広島への原爆投下から68年過ぎた。一分間の黙祷は、エノラゲイから落された原爆の爆発の瞬間と一瞬のうちに火傷で死ぬ人の苦痛を想像しながらおこなった。テレビに映る原爆記念碑には、「安らかにお休みください。過ちは繰り返しませんから」という誓いの文がかかれていた。過ちは日本が第二次大戦において悲惨な負け方をし、その結果敵国に原子爆弾を落されたことである。松井市長のあいさつの中で以下の様な話が紹介されていた。終戦後、嫁を迎えたある家の姑が、その嫁が被爆者だと判ると、「被爆した嫁はいらん、直ぐ出て行け」と言って追い出したという話である。一般市民にとっては消化しきれない出来事であったと思う。
松井市長の話はその後、「終生にわたって心身を苛み続ける原爆は非人道的兵器であり絶対悪である」「核廃絶に向けて努力しなければならない。」更に、原爆とは関係の薄い、原子力発電所の東北での事故へ及んだ。原爆が絶対悪なのか?むしろ、絶対悪は原爆を街の真ん中に落す行為ではないのか?ピストルが絶対悪ではなく、ピストルで罪の無い人間を殺傷することが絶対悪ではないのか。もし仮に、原爆そのものが絶対悪だと断定されるなら、何故、その絶対悪を多量に保持し、外交の武器に使っている米国、ロシア、中国、フランス、イギリスを非難しないのか?それらの国々の中で、絶対悪を広島で使った米国を何故強く非難しないのか?私には、さっぱり判らない。
一般市民はともかく、地方であれ中央であれ、行政のトップに位置する者は、原子爆弾といえどもその軍事的意味、外交的意味については冷静に考えて、ことの本質を把握しなければならないと思う。つまり、ピストルが絶対悪なら、ピストルを持つ警察官も絶対悪ということになる。そうではなく、悪は正しくピストルを使わないことであって、ピストルを持つ人ではない。バカみたいな話だが、もし地球を攻撃するエイリアンを核兵器で追い返したとしても、核兵器は悪でしょうか? 実際、米国は広島と長崎での核兵器使用を悪とはしていない。理由をしつこく聞けば、日本国が当時エイリアン注1)の住む国に等しいと考えたと云うであろう。
このような機会に、為政者が考えるべきは、そして、言及すべきは、複数の周辺諸国が核兵器を持つ環境下で、そして経済的混乱が起こるかもしれない東アジアで、どのように隣国の持つ核兵器の脅威を緩和するかについてである。それに対してある程度のビジョンがあれば披露するよい機会である。そのようなものが無いのなら、「核兵器の威嚇からどのように日本国民を守るかについての方向を見いだす努力、そして、現在も続く被爆者の苦痛を緩和する施策の実行について、国は全力を尽くしてもらいたい」位にしておくべきである。それが、碑文にある誓いを果たすことにつながるのではないだろうか。
有限な地球の中で、技術の進歩などにより殆どの国が経済的に膨張して来ている。有限な海や陸の資源の争奪戦は、今後益々激しくなると考えられる。実際、尖閣諸島に対する中国の主張は、太平洋に拡大する政策の一端に過ぎない。そんな外交環境の中、出来もしない核兵器廃絶なんて台詞を簡単に行政府のトップが挨拶に盛り込むことは、その方のトップとしての資質に疑問を抱かせることになる。「(核兵器による)威嚇で国の安全を達成できると思うのですか?」と問いかける市長。思い違いも甚だしい。核兵器を持とうとする国、そして持っている国は、全て「核兵器による抑止力」を信じているのである。米国やロシアが核兵器の数を減らすのは、維持管理費の削減を目指すという経済的理由であり、決して核廃絶を達成する一里塚としてではない。
ところで、この種の挨拶を聞くたびに感じることは、このような式典で単に儀礼的(祝事であれば“のりと”)に挨拶をするのが、日本文化の一つの特徴ではないかということである。何かの何周年式典で出くわす意味のない挨拶は、次の日にはそんなこといったかな?と当の本人も忘れる類いの挨拶である。今回の挨拶はもちろんある程度シアリアスであったろうと思うが、その日本的文化の片鱗が、大きく中身の文章に影響したのではないかとも思う。その場合は、「きれいごとで済まされますか?」と市長にいいたい。
以上が、今回の広島市長の挨拶を聞いての感想である。
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