ポジショントークとは、論理や科学的根拠を無視し、或いは歪めて、自分の方に利益誘導する発言のことである。最近マスコミで見られる発言や記事の99%はポジショントークであるかのような印象をうける。この種の捏造や偽造の類いは、ありとあらゆる出版物や発言映像などにも見られる。我々が独自の考えを持つ為には、浄水器のような精巧な情報浄化フィルターを持たねばならない。ここでは地球温暖化説が、巧妙に作られたポジショントークである疑いが濃いということを少し詳しく、そして日本政府の発言について数行書く。
補足:9月14日追加、地球温暖化については8月26日(2014)の記事に別途詳しく検討しましたので、そちらをご覧下さい。
地球温暖化の説明に使われる図をグーグル検索で見ると同じような説明文と数値が見られる。それは、記事を書いた人が違っても、基本的な説明の出所が同じだからだろう。温室効果ガスがないと、地表温度がマイナス19度になるが、温室効果ガスの効果でプラス14度になっているという。その図を一つ下に引用する。(著作権表示がなかったので、合法的だと思う)そして、今後空気中の二酸化炭素が増加すると、気温の上昇が加速し海面上昇などによる被害が出ると言うのである。気温上昇により空気中の水蒸気濃度が増加するので、その水蒸気による温室効果が加わり、二酸化炭素増による直接効果以上に温暖化するという。また、海面上昇も極地の氷の融解の他に、気温上昇による海水の熱膨張の効果も加わるそうである。
この図では、地球の熱が温暖化ガスにより遮蔽されて温度低下を防いでいるように書かれている。しかし、太陽から地球表面に届くエネルギーの変動についての記述がない。地球まで届く太陽光は、上空の雲で反射及び散乱され無かった太陽光であり、その雲の発生量は宇宙線の量により支配されている。宇宙線量は、太陽活動(黒点の数や面積で評価されている)により変化し、それが地表温度の重要な決定因子であるという。この説は広く知られており、最近のテレビ放送(たかじんのそこまで言って委員会)でも、丸山茂徳東京工業大教授により紹介された。また、今や二酸化炭素による温暖化説に学問的根拠がないことは地球物理学者の間では常識であると紹介されていた(一月頃のブログ参照)。
下の図が、国立研究所による紹介された地球表面温度のグラフである(最初引用したサイトから転載)。
この氷河期と間氷期の約10万年毎の繰り返しにおいて、現在は間氷河にあり、今後氷河期に向うことを示している。このグラフでは更に、過去の間氷期では現在の温度よりも気温が高かった時期があることも注目される。
我国は未だに、二酸化炭素による地球温暖化説を信用して、それを政策に反映させているのは何故だろうか?それは我日本国が、この説の元々の出所である英米の支配下にあるからだと思う。日本国は、英米のポジショントークをオーム返しするしか生きる道がないのだろう。
そして、今回のウクライナの件も同様である。クリミヤ自治共和国独立とロシアによる併合の批難は、クーデターにより作られた現在の臨時政権が正統であることを前提にしている。ロシアの軍事力による国境変更批難は、英米のポジショントークである様に見える。そして同様の意見を持つ人も多いにも拘らず、総理や官房長官は英米の主張をオーム返しのようにテレビカメラの前で繰り返している。一旦正統な政府が崩壊すれば、その下にあった自治共和国がその法律に従って住民投票を経て独立宣言することは、全く正当な行為である筈である。英米や日本は、その次のロシアによる併合を問題視しているが、それはクリミヤ国とロシアとの合意でなされたのなら問題は無い。つまり、問うべきは、住民投票がロシア軍の圧力下でなされたかどうかのみである。しかし、テレビで見る限り、クリミヤでの多数の住民は歓喜の声を上げていたように見える。また一部に、ロシア非難の口実に、ソ連時代元々の住民であったタミル人を追い出したことに言及する人が居る。彼らには、現在から未来を議論する時に、歴史問題を持ち出すのは国際法上当然のことなのですか?と聞きたい。
兎に角、最近のポジショントークはひどすぎると思う。他人の”ことば”を信用することが、社会を作って生きる人間の原点である筈。ポジショントークはこの原点を破壊する行為である。
2014/3/30(7:30 初稿投稿;午後5時頃一部加筆し、日本語を修正)
注目の投稿
人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか
1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題 日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...
2014年3月30日日曜日
2014年3月29日土曜日
捏造について
捏造とは実際には無かったことを事実のように仕立て上げることである。ある何かに関して捏造疑惑が持ちあがれば、その時点では、“捏造”も“事実”も殆ど同程度に危うい存在であることになる。
最近捏造が話題になることが多い。現代のベートーベンやスタップ細胞なども、その“捏造疑惑”によってテレビのワイドショーに大きく貢献した。また、より深刻な例としては、袴田事件における検察の証拠捏造(疑惑)がある。これは今後上級審での判断をあおぐことになるが、私の直感では捏造は間違いなくあったと思う。袴田“元死刑囚”には、本当に気の毒なことであり、我々は捏造の被害者でなく、且つ、この社会の構成員である以上、捏造をした側の一員にとして出来るだけの償いを袴田さんと彼の家族にしなければならないと自覚すべきだろう。上級審もいさぎよい決断をしてほしいものである。この種の捏造疑惑を出来るだけ少なくする様に、最新技術を導入するなどして犯罪捜査の技術向上に努めるべきである。しかし、それでもこの種の事件はある程度の確率で今後とも出現するだろう。人には真実を知る十分な能力に欠けることが背景となり、常に捏造の罠にはまってしまう危険性があるからである。また、100%の人が納得するだけ十分な証拠がある事件の容疑者だけを有罪とするのなら、司法は成り立たないだろうし、社会の枠組みは崩れるだろう。そして、そのような”絶対”を期するのなら、裁判において検察側、弁護側、裁判官の3つもの機能の必要性はない。
ここで特に言及したいのは、マスコミ報道によく現れる、“社会の根幹に拘るので、公機関によるこの種の捏造事件は、絶対あってはならない”という趣旨の意見である。私は、この発言に、マスコミに生きる人たちの知性の無さ、或いは、無責任さを感じる。(注1)それは、「現実に、我々は捏造(と偽造)の中に産まれ、そして、生きている」、或いは別の表現を用いれば、「捏造と真実の明確な区別のできない社会空間に生きている」からである。
捏造を善きこととして肯定しているのではない。袴田事件では、証拠捏造した検察の人間が特定出来れば、厳罰に処すべきである。しかし、その捏造と処罰のプロセスは、どこか借金しなければ生活出来ない人の借金とその中の一部の人の破産処理に似ている。つまり、日々辛うじて生きている我々と(注2)、その為に存在する我々の社会が、捏造によって辛うじて体裁を保って来たのではないか?ということである。そのしわ寄せが袴田事件であり、そしてその他表に出ない多くの捏造を含めて、それらの犠牲により我々は安心や平和という住処を安普請的に建築し、生きているのだと思う。個人内部での様々な自己完結型の捏造は問題が少ない。しかし、社会における捏造は、社会が一つの生命体でなく、多くの個人により構成されているので大きな問題である。個人は、独自の意識を持ち、夫々が生きる権利を主張出来る存在であるからである。社会全体の動きの中で生じた捏造(注3)により被害を受けた個人は、突然津波に飲み込まれるような不条理の中で苦しむことになる。それ以外の幸運な人間は、出来るだけの償いをしなければならないと思うのである。そして、その不運は明日の自分の姿かもしれない。(注4)
我々が生まれたのも、神が創造した“愛”の結果である。その“愛”も多くの場合、勘違いか捏造或いは偽造の産物に過ぎない。つまり、愛は本来他者を大切に思う感情であるが、自己の欲望と利益を他者に求める為の物乞行為を、愛として捏造する場合も多い(注5)。また、我々の国家の歴史を記した、日本書紀や古事記も多くの捏造を含む書物であると考えられる。(注6)そして、“万世一系”の天皇を頂く2674年の歴史を捏造し、その偽りの誇りの中でナショナリズムを醸成している。英米から輸入した民主主義も、その本来の形は“人民の意志”を社会の裏で捏造し、それに人民(市民、有権者)が気付くことの無い様に工夫された、極めて複雑な政治体制かもしれない。これらの捏造を「捏造はあってはならない」と切り捨てるのは、それを人々の生活を保ったままで減少させる努力をせずに、自分だけ安心安全の地に逃亡する行為だと思う。
政治や司法において捏造を産むのは、我々が期待する、平和、安全、機会均等などの社会の諸機能と、個人の生活や権利という、二つ実体の持つ価値が、同時に毀損することなく実現できるのかどうか、という根本的な問題に関係していると思う。この広い範囲で、不正を防ぐ或いは最小限にするメカニズムを完成するには、個人と、社会、もっと広く国際までの範囲で耐えうる論理的思想を、政治や司法において実現することが不可欠である。つまり、日本語という非論理的な言葉を用いていることや、人治国家である東アジアの政治体制の危うさを、十分自覚することが特に我国では大切であると思う。
社会における捏造は極力少なくすべきである。つまり、上記表現での"平和と安心という住処の構造"を強化すべきである。しかし捏造や捏造的なものを、完全に無くすることが可能であると考えるのは幻想であり、常に捏造の危険性に対して緊張感を失ってはならないと思う。
注釈: 1) 同じ様な感覚を、政治問題における所謂左翼の方々の意見を聞いた時に持つ。
2)人は内部でいろんな捏造や誤摩化しにより、心の平安を保って生きていると思う。多くの”納得”は真実の徹底的追及を放棄して自分が痛むことを防いでいる。そのプロセスの中には必ず或る種の捏造が存在すると思う。
3)社会の安定は、社会に一定以上の信用が無ければ成立しない。そして信用が不足しそうな場合、ここでは国家の司法の、”世の中の正義を護ると言う信用”が不足した場合、事件解決の(捏造を積極的にする訳ではないが)圧力が生じるのだと思う。他にも、国の政策では官僚達が立案し国会議員が審議する振りの後、採決して決めている。あたかも民意によって国が運営されているように民主主義を捏造し、社会の安定を保っている。また、戦争時には国家あっての個人であるという国家主義を国民の頭の中に捏造して、徴兵した。そのための道具が靖国神社ではないだろうか?古来、下級武士を神社に祀った例等無いとおもうが。。
4) ちょっと仏教的臭いがする理解です。
5) 自分の利益を考えて、他者を大切に思うことを、愛と感じる場合が多い。しかし、本当の愛は、自分の利益に無関係に他者にむけられたいつくしみの感情だと思う。或いは、本物の愛(アガペー)は、人にとっては夢想か誤解の類いかもしれない。
6) 岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)参照。私には非常に優れた学者に感じられるこの著者は、一般の理解と異なって古事記を日本書紀を元にして、書き換えられたものと解説している。
最近捏造が話題になることが多い。現代のベートーベンやスタップ細胞なども、その“捏造疑惑”によってテレビのワイドショーに大きく貢献した。また、より深刻な例としては、袴田事件における検察の証拠捏造(疑惑)がある。これは今後上級審での判断をあおぐことになるが、私の直感では捏造は間違いなくあったと思う。袴田“元死刑囚”には、本当に気の毒なことであり、我々は捏造の被害者でなく、且つ、この社会の構成員である以上、捏造をした側の一員にとして出来るだけの償いを袴田さんと彼の家族にしなければならないと自覚すべきだろう。上級審もいさぎよい決断をしてほしいものである。この種の捏造疑惑を出来るだけ少なくする様に、最新技術を導入するなどして犯罪捜査の技術向上に努めるべきである。しかし、それでもこの種の事件はある程度の確率で今後とも出現するだろう。人には真実を知る十分な能力に欠けることが背景となり、常に捏造の罠にはまってしまう危険性があるからである。また、100%の人が納得するだけ十分な証拠がある事件の容疑者だけを有罪とするのなら、司法は成り立たないだろうし、社会の枠組みは崩れるだろう。そして、そのような”絶対”を期するのなら、裁判において検察側、弁護側、裁判官の3つもの機能の必要性はない。
ここで特に言及したいのは、マスコミ報道によく現れる、“社会の根幹に拘るので、公機関によるこの種の捏造事件は、絶対あってはならない”という趣旨の意見である。私は、この発言に、マスコミに生きる人たちの知性の無さ、或いは、無責任さを感じる。(注1)それは、「現実に、我々は捏造(と偽造)の中に産まれ、そして、生きている」、或いは別の表現を用いれば、「捏造と真実の明確な区別のできない社会空間に生きている」からである。
捏造を善きこととして肯定しているのではない。袴田事件では、証拠捏造した検察の人間が特定出来れば、厳罰に処すべきである。しかし、その捏造と処罰のプロセスは、どこか借金しなければ生活出来ない人の借金とその中の一部の人の破産処理に似ている。つまり、日々辛うじて生きている我々と(注2)、その為に存在する我々の社会が、捏造によって辛うじて体裁を保って来たのではないか?ということである。そのしわ寄せが袴田事件であり、そしてその他表に出ない多くの捏造を含めて、それらの犠牲により我々は安心や平和という住処を安普請的に建築し、生きているのだと思う。個人内部での様々な自己完結型の捏造は問題が少ない。しかし、社会における捏造は、社会が一つの生命体でなく、多くの個人により構成されているので大きな問題である。個人は、独自の意識を持ち、夫々が生きる権利を主張出来る存在であるからである。社会全体の動きの中で生じた捏造(注3)により被害を受けた個人は、突然津波に飲み込まれるような不条理の中で苦しむことになる。それ以外の幸運な人間は、出来るだけの償いをしなければならないと思うのである。そして、その不運は明日の自分の姿かもしれない。(注4)
我々が生まれたのも、神が創造した“愛”の結果である。その“愛”も多くの場合、勘違いか捏造或いは偽造の産物に過ぎない。つまり、愛は本来他者を大切に思う感情であるが、自己の欲望と利益を他者に求める為の物乞行為を、愛として捏造する場合も多い(注5)。また、我々の国家の歴史を記した、日本書紀や古事記も多くの捏造を含む書物であると考えられる。(注6)そして、“万世一系”の天皇を頂く2674年の歴史を捏造し、その偽りの誇りの中でナショナリズムを醸成している。英米から輸入した民主主義も、その本来の形は“人民の意志”を社会の裏で捏造し、それに人民(市民、有権者)が気付くことの無い様に工夫された、極めて複雑な政治体制かもしれない。これらの捏造を「捏造はあってはならない」と切り捨てるのは、それを人々の生活を保ったままで減少させる努力をせずに、自分だけ安心安全の地に逃亡する行為だと思う。
政治や司法において捏造を産むのは、我々が期待する、平和、安全、機会均等などの社会の諸機能と、個人の生活や権利という、二つ実体の持つ価値が、同時に毀損することなく実現できるのかどうか、という根本的な問題に関係していると思う。この広い範囲で、不正を防ぐ或いは最小限にするメカニズムを完成するには、個人と、社会、もっと広く国際までの範囲で耐えうる論理的思想を、政治や司法において実現することが不可欠である。つまり、日本語という非論理的な言葉を用いていることや、人治国家である東アジアの政治体制の危うさを、十分自覚することが特に我国では大切であると思う。
社会における捏造は極力少なくすべきである。つまり、上記表現での"平和と安心という住処の構造"を強化すべきである。しかし捏造や捏造的なものを、完全に無くすることが可能であると考えるのは幻想であり、常に捏造の危険性に対して緊張感を失ってはならないと思う。
注釈: 1) 同じ様な感覚を、政治問題における所謂左翼の方々の意見を聞いた時に持つ。
2)人は内部でいろんな捏造や誤摩化しにより、心の平安を保って生きていると思う。多くの”納得”は真実の徹底的追及を放棄して自分が痛むことを防いでいる。そのプロセスの中には必ず或る種の捏造が存在すると思う。
3)社会の安定は、社会に一定以上の信用が無ければ成立しない。そして信用が不足しそうな場合、ここでは国家の司法の、”世の中の正義を護ると言う信用”が不足した場合、事件解決の(捏造を積極的にする訳ではないが)圧力が生じるのだと思う。他にも、国の政策では官僚達が立案し国会議員が審議する振りの後、採決して決めている。あたかも民意によって国が運営されているように民主主義を捏造し、社会の安定を保っている。また、戦争時には国家あっての個人であるという国家主義を国民の頭の中に捏造して、徴兵した。そのための道具が靖国神社ではないだろうか?古来、下級武士を神社に祀った例等無いとおもうが。。
4) ちょっと仏教的臭いがする理解です。
5) 自分の利益を考えて、他者を大切に思うことを、愛と感じる場合が多い。しかし、本当の愛は、自分の利益に無関係に他者にむけられたいつくしみの感情だと思う。或いは、本物の愛(アガペー)は、人にとっては夢想か誤解の類いかもしれない。
6) 岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)参照。私には非常に優れた学者に感じられるこの著者は、一般の理解と異なって古事記を日本書紀を元にして、書き換えられたものと解説している。
2014年3月26日水曜日
米国と中国による、日本から潜在的核保有能力を奪う計画
定年後の毎日のかなりの部分は、パソコンとテレビに奉仕することで成り立っている。そして、多くのニュースを視聴して、その報道の傾向に言及するという、現役時代には考えられなかったことが可能になった。今日のニュースで繰り返し報道されているのは、STAP細胞における不正事件、日米韓の首脳会見、マレーシア航空の失踪事件である。殆どの関心のある人が既に知っている問題を延々と放送し、深く考えねばならないことは殆ど話題に上らないという感じをうける。
例えば、24日のBBCのニュースでは(注1)、安倍総理とオバマ大統領の間で、米国から購入したプルトニュームを返還することに同意したと報じられている。これは中国の脅威になるとして、中国が強く要請していたようである。記事ではgrave concernという最大の関心を表す言葉で中国の関心を表現している。この件を持ち出したオバマは、テロリストに渡ると危険だからという言い訳を用いているが、本当の狙いは日本の潜在的核保有能力を奪いとる戦略の一環にある。オバマ氏がオランダのハーグでG7会議に出席するのと同期して、ミッシェル夫人は中国を訪問中である。そして、今回のオバマ氏による中国が最も喜ぶことの日本への強制は、日米の関係よりも日中の関係を重視する方向に今後米国は動くことを強く感じさせる。(注2)ヒラリーが次期大統領になるころには、日本の情況は非常に深刻なものになっているかもしれない。
原発全廃と簡単にいうが、それは、エネルギー問題(注3)の他に、この潜在的核保有能力の放棄を意味することである。そして、それは今後の日本にとっての最大の脅威である中国が何よりも歓迎することなのである。
1972年に成長の限界と言う本がローマクラブから出され、その続編が1992年に出版された。それは地球の資源と面積を考えた場合、どの程度の人間が、どの程度の期間、どの程度のレベルで生活できるかを議論したものである。これらの本の出版と地球温暖化説の出現の関係を全く考えない人は、政治家には向かないと思う。つまり、発展途上国のCO2発生を先進国と同程度の増加率に押え込むことで、資源枯渇の時期を延ばそうとしたのである。(注4)そのもくろみは見事に外れて、中国から、先進国こそエネルギー消費を削減するべきと主張された。何れ、有限な地球と人口の増加は、必ず世界的な争いを引き起こすだろう。その際に特に中国にとって邪魔になるのが、日本の政治が世界において強力な指導性を持つことと、日本が潜在的核保有国であること(或いは核保有国になること)である。
おそらく、22世紀に残る人口構成は、核保有国が優先的になるだろう。
注釈:
1) http://www.bbc.com/news/world-asia-26716697
2) 上記ニュースでは最初日本はこの提案に抵抗したと書かれている。(The Abe administration was reported to have resisted initial approaches from the US to hand it back.)
3) 高い天然ガスの輸入の為に、日本が経常赤字国になり、そして双子の赤字の国になる危険性が増す。重大な問題の一つである。
4) そのようなことを正面から云う人は殆どいない。これは、上記「テロリストにプルトニュームが渡らない様に、米国に返還せよ」という表向きの理由は、本当の理由でないことと同じである。ただ、大衆は表の人形劇だけみて、裏舞台で操っている人、その劇を企画した人を思い出さない。民主主義とは、しっかりした裏舞台を持つ西欧諸国にとって、世界を支配する便利なイデオロギーである。
例えば、24日のBBCのニュースでは(注1)、安倍総理とオバマ大統領の間で、米国から購入したプルトニュームを返還することに同意したと報じられている。これは中国の脅威になるとして、中国が強く要請していたようである。記事ではgrave concernという最大の関心を表す言葉で中国の関心を表現している。この件を持ち出したオバマは、テロリストに渡ると危険だからという言い訳を用いているが、本当の狙いは日本の潜在的核保有能力を奪いとる戦略の一環にある。オバマ氏がオランダのハーグでG7会議に出席するのと同期して、ミッシェル夫人は中国を訪問中である。そして、今回のオバマ氏による中国が最も喜ぶことの日本への強制は、日米の関係よりも日中の関係を重視する方向に今後米国は動くことを強く感じさせる。(注2)ヒラリーが次期大統領になるころには、日本の情況は非常に深刻なものになっているかもしれない。
原発全廃と簡単にいうが、それは、エネルギー問題(注3)の他に、この潜在的核保有能力の放棄を意味することである。そして、それは今後の日本にとっての最大の脅威である中国が何よりも歓迎することなのである。
1972年に成長の限界と言う本がローマクラブから出され、その続編が1992年に出版された。それは地球の資源と面積を考えた場合、どの程度の人間が、どの程度の期間、どの程度のレベルで生活できるかを議論したものである。これらの本の出版と地球温暖化説の出現の関係を全く考えない人は、政治家には向かないと思う。つまり、発展途上国のCO2発生を先進国と同程度の増加率に押え込むことで、資源枯渇の時期を延ばそうとしたのである。(注4)そのもくろみは見事に外れて、中国から、先進国こそエネルギー消費を削減するべきと主張された。何れ、有限な地球と人口の増加は、必ず世界的な争いを引き起こすだろう。その際に特に中国にとって邪魔になるのが、日本の政治が世界において強力な指導性を持つことと、日本が潜在的核保有国であること(或いは核保有国になること)である。
おそらく、22世紀に残る人口構成は、核保有国が優先的になるだろう。
注釈:
1) http://www.bbc.com/news/world-asia-26716697
2) 上記ニュースでは最初日本はこの提案に抵抗したと書かれている。(The Abe administration was reported to have resisted initial approaches from the US to hand it back.)
3) 高い天然ガスの輸入の為に、日本が経常赤字国になり、そして双子の赤字の国になる危険性が増す。重大な問題の一つである。
4) そのようなことを正面から云う人は殆どいない。これは、上記「テロリストにプルトニュームが渡らない様に、米国に返還せよ」という表向きの理由は、本当の理由でないことと同じである。ただ、大衆は表の人形劇だけみて、裏舞台で操っている人、その劇を企画した人を思い出さない。民主主義とは、しっかりした裏舞台を持つ西欧諸国にとって、世界を支配する便利なイデオロギーである。
2014年3月23日日曜日
従軍慰安婦問題再考について:削除とその理由
昨夜書いた慰安婦問題に関する意見は削除します。その中身はこのサイトに残します。http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n263889
2014年3月22日土曜日
ウクライナ政変とクリミヤ独立に対する考察
ウクライナの情況は日本にとってもいろんな教訓を与えてくれると思うので、ここに私の考えを書きます。以前、本ブログにこの件書きましたが、重大な理解不足があったので、改めてここに掲載します。
クリミヤ半島は旧ソ連のフルシチョフ首相の時代に、彼がウクライナの出身であることから、新しくウクライナに組み入れられたと言うことである。そこの住民はロシア系が大半(60%以上)であり、従って、クリミヤのロシアへの編入を希望する人が多かったという。また、クリミヤのウクライナ軍はロシア軍と戦う気持ちは無く、早々にロシア軍に投降したというのも、そのような背景があってのことであると思う。田岡俊次氏が、クリミヤだけ分離独立すれば良いとの考えを発表しており、それに同意する人も多いだろうが(注1)、それは国際法的にはウクライナ政府が決めることである。 ただ、この件はウクライナの現在の政権の正統性をどう考えるかで話が全く異なると思う。つまり、ウクライナの暴動が大統領の逃亡にまで至った以上、クーデターである。クーデターであれば国家の継続性は失われたことになり、前政権下の憲法はその時点で無効状態にあると考える。従って暫定政権は、その国での完全な正統性を主張することは出来ない。また、政変を理由に外国が干渉することは、国際法に反するが、外国の政変を画策することも同様である。従って、クリミヤ自治共和国が、住民投票を経て独立を宣言することは法的にも根拠ある行為に思える。(間違っていれば指摘し、根拠を示してほしい。)
つまり、ウクライナをヨーロッパ圏に近づける為に、米国などは反ヤヌコビッチデモを支援していたと、欧米マスコミ記事などの引用により田中宇氏は主張している。(注2;http://tanakanews.com/) そこには、反ヤヌコビッチ政権へ世論を操作する為に、反ヤヌコビッチのデモ隊銃撃を反ヤヌコビッチ派が自作自演劇した等の記事が引用されており、その通りなら今回のウクライナの政変はテロリズムによるクーデター(又は革命)と考えられる。ウクライナ政権がテロリズムで崩壊したのなら、今回のクリミヤの独立は国際法的に合法なのではないか。また、ロシアの軍事力が投票結果に大きく影響したという欧米の主張は、テレビ画面で投票風景を観た限りでは説得性がない。日本は、今回のクリミヤとロシアの合併を(違法と考えれば、ロシアによるクリミヤの接収)、米国との関係を重視して、完全に国際法違反の暴挙としている。しかし、私には訳が判らないとしか言い様がない。
ただ、この問題で、ウクライナを日本に、そして、クリミヤを沖縄に置き換えると、この事件は日本へ教訓を与えるのではないだろうか。このアナロジーでは、ウクライナで政変を画策した米国は、中国に置き換わる。実際、沖縄分離独立の工作は中国によりなされているらしい。ただ、日本政府が転覆しない限り、沖縄の独立は沖縄住民の投票のみでは成立しない。ましてや中国への編入などもってのほかである。中国人の中には、薩摩の支配下に入る前、琉球王国は清国皇帝へ朝貢していたことを潜在的中国領の根拠に持ち出す者がいるという。(注3)また、もう一つの教訓は、二重国籍的で日本国に同化しようと努力しない人が増加すると、この種の混乱が起こる可能性が高くなることである。日本国は現在、良くも悪しくも世界の中にあって非常に特殊な国である。そのことを忘れて、世界の常識だからとか世界の趨勢だからという理由で、経済界の意向のままに移民を解禁すべきでないと思う。日本には労働力は余っている。ただ、自分の能力を過大評価して高いレベルの仕事を夢想する子とその親が多数存在するだけである。
注釈:
1)(http://diamond.jp/articles/-/49718)
2) その中にある記事:米国の国務次官補(欧州ユーラシア担当)と、米国の駐ウクライナ大使が、ウクライナ問題について電話で議論している会話の録音が、ユーチューブに流れたという。そこでは、ウクライナのヤヌコビッチ政権が反政府運動を暴力的に弾圧した場合に経済制裁すべきだと米国が主張したのにEUが反対したことが語られたという。米国務省の広報官は、この録音はロシアがリークしたに違いないと指摘したという。次の記事の数行を見て下さい。http://www.wsws.org/en/articles/2014/02/08/ukra-f08.html 3) 朝貢は国家と国家の主従関係を示すものではないという指摘が、岡田英弘著の「歴史とはなにか」においてなされている。
クリミヤ半島は旧ソ連のフルシチョフ首相の時代に、彼がウクライナの出身であることから、新しくウクライナに組み入れられたと言うことである。そこの住民はロシア系が大半(60%以上)であり、従って、クリミヤのロシアへの編入を希望する人が多かったという。また、クリミヤのウクライナ軍はロシア軍と戦う気持ちは無く、早々にロシア軍に投降したというのも、そのような背景があってのことであると思う。田岡俊次氏が、クリミヤだけ分離独立すれば良いとの考えを発表しており、それに同意する人も多いだろうが(注1)、それは国際法的にはウクライナ政府が決めることである。 ただ、この件はウクライナの現在の政権の正統性をどう考えるかで話が全く異なると思う。つまり、ウクライナの暴動が大統領の逃亡にまで至った以上、クーデターである。クーデターであれば国家の継続性は失われたことになり、前政権下の憲法はその時点で無効状態にあると考える。従って暫定政権は、その国での完全な正統性を主張することは出来ない。また、政変を理由に外国が干渉することは、国際法に反するが、外国の政変を画策することも同様である。従って、クリミヤ自治共和国が、住民投票を経て独立を宣言することは法的にも根拠ある行為に思える。(間違っていれば指摘し、根拠を示してほしい。)
つまり、ウクライナをヨーロッパ圏に近づける為に、米国などは反ヤヌコビッチデモを支援していたと、欧米マスコミ記事などの引用により田中宇氏は主張している。(注2;http://tanakanews.com/) そこには、反ヤヌコビッチ政権へ世論を操作する為に、反ヤヌコビッチのデモ隊銃撃を反ヤヌコビッチ派が自作自演劇した等の記事が引用されており、その通りなら今回のウクライナの政変はテロリズムによるクーデター(又は革命)と考えられる。ウクライナ政権がテロリズムで崩壊したのなら、今回のクリミヤの独立は国際法的に合法なのではないか。また、ロシアの軍事力が投票結果に大きく影響したという欧米の主張は、テレビ画面で投票風景を観た限りでは説得性がない。日本は、今回のクリミヤとロシアの合併を(違法と考えれば、ロシアによるクリミヤの接収)、米国との関係を重視して、完全に国際法違反の暴挙としている。しかし、私には訳が判らないとしか言い様がない。
ただ、この問題で、ウクライナを日本に、そして、クリミヤを沖縄に置き換えると、この事件は日本へ教訓を与えるのではないだろうか。このアナロジーでは、ウクライナで政変を画策した米国は、中国に置き換わる。実際、沖縄分離独立の工作は中国によりなされているらしい。ただ、日本政府が転覆しない限り、沖縄の独立は沖縄住民の投票のみでは成立しない。ましてや中国への編入などもってのほかである。中国人の中には、薩摩の支配下に入る前、琉球王国は清国皇帝へ朝貢していたことを潜在的中国領の根拠に持ち出す者がいるという。(注3)また、もう一つの教訓は、二重国籍的で日本国に同化しようと努力しない人が増加すると、この種の混乱が起こる可能性が高くなることである。日本国は現在、良くも悪しくも世界の中にあって非常に特殊な国である。そのことを忘れて、世界の常識だからとか世界の趨勢だからという理由で、経済界の意向のままに移民を解禁すべきでないと思う。日本には労働力は余っている。ただ、自分の能力を過大評価して高いレベルの仕事を夢想する子とその親が多数存在するだけである。
注釈:
1)(http://diamond.jp/articles/-/49718)
2) その中にある記事:米国の国務次官補(欧州ユーラシア担当)と、米国の駐ウクライナ大使が、ウクライナ問題について電話で議論している会話の録音が、ユーチューブに流れたという。そこでは、ウクライナのヤヌコビッチ政権が反政府運動を暴力的に弾圧した場合に経済制裁すべきだと米国が主張したのにEUが反対したことが語られたという。米国務省の広報官は、この録音はロシアがリークしたに違いないと指摘したという。次の記事の数行を見て下さい。http://www.wsws.org/en/articles/2014/02/08/ukra-f08.html 3) 朝貢は国家と国家の主従関係を示すものではないという指摘が、岡田英弘著の「歴史とはなにか」においてなされている。
2014年3月16日日曜日
STAP論文不正疑惑を、研究行政や制度の問題として捉えるべきではない
STAP細胞論文の不祥事を、研究者の育成やら教育問題まで広げて議論する動きがある。しかし、今回の件は、特別の個性を持った者による全く特殊なケースであり、制度の問題とは本質的に一線を画すべきものである。確かに、研究者の任期性や評価制度(短期の論文数を加算して評価する制度)の長所と短所は、導入時に議論されたし、それらはファイルされている筈である。従って、それら制度上の問題は、個々の研究機関が今回のケースと関係なく、制度改善の一環として常時考えている筈である。理事長や理事というポストはそのような為にあるのでは無かったのか? ましてや、今回のケースを教育や研究に関する行政の問題にまで広げて議論する必要は全くないと思う。
今回の不正行為の発生からは、ほとんど何も学ぶべきものはない。(注1)それは、ある特定の研究者の好ましくない個性が原因であり、昔からあったケースである。 朝日新聞デジタル3月16日13時3分発信の記事(注2)によれば、日本学術会議会長や、東京電力福島第一原発の国会事故調査委員会委員長を務めた黒川清・政策研究大学院大学教授が「日本の研究者は、次の世代の研究者をトレーニングすることの重要性をどこまで自覚しているのか心配になる。欧米では、どんな大学院生を育てあげたかで、教員の評価が決まる。小保方さんをスケープゴートに仕立てて終わってはいけない」と語ったということである。この発言の主は、スケープゴートと言う言葉の意味さえご存知ない。大学院教育の中での基礎教育の充実は必要だと思うが、研究のレベルでは教員は研究者としての力を示すのみで良い。もし、大学教員が平均として研究能力が低すぎるという批判なら傾聴に値すると思う。つまり、研究者としての能力は、芸と同じで個性の延長上にあり、磨くのは自分自身である。そして、優秀なる先輩から盗むものであり、手取り足取り教えてもらうものではない。手取り足取り教えた芸は本物の芸にはならないと思う。(注3)
問題は、不正行為で作成された論文が研究雑誌に印刷されるまで見抜かれることが無かったことである。それは、共著者のあり方や審査のあり方などとして、世界の科学文化に与えられた課題となってのこった。日本固有な問題としては、共著者のあり方のみだと思う。(注4)つまり、科学論文へ共著者として名を連ねることは、ルーティンワーク的な協力(注5)だけでは不十分であり、その研究において共同責任を取れるレベルの協力でないといけないのである。もしそのようなレベルの共著者が3−4人いれば、写真が入れ替わっているなどのミスが生じる筈が無い。
確かに、ネット社会になり、検索やコピーが容易になるので、コピーペーストで序文を書く場合はあるだろう。しかし、他の論文からとった文章は、準備している論文の中身にもっとも相応しいとは考えられないから、共著者が2−3人いれば原稿を準備する段階で修正される筈である。従って、あまりネット社会になったことを問題の原因として考えるのもおかしい。
注釈:
1) 発生には学ぶべきものは無いが、それを発火点にして大火事になったことからは学ぶべきものはいろいろある。それが以下の議論である。
2) (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140316-00000014-asahi-sci)
3) 一寸極端な言い方かもしれないが、本質を言ったつもりである。研究者はプロフェッショナルな仕事であり、大学教育以降自分で学ぶ姿勢が無ければなれない仕事である。優秀なる弟子は優秀なる共同研究者になるのだから、先輩や先生にとって有り難い存在である。従って、優秀に育つ弟子なら優秀な先生は育てることに熱心になる筈である。”育つ”と”育てる”は、片方だけの問題ではない。
4)これについては既に前回の記事で述べた。
5) 科学研究を助けるものとして、テクニシャンを研究所におくことが、国により行なわれている。テクニシャンは手続きの決まった化学合成や機械工作を行なう技術者であり、共著者には通常入れない。研究者とテクニシャンの関係は、医師と看護師の関係に似たものである。もちろんテクニシャン制度を導入しなくても、研究者が、テクニシャン的に研究協力した場合は共著者に入れないということを、日本の科学文化として広げることも有力な方法である。
(3/16/22:00; 3/17/7:00第二文節を編集)
今回の不正行為の発生からは、ほとんど何も学ぶべきものはない。(注1)それは、ある特定の研究者の好ましくない個性が原因であり、昔からあったケースである。 朝日新聞デジタル3月16日13時3分発信の記事(注2)によれば、日本学術会議会長や、東京電力福島第一原発の国会事故調査委員会委員長を務めた黒川清・政策研究大学院大学教授が「日本の研究者は、次の世代の研究者をトレーニングすることの重要性をどこまで自覚しているのか心配になる。欧米では、どんな大学院生を育てあげたかで、教員の評価が決まる。小保方さんをスケープゴートに仕立てて終わってはいけない」と語ったということである。この発言の主は、スケープゴートと言う言葉の意味さえご存知ない。大学院教育の中での基礎教育の充実は必要だと思うが、研究のレベルでは教員は研究者としての力を示すのみで良い。もし、大学教員が平均として研究能力が低すぎるという批判なら傾聴に値すると思う。つまり、研究者としての能力は、芸と同じで個性の延長上にあり、磨くのは自分自身である。そして、優秀なる先輩から盗むものであり、手取り足取り教えてもらうものではない。手取り足取り教えた芸は本物の芸にはならないと思う。(注3)
問題は、不正行為で作成された論文が研究雑誌に印刷されるまで見抜かれることが無かったことである。それは、共著者のあり方や審査のあり方などとして、世界の科学文化に与えられた課題となってのこった。日本固有な問題としては、共著者のあり方のみだと思う。(注4)つまり、科学論文へ共著者として名を連ねることは、ルーティンワーク的な協力(注5)だけでは不十分であり、その研究において共同責任を取れるレベルの協力でないといけないのである。もしそのようなレベルの共著者が3−4人いれば、写真が入れ替わっているなどのミスが生じる筈が無い。
確かに、ネット社会になり、検索やコピーが容易になるので、コピーペーストで序文を書く場合はあるだろう。しかし、他の論文からとった文章は、準備している論文の中身にもっとも相応しいとは考えられないから、共著者が2−3人いれば原稿を準備する段階で修正される筈である。従って、あまりネット社会になったことを問題の原因として考えるのもおかしい。
注釈:
1) 発生には学ぶべきものは無いが、それを発火点にして大火事になったことからは学ぶべきものはいろいろある。それが以下の議論である。
2) (http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140316-00000014-asahi-sci)
3) 一寸極端な言い方かもしれないが、本質を言ったつもりである。研究者はプロフェッショナルな仕事であり、大学教育以降自分で学ぶ姿勢が無ければなれない仕事である。優秀なる弟子は優秀なる共同研究者になるのだから、先輩や先生にとって有り難い存在である。従って、優秀に育つ弟子なら優秀な先生は育てることに熱心になる筈である。”育つ”と”育てる”は、片方だけの問題ではない。
4)これについては既に前回の記事で述べた。
5) 科学研究を助けるものとして、テクニシャンを研究所におくことが、国により行なわれている。テクニシャンは手続きの決まった化学合成や機械工作を行なう技術者であり、共著者には通常入れない。研究者とテクニシャンの関係は、医師と看護師の関係に似たものである。もちろんテクニシャン制度を導入しなくても、研究者が、テクニシャン的に研究協力した場合は共著者に入れないということを、日本の科学文化として広げることも有力な方法である。
(3/16/22:00; 3/17/7:00第二文節を編集)
2014年3月13日木曜日
STAP細胞の疑惑と関連して:
山梨大の若山教授がSTAP細胞に関する論文の取り下げを共著者に呼びかけ、理研などでも漸くその方向にあるようである。報道されている様に、写真や文章に関する数々の疑惑を考慮すると、非常に深刻な事態である。以前のブログで「この研究成果が、数年間世界の研究者による追試験や発展研究を経て科学界に輝きを維持しておれば、平成日本の最高の科学的成果だと思う」と書いた。(注1)残念なことに1ヶ月程で論文取り下げを決断する時期となってしまった。何故このようになったのか? 個別の原因の詳細は、今後調査の上、明らかにされるだろう。私が思い付くことは、筆頭著者にSTAP細胞が存在する筈だという強い思い込み(信念)があり、それに合致する様に実験結果も、その解析も歪められたのだろう。その“思い込みと、突っ走りのエネルギー”は大きな研究成果を出す上での原動力であるが、それを実際の成果に結びつける為には、長い間に定着している科学界の伝統を重んじることが非常に大切な条件になると思う。それは、基本的な研究の姿勢であり、実験計画、得られた実験結果に対する謙虚な対応、そして研究者間の忌憚の無い議論(注2)、そして発表のあり方などである。この基本的な科学文化の殆どは、通常大学院過程で配属された研究室において、教官や先輩達から(セミナーなどを通して)、そして、学会発表を通して他大学などの先輩から学ぶことである。ただ、共著者を誰にするかについては以下に述べる様に、大学でもかなり出鱈目に教わると言わざるを得ない。
ここでは、現代の科学研究と社会の関わり、研究者のモラル、科学論文の出版に関するプロセスなどにも問題があると思うので、短いコメントを書く。
先ず、過去20−30年の間の学会の変化として重要なのは、発表される論文数が多くなり、論文の審査が十分行なえない情況にあることである。ネット上のopen access journalなどを含めると、この20年に論文誌の数は5倍程度になったのではないだろうか。因に、open access journalでも審査付きを唱っている。(注3)
科学界に属する者は、論文審査を依頼されたら、十分な時間をかけて審査する(暗黙の)義務を負う。この仕事は自分の研究にさほどプラスにならない上、通常厳しい競争の世界に身を置いているので、真面目に対応すればする程、その負担も大きくなる。(注4)そこで、著名な研究者が共著者として含まれていると、その共著者のチェックがあったものと考えて、どうしても審査が甘くなるのである。また、論文発表するか或いは研究者の世界を去るか(publish or perish)と言われるように、論文の数は研究者としてのキャリヤーアップを実現する上で大切になっている。その結果、あまり重要でない成果や、実験対象が少し変わっただけの論文が多くなり、結果として一人当たりの論文数が非常に多くなっている。更に、電子顕微鏡の測定と解釈を依頼しただけで共著者に加え、自分も同様の協力をした際に共著者に加えてもらうという暗黙の協力関係が研究者間でなされている。これは本来の科学文化にはなく、慎むべきことであることは大抵の人は判っている。しかし、科学研究者と言えでも一定の地位に昇進して行かなければ研究の自由を得る上でも、そして経済的にも大変である。論文リストの厚さが人事選考の重要な決定因子であるのが現実であり、上記慣習から身を遠ざけることは出来ない。
本来は、その論文を学会発表して質疑応答出来る程度に熟知していなければ、共著者に名を連ねるべきではないのである。(注5)「単名論文が多かった昔と比べて、現在は、研究方法が多く且つ複雑になって、研究には多くの人の協力が必須である。そのため、どうしても著者数が増えてしまう。」というのは建前論だと思う。
今回の件では、研究の結果の中で中心的意味を持つ写真について、共著者全員が熟知しているべきでは無かったのかという疑問がわく。つまり、その写真を使わないで講演することは不可能なので、それを熟知していることが共著者の条件であると思う。出版されたあとになってあのような疑惑がでたことは、10数名の共著者が本来の意味での共著者に値しないことを示していると思う。一般論としても、研究が本来の伝統的科学文化の下で行なわれたのであれば、一つの論文に10数名が共著者欄に名を連ねることなどあり得ないのではないだろうか。(注6)基礎的な研究分野(物理化学)に属していた人に、生物関係の事は判らないだろうと言われれば、十分反論出来ないが、私の場合は、論文の著者数は2人−4人の場合が殆どであった。異なる大学などとの共同研究でも、著者数は最大8名程度だった。何れの場合も、私が主なる著者(筆頭或いは連絡先(C.A.))で無い場合、学会発表の代役などとても出来なかった。つまり、共著者になるべきではなかったと言わざるを得ない。
科学研究にとっての古き良き時代は去るとともに共著者の数が増加したが、本質的にその研究を熟知しているのは1人或いは2人だけという研究が現在でもほとんどではないだろうか。
昔は科学者の地位が高く、短期(数年)の時間スケールで評価されることが無かっただろう。そして、経済的にも社会的にも恵まれていたので、科学者も科学界もその本来の姿を保つことが出来ただろうと思う。単名論文が多かったのはそれが理由だろう。現在は、一寸有名な教授なら、ホームページの論文リストに300以上も並べているのをよく見かける。それが異常であると気が付かないようである。現在、論文の数、発表された雑誌のインパクトファクター、論文の被引用回数などを足し算した数値が、研究者の評価に屢々使われる。しかし、研究者が一生の間に出来る、その分野の分厚い総合的な本に残る本当にオリジナルな研究は、優秀な人でせいぜい一つか二つである。
科学研究の社会と一般社会との歪んだ関係が、このような悲しい結果を産む大きな原因であることを、科学行政にある人などを含め多くの関係ある人たちは知るべきである。
注釈)
1) ヤフーの智慧ノートにも同文を1月31日に投降した。
2)実験は数回行い、平均と標準偏差を示しグラフに示すなども、大切な実験解析法である。つまり、再現性と誤差を明示するのである。また、先輩にも遠慮なく疑義を申し立てることなども大切な科学文化である。
3)Nature誌も以前は薄い週刊雑誌であったが、今はNatureをフラッグシップとしてNature Medicineなどの雑誌がおそらく10誌位あるのではないだろうか。尚、open access journalとは投稿料を取り、掲載論文がネット上で公開される雑誌である。
4)学会においてある程度の存在感を示す様になって初めて、編集者から査読(審査)依頼がくる。そのような人はたいてい昼夜を惜しまず頑張っており、一般に非常に忙しい。また、適当な査読者を見つけることは編集者にとっても大変な仕事である。
5)私の大学助手(現在助教)時代、そこのS教授が米国でされた有名な論文の著者欄に、一人しか名前が掲載されていない理由を語ってくれたことがある。所属研究室の教授が、「この研究は良い仕事だが、私は十分学会で発表討論できないので、単名でだしたらどうか」と言ったと言う。古き良き時代のエピソードである。
6)国家を上げて行なう様な巨大な計画では、数十名の共著者の論文があったかもしれない。それは科学的テーマの下で行なわれたとしても、通常の研究ではない。また、目的が定まっている開発研究では、数十名の共同研究は不思議ではない。ある時に分子軌道計算を行なってもらったが、その計算方法(Gaussian 98というプログラム)を引用する際に、50名以上の名前を引用欄に書いたことがある。尚、技術的なサポート(単なる細胞培養など)は謝辞と言う形で名前を入れる習慣があるので、それをもっと用いるべきである。
ここでは、現代の科学研究と社会の関わり、研究者のモラル、科学論文の出版に関するプロセスなどにも問題があると思うので、短いコメントを書く。
先ず、過去20−30年の間の学会の変化として重要なのは、発表される論文数が多くなり、論文の審査が十分行なえない情況にあることである。ネット上のopen access journalなどを含めると、この20年に論文誌の数は5倍程度になったのではないだろうか。因に、open access journalでも審査付きを唱っている。(注3)
科学界に属する者は、論文審査を依頼されたら、十分な時間をかけて審査する(暗黙の)義務を負う。この仕事は自分の研究にさほどプラスにならない上、通常厳しい競争の世界に身を置いているので、真面目に対応すればする程、その負担も大きくなる。(注4)そこで、著名な研究者が共著者として含まれていると、その共著者のチェックがあったものと考えて、どうしても審査が甘くなるのである。また、論文発表するか或いは研究者の世界を去るか(publish or perish)と言われるように、論文の数は研究者としてのキャリヤーアップを実現する上で大切になっている。その結果、あまり重要でない成果や、実験対象が少し変わっただけの論文が多くなり、結果として一人当たりの論文数が非常に多くなっている。更に、電子顕微鏡の測定と解釈を依頼しただけで共著者に加え、自分も同様の協力をした際に共著者に加えてもらうという暗黙の協力関係が研究者間でなされている。これは本来の科学文化にはなく、慎むべきことであることは大抵の人は判っている。しかし、科学研究者と言えでも一定の地位に昇進して行かなければ研究の自由を得る上でも、そして経済的にも大変である。論文リストの厚さが人事選考の重要な決定因子であるのが現実であり、上記慣習から身を遠ざけることは出来ない。
本来は、その論文を学会発表して質疑応答出来る程度に熟知していなければ、共著者に名を連ねるべきではないのである。(注5)「単名論文が多かった昔と比べて、現在は、研究方法が多く且つ複雑になって、研究には多くの人の協力が必須である。そのため、どうしても著者数が増えてしまう。」というのは建前論だと思う。
今回の件では、研究の結果の中で中心的意味を持つ写真について、共著者全員が熟知しているべきでは無かったのかという疑問がわく。つまり、その写真を使わないで講演することは不可能なので、それを熟知していることが共著者の条件であると思う。出版されたあとになってあのような疑惑がでたことは、10数名の共著者が本来の意味での共著者に値しないことを示していると思う。一般論としても、研究が本来の伝統的科学文化の下で行なわれたのであれば、一つの論文に10数名が共著者欄に名を連ねることなどあり得ないのではないだろうか。(注6)基礎的な研究分野(物理化学)に属していた人に、生物関係の事は判らないだろうと言われれば、十分反論出来ないが、私の場合は、論文の著者数は2人−4人の場合が殆どであった。異なる大学などとの共同研究でも、著者数は最大8名程度だった。何れの場合も、私が主なる著者(筆頭或いは連絡先(C.A.))で無い場合、学会発表の代役などとても出来なかった。つまり、共著者になるべきではなかったと言わざるを得ない。
科学研究にとっての古き良き時代は去るとともに共著者の数が増加したが、本質的にその研究を熟知しているのは1人或いは2人だけという研究が現在でもほとんどではないだろうか。
昔は科学者の地位が高く、短期(数年)の時間スケールで評価されることが無かっただろう。そして、経済的にも社会的にも恵まれていたので、科学者も科学界もその本来の姿を保つことが出来ただろうと思う。単名論文が多かったのはそれが理由だろう。現在は、一寸有名な教授なら、ホームページの論文リストに300以上も並べているのをよく見かける。それが異常であると気が付かないようである。現在、論文の数、発表された雑誌のインパクトファクター、論文の被引用回数などを足し算した数値が、研究者の評価に屢々使われる。しかし、研究者が一生の間に出来る、その分野の分厚い総合的な本に残る本当にオリジナルな研究は、優秀な人でせいぜい一つか二つである。
科学研究の社会と一般社会との歪んだ関係が、このような悲しい結果を産む大きな原因であることを、科学行政にある人などを含め多くの関係ある人たちは知るべきである。
注釈)
1) ヤフーの智慧ノートにも同文を1月31日に投降した。
2)実験は数回行い、平均と標準偏差を示しグラフに示すなども、大切な実験解析法である。つまり、再現性と誤差を明示するのである。また、先輩にも遠慮なく疑義を申し立てることなども大切な科学文化である。
3)Nature誌も以前は薄い週刊雑誌であったが、今はNatureをフラッグシップとしてNature Medicineなどの雑誌がおそらく10誌位あるのではないだろうか。尚、open access journalとは投稿料を取り、掲載論文がネット上で公開される雑誌である。
4)学会においてある程度の存在感を示す様になって初めて、編集者から査読(審査)依頼がくる。そのような人はたいてい昼夜を惜しまず頑張っており、一般に非常に忙しい。また、適当な査読者を見つけることは編集者にとっても大変な仕事である。
5)私の大学助手(現在助教)時代、そこのS教授が米国でされた有名な論文の著者欄に、一人しか名前が掲載されていない理由を語ってくれたことがある。所属研究室の教授が、「この研究は良い仕事だが、私は十分学会で発表討論できないので、単名でだしたらどうか」と言ったと言う。古き良き時代のエピソードである。
6)国家を上げて行なう様な巨大な計画では、数十名の共著者の論文があったかもしれない。それは科学的テーマの下で行なわれたとしても、通常の研究ではない。また、目的が定まっている開発研究では、数十名の共同研究は不思議ではない。ある時に分子軌道計算を行なってもらったが、その計算方法(Gaussian 98というプログラム)を引用する際に、50名以上の名前を引用欄に書いたことがある。尚、技術的なサポート(単なる細胞培養など)は謝辞と言う形で名前を入れる習慣があるので、それをもっと用いるべきである。
2014年3月12日水曜日
社会主義化して崩壊する日本
甘利氏の「賃上げに応じない企業に対しては、それなりの対応をする」発言は自由主義経済国閣僚の発言とは思えない。それをまともに議論しない、NHKのニュースセンター(午後9時)の解説者。政治経済担当のニュース解説者なら、この点についてもう少し批判的に議論する筈。安倍さんのNHK会長&経営委員の人選は、このような報道内容にする為のものなのだろう。
そもそも、日銀の異次元の量的緩和は、団塊の世代などの預金及び財政赤字を実質的に減少させ、製造業などの人件費を含む国内のドル換算コストを下げるのが主な目的である(注1)。天然ガスなどの輸入価格の上昇に加えて、人件費を上げさせれば、国内製造コストは再び上昇し、輸出企業の競争能力は元にもどる。実際、貿易赤字は相当に厳しく、経常赤字が続く可能性が高い。無茶苦茶ではないだろうか?(注2)唯一の日本の強みは債権国家であることだが、その地位から双子の赤字で転落して、日本崩壊のカウントダウンが始まる。米国の著名な投資家であるジム・ロジャーズ氏によると、安倍さんは日本を崩壊の方向に導いていると言っている。 (注2)この1年で、老後の備えに何とか残すことが出来た少ない預金も、更に30%以上ドル換算で減少してしまった。私は素人だが、ジム・ロジャーズ氏の言葉が、そのままストレートに頭に入る。安倍総理&黒田日銀総裁には、ジム・ロジャーズに反論してもらいたい。出来るなら。
注釈:
1)エール大学の浜田名誉教授の本(昨年のブログで紹介すみ)に明確にそう書かれている。
2)更に異次元の量的緩和で円安誘導すれば良いではないかと言う考え方かもしれない。団塊の世代は子供にも捨てられて(週刊現代、今週発売)、貯金も取り上げられ、孤独のなかで目に入るのはロープと鴨居ということになる。
3)上手くreferできていないかもしれないのでアドレスを紹介する。(http://jp.reuters.com/video/2014/02/25/ジム・ロジャーズ氏インタビュー-アベノミクスの行方-?videoId=283425049&videoChannel=201)(http://jp.reuters.com/video/2013/05/28/「アベノミクスには反対」-米著名投資家ジム・ロジャーズ氏インタビュー28日?videoId=243026602)など。
そもそも、日銀の異次元の量的緩和は、団塊の世代などの預金及び財政赤字を実質的に減少させ、製造業などの人件費を含む国内のドル換算コストを下げるのが主な目的である(注1)。天然ガスなどの輸入価格の上昇に加えて、人件費を上げさせれば、国内製造コストは再び上昇し、輸出企業の競争能力は元にもどる。実際、貿易赤字は相当に厳しく、経常赤字が続く可能性が高い。無茶苦茶ではないだろうか?(注2)唯一の日本の強みは債権国家であることだが、その地位から双子の赤字で転落して、日本崩壊のカウントダウンが始まる。米国の著名な投資家であるジム・ロジャーズ氏によると、安倍さんは日本を崩壊の方向に導いていると言っている。 (注2)この1年で、老後の備えに何とか残すことが出来た少ない預金も、更に30%以上ドル換算で減少してしまった。私は素人だが、ジム・ロジャーズ氏の言葉が、そのままストレートに頭に入る。安倍総理&黒田日銀総裁には、ジム・ロジャーズに反論してもらいたい。出来るなら。
注釈:
1)エール大学の浜田名誉教授の本(昨年のブログで紹介すみ)に明確にそう書かれている。
2)更に異次元の量的緩和で円安誘導すれば良いではないかと言う考え方かもしれない。団塊の世代は子供にも捨てられて(週刊現代、今週発売)、貯金も取り上げられ、孤独のなかで目に入るのはロープと鴨居ということになる。
3)上手くreferできていないかもしれないのでアドレスを紹介する。(http://jp.reuters.com/video/2014/02/25/ジム・ロジャーズ氏インタビュー-アベノミクスの行方-?videoId=283425049&videoChannel=201)(http://jp.reuters.com/video/2013/05/28/「アベノミクスには反対」-米著名投資家ジム・ロジャーズ氏インタビュー28日?videoId=243026602)など。
2014年3月8日土曜日
佐村河内氏を”障害者支援思想”を冒涜するとして批難する資格は一般人にも無い。
佐村河内氏の会見をテレビで見た。相当長い時間の会見だったので、かなりのことが判った気がする。全体的に見て入念に準備したあとの会見のようであり、”誠意ある”と形容することも出来るだろう。聴覚の障害は脳波検査を含めて行なわれており、その診断書の詳細はNHKのネット記事にある。(注1)そこには、記者会見での佐村河内氏の発言内容と同じことが書いてある。“感音性難聴”で聞き取り能力が約50dBということで、静かな環境でマイク等を用いればかなり聞き取れるとのことである。佐村河内氏は、聴力は3年前よりかなり回復したとのことである。医者によると、2級の障害からの回復は殆ど考えられないとのことであるが、佐村河内氏の声は彼が”耳鼻科的にかなり病的な人”であることを示しており、詳細な調査が無ければ簡単に判断できないのではないか。つまり、難聴の原因疾患として耳鼻科的病変があれば、その回復の程度により聴力も回復することも考えられるかもしれないと思うからである。(注2)一概に佐村河内氏の会見内容を否定することは、非科学的態度であると考える。また、統計に頼る場合、個々の原因疾患或いはそれが不明なら、症状別に分類されたケースにおいて、データ数が十分なければ回復の可能性の有無に関して証明できないと思う。
ところで、会見の中で佐村河内氏が「あまりにも大きくなり過ぎた作曲家としての自分に戸惑いを感じた」(証言通りではなく、証言の意味を書いています。)と語ったことがこの“事件”を理解する鍵であると思う。つまり、新垣氏がマスコミの中でゴーストライターであったことを発表した背景には、佐村河内氏が現代のベートーベンという様に言われる位に大きな存在になったことがあったと思う。つまり、自分達の犯罪的行為もそれに比例して大きくなり、耐えられなくなったのだろう。「あと二曲で引退しますから」という佐村河内氏の申出を受け入れずに単独のあのような会見になったようである。このまま進めば何れ沈没する舟から逃げるタイミングについての考え方が、二人でかなり異なったのである。あのように単独で突然にマスコミの前に立ったのは、新垣氏が自分だけが助かろうとした様に私には見える。ゴーストライターの件に関して罪があったのなら、そして共犯であると言ったのだから、二人でその罪を背負うべきである。
新垣氏が、「難聴であったとは考えられない」という言い方で、佐村河内氏の人格を否定する発言をしたことは、自分の才能が佐村河内氏に搾取されたことに対する怒りによるものと考え、そのように二月七日のブログを書いたが、それは全くの間違いであった。その台詞は、自分では共犯であったと言いながら、主犯は(或いは犯人は)佐村河内氏であるとする為のものであり、私には卑怯な行為に見えた。
さて、ここで言いたいのは、何故佐村河内氏が大きな存在になったかということである。交響曲第一番「ヒロシマ」の音楽的な評価は、オリジナリティーに欠ける部分があるとのものが支配的な様である。それでも大きな名前になったのは、彼が聴覚障害者であったからだと思う。つまり、一般大衆が、そしてそれにサービスするマスコミが、そのような“障害者である偉大な作曲家”を欲したのである。(注3)そして、佐村河内氏が生活の為に始めた作曲(自分で行なった小品+新垣氏をつかって作り上げた大作)で高収入を得る手段として、マスコミと自分達共同で、その虚像を作り上げ演じ続けたのである。ただ、誤算は、世界的と言える程に、その名前が大きくなりすぎたことであった。
つまり、佐村河内氏一人を生け贄にして、新垣氏もマスコミも、そしてその土壌をつくっている一般市民も、無罪の安全地帯に逃げ込もうとしているのである。それは卑怯ではないですか?と言いたい。(注4)
注釈:
1)NHKのネット配信記事: http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140307/k10015806921000.html
尚、表題の”障害者支援を冒涜する”は書き方が難しい箇所である。冒涜は神聖なるものを汚すことなので、http://masatorend.com/384.htmlにあるように、障害者と被災者への冒涜という表現は日本語的におかしい。このネットニュースの表題が正しい表現だとすると、障害者や被災者を神聖なるものとして尊崇しなければならない。
2)この説は医者からは一笑に付されるかもしれない。しかし、私の経験では、医者は一般的なケースでは知識を持っているだろうが、特殊なケースには極めて無力だと思う。それは一日に何人もの患者を相手にしなければならないからである。 3)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12121061797 に面白いまとめが書かれています。つまり、“障害者である偉大な作曲家”を欲した著名人達の交響曲第一番に関する感想と実際の(新垣氏本人の評価も含めて)プロの評価の乖離がよくまとめてあります。新潮の記事を読めば、もっとわかるかもしれません。
4)いままで18年間騙し続けたのだから、そして、何れバレるのだから、月刊誌新潮に記事が出たからと言って一人だけ残して沈没する舟から、夜中逃げ出すのは卑怯だ。また、これ以上”悪事”を重ねたくないのなら、作曲の依頼があっても受けなければ良い。自殺するといって脅かしたと言うが、佐村河内氏は自殺せずにアイデアが浮かないと言って、苦悶の姿勢をテレビの前で演じるて乗り切ることが可能である。むしろ、今回の様な形で一人だけ悪者にされた方がその確率は高くなる。
補足:
障害を持ってうまれることは不運である。悪い顔でもって生まれることも不運である。美人に生まれるのは幸運である。お金持ちに生まれるのも幸運である。そして、その運が人生を大きく支配する。人間はそれら個人個人に与えられた運を甘受せざるを得ない。その人間としての宿命を承知して、他人を見下したり、自分を卑下したりしないことが、人間としての義務である。 (3/8午前7:30;11:50注3修正、補足を追加)
ところで、会見の中で佐村河内氏が「あまりにも大きくなり過ぎた作曲家としての自分に戸惑いを感じた」(証言通りではなく、証言の意味を書いています。)と語ったことがこの“事件”を理解する鍵であると思う。つまり、新垣氏がマスコミの中でゴーストライターであったことを発表した背景には、佐村河内氏が現代のベートーベンという様に言われる位に大きな存在になったことがあったと思う。つまり、自分達の犯罪的行為もそれに比例して大きくなり、耐えられなくなったのだろう。「あと二曲で引退しますから」という佐村河内氏の申出を受け入れずに単独のあのような会見になったようである。このまま進めば何れ沈没する舟から逃げるタイミングについての考え方が、二人でかなり異なったのである。あのように単独で突然にマスコミの前に立ったのは、新垣氏が自分だけが助かろうとした様に私には見える。ゴーストライターの件に関して罪があったのなら、そして共犯であると言ったのだから、二人でその罪を背負うべきである。
新垣氏が、「難聴であったとは考えられない」という言い方で、佐村河内氏の人格を否定する発言をしたことは、自分の才能が佐村河内氏に搾取されたことに対する怒りによるものと考え、そのように二月七日のブログを書いたが、それは全くの間違いであった。その台詞は、自分では共犯であったと言いながら、主犯は(或いは犯人は)佐村河内氏であるとする為のものであり、私には卑怯な行為に見えた。
さて、ここで言いたいのは、何故佐村河内氏が大きな存在になったかということである。交響曲第一番「ヒロシマ」の音楽的な評価は、オリジナリティーに欠ける部分があるとのものが支配的な様である。それでも大きな名前になったのは、彼が聴覚障害者であったからだと思う。つまり、一般大衆が、そしてそれにサービスするマスコミが、そのような“障害者である偉大な作曲家”を欲したのである。(注3)そして、佐村河内氏が生活の為に始めた作曲(自分で行なった小品+新垣氏をつかって作り上げた大作)で高収入を得る手段として、マスコミと自分達共同で、その虚像を作り上げ演じ続けたのである。ただ、誤算は、世界的と言える程に、その名前が大きくなりすぎたことであった。
つまり、佐村河内氏一人を生け贄にして、新垣氏もマスコミも、そしてその土壌をつくっている一般市民も、無罪の安全地帯に逃げ込もうとしているのである。それは卑怯ではないですか?と言いたい。(注4)
注釈:
1)NHKのネット配信記事: http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140307/k10015806921000.html
尚、表題の”障害者支援を冒涜する”は書き方が難しい箇所である。冒涜は神聖なるものを汚すことなので、http://masatorend.com/384.htmlにあるように、障害者と被災者への冒涜という表現は日本語的におかしい。このネットニュースの表題が正しい表現だとすると、障害者や被災者を神聖なるものとして尊崇しなければならない。
2)この説は医者からは一笑に付されるかもしれない。しかし、私の経験では、医者は一般的なケースでは知識を持っているだろうが、特殊なケースには極めて無力だと思う。それは一日に何人もの患者を相手にしなければならないからである。 3)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12121061797 に面白いまとめが書かれています。つまり、“障害者である偉大な作曲家”を欲した著名人達の交響曲第一番に関する感想と実際の(新垣氏本人の評価も含めて)プロの評価の乖離がよくまとめてあります。新潮の記事を読めば、もっとわかるかもしれません。
4)いままで18年間騙し続けたのだから、そして、何れバレるのだから、月刊誌新潮に記事が出たからと言って一人だけ残して沈没する舟から、夜中逃げ出すのは卑怯だ。また、これ以上”悪事”を重ねたくないのなら、作曲の依頼があっても受けなければ良い。自殺するといって脅かしたと言うが、佐村河内氏は自殺せずにアイデアが浮かないと言って、苦悶の姿勢をテレビの前で演じるて乗り切ることが可能である。むしろ、今回の様な形で一人だけ悪者にされた方がその確率は高くなる。
補足:
障害を持ってうまれることは不運である。悪い顔でもって生まれることも不運である。美人に生まれるのは幸運である。お金持ちに生まれるのも幸運である。そして、その運が人生を大きく支配する。人間はそれら個人個人に与えられた運を甘受せざるを得ない。その人間としての宿命を承知して、他人を見下したり、自分を卑下したりしないことが、人間としての義務である。 (3/8午前7:30;11:50注3修正、補足を追加)
2014年3月2日日曜日
日本政治&国民の幼児化
最近のテレビで報道される日本外交についての議論に、日本人の特性がよく表れている。端的に言えば、幼児的であると思う。マッカーサーが日本の民主政治は12歳までしか成長していないと言って日本国内で問題(さわぎ)になったことがある。しかし、これは米国議会において、日本を成熟している筈のドイツと比べて擁護する趣旨でなされた発言だということになっている。(注1)しかし、その後50年程たっているが、あまり成長せずに12歳のままではないかと、最近のテレビを見て思うのである。その原因は、もっと深刻な“日本人の精神年齢=12歳”ではないだろうか。マッカーサーの頭の中にもこのことはきっとあっただろうと思う。
何故このようなことを言うかというと、最近のテレビで外交を論じた番組で、「韓国の大統領は親日だと思ったが、反日であった」とか、「米国の共和党は親日的だが、民主党は親中国的だ」というタイプの発言が頻繁になされるからである。国際政治において諸国家の指導者は、自分、自分の所属する政党、そして、自国の利益を計算して動いている。もちろん、個人的な好み“親日とか反日”は、その計算のパラメータに若干反映するが、通常は刻々変化する国際環境を主たるパラメータとして計算されると思う。日常の生活において人々は、(過度に感じる)親切な態度には裏があると思うのが常であるのに、その知性を何故外交を論じる際にも用いないのだろうかと思う。(注2)つまり、米国の親日にも当然ながら理由があり、それを国際政治経済の観点から考察しなければならないということである。そして、最近その米国の対日姿勢がゆっくりではあるが、大きく変化しているのではないだろうか。
戦後、日本に基地を置く根拠として日米安全保障条約が結ばれた。1960年、名称も内容も日本が独立国家であることを認める方向に改訂された。「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の”相互協力”の部分が、冷戦下において極東の力のバランスを保つため、日本に軍をおく必要のあったアメリカに利益をもたらした。しかし、安保条約改定後50年目に、「日本国の安全保障に対する米国の関与は揺るぎないものである」というオバマ大統領の発言は、極東もほとんど資本主義経済圏になった現在、その利益が縮小している事を示唆している。長年日本の与党にあった自民党は、上記条約の”安全保障条約”の方にすがりつくことにより、一人前の国家になる為に通過すべき憲法改正という道を避けてきた。憲法改正の声を上げれば、かなりの幼児的有権者(注3)とそれを煽動する諸外国の批難を浴び、結果として個々の議員が国会での議席を失うことを恐れてきたのである。彼らの利己的及び無能な態度が、日本国民に、平和も安全も経済的豊かさも、天から降ってくるような錯覚を持つ”政治的幼児性”を根付けさせたのだろう。
話は変わるが、日本女子がオリンピックのスケート競技で金メダルを取れないだろうと、酒井順子さんという方が(オリンピック前に作成した原稿で)予言した。その理由は、彼女ら一流選手達でさえ、その表情はロシア人の選手や韓国の選手に比べて、幼いというのである。(注4)その原因として、日本人女性はしっかりした大人になることへの躊躇があるというのである。「優しく無邪気に、他者に従う空気をまとわないと、異性からも選ばれ難いからである」と書かれている。しかし、女性だけ大人になりきれないというのは極論のように思う。例えば、女性の会社役員としての進出率は日本と韓国で大差なく、両方とも非常に低いが、筆者の指摘のとおり、韓国の選手は大人っぽく見える。従って、幼児っぽいのは女性だけではない。最近のテレビを見ていると、頻繁に男も女も涙を流す場面が出てくる。まるで、涙を流さないと非人間的だと思われることが、(人気商売で飯を喰っている人間として)恐ろしく感じるのかもしれない。昨日も明治大学の斉藤孝教授と会った人気アナウンサーで大学で教え子だったA氏が、斉藤教授から手紙を読んでもらって、涙を流している場面が映されていた。あの才能豊かでしっかり者のAアナウンサーがである。(注5)
つまり、冒頭で書いたように、上記政治的幼児性がマッカーサー以後50年経って、いまや全人格的幼児性に転化したのではないだろうか。韓国では、若者が2年間の兵役後見違える様に大人びるとのことである。また、日本にも昔、若者の為に通過儀礼があった。日韓の若者に表れている幼児性の差は、この通過儀礼が日本に無いことが原因かもしれない。
日本は、外部からの予想される侵略と、内部からの国民の幼児化とにより、崩壊に向かっている。
注釈:
1) ネットからの孫引きですが:http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/14926315.html
2)私は以前、「北朝鮮という存在は、拉致問題を抜きにすれば、結果的に日本の利益になっている」という趣旨の文章を書いたことがある。それは、日本の国家として体を為していないことを、何処の国よりも厳しく教えてくれるからである。
3)米国占領軍が日本に来た時、多数の日本国民は新しい統治者を歓迎した。(橘玲著、(日本人)7章)この反戦、反日本政府の体験と、政府の軍隊が無くてもこの70年間安全であったという幸運が、日本人を政治的に幼稚にしたと思う。
4) 週刊現代、3月8日号80頁
5)テレビに出て飯を喰っている連中は、視聴者の要求を敏感に察知してその役を演じる。現代日本では、この場面ではしっかり者の司会者でも涙が要求されるのである。
何故このようなことを言うかというと、最近のテレビで外交を論じた番組で、「韓国の大統領は親日だと思ったが、反日であった」とか、「米国の共和党は親日的だが、民主党は親中国的だ」というタイプの発言が頻繁になされるからである。国際政治において諸国家の指導者は、自分、自分の所属する政党、そして、自国の利益を計算して動いている。もちろん、個人的な好み“親日とか反日”は、その計算のパラメータに若干反映するが、通常は刻々変化する国際環境を主たるパラメータとして計算されると思う。日常の生活において人々は、(過度に感じる)親切な態度には裏があると思うのが常であるのに、その知性を何故外交を論じる際にも用いないのだろうかと思う。(注2)つまり、米国の親日にも当然ながら理由があり、それを国際政治経済の観点から考察しなければならないということである。そして、最近その米国の対日姿勢がゆっくりではあるが、大きく変化しているのではないだろうか。
戦後、日本に基地を置く根拠として日米安全保障条約が結ばれた。1960年、名称も内容も日本が独立国家であることを認める方向に改訂された。「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」の”相互協力”の部分が、冷戦下において極東の力のバランスを保つため、日本に軍をおく必要のあったアメリカに利益をもたらした。しかし、安保条約改定後50年目に、「日本国の安全保障に対する米国の関与は揺るぎないものである」というオバマ大統領の発言は、極東もほとんど資本主義経済圏になった現在、その利益が縮小している事を示唆している。長年日本の与党にあった自民党は、上記条約の”安全保障条約”の方にすがりつくことにより、一人前の国家になる為に通過すべき憲法改正という道を避けてきた。憲法改正の声を上げれば、かなりの幼児的有権者(注3)とそれを煽動する諸外国の批難を浴び、結果として個々の議員が国会での議席を失うことを恐れてきたのである。彼らの利己的及び無能な態度が、日本国民に、平和も安全も経済的豊かさも、天から降ってくるような錯覚を持つ”政治的幼児性”を根付けさせたのだろう。
話は変わるが、日本女子がオリンピックのスケート競技で金メダルを取れないだろうと、酒井順子さんという方が(オリンピック前に作成した原稿で)予言した。その理由は、彼女ら一流選手達でさえ、その表情はロシア人の選手や韓国の選手に比べて、幼いというのである。(注4)その原因として、日本人女性はしっかりした大人になることへの躊躇があるというのである。「優しく無邪気に、他者に従う空気をまとわないと、異性からも選ばれ難いからである」と書かれている。しかし、女性だけ大人になりきれないというのは極論のように思う。例えば、女性の会社役員としての進出率は日本と韓国で大差なく、両方とも非常に低いが、筆者の指摘のとおり、韓国の選手は大人っぽく見える。従って、幼児っぽいのは女性だけではない。最近のテレビを見ていると、頻繁に男も女も涙を流す場面が出てくる。まるで、涙を流さないと非人間的だと思われることが、(人気商売で飯を喰っている人間として)恐ろしく感じるのかもしれない。昨日も明治大学の斉藤孝教授と会った人気アナウンサーで大学で教え子だったA氏が、斉藤教授から手紙を読んでもらって、涙を流している場面が映されていた。あの才能豊かでしっかり者のAアナウンサーがである。(注5)
つまり、冒頭で書いたように、上記政治的幼児性がマッカーサー以後50年経って、いまや全人格的幼児性に転化したのではないだろうか。韓国では、若者が2年間の兵役後見違える様に大人びるとのことである。また、日本にも昔、若者の為に通過儀礼があった。日韓の若者に表れている幼児性の差は、この通過儀礼が日本に無いことが原因かもしれない。
日本は、外部からの予想される侵略と、内部からの国民の幼児化とにより、崩壊に向かっている。
注釈:
1) ネットからの孫引きですが:http://blogs.yahoo.co.jp/jjtaro_maru/14926315.html
2)私は以前、「北朝鮮という存在は、拉致問題を抜きにすれば、結果的に日本の利益になっている」という趣旨の文章を書いたことがある。それは、日本の国家として体を為していないことを、何処の国よりも厳しく教えてくれるからである。
3)米国占領軍が日本に来た時、多数の日本国民は新しい統治者を歓迎した。(橘玲著、(日本人)7章)この反戦、反日本政府の体験と、政府の軍隊が無くてもこの70年間安全であったという幸運が、日本人を政治的に幼稚にしたと思う。
4) 週刊現代、3月8日号80頁
5)テレビに出て飯を喰っている連中は、視聴者の要求を敏感に察知してその役を演じる。現代日本では、この場面ではしっかり者の司会者でも涙が要求されるのである。
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