前回の記事で、阿部監督の逮捕劇における行政の「過剰介入」と「無謬性への固執」を批判した。しかし、その後ヤフーニュースで報じられた橋下徹氏の論評に接し、この国を覆う「論理のすり替え」の深刻さを改めて痛感した。今回は、以下の橋下氏の言葉を批判する。https://news.yahoo.co.jp/articles/d6e0f53259a3e9476aea3d28888b0039b9bdd95c
先ず、掲載された橋下氏の発言の中心部分を引用しイタリック文字で表示する。続いて、それらに対する反論を箇条書きで示す。
「児童相談所・警察の動きで社会的制裁が強すぎれば、児童相談所・警察は過剰気味に動けない。僕は知事・市長時代、あとから間違っていたとしても過剰気味に子供保護に動くように指示を出した」
「もし児童相談所の対応が間違っていたなら、知事・市長が謝ると。その時に厳しく対応せずに子供の命が失われて後から後悔するよりも、間違ってもいいから過剰に対応して、間違っていれば謝ればいいと。児童相談所・警察は子供を保護するためなら過剰気味に動けばいい。
しかしその後の当事者の説明で、家庭内で対応できそうであれば、社会は家庭に委ねるべき。過剰な社会的制裁は、むしろ児童相談所や警察の動きを鈍らせる」。
1. 「過剰ぎみ」という言葉による定義の曖昧化
橋下氏は「過剰ぎみに動くのは仕方ない(むしろ推奨される)」とした上で、それが間違いだった場合は「謝罪すれば済む」と論じている。しかし、ここには決定的な論理の欠落がある。何をもって「過剰」とし、何をもって「不当な介入」とするかの基準が完全に曖昧にされている点だ。
橋下氏は、今回のような行政の暴走をも「安全のためのやむを得ない前傾姿勢」として肯定し、「過剰」という言葉を免罪符化している。本来は「誤認」や「違法・不当介入」と呼ばれるべき事態を、あたかも「市民の安全を最優先した結果」であるかのようにすり替えているのだ。
これは、本来の目的(福祉や安全)から逸脱した、行政組織の過剰防衛を全肯定することに繋がりかねない。
2. 「謝罪する」というプロセスの非現実性
橋下氏は「間違っていたら謝ればいい」と簡単に言うが、それは時計の針を元に戻せるかのような、極めて無責任な発言である。
行政や警察といった巨大組織が、一度発動した「現行犯逮捕」という強大な法的強制力を、事後に「間違いでした」と公式に謝罪し、撤回することなど現実的にあり得るだろうか。また、阿部氏と彼の家族が被った取り返しのつかない社会的・精神的ダメージが、事後の謝罪だけで回復するはずもない。橋下氏は弁護士でありながら、「法的手続きの重み」と「不可逆的な社会的制裁」の恐ろしさを、意図的に過小評価している。
3. 「情報の独占」と「自己決定権」の無視
橋下氏の論理には、前回ブログで主張した「情報の提供と受け皿の設営までが行政の仕事である」という、市民の「自律」を促す視点が完全に欠落している。
①パターナリズム(父権主義)の肯定: 橋下氏の考えは「行政が常に正解(安全)を握っており、無知な市民を守るために強制力を行使するのは当然だ」という強権的なパターナリズムに基づいている。
②「自律」の否定:行政による「過剰介入」を無条件に是認することは、市民が「自らの家庭やコミュニティの問題を主体的に解決する」という人間としての基本的な自律性を、国家が「安全」という美名のもとに奪い取ることを意味する。これでは社会主義国の監視社会と大差ない。
結論:橋下氏の論理は「組織の無責任」の延命策
橋下氏の主張は、一見「現場を擁護する現実論」に見えるが、その実態は「行政はミスを恐れず過剰介入せよ、失敗しても形だけの謝罪でリセットすればいい」という、究極の無責任体制を推奨しているに等しい。
「過剰ぎみ」という都合の良い言葉で本質を濁し、現実には機能しない「謝罪プロセス」をセットにすることで、行政の暴走を正当化しているに過ぎない。これこそが、前回のブログで指摘した「社会全体の病気」をさらに悪化させる処方箋だと言わざるを得ない。
この橋下氏のコメントこそ、「安全のために自由や人権を差し出すことが、いかに簡単に、かつ『良心的』な顔をして語られてしまうか」という格好の反面教師である。社会の警鐘として、ブログの続編の形でここに批判する。
追記: 文責は100%ブログ筆者にありますが、文章整理においてgoogle AIであるgeminiの協力を得ました。
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