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2014年3月29日土曜日

捏造について

  捏造とは実際には無かったことを事実のように仕立て上げることである。ある何かに関して捏造疑惑が持ちあがれば、その時点では、“捏造”も“事実”も殆ど同程度に危うい存在であることになる。
 最近捏造が話題になることが多い。現代のベートーベンやスタップ細胞なども、その“捏造疑惑”によってテレビのワイドショーに大きく貢献した。また、より深刻な例としては、袴田事件における検察の証拠捏造(疑惑)がある。これは今後上級審での判断をあおぐことになるが、私の直感では捏造は間違いなくあったと思う。袴田“元死刑囚”には、本当に気の毒なことであり、我々は捏造の被害者でなく、且つ、この社会の構成員である以上、捏造をした側の一員にとして出来るだけの償いを袴田さんと彼の家族にしなければならないと自覚すべきだろう。上級審もいさぎよい決断をしてほしいものである。この種の捏造疑惑を出来るだけ少なくする様に、最新技術を導入するなどして犯罪捜査の技術向上に努めるべきである。しかし、それでもこの種の事件はある程度の確率で今後とも出現するだろう。人には真実を知る十分な能力に欠けることが背景となり、常に捏造の罠にはまってしまう危険性があるからである。また、100%の人が納得するだけ十分な証拠がある事件の容疑者だけを有罪とするのなら、司法は成り立たないだろうし、社会の枠組みは崩れるだろう。そして、そのような”絶対”を期するのなら、裁判において検察側、弁護側、裁判官の3つもの機能の必要性はない。
 ここで特に言及したいのは、マスコミ報道によく現れる、“社会の根幹に拘るので、公機関によるこの種の捏造事件は、絶対あってはならない”という趣旨の意見である。私は、この発言に、マスコミに生きる人たちの知性の無さ、或いは、無責任さを感じる。(注1)それは、「現実に、我々は捏造(と偽造)の中に産まれ、そして、生きている」、或いは別の表現を用いれば、「捏造と真実の明確な区別のできない社会空間に生きている」からである。
 捏造を善きこととして肯定しているのではない。袴田事件では、証拠捏造した検察の人間が特定出来れば、厳罰に処すべきである。しかし、その捏造と処罰のプロセスは、どこか借金しなければ生活出来ない人の借金とその中の一部の人の破産処理に似ている。つまり、日々辛うじて生きている我々と(注2)、その為に存在する我々の社会が、捏造によって辛うじて体裁を保って来たのではないか?ということである。そのしわ寄せが袴田事件であり、そしてその他表に出ない多くの捏造を含めて、それらの犠牲により我々は安心や平和という住処を安普請的に建築し、生きているのだと思う。個人内部での様々な自己完結型の捏造は問題が少ない。しかし、社会における捏造は、社会が一つの生命体でなく、多くの個人により構成されているので大きな問題である。個人は、独自の意識を持ち、夫々が生きる権利を主張出来る存在であるからである。社会全体の動きの中で生じた捏造(注3)により被害を受けた個人は、突然津波に飲み込まれるような不条理の中で苦しむことになる。それ以外の幸運な人間は、出来るだけの償いをしなければならないと思うのである。そして、その不運は明日の自分の姿かもしれない。(注4)
   我々が生まれたのも、神が創造した“愛”の結果である。その“愛”も多くの場合、勘違いか捏造或いは偽造の産物に過ぎない。つまり、愛は本来他者を大切に思う感情であるが、自己の欲望と利益を他者に求める為の物乞行為を、愛として捏造する場合も多い(注5)。また、我々の国家の歴史を記した、日本書紀や古事記も多くの捏造を含む書物であると考えられる。(注6)そして、“万世一系”の天皇を頂く2674年の歴史を捏造し、その偽りの誇りの中でナショナリズムを醸成している。英米から輸入した民主主義も、その本来の形は“人民の意志”を社会の裏で捏造し、それに人民(市民、有権者)が気付くことの無い様に工夫された、極めて複雑な政治体制かもしれない。これらの捏造を「捏造はあってはならない」と切り捨てるのは、それを人々の生活を保ったままで減少させる努力をせずに、自分だけ安心安全の地に逃亡する行為だと思う。
   政治や司法において捏造を産むのは、我々が期待する、平和、安全、機会均等などの社会の諸機能と、個人の生活や権利という、二つ実体の持つ価値が、同時に毀損することなく実現できるのかどうか、という根本的な問題に関係していると思う。この広い範囲で、不正を防ぐ或いは最小限にするメカニズムを完成するには、個人と、社会、もっと広く国際までの範囲で耐えうる論理的思想を、政治や司法において実現することが不可欠である。つまり、日本語という非論理的な言葉を用いていることや、人治国家である東アジアの政治体制の危うさを、十分自覚することが特に我国では大切であると思う。
 社会における捏造は極力少なくすべきである。つまり、上記表現での"平和と安心という住処の構造"を強化すべきである。しかし捏造や捏造的なものを、完全に無くすることが可能であると考えるのは幻想であり、常に捏造の危険性に対して緊張感を失ってはならないと思う。
 
注釈:  1) 同じ様な感覚を、政治問題における所謂左翼の方々の意見を聞いた時に持つ。
2)人は内部でいろんな捏造や誤摩化しにより、心の平安を保って生きていると思う。多くの”納得”は真実の徹底的追及を放棄して自分が痛むことを防いでいる。そのプロセスの中には必ず或る種の捏造が存在すると思う。
3)社会の安定は、社会に一定以上の信用が無ければ成立しない。そして信用が不足しそうな場合、ここでは国家の司法の、”世の中の正義を護ると言う信用”が不足した場合、事件解決の(捏造を積極的にする訳ではないが)圧力が生じるのだと思う。他にも、国の政策では官僚達が立案し国会議員が審議する振りの後、採決して決めている。あたかも民意によって国が運営されているように民主主義を捏造し、社会の安定を保っている。また、戦争時には国家あっての個人であるという国家主義を国民の頭の中に捏造して、徴兵した。そのための道具が靖国神社ではないだろうか?古来、下級武士を神社に祀った例等無いとおもうが。。
4) ちょっと仏教的臭いがする理解です。
5) 自分の利益を考えて、他者を大切に思うことを、愛と感じる場合が多い。しかし、本当の愛は、自分の利益に無関係に他者にむけられたいつくしみの感情だと思う。或いは、本物の愛(アガペー)は、人にとっては夢想か誤解の類いかもしれない。
6) 岡田英弘著、「歴史とは何か」(文春新書)参照。私には非常に優れた学者に感じられるこの著者は、一般の理解と異なって古事記を日本書紀を元にして、書き換えられたものと解説している。

1 件のコメント:

  1. そうです。マスコミによる捏造は極力防止すべきです。

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