昨日午後の「そこまで言って委員会」で天皇制に関する議論があり、その一部を視聴した。天皇のあり方は憲法第1条に記述されているので、憲法問題として重要である。また、その話に入る前に、日本書紀に書かれている天皇家の神話時代からの由来や、天皇家と神道の関係に関する議論などもされていた。
出席者としてレギュラーの他に、宗教学の方から島田裕巳氏や逆説の日本史などの本で有名な井沢元彦氏らが参加していた。そこでの議論を少し引用しながら、天皇制と日本の明治以降の政治の関連、天皇制のあり方などについて私の考えを書く。コメントなどがいただければと思う。
1)神道と天皇家の関係:
天皇は、神道の行事をされるだけでも非常に多忙だと言われている。この神道は、伊勢神宮を頂点とする神道の一派である。私はこれを伊勢神道とよんでいる。何故なら、我々日本人のほとんど全員の心の中にある神道は、伊勢神道とは異なると思うからである。オリジナルな神道には経典はなく、社殿も元々ない。しかし、伊勢神道にはアマテラスの神話が用意されているし、社殿も偶像的なものも存在する。
オリジナルな神道における信仰心は、アマテラスを主神とする伊勢神道のそれとは違い、「大自然に対し畏怖の念をもつ」がその核心にあり、それのみである。従って、信仰の対象は人により様々である。太陽であったり、山であったり、滝であったり、或いは、大空であったりする。
この自然に対する畏怖の念は、自然がもたらす農作物を日本人が食するとき、「いただきます」という言葉となって現れる。また、日の出の太陽を見た時、ありがたいと思う。その古来日本人の信仰心を、アマテラス信仰と一緒にするのは間違いである。(補足1)
アマテラスは天皇家の祖先として日本書紀に登場する。それは天武天皇のときに編纂された歴史書であり、その時の体制の正統性を主張するために書かれた。つまり、漢の武帝の正統性を示す(主張する)ために書かかれた「史書」の日本版であると考えられる。天武天皇に至る皇統を、当時の主なる宗教であった神道に結びつけることは、その正統性主張の重要なポイントだったのだろう。
伊勢神道と日本国とを強く結びつけたのは、明治の革命政府である。その目的は国家神道、具体的には靖国神社を創建し、戦死者を受容する器とすることで、徴兵を容易にし、兵士を勇敢に戦わせるためである。現在の左派系の人たちは、その方針を個人の人権と自由を蔑ろにする卑劣な手法と考える人が多い。しかし、それは間違いだろう。
西欧では、日本の江戸時代に主権国家の時代(ウェストファリア体制)となり、更にフランス革命後には国民国家の時代が始まり、日本も同様の国家体制を急ぎ整える必要が生じた。日本が西欧の植民地となるのを避けるために行った、国家神道の創製とその利用は必要だったと評価されるだろう。何故なら、明治新政府は権威を天皇に頼り、兵士の士気高揚も天皇に頼らざるを得なかったからである。
倒幕の評価は別問題として議論する必要があると思うが、それを前提にすれば明治政府による国家神道の利用は、日本が生き残る上で必要だっただろう。(補足2)この点を国民が理解することなしに、日本が再び国家としての体裁を整えるのは困難だろう。つまり、江戸末期から昭和に亘る近代史の総括は、日本の緊急の課題である。
現在、その歴史を直視せず未だに伊勢神道と靖国神社の存在意義を、明治時代のように考えるのは時代錯誤だと思う。私は、靖国神社の建物などは国営墓地として改組すべきだと思う。日本国民なら、国の為に戦って死亡した人々に対する尊崇の念には、いささかも変化は無いはずである。
2)天皇の政治的位置について:
憲法第1条:天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
「国民統合の象徴」という表現は分かりにくいが、 要するに“日本国民は天皇を中心にまとまる”ということだろう。明治憲法ではその第1条で明確に、日本国(大日本帝国)は天皇が統治すると謳っているが、現在の憲法には天皇は国家元首であるという表現はない。
上記TV番組では、国家元首は天皇であるという考えが、「実質的に」或いは「諸外国はそのように考えている」という形容とともに語られていた。儀礼的な場面では、天皇は国家元首的な役割をしているように思う。しかし、それだけでは本当の意味での国家元首ではないだろう。
内閣総理大臣が国家元首であると考えると、国家元首が実質的に与党内で選ばれるということになるので、制度的に問題である。また、国権の最高機関と規定されている国会に指名されるので、国会の方が内閣総理大臣より上位の存在であり不自然である。国会の議決で最重要な決断をするのは良いが、それでは非常事態などには対応できない。
つまり、日本には明確な国家元首は居ないのである。この深刻な主権国家としての欠陥を本質論から論じないのは、誠に不思議である。日本は占領軍憲法により骨抜きにされたままなのである。
天皇の機能を具体的に考えてみる。戦前の大日本帝国憲法第55条では、国務大臣は「天皇を輔弼し、その責に任ず」とある。一方、第11条に「天皇は陸海軍を統帥(指揮監督)する」とある。それら2つの条文は整合性に欠ける。そのことが陸軍大臣の指揮を離れて陸軍が暴走する原因となったのは周知である。(補足3)明治憲法では、特に軍を指揮する場面において、権力の系統が不明確であった。
現在の憲法第3条には、「天皇の国事行為には、内閣の助言と承認を必要とする」と書かれている。これを誰でも理解出来るように説明すると、国事行為の脚本を内閣が書き、それを天皇が演じるということになる。天皇は国家元首を演じるだけであるから、現時点では内閣総理大臣が実質的或いは代行的な国家元首としての役割を果たすしかないと思う。
非常事態宣言を出さねばならないような時、日本国はどうなるのだろうか。憲法には非常事態宣言の規定がないのだから、勿論、そのような宣言をする国家元首の規定もない。このような権力の在り処がさっぱり分からない国では、主権国家とは言えない。憲法9条の改正だけでは、日本の憲法はまともなものにはならない。まともな国を目指すのなら、憲法は全面改訂或いは一旦破棄するしかないと思う。
日本の政治家は世襲の政治屋である。日本国民は、天皇という元首のような元首でないような分かりにくい存在をいただく無言の集団である。論理的思考になれた外国人には、不気味な存在だろう。外交的議論する以前に、既に述べたように近代史の総括と、それを基に日本国家のあり方そのものを議論するのが急務の筈である。
3)明治維新と天皇制の関連:
明治の時代に薩長の下級武士たちが新政府を作り、その要人となった。その権威に欠ける新政府が、天皇の地位を非常事態的に過度に利用して、戦時体制的な国家を作り上げた。(補足4)その国家の枠組みを、国難と言える情況を克服した段階で、平常時のものに改めるべきだった。
しかしその時既に、天皇の地位が明治の始めと異なり、絶大になっていたのである。それを示す大事件が、例えば226事件だったと思う。それを国家組織の欠陥と捉えた人は政府要人にも多かっただろう。しかし、天皇ご自身からの発案でなければ、畏れ多くて議論など出来なかったのだろう。
改革の必要性を、身を賭して天皇に具申できるような人物は、明治の初めのときならともかく、昭和の時代には居る筈はなかった。天皇直属の陸海軍を、天皇から切り離して内閣の下に置くことなど、天皇ご自身におかれても深い考察と強い決断の末でなければ出来ないだろう。
その天皇と内閣の関係の残渣が、現在の憲法にも存在している。憲法における日本国統合の象徴という規定である。憲法が占領軍の天下りだとしても、それでは大敗戦という犠牲を払いながら、何も学んでいないことになる。この日本国憲法の条文は「天皇は、唯物的に日本国を支えるのではないが、精神的な日本の中心である」と規定しているのである。(補足5)
それが日本を国際的に分かりにくい国にしている。天皇は日本国の故郷的存在だとしても、現在の日本国は都会に住んでいる。日本国は、40歳過ぎても故郷の親から仕送りを受けて都会で暮らす人に似ている。
補足:
1)私が理解する神道は、この大自然の中に生まれ育ったことに感謝し、起こること全てを大自然を司る神の意思と考える宗教である。しかし、その意思の在り処や法則性は人間の知るところではない。神への祈りも、祈れば成就するという確証など全く信じていないが、口に出すときは信じていると言うしかない。反対の事が起これば、神を畏れる気持ちを新たにするのみである。受け身の宗教だと思う。
2)幕末の孝徳天皇は、薩長勢力よりも徳川慶喜の幕府を能力ある政治組織と考えていた。その急死に疑問を持つ人は多い。
3)最高戦争指導会議は、首相、外相、陸海軍の大臣、陸海軍のトップ(参謀総長と軍令部総長)を構成員とした。しかし、その下に実際に軍を指揮する大本営が存在する訳ではない。
4)陸海軍とその兵士の士気を高めるため、両軍を天皇直属とし、皇軍とよんだ。戦死した兵士の霊は、靖国神社に神として祀られるという国家神道を作り上げた。
5)人の人たる所以は、物理的な(physical)人体にあるのではなく、精神にある。先に紹介した昨日のTV番組で、明治天皇の玄孫という武田恒泰氏が言ったことば「明治憲法の天皇に関する規定と、現在の憲法における規定に差は殆どないのです」が、何よりも明快に天皇の位置を語っている。しかし、日本人は歴史に学ばない国民ということになる。
ただ、この日本国における天皇の存在を薄める試みが、いままでに幾つかなされている。その一つは女系天皇容認論であり、最近の例では新入国管理法である。私はそれらよりも、天皇を江戸時代以前の姿に戻すのが、日本人の大人化に最も良い方法だと思う。そのような江戸時代への回帰は、天皇ご自身の発案がもっともスムースに行くと思う。前回の譲位の声明のときのように、憲法の規定など無視して発言されれば良いと思う。
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2019年2月11日月曜日
2019年2月7日木曜日
アイヌ新法に中国、韓国、ロシアの陰?
1)昨日報道されたニュースによると、政府は、アイヌ民族を「先住民族」と初めて明記したアイヌ新法案を今国会に提出するという。朝日新聞デジタルによると、自民党の国土交通部会などの合同会議が5日、法案を了承した。
法案は差別の禁止や、観光振興を支援する交付金の創設からなる。政府には、アイヌ文化を観光資源とし、訪日外国人客数の目標達成の一助にする狙いもある。近く閣議決定し、今国会での成立をめざす。
政府は新法により、生活向上のための福祉や文化振興を中心にしたこれまでの施策から、地域や産業の振興、国際交流を見据えた総合的なアイヌ政策へ転換を図るとしている。
法案の背景には、アイヌ民族をめぐる過去の経緯や、先住民族への配慮を求める国際的な要請の高まりがある。加えて政府が狙うのは、東京五輪・パラリンピックが開催される2020年に4千万人達成の目標を掲げる、訪日外国人客へのアピールだ。 https://www.asahi.com/articles/ASM254H84M25UTFK00L.html
この最後の法案の背景と記した部分は、非常に浅い理解しか示されていない。まともなメディアなら、何故今なのか、何故急な可決なのか、国際政治を睨んだ探求が必要である。日本のマスコミは非常に知恵が浅いか、反日であると言わざるをえない。
2)この新法に危惧を示したのが、評論家の藤井源喜氏である。もはや日本人として完全に同化しているアイヌ民族を殊更取り上げる意図に外国、特に中国の陰を感じるからだろう。https://www.youtube.com/watch?v=AlLsCmbcKkc(1:46頃から)
つまり、中国を中心とした反日連合(セクション3で言及する)は、アイヌを先住民族として国際的に強く印象つける第一の段階が終われば、次に日本民族によるアイヌ虐殺の歴史をデッチ上げる可能性がある。そのことに政府与党の多数は気づいていないか、無関心である。
大部分の自民党政治家は単なる政治屋であり、田舎を票田とする給与と歳費を受け取るだけの家業継承者に過ぎない。彼らが関心を持つのは、現在2倍以上の一票の格差で守られた自分の議席のみである。(補足1)その為、内閣や自民党幹部の意のままに動く結果、あの新入管法も殆ど何の議論もなく可決成立したのである。
藤井氏は、昔北海道周辺にアイヌ民族が棲んでいたものの、統一した民族という意識はなかったと指摘している。そして、この数百年間日本人と雑婚状態であり、現在では完全に日本民族に同化していて、アイヌ民族がアイヌ文化の下で独立して生活している訳ではない。
このあたりのことは、今後勉強したいと考えているが、差し当たり以下のサイトを紹介する。このアイヌ民族とアイヌ問題全体について、小林よしのり氏と香川リカ氏が議論している。これは、新しく問題を考える人の全てにとって一読に値する文献だと思う。https://ironna.jp/article/1552?p=1
藤井氏が述べるように、そして、上記小林・香川の議論にあるように、アイヌであるという認定は自己申告から始まり、アイヌ協会が認定する。つまり、アイヌ関連のかなりの予算が計上される今回の法律制定により、その団体は今以上に巨大な利権を握ることになる。
実際、藤井氏の紹介にあるように、昨日(5日)の衆議院予算委員会でも、日本維新の会の丸山穂高議員は、現在既に存在するアイヌ文化振興法(補足2)も乱用され、それによる福祉詐欺などが横行しており、問題があるのではないかという質問があった。
陰の勢力が、アイヌ記念館の創設などにより、日本民族がアイヌの国を侵略したという歴史を作ろうとしている可能性が大きい。
3)重ねて言うが、このアイヌ新法の動きには複雑な裏がありそうである。過去になんども言及したことだが、2012年11月、中国は、ロシアと韓国に「反日統一共同戦線戦略」を提案した。http://rpejournal.com/rosianokoe.pdfもしや、これが第二次大戦のときのヤルタ会談に似た役割を持っていないかどうか、日本国民は真剣に考えるべきである。(補足3)
注目すべきなのは昨年12月、ロシアのプーチン大統領が、アイヌをロシアの先住民族と呼ぶ提案に賛成したことである。提案に賛同する模様は、プーチン大統領と露大統領人権評議会のメンバーとの会合の逐語記録に残されているらしい。https://jp.sputniknews.com/russia/201812185720111/
在日朝鮮人・韓国人(在日)がアイヌ利権を手に入れる活動をしていたことも事実である。そのような在日を呼ぶ言葉「ザイヌ」が存在することから、相当話題になっていることがわかるだろう。
また、中国人は北海道の土地を買い占めていることは周知であり、それは前々回の記事の中に引用したチャンネル桜の番組「日本の自死」の中で、最初に小浜逸郎氏が問題視したことである。この番組の3時間目でも、この件に関して議論がなされているが、中心的話題にならなかったのは残念である。兎に角、中国が北海道大きな関心を持っていることは、中国首相李克己強が訪日した際、特別に北海道を視察したことでもわかる。
アイヌ問題をテコでこじ開けて、日本列島をアイヌから取り上げたという侵略史観を作り上げようとするのは、米国が東アジアから撤退したのちの日本を料理するレシピの一環の可能性が高い。
慰安婦問題よりも大きな問題となるかもしれない。慰安婦像設置などで主な舞台となったのは、言論の自由が保障された米国であり、その国には、「官憲等による強制連行の捏造」を暴くマイケル・ヨン氏のようなジャーナリストが現れる余地があった。しかし、今回のケースでは、そのような可能性は皆無だからである。(マイケル・ヨン氏の本については:https://ironna.jp/article/1355)
補足:
1)野党議員には、辻元清美議員のように、外国人から資金協力を得て、明らかに外国の利益のために国会に議席を持っていると多くの日本人が感じる人が多い。また与野党ともに、反日スパイのような議員が多いように思う。日本の政治は、韓国の政治同様に迷走している。
2)1997年制定。同時に、北海道旧土人保護法(明治32年)および旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年)は廃止された。この法律は、アイヌ文化の振興とアイヌの伝統等に関する国民の理解を通して、我が国における多様な文化の発展に寄与することを目的としている。
3)私は今回の法制定で、安倍総理は日露平和条約の締結に前のめりにならない方が良いと思うようになった。或いは、以前書いたように、日露平和条約は安倍総理が退任後にした方が良いと思う。(https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html) 国際情勢が非常に流動的な現在、安倍総理は米国中心であるべき外交の軸足を、不安定な方向に動かしているように見える。
法案は差別の禁止や、観光振興を支援する交付金の創設からなる。政府には、アイヌ文化を観光資源とし、訪日外国人客数の目標達成の一助にする狙いもある。近く閣議決定し、今国会での成立をめざす。
政府は新法により、生活向上のための福祉や文化振興を中心にしたこれまでの施策から、地域や産業の振興、国際交流を見据えた総合的なアイヌ政策へ転換を図るとしている。
法案の背景には、アイヌ民族をめぐる過去の経緯や、先住民族への配慮を求める国際的な要請の高まりがある。加えて政府が狙うのは、東京五輪・パラリンピックが開催される2020年に4千万人達成の目標を掲げる、訪日外国人客へのアピールだ。 https://www.asahi.com/articles/ASM254H84M25UTFK00L.html
この最後の法案の背景と記した部分は、非常に浅い理解しか示されていない。まともなメディアなら、何故今なのか、何故急な可決なのか、国際政治を睨んだ探求が必要である。日本のマスコミは非常に知恵が浅いか、反日であると言わざるをえない。
2)この新法に危惧を示したのが、評論家の藤井源喜氏である。もはや日本人として完全に同化しているアイヌ民族を殊更取り上げる意図に外国、特に中国の陰を感じるからだろう。https://www.youtube.com/watch?v=AlLsCmbcKkc(1:46頃から)
つまり、中国を中心とした反日連合(セクション3で言及する)は、アイヌを先住民族として国際的に強く印象つける第一の段階が終われば、次に日本民族によるアイヌ虐殺の歴史をデッチ上げる可能性がある。そのことに政府与党の多数は気づいていないか、無関心である。
大部分の自民党政治家は単なる政治屋であり、田舎を票田とする給与と歳費を受け取るだけの家業継承者に過ぎない。彼らが関心を持つのは、現在2倍以上の一票の格差で守られた自分の議席のみである。(補足1)その為、内閣や自民党幹部の意のままに動く結果、あの新入管法も殆ど何の議論もなく可決成立したのである。
藤井氏は、昔北海道周辺にアイヌ民族が棲んでいたものの、統一した民族という意識はなかったと指摘している。そして、この数百年間日本人と雑婚状態であり、現在では完全に日本民族に同化していて、アイヌ民族がアイヌ文化の下で独立して生活している訳ではない。
このあたりのことは、今後勉強したいと考えているが、差し当たり以下のサイトを紹介する。このアイヌ民族とアイヌ問題全体について、小林よしのり氏と香川リカ氏が議論している。これは、新しく問題を考える人の全てにとって一読に値する文献だと思う。https://ironna.jp/article/1552?p=1
藤井氏が述べるように、そして、上記小林・香川の議論にあるように、アイヌであるという認定は自己申告から始まり、アイヌ協会が認定する。つまり、アイヌ関連のかなりの予算が計上される今回の法律制定により、その団体は今以上に巨大な利権を握ることになる。
実際、藤井氏の紹介にあるように、昨日(5日)の衆議院予算委員会でも、日本維新の会の丸山穂高議員は、現在既に存在するアイヌ文化振興法(補足2)も乱用され、それによる福祉詐欺などが横行しており、問題があるのではないかという質問があった。
陰の勢力が、アイヌ記念館の創設などにより、日本民族がアイヌの国を侵略したという歴史を作ろうとしている可能性が大きい。
3)重ねて言うが、このアイヌ新法の動きには複雑な裏がありそうである。過去になんども言及したことだが、2012年11月、中国は、ロシアと韓国に「反日統一共同戦線戦略」を提案した。http://rpejournal.com/rosianokoe.pdfもしや、これが第二次大戦のときのヤルタ会談に似た役割を持っていないかどうか、日本国民は真剣に考えるべきである。(補足3)
注目すべきなのは昨年12月、ロシアのプーチン大統領が、アイヌをロシアの先住民族と呼ぶ提案に賛成したことである。提案に賛同する模様は、プーチン大統領と露大統領人権評議会のメンバーとの会合の逐語記録に残されているらしい。https://jp.sputniknews.com/russia/201812185720111/
在日朝鮮人・韓国人(在日)がアイヌ利権を手に入れる活動をしていたことも事実である。そのような在日を呼ぶ言葉「ザイヌ」が存在することから、相当話題になっていることがわかるだろう。
また、中国人は北海道の土地を買い占めていることは周知であり、それは前々回の記事の中に引用したチャンネル桜の番組「日本の自死」の中で、最初に小浜逸郎氏が問題視したことである。この番組の3時間目でも、この件に関して議論がなされているが、中心的話題にならなかったのは残念である。兎に角、中国が北海道大きな関心を持っていることは、中国首相李克己強が訪日した際、特別に北海道を視察したことでもわかる。
アイヌ問題をテコでこじ開けて、日本列島をアイヌから取り上げたという侵略史観を作り上げようとするのは、米国が東アジアから撤退したのちの日本を料理するレシピの一環の可能性が高い。
慰安婦問題よりも大きな問題となるかもしれない。慰安婦像設置などで主な舞台となったのは、言論の自由が保障された米国であり、その国には、「官憲等による強制連行の捏造」を暴くマイケル・ヨン氏のようなジャーナリストが現れる余地があった。しかし、今回のケースでは、そのような可能性は皆無だからである。(マイケル・ヨン氏の本については:https://ironna.jp/article/1355)
補足:
1)野党議員には、辻元清美議員のように、外国人から資金協力を得て、明らかに外国の利益のために国会に議席を持っていると多くの日本人が感じる人が多い。また与野党ともに、反日スパイのような議員が多いように思う。日本の政治は、韓国の政治同様に迷走している。
2)1997年制定。同時に、北海道旧土人保護法(明治32年)および旭川市旧土人保護地処分法(昭和9年)は廃止された。この法律は、アイヌ文化の振興とアイヌの伝統等に関する国民の理解を通して、我が国における多様な文化の発展に寄与することを目的としている。
3)私は今回の法制定で、安倍総理は日露平和条約の締結に前のめりにならない方が良いと思うようになった。或いは、以前書いたように、日露平和条約は安倍総理が退任後にした方が良いと思う。(https://rcbyspinmanipulation.blogspot.com/2019/01/blog-post_23.html) 国際情勢が非常に流動的な現在、安倍総理は米国中心であるべき外交の軸足を、不安定な方向に動かしているように見える。
2019年2月6日水曜日
チャンネル桜での「日本の自死」についての議論とダグラス・マレーの著書「西欧の自死」
1)文化系学部を出た人は、言葉の定義に無関心或いは怠慢な人が多い。特に、日本でその傾向が強いと思うのは私だけだろうか。それが、最近のチャネル桜での「日本の自死」についての議論を視聴しての感想である。この3時間に亘る議論は、一般に良心的でありレベルも高いと思うのだが、そのかなりのレベルの人たちの議論においても、言葉の定義を疎かにしていると言わざるを得ない。
https://www.youtube.com/watch?v=QLm78cpJaNg&t=1969s
理系の議論の場合、例えば重さ、質量、力、エネルギーなどの言葉(概念)の定義は、議論の前に準備されている。質量とは真空中に浮遊した物体の動かしがたさを表す量である。また力とは、真空中に浮遊する物体に作用した場合、与える加速度に比例したベクトル量である。(補足1)このような定義が終わったとすれば、具体的問題はコンピュータが人よりも早く問題を解いてくれるだろう。これらは、たかだか高校教育レベルの知識である。
一方、文化系学部を出た人では、日本を代表するレベルの人でも、議論の前に言葉の定義を疎かにする。「日本の自死」の議論では、「日本」と「死」の定義が必要になる。この言葉の問題は、恐らく日本の特別な弱点だと思う。日本人は、言葉を論理的ではなく感覚的に用いる。
2)チャネル桜の2月2日の「討論」表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」
上記議論の題目は、始めに司会者から説明があったように、中野剛志氏が監訳したダグラス・マレー著「Thestrange death of Europe」の訳本「西欧の自死」から借用して立てられた。しかし、上述のようにその論題「日本の自死」についての統一的理解がなされず、各人が最初に自分のおおよその考えを述べる段階で齟齬をきたすことになった。その原因は、「日本」「死」「自死」などについての定義が予めなされていなかったことである。
最初に発言した小浜逸郎氏は、与えられた論題“日本の自死”という言葉を、大量の移民流入による異なる文化を持った民族がスポラディックに日本中に生じ、やがて日本民族がマイノリティーになる危険性と考え、それを論題と考えた。具体的問題点として特に、在日外国人として暮らしている人達による日本の土地の大量取得から、移民による恐ろしい日本分断の可能性について注目した。小浜氏は、ダグラス・マレーが指摘するヨーロッパの情況を意識して話を始めた唯一の出席者である。
しかし次の佐藤健志氏は、上記ダグラス・マレーの本の訳本の題名である「日本の自死」について、30数年前に経済の停滞を打開すべきという「グループ1984年」著の「日本の自殺」(PHP文庫)の話から始めた。佐藤氏は、論題“日本の自死”を、より一般的な日本民族の停滞と捉え、グローバリズムと同時に進められる新自由主義の、特に日本人のマジョリティーの福祉(幸福度)に与える危険性について、話を始めたのである。
次の藤井聡氏は、保守主義は現象学的思考を取り入れて机上の空論に陥ることを防ぐとして、平成時代に何が起こったかの羅列から話を始めた。平成9年の消費税導入が経済に最大の悪影響をもたらしたとして、財政拡大によるデフレ脱却が「日本の死」を防ぐと話した。藤井氏も、ダグラス・マレーの本の内容から立てられた今回の論題を無視して、“日本の自死”という論題を、単に「日本の経済的低迷」として話を続けた。(補足2)
更に次の室伏謙一氏は、「日本の死」を日本の伝統、慣習、社会などの破壊と考え、その考察には明治維新以降の歴史のレビューが必要だと話を始めた。室伏氏の論点も、ダグラス・マレーの本の中の「西洋の死」から取った「日本の死」とは遠い。そして、日本人は何故か愚直に時の支配勢力の姿勢をそのまま受け入れてきたのは何故かという、新たなしかし重要な問題点に言及した。
その後、議論はまとまりを欠いたものとなり、3時間延々と続いた。部分的には面白い議論であっても、雑談風の話からまともな結論など出るはずはない。それは、何度も繰り返すが、論題“日本の自死”の「日本」及び「死」の両方とも、まともに定義されずに、議論を開始した結果だと思う。
3)ダグラス・マレーの「西欧の自死」に戻る。この題名中のstrange deathを「自死」と翻訳した段階で、出版社は読者をバカにしている。以下に引用の長文の書評を読んだ感じでは(補足3)、反グローバリズム特に「反移民受入」の本である。その本の本来のタイトルを借用しての議論であれば、もう少し焦点を絞って、意味のある議論が出来たはずであると思う。 https://blog.goo.ne.jp/komamasa24goo/e/70cf9e7c1daf3cfc31030011d182edbc
その本の内容について上記書評から更に要約すると以下のようになる。
移民や難民(以下移民とする)を短期にしかも大勢受け入れた欧州では、欧州の文化やアイデンティティに同化せず、自国の言葉で話し、独自の習俗で暮らす人々による並行社会が存在するようになった。それは、多分に「多文化社会を築き、隣り合わせに暮らし、互いの文化を享受する」という理想論を掲げて、単に安い労働力を得るためにエリート層が進めた無知による、或いは、欺瞞的な政策の結果であった。
従って、大量に且つ短時間に移民を受け入れることが不可避の場合は、移民の対し移民先での同化を条件とすべきである。その個別の見極めは国外で行うべきであった。これらが、もはや手遅れになったドイツなどヨーロッパの教訓である。出生率の低い先進国のヨーロッパ諸国は、出生率の高い移民たちに乗っ取られる結果となるだろう。
上に引用した表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」は、このようなヨーロッパの二の舞にならないように、日本はどのような政策を取るべきかについて、もっとまとまりのある議論をする筈だったと思う。イスラム教徒のようにほとんど同化しない移民を大量に受け入れ続けてれば、欧州の現在の様に並行社会が日本国内につくられ、人口増加率の大きい彼らに日本を乗っ取られるようになるだろう。そんな具体的な問題に一歩も進むことが無かった。重要な問題を提起しながら、上記番組ではまともに議論出来なかったと私は評価する。
兎に角、日本人は議論の仕方を知らないとつくづく思った。議論は、論点を明確にすること、そのために言葉の定義を確認すること、そして、ブロックを積み上げるように行わなくてはならない。そこには日本語の壁があるのだが、それについては何度もブログに書いた。上述のように日本人は、日本語を論理的にではなく、感覚的に用いる。俳句などはその典型であり、それがあるテレビ番組で大人気なのは日本人の言語感覚を象徴している。また、意味も理解しないで般若心経を唱えて、一種の恍惚感にひたる姿を、私は幼少時に目撃している。更に、現在の子供達の名前が、音だけでつけられている。例をあげれば山ほどある。
補足:
1)質量には慣性質量と重力質量の二種類があるが、一致するように定義されているので、その点はここでは考えない。この話の延長でエネルギーを定義すれば、エネルギーとは物体に加えられた力とそれを移動させた距離の積である。この場合のエネルギーは、同じ座標系で見れば、動かされた物体に運動エネルギーという形で保存される。ここでは、物体を点(質点)と見做しており、実際の物体の場合には、他に回転運動についてのエネルギーなども考える必要がある。
物理学など自然科学は、自然現象に関する哲学(自然哲学)である。社会の議論でも自然の議論でも、一般に議論は言葉の定義をしてからでなくてはならない。言葉の定義で、哲学の半分以上は終わる。
2)日本がこの平成10年頃から“自死”(低迷の意味で用いている)が進みつつある情況を原因として、小選挙区制度が平成8年導入され、グローバリズムや新自由主義に繋がる悪しきポピュリズム(つまり政治の貧困)が始まったと指摘する。そして、緊縮財政によるデフレが日本の自死の背景にあると主張し、土木業界への金の流れを主張した。この人の主張は、滅茶苦茶と言って良い。
3)言葉もしっかりしたよくできたブログであり、従って十分信用できると判断した。
理系の議論の場合、例えば重さ、質量、力、エネルギーなどの言葉(概念)の定義は、議論の前に準備されている。質量とは真空中に浮遊した物体の動かしがたさを表す量である。また力とは、真空中に浮遊する物体に作用した場合、与える加速度に比例したベクトル量である。(補足1)このような定義が終わったとすれば、具体的問題はコンピュータが人よりも早く問題を解いてくれるだろう。これらは、たかだか高校教育レベルの知識である。
一方、文化系学部を出た人では、日本を代表するレベルの人でも、議論の前に言葉の定義を疎かにする。「日本の自死」の議論では、「日本」と「死」の定義が必要になる。この言葉の問題は、恐らく日本の特別な弱点だと思う。日本人は、言葉を論理的ではなく感覚的に用いる。
2)チャネル桜の2月2日の「討論」表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」
上記議論の題目は、始めに司会者から説明があったように、中野剛志氏が監訳したダグラス・マレー著「Thestrange death of Europe」の訳本「西欧の自死」から借用して立てられた。しかし、上述のようにその論題「日本の自死」についての統一的理解がなされず、各人が最初に自分のおおよその考えを述べる段階で齟齬をきたすことになった。その原因は、「日本」「死」「自死」などについての定義が予めなされていなかったことである。
最初に発言した小浜逸郎氏は、与えられた論題“日本の自死”という言葉を、大量の移民流入による異なる文化を持った民族がスポラディックに日本中に生じ、やがて日本民族がマイノリティーになる危険性と考え、それを論題と考えた。具体的問題点として特に、在日外国人として暮らしている人達による日本の土地の大量取得から、移民による恐ろしい日本分断の可能性について注目した。小浜氏は、ダグラス・マレーが指摘するヨーロッパの情況を意識して話を始めた唯一の出席者である。
しかし次の佐藤健志氏は、上記ダグラス・マレーの本の訳本の題名である「日本の自死」について、30数年前に経済の停滞を打開すべきという「グループ1984年」著の「日本の自殺」(PHP文庫)の話から始めた。佐藤氏は、論題“日本の自死”を、より一般的な日本民族の停滞と捉え、グローバリズムと同時に進められる新自由主義の、特に日本人のマジョリティーの福祉(幸福度)に与える危険性について、話を始めたのである。
次の藤井聡氏は、保守主義は現象学的思考を取り入れて机上の空論に陥ることを防ぐとして、平成時代に何が起こったかの羅列から話を始めた。平成9年の消費税導入が経済に最大の悪影響をもたらしたとして、財政拡大によるデフレ脱却が「日本の死」を防ぐと話した。藤井氏も、ダグラス・マレーの本の内容から立てられた今回の論題を無視して、“日本の自死”という論題を、単に「日本の経済的低迷」として話を続けた。(補足2)
更に次の室伏謙一氏は、「日本の死」を日本の伝統、慣習、社会などの破壊と考え、その考察には明治維新以降の歴史のレビューが必要だと話を始めた。室伏氏の論点も、ダグラス・マレーの本の中の「西洋の死」から取った「日本の死」とは遠い。そして、日本人は何故か愚直に時の支配勢力の姿勢をそのまま受け入れてきたのは何故かという、新たなしかし重要な問題点に言及した。
その後、議論はまとまりを欠いたものとなり、3時間延々と続いた。部分的には面白い議論であっても、雑談風の話からまともな結論など出るはずはない。それは、何度も繰り返すが、論題“日本の自死”の「日本」及び「死」の両方とも、まともに定義されずに、議論を開始した結果だと思う。
3)ダグラス・マレーの「西欧の自死」に戻る。この題名中のstrange deathを「自死」と翻訳した段階で、出版社は読者をバカにしている。以下に引用の長文の書評を読んだ感じでは(補足3)、反グローバリズム特に「反移民受入」の本である。その本の本来のタイトルを借用しての議論であれば、もう少し焦点を絞って、意味のある議論が出来たはずであると思う。 https://blog.goo.ne.jp/komamasa24goo/e/70cf9e7c1daf3cfc31030011d182edbc
その本の内容について上記書評から更に要約すると以下のようになる。
移民や難民(以下移民とする)を短期にしかも大勢受け入れた欧州では、欧州の文化やアイデンティティに同化せず、自国の言葉で話し、独自の習俗で暮らす人々による並行社会が存在するようになった。それは、多分に「多文化社会を築き、隣り合わせに暮らし、互いの文化を享受する」という理想論を掲げて、単に安い労働力を得るためにエリート層が進めた無知による、或いは、欺瞞的な政策の結果であった。
従って、大量に且つ短時間に移民を受け入れることが不可避の場合は、移民の対し移民先での同化を条件とすべきである。その個別の見極めは国外で行うべきであった。これらが、もはや手遅れになったドイツなどヨーロッパの教訓である。出生率の低い先進国のヨーロッパ諸国は、出生率の高い移民たちに乗っ取られる結果となるだろう。
上に引用した表現者クライテリオンスペシャル「日本の自死」は、このようなヨーロッパの二の舞にならないように、日本はどのような政策を取るべきかについて、もっとまとまりのある議論をする筈だったと思う。イスラム教徒のようにほとんど同化しない移民を大量に受け入れ続けてれば、欧州の現在の様に並行社会が日本国内につくられ、人口増加率の大きい彼らに日本を乗っ取られるようになるだろう。そんな具体的な問題に一歩も進むことが無かった。重要な問題を提起しながら、上記番組ではまともに議論出来なかったと私は評価する。
兎に角、日本人は議論の仕方を知らないとつくづく思った。議論は、論点を明確にすること、そのために言葉の定義を確認すること、そして、ブロックを積み上げるように行わなくてはならない。そこには日本語の壁があるのだが、それについては何度もブログに書いた。上述のように日本人は、日本語を論理的にではなく、感覚的に用いる。俳句などはその典型であり、それがあるテレビ番組で大人気なのは日本人の言語感覚を象徴している。また、意味も理解しないで般若心経を唱えて、一種の恍惚感にひたる姿を、私は幼少時に目撃している。更に、現在の子供達の名前が、音だけでつけられている。例をあげれば山ほどある。
補足:
1)質量には慣性質量と重力質量の二種類があるが、一致するように定義されているので、その点はここでは考えない。この話の延長でエネルギーを定義すれば、エネルギーとは物体に加えられた力とそれを移動させた距離の積である。この場合のエネルギーは、同じ座標系で見れば、動かされた物体に運動エネルギーという形で保存される。ここでは、物体を点(質点)と見做しており、実際の物体の場合には、他に回転運動についてのエネルギーなども考える必要がある。
物理学など自然科学は、自然現象に関する哲学(自然哲学)である。社会の議論でも自然の議論でも、一般に議論は言葉の定義をしてからでなくてはならない。言葉の定義で、哲学の半分以上は終わる。
2)日本がこの平成10年頃から“自死”(低迷の意味で用いている)が進みつつある情況を原因として、小選挙区制度が平成8年導入され、グローバリズムや新自由主義に繋がる悪しきポピュリズム(つまり政治の貧困)が始まったと指摘する。そして、緊縮財政によるデフレが日本の自死の背景にあると主張し、土木業界への金の流れを主張した。この人の主張は、滅茶苦茶と言って良い。
3)言葉もしっかりしたよくできたブログであり、従って十分信用できると判断した。
2019年2月3日日曜日
北朝鮮問題の落とし所と極東アジア全体の平和について
1)米朝会談が近づいているが、金正恩は核を放棄しないし、できないだろう。仮に米国と完全核放棄を約束して実施すれば、北朝鮮国内の政治力学の結果として金王朝は滅びるだろう。その地位を確固たるものにするために、金王朝がその象徴として核兵器を開発し保持した事実を重視すべきだと思う。
一般に核兵器でも何でも、部分的であってもオープンな空間での拡散は必然である。実際、鉄器も鉄砲も、世界に拡散した。ある地域で、その拡散したものを再び平和裏に局在化させるには、権力によるエネルギー行使が必要である。諸国家に広がった核兵器の場合、“世界政府の警察機構”による力の行使が不可欠だろう。
従って、北朝鮮の核保持によって高まった政治的リスクの解消について、韓国や日本なども巻き込むような悲劇的な事件に繋がる可能性の少ない現実的な方法は、米国など国連の常任理事国を始めとする国際的に指導的立場にある国家が、以下のような合意をすることだと思う。それは、全ての一定の資格をクリア出来た国家に、“基本的国家の権利”として核保持を認める合意である。(補足1)その“一定の資格”とは、核兵器を平和的に維持管理できる中央政府の能力である。
核兵器でも何でも武器は、攻撃のためであると同時に防御のための道具でもある。北朝鮮が、国家としての独立を確保すべく、武器開発を行ったこと自体は自然であり、その権利を侵害する“権利”は他国にはないと思う。(補足2)
国家が他国の侵略を防止する為に武器を持つことは、各人が暴漢に襲われたときに反撃可能なように体を鍛え、且つ、各戸が戸締まりをして一定の防御具を置くことと等価である。しかし、社会に「公という権威」とその権力が発生したときには、その防御具を軽く出来る。防御具を全廃するのは、豊かで平和な世界と、速やかな警察力が行使出来る背景が必要だろう。
一般に非武装があり得るとしたら、世界政府が出来て地球上に平和が達成された場合である。非武装を平和の為の方法だと、ある政治家が宣伝したとする場合、その政治家が低知能の極限にあるか、その言葉が悪巧みの手先であることの表明である。
以下繰り返す。力づく以外の方法で北朝鮮など各国から核兵器を無くすることは、世界国家的な公権力が出来るまで不可能である。核兵器は、金王朝のシンボルであるから、核兵器全廃を宣言し且つ実行すれば、金王朝は潰れるだろう。その直前には、核兵器を管理する能力がなくなり、日本の米軍基地所在地が、核の標的になる可能性があると思う。
2)国々が夫々独自の文化を持ち、固有性(identity)を保って地球上に存在する前提では、非武装主義は偏った宗教であり平和の敵である。非武装中立は、良からぬ目的をもった勢力の政治的プロパガンダのセリフである。それは治安の悪い土地で富を保有しながら、防御の為の道具や武器を持たないことを表明する行為と同じだからである。
平和を愛するスイスの人たちが永世中立を宣言すると同時に、スイスという国家は武装し、各戸が核シェルターを備えることは論理的に整合している。しかし、核の恐怖から逃れる目的で、各戸に核シェルターを備えるのは、非効率且つ不完全である。頭上で核爆発が起これば、被爆者に対しては多少の延命効果しか無いと思う。前のセクションで述べたような取り決めがあれば、スイスはいち早く核武装するだろう。
一方、日本の非武装平和主義は、国際社会が国家に基本的権利を認め、国際間の争いの極少化に、その基本的価値を置けば、国際的お荷物の筈である。勿論、日本が将来滅びることを、国際的な暗黙の了解事項と考えるなら、日本国のその政策は称賛されるだろう。ここで、国家の基本的権利とは、「国家の独立、存続、そして反映を追求する権利」である。
日本国は、日本国民の将来の安全と福祉のために、そしてアジアのお荷物にならないように、政策を改めるべきである。そして世界はそれを認めるべきである。日本国民は、核兵器を道具と考え、それと同居するために核アレルギーを克服すべきである。それは、外に出て春を楽しむために花粉アレルギーを克服するのと同様である。
日本国が核アレルギーを無くし一定の核抑止力を何らかの方法で実現すること(補足3)、そして北朝鮮の中距離核までの保持を権利として認めることが、この地域に政治的安定をもたらすだろう。そして、平和条約を締結することが、拉致被害者の帰国を実現する唯一の道であると思う。
また同時に、米国、中国、ロシアを含む国際社会からは、異常で不安定な状態にある、韓国、北朝鮮、日本、台湾からなる東アジアの4つの国に対して、その“国家の基本的権利”を回復する様に、援助と理解がもたらされれば良いと思う。それが世界的混乱を事前に防止することになり、国際的な利益となると思う。
3)核兵器を発明してしまった人類が、どのようにして平和を維持するのかという問題を考えた場合、その被害を最小にするための方法は上で述べたように世界政府を作り上げることだと思う。
強力な武器の発明により、一つのオリジンを持つ権威と権力の及ぶ範囲が拡大したことは、人類の歴史の基本的なストーリーである。(補足4)その視点でみれば、核兵器は世界政府と共存することで、やっと安定的に世界政府の倉庫に収めることが可能となる特別な兵器である。
ある国の資本家が抱く“思索の崇高な部分”に、政治のグローバル化つまり世界政府の実現がある。そして、経済のグローバル化とそのための人の移動が進められたのは、その下部構造(唯物弁証法的概念)の発達のためだと主張されるだろう。
しかし現在のところ、それを推進する人たちのみが巨大な純資産を蓄積する富者となり、それ以外は貧者となった。その結果、世界は混乱の入り口にある。それは、上記思想が自分たちの利益のために作り上げられた不完全且つ偽りのモデルだからだろう。それは、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の主張する通りだと思う。
彼らが、世界戦争なしに、政治のグローバル化つまり世界政府的組織を実現したいと思ったのなら、急速な経済のグローバル化と人の移動の自由化は悪い選択だと思う。貧富の差の拡大と異文化の人たちの混住は、国内政治を混乱させ急進的ナショナリズムを喚起するからである。
世界政府が出来上がった場合でも、恐らく国家という枠組みが自治政府の枠組みとして残る筈である。現在のグローバル化は、その前に国家の障壁を破壊する可能性がある。その後には、世界政府という秩序ではなく、世界的混乱が残るだろう。
世界政府樹立には、独立した国家間の同盟関係を世界に広げることと、世界に拡散した戦略兵器の一元管理を実現することが重要な部分だと思う。その原始的な形は既に国際連合やその周辺機関として存在する。その発展には、加盟国特に常任理事国の意識改革を始め、広い範囲での国連の改革が必要だろう。
ある特定の国に対する核廃絶の要求は、その国にしかるべき受け皿が用意されない限り、単に局地的に歴史の逆流を目指すことである。それを無理矢理実現したときには、多大の犠牲者がその国とその周辺国に出る可能性が高いと思う。その選択は愚かだと思う。それよりも、その地域(つまり極東アジア)全体での核兵器のマネージメントの問題と考えるべきであり、北朝鮮の核問題の緊迫化は、現在がその時期であることを示していると思う。
以上は、国際政治に素人である人間の私的なメモです。前提は、世界の中心的な国家の指導者の方々に善意と誠意が存在することです。批判等議論いただければ幸いです。
補足:
1)一定の資格を満たさない国、つまり核兵器を乱用する可能性のある国には、核保時を認めるべきではない。その判断には、世界的な権威の樹立が必要であり、それには、国際連合を世界国家に育てるのが一番の近道である。
2)米国が中距離核の全廃条約を破棄したのは、米国の主張の通り核兵力の分布がアンバランスになったのなら当然である。
3)差し当たり、日米同盟の新たな緊密化と石破氏の言う非核三原則の放棄である。そのセットで東アジアの安定に寄与できるのなら、米国には協力してもらいたいと思う。
4)強力な鋼の剣や火縄銃の発明は、大きな領域の部族や城郭都市の範囲に及ぶ権力を作った。連発式ライフル銃、大砲、軍艦などの武器の発明は、単一根源の権力が支配する範囲を城郭都市レベルから国家という枠組みまで拡大した。ミサイルとそれに搭載可能な核兵器の発明は、それに相応しい権力とその広い支配域を確立していない。それが、現代の世界である。その様な場合、米国が個人に銃保持を認めるように、国家が暫く核ミサイルを保持し管理する体制を持たなければならないだろう。
一般に核兵器でも何でも、部分的であってもオープンな空間での拡散は必然である。実際、鉄器も鉄砲も、世界に拡散した。ある地域で、その拡散したものを再び平和裏に局在化させるには、権力によるエネルギー行使が必要である。諸国家に広がった核兵器の場合、“世界政府の警察機構”による力の行使が不可欠だろう。
従って、北朝鮮の核保持によって高まった政治的リスクの解消について、韓国や日本なども巻き込むような悲劇的な事件に繋がる可能性の少ない現実的な方法は、米国など国連の常任理事国を始めとする国際的に指導的立場にある国家が、以下のような合意をすることだと思う。それは、全ての一定の資格をクリア出来た国家に、“基本的国家の権利”として核保持を認める合意である。(補足1)その“一定の資格”とは、核兵器を平和的に維持管理できる中央政府の能力である。
核兵器でも何でも武器は、攻撃のためであると同時に防御のための道具でもある。北朝鮮が、国家としての独立を確保すべく、武器開発を行ったこと自体は自然であり、その権利を侵害する“権利”は他国にはないと思う。(補足2)
国家が他国の侵略を防止する為に武器を持つことは、各人が暴漢に襲われたときに反撃可能なように体を鍛え、且つ、各戸が戸締まりをして一定の防御具を置くことと等価である。しかし、社会に「公という権威」とその権力が発生したときには、その防御具を軽く出来る。防御具を全廃するのは、豊かで平和な世界と、速やかな警察力が行使出来る背景が必要だろう。
一般に非武装があり得るとしたら、世界政府が出来て地球上に平和が達成された場合である。非武装を平和の為の方法だと、ある政治家が宣伝したとする場合、その政治家が低知能の極限にあるか、その言葉が悪巧みの手先であることの表明である。
以下繰り返す。力づく以外の方法で北朝鮮など各国から核兵器を無くすることは、世界国家的な公権力が出来るまで不可能である。核兵器は、金王朝のシンボルであるから、核兵器全廃を宣言し且つ実行すれば、金王朝は潰れるだろう。その直前には、核兵器を管理する能力がなくなり、日本の米軍基地所在地が、核の標的になる可能性があると思う。
2)国々が夫々独自の文化を持ち、固有性(identity)を保って地球上に存在する前提では、非武装主義は偏った宗教であり平和の敵である。非武装中立は、良からぬ目的をもった勢力の政治的プロパガンダのセリフである。それは治安の悪い土地で富を保有しながら、防御の為の道具や武器を持たないことを表明する行為と同じだからである。
平和を愛するスイスの人たちが永世中立を宣言すると同時に、スイスという国家は武装し、各戸が核シェルターを備えることは論理的に整合している。しかし、核の恐怖から逃れる目的で、各戸に核シェルターを備えるのは、非効率且つ不完全である。頭上で核爆発が起これば、被爆者に対しては多少の延命効果しか無いと思う。前のセクションで述べたような取り決めがあれば、スイスはいち早く核武装するだろう。
一方、日本の非武装平和主義は、国際社会が国家に基本的権利を認め、国際間の争いの極少化に、その基本的価値を置けば、国際的お荷物の筈である。勿論、日本が将来滅びることを、国際的な暗黙の了解事項と考えるなら、日本国のその政策は称賛されるだろう。ここで、国家の基本的権利とは、「国家の独立、存続、そして反映を追求する権利」である。
日本国は、日本国民の将来の安全と福祉のために、そしてアジアのお荷物にならないように、政策を改めるべきである。そして世界はそれを認めるべきである。日本国民は、核兵器を道具と考え、それと同居するために核アレルギーを克服すべきである。それは、外に出て春を楽しむために花粉アレルギーを克服するのと同様である。
日本国が核アレルギーを無くし一定の核抑止力を何らかの方法で実現すること(補足3)、そして北朝鮮の中距離核までの保持を権利として認めることが、この地域に政治的安定をもたらすだろう。そして、平和条約を締結することが、拉致被害者の帰国を実現する唯一の道であると思う。
また同時に、米国、中国、ロシアを含む国際社会からは、異常で不安定な状態にある、韓国、北朝鮮、日本、台湾からなる東アジアの4つの国に対して、その“国家の基本的権利”を回復する様に、援助と理解がもたらされれば良いと思う。それが世界的混乱を事前に防止することになり、国際的な利益となると思う。
3)核兵器を発明してしまった人類が、どのようにして平和を維持するのかという問題を考えた場合、その被害を最小にするための方法は上で述べたように世界政府を作り上げることだと思う。
強力な武器の発明により、一つのオリジンを持つ権威と権力の及ぶ範囲が拡大したことは、人類の歴史の基本的なストーリーである。(補足4)その視点でみれば、核兵器は世界政府と共存することで、やっと安定的に世界政府の倉庫に収めることが可能となる特別な兵器である。
ある国の資本家が抱く“思索の崇高な部分”に、政治のグローバル化つまり世界政府の実現がある。そして、経済のグローバル化とそのための人の移動が進められたのは、その下部構造(唯物弁証法的概念)の発達のためだと主張されるだろう。
しかし現在のところ、それを推進する人たちのみが巨大な純資産を蓄積する富者となり、それ以外は貧者となった。その結果、世界は混乱の入り口にある。それは、上記思想が自分たちの利益のために作り上げられた不完全且つ偽りのモデルだからだろう。それは、元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の主張する通りだと思う。
彼らが、世界戦争なしに、政治のグローバル化つまり世界政府的組織を実現したいと思ったのなら、急速な経済のグローバル化と人の移動の自由化は悪い選択だと思う。貧富の差の拡大と異文化の人たちの混住は、国内政治を混乱させ急進的ナショナリズムを喚起するからである。
世界政府が出来上がった場合でも、恐らく国家という枠組みが自治政府の枠組みとして残る筈である。現在のグローバル化は、その前に国家の障壁を破壊する可能性がある。その後には、世界政府という秩序ではなく、世界的混乱が残るだろう。
世界政府樹立には、独立した国家間の同盟関係を世界に広げることと、世界に拡散した戦略兵器の一元管理を実現することが重要な部分だと思う。その原始的な形は既に国際連合やその周辺機関として存在する。その発展には、加盟国特に常任理事国の意識改革を始め、広い範囲での国連の改革が必要だろう。
ある特定の国に対する核廃絶の要求は、その国にしかるべき受け皿が用意されない限り、単に局地的に歴史の逆流を目指すことである。それを無理矢理実現したときには、多大の犠牲者がその国とその周辺国に出る可能性が高いと思う。その選択は愚かだと思う。それよりも、その地域(つまり極東アジア)全体での核兵器のマネージメントの問題と考えるべきであり、北朝鮮の核問題の緊迫化は、現在がその時期であることを示していると思う。
以上は、国際政治に素人である人間の私的なメモです。前提は、世界の中心的な国家の指導者の方々に善意と誠意が存在することです。批判等議論いただければ幸いです。
補足:
1)一定の資格を満たさない国、つまり核兵器を乱用する可能性のある国には、核保時を認めるべきではない。その判断には、世界的な権威の樹立が必要であり、それには、国際連合を世界国家に育てるのが一番の近道である。
2)米国が中距離核の全廃条約を破棄したのは、米国の主張の通り核兵力の分布がアンバランスになったのなら当然である。
3)差し当たり、日米同盟の新たな緊密化と石破氏の言う非核三原則の放棄である。そのセットで東アジアの安定に寄与できるのなら、米国には協力してもらいたいと思う。
4)強力な鋼の剣や火縄銃の発明は、大きな領域の部族や城郭都市の範囲に及ぶ権力を作った。連発式ライフル銃、大砲、軍艦などの武器の発明は、単一根源の権力が支配する範囲を城郭都市レベルから国家という枠組みまで拡大した。ミサイルとそれに搭載可能な核兵器の発明は、それに相応しい権力とその広い支配域を確立していない。それが、現代の世界である。その様な場合、米国が個人に銃保持を認めるように、国家が暫く核ミサイルを保持し管理する体制を持たなければならないだろう。
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