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2026年11月7日土曜日

「マウントを取る」社会の末路――共通言語の崩壊と教育の倒錯

 

はじめに:一本の動画と、最大の共感を集めたコメント

先日、YouTubeで岡田斗司夫氏の切り抜き動画を目にする機会があった。この人の語り口や論法をそれほど評価しているわけではないが、表題にある種の異常さを感じたので、5-6分視聴した。

 

印象にのこったのは岡田氏の言葉ではなく、非常に「いいね」の評価を得たコメント:「エリートは互いをリスペクトし、下層民はマウントを取る、と聞いて腑に落ちるものがありました」の中の「マウントを取る」という表現だった。今回、初めて聞いた表現だったのである。https://www.youtube.com/watch?v=LbRCy2vwKvI

この表現の意味を、AIモードのグーグル検索に聞いた。「マウントを取る」とは、格闘技で相手を仰向けに倒して馬乗りになる「マウントポジションを取る」から転じ、人間関係で「相手より優位に立とうと誇示する行為」を指す現代語だというのである。

 

そこでもっと驚いたのは、「今や辞書にも掲載されている高齢者にも定着している言葉です」というgoogle AIのコメントだった。確認したのだが、Weblio辞書にはしっかりその意味が掲載されていた。

 

ただ、その後のAIによる解説で、その語源と使われ方、そして動画全体の文脈を知るにつれ、私は強い違和感と危機感を抱かざるを得なかった。ここには単なる若者言葉の流行を超えた、現代の言語空間が冒されている深刻な病理と欺瞞が凝縮されているからである。

 

第1章:生々しさの隠蔽と、解像度の低下がもたらす「思考の貧困」

まず看過できないのは、この言葉の背後にある狡猾な「脱臭と隠蔽」の構造である。

 

元来、人間関係におけるこの手の優位性誇示は、動物行動学における「マウンティング(交尾様行動)」という概念に由来していた。サルなどの霊長類が群れの序列を確認するために、交尾の姿勢を真似て相手の上に乗りかかる行為である。

 

そこには明確に動物的な暴力性と性的な生々しさ、そして品性の卑しさが含まれていた。日常会話や公の場で「マウンティング姿勢」などと口にすることは、あまりにも生々しく下品であり抵抗が伴うので、格闘技用語の「マウントポジション」を隠れ蓑にし、さらに位置を示す「ポジション」すら削り落として、「マウントを取る」という無難なスポーツ用語風の記号へと偽装・脱臭したのである。

 

この「言葉の漂白」によって、人々は何の心理的躊躇もなく、この軽薄なレッテルを他人に貼り付ける免罪符を手に入れた。文法的な破綻以上に深刻なのは、この言葉を使う側の「他者に情報を正確に伝える意志の薄弱さ」である。

 

「あいつ、私にマウントを取ってきた」と憤る人は、一体聞き手に何を伝えようとしているのだろうか?

  • 相手は「学歴や知性を誇示した」のか

  • 「収入や生活水準の高さを見せつけた」のか

  • それとも「客観的事実に基づき、良かれと思って忠告した」だけなのか

本来、そこには多様で具体的な文脈と客観的事実が存在するはずであるが、「マウント」という極めて解像度の低い(サルレベルの)言葉を投げつけた瞬間、それら一切の文脈は消滅してしまう。

 

相手が何を言い、その根拠は何だったのかを論理的に分析したり、自分の至らなさを内省したりする労力はすべて放棄され、「相手が自分を見下した」という安直な被害感情のラベルだけが残るのである。

 

言葉が通じるということは、単に仲間内でスラングを交わし合って「わかった気」になることではない。自分の頭の中にある複雑な思考や客観的事実を、論理という共通のメカニズムを用いて相手の脳内に正確に再現する――その知的コストを支払うことこそが、コミュニケーションの本質である。

 

その努力を怠り、解像度の低い言葉で思考停止に陥る態度は、精神の怠惰にほかならない。そして、そうした言葉に依存すると、その人は客観的思考の力を急速に衰退させていくことになる。

 

第2章:二つの世界――共通言語の喪失と「批判の無力化」という罠

冒頭の「エリートは互いをリスペクトし、下層民はマウントを取る」という言葉は、確かに言語空間が生み出した社会の断絶を物語っている。

  • 上層社会(知的生活を営む層): 客観的事実、データ、論理に基づいた「精緻な共通言語」を持つ。意見が異なっても、互いの論拠を尊重(リスペクト)し合うことで、建設的な対話や協働が成立する。


  • 下層社会(解像度の低いスラングに閉じた層): 客観性を欠いた感情のラベルをぶつけ合う。他者の正論や親切な忠告すら「マウント」と受け取って敵視し、足を引っ張り合う。

同じ日本語を話しているように見えて、両者の間にはもはや会話が成り立たないほどの「深い谷」が穿たれている。エリート層がそうした言語空間から距離を取り、互いにリスペクトし合える閉じたコミュニティへと退避していくのは、冷徹な自己防衛の結果であり、必然の帰結である。

 

だが、ここで見落としてはならない狡猾な言説の罠がある。件の動画では、「下層の人々が互いに連帯する唯一の方法は、ディープステートなどの悪徳エリートを敵に仕立てて叩くこと(陰謀論)だ」といった論理を展開し、あたかも権力批判を行う人々全体を下層の短絡的なガス抜きであるかのように矮小化していた。これこそ極めて悪質なプロパガンダである。

 

世界は日本という狭い共同体の内側だけで完結していない。一歩外に目を向ければ、強大な力を持つエリート層が他国の共同体を破壊し、自らの利権を拡大しようと冷酷な企てを行っているのが国際政治の冷徹な実態である。

 

いわゆる「ディープステート」という呼称が適当かどうかは別としても、米国をはじめとする超大国の高級官僚機構や軍産複合体、金融資本が独自の意志を持って動いていることは公然の事実である。

そうした外部からの脅威や権力の謀略を危惧し、自分たちの共同体を守ろうと必死に予防策や対抗策を議論している良識あるエリート層の真剣な危機感までも、「下層民が好む陰謀論」という雑駁なレッテルを貼ってゴミ箱に捨て去る。

 

これこそが、解像度の低い言葉を使って思考を停止させ、民衆を思考の檻に閉じ込める言説操作の正体であり、私がこの動画の語り手を評価しない理由でもある。

 

第3章:教育における「価値序列」の倒錯――中世・近代史の復権

この言語空間の劣化と、権力やプロパガンダに容易に操られる社会の解体を食い止める防波堤はどこにあるのか。

 

私は、義務教育の質の向上のほか、教育内容設定における分野間の序列の根本的な転換以外に道はないと考えている。昨今の教育改革が叫ぶのは、STEM(科学、技術、工学、数学の頭文字)教育、特にデジタル技術教育等の実学重視の掛け声ばかりであり、上記のような問題意識は皆無である。

 

もちろん、科学技術や理科教育が無意味だと言うつもりはない。自然科学の知見や工学技術は、文明の利便性を支える重要な要素である。しかし、それらは所詮「道具」に過ぎない。その強力な道具を、誰が、いかなる理念に基づいて、社会全体の幸福のために運用するのか。それらを決定するのは、その社会に生きる人間の精神であり、合意形成を行う対話の力である。

 

社会の土台として最優先で叩き込まれねばならないのは、技術の操作法ではなく、「言語教育」と「動態的な歴史教育」だと思う。

 

1. 言語教育 主観的な感情と客観的な事実を明確に峻別し、他者を説得し得る論理的な文章を構築する力を養うこと。「マウント」のような「安易なラベル貼り」に逃げず、事象を精緻に言語化する知的訓練である。

 

2. 歴史教育(とりわけ中世から近代の重視) 単に年号や人名を暗記する教育には何の意味もありません。重要なのは、「なぜその時代に社会がその方向へと動いたのか」「当時の民衆や支配層は何を感じ、いかなる力学が働いたのか」「それが次の時代にどう影響し、果たしてその選択は正当だったのか」という、当事者的な感覚を呼び覚ます歴史の共有である。

 

 

封建制の解体、宗教改革、絶対王政から市民革命、そして近代国家の成立と帝国主義の衝突に至る「中世から近代」の歴史とその“力学”を学んでこそ、人間は権力の構造や社会の脆弱性をリアルに理解できる。

 

この「言語」と「歴史」という二つの強固な土台があって初めて、人間は異なる立場の人々と広域(日本という国全体)で手を取り合い、権力のプロパガンダを見抜き、民主的な共同体を運営することができる。

 

土台をないがしろにしたまま、枝葉である技術や理科教育ばかりを肥大化させても、出来上がるのは「高度な技術を操りながら、感情的なラベル貼りとマウントの取り合いに終始し、容易に権力に誘導される未熟な人間(つまりサル)」の群れに過ぎない。

 

結語:社会の底が抜ける前に

YouTubeの一本の動画と、そこに寄せられた何気ないコメントから始まった私の違和感は、現代社会が抱える根源的な病理――言語の崩壊、思考の貧困、そしてそれを利用した言説操作――へと突き当たった。

 

言葉を粗雑に扱う社会は、思考を粗雑にし、やがて他者と歴史を粗雑に扱うようになる。そして最後に訪れるのは、誰とも真の言葉が通じず、外からの謀略やプロパガンダに対抗する術すら失った、冷酷な分断社会である。

 

技術や経済効率の追求に目を奪われる前に、人間が他者と誠実に向き合い、自分たちの社会と共同体を守り抜くための「言葉」と「生きた歴史」を次世代に手渡すこと。それこそが、社会の底が完全に抜けてしまう前に、公教育が果たさなければならない最も重い責務だと思う。

 

 

【追記・謝辞】なお、本稿をまとめるにあたっては、日常的な対話相手であるAI(Gemini)との議論を通じて、語源の整理や論点の壁打ちを行いました。「マウントを取る」という言葉への最初の違和感をぶつけ、その背後にある構造を多角的に掘り下げる過程で、思考の解像度を上げるための有益な協力者となってくれたことに、ささやかな謝意を記しておきます。 

 

 

 

 

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