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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2016年5月27日金曜日

幼児化と文明化社会:日本の崩壊を防ぐにはどうすれば良いか

最近の日本人は幼児化していると良く言われる。榊原英資氏の著作で「幼児化する日本は内側から壊れる」と題する本がある。アマゾンの内容紹介の欄に、以下のように書かれている。

物事を単純に白だ黒だと決めつけて、どちらかを一方的に攻撃する。他人は自分の思い通りに動くものだと思い込む。そうした考えを持つのは、人間の幼児化です。クレーマーの増加はその表れでしょう。それに対する企業も、しばしば『謝りすぎ』ではないでしょうか。本来リーダーであるべき政治家も、大人であるべき中高年も、最近どこかおかしい。知的な面で人々の退化が進み、日本が内側から壊れてしまうことを、いま私は危惧しています。 --著者・榊原英資氏が社会と人々を観察し、成熟とはどういうことかを論じます。

この文章が刺激となり、この問題を考えることになった。そこで、幼児化とはなにか、どのように何時から起こったのか、どうすれば克服できるのか、日本は崩壊するのかなどについて、榊原氏とは独立に考えてみる。

1)幼児化とは何か:

上記幼児化の例をまとめて一言で定義すると、幼児化とは「単純且つ利己的な性格の段階で、知的な成長が止まっている状態」と言えるだろう。幼児がこのような性格に留まるのは、保護者が存在して日常生活に支障が出ないからである。従って、幼児化にはそのような態度でもやっていける“保護者的な何か”が存在するはずである。

幼児化の代表的例として、クレーマーが挙げられている。クレーマーは幼児化の典型例なのだろうか。またその原因は何だろうか?

米国の有名なマクドナルド・コーヒー事件では、コーヒーをドライブ中に膝にこぼして火傷をした人が、マクドナルドにコーヒーが異常に熱いのにも拘らず、それが示されなかったのも一因だとクレイムをつけた。その後のマクドナルドの対応が下手であったため、合計64万ドルの賠償金を支払うようにという判決が下ったのである。実際には当事者間で和解が成立し、60万ドル以下の支払いで決着したという。

この数十万ドルを手にした人を“特に幼児化した人”とみる人は少ないだろう。しかし、クレーマーと言えるかと聞けば、イエスと答える人が大半だろう。クレイムには、正当なものと不当なものがあり、単にクレーマーが増加したから、幼児的な人が増加したとは言えない。マクドナルドを相手に数十万ドルを奪い取った人のクレイムは、我々には不当に見えるが、決して幼児化が進んだ人の仕業には見えない。

一般にクレーマーとは、無理難題を学校、会社、行政機関などに主張して、人を困らせるタイプの人を指すのだが、その要求(クレイム)の中にも正当なものもあると思う。クレーマーの代表としてよく引き合いに出されるのが、モンスターペアレントである。その例は、下のサイトにリストされている。http://matome.naver.jp/odai/2134751872420245301 モンスターペアレントらは、社会はそして学校は本来この様にあるべきだと自分で考え(決めつけ)、現実とのギャップによる不満を、正当なる手順で要求しても埒があかない為、行政や学校の担当者に直接ぶつけているのである。

ウィキペディアでモンスターペアレントの項目を見ると、一通りの説明の後、「保護者が正当な要求をしても、学校や教員が保護者を「モンスターペアレント」として敵対視することがある」という記述がある。つまり、日本社会において個人が権利を主張する範囲と義務を要求される範囲の線引きが、明確になされていないことがクレーマーの増加の一つの主な原因だと思う。つまり、学校や行政も、同様の線引きが明確でないとも言える。この現象は大人になりかけた個人と幼児のままの社会との衝突とみることさえできるのである。(補足1)

私の直感だが、おそらくクレーマーと見なされる人たちは、比較的高学歴だろうと思う。権利と義務という考えを、自分の行動に利用するにはそれなりの知識が必要だからである。また、冒頭で幼児化の本質を考えた時に、保護者に相当するものが存在するはずだと書いた。モンスターペアレントを考えた場合、それが明確に見当たらない。

我々文明社会に生きるものは全て、社会から多くの恩恵を受けて生きているのであり、それはあるべき社会の姿と現実とのギャップを埋める作業、つまりクレイムとそれに対する行政等の対応、の積み重ねで達成されたものである。つまり、モンスターは極端ではあるが、特別にクレーマーや短絡的な人が多くなったことと幼児化とを結びつけるのには違和感がある。

2)文明化は個人の幼児化ではないだろうか:

私は、モンスターペアレントの話とは関係なく、人間が幼児化していることに異論はない。文明化社会では、人が生きる上に必須の仕事のほとんどが、個人から離れて多くの専門家に委ねられる。我々が食べる牛肉は、農家が育て、専門の業者が屠殺し解体し、そして運送屋が運んでスーパーに並ぶ。鶏肉も豚肉も同様である。しかし、我々に牛を殺して解体する技術と胆力があるだろうか?

多くの人は、自動車を保有してスーパーに買い物に出かけて食料を買い、自宅のマンションや一戸建ての家に帰って食べる。しかし、我々のほとんどには、家も建てられないし、自動車の仕組みも詳細には知らない。その原料である鉄鉱石の還元法すら、ろくに知らない。

我々日本人は日本列島にすむ。この土地には昔、アイヌなど原住民が住んでいた。北海道のアイヌの方と元々沖縄に住んでいた方の遺伝子が、大和民族の遺伝子よりも互いに近いのはそれを明確に示している。http://news.mynavi.jp/news/2012/11/02/126/ 征夷大将軍とは、奈良から平安時代、原住民との戦いにおける大和朝廷側の指揮官のことである。彼らは、関東地方以北などに生活している原住民の方々を殺戮して、その土地を奪いとったのである。我々日本人はその土地に住んでいる。そうしなければ、我々の命もこの世にはなかった筈である。

同様に、現在南北アメリカに住んでいる人たちも、原住民を殺して奪い取った土地に住んでいる。16世紀初頭には9000万人いたと推定されるアメリカ大陸原住民は、17世紀には350万人になっていたという。言うまでもなく、現在世界に住んでいる人類のほとんどは、殺戮行為に生き残った者達の子孫である。(補足2)

この文明化された社会において、我々は様々な自分達が生きる為の行為のなかで、一体どれだけのことができるのか? まさに、幼児同然なのではないか。つまり、我々が文明化社会の中で生きることが、そのまま人間の幼児化であることに気がつかなければならない。幼児化は特定の個人において進行するのではなく、現代社会とそのなかに生きる市民一般の現象なのである。

従って、幼児化の全てを防ぐことは不可能でありその必要もない。しかし、幼児化している自分を自覚して、思考過程において原点へ復元する習慣を各自が持つことが、我々日本人が21世紀を超えて生き残る為には不可欠だと思う。我々はそれを自覚しているとは言えないので、社会に大きな変化が生じたとき問題になるのである。何故なら、そのような時には、原点に戻って考える必要があるからである。

日本社会の病根を探し出して対症療法的に治療することを考えるのも短期対策としては良いが、我々日本人が21世紀を超えて生き残る為には、思考の開始を原点に戻して、世界の中でどう生き残るかという戦略まで考えることが不可欠だと思う。

3)日本社会が幼児化のままであるという明確な例を以下にあげる。

最近、ユニークな議論を披露している作家に橘玲氏がいる。近く、「リベラルがうさんくさいのには理由がある」という本を出版されたらしい。その前書きがすでに橘氏のブログに引用されている。http://www.tachibana-akira.com/ その中に、日本の非武装中立の主張がどのような時代にどのような人たちによりなされてきたかが紹介されている。

1973年の長沼基地訴訟で自衛隊を違憲とした札幌地裁の裁判官は、判決文の中で「敵が日本に攻めてきた場合にどう対処するか」について、以下のように書いた:

たんに平和時における外交交渉によって外国からの侵害を未然に回避する方法のほか、危急の侵害に対し、本来国内の治安維持を目的とする警察をもってこれを排除する方法、民衆が武器をもって抵抗する群民蜂起の方法、さらに、侵略国国民の財産没収とか、侵略国国民の国外追放といった例もそれにあたると認められる。

これが冗談ではなく、いわゆるリベラルな人たち(進歩的文化人とも言った)に名判決だと称賛されたとある。また、竹槍で民間人が武装してもソ連(当時の仮想敵国)などの兵隊にはかなわないだろうという当然の反論にたいして、日本を代表する経済学者(当時はロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授)で、「ノーベル経済学賞にもっとも近い日本人」といわれた森嶋通夫氏は文藝春秋の中に書いた“新軍備計画”(1979年7月号)の中で、

万が一にもソ連が攻めてきた時には自衛隊は毅然として、秩序整然と降伏するより他ない。徹底抗戦して玉砕して、その後に猛り狂うたソ連軍が殺到して惨澹たる戦後を迎えるより、秩序ある威厳に満ちた降伏をして、その代り政治的自決権を獲得する方が、ずっと賢明だと私は考える。(以下略)

と書いたという。それが冗談でしょうと言いたいのだが、後に日本社会党委員長になる石橋政嗣氏はそれに感銘を受け「無条件降伏」を前提とする非武装中立を唱えたと書かれている。

あまりにも滑稽なので長々と引用してしまったが、言いたいのは、日本を代表する学者も政治の分野では幼児状態であり、それも1970年代には重症レベルであったということである(補足3)。また、非武装中立を党の旗頭とする日本社会党(現在の社民党)が国会議席で30%前後を占めたのだから、日本社会全体がこの問題に関しても幼児的状態だったということになる。 最近の若者は、他国は森嶋先生や社会党が考えるようには、世界は甘くないだろうと考える人の方が多いと思う。その点では、むしろ幼児化が徐々に治癒しつつあると考えられる。

最初のセクションの冒頭で書いたように、幼児化には保護者役が存在するのである。このセクションに書いたケースでは、明らかに、戦後吉田茂内閣がマッカーサーと協力して始め、その後延々と70年間堅持された、日本国とアメリカ国との間の安全保障条約(1960年からは、相互協力という言葉が入る)が保護者役である。実際にはそれほどでなくとも強力だと信じる保護者(安保条約)のもとで、子供(日本国)は幼児状態に安住するのである。我々の国家が幼児状態であるとした時、日本社会に大人の“格”を期待するのは無理である。

4)現代人にできること:

各個人が幼児状態から成人方向に成長するには、各人が個人と社会の関係をゼロから理解することだと思う。つまり、社会の恩恵で我々は生きているが、その社会は我々個人が分担して動かしており、学校や行政などの社会の機関は、我々個人がそれぞれの方法で支えて行かなければならないことを、全ての国民が自覚すべきだということである。主人公はあくまでも我々国民一人一人であることを十分理解すれば、社会は自ずと大人の方向に改善するだろう。

現在の日本では大学進学率が50%を超えている。その高い知識と知的訓練を生かして、我々個人が日本国と日本社会を構成し支えていくことを、プロセス(思考上のプロセスであり、必ずしも歴史的プロセスである必要はない)を含めて原点から考えれば、我々個人の権利と義務が明確に理解されるだろう。

その思考の中には、国家の役割とそれを支える国民の義務との関係も出てくるはずである。(補足4)そこで、トマス・ホッブズをよまなければならないと考えるのは愚かなことである。本などを読むことに時間を費やすのは必要最小限にとどめるべきである。

過去の多くの民族の生存競争と栄枯盛衰を学び、欺瞞に満ちた現在の国際政治を知れば、自ずと現在の憲法前文の虚しい理想論と、二番目のセクションで述べた多くの進歩的文化人達や彼らが支援する日本社会党(現在民進党の中に吸収されている)の議員達の非武装中立論がジョークに過ぎないと思えるようになるだろう。そして、22世紀に向けた戦略的思考も、市民のなかから湧き出る様になるだろう。

補足:
1)しばしばテレビで報道されるゴミ屋敷の問題も、行政は十分対応ができていない。周囲が迷惑していることや、火事などの事故事件の可能性もあるのだから、条例がなければ早急に制定し、代執行して、代金をゴミ屋敷の住人から請求すれば良い。抵抗すれば、警察が逮捕すればいいのだ。
2)「歴史を裁くことの愚かさ」という言葉がある。この言葉は、この人類の歴史を考えれば自ずと明らかである。尚、西尾幹二氏の著作に、「歴史を裁く愚かさ」がある。
3)石橋政嗣氏は日本社会党の政治家であり、日本社会党はソ連の指示で動いていたのだから、幼児的ではなく、狡猾なのである。
4)ある本にこのような文章があった。「我が人民が餓えに苦しみ、それを解決する手段が他になければ、我が国は隣国を侵略してその領地や食料を奪う自然権がある」

2016年5月25日水曜日

小保方事件:「自然科学」の本質からの再考察

自然科学研究とは、そもそもどのような行為なのか(補足1)、そして、小保方氏のケースのどこが問題だったのかについて、再度表現を工夫して書いてみる。テレビ等で、著名なT 教授の執拗とも思える小保方論文弁護が、この文章を書く動機である。

1)自然科学研究は、自然が完全な存在であるとの仮定(補足2)のもとに、人間が理解できるモデル(記号や図面を含めた言語の集合)で再構築することを目指す行為である。その目的を達成するために、研究者は、通常学会を作ってそこに参加する。学会には既に学会員になっている人による紹介などで参加するので、一定の能力が前提となる。そのほか暗黙の資格として、自然科学の上記目的:“自然の仕組みを解明する”を共有し、学会員として活動する間(研究活動中)はその目的を最優先することである(補足3)。

研究の進行について書く: ある研究者が自然のある部分について、実験や計算結果に自分の考察を加えて、自分の考え出した自然の仕組み(モデル)を論文として発表する。それに対して、他の研究者が批判的に考察する。また、多くの場合は類似研究や延長上の研究によって検証され、その評価が定まれば論文により提出されたモデルは、次第に確かな知識として学会に定着する。

最先端分野では、いろんなモデルが提出されて、論文誌上で競争となる。しかし、最終的に残るのは、そのうちの一つである。結果として嘘であったと後で分かるモデルを論文に書いても、その時点で良い論文と評価された場合非難されないし、その評価も変わらない。ライナス・ポーリングのDNA三本鎖モデルの論文(Nature誌に掲載)もその良い例である。

現在までに得られた知識の上に、類似の部分やより詳細な部分について、上記プロセスを繰り返し、その分野全体についてのモデルをより完全なものに近づける。ただし、真実というのは神(存在するとすれば)のみが知るのであり、科学者は既存モデルを真実としては受け入れない(補足4)。また、二人の同じ専門の科学者が持つその専門分野のモデルは、根幹部分はほとんど同じだが、厳密な解釈や詳細な部分では必ずしも同一ではない。学会は、異なる考え方をもつ研究者が自由に意見を交換することで、自然への理解を深めることを目的にした集まりである。唯一共有するのは、上に“暗黙の資格”と書いたことであり、それを換言すれば「自然の前に謙虚である」ということである。

2)小保方論文のケースでは、小保方さん本人か著者の一部が、”暗黙の科学会への参加資格に反する行為”をしたことが問題であり、スタップ細胞があるかないかが問題なのではない。繰り返しになるが、「自然の理解のために研究を行い、それを発表する」ことが、研究論文を科学雑誌に投稿する唯一絶対と言っていい資格である。名声を得るとか業績を上げるとかが裏の目的としてあっても良いが、決して表の論文内容に影響してはならない。

小保方さんらのグループにその前提を犯した人がいたと、著者全員が合意し論文は撤回された。その段階で、その件は白紙であり、再現実験などを行うのは全く無意味な行為である。過去のブログで、笹井氏の遺書に関する感想を書いた時に、その点は詳細に書いているので、参考にしてほしい。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/41650960.html

もっと簡単に、「インチキしたから悪いのだ」と言うだけで良いと思う。しかし、その理屈の通用しない人達がマスコミで小保方弁護をしているのである。テレビで有名な中部地方のC大学教授のT氏による小保方論文弁護の根拠は、「論文で主張が論理的に出来ておれば、その真偽と関係なく、非難する理由はない」ということのようだ。

別論文掲載の図をコピー&ペーストすることの研究倫理上の意味は、実験結果に重点がある論文と理論が主である論文で、大きく異なる。理論が主な内容の論文において、実験結果の 図が単に現象の例示的な意味で紹介される場合、その行為は論文を撤回するほどの大きな問題ではないだろう(補足5)。しかし、実験とその結果に重点がある化学や生物系の論文では、その行為は所謂インチキとみなされる。そのインチキ行為を、最終的には著者の全員が認めたのであるから、撤回されたのだ。その際に、暴力的な脅しがあったというのなら、それは刑事事件の問題であり、議論する場所が違う。

米国で類似研究がされたとかいう話も、全く関係がない。仮に、後日あの撤回された論文と同じ内容の論文が別のところから発表されても、全く関係がないのだ。

補足:
1)自然科学の元研究者としての考えです。ただし、哲学の知識はそれほどありません。
2)つまり、自然は 旧約聖書やヨハネによる福音書の冒頭に書かれているように、神により創造された完全な存在である。それ故、論理的に説明できる筈であり、怨霊などの影響を受けない。
3)最優先の意味は、世俗の目的が発表内容などに影響してはならないということである。因みに。自然科学研究は、学会に参加していなくても出来る。しかし、その成果を論文として科学雑誌に発表する段階で、学会に参加したことになる。ただし、学会員以外は投稿できない雑誌が多い。
4)真実を主張することは、その段階で宗教家の行為となる。
5)著者全員が合意の上で、Erratum(誤写などの訂正)として後日修正すべきである。

2016年5月22日日曜日

オバマ大統領の広島訪問は、米国民に日本への反感を醸成するだろう

5月10日のブログで、オバマ大統領の広島訪問は時期尚早であるという主旨の文章を書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42788957.html それは核兵器を民間人虐殺に用いた明確な国際法違反行為であるのに、謝罪もしないで空疎な言葉を話すことは、両国のどちらに対してもプラスにならないからである。

今日の読売新聞朝刊の7面に、オバマ大統領の広島訪問を契機として、「日米歴史論争の再燃の恐れ」があると指摘している。その記事の中に、「米政府は長年、退役軍人などの声を考慮し、日本の首相が先に真珠湾を訪問し、その後に大統領が広島を訪問する案を検討してきた」とある。また、「今回も国務省は安倍総理の真珠湾訪問を日本側に打診してきたが、首相官邸は断った」と書かれている。

つまり、オバマ大統領個人にとっては、今回広島を訪問してなんらかのメッセージを出すことは、過去の核兵器廃絶の言葉との整合性をとるという意味があるが、日本側には何のメリットもない。この点、10日のブログで書いたように、画期的だと速報したNHKの考えは馬鹿げていると思う。

しかも、安倍総理が真珠湾訪問の案を断わるのなら、何故オバマ大統領の広島訪問を断らなかったのか。安倍外交のミスだと思う。読売新聞は、「オバマ氏の広島訪問で、日米の友好が更に進展することは間違いない。ただ区切りがついたはずの歴史をめぐる論争を蒸し返す両刃の劍になるリスクもある。」と書いている。

日米関係の鍵は一方的に米国が握っている。この件、読売新聞の日米の友好に役に立つという予想は外れ、関係悪化の原因になるという危惧の方は当たるだろう。つまり、米国の戦略家は、トランプ氏が大統領になった際、オバマ大統領の広島訪問と安倍総理の真珠湾訪問の拒絶を、日本との関係を疎遠にするための武器として頭におくだろう。

真珠湾では民間人を殺してはいないとか、ブッシュドクトリンにあるように米国も先制攻撃を否定していないとか、ルーズベルト大統領は日本の先制攻撃を知っていたとか、日本を追い詰めたのは米国だとか、いろんな言い訳はあるだろう。しかし、問題は人口の多くを占める米国ブルーカラーや、この件で声の大きい退役軍人らがどう感じるかである。政治は論理で動くものではないと思う。

遠藤誉氏が指摘する「習近平が安倍総理を嫌う理由」について

遠藤誉さんの笑顔を武器にのし上がった習近平主席ーなぜ安倍総理を嫌うのか?という記事を読んだ。いささか古い記事だが、ちょっとコメントを書く気になった。 http://bylines.news.yahoo.co.jp/endohomare/20141112-00040673/

習近平は第二次安倍内閣に期待したが、裏切られた為に安倍総理を嫌っているというのである。遠藤さんは中国に詳しい方のようだが、上記記事は完全に中国の表の対日戦略を文字通りに理解して、まるで日本の社民党の方のような書き方をしておられる。

遠藤さんの記事の要約は以下の通りである。

“靖国参拝で激しい反日運動の原因を作った小泉内閣に変わって総理になった安倍さんが、訪問先として第一に中国を選び、胡錦濤主席と会談して、戦略的互恵関係を結んだ。その後、野田内閣の時の尖閣国有化で苛立っていた中国だが、第二次安倍内閣が成立すると、第一次安倍内閣のときの良い関係が期待され、最初大いに歓迎した。ところがその安倍首相が、第一次内閣の時とはことなり、集団的自衛権、憲法解釈改変、靖国参拝と「中国側から見た期待を裏切った」ので、期待が大きかった分失望も激しいものになった。“

このような分析は、全く素人の領域のものだと思う。何故なら、現中国政権にとっては「日本国を衰退から消滅へと導く総理が、日中友好の首相である」という事実を、全く想像すらされていないからである。優秀な中国首脳は、靖国参拝、集団的自衛権、憲法改正などは、独立国家として当然のことであるとわかっている筈である。

ただ、これらが日本攻撃の武器に仕立てる為に、中国国民には徹底した反日教育を行う一方、日本国民に対しては、社民党やA新聞などを使って、上記の独立国家として極当たり前の姿勢を軍国主義日本の復活を意味すると教育したのだと思う。

そして、これまでの日本の総理には通用していたそのような武器が、安倍総理には全く通用しないので、習近平は仏頂面を見せるしか手がないのである。まあ、最近の総理大臣の中では、最も優秀であるという証明である。新生党、新党さきがけ、日本新党、民主党などが樹立した1993年以降の衆愚政治的総理とは比較にはならないし、ガールズやチルドレンに担がれた総理大臣などとも比較にならない。