知ったときのショックも大変大きい。

最近の大きなニュースで、19歳の女子学生が宗教活動で知り合った70代の女性を自宅で殺害した事件が報道された。動機は「人を殺してみたかった」という驚くべきものであった。あるテレビ番組で素人コメンテーターが、サイコパス的性質だと言ったのを聞いたが、それとは全く違うと思う。サイコパスの人は、人を殺しても何とも思わないが、通常積極的に人を殺したいと思わない。その証拠に、ニューヨーク市内でもサイコパスの人は10万人いるという統計が発表されているが、無意味な殺人はそんなに多くない。(注5)

つまり、“人を殺してみたい”という欲望の高まりは、その人が“人を愛したい、そして、人から愛されたい”という感情の行きどころがない状態になっていることだと思う。そして、あの19歳の女学生の犯した殺人は、それを強引に被害者に押し付ける行為だったのだと思う。愛情が、命を交換する関係であるなら、本物の愛を受けた経験の無い人が、愛情を欲する感情が高まった極限で、人を強引に支配してしまうのだろう。(注6)

従って、子供が親により愛情をもって育てられることは、社会で生きる人間になる上で、本質的に重要だろう。昨年のことだが、米国で養子として育てられ成人した子供が、成人するまで養子であることを知らされなかったことを恨んで、育ての親を殺す事件があった。信じていた愛情が嘘であると思い込み、ぽっかり明いた空虚な心の空間を埋めることが出来ず、育ての親の殺人に至ったのだろう。

人間が、成人後も愛情を欲する状態で存在することは、動物としては特異である。それは、成長しても人間が動物としては幼児状態で留まっていることを意味している。この人間の特徴が、高度に構造化された社会をつくる上に必須であるとすれば、それは人間が社会の家畜として進化した結果であるとも言える。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/09/blog-post_2.html

注釈:
1)禁句は真実を含むだろうが、“縁起”が悪いので言ってはいけないことばである(日本では)。この歌では下品に落ちる境界を跨いでいない点で、巧みであると思う。
2)つまり、普通の対人感情が異常に高まった状態で、そのような凶悪犯罪が発生すると思う。そして犯罪は、その動機である感情の存在を証明する明確な証拠である。
3)自分のものと他人のものを、同様に感じる感覚は、社会をつくる能力として大切である。
4)逆のケースもある。河野太郎氏は親である河野洋平氏に移植する為に肝臓の一部を提供した。
5)http://ja.wikipedia.org/wiki/精神病質 殺人願望があれば、毎日ニューヨークで数百人位は殺されるだろう。また、専門家はフロイトのサディズムなどの言葉を用いる人もいるだろう。
6)安易な比喩で申し訳ないが、交換しない電子(専門的には不対電子という)を持つ分子をフリーラジカルという。フリーラジカルは普通の分子と容易に反応し、それを破壊する。今回の19歳の女学生は、愛情についてフリーラジカル的だったと表現できるのだろう。病的ではあるが、病気は正常な機能のバランスが欠けた状態である。

イスラム国の件を議論するなら、何故、馬淵睦夫さんを出演させないのか? 

激論でイスラム国について議論している。イスラム国の件を議論するなら、何故、馬淵睦夫さんを出演させないのか? イスラム国は過激にイスラム教の国の建設を目指しているのではなく、常岡氏が言う様に宣伝のみが目的のようだ。エジプト出身の女性が言っている様に、ジハードや十字軍などの言葉を用いてイスラム教のネガティブキャンペーンをしている。それは何故か?

馬淵氏などが言っている様に、ナショナリズムを時代遅れにして、グローバリズムを推進するための作戦なのか? ひょっとして、イスラム教圏を世界の敵にするためにキャンペーンを行なっているのでは?そう言えば、2050年問題というのがあった。イスラム教徒の人口とキリスト教徒の人口が逆転する年が2050年ころである。

日本人二人が捉えられていることを知りながら、イスラム国を刺激するような発言をわざわざ中東まで出掛けていって安倍総理が行なったのは何故か? そして、オバマ大統領や西欧がパレスチナ爆撃を強行するイスラエルに対して距離をおきつつある現在、イスラム圏に踏み込み、ユダヤの旗を背景にしてイスラエルと密接な関係を築こうと安倍総理が発言したのは何故か?

更に、安倍総理はイスラム国の件を利用して、憲法の改訂や自衛隊法の改訂を狙っている。中国や北朝鮮の脅威を表に出すと、反対が大きくて出来ないからだ。この件についても、エジプト出身の女性が気が付いているようだ。

新聞やテレビでは何もわからない。

揺れ動く筆者からの補足(2/22): “激論”でビデオ出演していた田原総一郎氏は、「憲法9条改正なんてとんでもない。日本の特徴は平和国家であり、それを堅持すべきだ」と言っていた。田原さんの頭の中では、米国の様な産軍共同体が政治を動かしている国家と比較して、日本の政体を考えているのかもしれない。しかし、その米国に依存する形で日本は国境を守って来た事や、軍事が外交の場での最重要な陣容であることを知らないのだろうか。セオドアルーズベルトのBig Stick Policyもクラウゼビッツの戦争論も彼の頭の中にないのだろうか?

日本国民が完全に戦略論の分野でロボトニーされているのなら、安倍総理のインチキ的憲法改正論議や自衛隊法の改正も仕方ないのかもしれない。
米国というチューブで必須の栄養を受けることで辛うじて生命を保っている日本という患者には、最早安倍総理の国民を騙して必須栄養グランド(gland)を移植するという最後の手段が必要なのかもしれない。馬淵氏が言っている様に、ある一部の秘密裏にことを企む層が、英米を足場に世界から国境を無くす(グローバル化)様に働いているとしても、そのような分析は日本の現状からの復帰には役立たないかもしれない。

2015年2月15日日曜日

慰安婦問題は未解決なのか?

“1400人訪韓団率いた二階総務会長、慰安婦問題解決を迫る朴大統領に「積極的な努力」を約束”という表題の記事がネットのあちこちに出ている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150214-00000016-xinhua-cn それに対する不満、“日本政府の公式見解は、慰安婦問題は解決済みではなかったのか”、を表明したコメントも多くネットに見られる。

例えば、http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5732.html、と言う人気ブログ(注1)では、二階俊博氏を売国奴として非難している。しかし、自民党政権とそのトップである安倍総理を非難する文章が何処にもない。このブログの高い人気は、この種の理解に共感を覚える人が多いことを示している。

しかしながら私は、このブログ記事に大きな違和感を持つ。何故なら、二階氏は自民党の総務会長であり、今回の韓国訪問には安倍総理の親書を朴大統領に渡すのが主な目的の一つだったからである。つまり、安倍総理はこれまでの二階氏の発言などを十分承知の上で、韓国との関係を改善すべく彼を訪韓させたのである。おそらく、二階氏の今回の発言は、安倍総理の意向を受けてされた筈である。

何故このような従来の政府見解と違うコメントを二階氏は韓国で出したか?それは、米国の指示があったと考えるべきである。指示という強い言葉を用いたのは、従来の安倍総理の姿勢からは直ぐには結びつかないからである。二階氏にこのような発言を許容した影には、相当強い圧力があった筈であり、そのような圧力をかけることが可能なのは米国以外にないのだ。我々は日本が米国の支配下にあることを、ここで改めて再確認する必要がある。そして、米国にとって日本は利用すべき国の一つであり、同盟国とはいうものの、過去の大戦時から複雑な思いで日本を眺める国であることを、米国の視点で考えるべきなのだ。

安倍氏は国内向けには、今回二階氏が韓国で行なった様な発言を決してしないだろう。もしそのような発言をしたのなら、安倍総理は、自分が嘘つきであることを国民に白状することになるからである。

このようなやり方で、安倍総理が国民の人気と米国への従属を両立させるのは、自民党政権が長期政権を維持するための秘訣として持っている遺伝子のようなものに由来する。それに似た例を上げれば簡単に理解出来る。つまり、それはユダヤの国際金融機関のやり方に酷似しているのだ。戦争が起これば、戦っている両方に軍資金の調達をし、どちらが勝っても戦争前と同じ勢力を国際金融の世界で維持できるのである(注2)。

つまり、自民党内において、二階氏は韓国や中国寄りの姿勢を示す役割であり、安倍氏は民族主義的姿勢を示す役割なのだ。我国で政治姿勢が明確なのは、唯一結党時の維新の党だけである。それ以外の政党はこの種の生き残りの戦術を持って、政治屋として給与を得る人たちの集まりである。

注釈:
1)このFC2ブログはブログランキング2位であり、コピーされたヤフーブログでも一日に何万という閲覧数を誇っている。
2)日露戦争のとき、日本もロシアも軍資金をユダヤ系金融資本から借りたと言われている。日本は高橋是清が米国へ出向いて、シッフ(Schiff)の支配する金融機関から多額の資金を融資してもらった。それが戦争で勝つ事ができた大きな原因であるという。

2015年2月14日土曜日

小学校3年生からの英語早期教育は必要か?

テレビ番組“激論”で、小学校3年生位から英語の教育を開始する必要性について議論されていた。ただ、何を目的として早期の英語教育を考るのか、それを先ず明確にしてからでないと議論が噛み合なくなってしまう。また、乏しい国家予算の中から早期英語教育に資金を割当てるには、相当の益が見込まれなければならない。

英語教育の充実で解消すべき問題点として考えられるのは、以下の3つだろう。
1)外国からの観光客が多く日本を訪れる様になって、いろんな場面で簡単な英会話ぐらいできなければ不便である。 2)今後、企業がグローバルな活動をするようになるので、英語で交渉や契約が出来なければ、日本の発展がおぼつかない。 3)移民受け入れやグローバル企業内での人事交流などで、日常的に英語が必要になる場合が多くなると考えられる。そのような場合に備えて、英語での会話能力がある程度以上なければ、将来日本を中間層が不便を感じる。(注1)

1)の問題を解決するには、特別な早期教育は必要なく、現在の中学や高校での英語教育を工夫するだけでよい。2)の場合であるが、ネイティブスピーカーレベルの英語力がなければ、契約を前提としての交渉は困難である。トラブルを避ける意味で、通訳を介すべきである。
従って、国民一般を対象に英語の早期教育を考える場合に想定するのは、3)の様な問題を解決することだろう。ここからスタートすれば、もっと意味のある議論が放送できたのにと、残念に思う。

一流のグローバル企業やそれに類するレベルでの国際交流に必要な英語能力は、恐らく相当の努力を必要とし、小学校3年から始めるとかどうかはたいして問題ではないと思う。各個人が必要性に迫られて、強い意志を以て勉強しなければ無理だと思う。小学校教育全体を考えた場合、大学生でも二次方程式から教えなければ工学部の講義が成立しないとケースがかなりあるという現状を考えれば、“楽しく踊って英会話”レベルのことをやるより、算数や国語の授業をしっかりやることの方が大切だろう。

そこそこの英会話の習得なら、NHKの(実践)ビジネス英会話で放送されている文章の何年間分を、丸記憶して口から出せる様にすれば可能だと思う(注2)。後はそのような場面に追い込まれた時に実地に訓練すれば良いと思う。

日本人の英語能力がアジア諸国に比較して低いのは、経済力をつけようと必死に勉強する開発途上国の人々と比較して、豊かな経済環境にいるためか、日本の学生は必死になって勉強するという意思がないからだと思う。やる気の無い人は、何をやっても習得は不可能である。

注釈:
1)例えば楽天やファーストリテイリング(ユニクロ)などでは、英語が公用語になっている。 2)ポスドク経験者の私だが、この程度でも結構難しい。

スタップ捏造:理研幹部が責任を執らない異常な幕引き

今朝のウエークでの放送を観て、一寸書く気になった。コメント歓迎します

スタップ細胞捏造の件、理研を特定研究法人の指定を得るための宣伝材料にするため、野依理事長らが旗を振ったことが発生原因の一つである。

つまり、論文として仕上げるために理研幹部の仲介で笹井氏を共著者に加え、ゴリ押しでNatureの審査を通し(注釈1)、華々しくマスコミ発表したのは、理研が特定研究法人に指定されるために行なった理研全体の宣伝作戦の一部だったと考えられている。そのように考えると、ひっそりと目立たないように幕引きしたい理研幹部の利己的な気持ちは理解出来るが、許されるものではない。

先に静かに小保方氏を退職させて処分を後で発表するなど、下らないシナリオを考えたものである。それは、理事長以下幹部には処分が及ばない様に、必死に画策した結果なのだろう。国民の関心がいろんな角度から重なって、責任追及の嵐が津波の様に理研幹部に襲いかかることを避ける魂胆が見え見えだ。

そもそも、特定研究法人という発想は、基礎研究でも中央集権的に管理すれば、成果が出る筈だという、素人の考えから生じたものである(注釈2)。基礎研究は研究者の情熱の産物であり、工場で設備投資をし、カネをつぎ込めばできるというものではない。底辺を広く、夫々の現場で優秀なものを引き上げるという文化を育てるのが大切である。

華々しい捏造会見よりも、この幕引きこそ国際的に笑いものになるだろう。なぜなら、科学者個人の狂った情熱や思惑などで捏造された論文は過去たくさんあり、それらは学会での議論や別の研究者による新たな研究などで、浄化されるように科学会から消えた。捏造が明らかになった段階で、研究費の不正利用などで、関係した研究者個人を処分することのみが、研究機関を管理するものの仕事である。

しかし、今回の件は研究機関全体の意志が捏造を産んだ原因の一つである点が従来の捏造とは異質であるうえ、捏造が明らかになってから不要な追試実験を研究機関として行ない、更に、幕引きを研究機関としての責任を誤摩化した形で行なうと言う、前代未聞のものである。日本の組織の異常な体質を世界に宣伝するようなものである。

今回のスタップ論文、ノーベル賞の平均レベルを大きく越える研究成果として捏造されたのだから、ノーベル賞受賞者が首になければ、日本の研究文化の恥辱がかなり雪がれることになる。野依さんが理事長であって良かったということになるのだ。

注釈: 1)ゴリ押しでNatureの審査を通り抜けたというのは、笹井氏が群を抜いて優秀且つ実績のある研究者だったことを示している。この研究者を失ったことの責任を、スタップ論文の共著者に加えた理研幹部はどうとるのか。 2)研究者を退いて、名誉職的な地位についた者(つまり幹部)には有り難い制度だろう。看板が金張りだからと言っても、中身が一流品だとは限らないのが世間の常識である。研究は建物(組織)が行なうのではない。研究者一人一人が行なうものであり、研究チームも研究者が必要に応じて組むものであり、研究機関が組むものではない。

2015年2月13日金曜日

ナッツ姫裁判の不思議 = 人民裁判では?

大韓航空機の航路変更事件、“ナッツ姫事件”の判決があった。 産経ニュース記事によると:
大韓航空前副社長の趙顕娥(チョ・ヒョナ)被告に12日、懲役1年(求刑・懲役3年)の実刑判決が言い渡された。 今回の裁判で問われた5つの罪のうち、最も注目されたのは航空保安法上の航路変更罪だった。趙被告は一貫して「飛行機が動いていたとは知らなかった」と主張。「航路とは離陸後の空路を意味する」と引き返しは航路変更に該当しないとした被告側の主張は認められず、航路変更罪では有罪となった。韓国で同罪が適用されるのは初という。

ソウル西部地裁は「本当に心から反省しているのか疑わしい」「(離陸直前の機内で趙被告から暴言、暴力を受けた)客室責任者と乗務員も趙被告を許していない」ことなどを実刑判決の理由に挙げた。テレビ放送(とくダネ)によると、裁判長の言葉の中に、“国家の威信をも傷つけた”というのがあったという。

  私には、ナッツ姫が犯した罪は、乗務員に対する暴行だけの様に思える。何故なら、飛行機が飛行場から飛び立つ時或いは航空中の最高責任者は、その飛行機の機長であり、このナッツ姫ではない。従って、航空保安法の中身は知らないが、航路変更を行なった罪は機長が問われるべきである(注釈)。日本の航空法も恐らく韓国の法も、国際航空法を元に作られているだろう。そうすれば、滑走路に向かってから到着した空港の滑走路に降り、乗客を降ろす場に停止するまで、機内の最高権威者は機長であるという基本は変わらない筈である。

 機長が大韓航空の社員であり、上司の命令に従わなければならないという就業規則があったとしても、それは航空法に優先する筈がない。ナッツ姫がピストルなどで脅したのなら兎も角、乗務員から”副社長が激怒して引き返せと言っている”と報告があっても、無視すれば良い。暴れ出したとしても、乗務員の男が何人もいるのだから押さえつければよい。もし、それが原因で解雇や減給処分を会社から受けたのなら、不当解雇などで訴える方法がある。

 韓国ではそのように論理的には事は進まないという意見があるかもしれないが、それについては、機長さんは不運だったと諦めるしかない。

 裁判長が判決理由の中で、国家の威信に傷を付けたと言ったらしいが、たかが部下にビンタを見舞っただけで、懲役一年の実刑の判決を受け、おまけに国家の威信云々といわれたのではたまらない。韓国民も3−4年牢にぶち込めと言っているらしいが、それが判決に反映したのなら、将に人民裁判である。
 私は異国の人間故何の野心も無いが、袋たたきのナッツ姫に少し同情する。

注釈:
もし、機長がナッツ姫の要求を通常の業務命令と受け取り航路変更したのなら、航空法違反の共犯者としてナッツ姫が裁かれる可能性があるかもしれない。しかし、主犯であるべき機長はそのような罪で裁かれていない(上記記事の”韓国で同罪が適用されるのは初という”と言う記述がある)ので、その可能性はないだろう。つまり、”副社長の怒り”がピストルを用いるのと同程度の脅迫と看做されなければ、ナッツ姫(副社長)の航空法の違反は成立しないと思う。
==因に、筆者は法律の専門家ではありません。==

2015年2月6日金曜日

エジプトでの首相発言と日本人捕虜殺害事件の関連性に関する質問を「イスラム国寄り」と批判する産経新聞の異常性

ヤフーニュースの「イスラム国寄り」?発言、野党・元官僚続々と言う記事に、日本の貧弱な報道を見る思いである。

記事(産経新聞からの配信2/4,7:55)によると:

(日本共産党の)小池氏は(予算委員会において)首相が1月17日にエジプトで行った演説で、イスラム国対策として2億ドル(約236億円)の人道支援を表明したことを追求。「拘束された日本人に危険を与える可能性があったのではないか」と再三問い詰めた。

それに対して安倍首相は、「質問はISIL(イスラム国)に対し批判をしてはならないような印象を受ける。それはまさにテロリストに屈することになる」「テロリストに過度な気配りをする必要は全くない」と声を張った。

共産党も含め野党各党はイスラム国を非難しているが、小池氏のように「イスラム国側に立った視点」も目立つ。



この記事を読んで、これを書いた方(酒井充氏)は、日本語をまともに理解できる人なのかと思ってしまう。何故、小池氏の質問が「イスラム国側に立った視点」なのか? インフラや人道的支援にしろ、「対イスラム国対策として」と2億ドルの支援を発表したことを、イスラム国が脅しの口実にしたのは事実(実際に黒い服の兵士が、youtubeに配信の画像でそう喋っている)である。そして、首相のわざわざ中東まで出掛けていってあの様な発言をすることが、「拘束された日本人に危険を与える可能性(があったのではないか)」につながると考えるのは、極自然な発想である。「それをイスラム国側に立った視点」と解釈するのは、日本語が出来ない方なのか、現政権におもねって何か利益を得ようとしているかのどちらかだろうと思う。

記事は、更に:

イスラム国に対峙(たいじ)する中東諸国への2億ドルの人道支援の一部は、平成26年度補正予算案に盛り込まれている。政府が補正予算案を閣議決定したのは、人質事件が明らかになった1月20日より前の1月9日。この時や首相演説時に懸念を示す野党は見当たらなかった。


と続く。小池氏が拘るのは、2億ドルの人道支援を非難したのではなく、安倍首相が中東まで出掛けて行き、当地のニュースとしてテレビで流れる事を意識して、カメラの前でイスラム国対策支援を発表したことにある。

この「イスラム国より」という批判を聞いて、何やら気味悪い感覚を持った。戦争中の言論統制が始まるとき、このような雰囲気が政府系の新聞などからひろげられたのだろうと想像する。霧がやがて雲になり、暗雲立ちこめてあらしになるのである。安倍総理は、この機会を捉えて、憲法改正にまで話を広げている。私は憲法改正(特に憲法9条第二項)に賛成するが、安倍総理の下での憲法改正には反対する。

(昨日yahooブログに投稿したものを転載)

2015年2月3日火曜日

勝者はテロリストと呼ばれない

先ず、今回の後藤さん達日本人2名の惨殺を、そしてそれを行なったイスラム国(注1)を、日本国民の1人として強く非難する。更に、二人の日本人を救う為の努力を十分せず(注2)に、徒にイスラム国を刺激し、結果として二人の命が奪われたこと、更に、今後海外で活躍する多くの日本人を不安にしてしまったことに関して、安倍政権に抗議する。(注3)

以下の文章は、テロリズムを一般的に考えたものであり、今回の件を論じたものではない。

以下の文章では、テロリズムの定義としてウイキペディアのものを用いる。つまり、テロリズム(英: terrorism)とは、ウイキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/テロリズム:によると、何らかの政治的目的のために、暴力や暴力による脅威に訴える傾向や、その行為のこと。また恐怖政治のこと。フランス革命での恐怖政治に由来し、フランス語のterreurはラテン語のterreōから派生した語で「恐怖」を意味するという。 歴史に拘らなければ、英語のterror(恐怖)にism(主義とかやり方を意味する)をつけたものとも言えるだろう。テロの定義として、ここでは上記ウィキペディアのものを用いる。

注意を要することは、我々一般国民は、テロリズムという言葉を、凄惨な場面とともに聞かされているため、テロリズム=邪悪という等式(厳密には、テロリズム∈邪悪、つまりテロは邪悪の一つ)とともに理解するように調教されていることである。(注4)更に、為政者によってこの言葉がヒステリックに使われる場合、その政治的目的に関する一般国民の間(そして為政者となった者以外の国民に選ばれた議員達の間)での議論を、封殺する目的が潜んでいる可能性があるということである。

ある政治的な暴力行為(つまりテロ)があったとして、その評価を行なう場合には、その政治的目的も同時に論じなければならない。しかし、その議論に入ると、その行為を非難する側に何らかの不都合が生じる場合もあるかもしれない。その場合、議論を避けながら、その行為を行なうものを排除すること(これも政治的行為)を容易にする為、屢々テロリズムという言葉が強い言圧で用いられる様に思う。

歴史をすこし遡って考えてみる。例えば、凄惨な場面の行為者として、比叡山を焼き討ちした織田信長や、邪魔者である豊臣秀頼らを三条河原で晒し首にするという手法でその他の反抗勢力を封じて、江戸幕府を開いた徳川家康が居る。しかし、二人をテロリストと呼ばないし、その手法にテロリズムのラベルを貼る人はいない(注5)。この例は差し障りがないので選んだが、もっと近い時代に、強国が弱小国の国民に対して、或いは為政者が自国の国民に対して、暴力や暴力に因る脅威に訴えて、政治的目的を達した場合が数多く存在する。しかしそれらはテロとは呼ばれていない。それは、彼らが勝者であり歴史を書く側だからである。つまり、勝者にテロリストは居ないのである。そして、歴史の再評価により敗者になったものは、後にテロリストとされる場合もある。例えば、旧ソ連のスターリンが行なった粛正がテロの例としてあげられている。(上記ウィキペディア)

以上から、テロと呼ばれる行為は大抵、力の弱い者が力の強いものに政治的に反抗する目的を持って行なわれる。勿論一般市民を巻き込む暴力的行為は、事の勝敗に拘らず許されるものではない。しかしその原因、つまり、(1)彼らの政治的目的、と(2)その目的が生じた経緯など、とについて十分考察することが、テロを防ぐことにもつながる。場合によっては、力の強いものに改良すべきことがあるかもしれない。そのテロを減らす為の努力をしないで、一方的にテロリズム=邪悪=排除すべきものという公式により、強者が力のままに振る舞うことは、テロに巻き込まれる一般市民の数を増加させ、消費される兵士と武器と予算が増加することになる。

一部の識者が指摘する重要な問題として、その武器と予算で得をする人間が、強者の近くに居る可能性があることである。つまり、強者(つまり強国の政府)は弱者が起こすテロの共犯者であるかもしれないのだ。

注釈:

1)諸国の承認を得ていないから国と呼べないと言う考え方がある。領土、領民、主権を持っていることが国家の定義だとすれば、彼らの主張が本当であれば国家と呼べないことも無い。議論があるが、ここでは便宜上、イスラム国と呼ぶ。
2)イスラム国に人脈をもつ、中田考氏(元同志社大客員教授)やフリーのジャーナリスト常岡浩介氏www.youtube.com/watch?v=rqnm8KzHh5Mを利用しようとしなかった。中田氏は要請があればイスラム国に出向く用意があると表明していた。
3)二人の日本人を救うための努力を十分しなかったにも拘らず、あの事件を利用して、積極的平和主義や邦人救助の名目で、自衛隊員の海外派遣を常態化する道を開こうとしている。
4)殺人などの行為は邪悪であるが、その邪悪は国境或いは法律を越えて成立しない場合もある。つまり、戦争で敵を殺すこと、法に従って死刑を執行することなどは、悪とは看做されない。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n233038
5)不特定多数の者を対象に暴力を働くことがテロリズムの定義ではないだろう。暴力や脅迫で政治目的を達成しようとする行為で、外交の延長上に位置する形での戦争以外のものである。

2015年2月2日月曜日

国民の命を救うのに自衛隊の海外派遣は必要か?安倍総理の詭弁と無責任

安倍晋三首相は2日の参議院予算委員会で、過激派組織「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」と述べた。

その上で、自衛隊による在外邦人の救出を可能にする議論を進めていく考えを改めて示した。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150202-00000024-reut-asia

今回の後藤さんのケースについて、その経緯に関する質問に答えないで、この様なことを云う無責任さに呆れる。後藤さんのケースでも家族に身代金要求があったことを外務省が把握しながら、そして、中東訪問の時期が適切でないとの意見もある中で、出かけていってわざわざイスラム国を刺激する様なことを行なった。

「国民の命、安全を守るのは政府の責任。その最高責任者は私」と述べるのなら、今回後藤さん救出のために、何を行い、どのような経緯でそれが実を結ばず、自衛隊の派遣がもし可能であったなら、何が新たに出来、後藤さんのケースではどう結果に影響したか? を中東出発前から説明すべきである。

それをすまさないで、自衛隊の海外派遣を言うのは、今回後藤さんが殺されたことを単に利用しているだけではないのか。

2015年2月1日日曜日

経済発展による地域社会の崩壊と老後の孤独

1)経済発展により、経済活動の主役が個人から法人に移った。個人は参政権を持つため、少なくとも政治的には主役の座に留まっている様に見える。しかし、経済的には法人に支配される様になったため、個人は住居を一定の場所に持つ自由を失う。勿論どこに住むかは法的には個人の自由であるが、法人は実質的に個人の住所決定権に経済的な理由で介入することになる。経済発展が進むと、法人は益々広い範囲で活動する様になり、最近では上場企業の殆どはその活動をグローバルに展開している。

ある特定の個人に注目した場合、大学選択の段階で両親の下を離れる。そして、就職の段階で場所を変える。転勤などで移動したのち、壮年期に最後の転勤で落ち着くことがおおいだろう。定年後はその最後の場所に住み続けることが多いのは、主として住宅の取得とその土地への馴染みが関係している。

ある大規模な団地に落ち着いたとして、その団地の町内会のメンバーには、地元の人が最も多いが、半分以上は全国から集まっているだろう。勿論、勤務先の法人も異なり、経済的にも宗教的にも、人々の間には何の関係もないだろう。

その地で育った子供達も同様に、全国に散らばり、老年期に入ると夫婦は孤独な状態で取り残される。片方が死亡すれば、独居老人となる。その時には、経済的にも行政からの年金に頼る場合が多く、そして何かあった時には行政が出て行くしかない場合も多く、将に行政のお荷物になる。自分もそうなるのかと思うと、寒気がする。

2)ここで人間社会の成立過程を考える為に、大昔に戻る(注1)。人間は数千年前までは狩猟生活を送っていたと言われる。2−3千年前に、人間が密に住む様になったのは、食料生産の方法として狩猟よりも遥かに効率が高くて安定している農業が始まったからである。この農耕社会が出来てから、共同作業という経済活動上の必要性が、田舎の地域共同体を創った。

農業の生産量が土地の広さで決るため、人口の増加で紛争が生じるようになる。そこで生き残るのは、大きな単位でまとまった集団であり、それらは疑似国家から国家という形態をとる様になり、そして、紛争が戦争と呼ばれるものとなる。生き残る為には団結と武器が必要であり、その団結の旗頭になったのが宗教であり、強力な武器の原料となったのが鉄であり、その後の火薬を使った銃である。

最近、1)で述べた団地での孤独な老後の問題を解決する為に、地域の人々の間に連携を取り戻そうという運動が、増えている。私の住む町でも、市長が地域協議会をつくることで、行政と地域との関係を密にし、そのプロセスで地域社会の人間関係をより密なものにしようと考えているらしい。しかし、それらは結局成功しないだろう。それは、昔の濃厚な人間関係は生き残る為の手段として発展したのであり、遺伝子の中に人間が本来持つ性質によるのではないからである。現在の団地では、昔の地域共同体に似た濃厚な人間関係などが形成されるポテンシャル(化学的ポテンシャル)はなく、従って出来る筈がないのだ。

3)そのような団地でも、地域社会的でない或る種の人間関係の構築がみられる。それは、宗教を介する人間関係である(注2)。ただ、宗教も定年過ぎてから準備もなしに入信し、その中に一定の場所を見出せるとしたら、その裏に経済的メカニズムがある可能性が大きい。或る種の宗教に入っていることが、狡い人間の出世のコツであるという現実も腹立たしい。そして、そのようなネットワーク的な関係は、そこから疎外される人を多くつくる。

今後、日本国が経済的に力を無くしていった場合、そのような任意的なネットワークからも漏れた、孤独で経済的にも恵まれない人は、社会を不安定なものにするだろう。人は元々孤独であり、その克服の処方箋として歴史的な偉人といえども、無常とか空とか当たり前のことしか言わないし、言ったとしても誰も救われない。

創世記には人は智慧の木の実を食ってエデンの園を追放されたと書かれている。つまり、智慧の木の実は、実は苦い味がするのだ。法然と親鸞の専修念仏は、色即是空の諦めと念仏とを同封して安心の境地に導くものだろう。それは、智慧の木の実を食べたことを忘れる様に暗示をかけることであり、ひとかじりだけの人は救われるかもしれない。しかし、智慧の木の実を半分以上食べてしまったヒトは、両上人の企みを見抜いてしまい、救われないだろう。

どうすれば良い?差し当たり、不必要な人の移動を無くする様、経済圏を一極集中から多極化すべきである。そして、人と土地との親和性を高め、自然人としての立場を部分的であっても回復する。人も他の動植物と同様、土地から生まれ土地に帰る。その自然人としての重要な一部分を人間が回復するためにも(注3)、道州制が必要だといっているのである。経済的な悪影響を最小にするために、日本国を道州制つまりThe United States of Japanに改造することだと思う(注4)。中央集権的な制度は人間的でなく、歴史の中に送るべきである。ただ、中央集権は主として軍事的な意味が重要な時代のものであるから、そして世界は未だに抜けきれていないため、軍事だけは中央に残せば良い。

坂道を下りながら、そんなことを考えた。

注釈:
1)ジャレド・メイスン・ダイアモンド著、『銃・病原菌・鉄』
2)宗教は多くの場合過去の優れた思想家やリーダーの言葉を説く。そこには一定の重みがあり、たぶん、自己暗示が得意な人たちの間で共同体的意識を醸成するかもしれない。ただ、そこでの失敗は心理的重傷を伴う可能性があり危険かもしれない。
3)啄木の歌の「ふるさとの山に向かいて言うことなし、ふるさとの山はありがたきかな」が共感を産むのは、生まれたところの土に帰るという想いがあるからだろう。
4)橋下さんは、経済的な面での道州制の必要性を説いているのであり、この文章は単なる橋下支援のものではない。

テロリストという空しい表現:中世と現代の同居を理解すべき

後藤さんが殺害された。予想されたことであるが、残念なことである。日本の国民は後藤さんから多くのことを学び、彼の死を無駄にしてはならない。
安倍総理の「テロリストに屈してはならない」と言う言葉がテレビで空しく響いている。”テロリスト”の前面にわざわざ国民を立たせたのは、安倍さんではないのか。

中東地域が近代化を終えた先進国であれば、テロリストに屈しないという表現は正しいかもしれないが、あの地域は未だ中世なのだ。米国を中心とする先進国の論理は、そのまま通用しない。

イスラム国は国家ではないし、一世紀前のことを云々するのは今や正しくはないだろう。しかし、オスマン帝国解体後の国境線云々という西欧(英国やフランス)と中東地域の問題が未だに燻っているとしたら、そのような所のトラブルにわざわざ出掛けていってまで、日本が首を挟むべきではない。人道支援なら、日本政府が従来の方針通り、行なえば良い。

CBC放送で姜尚中さんが言っていた様に、今回のイスラム国の声明の対象は安倍さんや日本政府であり、前回の動画で対象であった日本国民という言葉が消えていた。安倍さんは、軽々しく「イスラム国に対して国際的に協調する」と言う様な表現をしているが、その意味を理解しているとは思えない。私は安倍さんの経済政策なども含め、最初から(第1期から)全く評価していない。

追加:イスラム過激派と一般のイスラム教圏とを区別しなければならないという意見があるが、現状ではそれに大きな意味を置いてはならないとおもう。イスラム圏についての詳細な知識を蓄積するまでは、その中から過激派が出てくる事実をそのまま受け入れるべきである。日本人のなかでも、一部金持ちだけは例外であり、区別すべきであるという議論と同様である。