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人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2025年1月24日金曜日

日本という“国家もどき”の由来

 

1)現代日本の蛸壺政治について

 

前回、日本の蛸壺文化と現在の日本政治との関係について以下のように書いた。

 

日本の政党は、労働と富の分配の問題、教育や社会保障の問題、産業振興の問題、政治の制度や資金の問題などに対する姿勢における他党との区別を国民に主張している。それらは重要だが、政権与党の族議員たちがそれら各蛸壺内で議論する対象に過ぎない。国家の骨格を抜きに棲み分けている日本の政党と政治家は、そしてそれを尤もらしく地上波TVで議論する評論家たちは、日本国民にとって背信の輩である。

 

彼らは、2021年の米国バイデン政権の開始時から本格的になった国際政治における世界史的変動の真っ只中、日本の危機が近いと考えられる現在、103万円の壁とか政治資金規正の問題で延々と時間を浪費しているのである。

 

 

 

ここで族議員とは、1970年頃に自民党の政治家と行政の実行部隊である官僚たちとの癒着の一貫として出来たようである。(ウィキペディアの族議員)その後、与党国会議員たちは、”労働と富の分配の問題”以下の幾つかの蛸壺内に棲み別けており、それ以外の議論は日本国の政治には存在しないかのようである。日本の国会には行政の議論しかなく、外交や防衛などは一切、宗主国である米国に完全依存する形になっているのだ。

 

そして日本の野党は、全て観客席から自民党議員たちの演じる蛸壺内の芝居を批評して、国民の前に自分たちの存在感をアピールするという役割で満足する様になった。その一環として、日本共産党も昭和33年に暴力革命を否定し、政権奪取を目的とする本物の野党としての役割を終えている。https://www.npa.go.jp/archive/keibi/syouten/syouten269/sec02/sec02_01.htm

 

その結果、戦後30年程して日本国と日本国民は敵を感じなくなり、国家の必要性の第一を感じなくなったのである。現状は上述のようにそれとは正反対であり、四方核武装した仮想敵国に包囲されているにも拘わらずである。つまり、米国による日本の家畜化の完成である。

 

殆どすべての日本人は、日本国が天皇を中心として存在するという残余の感覚を持っているかもしれない。しかしそれは、論理を持たない日本人の「鰯の頭も信心から」の類の信仰のようなものであり、日本にはもはや本物の国家は存在しなくなったことを知るべきである。

 

 

2)日本における国家の成立と劣化

 

日本国が成立したのは、壬申の乱のころだろう。そこで、天武天皇はその正統性を示すために中国の史記をまねて日本書記を編纂させた。全文は漢文で書かれているとのことであり、日本列島が中国文化圏の中に位置していたことがわかる。

 

天武天皇によって統合された日本列島には、国家間の戦争がほぼ無くなった。そこから国家という組織の形骸化が始まったのだろう。ただ、蝦夷と呼ばれる異民族が時として辺境の地を侵略したため、それを征伐する役職が出来た。平安時代から存在する征夷大将軍である。

 

彼らは強力な武力を持つものの、民を統治するための独自の宗教を持たなかったため、伊勢神道を擁する天皇家を滅ぼすことは出来なかった。因みに、宗教には二種類存在するが、そのうちの人格神を崇拝する宗教(一神教)の方が、多くの場合、国家の権威を担う。(補足1)

 

時代が進んで、武家が力を増して、武家と天皇家の二元体制が出来上がった。それは鎌倉時代に始まり江戸末期まで温存された。信長と秀吉の時代、キリスト教が日本の二元体制の唯一の脅威となったが、彼らはそれを退ける選択をした。1587年の伴天連追放令である。

 

日本の婦女子を買い取って南方で売るという悪事を宣教師たちが行ったのが原因だろう。宣教師たちが“俗悪な人物”でなかったのなら、天皇家は亡んで日本はポルトガルか何処か西欧の国の植民地となっていた可能性があると思う。(補足2)

 

日本の政治的権威は天皇家が持ち、その権力は武家が持つという二元体制は、それなりに安定しており、欧米の帝国に破壊されることもなかった。しかし明治になって、この二元体制は消滅することになる。中国侵略を目指したであろう米国の蒸気船が、日本をその為の中継基地にする目的で立ち寄ったことからその政変は始まる。

 

米国は南北戦争の勃発によって、その後日本から遠ざかる。その後、日本の政変に拘わるのは英国やフランスなどである。英国ではユダヤ系のロスチャイルド家が中央銀行のイングランド銀行を手にしており、政権の陰で既に権力を得ていたと思われる。

 

英国の権力者は、その日本を普通の国家として改造し、極東の基地国とすることを考えたのだろう。それが明治維新である。その結果、天皇中心の富国強兵国家となったのが大日本帝国であった。それは見事に(英国の権力者の宿敵)ロシアを破るという功績を上げたのである。

 

ただ、日本は完全には英国の支配下ではなかった。それは、上記国家の軍事的ソフトウエアである宗教には手を付けられなかったからである。それが幸か不幸か、日本が壊滅的敗戦に向かう原因となった。皇国日本の外務大臣小村寿太郎は、ポーツマス条約で米国のSルーズベルト等と会ったにも拘わらず、日本をロシアに勝たせた英米の企みが見えなかったのである。

 

その後、独走を始めてしまった日本が、英米の怒りによって滅ぼされ、日本国民は実質的に国家を無くすことになったのである。

 

 

3)日本での国家の消滅

 

明治維新に対する日本の教科書における誤解については何度か書いているので、これ以上は立ち入らない。ここで思い出してもらいたいことは、大日本帝国は国内の政治力学によって出来上がった国家ではなかったということである。(補足3)

 

その後の大戦で敗戦し50年ほど経過して、日本国に天皇という政治的権威を完全否定された効果が発現定着して、米国の家畜国となったことに今国民が気付きだしたのである。

 

天皇が果たした大日本帝国時代の役割は、昭和憲法第一条により明確に否定された。第一条:天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。(これが昭和憲法のエッセンスである)

 

その結果、日本に存在する政治的権威は、米国が移植した非軍備の民主主義が受け持つことになったのである。こんなものが主権国家の支柱としての役割を果たす筈がない。軍事力を奪った後、民主主義を植え付ける方法は、それ以降も米国に用いられている主権国家破壊の戦略である。

 

軍隊を指揮する旗頭の居ない国に主権などない。更に、軍隊の無い国家に主権など樹立できる筈がない。それが、アマテラスの子孫である筈の天皇を空蝉のように規定し、非武装を謳った平和憲法の効果である。

 

このようにして日本の政治的権威が失われ、政治権力の中心が日本から米国に移った。日米安全保障条約とその後改訂された条約がそのための契約書である。日本の自衛隊と呼ばれる軍隊は、米国の指揮下で動くことが吉田茂により約束されている。

 

 

終わりに:

 

以上が日本の国家としての経緯の概略である。このような考え方は、経糸である時間軸と横軸である地球の広がりの全体を対象にしないと不可能である。そのような広範囲を視野に入れた思考は、短い生命と有限のエネルギーの一人の人間には困難である。

 

そこで必要なのが、数世代にわたる情報の共有と数百人或いはそれ以上のヒトの頭脳の連携である。そこには完成度の高い言葉とそれを用いる論理の伝統が必要だろう。それらは日本の弱点であり、これまで全世界と全時代を視野においた思考が出来なかった理由だろう。

 

日本人の殆ど全てがインターネットにアクセスでき、SNSを有効に利用できるようになれば、これまで不可能だったことも可能となる。そのような努力を始めた人たちが現れだした。そして、将来日本国が新しい姿となる可能性がある。

 

 

補足:

 

1)日本の政治的権威であった天皇はアマテラスの子孫であり、アマテラスを崇める伊勢神道の神主である。伊勢神道は私の独自の用語(外宮神道の意味ではない)であり、自然を崇拝する神道をアマテラスを崇拝する様に一神教化した宗教である。ここで宗教は、善悪を創造して敵を悪とし、民を纏めて戦争するためのソフトウエア的武器である。

 

 

 明治以来の日本に出来た多くの宗教も、政治的思惑で創設されたものであることを知るべきである。信仰の自由とは、世界を政治的に改変する動機で基本的人権に組み込まれたと考えられる。このことに言及しない法律家や社会学者たちは、麻原彰晃より頭が悪い。

 

2)信長は宣教師たちの知識と鉄砲などの技術に関心を示し、彼らに融和的であった。秀吉もポルトガル人たちの悪行やその背後にあったと思われる日本の植民地化の企みを嗅ぎ取るまでは、キリスト教にむしろ融和的だった。(ウィキペディアの伴天連追放令参照)

 

3)国内の政治的矛盾の解消という形で大日本帝国という国民国家が出来たのなら、当時の武士や国民にその封建制から立憲君主制への変化の歴史が共有された筈である。しかし、他国の意図がその政変に深く絡んでいた場合、新しい国家のその後の動きが国民の意図する方向に進まない可能性が高い。

 

(1/25、セクション3の「大日本帝国もまともな主権国家ではなかった」を「大日本帝国は国内の政治力学によって出来上がった国家ではなかった」に改め、この部分の趣旨を補足3として追加しました。既にお読みいただいた方には、この部分の誤りに対して深くお詫び申し上げます。夕方並びに翌早朝編集、最終稿とする。)

2025年1月19日日曜日

日本の蛸壺文化と対米従属政治

1)日本は蛸壺文化の国である

 

日本の文化が蛸壺的であることは、丸山眞男によって指摘されている。日本の学問や文化や組織は、専門化が進み、それぞれがその中で集団を作り、部門間相互の意思疎通が困難であるというのである。(ウィキペディア参照)

「逆説の日本史」で有名な井沢元彦氏は、日本の歴史学者における蛸壺化について述べている。それによれば、日本史と世界史は全く別学問として存在し、日本史に世界の歴史の中の日本という視点が反映されているように感じないという。

 

更に、時間軸に対応して多くの専門に分断され、学者たちに通史に対する理解が無いというのである。例えば中世が、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代という具合に専門化が進むだけでなく、更に領域毎に鎌倉時代の経済の専門家、政治の専門家、文化の専門家という具合に細分化が進んでいると語っている。

 

歴史家たちは、その狭い領域で意見交換し、その中で安住しているのだというのである。つまり、鎌倉時代全体に対する理解も、群盲象をなでる状態なのである。

 

https://www.youtube.com/watch?v=f_DVbk-tFT8

 

そのような文化の蛸壺化が進んだ国では、例えば現代政治を専門にする学者は、明治の歴史などは通説をそのまま受け入れる習性がついてしまっている。気候変動などの自然現象も全くCO2原因説を疑うという習性も能力もない。そのため、現代政治の真実が全く見えないだけでなく専門家としての能力さえついていないだろう。

 

全ての分野が複雑に絡まって時代が進行している現代、常に全体を意識する視点のない文化の国では、何事においても本質を理解する力のある専門家がいない。文化の蛸壺化は民族の知性の劣化の原因となっているのである。

 

現代政治において日本独自の問題として深刻なのは、日本の近代史の大きな節目である明治維新について歴史家がまともに研究してこなかったことである。その結果、現代の政治家や政治学者は、日本現代の政治についてまともな考え方をもっていないし、専門家としての能力にも欠けている。

 

誤解の中心にあるのは、その中心にあった人物とその末裔が作り上げた明治維新が日本独自の改革であり外国はその切っ掛けを与えたに過ぎないという誤った解釈である。それを専門外としてそのまま受け入れるので、現在の外交専門家や政治家は、英米の戦略に翻弄され続けた日本の近現代を全く理解しないのである。(補足1)

 

丸山眞男の蛸壺文化の話に戻ると、ウィキペディアの解説文には以下のように書かれている:

「共通の根を切り捨てた形で専門が分かれ、その専門の中で仲間の集団を作っているため、集団の相互間での意思疎通が困難であるとされている」と。

 

壺の中に安住するタコには、いくつもの壺が綱で繋がれ、その先が海上のブイにつながっていることなど全く見えていない。近い将来、そのブイを目印に船でやってきた漁師に捕獲されるという彼らの近い将来を想像する手掛かりが全く見えていないのである。

 

この悲しい現実は、激動の世界の中で危機を迎える可能性の高い日本の将来について全くと言っていいほど沈黙を保ち、政治の改革に関して無力な日本の知識層の姿に相似である。
 

 

2)日本の工業製品と蛸壺文化

 

次に、議論の本筋からずれるが、日本の製造業への蛸壺文化の影響について若干議論する。

 

この蛸壺文化の国では、出来上がった最終的に使用に供される総合的な製品よりも、単純な金属加工の機械であったり、ソケットやパイプなどの材料やチェインやジッパーなどの部品の製造で競争が厳しい世界の中で生き残る企業が多い。

 

例えばパソコンでは、かつて世界の最先端だったNECをはじめとする日本の企業は、もはや非常に小さいシェアしかない。製品の魅力(或いは性能)対価格の比を独断でみれば、後発のアップルや最近パソコン製造を始めたマイクロソフトに追い越されている。(補足2)

 

パソコンという総合的商品で市場を席捲するには、パソコンを理解しパソコンと人間との関係の全体像を考え描く人物が設計から製造の指揮をする必要がある。パソコンいうキャンパスに自分たちはどのような絵を描くのかという思想が具現化したような品物でなければ、個性ある消費者に歓迎されないだろう。アップルなどの製品には自分たちが考えるパソコンが表現されていると思う。

 

しかし日本では、類型的なパソコンに対する理解に安住し、他社との競争に勝てる性能と価格を先ず想定し、それに適合する部品を集めて組み上げるのだろう。その結果、消費者が特定のメーカーを選び、そのパソコンを持った時に所有欲を満たすことなどないだろう。それではレノボにも勝てない。
 

パソコンと同じ顛末をたどるのではないかと心配されるのが、現在の日本経済をけん引している自動車である。自動車は現在、インターネットにつながるスマートカーに進化しつつあり、自動運転車が標準になったとき、日本車はテスラ社(米国)やBYD(中国)の戦略には勝てるのだろうかと心配になる。

 

その他の分野、例えばAIやSNS関連のサービスなど、総合力を必要とする事業の発展は米国や中国で進んでいる。

 

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOSG108LH0Q4A211C2000000/

 

最初に日本は部品には強いと書いたが、それは日本が職人の国であることと関係している。職人芸とは、工業における蛸壺文化の結果ではないだろうか。確立した技術の製品においては精度や純度が勝負を支配するので、職人技で諸外国を相手に高い競争力が維持できるのだと思う。

 

世界の消費文化は急速に変化する時代にあり、日本の職人芸の通用する範囲は日々狭くなる可能性が高いだろう。ただ、日本国内では古来の蛸壺化した文化を継承し、生活のパターンに変化が乏しいので、伝統工芸的な部分では日本製品が将来も残ることが可能だろう。(補足3)

 

 

3.日本の政治における蛸壺文化
 

日本の政治も蛸壺文化的で非常に発想に乏しい。1945年の敗戦後にマッカーサーの統治となり、日本は吉田茂とその部下らによって米国への隷従政治を採用することになった。1951年の講和条約後も、表向きには独立の体裁をとりながら、その本質に変化はない。

 

一度出来上がった体制が一定期間継続されると、国家のそれぞれの部門の担当者が、その体制に順応する形で専門家する。一旦それらの専門から国家全体が出来上がると、そのパターンを破壊して、そこから抜け出ることが出来ないのである。それが蛸壺文化の特徴である。

 

明治から昭和初期まで強力な求心力の国家であったように見えた日本帝国であったが、その立憲君主制の強固な独立国の姿も、借り物であった可能性が高い。その証拠に、講和条約を経て70年経過しても、日本の数十か所に他国の軍事基地を置き、首都近辺の領空まで他国に支配されたままでも良いと考える政治家たちが政権与党をつくり、それが異常であると感じないのである。

 

勿論、異常であると言う人は幾らでもいる。しかし、かれらは口先だけであり、その異常さが他人には説明できないだろう。何故なら、その異常を本質的には理解していないからである。平然と、「日米の戦略的互恵関係を維持しなければならない」と言うのである。彼らは戦略的という言葉も互恵という言葉も、更に国家という枠組みも理解していないので、そのようなセリフが言えるのである。
 

将にその対米従属政治を続けるため、日本の保守勢力は合併して自由民主党となったのだ。その結党は、国民による政権政党の選択という政治参加の道を封じ、知性に乏しい日本社会党との議論を装うことで対米従属を長期に継続するためである。

 

そのような政治では国民を欺くことになるとして問題視する人物が突然変異のように現れれば、政界から或いはこの世から追い出したのである。(補足4)

 

現在、その問題点に気づいて国政に参加している政党には、数年前に結党された参政党という弱小政党(参政党)が一つあるのみである。亡国の徒と売国の輩が日本の中枢を占領しているのである。(佐藤 健志 (著)「右の売国、左の亡国:2020年、日本は世界の中心で消滅する 」)

 

現在、日本の政治は、日常的な問題を対象として対立を作り出し、それによって政党を形成している。決して日本の骨格そのものの問題を対象にしたことが無かったし、それは自由民主党の結党の意義(対米従属を継続)に反するので避けてきたのだ。

 

それらは、労働と富の分配の問題、教育や社会保障の問題、産業振興の問題、政治資金の問題などであり、それらに対する姿勢で日本の主な政党全てが成立している。それらは重要だが、族議員たちがそれら蛸壺内で議論する対象に過ぎない。国家全体に関係する骨格の問題を抜きにする日本の政治家は、そしてそれを尤もらしく地上波TVで議論する評論家たちは、日本国民の将に背信の輩である。

 

根本的な大問題である日本の政治における独立国としての日本の回復は、この図の蛸つぼに入って、くだらない議論をして既得権益を得ている政治家には成し得ない。日本国の再生には、政治家の総入れ替えしかないと思う。

 

最初に掲載した図のいくつもの蛸壺と、それらを束ねる綱や海上のブイ、をもう一度みてもらいたい。この図は日本国を表している。蛸壺は日本国を構成する諸機関であり、蛸壺を束ねる綱は米国の為に働く輩たちである。今後やってくる漁師のことを問題視する人や政党は殆ど存在しない。

 

因みに、今後やってくる漁師とは、第三次世界大戦が起こす世界の中心的な権力であり、その中心は勿論米国である。

 

憲法を改正して、独立国となるという党是で成立した自由民主党だが、その党是が完全なまやかしであったことが、十分な理解力のある人には中曽根内閣時代には明らかになっている筈である。彼のどこが大勲位に値するのか?

 

例えば、日航機123便墜落の事実が完全解明されておれば、その自由民主党が第一党としての地位を失い米国隷属の政治に終止符を打つ切っ掛けになっていた可能性がある。(補足5)それを政治が問題にしなかったのは、すべての政界の人たちが蛸壺の中に既得権益をもって安住したかったから、その隠ぺいに協力したのである。


 

補足

 

1)最近のニュースだが、日本製鉄のUSスチール買収を批判した米国の鉄鋼会社CEOは、「日本よ、気をつけろ。あんたたちは自分が何者か理解していない。1945年から何も学んでいない。われわれがいかに優れていて、いかに慈悲深く、いかに寛大で寛容か学んでいない」と発言した。米国の本音に配慮してゴンカルベス氏は発言したのである。これが英米に翻弄され続けた日本の近代史における現在の状況である。

https://www.zakzak.co.jp/article/20250118-BWLS7NXXRRMUJHFDWK2J7ZGZTM/ 

 

2)最近、NECVersaPro(インテル12世代CPU)を使ってみたが、マイクロソフトのSurface(若干古いがlaptop3を使っている)とは見た目から中身まで大きな差がある。劣悪なTNディスプレイを採用していたので、即売却した。

 

3)茶碗には取っ手が無い。熱いお茶をいれても茶碗を手に取ることが出来るにもかかわらず、ハンドルを付けないのである。磁器が焼けるようになり、細くても強度の十分なハンドル装着が可能となっても茶碗にハンドルを付けるという発想が出ない。ボタンを見てもジッパーを見ても、それらを取り付けた着物が現れない。両足を個別に収容するズボンのような構造も、まともな形で取り込まないのが日本文化である。


4)中川一朗やその息子の中川昭一がその一例だろう。そのほか、孫崎享著「アメリカに潰された政治家たち」がそのような政治家を取り上げて解説している。
 

5)この事故は、自衛隊のミサイル演習で無人の標的機が日航機に衝突したという説などが、単行本や後にyourube動画などでも多く紹介されている。自衛隊のミスで520人の死者を出したとなれば、当時中曽根内閣が検討していたミサイル防衛構想や米国レーガン政権が進めるSDI(戦略的防衛)構想への参加が、国民の反対で不可能になる。そこで、日本航空とボーイング社の協力で、圧力隔壁破壊説をでっち上げたというのである。

 

https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12836247903.html

 

=== 1月20日早朝、分かりやすく文章を追加し、更に数か所修正を施しました ===

 

2025年1月10日金曜日

「自由、人権、そして民主主義」という宗教を武器に世界支配を狙う人たち

一神教と選民思想:

文明の利器を持たない太古の時代、個別にはひ弱な動物でしかない人が他の動物や周辺他民族との生存競争に勝ち残るには、自分たちの神を旗頭にして強力に団結することが必要だった。それが古代の宗教と人間の基本的関係だと私は考えている。

例えば旧約聖書には、神によってこの世界とともに創造され、その支援と指示に従って生存のために異邦人(エイリアン;補足1)たちと戦い移動した人たち、つまりユダヤ民族の歴史が描かれている。戦いに負けて世界に散らばったユダヤの人たちは、自分たちが神に選ばれた正統な民族であり、豊潤なパレスチナの地を神から受け取ることになっているという信仰を持っている。(補足2)

 

これは民族内では信仰の一つであるが、他民族をも含めた社会を想定すると選民思想となる。この神の力を信じてこの土地を奪い取ろうと考える一部のユダヤ人たちはシオニストと呼ばれる。イスラエルーハマス戦争は明らかにシオニズムに基づいた戦争であり、古代の一般的な戦争である。そこには近代的な戦争のルールも思想も介入し得ない。(古代の価値の中で生きる中東の人たち)

 


上の腕章は、イスラエル軍のもので、そこには大イスラエルの地図が描かれている。河添恵子氏の動画から拝借した。https://www.youtube.com/watch?v=qlc79duHfZk

 

ユダヤ教を元にしてキリスト教やイスラム教が生まれ、それぞれの信者が同一の神を信仰することになったので、それぞれが他の宗教の信者を堕落した人或いは異端の人とみることになり、この地域の争いの種、不安定要因の一つとなっている。複数の民族が夫々異なった神を旗頭にして住む中東地域で、民族間に戦争が起こるのは自然である。

私たち日本人のかなりの人たちも、イザナギとイザナミという神が創造した列島の中で、それらの神の系統の中で生まれたアマテラスの子孫として生命を受けていると考えて来たようだ。その直系が天皇家であり、日本人は大きな家族であるという思想である。現在でも所謂保守系の少数はそのような思想を持つようだ。(補足3)


日本人の多くも選民思想を心の奥底に多少とも持っているだろう。また、殆どどの民族にも自分たちは神に選ばれた民族であるという選民思想があり、それが民族の団結の力となって来た。自分たちの神を拝み精神的に高揚することが力となり敵を滅ぼすことが出来、生き延びたのである。

 

これらの多くの物語は古代から中世の物語(歴史)だが、それは過去に限った話ではなく現在進行形で書くべき話であることを知るべきである。この古代に遡っての考え方は、平和の時には無用だが、時代の節目には決して忘れてはならない。(補足4)

以上まとめると、民族の神は戦争における旗頭となる。それが多くの宗教(特に一神教)における基本的役割である。

 

 

農業地帯の形而上学的哲学的宗教:

 

農業に適した土地では、農業技術、治水作業、そして自然現象の予測などでの技術の伝承と協力体制構築が民族の生き残りを決めることになったと思う。そして、早期にこれらの問題を解決できたに地域は政治的に安定し、繁栄しただろう。

 

彼らの脅威となるのは近接する部族よりも自然だった。仏教など形而上学的且つ哲学的な思考を本質とする宗教は、農作地帯で自然現象と対峙する中で発生したのだろう。このタイプの宗教でも人口増加によって必然的に発生する近隣民族との闘いの為に戦闘的なタイプに変形される場合も多いが、一神教とは元々大きく異なる。
 

 

信仰の自由は基本的人権なのか?

 

「宗教は個人が生の意味を発見し死の苦しみを乗り越える為に存在するので、信教の自由は基本的人権の一つである」という思想が現代の先進国憲法に書かれている。しかし、信教の自由に対するその様な意味づけは、形而上学的且つ哲学的な宗教では普遍的に成立し得るが、一神教では同一民族内でしか成立しない。

 

例えば、グローバルな経済とその中での人々の関係において、信教の自由という基本的人権の追求は混乱の種となる。グローバル化と信教の自由を含む基本的人権は共存不可能である。

 

人は幸せな時には柔和であり得るが、多くの場合、生きる限り困難が何時かは訪れる。その時、異なる人格神を奉じる人たちの間に戦いが起こるだろう。従って、パレスチナの地に信教の自由など存在する筈がない

 

この近現代の信教の自由を掲げる人権思想や、それを政治思想化した民主主義の普遍化は、近現代において経済的並びに文化的に支配的となった一部の人たちにより、意図的に為された可能性が高いと思う。そして、かれらが世界支配を企む中で、世界のあらゆる地域で政治的混乱を生じさせるための装置として利用されている。

 

オーム真理教や統一教会などの問題で、信教の自由に関する疑問をもちながら、所謂カルト教団という言葉で解決した気になっているのは非常に愚かだ。


多民族共住は国家を破壊する:

最初のセクションの話を含めて、民族間の戦争において以下のような考え方が成立するだろう。
 民族はそれぞれ特有の宗教を持つのが自然であった。
 強い支配力及び指導力を持つ一神教の神は、戦争の旗頭となった。


このことを念頭におくと、植民地時代の領土拡大の方法が見えてくる。日本においても、信長や秀吉がいなければ、西欧の植民地になっていたかもしれない。彼らは先ず、宗教の布教という形で上陸してきた。その国の宗教の弱体化を目的とする。そしてカトリック信徒となった大名をプロキシとして、その土地の支配者と戦わせる予定だったのだろう。

日本は当時先進国だったので、武士の戦う能力と上記指導者の優れた知的能力が西欧の植民地化を防止できた。この侵略方法をバージョンアップした方法が、20世紀の世界においてグローバリストたちが牛耳る米国により広く採用されている。

 

そこで利用されるのが、上記「信教の自由、基本的人権、そして民主主義」というグローバリストたちの論理と、マスコミを用いたプロパガンダである。その新しい方法は、彼らに従順でない国家の指導者を全て「独裁者」として裁きの対象にした。
 

ニューヨークのタワーの最上階から世界を見るグローバリストたちの視野の中には、フェンタニルにおぼれてホームレスになったダウンタウンの人たちは入っていない。(補足5)遠くウクライナやシリアでの戦況を眺めているからである。米国には棲むものの、米国は彼らの植民地に過ぎないのだ。

 

おわりに(現在世界のマクロな記述):

 

シオニズムとは、ユーフラテス河からナイル河までの土地を彼らの土地(大イスラエル)と考え、現在のシリア領などから奪いとるべきだという考え方である。ただ、米国の元米軍情報将校で作家のマイケルヨン(Michael Yon)氏によると、シオニストと思われる英米のグローバリストたちの戦争は、地球全体を拡大イスラエルと考えての戦いだと言う。(以下の動画の2分ころからhttps://www.youtube.com/watch?v=lICuMX1KwWE )

 

このブログサイトでも同じことを昨年の記事に書いている:「グローバリスト達を指揮或いは支配する世界の大金融資本家たちの多くは、ネタニヤフ政権が目指すと思われる大イスラエルを地球全体に拡大する戦略を持っているのである」と。

 

 

そのように考えると、ここ数年の世界の動きが理解しやすくなる。つまり、英米グローバリストたちのNATOとウクライナを利用したロシア潰しの戦争も、イスラエルのネタニヤフ首相が戦っているガザ戦争もその一環という考え方である。そう考えると、ウクライナ戦争はトランプでも簡単には止められないと言うことになる。



補足:

 

1)エイリアンとは異星人、異邦人、見知らぬ人などが元々の意味である。この言葉から異星人と異邦人が似た感覚であることが分かる。

https://www.etymonline.com/search?q=alien

 

2)ここで正統な民族とは、自分たちが未来への生存と繁栄が神によって保障されているという意味である。

 

3)日本書記などにあるアマテラス神話を信じるのが日本の神道と言われている。 系図:https://kojiki.138shinsekai.com/kamisamakeizu/ ただ、神道の古い形は自然の全てに神が宿るという多神教であり、この一神教的な神道とは異なる。私はアマテラス神話を信じる宗教と区別し、例えば伊勢神道と呼ぶべきだと考えている。この伊勢神道が明治の革命(或いはクーデター)によって変形され、明治2年に靖国神社が建立された。

 

4)問題のレベルによって思考の枠組みを拡大または縮小させる必要がある。現在は時代の節目であり、戦術的な思考の枠組みや専門的な思考の枠組みでは確かな回答が得られない。原点から考える哲学的思考の枠組みが必須である。哲学的思考の枠組みでは、国際法も基本的人権も前提にしてはまともな答えは得られないのだ。これは伊藤貫さんの話から学んだことである。

 

 

5)米国フィラデルフィアのケンジントン通りには、薬物中毒で廃人のようになった人たちが朦朧とした姿で徘徊している。このような光景は米国全土のダウンタウンエリアでみられるようだ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/55228cb388c265e426c0be88fa69379ad7fed857

 

(1/11早朝編集し最終稿とします。)

 

 

 

 

2025年1月6日月曜日

日本は民主主義国家ですか?

日本は民主主義国家ですか?

民主主義国家とは、国民が国家主権を持つ(主権在民の)国家のことである。この民主主義政治を端的に表した言葉が、アメリカ大統領リンカーンの演説の中の「人民の人民による人民のための政治」である。

 

「人民のため」の政治とは、具体的には、基本的人権の尊重、国民個人の間の平等、そして全ての国民に一定以上の生活を確保することなどを実現する政治である。https://hugkum.sho.jp/261017



この原則の通りに国家が運営されれば、国民一般にとって非常に好ましい政治と言える。

 

ただ、国家運営の原則である「人民による」政治は、なかなか難しい。厳しい国際社会の中において、複雑且つ巨大な国家組織の運営の決定権を、専門的な知識に欠ける国民一般に与えることは非常に危ういからである。

近代の民主政治(補足1)では、間接民主制による場合が殆どである。国民は地区などで区分され、各区分が夫々の代表を選び、その代表たちが国家行政のトップを選出するのである。この制度は、各区の代表には高い見識が期待できるとして、上記民主主義の弱点を克服するために採用された。

 

日本の民主政治の欠陥:

 

日本では国会議員が行政のトップである総理大臣を選ぶので、政治のチェックや立法を行う国会と行政府(総理府)が近い関係にある。このシステムでは、政治そのものはスムースに運ぶが、それが日本のコネ文化とも関係して行政に緊張感を欠き、政治のレベルを低くしている。

その結果、日本の政界は国会議事堂のある永田町の村社会に譬えられる。「永田町、 村社会」でグーグル検索すれば、その実態を描いた記事がたくさん出てくる。

https://mainichi.jp/articles/20240116/dde/012/010/007000c

 

つまり、日本の国会議員は日本国という大きな組織を運営するに十分な見識を期待通りには持たないのである。この村社会では村長の推薦で住人になった一年生議員が村社会の掟を一から教育されるが、国際社会を渡り歩く日本国の政治については無知なままベテランとなるのだ。

 

政治の細部は、帝国大学出身の学校秀才たちの霞が関(というもう一つの村社会)が受け持つ筈だとして、大事な部分を胡麻化しているのだろう。何でも細部まで分からない者は、結局何もわかっていないのだ。

 

また、現実問題として国会議員になる道を考えると、政党から候補者として選ばれない場合当選するのはほとんど不可能である。高額の供託金を没収されて終わりである。

つまり、国会議員は国民に選ばれているのではなく、政党指導者が選んだ候補者の中から選挙という儀式を経て選ばれるのが現実である。(補足2)民主政治の維持の困難について考えているのだが、この時点で日本は民主制国家では無いことになってしまう。

これは、日本の政治がリンカーンの言葉にある「人民の政治」という民主主義の原則を満たしていないからである。明治維新と言われる革命政権を担った薩長土肥の人脈が日本の政治を支配する既得権益層を形成し、日本の政治はそれが出来上がった後はその支配から抜け出せないでいるのである。

 

閉鎖的で停滞した政治村の住民たちは、激動の世界を議論するのには元々無理がある。実際、NHKの国会討論などで、そのような世界レベルの議論を聞いたことがない。

因みに:

 

民主制に似た意味の言葉に共和制がある。これらの違いを論じた文章がネット上にもたくさんあり、それに気をとられると本質が見えなくなる。共和制国家では国民の代表として大統領(補足3)を国民が直接選出するのが本来の姿である。


ただ、ドイツの大統領は議会が選び、しかも儀礼的な権限しかない。一方、米国の大統領は間接的ではあるが国民が選び、行政のトップとして最高の権限を持っている。日本のように政治的実権を持たない王や皇帝の国で、憲法に民主制国家を謳う国も多く存在するが、それでも立憲君主制国家と呼ばれる場合が多い。

 

民主制と共和制を区別する議論はあまり意味がない。大事なのは民主制か専制かの区別である。日本の政治は民主制だと言われるが、永田町と霞が関を包含する明治の薩長土肥人脈の専制のにおいがある。そのことにもっと国民は敏感になるべきだ。


日本における国家の運営と評価:

国家を好ましい方向に向けて運営するには、一定期間毎に過去の運営実績を検証評価しなければならない。通常、一年間の実績の検証評価は次年度の予算等を議論する際に行われるだろう。日本国の場合、国会の予算委員会と予算を最終的に決定する国会がそれを担っている。

この一年間の行政の検証が真面に行われているかどうかだが、日本では殆ど行われていない。例えば、2022年に始まったウクライナ戦争に関連して、2024年2月時点で日本からウクライナに国民の血税から贈られた支援金は1兆2000億円であったが、このウクライナへの支援金が妥当だったかどうかの国会での議論を聞いたことがない。

https://www.fnn.jp/articles/-/662513?display=full


このような愚かな政治の実態は、上記のように明治政府の人脈が作る村社会がこの国の政治を所有しているから起こるのである。

 

日本の村社会政治の歴史:

 

日本の明治は、天皇制を看板にして薩長土肥が政治を支配した。戦後は、マッカーサーが占領軍の統治を安全かつ効率的に行うために、憲法において民主主義の原則を謳いつつも、その統治の系統を立憲君主制という形式で温存した。

 

「人民の政治」というリンカーンの言葉の最初の原則が侵害されたままなのだ。更に、米国の命じるままに動く政府を作るため軍の解体はもとより、政界の要人が追放され、諜報機関が解体されたのである。日本は、国家としての遺伝子をその時点ではく奪され、現在もそのままであり、未だ再生していない。

 

日本では「人民の政治」どころか、国家主権そのものに米国の頚木が架けられたままなのだ。

日本の右派政治家には、この米国の政治支配について指摘する人物が多いが、上記の明治の人脈の政治支配に言及する人物は殆どいない。この種の右派が政権をとったとしても、明治へ回帰するのみであり、もう一度敗戦で荒廃した日本への道を進むことになるだろう。

民意の準備が出来ていない状況下で民主主義の原則に忠実であろうとすれば、韓国のような民主主義国家となる可能性がある。市民革命を経験していない国への民主政治の臓器移植的な導入は、衆愚政治から特定の人たちによる専制政治に堕する可能性が高いのである。

 

人民が自国の真実の歴史を学び、そこを原点としてあるべき政治制度を探すという民族全体の知的な挑戦なくしては、民主政治の導入は難しい。この国民全体による日本の歴史の批判的レビューなくして日本の民主主義政治は出来上がらないと言っているのは、参政党の神谷宗幣氏のみである。

 

このような政治家が永田町に増加することが、日本が本当の意味での民主国家になるには必須であると思う。


終わりに:

韓国は額面通りに民主政治を実現しようと頑張ってきた国である。昨年12月20日のブログに書いたように、今回の大統領弾劾の動きに関して、米国国務長官のブリンケン氏が「韓国は民主主義の強靭さを示した」と述べたのはこの額面通りの民主主義の話であり、実質的には完全な間違いである。

 

https://www.yomiuri.co.jp/world/20241215-OYT1T50017/


何故なら、韓国の人民たちが何者かに扇動されて、自ら民主主義の形態を破壊する瀬戸際にあるからである。韓国は現在、北朝鮮の侵略を招いて消滅する危機にある。

日本は、これを対岸の火事ではなく 他山の石として学び、江戸時代の天皇制に滑らかに接続するような日本独自の民主政体を作り上げるべきである。

 

 

補足:

 

1)民主主義の原点は古代ギリシャにあり、そこでは直接民主制が行われていた。ただ、古代ギリシャは都市国家であったことや、参政権は市民が保有しているが、かれらは奴隷を擁する階級であったことなど、社会の規模も文化も近現代の先進国とは全く異なっていた。

 

2)オリンピック選手や俳優など政治と無関係な分野で有名になった人物が時として国会議員になるが、あまり有名でないが会社経営や学問の世界などでしっかりとした実績を残した人物が国会議員になる例は非常に少ない。

 

3)大統領は英語のpresidentの翻訳である。presidentは語源的には「(人民の)前に座る人物」という位の意味であり、共和国の首席行政官(chief executive officer of a republic)を意味する。日本は立憲君主国的形態を残しており、天皇の前に人を座らせる訳にはいかないので大統領と呼ぶ行政官を置けないが、首相公選制は憲法を変えれば取りうる。共和制の国家では大統領が国家元首を兼ねる。

 

(22:30 編集して補足2を追加;翌早朝数か所修正して最終稿)