1)今朝の読売新聞の一面には、北朝鮮への国連制裁決議、広島原爆忌、戦争文学「野火」の映画化作品が紹介されている。
国連安保理の北朝鮮制裁決議には、北朝鮮からの石炭と鉄鉱石の輸入禁止が盛り込まれたが(補足1)、北朝鮮への石油の輸出禁止は盛り込まれなかった。中国とロシアも賛成出来るように工夫されていたのだが、国連は北朝鮮が何処に軟着陸すべきかという着地点は与えていない。軟着陸は米国等の視野にはないのかもしれない。その指摘などは一切記事の中にはない。
「話会う前に武器を捨てろ」と国連(米国)は言う。しかし「武器を捨てれば、話の前に滅ぼされる」と北朝鮮が言う。この延長上に解決など見えない。戦前の日本に例えれば、くず鉄禁輸の段階なのだろう。
広島原爆忌についての記事は以下の様である:平和記念公園で平和記念式典が開かれ、約5万人の参列者が犠牲者を悼んだ。松井広島市長は、各国政府に対し核兵器の非人道性(補足2)を認識した上で「共に生きるための世界をつくる責務」を自覚するように求め、核兵器禁止条約の重要性を訴えた。
そもそも、兵器を作らないことで、この地球上で全ての人が共に生きることが可能になると、市長は考えて居るのだろうか? 戦争とは、単に人間の悪が為したことだと、この人は考えているのだろうか?
何故、米国の原子爆弾による無防備な一般都市の破壊と、市民の大量無差別殺害の記念式典を、平和記念式典と呼ぶのだろうか? 原爆の犠牲者になった人たちのお陰で、平和な世の中になったことを、記念する式典だというのだろうか?
映画「野火」の概略と作者へのインタビューは、六面に続く形で掲載されている。映画「野火」は大岡昇平原作の小説を映画化したものである。戦争末期、フィリピン・レイテ島で、日本軍は米軍の攻撃(反撃)で総崩れとなった。補給のない状態で、生きる日本兵の悲惨な姿を描く。飢餓の中で、生き残る為に人肉食まで行う光景を描いているのだという。
毎年8月になると、この種の映画の上映など反戦行事が多くなる。戦争の悲惨さを訴える記事や評論なども増加する。私は、文学作品の評価とは別に、この現象に政治的プロパガンダの匂い感じる。
2)一面全体を通して、戦争を単純に悪とし、それを平和の対義語のように用いる単純さには、強い違和感を感じる。私には戦争を賛美する気持ちなど全く無い。しかし、我々現代に生きる人間は戦争における勝者の子孫であり、戦争を避けた民族の子孫ではないという冷厳な事実を、現代人は先ず理解すべきである。(補足3)
「野火」の中で紹介されている悲惨な光景には、戦争、飢餓、人肉食の3つの要素がある。戦争は舞台であるが、その悲惨さの責任全部を戦争に押し付けることは出来ない。それは、原爆で焼き殺された広島の人たちが、原爆だけにその責任を押し付けることが出来ないのと同じである。そして、「野火」の悲惨な世界を戦争の責任とし、広島の悲惨な戦禍を原爆の所為にして利用する、政治プロパガンダには気をつけるべきである。
戦争は悲惨であり絶対に避けねばならないと宣伝する人たちは、詳細且つ冷徹な戦争の分析とそこから真理を導き出すことを拒否するのだろう。太平洋戦争の悲惨な結末の原因となった、海軍陸戦隊や関東軍による中国侵略を明らかにされたくない人達も居るだろう。また、何故負けることが分かっている対米戦争を始めることになったのか、その原因分析を嫌う人たちも居るかもしれない。
「真理は細部に宿る」という言葉がある。詳細に検討した結果、今までの善人が悪人に、悪人が善人になる可能性があることを恐れていいるからかもしれない。単純な善人は、そのような緻密な思考力を持つ悪人に利用されることがある。太平洋戦争では、海軍の米内光政や山本五十六が善人として取り扱われている。しかし、話は逆であり、その背後に巨大な権力が存在すると言う人がいる。(補足4)
また、原爆の惨禍を記念する式典において、原子爆弾そのものを攻撃する(ひたすら核兵器廃絶法案の成立を主張する)人たちは、核兵器の拡散を防止することで、単純に平和に貢献していると思う人が大半だろう。しかし、それは核保有国の特権を守るために働いていることになり、その特権を守るべく働いている人たちに使われているのかもしれないと考えるべきである。
戦争全体を記述しないで、その中の一つの戦いの悲惨な光景をまるで顕微鏡で拡大する様に記述したものやその映像は、それを評価できる準備の出来た人、つまり戦争全体に一定の知識を持つ人のみに公開されるべきだろう。
一般に公開すれば、全体に知識のない人はそこから安易に結論を導き出すかもしれない。そして、その結論は別の部分の詳細な分析から、安易に導き出した結論と正反対かもしれないからである。それは、悲惨な殺人現場や、専門的な外科手術などの映像を一般に公開しないのと同じである。
補足:
1)北朝鮮に輸出を禁止するという制裁なのかどうか、原文がないのでわからない。つまり、北朝鮮への輸出禁止なら、北朝鮮が国連決議に反して(国連からの除名を覚悟で)輸出した石炭や鉄鉱石を中国が買うことは可能になる。制裁を実効性の有るものにするためには、国連加盟国が北朝鮮から石炭や鉄鉱石を買うことの禁止である。
2)この米国による原爆攻撃は、ハーグ陸戦条約の付属規則の23条(残忍兵器の禁止)や25条(都市、集落、建物の砲撃など禁止)に違反するというような指摘は、新聞には殆ど書かれない。
3)人間の歴史には、経済的困難による領土争いが日常的に存在した。それらのかなりの部分は、当事者間の平和裏の話合では解決不可能であった。その時、兎も角前進するために戦争で決着を付けることが屡々あった。その多くの戦争の経験から、戦争において犠牲者を最少にするために戦時国際法が出来た。ハーグ陸戦条約などである。
3)副島隆彦著「仕組まれた昭和史」参照。
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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2017年8月7日月曜日
2017年8月5日土曜日
東京裁判(NHK)再放送を見た:東京裁判という茶番
1)NHKスペシャルで放送された東京裁判の第二話(再放送)を見た。そこで、ウェップ裁判長以下11名の判事が「侵略の罪」について、敗戦国日本の政治家個人を裁けるのかという議論がなされていた。
インドのパール判事の「侵略の罪」で個人を裁くことなどできないという主張は最初孤立していたが、やがてオランダのレーリンク判事もその意見に同意するようになる。話は第3話で完結するのだろうが、良い機会を与えられたので、以下に私の東京裁判に関する考えを記す。
結論を言えば、この裁判は法的論理性を確保しながら報復したいという、戦勝国のエゴにより為された戦争の延長戦であると考える。つまり戦勝国は正義の戦争に勝ったのだという歴史を作りたいと考えて、帰って汚点を歴史に残したと言えるだろう。
この時代までの戦争に関する国際条約として、ハーグ陸戦条約(補足1)とパリ不戦条約(補足2)があった。「侵略の罪」とはパリ不戦条約に対する違反である。日本国による中国への侵略行為が、パリ不戦条約違反ということで起こったのがあの戦争であった。つまり、パリ不戦条約違反に対する国際的制裁があの戦争であり、その結果が日本の敗戦であった。
そして、日本の領土はポツダム宣言に書かれたように日本列島に限定され、併合していた朝鮮と台湾は剥ぎ取られることになった。不戦条約はそこで役割を終わった筈であり、その時の侵略を指揮した軍人や政治家個人を裁くことが可能な罪があったとすれば、それを裁くのは日本国であり、連合国ではない。
つまり、国際法は本質として各批准国の法律に基づいて履行されるものである。そして、批准国の国内法よりも高位に存在する訳ではない。(補足3)この点が、東京裁判が茶番であるという根拠であると思う。
これらの国際条約は、独立した国家群をメンバーとする“国際社会”で制定された条約であり、その履行を要求する相手は国家であり、加盟国の個人ではない。つまり、国際条約を根拠にしてある国の個人を処罰することなど、不可能なことは素人でもわかることである。
敗戦国である他国の個人を裁判の振りをして殺すのは、紳士的体裁を取り繕った報復である。こんなことを長々と議論する、各国のエリートたちの頭の中は一体どうなっているのだろうか。
2)東京裁判に関する考えは以上であるが、一言追加したい。
①パリ不戦条約は、理想論を述べただけであり、恣意的に適用されるのは目に見えている。20世紀に入り、戦争が野蛮化したのはこの条約の所為であるか、戦争の野蛮化のプロセスの一環として存在するかのどちらかだろう。
②ハーグ陸戦条約の違反行為である捕虜虐待なども国際軍事法廷で裁かれている。これも、A級犯罪とされるケース同様に、他国が裁く権利などない。もし、他国がさばくことができたのなら、その後の残虐行為を行なったとする中国や韓国の日本批判は根拠が無い筈である。それは、同罪で二度裁くことになるからである。
③日本国は国体護持という希望がマッカーサー(米国)により認められ(補足4)、新しい憲法も大日本帝国憲法の改正する形をとった。ただ、連合国の東京裁判が根拠のないものと考えるのなら、日本国独自に戦争に至った経緯と、その際犯罪的行為があったのならその処罰をすべきであったが、何もしていない。 兎に角、何もかもむちゃくちゃである。
1)ハーグ陸戦条約は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。
交戦者の資格として、指揮官が存在し、公然と兵器を携帯し、徽章(バッジなど)をつけていること、戦争法規を遵守していることを規定。また、捕虜は敵政府の権内に属し、捕らえた個人や部隊に属さない。捕虜は、人道をもって取り扱うこと。更に、毒を兵器に使うこと、不必要な苦痛を与える兵器などを用いないことなどが規定されている。 この根底に、戦争を外交の延長と考える文化が存在する。
2)パリ不戦条約:第一次世界大戦後(1928年)に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。
第一条:締約国は国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし、且つ、その相互関係において国家の政策と手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言す。
第二条:締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理又は解決を求めざることを約す。(一、二条は、旧文体を平仮名表示にしたもの。句点は追加。)
第三条:批准は憲法の要件に従い行う。他国の加入に関して条約をオープンにしておく。批准書等は米国が管理する。(三条は要点のみ)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%88%B0%E7%88%AD%E6%8A%9B%E6%A3%84%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%A2%9D%E7%B4%84
3)国際法が国内法よりも高位の法になるのは、世界連邦ができた時である。つまり、世界連邦の司法と警察が整備され、有効に機能する時である。この番組映画でも、インドのパール判事はそのような発言をしている。
4)ポツダム宣言を受諾した上での降伏であるから、一応条件付き降伏である。しかし、米国国務省は国家元首たる天皇を処刑すべきだと考えた。マッカーサーが反対しなければ、国民だけでなく元首さえ殺される可能性があった。完全に占領されて国家主権がなかったのだから、所謂降伏とは言い難い。ほとんど国家が消滅したと考えなければ説明がつかない。逆に、日本国が継続的に存在していたと考えるのなら、東京裁判は日本国から見れば連合国による犯罪行為になるだろう。(ハーグ陸戦条約に付属する規則43条違反である。)
以上、素人の意見です。コメント歓迎します。
インドのパール判事の「侵略の罪」で個人を裁くことなどできないという主張は最初孤立していたが、やがてオランダのレーリンク判事もその意見に同意するようになる。話は第3話で完結するのだろうが、良い機会を与えられたので、以下に私の東京裁判に関する考えを記す。
結論を言えば、この裁判は法的論理性を確保しながら報復したいという、戦勝国のエゴにより為された戦争の延長戦であると考える。つまり戦勝国は正義の戦争に勝ったのだという歴史を作りたいと考えて、帰って汚点を歴史に残したと言えるだろう。
この時代までの戦争に関する国際条約として、ハーグ陸戦条約(補足1)とパリ不戦条約(補足2)があった。「侵略の罪」とはパリ不戦条約に対する違反である。日本国による中国への侵略行為が、パリ不戦条約違反ということで起こったのがあの戦争であった。つまり、パリ不戦条約違反に対する国際的制裁があの戦争であり、その結果が日本の敗戦であった。
そして、日本の領土はポツダム宣言に書かれたように日本列島に限定され、併合していた朝鮮と台湾は剥ぎ取られることになった。不戦条約はそこで役割を終わった筈であり、その時の侵略を指揮した軍人や政治家個人を裁くことが可能な罪があったとすれば、それを裁くのは日本国であり、連合国ではない。
つまり、国際法は本質として各批准国の法律に基づいて履行されるものである。そして、批准国の国内法よりも高位に存在する訳ではない。(補足3)この点が、東京裁判が茶番であるという根拠であると思う。
これらの国際条約は、独立した国家群をメンバーとする“国際社会”で制定された条約であり、その履行を要求する相手は国家であり、加盟国の個人ではない。つまり、国際条約を根拠にしてある国の個人を処罰することなど、不可能なことは素人でもわかることである。
敗戦国である他国の個人を裁判の振りをして殺すのは、紳士的体裁を取り繕った報復である。こんなことを長々と議論する、各国のエリートたちの頭の中は一体どうなっているのだろうか。
2)東京裁判に関する考えは以上であるが、一言追加したい。
①パリ不戦条約は、理想論を述べただけであり、恣意的に適用されるのは目に見えている。20世紀に入り、戦争が野蛮化したのはこの条約の所為であるか、戦争の野蛮化のプロセスの一環として存在するかのどちらかだろう。
②ハーグ陸戦条約の違反行為である捕虜虐待なども国際軍事法廷で裁かれている。これも、A級犯罪とされるケース同様に、他国が裁く権利などない。もし、他国がさばくことができたのなら、その後の残虐行為を行なったとする中国や韓国の日本批判は根拠が無い筈である。それは、同罪で二度裁くことになるからである。
③日本国は国体護持という希望がマッカーサー(米国)により認められ(補足4)、新しい憲法も大日本帝国憲法の改正する形をとった。ただ、連合国の東京裁判が根拠のないものと考えるのなら、日本国独自に戦争に至った経緯と、その際犯罪的行為があったのならその処罰をすべきであったが、何もしていない。 兎に角、何もかもむちゃくちゃである。
補足:
1)ハーグ陸戦条約は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。
交戦者の資格として、指揮官が存在し、公然と兵器を携帯し、徽章(バッジなど)をつけていること、戦争法規を遵守していることを規定。また、捕虜は敵政府の権内に属し、捕らえた個人や部隊に属さない。捕虜は、人道をもって取り扱うこと。更に、毒を兵器に使うこと、不必要な苦痛を与える兵器などを用いないことなどが規定されている。 この根底に、戦争を外交の延長と考える文化が存在する。
2)パリ不戦条約:第一次世界大戦後(1928年)に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。
第一条:締約国は国際紛争解決の為戦争に訴えることを非とし、且つ、その相互関係において国家の政策と手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言す。
第二条:締約国は、相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、その性質又は起因の如何を問わず、平和的手段によるのほか、これが処理又は解決を求めざることを約す。(一、二条は、旧文体を平仮名表示にしたもの。句点は追加。)
第三条:批准は憲法の要件に従い行う。他国の加入に関して条約をオープンにしておく。批准書等は米国が管理する。(三条は要点のみ)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%88%B0%E7%88%AD%E6%8A%9B%E6%A3%84%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%A2%9D%E7%B4%84
3)国際法が国内法よりも高位の法になるのは、世界連邦ができた時である。つまり、世界連邦の司法と警察が整備され、有効に機能する時である。この番組映画でも、インドのパール判事はそのような発言をしている。
4)ポツダム宣言を受諾した上での降伏であるから、一応条件付き降伏である。しかし、米国国務省は国家元首たる天皇を処刑すべきだと考えた。マッカーサーが反対しなければ、国民だけでなく元首さえ殺される可能性があった。完全に占領されて国家主権がなかったのだから、所謂降伏とは言い難い。ほとんど国家が消滅したと考えなければ説明がつかない。逆に、日本国が継続的に存在していたと考えるのなら、東京裁判は日本国から見れば連合国による犯罪行為になるだろう。(ハーグ陸戦条約に付属する規則43条違反である。)
以上、素人の意見です。コメント歓迎します。
2017年8月3日木曜日
太宰治「人間失格」の感想
この小説は、作者太宰治の経歴を考えると著者自身の生涯がモデルだと思われ、単なる作り話ではなさそうである。つまり、読む気がしないタイプの小説だが、モデルがあるとすると、ある種重要な問題を我々に投げかけているに違いない。最後まで読んで考えても、どうしても非現実的に思えるのだが、それが現実ならどう解釈するかを無理矢理考えてみた。(補足1)
1)人間は、野生の本能を持つが、社会という人工的な空間でも生きる能力を持つ。その二つの能力を一定のバランスを保って持つ必要がある。そのバランスが欠けると、人の作る人工的空間で窒息したり溺れたりするのではないだろうか。この小説は後者の溺れるタイプの人間を描いていると思う。
人が高度な社会を作って生きるプロセスに伴い、他人との間に潤滑油的な空気をつくる能力を持つ様になったと思う。その人の間の特有の空気は、野生としての人の行動を制御する。これら社会を作る能力と動物としての能力の両方のバランス点は、民族により異なる。つまり、極端な言葉を使えば、野生人の家畜化のレベルは民族文化の一部であると思う。
人は、その社会化を受ける性質を遺伝子的に持っていて、それは民族により異なるだろう。それに加えて社会化教育のレベルも方向も、民族に固有のものだろう。この個人の社会的性質と民族の文化は互いに協奏的でなければならない。そうでないと、個人はその社会で浮き上がってしまう。
「人間失格」の主人公は、特有の性質と幼少期の環境等により、日本という社会的規制の多い社会で浮き上がったというか、不適応となったのだろう。ただ、通常の場合よりも病的なほどの不適応状態だったと思う。
私の想像だが、日本民族は家畜化されやすい性質を強く持っているのではないだろうか。それが社会と協奏的であるという上記の考察から、日本ほど社会的規制の強い国(民族)は無いだろうと思う。つまり、「人間失格」の様な小説は外国には無いのではと想像する。(補足2)
2)この小説で、主人公は非常に自堕落な性格である。その原因として、人並み外れた知性と容貌、それに恵まれた家庭経済、末っ子であり自分の周りの空間は常に自分自身のために存在するという状況などにより、欠乏や失敗とそれに伴う教育がない幼少期を送ったことが考えられる。
その結果、人からの認知欲求、知識欲など、全てにおいて幼少時に十分形成されなかったのではないだろうか。人の目は常に自分に注がれており、知識は努力などなしに、自然に頭に流れ入ってくる。不足のない日常は食欲さえ忘れる生活だったのだろう。
大人たちの性質、訓練を経て得た処世術なども、全て並外れた知性の主人公には丸見えである。その結果、人間一般を侮蔑する様になり、やがて自分自身の疎外感にまで発展してしまったようだ。
その疎外感により出来てしまった他人との間の溝を埋めるために、主人公が得た技術が道化なのだろう。その道化による人気、優れた学業による尊敬の目、優れた容貌による女性の憧憬など、全ては内向的な主人公には他人との深い溝と感じられたようである。
その中で得たと思われた安らぎは、同程度に世間の規格からずれた女性や、無垢で無防備と感じる少女との同棲や結婚生活だったのだと思う。しかし、幸せの感覚は、結婚した少女の優れた包摂的性格が招いた“裏切り”、或いは彼女の知り合い男性による“犯罪的事件”なのか(補足3)わからない出来事により、脆い性格でもあった主人公の人生と供に、破壊されてしまった。
そのような感想をもった。
補足:
1)短編小説であることと、書きにくい内容なので、あらすじは書かなかった。
2)あまり小説を読まないので、これは理系人間の勝手な解釈の可能性があります。詳しい方のご教授をいただきたい。
3)現場を偶然覗き見た友人もどきの堀木の証言は、「電気がついたままで、二匹の動物がいました」とあったことから、裏切りである。
1)人間は、野生の本能を持つが、社会という人工的な空間でも生きる能力を持つ。その二つの能力を一定のバランスを保って持つ必要がある。そのバランスが欠けると、人の作る人工的空間で窒息したり溺れたりするのではないだろうか。この小説は後者の溺れるタイプの人間を描いていると思う。
人が高度な社会を作って生きるプロセスに伴い、他人との間に潤滑油的な空気をつくる能力を持つ様になったと思う。その人の間の特有の空気は、野生としての人の行動を制御する。これら社会を作る能力と動物としての能力の両方のバランス点は、民族により異なる。つまり、極端な言葉を使えば、野生人の家畜化のレベルは民族文化の一部であると思う。
人は、その社会化を受ける性質を遺伝子的に持っていて、それは民族により異なるだろう。それに加えて社会化教育のレベルも方向も、民族に固有のものだろう。この個人の社会的性質と民族の文化は互いに協奏的でなければならない。そうでないと、個人はその社会で浮き上がってしまう。
「人間失格」の主人公は、特有の性質と幼少期の環境等により、日本という社会的規制の多い社会で浮き上がったというか、不適応となったのだろう。ただ、通常の場合よりも病的なほどの不適応状態だったと思う。
私の想像だが、日本民族は家畜化されやすい性質を強く持っているのではないだろうか。それが社会と協奏的であるという上記の考察から、日本ほど社会的規制の強い国(民族)は無いだろうと思う。つまり、「人間失格」の様な小説は外国には無いのではと想像する。(補足2)
2)この小説で、主人公は非常に自堕落な性格である。その原因として、人並み外れた知性と容貌、それに恵まれた家庭経済、末っ子であり自分の周りの空間は常に自分自身のために存在するという状況などにより、欠乏や失敗とそれに伴う教育がない幼少期を送ったことが考えられる。
その結果、人からの認知欲求、知識欲など、全てにおいて幼少時に十分形成されなかったのではないだろうか。人の目は常に自分に注がれており、知識は努力などなしに、自然に頭に流れ入ってくる。不足のない日常は食欲さえ忘れる生活だったのだろう。
大人たちの性質、訓練を経て得た処世術なども、全て並外れた知性の主人公には丸見えである。その結果、人間一般を侮蔑する様になり、やがて自分自身の疎外感にまで発展してしまったようだ。
その疎外感により出来てしまった他人との間の溝を埋めるために、主人公が得た技術が道化なのだろう。その道化による人気、優れた学業による尊敬の目、優れた容貌による女性の憧憬など、全ては内向的な主人公には他人との深い溝と感じられたようである。
その中で得たと思われた安らぎは、同程度に世間の規格からずれた女性や、無垢で無防備と感じる少女との同棲や結婚生活だったのだと思う。しかし、幸せの感覚は、結婚した少女の優れた包摂的性格が招いた“裏切り”、或いは彼女の知り合い男性による“犯罪的事件”なのか(補足3)わからない出来事により、脆い性格でもあった主人公の人生と供に、破壊されてしまった。
そのような感想をもった。
補足:
1)短編小説であることと、書きにくい内容なので、あらすじは書かなかった。
2)あまり小説を読まないので、これは理系人間の勝手な解釈の可能性があります。詳しい方のご教授をいただきたい。
3)現場を偶然覗き見た友人もどきの堀木の証言は、「電気がついたままで、二匹の動物がいました」とあったことから、裏切りである。
2017年8月2日水曜日
安倍総理は北朝鮮問題の解決に一肌脱ぐべきか?
一昨日の午後3時頃のテレビ番組ゴゴスマで、田原総一朗氏が安倍総理と会って、“政治生命をかけてみないか”と話したと報道された。それが何かということは当然極秘であるが、何人かのコメンテーターが推理していた。そこで最も多かったのが、北朝鮮の電撃訪問であった。この意見に私も賛成であったが、その後30分程後にテレビ局の要請で出席した田原氏自身は、その推理をほぼ否定する発言をした。その際、田原氏は「そんなことは安倍さんの周りでは誰でも考えている」と発言した。しかし、やはり安倍総理に話したこととは、拉致問題解決に動くことと、それを切掛に利用した米国と北朝鮮との和平の仲介だと思う。そこで、それについて考えてみた。尚、筆者は政治の素人ですので、適当に読み飛ばしてください。
1)現在、米国と北朝鮮のチキンレースが、最終地点に全面的な戦争(第三次世界大戦)を見ながら進められているように思う。当然のことだが、両方終着地点は望まない。相手方がギブアップして呉れることを期待しながら、他に方法を持たずにそれを続けている。終着点では、数十万人レベル以上の死者がそれぞれ北朝鮮国民、日本国民と韓国民、そして千人規模の米国軍人とその家族からでる可能性が高い。
ただ、一般市民の命の値段は米国、日本、韓国では高いが、北朝鮮では安いので、最終点到達までの損害のバランスが北朝鮮有利なため、核兵器搭載型のICBMまで開発を進めることが出来る。(補足1)“終末時計”の針は北朝鮮が進めている。トランプ大統領は100日間の間に何とか出来ないかと中国の習近平に貿易不均衡での攻撃猶予の条件をつけて依頼したが、それが成功するとは思っていなかっただろう。
米国の諜報機関は、中国内部を完全掌握していないと言われる習近平の情況を知っていると思う。江沢民派が北部戦区で強いため、制裁が自由にできないのだろう。(河添恵子氏:https://www.youtube.com/watch?v=7t2A5TVruW0&t=918s)
ロシアは米国との経済関係が薄く(政治関係は当然敵対)、また、米国が北朝鮮と平和条約を早期に結んでおれば、こんなことには成らなかったと考えているのか、経済制裁に協力的ではない。また、経済制裁は北朝鮮の暴発を招くだけだと、ロシアの大統領に言われたら、米国は反論できないだろう。
この様な事態になると、当事国(北朝鮮、米国、韓国、中国、ロシア)だけでは解決は不可能である。そこで、米国と北朝鮮の和平には、仲立ちが必要である。その役割ができるとしたら、どこの国の誰か?その一人として、安倍総理の可能性があると私は思う。安倍総理は現在の日本で、リスクを取って何かをする覚悟と能力のあるほとんど唯一と言っていい政治家である。そして、2002年の小泉政権の時に日朝平壌宣言の締結に関係しており、北朝鮮の事情に詳しい。
また、米国トランプ大統領は選挙戦の時から、アメリカ人が朝鮮半島に関与することを好ましい状況ではないと考えていたのだから、信頼できる第三者が調停役として名乗りを上げれば、話し合いに積極的に応じる可能性がたかい。昨年末に報じられたように、北朝鮮が既に核兵器をミサイルに搭載できるレベルまで小型化しているとすれば、平壌宣言当時のブッシュ政権の時と比べて問題が大きくなっており、米国も問題解決に向けて調停役が現れることは期待していると思う。
北朝鮮もロケット打ち上げで気勢を上げているが、その先に問題の解消が見えている筈はない。どの様に加速度的に軍備を増強しても、米国との実戦には勝てないのだから、できるだけ有利なところで米国と妥協し、現在の体制保障と国家の承認を得るべく、平和条約締結を考えている筈である。
もし、米国が中心になり、北朝鮮の基地攻撃などを強行すれば、何十万人という死者が韓国、日本、米軍関係者で出るだろう。そのような強硬手段をとる理由もメリットもない。(万が一中国が参戦することになれば、第三次世界大戦となる。)ただ、北朝鮮を米国が承認するまで話が進んだ場合、韓国と北朝鮮との関係、さらに米韓同盟をどうするのか、更に日米同盟にも影響がでるだろう。
それら全てを考えた上で、安倍総理が特使を北朝鮮に送ることを手始めにして、米国と北朝鮮の間の軟着陸を成し遂げることができれば、全ての関係国にとって差し当たりは、大きな成果となると思う。
2)朝鮮戦争は東西冷戦の残り(remnant)の一つである。東西冷戦の東側とはソ連と中国であり、その東西の極東での境界が朝鮮半島の38度線近くの国境であった。西側の覇権国である米国が、日本と韓国に基地を持つ理由として朝鮮戦争があったと考える。
東西冷戦が終結したあとに、依然として中国やロシアと米国は仮想敵国の関係にあるので、未だに在韓米軍や在日米軍には類似の存在理由が存在する。北朝鮮との平和条約の締結は、この地域での冷戦の残りの消滅と米国軍事力の急激な東方へのシフトを伴うと考えられる。(補足2)
それは、現在の日本の周りに存在する準安定なバランスを崩し、日本にとって重大な結果を招く可能性があると思う。日本は、東西冷戦などではなく、第二次世界大戦の重大な後遺症に、始めて直面する可能性がある。例え話を用いれば、家畜化されてしまった動物である日本の飼い主が、突然何処かに去り、野生を取り戻すか死かの境目を放浪することになると思う。それは、丁度南極大陸に取り残された太郎と次郎の境遇とも言える。
喩え話から元に話をもどす。日米安全保障条約は日本への第三国の軍事的侵略を防止する上で、現在不可欠である。しかし、日本が独自軍を未だ十分な形で保持していない現在、北朝鮮と米国との講和条約、更に、日本と北朝鮮との基本条約と一定の経済協力などを取り決める付属協定の締結は、上述のプロセスにより日本にとって非常に危険な、歴史の急激な変化を伴う可能性があり、それを心配するのである。
米国と北朝鮮の国交を開くことが出来れば、周辺諸国の差し当たりの被害は最小に抑えられるだろう。しかし、それと同時に日本独自の国防体制を、米軍の沖縄等日本国内基地からの撤収が早くなる分だけ、早期に整える必要がある。それが出来ないのなら、調停工作などは諦めて見守るだけの方が良いかもしれない。
3)現在の緊密な日米関係は、戦後の吉田茂とマッカーサーの間で構築されたと思う。しかし、日本国はその過程で未だ十分習得していなかった国民国家の体制を完全に失ってしまったと思う。
それは、明治維新の革命が薩長の下級武士や京都の貴族らにより独自に達成されたものではなく、英国等からの支援と教示により為され、自分のものとなっていなかったことと関係する。その後の民主化の動きも西洋の真似に過ぎなかったと思われる。つまり、もし独自革命の後明治憲法をつくって国家体制を整えたのなら、その憲法の弱点である権力の在処が明確でないという箇所を、早期に修正していたはずである。(補足3)
占領軍の司令長官である、ダグラス・マッカーサーが解任されて米国に帰国する際、20万人の民衆が沿道に出て見送り、時の総理大臣はまるで親父か親友が去ってしまうような声明を出した。本来なら、外交辞令的な見送りがふさわしい筈である。この現象一つとっても、日本の国家としての基本的遺伝子が喪失していることを明確に示している。
マッカーサーは日本の戦後復興を助けてくれたことは事実であると思う。しかし、アメリカの国益にかなった国家の建設が目的であったと知っていたのなら、つまり独立国家としての遺伝子を保持していたのなら、平和条約の後直ちに憲法を改正していただろう。マッカーサーの日本人に対する高い評価が全てを語っている。マ将軍は、日本を大人としてでなく、学校の生徒レベルに見て評価したのである。(補足4)
日本はこの100年間、成長していないし、マッカーサー帰任後65年間経っても、12歳以上にはなっていない。日米安全保障条約は、日本の防衛にとって必須であるが、それは米国にとっては「瓶の蓋」でもあることも米国の将軍から聞いて知る始末である。http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0302S_Z00C12A2000000/ 米国が日本に軍事基地を置くことには、二重三重の意味があることすら、日本の代議士連中は知らないだろう。
補足:
1)命の値段という表現は不謹慎かもしれないが、それを承知の上で話をわかりやすくするために用いた。ここでの意味は、一般市民の死亡に対する為政者の認識の程度である。独裁国家での一市民の命は軽い(安い)が、民主国家の米国等では、国民は無駄に兵士の命が亡くなることを許さない。民主国では、”Remember the Main!"とか”Remember Pearl Harbor”と国内プロパガンダで、怒りによる民族意識の高揚(醸成)を利用して、人命の値段を下げる。勿論、為政者本人がつける本人の命の値段は非常に高いので、第二次大戦のような戦争になれば、命を失うのは北朝鮮の為政者の方である。和平後の北朝鮮国内での金正恩の政権維持のプロセスが分かり易く説明できれば、仲介は成功すると思う。
2)ヨーロッパ諸国はエドワード・ルトワック氏の考え方「戦争にチャンスを与えよ」と思って見ているだろう。我々は「戦争にチャンスを与えてはならない」であり、そのためには日本人の覚醒(§3を参照)と米国の決断の二つが同時に成立しなければならない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43331789.html
3)既に米国海兵隊は沖縄からガム島へ一部移転することが決定している。
4)天皇を国家元首とするのは、明治維新の時には薩長の下級武士たちにとって必須であった。しかし、体制が完成し、下級武士も明治の元勲となる風格を持った時には、象徴天皇制にするべきであったと思う。
5)http://www.nybooks.com/articles/1999/10/21/macarthurs-children/
If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature. The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of twelve as compared with our development of 45 years.
アングロサクソンが、科学、芸術、神学、文化の発展において45歳と言えば、ドイツ人はかなり成熟していました。 しかし、日本のそれらは時代が古いにもかかわらず、未だ将に授業中の段階でした。 現代文明の基準によって測ると、私たちの発展段階が45歳だとすると、彼らの(文明)は12歳の少年に喩えられるでしょう。
1)現在、米国と北朝鮮のチキンレースが、最終地点に全面的な戦争(第三次世界大戦)を見ながら進められているように思う。当然のことだが、両方終着地点は望まない。相手方がギブアップして呉れることを期待しながら、他に方法を持たずにそれを続けている。終着点では、数十万人レベル以上の死者がそれぞれ北朝鮮国民、日本国民と韓国民、そして千人規模の米国軍人とその家族からでる可能性が高い。
ただ、一般市民の命の値段は米国、日本、韓国では高いが、北朝鮮では安いので、最終点到達までの損害のバランスが北朝鮮有利なため、核兵器搭載型のICBMまで開発を進めることが出来る。(補足1)“終末時計”の針は北朝鮮が進めている。トランプ大統領は100日間の間に何とか出来ないかと中国の習近平に貿易不均衡での攻撃猶予の条件をつけて依頼したが、それが成功するとは思っていなかっただろう。
米国の諜報機関は、中国内部を完全掌握していないと言われる習近平の情況を知っていると思う。江沢民派が北部戦区で強いため、制裁が自由にできないのだろう。(河添恵子氏:https://www.youtube.com/watch?v=7t2A5TVruW0&t=918s)
ロシアは米国との経済関係が薄く(政治関係は当然敵対)、また、米国が北朝鮮と平和条約を早期に結んでおれば、こんなことには成らなかったと考えているのか、経済制裁に協力的ではない。また、経済制裁は北朝鮮の暴発を招くだけだと、ロシアの大統領に言われたら、米国は反論できないだろう。
この様な事態になると、当事国(北朝鮮、米国、韓国、中国、ロシア)だけでは解決は不可能である。そこで、米国と北朝鮮の和平には、仲立ちが必要である。その役割ができるとしたら、どこの国の誰か?その一人として、安倍総理の可能性があると私は思う。安倍総理は現在の日本で、リスクを取って何かをする覚悟と能力のあるほとんど唯一と言っていい政治家である。そして、2002年の小泉政権の時に日朝平壌宣言の締結に関係しており、北朝鮮の事情に詳しい。
また、米国トランプ大統領は選挙戦の時から、アメリカ人が朝鮮半島に関与することを好ましい状況ではないと考えていたのだから、信頼できる第三者が調停役として名乗りを上げれば、話し合いに積極的に応じる可能性がたかい。昨年末に報じられたように、北朝鮮が既に核兵器をミサイルに搭載できるレベルまで小型化しているとすれば、平壌宣言当時のブッシュ政権の時と比べて問題が大きくなっており、米国も問題解決に向けて調停役が現れることは期待していると思う。
北朝鮮もロケット打ち上げで気勢を上げているが、その先に問題の解消が見えている筈はない。どの様に加速度的に軍備を増強しても、米国との実戦には勝てないのだから、できるだけ有利なところで米国と妥協し、現在の体制保障と国家の承認を得るべく、平和条約締結を考えている筈である。
もし、米国が中心になり、北朝鮮の基地攻撃などを強行すれば、何十万人という死者が韓国、日本、米軍関係者で出るだろう。そのような強硬手段をとる理由もメリットもない。(万が一中国が参戦することになれば、第三次世界大戦となる。)ただ、北朝鮮を米国が承認するまで話が進んだ場合、韓国と北朝鮮との関係、さらに米韓同盟をどうするのか、更に日米同盟にも影響がでるだろう。
それら全てを考えた上で、安倍総理が特使を北朝鮮に送ることを手始めにして、米国と北朝鮮の間の軟着陸を成し遂げることができれば、全ての関係国にとって差し当たりは、大きな成果となると思う。
2)朝鮮戦争は東西冷戦の残り(remnant)の一つである。東西冷戦の東側とはソ連と中国であり、その東西の極東での境界が朝鮮半島の38度線近くの国境であった。西側の覇権国である米国が、日本と韓国に基地を持つ理由として朝鮮戦争があったと考える。
東西冷戦が終結したあとに、依然として中国やロシアと米国は仮想敵国の関係にあるので、未だに在韓米軍や在日米軍には類似の存在理由が存在する。北朝鮮との平和条約の締結は、この地域での冷戦の残りの消滅と米国軍事力の急激な東方へのシフトを伴うと考えられる。(補足2)
それは、現在の日本の周りに存在する準安定なバランスを崩し、日本にとって重大な結果を招く可能性があると思う。日本は、東西冷戦などではなく、第二次世界大戦の重大な後遺症に、始めて直面する可能性がある。例え話を用いれば、家畜化されてしまった動物である日本の飼い主が、突然何処かに去り、野生を取り戻すか死かの境目を放浪することになると思う。それは、丁度南極大陸に取り残された太郎と次郎の境遇とも言える。
喩え話から元に話をもどす。日米安全保障条約は日本への第三国の軍事的侵略を防止する上で、現在不可欠である。しかし、日本が独自軍を未だ十分な形で保持していない現在、北朝鮮と米国との講和条約、更に、日本と北朝鮮との基本条約と一定の経済協力などを取り決める付属協定の締結は、上述のプロセスにより日本にとって非常に危険な、歴史の急激な変化を伴う可能性があり、それを心配するのである。
米国と北朝鮮の国交を開くことが出来れば、周辺諸国の差し当たりの被害は最小に抑えられるだろう。しかし、それと同時に日本独自の国防体制を、米軍の沖縄等日本国内基地からの撤収が早くなる分だけ、早期に整える必要がある。それが出来ないのなら、調停工作などは諦めて見守るだけの方が良いかもしれない。
3)現在の緊密な日米関係は、戦後の吉田茂とマッカーサーの間で構築されたと思う。しかし、日本国はその過程で未だ十分習得していなかった国民国家の体制を完全に失ってしまったと思う。
それは、明治維新の革命が薩長の下級武士や京都の貴族らにより独自に達成されたものではなく、英国等からの支援と教示により為され、自分のものとなっていなかったことと関係する。その後の民主化の動きも西洋の真似に過ぎなかったと思われる。つまり、もし独自革命の後明治憲法をつくって国家体制を整えたのなら、その憲法の弱点である権力の在処が明確でないという箇所を、早期に修正していたはずである。(補足3)
占領軍の司令長官である、ダグラス・マッカーサーが解任されて米国に帰国する際、20万人の民衆が沿道に出て見送り、時の総理大臣はまるで親父か親友が去ってしまうような声明を出した。本来なら、外交辞令的な見送りがふさわしい筈である。この現象一つとっても、日本の国家としての基本的遺伝子が喪失していることを明確に示している。
マッカーサーは日本の戦後復興を助けてくれたことは事実であると思う。しかし、アメリカの国益にかなった国家の建設が目的であったと知っていたのなら、つまり独立国家としての遺伝子を保持していたのなら、平和条約の後直ちに憲法を改正していただろう。マッカーサーの日本人に対する高い評価が全てを語っている。マ将軍は、日本を大人としてでなく、学校の生徒レベルに見て評価したのである。(補足4)
日本はこの100年間、成長していないし、マッカーサー帰任後65年間経っても、12歳以上にはなっていない。日米安全保障条約は、日本の防衛にとって必須であるが、それは米国にとっては「瓶の蓋」でもあることも米国の将軍から聞いて知る始末である。http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0302S_Z00C12A2000000/ 米国が日本に軍事基地を置くことには、二重三重の意味があることすら、日本の代議士連中は知らないだろう。
補足:
1)命の値段という表現は不謹慎かもしれないが、それを承知の上で話をわかりやすくするために用いた。ここでの意味は、一般市民の死亡に対する為政者の認識の程度である。独裁国家での一市民の命は軽い(安い)が、民主国家の米国等では、国民は無駄に兵士の命が亡くなることを許さない。民主国では、”Remember the Main!"とか”Remember Pearl Harbor”と国内プロパガンダで、怒りによる民族意識の高揚(醸成)を利用して、人命の値段を下げる。勿論、為政者本人がつける本人の命の値段は非常に高いので、第二次大戦のような戦争になれば、命を失うのは北朝鮮の為政者の方である。和平後の北朝鮮国内での金正恩の政権維持のプロセスが分かり易く説明できれば、仲介は成功すると思う。
2)ヨーロッパ諸国はエドワード・ルトワック氏の考え方「戦争にチャンスを与えよ」と思って見ているだろう。我々は「戦争にチャンスを与えてはならない」であり、そのためには日本人の覚醒(§3を参照)と米国の決断の二つが同時に成立しなければならない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43331789.html
3)既に米国海兵隊は沖縄からガム島へ一部移転することが決定している。
4)天皇を国家元首とするのは、明治維新の時には薩長の下級武士たちにとって必須であった。しかし、体制が完成し、下級武士も明治の元勲となる風格を持った時には、象徴天皇制にするべきであったと思う。
5)http://www.nybooks.com/articles/1999/10/21/macarthurs-children/
If the Anglo-Saxon was say 45 years of age in his development, in the sciences, the arts, divinity, culture, the Germans were quite as mature. The Japanese, however, in spite of their antiquity measured by time, were in a very tuitionary condition. Measured by the standards of modern civilization, they would be like a boy of twelve as compared with our development of 45 years.
アングロサクソンが、科学、芸術、神学、文化の発展において45歳と言えば、ドイツ人はかなり成熟していました。 しかし、日本のそれらは時代が古いにもかかわらず、未だ将に授業中の段階でした。 現代文明の基準によって測ると、私たちの発展段階が45歳だとすると、彼らの(文明)は12歳の少年に喩えられるでしょう。
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