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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2017年6月30日金曜日

国会及び内閣は緊急の問題を対象にするべき:稲田発言はそんなに大きな問題なのか?

1)現在の政界の陣容は貧弱である。そこで言葉狩りを始めたら機能不全に陥る。豊田議員の暴言は病的なので処理は簡単に済んだが、安倍総理の加計問題や稲田防衛庁長官の発言は、原則論としては重要だが、それほど大きな問題ではないのだから、未解決問題として暫く放置すべきであると思う。

稲田防衛庁長官の東京都議会選挙応援演説での失言は、野党及び自民党幹部の方々から批判を受けたのち、総理大臣が罷免しないと決断した。総理の決断が出た段階で、稲田氏の履歴に失言の一つとして書き込まれたことだけを残して、問題としては終わった。

この発言は、本質論では国家行政特に軍政の地方議会に対する干渉であり、不適切であると非難されるのは当然である。その問題点の論理は以下のサイトに解説されている。http://www.news24.jp/articles/2017/06/28/04365510.html

しかし、既に与党(総理がどのような指摘をしたか分からないが)が行った厳重注意で十分であり、今後国政をストップするほど大きな問題ではない。軍隊が政治に干渉することが危険であるというのはその通りであるが、地方議会であり国会など国政に対する干渉ではない。この国ではむしろ、地方自治体が軍政に干渉する方が著しく、現実問題として、軍隊のトップが政治に対して干渉する意図は、あの稲田氏の発言からは感じられない。

原則論は、数学者がやる場合には徹底してやっても絵になるが、政治家が原則論に拘るのは滑稽である。原則論をやれば、自衛隊が憲法9条第二項に違反していないのだから、軍隊ではない。従って、上記サイトの論理、つまり稲田氏を攻撃している論理は全くナンセンスである。自衛隊員は肩身が狭くなるのは問題だが、それを大きな問題として国会は取り上げたいのか?

全ての言葉狩りは原則論である。そして、ポリティックスという言葉が意味するように、政治の本来の姿は総合的に判断し決断することである。原則論の旗を振って、政治をするつもりになるのは、極左翼の姿勢である。

2)稲田氏が応援演説であのように言いたくなるのは分からないでもない。あの都民ファーストとやらが都議会を抑えてしまうと、国家の防衛体制に大きな影響がでる可能性があるからである。

現在、北朝鮮問題で何時何が起こるか分からない緊張した時間を自衛隊は過ごしている。また在日米軍の横田基地など重要な軍事施設が東京にある。稲田防衛大臣が危惧しているのが、極端な話ではあるが東京の沖縄化だとすれば、一言出てしまうのは無理なからぬことである。

都民ファーストのトップは元防衛大臣の小池百合子氏であるが、彼女は自分ファーストであることを既に豊洲問題で証明している。その政党というか小池自分党が東京都議会を抑えると、豊洲での失点を何か大きなことで挽回しようと考える可能性がある。

勿論、国防や国民の命に直接関わることでは、小池氏も国家に協力する筈である。しかし、地方自治体に所属する知事には国家の機密情報が与えられないので、間接的だが重要なところで国家行政にポピュリズム的反旗を掲げる可能性がある。

小池知事といえば豊洲問題であるが、その出発点は既存の腐敗した勢力との対決を演じる場として、豊洲新市場を選んだことである。大衆迎合的なパーフォーマンスを演じるために、極微量の地下水中ベンゼンを利用したのである。その異常さは、比較の対象としてふさわしいかどうか分からないが、豊田議員の暴言と大差ない。未だに安全を確保できなかったことにお詫びすると発言した位である。

稲田氏の言葉は、現在の非常に緊迫した国際環境の中で、日本の首都であり重要な軍事施設を有する東京都の政治を、小池自分党が抑えてしまう危険性を感じて思わず出たのではないだろうか。加計問題などと同様に、この問題も本質論から言えば大事だが、問題としては小さい。それらと、現在の異常な国際環境下で日本国民の命と安全を守るという、最大且つ本質論でも最重要な問題を見えなくすることは止めてもらいたい。

小さくても、目の前の木っ端一枚は熊をも隠すのである。もう両方共しばらく放置して、本来の問題に向かう姿勢を政治は見せてもらいたい。重ねて言うが、上記の総理に関する二つの問題は緊急の問題ではないので、後で評価すれば良いと思う。

== 原則論が好きな素人ですが、敢えて四面楚歌の稲田大臣を弁護しました。議論反論期待します。 ===

2017年6月29日木曜日

政治を世襲貴族から奪い返す方法

1)朝日新聞の記事から引用: 
東京都議選(7月2日投開票)に立候補した259人のうち、約3分の1は議員経験のない人たちだ。立候補を決める際、「仕事を辞めるかどうか」は大きな問題で、悩む人は少なくない。識者は、サラリーマンらが選挙に出やすくなる仕組み作りを提案する。

「仕事を続けたまま立候補できるなら、そうしたかった。」「仕事を続けながら立候補できるようにならないと、議会は世襲や家が裕福な人だけの世界になってしまう。」金融機関を退職することを決め、初めて選挙に出た30代の女性はそう話す。
http://www.asahi.com/articles/ASK6M5W49K6MUTIL038.html

この問題は非常に重要であるので、ここで考えて見たい。私も、上記立候補者と同じ意見である。都議選はあくまで地方選挙であるが、地方議員が国会議員への一里塚であると考えると、国政を含め政治を世襲貴族から一般国民の手に奪い返す方法として、仕事をしながら立候補できる道をつくる必要があると思う。

立候補者を一定の能力がある人に限ることは、議員の質の低下を防ぐ上で大事である。そのために、供託金制度が存在する。立候補のバリアとしてはこの制度のみにすべきである。それ以上に、仕事を辞めた場合の生涯賃金の大きな減少に対する覚悟を立候補に際して要求するのは、政治を世襲貴族か芸能人など金と知名度を既に得た人間の独占にしてしまう。

2)この問題を考える時、日本の労働市場の特殊性を同時に考える必要がある。「日本では何故、大学や高校を卒業した直後の4月にほとんどの人が就職するのか?」日本人のほとんどが当然と考えていることだが、そのことの異常性に注目してほしい。

これは、日本においては会社に入ることが仕事に就くことだけではなく、“会社の家来になる”という封建的な意味をもっていることと関係している。一斉に4月に入社するのは、その後退社せずに“出世”して、年功序列的に上昇する給与を考え、人生の全てが其処を起点に設計されることを意味している。

これは公務員で最も顕著な傾向であるが、大企業でも同じだろう。給与は仕事に対する賃金ではなく、奉公にたいする扶持或いは俸禄なのである。従って、非正規雇用者は会社の家来でないため、賃金も労働の対価としてのみ計算され、一般に低くなる。米国などでは、労働の流動性が高く、勤続年数や正規雇用と非正規雇用の別で賃金に差があまりないだろう。年齢を理由に採用などを決めるのは差別行為として禁じられている。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43274988.html

欧米のように仕事に対する賃金であれば、たとえ選挙に立候補して落選しても、次の日から同じ仕事を探して仕事につけば、同じ賃金を得ることができる。年齢と賃金の関係は、自分の技量と知識など仕事の能力を介した関係であり、その会社に長年“勤める”ことと、賃金や生活設計は無関係であるべきである。(補足1)

日本は近代国家だと思っている人が大半だろうが、日本には中世がいたるところに存在する。近代的な制度である政治を国民全てで行うという民主政は、未だに日本に根付いていないのである。立候補と離職の問題という視野で考えていたのでは、大きな問題にはできず、改革の方法が仮に見えたとしても(補足2)、既得権益を持つ勢力に潰されてしまうだろう。全ての問題は日本国の政治や文化など全体を視野に入れないと、解決はおろか問題の把握すらできないのである。

例えば、現状の教育制度のままでは、日本の労働市場の閉鎖性にも一定の根拠がある。(補足3)最低でも、会社からの立候補支援制度を法令化すべきである。このままでは政治家の質の低下は歯止めが効かず、「日本崩壊の危機」とか「日本が中国になる日」(補足4)がくる時まで続くだろう。

加計問題や森友問題、防衛大臣失言問題、全て政治家の質が諸外国に比べて極めて低いことが原因である。

補足:

1)仕事には各人の連携が必要であり、そこに人間関係のあり方が関係する。日本人は個人としては閉鎖的であり、人間関係も内向きである。これが終身雇用性と関係が深い。この独り立ちしない個人が、日本の民主主義政治を機能障害に陥らせていることは、既に小沢一郎氏(著というより編集というべき)の「日本改造計画」で指摘されている通りである。これは幼児教育や初等教育の重要な課題である。
2)法令で立候補者支援制度を各会社に義務付ける。例えば、「立候補して落選した場合には再雇用を義務付ける。その後の差別を設けない。」という制度を罰則付きの法令として定める。逆差別的な対応としては、社員1000人あたり5名程度の立候補を義務付けることも考えられるが、その種の法令が国会を通過するとは思えない。
3)一般に卒業後極短期間の準備で仕事を始められる状況にはないだろう。従って、給与を支払いながら教育を行うなどの人材への投資が必要となる。その場合、投資分を回収するだけの期間は会社に留まって仕事をしてもらわないと採算がとれない。日本の封建的な雇用制度の撤廃を一斉にする場合、その教育期間内の低い給与と一定の束縛年数を置くことを許可する規定は必要だろう。
4)いずれも、本の題名。両方とも説得力のある内容。

2017年6月26日月曜日

憲法改正を困難にしてきた自民党世襲議員たち

日本国民の政治的知識は極めて貧弱である。それは明治維新以来、薩長の下級武士出身者が政治を独占したことと関係が深いと思う。知識のない国民に憲法改正を叫んでも、その声は届かない。その件について、以下考える。

1)明治維新の初代は、改革の時代を生き抜いた者たちであったが、それ以降政治を担当した世襲の政治貴族の質は、低下するのが必然である。そして、欠点を多く持つ明治憲法を聖書のように受け取ってしまったのが、昭和の敗戦に繋がったのだと思う。(補足1)

ダイナミックな世界の姿に接した明治政府の初代の構成員が次第に消え、緊張感に欠け能力にも劣る2代目以降が政治貴族と化し、政治情報を独占するのが伝統化したのが日本政治の姿である。独占が必要なのは、公開してしまえば、自分たちの無能がバレて、政治貴族の地位を失うからである。

昭和憲法のケースも同様である。マッカーサー憲法が制定され、長州の吉田茂とその手下(吉田学校卒業生)という官僚的人間が政治を独占したために、昭和憲法が聖書化された。パージされた党人政治家たちが早期に復帰して、日本の政治を立て直しておれば、あるいは防げたかもしれない。それを邪魔した吉田茂らの罪は深い。(補足2)それを戦後の名宰相と考える政治評論家も、超保守的な日本の悲劇を演出する一派である。(補足3)

2)安倍総理は、流石に憲法改正の必要性を感じて、「臨時国会が終わる前に、衆参両院の憲法審査会に自民党案を提出したい」と述べ、秋から年内までを想定する臨時国会の会期中に、党改憲案を提出する方針を示した。https://mainichi.jp/articles/20170625/k00/00m/010/040000c

しかし、その必要性について国民に知らせる努力を政府はこれまで、実質的な意味でほとんどしてこなかった。つまり、国民は憲法改正の必要性を実感していないのである。北朝鮮問題は確かに大きな問題である。しかし本当の巨大な脅威は中国であり、現在の38度線の緊張が、いわゆる第一列島線に移動し中国の勢力下に入った統一朝鮮と対峙する時代がそこまで来ているのである。

北朝鮮のノドンミサイルは日本のほぼ全域を射程にいれているが、そこに核兵器を搭載するまでには至っていないだろう。しかし、中国の東風21という核ミサイルは既に24基、北朝鮮の近くに配備されて日本列島の主なポイントに照準を合わせている。(補足4)

中国は、核兵器を保持していない日本に照準を合わせ、核ミサイルを24基も配備している

のである。あのロシアでさえ、エリティン大統領の時代に、日本を核ミサイルの照準から外したと表明しているのである。

その事実をどれだけの日本人が知っているのか、また、日本国政府は知らせているのか? それらの事実を早い時期に知らされて、危機感を国民が持っていれば、憲法改正の必要性を自覚していただろう。喉元に包丁を突きつけられていることを知れば、日本人も生き物なら自衛手段が必要だと感じる筈だ。

自民党政権幹部や自民党議員たちは、国家のことよりも自分たちの子供や孫の仕事を考えて、簡単で楽な国会議員という職業をまるで貴族の地位のように世襲してきた。KGBのスパイとして働いて来た野党議員(何名かは判明している)たちも売国奴だが、彼らも同様に売国奴ではないのか。

補足:
1)天皇に陸海軍の統帥権を置いたのは、「明治政府は、薩長の田舎侍と下級貴族たちではなく、天皇が直接治める」という形を作りたかったからだろう。30年ほど経って、薩長の下級武士たちも立派な明治の元勲に見えて来た時に、憲法を改正して議会と内閣が政治の実権を持つ形に改憲すべきだったと思う。それは、明治天皇と明治の元勲たちの力関係が反転する前にやらなくては永久にできない。
2)朝鮮戦争の時には日本からも義勇兵が出ているし、国際的な緊張感があったと思う。それがなくなる前に憲法改正すべきだったと思う。李承晩の反日政策の時には、憲法改正の話はでなかったのだろうか?
3)6/25放送の「そこまで言って委員会NP」で橋本五郎とかいう読売系の政治評論家が、吉田茂や中曽根康弘らの歴代総理の業績を評価していた。第一位が中曽根康弘で第二位が吉田茂だった。吉田茂は、マッカーサーの言いなりになって、鳩山一郎や石橋湛山のパージに協力し、更にその復帰を遅らせ、その間に官僚たちを政治家にして自分の力を拡大しようとした(吉田学校)、とんでもない政治家だ。彼が一位にあげた中曽根康弘の自伝”自省録”の中に正にその様な吉田茂の評価が書かれている。読んでないのか?
4)DRC中国研究会、「日本が中国になる日」、光人社(2008)参照。

2017年6月25日日曜日

韓国と北朝鮮の今後について:米中の干渉と半島統合のプロセス

1)文在寅氏が韓国大統領になり、一部の政治評論家は南北朝鮮の統一を予想している。大統領に当選直後の文在寅には、日米との関係を正常に保つような姿勢があったが、徐々に本来の方向に進みつつある。統一の具体的な動きがあったとしても、そのプロセスについては、予想困難である。

そのような中で、先月末に米軍によるTHAADミサイルの追加搬入が行われたが、それが国防省から大統領府に報告がなかったとして、文在寅大統領は調査を指示した。http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM30H6Z_Q7A530C1FF1000/

また、昨日(6/24)ソウル都心において、THAAD反対集会が開かれた。全国から3000人があつまり、米国大使館前をデモ行進した。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170625-00027732-hankyoreh-kr これらの動きは、文在寅大統領の思惑通りだろう。

同じく昨日のニュースだが、テコンドーの世界選手権の開幕式に出席した文在寅大統領が、来年2月に開催される平昌五輪で南北統一チームをいくつかの種目で結成することを呼びかけた。

また、国際オリンピック委員会(IOC)の北朝鮮代表委員を務める張雄氏が23日、2018年平昌冬季五輪の南北共同開催案について、IOC会長と話し合うと明かした。この点については、韓国側はその動きを否定している。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170624-00000015-jij_afp-spo

このオリンピックを巡る動きは、韓国と北朝鮮との接近をどのように世界が捉えるかについての観測気球的なものだろう。

2)先月末のチャネル桜で、朝鮮半島情勢と日本を考える討論が放映された。その席で西岡力氏が、南北朝鮮の両方でレジームチェンジが起こりつつあると言う話をした。以下にその話を取り入れて、私の考えを紹介する。https://www.youtube.com/watch?v=i2HCA2ay4mE

北朝鮮の金日成はチリのアジェンデ政権(1970)の成立を見て、選挙でも革命が可能だと考えて韓国で工作を開始した。朴槿恵政権は、それらの勢力が浸透した韓国の中で孤島の様に浮いた存在であった。朴槿恵は、いくつかの具体的対応を行なったが、最終的に破れた。これが、朴槿恵大統領弾劾の真相だという。(補足1)

つまり、朴槿恵元大統領が一民間人である崔順実氏に国家機密を漏洩したと言う疑惑で逮捕収監された事件は、実は北朝鮮の勢力が浸透した韓国で、革命が始まろうとする(深層での大きなうねり)際の序曲的な現象だというのである。つまり、文在寅政権誕生はその大きなうねりの第一波ということになる。

また西岡氏は、脱北者で現在韓国情報関係の幹部職員をしている人の話として、現在の北朝鮮一般民における金正恩の支持率は30%程度であるという推測を紹介した。因みに、金日成時代は100%であり、次の 金正日時代は70%位の支持率だったという。

金正恩はトップではあるが、若くて専門的知識にも欠けるという劣等感を持っているという。幹部たちもそれを知っていて、専門的知識を披露して金正恩に何か進言することが、命の危険に繋がると考えているという。金正恩は未だに国家のトップの席に余裕をもって座っている状態ではないのである。

つまり、金日成の計画がまさに成就すると言う段階になったにも拘らず、金正恩は北朝鮮を崩壊の危機に落としいれようとしているというのである。現在、北朝鮮の幹部たちは、やがて改革開放の時代がくるので、それに備えて外貨を持っておこうと考えているという。従って、金正恩が文在寅の信号を上手く利用して、韓国を飲み込む形での統一達成は困難だろう。

一方、文在寅が目指すのは、韓国を米国の軛から解放すると同時に半島統一を韓国主導で行うことだろう。しかし、全ての準備を米国にも漏れないように行い、半島統一のシンボル的現象:ベルリンの壁崩壊のような象徴的な出来事を一晩でやり遂げる位のスピードがなければ、米国の干渉で実現しないだろう。ただ、大国の干渉を除けば、統一の壁は両方の歩み寄りが起こるレベルまで下がっていると思う。それを暗示しているのが、オリンピックを巡って揃ってきた両国の歩調だろう。

通常の遅いプロセスでことが進むのなら、朝鮮半島のことでありながら、実質的に決定権をもっているのは米国と中国だと思う。トランプは一定期間のモラトリアムを習近平に与えたが、一向に半島情勢に改善(米国の視点からの)がないので、再度米中の首脳会談が行われると思う。

川添恵子氏が言っているように、中国では未だに(水面下での)習近平と江沢民派の抗争があるとすれば、この秋のチャイナセブンの入れ替えなどで今後どの様に習近平の勢力基盤が変化するかが、朝鮮半島情勢を考える上で非常に重要だと思う。もし、北朝鮮と接する北部戦区も完全に習近平の支配下になれば、文在寅の思惑と違って北朝鮮がしっかりとした反韓国の国家として再出発することになると考えられる。(補足2)その場合、文在寅政権は短命に終わるのではないだろうか。

この遅いプロセスで事が運べば、日本もそれほど大きな被害はない。しかし、上で述べた電光石火の三十八度線消滅が起これば、核保持国としての統一朝鮮ができる。これは日本にとって悪夢の始まりだろう。

(以上は素人のメモです;20:30編集あり)

補足:
1)統合進歩党を解散させたり、全教組の非合法化、国定教科書を再開したりしたということが、その戦いの具体例として紹介された。全教祖については以下の記事を参照:http://japanese.donga.com/List/3/all/27/294395/1
2)川添恵子氏によれば、北部戦区は江沢民派の牙城だということである。

2017年6月23日金曜日

日本民族と日本国民、そして憲法の中の天皇

1)先日、勝谷誠彦著「ディアスポラ」を読み、民族とは何かについて考えた。上記小説の中で、ある組織の研究員の言葉として、次のような内容のセリフが書かれている。 “海にかこまれているという地理的理由から、「日本人」という考え方は自然に成立していた。しかし「民族」という概念は19世紀になって初めて出来たのである。近代になって、国家として島から外に押し出していくにあたり、まとまりを作ろうと慌てて作ったのが「民族」なる言葉なのだ。”

ここで、「日本人」と「日本民族」との違いは何なのだろうか。「日本人」と言う言葉は、言語学的には日本列島に住む人たちの意味で理解されているだろう。近代になって、「国家」「国民」という概念が出来、日本国籍を持つ者の意味が加わった。一方、「日本民族」という言葉は明確ではなく、それを言い出した人には単一民族であるという確認をその構成員に要求し、そこに意識を向けさせるという政治的意図があったと思う。

明治以前には、倭人とかアイヌ人という言葉はあったが、日本民族という言葉は無かった。「民族」という言葉自体、英語nationの翻訳語として1880年代に作られた言葉である。(補足1)学者が作った日本民族の構成図は以下のような6つの人種からなるものである。

つまり、天皇を頂点とする日本民族という思想は、明らかに明治維新以降の日本の国家としての統一(及び海外進出)のためと考えられる。これが、我々が天皇を考える時に最も重要なポイントである。江戸時代までは天皇はまさに天上の存在であった。しかし、明治以降は日本民族の頂点という人間の世界の存在となったとも言える(現人神)。つまり、新政府は天皇と一般国民とを接触可能な同じ空間に置き、しかも強固な上下の関係にあるとすることで、一般国民を天皇の為に働く存在にしたと思う。そのための具体的な装置が靖国神社である。

2)日本国が独立国としての軍隊をもち得るように憲法を改訂するには、日本国民に国家の意思決定の権利と責任が無ければならない。国家の意思がどこにあるのか、誰が日本軍の軍事行動の責任を取るのかが明確でないような国のまま軍隊を持てば、周辺諸国に迷惑な存在であると言わしめる根拠を与えてしまうことになる。

日本国の意思は日本国民の意思であるべきであり、それは上図の曖昧な定義しかない日本民族の意思で有ってはならないと思う。何故なら、外国から日本に帰化した人や自分がマイノリティーだと意識する人は、日本民族とは言えない可能性が高いからである。一方、過去の歴史において天皇に取り入った一部の人たちが、天皇の意思が日本民族(=日本国民)の意思だとして国家を動かしたことに十分注意すべきである。(補足2)

自民党の憲法草案の第一条に「日本国の元首は天皇である」と明確に書かれている。(補足3)国家の意思は元首の意思であるので、日本国民が選挙で選ぶことの出来ない天皇の意思が、国家の意思となる。内閣は天皇の権威の下で政治を行うことになり、内閣総理大臣が一旦政権をとると天皇の権威を着て国民の前に現れることになる。それは戦前と同様の無責任体制を生む可能性が高い。そのような企みが成立する以上、自民党草案の第一条は危険である。憲法改正にはその点を慎重に議論してもらいたい。

つまり、国民の意思で選ばれた、国会議員が総理大臣を選ぶ段階では、総理大臣は国民の意思を代表すると考えられなくもない。しかし、その後天皇の認証を経てその権威を着ることになれば、それは天皇の意思のincarnationである。この「日本民族」と「日本国民」の違いと、天皇の存在との関係を議論し明確にしていないところが、国論のねじれの原因になっているのではないだろうか。

我々日本人は独自軍を持ち、出来れば諸外国から一定の承認を得て核武装すべきである。そのためには、この国家の権力と責任の在り処を明確に国民におく憲法の制定が必要である。そして、その必要性を明確に意識するためには、明治維新以降の近代史の総括がなければならないと思う。

補足:
1)日本人内部の民族意識と概念の混乱、岡本雅亨、福岡県立大学人間社会学部紀要2011, vol19, 77-98. http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo19_2/1902_okamoto.pdf
尚、ウイキペディアの民族の項目に以下の注意が書かれている。
日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃いnation の概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識されるethnic group(ジュリアン・ハクスリーが考案)の概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F
2)明治維新は中央集権的な日本国家の創造であった。外様の薩長がその中心に位置するには、天皇の錦の御旗が必要だった。そして日本国での求心力を天皇に頼ったのである。中央集権国家の内閣や議会の権威が高まったところで、陸海軍の統帥権を内閣に戻さなかったことが、その後の大きな困難の原因となった。一定の時期が経過すれば、薩長が天皇の権威の遥か下になってしまうことは判っていた筈である。時期を逸すれば、何もできなくなるのである。
3)第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。 因みに、今上天皇が昨年のテレビ放送で「象徴としての天皇のあり方」という言葉を何度も使われたのは、この自民党草案では駄目であると意識された結果だと想像する。

2017年6月22日木曜日

民族のアイデンティティーとは何か:勝谷誠彦著「ディアスポラ」の感想

1)ディアスポラは、撒き散らされたものの意味で、普通世界中に散らばったユダヤ人のことを指す。西暦70年のローマとの戦争でユダヤ人の大半が殺され、残ったユダヤ人は世界中に散らばった。本のカバーにはこのユダヤ戦争の絵が使われている。

先づ一言だけ、全体の印象について書いておく。これは非常に野心的な作品だが、設定と話の進行がかなり強引であり、ついていけない読者が大半だろうと思う。小説ではあるが、「民族」、「ナショナリスト(民族主義)」、そして「右翼」などを考える上でも、非常に参考になると思った。

この小説の設定は、以下の様である。原発の爆発事故か何かの大災害が起こり、日本人は最早日本列島には住めなくなる。そこで、生き残った人たちが難民として世界中に散らばることになる。国連の斡旋で一部が中国に受入てもらうことになり、一部は西チベットの高地で暮らすことになった。中国政府がチベット人の村メンシイの一角を強引に日本人キャンプとして提供したのである(補足1)。

管理人兵士を含めた漢人たちやチベットの現地の人たちと一緒に住み始めた日本人は、10数世帯であった。事故で亡くなった人の初盆が近づき、避難民たちもその準備を考えるところから話が始まる。

国連とも非常に太いパイプを持つ秘密組織から、国連職員として調査に送り込まれた諏訪という日本人が語り手である。諏訪の表向きの上司である国連職員のダヤンはユダヤ人であり、ユダヤ人としての話を時に応じてする。話の中心は、諏訪と親しい関係になった内田家の両親と18歳の娘の撫子である。

貧しいが比較的平穏な日々が続いてきたのだが、事の成り行き次第では日本人キャンプの住人全てにかかわる可能性が高い事件が起こる。重い高山病(補足2)に苦しみながら、帰国に備えて飲食店で不許可のアルバイトをしていた母親が、漢人の札付きに殴り殺され財布を盗られたのである。

真相が日本人キャンプを管理する二人の漢人兵士に知れ、犯人の漢人が重く裁かれることになった場合、漢人の援助で生きる日本人キャンプの住人全てに大きな困難が降りかかることになるだろう。最初に知った娘の撫子はそう考え、高山病の急激な悪化で死んだと考える事も出来るので、事件を伏せて死亡したことだけを漢人の係官に報告するつもりだと、諏訪や現地で得た男友達のナムゲルに告げる。そして、父親にも正確な話をしないと決める。諏訪は、撫子が日本にいたなら決してこのような逞しい若者にはならなかったであろうと思いながら、決心した後の彼女の涙に自分の袖を濡らす。

撫子は、年上のチベット人ナムゲルと付き合い始め、この地で漢人の下で生きる上での知恵を学んでいたのである。そして、母の受けた暴力を自分一人と、やがてナムゲルと結婚すれば生まれるだろう自分の子供が引き受けると覚悟を決めたのである。撫子はナムゲルの協力を得て、母親をチベットの風習に従ってあの世におくる決心をする。鳥葬である。(補足3)

2)国連職員として調査に送り込まれた諏訪が、日本人たちの様子を秘密裏にリポートするのだが、その秘密組織は日本民族が再び集まった時に、求心力を持つことができるかどうかに関心があるという。(補足4)当然のこととして、世界にばら撒かれながら2000年という長期間、民族のアイデンティティーを保持したユダヤ人達と比較される。

この本の主題は「民族」とは、そして「民族のアイデンティティー」とは何か、という問題である。語り手の諏訪とユダヤ人の国連職員ダヤンとの対話が参考になる。その部分を以下にピックアップする。

そもそも「民族」とは何なのか。その答えは、諏訪をチベットに送り込んだ組織の主任研究員の言葉として語られている。民族という概念は19世紀になって初めて出来たのである。海にかこまれているという地理的理由から、「日本人」という考え方は自然に成立していたが、近代になって、国家として島から外に押し出していくにあたり、まとまりを作ろうと慌てて作ったのが民族なる言葉なのだと。

では、ユダヤ人の場合はどうなのか? 強いユダヤ信仰についての型どおりの話のあと、ダヤンは本音を言う:「我々の神様だって、そんなに力があるわけじゃない。そのことだけで、民族としての結束が保たれてきたと思うほど私は単純じゃない」と。そして、ユダヤの民も北宋の時代に大勢中国にやってきたことがあるが、水に落とした塩のように消えてしまったと語る。

中国は元々は鷹揚な国であり、清の時代まではチベットには漢人は住んではいけなかったという位であった。そのような環境では、ユダヤの信仰もそれほど必要ではなかったのである。つまり、大事な信仰だからそれを護り通したと言うよりも、周囲(同じ一神教の貧しい人たち)の抑圧から自分たちを守るための団結の印として、その教えを彼らは堅持したということなのだろう。 現在国際政治の場面で話題になっている強固な信仰も、豊かで障害のない日常が彼らに約束されたなら、徐々に消え去るのだろう。

3)宗教や民族のアイデンティティー、更に民族ごとの伝統も、人が協力して困難を乗り越えて生きるための「他の人との間に懸ける橋」のようなものだと思う。あらゆる困難がなくなれば、それらは全て必要がなくなるだろう。しかし、人間としてのアイデンティティーとは、実はその「人と人の間に懸ける橋」にある。

豊かで平和な時代になり、そして全てをデジタル技術とロボットが担当する時代になった時、他人との協力が無くても生きられる。その結果、人は人間ではなくなるのではないだろうか。既にその時代は始まっている。この小説を読み、そのように私は思った。

補足:
1)場所は西チベット国道219号上の小さな町メンシイである。その近くにチベット仏教の信仰の山カイラス山がある。標高6638mの美しい独立峰である。(グーグルマップでの写真<=Click 時間がかかります。)
2)標高約4500mのこの村での酸素濃度は平地の約半分であり、慢性化した高山病は低地に移らなければ治らないとのこと。肺水腫になっていたと書かれている。
3)早朝、山の上の決まった場所に遺体を運ぶ。僧侶がお経を上げた後、死体の処理人が少し離れた場所に遺体を運び、そこでバラバラに解体するのである。処理人が去ったあとは、集団となって舞い降りてくる禿鷹の仕事である。
4)p34に、「世界中に散った日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。“組織”の彼らは少なくともそれが知りたいのだ」「核を見つけ出して日本人を一つにまとめようとする意図と、それに対してどこかから莫大な資金が出ているらしいことに、きな臭い匂いを感じる」という記述がある。私にはこの部分の意味が今一つわからない。
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2017年6月20日火曜日

政治の舞台を演出する極少数の人たち

1)岡田英弘の「歴史とはなにか」に、歴史は科学ではなく文学であると書かれている。その言葉は、“人類に生じた事実の時系列的整理とそれらの相互関係の解明”が、①どのような事実を取り上げるのか;②相互関係の解釈をどう記載するか、という二つのバリエーションに対応して、無数の歴史が存在しうることを示している。

学校教育では、時の権力(政府)が認めた事実とその物語を教えている。時の権力の意向に沿った歴史を「正史」といい、私的な解釈で作り上げた歴史を「外史」というが、ほとんどの人は一生、“正史の歴史観”から抜け出すことはないだろう。つまり、歴史教育は歴史に関する洗脳とも言える。

太古の人類に起こった出来事が対象の場合(つまり、考古学)、それらを見る視線の方向に、その時代(近現代)の民族や国家に起因する違いはない。しかし、現存の民族や国家がプレイヤーとなっている過去の出来事に関する物語(つまり歴史)は、それを語る国家や民族毎に、それらの名誉と利益を毀損しないように作り上げられる。

例えば、アジア最古の歴史書の史記は、武帝の正統性を語るという明確な目的の下に書かれた物語、つまり正史(の世界最古のもの)である。それに他民族の視点での“事実”が書かれている保証はない。それは日本書紀も同じであり、古代日本の真実がわかると考える方々の姿勢は滑稽である。

この正史の性質と役割は、近現代史でも同じだろう。つまり、現在我々日本人が知る世界の出来事は、日本及び同盟国(米国)の権力により選別と解釈を経たものであり、将来「正史」に組み込まれる“出来事”のみだろう。それらをそのまま信じていては、世界の動きの真相は見えない。(補足1)

以下に近代の歴史的出来事について、正史からのバリエーションの例をあげる。日本の正史において、高く評価されている吉田茂元総理の話、そして、もっと広く近現代史全体の流れについてである。

2)吉田茂は、占領軍に対しても卑屈でない国士であったという「正史」ができ上がっているように思える。しかし最近読んだ、鬼塚英昭著の「白洲次郎の嘘」には全く違うことが書いてある。吉田茂が部下として重用していた白洲次郎は、外国人(ジャーディン・マセソン商会;補足2)の操り人形であったと書かれている。また、吉田茂の父(吉田健三)は、そのユダヤ系の会社の番頭であったという。彼らは、GHQの政策に協力する一方、GHQを利用して自分たちと上記外資の利権確保のために働いたと書かれている。

GHQは占領政策として、日本の無力化を徹底して行うために、優秀な政治家や官僚を公職から追放(パージ)した。吉田と白洲は、それに乗じて自分たちの権力保持のために、鳩山一郎等有力政治家のパージに協力的に振る舞ったと書かれている。GHQのパージの理由は、将来の日本のことを考える政治家が日本政府の中にいると、占領政策が円滑に進まないことである。吉田茂は新憲法制定時の総理大臣(第一次吉田内閣)であったが、憲法条文などにほとんど注文など付けなかった。つまり、GHQの思惑通り、ことが運んだのである。

吉田茂は、戦後日本の再生に最も大事なサンフランシスコ講和条約(1951/9/8署名)の前後6年間(1948/10〜1954/12二次〜五次吉田内閣)にも総理大臣であったが、日本の骨格作りに尽力しなかった。これらの指摘は、著者の偏見でも筆者の思い込みでもない。例えば、当時官僚として働いていた中曽根康弘元総理の自伝「自省録」に、上記内容と整合性のある吉田評:「吉田茂は狡猾で、鳩山一郎などの公職への復帰を嫌がっていた」が書かれている。(補足3)

3)日露戦争において日本が勝ち、ロシアではその戦争への疲弊もあって共産革命が起こった。更に、第二次大戦後、中国では毛沢東が蒋介石を追い出し、共産中国ができた。そして、共産圏と自由主義圏との冷戦の時代が数十年続いた。これらの世界史の流れは、正史では“個別の主体性を持った国家とその勢力が衝突して、未知の領域に進んだ結果”という歴史観で書かれている。しかし、実は複数の歴史のプレイヤー(国家など)を操る別の存在があった、つまり一定の部分については計画があったという解釈が存在する。

日露戦争の資金調達に米国に向かった高橋是清の努力の結果、日本は米国ユダヤ系資本家のヤコブ・シフから多額の軍資金を借りることに成功し、米国大統領の仲介もあって、やっとのことでロシアに勝利することができた。その融資の理由も、帝政ロシアを潰す意思を持った勢力が金を貸した側にあり、その思惑通り日本が動いたというのである。その後のロシア革命も、同じく裏の権力者の計画どおりだったというのである。

鬼塚英昭著「20世紀のファウスト」は第1章で、米国ユダヤ資本のソ連革命への資金的援助が書かれている。また、マルクス他、レーニンやスターリンなど主なロシアの革命家も全てユダヤ人だったと書かれている(83頁)。中国の共産革命も、それまであった蒋介石への強力な援助がなくなったのが理由であり、それも歴史の表面でのプレイヤー(毛沢東と蒋介石が代表する両勢力)とは別の勢力の計画があったというのである。もちろん、何もかも予定通りに進むわけはないが。

4)正史の裏で歴史を動かすのは、お金と人のネットワークである。資金は何よりも大きな力の源泉であることを疑う人はいないだろう。(補足4)しかし、日本のメディアに出る代表的評論家たちは、秘密組織やユダヤの人脈などを持ち出して歴史を解釈するのは陰謀論であり、陰謀論に嵌るのは知的頽廃であると語る人が主流である。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42023202.html

しかし、例えばイエール大学という米国の名門大学の秀才のみ(毎年15名と言われる)に限られた、スカル&ボーンズ(秘密結社)の意味が分からなければ、近現代史の詳細な解釈は出来ないだろう。世界に多く存在する秘密結社や秘密の人脈に対して目を閉じる態度こそ、知的頽廃ではないのか。

スカル&ボーンズの入会儀式は、その“墓(The tomb)”とよばれる部屋の中で行われる不可解なもの、死と蘇生の儀式である。そのメンバーの顔ぶれの大きさは、背後の力としてその役割が想像される。例えばジョージ・ブッシュ(父子とも)元大統領、CIAの母と呼ばれるジェームズ・アングルトン、前国務長官のJohn Kerry、TimeやFortuneといった雑誌の創刊者、巨大資本Morgan Stanleyや最大の物流会社FEDex などの設立者、などなどである。その存在はよく知られているが、その会員たち(Bones)からは何も聞けない組織なのである。

2004年の大統領選では民主党からの候補JohnKerryもSkull & Bonesの同窓会メンバーだった。GeorgeW. Bushは自伝のなかで、大学4年の時に会員になったが、それ以上は言えないと書いている。有力大統領候補の二人ともBonesmenだったことの意味を問われて、ケリー氏は「Not much,because it’s a secret」(多くは喋れない。それは秘密だから)と答えた。

以上、スカル&ボーンズに限って少し紹介したが、世界には数多くの政治的私的組織がある。英米をまたぐエリザベス女王をパトロンとするピルグリムソサエティーもその一つである。それらと、正式な国家組織であるNSA、CIA、FBIなどと密接な関係がある可能性もある。それらを無視した正史とは、民主社会で主権者のワッペンを貼った凡庸なる大多数の市民を誤魔化すための装置であり、その装置を動かすのはテレビなどによく出る例えば元官僚の評論家たちである。

補足:
(1)イスラム教圏とキリスト教圏の争い、例えばアラブの春とかイスラム国の報道は、キリスト教圏特に英米の視点での報道に我々は接している。そして以下の紹介記事にあるような何か変だなということがあっても、大手の報道には現れない。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42995339.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mohkorigori/56807658.html
(2)中国広州に設立された英国の会社。アヘン戦争に深く関わっている。アヘン貿易で財を築き、現在も国際コングリマットとして存在している。
(3)中曽根氏の自省録49〜50頁にはこのように書かれている。「(吉田茂は)狡猾な人で、様々な局面でマッカーサーの虎の威を借りていることがあからさまでした。」「我々青年将校だけではとても国は支えられないから、急いで追放解除を実現してもっと老練な政治家を復帰させて日本を再建しようと、追放解除運動をやったことがあります。しかし、吉田さんは追放解除をかなり嫌がっていました。」「重光さんや鳩山さんが自主防衛とそのための憲法改正を主張すると、それに対抗するために当時の左翼的雰囲気に迎合して安易な方向に行った。吉田さんの本質はオポチュニストでした。」
(4)明治維新も類似の資金が流れてこなければ、失敗しただろう。長州に最新式のスナイドル銃やスペンサー銃を買う金など元々なかったのだから。同様に、最近の北朝鮮のミサイルのお金がどこから流れているかが、その背後に隠れている勢力を明らかにする鍵である。
(5)https://en.wikipedia.org/wiki/Skull_and_Bones

2017年6月17日土曜日

理系人間と文系人間の考え方と日本の弱点

1)日本での話だが、理系人間と文系人間は考え方にかなりの差がある。それを強く感じるのが、最近の豊洲問題や放射線被曝事件における報道等を見たときである。

この国の行政や各種団体の管理運営などの担当者等には圧倒的に文系の人が多い。彼らの考え方には一定の特徴があり、そして、その考え方が出身大学の学部等(文系)とかなり相関があるのなら、それは文系人間の思考パターンといえるのではないだろうか。以下は、それらと筆者の思考が理系パターンであると考えて導きだしたものである。

もちろん、世の中の人間を理系と文系に分類するのはあまりにも大雑把である。以下は、人間の思考パターンをいくつかあげて、それらが人の群の中に偏在し、その偏在は職業や受ける教育課程などとも強い相関があるという話である。以上を承知のうえ、あえて文系と理系という言葉を用いる(補足1)。

先ず、私が考える理系人間と文系人間の思考パターンを要約してみる。
①理系人間は、自然現象への理解を通して、因果関係、相関関係、集合論的関係などを意識して前面に出した思考パターンをとる。
②文系人間は、人の心理や社会文化に対する思考を通して、人と人の繋がり、社会と個人の関係などを前面に出した思考をする。
③文系人間の視点は自己から他に向かって広がり、思考は各論的且つ現実的である。反対に理系人間の視点は原点に向かい、思考は原理的且つ理想的である。

また③は、理系人間は前提を置かない思考、つまりゼロ(原点)からの思考が得意であるが、それは既に存在している前提を看過する傾向がある。そこから、大きな間違いにつながる可能性がある。それを避けるには、上記以外の知性の部分としての想像力や直感力、そして美的感覚が大切である。

以前のブログで知的能力を、1。記憶力、2。論理・分析力、3。想像力、4。直感力、5。空間的時間的感覚、6。美的感覚、に分けて、それらは生命体としての能力の一面であると書いた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42404287.html 上記の①〜③は、知的能力の1。と2。に焦点を当てた分類である。因みに、大学などの入試も現状ではほとんど、記憶力と論理分析力に関してなされている。

一方、文系人間は、原点からの思考がなく、これまでの前提を不可避の条件と考える知的怠慢の傾向がある。それでは欧米の感覚での普通の改革すらできない可能性がある。改革には常に飛躍が伴うからである。それは、憲法改正や社会の構造改革の問題などに手間取る日本の姿の原因なのではないかと思う。

2)幼少期にはだれもが自然に対する関心を持つが、成長に伴い人と人が作り出した文化に関心を持つようになる。理系人間は、自然に対する関心が自然に対する理解に進み、その深まった興味と理解の正のFeed Back Loopにより、自然科学的な分野を自分の進路に選ぶことになる。自然の成り立ちと運動は、人間とその集合のそれらよりも理解しやすく、比較的容易にそれらを支配する法則に到達できる。論理的能力は、基本的仮説(法則)から自然現象を頭のなかで再構成する際に必須である。以上が、上記①の思考傾向の由来である。

原点から多くの思考の階段を登る際、途中に考慮すべき束縛条件(捕捉2)などへの注意が欠けると、結果として極端で間違った判断に到達する可能性がある。その際、原点から最後の結論まで見通すには、直感力を必要とする。それに欠ける場合、自己の優れた思考力への過信から過激な原理主義に走る可能性がある。

連合赤軍を牛耳っていた、坂東國男と永田洋子やその他の中心メンバーに理系が多い。また、東大闘争の全共闘代表の山本義隆は東大物理学科でも秀才だった。彼らは、遠くを見通す直感力や想像力にかけていたと思う。

文系人間の犯した間違いというか社会の停滞は、既に上に書いた。最近の例では、豊洲市場問題などもその典型である。問題の出発点にあったのは、ベンゼンによる地下水の汚染に対して「人体に対する危険性の定量的把握」という視点が全く都知事に欠けていたことである。

地下水中の環境基準(飲用としての適性)の77倍のベンゼンの危険性を正しく理解するためには、他の多くの危険性と定量的に比較検討することが必須である。この経緯を見ていると、そのような原理的及び論理的考察の形跡がほとんどない。その結果、地下水中の少量のベンゼンという小さな危険(補足3)と、長期間の努力と多額の出費をして建設した豊洲市場への移転を延期するという大きな危険とを交換してしまったのである。

3)幼少〜青少年期に特別な教育が行われなければ、知能に優れた子供は最初理系人間に向かうのではないだろうか。人間は、元々自然の中で生きる動物だからである。一方、高度な社会の中で生きる知恵を、特別なレベル、つまり社会のリーダーに必要なレベルにまで育てるには、早期にその目的を意識した教育が必要であると思う。(捕捉4)

つまり、幼少期に出会う自然の理解と興味の正のfeed back loop から、子供を一旦取り戻す教育の文化がなければ、優秀な国家のリーダーとなるような人材を育てるられないと思う。日本の弱点は、この優秀なる社会のリーダーを育てるメカニズムがほとんどないことだと思う。

補足:
(1)大学の学部への所属数から、理系文系の人数を文部科学省のサイトから拾ってみる。学生を文系(人文、社会科学系)、理系(医歯薬含む)、そのほか(家政、体育、芸術など)に分けた場合の人数比は、平成15年のデータで、理系が28%、文系が55%、その他17 %である。http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/04011501/002/001.htm#1
(2)束縛条件とは最適化問題や運動の問題を考える際に、変数に与える条件のことである。
(3)飲料に供するレベルまで豊洲の地下水を浄化する必要などない。この件、昨年の9月30日詳細に論じた。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42994605.html
(4)米国は階層社会であり、上層部にはグロートン校などの全寮制名門校からアイビーリーグの名門大学に入るコースがある。グロートン校の卒業生には、アチソン国務長官(トルーマン政権下)、ジョセフ・グルー(元駐日大使)、アベレル・ハリマン(元ソ連大使、“桂ハリマン協定”のハリマンの息子)など歴史上の人物も多い。

2017年6月14日水曜日

憲法9条改正に反対する憲法学の権威

1)日本の知性のトップ層を育成するのは、主に東京大学を筆頭とする有名大学である。その東大の憲法学の教授は、日本が憲法9条を改正して独自軍を持つことに反対している。その根拠であるが、実に異常な論理展開を経て導きだしている。この最高学府の憲法学教授や低い質の政治家などから、日本全国の文系学部のレベルが非常に低いのではないかという危惧を抱く。(補足1)

上記東大の石川教授は、国家の防衛と国民の生命を守ることが政治の責任であり、憲法を守ることに優先することが解っていないのか、日本国民に悪意を持つのかの、どちらかである。正式な軍隊と十分な防衛能力がないのだから、準緊急時である現在、憲法を拡大解釈して集団的自衛権行使を可能にするのは至極当然である。

石川教授は、下に引用する討論の中で安倍政権の安保法制はクーデターだと言っている。そうだとしても、その責任は行政にはない。憲法を変更しなかった立法と、自衛隊が違憲だという判断をしなかった司法の責任である。(補足2)別の切り方をすれば、憲法を現状のまま固定化しようとする勢力の責任である。マクロにみれば、それは無知な国民の責任なのだが、更に視野に時間の座標も入れて4次元に拡大すれば、その原因として日本の不幸な歴史が存在する(補足3)。

2)東大の憲法学の石川教授の憲法感を以下に考察する。

石川氏の憲法に関する考えは、毎日新聞2017年5月3日(東京)の記事に討論の形で掲載されている。https://mainichi.jp/articles/20170503/ddm/004/070/044000c

上記記事の中から要点をピックアップすれば、以下の用になると思う。
①自衛隊創設については違憲論が有力だが、法解釈をやっている人間から言えば、政府の合憲論も導き出せないことはない。
②状況は変遷したが、同盟政策を排除する9条の規範があったおかげでアメリカに「あまり要求しないで」と言えたし、危険な状況に日本が陥らずに済んだ面がある。

(E・H・カーは著書「危機の二十年」において、国際政治におけるユートピアニズムとリアリズムの両方を意識することの必要性を論じている。その指摘のあと以下の様に述べている。)
③生存権の憲法25条も戦争放棄の9条も、そうしたユートピアを制度化したものである。現実とは距離のある観念を(現行)憲法はあえて置く。ユートピアニズムが制度化された中での、より強靱なリアリズム。戦後の国際政治、安全保障がめざすべきはそれであって、安易な同盟政策のリアリズムではないように思う。

この3つの意見とも、私は間違っていると思う。
①最初の法解釈学的に自衛隊は憲法9条に違反していないという意見は、言語もそれを用いた論理も否定している(補足4)。自衛隊はどう見ても戦力であり、自衛の為に戦うことは「国の交戦権」の発動である。中学生でもできる日本語の自然な解釈である。

②9条があったお陰でアメリカの要求を排除できたというが、それは本来の独立国になることを自ら放棄する論理である。「子供ですから強盗と戦っている人にも協力できません」と言っているに過ぎない。

③理想主義を憲法に書くべきとは、恐らくE.H.カーは言っていないだろう(私はまだ読んではいないが、想像はつく。(補足5))。理想を憲法に書いてしまえば、それは理想でなく不自由な現実になる。それが現在の日本の姿である。(馬鹿だこの教授は)

周辺諸国が現実主義で動いてきた歴史を考えれば、ユートピア思想で国家を縛ることは、民族の滅亡につながる。石川教授は、マオリ族にほとんど全滅させられたモリオリ族(平和主義的)の悲劇を知らないのか、日本がモリオリ族の様になることを希望しているかのどちらかだろう。

補足:
1)日本では、大学のポストはレベルの低い教授の恣意的基準で補充されている。しかし、自然科学分野では学問そのものが国際化されているため、例えば米国の学会誌などに論文が投稿できなければ、研究者として評価されない。その淘汰メカニズムがかろうじて大学人のレベルを維持していると思う。一方、文化系学部では、厳格な国際的物差しがないため、理系部門以上に大学のレベルが低下するのだろう。
2)最高裁は、行政に阿り自衛隊が憲法9条2項に違反しないという判断を示した。それを立法は利用して、改憲の議論という自分の国会での椅子をかけた仕事をしなかった。つまり、日本では三権分立など有名無実化しているのである。
3)米国の占領から独立を回復して、もう65年になる。しかし、未だに米軍が駐留し、日本には独自軍が憲法上存在しない。そのテイタラクの原因は、独立後の最も大事な10年程の間に、売国奴的政治家が日本の舵取りをしたのが原因の一つだろう。人の誕生後も、最初の10年ほどは人格の大枠ができるので非常に大事である。戦後の売国奴的政治については、例えば、鬼塚英昭著「白洲次郎の嘘」を参照。その歴史の直視など、国家も国民も全くできていない。
4)キリスト教では、言語は論理であり、神である。(ヨハネによる福音書冒頭)
5)この本は読んでいない。私は、国際政治が一つの標準的規範を作るには、構成国が現実主義の他に理想主義を強く意識する必要があると思う。その意識を最も強く持っているのが日本国であり、日本国を取り巻く大国の内、日本の安全に最も重要な影響を与える中国には、その意識が希薄だと思う。米国は理想主義を意識しているが、力の政治にうったえる傾向の方が強い。 

加計学園問題:国家戦略特区での獣医学部増設という不思議

新しい大学や学部の増設を国家戦略特区で行う場合、それがその特区の目的に直結したものであり、卒業生の一定数がその特区内で就職することを前提としなければならない。しかし、今治での獣医学部増設がそれにあたるかどうかという、基本的な議論がマスコミなどでなされたことを聞いたことがない。

国家戦略特別区域及び区域方針は総理官邸のHPにある。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/pdf/160129_kuiki_houshin.pdf そこに書かれた特区の考え方は、「経済社会の構造改革を重点的に推進することにより、産業の国際競争力を強化するとともに、国際的な経済活動の拠点の形成を促進する観点から、国が定めた国家戦略特別区域において、規制改革等の施策を総合的かつ集中的に推進する」である。(補足1)

全国10箇所の特区の区域方針には、イノベーション、グローバル、チャレンジング、ベンチャー、ビッグデータ、ホスピタリティー・サービス、国際競争力、近未来技術、国際的ビジネスなどの言葉が、官僚の決まり文句的な文章の中に散在し、それを読んでいるとまるで霞ヶ関教のお経のよう感じる。

「広島県・愛媛県今治市」の特区の目標は以下の様に書かれている:
「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」で繋がる広島県と今治市において、多様な外国人材を積極的に受け入れるとともに、産・学・官の保有するビッグデータを最大限に活用し、観光・教育・創業などの多くの分野におけるイノベーションを創出する。

この特区を利用した今治市での事業展開について具体的な議論は、今治市分科会でなされている。この会議の要旨等は、首相官邸>会議等一覧。地方創生推進事務局>国家戦略特区>国家戦略特別区域会議>広島県・今治市>今治市分科会というディレクトリーに掲載されている。 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/hiroshimaken_imabarishi/imabari.html

平成28年9月21日及び平成29年1月12日に会議を開いて、道の駅の設置を民間事業者にさせるという提案と加計学園の獣医学部設置の提案の二つについて報告を行なっている。議論らしきものは見当たらない。この提案では、獣医師免許保持者は不足しているという主張がされているが、数字を上げた議論は全くない。実際には以前のブログで紹介した様に決して不足していない(https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43295162.html)。

特区の計画にあった、多様な外国人受け入れ、ビッグデータ活用、イノベーションとかとの関連はどうなっているのかも、さっぱり分からない。獣医学部で感染症の研究を行うなんて、この計画とは何の関係もない。とにかく「初めに結論ありき」の話の様に思える。

以上、加計学園の獣医学部を今治に経済特区を設けて設置する計画に関する政府と今治市の計画書を紹介した。私の意見だが、説得力は皆無である。この計画に合理性がない以上、現在の総理周辺のスキャンダル的な疑惑は、真実であると思わざるを得ない。

追加:岸博幸氏がこの件議論している。四国に獣医学科がないから今治に獣医学部を作るのは妥当だとうだけでは、動機を議論するにしては非常に貧弱である。獣医師としての教育には農学部の他学科が近くにある方が良い。愛媛県なら愛媛大に農学部があるのだから、獣医学科を作るのならそこにすべきである。6年後にようやく一期生が卒業するが、一人前になるには人脈もひつようだろう。そう考えるのなら、近くの山口大の獣医学科卒業生をリクルートする方が早い。どうせ半分は獣医と関係のない仕事をしているのだから。 http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/170612/plt17061223560027-n1.html 岸氏は政権寄りで、この件に関係している師匠の竹中平蔵氏を応援したいのだろう。

補足:
1)内閣総理官邸のHPに国家戦略特区のページがあり、上記概略説明の見出しが“「岩盤規制」改革の突破口”である。こんな表題をつけることに驚く。規制があるとしても、それを岩盤と形容する神経がわからない。長年自民党政権が続いて来ても打ち破れない岩盤とは、一体だれが築いたのか?行政と立法を担当してきたのは自民党ではないのか? 規制撤廃など、やる気になれば一晩でできる権力を握っているのは自民党ではないのか。その権力を持っているからこそ、意味の分からない計画をつくって、総理の仲良しに獣医学部増設させることもできるのだ。

2017年6月11日日曜日

「トランプ外交の行方と新世界の秩序」(channel Sakura)のまとめと感想

SAKURASO TVの表題の番組を視聴した。何時も同じ感想を持つのだが、この放送のみが日本の防衛と安全について、まともな材料を提供してくれる。NHKや他の民放はまさにマスゴミである。今回の議論は、トランプ政権の世界戦略に始まり、最後はいつものことだが、日本の極めて不完全な防衛体制についての話になった。まとめと感想をいかに書く。 https://www.youtube.com/watch?v=wr7sf4T5Gr4&t=5971s

1)最初に、トランプ大統領の始めての外遊についての分析があった。トランプ大統領が今回訪問した国家は、サウジアラビア、イスラエル、そしてバチカンであり、その後にイタリアでのG7に参加した。

サウジアラビアに訪問した際、殆どのスンニ派の国のトップも参加して、まるで新しいタイプのアラブ連合と米国の交流会のように映った。それはサウジなどのスンニ派の国家とその他イランなどの国々(シーア派)との間に明確な一線を引くというのが、トランプの姿勢であることを示している。それを見た人の頭には、大統領が屡々言及している「イランとの核合意」を見直すという言葉が浮かんだだろう。

次の訪問国イスラエルでは、米国の現職大統領としては始めて”嘆きの壁”を訪れその前で黙祷した。イスラエルに対する最高の敬意を示した。この二つの国の訪問とそこでの外交は、トランプがイスラエルとサウジアラビアを中心とした国々との新しい協調関係を仲介出来るかもしれないというのが、馬渕睦夫氏と関岡英之氏の意見であった。

そして馬淵氏は、トランプがユダヤ人を二分し、イスラエルのユダヤ人をサポートするために中東和平の実現を目指し、世界に散らばったユダヤ人(Diaspora;ディアスポラ)のグローバリズムに対決するという戦略のモデルを披露した。これはこれまでのトランプのアメリカンファーストと以上二つの訪問国での外交を理解する上で、良くわかるモデルであると思う。(補足1)

ここで気になるのが、最近のカタール(スンニ派)とサウジアラビア等との外交断絶である。カタールはイランとの関係を重視する立場にあるのだが、この激しい対立の意味については出席者たちにも明確な解釈はなかった。カタールには米軍基地があるだけに、気になるところである。

2)日本は自国の防衛を完全に米国との同盟に頼っている。その防衛システムが信頼性を今後維持できるのは、日本の憲法改正などの努力と米国が最後まで極東の安全にコミットする意志(つまりメリット)がある場合のみである。その点についての議論では、「米国にそれだけの核心的な理由はない」が結論であった。(勿論、経済的にはアジアは大きな取引先であるが、それは核心的とは言えないのだろう。)

この米国側が極東の安全にそれほど大きな関心がないという事は、カールビンソンとドナルドレーガンが撤収を始めたことと関係があるかもしれない。そして、何よりも決定的なのはトランプ大統領の政治的な関心は主に中東にあるという事実である。また、就任前に日本も韓国も核武装すれば良いと言ったのは、トランプ外交の中心はアジアではないということである。

前大統領のオバマは、米国は太平洋国家であると言ったが、トランプは「米国はキリスト教国家であり、従って、大西洋国家である」ことを態度で示した。また、トランプは予算配分でも国防省+10%、国務省−30%と言っており、外交を選択的重点的に行うことを明確にしている。確かに、国務長官や国防長官は東アジアを早期訪問したが、それは差し当たりの北朝鮮問題への対処が目的である。問題が困難になれば、撤退する可能性がある。

つまり、トランプのアジア戦略は日本にとっては不安である。最近、安倍総理が一帯一路構想も評価するという発言をしているが、それはトランプのアジア外交の限界を意識してのことだろう。

3)中国の世界戦略と日本との関係: AIIBや一帯一路政策はあまりうまく進展していないが、軍事的には急速に力をつけている。サイバー攻撃や衛星を利用した攻撃能力などの開発に力を入れている。中国の多量の中距離ミサイルでは、日本及び日本近海の米国艦船の脅威となっており、その結果米国の第一列島線防衛を難しくしている。また、2014年から人民日報などで、中国は本来沖縄の宗主国であり、本来中国の覇権の範囲にあると主張している。

それらに日本が独自に対抗するには、毎年15兆円程度の予算が必要であり、それは実質的に困難である。そこで、インドやロシアの力を利用するなどの方向で戦略を立てるべきである。オバマ時代には出来なかったが、これらの地政学的利益が共通する主要国との関係を深めることに、トランプは反対しない筈である。

何れにしても憲法改正は日本防衛の第一歩であり、何とか実現しなければならない。このままでは自衛隊は実際には力を発揮できない。この5月8日のWall Street Journalの論説にも、「憲法9条は同盟国との集団的自衛を邪魔しており、日本にとって危険になっている」とある。そして、「日本が直接攻撃されていない状況下でも同盟国との共同軍事行動に参加するために、攻撃能力を持つ軍を必要としている」と、日本の情況を説明している。

(以上は、同番組を見て素人がまとめたものです。)

補足:
1)馬淵氏により、トランプ氏はこれまでのグローバル化路線を推し進めたオバマやクリントンの外交を一貫して否定しているということが強調された。その中で、馬渕氏はISISをつくったとまでは言わないが、従来のアメリカ(グローバリスト、Wall Streetのユダヤ資本)は利用してきた。また、中国共産党政権は米国が作ったと、自説を紹介している。後者の説については、昨日のブログ補足で紹介した。(America’s retreat from victory)

2017年6月10日土曜日

キッシンジャーの日本観と日本が取るべき今後の対米姿勢

1)今日、北野幸伯さんの無料メルマガが届いたので、その中で紹介されている“アメリカ政界の怪物・キッシンジャーが語った「日本観」と「中国観」”を読んだ。ここで書かれているキッシンジャーの日本観は米中国交回復の時の話でよく知られている。つまり、キッシンジャーは日本を非常に低く評価し、米国の対アジア外交の中心として中国を置くだろうと言っているのだ。

そこに再録されたキッシンジャーの日本観と対日外交の考えの概略を記す。(情報公開され、産経新聞(2002/8/6)に紹介された)

日本は自国の社会があまりに異質なので、社会を適合させ国の本質を守ろうとする。日本は突然の大変化も可能で、三ヶ月で天皇崇拝から民主政へと移行した。日本人は自己中心的で他国に対する感受性に欠ける。日本が独自に国防を行えば、軍事拡張で周辺諸国の脅威となるだろう。現在の日米安保体制は日本を束縛する為にある。米国は日本に最低限の武装しかさせないし、核武装させない。(補足1)もし、日本が強力に再軍備拡張計画を開始すれば、米国は中国との嘗ての同盟関係でそれを阻止するだろう。

嘗ての同盟関係とは対中戦争での蒋介石支援だとメルマガに書かれている。しかし、大戦後中国共産党政権を誕生させたのはマーシャルとアチソンだという説が有力(補足2)なので、キッシンジャーが言及したのはこちらの可能性の方が強い。

この米中で世界を支配することを考えているキッシンジャーを顧問としてトランプ政権は抱えている。北野氏は続ける。

日本には「核武装すれば全て解決する」と安易に考える人がいます。しかし、日本が米国の許可なく核武装すれば、日米同盟は解消され、米中同盟が出来上がり、米中が協力して原油等の搬入ができない様にすることで叩き潰されるでしょう。

2)日本はどうすべきなのか。北野幸伯さんは、「日本は日米関係をますます強固にしていくことを最優先課題にすべきである」と提言する。北野さんの考えに一理はあるが、本当に更なる対米従属しか処方箋はないのか?素人の私がこのような意見を言うのは気がひけるのだが、北野さんの分析は浅すぎるように思う。

先ず考えるべきは、「キッシンジャーは何故トランプ大統領の顧問になったのか」ということである。トランプ大統領は選挙前には、「日本も韓国も核武装すれば良い」と言っていた。また、「アメリカが世界一の派遣国として、世界中を相手に警察官をすることなどない」という趣旨の発言をしていた。これらがトランプ大統領の本心だろう。従って、大統領になってからキッシンジャーを顧問にしたのは、恐らくトランプ大統領の意志ではないだろう。

キッシンジャーは民主党政権の顧問だった人である。米国には他にも有能な人はたくさんいるだろう。今更、93歳のボケが始まっている筈の男を顧問に迎える必要があるだろうか?私は、キッシンジャーは同じ考えを持つ影の支配者の補佐役ではないのかと思う。つまり、民主党とか共和党とか言うのは、米国政治の表の薄皮であり、中は影の支配者の指令によって大統領も国務長官も操縦されているのではないのか。

その支配者の意思がどこにあるか分からなければ、対米従属を続ける路線は破滅への道かもしれないのだ。米国は、過保護により子供をダメにする母親を手本にして、片務的軍事同盟を結んで日本を骨抜きにする戦略をとってきた。その路線を疑うことなく走る日本の自民党傀儡政権が日本国民から批判されないように、米国は経済的には寛容な政策を取ってきた。

日本の骨抜きのために寛容な政策をとってきたのなら、米国に一層献身的に協力する日本の新しい姿は、米国の目には急に距離を縮めてバカ(ブス)に見えるだけである。腹黒ボスの心に強力な反発力を誘起して、蹴飛ばされるのがオチだろう。

3)ひょっとして、影の支配者の中心にいた人は、この3月に亡くなった人ではないのか。何れにしても、時代は動いている。キッシンジャーが1971年頃に周恩来に対して発した言葉を、そのまま受け取るのが妥当かどうかを考えるべきである。また、キッシンジャーのトランプ政権の位置がどのようなものかそれも掴むべきである。キッシンジャーの発言とトランプ政権の動きとの相関を慎重に分析すべきである。

それに第一、1)に書いたような考えを主に周恩来などに披露したとしても、それがキッシンジャーの真意なのかどうかさえわからない。トランプ大統領もキッシンジャー氏も、それに裏にいるかもしれない黒幕も、巨大化した現在の中国を決して味方だなどと考えてはいないだろう。それに、アメリカンファーストという人が率いる国家が、世界中の国家を早々に敵と味方に分類するのは不自然である。

もちろん、中国の首脳の方は優秀なので、当時でもキッシンジャーの考えをそのまま受けていなかっただろう。どうせ、自分以外を分断して小粒化し互いに反目させ、自分の立場の強化を狙っているのだろうと思った筈である。

北野さんと違って、日本は中国ともっと対話すべきであると考える。また、米国の逆鱗に触れるのは賢明ではないので、米国にも従来通りの「ご指導とご支援賜ります様、お願い申し上げます」を続けるべきである。それが米国にとって、鬱陶しくならないように、米国と相談の上で自衛力の強化を図るべきだと思う。その路線を現在の安倍政権は歩んでいると思う。ただ、それを支援する取り巻きに優れた人材がいないのが残念である。

とにかく、時代は動いている。今や、共産中国を育てたりする考え方は米国にはないだろう。共産主義はすでに破綻しているのだから。

補足:
1)オバマ政権のバイデン副大統領がクリントン氏の応援演説(大統領選)の際、「日米安保は日本の軍国化を阻止するためにある」と発言した。
2)Joseph R. MacCarthy, “America’s Retreat from Victory”, The Devine-Adair Company, New York, 1952.

2017年6月9日金曜日

人や職業を表す接尾語を正しく使うべき:専門バカには「師」を用いるべきではない

人間、社会で生きるには職を得なければならない。選ばれて専門的な職を得るには、先ずその分野で力をつけなければならない。専門で一定の基準の知識や技術を達成した場合、その資格を表すのに「士」という接尾語が用いられる。武士、棋士、弁護士、代議士、学士、修士、博士などである。その専門で一定の水準に達すれば、後輩に教える事もできるだろう。そして、人の上に立つことができると「先生」と呼ばれる。先生は中国語で「老師」であるので、「師」はそのためにとっておくべきである。(補足1)「先生」は人の上に立つので、全人格的に優れた天性の素質をもたなければならない。(補足2)

ある専門分野を資格という視点ではなく、“それを職業としている人”或いは“その分野に強い人”という意味を表す接尾語として「家」や「者」が用いられる。画家、音楽家、政治家、敎育家、科学者、指揮者、医者などである。「家」の方が「者」よりも社会における地位が高く、天性の素質を要する場合が多い。従って「家」と呼ばれる仕事の人は「先生」と呼ばれることが多い。これらをまとめて「専門家」という言葉で言及したり、医者を医師と言ったりするので、両者の峻別はされない。

これらに比べて、比較的単純な作業を仕事とする人の呼称に、「手」が接尾語として用いられる。運転手、選手、騎手などである。「手」と呼ばれる人は、専門家とは呼ばれない。以上は、言葉は違っても多分世界に共通する職業の社会における位置付けだろう。

別の表現を用いれば、多方面の能力を総合的に用いるのが「家」、限られた専門分野で生きるのが「者」で、単純作業をするのが「手」である。「家」は人間として幅広い常識を有し、且つ、上述のように生まれつきの才能を持たないとなれない場合が多い(補足3)。一方、勉強をすれば普通の人でも専門的で高度な技や知識を獲得でき、「者」になれる。専門的知識を勉強している間に、常識や情が通じなくなる場合もある。その場合でも「家」は通常非難されないが、「者」はしばしば非難の対象になる。「手」には常識や情がそれほど期待されていないので、淡々と仕事をこなせば良い。

専門家の中で社会において最も重要なのは政治家である。政治家は社会の中心にあって、人を知り、歴史を知り、経済を知り、法を知り、技術を知らなければならない。一人の人間が全能であるはずはない為、それぞれの専門家を使って政策を組み上げなければならない、一段上の総合的且つ高度な専門家である。

その一段上の総合的且つ高度に専門的な政治家を、民主主義社会では凡庸なる大衆が選挙で選ぶ。それは民主政治の本質的欠陥である。民主政治を広めたのはキリスト教の罪であるとニーチェは著書「アンチクリスト」で攻撃する。

補足:
1)「士」という接頭語を用いるべきところに「師」を用いている例が昨今多い。しかし、それは日本語の乱れであり、弱きものや劣ったものに対する倒錯した道徳の結果である。看護師、介護師、薬剤師などに、「師」を用いる理由はない。代議士の治療を医師と看護師が行うのでは、接尾語を区別して用いる意味がない。
2)学校の先生は対象が子供であるので、ここで言う全人格的に優れた天性までは要求されないが、「師」をつけて教師と呼ばれる。「医師」の「師」は「士」が相応しいのだが、患者の弱い立場を考えれば、教師の場合と同様に「師」が用いられるのも理解できる。
3)「家」には、これらの職業人として用いる場合の他に、私的な会話などに限って単に性格を表すために用いられる場合がある。例えば、「恐妻家」や「人情家」と言う類の「家」である。これは、十分常識を持たない人たちにより持ち込まれた日本語の乱れと考えられる。言語が現在まで一定の質を確保できたのは、言語を支配する権利が上層部に限定されていたからではないだろうか。今後、言語は崩壊の一途をたどるだろう。

2017年6月5日月曜日

タイガー・ウッズとドナルド・トランプに学ぶ:世界の優秀な男たちは結婚などしなくなるだろう

タイガー・ウッズは元世界ランク1のプロゴルファーで、ドナルド・トランプは世界一の国家の大統領。両者の共通点は世界一のラベルだけのようだが、それぞれにもう一つの場面が共通するような気がする。

彼らの配偶者との関係は、壊れた或いは壊れかけている様に見える。トランプ大統領が始めての外遊でテルアビブ空港に降り立った時、二度目はローマ法王との面会の為にローマの空港に降り立った時、メラニア夫人の手をとろうとしたが、夫人はその大統領の手をいとも簡単に払い除けた。

世界一の権力者になった旦那が、その晴れ舞台を映すテレビカメラの前で格好をつけるべく、さしのべた手を何の躊躇もなく払いのける図々しさに、日本人なら誰しも呆れるだろう。しかし、米国人はどうなのだろうか。「“格好をつけるために付いて来てくれ”というから同伴した。しかし、手をつなぐなんて約束はしていないわよ。」その場面を写した動画をみると、メラニア夫人のつぶやきが聞こえてきそうな気がする。http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/24/melania-trump-snubs-another-of-donalds-attempts-to-hold-her-hand_n_16778650.html

世界一のプロゴルファーであるタイガーウッズと結婚したエリン・ノルデグレンさん。2010年、タイガーウッズの複数の不倫スキャンダルが発覚し、離婚した。その際、慰謝料など約1億ドルを受けとり、豪邸が建ち並ぶノース・パームビーチのビーチフロントの一等地に2000万ドルの豪邸を建設した。そして、現在の恋人はその豪邸の隣に住む億万長者の企業家だという。https://www.j-cast.com/tv/2014/05/14204714.html

そのタイガー・ウッズの離婚後の人生は、低迷するゴルフの成績と薬物疑惑で、暗黒の谷底への転落のように見える。留置場で手錠をかけられ、朦朧としているタイガーウッズの姿が痛々しい。http://www.news24.jp/articles/2017/06/02/10363167.html

タイガーの頂点だけを慰謝料という形で掬い取った女のたくましいというか、厚かましさというか、何か凄まじいものを見る思いである。

「慰謝料の算定は、男性の仕事に対する配偶者の貢献を半分とみなして算定する」男女同権とか言う訳の分からない思想によって作られたルールなのだろう。天才になるのは不可能だが、大抵の女なら策略次第で天才の半分にはなれるということなのだろう。偉そうな顔をする女はやはり男の敵に見える。お二人は結婚して幸せだったんのだろうか? それともちょっとした迷いで結婚してしまったのだろうか? 一旦結婚すれば、蜘蛛の糸にかかったバッタのようなものだ。

兎に角、欧米諸国の女性は男性と同程度に社会的な力を法的に保証力されている。それは、男性にとって住みにくい世界を作っていると思う。有能な男性はバカバカしくて、結婚なんてできないだろう。つまり、世界は未婚時代を迎えるだろうし、それは既に始まっている。それは人類の遺伝子を無能化し、人口を減少させ、最終的には滅亡という形で終わるだろう。

”男女共同参画、男女同権、あらゆる分野での女性を半数程度にしよう”とバカの国のバカ宰相がマイクの前で国民に叫ぶ。ミツバチの世界でも、勿論ライオンの世界でも、ニホンザルの世界でも、そんな理屈は通らない。何故、人間にはそれが通るのか?

キリスト教か何かは知らないが、弱き者とバカが偉そうな態度を取る権利を持つ世の中をつくったのが原因だろう。ニーチェのアンチクリストにはそのように書かれている。

(イタリック部分編集:6/6/6:00)

2017年6月4日日曜日

言葉の重みが解っていない日本政府と「そこ迄言って委員会NP」の参加者

1)今日、中京地方で「そこ迄言って委員会NP」の放映があった。そこで評論家たちが集まって、日本国憲法改正に関する話をしていた。出席者の中で、中国人経営者の宋さんのみが、まともに日本語で話をしていた。

田嶋という人は日本崩壊を期待しているひとだから、支離滅裂なことを言うのは当然なのだが、その他の人たち:長谷川氏、須田氏、中田氏など一定の地位を得ている評論家、の議論がそうあってはならない。

安倍総理が最近提案している憲法改訂案は、全く駄目だと思う。憲法9条の第三項に、なんと書くかはともかく、第二項をのこしたままにして自衛隊の存在を認めるべく憲法に書き込むことは不可能である。しかし、憲法が専攻であると言っていた竹田氏が、憲法9条二項をのこしたまま、9条の適用除外として自衛隊を憲法の中に書き込めば良いと言っていた。法において例外規定を置くことがどんな場合でも可能だと思っている様だ。頭が悪いのだ。

その他の評論家たちも、急を要する事態が進行しつつあるのだから、仕方がないという言い方で安倍総理の予定案を支持している。

昨今の情況をみると、総理案は主体性のない国会議員たちに支持されるだろう。そして、そのように憲法が改訂される可能性大である。しかし、それを行ってしまうと、「日本国は言葉を話す人間の集まりである」という命題を否定することになり、日本人は本当に猿だった(Yellow Monkey)という結論を得て、競合する欧米の人たちを始め世界中の国の政府を喜ばすだろう。

この問題は、従軍慰安婦や南京大虐殺などとはレベルの違う問題である。米国の占領政策で、日本がこのような体たらくになったのなら、見事としか言いようがない。トランプ大統領はただ苦々しくおもうだろうが、オバマ氏やクリントン氏は喜ぶだろう。

2)その次に中国のAIIBへの参加の是非の話をしていた。ここでも中国人の宋さんと全くの素人である落語家のざこばさんのみがまともであった。宋さんが指摘するのは、要するに、「米国がどうするだろうと様子を見て決めるのではなく、自分で考えて決めることが大事である」ということである。

その独立国として最も基本的なことが、この日本国にはできていないと宋さんが指摘していた。中田氏は、70年代の日本の頭越しの米中国交回復のようなことにならないようにすべきと言っているが、その発言は宋さんの言葉が全く理解できていないことを示している。

日本国は独立国であり(一応)、世界中の国々と競合しているという、国際政治の本質を理解すべきである。つまり、中国だけではなく、米国も仮想敵国である。そして同時に、米国だけでなく、中国も将来の同盟国候補である。

その際、過去の歴史と現在の情況を元に様々なシナリオを設定し、自国の利益を最大とするように考えて、そのそれぞれの結果を比較して国家の政策とすべきである。最後は一定の覚悟を国民とともに共有できる体制を作らなければならないと思う。

つまり、情況が逼迫しているのなら、内閣や国会だけでなく、国民に必死で考えるように要請すべきである。そうすれば、憲法改正問題もAIIBへの参加問題も、国民の知恵が政府を救けるだろう。安倍総理の頭のなかだけパニックになっては、国家は滅びるのだ。

(政治の素人ですが、たまらずこのような発言をする次第)

在米の方との韓国人慰安婦問題についての議論再開

この二週間ほど、日本生まれで在米韓国系だと思われる人と慰安婦問題の議論がヤフーブログの中で続いている。一旦終わったかなと思ったが(https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64652798.html) 一週間のブランクを経て再び私の意見を攻撃するコメントが届いた。

その方の主張は、「慰安婦問題は日韓基本条約後、新たに発見された問題であり、従って日本が政府補償すべきである」ということである。そして、その方は慰安婦への個別補償が国際世論であると言って、https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65921385.html?vitalityのサイトを引用された。多分同じ方のサイトだろうと思う。

そこで以下の返答を書いたので、紹介する。オリジナルブログと積み重ねた議論は:https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43292655.htmlなど。

あなたは単に日本攻撃の政治活動をしているに過ぎないことは十分おわかりですよね。引用されたブログですが、台湾やフィリピンの話が主なので、その部分については両国間の条約を見てみないと議論しようがありません。また、元慰安婦は話が取り上げられた以上、政府が個人に対して補償すべきだというのは当然です。単に一稼ぎと考えて参加した女性たちもそのように言うでしょう。

個人補償をするのなら、日本からの慰安婦も対象になるでしょうし、日本で空襲被害にあった民間人も対象にすべきでしょう。そんなこと出来る訳無いでしょう。国家とか政府とかが何のために存在するのか、考えてみればわかることです。

「国際社会は」とまるで一つの人格をもった主体のように表現されていますが、引用ブログの記事を見れば「元慰安婦とその周辺は」と言い換えた方がより正確です。従って、「クジラを殺して食べるなどと言う残虐行為は許さない」という法を無視した国際社会の意見もありますという反論が可能です。韓国との慰安婦問題で仮に国際社会のマジョリティーが政府賠償をせよと言っているとしたら、以下に書くようにそれは法をまげてまでの話です。

日韓基本条約で慰安婦の存在は全く考慮されていなかったという意見には賛成できませんが、殆ど意識されなかったというのは事実だと思います。交渉の場に居た人で知らない人は一人もいなかっただろうということです。つまり、新たに発見された事実ではなく、両国の代表たちは皆、目をつむっていたのです。その問題は場違いのように感じたということだと思います。従って、慰安婦への日本政府からの個人補償は日韓基本条約とそれに付随する協定のどの条項にも当てはまりません。

戦場と性の問題はそれほど難問ですし、この平和な時代でも性をビジネスにする女性とそれを事業化している人たちの問題も深刻且つ難問です。解決不能だとさえ思います。インド人のある人がこんなことを言ったとテレビか何かで聞きました。「インドに日本のように実質的に売春だけれども、法的には出会う場所を提供しただけという灰色領域のシステムがあったなら、強姦件数がずっと減少しただろうに」と。この部分は、再び支離滅裂という評価を被るでしょうが、仕方ありません。

この人は相当知的な方で、私にとっても始めての強敵だと言えるが、その方は論理をまげてまで日本を攻撃するという無理を犯しており、勝敗は明らかであると思う。

(以下コメント文追加:8:45)

在米で米国の利益を優先する立場にある方かと思うので、無意味かもしれませんが、一言更に追加します。
私は、日本、朝鮮、中国は互いに協力して、この地球上に生き残る工夫をすべきだと思っています。従って、現在の北朝鮮危機も多くの方とは異なった見方をしています。この東アジアの人たちは全て、歴史を19世紀後半から、アヘン戦争のころから、学ぶ必要があると思います。東北部から南下して朝鮮や日本、中国の東北部などを獲ろうとしていたロシアの脅威から、どう生き延びるかを最初に考えたのが日本であり、戦ったのも日本です。中国も日本を悪く思う前に、英国のやったことなどを思い出すべきだと思います。 朝鮮戦争の悲劇も米国やロシアがつくったことです。そこのところを何も考えないで、第二次大戦だけを切り取るのは愚かだと思います。

2017年6月3日土曜日

トランプ大統領のパリ協定離脱表明について:二酸化炭素と地球温暖化は関係あるのか?

パリ協定が崩壊すれば長期的に環境に壊滅的な影響を生じると環境活動家たちは言うだろう。パリ協定は地球温暖化の原因が空気中二酸化炭素濃度の増加であるとする仮説を基礎におく。しかし、その科学的根拠はないと3年前に指摘した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html

つまり、二酸化炭素濃度増の大気温度に対する影響は比較的小さいと思うのである。トランプ米国大統領は本音の政治を目指しており、まやかしの協定からは離脱すると言っているにすぎない。今朝の読売新聞一面の記事も中京テレビのウエイクも、トランプ大統領をヒステリックに非難している様だが、どこかよその利益を代表するマスコミ(米国のこれまでの支配層)なのだろう。

今回は、このCO2濃度増加による地球温暖化説を再度検証する。3年前の記事と同じ内容だが、別の観点から再度要点をまとめて独立した記事とする。

図(1)は米国物理学会のサイトから採った図である。太陽から来たエネルギーがどの程度地表に届き、反射され、吸収されるか。そして、地表に吸収されたエネルギーがどのようなプロセスで宇宙に逃げていくか、それらのエネルギー収支を示したものである。

図(1)https://www.aps.org/units/fps/newsletters/200904/trenberth.cfm

太陽からくるエネルギーは、紫外線、可視光線、そして赤外線と幅広い範囲の電磁波で地球に降り注ぐ。そのエネルギーの流れは341.3 W/m^2(1平方メートル当たり341.3ワット)である。(補足1)そのうち、地球表面で吸収されるのは161W/m^2であり、雲など空中から反射されるのが79 W/m^2、地表で反射されるのが23 W/m^2、大気により78W/m^2吸収される。

地表で熱に変わった太陽エネルギーは赤外線の形で大気中に放射されるが(補足2)、その大部分は空中から逆反射される。この吸収と逆放射に寄与するのは、空中のマイナーな成分分子、水分子、メタン分子、それにCO2, 酸化窒素など様々な分子である。(補足3)

地上の熱は他に、直接大気を温め(17W/m^2)たり、水分を蒸発させる(80 W/m^2)のに使われる。これらの熱は対流及び雲の発生により上空に運ばれる。結局、赤外線として宇宙に放出されるのは、239 W/m^2であり、放出される熱(赤外線)と反射される太陽光(全ての波長範囲)のエネルギーの合計は入射太陽光のエネルギーに等しくなる。

地表からの赤外線の内、大気の窓と呼ばれる波長領域(15ミクロン付近)は直接宇宙に放出される。その量は、40 W/m^2(地球からの赤外放射の16%)であり、大きくない。ここに赤外吸収を持つのは水蒸気や二酸化炭素だが、二酸化炭素の増加がこの窓を閉じるのではないかというのが、地球温暖化問題として話題になる部分である。しかし、二酸化炭素の消費がどの程度空気中の二酸化炭素濃度を増加させ(補足4)、更にその増加がどの程度気温に影響するかについて、未だに十分議論されていないと思う。

そこで既存のデータから少し考えてみたい。図(2)は気象庁の発表データから取った二酸化炭素の空中濃度(1987-2017)と札幌及び東京の気温(1877-2015)の経年変化である。水平矢印線は、それぞれの横軸の関係を示している。この140年間で東京では3度程、札幌では2度程夏の気温が上昇しているようである。両地で気温上昇に違いがあることから、この気温上昇のかなりの部分が二酸化炭素濃度の上昇の結果でないことが分かる。
図(2)空気中の二酸化炭素濃度及び東京と札幌の気温変化

この30年間のCO2濃度変化は、ほぼ直線的に350ppmから410ppmまで増加しているが、その間の温度変化は東京でも札幌でもおよそ1度位だろう。この温度上昇も化石燃料等の消費による二酸化炭素の増加によるかどうか、極めてあやしいことが世界の化石燃料の消費データと比較すると分かる。つまり、温度上昇が空気中二酸化炭素増の原因かもしれないのだ。
図(3)http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2013html/1-1-1.html

図(3)は資源エネルギー庁が発表している世界のエネルギー消費量の経年変化である。これによると、1960年ころから化石燃料の消費が急増し、現在もほぼ直線的に増加している。気温変化のグラフの左端である1876年では、現在と比較して化石燃料の消費量は殆ど無視できる程度であるが、このような折れ線グラフの片鱗も図(2)の気温変化には見られない。

化石燃料の消費増加量に比例して二酸化炭素濃度が増加するのなら、1960年から現在までに世界の気温は3度程度上昇する筈だが、図(2)からはそのような変化は読み取れない。札幌と東京の気温変化の違いは、ほとんど都市化の差によるものだと考えられる。全くの田園地区で気温変化をとると、札幌の変化よりも更に小さいのである。(http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html

図(1)のエネルギー収支の概算では、大気の窓領域での地球からの熱放射が16%程あるとなっていたが、そこへの二酸化炭素の影響を考える上で参考になる図が公表されている。それが図(4)である。この図の左右の関係(左は入射、右は放射)は図(1)の左右の関係と同じである。
図(4)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Atmospheric_Transmission.png

図(4)の一番上に示された地球からの赤外線放出スペクトルで、CO2に関係のある部分(波長15ミクロン付近)は、水蒸気の赤外吸収の端と重なっておりすでに影響は飽和している。つまり、これ以上のCO2濃度増はそれほど大きな影響がないことを暗示している。

結論として、気温変化に大きく影響するのは、大気中の水蒸気濃度と雲の量である。雲の量は、図(1)の太陽光の反射の割合に大きく影響する。つまり、曇の日は夏でも涼しいのである。一方、大気中水蒸気量が増加すれば、図(4)の大気からの赤外線放射のピークを低くし(同図の三段目の水の赤外吸収の谷底が持ち上がる)、気温が上昇するだろう。そして、雲が雨を降らせることで、空気中の湿度の調整をしている。

その雲の量に影響するのが、太陽からの放射線量である。放射線による地球大気のイオン化は、雲を作る核となるからである。以上の雲と水蒸気のことに言及しないで、二酸化炭素濃度ばかり強調するのは非科学的政治的プロパガンダである。

科学的根拠のない協定は、政治的にずる賢く振る舞う国に利益をもたらし、外交下手の国には不利益を生じる。パリ協定などの二酸化炭素と地球温暖化を結びつけて、化石燃料の消費を制限しようというのは、別のいろんな思惑があって提案されたのだと思う。

補足:
1)地球表面が受ける太陽エネルギーの単位面積あたりの平均値は、太陽光に垂直な単位面積の平面が受ける一秒あたりのエネルギーの1/4である。(1/4は地球の断面積÷地球の表面積)
2)黒体輻射の法則の近似を用いていると思われる。
3)酸素や窒素のように同じ原子からなる2原子分子は赤外線を吸収しない。
4)二酸化炭素は親水性分子であり、海中によく溶ける。カルシウムイオンがあれば炭酸カルシウムとして沈殿するだろう。気温上昇と空中の二酸化炭素濃度上昇がこの数十年間のデータから相関があると言っても、気温上昇が原因で二酸化炭素濃度増加がその結果かもしれない。つまり、海中や地中からのCO2の放出である。パリ協定などの提出根拠は、十分科学的ではないのだ。