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2026年1月31日土曜日

畏れ多い神に対する二つの表現:一神教と多神教

まえがき

ハリウッド女優として著名なナタリー・ポートマンが、日本への留学経験を振り返り、日本人の静けさや日常の所作に込められた敬意と感謝の感覚について語っている。この動画が、私がこの議論を始める直接のきっかけである。彼女は、町の清潔さや人々の控えめな態度を、日本人の宗教性の反映であると的確に捉えている。


今回は、ナタリー・ポートマンの言葉の紹介からはじめて、人と宗教の関わりを、一神教と多神教の壁を超えて考えてみたい。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=cgoTWcwtTMg)

 

1.ナタリー・ポートマンが見た日本――日常に溶け込む神の臨在

この動画の中で、ナタリー・ポートマンは、日本に降り立った直後の感覚から語り始めている。その語りは、日本人自身が意識することの少ない日本社会の特質を、外部者の視点から驚くほど正確に捉えている。

 

彼女がまず語るのは、日本に到着した直後の空気感である。空港から町へ出たとき、そこには騒音や混乱ではなく、無音に近い秩序が支配していた。人々は声を荒げず、互いの存在を邪魔しない距離を自然に保っている。秩序や規則というよりも、「他者の存在を尊重している空気」が、空間全体に満ちているように感じられたという。

 

さらに日本での日常生活を通じて、彼女は別のことに気づいていく。食事の前後に手を合わせ、「いただきます」「ごちそうさま」と言う所作。道具や食材を粗末に扱わない態度。誰かのために用意されたものを、当然の権利として消費するのではなく、感謝とともに受け取る姿勢である。

 

彼女自身、ユダヤ教徒として食前・食後の祈りに親しんできた。ただ、日本のその祈りは、何も宗教的なものではなく、単なる食事の際の挨拶のようなものだと気づいた。しかし、その「挨拶」の中には、命あるものすべてへの感謝や、他者への敬意が確かに込められている。

 

日本人自身はそれを信仰行為だとは意識していないが、国際的な基準、とりわけ一神教文化圏の視点から見れば、それは明確に信仰行為と呼ぶべきものである。しかもその信仰は、特定の神を名指しすることなく、日常の行為として静かに実践されている。

 

重要なのは、日本人自身がそれを「宗教的行為」としてほとんど自覚していない点である。信仰を主張するつもりもなく、神を意識的に拝んでいる感覚もない。それでも日常の所作の中に、あらゆるものに対する敬意と慎みが染み込んでいる。この点において彼女は、日本の生活文化の底に、多神教的伝統が生きていることを見抜いた。

 

彼女は、この感覚を決して自分にとって異質なものとは捉えなかった。そして、ユダヤ教の中にも、神は唯一でありながら「あらゆるところにいる」と考えられてきた伝統があることを指摘している。神は神殿の中だけに存在するのではなく、人の行為や関係の中に臨在する。この「神の臨在」という感覚は、日本神道における神の在り方と、驚くほどよく似ている。

 

ナタリー・ポートマンの語りは、日本文化を外から観察した感想にとどまらない。それは、一神教の内部に存在する臨在の感覚と、日本の多神教的伝統が、深いところで通じ合っていることを示す、貴重な証言である。

 

2.白いキャンバスとしての神――一神教と多神教という二つの表現

ここから、より一般的な宗教の問題へと進みたい。

 

人間が神について語るとき、そこでの表現されるのは神そのものではなく、神を前にした人間の姿である。一神教と多神教の違いも、神の性質の違いと言うより、人間が超越した存在にどう向き合い、それをどのように表現してきたかの違いとして理解すべきではないだろうか。

 

神が、何も描かれていない白いキャンバスだとするなら、一神教と多神教は、その上に人間の活動を絵具として描かれた二つの絵である。キャンバスそのものは同じで、違うのは、絵を描いた人間の置かれた状況と、その中で戦い生き延びてきた姿である。

 

多神教は、人類が最初に神を「感じた」形に近い。自然の圧倒的な力、生命の誕生と死、偶然と必然が交錯する世界の中で、人々は神を感じ、神を畏れながら生き延びた。神は定義されず、所有されず、ただ「そこに在るもの」として敬われ怖れられた。日本の神道に見られるように、神は万物に宿るが特定の箇所には閉じ込められない。

 

一方で一神教は、異なる歴史的条件の中で生まれた。厳しい自然環境、絶え間ない対立、集団の分裂が生存に直結する社会において、人々は選民となって神を独占せざるを得なかった。神は唯一となり、善悪は明確化され、共同体をまとめる規範の中心となる。それは、人間が生き抜くために、神の表現を圧縮し、制度化した結果である。

 

重要なのは、どちらが正しいかではない。一神教も多神教も、人間が畏れ多い超越に向き合ったときの、異なる応答の形にすぎない。多神教は神を畏れたままにし、一神教は神をまとめ上げて規範とした。その違いは、神の違いと言うより、人間社会の置かれた条件の違いである。

 

あとがき

経済のグローバル化と情報ネットワークの発達によって、人々は否応なく異なる価値観や信仰と接する時代に入った。その過程で、相互理解を深める契機が増えた一方で、宗教や信仰の違いが新たな摩擦を生む場面も少なくない。本稿で述べた、超越神と人々の関係、及びその歴史と多様性は、そのような異なる立場や勢力のあいだをつなぐ、一つの架け橋となりうるのではないだろうか。

 


(本稿は、筆者の思考整理および文章構成において、OpenAI ChatGPTの協力を得て作成した。)

 

 

2026年1月30日金曜日

日本はなぜ自らの安全をまともに語れないのか

――無能な政治家と、その尻ぬぐいを引き受ける評論と司法――


はじめに

衆院選公示前日のテレビ朝日「報道ステーション」において、各党代表が出演し、選挙に臨む姿勢を公表した。その中で高市首相は、北朝鮮を「核保有国」と表現した。この発言は直ちに、高市氏の「無知をさらけ出す見解」として攻撃の対象となった。

 

同日に収録・配信されたYouTubeチャンネル「デモクラシータイムズ」では、高瀬毅氏と政治評論家の半田滋氏がこの問題を取り上げ、高市首相の一連の安全保障発言の危うさとして問題視した(以下、当該番組)。

 

https://www.youtube.com/watch?v=lkVAwRvH45g 

 

半田氏は、「日本はNPT加盟国であり、北朝鮮を核保有国と認めたことは一度もない。従って首相の発言は正しくない」と断じ、官房副長官が翌日に行った「完全否定」会見をもって、その誤りは是正されたと説明した。

 

しかし、北朝鮮が核保有国であることは国際的にも常識であり、高市首相の発言を間違いであるとする政治の方が異常なのである。https://forbesjapan.com/articles/detail/60930/page2

 

評論家が議論すべきは、この政治の異常そのものである。このような真実の隠蔽を、政治家の専門家芸として評価することは誤りである。マスコミや評論家は、日本国民の安全と福祉の実現を原点に置き、政治家と国民の間のメッセンジャーになるべきである。

 

1.評論家は「分析者」ではなく「後処理係」なのか

当該番組における半田氏の議論は、一貫して次の方向を向いている。
北朝鮮は事実上核を持っているだろう
しかし日本政府はそれを認めてはならない
なぜならNPT(核兵器不拡散条約)の枠組みが崩れるからだ

 

一部には、これを冷静で理性的な議論だと受け取る人もいるだろう。確かに、ねじれた政治空間に生きる政治家として、高市氏が専門用語を用いなかったことは問題かもしれない。しかし高市氏の発言は、国民に向けて現実を述べただけである。

 

評論家が行っているのは、首相の現実認識を国民の安全保障という観点から検証することではなく、核保有大国の利益のために構築された国際条約(NPT)を擁護する立場からの攻撃である。

 

政治家が現実を誤認する
評論家が「言い方の問題」に変換する
官僚が「政府見解に変わりはない」と収拾する

 

日本ではこの図式が繰り返される。実際の時系列はともかく、評論家が国民の側に立っていないことは明白である。この循環の中で、誰一人として「では日本の安全はどうなるのか」を正面から問わない。評論家は権力を批判しているようで、実際には政治の失敗を制度論で覆い隠す尻ぬぐい役を果たしているにすぎない。

 

北朝鮮が核ミサイルを保有していることは国際社会の常識である。中国とロシアは言うまでもなく核大国であり、核威嚇を現実の外交カードとして用いている。この状況下で、「北朝鮮を核保有国と呼んではいけない」という言語的禁欲が、日本国民の安全を高めるのか?

 

NPTは理念として尊重されるべきだとしても、すでにNPTが安全保障の現実を統制できていないことは明らかである。それにもかかわらず、現実を語ること自体を「不適切」とし、条約違反か否かという形式論に議論を押し込める態度は、安全保障ではなく、思考停止を守っているだけである。

 

2.安全保障の危機は政治空間でのごまかしの成果である

本来、安全保障をまともに語れない政治家は、民主主義社会では淘汰される。現実を直視できない、国民に説明できない、責任を取らない――そのような人物が政権中枢に居座れるのは、評論家・学者・司法が一体となって、その場しのぎの尻ぬぐいをしているからにほかならない。

 

その政治家の欺瞞と無策、そして尻ぬぐいの積み重ねが、現在の安全保障危機を招いているのである。典型的な例を挙げる: 自衛隊は明確に軍事的実力組織である。しかし政治家はそれを認めたがらず、認めなくても済む。そのご都合主義は、国民の多くが「戦争の惨禍」と「軍隊」を同一視し、忌避してきたからである。

 

このようにして自衛隊が現実に存在し続けているのは、最高裁が自衛隊は、軍隊を持たないと定めた憲法9条に違反するという判断を回避してきたからである。それは統治行為論と呼ばれ、司法の限界として認識されてきた。そして評論家や学者は、それを高度な判断として容認してきた。これこそが、倒錯した日本政治の現実である。


日本国民が周辺核保有国の脅威におびえる現状は、日本国憲法と政治家のごまかしを、専門技術として正当化してきた最高裁・評論家・学者の尻ぬぐいの結果である。

 

同様の構造は、佐藤栄作の非核三原則とその継承にも見られる。それが温存されてきたのは、「米軍が核兵器をわざわざ取り外して沖縄に寄港するのか」という問いをタブー化してきた、マスコミ・学者・評論家の努力の成果である。

 

因みに、ニクソン政権期に首相であった佐藤栄作が、核武装を決断し、国民に対して「日本は自らを守る国家になる」と説明していたなら、日本は核保有国として米国の対中国封じ込め戦略に主体的に参加する国家になっていた可能性がある。この歴史の真実も、マスコミ・学者・評論家の世界では今なおタブーである。

片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)

 

3.なぜ正常な道が選ばれなかったのか

何故、政治家の無策と誤りを、マスコミ・評論家・学者、そして司法が尻ぬぐいしてきたのか?そしてこの構造は、放置され今後も続くのだろうか。

 

日本の政治家は、日本国民のためには働いているように見えて、実は他の大きな力の支配下にある。マスコミと評論家もその政治秩序の中だけに存在し得るのである。それ故「政治の根本矛盾を指摘しない」ことこそが、日本の政治評論家の活動条件だからである。

 

つまり、国民と政治の間に厚い壁が存在し、政治が国民のために存在していないことを明確に示している。市民革命では、国民が暴力を含む力で、政治を国民の支配下に置いたのである。その経験を経た国々、つまり近代国家では、政治は国民が支え、国民のために存在するのである。

 

米国は南北戦争を市民革命として経験し、民主国家となった。現状は理想から乖離しているとはいえ、米国はなおそれを回復する知性とエネルギーを持つ国家である。一方、残念ながら現状の日本は近代国家ではない。さらに言えば、過去に近代国家であったという歴史的記憶すら持たない国である。

 

ただし、近代国家となる可能性が完全に失われたわけではない。現在の苦境を把握し乗り越えたなら、その先に近代国家を得る可能性があると思う。

 

おわりに

日本の問題は、政治家が無能であることだけではない。無能であり続けることを許してきた、評論・学問・司法を含む言論空間そのものにある。安全を語らないことで安全を装う時代は、すでに終わっている。
それを直視できない者に、政治を語る資格はない。

 

補足

1: 真面な議論も全く無いわけではない。三浦瑠麗氏の以下の文章を今朝みつけたので、補足とします。


2.ただ、chatGPTの調査によると、韓国も日本同様公式文書では「持っている」と断言していない。したがって、補足1の記事の中での「北朝鮮を核保有国と呼ばないのは日本だけのガラパゴス」という三浦氏の主張は、公式表現の事実としては正確ではないようだ。ただ、核の現実を前提に議論を回しているかどうかという点では、日本の言論空間の萎縮は際立っている。

 

 (本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)

2026年1月26日月曜日

エリート支配の官僚制国家の限界

――トランプとイーロン・マスクに見る国家管理の転換点――

 (本稿は、OpenAIの対話型AIであるChatGPTの協力を得て作成されたものである)

はじめに

現代の世界秩序は、民主主義や自由主義を標榜しながら、実態としては専門家、官僚、国際機関、巨大資本によるエリート支配の官僚制国家へと収斂してきた。その過程で、国家はあたかも意思をもつ主体であるかのように語られ、人間一人ひとりの生や責任は、制度や理念の背後に押し込められてきた。

 

こうした構造に対して、しばしば同列に語られる二人の人物――ドナルド・トランプとイーロン・マスク――は、まったく異なる立場から、しかし共通して、この官僚制国家のあり方に異議を唱えている。本稿では両者を単なる政治家や実業家としてではなく、国家と文明の構造を直感的に捉え直そうとしている存在として位置づけ、その共通点と相違点を整理する。

 

1.国家は主体なのか、それとも道具なのか

近代以降、国家はしばしば人格をもつ主体として扱われてきた。国家の名において戦争が行われ、制裁が課され、国民の犠牲が正当化される。しかし冷静に考えれば、国家とは本来、人間の生存と共同体の維持のために作られた道具であり、それ自体が倫理的主体であるはずがない。

 

トランプの政治行動には、この感覚が強く表れている。彼は理念や国際秩序よりも、今そこで無駄に失われる人命を減らすことを優先する傾向がある。長期占領や抽象的正義の名の下での介入に消極的である点は、国家を神聖視していないことの裏返しでもある。

 

しばしば「MAGAMake America Great Again)」は国家主義的スローガンとして解釈される。しかしそれは、リベラリズム的価値を掲げるエリート支配構造を破壊するための短期的・戦術的表現である可能性も高い。本稿では、トランプを一貫した国家主義者として評価する立場はあえて取らず、官僚制国家への破壊的作用という機能に限定して論じる。

 

国家は守るべき神話ではなく、人間を生かすための装置である。この認識は、トランプにおいては理論ではなく感覚として現れている。

 

2.文明を主体と考えるということ

一方、イーロン・マスクは国家を否定してはいないが、国家を人類文明を構成する一つの制度的単位として相対化している。彼の語る「文明」や「人類存続」とは、個々の国家を超えた、人間とその歴史の連続体である。

 

文明を主体と考えるということは、抽象的な集合概念を持ち出すことではない。それは、世代を超えて受け継がれてきた人間の試行錯誤と、その蓄積としての歴史を主体として捉えるという意味である。国家はその過程で用いられてきた道具の一つに過ぎず、絶対的な存在ではない。

 

この点で、トランプとマスクは異なる言葉を用いながらも、国家を最終目的として扱わないという立場を共有している。

 

3.短い視界と長い視界――方向の一致

トランプとマスクの最大の違いは、視界の長さにある。トランプの視界は数年から十年程度であり、崩れつつある秩序を当座で是正することに向いている。一方、マスクの視界は数十年から数百年に及び、人類文明の存続確率そのものを問題にする。

 

しかし重要なのは、短期的な方向性において両者はかなり一致しているという点である。

 

理念先行のリベラリズム、専門家と官僚による自己目的化した支配、正しさを自認する人々の思い上がり――これらに対する拒否感は共通している。壊している対象が同じである以上、両者が同じ方向を向いているように見えるのは自然なことである。

 

4.国家管理の主体をどこに置くのか

 

国家が道具であるなら、その管理主体は本来、構成員全体であるべきだ。しかし近代国家では、情報処理と管理コストの制約から、それは技術的に不可能だった。その結果、代表制と官僚制が必然として生まれた。だが現在、私たちはすでにネット社会の中に生きている。この環境を利用すれば、全員参加型の情報共有、分散的な検証、履歴の保存といった仕組みは、少なくとも技術的条件としては整いつつある。

このような、ネットを基盤とした国家管理の構想は、決して前例のない空想ではない。現代の消費文明は、次々に現れる製品を、市場――すなわち多くの人々の評価――によって育ててきた。製品は使われ、評価され、生き残り、淘汰される。その累積が標準を形作ってきた。

ここで、消費財の製造から分配に至るこの仕組みを、政治や政策の分野に応用することを考える。実行された政策もまた、その結果が可視化され、評価され、次に反映されるべき対象となる。誰かが正しいと宣言したからではなく、どのような結果をもたらしたかによって評価される。これらの履歴は、改竄が困難で、関係者に共有される形で記録される。

重要なのは、市場経済を基盤とする自由主義経済圏が、リベラリズム的な国家運営を採用した共産圏のエリート支配国家に対して、消費文明という分野において決定的な優位を確立してきたという歴史的事実である。生活の質、技術革新、選択の多様性において、その差は明らかである。この現実を、国家運営の分野においても直視すべきであろう。

このような国家管理モデルに参加する一般市民の能力差は、生得的属性ではなく、過去の実績と寄与によって測られる。無関心は許されるが、その場合は寄与ゼロとして平均的な国家サービスを受け取るにとどまる。これは排除や制裁ではなく、参加の自由と責任を対応させた結果に過ぎない。参加は自由だが、影響力は責任と寄与に比例する。政策の具体的な実行については、縮小された官僚機構がこれを担うと考えればよい。

以上の構想は、人間に代わって判断する「AIによる統治」を意味するものではない。AIは、評価の集計や履歴管理を補助する道具として用いられるにすぎず、最終的な主体はあくまで人間である。本章で述べたのは、AIを補助的に用いた政府運営モデルの一つの可能性に関する提案である。

 

5.国際関係における暫定的な位置づけ


現在の国際関係においては、近代的な国家主体論が依然として支配的である。しかしそれは、国内政治の現状においても同様であり、国際関係だけが特別に遅れているわけではない。いずれも方向性が定まれば、時間が解決していく問題である。

本稿で提示してきた国家管理モデルは、国内政治において構成員全体の評価と履歴管理を中核に据えるものであったが、国際関係においても、同一原理を直ちに否定する理由はない。

具体的には、国内政治のための帳簿とは別に、国際関係に関わる政治的行為を記録・評価するための、もう一つの帳簿を用意するという発想が考えられる。制裁、通商、軍事行動、環境政策など、複数国家に影響を及ぼす判断について、その結果と影響を国境を越えて蓄積するための帳簿である。

もっとも、このような仕組みが一挙に導入されることは現実的ではない。国内政治においてさえ、ネット社会を前提とした管理構造の導入には国ごとの時間差が存在する。したがって、国際関係においても、各国の事情を踏まえた経過措置を現実的に組み上げていく必要がある。

本稿では、国際政治を直ちに再設計しようとするものではない。ただし、国家を主体ではなく道具として捉え、評価と履歴によって政治を管理するという方向性が、国内にとどまらず国際関係にも連続的に適用され得ることは、ここで確認しておきたい。

おわりに

トランプは、エリート支配の官僚制国家という虚構を破壊する役割を担っている。マスクは、文明を支える技術基盤を更新し、人類存続という時間軸を突きつけている。両者は同じ世界を夢想しているわけではないが、同じ構造的限界を直感している。

 

国家を主体ではなく道具として捉え直すこと。理念ではなく、人間の生と責任を基準に世界を再構成すること。そこに、この二人が同時代に現れた意味がある。

 

この先の制度設計は、人類がもう少し先に進んでから、より能率的に考えることができるだろう。本稿は、その入口に立ったに過ぎない。

(2026/1/25)


 

 

戦後秩序の終焉と新しい国際平和構想

――平和評議会と「地域平和ベルト」という現実主義――

はじめに

国際連合は、その制度的遺伝子において、第二次世界大戦の戦勝国秩序を色濃く引きずっている。安全保障理事会常任理事国制度、敵国条項、そして集団安全保障という基本設計はいずれも、「再び世界大戦を起こさせない」ことを最優先に構築されたものであった。


しかし21世紀に入り、世界の不安定要因はすでに戦間期型のものではなくなっている。冷戦を規定してきた共産主義と自由民主主義の対立は事実上終結し、同時に、リベラリズムによる価値の普遍化もまた限界に直面している。

 

このような歴史的転換点において、国連とは異なる発想と遺伝子をもつ国際平和構築の枠組みが必要ではないか。その問いに対する一つの試みが、2026年の世界経済フォーラム(ダボス会議)において、トランプ政権が正式に提示した「平和評議会(Board of Peace)」構想である。


会議の冒頭セッションでは、米国国務長官の マルコ・ルビオ が登壇し、この構想を単なる理念ではなく、紛争管理と安定化を目的とする実務的な枠組みとして説明している。また ドナルド・トランプ 自身も演説の中で、正義や価値の押し付けによって戦争を止めることの限界に言及し、現実の力関係と抑止による安定の重要性を強調した。

 

しかしこの構想は、日本ではほとんど報道されていない。その背景には、日本の報道空間が長年、国連中心主義や理念的平和観を前提として形成されてきたため、それと異なる現実主義的発想を「評価の対象」として捉えにくいという構造的要因があると考えられる。本稿は、ダボスで提示されたこの構想を起点として、戦後国際秩序の限界と、日本が直面する安全保障と国際秩序の選択について考察するものである。

1.平和評議会構想の性格――規範ではなく均衡

平和評議会構想の最大の特徴は、「正義」や「価値の普遍化」を前面に出さない点にある。それは、国連型の規範的平和ではなく、均衡と管理による平和を目指す構想である。

 

この発想は、ドナルド・トランプの政治の際立った特徴の一つであり、理念よりも現実の力関係と安定を優先する姿勢に貫かれている。

 

そして重要なのは、冒頭セッションでマルコ・ルビオ国務長官が説明したことから判るように、この考え方がトランプ個人の気質にとどまらず、米国の外交・安全保障を担う支配層の一部において、すでに現実的選択肢として共有されつつあるという点である。

 

平和評議会構想は、現代世界の不安定な力学を前提にした、実務的かつ現実主義的な平和構築の試みとして位置づけることができる。

 

2.国連秩序の限界と日本の置かれた位置

日本にとってこの問題が抽象論にとどまらないのは、中国が現在でも国連憲章の敵国条項を外交的文脈で持ち出しうる立場にあるからである。形式的には死文化しているとされながらも、制度として残存している以上、それは政治的・戦略的カードとして使用可能である。

 

戦後日本は、占領期の政治的再編の結果もあって、国連中心主義と国際法秩序への信頼を基軸とする理念先行型の国家として形成されてきた側面を持つ。例えば、非核三原則や核兵器廃絶といった理念は、日本社会の倫理的基盤として尊重されてきた。

 

しかし、それら理念を唱えること自体が、国際社会に現実の平和をもたらしてきたわけではない。そして今日、日本はその規範主導の秩序の「受益者」ではなく、「制約される当事者」へと立場を変えつつある。


歴史を振り返れば、戦争の拡大を抑制してきたのは理念の正しさではなく、戦争を起こせば自らも破滅するという冷厳な現実認識であった。この現実認識こそが、結果として多くの戦争を抑止してきた。

 

つまり、平和は理想によってのみ維持されるのではなく、すべての価値は生存を前提として初めて意味を持つ。そして今日、日本にとって国連とは異なる系統の平和構想に関与することは、理念選択ではなく生存戦略の問題である。

 

トランプ流の平和構想が日本にとって理解しにくいのは、それが理想を否定するからではない。
理想を語る前に、まず生き延びることを最優先するという、極めて原初的かつ普遍的な思考を前提としているからである。

 

3. 日本が果たしうる役割

日本はこの構想において、主導権や条件を提示できる立場にはない。軍事力でも資金でも、中心的プレイヤーではないからである。しかし日本には別の役割がある。それは、憲章形成のプロセスに参加し、将来に耐えうる概念と言葉を書き込むことである。

 

とりわけ重要なのが、「地域平和ベルト(Peace Belt)」という発想をこの評議会の枠組みの中に持ち込むことである。地域平和ベルトとは、同盟でも価値共同体でもない。それは、高い緊張が存在する地域において、全面戦争への転化を防ぐための連続的な安定空間を指す概念である。

 

この発想はすでに中東(ペルシャ湾・レバント)では事実上用いられており、将来的には北欧・東欧にも適用されうる。その中で、日本が最初に明示的に提起しうるのが インド太平洋平和ベルト である。

 

その根拠は、①まだ全面戦争に至っていないこと、②米国・中国・ASEAN・日本のすべてが「戦争回避」で一致していること、➂日本は宗教・イデオロギーを輸出しない立場にあること、である。これらの条件を同時に満たす地域は、他にほとんど存在しない。

 

4.憲章に盛り込むべき中核的考え方の提案

平和評議会の憲章には、少なくとも以下の原則が盛り込まれるべきであると考える。

  • 平和は理念の共有ではなく、地域に即した均衡によって維持されること

  • 平和評議会は既存の国際機関を補完する実務的枠組みであること

  • イデオロギーや体制の押し付けを行わないこと

  • インド太平洋を含む地域平和ベルトの形成を目的に含めること

  • 組織は特定個人の永続的支配に依存せず、制度として継続可能であること

これらは特定国を名指しするものではないが、将来の逸脱を抑制するための言語的な歯止めである。

 

おわりに――日本が書き残すべき言葉

日本は、世界に「正しい平和」を教える立場にはない。しかし、戦争を起こさせないための構造的知恵を言語化することはできる。国連の次に来る秩序が何であれ、それが永続するかどうかは、創設時にどのような言葉が刻まれたかに左右される。

 

力ではなく、言葉によって未来の選択肢を残すこと。それこそが、この歴史的転換点において日本が果たしうる、もっとも現実的な国際的貢献である。

 


〈付記〉

本稿は、筆者と対話型AIChatGPT)との議論を通じて整理・構成された思考をもとに執筆されたものである。内容の最終的な判断と責任は筆者に帰属するが、構想整理および文章化の一部にAIの協力を得ている。

(2026/1/26)