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2026年5月27日水曜日

阿部監督逮捕とその後の辞任劇:行政の「無謬性」が家族を壊す

 

阿部巨人軍監督の逮捕と辞任のニュースに接し、私は即座に「日本社会は病んでいる」と強く感じた。今回は、この騒動から透けて見える日本社会の症状と、その原因となる構造的欠陥について、論理的に記述してみたい。

1.事の顛末と二人の肉声

2026年5月25日夜、プロ野球・読売巨人軍の阿部慎之助監督が、自宅で長女(18)への暴行容疑により現行犯逮捕されるという衝撃的なニュースが走った。事の発端は、姉妹喧嘩を仲裁しようとした父と、それに反発した娘との間の、どこにでもある「親子喧嘩」であった。

 

数時間後に釈放されたが、その後、阿部監督は球団に辞任を申し入れ、即座に受理された。その謝罪会見の場で見せた姿は、痛々しいものであった:「こういう形でチームを去るということは、本当にご迷惑をおかけしているなと思います」

 

 テレビ画面に映る彼は、目を真っ赤に腫らし、言葉を詰まらせて大粒の涙を流していた。誰が誰に、どのような形で迷惑をかけたのか? 日本国民すべてが日本社会の改善のために、冷静になって深く考えてみる必要があると思う。

 

更に、児童相談所に連絡した当人である長女の告白である。彼女は父の会見に寄せたメッセージの中で、こう明かしている:「すでに父とは仲直りしており、こんな大事になるとは思っていなかった。ただ話を聞いてほしかっただけなのに……」

 

AIに相談し、その勧めに従って児童相談所へ連絡した結果、彼女が手にしたのは「父との対話」ではなく「父の逮捕と失職」であった。

 

 

2.行政の対応のどこに誤りがあったのか

本来、国内を対象にした行政の役割とは、「最大多数の最大幸福(福祉)」をルールと最低限の実力行使によって目指すことにあるはず。判断の材料となる正確な「情報」を採取し、それを国民に提供すること、そしていざという時のための「受け皿」を整備すること。それが行政の本来の領分である。

 

今回の阿部監督の事案も同様である。娘の相談を受けた児童相談所は、家庭という最もプライベートな領域でのトラブルに対し、相談を受け、進言及び情報の提供を行うのが仕事のはずである。修復困難となれば警察への通報も選択肢に含まれるだろうが、そこには警察と児童相談所の「有機的連携」があって然るべきであった。

 

警察業務の中には、問題解決という仕事はあっても、問題を無闇に拡大させるという選択はないはずである。しかし現実は、それらの「支援」の枠を超え、「現行犯逮捕」という法的強制力を機械的に発動した。

 

一体、何が現行犯なのか? その時、父親である阿部監督は、未だ娘を殴り続けていたのか? 既に平穏を取り戻し、家族が後悔の念に包まれている現場に、法の名の下に土足で踏み込む。そこには、家族が自ら解決策を見出すための余地(自由)は、もはや残されていなかった。

 

3.国民の我儘な「批判」と行政の過剰な責任回避

今回の事案において、児童相談所や警察を動かしたのは、家族の再生という「福祉」の視点ではなく、機械的な法的形式論であった。娘の涙が「暴力への恐怖」ではなく「後悔」によるものだと見抜く知性さえ、システムの前では不要とされたのだ。

 

この構造は、近年決定された災害対策基本法における「避難指示の5段階化」と酷似している。行政は「レベル5」などの数値を細分化して提示するが、それは親切心からではない。指示通りに動かなかった住民を「自己責任」とし、あるいは「指示を出したから役所に過失はない」とするための、巧妙な免罪符作り(アリバイ工作)である。

本来、自分の安全は自分で守るものであり、その具体的な基準や方法は個人の自律的な決定に委ねられるべきだ。行政の仕事は、判断の材料となる「情報の提供」と、逃げ場としての「受け皿(避難所)」を設営することまでで十分である。

 

逃げ遅れて被災した人は、それを自分の責任に帰すべきである。そして周囲の人たちは、その時、短絡的に行政を批判すべきではない。行政が批判を恐れて「無謬性」を装おうとすればするほど、社会はマニュアルに支配され、不自由で住みにくいものへと変質していく。この病気は行政だけのものではない。社会全体の病気なのである。

 

おわりに

大相撲夏場所13日目(5月22日)、立行司の第39代木村庄之助が霧島ー琴櫻の一番で軍配を差し違え、打ち出し後に八角理事長に進退伺を申し出たが、慰留された。これは「立行司たるものミスジャッジはあってはならない」という日本の伝統の中でのやり取りである。

 

第39代木村庄之助も、本当に行司を辞めるつもりで進退伺を出したのではない。「立行司たるもの誤審は許されない」という相撲文化の構造を守るための所作である。理事長もまた、そのことを十分に承知した上での慰留である。因みに、行司が脇差し(短刀)を帯に差しているのは、万が一誤審があった時に切腹して詫びる覚悟を示すためだ。

 

命の尊さは無限大とする現代的価値観と、切腹覚悟の審判が同居する日本文化。この「責任の取り方」の美学を相撲という聖域だけに封じ込めることに社会が決すれば、大相撲の存在価値はさらに上がるだろう。しかし、現実の社会はどうだ。責任回避のためのマニュアルが跋扈し、真の責任を負う知性が消えていく。阿部監督の涙は、そんな血の通わない管理社会への無言の抗議に見えてならない。

 


追記: 本記事の執筆にあたり、google AIのgeminiの協力を得ました。

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