人間、社会で生きるには職を得なければならない。選ばれて専門的な職を得るには、先ずその分野で力をつけなければならない。専門で一定の基準の知識や技術を達成した場合、その資格を表すのに「士」という接尾語が用いられる。武士、棋士、弁護士、代議士、学士、修士、博士などである。その専門で一定の水準に達すれば、後輩に教える事もできるだろう。そして、人の上に立つことができると「先生」と呼ばれる。先生は中国語で「老師」であるので、「師」はそのためにとっておくべきである。(補足1)「先生」は人の上に立つので、全人格的に優れた天性の素質をもたなければならない。(補足2)
ある専門分野を資格という視点ではなく、“それを職業としている人”或いは“その分野に強い人”という意味を表す接尾語として「家」や「者」が用いられる。画家、音楽家、政治家、敎育家、科学者、指揮者、医者などである。「家」の方が「者」よりも社会における地位が高く、天性の素質を要する場合が多い。従って「家」と呼ばれる仕事の人は「先生」と呼ばれることが多い。これらをまとめて「専門家」という言葉で言及したり、医者を医師と言ったりするので、両者の峻別はされない。
これらに比べて、比較的単純な作業を仕事とする人の呼称に、「手」が接尾語として用いられる。運転手、選手、騎手などである。「手」と呼ばれる人は、専門家とは呼ばれない。以上は、言葉は違っても多分世界に共通する職業の社会における位置付けだろう。
別の表現を用いれば、多方面の能力を総合的に用いるのが「家」、限られた専門分野で生きるのが「者」で、単純作業をするのが「手」である。「家」は人間として幅広い常識を有し、且つ、上述のように生まれつきの才能を持たないとなれない場合が多い(補足3)。一方、勉強をすれば普通の人でも専門的で高度な技や知識を獲得でき、「者」になれる。専門的知識を勉強している間に、常識や情が通じなくなる場合もある。その場合でも「家」は通常非難されないが、「者」はしばしば非難の対象になる。「手」には常識や情がそれほど期待されていないので、淡々と仕事をこなせば良い。
専門家の中で社会において最も重要なのは政治家である。政治家は社会の中心にあって、人を知り、歴史を知り、経済を知り、法を知り、技術を知らなければならない。一人の人間が全能であるはずはない為、それぞれの専門家を使って政策を組み上げなければならない、一段上の総合的且つ高度な専門家である。
その一段上の総合的且つ高度に専門的な政治家を、民主主義社会では凡庸なる大衆が選挙で選ぶ。それは民主政治の本質的欠陥である。民主政治を広めたのはキリスト教の罪であるとニーチェは著書「アンチクリスト」で攻撃する。
補足:
1)「士」という接頭語を用いるべきところに「師」を用いている例が昨今多い。しかし、それは日本語の乱れであり、弱きものや劣ったものに対する倒錯した道徳の結果である。看護師、介護師、薬剤師などに、「師」を用いる理由はない。代議士の治療を医師と看護師が行うのでは、接尾語を区別して用いる意味がない。
2)学校の先生は対象が子供であるので、ここで言う全人格的に優れた天性までは要求されないが、「師」をつけて教師と呼ばれる。「医師」の「師」は「士」が相応しいのだが、患者の弱い立場を考えれば、教師の場合と同様に「師」が用いられるのも理解できる。
3)「家」には、これらの職業人として用いる場合の他に、私的な会話などに限って単に性格を表すために用いられる場合がある。例えば、「恐妻家」や「人情家」と言う類の「家」である。これは、十分常識を持たない人たちにより持ち込まれた日本語の乱れと考えられる。言語が現在まで一定の質を確保できたのは、言語を支配する権利が上層部に限定されていたからではないだろうか。今後、言語は崩壊の一途をたどるだろう。
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