国の政治家はどのような仕事をするのだろうか? そんな疑問が、内藤國夫著「悶死 中川一郎壊死事件」を読んだ時心に浮かんだ。教科書に記述があれは、「政治家の仕事は、国家の政策と予算を議論及び決定すること」と書かれているだろう。国民の議論がそこまでなら、氷山にぶつかるかもしれない日本国という船を救えないと思う。
1)一週間ほど前に、たまたま中川一郎の死の謎を議論したyou—tube動画を見た。その動画は、14年後の検証というふれこみでテレビ朝日から放送された「驚き桃の木20世紀」(1997/4/18放送)からの抜粋である。しかし、中途半端な推理は逆に謎を深めるだけだったので、その批判文を数日前にブログにかいた。先ず、それに補足することで表記の私の持った問題意識を説明したい。(
13日投稿の記事参照)
中川一郎の死の謎をもう少し追求すべく読んだのが、上記内藤國夫氏著の本である。この本でも、最終的な真理は闇の中という結論なのだが、一定の枠の中に問題を追い詰めている。つまり、中川、中川の妻、鈴木宗男筆頭秘書のいわば“三角関係”と日本の政治の特殊性が、中川を死に導いた原因である。(補足1)テレビ朝日が上記番組で紹介したCIAやソ連の工作などとの関連は、中川の死のドラマを一般にも面白くするために、番組が持ち込んだものだろう。
この件は、次のように考えると説明可能だと思う。中川とその筆頭秘書である鈴木宗男の作る政治家チームは互いの弱点を補って優秀な政治チームとなった。しかし、そのチームが日本の政治で頭角を現すに伴って、周囲の欲望と期待は、坂道を転げる雪だるまのように大きくなった。坂道を転げる雪だるまは、最後は分解してしまうように、中川は自分で死を選ぶことになったのだと思う。つまり、中川一郎個人の実力を超えるスピードで出世街道を走ってしまったと言うことになるだろう。
中川の仕事は国の政治であるが、地元の期待に答えることもそれと同様或いはそれ以上に、大切に考えなければならないのが日本民の政治家の宿命である。その欲望と期待は、後援会を構成する有力者の私的な利益とも絡んだ地域のものであり、その政治チームでは担いきれないものが多かった。そして、その地元にとって不満足な処理をするのは、秘書の役割であった。そこで地元後援会周辺が、秘書の鈴木を中川との間の障害として憎んだ。そして、次に彼等が利用しようとしたのが中川の妻貞子である。妻は、中川の分身として自分も偉くなったと勘違いするのは、想像に難くない。地元後援会周辺の声が中川に届かないのが、筆頭秘書である鈴木宗男の出しゃばりの所為と考えて、夫の仕事上の分身を夫から切り離そうとした。それが、夫婦仲が険悪になる原因だったのだろう。(補足2)
中川の妻は、美人であり人並み以上の頭脳を持っていたが、その能力は上記のような環境で夫の中川を助ける方向ではなく、潰す方向に働いたのである。中川は睡眠のために抗うつ剤を妻から受取り、アルコールとともに常用することになった。元々見かけとは逆に繊細な神経を持つ中川は、総裁予備選での惨敗とそれによる派閥の減少を一時的な現象であると知性で理解する一方、沈み込む感情と荒んだ身辺の環境とを持て余したのだろう。(補足3)
秘書鈴木を切れば “評価の高い政治チーム”は破壊されるし、鈴木を切らなければ家庭が破壊されるのである。家庭の破壊は、人気商売の政治家の命取りになる。デッドロックである。
その中川の自殺の場面では、直接的或いは間接的に中川夫人や後援会の中心人物が重要な役割をしている可能性もある。しかし、真実は道警を巻き込んだ死因隠しにより闇の中に葬られた。(補足4)謎の死の方が、将来の総理の死として相応しいのかもしれない。尚、前回紹介したテレビ朝日の放送は、新たにソ連の中川への工作を取り上げて面白く番組を作り上げたのだろう。(13日のブログ記事参照)
2)次に日本の政治家のあり方について少し書きたい。ドブ板選挙という言葉がある。各戸の前の側溝を跨いで直接有権者一人一人に会って支持を訴える選挙戦術である。現在、戸別訪問は禁止されているので、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求める等も、ドブ板選挙の範疇に入る。
ドブ板選挙を推奨した元首相田中角栄の言葉に、「歩いた家の数しか票は出ない。手を握った数しか票は出ない。」がある。現在では角栄の影響を強く受けた小沢一郎などの政治家が、自グループの候補者にドブ板選挙を積極的に勧めている。(補足5)上記田中の言葉は、田中の鋭い感覚と経験からくるのだろうが、政治そのものには無関心な大衆の本質を形容した言葉とも考えられる。
日本の政治を現す言葉「地盤、看板、カバン」がある。この、地盤を固めるために田中はドブ板選挙が有効であると主張したのである。地盤とは、後援会組織である。看板とは有名であること、そしてカバンは選挙資金である。政治化二世、芸能人、スポーツ選手などが有力候補となるのは、このことばから自明である。政治家が地盤を利用して当選するのなら、その地盤が政治家を利用しようとするのは当然である。
その日本的政治の遺物は至る所に見つかるだろう。例えば、中川一郎に政治家の道を開いた大野伴睦の銅像が新幹線岐阜羽島駅近くに作られている。その駅が大野伴睦の働きで出来たからである。その地盤は、大野伴睦の死後息子により、息子の死後、その妻により夫々継承された。
上記本の第二章にこのような記述がある。「中川事務所で秘書たちが休めるのは、年に10日前後しかない。平日には他の事務所では考えられないほど、凄まじい数の陳情客や来客、それに殆ど鳴りっぱなしの電話で忙殺される」(p58)国家と世界のことを考えるべき国会議員の事務所が、地元の陳情客の対応に忙殺されるのである。しかも将来の総理大臣候補の事務所こそが、そのような情況に追い込まれる。
多くの政治家(特に自民党の政治家)たちは秘書たちと共に、コネを利用しようとする地元の人たちへ対応する日常にありながら、天下国家のことを考えるべき総理大臣の椅子を目指すのである。それは、優秀なる政治家そして総理総裁を一億の国民から選び出すという民主政治の理想形とは、程遠い政治文化である。カバンは政治資金規正法と政党助成金により相当存在感が薄くなったかもしれない。しかし、地盤と看板とは依然威光を放っている。
米国やヨーロッパ等でもそれぞれ独特の政治文化が存在するだろう。欧米など先進国でも民主政は形式的に成立しているに過ぎない。完全な民主政治など世界の何処を探しても存在しない。その形式的民主政のトップランナーの米国では、支配層が大衆は愚鈍であるとの前提で動いているのである。それを思わず口にしてしまったのが、米国のブレジンスキー元大統領補佐官である。
https://www.youtube.com/watch?v=Us9hLRvZ5uc
著名な政治学者であったブレジンスキーは、政治に目覚めた大衆を恐れた。それは、上記サイトでの発言を見れば分かるように、自分たちが政治の実権を失うからである。しかし、大衆が政治に目覚めれば、別のメカニズムで世界の政治が混乱する可能性があると私は思う。政治に目覚めた大衆は、個を主張し始めた羊の群れのように統制を失って迷走するのである。(補足6)
インターネットは個人に処理能力以上の情報を供給する。そして、基礎的知性を持たないままで、偏った分野において詳細な情報を獲得する人が多くなるだろう。その結果、人間は太古に獲得した協調的社会からも放逐されて、大声で噛み合わない主張を繰り返すバラバラの集団となる可能性がたかい。最終的に生き残るのは、中国のような独裁制を残した国ではないだろうか。
補足:
1)一般に何かが生じたとして、それを「原因と結果と背景」で記述するのはなかなか困難である。例えばサーカスの綱渡りで落下死亡する事故があったとして、その原因を昨夜の疲労に求めることも可能だが、観客の一声に気持ちが揺らいだのかもしれない。また、物理学者なら地球の引力に根本原因を求めるかもしれない。昨夜の疲労も、足の水虫も、靴の出来具合も、観客の様子も、全てを記述して始めて、その事故を知ることになる。しかし裁判では、上記「原因と結果と背景」のパターンに事故或いは事件を押し込むことが不可欠である。
2)自殺の2年後に出た「文藝春秋」85年1月号には貞子夫人が死の引き金は鈴木氏だとし、「鈴木、よくも、この俺を刺したな!!お前に、俺は殺された。俺は死ぬしかない」と怒鳴り、20~30回殴り続けた、といった内容の手記を発表。また、中川一郎の長男である中川昭一氏の妻の中川郁子氏が、貞子さんが明かしたのと同じ光景を目撃したと、「文藝春秋」2010年10月号の中で「義父中川一郎、昭一『親子連続怪死』の全真相」に書いているという。これらの文章を読んでは居ない。しかし、より客観的視点で書かれた上記単行本を読んだ私は、彼女らの手記は信憑性に欠けると思った。14年目に放送されたテレビ朝日の放送も、上記手記を否定するのには十分だろうとさえ思う。
確かに鈴木宗男が参議院選に出るといったときに中川一郎に殴られたという話は、上記内藤國夫の本の7章に出てくる。しかし、その参議院選の話は年内(1982年)に解決している。さらに、上記本には参議院選へ立候補するように鈴木を仕向けたのは、後援会の工作であったと書かれている。尚、上記中川郁子氏の手記に対する鈴木宗男氏の反論が新潮 2010年11月号に掲載されたという。何方が正しいのかは、明白だろう。https://www.j-cast.com/2010/10/18078488.html?p=all
3)向精神薬をアルコールと共に飲むのは絶対タブーである。自殺をしてしまった背景として、その影響が大きく存在すると思われる。
4)縊死が完全に自発的だったのか、それとも強い教唆によるものなのか、半ば強制的だったものなのか、その疑問が残る。それは死体の状態を側近で長い間の友人であった佐藤尚文氏らが、中川の死体を人に見せないようにしたからである。自宅に戻した後も、普通なら棺から出して北枕に寝かせ通夜を行うのだが、一切棺から出さず顔もあまり見せないようにした。更に、荼毘を繰り上げて行う工作を、佐藤尚文、中川貞子、鈴木宗男が行い、死の翌日午前10時に荼毘に付された。(内藤國夫著の本、第8章)縊死の場合、首に二重跡がのこる場合、何らかの異常がそのプロセスにあった証明となる。しかし、内藤の本にもその跡が一重だったか二重だったかなどについての記述はなかった。死因隠しに協力した北海道警察の幹部はその後処分された。
5)日本改造計画の前書きに、グランドキャニオンに垣が設置されていないことを紹介している。予め垣を施して、事故を防いて個人の自由を侵害する日本と大違いだ。そして、個人の自立こそ真の民主主義社会の成立に不可欠だと書いている。この本を読んで、小沢ファンになった人がおおいだろう。しかし、小沢氏の推奨するドブ板選挙とは思想的に正反対ではないかと戸惑ったのだが、この本には数人のゴーストライターがいたということで納得した。
6)大衆の政治に於ける目覚めは、小沢一郎著の「日本改造計画」でも民主政の必須条件である。そして、民主政治のトップランナーの国の重鎮であるブレジンスキーの考え方は、それを否定している。しかし、大衆が本当に政治に目覚めれば、民主政が上手く機能するか? 答えはNOだと思うし、ブレジンスキーもそう考えているだろう。つまり、本来高度な専門職である政治が、大衆が如何に政治に目覚めたとしても、大衆の手の届くところには降りてこないのである。それは、政治よりも単純な物理学や化学、生物学や医学を考えても同様である。つまり、民主主義政治は、理想形に近づけば近づくほど、弱点をさらけ出すことになると思う。(補足6は1/21早朝追加)
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