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2021年11月6日土曜日

日本語と日本文化について

以下の文章は、HPに載せていたものです。HP閲覧は非常に少ないので、ここに再掲します。古い内容を含むので、それには追補を入れました。長いですが、是非お読み下さい。

 

1)英語(西欧語)と日本語の比較

 

日本語の特徴は、西欧語である英語との比較で考えると解りやすい。私は、日本語に比較して英語は情報伝達においてより効率的な構造になっているように思う。先ず、英語において、関係の深い概念を表す単語は、音を共有するように出来ている。

 

例えば、glee, gree, glory, ground, gorgeous, giveなどGodgood以外にもgで始まる単語には、”良い”意味のものが多い。一方、 jam, junk, jealousy,jitter,jape,jerryなどja, ji, jeなどで始まる単語にはあまり良い意味のことばがない。(補足1)

 

音に意味の情報が含まれることは、会話において情報(や感情)交換の能率を上げることになる。また、多音節の単語では、音節が漢字の部首の役割をするので、アルファベット26文字で多くの言葉を表しうる。agricultureという単語は、agricultureから成り立っているが、agriは大地という意味、cultureは耕すという意味がある。「農業=大地を耕して作物を作る」が、agricultureという意味だろう。

 

その他、contemporarycombinationのような単語に出てくる、comconである。これらは同じという意味であり、comeは話してと聞き手が同じ場所になるよう、移動するという意味である。他に、re (繰り返す)、trans(変換)、inter(間)などたくさんの漢字でいえば部首がある。これらを記憶することは、漢字を覚えるより遥かに簡単な筈である。

 

会話は、口から発した音を介して行い、そして、これら“英語の部首”はその音と意味が一対一で対応しているから、会話の効率が高い(もちろんNative Speakerにとっての話であるが)。一方、日本語で用いる”漢字”は表意文字であり、その漢字で表された熟語が会話の中に現れると、音から単語への変換に時間と頭脳を使う必要がある。

 

つまり、元の日本語、つまり「和語」はわずか110程の音節からなる原始的な言語であり、そこに漢語(音節400、四声で4倍になり1600)を持ち込んだため、同音異義語が多くなったのである。そのため、日本語の会話では誤解を生じるなど不便なことが多い。

 

更に、英語にあって日本語や中国語にないものも多い。そのひとつに、冠詞がある。冠詞は論理的な議論において重要な役割をすると思う。Oranges contain much vitamin C. (オレンジはたくさんビタミンCを含む);Put the orange in the blender.(オレンジをミキサーの中にいれる。); I picked up an ornage on the way back home. (帰り道、オレンジ一個拾った。)の3つの文章で、日本語では全てオレンジと書かれているが、英語の冠詞が違うように、意味がことなるのである。最初は、オレンジ一般を複数形で示し、二番目は手元にあるオレンジを、3番目はたまたま落ちていたオレンジを表す。この夫々のオレンジの違いを英語は明確に冠詞でもって区別しているのである。

 

我々冠詞に馴染みのない者は神経を使って、冠詞を選択する必要があるが、現地の人(native speaker)は殆ど思考なしに自然に正しい冠詞を選んで口にだす。この差は、情報伝達の能率だけでなく、頭脳の思考回路そのものに、言語を覚える過程で差ができるのではないかと思う。(補足2)

 

 また、英語の文章では主語が明確であり、動詞が主語の次に現れることで、大まかな情報が直ちに聞き手に伝わる。日本語における遠慮がちに語尾にでてくる、肯定と否定の情報が、主語の次にくるので、誤解が少ない。つまり、会話において相手の言葉がI don't think で始まると、次に出てくる考えに反対だなということが聞き手に直ぐわかる。日本語では、「私は。。。。。だと思わない。」と最後まで、思うのか思わないのかという最も大切な点が判らない。(補足3) 

 

それだけならまだしも、「私は」が消えて、「。。。というか、そんな具合に、思うこともないではない。」なんて、訳の判らん文章が会話の中で頻繁に出てくる。(補足4) その他にも、英語には特別な接続詞(because(”何故なら”という複合語), since(ーーという事情により), although(ーーではあるものの)、など)で文節を短く出来ること、関係代名詞や関係副詞、時制に置ける完了形の存在などがある。これらは流れの良い日本語に訳す場合に、翻訳がむつかしい。

 

上述のように日本語では表意文字である漢字が中心的位置を占めている。漢字の数は万とあり、漢字に関する習熟度で知性を計る様な愚かな事が、中国では科挙において行われ、日本では現代も漢字検定やテレビのクイズ番組などで行われている。

 

何故、漢字が大きな位置を占め、且つそれが同音異義語をたくさん生じるなど、日本語に正しくフィットしていないのか? それは、オリジナルな日本語(和語)は、上でも書いたように、文字を持たない小さな体系の言語であったことが原因だと思う。そこに、大きな言語体系の漢語が輸入され、同音異義語がたくさんできたのだ。(補足5)

 

このオリジナルな日本語は小さな言語体系であったことは、外来語が簡単に日本語の中に定着する(更に、混乱させる)ことでも証明される。アジェンダ、マニフェスト、ロードマップ、シナジー、etc. このような外来語に翻弄されている現状をどうするのか? 明治時代の国語改革を真似て、もう一度何らかの対応をとるべきではないだろうか。

 

2)日本語について我流解釈

元々、日本語を使う人々は、強く結びついて集団をなし、個性を抑えて合意を形成し諸作業を行ってきたのではないかと思う。つまり、日本語はそのような(普通農耕社会という)社会の為の言葉として出来上がったと思う。話し相手を強く意識するため、相手との関係で一人称主語が多数あり、且つ相手との会話の内に軌道修正が容易な様に、語尾が曖昧になっている。そのような会話によって、その集団は一定時間後、全員が同じ意思、つまり、集団の意思をもつことになるのである。

 

一人称で「我こそは」&「である」と明確に且つ断定的に言えば、集団での意思統一は難しい。全員一致で動く社会の次の段階として、現代の民主主義社会がある。これは、「多数の意見に、少数の異なった意見のものが従って協力する」という体制である。現代日本では、この方式は当然のように受け取られているが、実は口先だけのことであり、本当は定着していないのである。

 

この民主主義体制は、社会にかなりハイレベルのルールが出来て始めて可能な意思統一の形式である。つまり、少数の異なった意見を排除した場合、その少数の構成員には屈辱感が、多数のものには優越感が生じる。それらを、協力作業の前に昇華解消させるには、この「民主主義という社会のルール」にたいする高い価値を構成員全員が共有する必要がある。

 

いきなり民主主義(ギリシャのデモクラシー)が社会に出来る訳が無いので、集団で行動する人の社会に、言語が(神によるのではなく)発生したとするなら、日本語のような言語の方が自然であると思う。西欧の第一人称の主格(つまり "I") が明確に文章に用いられる言葉は、むしろ不自然である。

 

西欧社会は、よく言われるように家族単位の狩猟集団が集まって社会化したと考えれば、一瞬判った様な気になる。しかし、家族単位ならゴリラと変わらず、複雑な言語など不要である。私には、この良く出来た言語を創ることなど、人類の知性がずっと今のレベル程度であったなら、出来そうにないと思う。

 

従って、その発生の謎は非常に興味ある問題であり、解くことが不可能な位の難問であると思う。

 

追補(2021/11/6)この時点ではこの難問は解けなかった。しかし、その後、言語の進化論(IIII)として20196月に新しいモデルを作った。勿論、この仮説には不十分な部分が多いがまず間違いないだろう。

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12482529650.html

 

先日、「ことばの進化論」という本があるのを知り、早速アマゾンから買ったが、その大部分は「動物の鳴き声からどのように言葉が発生したか」という部分の仮説であった。(Derek Bickerton, “Roots of Language, 1981. , Languages and Human Behavior, 1996; 筧寿雄ほか訳、「ことばの進化論」、勁草書房、1998年)

ただ、この種の議論では、日本語と日本文化を他国とその国の文化と比較する際には参考にならない。この言語と文化の違いを主題にしたのが、「ソシュールの言語学」である。

丸山圭三郎「ソシュール言語学入門」については、感想を2018年に記事にしている。https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12466516354.html

 

 

3)日本の文化と西欧の法治システム

 

日本の国民性そして日本の文化は、日本語と不可分である。日本では、集団の意思を統一するのに、会話により“場の空気"を醸成し利用する。そして、上述のように日本語はそのような目的に合致するように作られている。この様な”文化”を持った国では(補足6) 西欧的制度である民主主義やその為の三権(立法、司法、行政)分立制度などが定着し難いと思われる。

 

法の原点が「神との契約(例えばモーセの十戒)」であるとすれば、まともな人格神を持たないこの国では法治国家というシステムを支える権威はなく、上手く機能しない。(補足7) ) 上で議論した「社会のルールに対し、高い価値と権威を社会の構成員が共有する」ということは、この神との契約という形を模倣して定着したものだからである。

 

日本ではどうか?「赤信号皆で渡れば怖くない」「黄色は進めの信号のようである」など、ドライバーもルールを守っていない。ルールに権威はないから、罪悪感は全くない。一方、どうせルールなど厳格に守る筈はないのだからと、守れない交通ルールを平気で放置している。(補足8) そこには、法にたいして高い価値を共有する態度は全く見られない。

 

また、町の中に、「ゴミは自分で持ち帰りましょう」「クリーンな町***」などという(誰を相手に何の目的で掲げているのか判らない)大小様々な美観を損ねる看板が見られる。(補足9) この「しましょう」形式の看板は、”場の空気”(日本の空気)を確認しているつもりなのである。

 

国民は子供ではないのだから、また、そのようなものを見ても人格が変わるような人は日本にも居ないのだから、ゴミを捨てる者は捨てるし、捨てない人は看板の有る無しに拘らず捨てないだろう。従って、そんな無駄は(市役所の人は仕事をしたいのだろうが)止めるべきだと思う。

 

小沢一郎氏の著書の中に、「グランドキャニオンに「これ以上近づかないで置きましょう」と書いた看板とか、日本ではある筈の『転落防止の柵など』が然るべき場所にない」という記述があった。その挿話の意味するところの解説から出発して、民主主義には個人の自立が必須であるということが書かれている。昔はこの人も志が高かったのだろう。しかし、小沢氏の日本の似非民主主義に対する基本的分析は非常に重要であると思う。

 

我が国が、そして我々が、名誉ある地位を国際社会において築くには、我々の社会において「和を以て尊しとせず、真理をそしてルールを以て尊しとなす」(つまり、各個人が真理と思うことに従って、独自行動すること。その当否は、必要とあれば法によって決められる。)という価値観を創ることが必要であると考える。

 

文明は既に頂点にあると思われる現在、真理とルールに対する尊厳を確立することは、一神教の国でなくても”幼少期の教育”を能率的に行えば可能である。しかし、それ以降の教育では不可能であると考える。

 

今後の日本の発展には、せめて主語と述語を明確に用いて論理的に喋り、自立した個人が”もやもやした場の空気”を排除して、社会に参加する様な国になるよう、幼少期から教育することが大切であると思う。

 

そうなれば、中学生の凄惨な苛め事件など発生する筈が無い。また、能力のない者は、如何にコネを駆使しても高い地位に登ることはなくなるだろう。特に仕事をしなかったが、問題を起こさなかったというレベルの人の出世は無くなるだろう。韓国の後塵を拝することになった経済における低迷も、同じように日本語と日本文化にその原因の一端があると思う。

 

 

補足:

 

1)一時、Japanという言葉は音が悪いから、Nipponに変える方が良いという意見が雑誌などに出ていた。”じゃ”が蛇や邪のように、漢字でもあまり歓迎しない単語に用いられているので、この”音に意味が含まれること”は特別なことではない。その特徴が英語では明確であるが、日本語ではそれほど明確では無いという程度の問題である。同じJで始まる単語でも、Joyが良い意味であり、音も柔らかく感じる。恐らく、JAJUJEなどは広範囲の周波数成分を持ち、雑音と同様に不快な感じを与えるから、嫌な意味の単語に割当てられたのだろう。

 

2)一時期話題になったハーバード大のサンデル教授の授業が、東大で行われた。テレビに映された、米国の学生に比べて非常に貧弱な回答しか出来ない日本の学生の姿を思い出す。

 

3)これは、「後の文章をどういうかによって意味が正反対になることもあるので、日本語の構造の弱点としてあげる理由にはならない」という意見もあるだろう。しかし、自分の意思を相手に伝達する自然な流れはどちらかという議論をしているのである。I go to schoolの方が「私は学校へ行きます」よりも、聞き手から見れば話し手が兎に角いなくなるということが能率的に伝達されるのである。

 

4)最近、石川九揚著「二重言語国家・日本」(中公文庫)という本を見つけた。この本には同意出来ない部分も多いが、日本語の成立に関して詳細な考察があり、非常に参考になる。この本の34ペイジに、「欧米の講演や講義は、そのままテープを起こしただけで(つまり、書き下しただけで)一編の論文をなすが、日本語では相当加筆・削除し、文の前後を入れ替えたりすることによって、辛うじて文章の体裁をなす。また、日本人は話が向こうへ飛んだり、戻ったりで右往左往し、講演が下手だと言われているが、この理由のひとつは、主語概念の甘い主題提示方式であることや公私の分裂、また中国語のように大量の語彙をもたないため的確に言うことができず、比喩と留保の連続によって言葉を成り立たせるしかないという話し言葉の文体の未成熟にあろう。そして、また書字中心型の日本語においては文体が書き言葉の方に漏れ、話し言葉の文体未確立を放置してきた」という記述がある。この前半部分の分析はほぼ的確だと思う。ただ、講演は話し言葉で行うのだろうか?という疑問が残る。なお、表題の二重は、漢語と和語の二重を指す。

 

5)正統と言う漢字をワープロで出そうとすると、政党、正当、製糖、製陶、正答、征討、青鞜、などたくさんの同音異義語が出てくる。亢奮、昂奮、興奮、となるとどこか違うのかなあと思う。公正、更正、厚生、更生となると違いを明確に言える人は少なくなる。このような表意文字を山ほど持つとき、言葉に対する基礎的な理解も失われる。例えば、看護師や薬剤師など偉い方が医師の他に病院には居られるので、一人の士に過ぎない理学博士の私は姿勢を低くして病院に行くことになる。保護責任者遺棄罪と言う罪は、保護責任者を遺棄する罪でなないのです。再生可能エネルギーというのは、廃熱からエネルギーを再生して、少ない燃料で無限のエネルギ-を得ることではありません。熱中症というのは、何かに熱中する病気ではありません。

 

6)留学から帰って名古屋に来たとき、小学校に入学する子供にランドセルはおもいし、値段も高いので、リュックザックに教科書を入れて通わそうとしたことがあった。とたんに、どこかから非難らしきものが聞こえ、やむなくランドセルにもどした。中元や歳暮、バレンタインデイのチョコレート、キリスト教的結婚式、節分の恵方巻きなどの乱雑に発生した習慣も、日本以外では考えられないのではないだろうか。

 

7)八百万の神は、ここで言う(一神教の)神ではない。この世の何かを司る神であるが、生命の危険に対する不安、将来への不安など、何かに縋りたい人の想像により出来たもののように思う。聖典がないのだから、ただ祈るための存在でしかない。その神に権威などはなく、単に何かを祈れば実現してくれるような、祈る人の身勝手を投げ込むための巨大なバスケットにすぎない。

 

8)名古屋に名二環という都市高速風の有料道路がある。そこに勝川から西名古屋まで良く通るのだが、何と、制限速度60kmである。渋滞以外の場合、ここを60km/hで走っている車を私は見た事がない。大体80-100km位が普通の速度である。

 

9)伊勢道を数度往復したが、南伊勢との分岐を過ぎたところで、「次のサービスエリアが最後のトイレです」という看板を見つけた。確かに有り難いが、ちょっと過ぎたおせっかいではと思った。

オリジナル:2012年夏、編集:2012.10.31;再編集再掲:2021.11.6

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