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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2013年8月12日月曜日

沖縄と基地


 沖縄で再び、米軍のヘリコプターが墜落し、米兵一人が死亡した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00251252.html;また墜落現場から数キロ以内に市街地があり、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130805-00000065-mai-soci;沖縄では、「沖縄の空がいかに危険か改めて証明された」そして、「この上オスプレイの配備を進めていくことは許されない」と云う様な怒りの声が上がったとのことである。私はこの記事を読み、以下のような違和感を持った。
1)先ず、人一人が死亡していることに、何の弔意も表されていない。
2)まるで、「近くにいる敵軍をなんとか早急に退去させたい」というような反応である。
 このような沖縄の反応は、島民全てのものではないだろうが、最近の沖縄の知事や市長などの意見と大差がないことから、それらを沖縄の反応として、以下議論する。先ず言いたいのは、沖縄の人たちも日本国民として日本国の中で生きているという事である。また、どこでも地域的特殊性があり、その地方独自の日本国行政への協力の仕方があると言う事である。私は以前航空自衛隊基地のとなりに住み、そこには巨大な弾薬庫があった。しかし、そこに住む以上、頻繁に飛ぶ航空自衛隊のヘリコプターや弾薬庫の危険性を引き受けて生活してきた。また、例えば木曽三川の流域では、伊勢湾台風の時の様な水害の危険性がある。しかし、その地域の人は承知の上で農業や製造業に従事して、国の経済に貢献している。沖縄県には他国の軍隊が極東拠点の一つとして駐留するのであるから、地方の特殊性の中でも特別であることは十分理解できる。また、米軍や日本政府も、沖縄の負担を軽減すすべく、基地の移転や米軍の訓練の仕方等を常に考えるべきであると思う。そうは云うものの、日米の同盟関係に影響を及ぼすような運動を不用意に広げるべきではない。この件、他国のオルグもあるものと考えられるので、1報道する人々は慎重にオリジナルな議論をしてほしい。
 日米同盟は、沖縄をふくめ日本全体にとって現在非常に重要であることは云うまでもない。米軍基地内での事故やオスプレイ問題を、米軍を邪魔者扱いする方向で議論するのは、従って、日本全体の利益に強く反する行為である。 2 地球が狭くなりつつある現在、我々が再度確認すべきことがある。地球上に現存の人種と人口は、何が決めて来たのか? 経済成長という空間の拡大があったものの、大規模な戦争や侵略によって決まって来たのである。つまり、南北アメリカ大陸、オーストラリア、そのほかの至る所で、激しい戦闘や無差別虐殺により、我々現存人類が生きる空間を確保してきたのである。それらがなければ、この地球はずっと前に人で満ちていた筈である。この歴史のプロセスは遠い過去のものでは無い。戦争や虐殺はどのようなものか?先日の中日春秋で、「最愛の大地」という映画で描かれているボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の悲惨な情況が紹介されていた。僅か20年前の人類の姿である。そのような情況が、日本国を舞台に起こらないという保障は全くない。日本国という温暖で緑に覆われ、水の豊かな大地は、黄色い大地の他国から見れば垂涎の的であろう。例えば、地球規模の気象変動などが起こった場合、3生きる土地を失った核兵器を持つ民族の指導者は、日本国に対する敵対心を民衆の間に喚起し、防衛出動であるとして、日本国民の虐殺と国土の略奪を行うかもしれない。4 一般市民の想像を超えた脚本が、5いろんな前提を背景にして既に創られていると思う。もちろん、そのような情況は、考え過ぎだと云う意見が大多数だろう。しかし、為政者はそのような大きな視野で歴史を眺めなければならないと思うし、一般市民も政治家とは高度に専門的な仕事であると考えるべきである。6


注1)日本共産党の政治活動がモスクワで決められていたことを思い出すべき。(http://ja.wikipedia.org/wiki/コミンテルン)
注2)対米依存せずに、日中友好で平和と経済的安定が実現できるのなら、それでも良い。しかし、その方向で舵をとれる政治家が日本にはいない。日本は、未だに戦後の親米政治家の敷いたレイルの上を走るしか選択肢がない。
注3)大きな気象変動は歴史を変えることを知るべきである。
注4)既に尖閣諸島や南沙諸島で序章が始まっている。
注5)過去、オレンジ計画というのがあったことを想起してほしい。
注6)現在の政治家の質が低いのは日本国民が能力本位で選ばないのが原因である。国民は自分と子孫の生命を守るため、知的レベルを上げる努力をし、選挙に臨むべきである。

2013年8月10日土曜日

敬語の愚

ドナルドキーンさんが司馬遼太郎さんに尋ねた。「おとうさん、おかあさんという言葉は何時頃できたのでしょうか?」司馬さんが答えた。「明治時代、文部省が決めたのです。」この話は、何処で読んだか忘れた。ひょっとして、書棚にある「日本人と日本文化(司馬遼太郎とドナルドキーンの対談)」にあるかもしれない。

明治時代に多くの単語が創られたことは知っていたが、お父さん、お母さんという基本的な人間関係を表す言葉まで明治政府製だとは知らなかった。1) 父上と母上という言葉はあっただろうが、その“上”という接尾語がつかない言葉が必要だと日本政府が思ったのだろう。

日本政府の試みは、少なくとも関西圏では成功していない。私をふくめ、関西人が「おとうさん」を用いることは少ない。私は子供の頃、父と母を呼ぶ際、地方の方言を用いていたが、その後、それらが幼児語的であることを知り使えなくなり、父と母を失う前に、父と母を呼ぶ言葉を失ってしまった。(補足1)こんなことを、外国の方に説明できるだろうか?

一般に、日本語は話をする相手と自分との上下関係が、名詞、動詞、接尾語などの選択を要求し、その結果文章全体が複雑に変化する。例えば、「言う」という動作を表す動詞では、話す、話される、仰る、仰せになる、言う、言われる、喋る、などと変化する。(注2) これらを臨機応変に選択できなければ流暢には喋れない。

何故このような複雑な敬語体系を必要とするのだろうか? それは、国内のあらゆる組織が共同体(ゲマインシャフト)的色彩を帯びている国だからであると思う。社会が色んな共同体で作られた国では、存在する上下関係は仕事上だけでなく、永続的である。従って、それに相応しい言葉を持たなければならない。仕事場での上司は私的なあつまりでも尊敬語の対象となる。このような情況は、おそらく儒教文化圏に共通なのだろう。

つまり、日本では“身分”で人間集団を多層状に分け、その間の情報交換を(言圧を弱める)敬語で制限して、「和」を保つ社会を完成した。そして、個人は分をわきまえ、所属する“層(身分)”での責任を果たすことで、共同体全体のパーフォーマンスを挙げるという社会である。 

上下方向に多くの層状構造で構成された社会では、人事なども常にその層を意識して行われ、入省何年後で課長といった適材適所とはかなり遠い基準が用いられている。(注3) 層状構造を持ち込むことで社会は安定化し、トラブルを避けることで活動度を上げるのであるから、その視点からは当然の人事基準である。(補足2)

結果としてそれほど有能なトップを選べないので、“つつがなく任期を全うする”ことを最善とする上司の下、激しい変化の過去(明治時代)に混乱の末に英傑により創られた前例を、ただ踏襲する“結果としての保守主義”が殆どの組織の特徴である。

特に、消滅の危機のない組織、例えば全国の地方公共団体や国立諸機関では、その傾向が著しい。ただ、変化すべき時にも舵を切れずに、益々情況を悪くするのはどこも同じである。そして、カタストロフィーが起こるのである。

その段階になると、その社会は英雄を必要とするが、それは全階層を見れば一人や二人必ず居るのである。その英雄は前例を破壊し、新しい共同体運営モデルをつくる。以前の前例もそのようにして創られたことを完全にその時代の社会は忘れているのである。

その後、2−3世代トップが交代して行く中で、創られた新しい前例を踏襲する何もしない保守主義が復活するのである。明治時代は変化の時代であった。そこで活躍した英雄達は、この複雑で風通しの悪い層状社会を改善(敢えてそう呼ぶ)することを考えたのだと思う。

そして、父上、母上に代表される上下でフランクな対話を妨げる言葉に代わって、おとうさん、おかあさんという言葉を創ったのだろう。母上、父上ということばはほぼ追放できたが、それに代わるものには「お母さん」「お父さん」はなっていない。

それは、「万機公論に決すべし」も同じ運命である。日本語の構造を変えること無しに、日本の社会構造など変えることはできない。依然として「和を以て、貴となす」が、日本国を縛っている。分を弁えて保つ和、対話でなく沈黙で保つ和に価値はないのに、である。

注釈)

1)私は理化学を専攻する専門バカの一人だったので、それまでは横目で文科系の学問を眺めていただけである。従って、素人としてこの種の文章を書くことになる。

2)助動詞「れる」「られる」が4種類(「受け身」「可能」「自発」「尊敬」)の意味を備える。

3)国会議院には政治的名家の子供が当然のように国会議員になる。能もないのにである。

補足:(2019/6/22編集時に追加;編集はhtml方式から通常に戻すことと2,3の語句の修正のみである)

1)父を「おとさん」、母を「おかちゃん」と呼んでいた。この記事をかいたのは2013年8月10日だが、その時には恥の感覚が強すぎて、この注釈が書けなかった。

2)このような人事では、他の国、他の文化圏との競争には非常に不利となる。

2013年8月6日火曜日

広島平和祈念式典での市長挨拶に対する疑問


 広島への原爆投下から68年過ぎた。一分間の黙祷は、エノラゲイから落された原爆の爆発の瞬間と一瞬のうちに火傷で死ぬ人の苦痛を想像しながらおこなった。テレビに映る原爆記念碑には、「安らかにお休みください。過ちは繰り返しませんから」という誓いの文がかかれていた。過ちは日本が第二次大戦において悲惨な負け方をし、その結果敵国に原子爆弾を落されたことである。松井市長のあいさつの中で以下の様な話が紹介されていた。終戦後、嫁を迎えたある家の姑が、その嫁が被爆者だと判ると、「被爆した嫁はいらん、直ぐ出て行け」と言って追い出したという話である。一般市民にとっては消化しきれない出来事であったと思う。

 松井市長の話はその後、「終生にわたって心身を苛み続ける原爆は非人道的兵器であり絶対悪である」「核廃絶に向けて努力しなければならない。」更に、原爆とは関係の薄い、原子力発電所の東北での事故へ及んだ。原爆が絶対悪なのか?むしろ、絶対悪は原爆を街の真ん中に落す行為ではないのか?ピストルが絶対悪ではなく、ピストルで罪の無い人間を殺傷することが絶対悪ではないのか。もし仮に、原爆そのものが絶対悪だと断定されるなら、何故、その絶対悪を多量に保持し、外交の武器に使っている米国、ロシア、中国、フランス、イギリスを非難しないのか?それらの国々の中で、絶対悪を広島で使った米国を何故強く非難しないのか?私には、さっぱり判らない。

 一般市民はともかく、地方であれ中央であれ、行政のトップに位置する者は、原子爆弾といえどもその軍事的意味、外交的意味については冷静に考えて、ことの本質を把握しなければならないと思う。つまり、ピストルが絶対悪なら、ピストルを持つ警察官も絶対悪ということになる。そうではなく、悪は正しくピストルを使わないことであって、ピストルを持つ人ではない。バカみたいな話だが、もし地球を攻撃するエイリアンを核兵器で追い返したとしても、核兵器は悪でしょうか? 実際、米国は広島と長崎での核兵器使用を悪とはしていない。理由をしつこく聞けば、日本国が当時エイリアン1)の住む国に等しいと考えたと云うであろう。 このような機会に、為政者が考えるべきは、そして、言及すべきは、複数の周辺諸国が核兵器を持つ環境下で、そして経済的混乱が起こるかもしれない東アジアで、どのように隣国の持つ核兵器の脅威を緩和するかについてである。それに対してある程度のビジョンがあれば披露するよい機会である。そのようなものが無いのなら、「核兵器の威嚇からどのように日本国民を守るかについての方向を見いだす努力、そして、現在も続く被爆者の苦痛を緩和する施策の実行について、国は全力を尽くしてもらいたい」位にしておくべきである。それが、碑文にある誓いを果たすことにつながるのではないだろうか。

 有限な地球の中で、技術の進歩などにより殆どの国が経済的に膨張して来ている。有限な海や陸の資源の争奪戦は、今後益々激しくなると考えられる。実際、尖閣諸島に対する中国の主張は、太平洋に拡大する政策の一端に過ぎない。そんな外交環境の中、出来もしない核兵器廃絶なんて台詞を簡単に行政府のトップが挨拶に盛り込むことは、その方のトップとしての資質に疑問を抱かせることになる。「(核兵器による)威嚇で国の安全を達成できると思うのですか?」と問いかける市長。思い違いも甚だしい。核兵器を持とうとする国、そして持っている国は、全て「核兵器による抑止力」を信じているのである。米国やロシアが核兵器の数を減らすのは、維持管理費の削減を目指すという経済的理由であり、決して核廃絶を達成する一里塚としてではない。

 ところで、この種の挨拶を聞くたびに感じることは、このような式典で単に儀礼的(祝事であればのりと)に挨拶をするのが、日本文化の一つの特徴ではないかということである。何かの何周年式典で出くわす意味のない挨拶は、次の日にはそんなこといったかな?と当の本人も忘れる類いの挨拶である。今回の挨拶はもちろんある程度シアリアスであったろうと思うが、その日本的文化の片鱗が、大きく中身の文章に影響したのではないかとも思う。その場合は、「きれいごとで済まされますか?」と市長にいいたい。 以上が、今回の広島市長の挨拶を聞いての感想である。

注1)殆ど戦争が終わったも同然であったが、それでも本土焦土作戦や一億玉砕などと、とんでもないことを言うエイリアンと思ったのだろう。因に、エイリアンには異星人の他、異国人という意味もある。

2013年8月1日木曜日

子供達の成長に携帯電話は有害である


 小学校6年生が自殺を図り、その原因に苛めを受けていたことの可能性があるとの報道があった。また、この10日程16歳の少女達が集団でリンチ殺人と死体遺棄事件を起こしたという報道が日本中を憂鬱にさせた。報道によると仲の良かった友人間のネットでの口論が出発点にあり、その後自首した犯人達には確固とした罪の意識がなかったということである。このような事件の報道を視聴すると、今の若い人たちの人間関係がガラスのように壊れやすく、しかし彼らはその人間関係に強く依存して生きていることが判る。何故このような情況になったのか?その原因或は誘因となって居る筈の、過去と現在の子供達の環境に関する違いは何なのかを考えてみた。
 大きな差の一つとして誰もが考えつくのが、携帯電話或はその最新型のスマートフォンを殆どの子供達(を含めて若者達)が持つ様になったことである。その結果、同世代の会話らしきものが瞬間的に仲間内で広がるようになり、未熟な同世代間の電話でのつぶやき(或はTwittering、つまりさえずり)が日常の人間関係の中で大きな部分を占め、それにより形成された同級生同学年の生徒間の平面的(或は層状)な人間関係が、大きな意味を持つ様になったのではないだろうか。親は常に必要なものを供給してくれる存在ではあるが、それを厳しい労働などにより得ていることを子供達が知る機会は少なく、その結果殆ど空気のような存在になっていると思う。その為、脆いがガラスの様に硬い層状の人間関係の中に入って、我が子との人間的接触を取り戻すことが困難な場合が多くなっているのではないだろうか。また、学校の先生たちも子供を指導するというよりは、問題を生じないことに神経のほとんどを使うはめに陥り、子供達の人間関係の外に存在している場合が多いのではと想像する。
 本来人は、幼少期より親を含めて回りの人間との接触により、自分を意識し、成長して独立した人格を持つ様になる。その機会を子供達から奪っているのが、上記のような環境と教育ではないだろうか? 従来、子供達であっても人間関係は3次元プラスアルファにわたって広がっていた筈である。同世代がつくる平面の人間関係の他に、子供達が成長し、且つ、社会の秩序を守るために必要な(親、祖父母、先生、近所の方々との)上下に広がる人間関係、そして、異質ではあるが、本の中で出会ったり、過去の人に学んだり、或は、聖典による神や仏との出会いなども一方的ではあるが、過去に広がる人間関係と言えなくもない。そのような子供達を育てる役割をしてきた人間関係が、上記平面的な人間関係に置き換わってきているとしたら深刻な問題である。この国に未来は無いと思う。早い段階から同世代間の二次元的人間関係の中にとじこもると、正統な言葉とその中に含まれた思想道徳等も学ばずに、子供達は大きくなってしまう。あの16歳のグループ間の会話として公開された言葉は、それを裏付けているように思う。解決法は差し当たり、十分な言葉を持たない若者に携帯を持たせないことであると思う。